【投稿】歴史認識と戦後補償問題
—今こそ歴史認識を改めるとき—
細川総理大臣が就任後の記者会見で「太平洋戦争は侵略戦争」との発言を行うやいなや、各方面から反発の声があがった。そうした意見は「戦死者が浮かばれない」という、死者を隠れ蓑にした論調が主なものだった。正々堂々と「大東亜戦争は聖戦である」と言えないところが、かえって後ろめたさを浮き上がらせる結果となって、戦後48年の現在において、二重に戦死者を冒頭し、自己弁護に汲々とする醜態が演じられたのだ。
もう少し、ずる賢い人間は「あれは欧米の植民地支配に対するやむにやまれぬ戦い」とか「欧米もアジアを侵略していた」と主張する。こうした主張は、ある強盗犯が、他にも強盗犯がいるという事実をもって、己の無罪を主張するがごとき破廉恥なものであるが、それが戦争で指導的立場にあった人のみならず、世代や党派を越えて唱えられる現状は、誠に憂慮すべきものがある。そもそも、日本人の戦争に対する認識は、少なくとも日中戦争以降の15年間も連続的に捉えるべきであるとの提言が、過去幾度と.なくなされ、日中戦争は侵略戦争であったとのコンセンサスはほほできた。しかしそれ以降の認識は、実際は東南アジア・太平洋戦線における米・英軍との聞い、本土空袈、対ソ戦-シベリア抑留、という断片=被害者としての記憶しか、共有できていないのではないか。
ひょっとすると、沖縄戦はもちろん、ヒロシマ・ナガサキでさえ、地域的、特殊な記憶でしかなかったのではないか、ましてやアジアにおける残虐行為など、個人の封印された記憶でしかなく、朝鮮に対する支配は、現在の民族差別を見るとき忘却の彼方の出来事なのではないだろうか。
この様な認識を放置してきた責任は、戦犯を指導者に戴いた保守政治のみならず、日本人の被害者としての厭戦意識に依拠した平和運動にも少なからず存在する。原水禁運動は70年代後半から朝鮮人被爆者問題などで、その事を指摘してきたが、それでも戦後四半世紀経過していた。その後も、問題の所在は明らかであったにも係わらず、それが平和運動のなかで正面から取り上げられることはなかった。状況が変わっていったのは、やはり冷戦体制の崩壊からであり、国内では55年体制の解体が拍車を掛けた。それ以前は自民党が主体的に取り組むはずもなく、社会党も一般論としては主張するけれども、総括を置き去りにした論議であった。
こうした状況のなかで、当事者たちが声を挙げてはじめて運動が広がってきたのである。マスコミが映し出す当事者は全てが高齢者であり、戦争に起因する障害を持った人も少なくない。大島渚監督が「忘れられた皇軍」を作成してから、三十年が経過し、その主役達が再びブラウン管に映し出された。さらにアジア各地で、様々な戦後補償要求が起こってきている。
細川首相は先の韓国訪問の際にも、日本の具体的蛮行に言及し、謝罪を行なった。細川首相は近衛文麿と良く比較されるけれども、本人にしてみれば敗戦直後自決した近衛と対照的に、まんまと生き延びて、戦後の支配層を形成した戦犯に連なる人々に対する遠慮などないのだろう。ともかく、日本の総理がそうした発言を行い、日本人にショックを与えたことは大きな成果であると言える。今後は国内、国外の運動の要求を踏まえ、日本とアジアの共同作業として、共通の歴史認識を創るとともに、最も適切な施策を行なっていくことが必要とされている。
(大阪 O)
【出典】 青年の旗 No.192 1993年11月15日