【投稿】政党再編成と日本共産党
<<現実の政治過程と無縁な「唯一の党」日本共産党>>
このところの社会党の混乱状況は、一人社会党だけの問題ではないといえよう。冷戦構造の解体と終焉は、これまでの二極対立、あるいは相互補完体制にもとづいたあらゆる政党のあり方を根本的に揺るがしており、新しい構造的な再編成が必至のものであることを示しているのではないだろうか。短期的な数合わせや組み合わせの変容にとどまらない、相当に長期的でしかも本格的な変革の時代が到来していることを感じさせるのであるが、言い過ぎであろうか。その意味では、自民党単独政権とそれを支えてきた五五年体制の崩壊、それがもたらした連立政権のめまぐるしい変転、そしていわゆる「政治改革」と政党再編成をめぐる混乱は、日本における冷戦体制の解体過程を象徴しているとも言えよう。
このような過程に一人超然として、自己改革はもちろんのこと、連合政権や政党再編成に何の指針や政策も示し得ず、現実の政治過程の進行に何の影響力も及ぼし得ない唯一の党が日本共産党となっている。「唯一の革新」を誇るのであれば、今こそ出番でなければならない。今こそ具体的で革新的な政策を掲げ、実現可能な戦略を提起し、なによりもあらゆる共同戦線を組織し、連合と統一戦線戦略の実践者となり、今やどの政党にとっても共通の土俵となってきている連立政権に参加し、現実の政権を担う気概と責任を示さなければならない時であろう。共産党の支持者の多くはそのことを期待してきたはずである。しかし日本共産党は、このようなことと全く無縁な党として取り残されようとしている。当然このようなことは長く続けられるものではない。多くの綻びがこのところ目立ち始めてきたのである。
<<エース記者がみた『赤旗』の暗黒>>
『文芸春秋』誌1994年12月号に発表された「エース記者はなぜ解雇されたか 私が見た『赤旗』の暗黒」という元「赤旗」企画委員・下里正樹氏の独占手記は党内外に多くの反響を及ぼしている。「自由と民主主義」を掲げながら、それにまったく敵対する党の実態が赤裸々につづられているのである。単なる暴露記事ではない。党の現状を心から憂れえている党員の痛恨の手記といえる。『エコノミスト』誌の「敢闘言」(94/12/13号)で日垣隆氏は次のように紹介している。
「さて、いい仕事をする記者は『赤旗』にもいた、と私は認識している。ルーマニア特派員の・・・、いずれも離職後に“象牙の党”時代より数段良質なルポを発表している。・・・森村誠一『悪魔の飽食』の共著者だった下里正樹も最近、解雇された。『赤旗』のエース記者であり、現代史研究者からの評価も高い。この下里に対し、党お得意の査問が五カ月間も強行され、戦時中の例のあれを彷彿とさせる。宮本議長が「例のあれは書いてはならん」と命令したため森村誠一が党と絶縁した経過や・・・話などを含め手記を寄せている。本来有能な下里が、「知人にも会うな」と言う査問者の命令に従い「我が党」を未だに信じようとする姿は哀れを誘う。」
「赤旗」12/19号は早速これに対して「疑われる『エコノミスト』の見識」という反論を載せ、「党規律違反問題についての調査には六カ月かかっていますが、それは主として下里側の個人的都合によるものであり、七回行われた調査も、多くの場合、彼が自己弁護や党に対する攻撃を繰り返し長々と弁舌をふるうため長時間を要した、のが事実です。しかも彼はその間、調査にあてられた七日間以外は、自宅やその他で自由に過ごしていたのです」という言い訳をしている。
査問を「調査」と言い換えたのはいいが、五カ月ではなく「六カ月」もかけて自己の党員を調査し、査問していたこと、「調査にあてられた七日間」は「自由に過ご」させず、事実上の監禁状態での強制的な査問であったことをはしなくも自ら暴露している。
<<「長時間を要した」査問の実態>>
さてその査問の実態はいかなるものであったのか。これまでと同様、当然予想のつくものであるが、下里氏の場合は次のようなものであった。
