【投稿】脱原発政策転換に立ちはだかる菅政権

【投稿】脱原発政策転換に立ちはだかる菅政権

<<政権延命手段>>
前号で提起した「浜岡原発を即刻停止させよ!」は、現実のものとなった。とりあえずは「第二のフクシマ」の再現を、東海地震震源域の真っ只中にある危険極まりない浜岡ではなんとしても食い止めなければならないという一点において、ほんの端緒にしか過ぎないが、それでも前進であると評価できよう。しかしそこには覆い隠しがたい重大な問題、弱点、欠陥が横たわっている。
その覆い隠しがたい重大な問題点の一つは、この浜岡原発操業停止「要請」が政権延命手段としてしか位置づけられていないことであり、脱原発への政策転換とは程遠いものであり、それがまた多くの人々に見抜かれていることである。それは、政府・国家の責任において「浜岡原発を即刻停止させる」べき「操業停止命令」を、「操業停止要請」(5/6)として電力会社に責任を転嫁したところに端的に現れている。対する中部電力側は首相の停止要請受け入れに際し、「運転停止要請に係る確認事項」なる文書を経済産業省に提出(5/9)、そこで「浜岡原子力発電所の安全対策は、法令・技術基準等に基づき適切に実施され」ていると強調し、停止は「国民に一層安心頂くためのもの」だとして、そのことを「十分に(国民に)周知していただきたい」と要求し、政府側はこれをそのまま受け入れ、海江田経済産業相は同日の記者会見で、浜岡発電所は「耐震安全対策はこれまで適切に講じられてきており、技術基準等法令上の安全基準は満たしている」と明言して、中部電力の耐震安全対策にお墨付きを与えたのである。
ところが浜岡原発の耐震設計における津波の想定は、最大で8メートルにしか過ぎず、しかも、本体の原子炉建屋は海抜10メートルの地表から地下に埋め込まれ、非常用ディーゼル発電機は福島と同様にタービン建屋の地下、海抜わずか6メートルの位置にあり、福島原発を襲った14メートル前後の津波の前にはことごとく機能不全となることは明らかである。中部電力自身が、今後2~3年かけて高さ10数メートルの堤防をつくるとしていることは、現状では大津波にはとても耐えられるものではないことを認めているのである。さらに津波襲来以前の、地震そのものによる浜岡原発が立地する地層、基礎岩盤の相良層は弱くてもろく、その液状化対策もまったく採られていないのである。「耐震安全対策はこれまで適切に講じられてきており」などととても言えるものではない。
しかも浜岡原発敷地内には、耐震指針の対象になっていない1、2号機の燃料プールには、現在でも計1165体もの使用済み燃料が保管されており、これまた福島原発と同様、危険極まりない存在であり、地震と津波に真っ先に破壊され、放射能を撒き散らす可能性が極めて高いのである。

<<「割り切り方を間違えた」>>
浜岡原発運転差止訴訟で、原子力安全委員長の斑目氏は、被告中部電力の証人として証言台に立ち、原告側弁護士の「先ほど非常用ディーゼル発電機2台が同時に動かないという事態は想定しないと。」と問われて、「想定しておりません。」、「非常用ディーゼルが2台動かなくても、通常運転中だったら何も起きません。ですから非常用ディーゼルが2台同時に壊れて、いろいろな問題が起こるためには、そのほかにもあれも起こる、これも起こる、あれも起こる、これも起こると、仮定の上に何個も重ねて、初めて大事故に至るわけです。だからそういうときに、非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう、こう考えましょうといっていると、設計ができなくなっちゃうんですよ。つまり何でもかんでも、これも可能性ちょっとある、これはちょっと可能性がある、そういうものを全部組み合わせていったら、ものなんて絶対造れません。だからどっかでは割り切るんです。」と答えている。
静岡地裁はこの裁判の2007年10月26日の判決で「被告策定の基準地震動は妥当で、設計上の安全余裕は十分確保されている。東南海・南海地震と連動した場合でも耐震性は確保され、地盤は堅牢。」として原告側の主張を全面棄却するまったく非科学的で不当な判決を下している。その判決の決定的な証人が斑目氏なのである。
斑目氏は、福島原発の事故後、参議院予算委員会で社民党の福島みずほ議員からこの発言を追及されて、「割り切り方を間違えた」「個人的に謝罪する」と陳謝している。事故後の謝罪では取り返しがつくものではない。
その斑目氏と菅首相は、福島原発事故発生の翌早朝、ヘリコプターで原発現地に視察に行き、斑目氏は首相に「水素爆発は発生しない」と請け合い、パフォーマンス丸出しの視察終了後に「原発は大丈夫だ」と説明しているさなかに、福島原発1号機の原子炉建屋が吹っ飛ぶ水素爆発が発生したのである。
「あれも起こる、これも起こる」が福島原発震災の現実であり、すべての災害に共通するものである。誤操作・誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御するというフェイルセーフが作動するから原発は絶対に安全であるという”安全神話”を自らぶち壊すような、原子力産業界を代表するこのような人物が原子力安全委員会の委員長であったし、今もあり続けており、この無責任極まりない人物、その委員会に責任を丸投げしているのが菅政権である。

<<史上最低の記者会見」>>
そもそも、5年前の2006年1月に「東海地震が今後30年間に起こる確率は87%」と公表し、今年1月にその事実を再度確認したのは政府の地震調査研究推進本部であり、本来ならこの時点で政府自らが、浜岡原発の即時停止と全面廃炉を提起し、政策化し、国内外にその問題の切迫性を訴えるべきであったのだ。しかし、菅政権はこの時点でも、この警告を無視し、我関せずの態度をとり続け、自民党以上の原発推進政策を取り続けてきたのであった。
問題はさらに、3/11のM9の巨大震災、その直接の結果としての福島第一原発の震災を目の当たりにしてもなお浜岡原発の停止を提起しなかった怠慢とその無責任な政治姿勢である。さらに3/11の本震に引き続く余震であっても、女川原発、東通原発、各地の原発が電源喪失の事態に次々と陥っていたときにおいてもなお、菅政権は浜岡原発の停止を提起しなかったのである。最低限、3/11から数日の間に提起すべきであった。菅首相が提起したのはそれから一ヵ月半以上も経過した5/6であった。あまりにも菅政権の対応は遅すぎたのである。浜岡で想定されている東海地震は、福島原発とは違って、原発の直下で震災が発生することが想定されており、福島原発以上の地球規模の大災害をもたらすものである。
浜岡で福島のような事態が起これば第七艦隊の基地・横須賀が危ないと危機感を募らせた米側の要求と、自らの政権の延命策に利ありと踏んだ政治的打算の結果として、初めて腰を上げたのが真実と言えよう。そのことは、政府の内閣府原子力委員会の専門委員の一人である青山繁晴氏が「米国防総省から、早く浜岡を止めろという圧力があった」ことで明らかにされており、なおかつ青山氏は菅首相が操業停止要請を発表した5/6の記者会見は、「確率87%」は「単なる言い訳に過ぎない」もので、何の根拠も示さずに「他の原発は大丈夫」などという点でも「史上最低の記者会見である」と酷評される代物であった。

<<「世界最高レベルの原子力」>>
それでも今回の浜岡原発の操業停止は、菅政権の意図を超えて、原発全面停止の第一歩になるであろうし、そのようにさせなければならない。しかしその最大の障害が菅政権の存在ともいえよう。
菅首相は、5/6の記者会見のその舌の根も乾かぬうちの5/18の記者会見で、記者団から「停止中の浜岡原発の再稼働はあるのか?」と聞かれ、「安全性が確認されれば再稼働を認める」と答えたのである。あきれたものである。単なる言い訳に過ぎなかったとしても「東海地震が今後30年間に起こる確率は87%」はこの時点では完全にすっ飛んでしまっている。これでは廃炉どころか単なる一時操業停止にしか過ぎないものである。
さらに問題のなのは、この記者会見では「原子力行政全般に関して、長年の原子力行政のあり方を根本的に見直さなければならないと思っている。」と冒頭に述べながら、「原子力(発電)を今後増やすのか、維持するのか、減らすのか?」との質問に対して、首相は「原子力のより安全な活用の仕方を生み出してさらに活用する」とまで答えているのである。首相の本音がここに出ているといえよう。浜岡原発の操業停止は、その場しのぎであり、マヤカシにしかすぎないものとして菅政権においては位置づけられているといえよう。
5/6に明らかになった経済産業省の今後のエネルギー政策に関する内部文書は、「原発の緊急安全対策を進めて『安全宣言』を早期に行うことで既設の原発からの電力供給を確保し、2030~50年には『世界最高レベルの安全性に支えられた原子力』を3本柱の一つとする」としており、菅政権の本音がここに露骨に示されている。
しかしそのような「安全宣言」はどこからも相手にされないであろう。福島原発事故の現状は、収束どころかさらに重大な放射能汚染を招きかねない、しかも長期にわたる試練を課している。原発震災のこのような深刻な現実を真摯に学ぼうとしない、その場しのぎでマヤカシに満ちた政権の存在価値はもはやゼロに等しいといえよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.402 2011年5月28日

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【投稿】浜岡原発全面停止を歓迎する

【投稿】浜岡原発全面停止を歓迎する
                            福井 杉本達也 

1 浜岡原発全面停止は英断
 「東海地震に十分耐えられるよう、防潮堤など中長期的対策が完成するまで浜岡原発は全て止める」5月6日夜、菅首相は会見でこう言い切った。情報は原子力安全・保安院にも原子力安全委員会にも知らせなかった。「浜岡原発を止めるための法律的な根拠もなければ、新たな法律を作りという話もない」(政府関係者)、「中電とは打ち合わせもしていない。パフォーマンスも甚だしい」(官邸スタッフ:朝日:5.7)、「党内調整が不十分だ。そもそも、なぜ浜岡原発だけなのか、理解に苦しむ」(小沢グループ)「唐突な発表だ」、「国民生活に重大な影響を与える話なのでもっと政府内で熟議を重ねるべきではないか。拙速な発表との印象だ」(自民党脇雅史国対委員長:読売:5.7)、東京電力や関西電力の需給にも影響が生じる」(資源エネルギー庁)と経済産業省・官邸・民主党内・野党からの抵抗は凄まじい。首相周辺が一番気にしたのは、どう経産省や電力会社の巻き返しを防ぐかだったと発表前に情報が漏れて原発推進派に抵抗の余地を与えることを警戒したとしている(毎日:5.10)。原発を止めたくない推進派には不意打ちだが、もし、『民主的』手続きに従ってあれこれ議論をすれば、官僚・原子力業界や与野党内の原発推進派に潰されてしまう。浜岡原発の危険性については十分議論されている。だから既に1・2号機を廃炉にすることが決定していた。東日本大震災に匹敵する地震や津波が浜岡原発を襲えば対応は不可能である。中部電力も東海地震への対応による費用と運転停止を天秤にかけたのであろう。菅内閣の浜岡原発全面停止を素直に歓迎する。

2 エネルギー基本政策の転換
 さらに首相は10日に2030年に「総電力に占める原子力発電の割合を50%以上とする政府のエネルギー基本計画について『いったん白紙に戻して議論する必要がある』と表明した。さらに『再生可能な自然エネルギーと、エネルギーを今ほど使わない省エネ社会(構築)にこれまで以上に大きな力を注ぎ、エネルギー政策全体を検討したい』どの考えを示した(毎日:5.11)。脱原発に向け大きく舵を切るということである。さらには、首相は17日の共産党の志位委員長との会談でも「核燃料サイクル」の見直しについても踏み込んだ発言をしている(福井:5.18)。こうした一連の動きも歓迎したい。

3 なぜ、日本は原発を受け入れたのか?
 有馬哲夫著『原発・正力・CIA』(新潮新書)や1994年3月16日に放送されたNHK、「原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~」は日本への原発導入の歴史に詳しい。1945年の日本の広島・長崎への原爆投下後核兵器を独占してきた米国が、ソ連の核実験による核独占の破綻と平和攻勢・社会主義勢力の台頭により外交の転換を迫られる中で、1953年 12月、アイゼンハワー大統領は「アトムズ・フィア・ピース」(平和のための原子力)演説によって米国の核政策=核兵器の独占・秘密主義を転換し、濃縮ウランを外交カードとして各国をアメリカの勢力下におこうとしたのである。その政策にのっかり、密かに独自核武装への道を選択しようとしたのが、読売新聞社主の正力松太郎であり、新進気鋭の政治家として登場したばかりの中曽根康弘である。したがって、日本の原発はその導入当初から核兵器と切っても切れない関係にあったのである。原発は日本の核所有への欲求を満足させると共に、濃縮ウランを安定的に日本に供給することによって米国の核軍事産業を安定的に維持し、また、日本の原発で核兵器の原料であるプルトニウムを生産し万一の時にアメリカに持ち帰り大量の核兵器を生産できるようにするものであった。その過程で原爆投下で反米感情の強かった当時の日本で「日本のメディアを操作して、再軍備に賛成するものを支援し、共産主義者や反米感情を持つ人々に反感を持つよう世論を導く」心理戦を遂行したのである(上記:有馬)。そこで、「原子力の平和利用」=原発という意識が世論に刷り込まれたのである。しかし、核兵器と原発の技術は同じモノである。核分裂に1.25個のずつの中性子が使われる。核分裂のたびごとに核分裂の数が1.25倍ずつ上昇していくと出力は無限大に上昇し『暴走』し核爆発を起こしてしまう=核兵器。一定の安定した出力発生状態にするには核分裂に使われる中性子数は1個でなければならない=原発(石川迪夫:『原子力の暴走』)。つまり、無限大のエネルギーを人間が制御できる安定した状態に維持しなければならない。今回核暴走ではないが原発の炉心を冷却できないことによって核のエネルギー暴走が起きてしまった。我々は「スリーマイル」・「チェルノブイリ」そして今回の福島でようやく原発が核兵器と同じ、無限大のエネルギーを持つ制御できないしろものであることを再認識させられたのである。

4 子どもに20ミリシーベルトも被曝させるのは戦争状態
 小学校の校庭利用を制限する年間限界放射線量を文科省が20ミリシーベルトとしたことに抗議して、小佐古敏荘内閣官房参与が辞任した。ICRPは一般人が年間に浴びる放射線量を1ミリシーベルトと定めている。今回の基準は原発事故のような緊急事態では1~20ミリシーベルトの範囲内で考えるとしていることに対応したものであるが、子どもは放射線に対し大人の3~4倍影響を受けるという。緊急事態とは戦争状態のことである。これからの日本を担う子どもを戦争状態に置いておくとはどういう考えなのか。
 同様の発想は原発冷却のための「決死の作業の正当化」にも見られる。東京電力や関連・協力会社の社員、そして東京消防庁、警察機動隊、自衛隊員が「決死の作業」に当たった。それを多くのマスコミは「50人の勇士」などと称賛した。「国民の生命を守るために」=最大多数の最大幸福の為に少数者を犠牲にしてもよいものか。「決死の作業」を賛美する者の影には核戦争への誘惑が潜んでいる。20ミリシーベルトもある地域へは軍隊を派遣できないとなれば核戦争などできないからである。小学校校庭の年間限度放射線量の考え方にも核戦争の影がかかっている。
 福島県放射線健康リスク管理アドバイザーとなっている長崎大学大学院の山下俊一氏は福島県内での講演で「100ミリシーベルト浴びると、100人、その生涯ずっと調査すると、100人の内1人ガンが起こるかどうかという頻度です。100人が、平均78歳としましょうか、生きて1人ガンが起こるかどうかという、そういう確率論的な問題です。でも、70も80も生きれば1/3はガンで死んどる。33人はガンで死んどるうちの、1人は放射線のせいかわからんという量」(3.21 山下俊一氏)、と述べているが、元々、原爆の被害・放射能の人への影響を確認するために米軍の主導で長崎大や広島大などに講座が作られたのがきっかけである。核戦争をいかに効率的に進めるかのということのために大学に研究講座が設置されたのであるから、核戦争を遂行する上の研究では「安全」と言わざるを得ない。
  「いろいろ考えていくと、現在の原発のもとになっている、原爆技術の平和利用という発想に無理があったのではないかというところに私は行きついてしまうのだ。」(県民福井:5.19)と作家の辻井喬氏は書く。核は無限大(∞)の技術である。無限大は制御できない。我々は戦後米国の軍産複合体とわが国の独自核武装論者、短期的利益のみを追求した経済界・電力資本・政治家・官僚に騙され、たった40年間の電気を発電するために数千年にも亘って開拓し耕してきた貴重な国土を放射能で汚染させてしまった。また、世界の海を汚染させてしまった。物理学者武谷三男らが追究した「民主・自主・公開」という原子力3原則の効果はなかった。いまこそ核技術=原発と決別する時である。 

 【出典】 アサート No.402 2011年5月28日

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【投稿】ビン・ラディン殺害と中東政策の転換 

【投稿】ビン・ラディン殺害と中東政策の転換 

<一方的な軍事作戦>
 5月2日、ウサマ・ビン・ラディンが米軍により殺害された。9.11テロ以降、ビン・ラディンは、パキスタンの山岳地帯に潜伏していると見られていた。しかし実際は、同国首都のイスラマバードに近いアボタバード市で相当の間、家族とともに文化的な生活を営んでいたことが判った。
 さらに同市は、陸軍士官学校など軍の施設が多く存在するため、警備は厳重なはずで、ここで安穏に暮らしていたということは、事実上パキスタン治安当局の「保護下」に置かれていたと考えられる。
 ビン・ラディンの所在が露見した経過について、オバマ政権はCIAの地道な探索の成果としているが、パキスタン軍情報部(ISI)が「売り渡した」との見方もあり定かではない。
 パキスタン政府は今回の襲撃にについて、事前に一切知らされていなかったとしている。しかしアルカイーダ幹部に対する襲撃については容認するとの密約があったという報道もあり、これまでも西部国境周辺の部族支配地域では、無人機による攻撃が繰り返されていることから、同国内でのアメリカの一方的な軍事作戦は既成事実化していた。
 今回の作戦もこれまでの延長線上にあるものであり、パキスタン民衆の抗議行動が繰り広げられるなか、パキスタン政府は拘束されたビン・ラディンの配偶者に対する尋問を認めたり、墜落した米軍ヘリの機体を返還するなどアメリカとの関係改善を進めている。

