二つの学生運動の書物について (「知識と労働」第2号)

二つの学生運動の書物について (1971年5月)

「知識と労働」第2号

「知識と労働」第2号 1971年5月

現代政治研究会編『70年代と階級闘争』『大学の民主的変革のために』批判
                (生駒 敬)

 「現代政治研究会」の名の下に最近出板されている表題の二つの書物は、学生運動の中で一定の影響力をもち、とくに「学生共闘」に属する学生たちにつよい政治的思想的影響を与えているように思われる。 同時にこの書物は、そこに参加しているまじめで積極的な学生活動家たちを、 彼らの戦闘性とその主観的善意にもかかわらず、 一連のはね上った行動や大衆的学生運動の分製行動へとみちびくかそれを含んでいるようにも思われるので、学生運動の統一、大衆性の回復をねがう見地から一、この二つの本に含まれている誤まった思想と政策について若千の検討をしていきたい。

 この二つの単行本に表明されている立場をひとことで評するとすれば、それは”左翼小児病”というほかない。 われわれは、以下にこの二つの単行本に表明されている重大な弱点について指摘することとするが、それは、これらの本が運動の前進に有害な影響をあたえないようにと願ってのことにほかならない。
 著者らの主張は実に多くの矛盾に満ちている。 しぱしば多くの原則的な正しい立場の表明とならんで、それとは無関係に理論的にきわめてあいまいな見解が展開されている。 そして重要なことは、実践の場ではこのあとの面の影響がもっともつよくあらわれているのである。 まず『七〇年代と階級聞争』から、その中心的な主張ともいうべき「攻撃的聞争」の理論と、ついで両書の述べる実践的結論について問題にしてみよう。

