【投稿】自滅クーデターの提起したもの
<平和の布告から七四年>
「もし、なんらかの民族がある国家の境界内に強制的に引き留められているなら、もしこの民族が希望を表明しているにもかかわらず、その希望が印刷物で表明されていようと、あるいは人民集会で、あるいは政党の決定で表明されていようと、あるいは民族的抑圧に反対する憤激やほう起のうちに表明されていようと、同じことである、この民族に対して、合併する側の民族、一般により強力な民族の軍隊が完全に撤退したうえで、この民族の国家的存立の形態の問題をいささかの強制なしに自由な投票によって解決する権利がこの民族に与えられていないなら、そういう合併は併合であり、すなわち略奪であり暴行である。」
これは、一九一七年十一月八日夕刻、全ロシア・ソビエト大会の壇上から、民衆の熱狂的な歓呼と拍手の中でレーニンが自ら起草し、報告した革命権力の最初の布告、平和の布告の一節である。同じ日、レーニンは第二の布告、「農民に土地を!」という土地に関する布告を報告し、「農民自身に全問題を解決させるがよい、彼ら自身に自分の生活を建設させるがよい」と断言した。「平和、土地、パンを!」を掲げて、「世界を震撼させた十日間」のあのロシア革命が提起した課題が、ソビエト権力七四年後の今日、自らの危機の爆発の中で問い直され、レーニン像が撤去され、レニングラードがペテルグラードに戻り、共産党の解体によってようやく実現への道に踏み出すというのは、何という歴史の皮肉であろうか。ヒトラーとスターリンの密約によって、まさに暴力的に「併合」されたバルト三国の独立が、クーデター後に新設されたソ連国家評議会の決定によって承認された。ゴルバチョフ大統領と一〇共和国指導者の声明は、「その意思のある共和国は主権を持った国家による連邦条約を準備し、調印する。この条約では、個別の国家は連邦への参加形態を自主的に決定できる」として、「平和の布告」の精神が七四年を経過して初めてよみがえったのである。
<マルクス主義と民主主義>
ジョン・リード描く感動と希望の十日間に対して、「八月革命」というにはあまりにもあっけないクーデターの三日間ではあったが、平和と進歩、社会主義を目指してきた勢力にとっては、これまでにもましていくつもの重要な問題が投げかけられているのではないだろうか。
その第一は、やはり民主主義の評価にかかわる問題である。左翼勢力がえてして軽視し、社会主義に比べて次元の低いものとし侮蔑してきたあの民主主義である。現実の社会主義の経験の危機と破産は、社会主義を社会の全面的な民主主義化の過程として考えること、民主主義の徹底こそが社会主義であるという思想の重要性をあらためて提起したと言えよう。それはまたマルクス主義の三つの源泉の問題でもある。マルクス主義こそが、人類的な科学的遺産と成果を継承し、それをよりいっそう発展させる創造的な科学でなければならなかったのである。民主主義をめぐる形式主義的理解、多数決原理や単純な支配形態論、法治国家や三権分立に対置されたプロ独裁論、これらはマルクス主義の創造的発展とは無縁なものであったといえよう。現実の歴史は、社会の全領域における民主主義の徹底的な発展と保障、その質的な内容の豊富化と大衆化というものが、国家権力や社会の民主化、生産関係の変革、したがってまた生産力の発展、さらには人類的課題の解決と直接的に結びついており、密接不可分の関係にあることを示したのである。
<虚構の崩壊>
現実の社会主義の虚構を崩壊させたものは、新しい民主主義的発展の可能性を幾度となく押し潰してきた閉鎖的でセクト的な唯一絶対の指導党・前衛党思想であり、それと結びついた党・国家官僚による社会生活の治安国家的傾向である。もう一つあえて言えば、市場経済の廃止であり、社会主義を市場と切り離すことによって、計画経済のよって立つ基盤を掘り崩し、市場を通じた民主主義の貫徹を圧殺したことである。一言で言えば、民主主義の欠如である。それを克服する機会は幾度となくあった。レーニンのネップへの政策転換がそれであり、一九三五年のコミンテルンの統一戦線政策への転換、社会主義への多様な道を提起したソ連共産党第二〇回大会、トリアッティと社会主義へのイタリアの道、プラハの春と人間の顔をした社会主義、等々、これらをことごとくブルジョア民主主義への屈服として否定してきたのが現実の社会主義であった。
<ペレストロイカの果たした役割>
ゴルバチョフによって提起されたペレストロイカは、その意味では社会主義の民主主義的再生への挑戦であるともいえよう。「レーニン以後、最大の誤り」などといった共産党宮本議長らの主張とは反対に、レーニン以後はじめて真の共産主義者が登場してきたのではないかというのが実感であった。しかし七〇有余年にわたって蓄積されてきた反民主主義的悪弊とそれを支えてきた勢力は、けっしてあなどれるものではないことを今回のクーデターは示したし、今後も示すであろう。幸か不幸かゴルバチョフ自身がそれとの苦闘に明け暮れていたのである。エリツィンが「大統領は、改革を首尾一貫して行わず、党官僚の攻撃の前にしばしば降伏した。彼がヤナーエフやクリュチコフ、ブーゴ、ヤゾフらの正体を知らなかったとは思わない。今、われわれは彼に不満をぶつける権利がある。クーデター後、ロシアはすっかり変わり、彼も別人になった。多くのことを評価し直せるようになった。私は、クーデター以前よりもずっと大統領を信じている」と発言しているのは事実であろう。一方、シェワルナゼが「ゴルバチョフはクーデター派のとりこだった。しかし戻ってきて記者会見したときもまだとりこだった。右に左にゆれる傾向、人を見る目のなさ、民主勢力に対する信頼のなさ、等々によって暴徒を育ててしまった」と不信をあらわにしているが、クーデター派に屈服しなかったことは事実であり、そのことの意味は極めて大きく、その後の一連の改革過程でゴルバチョフが果している役割は過小評価できないであろう。ましてやクーデターは、八五年に彼が登場して以来、社会の民主化を大きく前進させたペレストロイカによってついえ去ったのである。
<カオスからの脱出の道>
クーデター派は、ある意味では壊滅的な打撃を受けたであろうが、事態はそう楽観しえないのではないだろうか。レーニンがたびたび厳しく指摘してきた大ロシア民族主義が再び頭を持上げてきており、極右極左の民族主義が跳梁し、民族間紛争の火種は以前にもまして拡大さえしている。不足経済と国家独占的企業体制のもとで私利私欲を肥してきた膨大な党官僚や国家官僚は、市場経済化を生死をかけた最後の機会として国有財産の私的略奪、私的企業支配、マフィア的市場支配へと動めいており、経済的混乱の拡大を最大の利益としている。いわばクーデターや反動的政権転覆の温床はつきないほど広範に存在しているといえよう。それにもかかわらず、このカオス的状況からの脱出の道は、権威主義的、権力主義的解決によってはけっして開かれるものではなく、全面的な公開制と民主主義的な改革に基づく全民主勢力の結集によってしか切り開かれないであろう。そしてこれに対する国際的な政治的経済的な支援と連帯は、相互依存的な国際社会の平和的民主的発展にとっても不可欠の緊急の課題となっているのではないだろうか。
(生駒 敬)
【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日