<最後までビン・ラディンを利用>
 ビン・ラディンと側近はほとんど抵抗らしい抵抗もできず射殺された。その最後について知るのは、彼の家族と襲撃部隊以外にはおらず、アメリカ側から明らかにされることは、当分の間ないだろう。 
 ビン・ラディンの遺体は、本人確認の後アフガン経由でインド洋に展開する米空母に移送され、水葬に附された。遺体の写真は一部の議員以外非公開とされたが、押収された生前の映像などは公開された。
 毛布を被り自らについて報道されるテレビに見入る姿などは、一種哀愁を漂わせている。さらに「公開される映像では白い髭を染めていた」「襲撃されたとき女性を盾にした」「多数のポルノビデオが発見された」など、ビン・ラディンの権威を失墜させるためのネガティブ情報が、虚実織り交ぜて流されている。
 パキスタンやイラクでは、殺害に対する報復と思われるテロが散発しており、アルカイーダやタリバン関係組織は、聖戦の継続を呼号している。しかし「後継者」も定かではなく、ビン・ラディンが新たなテロを計画していたとの情報も具体性に欠けるもので、彼が生存していたとしても「世界を震撼させるような」テロの実行は、もはや不可能だったと考えられる。
 ビン・ラディンは冷戦時代にアメリカがつくりだした怪物であり、その後の国際情勢の大転換により邪魔者となり、ついには完全な敵対者となった。しかし9・11の直接的報復であるアフガン攻撃以降のイラク戦争や「対テロ戦争」では、アルカイーダやビン・ラディンが口実とされており、アメリカ軍産政複合体にとってまだまだ利用価値のあるものと思われ、彼らを「泳がせ」ていたのでは、との疑念も存在していた。
 さらに、現在進行中の北アフリカ、アラブ民主化の動きのなかでは、カダフィ大佐のような権力側が「反政府勢力にはアルカイーダが潜り込んでいる」と自己正当化に利用しており、まことに便利な存在となっている。
 しかし、予想以上の戦費に苦しむアメリカはついに見切りをつけた。「対テロ戦争勝利」の一つの大義名分として最後まで利用されたのである。

<新たな中東安定化策>
 「対テロ戦争」終結の具体化として、昨年のイラクからの戦闘部隊の撤退に続き、今年7月からはアフガンからの撤退も始まろうとしている。さらにこの間オバマ政権が、ビン・ラディン殺害作戦を挟んでアフガンのタリバン指導者、オマル師側近と交渉を重ねていることが明らかとなった。
 アフガンの戦後処理が、アルカイーダやビン・ラディン抜きで進められていたのである。双方にとって彼らは無用の者となり捨て去られたと行っても良い。
 今後の政権にタリバン穏健派を加えることは、カルザイ政権も、パキスタン政府も歓迎するところであり、今回の交渉もカルザイ大統領の兄が仲介をしたと伝えられている。
 パキスタン政府もタリバンまでは面倒を見るつもりでも、いつまでもアルカイーダなどに国内に居座られては、米軍の際限ない攻撃を傍観するに終止するのみとなり、民衆の反発が激化、北アフリカ・アラブ諸国のようになりかねないと判断したのだろう。このように、ビン・ラディンの排除はこの地域に係わる当事者にとって都合の良いことであり、乱暴かつ速やかに消されたのである。
 「対テロ戦争」の収束を進めると同時にオバマ政権の関心は北アフリカ・アラブ諸国の「民主化」に移ってきている。NATO軍はカダフィ政権に対する軍事作戦を継続しており、さらにオバマ政権は、シリアのアサド大統領らのアメリカ国内資産を凍結するなど締め付けを強めている。
 この地域では、エジプト革命につづき、パレスチナ自治政府のなかで対立してきたファタハとハマスが和解するなど、南側からイスラエルに対する圧力が強まってきており、これ以上の不安定化を食い止める狙いがあると思われる。
 5月19日オバマ大統領は国務省で演説し、新たな中東支援策を明らかにした。大統領は民主化要求デモを、テロに加担しない運動として支持を明言し、民主化を進めるエジプト、チュニジアに対外債務削減など経済支援を進めることを表明した。
 一方、イスラエルに対して占領地の放棄を求めるなど、パレスチナ自治政府との中東和平交渉の再開を促し、アサド大統領、カダフィ大佐に対しては、弾圧の停止を要求、民主化か退陣かの選択を迫るなど、一線を越えて踏み込んだ発言をした。
 オバマ政権は、アラブ諸国の経済的安定と成長を進めることによって、中東和平の再構築を進めようとしており、「親米独裁政権」への軍事的支援などは選択肢から省かれている。もちろん、これらはアメリカの軍事的プレゼンスを含む影響力を今後もこの地域で維持していくための戦略であり、サウジアラビアやオマーンなどへの駐留は継続されるが、縮小と任務の変更が進むと考えられる。

<アジアに波及する戦線縮小>
 5月18日、米軍のマレン統合参謀本部議長と、中国軍の陳炳徳総参謀長は、アメリカ国防総省で記者会見を行い、ソマリア沖のアデン湾において、海賊対策の合同訓練を実施することで合意したと発表。これは中国との軍事的交流の一環であるが、アメリカが同盟国以外の国家とも限定的ながら共同作戦を行う可能性を示したものである。
 こうしてアメリカは、ビン・ラディン殺害をメルクマールとして「対テロ戦争」終結と新たなアプローチによる中東安定化への方向へ進み出した。限界的な財政運営を強いられているオバマ政権は、際限なき軍事拡大に歯止めをかけ、自らの再選を確実にするためにも「戦線縮小」の流れを加速させるだろう。
 世界規模の米軍再編とリンクするこれらの動きは、アジアにも波及しようとしている。先日来のアメリカ上院軍事委員長やシンクタンクの相次ぐ、普天間基地移設についての「辺野古撤回・嘉手納統合」発言はその現れである。
 このようなドラスティックな情勢の変化に菅政権はまったく対応し切れていない。関係閣僚らは「議会と政府は違う」「昨年の日米合意が基本」などと狼狽しながら、見当違いの発言を繰り返している。震災と原発事故への対応に傾注するのは当然だが、軍事・外交に関する思考停止は許されないのである。(大阪O) 

 【出典】 アサート No.402 2011年5月28日

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【本の紹介】レーニンの墓—ソ連帝国最後の日々—(上・下)

【本の紹介】レーニンの墓—ソ連帝国最後の日々—(上・下)
      白水社 デイヴィッド・レムニック著 2011年2月刊 
      
 20年前の1991年8月17日、ソ連モスクワで「クーデター」が起こった。1985年のゴルバチョフ書記長誕生以来、進められてきた「ペレストロイカ」「グラスノスチ」などの「社会主義の再生」の流れは、このクーデターによって頓挫・破綻し、ゴルバチョフは生き延びたが事実上失脚することになった。そして、翌年11月、ロシア憲法裁判所は「全国統一組織としての共産党は違法である」と判決を下し、ソ連共産党はその姿を消したのである。
 本書は、書名のとおり、ゴルバチョフ書記長誕生からソ連共産党消滅まで、ワシントンポストのモスクワ駐在員として、多くの人々にインタビューを重ねた内容を中心に、まさに「ソ連帝国最後の日々」を描き出している。アメリカで出版されたのは1993年、ピューリツアー賞を受賞した作品でもある。上下800Pを越える本を2週間ぐらいで読み終えた。細部の紹介などは、他の方に譲るとして、感想を中心に紹介してみたい。
 
 <保守派に妥協を重ねたゴルバチョフ>
 本書を読んで気が付くのが、ゴルバチョフが、最後まで党内保守派・KGB・軍などの保守勢力を甘く見ていたな、ということである。妥協に妥協を重ねていたわけだ。もっと言えば、ゴルバチョフ自身も、社会主義の再生ということについて、明確な展望を持ちえていかなったのだろうという事だろうか。グラスノスチによって、ソ連体制・歴史の影の部分、すなわち農業集団化の過程における飢餓と銃殺による数百万の農民犠牲者、30年代後半のスターリン粛清による赤軍・党幹部の抹殺、ポーランド・カチンの森での将兵殺戮などが暴かれる環境を彼が作り出したのであるが、その推進力となった民主派とは、結局最後までゴルバチョフは、手を結んでいない。1990年12月人民代表大会で、シュワルナゼが、「独裁が近づいている」と発して、外相を辞任したメッセージにもゴルバチョフは耳を貸していない。
 
 <スターリン秘密報告に影響を受けた世代>
 スターリンの死後、フルシショフは党書記長の犯罪を秘密報告ではあったが、暴いて見せた。所謂「雪解け」であった。しかし、その期間は長く続かず、彼は解任され、続くブレジネフが、再び歴史に蓋をした。近親者がスターリン粛清の犠牲になった世代は、1950年代の末、雲が晴れるのを経験したが、再び扉が閉じられると、「二重思考者」として生き延びたという。「ゴルバチョフ、私、それに我々全員が二重思考者だった。頭の中で常時、真実とプロパガンダのバランスをとらねばならなかった。・・・異議申し立てと屈服の中間の選択だった。」(シャフナザロフ)
 これら世代が、ペレストロイカによって、言論やジャーナリズムの場で発言の自由を得ることになった。ただ、それは共産党組織の外でのことだったのだろう。
 
 <特権層が、社会主義を葬った>
 党・軍・KGBが、すべての国だったように思える。プロレタリアートの独裁ではなく、党の独裁であったわけだ。レーニンがそれを望んだのかどうか、知るよしもないが、事実そうだったのだろう。ペレストロイカが始まって5年たっても、経済は一向に好転しなかった。好転しないどころか、悪化していた。全国の炭鉱労働者がストに立ちあがった時、スローガンは、石鹸をよこせだった。日常生活品まで不足していた。
 1989年7月、シベリアのショビコ炭鉱でストライキが始まり、ウクライナからサハリン島まで、全国の炭鉱労働者が立ち上がる。そしてストは炭鉱から都市労働者へと広がっていく。ゴルバチョフの「上からの革命」は、後景に退く。保守派との対立。残念ながらゴルバチョフは、指導者ではなくなっていった。労働者のストライキと民主派の台頭にいらだつ保守派。まさに独裁の危機が迫っていたのである。
 
 ソ連崩壊から20年。本書も20年前に書かれている。社会主義の崩壊から何を学ぶべきか。インタビューを中心に書かれた本書は、ソ連崩壊を生きた人々を描き出し、民主主義なき世界がどのようなものだったか、我々に教えてくれている。決して過去の話ではなく、我々が求める社会のために。(佐野秀夫) 

 【出典】 アサート No.402 2011年5月28日

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【日々雑感】大震災に思う②

【日々雑感】大震災に思う②

このアサートの紙面には、いろいろ優れた本の紹介もされておりますが、私は今回、優れた活動をしている団体が発行された資料について紹介させていただきます。
それは、2011年3月31日日本熊森協会発行の日本熊森協会会報くまもり通信67号同封資料というものです。
そこには、元原発建設現場監督 故平井憲夫氏が書き残された、現場にいた者にしか書けない内容の、非常に胸を打つ文章が掲載されたおります。
おそらく平井氏自身も「このまま黙っては、死ねるか」との遺言の思いで書かれたものではないかと想像させられます。
熊森協会は、今回のような事故を予見されていた平井氏の文章を、全国民に伝えたい、教科書にも載せるべきだとも言われています。「最後まで読んでいただき、読後は、周りの非会員の人たちにお回しください」と心の広いメッセージも添えてありました。
参考までに、日本熊森協会の電話番号は、0798-22-4190 住所は兵庫県西宮市分銅町1-4 10時から18時(水・日・祝休業)となっております。
上記の事務所へ連絡を取れば、バックナンバーも手に入るのではないかと思います。
できれば、私のように、寄附会員にでもなってあげればとお勧めいたします。
私は、平井憲夫氏が、命がけで残された文章をコピーして、一人でも多くの人々に配ろうと思っております。
歴史の中で、誰が何をしたか書き留め批判することも大切なことだと思いますが、原発推進者であった人々から反省の弁などは、期待できないでしょう。であるとするならば、こうした地道な行動で、正しい世論作りに、少しでも役立ちたいものだと思います。(2011-05-16 早瀬達吉)

注)早瀬氏からの投稿中の「平井憲夫氏の文章」は、ネット上では、以下のアドレスで、参照できます。(文責:佐野)
→http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html

【出典】 アサート No.402 2011年5月28日

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【コラム】ひとりごと—再び、統一地方選挙について— 

【コラム】ひとりごと—再び、統一地方選挙について— 

○前号では、江川さんから投稿をいただいているが、今回も再び統一地方選挙について、触れておきたい。○ポイントは、2つあって、一つは大阪における橋下党=大阪維新の会の伸張についてであり、もう一つは、政権与党民主党の凋落についてである。○ただただ「橋下人気」に乗っかって、雨後の筍のように立候補、そして当選と、大阪維新の会候補は、軒並み当選した。大阪府議会では、29議席を57議席に伸ばし、過半数勢力となった。○大阪市議会では、過半数とは行かないまでも、12議席を33議席(88議席中)に伸ばし、第一党となった。基礎自治体での選挙は、如何に橋下人気でも、政党・無所属を問わず、地道な議員活動をしている現職も多いし、そう簡単には勝たせてくれないわけだ。○堺市では、元々維新の会といっても、自民党会派が二つに割れて、一方が維新の会を名乗ったに過ぎないし、最初から過半数を取るという気概もなく、現職の保身と維新の風が合流したという構図であったが、7議席を13議席に伸ばし、公明党を抜いて第一党になっている。○こうして、大阪府と大阪市、堺市で、48議席を103議席まで伸ばしたのである。○政権交代が実現して1年9ヶ月、低迷する民主党政権の下で、維新は伸ばし、民主は大敗と言う結果になった。○5月から、新議員の任期が始まり、動きが出ている。○案の定、橋下は、「大阪都構想は白紙」と言い出し、曖昧な内容の都構想の練り直しを図る。そして、国家公務員は、2割でなく3割カットすべきだ、とお決まりの公務員攻撃、そして、自民党会派と、君が代・日の丸について、起立しない教員は処分すると言う条例を提案しようとする。政策などないに等しく、保守そのものである。○府議会では、維新57、自民13で70となるし、維新57・公明21で、78となり、圧倒的な保守議会が誕生しているのである。○賃金カットや日の丸・君が代で競い合われてはたまらない。何か府政が変わるのか、期待が萎むのも時間の問題のようにも思える。○そして、民主党の凋落である。前回の選挙では、大阪府19、大阪市17、堺市は9が当選したが、今回の選挙では、それぞれ10、8、5で合計23議席となり、45議席から半減したことになる。○確かに、これまでは野党の立場での地方選挙だった。自民党を批判して当選してきた経験しかなかった。地方選挙で圧倒的に躍進した頂点に、政権交代が到来したわけではない。○残念ながら自民党は、まだまだ根強い保守基盤を持っている。民主党には、かなり弱ってきたが、労組票以上に読める票がない。○政権の低迷と維新の風の鋏打ちにあったのが、今回の結果に繋がったわけだが、今回の結果が、さらに民主党政権の基盤を弱めるという連鎖になっていくだろう。○次の総選挙では、現有の地方議員で選挙を戦うことになる。厳しい選挙になるだろうが、それまでには、民主党らしさを、政策と候補者、中央と地方を貫いて、根本から創りあげる必要があるだろう。○その為の時間があるのかどうか、かなり厳しいというのが実感ではある。(2010-05-22佐野) 

 【出典】 アサート No.402 2011年5月28日

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【投稿】浜岡原発を即刻停止させよ!

【投稿】浜岡原発を即刻停止させよ!

<<「絶対的にできる保証はない」>>
 原発震災は深刻きわまる人災であり、その放射能汚染の無責任な垂れ流しは、国内的のみならず国際的な犯罪でもある。その危険極まりない原発災害収束のめどはついたのであろうか。
 4/17に東電が発表した「福島第1原発事故の収束に向けた工程表」は、「1~3号機の原子炉を安定状態に持ち込むには、6~9カ月程度かかる」との見通しを示し、3カ月程度で「放射線量の着実な減少傾向」を、6~9カ月程度で「放射性物質の放出が管理され、線量の大幅な抑制」を目指すとしている。しかしこんな発表を誰も信じてはいない。東電の勝俣会長自身が会見の場で「絶対的にできる保証はない」と答えている。
 明らかなことは一ヶ月以上を過ぎた現時点でもなお、原発災害の拡大には未だ歯止めがかかっていないし、放射能汚染は拡大し続けているのである。
 この原発災害を押さえ込み、これ以上の放射能汚染を拡大させないことが緊急かつ最大の課題であるが、そこには重大な障害が存在している。
 そもそも今回の原発震災では、初動からして事態をより深刻にさせる東電ならびに菅政権の自己保身が最大の障害となっていることが指摘されなければならない。東電は利益優先から原子炉の廃炉をまぬかれるためにホウ酸冷却処理を拒否し、それと歩調を合わせ、東電の言いなりになってパフォーマンス優先でヘリコプターで現地視察をして戻ってきた与野党党首会談の席上、菅首相が「原発は大丈夫だ」と説明しているさなかに、問題の1号機の原子炉建屋が吹っ飛ぶ水素爆発を自ら招きいれたのである。初動の重大な犯罪的な誤りは、次から次へと水素爆発を招来し、すべてがずるずると後手後手処理に回らざるをえなくなった事態をもたらした。この初動の責任は覆い隠せるものではないし、単なる責任以上の犯罪的行為であるとさえ言えよう。かれらの言い訳は、すべて「未曾有の」、「想定外の」自然災害という言い逃れである。しかしこの初動における本質的な過ちは、自然災害の名の下に許されるものではないし、これは明らかな彼ら自身による水素爆発と放射能汚染を招いた直接的で犯罪的な「人災」だと言えよう。国内外に対して明確な責任を取るべきであろう。

<<「日本に無能と言いたい」>>
 責任も取らずに、原発危機の対処は他の閣僚に任せ、手前勝手な復興構想に逃げ出し、政権維持に汲々とし、首相への居座りだけが自己目的と化しているのが現在の菅政権の実態と言えよう。
 しかしその間にも、汚染放射能の放出量は膨大な量に達し、原子力安全・保安院は3/18に米国で79年3月に起きたスリーマイルアイランド事故と同じ「レベル5」と評価していたものを、4/12になって急遽、最も深刻な「レベル7」へと2段階引き上げたのである。問題は、菅政権も原子力安全委員会も3/23時点で「レベル7」相当の放射性物質の放出があったと認識していたにもかかわらず、情報を隠蔽し、事態の深刻度を公表せずに、事態を乗り切るためのしかるべき対処・対応を完全に遅らせてしまったことである。最初の2回の水素爆発を招来した時点で、1時間1万テラベクレルの放射性物質を放出しており、すでに「レベル7」に達していたことは間違いがないと言えよう。「最も驚いたのは、大量の放射性物質が出たと公的に認めるまでに1カ月もかかったことである」(米紙ニューヨーク・タイムズ)と指摘される、菅政権の危機管理能力の欠如である。
 そしてこの危機管理能力の欠如と無責任さの極めつけは、4/4に放射能汚染水を直接太平洋へ放出するに当たり、その三日前には政府が事前に米国側と協議し、内諾を得ていたが、韓国や中国、ロシアなど近隣諸国にはまったく知らせず、福島県内漁協には放出する直前にFAXで知らせたという、そのあきれ果てたやり方である。自民党以上の対米従属路線の帰結がこれである。海洋放出を避け、地上で保管する方法が存在しており、そのための努力さえせずに、現代の世代ばかりか未来の世代にまで悪影響を及ぼす、絶対に避けるべき海洋放出を平然と一方的に行うその無神経さ、民主主義を根本から否定するその行為が問われているのである。近隣諸国から抗議を受けてその実態が明らかになったのであるが、事前の対処や周知、準備や意見をさえ表明させない、そして市民の生命・健康を完全に無視したこの稚拙なやり方は、これまた犯罪であり、国内法にも国際法・条約にも背反する行為である。ロシアの原子力専門家は、日本の汚染水放出を「国際犯罪だ」と批判し、韓国の金首相がこの海洋汚染の日本の対応について「日本に無能と言いたい」と発言したのは、当然だと言えよう。周辺諸国のヒューマニズムと善意にもとづいた災害支援の「絆」を自ら断ち切るような、民主主義の最低限の約束さえ守らない、国際的信頼を裏切り、失うこんな政権が存続すること自体が恥ずべき事態である。こんな事態が長期化すれば、日本への同情が怒りへと変化するであろう。

