【投稿】森滝さんと「人類的立場」
原水爆禁止運動の象徴でもあり、常に運動の先頭に立っておられた森滝市郎さんがついに亡くなられた(1月25日)。92歳の高齢であり、いつ亡くなられても不思議ではなかった。しかし、昨年7月にも計475回(1962年に開始されて以来)にも及ぶ原爆慰霊碑前の核実験抗議の座り込みをされていて、その意志の強さと気力にはなみなみならぬ思いが伝わり、たとえ亡くなられても、「核実験の再開など、断じて許してはならんのです」と、あの背筋を伸ばした白髪の森滝さんが登場する姿が、何度も去来して頭を離れない。今年頂いた年賀状は「いのちとうとし」であった。
1963年8月、第9回原水爆禁止世界大会が、ソ連や中国の核実験をめぐって分裂したとき、共産党やその支持者達(実は私もその方針と内部で闘ってはいたが一員であった)が「防衛的核実験」、「きれいな核実験」、「アメリカ帝国主義と闘うことこそが原水禁運動」といった主張をして、分裂を合理化したことは周知のことである。そのとき森滝さんは原爆慰霊碑前の集会の壇上で、彼らの悪罵と中傷の中で、「いかなる国の核実験にも反対」するという「全人類的立場」、広島の原点を明らかにし、これは金輪際曲げられないことを明言された。そして森滝さんは、共産党の分裂主義とセクト主義にはほとほと悩ませられながらも、広島、長崎、静岡の被爆三県の原水禁運動の統一と連帯に奔走されていた。そうしたさなかに私は森滝さんのお宅を訪ね、八月六日被爆地広島の地獄図絵の生々しい記憶や、アルバムを次から次へ出されてヨーロッパ各国での被爆体験の語り歩き、シュバイツァー博士との交流など一晩語り明かして頂いた。ろくに眠りもせず、翌日は広電に乗り、平和公園以外の埋もれた被災者の慰霊碑や広島大学構内の被災の様子を案内して頂き、最後に原爆資料館に着いた。ちょうどその日は修学旅行の高校生が見学中であった。森滝さんは最初私一人に説明をしていたのだが、横で聞いていた人たちがどんどんふくらみ始め、大集団となり、「この写真の娘さんは実はぼくの知っている人で、・・・」、「このホルマリン漬けの・・・は、実は教え子の・・・」と、そのリアルで鬼気心に迫る8/6当日の様子に皆が一斉に涙を出し始め、声を出して泣きながら、会場を移動したのである。忘れられない思い出である。
振り返って、森滝さんは、「人類」という概念を運動の中で最初にはっきりと言及し、しかも「人類的立場」を運動の原点に据えられた最初の人と言えるのではないだろうか。森滝さんは、1956年、日本被団協が結成され、その宣言文を起草されているが、その中でも「人類は生きねばならぬ」と主張されている。1960年前後、中国とソ連の論争、いわゆる中ソ論争の中で、フルシチョフが米ソ平和共存、核軍縮を人類的立場から主張したのに対して、毛沢東は「原爆などはりこの虎、恐れるに足らず」と主張し、人類的立場を階級性を投げ捨てたもの、右翼日和見主義、現代修正主義と嘲笑した。そして日本共産党もそれにならって毛沢東に追随し、平和運動に限らず、さまざまな分野で党派性と階級性の名による大衆運動や労働運動の分裂を押し進めたのである。社会主義の崩壊も、実はこの人類的立場の忘却にこそ基本的な原因があるのではないだろうか。森滝さんの死は、あらためてあらゆる分野においてこの人類的立場に立った運動の必要性と力強さを想起させて頂いたように思われる。(生駒 敬)
【出典】 アサート No.195 1994年2月15日