「査問が始まった。第1回は93年11月20日。査問の全過程がテープに録音されること、録音テープは、請求があれば下里にも聞かせることが約束された。だが「聞かせる」の約束は間もなく反故にされた。
長期にわたる査問は、ひどくこたえた。たまりかねた私は、査問のやり方に、異議を申し立てた。<これまで3カ月間の査問を経て、調査を受ける側からの緊急異議を申し立てたい。査問開始から処分にいたる民主的手続きの保証は、党内民主主義の根幹にかかわる大切な問題であるが、今回査問の経過には、党内民主主義と憲法に反する問題点が多すぎ、査問の合法、有効性を疑わしめるものである。>・・・11月20日の査問の席上、「調査期間中3カ月の権利制限」が言い渡された。しかし、今日までに明らかになった「権利制限」の実態は、同僚記者に会い、「話し合うことはしてはいけない」、事実確認のために「現地と連絡をとってはならない」、「図書館に行き資料文献を調べることはしてはいけない」、「対外活動」を行う場合には、「事前に統制委員会と相談し、その許可を得てもらいたい」、等々・・・近代刑法以前の人権感覚による、異常な措置であるといわざるを得ない。
応答を大声でさえぎり、答えさせず、関連質問をあびせる。それに答え始めると、またも大声でさえぎり、答えさせない。そして別の質問をあびせる。「それは」と答え始めると、またもや大声でさえぎる。明らかに答えを求めての質問ではない。相手を混乱させ、怒らせ、自分のペースに持ち込むための、高圧的な人を侮辱する尋問態度である。私が「答えさせないのなら、査問に応じる意味がない。もう止めよう」というと、すかさず「答えないんだね」「拒否するんだね」とたたみこむように、きめつける。薄笑いを浮かべ、待ってましたといわんばかりの、計算の行き届いたきめつけである。」
<<「うす汚れたスリッパのような扱い」>>
これが自己弁護すら許さない、「長時間を要した」査問の実態である。彼らの薄笑いは、彼ら党官僚に固有の知的道徳的退廃以外の何ものでもない。テリー・伊藤著『お笑い革命日本共産党』(94/8/1発行)が茶化して描き出した宮本・不和・上田との漫画的なやりとりが実際に行われていたわけである。下里氏は彼を取り囲んで査問した内の一人、赤旗編集局長の河邑氏に対して「河邑氏にお聞きしたい。あなたは、いったい何者かと。党員の上に君臨する、独裁者か。人を侮蔑し、答えさせず、大声できめつける権限を、いつ党から与えられたのか。あなたが、高圧的な態度で詰問する、根拠権限はどこにあるのか。党規約の、どこにそのようなことをしてもよいと、書かれてあるのか。
私は、この事実を全党に告発するものである。」と述べている。 こうして下里氏は、94/5/31「党規律違反」で本部勤務員の職を解かれ、10/14付「赤旗」は、「元赤旗記者・下里正樹同志の規律違反の内容の公表について」と題した赤旗編集委員会名の論文を掲載した。下里氏は公表文を熟読した上で、「この公表文の内容は、私への悪意ある個人攻撃に満ち、かつ多くの事実をねじ曲げているものです。・・
・今日まで私は、解雇にいたる事実経過について、私の方からの公表を自制してきました。自分の言い分を胸に刻みながら、仕事に専念してきました。しかし、どのような人間にも最小限の名誉があり、人格があり、人権があります。一方的に攻撃されたからには当人には反論する権利が生じます。・・・私は、党機関紙上での反論を強く希望しますが、断られた場合には、やむなく他のマスメディアでの反論を行わざるを得なくなるでしょう。」(10/19)として、赤旗編集委員会宛てに手紙を出した。もちろん反論掲載は拒否され、『文芸春秋』誌に手記が公表されるや、待ってましたとばかりに11/11に除名が行われ、「赤旗」には「虚構につらぬかれた反日本共産党の手記-下里はどこまで転落したか」という長大論文が二度にわたって掲載された(11/21-22)。