<<「謝罪をするつもりはない」>>
 事態が楽観できないことは、菅政権の対応能力の無さばかりではない。危機が長期化しかねない重要な要因に、日本列島全体がこれからまだまだ現実的に起こりうる巨大な地震災害におびやかされており、それでもなおかつ53基もの原発が稼動しており、第二、第三のフクシマの現実的危険性があるにもかかわらず、原発をストップさせるという根本的政策転換がこの期に及んでも明確に提起されていないという根本的問題点が存在していることにある。しかも電力各社は原発依存・拡大路線を撤回するどころか、あくまでも推し進めようとしている、その今回の地震から教訓を学ばない異常さである。
 与謝野馨経済財政相に至っては、「今後も日本経済にとって、電力供給にとって、原子力発電は大事だ。(原発を)推進してきたことは、決して間違いではない」と述べ、「原発を推進してきた立場として今回の事故に謝罪をするつもりはないか」という記者の質問に対し、「ないです」と述べる無責任の極みである。
 しかし自然災害は、こんな菅政権の無責任極まりない姿勢を容赦なく揺さぶり続けている。今回の東日本大震災の大きな特徴は、引き続く余震の強大さ、数の多さ、広がりの不気味さであろう。東南海地震に連動する、あるいは誘発する現実的可能性が存在しているのである。
 4/7の最大震度6強の余震でも、東北電力東通原発と日本原燃六ケ所再処理事業所では外部電源を喪失し、東北電力女川原発では、外部電源4回線のうち3回線が遮断される、など軒並み危機寸前の事態に追い込まれている。東南海地震ではその震源地に最も近い浜岡原発は今や危険極まりない存在と化しておりながら、平然と運転が続行されている。一刻も早く停止させなければならない存在である。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.401 2011年4月23日

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【投稿】福島原発事故とトモダチ作戦の狙いから見る日本の核の闇

【投稿】福島原発事故とトモダチ作戦の狙いから見る日本の核の闇
福井 杉本達也

1 トモダチ作戦の狙い
① 横須賀を逃げだしたジョージ・ワシントン
3月13日、米国第7艦隊はトモダチ作戦に参加していた原子力空母ロナルド・レーガンと艦載機が福島県沖で福島第一原発の爆発で被曝したことに震えあがり、三沢沖に避難させるとともに、首都圏も危険だとして、修理中であった空母ジョージ・ワシントンを3月21日に急遽、横須賀を脱出させた。ジョージ・ワシントンは放射能を逃れて佐世保に一時寄港して修理を行っている。
② 在日米軍避難に備えたロナルド・レーガン
4月6日に米軍は一部岩手・宮城県気仙沼で活動を行っただけでトモダチ作戦を終了した。3月16日のオバマ大統領の「原子力の専門家派遣や中長期的な復興を含めあらゆる支援を行う」との言葉は空しく響く。米軍の放射能管理特殊部隊は横田基地に到着したものの福島に派遣する気はなさそうだ。米軍は原発から50マイルを飛行禁止区域とするとともに3月13日よりグアムから無人偵察機グローバルホークを連日原発上空に飛ばし放射能の測定を行い、さらには米国市民に避難勧告を出すなど、「米軍の支援要請を受け付けない日本政府に業を煮やして独自に対策をとった」と報道されているが、内実は、福島第一原発のドミノ倒しの状況を東電も日本政府も把握できない中、首都圏にも危機が及ぶ重大事故であるとの認識で、家族を含む5万人の本土部隊の撤退に備えたものである。今回の福島原発の危機をめぐる、単純な事実は「自衛隊は日本という社会・国を守るために、個人の犠牲が想定される時でも任務のために動く組織であること。そして米国は自己の利益を考え、危機に必ずしも前線に出るとは限らない」(孫崎享)ということである。「日米同盟を守るため」・日本のために米国軍人や市民を犠牲にはしないという米国の固い決意である。しかし、このことで米国を非難するものではない。国家として他国の為に自国民を危険に曝すようなことはしないのは当然のことである。
③ 旧式欠陥炉1号機
その後、少し落ち着きを取り戻した米側は、「格納容器から水が漏れているのでは?」、「初動での海水注入が遅かった」次は逆に「海水注入は原子炉の腐食が進むので危険、真水を用意するから真水の注入を」と様々な指示を出してきた。1号機はプラント全体を米ジェネラル・エレクトリック社が請け負い「GEマーク1」と呼ばれる。同型の炉は福島第一原発では2~5号機が東芝の技術を入れて建設され、米国でも24基も稼動しており、稼働から40年以上を経過した炉が多く存在している。米国がとりわけ「1号機」に関して様々なことを要求してくる背景には、一見すると日本側への疑心暗鬼があるように見えるが、実際は自らが抱える「老朽原発の危険性」を危惧している。
④ 3号機MOX燃料の制御
もう1つ米側が注目するのが3号機である。3号機だけが「プルサーマル」=使用済み核燃料から抽出したプルトニウムとウランを混合した「MOX燃料」を使用している。プルトニウムは核兵器の材料となる。米国は核燃料サイクルに消極的ではあるが、再処理したプルトニウムを大量に日本に保管させれば核拡散につながる。そこで、余分なプルトニウムをウランと一緒に商業炉で燃やしてしまおうというわけであるが、MOX燃料が一部追加されることにより炉心の温度が高くなり制御しにくくなる。炉心の一部が溶融した3号機の挙動は最大の関心事の1つである。
⑤ 使用済み核燃料が詰まる4号機
使用済みの燃料棒は「崩壊熱を発するために最低5年はプールで冷却」するというのが「ウェット貯蔵」である。ところが電源供給がストップして貯蔵プールが沸騰し、燃料棒が露出して燃料棒の一部が溶融するというのは、米国にとり大きな恐怖である。米国は原則使用済み核燃料の再処理をせず、プールで貯蔵する方法を取っている。 しかも、4号機は定期検査中のため3ヶ月しか冷却していない「熱い」燃料棒548本と,使用済核燃料が増え続けているため、核燃料を収める棚の幅を狭める「リラッキン」や空きスペースに棚を新設して貯蔵していた783本・合計1331本もの核燃料棒が詰まっている。制御棒もなく間隔を保つことで核分裂の進行を防いでいるだけの冷却プ-ルが突如原子炉として“起動”しだすことは、同様に使用済核燃料を大量に保管する米側にとっても悪夢である(参考:冷泉彰彦:2011.4.1)。

2 原子力・安全保安院と原子力安全委員会の別々に動く2つの原子力ムラ
チェルノブイリ級のレベル7の事故として評価するに当たり、原子力・安全保安院は37テラベクレルの放射性物質が漏れ出たとし、原子力安全委員会は63テラベクレルの試算をした。どちらも膨大な量ではあるが、どうして2つの数字が出てくるのか。原子力・安全保安院は経済産業省の組織であり、電力業界を「規制する」、つまり電力業界とべったりの組織である。一方、原子力安全委員会は建前上、原子力保安の二重チェックの組織ということになっているが、1978年に旧科学技術庁の外郭機関である原子力委員会(現在は内閣府の審議会)から分離したものであり、事実上の文部科学省配下の組織である。したがって、国家的原発危機に及んでも原子力安全委員会は電力業界の商業炉の事故は経済産業省の責任であるとばかりにある程度「客観的に」=つまり無責任に発言している。それは3月28日の「どのような形ですみやかに実施できるかについて、安全委ではそれだけの知識を持ち合わせていない。」といった斑目春樹委員長の発言を見れば明らかであり、4月12日に「3月23日の時点でレベル7の危険性を認識していたが『評価は保安院』と見直しを求めなかった」ことを明かした代谷誠二委員の発言からも受け取れる。放射能拡散のシミュレーション「SPEEDI」の公開を3月23日まで遅らせたことも委員会の性格を表している。 1956年に発足した原子力委員会の委員長は読売新聞社主の正力松太郎であり、原発を初めて日本に導入している。

3 「地球温暖化対策論者」東大前総長小宮山宏
福島原発がこれだけ膨大な放射能被害を日本中・全世界にまき散らしているにもかかわらず、東電の社外監査役でもあり原子力ムラの総本山東大前総長の小宮山宏は「この夏のことを考えたら、日本だけ経済的なハンディキャップを負うことは耐えられないでしょう。このまま原子力なし、というのは現状では難しい」(朝日:2011.4.1)とぬけぬけと答えている。小宮山は『低炭素社会』(幻冬舎新書)の中で「暖房や給湯といった低い温度の熱を得るのに火を燃やすこと」は無駄であり、「エコキュート」が効率的だという。また、灯油ストーブよりもエアコンはエネルギー効率が良いと説く。地球温暖化対策には一見もっとものようであるが、電気エネルギーというのは電気自動車のモーターのような運動エネルギーにも、IHヒーターや電気温水器のような熱エネルギーにも、また光エネルギーにも転換できる誠に使い勝手の良いエネルギーである。しかし、熱エネルギーから電気エネルギーに転換したものを再び熱エネルギーとして使うのはエネルギー効率としては非常に悪くなる。さらには電気自動車や太陽光発電をも勧める。電気自動車は夜間電力を使うことを前提としている。夜間電力とはベース電源としての原発を前提とする。太陽光発電も設置すればさらに電気をより多く使おうとする動機が生まれる。夜間の電力増は避けられない。「地球温暖化対策」と称して、家庭の電力消費量を増やし、原発を推進することにこそその目的がある。石油やガスといった多用なエネルギーをやめさせ電気を使うことを奨励し、東京湾岸の火力発電を無理矢理廃止し、福島・柏崎刈羽の原発による電力供給に集中させた結果が今日の首都圏の電力不足がある。

4 核兵器と核燃料サイクル
核エネルギーの商業的利用と軍事的利用はメダルの裏表である。「日米原子力協定」では米国が提供した濃縮ウラン燃料は、その使用済核燃料を再処理するに当たり米国の事前同意を必要とすると定めている。核兵器の原料となるプルトニウム抽出に規制をかけ核の拡散を防止するためである。
1950年代から中曽根康弘元首相は読売新聞の正力松太郎と共に原発に積極的であった、1959年の岸信介内閣での中曽根の初入閣ポストは原発担当の科学技術庁長官だった。科学技術庁長官は原子力委員会委員長も充て職であった。当時から自民党の有力者一部は日本の独自核武装を検討した。中曽根の原発推進論は、平和産業を隠れ蓑に核兵器に転用できるプルトニウムを大量生産できると考えたからである。1969年当時、佐藤内閣は「NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘を受けないようにする」(2010.11公開外交文書)との方針を掲げた。現菅内閣の与謝野馨経済財政相は中曽根の紹介で日本原子力発電の職員となり、中曽根の秘書でもあった。
2005年の『原子力政策大綱』で策定委員は青森六ヶ所村の再処理工場は「国際的に認められた貴重な既得権」であり「一度失えば二度と戻らない権利」と述べている。いざというときのために独自核武装の手段は既得権として確保しておくということである(参考:鈴木真奈美「『フクシマ』という道標」『世界』2011.5)。プルサーマルと高速増殖炉はそれを国際的に認知させるために当面必要のない余分なプルトニウムは焼却するものである。かつて、1996年に福島県の佐藤栄佐久知事と新潟県の平山征夫知事・福井県の栗田幸雄知事はこうした原子力政策に楯突いてプルサーマル・核燃料サイクルに反対する意見書提出した。ところが佐藤知事は特捜部に建設汚職容疑の冤罪で逮捕されてしまった。
福島第一原発から30キロ圏内は当面人が住めなくなってしまった。福島県から関東平野の一部の土壌まで汚染され、日本の漁獲高の30%を占める三陸から銚子沖の豊かな漁場も放射能で失ってしまった。日本は太平洋も汚染する犯罪国家になってしまった。東電の責任は重大であるはずだが、1960年当時、原発事故の損害賠償の根拠となる原子力損害賠償法(原賠法)を立法する際、事業者が免責される場合として、科学技術庁長官だった中曽根康弘元首相が「関東大震災の3倍以上」と国会答弁していたとして、今回は3倍以上の震災に当たるとして、日本経団連の米倉弘昌会長はぬけぬけと国の東電への全面的支援は当然だと述べている。(朝日:4.13)。また、核武装論者石原慎太郎は「大震災は天罰である」と発言した。日本に原発を持ち込み核武装を企むものに反省の弁はない。

【出典】 アサート No.401 2011年4月23日

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【日々雑感】大震災に思う①

【日々雑感】大震災に思う①

まず始めに、東日本大震災で犠牲になられた人々のご冥福をお祈り申し上げます。そして、被災された方々にお見舞い申し上げます。
さて、先日3月26日発行の祈念すべきアサート400号に投稿できなかった事を残念に思うと共に申し訳なく思っております。400号の紙面からは、様々なことを学ばせていただきました。とりわけ、今回のマスコミ、メディアの発する、度し難いとも言えるデタラメな報道には唖然とさせられました。
「史上最大の」とか「千年に一度の大地震」とか、東京電力、原発を擁護するような意図が丸出しで、人々が苦しんでいる大災害をさえも利用して、世論操作をしようとする資本の論理を感じます。そして、「日本、日本」「日本は団結できるんだ」「一つになれるんだ」と、必要以上に煽るのは、大政翼賛会、ひいてはファシズムへの危険も感じます。4月10日(日)のサンデーモーニングで、寺島実郎氏も、このような点を、少し触れておられましたが、私も同感です。人々が困っている大災害を、変な方向への世論操作に利用するなと言いたいです。
さらに言うならば、あの震災の直後に、ロシアのプーチン首相の提案で「我が国には、膨大な量の天然ガスやエネルギー資源があるので、今すぐにでも供給援助する用意はある。」と、大変有難いメッセージが発せられたのに、ラジオだったかテレビだったかでは「あの国は、旨い事を言うとるわ。」と茶化しただけで、後は一切報道はなし。その一方でアメリカ海兵隊の「友達作戦」は、大きく報道するという始末。氷点下の寒さの中で避難生活をされている人々の中には、何人もの人々が命を落とされたと聞きます。いかに北方領土問題をかかえているからとは言え、こんな大災害の時に、その援助声明を無視するのは勿体無い話だと思うのですがねえ。(2011-04-11 早瀬達吉)

【出典】 アサート No.401 2011年4月23日

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【コラム】ひとりごと—統一地方選挙雑感

【コラム】ひとりごと—統一地方選挙雑感

統一地方選挙前半、大阪では橋下知事が率いる「大阪維新の会」が大勝を収めた。震災の影響もあり「静かな」選挙戦となるなか、投票率アップこそが勝利の条件としていたにもかかわらず、低投票率のなかでの勝利となった。マスコミは、この勝利を「既成政党への不信感」の表れだと評価している。勝った側は「大阪都構想は信認された」と評価する。果たして本当にそうだろうか。維新の会の主張は理解されたのか。「不信」とは何なのか。
結局は、小泉郵政選挙や民主党政権交代選挙から続く、何とかしてくれそうな人(勢力)への「何となく」の支持があっただけではなかったか。当時も、郵政改革やマニュフェストへの支持が勝利に結びついたわけでは決してなかった。もちろん、候補者や政策をじっくり吟味したわけでもなく、マスコミが取り上げる「リーダー」の応援やマスコミが作り出す雰囲気に引っ張られただけではなかったか。何らの実績や基盤のない候補者が、橋下が応援しているというだけで当選する様をみていると、小泉チルドレンと持ち上げられながら、「使い捨て」られた数多くの前国会議員を思い浮かべざるを得ない。
ただ今回は、小泉の疑似「政権交代」や民主党の初の「政権交代」が期待はずれに終わり、一方で閉塞感そのものは全く払拭されない中での、新たな勢力の勝利であることには間違いなく、その意味ではナチズムの台頭にも似た、極めて煽動的なムードの中での空恐ろしい事態が訪れたともいえよう。
次に仕掛けてくる知事・市長のダブル選挙も恐らく維新の会が勝利することだろう。しかし、悲観はしていない。ある程度の枠組みの「変化」はできても、政策はない中で決して「改革」はできない。巧みに目立つ施策は打ち出されようが、今までのように思いつきの刹那的なものでしかなく、いつか飽きられることとなろう。所詮は理念なき集団、自壊の道を歩むことは容易に想像できる(堺市長が早々に離反したことは記憶に新しい)。
しばらく「旋風」は続き、「冬の時代」が到来することになるが、今は嵐が過ぎ去るのを待ち、地力を蓄えておくしかない。決してブレることなく、中間団体、労組などの運動体を再生させる地道な活動を積み上げながら、橋下に対抗しうる「旗」を打ち立て、「その時」を迎えようではないか。ポピュリズムに反撃するにはポピュリズムしかない。我々もそういった戦略を持たなければならない時代が来ているのである。
(大阪 江川 明)

