【書評】『食人宴席 抹殺された中国現代史』
鄭義(ツェンイー)著、93.11.25発行、 光文社カツパブックス、820円
<広西事件のニュールンベルク裁判を!>
「食入宴席」という書名を見ただけでは、いったい何が書かれているのか定かではないし、「食人」といっても何かの例えなのだろうという印象を受ける。ところがこれは、文字通り人間を殴り殺し、人肉を切り刻んで煮たり、焼いたり、炒めたり、揚げたりして人肉宴会を行っていたという驚くべき事実の告発である。しかもこの地獄図絵は、ある特異な性格のごく一部の発作的で突発的な事件であったり、あるいは飢餓的な極限的な状況で起きた事件ではない。毛沢東指導下の1960年代後半の文化大革命期に、権力組織を行使して、実に広範囲な規模で、多数の群衆を動員して繰り返し行われた<人肉宴会>なのである。
これを読み進んでいくと、思わず気分が悪くなるほどの内容である。著者の鄭義は、1987年東京国際映画祭でグランプリを獲得した中国映画「古井戸」の原作者である。中国民衆の厳しい現実を見つめる目は鋭く、なおかつ暖かい。その著者が危険をかえりみず、このおそるべき犯罪行為を現地で実地に調査し、多くの被害者やその家族、加害者にまで面接調査して、白日のもとにさらけ出したのは、これが「プロレタリア独裁理論で武装され、国家各レベルの党、政策、そして権力側芽の黙認のもとで、直接的に計画された組織的な暴行事件である」ということ、その上こうした「文革当時、人間を殺害し、人間を食った黒幕達は、まだ法律上の制裁を受けていない」という現実にもとずいている。著者は中国のみならず、世界の世論に訴えている。「私は絶対、信じる。近い将来のある日、全人類がこのファシズム的犯罪行為を告発するに違いない。共産党という一党独裁政権のもとで、われわれは広西事件のニュールンベルク裁判を行うことができなくても、ある日、人民はかならず、このような犯罪行為に対するニュールンベルク裁判で道徳的清算を行うに違いない。」
<<人肉を食へて出世>>
事件の一端が明らかになったのは、中国・広西省武宣県である。ここだけで「殺され、迫害によって死んだ人間は524人、その内、食われた者は百数十人。武宣県の食人者は推定1万~2万人にのぼる」。ここでは上からの犠牲者割り当てに応じて、走資派や実権派をデツチ上げ、「まず批判闘争宣言があり、糾弾集会を行い、その後、人間を殺して、生きているままに人肉を削ぎ、生きている人間が絶命すると、人間の心臓、肝臓、胆嚢、腎臓、胸肉、骨髄、太もも、足、筋、・・人間の骨肉を切り取り、削ぎ取って、それを煮たり、揚げたり、炒めたり、そして酒にゆっくりと漬けたりして、さまざまな調理方法で、豊かな献立にしたのである。また<人肉宴会>では酒を飲み、杯を交わし、論功行賞をした。」、「こうして食人の嵐がうずを巻き、集会があるごとに闘争があり、闘争があるごとに死者が出て、死者が出れば、かならず食われ、惨劇が繰り広げられたのだ」。
例えば、1968年7月1目、武宣県の桐嶺中学副校長・黄氏は同中学の教室で開かれた批判糾弾大会に引きずり出され、棍棒で殴り殺され、生徒から教師達までが副校長の人肉を切り取って、大々的に食べられた。頭は殴られ、真っ黒にはれ上がり、大腿骨とすね、そして手の肉は全部、切り取られ、肝、心臓、性器もすべてとられ、胸部は空っぼで、はらわたも流れ出していた。そして学校の食堂や廊下、区役所の炊事場で、教員宿舎や女子学生宿舎で人肉を煮たり、焼いたりして人肉料理の宴会が行われたのである。
女子民兵・王文留は、「人肉を食べたことによって、共産党から認められ、だんだんと地位が上がり、最終的には武宣県革命委員会の副主任になった。彼らは人殺しから出世しただけではなくて、人間を食って出世した」のである。
<<寛大な収拾策と居座る幹部>>
毛沢東死後、文革は収拾されていったが、このような犯罪者に対する措置はきわめて寛大なもので、多くの食人事件は、確実な証拠を上げることが出来なかったとしたり、これまで犯罪行為を認めていた者が次々と否認に転じたり、逆に「毛主席もこういう話をしたのではないか。われわれが彼らを殺さなければ、逆に、彼らはわれわれを殺す。彼らが死ぬか、私が生きるかというのが階級闘争である」として正当化さえ行われた。また食人事件を画策した人々が現在なお、何ら問われることなく居座っている。広西省党委員会書記であり、広西事件の最大の元凶である韋国清は、後日、人民解放軍総政治部主任に栄転し、彼は「なぜ、人間を食べた人間は、続けて幹部であることはできないのか」と反論したという。
現在の中国では、毛沢東生誕百年でふたたび毛沢東ブームがあおられているという。功罪あわせ持つというが、功の方はこれまで幾度も称揚されてきたが、罪の方はいっこうに明確にされてはこなかったし、ブームがあおられるときはきまって罪がまさっている。功とは、多様な存在を認める統一戦線、人民戦線の思想、人民連帯、人類愛の思想であり、罪とは、個人崇拝、独裁権力、セクト主義と内ゲバの思想であり、つまるところは抹殺と食入思想に行きつくものである。罪がまさることのないよう、この著者の問いかけを受け止めるべきではないだろうか。
(生駒 敬)
【出典】 青年の旗 No.193 1993年12月25日