【本の紹介】『獄中19年-韓国政治犯のたたかい-』徐勝著、
94年7月20日発行、岩波新書、650円
『完全なる再会』キム・ハギ著、93年6月1日発行、影書房、2884円
<<「国家保安法」改廃問題、急浮上>>
今、韓国では、国家保安法の改廃問題をめぐって与野党全面対決の状況になろうとしている。朝鮮民主主義人民共和国の金日成主席の死去、核疑惑、金正日体制の不明確さなど、情勢の不安定なさなか、去る8月11日夜、韓国の検察・警察当局が韓国の在野団体で最大規模の「民主主義民族統一全国連合」(約40万人)の李・常任議長ら二人を国家保安法違反容疑で拘束したのである。李氏らが、北朝鮮の統一方式に共感を示し、金主席の死亡の際も反政府的な論評を繰り返した疑いだという。翌8月12日、民主党、新民党の両野党党首はこれを「新公安政治」と非難し、全面対決の方針を明らかにし、9月国会で保安法改廃問題を最優先する方針を明らかにしている。8月10日には米政府が保安法の改廃要求を改めて打ち出しており、社会的な緊張の高まりと共に、この問題が急浮上してきたわけである。従来の「公安政治」を主導してきた軍人政権からの転換をはかってきた金泳三政権が、これにどう対処するか注目されるところである。
<<自由と人権思想に反する悪法>>
ここに紹介する二つの書籍は、この国家保安法と密接に関連する痛切な問題提起の書である。二人の著者は共に、この国家保安法や反共法、社会安全法といった法律によって逮捕、拘禁され、筆舌に尽くせぬ拷問を受け、獄中生活を余儀なくされた。これらの逮捕の根拠となった法はいずれも、植民地朝鮮に日本帝国主義が残してきた治安維持法をそっくり継承したものである。
徐勝氏は、朴正煕の大統領選を1週間後に控えた71年4月20日、弟の徐俊植氏を含む51名が「在日僑胞学生学園浸透間諜(スパイ)団事件」で逮捕され、死刑判決を受けた。徐勝氏は、73年1月31日の上告理由書の中で、「反共法、国家保安法は人間固有の権利である思想と良心の自由を宣言するところの世界人権宣言の精神、すなわち近代世界における自由と人権の思想に反し、ひいてはその精神を承認する憲法の精神に反します。従って原審が反共法、国家保安法違反を宣告したことは不当であると考えます。」と述べている。
<<「過ぎ去った日の思い出ではない」>>
徐勝氏は、この本を書くに当たって、「私が語ろうとすることは、過ぎ去った日の思い出ではない。長い軍部支配が終わり、文民政府が樹立された韓国では、いまも南北朝鮮を敵対関係と規定し、人権を抑圧する国家保安法が厳存している。そして信念を放棄しないという理由で、3、40年にも及ぶ監獄生活を強いられている年老い、病み疲れた33人の非転向政治犯がいる。私が経験した非人間的な監獄の状況は現在進行中である」と、述べている。
徐勝氏は、90年2月28日に釈放されたのであるが、「多くの年老い病んだ政治犯を残したまま、私が一人釈放されたことは遺憾だ。思想転向制度は良心・思想の自由に反し、民族を分断している体制のイデオロギー的装置であり、分断体制を最終的に支えているものだ。統一を念願するものとして、これを受け入れることはできない」と訴えている。
また本書には、1970~80年代に監獄にとらわれていた政治犯・思想犯の生々しい姿や拷問の実態、絶望と孤独や転向、そして機知に富んださまざまな闘いが克明に描かれている。
<<朝鮮戦争以来の非転向囚と若者の交流>>
そしてこの本の中で出色なのは、韓国社会で深く隠されてきた朝鮮戦争以来、30~40年も獄中に捕らわれてきた非転向囚の存在と、70~80年代に広範な青年、学生の民主化闘争の中で逮捕され、投獄された若者との交流である。
「緊急措置令違反の学生たちを一般舎棟に収容すれば、一般囚に対する法を無視した当局の処遇や人権蹂躙を学生たちが問題にし、一般囚が呼応し、騒乱が起きるので学生たちを特舎に収容した。しかしその結果、韓国社会で最も深く隠蔽され秘密にされていた非転向囚の存在が外部に知らされ、孤立を打破する大きな契機が作られることになった。」