『七〇年代と階級闘争』

 著者らがもっとも強調しているのは、 「一部の旧構造改革派のトロッキー主義へのとめどなき屈服」を念頭においた「構造改革派の戦闘的再生」ということのようである(271P)。
 そして、「60年代当初の”構改派”の水準を乗りこえる」”戦闘的再生”のかなめが、「攻撃的闘争」の理論だという。 すなわち、この「攻撃的闘争」とは、「力関係の上向的転換″=下層の危機”」によって「支配の外被(″同意の機構” )を取り払い」、ついで「新たな対峙線に向け、より一層熾烈に」「不断の緊張関係を創り出し」、このことによって「″下層の危機″の″上層の危機〃への転化の回路を登りつめること」だと主張している。 (281P)
 この本の第三編「70年代世界と日本の階級闘争の展望」は、70年代闘争勝利の条件を結論づけて、次のように述べている。 それは第1に、「全機構的・重層的闘争を闘い抜くことであり、このことによって力関係の上向的転換から、真の政治的危機に至る展望を登りつめることだ」という。第2に、全機構的・重層的闘いといっても「代々木派とは決定的に異り、絶えざる緊張関係へと導きうる環」に向けていくことであり、第3には、従って「攻撃的闘いを組み上げていくこと」であり、最後に「終局的には”実例の力”によって、多少とも影響をもちうる典型的な聞いを構築して、統一戦線を打ち固める」ことだという。 せんじつめれぱ以上がこの本の結論である。
 このことを理論づけるために著者たちは、″戦闘的再生”の見地からレーニンをも批判の対象とする。 著者らは、客観的条件のないところに革命は起りえないとしたレーニンの見解にたいして、客観的条件を待つのは「危機待望論」であるとする的外れの批判を行ない、今日資本主義の全般的危機の第三段階では危機=革命的危機はつねに成熱しているのだからすべての問題は「下層の危機」を「上層の危機」に発展させる「主体の形成」にあるとする機械的な観念論=はね上り論を対置する。著者らは「政治危機形成についてのレーニンの見解の若干の検討」と題して(278P)、「われわれの革命は″危機待望論”ではない。 そうである以上、全国民的政治危機をわれわれが能動的に形成しうるということ、 この点こそ重要なポイントである」と主張している。 それにつづいて、レーニンの著書『”左翼″小児病』を引用してつぎのようにいう。「レーニンは・・・革命は、全国民的な(被搾取者:=下層、搾取者=上層をまきこむ)危機なしには起りえない、と述べている。 ・・・しかし、あえていうならば、彼は″下層”と”上層”の二つの危機がいかなる相互関係にあるのか(あるいはその逆)について、十分に述べていない。・・・あるいは、レーニンはその相互関係を明らかにしうる条件をもたなかったといえば、より正確であるかも知れない。・・・いずれにせよレーニン的段階にあっては″上層の危機〟が”下層の危機″を引き起こす、 という形で事実上理解されていたことは、ほぼ明白ではないかと思われる」と。
 著者らが「・・・かもしれない」とか「・・・と思われる」などとあいまいな言い方をしているのは、著者らがレーニン批判に自信のなさを表わしているのかもしれないが、いずれにせよ、これが著者らの「レーニンの見解の若干の検討」の内容である。そして彼らはレーニンを乗りこえ、「政府危機一政治危機を能動的につくりだしていく攻撃的闘争」なるものを極力強調するのである。
 ところでレーニン自身は、著者らが引用している当の『”左翼″小児病』のなかで、このような見解、 ーコミンテルン第二回大会に反映され、ひきつづき第三回大会でもあらわれ、ドイツ革命運動では決定的に有害な役割を果たした、このような見解ー「攻勢的闘争の理論」と闘ったのではないのか。現代政治研究会のこのような「攻撃的闘争」の理論は、別に新説ではない。 かなり古いことだが、第一次大戦後のドイツ共産主義連動のなかでもそれと瓜二つの主張がなされたことがある。
 1921年にドイツ統一共産党中央委員会は、ドイツ社会民主党、ドイツ共産主義労働者党、その他すべての労働組合団体にあてて、 「資本の攻勢に反対して共同闘争を行なおう」という「公開状」を発したとき、同党内の「左派」がまったく同様の「攻勢的闘争の理論」をもって中央委員会に対立していたからである。 この「左派」は、コミンテルン第三回大会で、右の「公開状」のなかにある「多数者」、「大衆」という言集を削除する提案を行ない、「革命的攻勢の線を堅持してゆく」こと、「攻勢的行動は、たとえそれが敗北に終ろうとも、未来の勝利の前提条件であり、革命党が大衆を獲得するための唯一の可能な手段である」と主張し、「ダイナミックな傾向」とか「受動性から能動性への移行」こそが重要である、などと揚言していた。
 レー ニンはこれにたいし、ドイツ共産党中央委員会の「公開状」は、 労働者階級の多数者を引き寄せる実践的措置の最初の行為として模範的なものであると高く評価し、 同時に同党内左派の「攻勢的闘争の理論」にたいしては、攻勢一般の問題が論争を呼びおこすことはありえないし、これについてくどく言ってていることは恥であり、、恥さらしである、「ダイナミックな傾向 」とか「受動性から能動性への移行」とかいうことは、みな空文句であって、かってエス・ エル左派がわれわれにたいしてもちいた文句であった、と厳しく批判を加えた。コミンテルン第三回大会は、「左派 」のセク ト主義的な見解、「攻勢的闘争の理論 」を断固としてしりぞけ、大衆獲得のための闘争、労働者階級の統一をめざす闘争、労働者階級の統一を作りあげ、統一戦線戦術を実際に適用する課題を決議したのであった。(レーニン全集第32巻、「コミンテルン第三回大会 」参照)
 歴史的な右の一事を知るだけでも「現代政治研究会」の「攻撃的闘争」論が、古い”左翼”小児病の新版にすぎないことがすぐ理解されよう。 だがこのような見解が今日また事新しく、大まじめに主張されているのはそれなりの理由がある。 彼らが強調しているように、わが国の左翼諸派の「トロツキー主義へのとめどなき屈服. 」は、多くの有能な人々をもまきこみ、相呼応して右翼的見解をも助長させてきたからである。 しかし、一体、こんな″攻撃的闘争″の理論による〃戦闘的再生〟によって「トロッキー主義へのとめどなき屈服」が克服できるであろうか。 冷静に考えてみるならぱ、逆に自らが「とめどなき屈服 」への道を歩みはじめていることになるのではなかろうか。
 さて、このような「攻撃的闘争 」の理論は、その実践が行なわれる具体的情勢、客観的諸条件よりも、主観的な願望や決意のみを先行させることになるのは必然である。 「自らの闘いの弱さを痛苦の思いをもって受けとめながら、 この重責をはたすために全力をあげねばならない. 」と彼らはいう。 しかし、いくら能動的闘争、攻撃的闘争を展開しようとしても、彼らの決意、願望、あせりに反して、現実はいかんともしがたい。 そのことは著者ら自身も認めざるをえない。 そこで彼らが次に提起してくるのは「主体の構築」ー意識分子の結集ーだということになる。
 著者らはいう。 -「輝ける七〇年代闘争」の任務は、「まず第1に主体を構築すること」である。「まず第一に組織的中核の建設」である。 学生運動の場合は、「まず第一に闘争委員会の結成」である。 労働運動の場合は、「まず第一に、労働組合の機関を恒常的に包囲していく職場行動委員会の結成」である。
 かれらは、一片のやましさからか、これら闘争委員会や職場行動委員会は″戦闘的”な活動家の組織ではあるが、「機関からの分離を自己目的化した少数派運動ではない」とか「何度もいうがこれは党派的組織」、セクト的組織ではない、などとくどいほど長い弁解をしている。 セクト的組織におちいるまいとする努力それ自体は大いに評価してよかろう。 しかし結論は、どのように弁解がつけられていようともやはり″わが派〟 の″主体の構築”に落着するほかないということを、 「現代政治研究会」の人びとはまじめに考えてみたのだろうか。

