【翻訳と紹介】民主主義なき安定
ミハイル・ゴルバチョフ
この問題は現実的に最も重要であり、ロシア、ヨーロッパ、そして全世界の関心を集めている。しかし、この深刻な問題の周辺では、ロシアの真の利益に合致しない目論見をカムフラージュするように、ありとあらゆる危険な賭けが行なわれている。
<<社会状況の悪化>>
多くのロシア国民にとって安定の問題は、社会が深刻な危機的状況から脱出することへの期待と結びついている。しかし、国民が現政権に安定を期待していないことは、あらゆる世論調査が明らかにしている。政府はその事実に不安をかくさず、このことを考慮して政策を実施し、人々の安定志向を国家権力の利害のために利用する。
大統領やその側近の発言、あるいは行政内部から出た、新しい党ブロック<我が家―ロシア>のリーダーの周囲で展開されるあらゆる宣伝活動が示すように、ロシア政府にとって安定とは、現体制の維持であり、国に危機をもたらしたグループの権力の維持および強化である。<権力の党>は、すでに変更不可能な政策によって縛られている。現在の発展傾向を中断させることは、安定ではなくて、さらなる緊張の招来を意味するものだ。
ここ4カ月間の社会状況に関する意識調査のデータによると、国民の80%が社会状況は悪化したと考え、わずか20%が好転したと考えるにすぎない。
今日、明確に政府と国民のきずなを引き裂いた出来事は、法や人権、世論を踏みにじったチェチェンへの進攻であり、深刻な社会的・政治的紛糾を招いている。歴史的経験が示すように、生活レベルが低下し、屈辱感、絶望感が増大する社会状況は、人々を右翼あるいは左翼的過激主義、民族主義に走らせる可能性があり、そうした危険性を軽視すべきでないと思う。
<<西側の関心、危惧>>
ロシアにおける安定の問題が、西側の政治、軍事、商業の領域で重大な関心事となっているのは偶然ではない。特に、中欧、東欧においては、北大西洋条約機構への加盟の問題にかかわる東からの潜在的な危険性について声高に叫ばれている。また、ハリファクス(カナダ)でのサミットにおいて、さまざな問題に混じってロシアの状況に関する討議が予定されているのも偶然ではない。
西側の多くの研究者が、ロシアの置かれている深刻な危機的状況は国際社会にとってかなり高い確率で脅威の源泉になると考えていることは周知のとおりであるが、その脅威とは、核保有国云々の問題だけではなくて、前代未聞の規模で横行する汚職、犯罪、テロ、また武器横領や国内外の犯罪組織(オウム真理教等)のロシア科学技術、軍事機構への潜入など、政府の統治機能の喪失に対する危惧である。
西側ではすでに、民主改革の保証人としてのエリツィンへの期待はなくなっていることを誰もが見抜いている。が、彼らは、そこからしかるべき結論を導き出そうとはせず、ロシア社会はかなり遅れており、民主主義への準備が整っていないのだから、民主主義はなくとも安定を約束する害の少ない現体制を支持すべきである、という判断に安住している。
<<現体制では安定は不可能>>
すでに指摘したように、現体制、現路線では安定への期待を実現することは不可能である。しかし、また別の問題も生じている。つまり、安定か民主主義かというジレンマが実際に存在するのかどうか。また、民主主義なき安定が可能かどうか。どんな犠牲を払ってでも安定を獲得すべきなのか。
ここで明らかにしておくべきは、体制側は、一定の期間、権力、権威主義的方法、あるいは弾圧によって安定を守ることはできる。おそらく西側の諸国は、軍事力の解体など、弱体化した現在のロシアからしかるべき利益を引き出すことをもくろみ、こうした状態に満足している。しかし、これは近視眼的目算であり、こうした状況では、長期的にみて、ロシア社会に真の安定をもたらすことは不可能である。
したがって、安定か民主主義か、という問題設定そのものが根本的に間違っているのである。民主主義のみが、真の安定を得るために不可欠な社会のコンセンサス、権力への信頼を醸成することができる。現在のロシアおいて、民主主義を守り社会の連帯をつくり出す唯一の道は、政策の抜本的改革、つまり権力機関の交代である。
<<権力の選挙歪曲の意図>>
そこで、選挙の問題である。現在、ロシアにおける政治活動の焦点はすべてここに集まっている。問題は、ロシアにおいてより自由で民主主義的な選挙が可能かどうか、国民がその意思を表現することができ、抜本的改革のための前提条件をつくり出すことができる選挙が行なわれるかどうかということである。一見、すべては順調に進んでいるように思われる。大統領選挙法案の採択、憲法に忠実な権力機関、規定された期間内の選挙実施の義務など、肯定的要素は存在する。
しかし、もっと間近で、どのように選挙運動が行なわれているか、権力機構にどのような変化が生じているかを注意して見ると、不安を隠さずにはいられない。おそらく、選挙は行なわれないか、あるいは実施されたとしても選挙人の意向の歪曲が行なわれ、現在の権力、政治路線が維持されるだけであろう。大統領は、連邦議会下院議員の選挙法案を拒否したばかりであるが、その目論見は明らかである。新しい特権階級に好都合な条件をつくり出すために、選挙運動の中心を統治管区に移したいがためである。権力側からすれば、これは損のない巧い手段と言える。つまり、仮に国会が大統領の修正案を拒否したならば、選挙は延期されるか、もしくは大統領令によって実施される。また、仮に国会が大統領の指示に従いその補正案を承認した場合には、権力側は候補者の推薦から開票まで、選挙の全過程を掌握することになるであろう。