【出典】 アサート No.401 2011年4月23日

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【投稿】菅政権の醜態と原発震災が突きつけたもの

【投稿】菅政権の醜態と原発震災が突きつけたもの

<<「想定外」の濫用>>
 東日本大震災は、かつてない規模の犠牲者と今なお巨大な災害をもたらしている。被災された方々に心からのお見舞いを申し上げます。
 この大震災を、政府はもちろん、大手マスメディアは一斉に「想像を絶する」「想定外の」「千年に一度の巨大地震」などと声を大にし、その大規模災害、とりわけ東京電力福島原子力発電所が引き起こした史上初ともいえる原発震災をまで、あくまでも自然災害であってやむをえなかったものとして、原発推進・拡大政策を採り続けてきた責任を葬り去ろうとしている。
 今なお不安定極まりない、最悪の事態さえもたらしかねないこの福島第一原発の核の暴走を、政府・与党やマスメディア、そして原発を容認する学者やコメンテーターはなべて、「想定をはるかに超える」巨大地震がすべての原因であるかのように見せかけ、水素爆発も炉心溶融も原子炉格納容器損傷も、それによる放射性物質の大量飛散も、住民避難や屋内退避も、農作物や牛乳汚染もすべて致し方ない、自然災害だからやむをえない、放射能汚染は、胸部X線撮影以下のレベルであるから、「人体に影響はない」「直ちに健康に影響を及ぼす数値ではない」などとしたり顔で解説し、「とにかく冷静に」「大丈夫だから騒ぐな」、原発容認派の、みのもんたにいたっては「黙って耐えろ!」とテレビ番組で怒鳴る始末である。情報隠しと嘘で塗り固めた愚民政策がいまだにまかり通っているのが実態だとも言えよう。
 またそれに便乗するかのように、東京電力の清水社長は3/19、福島第一原子力発電所1~3号機の事故について、「我が国が経験したことのない、大規模地震に伴う津波といった自然の脅威によるものとはいえ、このような事態に至ってしまったことは痛恨の極みであります」とするコメントを発表しているが、すべてを「我が国が経験したことのない、大規模地震」に押し付けようとしている。さらに日本経団連の米倉会長にいたっては、3/16、記者団に対し、福島第1原発の事故について「千年に1度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」などと、悪質極まりない発言をして恥じない態度である。
 『原子炉時限爆弾 大地震におびえる日本列島』(2010年8月、ダイヤモンド社刊)の著者である広瀬隆氏は、「破局は避けられるか――福島原発事故の真相」(3/16ダイヤモンドオンライン)と題して、「想定外」の言葉を濫用する電力会社とマスメディアの異常を次のように指摘している。
 「マグニチュードが当初8.4→次に8.8→最後に9.0に修正されてきたことが、疑わしい。原発事故が進んだために、「史上最大の地震」にしなければならない人間たちが数値を引き上げたのだと思う。これは四川大地震の時に中国政府のとった態度と同じである。地震による揺れは、宮城県栗原市築館(つきだて)で2933ガルを観測し、重力加速度の3倍である。しかし2008年の岩手・宮城内陸地震では、マグニチュード7.2で、岩手県一関市内の観測地点で上下動3866ガルを記録している。今回より大きい。」
 「この東北地方三陸沖地震の実害と、原発震災を起こした原因は、津波であった。では、津波の脅威は、誰にも予測できなかったものなのか。日本の沿岸地震では、ほんの100年前ほどの1896年(明治29年)の明治三陸地震津波で、岩手県沿岸の綾里(りょうり)では38.2m、吉浜(よしはま)24.4m、田老(たろう)14.6mの津波高さが記録されている。「想定外」の言葉を安っぽく濫用するなとマスメディアに言いたい。」
 「津波そのものによる天災は、避けることができない。これは日本の宿命である。しかしこの悲惨な原発事故は人災である。それを起こした責任者は、電力会社だけではなく、これまで何もこの事態を警告をしなかったテレビと、テレビに出てデタラメを解説している専門家と呼ばれる大学教授たちである。」
 実に手厳しい指摘であるが、正鵠を射ていると言えよう。

<<「おそるべき犯罪者たち」>>
 さらに広瀬氏は、問題の福島第一原発について次のように指摘する。
 「昨年3月25日に、1971年3月26日に運転を開始した福島第一原発1号機について、東京電力は、この原発が40年を迎えるというのに、超老朽化原発の運転続行という暴挙を発表し、60年運転も可能だと暴言を吐いて、原子力安全・保安院がそれを認めた。これは福井県の敦賀原発・美浜原発に続く、きわめて危険な判断であった。さらに昨年10月26日、営業運転開始から34年が経過した老朽化原発・福島第一原発3号機でプルトニウム燃料を使った危険なプルサーマル営業運転に入った。」
 「福島第一原発は設計用限界地震が、日本の原発で最も低い270ガルで建設された、最も耐震性のない原発である。そこで今、炉心熔融が起こったのだ。福島県内には、70キロを超える双葉断層が横たわり、マグニチュード7.9が予測される。地震発生後、原発は「止める」「冷やす」「閉じ込める」機能があるので大丈夫だと宣伝してきたが、ほかの原発も含めて、自動停止した11基の原子炉のうち、原子炉内の温度が100℃以下で、圧力も大気圧に近い状態で安定した「冷温停止」に至っているのは、地震4日目の14日現在、福島第二原発3号機と女川原発1・3号機の3基だけであり、残り8基が迷走運転中である。」
 「福島第一原発では、地震から1時間後、15時42分に全交流電源が喪失して、外部からの電気がまったく来なくなった。あとは、所内の電源が動かなければ、何もできない状態である。ところがそこに津波が襲って、15時45分にオイルタンクが流失して、さらに配電盤などの配線系統が水びたしになって、内部はどうにもならなくなった。そもそも、地震発生当初から、非常用ディーゼル発電機がまったく働かないというのだから、電源車が到着したかどうかに鍵があるのに、その最も重要なことについてさえ、報道されなかった。テレビの報道陣が、いかに原発事故について無知であるかをさらけ出した。」
 「15日昼頃には、敷地内での放射能が通常の350万倍に達した。テレビでは、コメンテーターも政府もみな、微量、微量と言い続けた。ここまでくれば、みな、おそるべき犯罪者たちである。さらに2号機では、格納容器の破損が起こり、4号機では建屋内の使用済み核燃料のプールが沸騰を始めたという。ここには、原子炉より多くの放射性物質が入っている。作業者が近づけない場所であるから処理はおそらく不能であろうと、15日の午後5時時点で、私は推測するが、この推測が間違ってくれるよう祈っている。福島第一原発の6基のうち、1基がメルトダウンすれば、そこには職員がいられなくなる。すべてを放棄して逃げ出すだろう。あとは連鎖的に事故が起こる。この発電所には、全部合わせて、事故を起こしたチェルノブイリ原発の10倍を超える放射能があると思われる。あとは、この放射能が無害であると、政府と原子力安全・保安院と電力会社とテレビの御用学者たちは言い続けるはずだ。」
 広瀬氏は最後の段落で「もし日本の国民が愚かであればそれを信じて、汚染野菜を食べることだろう。明日、すぐには死なないからだ。しかしかなりの高い確率で発癌することが分っている。子供たちを守れるのは、事実を知っているあなただけである」と訴えている。

<<首相をあざ笑う水素爆発>>
 そしてこの原発震災が有無も言わせず明らかにしたものは、度し難いほどの「原発無責任体制」と危機管理能力の無さである。政府ならびに東京電力の対応は常に後手、後手に回り、すべて後追い対策しか打ち出せないのが実態であり、危機管理能力はゼロに等しい事態である。
 その典型が、菅首相自身が地震発生翌日(3/12)早朝、緊急災害対策会議を欠席してまで陸自ヘリで福島第一原発に飛んだパフォーマンスに象徴的である。政府はこの前日の地震発生の4時間後に「原子力緊急事態宣言」を出し、「念のための避難」と同原発から3キロ以内の住民に避難を指示していたところにわざわざ押しかけ、「自ら原発に降り立つことで国民に安全であることを示すつもりだった」(官邸スタッフ)のである。菅首相自身、同日15時の与野党党首会談の席上、この目で見てきたとばかりに、東電側の説明を鵜呑みにして「原発は大丈夫」と説明したのである。ところが「原発は大丈夫」だと説明していたその同じ時刻の15時30分ごろに、その説明をあざ笑うかのように福島第一原発1号機で爆発音を伴う水素爆発が発生し、頑丈・堅固・安全を保障するはずのこの1号機の原子炉建屋の天井がもろくも吹っ飛び、鉄骨むき出しの無残な姿に変貌、数名の負傷、数十名の被曝という深刻な原発震災の恐怖の端緒が明らかになったのである。しかもこの一号炉の爆発事故についての情報は、2時間以上も経ってから伝えられるというお粗末な実態である。
 翌日にはさらに二号機も水素爆発を起こし、事態がここまで進むと、首相は会見から雲隠れし、前面にたった枝野官房長官は、根拠の無い楽観論を無責任に述べながらも、次から次へと後退を余儀なくされ、事態を打開し、展望を見出す対策・方針を語れないままに、「避難した住民は安全性が保たれる」「しっかり対応をすることで、1人の皆さんも、健康被害に陥らないよう全力を挙げていく」などと空虚な気休め発言に終始しだしたのである。放射線の観測値も「一番高い数値のところでも、1時間その場にいて、胃のX線検診3回分弱」などとし、「健康に影響を及ぼす状況は生じない」と無責任に放言しているのである。
 福島原発で実際に何が起こっているのか、政府、官邸、原子力安全・保安院、そして東電にいたるまで事実関係を問いただされると「確認しているところ」「情報を収集し、分析し、検討することが大切」とすり替え、具体的な打開策も、正確・確実な情報を伝えることもできず、ただただ不安定極まりない放射能測定濃度の低い値ばかりを切り貼りして「まだ安全だ」と宣言する無責任体制がむき出しになり、それが現在に至るまでいっこうに解消されてないのである。
 東電は、二号機の爆発後明らかになった格納容器内にあるサプレッションプール(圧力抑制室)の異常については、「格納容器の損傷」という事実があからさまになるのを避けるために、「職員の移動」というタイトルで資料を配り、なぜ職員が2号機から退避したのかと問い詰められて初めて、格納容器破損の可能性があるから、としどろもどろで説明するという、事態の悪化を何とかして覆い隠そうとする無責任・隠蔽体質のきわみをこの期に及んでも露呈しているのである。
 さらに重大な問題は、三号炉は再処理プルトニウムのMOX燃料を使用中であり、ウランの約1万倍もの中性子を放射 流出する恐れがあり、しかもこのプルトニウム漏出の決定的な証拠と考えなければならない中性子が、3/15以前に検出されていたにもかかわらず、「中性子線が検出された事実も、はじめは明かされなかった。」(3/16朝日「東電『隠蔽体質』脈々」)という現実である。
 こうした政府、官邸、原子力安全・保安院、そして東電ならびに電力業界、東芝や日立を初めとする原子力業界の無責任なもたれあいと隠蔽体質は、この際徹底的に断罪されねばならないし、原子力発電からの完全撤退を目指して、電力業界や原子力業界、それに関与する政府機関から完全に独立した規制・監督制度を構築することこそが喫緊の課題と言えよう。

<<難問ポストの“丸投げ”>>
 そして無責任のきわみが、菅政権がこの震災の危機的な状況のドサクサにまぎれて、窮地を脱し、責任を回避し、それでも政権のトップに居座れる究極の打開策として、「救国・挙国一致内閣」としての「危機管理内閣」構想の思いつきである。
 菅首相は3/19、自民党の谷垣総裁に「副総理兼震災復興担当相」として入閣するよう電話で要請したという。「谷垣禎一総裁に原発問題担当相としての入閣を要請」(読売)、「大島理森同党副総裁の震災対策担当相への起用を打診」(産経)と報じられている。難問を抱え、批判の矢面に立つポストの“丸投げ”という、卑劣で悪質な提案である。責任回避もここまでくれば、あまりにもあけすけで、菅政権のムシの良すぎさに自民党も面子上、乗れるものではない。「谷垣氏側は『入閣は大連立と同じで、責任の所在が不明確になるだけだ』として拒否した」(読売)という。
 しかしこの問題は、一方で民主党の菅直人氏と自民党の谷垣禎一氏の両者が「地震増税」の可能性を検討しているとの報道がなされ、谷垣氏の提案に菅氏が賛意を表しているとすれば、別の形での、姿を変えた大連立の可能性は大いに有り得るといえよう。裏取引と卑劣な政治手法が交錯しているのであろう。しかしそれらはいずれにしても、菅・谷垣両氏待望の消費税大増税を一気に実現し、政権交代の意義を完全に抹殺してしまう、翼賛体制としての大連立構想である。
 そんなことに菅政権がうつつを抜かすのであれば、即刻退陣させなければならないし、見限るべきであろう。今何よりも必要とされているのは、原発震災の拡大をなんとしても押さえ込み、被災者を救援し、大災害を乗り切る生活再建政策、さらにはますます現実化してきた次に来るべき地震に対応したインフラの徹底した整備、再建策、そして原発の完全撤退に向けたエネルギー政策の自然エネルギー政策への根本的転換である。増税策は危機に瀕した生活再建をよりいっそう窮地に陥れ、経済をいっそう冷え込ませる愚策でしかない。破壊された生活関連・生産関連インフラが膨大であることからしても大型の補正予算が緊急に要請されており、建設国債を発行して迅速に再建に取り組むことが今最も要請されている経済活性化政策でもある。それに加えて、国民新党の提案する無記名の無利子国債発行によって復興資金を確保する政策も早急に現実化させるべきであろう。財政再建はそのような地震災害からの復興と生活再建・経済活性化政策の中でしか展望できないことを銘記すべきであろう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.400 2011年3月26日

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【投稿】東日本大震災の津波で格納容器のない「むき出しの原子炉」が突然出現した福島原発

【投稿】東日本大震災の津波で格納容器のない
           「むき出しの原子炉」が突然出現した福島原発
                                福井 杉本達也
                            
1 地震・津波による原発のドミノ倒し
 3月11日に発生した東日本大震災により福島第一原発(1~6号機)・第二原発(1~4号機)が大きな被害を受けた。福島第一原発はチェルノブイリ原発事故クラスあるいはそれを上回る危機的状況にある。特に3号機の使用済核燃料プールに対し自衛隊・東京消防庁などによる決死の注水作業が行われている。消防庁の19日未明の注水では隊員は27ミリシーベルト(mSV)という厳しい放射線を浴びている。しかし、19日午後からの10時間連続注水では約1000トンの注水を行っている。
 今回の大事故は地震と津波により発電所内の全ての電源が一気に失われたことにある。緊急炉心冷却装置(ECCS)は機能せず、再循環ポンプや使用済み核燃料プールを冷却するポンプもダウンし、全原発の全ての設備の冷却ができなくなっている。原発は制御棒を挿入して運転を停止しても、燃料棒自体は高温で発熱している。燃焼により作られた核燃料内の核分裂生成物は放射線を出す。その放射線エネルギーの大部分は原子炉内で熱に変換される(崩壊熱)。下り坂で車のエンジンを切ってもブレーキがなければ止まらないことと同様である。燃料温度が上昇すると冷却水が蒸発し、炉心が溶融(メルトダウン)し、最終的には外部に放射性物質を大量に放出することとなる。原子炉が冷却が出来ないため、燃料表面温度が上昇し、水蒸気と燃料被覆管のジルコニウムとの化学反応により水素が発生し原子炉建屋上部に溜まった水素が1号機、3号機。4号機と次々と爆発し建屋を破壊した。一部炉心溶融が起こっていると思われる。また、使用済み燃料の上部が空気中に露出して高温となり、水と金属との化学反応で発生した水素が燃えて3号機、4号機で使用済み核燃料プールの火災が引き起こされた。
 ここまでの大災害となった原因は国・東京電力のこれまでの地震災害に対する過小評価にある。新潟県中越沖地震により東京電力柏崎刈羽発電所で大被害があったにもかかわらず、国・東京電力は想定地震動をほとんど変えることはなかった。福島原発の想定の基準地震動は1938年の塩屋崎沖地震=最大マグニチュード7.5を採用し、マグニチュード8.3はあったと推定される869年の貞観の地震はなぜか無視された(2009.7.13 総合エネルギー調査会原子力安全・保安部会への東電回答)。国・電力会社の自然と科学的知見に対する傲慢さこそ今回の大災害の元凶である。

2 使用済み核燃料プールの危険性の過小評価
 今もっとも危険な状況にあるのが福島第1原発3号機の使用済み核燃料プールである。なぜ、使用済みの核燃料プールがこれほどの熱をもつのか。使用済み核燃料の貯蔵プールには使用済み燃料体が1号機:292本、2号機:587本、3号機:514本、4号機:783本、5号機:946本、6号機:876本もある(2011.3.15 毎日)。100万Kw級の原発では緊急停止後1時間での熱出力は5.2万Kw、3か月で4351Kw、5年経っても1430Kwもある(2011.3.16小出裕章ブログ)。5年後の使用済み核燃料でも4℃の水を1秒間に600g=時間2.2トンも蒸発させる能力がある(2011.3.13 ブログ「Ledの日記」参照)。3号機の燃料集合体は548本で、昨年9月の定期検査で136本を交換している。残り378本は1年以上貯蔵されているものと思われる。この燃料棒から仮に2500Kwの崩壊熱が出て6トン/時の水(事故時40℃)が蒸発していると1日に144トンもの水が無くなっている。1千トンの水も7日で空になる。しかも、この「むき出しの原子炉」には遮蔽物である圧力容器も格納容器もコンクリート構造物もない。放射性物質は容易に大気中に飛び出している。米原子力規制委員会(NRC)のヤツコ委員長は議会証言で、福島原発事故による住民の健康への最大の脅威は、プールに保管されている使用済み燃料だと警告した。米ロスアラモス研究所のロバート・ケリー氏は露出した使用済み燃料棒は発火して溶け、大気中に放射線を出す恐れがあると指摘した。使用済み燃料プールは原子炉とは異なり、鋼鉄やコンクリートで包まれてはいない。「ウランが水中で溶ければ、ある種の原子炉を作ってしまうことになる。こうした状況でこの原子炉は制御不能となり、核分裂を始めることになる」(再臨界の可能性)と回答している(2011.3.17 Bloomberg)。再臨界になれば大量の中性子線が出て、薄い鉛板などで遮蔽することはできず、分厚いコンクリート壁か水で遮蔽する以外になく建屋に近づくことは全く不可能になる。
 しかも、各原子炉建屋の核燃料プールの貯蔵量は、4号機の場合、燃料本数548本の1.4倍もの本数を詰め込むなどしている。これは使用済み核燃料の再処理が行き詰まっているために無理矢理各原子炉建屋に押し込んでいたものである。ロシア人原発事故専門家ユーリー・アンドレーエフ氏は「日本人は、非常に貪欲で、使える空間を全て利用します。しかし、プールに使用済み燃料をぎっしり詰め込めば、水がプールからなくなったら火事になる可能性は非常に高くなります」(2011.3.17「マスコミに載らない海外記事」)と福島原発における日本の対応を批判している。福島第一原発には原子炉建屋以外にも中間貯蔵施設(共用プール)に6375本もの使用済み核燃料が貯蔵されているが、そこも冷却機能は失われている。膨大な量の放射性物質が原発構内に蓄積されている。そのどれもが全く管理できない危険な状態におかれている。75万Kw級原発25基分の膨大な原発ドミノ倒しが今、我々の目前で始まっている。福島第二原発も管理できなくなるであろう。
 これまで、原発反対派も原子炉本体の危険性については空だきによる炉心溶融の危険性を指摘してきたが、使用済み核燃料プールの崩壊熱の作用についてはほとんど注意を払ってこなかった。突然の「裸の原子炉」の何基もの出現は予想を遙かに越えるものである。

