【追悼】追悼 小野義彦先生

【追悼】追悼 小野義彦先生

さる90年11月19日 小野義彦先生が亡くなられた。突然の吐血による入院以来10日間の看護も虚しく、帰らぬ人となった。
生前には、毎年我々の春の合宿においでいただき、卓越した政治経済分析を講義いただき、労働運動や民主運動に関わる若輩の我々に大きな運動の指針を与えて頂きました。
近年はゴルバチョフのペレストロイカに触発され、社会主義運動の反省の色濃い、先生にとっては長年言えなかった事柄を堰を切ったように話されたことをつい昨日のように思いだします。
突然の死が訪れるまで、岐阜経済大学の教員として、また、「知識と労働」誌の編集者として現役の人でありました。書斎の机には赤鉛筆で真っ赤に書き込まれた新聞が残り、整理未了の執筆書類も残されました。昨年の春の合宿では、特にドイツの統一について非常に心配されるとともに、自分自身でもこれまでの社会主義をどのように考えるべきなのか、また今後どうあるべきなのか、若い諸君とともに真剣に追求して行きたいと言われていたのが印象に残っています。

先生の敗戦直後までの運動経験は、「昭和史を生きて」の中で詳しく記されています。戦後は日本共産党の赤旗編集局勤務を経て、京浜地方の労働運動に深く関わられ、その後50年代後半から60年代を通じて、日本の革新陣営全体に巨大な影響を与えた日本資本主義をめぐる論争においては、一方の旗頭として、詳細を極めた論証と説得力あふれる論文を数多く発表されました。それらは、1963年の「戦後日本資本主義論」、「金融寡頭制の確立」、1968年の「戦前と戦時の国家独占資本主義」、1976年の「近代日本資本主義の危機」など数多くの著作にまとめられ、現在においては、もはや疑いの余地なく、先生の理論的正しさが実証され、現時点においてもその理論的核心は生き生きと輝いています。
大阪市立大学の教員になられて以降、大阪・関西の労働運動・学生運動に大きな影響力を形成され、民主主義学生同盟の「生みの親、育ての親」として数多くの活動家を育てられました。東京・関東をはじめ全国で、様々な戦線で小野先生に御指導をいただいた同志達が現在も現役として第一線で活動しています。
70年代以降は「知識と労働」誌を舞台として、政治経済の分析と運動の統一を常に追求されました。また日ソ極東学術シンポジュウムの組織化と定期開催に尽力され、さらには国際太平洋学会の会員として、シベリア、メキシコ、アメリカ、韓国などを駆けめぐり、ソ連、アメリカをはじめ、世界の多くの科学者との交流を通じて、世界の平和と科学の発展、地球環境保護のためになみなみならぬ努力をされてきました。
余りに突然の死。60年以上に渡って進歩と革新の運動に参加された先生の遺志を、その思想を胸に焼付け、労働青年同盟全国協議会に結集する我々は、平和と反独占民主主義、諸運動の統一のために前進することを誓うものです。

【出典】 青年の旗 No.160 1991年2月15日

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