また、非常に複雑な状況において、次のようなケースを想定しないわけにはいかない。つまり、多くの選挙人は単に投票に行かず、したがって、選挙は成り立たないか、もしくは不完全で活動能力を伴わない国会の成立を我々は見るというこである。おそらく、権力側は、投票率の最低ラインを50%にまで押し上げ、この棄権主義の効果を期待する。
<<民主主義勢力の役割は何か>>
読者は問いかける。では、目下のところ民主主義勢力の役割は何なのか。そして彼らに今日の状況のネガティブなシナリオに対抗する可能性があるのか。私は、民主主義勢力は大きな潜在能力をもっていると確信している。しかし、彼らの勢力はバラバラであり、権力側はさらに力を分散させようとする。選挙において現実的に重要な役割を果たすためには、民主主義勢力は分離状況を克服し、1つの政治空間に結集することが先決である。
現段階は、ロシアの民主主義勢力の成熟状態を、彼らの国家統治の能力を慎重に確認する時期である。仮に彼らがその能力に長けていることを証明したいならば、まず派閥根性や政治的野心といった<小児病>を克服する必要がある。そして、現在の状況を考慮しながら、民主主義、多元主義、中庸といった健全な思想的立場から国家と国民の利益を守ることのできる人々の力を結集するための手段を講じねばならない。
すべては、すでに<ポスト・エリツィン>の時代が始まっていることを物語っており、それは、新しい政治戦略が不可欠であることを意味する。民主主義勢力の絶大な政治的イニシアチブが不可欠であるが、彼らにおいて歴史的イニシアチブをとる準備が整っていない場合には、その変革の風をまったく別の勢力が奪いとる可能性は十分にある。
<<独立国家群との関係>>
ロシアにおける安定の問題のもう1つのアスペクトは、ポスト・ソビエト地域における独立国家群との関係である。この点に関してさまざまな矛盾した見解があるが、重要なのは、独立の際の幸福感が消え、酔いがさめだすとともに世論や政治エリートの立場に変化が出始めたことである。独立国家共同体(CIS)設立時の希望や期待は消え失せた。
こうした状況下で、ロシアとCIS諸国の関係の議論に新しい段階が訪れた。そこでは、さまざまな利害が衝突しあい、さまざまなバリエーションの地図が構想されている。このテーマは特別な分析を行なうに値するものであり、ここではただ1つのことについて触れることにするが、これはロシアだけでなく、全世界共同体の安定の問題から非常に重要な問題である。
それは、世界の多くの地域において力をつけつつある自然な統合過程である。ポスト・ソビエト地域にとってこの問題は焦眉の急となっている。生活のすべての領域で歴史的に形成されてきた多様な関係を破壊すると、どのような困難が待ち受けているかをすべての人は理解している。しかし、仮にこのことを理解したとしても、果たして協力、統合の新しい形の模索は論理的でないのだろうか。しかしながら、ロシアにおいても、旧ソ連諸国においても、また西側においてもこの問題における明瞭さはない。
<<問われる連帯と統合の政策>>
ロシアにおいて、新しい枠組みにおける旧ソ連諸国との連帯構想は、多くの人に猜疑心を抱かせる。そこでは、抜本的で民主主義的な改革を目前にした以前の連邦の解体責任の問題が生じているがゆえに、政治的動機が働き、また現在の困難なロシアの社会状況と関係する経済的動機も働いている。しかし、直接には語られないがロシアの政権内部で囁かれていることは、ロシアにとって現在の状況は好都合であるということだ。統合の多国間条約機構の欠如において、個別的な政策の実施や他の国の利害を犠牲にした自国の利益の追求、さらに自国の意向の押しつけが容易だからである。
事態の他の局面は、西側の立場である。ポスト・ソビエト地域の統合に関する西側の政府の議論は、かなり偏見を含んだものである。ここでは統合を、ロシアあるいはソビエト帝国復活の試みと捉らえている。そしてこの事実を隠さないばかりか、新しい独立諸国家の歩み寄り、特にウクライナとロシアの接近に積極的に対抗手段を講じる。しかし、そうした政策は近視眼的であり、逆にロシアを帝国への道に走らせ、期待したものとは反対の結果をもたらすだけであろう。
逆に、明瞭な法的根拠、平等の原則、完全な自由意志に基づいて実現され、帝国への野心を抑制する効果的な多国間機構の設立を伴う統合は、ロシア、ヨーロッパ、そして全世界共同体の利益の合致に正しく応えることができる。しかしその実現のためには、多くのことに変更を加えねばならない。ロシア自身の政策、CIS諸国の立場、そして西側の方針に。
(「モスクワ・ニュース」№38、1995年6月)(鈴木 太 訳、小見出し・編集部)
【出典】 アサート No.212 1995年7月15日