3 放射線と退避距離
 3号機周辺では3月15日・400ミリシーベルト(mSV)/時(という途方もない放射線の値が観測された。500mSVで血中のリンパ球が減少するなどの急性疾患をきたし、4SV(4000mSv)を浴びれば短期間で死亡する。政府は11日に原発から3キロ圏内の避難指示を、12日にはこれを20キロまで拡大し(第二原発は10キロ)、さらに15日には20~30キロ圏内の屋内避難指示を出した。しかし、15日には原発の北部21キロ地点の浪江町で330マイクロSV(0.33mSV)/時が観測された。1日に直すと7.92mSVでありそれほどの量ではないように見えるが、そこで生活しているわけで、1ヶ月間その場所に留まると237mSVも被爆する。屋内にいれば被曝量は減るとはいうものの100mSV近くまで被曝してしまう。原発の危険が増した場合、30キロではとても逃げ切れる距離ではない。特に福島県浜通りは主要には国道6号を中心とする南北二方向にしか逃げることができない。西は山道である。人口の多い地域ではいざというときに大混乱に陥る。今回の避難でも病院・役場・警察・自衛隊間の連絡が旨くいかず10キロ圏内の双葉病院(福島県大熊町)で寝たきりなどの入院患者130名が置き去りとなってしまった。その後21名の患者が搬送中や避難先で相次いで死亡している。米軍は避難距離を80キロ(50マイル)としたが、政府は即刻50キロ圏内の避難勧告をすべきである。50キロあれば、風向きが不利な状況でも致死的な放射能を浴びる危険性は少ないであろう。風向きが関東地方を向いた15日の観測値では、茨城では年間そこに住んでいると8.9mSVを被曝することとなる。健康に影響する量ではないが、原発の危険性が増した場合にはリスクとなる。東京では年間で3.12mSVとなる。最悪の事態となれば東京も安全圏とはいえない。気象庁は毎日の福島・宮城の風向きを報道するだけでなく、放射能の流れをシミュレーションして報道すべきである。風上であれば落ち着いた避難も可能である。

4 原発を抱える他の自治体の緊急対策
 福井県・新潟県・静岡県を始め原発を多数抱える自治体は、国・電力会社に対し今すぐ次のことを要求しなければならない。まず、非常用電源の複数ルートの確保である。次に原発建屋からある程度冷却された使用済み核燃料は全て出すことである。原発建屋からできるだけ離れた位置に鋼鉄・コンクリート遮蔽の中間貯蔵施設を分散して設置すべきである。もし、何とか福島原発の危機を切り抜けることができた場合には、即、浜岡原発を停止しなければならない。太平洋プレート・フィリピン海プレートの活動は活発であり、「大地動乱の時代」(石橋克彦)を迎えており、次は東海地震が目前に迫っている。そして、中越沖地震で痛めつけられた柏崎刈羽原発も停止しなければならない。高速増殖炉「もんじゅ」は炉内中継装置の落下によりプルトニウムのMOX核燃料を抜くことさえできない状況に陥っている。しかし、もんじゅは停止中にもかかわらず電気でナトリウムを温め続けなければならない。今回のような電源喪失事故が起こった場合、液体ナトリウムは固化し冷却材の循環が止まりプルトニウムを大量に含んだ炉心はナトリウムとともに吹っ飛ぶであろう。その災害は今回の福島原発の最大級の被害を上回るであろう。神に祈るのみである。 

 【出典】 アサート No.400 2011年3月26日

カテゴリー: 原発・原子力, 杉本執筆, 災害 | 【投稿】東日本大震災の津波で格納容器のない「むき出しの原子炉」が突然出現した福島原発 はコメントを受け付けていません

【投稿】2011.3.11 「東日本大震災」の日

【投稿】2011.3.11 「東日本大震災」の日
                               立花 豊(東京) 

 3月11日金曜日午後2時35分ころ、私はお茶の水の順天堂病院の前の路上で、仕事中であった。仕事はタクシーだが、当時は空車(お客様を乗車させていない)状態であった。赤信号で停止していた車を震動は大きく上下に揺るがせ、そして左右に揉みあげ、まるで荒海に漂う小さなボートに乗ったかのように、まったく制御の利かない状態になった。おもわず利いても意味のないブレーキを踏みしめ、ハンドルを握りしめ、視線は頭上に、意識は「このままどうなるのか」という恐怖でいっぱいになった。経験のない大震動に、生命の危険さえ思わずにいられなかった。周囲のビルからは中にいた人々が恐怖に顔をゆがめながらぞくぞくと道路上に出てきては頭上から何か危険物が落下してこないかと見上げている。狭い歩道上は人々でいっぱいになった。気がつくと、10メートル先の路上で手をあげ、タクシーを呼ぶ男性が目に入った。思わず私は、職業的な習慣で彼の前に車を移動させ、後部ドアを開けた。「日経新聞社へ」彼の指示で車を大手町の日経新聞へ向けた。
日経新聞につくまで、赤信号で止まらずとも、ゆるいスピードの車でも地震でハンドルはとられ、この震動がどのくらい続くのかと思わせるほど、長く続いていた。彼を日経新聞社の玄関でおろすと、いままた、手を挙げながら若い男性が車に乗り込んできた。「渋谷の神泉へ」という指示で、車は皇居前を横切り、目的地へ進んだ。皇居前にくると、1000人はいるとおもわれる建設作業員が全員白いヘルメットを輝かせながら、大きく揺れた建設中のパレスホテルの作業場から避難して集合していた。界隈のビルから避難してきたサラリーマンやOLが歩道上に何をするともなく上を見上げていた。まったく人の動きのないニュースフィルムをみるような光景を目にしながら、六本木通りを西に進んだ。目的地の神泉町につくと、男性は降りたが、すぐに別の男性がのりこんできて、今度は逆方向の六本木ヒルズへと指示がなされた。六本木ヒルズでさっきの客をおろすと、またすぐに中年の婦人が手をあげ、新宿駅へと指示された。
 青山1丁目を経由してそのまま外苑東通りから信濃町まできたら、信号が赤に変わり、私は車を停止させた。その時若い女性が歩道上から泣きながら近づき、車のドアを開けようとしたので、私は「どうしました」とウィンドウを下げながら聞いた。「実家がつぶれてすぐに千葉の家へ帰り、連絡したいのです」というので、「どこまで」と聞いたら、「千葉の安孫子近くまで」というので、空車タクシーが既につかまらない状況を察した私は、後ろの中年婦人に「同乗はよろしいですか」と確認のうえ、ドアを開け、女性を乗せた。とりあえず新宿まで婦人をおくると、地震発生からずっとラジオを切っていたため、地震の情報がなく、ラジオのスイッチをいれると、すでに震災直後ですでにすべてのJRも私鉄も停止し、回復は今夜中は無理と報道されており、移動手段はバスとタクシーのみを告げている。しかも高速道路もすべて通行禁止。バスはものすごい渋滞で動きが取れず、時刻表は意味をなさず。バス停にバスを待ってもいつくるかわからない。残るはタクシーだけである。ほとんどの交通手段を奪われた人々は多くが徒歩での帰宅を選択せざるをえなかった。
 私は水戸街道へ車を進めようとしたが、地震発生後2時間を経過した路上はすでに徒歩で帰宅を急ぐ人々で歩道からもあふれ、車道にまではみ出していた。こうした道路渋滞は結局、私たちの目的地の直前の柏まで延々と続いていた。その間、ときおり大きな余震が感じられたが、最初の大きな揺れのあとでは、たとえ震度4の地震でも、もうたいしたこととは思わなくなっていた。夕方4時半に信濃町をでてから5時間たっても、まだ葛飾区の四つ木をこえたばかりのところで、相変わらずの猛烈な渋滞に一向に前進できないタクシーを見限り、若い女性は「もう歩いていきます」と言って車を降りた。まだ安孫子までは25キロはあるが、しかたない。先の若い女性が降車してものの十数秒たつかたたないか、また別の女性が二人乗り込んできて偶然にも「安孫子まで」といった。私はそのまま水戸街道を下ったが、安孫子に着いたのは午前1時半であった。その間、東京を出て県境の松戸を越えても、道路の両側には延々と歩行での帰宅の人々が続いている。おそらく数百万人以上の人々が徒歩で十キロ以上の道を帰宅のため歩き続けたことになる。私は当然だが、飲まず食わずトイレにもいけず、運転を続けた。通常高速道路を使って1時間もあれば十分到着できる安孫子まで、9時間もかかったことになる。
 ここまで震災当日の首都圏の労働者の帰宅状況をタクシー運転手の目で見たことを書いたが、一歩情報が錯綜すれば、大変なことになることは自明のことだ。ここ1週間をみると、たまたま東京の被害が震源地ほどにはほとんどなかったからこそが、パニックもみられずある程度「冷静に」行動できた結果だろう。翌日からは承知のごとく震源地の状況、政府の危機対応への批判、被害の悲劇・深刻さ、日用品の買い占め・品不足、さらに原発・電力とエネルギーの問題へと、報道があふれ、そのテーマも日替わりに変わってきたが、阪神・淡路大震災の規模をおおきく超えんとする東日本大震災の被害が、今後の日本の政治や相互扶助の役割、マスコミ報道の責務、NGOや既成の労働組合の意味、地方自治と中央政府の関係、エネルギー政策の見直しなど、その解決方向への輪郭を改めて描き出すことははっきりしているだろう。市井にある私たちでもそのアウトラインをより強くくっきりとさせる役割を果たすことはできるのではないだろうか、阪神・淡路大震災の経験をふまえつつ。 

 【出典】 アサート No.400 2011年3月26日

カテゴリー: 原発・原子力, 災害 | 【投稿】2011.3.11 「東日本大震災」の日 はコメントを受け付けていません

【投稿】在日外国人献金問題の本質 

【投稿】在日外国人献金問題の本質 

 前原外務大臣が在日コリアンから、過去5年間に20万円の政治献金を受け取っていたことが明らかとなり、前原大臣は時を置かずに辞任した。さらに菅総理大臣も同様に政治献金を受けていたことがセンセーショナルに報道された。
 しかし、直後に東北大震災が発生し、この問題は宙に浮いた形となっている。そのため当面これが国会で論議される見通しはないが、くすぶり続ける火種として存在しているのは事実であり、「政治休戦期間」を利用して、この問題の本質を見ておかなければならない。

<日本の民主化と在日朝鮮人政策>
 1910年の併合以来、植民地支配下の朝鮮人(及び台湾人)は、様々な差別を受けていたが、普通選挙法施行後の1925年以降は「内地」在住の者に限り、参政権(国政、地方の選挙権・被選挙権)を保持しており、少数ではあるが衆議院議員や地方議員も存在していた。
 しかし1945年日本の敗戦で民主化が進められ、政治の分野では同年12月の衆議院議員選挙法改正で「婦人参政権」が確立する一方で、朝鮮人、台湾人の参政権は停止されたのである。
 この時点では、在日朝鮮人は日本国籍を有しており、参政権を剥奪される法的根拠は存在しない。また日本国籍を離脱したとしても、GHQ管理のもと策定が進められる新憲法は「内外人平等」などを規定しており、当初案どおり制定された場合、朝鮮人が日本国内に於いて相当の政治的発言力を持つこととなるのは明らかであった。(1945年「内地」人口7200万人、朝鮮人は200万人であり、46年予定の衆議院総選挙で参政権が行使されれば、10人程度の当選者が出ると見積もられていた)
 こうした展開に驚愕した戦後支配層は、憲法草案から外国人保護条項を削除させ、参政権も停止したのである。このように在日朝鮮人は政治的に外国人として扱われていくのだが、当然の権利として民族教育を推進しようとしたところ、日本政府は「朝鮮人はまだ日本国民なのだから日本の公教育を受けなければならない」と民族学校閉鎖という暴挙に出た(1948年阪神教育闘争)。
 これ以降、在日コリアンは1952年サンフランシスコ講和条約の発効を踏まえ、日本国籍からの離脱が確定、外国人登録法管理下に置かれるのだが、その後も「ある時は外国人」「ある時は日本人」として、権力の都合のいいように扱われてきた。

<参政権確立が必要>
 こうした状況に対して在日コリアンは、粘り強い取り組みで権利を徐々に拡大し、1991年日韓協議を踏まえ入管特例法が施行された。これにより講和条約発効前から日本に居住し、発行後日本国籍を喪失した在日コリアン(および中国、台湾人)とその子孫に特別永住者という在留資格が確立された。これで旧植民地出身者と他の外国人は法律上明確に区分されることになったのであるが、それが法律全般に反映されまでには至っておらず、その最も顕著な例が参政権なのである。
 政治資金規正法第22条の5では「何人も,外国人,外国法人又はその主たる構成員が外国人若しくは外国法人である団体その他の組織・・・・・から,政治活動に関する寄附を受けてはならない」としており、杓子定規に解釈するなら前原氏らが受け取った献金は「違法」と言える。
 しかし、同法の外国人規定は、述べてきたような在日コリアンの形成史と処遇を抜きに、一括りにする極めて乱暴なものであり実態から乖離し、入管特例法との整合性からも問題がある。
 昨年は韓国併合100年であり、両国関係、在日コリアン問題に関するさまざまな論議がなされてきた。それにもかかわらずこうした問題が惹起する現状は、100年を経ても、日本社会の排他性、差別性が解消されていないことを如実に物語ることとなった。
 ようやく法的地位は安定した。しかし義務は日本人並みに課すが、権利は制限するという社会的排除ともいえる状態は現在も続いているのであり、その矛盾が噴出したのが外国人献金問題だと言えよう。すなわち、今回の献金問題の本質は、在日外国人の政治参加すなわち広義の参政権の問題に他ならない。
 したがって、抜本的な解決は外国人の参政権確立以外にないのであるが、今後論議される過程で問題が、政治資金規正法の範疇に矮小化される恐れがある。そもそもザル法である政治資金規正法を錦の御旗の如く振りかざすことは論外である。

<問われる政治家のモラル>
 例えば、今回のケースは通名での寄付が問題となっているが、そうした事案の発生は当然考えられることであるにも関わらず、本文にも施行規則にも確認規定は存在しない。福田元総理が在日系企業からの献金を受けていたことが明らかになって以降も、個人献金は続けられてきたわけである。これは疑似日本人として「通名での寄付は黙認する」という暗黙の了解としか解釈できないし、政治家がそれを期待しての措置だったのではないか。
また法の趣旨は「国政が外国の意向に左右されてはいけない」とのことだろうが、個人献金でそんな事態は現実に発生しないことは、政治家は百も承知だったのだろう。(外国機関から工作資金を援助される方がよほど問題である)
 こうした姿勢は「故意か否か」以前の問題である。在日コリアンが何故通名を使用せざるを得ないかを考慮することなく「いただけるものはいただこうと」という考えなら、倫理の欠落以外の何物でもない。
 もし「本名での寄付をお願いすることを周知徹底する」などというレベルの彌縫策が取られても、フィギィアスケートロシア代表の川口悠子選手や白慎勲参議院議員を見ればわかるように、本名で国籍は判断できない時代である。
 今回の問題では、野党はこぞって鬼の首を捕ったように批判をしている。自民党はともかく、地方参政権に賛成してきた公明党や社民党までが調子に乗って同調しているのは、見ていてあいた口がふさがらない。しかし実際は「禁じ手」が使われた以上、今頃眼の色を変えて自らの収支報告書を点検している議員が多数いるはずである。
 基本的人権にかかわる問題を政争の具とすることは言語道断であり、国会再開に際しては、正面から参政権問題が論議されることが望まれる。(大阪O) 

 【出典】 アサート No.400 2011年3月26日

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【投稿】袋小路に追い詰められた民主党政権

【投稿】袋小路に追い詰められた民主党政権

<<「菅政権に正統性はない」>>
 いよいよ菅政権は重大な危機に陥り、崩壊寸前の状態に追い込まれたといえよう。
 その直接のきっかけは、2/17、民主党の16名の衆議院議員が「民主党政権交代に責任を持つ会」(通称:民主党国民の声)という会派を立ちあげ、「我々は、国民との約束を果たす議員集団であることを、改めて国民の皆様に行動で示すために、衆議院での民主党・無所属クラブとは分かれ、新たに院内会派を設立する。そして同志一同が結束して、『国民の生活が第一』の政策を実行すべく今後、行動を展開していくこととする。」として、「菅政権は国民との約束、マニフェスト(政権公約)を捨てた。菅政権に正統性はない」と厳しく批判し、2011年度予算関連法案への対応については、「マニフェストに照らして判断したい」と述べ、反対する可能性を示唆したのである。会長の渡辺浩一郎氏は、会見では「菅内閣に正当性はない」として即時退陣を強く求めている。
 この会派の【約束を果たす民主党への回帰宣言】は、

 総選挙では、予算のムダを徹底的に削り、新たな政策の財源に充てるとしたマニフェストを掲げ、政権交代を実現した。しかし、「予算の総組み替えなどを行う」と主張していたのに、ほぼ手つかずの一方で、先週、菅総理大臣は、「衆議院の任期中上げない」としていた消費税については、「来年度末までに法的な対応をしなければいけない」と発言し、増税への意欲をあらわにした。
 菅政権は国民との約束、マニフェストを捨てたのである。
 菅政権は、民主党の理念、そして「国民の生活が第一」という国民の皆様への約束をも捨て去ったのである。
 菅政権が本来の民主党の政策を捨て、本来の民主党の政治主導を捨て、本来の民主党の国民への約束を捨て去って省みないならば、それは国民が願いをかけた本来の民主党そのものを捨て去ることになる。
 そして、このことは、本来の民主党への支持の上に比例代表で当選した我々の存在意義すらも打ち消すことになる。
 我々は民主党と国民との約束の上に存在する比例代表の議員だからこそ、本来の民主党の姿とはかけ離れた今の菅政権にはもう黙ってはいられない。みすみす旧来からのしがらみにはまり込み、無原則に政策の修正を繰り返す菅政権に正当性はない。我々は今こそ「国民の生活が第一」の政策を発信し、国民の信頼を取り戻していかなければならない。

 と述べている。菅執行部にとってはまさかの衝撃的な事態の進展である。けしからん、理解できないと叫べども、16人ともなれば簡単に処分も除名もできない。この動きはさらに広がりを見せているが、たとえこの16人でも、菅執行部の方針から離脱をすれば、社民党の協力を得てやっとぎりぎりの衆院で3分の2の勢力による衆議院再可決という最後の望みも完全に絶たれてしまう。もはやこの会派が発足した2/17の時点で、菅政権は求心力どころか、政権維持そのものが不可能な事態へと追い込まれたのである。

