【書評】世界と個人のラディカルな批判に向けて
『ラディカルに哲学する』(全5巻)、第1巻『考える営みの再生』
(尾関・後藤・佐藤編、大月書店、1994.11.18.)
新宗教、新々宗教のブームが去り、今度は哲学の時代だと噂されている。しかし現代世界の重要な課題は何ひとつとして解決されてはいない。ということは、この哲学ブームもその多くは目先を変えただけのつまみ食い的哲学ブームであるとしか言えない状況であろうか。
しかしそれにもかかわらず、人間の本質を批判的理性と位置づけ、そこから人間存在を総体的にとらえようとする試みは、やはり評価されねばならない。しかもそのとらえ方として、人間存在の社会的側面に広く眼を向けようとする姿勢・・・従ってこれは哲学者個人の研究というよりもさまざまな立場・視点の人々の共同研究となる・・・は、より注目されねばならない。
その試みのひとつとして、シリーズ『ラディカルに哲学する』(全5巻、大月書店)が刊行された。その「シリーズ刊行にあたって」では次のように述べられている。
「日々の生活のたえざる変化それじたいが日常となった感がある。だが、たえざる変化にもかかわらず、われわれは自由だとは感じていない。1980年代の、あの時代閉塞の感覚は、今のこれほどの社会変動のなかでもいぜんとして持続し、強くさえなっている。明らかに、もっともっと根本的なところから世界を見ることが必要とされている。」
かかる視点から、このシリーズでは「現代では、世界のラディカルな批判は個人の生活のラディカルな批判でもある」として、現代世界の批判と個人の内面を深くえぐることが同時的になされねばならないと主張する。すなわち「哲学が現実と格闘すべきとき」なのである。
さてその第1巻『考える生の営み』(尾関・後藤・佐藤編)では、「これまでの職業的哲学者の哲学と称する営みの大半」=現代の葛藤と無縁な世界での議論から、「一人ひとりの市民が自分で考える営みとしての哲学」をめざす。
佐藤和夫論文『連考・・・転形期における哲学の営み』は、「現代社会では、ゆたかな社会という満足感と、身体をこわしてしまうほどの管理社会とが深く結びついている」、「隷属と物質的富とがひきかえになっている」と指摘する。そこからすれば今日の民主主義も、政治を「経済的利害の誘導をめぐる争い」としてしか考えない故に、「他人にいわばリモート・コントロールされたままで自己統治の外見をもっているにすぎない」のである。この意味で現代人に欠落している最大のものは「自由と協同の経験」としての民主主義である。そしてそのことが人々の生活へのエネルギーを消失させ、選択の余地のない経済的合理性にしたがって生きることで、人々は人間として生きることの意味を失なっているのである。
そこで人間にとっての「自由と協同との経験」が探究されるのであるが、これは取りもなおさず平等な人間同士による議論、対話や会話(すなわちソクラテス以来、哲学本来の姿といわれているもの)ということである。しかしこの場合にわれわれは今一度従来の哲学的対話と称するものを振り返ってみなければならない。そうすればそこに「哲学の独裁的性質」なるものが明らかになる。すなわち論理の首尾一貫性を誇るヨーロッパ哲学の論理とは、「協調的話し合い」ではなく、実は「競争的話し合い」であり、「基本的には支配者が他者を自分の目的のために服従させたうえでの自己正当化のための議論を基本としている」。そしてそこに使用される哲学の言語とは公的空間の言語であり、普遍性の名のもとに私的な空間を無視し、思考の主体の具体的状況を捨象する独裁的なものであったのである。
これに対して筆者は、「一定のレールの上に乗ることを強制することなく、双方が自分のよさを生かそうとしながら共通の土俵に乗って協力しあう」とする議論、「独裁的でない対話の形式」として、室町戦国の時代に全盛をむかえた連歌の思想にヒントをえて、「連考」(連歌的思考)という議論のありかたを提起する。そしてここに市民に接近できる哲学・対話の可能性を探る。
上の問題提起を受けて、ジャーナリストとして著名な斎藤茂男は、日本の現実風景のなかに「゛諸現象を貫く一本のパイプ〃」「戦後五〇年を経るうちに日本の社会の隅々に血脈のように張りめぐらされ、それによってわれわれ自身の意識中枢に統御されてしまっている無色・無臭・無形の気体のような価値観、あるいは情念といったもの」を鋭くえぐり出そうとして、歴史的現実の縦軸と社会の諸事象の横軸の交差する一点を凝視する。そしてそこに社会病理現象・・・全生活史健忘症、脅迫神経症等々・・・から国家の意識統制にいたる日本の歪み=「目標達成という目標を追いつづけるうちに、社会全体が『巨大な成功』をめざしてただ動くだけの、目標不明のロボットになった」日本を描き出す。(『私はどこへ行きたいのかわからない・・・行き先不明の旅の情景』)
さらに杉田聡論文『現代の疎外と自動車システム』は、現代社会に不可欠な道具となった自動車のもつ意味に焦点を合わせるユニークな考察を行う。そして自動車が「それ自体現実的な暴力、しかも巨大な暴力の装置」になり、疎外を深めているばかりか、人間の攻撃性を誘発している事実を指摘し、「人権を侵すシステム」となってしまった自動車システムへの対応を主張する。
また中村行秀論文『「豊かさ」を哲学する』は、「豊かさの本質が『自由』にほかならないこと、したがって貧しさの本質が『自由』の奪いとられ、あるいは放棄である」ことを解明した上で、「高度経済成長期以来、私たち日本人のなかに定着した感のある『自由』を犠牲にして『富』を手に入れるライフスタイルが、じつは『貧しさ』そのもの」であると鋭く指摘する。そして自由が「人権」として把握されているように、「人権としての豊かさ」の追究を主張する。
以上第1巻のみをかい摘んで見てきたが、本シリーズは、哲学者のみならず他の研究分野の専門家等をも含めて現代世界と自己の生活とを積極的批判的に把握しようとする試みであり、哲学を市民の眼に接近させようとする橋造りでもある。執筆者それぞれの問題意識、立場には違いがあるとはいえ、読者の側からすれば、さまざまな問題提起を受ける刺激的な書でもある。この「哲学が現実と格闘する」もくろみがいかなる方向でどのような成果をあげるかは今は定かではない。しかし人間を批判的協同的存在として総体的にとらえるひとつの試みとして評価されるべき書ではある。(R)
【出典】 アサート No.214 1995年9月22日