「歌をこのうえなく愛す朝鮮人が一緒に10年も暮らしていても、お互いに歌がうたるのかどうかも知らずに過ごしてきた(歌をうたうことはもちろん、歌の本も許可されていなかった)。それが、学生たちが特舎にきて忘年会をやろうということになった。老人たちは戸惑いぎみだったが、若い連中が押し切った。南民戦の若者たちの歌声もすばらしかった。人民軍の文化宣伝隊にいた崔善黙先生の民謡『夢金浦打鈴』もよかった。任俊烈先生の『奪われた土地にも春はくるのか?』も日帝時期の国を奪われた民族の怒りと苦しみがうたわれていて意味深かった。しかし、私たちの魂を揺すぶり、深い物想いへと引き込んだのは李公淳先生の『白い雪が降るよ』という歌だった。初めて聞く歌だった。パルチザンでうたった歌だろうか? 先生が作った歌だろうか? すばらしい美声だった。それよりもうめくように、泣くように、高く低く大晦日の凍てつく空気を貫く歌声は、体の芯をギュッと絞り上げてつかの間の慰みから目覚めさせ、私たちを苦難に満ちた民族の歴史への想いへと駆り立てた。」
<<「衝撃の中・短編集」>>
もう一つの本、『完全なる再会』のカバーの帯には、「韓国文学界に突如予告なしに現れた青年作家の衝撃の中・短編集」と書かれているとおり、深い感動をもたらすものである。
本書は1991年、韓国の創作と批評社より刊行されたものの完訳である。訳者の李哲氏は、現在大阪市在住であるが、高麗大学大学院在学中、1975年、やはり国家保安法違反で逮捕され、死刑宣告を受け、88年に釈放されたのであるが、著者のキム・ハギ氏とは大田矯導所で同じ房に収容され、寝起きを共にし、釈放後も協力しあっている。
その訳者の紹介によれば、キム・ハギ氏は、1978年、釜山大学哲学科に入学、光州民衆抗争が起こった80年、戒厳令撤廃の示威のためビラをまいて逮捕された。軍の特捜部で過酷な取り調べを受けた後、軍隊へ強制徴集され、別件の捜索情報を得て、M16自動小銃と実弾数十発を手にしたまま山中に姿を隠し、1週間後に逮捕された。この時の捜索ではヘリコプターまで数機動員し、射殺の許可までおりていたという。軍法会議で10年の刑を宣告される。1982年、特別舎棟に収監され、そこではじめて長期服役囚たちに会う。訳者と同じく、88年に釈放された。
<<爆発的な売れ行きと発禁処分>>
キム・ハギ氏は、自分たちの民主化運動と一世代前の「アカ」たちがスパイ罪を被された統一運動、さらにそのまた一世代前の日本帝国主義からの武装独立運動が、ともに根を同じくする変革運動であるという認識を抱くに至る。
そして釈放直後から小説を精力的に書き始め、89年から90年の2年間に一連の短、中編の作品を発表、その一篇一篇が大きな反響を呼び、91年の2月に小説集が創作と批評社から単行本として出版されると爆発的に売れ始めた。とりわけ青年学生たちはこれを大学生の必読十大図書の中の一冊と指定したほどであったという。これにあわてた政府当局は発禁処分にするという通達を出してきたが、それにもかかわらず現在もなおステディ・セラーとして書店に並べられているという。
小説の舞台の中心は、特別舎棟=特舎という所である。ここは、転向書に署名することを拒否して生きている人たちが収容されている「究極の舎棟」である。最初に発表された短編、『生きている墓』は、そのすさまじい実態を描き出したものである。89年に発表され、第一回林秀卿統一文学賞を受賞している。
<<「生きている墓」での転向強要>>
最後にその一節を紹介しておこう。
「専担班(転向工作のための専門担当班)の教誨師である朴炯貴が45口径のリボルバー拳銃を引き抜くと、虚空に向けて空砲を撃ちながら口を開いた。」「おまえたちはこれまで転向を拒否してきた非転向囚だった。しかし今日は非転向囚から転向囚に、アカから大韓民国の国民に生まれ変わる再生の日だ。昨年の7・4共同声明以後、国民の分別のない統一騒ぎのため滅共戦線に穴があき、国が極度に混乱してしまった。わたしたちの領導者であられる朴正煕大統領閣下はこれを心配されて十月維新を断行し国をもとの軌道に戻した後、すぐに転向工作のための専担班を設置するよう命令された。南韓にいる非転向囚すら転向させられないでどうして北のイデオロギーを破ることが出来るのだ、というのがその理由だった。それで、きょう非転向囚を全員、百パーセント転向させろという公文書が下りてきたのだ。百パーセントというのは一人もぬけることなく、すべて転向させろということだ。私は面倒くさい話など好きではない。おまえたちの前にはただ二つの道しかない。転向して生きるか、転向を拒んで死ぬかの選択だけだ。」「では転向しようとする者は手を挙げてみろ。」
この後、何が続くのか、是非ご一読を。
(生駒 敬)
【出典】 アサート No.201 1994年8月15日