<<「見当違いもはなはだしい」>>
 ところがあきれたことに朝日新聞2/19付け社説は「小沢氏系造反 ― 異様な行動に理はない」と題して、「政権党に属しながら、国民生活を人質に取って「倒閣」に乗り出す。政党人として到底許されない行動である。16人は「造反」の大義名分として、菅政権が国民との約束であるマニフェスト(政権公約)を「捨てた」と断じるが、見当違いもはなはだしい。」「進退さえ取りざたされるほど、首相の政権運営が行き詰まっていることは間違いない。しかし、ここでまたぶれることは最悪の選択でしかない。小沢氏の処分を早く決め、マニフェストの見直しや社会保障と税の一体改革も決然として進めなければならない。もはや「党分裂」を恐れて迷い、ためらっている段階ではない。」と、菅政権を叱咤激励しているのである。叱咤激励するのは、あくまでも菅政権が政権公約をかなぐり捨てて消費税大増税路線に突き進むことを何が何でも貫かせたいからである。
 「見当違いもはなはだしい」のは、朝日の社説の姿勢そのものである。なぜ菅政権がここまで信頼されず、政権運営さえままならない事態に至ったかの冷静で理性的な分析すらできずに、「あくまで首相を認めないというなら、会派だけから離れるという中途半端な行動ではなく、きっぱり離党すればいい。その覚悟もないのだろうか。」と挑発さえしている。これほど恣意的で、菅政権を美化・迎合し、増税路線を正当化し、しかも強引な政治的介入をさえ意図した主張は、ジャーナリストが本来もつべき批判的精神とはまったくかけ離れたものである。
 しかしこうした一部メディアの菅政権への激励にもかかわらず、事態はさらに混迷の度を深めている。予算関連法案をめぐって、仙谷由人代表代行が公明党の漆原良夫国対委員長と2/15に会談した際、協力をあくまで拒む漆原氏に対し、「それでは菅首相が退陣すれば賛成してくれるのか」と退陣に言及していたことが判明したのである。首相の側近中の側近が「首相のクビを代えてもいい。何とかならないか」と働きかけ、首相自身はそんな事態をまったく知らされず、寝耳に水の状態であったという哀れな事態の推移である。もちろん仙谷氏は、自派の前原氏を後釜にと狙っているのであろうが、右往左往する菅執行部の与党幹部はなべて内向きの手前勝手な党内派閥抗争に明け暮れ、首相支持派からさえも首相退陣で局面打開を目指す動きが出てきたのである。民主党が2/19に開いた政策担当者会議では、4月の統一地方選を控える現場の地方組織から「今の政権で本当に統一地方選を戦えるのかいま一度考えてほしい。政治的なご決断をお願いしたい」(青森県連)と菅直人首相の退陣論が浮上する事態である。

<<自ら招き寄せた失態>>
 ことここに至るすべては、民主党・菅執行部自らが招き寄せたものである。事態は、一昨年八月末の歴史的な政権交代の意義をことごとく裏切り続け、菅改造内閣で敵対してきたはずの与謝野馨氏を経済財政担当相に入閣させ、その増税路線に内閣の命運を託した菅、仙谷、前原、枝野氏らの未熟かつ無節操な路線がいよいよ破綻に瀕し、引くも進むもままならぬ自縄自縛、やけっぱちの解散か、総辞職か、それとも奇想天外な大連立か、菅氏の姿は、ただただ権力にしがみつきたい中東独裁権力の最後の姿と酷似しつつある。
 菅政権後をにらんで、菅・仙谷・与謝野氏を中心とした民主・自民の増税大連合、小沢・鳩山氏らの「小鳩新党」+国民新党や社民党との連携、あるいは小沢・原口+名古屋の河村氏や大阪の橋下氏などとのローカルパーティ連合、等々、政界再編成が取りざたされているが、いずれも海のものとも山のものともつかない不透明な状況である。
 いずれにしてももはや菅政権を支援し支える世論は皆無に等しく、直近の世論調査では内閣支持率17.8%、不支持率63.7%、民主党支持率11.9%へと急落してしまっている(2/17・時事通信調査)。この事態でもあえて衆議院を解散・総選挙に突入すれば、民主党は立ち直れぬほどの敗北を招くであろうし、それは民主党政権消滅への道でもある。大連立、中連立、小連立を模索しても、菅氏を担ぐ連立などどこからも相手にされないであろう。残された道は、総辞職しかない。しかしそれとてこれまでの路線の踏襲であるならば、一時的な延命措置にしか過ぎない。問われているのは根本的な路線転換なのである。菅民主党執行部が推し進めてきた、自公政権時代に勝るとも劣らぬその財務・外務・防衛官僚言いなりの新自由主義・対米追随・緊張激化・防衛力増強・「第三の開国」・大増税路線からの大転換を、今改めて再構築すること以外に残された道はないと言えよう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.399 2011年2月26日

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【投稿】官僚支配と「密約」の闇

【投稿】官僚支配と「密約」の闇
                              福井 杉本達也 

1 対米関係の正当性を揺るがす「密約」の公開
 対米密約について2010年3月9日、岡田外相(当時)の有識者委員会(座長:北岡伸一氏)報告書で一部が明らかとなってきた。その中身は①核搭載艦船の一時寄港・領海通過 ②朝鮮半島有事の際の米軍による在日米軍基地の自由使用 ③緊急事態の際の沖縄への核再持ち込み ④沖縄返還の原状回復費の肩代わり であるとし、このうち③は密約ではないとし、④は文書が存在しないとした。その後も12月22日、今年2月18日にも1972年の沖縄返還をめぐる外交文書が公開されるなど新たな展開がみられる。しかし、その全容が明らかになったとは言えない。当初より外務・防衛官僚はこの問題に消極的だが、マスコミも同様である。「今回の調査には秘密主義に陥りがちな外交を抑止する効果がある」(日経社説:2010.3.10)、「何十年にもわたって国民を欺き続ける。あってはならない歴史に、ようやく大きな区切りがついた」(朝日社説:3.10)など、マスコミは密約を「過去の問題」にしようとしているが、密約は決して過去の問題ではない。戦後連綿と続く密約の存在が現在の日本の政治状況を縛っている。外務省は30年以上経った文書は原則自動公開するというが、時の『最高権力者』であるべき首相にさえ知らせず密約を積み重ねてきた当事者のいうことを信じることはできない。マスコミが密約の追究に消極的なのは現在の対米関係の正統性と日本政府の正統性を根本から揺らがせることになるからに他ならない。

2 沖縄地元紙への鳩山発言こそ正直・非難する者は米国の手先
 鳩山元首相は沖縄の地元紙の共同取材に対し「本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった。…防衛省も外務省も沖縄の米軍基地に対する存在の当然視があり、数十年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている。…その発想に閣僚の考えが閉じ込められ、県外の主張は私を含め数人にとどまってしまった…海兵隊自身が(沖縄に)存在することが戦争の抑止になると、直接そういうわけではないと思う。海兵隊が欠けると、(陸海空軍の)全てが連関している中で米軍自身が十分な機能を果たせないという意味で抑止力という話になる。海兵隊自身の抑止力はどうかという話になると、抑止力でないと皆さん思われる。私もそうだと理解する。それを方便と言われれば方便だが。広い意味での抑止力という言葉は使えるなと思った」(琉球新報:2.13)と答えた。このインタビューに対し「無責任きわまる発言」(毎日社説:2.16)、「『方便』とは驚きあきれる」(朝日社説:2.16)、「抑止力は『方便』国益損なう無責任な鳩山発言」(読売:2.17)、「放置できぬ鳩山氏『方便』発言」(日経:2.18)とマスコミ各紙は誰かに情報統制されているかのように揃って批判する。また、西岡参議院議長、自民党石原幹事長も「沖縄県民も米国も怒っていると思う」(日経:2.16)と各方面から袋叩きである。
 しかし、鳩山元首相の発言はこのような袋叩きにあうような中身であろうか。防衛・外務官僚が米国を向いて仕事をしていることは戦後60数年間の事実であり、北澤・岡田両氏もその発想に取り込められ、情報は米側に筒抜けとなり鳩山氏が孤立してしまったのである。また、わずか16000人の海兵隊の駐留が「抑止力」ではないことは常識である。辺野古への回帰をひっくり返されること、何としても米国の言う事を聞かねばならないと考える官僚・買弁政治家にとって都合が悪いからである。2008年・福田氏は「私は自分自身のことは客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」と言って対米関係をオブラートに包んで首相を辞めさせられたが、鳩山氏の方がより具体的かつ正直である。宜野湾市の安里猛市長は「抑止力そのものを前首相が否定されたこと自体、新たな基地が沖縄につくれないということだ。(基地建設の)理由がなくなったことからすると良かった」と、発言を評価している(読売:2.17)。

3 外交・防衛を米国に譲渡した「恥」を隠すための「密約」
 「密約に見られる日米関係と吉田ドクトリン」(『葦牙』No36 2010.7)でジグラー・ポールが密約を分析している。吉田茂元首相の下で「日本は本質的に外交政策と国防政策に関する任務を米国に譲渡した」(CRS米議会報告書 2009.7.23)という文書(=いわゆる「吉田ドクトリン」)を発見している。外交と国防を譲渡した国家は独立国家ではない。吉田政権の時代から連綿と現在まで、米国は日本を属国と見なしている。ティム・ワイナーの「Legacy of Ashes, The History of the CIA ,Anchor Books」(日本語訳『CIA秘録』)では、岸信介元首相がビル・ハチンソンCIA情報担当との会合で「日本の外交政策を米国の希望に添うように書き換えると約束した。…岸が要求するのは米政府の秘密裏の支援であった。…自民党の国会議員をCIAにリクルートされることやコントロールされることを党首として岸が許した」とするCIA文書の暴露によって「自民党にとっては大変恥ずかしい形で明確になった。如何に日米両政府が日本国民、沖縄県民を欺いていたのかが、痛い程分かるようになった。…戦後の日本の外交政策と国防政策に関連する任務を米政府に吉田茂が譲渡した。それ以降、岸信介や佐藤栄作の暗躍があって『密約』でもって奇妙な日米関係を築き、日本人を騙し続けてきた。そうした経過のなかで、日本の政治家は、米政府に対しての精神的な依存症にかかったのではないか」(ポール:同上)と指摘している。さらに付け加えれば、今日なお自民党の政治家の多くが「大変恥ずかしい形で明確になった」日本人として「恥」を「恥」とも思わない感覚に陥ってしまっていることである。
 対米密約の基本は「有事の際の米軍による在日米軍基地の自由使用」にある。さらには日本国全土を自由使用させることにある。世界のどこに基地をタダで自由使用させ、米軍人の国内での犯罪を免除し、おまけに膨大な維持費まで差し出している国があろうか。これは米国による占領・植民地そのものである。「思いやり予算」と称する米軍への日本の直接支援の額は、32億2843万ドル、「同盟国」全体の41億4335万ドルの79.9%にあたる。北朝鮮と直接対峙する2位の韓国でさえ4億8661万ドル(11.7%)、反政府デモが活発となってきた米海軍第五艦隊(4200人)が駐留し、対イランの最前線で国土の1/4が米軍基地という8位のバーレーンはさらに1桁違う820万ドル(0.2%)にすぎない。鳩山氏をパッシングする朝日・読売・毎日・日経といった大手マスコミも日本人としての「恥」を知るべきである。
 加藤哲郎早稲田大学教授は米国の情報公開法制にもとづいて米国所蔵日本戦犯資料を調査しているが、それでも「すべてが機密解除されたわけではない。とりわけ戦後日本の国家体制の根幹や、今日の日米同盟の起源に関わる重要資料は、なお残されていると考えざるをえない。…昭和天皇裕仁や岸信介のCIA個人ファイルの欠落に典型的なように、すべてが公開されているわけではない。」(加藤哲郎:「戦後米国の情報戦と60年安保–ウィロビーから岸信介まで」『年報 日本現代史』第15号2010.6)と指摘するように、必ずしも全貌が明らかとなっているわけではない。安保条約制定時に昭和天皇が当時の吉田茂政権とは別のルートでの二重外交を行い、「日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している」(ロバート・マーフィー駐日大使メモ・1953.4)として「国体護持」=天皇制の死守と引き換えに日本の国防・外交と沖縄を米国に売り渡したとする仮説が濃厚である(豊下楢彦:『昭和天皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫)。

5 歴代の密約の当事者を徹底的に炙り出せ
 故若泉敬京都産大教授は沖縄返還交渉において、佐藤栄作首相の密使として沖縄返還の核密約交渉にかかわる重要な役割を果たした。その後、著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)において交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、1997年「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取る」として服毒自殺している。
宇沢弘文東大名誉教授は「この際、最小限望みたいのはまず、歴代の自民党政権がパックス・アメリカーナの完全な傀儡となって、平和憲法の志を踏みにじり、日本の歴史、自然、社会、そして人間を崩してきた全過程を詳細に調査して、国民の前に開示することである。そのとき、歴代の自民党政権の指導的立場にあった政治家たちの果たした役割を明らかにし、その社会的責任を徹底的に追及することが、いま日本の置かれている悲惨な、望みのない状況を超克するためにもっとも肝要なことである。」(『普天間基地問題から何が見えてきたか』岩波書店・2010.12.10)と述べているが、その為には、岡田前外相がごまかし、菅内閣で棚上げした密約を掘り下げ、当時誰が責任者だったのか、誰が書類を廃棄したのかを含め徹底的に追及することである。 

 【出典】 アサート No.399 2011年2月26日

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【投稿】修正迫られるアメリカの世界戦略 

【投稿】修正迫られるアメリカの世界戦略 

<アメリカ揺さぶるアラブ・イスラム民主化>
 チュニジアに端を発した北アフリカ・中東のイスラム社会に於ける民主化のうねりは、瞬く間に「アラブの盟主」エジプトを飲み込み、30年間君臨してきたムバラク政権は崩壊した。この波は周辺国にも波及し、大西洋からアラビア海にまたがる、アラブベルト地帯のほとんどの国々で反政府デモが展開されている。
 今回、特徴的なのは親米のエジプトでも、反米のイランでも、またシーア派かスンニ派かという権力のスタンスに関わりなく、現政府に対する抵抗が惹起していることであり、これまでのステレオタイプなイスラムに対する価値観ではくくりきれない動きであることだ。
 エジプトの動きを「反米」として歓迎していたイラン政府も、足下に火がつくと一転して弾圧を強めている。これは他のアラブ、中東諸国も同じであり強権的な支配体制そのものが打倒の対象となっている。
 アメリカは、エジプトなどでの民主化運動の兆候は、把握していたとされているが、実際の事態に翻弄されている。オバマ政権はエジプトの事態に関し、当初ムバラクの早期退陣を暗に求めたが、同氏が思った以上の粘り腰を見せると、性急な政権交代は不安定化を招くとして、トーンダウン。9月までのムバラク留任を容認する姿勢に転じた。しかし、ムバラクの居座りに民衆の反発が強まると、再度即時辞任を暗に迫り、同氏がついに退くと「歓迎」の意向を表明した。
 しかし北アフリカ・中東の民主化の動きは、アメリカの世界戦略を揺さぶり、さらには日本の軍事戦略にも影響を与える可能性を持っている。

<失敗する政権コントロール>
 これまでイスラエルとの融和路線を進め、イスラム過激派を弾圧してきたムバラクはアメリカにとって利用しがいのある権力であり、非民主的政策や一族の蓄財など不正は黙認してきたものの、民衆はそれを許さなかった。
 冷戦時代、アメリカはイラン=パーレビ王権、韓国=軍事政権、フィリピン=マルコス独裁などで同様の過ちを繰り返してきた。いずれの国でも民衆の力で政権は交代し、イランは反米となったものの、韓国、フィリピンは政権交代を繰り返しながらも現在は親米のスタンスを維持している。
 かつてCIAが秘密裏に行っていた対外工作や、表だった露骨な軍事・経済援助での内政干渉=親米政権の維持は不可能で、現在は「対テロ戦争」の名のもと、イギリスなど友好国とともに新たな戦略を展開している。しかし、イランでもアフガニスタンでもそうした政策は失敗しており、アメリカは戦略の練り直しを迫られている。

<引きずられる冷戦の遺物>
 双子の赤字の元、強引に進められたレーガン軍拡は、冷戦終結により軌道修正され、90年代おわりにトランスフォーメーション=米軍再編計画が立案された。対ソ連用に準備された戦力は見直しが必至となったが、肥大化した軍と軍需産業=軍産複合体は既得権擁護のため、ソ連に変わる新たな敵を探し続けてきた。この動きに乗ったのがブッシュ政権である。ブッシュは「アルカイーダ」や「サダム・フセイン」を敵として戦争を進め、大陸間弾道弾や戦域核ミサイルといった重厚長大の冷戦時代の兵器にかわる、無人機などのハイテク兵器やC4I(情報処理システム)の高度化に代表される新たな需要を生み出していった。しかし一方で、11隻の原子力空母や戦略爆撃機は維持され、ステルス機の配備も進められた。
オバマ政権は、ステルス戦闘機F22の追加配備を中止するなど、装備の見直しを進め、昨年2月公表されたQDR(4年ごとの国防政策見直し)では、従来2正面作戦を改め、武装勢力や国際テロ組織に対する非対称戦争への対応を重視することを明らかにした。

<世界から消えゆく米軍>
 しかし、アメリカは昨年8月のイラクからの戦闘部隊撤退、今年7月からのアフガン撤退開始という局面の変化を踏まえての「ポスト対テロ戦争」戦略を描き切れていない。この間アメリカは、中国に対する警戒感を強めているが、中東情勢が不安定化するなかで、再び2正面作戦(アジア、中東)へ回帰するのかも定かではない。
 不確定要素が多い米軍再編であるが、今後確実に進められるのはQDRでも述べられている前方展開戦略の見直しである。
 アメリカ軍は冷戦期、ソ連や社会主義国の侵攻に即応するため、NATO諸国や日本、韓国に戦闘部隊を配置してきた。さらに冷戦後は湾岸戦争を契機に中東地域にも駐留が拡大、フセイン政権崩壊後も「対テロ戦争遂行」のためとして部隊を配置している。
 これらの駐留経費の財政負担は重く、最悪の財政赤字を抱える連邦予算を圧迫している。このため逐次規模縮小は進められているが、今後冷戦の遺物である駐留米軍の全面撤退も考えられる。
 こうした動きに拍車をかけているのが、中東・アラブの民主化運動である。米第5艦隊司令部が置かれているバーレーンや、サウジアラビアやクウェートなどで政権が揺らぐような事態となった場合、駐留米軍撤退も考えられる。

<逆行する日本政府>
 現時点において東アジアでは、中国、北朝鮮の対応と称して、在日、在韓米軍撤退の動きは顕在化していない。とりわけ対中軍拡を進める日本政府は、普天間基地の辺野古移転強行や、思いやり予算の満額回答など米軍をつなぎ止めるため躍起になっている。鳩山前総理は「海兵隊の抑止力というのは方便だった」と本音を吐露したが、菅政権は火消しに大慌てである。
 しかし先日アメリカの民主、共和両党の重鎮議員が日本の共同通信との会見で「日本駐留を含む米軍の前方展開戦略が『財政上の問題になっている』と述べ、米財政赤字が最悪規模に膨らむ中、在日米軍は撤収すべきだとの考えを示した」という。もちろん、これには菅政権の足下を見透かして「思いやり予算をもっと増やせ」という意を含んでいるものと思われるが、「瓢箪から駒」にならないとは断言できない。
 さらに、2月18日公開された外交文書では、冷戦、そしてベトナム戦争さなかの1967年4月に当時のライシャワー駐日大使が、在沖米軍のグアム移転は可能と明言していたことが明らかとなり、はるか以前から「抑止力」は方便であったことが暴露された。
 ただ、米軍は自らの存在意義である仮想敵国をソ連→国際テロ組織と移し替え、「対テロ戦争」が終結に向かう現在、次なる敵として中国を想定している。このため、当面日本政府、防衛省との思惑は一致しており、日米同盟はさらに強化されていくだろう。
 アラブ・イスラム民主化運動はジブチにも波及したが、現在日本政府は「ソマリア近海の海賊対処」のため、治外法権的処遇をジブチ政府に承諾させ、自衛隊駐留基地を建設している。今後の展開次第では厳しい批判にさらされることも十分想定される。
 支持率を回復できず、対米依存を強める菅政権は中国やロシアに対する毅然とした姿勢の前に、アメリカへの対応を変えなければさらなる厳しい批判にさらされるだろう。(大阪O) 