下里氏は、党官僚にとっては何の考慮にも値しない自制に自制を重ねてようやくにして手記を発表したのである。「ここに至って私は決意をした。ことは一人の赤旗記者の処分・解雇、私の名誉人格など私的な問題にとどまらない性格を持っている。・・・またこの間、私に加えられた長期にわたる査問は、日本国憲法の民主的条項に違反するものであり、「自由と民主主義の党」を標榜する日本共産党の、体質が問われる問題でもある。この間、共産党本部の中で体験したありのままを公表し、同時に私個人へのあからさまな批判にたいし、最小限の反論を行う必要があると判断したのである。・・・この段階に至って、私は現在の「党」が掲げている自由と民主主義擁護の旗が、一部幹部の手によって、うす汚れたスリッパのように扱われていることを知った。このような体質のまま「党」が政権をとれば、日本国民の上に、私に対すると同様のことが起こらないだろうか。私はそれを思った」。
政権をとればという心配は杞憂というものであろう。しかし現実に党を内外で支持している人々にとっては杞憂ではすまされないものである。
<<論争無用の「科学的社会主義」>>
季刊誌「窓」第22号(1994/12発行)は、もう一つの重要な論文を掲載している。それは高橋彦博(法政大学教授)氏の「論争無用の『科学的社会主義』-萎縮する日本共産党分析のための一資料」である。これは氏自身が日本共産党から排除された記録であり、問題提起である。
氏は、日本共産党中央委員会に宛てて以下のように異議を申し立てている。
「過日、1994年5月19日、私は東京都委員会から、5月19日付けの決定として、党規約第12条により除籍すると言い渡されました。この除籍言い渡しの経過と内容が、公党としての資格を欠く組織運営になっていると思われますので、私は異議を申し立て、日本共産党の責任ある機関で調査されるよう要望します。
①私の著書『左翼知識人の理論責任』の内容について問題があるとの提起が、機関の責任者から私の所属する支部組織に正式に提起されたことは一度もありませんでした。
また、この問題について私の所属する支部組織で正式に検討されたことは一度もありませんでした。私の所属する基本組織に一度も事情聴取がなされず、一度も意見打診がなされないまま、突然、上級機関における除籍決定がなされています。
②『前衛』1994年4月号に、私の著書『左翼知識人の理論責任』に対する批判論文が党中央委員会文化知識人委員会事務局員の名によって発表されました。この批判論文は、私に対し、「もはや革新陣営とは無縁の立場」にあるとする追放宣言を行っています。
党の機関において私の問題に対する態度決定がなされる前に、党の機関誌上で事実上の処分発表がなされています。
党内の批判者に対して、党内における討論の機会を提供する代わりに組織的な排除処分が課せられています。公刊された書物の著者に対して、「堕落」「変質」「転落」などの悪罵を浴びせたまま、反論掲載の要望を無視し、党籍剥奪処分で対応するという姿勢が、日本共産党中央委員会の名で発行される「理論政治誌」によって示されています。 1994年5月31日、法政大学教職員支部 高橋彦博」 こちらは査問どころか、一度の事情聴取もなければ、意見打診も全くなされないまま、規約に規定された基礎組織での討議も経ずに、いきなり上級機関である共産党東京都委員会が一方的に氏の除籍を行っているのである。自己に都合が悪ければ、論争無用というわけである。
<<「ネオ・マル派」の党からの追放>>
高橋氏は、同論文の中で「第20回党大会の発表によれば、「訴願委員会」へは年平均333人、ほぼ一日一人の割合で提訴がなされてきたとのことである。この多数の訴願者の中に、異端派としての日本共産党から排除された一定数の異端内異端が含まれていた。以下に紹介する資料三点は、最近の日本共産党において、かなりの党歴の持ち主である一人の研究者党員、実は、私、が「除籍」された経過である。私も訴願者の一人としてカウントされているはずである。私は、私と同じように何人かの研究者党員が「ネオ・マル派」として日本共産党から追放されたことを知っている」という事実を明らかにし、先の中央委員会宛文書等を資料として公表し、これによって「日本共産党においては、異端派集団としての組織内結束が重視され、組織内の異論提起者に対する排除の態勢が強化されつつあるのである。・・・自己の組織内における異議申し立て人に対しては呵責ない排除の論理が採用されている構造をお目にかけることができるであろう」と述べている。
