【追悼】小野義彦先生 没後30年に思う

【追悼】小野義彦先生 没後30年に思う

 1990年11月19日 小野義彦先生が亡くなられた。享年76歳。私にとっては突然の訃報であった。前年に自治労分裂の中、組合を結成し、今後も指導をいただきたいと考えていた頃だった。以来30年の月日が流れた。
 1985年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフが、ペレストロイカ改革を進めていた。停滞する社会主義に対して、民主主義的手法で改革を進めようとするペレストロイカに、小野先生も大いに注目しておられた。負の遺産の清算も含めて、新たな社会主義の前進を望まれていたと思う。
 91年秋には保守派によるクーデターが発生し、その後は、ソ連邦崩壊、ソ連共産党の崩壊に至り、理論上も組織上も、大きな転換が求められることとなった。

 以来、何かにつけ「小野先生が生きておられたら、どんな分析をされるだろうか」が、皆の口癖になったように思う。先生の業績や、小野理論の再評価などの重い課題は、私には及ばないことだが、没後30年という節目に、小野先生を偲び、今後の活動の糧としたい。

以下は、「Assert Web」に蓄積している小野先生に関連する文書リンクです。
さらに、1992年に発行された追悼集「資本主義論争と反戦平和の経済学者 追悼 小野義彦とその時代」から、吉村励さんの「小野さんの歩んだ道」を再録させていただく。

また、「知識と労働」No43(1987年11月)に掲載された「『統一戦線と人民戦線』について」を、新たにデータベース化しました。講演テープを起こし、先生による修正・加筆の上、知識と労働誌に掲載されたものです。(佐野秀夫)

小野先生に関連する文書リンク

【寄稿】「小野義彦と私 –敗戦前後–」 小野みどりさん  2001年10月20日

【報告】小野義彦先生没後10周年墓参会 2000年11月25日

【投稿】小野先生の思い出–最後に出会った学生として 2000年10月21日  江川 明

【読者の声】by 広島・S 1999年9月15日

【投稿】小野義彦没後7年に寄せて   1997年12月8日

【報告】故小野義彦氏を偲ぷ集い、盛大に開催 1992年12月15日

【追悼】小野先生逝去一周年奈良高安山霊園に埋骨 1991年12月15日

『詩』  レクイエムを望まぬ人に 1991年6月15日

【追悼】追悼 小野義彦先生  1991年2月15日

 