 【出典】 アサート No.399 2011年2月26日

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【投稿】錬金術の「大阪都構想」

【投稿】錬金術の「大阪都構想」
    —大阪維新の会のマニフェストを問う—
                        元田 隆文

<「大阪都構想」一本槍>
 1月24日に、地域政党「大阪維新の会」は、4月の統一地方選挙に向けたマニフェスト「よみがえる大阪」を発表した。
 その特徴は、今や大阪の街全体が貧困化しているとの危機感を煽りたて、政策の方向性を「成長戦略の実現」のみにおき、そのため手段、仕組みが「大阪都構想(ONE大阪)
であるとする。この構想を実現が、「大阪の景気と雇用を回復し、市民を貧困から解放」し、「強さ、豊さと優しさのエンジン」となるとする。しかし、その他の府民生活、市民生活の抱える問題への政策には一切触れていない。極端なまでの原理的新自由主義的な政策論であり、橋下府政のもとで進行する、教育、文化、セーフティネットの切り捨てなどによる荒廃の問題は一切頬かむりされているのである。

<「大阪都構想」の中味は何か>
 「大阪都構想」は、ほぼ次のように要約できる。
 「成長戦略を実現し、大阪の景気と雇用を回復する仕組みであって、街を豊かにし、市民を貧困から解放することができる。都に広域行政を一元化し二重行政を排除することで都市基盤、産業基盤の整備がすすめられる。知事と市長という2人の広域指揮官の存在が、大阪という都市の方向が定まらないものとしており、二重行政、投資の分散が生じ、都市インフラが貧困なものになっている。指揮官を一人とすれば、私鉄相互乗り入れ、高速道路、高速アクセス鉄道、北ヤード、阪神港などの整備・一元管理が実現でき、国際都市への飛躍・国際競争力向上が図られる。」
 「大阪府と政令市域を統合し、大阪都と特別区(自治区)に再編し、特別区には、中核市並みの権限と財源をもたせ、区長と議員を選挙で選ぶ。区は、数百億円の予算の使い道は決められ、区民生活にかかることは殆ど区で決める住民自治が確立される。大阪市役所から権限と財源を区に取り戻すことができ、地域が自立し、住民に優しい街にすることができる。なお、他の市町村も中核市並みとする。」「都(広域体)の役割により、企業は儲け、給料が上がり、国民所得と税収が上がる。この税収で、基礎自治体では、図書館、ゴミ、給食費など、優しい地域社会を議論できる。なお、国保、介護保険、生活保護などは広域が担う。」

<すぐ分かる矛盾のかたまり>
 まさに、「大阪都構想」はバラ色の未来をつくる打出の小槌である。しかし、ここまで並べ立てると、個別の知識はなくとも、おかしいと思わざるをえないもので、矛盾とウソがすぐばれる底の浅いものでしかない。あえて、幾つかを挙げておく。

★「大阪衰退の原因は大阪市の存在」
 地域経済の衰退は日本全体の課題である。特に地方制度の関係では東京一極集中の政治経済体制が問題である。府・市問題ではない。
★「広域行政一元化で大阪の成長が可能」
 維新の会のいう広域行政は大阪府域内の大型開発行政投資のみであり、これは過去失敗を繰り返し府・市財政を困難にしてきた既に時代遅れとなったものである。また、現在の広域行政の課題は府県域を超えた課題である。さらに、仮に経済活性化したとしても直ちに住民に還元されるものではない。
★「二重行政の弊害」
 二重行政解消のもとに橋下府政が狙うのは、大学などの文化、セーフティネットの削減であり、また、仮に解消が必要だとしても、大阪市解体とは関係なく実現できるものである。
★「大阪の都市インフラは貧弱。大阪では都市の方向が決まっていなかった」
 淀川左岸線やなにわ筋線の遅延だけで日本第2の大阪の都市インフラが貧弱というのは全くの言葉の詐欺である。また、仲が悪かったとはいえ、地域開発の方向性としてはこれまで府・市は大枠で一致して推進していたのである。
★「行政機能の「広域」と「基礎」の単純な分離。大都市の役割・機能の否定」
 そもそも都制で両機能を分離できるとするところに言葉の誤魔化しがある。政治経済の集中地域において、大都市が広域行政機能を担うというのは世界的なものである。東京都制は、戦時遂行のための東京市自治の否定という生い立ち由来する多くの問題を抱える制度であって、他に例を見ないもので、いまなお特別区では自治権拡充運動が続いている欠陥制度である。「大阪都」は如何に言おうと、こうした欠陥から逃げられない。まして、中核市並みの特別区とはどのようなものであろうか。その事務と財源、権限の具体案が示されなければ論評のしようもない。
★「国民保険、介護保険、生活保護はすべて都で」
 国全体の制度を無視して大阪都だけで制度がつくれるわけはない。また、事業の主体と財政負担主体の分離は問題が多い。

<大阪市の解体は市民自治の解体>
 「大阪都構想」とは、大阪の抱える問題を無理やり大阪市の責任になすりつけ、「都制」が解決するという錬金術のような実現性のない矛盾の塊であり、「一人の司令塔」という分権自治民主主義の否定を狙う以外の何者でもない。大阪市政への不満と大阪市解体とは別問題である。 

 【出典】 アサート No.399 2011年2月26日

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【本の紹介】「日本経済論—「国際競争力」という幻想—」

【本の紹介】「日本経済論—「国際競争力」という幻想—」
      松原隆一郎 NHK出版新書 2011年1月10日 820円+税 
 
 松原教授の著書としては「分断される経済」(NHKブックス)がある。鋭い切り口で、問題を解明していく筆致を記憶している。本書は、「2008年~2010年の社会現象を分析し、日本経済の抱える問題を浮き彫りにする」とカバーに記されているように、扱われているテーマは多岐にわたる。しかし、小泉構造改革論からデフレ論など迷走する経済政策、特に政権政党となった民主党の政策を俎上に載せ、リーマンショック後の現在の円高状況の下、「国際競争力」幻想を断ち切って、新たな公共政策の必要性を提起している。紙面の都合もあり、私が興味をもった論点数点について紹介することしたい。
 
<民主党福祉国家論の誤り>
 戦後一貫して政権党にあった自民党は特に公共投資により景気浮揚策を実施し続けたが、90年代初頭のバブル崩壊後も、「無駄な公共事業」と国民に意識される程、財政赤字を積み上げながら公共事業投資を進めた。「この時点で公共事業や政府サービスといった公共事業は、国民の要望に応じて再編されるべきであった。しかし、それよりも景気対策とすることだけを目的としたために、効果を薄めたケインズ主義に国民は失望を募らせた。」
 この行き詰まりの中で、構造改革を掲げた小泉内閣が登場する。長引く不況は、規制や慣行、制度が陳腐化しているのが原因と説明され、官から民へ、規制撤廃が謳われた。確かに、在任5年間、景気は上向く。一方でトリクル・ダウン効果は生じることなく、富める者は富み、貧困と格差が蔓延する。
 これらに対する国民の不満を背景に政権を奪取した民主党は、「公共事業は、官僚の天下り先確保政策だ」と、所得の再配分を掲げ、子ども手当や農家の戸別所得保障などを行おうとしている。しかし、壊れたコミュニティの再生や社会政策抜きの「バラまき」の景気回復への効果は、果たしてどれ程のものかと著者は疑問を呈する。
 「これらの方針しか思い浮かばないのは、民主党が反官僚(ケインズ)主義ゆえに公的部門の意義を低く見積もり、また小泉構造改革を新自由主義ないし市場原理(至上)主義と誤って解釈したせいだというのが、本書の診断である。」と。
 小泉構造改革とは、その実は「輸出企業を優先する市場介入策だった」のであり、著者は、それは「重商主義」と呼んでおくとする。「重商主義を市場原理主義とみなし、それを批判するのが、民主党的な福祉国家路線である。どちらも解釈の誤りという点で共通する。」「価格競争によって輸出を伸ばしても、変動相場制度のもとでは円高によって相殺されるだけであり、国レベルでは景気対策にはならないのである。内需不足に起因する景気不振から国際競争力によって脱しようとする重商主義は、幻想にすぎない。」と。
 
第一章「経済」をめぐる迷走と論点、第二章「国際関係」をめぐる迷走と論点、第三章「民主党政権」の迷走と論点、第四章「安心」をめぐる迷走と論点、第五章「公共性」をめぐる迷走と論点、と本書は展開されていく。

<「公共性」をめぐる問題>
 筆者の記憶においても、かの「事業仕分け」の印象は強い。費用対効果のみを基準に、文化・教育政策が次々と「仕分け」された。確かに官僚の無駄遣いは批判されるべきだが、何か味気なさも残った。
 著者は、第四章で従来の公共事業、景気対策としての公共事業や社会資本整備と言われるものに、むしろ含まれていない「公共財」の価値とその維持のための取り組みが求められていると解く。まず「自然」そのものが公共財である。そして、「ハコモノ」もそれを運営するマネジメントがうまく機能すれば、地域住民の活動の拠点となったり、社会的連帯の拠点となると言う意味で、組織経営マネジメントも含めて公共財であろう。さらにボランティア的な私的活動も、公共的価値を生み出すとすれば准公共財と言える。江戸時代の寺子屋などがそうある。そして人と人とのつながり、社会資本関係(ソーシャル・キャピタル)も家庭制度や地域社会のつながりもまた、公共財と考えるべきであるとする。
 小泉構造改革が破壊した人間関係、格差をそのままにして「子ども手当」を個々人に届けるだけとなっては、民主党の政策は、人と人とのつながりをどう再建するのかが、見えてこない。ばらまき批判に耐えられないのであろう。
 この他にも、「迷走と論点」として整理された内容には、興味深いものも多いが、是非一読をお勧めしたい。(佐野秀夫) 

 【出典】 アサート No.399 2011年2月26日

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【資料】大阪市立大学学生運動史(1960年以降)

【資料】 大阪市立大学学生運動史(1960年以降)

以下の文章は、2011年2月に発行された「大阪市立大学の歴史」(大阪市立大学・大学史資料室編集 大阪市立大学発行)から、市大学生運動の経過に係る文章(P105以降)を転載したものである。同書は、これが初版であり、幾冊かの改定本が出来ているが、いずれも非売品となっている。
現在最新版が電子ブックとして公開されている。(大阪市大の歴史電子ブック)参照されたい。

3 混沌とする学内事情

大学紛争とは何か

大阪市立大学の歴史(2011年2月発行)

大阪市立大学の歴史(2011年2月発行)

1968(昭和43)年から69(昭和44)年にかけて、日本大学、東京大学における「全共闘」 運動が世間の耳目を集めたが、 本学にも例外なくその嵐が吹き荒れた。 「帝国主義体制を維持・ 強化するイデオロギー的・ 物質的拠点として大学を編成しようとする」「帝国主義大学政策」に反対するとして運動を展開したのである。
全共闘運動は、入るも自由、出るも自由の、ゆるやかな運動体として登場した。 そうした運動体をリードしようとするものはたえず、より「左翼的」な方針を打ち出し、過激な方向へ扇動した。

 また、バリケードの向こう側の権力側の打倒だけではなく、自分たち学生も卒業後には 「帝国主義体制」 を担う存在であるという観点から、 自分たち自身の「自已否定」、次いで「自己解体」へと突き進んだ。

大学紛争前の大阪市立大学

 本学の学生運動の動向はどのように推移したのだろうか。 1960年代前半からみていこう 。
 1962 (昭和37)年には大学管理法案反対運動が盛り上がった。 1962 (昭和37)年6月、 新聞に報道された大学管理法案に関する中央教育審議会答申原案によると、 ①大学の管理運営の執行責任者を学長とし、 学部の責任者を学部長とする、評議会は全学の、 教授会が学部の重要事項審議機関とする、 教授会の構成は原則として教授のみとする、②教員選考の責任者としての学長と、 任命責任者としての文相の権限を明確にする、 大学側の選んだ学長・ 学部長・ 教員の候補者を文相が不適当と認めた場合は、 新しく設置される中央機関に諮って再選考を求める、などを骨子とするものだった。 この案に対して、 9月、国立大学協会総会は反対の意向を明らかにした原案を採択した。 即ち、 大学の管理運営は、大学自らの責任と自覚にもとづく自主的措置によって図られるのが大学自治の本旨であり、画一的な法制化だとして反対した。
 当時、本学は公立大学協会の会長校であり、国大協案に原則的に賛成の立場をとった。 各学部、経済研究所の教授会も反対声明を発表し、個人レベルでも教職員有志が集会等で反対の意思表明を行った。 学生側は全学自治会においてストの賛否を問う全学投票を実施し、スト決行の決定を行った(3分の 1以上の1233名の投票で、 過半数以上の1036名賛成) 。 全国各地では 1万人以上のストが行われていた。 結局、 大学管理法案は国会に上程されなかった。
また、 1967 (昭和42)年10月の羽田事件に関連して、 大阪市会自民党議員団が本学のあり方を問題視した際にも教職員、 学生は一致して対応した。 羽田事件とは、羽田空港において、佐藤首相の南ベトナムを含む第2次東南アジア・ 太平洋諸国訪問の出発を阻止しようとする学生と機動隊の衝突事件のことである 。当時の文相が、 羽田事件を契機として、 全国の国公私立大学の学長を招集し、懇談会を開催しようとしたところ、本学の渡瀬学長は出席しなかった。 これに対して、 11月末の大阪市会決算委員会において自民党議員はこの件を取り上げ、また大阪市会自民党議員団総会で 「市立大学の偏向教育調査特別委員会」 の設置を決めた。 「アカの教育をする大学に大阪市が助成することは筋が通らぬ。 徹底的に調査したうえ、 左翼偏向が改められないときは同党議員団が結束して来年度の同大学関係予算をいっさい認めない」ことを申し合わせたのである。 しかしこの件が新聞紙上で報道されるや、 学間の自由、 大学の自治を侵害するものとして世論の批判が噴出した。 本学でも、教職員、学生から反対の声が巻き起こった。 そのため、自民党市議団は、直後の幹事会において、研究特別委員会は発足させるが(文教研究委員会として発足)、 学問の自由、 大学の自治を侵害するような思想調査は行わないこととした。
 大阪市立大学の教職員、 学生は不当な干渉には一致して行動した。

全学統一自治会はなぜ結成されたのか、 結成後どのように推移したのか

 1960 (昭和35)年の日米安保条約改定時の安保闘争から前述した運動に至る流れのなかで、 1962 (昭和37)年 6月大阪市立大学では全学自治会が結成された。大阪市立大学には、 全学的な学生組織として全学学生協議会(以下、 全学協と略す)が存在していた。 しかし、全学協はもともと大学祭などの全学的行事を行うために、 各学部自治会代表の連絡協議会として発足したものだった。 そのため、全学協は執行権をもたず、その決議は全会一致を条件としていた。 そこで、全学協はそのもとに合同執行委員会あるいは全学闘争委員会を設置して執行権を行使した。 とはいえ、 1960 (昭和35)年の安保闘争の過程で、 学生側は全学協と各学部自治会が同時に執行権を有するという組織的二重性を解消して、 一元的な執行権を有する全学統一自治会の必要を感じた。 こう して大阪市立大学に全学自治会が結成された 。

 しかし、 ようやく結成された全学自治会では、 特に中央執行委員選挙においてセクト系グループ間で激しい主導権争いが行われた。 社会主義学生同盟(以下、社学同と略す)系、 構造改革派に属する民主主義学生同盟(以下、 民学同と略す)系が多数を占める有力グループで、 そこに民青(日本民主青年同盟)系が加わって主導権争いを演じた。

 この当時、 全国的には60年安保時の旧全学連が分裂し、 革共同全国委員会が有力グループとして現れたが、 同派も分裂して、 革マル派と中核派に分かれていた。 中核派は社学同、社青同解放派とともに「三派全学連」を形成していたが、 大阪市立大学の全学自治会は、 執行部に構革派系の勢力が強まったため、「三派系」とも「革マル系」とも異なる独自の位置を占めた。

一般学生の対応

 1960年代半ばに、『大阪市大新聞』は本学学生の意識調査を行った(完全無作為抽出、回答用紙発送400人、回答者256通、回答率64%)。 その質間項目の1つに、 「デモに参加したことがありますか」 (回答者数248)があった。 その回答は、「一度もない」53.2%、「ときどき参加」 42.7%、「よく参加」 4.1%となっていた。現在からすれば、回答者の半分近くが「ときどき参加」「よく参加」と答えているのは驚きだが、 安保闘争の後に行った新聞会前回の調査では、 「参加したことがある」は94%だったのである。 この点について、『大阪市大新聞』は「ここ3年間のデモでどうしても 500名を超えることが出来ないのが分かるが、 4年間で50%の減少はおどろくべきものがある」と記した。 なお、「よく参加するもの」4.1%は全体数に直して110名にあたり、 これは最小規模デモの数、 すなわち活動家の数とほぼ一致するという 。

 本学では、 1962年に誕生した全学自治会が激しいセクト間争いのために統一機能を喪失し、機能しなくなった。 学生数が増加するなか、多くの一般学生は自治会における主導権争いをみたからか、 学生運動から距離を置いた。 他方、全体に比して多数ではないにしても、 大学教育に対する不満をもつ学生のなかで一定数のものが、積極的に上述のセクト争いを乗り越えようとする出入り自由のノンセクト・ ラジカルグループ=「全共闘運動」を形成した。 1960年代後半の大阪市立大学では一部の活動家を中心とする学生運動が行われた 。

大阪市立大学の大学紛争はどのよう に推移したか

こうした学内動向の流れを受けて、 本学の大学紛争の嵐は東京大学と同様に、医学部から吹き荒れた。

1968 (昭和43)年10月、第 1病理学教室の教授と助教授が、学生の面前で、講義担当をめぐって激しく議論をたたかわせた。 その数日後、 受講学生から、①第 1病理学教室の講義、セミナーの正常化、②臨床カリキュラム、③講座制、教授会の運営方法、 について公開質間状が提出された。 その後10月末に、 学生自治組織の学生委員会がこの間題を取り上げ、 特に③を争点とする闘争を開始した。 その際、医学部では学生だけではなく、青年医師連合(インターン生の全国組織)、 大学院生も参加しての医学部民主化共聞会議(以下、 医共闘と略す)が結成されて問題を大きく した。 医共闘が結成される背景には、 早い時期から大阪市会文教厚生委員会でも問題視されていたように、 大阪市立大学附属病院での若手医師の勤務状態のあり方が関係していた。 この点は大阪市立大学に限ったことではなく、全国の医学部で間題となっていた。さて、医共闘側は、以下のような内容を含む「医学部民主化基本綱領」を作成して医学部教授会に承認するよう、強く迫った。