高橋氏は、政治学・政治史を専攻しており、80年には共産党系の学習の友社から『現代日本の議会と政党』を共編著者として刊行している。この著作を著した段階で「私は、日本の議会制民主主義の担い手としての革新統一戦線と日本の共産党に大きな期待をかけていた」ことを氏は明らかにしている。「だがその期待は適えられなかったのである」。
氏は、89年に戦争指導者の責任を追求する姿勢の陰に隠れて消えていた民衆自らの責任を議論のテーマとし、その討論記録を『民衆の側の戦争責任』と題して青木書店から刊行している。それは次いで左翼の政治責任の問題として93年に、窓社から『左翼知識人の理論責任』に引き継がれて刊行された。ここにおいて氏は、科学的社会主義と称される理論構造が、結果責任の倫理を受容できる構造になっていないことを結論するに至ったわけである。折しも共産党は丸山眞男氏の戦争責任論に対する異常とも言える批判キャンペーンを展開しているさなかである。それは先の共産党第20回大会で頂点に達した。
そしてこの大会で、党内の異論提起者を、党を誹謗中傷する者として、機関の独自の判断で排除することができる新しい党規約の改定が行われたのである。高橋氏の党組織からの排除は、その先取り実施であった。
<<「結社の自由」と組織内民主主義>>
このような処分に対して党内外からの批判が行われると、共産党が必ず持ち出す論法が「結社の自由」の枠内のことであり、憲法に保証されていることだと開き直る例の論法である。今年からはいよいよ政党助成が実施されようとしている。政党助成のあり方については、当然共産党の主張する論拠も考慮されてしかるべきであろう。しかし助成金を貰わないから党内において何をやろうと他からとやかく言われる筋合いはないと、いう議論は成り立つものではない。
現代において政党というものが、もはや私的な組織でも非公然の非合法的な組織でもなく、ましてや秘密結社ではない時代である。自らが「公党」であるという以上、その組織のあり方は公的に認知され得る最低限の共通の民主主義的規範を土台としなければならないであろう。「自由と民主主義」の旗を掲げるのであればなおさら、民主主義的諸原則の貫徹においてより厳しく徹底されるべきものであろう。「結社の自由」にもとづいて組織された政党に個人の自発的意志で加入した以上、その政党が何をやろうと自由であるという論法は、もはやヤクザ社会でしか通用しないものである。
先頃、日本新党の前事務局長が比例区候補者の名簿に搭載されていながら、細川氏個人との対立により一方的にそれこそまったく非民主的に解任され、順位が下の候補者の繰り上げ当選の有効性が裁判で争われ、日本新党側が敗北したことはまだ記憶に新しいことである。日本新党内部の決定が、通常の民主主義的規範に外れ、非合法とされたのである。共産党においてもそうした事態が生じたとしても不思議ではないであろう。
高橋氏も指摘していることであるが、時代の要求はさらに、党議拘束の緩和、党首公選制、党員登録の定期的確認制度、各種選挙候補者についての予備選挙制度などを具体的な実行課題として浮上させているのである。これはもはや時代に取り残されつつある共産党の課題ではないかもしれないが、他の進歩的諸政党、あるいはこれから作られてくるであろう新しい党の重要な課題となるものであろう。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.206 1995年1月15日