【投稿】これからのASSERT~「何でもあり」の時代に~
ASSERTに改題してから半年が経過し、同時に通算で200号を迎えることとなりました。私たちの新聞が現在の形態に変わってからというもの、ソ連-社会主義の崩壊、クリントン米民主党政権の誕生、自民党一党支配の崩壊-連立政権の誕生と、これまでの私たちの「常識」を覆す様々な出来事がありました。今にして思えば、当時の段階でよく新聞の形態を変えていたなぁとつくづく感心します。これが政治的主張のアジテーションのみという旧来の形態であれば、主張の内容に詰まり、どんな内容にするのかということで延々と議論し、中途半端な折衷的内容が掲載され、到底時代の流れにはついて行けず、あげくの果てにはこの新聞は消滅の一途をたどっていったのではないかと思うのです。ソ連の崩壊を目の前にして途方にくれた当時の悩み、葛藤が生の声として掲載されたからこそ、堰を切ったように本音が飛び出し、時代を追って、新たな価値観を生み出そうとする前向きな「動揺」が次々と投稿されていったのです。
ASSERTに改題してもそれは変わりません。むしろ時代の流れは加速し、連立政権は期待された役割を果たすことなく崩壊し、私たちがその動向を最も注目していた社会党は何と自民党と組んで首相を出すという、まさしく「何でもあり」の時代になり、私たちの悩みは益々深まるばかりです。連立政権参加以来の社会党のぶざまな動揺は、まさしく私たちの姿そのものなのではないでしょうか。
新聞がこの形態になって、ひとつ不満なことがあります。様々な主張が掲載されるのはいいのですが、いまいち議論になっておらず、一方的になっているのではないかと思うのです。確かに多様な価値観に基づく意見は出ているのですが、やや時流追認の傾向があるのは否めません。真っ向から反対の意見の人や賛同できるが一部納得できないという意見の人が必ずいるはずです。「最近の新聞の論調についていけない」というメッセージを編集委員あての年賀状のスミに書いていた人もいたそうです。そんな人たちの意見を聞きたいのです。現場の最前線や地域でがんばっている私はこう思う、という意見のぜひ聞いてみたいです。書き手が固定化しているのではないかといわれているこの頃、そういった人たちの声は貴重です。
「そうはいっても文章を書くのはちょっと構えてしまう」「ASSERTは結構レベルが高くて難しい」という声もあります。そんなことは気にせずに、どんどん書こうじゃありませんか。こんな拙文でも堂々と記事になるんです。要は「私はこう思う」というのがはっきりしていれば立派な「主張」なのです。そんな文章の方が、起承転結はきっちりしていても退屈な文章より、よっぽどおもしろいと思います。また、ネタは政治に限りません。世相や日常の雑感も時代の反映です。そんなことが掲載されない方がおかしいのです。
「そんな新聞では単なるおしゃべりサロンではないか。この時代に明確な指針を」と思う方もいるでしょう。おしゃべりサロン、大いに結構ではありませんか。私たちに指針を指し示すリーダーはもういらないのです。自分たちで考え、議論し、悩み、苦しみ、行動、展望を切り開いていくことが求められているのであって、甘ったれた「メシア主義」とはおさらばしなければならないのです。
せっかく毎月定期的にある程度リアルタイムに発行できるようになったのですから、自分たちのやっていることの情報交流や紹介をもっと積極的に掲載していってもいいのではないでしょうか。例えば、読者の中に「公務員の国籍条項撤廃」の運動をやっている人がいると聞きます。今の運動の状況や次の集会などの案内を広く紙上で呼びかけることはできないものなのでしょうか。これだけの貴重なメディアなのですから、有効に利用したいものです。
何だか支離滅裂な文章になってしまいましたが、これからのASSERTをどうすればいいのかという私なりの意見です。地域の読者会というのも考えたのですが、何か前衛党的な感じもしてピンときません。でも年に1回は読者の集いみたいなものをやって、生で議論してみるのは必要なことだと思います。また、ひとつのテーマにひと区切りつけば、別冊で特集を組んでみるのもおもしろいかもしれません。やれることはいろいろあるような気がします。主張だけにとどまらず、いかに参加・交流をはかっていくのかが、これからのポイントになるような気がします。
メディアの基本は、受手(読者)のニーズがどこにあるかを的確に把握することです。みなさんの求めているものは一体なんなのでしょうか。ぜひ教えてください。
(大阪 江川 明)
【出典】 アサート No.200 1994年7月15日