『大学の民主的変革のために』

 著者らのいう″主体の構築″とはいったい何かを、もう一つの単行本「大学の民主的変革のために」でみてみよう。 そこでは、新たな「層としての学生運動」の”再生”あるいは、新たな展開を要請して、次のように述へている。
「学生層は次の三つに大別される。 第一は積極的部分、第二は中間的部分、第三は政治的無関心派である。」「かかる状況のなかで勝利への環は、第一の積極的部分の不安定性を克服し、この層をもって闘いの中核部隊を形成すること、この部分の闘いの具体的展開によって、第二の中間派の右派としての自己形成をくいとめ、この闘いへの合流を勝ち取ることこそ『闘争勝利の決定的条件」である」と。 (「大学の民主的変革のために』135P)
 このような学生層の把握は、学生層を、その客観的な地位ー社会経済的なまた階級的な位置づけから問題にするのではなく、もっぱら学生層をその意識においてとらえ、意識程度を物さしにして学生層を単純に区別・分断して、何か一大発見でもしたかのように考えていることを特徴とする。このような取扱いは運動のきわめて技術主義的、図式主義的な取扱いであり、全体として反独占的階層たるべき今日の学生層を統一に向わせるのではなく、それを無限に分裂させる契機を含んでいるといわねばならない。 著者らが「闘争勝利のスローガンが意味する第一のものは、かかる長期にわたる熾烈な闘いを闘いうる強固な中核部分の構築」であると断言し(140P)、「闘う主体の形成」が「闘争勝利の決定的条件」だと揚言するとき、 この危険はいよいよ明白なものとなる。 著者らがこのように機械的な方法と勇ましい言葉のかげで一貫して無視し、考えてさえもいない重要な事実は、 全体としての今日の学生層の客観的な地位の変化、その生活の実情、広汎な学生層の現在の意識と気分などであり、まじめな運動論者であるかぎり、これらのことをまず第一に考慮に入れねぱならぬことはいうまでもないのだが、著者らはそれらをすべて無視して″左翼的”中核の結集だけを呼号しているのである。 これはまぎれもない「極左小児病」 のあらわれでなくて何であろう。
 著者らの「主体形成」、「自己形成」論は、大学闘争のなかで「教官層の自己変革」を要求する闘い、 それに対応する「学生層の自己形成」を築くことだと主張するまでになり、「サポレないところへ自分をもっていかなけれぱダメで、自己変革ということは、そういうところで、そういうふうにしてやられるものだ」(同163P)などと、あたかも戦後初期の「極左」指導者たちが、農民運動にたいし、「隠田摘発」闘争をおしつけ、権力の前に″丸裸になる″ことが権力と闘う自己変車の道だと説教して大衆運動に大損害をあたえた誤りの再版を口説いているのである。 こうした主体形成論は、自己変革の闘いという全く主観的なものに昇華するのがおちであり、しかもそれは自己をたえず「極限状態」「緊張関係」におくことによって自己変革を達成するというトロツキスト諸派、主体的唯物論者への屈服を準備することにもならざるをえない。 これを示すのが第六章「私たちにとって大学闘争とは何か」であり、そこでは「理論的にどうというより、感覚的に体制は悪いものだ、禄でもないものだし、やっつけなくてはならないんだ」という自己満足的なアナーキズムの見解が、新しい運動論の展開を自負するこの書物で憶面もなく語られているのである。
 『大学の民主的改革のために 』の「私たちにとって大学闘争とは何か」という討論では「私達「「学徒』は虐たげられる『民衆』のために、彼らの解放の道を指し示していく任務を負っているということです」(同159P)という発言もみられる。これはいったい彼らのいう”層としての学生運動の戦闘的再生” とはどんなふうに統一されるのであろうか。 これは、著者らが排撃しているトロツキスト諸派の″学生先駆性論”ープロレタリア・ ヘゲモニーの否定論ーとどこがちがうのか。 労働運動、革命運動の水先案内をかってでる小型前衛党一(小ブルジョアの)の″代行主義”ではないのか。
 学生運動の大衆的基盤は、 独占資本主義=帝国主義段階における学生層の社会的・ 経済的・ 階級的位置づけに基礎を置いた、広汎な学生大衆の利益と要求の共通性、労働者階級への接近と移行の客観的必然性にこそ、その根拠をもっているのである。’ この書物には、このもっとも重要な点の考察が一貫して欠落している。