A 医学部最高意志決定機関について

I 医学部最高意志決定機関の構成は、教授、助教授、講師、助手の以上の全
教官で構成し、全員は各自 1票の平等な決定権等諸権利をもつ。 この場合、医学部としての決定は全てこの医学部最高意志決定機関で行う 。 以上を基本原則とし、運営に関し、具体的に検討していく 。

II 最高決定機関の決定に対し異議がある場合、 医学部諸自治機関(学部委員会、青医連、大学院自治会)は、その決定の行使を、一時停止させることが出来る。

Ⅲ 医学部最高決定機関に学部委員会、 青医連、 大学院自治会は発言権のあるオブザーバーとして参加する。

IV 公開制:最高決定機関は全ての審議事項に関し、医学部構成貝全員に公開する。

いわば、医学部教授会の決定に対して学生自治機関等の拒否権を求めるものだった。 そして、 11月 27日から翌日にかけて15時間を超える教授会団交の末に、「1969年4月 1日より最高意志決定機関を発足させるよう各項を内規化するよう努力する 。 以上確認する」 と医共闘は教授会に認めさせたのである 。

しかし、 医学部教授会では長時間にわたる 「大衆団交」 の末の確認である以上無効であるとの議論も展開され、 同教授会の意向はこの確認書をめぐって二転、 三転した。 結局、 医共闘からのプレッシャーの中でついに大学協議会に「基本綱領」を提出せざるを得なくなった。 1969 (昭和44)年 2月 12日臨時協議会において、医学部長はこの「基本綱領」を説明して協議会に意見を求めた。 協議会は、抽象的で、無限定な「拒否権」、「教員と学生の対等」という内容は認めがたいとしつつも、各学部に持ち帰って討議することとされた。
同日午後 8時より、 学長・ 協議会代表と医共闘との大衆会見は、 約400名の参加者が見守る中(学生、教員は半数ずつ)、現在の122教室でおこなわれた。 徹夜で会見を続けた後、 翌日 13日午前 9時半に休憩に入り、 午後 3時半から講堂で再開した。 再開後は約1000名が参加した。 結局合意にはいたらず、午後6時半学生代表は決裂の言葉を発して退場した。 その直後、 2月 14日午前 3時より教養地区 3号館が封鎖された。

大学側は、その頃より、各学部 3名、保健体育科から 1名の全学25名の学生部委貝が、 午前 9時頃から午後10時頃まで数名ずつで常時待機の態勢を組んだ。
2月 17日の臨時協議会では医学部間題特別委員会の設置を決め、 19日に答申案を提出し、 それに応じて 2月20日に文書を公開した。 そこでは、参加の仕方に

ついて、 医学部最高意志決定機関において審議される事項については事前の合議を行うこと、その決定に対して所定の期間内に異議申し立てができることを提示した。 しかし、大学執行部は 2月12~13日の大衆会見の経験にこりて、学生達との大衆会見は紛争が終わるまで行わなかった。 このため、 学部ごとの闘争が激しさを増し(なかでも、 医学部、 文学部の闘争は激しかった)、全共闘の学生の側では、 学長との大衆会見を求める手段として封鎖を拡大していった。

3月 2日には医共闘が医学部基礎学舎を封鎖し、 また 3月24日は全共闘が大学本館を封銀、したのである 。

そのため、 1969(昭和44)年 3月 3 ~ 5日に予定されていた入学試験は、 3号館封鎖のために学外で、 しかも 2日間に圧縮されて行われた。 また、例年行われていた全学統一の卒業式は中止せざるをえなくなり、各学部ごとに分散して学部長から卒業生に対して証書が手わたされた(この年、 医学部については紛争のため卒業者はゼロとなった) 。
以上のような事態に対して、大学側は 3月協議会で設置を決めた 「大学改革準備委員会」(その後大学改革委員会へ発展)、 「大学間題特別委員会」 の発足を記した 「大学改革問題について」(4.7改革案)を 4月 7日に示して打開を図ろうとした。 しかし、大学改革準備委員会を数回開催したが、 医学部教員会(教授を除く 医学部の教員で組織) との話し合いの結果、 「学長の諮問機関」 という位置づけを返上して自主的な委員会を志向し、職員、学生、教員三者の話し合い開催に努力するものとしたが、結局、医共關の要求によって解散した。

5月には文学部学生への暴力事件、 事態の改善を求める経済学部学生の自殺などの事件が次々に起こり、 また同月には医学部教員会の日当直拒否闘争、医共闘による一部教授の軟禁が起こった。 そして、 6月 11日医学部教員会は新規入院ストップ、入院ゼロ、外来ストップの方針を可決するまでに過激化した。
これに対して、翌12日に医学部長、病院長連名で「地方公務員法の規定に違反する行為である」 旨の警告文を発した。 その結果、 事実上の業務命令が出されたこと、運動自体の前途がみえなくなったこと、教員会執行部の会議運営が強引なものだったこと、 によって教員会は分裂へと向かった。
もう一方で、 6月に入ってからは封鎖学生の体制は崩壊しつつあった。 当初、教養部 3号館が封鎖されたとき、 少なくとも 180名を数えたといわれる封鎖派学生は、当時すでに30~50名に減少しており、時には封鎖中の学舍に「籠城」している学生は最低数名の場合もあったといわれる。 出るも自由、入るも自由という全共聞運動の組織原則そのものが、 このような激減をもたらした 1つの原因だった。 かなりの数の学生が、封鎖学舎から故郷に直行して、そのまま戻らなかったと言われた。 その過程で、 内部における主導権は、 「全共闘」、 ノンセクト・ ラジカルから、民学同左派のグループへ、さらに中核・ 社学同赤軍派へと移行しながらますます過激化していった。 その後世間を驚愕させた赤軍派による「よど号」ハイジャック事件、連合赤軍による浅間山荘事件には本学出身者が関わっていた。
大学側は、 7月 9日大学問題特別委員会が「大阪市立大学改革案要綱」(7.3改革案)を提案した。 以下がその中心的な内容である 。

第 1部 大学の理念
第 3章 大学の構成員とその地位
大学は教貝、学生、職員によって構成される。 そしてこれら 3者はともに大学の使命を分担している 。 したがって大学の使命の達成には、 これら 3者の協力がぜひとも必要であり、またその協力においては、教員、学生、職員がそれぞれ自主的かつ積極的に行動する主体であることを前提とする 。 この意味でこれら 3者は対等である。
A 教員
一教員は大学における『責任者』である。
B 学生
一学生は被教育者であると同時に、 教員のおこなう研究と教育に対する 「批判者」 でもある 。 そして学生はとくにこの批判を通じて大学の発展に寄与する。
C 職員
一職員の大学における地位は、教員にとっても学生にとってもひとしく 「協力者」である。

第 2部大学改革の基本的方向第 1章構成貝の参加
下記の事項について、 大学の各決議機関はその審議に先立って学生自治組織(当該決議機関と対応するところの学生自治組織)の正式の代表と十分な合議をおこない、 しかる後それぞれの機関で審議、決定する。 I)カリキュラムの編成、 II)履修に関する諸規定の制定・ 改廃、 m)教育・ 学習施設の建設・ 利用、

Iv)学生の福利・ 厚生施設の建設・ 利用・ 運営、 V)学費の改訂、 VI)学生参加
の方式に関する事項、 Ⅶ)その他教育 ・ 学習に関する重要事項
事前合議にもかかわらず、 各決議機関でなされた決定に対し学生がわが不満をもつときは、所定の期間内に一定の手続きをへて異議を申し立てることができる。

第 3章 研究教育体制第 1節 研究・ 教育組織
身分的職階制を廃止し、研究・ 教育・ 管理・ 運営における教員間の支配機構を廃する一現行の講座制は解体し、 それに代わるべき新しい研究と教育の単位を編成する。 原則として研究単位と教育単位を一致させるものとする。

第 2節 教育体制
教養科目の重要性にかんがみ、 教養教育課程と専門教育課程とを時期的に分離せず、 かなりの程度に重複、 平行させながら実施する方式にあらためる。 これによって学生は精神的な受容能力の発達に応じて、 教養科目を選択履修することができる一専門教育課程の改善および充実は、研究・ 教育組織の再編成をまって、学生と協議しながら、漸移的に実施するが、基本方針として2、 3の点をあげる 。 知識のつめこみ、 職業教育化の傾向を反省し学科目の内容の精選に努力する 。 入学当初から、 教養科目担当者以外の学部全教貝と学生との接触の機会をできるだけ多くし、 ある程度の専門教育を平行的に実施する。

第4章 産・ 官学協同問題
大学における教育の日的は、 現存社会が要求する単なる高級労働力の養成ではなく、真に社会の進歩に役立ちうる人材の養成にあることを銘記して、大学ほ
んらいの教育目的を見失わないようにつとめる。 同時に、大学における研究は、大学固有の特質をもち、 研究の分野における大学の社会に対する貢献は、 なにより研究上のこの特質を通じておこなわれることを忘れないようにする。

以上のような改革案によって、全共闘運動のいう 「帝国主義大学政策」 との批判に応えようとした。 この「7.3改革案」に対して、教員は紛争解決の「切り札」 となることを期待した。 しかし、 「協力者」 と規定された職員からは否定的評価を受け、 封鎖をしている学生はおろか、 一般学生の評価もはかばかしくなかった。 もう一方で、 8月 8日「大学の運営に関する臨時措置法」が成立した 。 この法律は、 大学紛争が生じて 9 ヶ月以上経過しても紛争の収拾が困難な場合、 当該大学または学部の教育・ 研究機能の停止の権限を文部大臣に与えること、 さらに 3ヶ月以上経過しても紛争が収拾困難な場合には、廃校措置を執ることのできる権限を文部大臣に与えるものだった。 この規定を本学に当てはめると、 2月14日教養部 3号館の封鎖を起点にすれば11月 13日がタイムリミットだった。 「話し合い路線」 は完全に行き詰まった。
9月 17日、 他大学の赤軍派の逮捕学生の自供に基づき、 赤軍派の凶器準備集合罪の捜索のために機動隊が出動して医学部基礎学舎の捜索がおこなわれた 。
9月 22日には封鎖下の医学部学舎から出動した赤軍派を名乗る学生が医学部附属病院付近の交番 2箇所に放火、 焼き討ちをする事件が起こり、 23日基礎学舎は再び捜索をうけた。 大学協議会は 「医学部および病院のほとんど全面的な封鎖によって、 診療機能は麻痺し、 市民に過大な迷惑をかけるに至ったこと」、

「『赤軍』 の暴力行為による社会的不安と、 それにたいする大学の社会的責任はもはや放置できない段階に達したこと」 ( 9月 30 日付 「大阪市立大学協議会声明」)から、 ついに、 9月30日府警機動隊300名の出動を要請して、 医学部学舎、付属病院の封鎖を解除した。 さらに、 10月 4日には、杉本町キャンパスの封鎖を解除するため府警機動隊600名の導入を要請した。

1969 (昭和44)年 1月の東大安田講堂の籠城や、 また同年 9月の京大時計塔の抗戦の中心がセクトであり、 またセクトの中心的メンバーがその抗戦に参加していたのに対して、本学の場合には、セクトは籠城に加わらず、最後の籠城者はノンセクトだった。 セクトは、封鎖を利用し、途中でその主導権を握り、「帝国主義大学解体」 にいたる極左的スローガンを次々と乱発して封鎖を長びかせ、自己のセクトの運動の拠点として封鎖を利用し、最後の局面にはいるとセクトの勢力を温存するために、 「ネズミが沈む船からいち早く逃げ出す」 と言われるように、封鎖現場を捨てたのである。 次項に述べるように、セクトグループの温存は引き続いて、 大阪市立大学を悩ますことになる 。
10月20 日から商、 経、 法、 文の 4学部と教養部の授業を 2号館、 3号館で再開し、 12月 1日から医学部でも全面的に授業が再開されるに至った。 大学紛争は、教職員、学生に対して深刻な心理的影響を残し、物的被害もことのほか大きかった。 大学全体の被害総額は図書の被害を別にして約 1億5000万円で、 紛争によって生じた附属病院会計の赤字は約 4億円と見込まれ、 授業再開に最低限必要な応急の復旧整備費だけでも 5000万円を超えると予想されたのである 。予算建設委員会は、 大学自体で10%分の予算を保留して復旧にあてるとともに、復旧整備委員会の設置を提案した 。 復旧整備委員会を通じて順次復旧整備が進められた。

大学紛争後、 寮問題が新たな火種に

前述したように、 本学の過激派は大学紛争後も生き残り、 その後も大学を混乱させることになる。 というのは、過激派学生は1977 (昭和52)年 1月 17日に完成したばかりの新寮という根城を確保して、 そこから教養地区で行われた政治セクト間の暴力的抗争に出撃したり、教養地区の授業妨害、試験妨害に向かったからである 。 なお、 暴力的抗争は教養地区と理工地区の間の公道まで及んだことがあった。 その公道を近隣の小学生や幼稚園児が通学路、 通園路として利用していたので、 保護者からの要請もあって大学は登下校する子供達の安全を守るため、 1971 (昭和46)年度から、教員が午前、午後ともに10人ずつ教養地区正門前に立って路上警備をおこなう 「路上当番」 を行っていた。 それでも、1975(昭和50)年 6月 4日には路上警備を行う前に、登校する学童の面前で、 中核派学生が革マル派学生を襲撃し、 死者が 2名に及ぶという事件が起こった。

大阪市立大学の学生寮の推移

前述したように、 1960年代初めには、都風寮と杉本寮という 2つの学生寮が存在した。 その 2つの寮はともに老朽化していたことから、 1962 (昭和37)年4月に全学協から新学生寮建設の要望が示された。 また1963 (昭和38)年 9月には自治会によってアンケートが実施され(学生数3840、 回収2755、 回収率72%)、回収者の約半分が入寮を希望していることが判明した。 もう一方で、 当時はセクト間の激しい争いや全共闘運動の登場する以前でもあったことから、 学生部側は 「自治共同精神を養う寮生で自治でよい。 問題が出たときは学生部委員会でやれる。 高い立場で審議する。 寮生をこえ、学生としてでもできる」(『大阪市立大学学生寮の歴史』)という言葉に端的にあらわれているように、寮生の自治に対して絶大な信頼をもっていた。 そこで、学生部は新寮の検討を進め、収容人員 1000名の寮を 5 カ年計画で建設し、 まず第 1期分200名寮建設案を大学側に提案した。

大阪市に対して、 大学は現実性を考えて、 80名寮の建て替え案を要求した。しかし、 80名建て替え案に対してゼロ査定が続くなか、学生部の熱意に、大学として1000名寮の建設計画を打ち出し、 第 1期分200名寮建設を決定した。 やはり、大阪市は認めなかった。 その理由として以下が考えられた。 第 1に、寮生は寮費、 光熱水費の不払い運動を展開していたからである 。 この頃、 文部省より、 学寮管理に必要な経費は大学負担とし、 私生活に要する経費は寮生負担を徹底させること、それに先だって負担区分(光熱水費、人件費、消耗品費、食事材料費など)を明確化するようにとの通達があった。 それに対して寮生側は反発した。 第 2に、 寮規定間題が解決されていなかったからである 。 この点は1970 (昭和45)年 4月、 大阪市の監査で指摘された。 大学が入寮者の氏名すら把握していないことに問題があるとし、 寮の管理体制について抜本的改善を求めていた。

それでも大学は学生との約束を守りたいとの思いから、 とりわけ大学紛争後に大阪市に対して熱心に要求を続けた 。 その結果、 大阪市は本学の熱意を受けて、 3条件の履行を条件に 1974年度予算の復活折衝で新学生寮建設を認めた。
3条件とは、新寮完成後に当時入っていた寮から立ち退くこと、寮費を支払うこと、 寮生名簿を提出することであった。
これに対しては、 都風寮、 杉本寮の自治会から 「大学当局のどす黒い野望=百名寮建換策動粉砕に向けて進撃せよ!」 との批判ビラが配布されたように強く反発したものの、 1974(昭和49)年10月建設のタイムリミットを前にしてとりあえず3条件について柔軟な態度をとった。 この時点にいたって、 ようやく大学の熱意は寮生側に伝わったかに思えた。 しかし、 1976 (昭和51)年10月の新寮竣工時には以前のような預なな態度となった。

学生部は1976 (昭和51)年11月 25日に学生部長名の文書 「新学生寮について」を出し、 3条件の履行を説き、寮側が「数回にわたり交渉にのぞんでいた学生部委員に対して常識では考えられないような成圧を加え、あくまで自己の説を通そうとする態度に出た。 このため交渉は目下難航を極めている 。 しかし学生部委員会としては、なお解決への熱意をもっている一」と、自重を求めた。

これに対して、 活動家学生は学生部長室の占拠という行動で応え、 ついに学生部と寮生の交渉は決裂した。
交渉の糸口を絶たれた大学執行部は、 それでも話し合いによる円満解決を願って、学生部長を経験した当時の評議員を交渉役として再開した。 その交渉に先立つ1977 (昭和52)年 1月の臨時評議会において大学執行部は、 寮生が過激化して、非常手段に訴えることになるのを避けるためか、 「学生側が3条件を認めるまでは開寮しない」 とする評議会と学生部委員会の間で確認されていた基本方針をくつがえし、学生との交渉によって新寮への仮入居と杉本寮の 1年間の存続を容認した。 さらに評議会は話し合いの妨げになるとの判断で、学生部委員会の方針である上記11月25日の文書 「新学生寮について」 を撤回したのである。 こうして、 1977(昭和52)年 1月17日には、学生側は大学の関係者から鍵を受け取り整然と入寮するという 「実力行使」 で新寮へ入居を果たした。

1977(昭和52)年度は、以上のような「話し合いによる解決」路線のために学年末試験は長期に延期され、 日本育英会の奨学金貸与は休止された。また、廃寮するはずの杉本寮についても、「団交」の末、 1977(昭和52)年 6月に当時の学生部長は杉本寮の存続を約束してしまい、 杉本寮補修のために一般の予算から流用せざるをえなくなった。 その後、 1981 (昭和56)年度には杉本寮の老朽化で倒壊の可能性あり、 との調査が報告され、 1986 (昭和61)年 1月28日徹夜団交の結果、建て替えを確約してしまう 。 また新寮(「志全寮」)でも寮生は寮費を含む諸経費を払わなかった。

以上の出来事は一層大阪市や大阪市会をいらだたせた。 市会では自民党から共産党にいたるすべての会派が大学に寮間題の解決を追った。 経済研究所教授崎山耕作が1986 (昭和61)年 4月に学長に就任した際、 「大阪市と大学は物凄く冷え切った、 つめたい関係にあった」 と述懐するほどの関係に陥っていた。 寮問題の解決は避けられなかった。

(以下、略)

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