【投稿】地球環境問題〉「持続可能な発展」をめぐって(下)

【投稿】地球環境問題〉「持続可能な発展」をめぐって(下)

<政府・財界の「持続可能な発展】のとらえ方>
「持続可能な発展」の概念に照らしてみる時、日本の政府と財界がこれまで追求してきた日本の進路と経済成長の方向は非持続可能な発展の道であったし、「持続可能な発展」に対する理解は極めて歪曲された内容となっている。
まず第一は、「Sustainable Development」の訳語を経済界は好んで「持続的開発」や「持続可能な開発」と訳して使用し、「開発」の持続性と経済成長の持続性に目的と力点をおき、「Sustainable Development」の概念の核である持続可能な生態系の保護という最も中心的な目標と視点を欠落させていることである。
1990年4月に経団連環境部会がまとめた「地球環境問題に対する基本的見解」の報告書のなかで、「持続的な経済成長と環境保全を両立させる方策の推進」として、エネルギーの安定供給、経済成長、環境保全の三要素を調和させ、持続的な経済成長と環境保全を両立させる観点から推進する主旨を述べている。
第二は、過去の非持続可能な姿勢のために引き起こされた深刻な日本の公害被害と自然環境の破壊や社会の歪みや過密、過疎にもとづく貧富の拡大や官僚主義、企業主義の弊害に対して十分な反省がみられない点である。過去の日本が進んできた経済成長は公害被害の犠牲の上に成り立ち、かつ日本の生態系と自然の破壊の上に成り立ってきた。
また戦後アメリカから導入された大量生産、大量消費の経済構造は日本の消費者の生活、文化を激変させた。企業利益の追求を目的とする大量生産、大量消費、大量破棄の経済構造は異常な広告と宣伝、モデルチェンジ、使い捨て商品の氾濫となり、その結果、人間の質素で基本的な生活要求である衣食住の資質向上はなおざりにされ、不要不急な消費物資や過剰な消費物資は資源の無駄使いとなり、発展途上国の熱帯林等の消失の原因となり、環境問題にも大きな原因を作った。市民と労働者は企業の宣伝に振り回され、車社会で交通事故の死傷者となり、長時間労働、過労ストレスを余儀なくされ、ひどいときは人間自身が使い捨てとなる事態が発生した。このように人間の基本的なニーズを大切にするのではなく、過剰な欲求を刺激し、そこで利潤を追求しようとするこれまでの社会は決して「持続可能な発展」の遣とは言えない。
最近の政府・財界の動きは、地球環境保全抜きには決して「持続可能な発展」を達成することが不可能であることが益々明らかになる中で環境保全への取り組みを開始してはいるが、資本の論理の域を出ることができないでいるのが現実である。

