【書評雑感】大江あるいは金芝河のこと(日記から)

【書評雑感】大江あるいは金芝河のこと(日記から)

(7・12)
AUM事件の公判準備が報道される中で、マスコミの関心はまったく薄れ、この事件の反社会性についてまず枕言葉を並べない限り、これについて何も語れない状態ではなくなった。こうしたなかで、浅田・中沢の対談が中公8月号に載っている。
浅田の姿勢には、国立大学の教師に相応しい「配慮」が見られるが、ニューアカデミズムの読み違い、つまりこの現実とパラレルな世界への逃避をもたらしたのは自分たちの責任ではないと述べ、責めに徹している。中沢は、「チベットのモ―ツァルト」の隣に「麻原」の著作が並べられていたこと、AUMに入信したものの20%が、中沢のこの本を読んでいたと言い、やや同情的であるが、迷惑なことだという基調は貫かれている。さて、先日の「朝まで生テレ」もそうであったが、今日の思想・文化状況の危機が強調され、その克服の為の処方箋が様々な形で提起されている。総じて言えることは、「ゾルレン」、「相対主義の克服」、「イデオロギーの回復」等々、硬派の主張が目立つ。
まことに恐れ入るというか、困ったというか、ソ連の崩壊と冷戦の終結の中で勝利した筈の側の人々が、みずからのイデオロギーに自信を失って、何かを求めているのである。ポストモダンのなかで新しい理念が求められているという呼びかけも盛んである。
どうしてこんなに慌てているのであろうか。「ソフィーの世界」の哲学への誘いは純情でヒューマニスティックで好感がもてるが、それでも、なんともうさん臭い感じがするのはなぜだろうか。
この点で、サイードと大江の対談は、その悠長さと謙虚さというスタンスに共感を感じる。
あわてる乞食は貰いが少ないのだ。
大江は5年間勉強して、新しいナラティブのスタイルを見つけたいと言っているが、ナラティブが「さっちゃんと」とK伯父の後者の優越性と知性によって統一されるといったものから、真の対位法が確立されるか注目される。大江は、最近のG・グラスとの往復書簡のなかで、AUMの反社会性と暴力性を描けなかったのは、リアリティーの欠如だったと述べているが、それは、K伯父の分身が「ギー兄ちゃん」であり、「癒し」のためのコミュニティーの理想像であったからには、リアリティーがあれば、この「最後の小説」は本来成り立たないばかりか、ドストエフスキー的な精神なしにそれは不可能であり、またそうであれば、大江らしいものは全て失われてしまったのである。このG・グラスへの返信には嘘があり、この克服が、今後のナラティブの成否を決するのではなかろうか。それにしても、本田勝一との「紛争」は近年まれに見る、「珍事」である。こんなことが起きていようとは、「金曜日」という、私の趣味に合わない雑誌を読んでいないために、ぜんぜん知らなかった。毎日新聞社の本田の本(大江健三郎の人生:貧困なる精神Ⅹ集)を読んでなんとも気まずい汚いものを見たような気になった。
硬派の独り善がりが蔓延している。平板な相対主義と立体的な多元主義の違い、寛容とあいまいさの違いを見間違ってはなるまい。
特効薬を求めるのは、AUMの促成栽培の修業と解脱によく似ている。
結論を急ぐな。結論は出ていないのだ。天才の出現を望むな。あまりにも天才が出過ぎたといって「近代のモダン」を否定してから、まだ、さほど時は経っていないのだ。

(7・15)
「世界」臨時増刊号の「ソウルシンポ=現代文明の課題」(主催 韓国クリスチャン・アカデミー)を読む。
ここで、大江と金芝河が報告を行っている。
大江の報告は、彼の「万延元年のフットボール」の解題と、日本人の犯した誤りに対する、バランスの取れたヒューマニストらしい述懐である。これには特に目新しい視点はないが、ノーベル賞授賞後、最初に訪問する国として「韓国」を選んだことを強調している。これは、西欧主義者と言う、一部に存在する批判に対する彼らしい回答であろう。これはこれでよい。けちを付けて、何か有益な結果が得られるものでもあるまい。
注目すべきは、金の報告である。ここで彼は、自らの今日に於ける、哲学的あるいは思想的、もしくは信仰的な体系を開陳している。それは、西欧文明の批判、科学的合理主義への糾弾に重点が置かれている。特に、それらに対置するものとして、「東学」や「気」、「華厳教」が打出されている。また、東北アジアの「儒教」、「仏教」、「道教」などの共通文化を基礎にした新しい共同体が理想郷として描かれている。
彼の語調は、ゾルレンに主題があるように聞こえるが、内容的にはむしろ、ザインとの和合あるいは合一に力点があるように思う。彼が、有名な「五賊」を書いた後、逮捕され長い獄中生活を送り、拷問と薬物投与を受けたということが報道されたことがある。
しかし、その間の思索のプロセスや到達点について、ほとんど知らない。かって受けた印象に、彼は「転向」したのではないかという懐疑的なものがあった。しかし、この報告を読むと、彼の反体制的なスタンスが変化し、より全人類的な視点に中心が移されていることが分る。この是非について、政治主義的に批判するのは容易である。政治がパフォーマンスの競り合いであるからには、彼の考えを、再び、こんな世界の利害やその水準に照らし合せることは、冒涜であろう。従って、この彼の「揺らぎ」理論への共感、や「ポストモダンの無責任さへの批判」などを含む、猛勉強のあとが想像されるこの到達点の体系について、東洋主義的偏向(大江に対するものとは反対に)などという皮相的な批判や軽視は許されないであろう。重要なのは「解釈」することではないが、さりとて、教条的な処方箋に依拠した「変革」でもないからである。(N・I)

【出典】 アサート No.213 1995年8月11日

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