【書評】「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」

【書評】「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」

                                            藤永 茂著 2021年8月 ちくま学芸文庫  1400円+税

                                                                                                   福井 杉本達也

1996年出版の『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(朝日選書)は、核兵器を開発した物理学者の犯した罪の問題を取り上げているが、長く絶版状態であった。中古本では7000円もの値がついていた。今回、その改訂版が「ちくま学芸文庫」として出版された。著者の藤永茂は1926年中国生まれ。九州帝国大学理学部物理学科卒業。京都大学で理学博士学位取得。九州大学教授を経て、現在カナダ・アルバータ大学名誉教授。著書に『分子軌道法』(岩波書店)、『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)などがある。

「原爆を可能にしたのは物理学である。原爆の開発を政府に進言し、それをロスアラモスの山中でつくり上げたのは物理学者である。『原爆の父』ロバート・オッペンハイマーは『物理学者は罪を知った。これは物理学者が失うことのできない知識である』と言った。湯川秀樹は核兵器を『絶対悪』であるとしてその廃絶を唱えた。文芸評論家唐木順三は、その『絶対悪』を生んだ物理学そのものも『絶対悪』であると考えた。…核兵器は悪いが、物理学は悪くない、ということがあり得るか」と唐木は湯川を批判した。

「オッペンハイマーの名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンボルとして登場する。オッペンハイマーに対置される名前はレオ・シラードである。シラードは科学者の良心の権化、『あるべき科学者の理想像』として登場する。このおきまりの明快な構図に、あるうさん臭さ」を著者は感じ取った。答は簡単である。「私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そして犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである」と書いている。

「オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物にすぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である」。「『人は人に対して狼なり』という西洋の古い格言がある。人間が人間に対して非情残忍であることを意味する」。「人間ほど同類に対して残酷非情であり得る動物はない。人間が人間に対して加えてきた筆舌に尽くしがたい暴虐の数々は歴史に記録されている」。「私は、広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である、という簡単な答に到達した」。とし、「責任の所在をあいまいにする答で『物理学を教えてよいのか、よくないのか』という切実な問題に対する答も出てきた。『物理学は学ぶに値する学問である』」として、本書においてロバート・オッペンハイマーを描くことを始めた。

そういえば、物理学者の佐藤文隆が「1999年3月、アメリカ物理学会創立100周年の行事がアトランタであった。…ある晩、郊外の自然史博物館の建物を借りきってパーティーがあった。…アトラクションの一つに 、デズニーランドでのミッキーマウスのぬいぐるみのように、大物理学者に扮装した人物が歩き回って、それらと一緒に記念写真を撮る趣向があった。過去100年の大『物理学者』にはアインシュタイン 、キュリー夫人 、オッペンハイマーが選択されていた。…物理学者としてアインシュタインやキュリー夫人と並んで写真に収まるのがワクワクするように」、しかし、ノーベル賞も受賞していない「オッペンハイマーと並ぶのが多くの参加者にはワクワクすることなのである。そういう意味での『選択』なのである」(京都新聞日曜随筆欄「天眼」:2015.8.30)と書いていた。

著者は第11章「物理学者の罪」で、「オッペンハイマーの『物理学者は罪を知った(Physicists have known sin)』という言葉は、1947年11月25日、マサチューセッツ工科大学(MIT)で行われた講演『現代世界における物理学』の中で語られた。『戦時中のわが国の最高指導者の洞察力と将来について判断によってなされたこととはいえ、物理学者は、原子兵器の実現を進言し、支持し、結局その成就に大きく貢献したことに、ただならぬ内心的な責任を感じた。これらの兵器が実際に用いられたことで、現代戦の非人間性と悪魔性がいささかの容赦もなく劇的に示されたことも、我々は忘れることができない。野卑な言葉を使い、ユーモアや大げさな言い方でごまかそうとしても消し去ることのできない、あるあからさまな意味で物理学者は罪を知ってしまった。そして、これは物理学者が失うことのできない知識である。』」と書いている。

著者は文庫版あとがきにおいて、1945年7月16日の史上初の原子爆弾の炸裂時に、オッペンハイマーの心中に、人間としての悪行の正当化と自己弁護として閃いたとされる「われは死となれり、世界の破壊者となれり」というヒンズー教の聖典『バガヴァド・ギータ』の一行のエピソードを再度否定する。晩年のオッペンハイマーは「原爆製造もヒロシマ・ナガサキの壊滅も『ギーダ』によっては正当化できないことを自覚していた」とし、「ロバート・オッペンハイマーが、特異な歴史的人物として、今なお盛んに論じられている米国の現状を、私は歓迎しない。この現象は米国人が核兵器の問題に正面から向き合うことを妨げている」と締めくくっている。

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