【試論】日本共産党 市大細胞について
日本共産党市大細胞は、1961年8月 日本共産党8回大会を契機とした離党・分裂を皮切りに、日本の共産主義運動の分裂と激動の中で、変遷を遂げることになる。
第1次分裂 1961年8月 日本共産党第8回大会を前後して後の社会主義革新運動に連なるグループが離党(脱党)し、第1次分裂が起こる。
おそらく、小野先生指導の下で、民学同に繋がる部分は、共産党内に踏みとどまり、党内闘争を継続。
第2次分裂 1962年7-10月 → 共産党が市大細胞を除名
再組織 1963年4月28日結成 (GRIMAU COMMITTEE)
党内闘争を継続していたグループを中心に、学生共産主義者のインフォーマル組織を結成。「前衛党再建をめざして、市大共産主義者の新しい前進のために」(1964/11/8)の文書が存在。
一方、市大と同様に組織を維持しつつ、党内闘争を継続していた阪大細胞も不当な処分により、除名を余儀なくされたが、組織を維持し、後の民学同結成の中核を担う。阪大自治会連合(阪自連)を掌握し、府学連の中核を担っていた。
市大では、全学自治会の結成は、1963年であり、それまでは、各部自治会のみ。
(1958年に結成された社学同市大支部は、経済学部自治会を拠点に、府学連に加入)
1963年10月 平和と社会主義をめざす学生同盟が結成される。
のちの市大「革新グループ」となる。
民主主義学生同盟 1963年9月15日結成 (創立大会 市大生 40名参加)
1964年の志賀除名・日本のこえ発足に対しては、積極的に呼応し、GRIMARUを中心に、こえ組織に入る。
日本共産党(日本のこえ)市大細胞第1回総会への提案 (1965年11月)
1968年1月 「総結集運動」の中、こえ市大細胞の多数が、「共労党市大細胞」に移行。(「統一」265号)
日本のこえ市大細胞(多数派) → 共産主義労働者党 市大支部に移行
1968年3月 共労党派が、民学同(分裂)9回大会を強行
1970-72年 共労党の3分裂に伴い、共労党市大細胞消滅(?)
(1972年春、市大にはプロ学同も共労党も存在していなかった。)