 「現代政治研究会」の人びとは、本年二月、右の二冊の単行本に引き続いて、『層としての学生運動-その戦闘的再生のために 』というパンフレットを発行した。 そこでは、さすがに前二冊とは違って、攻撃的闘争」とか「下層の危機の上向的転換 」などのうわ言は消え去り、その他表現が多く改められている。 しかしその内容の基本的主張は何ら変ってはいない。
 そこでは、「層としての学生運動」を、一面では全く形式的に全員加盟制自治会の存在としてのみとらえ、他方では「正しい情勢分新の下に正しい方針を大胆に提起していけば、必ず日本の学生は立ち上るであろう」という全学連八中委路線(一九五六年)を「意識的指導の重要性・ 必要性」を指摘したものだと一面化することによって(同パンフ98P)、同じようにこの八中委路線をねじまげたトロツキスト諸派の″学生先駆性論” (転換論)と同じ立場に立っている。 そして「層としての学生運動の戦闘的再生の道」とは「この指導をいかに貫徹していくべきか、という問題にほかならない」と割切り、これはr主体の構築」「主体の形成」によってのみ達成されると断言している。 具体的には「独自かつ系統的に闘争を指導する大衆的闘争委員会が、その独自かつ系統的指導性のゆえに恒常的に組織されねばならない」ことであり、かつそれは「『左』右の日和見主義との不断の熾烈な党派闘争によってそれを防衛し、不断の党派闘争に勝利することによってのみ達せられるということ」だと結論している。 (同パンフ119P)
 ここに「攻撃的聞争」の理論は「主体形成論」 と一体のものとなり、さまざまな諸潮流の活動家集団のなかに、新たな″戦闘的活動家集団”を作ろうということに一切が帰結させられてしまっているのをみる。 ″主体の構築”のためには、他のあらゆる諸派との区別、熾烈な党派闘争ーこれこそが最も重要な課題となり、広汎な学生大衆の現実の要求や希望は視界から消えさってしまう。 これは彼らの論理の必然的な帰結である。 セクト主義が″意識的指導″の名の下に合理化され、″大衆の無理解と無関心”から自己を隔離し防衛する、ごく自然の願望として醸成されてくる。 意見の異なる諸潮流にたいしては、ヘルメット、棍棒、竹ザオ等で″武装”してでもその存在を否定しなければならなくなってしまう。 全国的統一闘争とは″わが派”が全国征覇をしない限り、あるいは他のすべてが″わが派”の指導に従わない限り、存在しえなくなってしまう。 従ってたとえ少数者
の行動であっても″わが派″の統一行動は、″全国統一行動”″全関西統一行動”と名のらざるをえない。 主体形成論のいきつく先は、こうしてすでに明らかである。 それは不可避的にセクト間抗争にあけくれる運動であり、少数活動家の街頭動員主義であり、内ゲバである。 このようなことは、すでに何度となく、われわれが眼前に、それこそ「痛苦をもって」経験してきたことである。
 善意と、 一定の真実とをもって語られている活動家集団の形成や意識的指導の必要性も、このように運動の客観的基盤、現実から離れて語られると、悪しきセクト主義に転化してしまう。 そしてそれは、大衆的運動とは無縁なものとなり、客觀的情勢が最も強く要求している広範で力強い統一戦線をいかに実現していくのかという大衆のなかでの活動、最も重要な任務を忘れさせてしまう。 「現代政治研究会」の人びとに一貫して欠けているものは、このことではなかろうか。
 あらゆる大衆闘争、労働者階級の闘いのなかで行動している勢力、グループ、党、階級階、大衆のすべてを考慮に入れること、けっしてただ一つのグループまたは党派の主観的な願望と見解、決意と覚悟の程度だけをもとにして政策を決めてはならないこと、つねに新しく発展する現実の生きた闢いのなかで、真の大衆討議をつうじて大衆の意志を統一し、このような仕方で大衆の信頼を獲得し、巨大な統一戦線をつくりあげていく闘争に積極的に参加し、そこで指導性を発揮すること、-レーニンが「”左翼”小児病」の中で何度も強調した、このことが今日とくにわれわれにとって痛切な教訓としてうけとられねばならない。(1971.04.01)

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