<「持続可能な発展lの本質とエンゲルスの自然観>
ここで、エンゲルスが自然と人間の関係について「猿が人間になるについての労働の役割」の中で明確に述べているので少し長くなるが引用する。
「要するに、動物は外部の自然を利用するだけであって、たんに彼がそこにいあわせることで自然のなかに変化を生じさせているだけなのである。人間は自分がおこす変化によって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配する。そしてこれが人間を人間以外の動物から分かつ最後の本質的な区別であって、この区別を生みだすものはまたもや労働なのである。
しかし、われわれは、われわれ人間が自然にたいしてかちえた勝利にあまり得意になりすぎることはやめよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐する。なるほど、どの勝利もはじめはわれわれの予期したとおりの結果をもたらす。しかし二次的、三次的には、それはまったく違った、予想もしたかった作用を生じ、それらは往々にして最初の結果そのものをも帳消しにしてしまうことさえある。メソポタミア、ギリシア、小アジアその他の国々で耕地を得るために森林を根こそぎ引き抜いてしまった人々は、そうすることで水分の集中し貯えられる場所をも森林といっしょにそこから奪いさることによって、それらの国々の今日の荒廃の土台を自分たちが築いていたのだとは夢想もしなかった。アルプス地方のイタリア人たちは、北側の山腹ではあれほど大切に保護されていたモミの森林を南側の山腹で伐りつくしてしまったとき、それによって自分たちの地域でのアルペン牧牛業を根だやしにしてしまったことには気づかなかった。
またそれによって一年の大半をつうじて自分たちの山の泉が滑れ、雨期にはそれだけ猛威をました洪水が平地に氾濫するようになろうとは、なおさら気がつかなかった。ヨーロッパにジャガイモをひろめた人々は、この澱粉質の塊茎と同時に腺病をも自分たちがひろめているのだとは知らなかった。こうしてわれわれは、一歩すすむたびごとに次のことを思いしらされるのである。すなわち、われわれが自然を支配するのは、ある征服者がよそのある民族を支配するとか、なにか自然の外にあるものが自然を支配するといったぐあいに支配するのではなく、--そうではなくてわれわれは、肉と血と脳髄ごとことごとく自然のものであり、自然のただなかにあるのだということ、そして自然にたいするわれわれの支配はすべて、他のあらゆる被遣物にもましてわれわれが自然の法則を認識し、それらの法則を正しく通用しうるという点にあるのだ、ということである。
そして実際にわれわれは日ごとに自然の法則をいっそう正しく理解し、自然の昔ながらの歩みにわれわれが干渉することから起こる直接間接のの影響を認識してゆくことをまなびつつある。ことに今世紀にはいって自然科学が長足の進歩をとげてからというものは、われわれはしだいに、すくなくともわれわれの最も日常的な生産行動については、その比較的速い自然的影響をも知ってこれを支配することをまなびとりうる立場になってきている。しかしそうなればなるほど、人間はますますまたもや自分が自然と一体であるということを感じるばかりか知るようにもなるであろう---」(マルクス=エンゲルス8巻選集)
人類が地球の生態系とともにその持続的存在を確保しようとすれば、根源的に地球を支えている生命維持装置と生態系の枠組みを離れ、根源的な自然の法則からはみ出すことは絶対にできない。その意味で「持続性」は自然と人間の進化の歴史であり、その進化をもたらす仕組み、すなわち生命圏の生産と再生産の仕組みを維持してこそはじめて「持続可能性」が保証されるのである。

<「持続可能な発展」論の課題>
「持続可能な発展」論は、原初的な物理的・生物学的持続可能性の論理から、今や、より広い社会経済システムとしての成長・発展や社会福祉、公平性の問題それも地球規模での環境ひいては人類社会の持続可能性にまで視野が広がってきている。そこで、今後グローパルな意味での「持続的な発展」概念の確立、具体的通用に当たっては、主として次のような7点が課題と考えられる。
① 公平性の概念の明確化、特に世代間の公平性とは何を意味するか。 ② 世代間の公平性が明らかになったとして、将来の世代のために残すべき環境資源の質や量は誰がどのように判定するのか-つまり、資源の評価主体及び評価基準の問題。
③ 現在の世代のためにも将来の世代にとっても人口増加の抑制が望ましいとして、望ましい人口水準とは何か。また、効果的な人口抑制策とは。
④ 個人、企業レベルと社会、国家、地球レベルでの短期一長期の時間的スケールの違いをどのように調整するか。
⑤ エコシステムの多様性の維持とは何を意味するのか。種の絶滅は絶対に許されないのか、ある程度までは柔軟性を認めるのか。ある程度とはどの程度か。
⑥ あらゆる政策決定が避けるべき基準としての「回復不可能な環境の変化」とは何か。
⑦ 技術革新による資源利用の効率化や生産構造の変化をどこまで予測し、持続的開発のシナリオの中に織り込むことができるか。
これらの論点を通じて不可欠になるのが、環境資源のストックやフローの測定評価の問題であり、資源の最適配分を決めるに当たって国際経済の果たす役割が重要になってきている。まさに資源・環境経済学の分野における今後一層の発展が期待される由縁である。
人類は生存のための経済活動として、自然から資源をとり、それをリサイクルしながらも、最終的には同量のものを廃棄物として自然に戻す。自然からの資源採取は、自然の能力を超えたり、自然の再生カを損なったりしてはならないのである。環境破壊はこうした物質循環のバランスを人類が大きく崩しているところから生じている。自然とその物質収支を正しくするエコロジー基準が、全ての経済活動の前提とならねばならない時代になったのである。政府・財界が言うように「持続的な経済成長と環境保全を両立させる」視点ではもはや「持続可能な発展」を地球は補償しないのである。地球サミットが果たし得なかったエコロジー経済のための国際的公共システムの形成と、そのもとでの新たな市場システムヘの転換という課題の重荷を、全ての国家、そして人類が背負っていかなくてはならない時代に我々は直面しているのである。
(名古屋 Y)

【出典】 青年の旗 No.186 1993年4月15日

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