【投稿】地球環境問題–「持続可能な発展」をめぐって(上)
はじめに
1992年6月に開催された地球サミットは、環境優先か・開発が重要かをめぐって南北が激しく対立したが、東西冷戦終えん後の社会体制の枠組みを転換させ、地球環境の保全あるいは環境に優しい社会経済構造を具体的に実現するための制度的、資金的、組織的なルールを敷く歴史的出発点になったと言えるであろう。
今回の地球サミットのテーマ「持続可能な発展」(Sustainable Development)の概念は、今や国際社会では地球と人類の危機を打開する大切なキーワードとして世界の合言葉となった感がある。「持続可能な発展」を知らずに、又それを無視しては、もはや今日の人類と世界の問題を論じることができないと言った状況である。
「Sustainable Development」の日本語は、「持続的開発」「持続可能的な開発」「永続可能な開発」「持続可能な発展」「永続的な発展」「永続可能な発展」などさまざまに訳されている。言葉に対する訳者の語感に左右される場合もあるが、基本的には翻訳者と論者の政治的、経済的立場によって訳語が決めらているようだが、「持続的開発」の訳語などは、政府・財界が「持続的な経済の安定成長」と同義に受け取れる様にした極めて意図的な訳語と解釈できる。
英語の「Development」は、本来もっと包括的な経済社会の発展とか福祉の向上とかの問題など様々な問題が包含された言葉であり、それはまさしく人類の「発展」のありかたと深く関係した内容を持った言葉である。この為、これまで余り意識しないで「持続的開発」等の訳語を使用してきたが、今回から一応「持続的可能な開発」と言う訳語を使用することにする。
<「持続可能な発展」の概念の沿革(歴史)>
各国の公害問題が大きく社会問題化した時代の中で1972年は、地球環境問題が世界の重大課題としてクローズアップした年であった。ローマクラブが、「成長の限界」と題する報告書を発表し、人類が追求してきた経済成長に警告を発し、このままの成長や人口増加を続ければ地球資源は枯渇し、人類を育む生態系は完全に破壊されるであろうと述べたのである。
同年6月には、ストックホルムで国連主催の「人間環境会議」が初めて開催され、先進国と発展途上国の意見の対立を残しながらも、人類が運命を共有する基盤としての地球生態系の保全の重要性が共通の認識となり、「宇宙船地球号」という言葉が語られるようになった。
その後、「南」「北」の双方が直面する難問を解決し、人類の新しい方向を模索する中で「持続可能な発展」と言う概念が形成されてきたと思われる。「持続可能な発展」という言葉を誰が最初に使いはじめたか定かではないが、国連関係機関の間では1977、8年頃から使用されるようになり、1980年に国際世界自然保護連合が提唱した「世界自然資源保全戦略」の中に同じ様な考え方が含まれている。
しかし、より明確な理念を持って、初めて「持続可能な開発」という表現を使って環境破壊の深刻さを問題提起し、環境と発展に共通の理念を定着させ、その実現のための政策体系を構築することが急務であることを、各国政府に印象づけることに成功したのは、国連の「環境と開発に関する世界委員会」(1984年、日本の提唱により、ノルウェー首相ブルントタントを委員長として発足した賢人会議で、通称ブルントラント委員会)が、1987年に提出した「我らの共有の未来」と題する報告書(通称ブルントラント報告)の中であった。
報告書は、地球的規模で進行しつつある環境破壊に対処し、人類社会の持続的な発展を保証するために、各国の政府と国民に対して「持続可能な発展」を国の政策及び国際協力の最優先目標としなければならないと訴えた。この報告は国連で採択され、大きな反響を呼んだ。
そして、1988年6月のカナダのトロントで開催された先進国首脳会議(サミット)では、ブルントラント報告が高く評価され、その経済宣言の中で先進国首脳は「地球上に人類が生存し続けるためには経済政策決定の全ての分野において環境上の配慮が組み入れられなければならないことを強調したブルウントラント報告に賛意を表明し、持続可能な発展の概念を支持した」。
<ブルントラント報告>
ブルントラント報告書「我らの共有の未来」では、世界経済のあり方についての考えを「エコロジー経済のための国際的公共システムの形成」に変えることによって、経済成長と環境保全を両立させることが出来、また現在世代の欲求や願望と将来世代のそれをも両立させることができるとしている。ブルントラント委員会は、地球環境保全への途を探求し、次のような結論を提示した。すなわち、 「人類は、発展を持続可能なものとする能力を有する。持続的発展とは、将来の世代が自らの欲求を充足する能力を揖なうことなく、今日の世代の欲求を満たすこととある。
持続的発展の概念には、いくつかの限界が内包されている。それらは絶対的限界ではなく、今日の科学技術の発展の状況であるとか、環境を巡る社会組織の状況、あるいは生物圏が人間活動の影響を吸収する能力といったものである。しかし、経済成長の新たな時代への道を開くために技術・社会組織を管理し、改良することは可能である。」と述べている。
<「持続可能な発展」が提起された時代背景>
ストックホルム会議が開催された1972年からブルントラント委員会で「持続可能な発展」の概念が提出された1987年では、世界的な環境保全に対する考え方が大きく変化したと言える。
この「持続可能な発展」の概念が登場した時代背景の第一は、世界の人々が、様々な経験の中から、これまでの経済成長パターンは環境破壊をかつてない規模と早さで進め、これからの経済発展の基盤自身をむしばみつつあることを認識したことある。そして、先進工業国の経験からも、経済成長の指標としてのGNPの増大は、必ずしも生活の豊かさの増加とは一致しないことが明かとなった。つまり、経済成長と環境保全とを二律背反とみるのではなく、環境保全を可能にし生活の質を高める経済発展パターンを追求することが、世界中の人々の共通の課題であることが認識されたのである。
第二は、世界経済の不均衡な発展がよりすすんだことである。とりわけ、第一の点とかかわって重要なことは、発展途上国の間での格差が拡大したことである。1960年代半ば以降、急速な工業化を達成した諸国にも、アフリカの一部などにみられるように、餓死者が大量に出るような絶対的に貧困な国も出現している。
第三は、第二の点の直接的な結果とも言えるが、発展途上国における環境問題が多様な様相を示していることである。台湾、韓国等高い経済成長率を続けている諸国・地域では、いわゆる産業公害と都市公害が、ちょうど日本の1960年代と同じように、問題化した。
それに対して、例えば、アフリカの乾燥地帯、サヘル地方からエチオピアにかけては、経済が崩壊すると共に、砂漠化や土壌の侵食が進行し、干ばつが頻発している。緑の破壊に伴う生態系の破壊に少なくとも原因の一端があることは疑う余地がない。
第四は、ストックホルム会議当時の公害発生源が主として先進工業国であったのに対して、今日、少なくとも直接的な公害発生源の主体は、工業化を進める発展途上国と社会主義国に移行したかのようである。これは、エレクトロニクスと中心に情報・通信技術が発達するのに伴って、産業構造の大きな変化、すなわち、いわゆる情報化・ソフト化・ハイテク産業化が先進国を中心に進んだことにも規定されている。
第五に、経済のグローバリゼーションがすすみ、世界経済の相互依存が強まったことである。このことが、これまで述べてきたことを規定しつつ進行させたと言ってよい。世界は一つに統合されつつあると言える。 (以下次号) (名古屋Y)
【出典】 青年の旗 No.183 1993年1月15日