追悼 小野義彦とその時代

1992年11月発行 小野先生追悼集

小野さんの歩んだ道        吉村 励

 小野さんは1914年(大正三年)に生まれた。1914年は、いうまでもなく第一次世界戦争が開始された年である。この第一次世界戦争を通じて、日本資本主義は中立国と参戦国の二重の利害を獲得して、飛躍的な発展をとげた。この年に生まれた人々の中に、「大三郎」という名の人が可成り散見されるのは、日本資本主義の発展における大正三年を記念しての命名であることを知るものは、次第にすくなくなってきている。
ところで、第一次大戦後、ロシア革命、ハンガリアの革命、ドイツ革命、日本の米騒動、相対的安定期における中国をはじめとする革命運動、1929年の世界恐慌、1933年のナチスの政権獲得、中日戦争、第二次世界戦争と世界は激動をつづけた。
 第二次世界戦争後は、二つの体制間の冷戦と共存が、世界情勢の基調をなしてきたが、今やソヴェートにおけるペレストロイカを起点とする世界的激動は、東欧におけるいわゆる「社会主義体制」の崩壊をひきおこし、それは、さらにソヴェート自身に反作用して、バルト三国の独立運動や、ソヴェートの最近のクーデターとして現象している。世界は、第一次世界戦争後の激動にも比すべき大激動に突人している。1914年に生まれ、1990年にその生涯をとじた小野さんの一生は、したがって、この世界の激動と深くかかわっている。小野さんの一生は、その意味において、大正から昭和へ、そして昭和から平成へと激動の世界を生き抜いた抜いた知識人の生涯ともいえよう。
 もちろん激動の世界に生きながらも、「荒波にもまれる貝の家」にとじこもって、できるだけ社会的関連をもたず、できるだけ、個人的安静を願う生き方もあれば、逆に「歴史を創る」側に積極的に関与して、激動の中に身を投じていく生き方もありうる。また、その動機にしても、個人的利害から、底辺に生きる人々と共に生きるというヒューマニスティックな動機にいたるまで、さまざまでありうる。そして、小野さんの一生は、働く人々と共に、その生活の向上と改善をめざす目的にささげられた。その意味で、小野さんの一生は、働く人々の幸福をめざして、激動する世界に深くかかわって生きた知識人の一生といえる。
 一高退学から専検を通じて京大への学生時代、皇道史観に対立して、学生運動に深くかかわっていった小野さんは、皇道史観の克服こそが、人民を解放する道だと考えたにちがいない。そして、歴史認識の深化と歴史研究の推進の過程で、彼は奈良本辰也、林屋辰三郎の知友を得ることになった。戦争の進展とともに、軍隊に召集され、学生時代の運動の前歴がバレて、ラパウルから召喚され、官位はく奪の上、軍事裁判にかけられた彼は、このおかげで、奇しくも、その一命を保持することができたといえよう。人生において「禍福はあざなえる縄のごとし」とは、よくいったものである。
 敗戦後、彼は、積極的に解放運動にかかわりながら、理論的研鑽を続けた。学生時代に始まった歴史研究は、当面の日本資本主義の性格規定と関連した。特に、当時、支配的であった戦後の日本資本主義の従属論に、彼は鋭い批判を加えた。この従属論は、植民地・従属国の規定を、機械的に、戦後日本資本主義に適用したものであり、日本資本主義における独占査本の発達を無視するものであった。『経済評論』(1957年6月号)所収の「従属経済論への批判」を起点とする彼の論文と論争は、日本資本主義を独占資本主義として正しく規定することに向けられた(現在では、世界の経済大国として君臨する日本資本主義を強大な独占資本主義の国家としてみとめるには誰もやぶさかではあるまい。その点で、まさに小野さんは正しかったのである)。そして、彼は、このような謬論の生まれる根拠は、いわゆる「講座派」の理論的体質にあると指摘し、「講座派」「労農派」の対立の揚棄、より高次元での統一を目ざすことになる。彼の大著「戦後日本資本主義論』(1963三年、青木書店)は、その目的のために書かれたものであり、彼の研究と論争の一応の中間的総括であり、わが国における日本経済研究の水準をたかめる―つの道標ともなったものである。
 ところで、この従属論の批判は、彼の一身上に大きな変化をひきおこすことになった。
その―つは、古い従属論に固守する組織(しかも、この組織に彼は絶対的な信頻と愛情とをよせていたのであるが)から、いわゆる「異端攻撃」をうけることになったことである。しかし彼は、この「異端攻撃」は、一過性のものであり、事態は、時の経過とともに変わるものであると確信していた(この認識において、彼は誤っていた。いずくんぞ知らん。この異端攻撃を生み出した官僚主義=独善主義は、一過性のものではなく、体質に深く根ざした同疾ともいうべきものであり、単に個別日本的現象ではなく、世界的現象であった。しかし当時において、小野さんは勿論、周囲の友人にもわからなかった。やっと最近にそれが、歴史を通じて明らかになったところである)。
 いま―つは、「従属論」の批判を契機として、大阪市大経済学部に職をえたことである。紹介者は原田伴彦(故人)、川合一郎(故人)であり、直接に事にあたったのは、川久保公夫、川島哲郎、吉村励と文学部の森信成(故人)であった。
 大阪に移るとともに、彼は「水を得た魚」のように一層活発に、研究活動と教育活動とを開始した。全国金属の活動家とも深いかかわリをもち、大阪の労働運動にも積極的に関与した。また彼の理論的・思想的影響をうけた多くの優秀な学生達が輩出した。大阪に移った当座、彼が最も愛したのは「キツネうどん」であった。うどんだけは、東京は大阪には及びもつかないというのが、当時の彼の持論であった。そして、この庶民性が、学生と彼とを一層結び付ける接着剤として機能したのである。
 そのほかに、彼は、その日本資本主義論をもって、日ソの経済理論の交流につとめた。ペウズネルを始めとする多くのソヴェート経済学者との交流は、彼の日本資本主義論にみがきをかけることになった。この日ソ交流の過程の中で、彼がラトヴィアで受けた交通事故は、彼がそれまでも批判しつづけてきたソヴェート官僚主義の弊害を、骨身にしみる形で、彼に刻印することになった。そして、いまだからいえるが、この交通事故を契機として、彼は急激に、肉体的衰弱をしたように思われる。事故後、松原市の阪南中央病院でリハビリに努力する彼の姿を見て、同行した崎山耕作氏とともに、彼のおとろえを見て胸をつかれた。
 肉体的衰弱にもかかわらず、彼はなお、超人的ともいえる研究・教育活動を継続した。それが彼の命を縮めたともいえる。
 その官僚主義を、口をきわめて批判しながらも、彼の愛してやまなかったソヴェートは今激動の中にある。ジャーナリズムは、ドイツの統一、東欧の激動、ソヴェートの激変を通じて、社会主義の終焉を喜び、その死を宣言している。しかし、早まることはない。今激動の中にある社会主義は、民主主義の伝統のなかった、その歴史を経験したことのない社会主義である。プロ独裁の名をかりた一部官僚独裁が、社会主義による生活向上とともに、民主主義の試練をうけるようになることは、歴史的必然である。エンゲルスは「天国へも人をけりこんではならない」と強調した。天国へ人をけりこんだ体制が、今批判されている。しかし、社会主義の死を宣言しているジャーナリズムが、天までもちあげている市場経済、その絶対的範疇としての資本主義が、地上に天国を形成するものでないことは、資本主義国で生活している私逹が知悉しているところである。市場の原理は競争の原理であり、強者の論理である。そこでは、弱者はきりすてられ、おちこぼれは破棄される。資本主義が社会保障や社会福祉で、体制を補完しなければならなかったように、ゆれ動いている社会主義社会は、市場経済に復帰したあとで、再度、民主主義の徹底化のあとで社会主義の問題に直面するであろう。小野さんの終生の親友であった森信成(故人)は「民主主義の徹底は、社会主義に到達する」とかねがね主張していた。小野さんのよき後継者である若い友人達は、眼前の事象にとまどうことなく、小野さんの残した課題を追求してゆくであろう。その意味において、小野さんは、若い諸君の中に、今も生々と生き続けているのである。

(奈良産業大学教授・大阪市立大学名誉教授)

1991年8月27日

カテゴリー: 社会主義, 社会運動, 追悼, 運動史 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA