【書評】 『フェミニズムと科学/技術』

【書評】 『フェミニズムと科学/技術』
 (小川眞理子著、2001.11.5.発行、岩波書店──双書・科学/技術のゆくえ、2,100円)
 
『フェミニズムと科学/技術』という題名は、やや唐突な印象を与えるが、本書は、まさしく近代世界システムの原理をなす「科学」に切り込んだ書である。

 著者はまず、「事実に依拠する」が故に「客観的」で確実であると思われてきた科学知識が、1950年代末~60年代初めに登場した新科学哲学派によって大きく揺さぶられたことを指摘する。R.N.ハンスンのいう「事実の理論負荷性」(人間の観察には「裸の事実」はあり得ず、「事実はある理論的な枠組みの中で初めて捉えられる」)やT.クーンの「パラダイム」(ある時代の科学者共同体が共有する世界についての基礎概念)によって、科学の「客観性」や「合理性」は動揺し、科学実在論から科学の「社会構成主義(社会構築主義)」的な見方が確立した。すなわちこのことは、科学の卓越した客観性や価値中立性を後退させ、「自然という書物」は、誰が読者であるかによって解釈が変わる「自然というテクスト」に置き換えられ、「複数の可能な読解に対して開かれた」ものとなったことを意味する。

 「さまざまな解釈を待つテクストとなった自然は、ここにはじめてフェミニストの視点(中略)から科学知識を問い直す余地が生じる。過去において男性ばかりによってなされた自然というテクストの解読に、女性が参加することによって、また西欧以外の人々が参加することによって、何かが違うかもしれないという期待が抱かれたとしても不思議ではない。多くの人によって、テクストの読みは深められる」。

 そしてこの科学哲学の大変革期と重なるのが、第Ⅱ期フェミニズムである。第Ⅰ期フェミニズム(リベラル・フェミニズム──女性の法律的な権利の獲得を目指した20世紀初頭までの運動)とは異なって、20世紀後半の第Ⅱ期フェミニズムは、ラディカルな様相をもち、「男女の性的関係というきわめて個人的なことが実は政治的なことであるとし、家父長制を批判」する側面を有していた。この運動は大衆レベルへと拡大していったが、80年代にジェンダー(「社会的文化的に構築された性差」)という言葉が導入されることで、「生得的で生物学的な性差(セックス)だけでは掴みきれず納得できなかった問題に新しい理解を与えることになった」。つまりセックスの問題としてこれまで考えられてきた事柄の多くが、実はジェンダーであったことが明確に意識されるに至ったのである。

 かくしてジェンダーは、「個々の女性ではなく概念としての女性を考える道具となり」、これを分析の手段として科学知識の問い直しが可能となった。そして科学がジェンダー概念から決して自由ではないことが論議されはじめたのである。

 著者はこの視点から、「なにゆえ女性科学者は少数か」あるいは別の表現を用いれば「なにゆえ女性科学者はメインストリーム(mainstreamは malestreamだともいわれる)にならなかったのか」を問う。そして女性科学者の場合、優れた科学者である前に、女性というアイデンティティを確立しておく必要のある「ダブルスタンダード」が問題となると指摘する。ノーベル賞を受賞した女性科学者でさえ、「彼女は料理し、掃除し、ノーベル賞をとった」という新聞の見出しで報道されるように、世界的な科学研究のみならず女らしい仕事での有能さが強調されるのである。しかもそのような女性科学者も、ごく近年まで権威ある学会から排斥されてきたという事実も存在する。(例えばフランス科学アカデミーは1911年、キュリー夫人の入会を拒否したが、彼女は翌年に2度目のノーベル賞を受賞している。同アカデミーは1979年になってはじめて女性の正会員を認めた。)

 そして日本の女性科学者の分析を踏まえて、女性研究者の増加のためには、女性を排斥して形成されてきた現行の科学システム=「女性の側に独身男性並になることを強いる」システムの改革が不可欠であり、「制度の中で子育ても介護も支援して女性科学者を男性の対等なパートナーとして育て上げる意気込みを持たなければ、日本の科学/技術に期待することはできないだろう」と強調する。

 以上の指摘は的確であるが、著者はさらに「科学に貼り付いている男性性というジェンダー」について検討する。その中で「科学的思考=男性的」という広く信じられている図式は、「科学=ヒロイズム=男性的」の図式に由来するという説を紹介する。また「ケプラー、ベーコン、ガリレオ、ボイル、ニュートンといった人物によって彩られる目覚しい科学革命の時代、すなわち理性の輝かしい勝利の時代が、その一方で激しい魔女裁判の嵐が吹き荒れた時代でもあった」ことに注目し、次のように述べる。

 「このような状況にあって科学と魔女裁判が深いところで繋がっていないはずはなく、男性科学者による徹底的な自然の探求と征服は、男性による女性の懐柔・征服と軌を一にするものであり、そこから著しく逸脱した女性は魔女として糾弾されることになった。また実験科学においては『女としての自然』を詳しく調べることは、自然を拷問にかけて秘密を白状させることに例えられ、魔女裁判における審問と平行して考えられていた」。

 このように自然探求という行為が、近代において「積極的で攻撃的な実験的探求へと変化し」、男性性というジェンダーが貼り付けられてきたとする。著者は、この具体的な例を18世紀の動物学と解剖学を通して明らかにし、「科学者が何を研究テーマに選ぶかは重要な問題であり、これは誰が科学をするかということと深く関係している。研究者が男性であれ女性であれ真理の探求には変わりがないというほどことは単純ではない」と指摘する。

 ここにおいて近代科学は、その枠組み自体を再検討せざるを得ない時代に突入したのであり、フェミニズムと科学、ジェンダーと科学の問題は今後大きな課題として取り組まれる必要がある。本書はそのための入門書として適しており、この中で紹介されているエピソードや諸文献も有用である。(R) 

 【出典】 アサート No.290 2002年1月26日

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【投稿】自治労再生への道とは

【投稿】自治労再生への道とは

 はじめに
 昨年9月以降、日本最大の労働組合に激震が走っている。使途不明金問題、右翼対策費、そして簿外口座処理問題、関連会社の幹部による横領発覚・逮捕起訴、続いて法人税法違反で元委員長まで在宅で略式起訴される事態となった。マスコミ報道が先行し、組合側は対応に追われ、組合員の不信は底流で広がり続けている。
 一体、何が原因でこうした事態となったのか。私の勝手な見解を明らかにして、自治労の再生の道を考えてみたい。

1、連日の「自治労報道」、狙われていた自治労
 自治労は2001年8月末に第72回定期大会を開催して、新しい執行部体制を確立した。そのわずか1ヵ月後の9月30日、読売新聞と朝日新聞が「自治労が右翼と関係」「2億円の使途不明金」との報道を行う。
 関係会社UBC、そして共済事業の手数料などの収入の流れ(簿外口座)とその使途(組織対策費等)、手数料収入をめぐる法人税法違反へと追求は止まらなかった。10月10日関連会社役員の逮捕から簿外口座暴露、そして39億円とも言われる、簿外での借財問題。そして後藤元委員長逮捕(12月初旬)、と昨年の秋から冬へ、闘争どころではない事態だった。まさに公務員制度改革の山場の時期であったにも関わらず。

2、決定的なダメージ
 自治労という労働組合の位置と役割は、非常に大きいことは周知のことだ。政治闘争にしても、自治体を取り巻く政策課題や市民と結びついた活動、平和・人権運動など、連合労働運動の中でも地域闘争を担う「律儀」な組合という、今どき稀有な労働組合なのだ。
 今回の一連の事件の発覚によって、これまでの社会的な信頼もかなりのダメージを受けてしまった。組合員の信頼も然ることながら、社会に対してダーティな印象を与えてしまったことは、大きな後退である。自他共に「誇り高い」自治労組合幹部(本部から単組まで)は、従来の自信を無くしているようにも思える。一連の再生議論も内外の不信にいかに対処するか、この危機的状況をどう乗り切るか、に議論の中心があるように思えてならない。「自治労」という名前を変えるとか、300億円を超える自治労基金を取り崩し「社会貢献基金」を創設するという議論に象徴的だ。

3、組織運営・組合資金をめぐる問題の存在
 今回の事件は、以下の問題に集約できるように思う。
 A共済事業における手数料収入の組織的処理・法人税問題、B関係会社における常識的な経営関与の問題、C簿外口座含む財政政策と組織内チェック体制の問題、D役職員の問題点 E以上の問題をすべて包含する意味での巨大組織運営の問題点、と思われる。
 A、B、Cについては、「マネジメント」感覚の麻痺ということに収斂するように思う。言ってしまえば、当たり前のことが出来ていなかった、という意味で、「組織の弛緩」状況を助長したシステムをどう改善するか、という問題だと思う。なぜ、自らの手で是正・改革できなかったか、ということこそ議論されるべきなのである。
 D,Eについて「再生プログラム」議論の中では、長期に役員を務める事の是非が語られているが、議論が逆だと思う。100万人の組合員の組織と運動を牽引するエキスパート、熟練工をどう組織的に育てるか、こそ議論されなければならないと思う。地方組織も同様だ。
 さらに、連合の結成、自治労の分裂(自治労連との組織戦争)、非自民連立政権と政界再編成と激動した80年、90年代において、問題は生まれて温存され、改革されることなく、今回の事態となった点も大きな視点として押さえる必要があると思う。

4、自治労再生議論について
 一時期の「連日のマスコミ報道」という時期は確かに去った。修正申告やら法的な処分も進み、残るは組織での「犯罪的行為」への責任追及と「自治労再生議論」に移りつつある。
 自治労本部は、昨年12月不祥事問題への対応のみを議題に中央委員会を開催した。真相究明の徹底と「自治労再生」に向けて、「自治労再生委員会」を設置し、1月末の臨時大会で「再生プログラム」を議論する予定だ。
 私の希望は、拙速な議論は止めた方がいいということ。信頼の回復とは、運動で勝ち取るものであり、その運動にとって何が必要であり、何が不要なのかを明らかにした改革が必要であるということだと思う。「分権型」組織という議論の方向もあるようだが「ミニ中央本部」を再生産するだけなら止めた方がいい。組織と財政は集中してこそ、力を発揮するのではないか。問題は民主的で公開された適正な運営が確保されるかどうかである。
 そして、産別組合本部への家宅捜査により自治労の財政・組織運営に関わる大量の資料が権力の手に渡り(明らかな対権力対応の弛緩があった)、組織・財政の運営実態を権力が押さえているということも忘れてはならない。不正の摘発を自らの手で自律的に行えなかったツケが権力の介入を招いたという事実に対して、単に本部の責任追求に止まらず、全組織の反省が必要だという前提を忘れてはならないと思う。そうでなければ、再生議論もまたもや自治労内の「組織内政争」という、組合員を忘れた「従来の議論」に陥りかねないことを指摘しておきたい。(H) 

 【出典】 アサート No.290 2002年1月26日

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【投稿】ABM制限条約脱退と「報復戦争」の継続

【投稿】ABM制限条約脱退と「報復戦争」の継続

<<絶妙のタイミング>>
21世紀の最初の1年が、平和と協力への明かるい展望ではなく、露骨な報復合戦の拡大と途方もない軍事拡大路線を鮮明にし始めたことは実に憂慮すべき事態の展開と言えよう。12/13、ブッシュ米大統領は、米国が72年に旧ソ連と結んだ大陸間弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から一方的に脱退することを関係各国に通告した。ブッシュは言う。「いまや最大の脅威は、テロリストや大量破壊兵器を入手しようとするならず者国家である。ABM制限条約はこれらの攻撃から国民を守る能力を開発する妨げになる」と。これほど厚かましく、身勝手な論理はない。テロ行為と宇宙戦争計画とは何の関係もないし、緊急焦眉の課題でもない。しかし、これを無理矢理関係付けることに、テロリストがブッシュを大いに助けることとなった。同じ12/13、9/11のテロ攻撃がビンラディン一派の犯行であり、ビンラディン自身が主犯であることを証明しているとする証言ビデオを公表している。
ここにはたまたま日が一致しただけではない意図的な情報操作が見え隠れしている。ブッシュ政権の任期末までに本土ミサイル防衛(MD)配備を軌道に乗せるには、2002年の来春にはアラスカ州にミサイル迎撃ミサイル・サイロの建設開始作業に着手する必要があり、6ヶ月前の条約脱退通告期限が間近に迫っていたのである。事前に通告意図を伝えられた米上院バイデン外交委員長は、12/12、大陸間弾道ミサイルによる米国攻撃は差し迫ったものではなく、議会を無視した決定に対しては法的措置をとる可能性もあると言明していた。
出所も内容もいかがわしく、当初公開を渋っていたにもかかわらず一転して公開に踏み切ったのは、この公開直前にABM制限条約脱退通告を発表していたからであろう。国際的な批判をかいくぐる絶妙のタイミングでビデオを公開したのである。ブッシュ大統領は「このビデオを見れば、この男が有罪であるだけでなく、良心のひとかけらもない人間だということがわかったはずだ」と得意満面で記者団に語っている。このビンラディン証言ビデオによって、ABM条約脱退も米軍自身が「炭素菌生産」に関与していたニュースも吹っ飛んでしまったのである。

<<「スターウォーズの息子」>>
かくして、フリーハンドを手に入れた米国は、冷戦期のレーガン、ブッシュ・シニア以来の宇宙空間軍事化計画・「スターウォーズの息子」に乗り出し、同じ12/13にはネバダ核実験場で再び未臨界核実験を強行している。20世紀末の冷戦構造の崩壊と終結は、核兵器を「冷戦の遺物」として、いよいよ核軍縮が現実の確固たる課題となるかの期待を抱かせたのであるが、アメリカの一方的覇権の確立とともに、歯車は逆転しだした。平和と軍縮、緊張緩和と国際的協力への期待は、冷戦期のものであって、冷戦終結後はその根拠を失い、夢想と化したかの情勢を生み出している。いまやブッシュ政権はABM制限条約こそが「冷戦の遺物」だと開き直り、次は包括的核実験禁止条約(CTBT)など一連の核軍縮関連国際協定からの一方的離脱の動きに乗り出そうとしている。
そしてブッシュ大統領は、たとえアフガンで停戦協定が実現したとしても、「対テロ戦争はアフガニスタンを越えて継続される。テロリストをかばい支持する国家には罰が下される」として、このブッシュ政権の原則を侵犯した諸国は「敵性体制」とみなされ、「十分な償いをさせられるだろう」としてさらなる戦争拡大を合理化し、「第2次反テロ戦争」の「うってつけの目標」としてイラクやソマリアへの攻撃を示唆している。
地球温暖化防止京都議定書からの一方的離脱、世界人種差別撤廃会議からの脱会・退場や、地雷除去、生物科学兵器の禁止など国際的合意をことごとく妨害し、自己の帝国主義的覇権への一方的追随を強要する、これこそが「ならず者」国家の典型と言えよう。国家的テロ行為と不法占領を国是としたかのようなイスラエルは、こうした事態の展開に便乗して、93年の平和的解決に向けたオスロ合意は破棄されたとして、テロ攻撃を批判・非難するパレスチナ自治政府までを「テロ支援組織」として勝手に「認定」し、自治政府施設に白昼公然と軍事攻撃を行い、これを正当な「報復戦争」だと叫ぶ。ブッシュとイスラエルのシャロン、この二人の「ならず者」、そうしてこうした彼らを正当化させ、我が物顔にさせるテロ組織の民衆を犠牲にしたテロ攻撃、彼らは両者不可欠の一体のものとさえ言えよう。不即不離・両者一体となった陰謀説がまことしやかに流される根源でもある。

<<「われわれ二つの海軍」>>
しかし、逆転する事態の真の根源は、冷戦終結の成果を軍縮と緊張緩和、国際協力に結びつけず、帝国主義的覇権と独占的支配に結び付け、富を独占し、不公平と格差を拡大し、差別と貧困と環境破壊を野放しにし、民主主義のよって立つ基盤を破壊してきた、アメリカを先頭とする先進諸国の側にあることは間違いない。かれら同盟軍がよってたかって最新鋭戦闘機やミサイル、新型大量破壊兵器を使って猛爆撃すれば、事態の成り行きは見えていよう。しかし、冷戦期の矛盾をそのまま体現し国力も疲弊させられてきたタリバン政権を崩壊させ、内戦にも終止符が打たれたとしても、それは表面上のことであって、事態はまったく解決しないどころか、むしろより深刻な憎悪や新たな内戦を生み育て、いつ噴き出すかも見えない報復攻撃応酬の果てしない泥沼に足をとられることとなろう。テロ撲滅戦争を「どこまでも続ける」と公言するブッシュ大統領には事態を解決し、世界に希望をもたらすような未来はないといえよう。
ブッシュ大統領は12/7、アフガン攻撃に参加した空母エンタープライズに乗り込み、60年前の日本軍国主義の真珠湾攻撃に言及した後、「ファシズムの後継者であるテロリストを打ち負かす戦いは、停戦協定によって終結されるべきではない」と言明、「過去に敵だった日本が現在、最良の友人であることを誇りとする。現在われわれ二つの海軍が並んでテロとの戦いに従事している」として、日本の「海軍」派遣を高く評価し、小泉首相は悦に入っている。「どこまでも続く」戦争への日本の一層の協力、そしてミサイル防衛構想へのさらなる協力拡大が焦眉の課題となってこよう。来年1月には東京でアフガン復興国際会議が開かれる。米軍の連日の猛爆で廃墟と化したアフガンの復興は、容易なことではない。掛け声だけでうわべを取り繕った援助の見せびらかしでは通用しないであろう。「報復戦争」加担の当事者となった日本、その小泉首相がブッシュと並んで援助をちらつかせても、二人の危険な思慮浅き正義感づらしたカウボーイ精神は、世界の平和と協力を願う人々の思いとはかけ離れた、憎悪の対象となろう。(生駒 敬)

【出典】 アサート No.289 2001年12月22日

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【講演録】「21世紀のグランドデザインをどう描くか」(その1)

【講演録】「21世紀のグランドデザインをどう描くか」(その1)
                 公立はこだて未来大学 複雑系科学科 小野 暸

こんにちは。ご紹介頂きました小野暸です。函館から飛んで参りましたが、とにかく寒いのは苦手でして、函館を離れる口実にもなりますので、これからもどんどん呼んで頂きたいと思います。
ご紹介頂きましたように、私は現在、公立はこだて未来大学の複雑系科学科というところにおります。この学科は、世界でも初めての、学部段階で複雑系科学を取り扱う新しい大学・学科です。私は自分自身では複雑系科学をやっているという意識はまったくなかったのですが、どういうわけか複雑系、特に理科系の人々から見ると、私の言っていることが複雑系に見えるようで、それで京都から函館に移ることになりました。今日は複雑系科学のことも織り込みながら、これからの日本、あるいは世界をどう見ていくべきなのか、若干考えていることをお話しさせていただきます。

「21世紀のグランドデザインをどう描くか」というタイトルで話せと事務局の方から依頼されたわけですが、非常に大きなテーマです。どこまで迫っていけるか自信はないのですが、簡単に最近考えていることをお話ししていきたいと思います。
お手元に、1枚ものと4枚のレジメとをお配りしています。4枚の方は、私がこれまで書いてきたものの端々を繋ぎ合わせてみたものです。全体で7つの大きな章立てから成っています。授業で1年間かけましても終わらないという内容ですが、2時間でどこまで行けるか、大急ぎでお話ししたいと思います。

<世界を観る、世界を創るということ>
まず、最初に私がつけましたタイトルが「世界を観る、世界を創る」となっています。こういうタイトルにしたのは、第4章の「科学の大転換」と第5章の「内部観測とは何か」の内容に関連します。「内部観測」という言葉は、あまり目にされたことはないかもしれませんが、今、複雑系科学の最先端の分野で語られている事柄で、科学の基礎理論に革命をもたらす可能性を秘めた新たな考え方です。従来の哲学にしても科学の基礎理論にしても、唯物論と観念論とが対立するという構図が、ギリシャ・ローマ時代から2000年以上続いてきましたが、いずれに与するにせよモノとココロとを断絶的にとらえてきた我々の思考の基本的土台が、複雑系科学の最先端では足元から崩れ始めているとの様相を現した言葉です。「この私」が「世界を見る」ということが如何なることであるのかが、科学の世界で問い直されてきているわけです。

<外化・疎外態の様相>
順番にお話してもいいのですが、先ず、昨夜作りました1枚ものをご覧いただきたいと思います。ここに、「外化・疎外態」と書かれています。私は哲学には疎い人間で、どちらかと言えば哲学嫌いの方なのですが、この問題が私の話の基本という事になりますので、急遽昨夜作ってきました。
30年くらい前になりましょうか、森信成先生の「マルクス主義と自由」というお話を聞いたことがあります。疎外態には3つあり、第1に宗教、第2に国家、第3に資本である。これをどう乗り越えていくのか、それがマルクス主義思想の根幹をなすとの内容だったと理解しています。その時は、森先生の話をまったくその通りだと思って、非常に納得をして聞いた記憶があります。ただ、長じてからはいろいろな事を考えるようになりまして、その言葉は確かにその通りなのだけれど、言葉足らずではなかろうかと考えるようになりました。森先生が、というのではなく、マルクスその人の言葉足らずが、その後の、あるいはそれ以前からの長年にわたるマルクス主義・共産主義の運動に非常に大きな制約を課すことになったのではないかと思うようになったわけです。
私の考えでは、宗教も国家も資本も、それが疎外態になるのは、いずれも位階的・階層的な「組織」として存在してきたが故ではないか、人々にとって当たり前の必要事である「カミ・協議・元手」…それらが「組織体」としての外皮を身にまとうからこそ「疎外態」に転化するのではないかということです。

内実・必要性 外化・疎外態
宗教  カミ(世界の謎)
救済・解放への希求 排他性・独善性
教団・経典・位階制組織機構
国家 協議・集団的秩序維持
安全確保・互助システム 軍隊・官僚機構
法律や規則体系
資本 生活の元手・衣食住の基礎
自己能力の開発 法人企業・限定された市場
独占的構造・国家との癒着と融合
<カミの概念と宗教組織の成立>
例えば宗教について考えて見ましょう。宗教とは、結局のところ「カミを信じる」ということです(私はカミ・ヒト・ココロ・モノなど、概念規定の困難あるいは不可能な概念はすべてカタカナで表記することにしています。漢字で書くと、固有のイメージが喚起されてしまうからです)。さしあたり皆が信じているカミは、宗教によって皆違うわけですが、この世界は科学者が考えているようにできたのではなくて、謎なる「神秘なる一撃」がそこにあったと。それが「カミによる創造」と言われていることですが、カミ・ホトケの姿形やその教えは宗教によって皆違ったとしても、とどのつまり、世界が謎である、神秘であるという考えですね。そういうものを想定し、すがるという形で、この世の苦しみと悲しみに満ちた現実から救済されたい、死に対する不安や恐怖から解放されたい、そうした救済と解放を乞い願う気持ち、そういうものが宗教心と呼ばれているものですね。
こう考えると、宗教のコアをなす要素とは、人類にとって必要不可欠な要素だったのであって、人知を超えた存在を想定し救済・解放を願うことは人々の当たり前の願いです。宗教とは、そうした人々の自然な願いをまったく排他的・独善的に解釈・決定し、それに基づいて教団という組織内に人々を囲い込み、その教えとして経典という不可侵なる教説体系を作り、どのような教団・教会にしても、位階制的で官僚制的な組織機構を築き上げてきました。
このように考えますと、宗教という概念とカミという概念は根本的に異なるものです。私が言う宗教とは組織宗教ということですが、それとカミという概念とは厳然と峻別しなければならないと考えています。カミとは、すなわち宇宙・世界の創世およびこの世の一切の現象の駆動因に関わる謎であるとすると、それは取りも直さず、科学的な探求の対象でもなければならないということです。カミを科学的に探求するとは如何なることか、その問題に関しては後ほど触れることになると思いますが、申し上げるまでもなく、従来の科学ではそうしたアプローチをとることが原理的に不可能です。
そのように考えるならば、今後の科学の新たなあり方として、科学的なカミの謎への迫り方、アプローチの仕方を根本的に考え直さなければならないでしょうが、いずれにしても、科学がカミの謎の探求に本格的に乗り出すならば、その当然の結果として組織宗教は死滅に向かう他はありません。そうしなければ、第二・第三のオウム真理教や、諸々の宗教的原理主義あるいはカルト宗教が今後も多数現われて人々を痛め続けることでしょう。
けれども、カミそのものは決して死滅しません。そこが重要な点で、例えばフォイエルバッハやマルクスはキリスト教を否認しましたが、そのために彼らは天上のカミをヒトの低みに引きずり降ろし(つまり「カミの本質は人間の本質」と片付けてオシマイ)、そうすることでカミをも葬り去ろうとしたのですが、そんなことでカミは否認できるものではありません。
カミとは宇宙の謎、生命の不可思議そのものですから、例え上のように今後の新たな科学によってその内実への接近が為されていくとはしても、科学が宇宙の一切の謎を解き明かすことなど、金輪際、不可能です。千年後、1万年後、10万年後の科学であっても、その前にカミの謎は永遠に横たわり続けているはずです。だからこそ、宗教的妄信や狂信的組織が人類社会から消滅し去ることも決してないのでしょうが、科学が本格的に乗り出せば、そうした連中の社会的影響力は著しく低下していくはずです。
言い換えれば、本来の科学あるいは徹底した唯物論の観点からするなら、カミは否定の対象ではなく、どこまで行っても判らない対象ではあるとしても、永遠の科学的研究の対象であるべきなのです。

<国家について>
次に国家という概念についてです。元より、人類はたった一人では生きていけないわけで、なんらかの集団を作り、補い合って生きていかなければならない。マルクスによって「類的存在」として示されているとおりです。人類が生きていく上で、人々が多数集まって話し合いをして、それに基づいて集団の秩序と安全を維持していくために、相互の互助的なシステム・制度等々を考え出していかなければなりません。これは人類が人類として誕生して以来ずっと続いてきておりますし、未来永劫続いていくものです。
それが民族単位で排他的な「国家」を形成し、行政機構や軍隊組織を持ち、法律や規則体系で人々を縛り付けていく、そうした形態でなければならないかどうかと言うと、別の形態も当然にあり得る話でして、それが「国際連合」で良いのか、あるいは世界連邦や世界政府なのか、またはまったく異なる地球大での協議システムであるのか、その未来形態を探求し続けていく必要がありましょう。
ずっと以前に、ある方が「ソ連こそは、民族問題を最終的に解決した歴史上初めての国だ」と言われ、また「ユーゴスラビアこそは、多民族の融合の見本だ」と主張されていた著名な学者もいました。そうした主張がとんでもない誤認や妄想であったことは、今では誰の目にも明らかです。民族対立の問題は、
多くの場合同時に宗教対立という深刻な問題をもはらむものですが、その対立構造を超えていくことは、人類にとって至難の課題です。後にも触れますように、国家とは宗教の世俗化形態として生み出されました。だからこそ、そうした問題解決の方向を考えていくに際しては、単に政治的協議形態は如何にあるべきかとの議論だけでは不十分で、宗教的呪縛からの人類の解放をも視野に入れた検討が不可欠であると思います。

<資本および資本主義とは何か>
3点目に資本とは何かに関してです。資本と聞いただけで、これは敵である、対抗しなければならないと、私個人としてもある時期まで無条件に自動反応みたいに対応し、パブロフの犬のように資本といえば悪であるというように思い込んできました。しかし、宗教の問題と同様に考えていきますと、同じ論理構造をしているのではないでしょうか。資本とは、有体に言えば、人間が生きていく上で無くてはならないものです。お金に限らず衣食住の基本と言いますか、それが無ければ人間のみならず、すべての生命は生きていくことができません。命にとっての必要不可欠なるもの、それが人類の場合には資本と呼ばれているわけで、お金だけではなく、それを使って自らの能力を最大限に開花させていく、そのための元手でもあるわけです。
近代の産業革命以降、株式会社に代表される所謂「法人」企業という形態が出来てまいりまして、資本を一手に独占的に握っていく、従いましてマーケット(普通マーケットを市場「しじょう」と読みますが、私は「いちば」と読めと教えています。何故か、というのは後でお話いたします)の構造を見ましても、参加者は法人企業、大企業に制限され牛耳られている。そして、独占的構造の基に国家と癒着していくことになります。
資本主義を一言で定義するなら、私の考えでは「株式会社主義」です。どの経済学辞典を開いても、そうした定義は載っていません。資本の機能やら、資本が利潤を生むメカニズムやらの説明はありますが、資本主義の「一言定義」はありません。資本という概念は、人類が道具を用いて自然の富を蓄えることが可能になった、その瞬間に生まれたのでありまして、自己の生存・人類増殖のための元手ということ以外の概念ではないのですが、それが「主義」になったのは、人類一般にとって当たり前の前提であった共有物としての経済的社会的資源・元手を一握りの会社が独占するようになって以降のことです。19世紀以降の世界で資本を独占的に占有し利用してきたのは株式会社ですし、それ以降の時代を資本主義と呼ぶわけですから、当然にも資本主義=株式会社主義と定義してよいし、そう定義すべきなのですが、残念ながら経済学の世界ではそうはなっておりません。そのことからも、資源・元手としての資本自体それ自体が悪の代名詞であるかのような幻想が醸成されてきたではないかと、私は考えています。
要するに、資本それ自体が悪であるはずがないわけで、資本が会社組織によって独占され、普通の人々個人には近付くこともできず、大多数の人々が会社組織に縛り付けられているという構造こそが問題なのです。言い換えれば、資本それ自体には人格や感情などあるはずもないですが、資本に「人格」が付与されたこと、つまり資本が法人格を保持するに至ったことが、資本主義の矛盾の根源にあるのです。
森先生は「宗教、国家、資本」を三つの疎外態であるとおっしゃいました。けれども、人類社会の必要性という観点からそのことをもう一度考え直してみるなら、それらがすべて「法人組織」になることによって人類にとっての疎外態と転じるに至ったのであって、それゆえ「宗教・国家・資本」のコアに存す
る「カミ・協議・元手」の非組織的なあり方をもう一度考えなければならないのではないでしょうか。そうした考えが、私のベースにあります。それをお心に留めて頂いて、これからのお話しを続けたいと思います。

<大転換期にある現代>
4枚のレジメの方に移りましょう。第1に、「大転換期にある現代」と書いています。これは、私が5~6年、もう少し前からでしょうか、何か論文を書く度にまず冒頭に持ってくる話です。20世紀の終わり頃から今に至る現代、世界全体が5つの意味で根本的な大転換のステージを迎えていると私は考えてお
ります。
第1に、「戦後の秩序」が終わったこと。これはもう論証の必要すらないことですね。第2の「体制間の思想対立」は、旧ソ連、東欧の社会主義世界体制と呼ばれてきたものが突然、自ら崩壊したことによって、あっという間に終わってしまいました。けれども、この対立構造をそのままひきずっている人々は、まだまだ数多いですね。思想的な場面でみております限り、この事の意味を世界史的な視野で受け止めて将来展望を描き出し得ている人は、世界全体を見てもまだ一人もいないのではないかと思います。それから第3の「近代的な価値観の終焉」については、300年、人によっては500年という人もいますが、数百年にわたって続いてきた価値観・考え方が崩れ去ろうとしています。
因みに戦後秩序は50年ですね、体制間の思想対立については、幅がありますが100年から150年のタイムスパンの事柄です。近代という時代は、長く見て500年の間続いてきました。それから、今、皆さんも感じておられると思いますが、国家というシステムも揺らいでおります。国家という組織形態がいつ頃
から存在したか、これも議論のあるところですが、シュメールの都市国家の成立は、大体6000年から7000年前ですか。古代エジプト王朝の成立を考えても5000年程前ですね。
さらに、宗教の成立はずっと古い。何をもって宗教とみなすかは議論のあるところですが、例えばイラクのシャニダール洞窟から、ネアンデルタール人の子供の墓が発掘されたという有名な話があります。弔いの跡が明確に残っていて、死者に花を大量に添えていたということで世界的に有名ですね。おそらく死後の世界というものを想定して、その死後の世界にはカミが居られるという観念が、既にネアンデルタール人の頃には存在していた、そして何らかの宗教的な行為を伴っていたのではないか、と言われています。ネアンデルタール人の時代は、大体10万年前から3万年前頃までで、一説にはクロマニヨン人とも共存していたと言われています。宗教も世界大で消滅の過程に入っていると私は捉えておりますが、そう考えますと数万年単位で起こることが現在起こっている。
数万年、あるいは数千年、数百年、百年、50年、それぞれタイムスパンも違い、それぞれ意味内容の違う大転換が同時輻輳的に、しかも世界大で起こっていると私は捉えています。つまり、従来、私たちが社会主義であろうが共産主義であろうが、あるいは資本主義であろうが自由主義・民主主義であろうが、従来の人々が何らかの形で正しいと考えてきた思想やシステムあるいは秩序が、世界大で同時的かつ連鎖的に崩壊する過程に突入しつつある、それが今日の世界であると考えております。

<キーワードは「法人組織」>
この事態の「キーワード」と書いておりますが、結局のところそれら異質の現象に何らかの共通要因が見出せるとすれば、すべて「法人組織」の成立とそれへの人々の全面的従属という事柄に関わっている。この数千年、あるいは数万年かもしれませんが、最古の組織である宗教が成立して以降、人間個人一人ひとりの価値よりも、全然次元の違う崇高な価値が「組織」にこそあるという認識が人間社会の中に蔓延してきました。そうした「組織第一主義」「組織絶対主義」の成立と定着の歴史を考えていきますと、まず組織宗教が人間社会の中に成立して、それが世界大で広がり、その影響下に如何なる形態であろうと人々は組織されなければならず、全く同じ価値観を持つこと自体が素晴らしいことであるとの考えが常識化するに至りました。組織されない個人一人ひとりには何の価値も無いという考え方が、仏様が孫悟空の頭に嵌めた輪ッカのように人々の頭を締め付け続けてきたのです。
組織宗教の世俗化としての国家も、その後に成立して参りますが、その国家の枠組みも当然にも宗教組織の組織化原則に準ずるものでなければならないのであって、必ず軍隊や官僚機構というものをもたなければならないと考えられてきました。そうした考えが、さらに近代以降になりますと経済の分野にまで広がっていきます。組織された一枚岩の会社こそが、もっとも経済活動を効率的に行えるのだとの観念が一般化し、時代をリードしていく理念・理想は会社の中でのみ構築可能であるのであって、個人には不可能だとの思い込みが人々を支配していきます。そんな考え方が、あっさりと成立し世界大で完全に広がり、完璧にできあがっているわけです。
こうした思考は、言うまでもなく倒錯しています。ヒトでない組織がヒトを支配し、生身のヒトは組織内ロボットと化しているのですから。人類社会の歩みについてもう一度考え直してみますと、これからの基本的な方向性とは、人間個人ひとり一人こそに価値があり、組織に価値があるのではなくて、個人一人が生きているという事の中に本来の価値を見出し、積極的に伸ばし展開していくという方向性があらゆる考え方のベースになければならないのではないでしょうか。

そんなことを言っておりますと、何を夢のようなことを言っているのか、とすぐに言われます。私はこういう考え方を持ちましてすでに十数年になりますが、十数年前の頃に私がどういう扱いを受けていたかと言いますと全くの孤立無援でありました。まだ当時はソ連・東欧社会主義体制が元気であった頃でし
て、ゴルバチョフが消えてしまうなど想像もできなかった時代です。私にとって先輩でもあり友人でもあり、日本における複雑系経済学の第一人者と見なされている大阪市立大学の塩澤由典さんという方がおられますが、その当時、私の「万人起業家社会論」の議論に対して「小野さんの考えは分からないわけで
はないが、300年から500年は早いんじゃないの?」と揶揄するように言われたことがあります。
ところが世の中変わるのは早いもので、それからあっという間にベンチャービジネスが日本においても大々的に持て囃されるようになり、インキュベーターとかインキュベーターシステムなどがあちこちで騒がれるようになりました。日経新聞でもベンチャーとか起業家と言う言葉を見ない日は無いほどになりましたね。300年早かったのではなくて、高々10年位は早かったということでしょうか。

<対テロ世界戦争の意味するもの>
さて、どんどん次に進みますが、現在緊急の課題になっております対テロ世界戦争についてです。私は9月11日にあの事件が起きた時に、瞬間的にこれは戦争だと思いました。皆さんもそう思われたと思いますが、私は同時に、これはアメリカが引き起こした戦争だと瞬間的に思いました。どういうことかと言いますと、これはアメリカが事前に知っていてやらせたに違いないと感じたわけです。その事は、翌日早くも証明されました。翌日には、実行犯グループが特定されたわけです。早々とアメリカ政府あるいはFBIは、あの段階ですでに30数名の犯人グループを特定し、名指しで発表しております。それができたということは、前々から目をつけて動静を把握していたことの結果以外の何ものでもないでしょう。2~3日して流れてきた情報によれば、6月か7月でしたか、そのグループが在外米軍基地でテロを引き起こす計画があるとの通知が日本政府に対してあり、ところが日本の外務省はそれを外相に報告せずに握りつぶしたとか報告しなかったとかの報道がありました。それ以外にも、さまざまな形で長期にわたってアメリカが対テロ戦争に臨戦態勢で臨んできたことががわかってきました。
結局のところ、アメリカの建国以来の戦争を考えてみますと全部そうなのですね。一番古い例では「リメンバー・アラモ」です。19世紀の前半だったと思いますが、テキサス州がまだメキシコ領だった頃、西へ西へと版図を広げようとしていた当時のアメリカは、国境を越えてテキサスに大量のアメリカ人移民を送り込み、彼らにメキシコからの分離独立闘争をやらせました。このアメリカ人独立部隊が、ジョン・ウエインの映画で有名なアラモ砦に立てこもり全滅しました。虐殺をされたわけです。アメリカ政府は「リンメンバー・アラモ」を合言葉にして国民を煽りたてて、それをきっかけにアメリカは「対メキシコ戦争」を引き起こし、テキサスをメキシコから奪い取ることに成功しました。
次にアメリカがやったのは「米西戦争」ですね。この時も、キューバのハバナ港に停泊していたメイン号というアメリカの軍艦が、何者かによって爆破されます。これをスペインが爆薬をしかけたと言いまして、「リメンバー・メイン」との合言葉であっという間に開戦に踏み切ります。その次は第一次大戦です。これはイギリスがアメリカを参戦させるためにやらせたと言われていますが、多数のアメリカ人が乗っていたイギリス客船をドイツに攻撃させて多数の民間人の犠牲者を出しました。その結果、アメリカは参戦に踏み切ることとなりました。
その次が、かの「パールハーバー」です。パールバーバーについては、最近専門的な研究書がたくさん出てきていますが、アメリカがすべてを知っていた上で、大日本帝国海軍の機動艦隊に襲わせたということが明らかになってきております。次は、トンキン湾事件ですね。トンキン湾事件以降、北ベトナムへの北爆に踏み切るわけで、その材料に使われます。その次は湾岸戦争です。湾岸戦争の時もイラクによる軍事行動を容認するかのような発言を当時の在中東アメリカ大使が繰り返します。当時のブッシュ大統領も、あえてイラクを持ち上げるような発言を繰り返していました。今回も、まったく同じ構図が見て取れるわけです。
いずれの場合にも、アメリカ人は伝統的にモンロー主義的な考えが主流で、対外戦争を嫌う風潮が支配的であったのですが、民主主義国家であるが故に、アメリカ政府としてはそういう世論を一夜にしてひっくり返すために、そうした事件を引き起こす必要があったのです。民主主義も、それが国家という外皮をまとうと、国民を欺く世論誘導を常套手段とするに至るという、その見本のような事態ですね。

<アメリカによる世界一元支配>
そうするとなぜアメリカはそんな事をしたのか、という疑問が当然出てきます。父ブッシュと息子のブッシュは、毎日電話で連絡を取っているらしいですね。父ブッシュ以来の共和党戦略は、ソ連東欧社会主義世界体制が自らズッコケて以降、アメリカによる一極的な世界支配(パックス・アメリカーナという「世界新秩序」)をどのように作り出すか、に腐心してきたわけです。クリントン時代は経済が好調でしたから、そういう戦争行為は必要ではなかったわけですが、ITバブルが見事に弾けて、どんどん株価が下落するという事態になりますと、好戦的なブッシュが選ばれて一挙に戦争モードに切り替わったということだと思います。
アメリカが世界一元支配を実現するために考えた大きな狙いとは、中国はまだ社会主義そのものでありますから、先ずは中国の取り込みと弱体化を図る、次にロシアを取り込むことであったはずです。そして弱小国家であってもアメリカの言いなりにならない、例えばイラクやリビアとか、またシリア・ソマリア・スーダン・イエメンなどを強圧的にアメリカの意向に沿わせる、そうした国際世論を一夜の内に作り上げるための戦略を練りに練ったに違いないと思います。
この戦争は10年~20年は続くと、ブッシュやパウエルやラムズフェルドなどが繰り返し言っております。これはどういう事かといいますと、これからずっと戦争モードが続くということです。景気が悪くなり、貧しくなる人が大量に出る一方で、ガバガバと儲ける人はたくさんいるわけです。今後、ボーイングやロッキードなど、一時は倒産の危機に瀕していた軍需企業が一気に息を吹き返すことになります。また、アメリカは恐らく、無人偵察・攻撃機やデイジー・カッターや燃料気化爆弾などの目に見える軍事技術以外にも、想像を絶するような未来型兵器を極秘にテストしているに違いないと私は考えていますが、そうした技術を総動員することで、最終的に中国や北朝鮮などの「目の上のタンコブ」的国家の殲滅ないし弱体化を追求していくはずです。

<金ドル本位制の復活>
次に、経済におけるアメリカの世界支配の構図と書いています。いろいろ流れてくる情報や状況証拠を勘案しますと、1972年のニクソンショックでドルと金とのリンクを断ち切ってフロート制に移行して以来30年を経て、金ドル本位制を復活させようとしているのではないかという声があちこちから聞こえてきますが、私は、それは恐らく真実であろうと思います。
来年の1月1日から、欧州共通通貨・ユーロが名実ともに通貨として市場に流通します。貨幣論者や国際金融システムの学者やらが、これからの世界貨幣の動向という問題について、ドルは引き続き力を持つだろうけれども、これからはドルとユーロと円の三元バスケット制になるなどと言っていますが、私はそれはあり得ないと思います。述べてきましたようなアメリカの意図を勘案すると、当然ユーロだけに甘い汁は吸わせないとアメリカは考えるでしょう。欧州共通通貨という構想が出てきた当時から、アメリカが対抗戦略を練ってきたことは間違いが無い。様々な情報を聞いていますと、72年以降一時ドンと金価格が上がるわけですが、それからは長期低落傾向が続いています。その間に、アメリカ政府は民間に大量の金を国際市場で買い集めさせていたことが明らかになっています。イギリスに金を放出させ、オランダ、ロシアにも同様にさせて金価格を安値に誘導し、その時期にがっぽりと金を買い込んで、底値の時に金ドル本位制を復活させたら誰が儲かるだろうか。今ですら、ニューヨークの連邦準備銀行の地下金庫には9000トン近い金が眠っておりますし、それに民間の保有金を合わせますとダントツの金保有国です。金と再び結び付けられたドルは名実共に唯一の基軸通貨として復活し、今後には絶対的強大さを保持した世界貨幣権力として再登場することになりましょう。
これからの10年20年を考えますと、政治・軍事・経済・金融・科学などありとあらゆる領域でのアメリカの得手勝手な専横的支配が強まり、至るところでアメリカの一元支配を追求するという動きがさらに強まっていくことが確実です。これはもうブッシュが大統領になる前から検討されていることで、例えば
京都議定書からの一方的な離脱、CTBT(包括的核実験禁止条約)やABM(戦略ミサイル迎撃網)制限条約を反故にし、核融合国際研究から一方的に引き上げるとか、そういう戦略を追求しているわけです。そういう戦略にどう対決していくのか、ということです。

<パックス・アメリカーナとの対決>
そうしたパックス・アメリカーナ的な事態にそのように対抗していくのか、これは地球人の全体の課題だと思いますが、パックス・アメリカーナと対決していくパワーを多少とも持っており、対抗できる一定の思想的背景も持っているのは日本人しかないだろうと私は思っています。「近代」が終わったということをお話しましたが、近代西欧科学も終わりつつあります。そして今後の世界を引っ張っていく新しい科学がどこで登場しているかと言いますと、実は日本なんですね。日本における複雑系科学の中から、これからの時代を先導的にリードし得るだけの革命的な科学理論が登場してきています。日本には、科学革命を成し遂げる科学技術の力もマンパワーもありますし、資金もあります。そうした日本の知的・物的資源を集中していくことで、内向きに閉じこもるのではなくて、新しい考え方を世界に向かって提起し発信していくことが可能になると思います。
これからの日本の世界的な貢献としては、第1に、それは国連改革ということから始まるでしょうし、それとワンセットの形で日本の自衛隊の問題を最終的に解決しなければなりません。私の考えている最終的解決案とは、平和憲法を厳格に擁護しながら自衛隊を世界平和のために徹底的に活用するという「三方一両得」のような構想で、憲法改正など全然必要がありません。それどころか、世界で唯一、厳格な平和憲法を持つ日本こそそれができる。日本の自衛隊は、憲法上の保証をなんら持っていない幽霊のような軍隊ですね。ところが、昨年出ましたストックホルム平和研究所(SIPRI)の報告書によりますと、日本の軍事力はアメリカに次いで世界第2位だというわけです。もちろん、核兵器はないわけですから、通常兵力と言う意味で世界第2位だそうです。それが幽霊なのですね。幽霊の如き自衛隊と平和憲法とを、どのようにすれば両立させることができるのでしょうか。

<自衛隊を国連常備軍に>
国連の軍事・警察システムとしては、PKOやPKF等がありますが、国連軍については国連憲章に明確な規定がありながら、一度も組織されたことがありません。朝鮮戦争では国連軍を名乗りましたが、まやかしでした。その国連軍の常備部隊として、自衛隊をどうぞどうぞと差し上げてしまうというのが私の構想です。それができる国家は、世界に180余ケ国ある中で唯一、日本だけなんです。それが可能なのは、交戦権を放棄し戦力保持をも明確に禁止している絶対平和主義憲法を持っているからこそです。よく似た憲法を持っている国にコスタリカがありますが、自衛権までは否定していません。
平和憲法ゆえに、自衛隊を持ちながらそれを「専守防衛」以外に使うことができないと歴代の政府は言い続けてきました。今回、中東地域に派遣することになりましたが、このような形でアメリカに追随して海外派兵をするのであれば、私は徹底して反対をしていきたい。同時に、アメリカに追随するのではなく、また自国のためだけでもなく、世界平和のために働く世界初の国連常備軍として自衛隊を活用すると言うのが私のプランです。日本以外の他国の軍隊は、幽霊ではありませんから、自国の政治的思惑や国家権益に左右されて、ソマリアから米軍が逃げ出したように、世界平和を最優先に任務を遂行することができません。憲法上の規定を欠いている幽霊の自衛隊だからこそ、それが可能なのです。もちろん、そうなれば自衛隊員は世界初の国籍を持たない「国連人」となり、平時には日本に駐留することになるでしょう。それこそ、如何なる他国の「国軍」にも真似のできない、最強・最善の自衛・安全保障策ともなるはずです。

<日本国憲法の反宗教的性格>
日本国憲法は、注目すべき世界に冠たる特徴を、もう一つ持っています。それは反宗教ということです。他の欧米諸国の憲法には「神」という用語が出てきます。ブッシュ大統領は、どこでも「神のご加護を」と必ず言い、「神は我々についている」と常に強調しますが、イギリスでもフランスでも同じですね。憲法の中に神の概念や用語が出ておらず、しかもそういう要素がにじみ出てくることを二重三重に防止している憲法は日本国憲法しかありません。従いまして、宗教を超えていくことが今後の人類の基本課題だとすれば、それができる人々とはこの日本国憲法のもとに生きている、この日本列島に生きている人々しか有り得ないのではないか。そういう意味で、世界平和の建設をリードし、また宗教を超えた、そうした世界の基本的な将来像を考える上で、日本は先進的な、ある意味では革命的な役割を持ち得るだろうし持たなければならないと考えております。平和憲法と反宗教憲法ができたということは、世界で日本人だけが2発の核兵器の惨害を被ったことの直接の帰結として、そういう憲法条項が生まれてきたわけですから。

<世界金融センターとしての日本の役割>
次に、今後の世界経済における日本の役割ということです。日本だけの役割というわけでは必ずしもありませんが、あえて日本の役割という意味で考えますと、日本が世界の金融センターにそろそろ成ってよい時期に来ているのではないでしょうか。バブル期までの巨大な金融資産は相当目減りしているとは思いますが、それでも民間の金融資産だけで千何百兆円もの資金が行き場を失っている状態です。それだけの巨大な資金がこれまでどこへ向かってきたかと言いますと、日本の金融機関を通じて相当部分がアメリカへと還流していたわけです。以前には、アメリカの国債の3割以上を日本が購入していた時期もありました。アメリカがドルを世界中に垂れ流す一方で、それを再びアメリカへカムバックさせる役割をダントツに引き受けていたのが日本だったわけです。ゼロに近い市中金利を上げられないという事態も、アメリカの金利よりも低い金利水準でなければならないとの対米従属的構造ゆえです。数年前に当時の橋本首相が、「何ならアメリカの国債を売ってもいいんだぞ」との脅しを一発かましただけでマーケットは大慌てになったことがありますが、そんなことをしたらアメリカ経済は一発でダウンするはずです。当然にもアメリカから強硬な抗議がきまして、橋本首相が慌てて「いやいや冗談です」とお茶を濁す一幕もありました。
今後10年20年、アメリカが置かれている現状を勘案しますと、アメリカの資金の相当程度が軍事力に流れていくでしょう。そうすると、これまでそうであったような形でニューヨークが世界の金融センターであり続けることは相当困難になっていくでしょう。9月11日にワールド・トレードセンターが壊滅したこと、これは極めて象徴的だと思いますが、世界金融システムにおけるひとつの時代が終わりつつあると見るべきだと私は思います。要するに、世界中の資金をアメリカへと還流させ、そしてそれをアメリカが好き放題に使ってきたのが戦後50年の世界的金融の構図であったとしたら、これからは日本あるいはEUが世界の金融センターの中心にならなければならない。そんな役割を、日本が引き受けていかなければならない、そんな時期に来ているのではないか、と私は思います。
もちろん、それはアメリカの経済的な弱体化をもたらします。お金というものは回りまわっていくものですから、金融センターに集まってもそこに滞蔵されることは全くありません。一旦日本に集まって、アメリカが世界の警察官として使ってきたような使い方ではなく、発展途上国への支援や平和のための科学技術研究など、良い意味で世界に還流されていく、最も資金を必要としている最底辺の人々にこそ資金を供与していく、そういう新しい世界大での金融の流れを、日本は大々的にひとつのプランとして打ち出していく必要があるのではないか。おそらく、これから戦争モードをずっと続けていくであろうアメリカにとって代わって、日本が日本にしか出来ないことを、これから積極的に世界に向かって引き受けていくという構図、それを我々自身アピールし、その具体的な中身というものを考え出していくことが必要ではないか、それが我々の研究課題、また学問上の課題ではないかと思います。(続く)

【出典】 アサート No.289 2001年12月22日

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【コラム】ひとりごと —労組内のあれこれを暴露—

【コラム】ひとりごと —労組内のあれこれを暴露—

◆自治労が、経理不正・脱税事件で揺れている。その不正事件の内容は、マスコミ報道に任すとしても、組合員の自治労への不信・批判は相当なもので、その波紋は組合脱退への動きにまで広がる様相となっている。筆者も自治労傘下労組の職場役員であるが、私の周囲にも、これを理由に脱退意志を示す者がちらほらいる。そこで私なりにも、かつての労組幹部役員の経験から、「こんなことをしているから、だめなんだ!」と思ったことを暴露して、組合への思いを伝えてみたい◆マスコミ報道では「組合員同士の飲み食いにもー」と言われているが、実際、これはよくある話である。会議が終わった後の食事や二次会までも組合が面倒みたり、委員長をはじめとする組合三役には役職手当が支給されているにも関わらず、非公式な接待費用も別に組合が肩代わりしてるなど。特に組合御用達のスナックは、日常的に組合が飲食代を支払って、そこに組合員が組合三役に群がることもあったりする。もっとも小さな組合や組合下部組織では財政基盤も弱くて、そんな贅沢はできないが、組合組織が大きくなればなるほど、ありがちな話でもある。ただ、こうした腐敗風土も幹部ばかりが悪いのではなく、「高い組合費を払っているのだから、それぐらい当然」だとか「労働組合は酒を飲んで意志を固めあうもの」などと開き直る一般組合員や中間幹部の意識にも問題があるとは思う◆今回の自治労不正事件では、共済事業会計が舞台となっているが、こうした事業系部門が腐敗を生み出しやすい土壌となっていることも事実である。例えば生命保険などの共済事業の場合、組合組織が大きいほど、その手数料などのリベート収入も大きくなるし、加えて組合の保険事業も利益追求と言うよりは共済互助を一応の目的としている以上、その契約手続き・支払い事務も性善説をある程度、前提としており、そのチェックシステムも甘くなりがちである。さらにはこうした保険共済事業には、それなりの専門的知識が必要であり、その事務処理も、担当部門が属人的かつ長期的に委ねてしまうのである。また機関紙発行などの教宣関係も腐敗を生み出しやすい部門である。小さな組合なら教宣担当者の手作りの味で発行されて、まさに大いに組織強化に資するのだが、組合が大きくなると、そのボリュームも発行部数も多くなり、印刷業者もできるだけ固定的に受注されるよう接待攻勢をかけ、教宣担当者も、これに甘んじてしまうなどの癒着が生じてしまうのである。本来、こうした継続的な契約業者は、役所のように定期的に入札替えするなどの措置をすべきであるが、それがなかなかできないのもまた癒着の実態である。このように労組にも腐敗を誘引しかねない状況は多々あるが、これを防ぐためには、少なくとも組合員に対する組合経営の公開と担当者の定期的な異動ぐらいは必要不可欠である◆さて、こうした労組の陥りやすい不正・腐敗の構造的な問題とは別に、そもそも労働組合という組織自体の風土的な問題にも、その背景的要因があるように思える。労働組合の組織運営は、意外と家父長的なもので、よく「相撲・歌舞伎・労働組合」と古いものの代名詞に使われるぐらいである。いくら組合民主主義と言ったところで、日常的運営ではやはり、委員長・書記長の発言力・判断権限は相当なもので、およそ組合員の多くがそう思ってないことであっても「親分がそう言っているのならー」と道理が引っ込むことはよくあることである。ただ「相撲・歌舞伎」なら自らも古い伝統を守ることを是としているからまだしも、労働組合は「平和・民主主義」を標榜しているだけに、その体質改善は至難の業である◆今回の自治労の不正事件では、組合幹部と一般組合員との意識のギャップも問題にされている。確かに大労組では、幹部役員が組合専従となり、ある意味では組合プロとなって役職を歴任していくことが多いのだが、そのことは必然的に一般組合員との意識の乖離を招くものとなっている。実際、筆者の知っている例でも入職して10年未満で専従になり、まともに仕事をした経験のない者がいるし、また一定の休職年限が切れても、「今さら仕事に戻ってもー」と本人も周囲も更に上級機関の役職を「処遇」するのである。こうしたことが組合幹部の世間離れ・組合員離れ、そしてしいては若手役員の登用も妨げてしまうのである。しかし、その一方で組合役員は確かに多忙で、大労組であるほど、とても仕事を兼ねながら組合活動を行うことは不可能であり、組織強化の観点からしても、組合専従自体を否定できないのも事実である。加えて、こうした組合幹部の意識の乖離は、幹部役員の資質によることも多いと思うが、組合費のチェックオフも、これを一層、補強しているとは言えないだろうか◆このように色々と考えてみると、労働組合も所詮は人間の集団であり、腐敗もすれば過ちも犯すものである。問題は、それをいかに防ぐかにあるのだが、そのためには特に利権が集中しやすいところを中心として、運営・経営状況の公開と外部監査制度や組合オンブズマン等のチェックッステムの確立、また組織の根幹にも揺るがしかねない重要決定事項に関しては、大会決定に委ねることなく、組合員の一票投票で決するなど、およそ今日、行政でも企業でも求められつつある様々な改革こそが求められているのではないだろうか。(民)

【出典】 アサート No.289 2001年12月22日

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『詩』 呼び換え遊び

『詩』 呼び換え遊び

大木 透

いやはや 慌しいことだ
「インフィニット ジャスティス」では
マホメットさまに申し訳ない
「十字軍」では
ハンチントンの罠にはまってしまう
そんな名前は いや
ちょっと呼び名を変えてよ
それで なんと呼ぶようになったの?
そんなこと知るもんか
自由もちょっとは腐るかな
なんて言っちゃあいけねえよ

ちょっぴり呼び名を変えて
剥製にするっちゅう算段は
ずいぶん 昔に
ジョージ・オーウェルさんが教えてくれたこと
賢人は「一九八四年」に書いている
ニュー ニュー ニュー ニュー
ニュースピークって

さては 俺も
年とって 騙されたのかな
こちらの国でも
魔法はずいぶん流行っているようだ
スパイ防止法・盗聴法→個人情報管理法
大量解雇→リストラ
職安→ハローワーク とは
これいかに

「名より面影は偲ばれる」
とりどりの「対案」は
甘い麻薬みたい
心穏やかに 安らかに
「対案主義」に耽っているうちに
つぎつぎ 見事な「対案」が紡ぎだされて
「成熟社会」の夜は
いよいよ更けていく

ねえ きみ
どう呼ばれたら
嫌なものはイヤと
言えるようになるんだろうねえ
なんと唱えたら
この魔法が
解けるんだろうねえ

(二〇〇一・一〇・六)

【出典】 アサート No.288 2001年11月24日

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【投稿】行き詰まる小泉政権

【投稿】行き詰まる小泉政権

<<「決断症候群」>>
 いま、「決断症候群」なるものが蔓延し始め、政治の世界を覆っていると言う(11/10朝日夕刊、杉田敦・法政大教授)。同氏によると、「これに『罹る』と、まず自覚症状としては、気分が非常に軽やかになる。これまでいろいろと悩んできたのは、すべてどうでも良いことであり、物事はきわめて単純で、自分はずっと前から結論を知っていたのだと言う気分がする」。この程度であればそれほど問題がないのかもしれない。ところが、「恐るべきことに、最も顕著な『症例』はこの国の中枢部に出現した。『何をすべきかはわかっている。そんなものは常識だ。あとは実行あるのみ』という勇ましげな声が永田町のほうから響いてくる。自衛隊の派遣、治安対策、さらには有事立法に至るまでがまるで議論の余地がない自明なことのように扱われ、問答無用の形で実施されようとしている」。「テロは断じて許せない! したがって報復戦争への参戦は当然の常識である」とする小泉首相の論理。胸を張って肩をいからしているが、「テロリズムこそは、最もひどい決断症候群の帰結である。しかしそれに対抗しようとして、自分たちが思考を停止してしまってはどうしようもない。考えることは何もないという知的退廃が社会を覆ったとしたら、それこそが本当の危機の始まりである。」これは、小泉首相がこの症候群の重症患者であると言う診断であると同時に、この「決断症候群」の社会への蔓延を食い止めなければならないという貴重な警告とも言えよう。

<<「小泉氏の話法」>>
 もう一つ。池澤夏樹氏が「小泉氏の話法」(インターネットコラム「新世紀へようこそ」-10/14付)で指摘されている危険な誘導論法がある。その論法は、「不得意、不得手なことは官僚のメモをぼそぼそと読み上げる。にわか仕込みでもこれで行くと決断したことに関しては一方的にガンガンまくし立てる。いずれの場合も対話と説得など論外である。テロは悪い。したがって根絶しなければならない。自衛隊を出す以外の方法は最初から視野に入っていない。『それがなぜいけないのですか!』-これは問いのように見えますが問いではありません。小泉話法による断定の典型です。問いかけるように見えて、実際には反論を遮断している。後になってファシズムを糾弾するのは簡単です。しかし、振り返ってみれば、そのときには国民はこぞって支持したのです。わかりやすい敵を指差し、闘いを煽る。みながその気になって棒を持って走り出す。そういう方へ誘導する話法があるのです。この誘導的な話法が徹底的に改良されて、今、ブッシュ氏や小泉氏によって使われています。一歩の距離を置いて、冷めた頭で彼らの言うことを聞きましょう。」これもまた、いま最も必要で不可欠な提言と言えよう。
 自ら省みることのない症状と話法の典型が、首相の靖国神社参拝に対して「参拝は違憲である」との訴訟に対するコメントである。「話にならんね。世の中おかしい人たちがいるもんだ。もう話にならんよ。」(11/1付各紙夕刊)。これがすべてを物語っている。「おかしくて、話にならん」のは首相自身である。内外の情勢の中で自らが置かれた立場が見えない、自らのおかしさや滑稽さがまるで見えない、そんな生易しいものではない。憲法遵守の義務さえ忘れた、基本的人権を真っ向から否定するファシストの論理である。化けの皮がはがれつつあるが、こんな首相であっても、いやむしろそれだからこそ高支持率が続いているとも言えよう。

<<巧妙な罠?>>
 それはある意味では、小泉政権は完全な行き詰まり状態に逢着していることの反映であるとも言えよう。日米ともに、深刻な景気後退と、グローバリズムの覆い難き矛盾が露出し始めていた、ちょうどそのようなときに9/11の前代未聞のテロ攻撃が仕掛けられた。アメリカ権力中枢の一角が密接に絡んだ仕組まれた、巧妙な罠ではないかという陰謀説が真実味を帯びてくる所以でもある。日米両政権とも戦争熱に浮かされ突っ走ってはいるが、背後の両国経済は深刻な事態に直面しており、世界同時経済恐慌への不安とおびえから脱却する展望はそう簡単には見い出し得ない。いわばテロ攻撃は救いの神でもあった。当面はすべてをそれになすりつけることはできよう。しかし、冷戦崩壊後の今日、軍事経済化と戦争特需で景気を領導できるような時代ではない。兵器の在庫一掃と、新兵器開発で潤うのは一部軍需産業とガス・石油油田支配をもくろむエネルギー関連独占だけであろう。テロを挑発し、巧妙な罠を仕掛けることに利益を見い出すこれらのグループがブッシュ大統領を取り巻いていることは周知のことである。
 しかし、報復戦争開始後も、米国経済の落ち込みは止まらず、ついに失業率は1年前の3.9%から5.4%までハネ上がり、7―9月期のGDPは0.4%減と8年半ぶりのマイナス、9月の個人消費も14年半ぶりの前月比1.8%減、9月の米耐久財受注の大幅な落ち込み(予想前月比-1.3%のところ、-8.5%)である。NYダウが8000ドル台に下落する可能性も取り沙汰され、米連邦準備制度理事会(FRB)が金利を実に40年ぶりの低金利(FF金利2.0%)に引き下げさげざるをえない事態である。しかも報復戦争は、逆にいつ襲われるとも予測し得ない報復テロの悪循環の泥沼を人々のうえに重くのしかからせ、消費を減退させ、テロ対策としての安全対策費や保険料の高騰、輸送・物流コストの増大などさまざまなマイナス要因を増大させる。テロを孤立させ、世界規模での貧富の膨大な格差を縮小する平和と協調と交渉の大胆な政策がとられない限り、こうしたマイナス要因は解消しない。

<<「12月危機」説>>
 日本経済の後退は、米国経済以上に著しいとも言えよう。ほとんどの大手企業の中間決算が下方修正となり、リストラ人員削減は過去最大規模とも言える段階に達しており、9月の完全失業率が過去最高の5.3%に上昇し、なかでも24歳以下の男性の失業率が12%を超えるという深刻な事態である。そして年内に失業率=7~8%説まで出されている。さらに、政府の01年度経済見通しがプラス1.7%成長からマイナス0.9%成長に下方修正され、小泉内閣からは反転成長する展望が全く見い出し得ないという悲観的予測が大半を占め、日経平均が再び1万円割れを迎え、9/21につけた9,383円の安値を下回る可能性もあり、不良債権問題は解決するどころかさらに解決不能な段階に拡大しそうな勢いである。
 抜本的な構造改革による景気回復を掲げながら、やったのはブッシュ政権追随のテロ対策立法と自衛隊派遣くらいで、景気回復・経済政策は完全に手詰まり、「非常事態なのに何もやっていない」(堺屋太一・内閣特別顧問)とコキおろされる始末である。
 これまでなりを潜めていた自民党内の動きもきな臭くなり始めている。野中元幹事長が小泉氏をボロクソにけなした自民党の行革推進本部長会議の議事録が週刊誌にすっぱ抜かれたり、前幹事長の古賀誠・道路調査会長は「抵抗勢力といわれることに何の抵抗もない」と公言し、橋本派や江藤・亀井派を中心とする議員55人が、「未来創造議連」(代表幹事・松岡利勝)なる反小泉の勉強会を設立するなど、「12月危機」説にむけた動きがあわただしい。
 こうした事態にもかかわらず、野党の動きが見えてこない。事態を打開する野党の奮起が望まれる。(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.288 2001年11月24日

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【書評】『〈大人〉の条件』

【書評】『〈大人〉の条件』
              (門脇厚司・佐高信 岩波書店、2001.4.9.発行、1800円)

 教育に間する論議が盛んに行われ、文部科学省をはじめ、教育改革がさまざまに提示されている中、本書は、教育社会学者門脇厚司と辛口の社会評論家佐高信による対談を通して、その教育論議、教育改革の前提を今一度問い直す。キーワードとなっているのは「社会力」という言葉であり、これを前提にしてはじめて教育改革は実効性をもってくるものとされる。逆に言えば、「社会力」抜きの教育改革は、たとえその目指すところが高邁なものであろうとも、小手先の改革に終ってしまう危険性をもつということである。

 さて門脇によれば、「社会力」とは、「人と人がつながり、社会を作る力」とされ、次のように説明される。

 「『社会力』とは何かといえば、端的にはそれに尽きるようなところがあります。社会というのは、結局、生きた人間がいて、その人間がお互いに密接に関係し合って、そのつながりのなかで、自分がすべきことをしながら生きている状態のことをいうわけで、お互いが他の人に無関心で、バラバラに行動するようになったら、社会は解体するしかないわけです。ですから、社会が成り立ち、きちんと維持されるためには、そこで生きている人たちが互いに関心を持ち、お互いのことがわかっていて、一緒にやってゆこうという気になっていないとダメなわけです」。

 すなわち「他の人への関心」をもち、よい関係、共感をもち続けることこそが社会を作っていく基礎である。ところが現代の社会では、特に若者の間にこの関心がないという状況が存在する、と門脇は指摘する。

 「人間は他人を鏡にしてはじめて自分のことがわかる動物なのです。ところが、今の若い人たちは、とかく自分のことだからといって、穴蔵のような自分の部屋に篭もって『俺は何者だ』なんて考えて“自分探し”をする傾向があります。つまり、自分のことだから自分で考えればわかるなどと思い込んでいるわけです。これはとんでもない話です」。

 佐高は、この状況を「それはもうラッキョウの皮剥きでしかないわけですね」と評する。そして門脇は、教育改革に対する「社会力」の決定的な重要性を次のように強調する。

 「意図的な教育が効果を持つためには、人間が好きだとか、他の人に関心があるといった『社会力』の土台ができていることが前提になる。それがまったくなかったら、どんなにいい意図で教育をしたとしても、効果はそんなに期待できないということをはっきり理解しなければならない。

 ところが教育をめぐる議論では、そのあたりのところがすっぽりと忘れられてしまって、母親がしつけるとか、父親が叱るとか、教師の技量を高めるとか、教育の内容を精選するとか、これに類するようなことをすれば、要するに教える側がしっかりすれば、人間など何とでも作りかえられると考えているところがあるわけです。そてれはとんでもない思い違いだと思っています」。

 しかも「社会力」は「学力」と異なって、簡単に回復できるものではない。それ故、門脇は、「『学力の低下』が問題なのか『社会力の低下』が問題なのか」と問い、「社会力」が必要とされる時代的背景を三点指摘する。

 すなわち(1)地方分権時代において自分の住んでいる地域のあり方に積極的に関わり、民主主義を実行に移すために、市民、住民のパワーアップの必要性。(2)マクロ的に見て人類社会が凄まじい状況に直面して「世界の危機が日本の危機に直結している」時に、「身のまわりの実感主義を超えた想像力」が必要とされていること。(3)またとくに日本人にとっては、「階層間の格差が拡がりつつあることにともなって生じている厄介な問題」(=格差の固定化とこの結果起るアパシー[無気力]とアナ―キー[無秩序]の状況)を打開するために社会の構成員に「社会力」が必要とされていること、である。

 このような「社会力」の必要性を踏まえて、門脇は、教育において先生と生徒が「経験そのものを共有すること」、「同行者」(=ある一つの目的を持ちながら一緒にそれをやっていく姿勢)の重要性を説く。そして佐高は、「ナマの、今、起こっているような問題(中略)それを正面に取りあげる」ことで社会への興味を深めていくことを強調する。すなわち「アクチュアルなものと古典をたとえて、ナマ物と干物とすると、ナマ物を与えないと、咀嚼力としても栄養価としても偏る」と。

 そしてこの視点は、近代社会を支えてきたとされる原理に対する批判をも含んでいる。この点について門脇は、こう述べる。

 「近代というのは、メリトクラシーというか、能力主義をベースにしてきているから、能力のある者は社会のなかでいい思いをしていいのだ、能力のない者はおまえの努力が足りないとか、能力がないからしようがないのだ、というようなことが公言され、まかり通ってきた社会です。こういう社会のあり方はもう限界に来ているのではないかと思いますね」。

 そしてこのあり方に対して、「少ないながらもある一定の量を持った人たちが、何人か協力するような形で集まった100の方が、一人でまるごと100を持っていて、だから俺は偉いなどと威張っているよりも、はるかにいい。これからの社会はまさにそのような状態を想定しながら、物事を考えていかないといけないのではないか」と、互いに知ってつながり合い助け合う関係、「社会力」を対置する。

 本書はこのように教育をめぐる諸問題に、「社会力」という立場から、現代資本主義社会そのものの変革を迫る視点を提示する。この視点は、まだ発展深化の余地があるものの、このことを語る意義は大きい。ただし本書が著者二人に共通の体験──本書は山形県荘内地方出身者の東京学生寮「荘内館」での共同生活をもとに語られている──という枠を持つことには少々の違和感を感じないでもない。しかし「人と人とがつながり、社会を作る力」を強調する著者たちの提言は、他の地域においてもっとさまざまな形で実現されてもよいのではないか。本書に続く「社会力」の実践が期待される。(R) 

 【出典】 アサート No.288 2001年11月24日

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【投稿】リストラ攻撃と「解雇」ルールの法制化

【投稿】リストラ攻撃と「解雇」ルールの法制化
                             民守 正義
1.「解雇」の現実
今日の常態化したとも言える企業のリストラ-人員削減は、正当に希望退職募集などから始まるケースもあるが、現実には個々の労働者を、陰湿かつ冷酷に退職に追い込んでいるケースも数多い。実際の例として、十数年も雇用してきたパートを週末の仕事帰り途中に、携帯電話で「来週から来なくてもよい」と一方的に通告したり、急に「勤務態度が悪い」「成績が悪い」「社風に合わない」等と言って、退職を強要するケースは頻繁にある。また、その退職の強要にしても、労働者一人に個室で三人も四人も取り囲むようにして、大声で怒鳴る罵るで退職を迫り、やむなく退職を承諾すれば、「自主退職だ」と退職金も減額されたり、雇用保険離職票も「自己都合」扱い(失業手当給付まで3ヶ月の待機制限)とされてしまう。多くの労働者は、納得できずに憤懣やるかたない思いでも渋々、会社を離れていくのだが、中にはキッパリと「やめません」と頑張る者もいる。しかし、そうすると今度は、とんでもない遠隔地に配転命令を出したり、過去の些細な出来事を取り出して(「電話の応対が悪い」「顧客に迷惑をかけた」「会社のメールを私用に使った」等々)、「懲戒解雇だ」と強硬手段に出てくることも多い。企業が、こうしたなりふりかまわず、強引に自主退職に持ち込もうとする理由の一つは、不十分ながらも、それなりに解雇制限の法理があるからであろう。
2.「解雇」制限の法理
解雇に関わる規定は、労働基準法にあることは言うまでもない。すなわち解雇通告を30日以上前に通告するか、または30日未満の場合は、30日に満たない日数分の解雇予告手当を支給しなければならないことになっている。しかし、これは解雇の手続きを定めたものであって、解雇自体を規制したものではない。解雇規制を明文化した法は、残念ながら日本にはなく、判例上の積み重ねによって、一定の基準が示されているに止まっている。その一つが、「合理的理由のない、社会通念上~是認できない解雇は解雇権の乱用として無効(高知放送事件)」として、解雇の合理性を求められることである。もう一つが、整理解雇の場合の四要件(①解雇の経営上の必要性②解雇回避の努力③整理解雇基準等の合理性・公平性④労働者への十分な説明・合意の努力)が全て備わっていることである。しかし、これらの基準は、実際に訴訟などにおいて争われた場合に作動する法理であって、現実には様々な意味で訴訟能力を持たない労働者にとっては、泣き寝入りせざるを得ない状況にあることは、前述のとおりである。
ただ一昨年から、この整理解雇四要件も東京地裁において、確定判決ではないものの、後退または緩和する判決も一部、出されてきており、リストラ解雇が横行する中で、こうした解雇制限の法理もまた、揺らぐことが危惧されてきている。
3.諸外国における「解雇」制限
それでは諸外国では、「解雇」制限に関わる法規範は、どうなっているのであろうか。ドイツの「解雇制限法」をはじめ、フランス・イタリア・イギリスなどでは、法律で具体的に解雇制限が定められている。特にドイツの解雇制限法は、事業所規模ごとに一定の人数または比率以上で解雇する場合は、「集団的解雇」として、監督官庁に対し、解雇回避策の届け出と解雇する際の同意が義務付けられている。これは、大量解雇することは、公害の垂れ流しと同様に、社会的に悪影響を及ぼすとの考え方が前提にあるわけで、大いに評価されるものである。またドイツ・フランスでは、雇用契約書締結が義務付けられており、雇用契約そのものが安易な解雇を誘引されないものになっている。(日本においては、昨年4月労基法改正で労働条件明示書の提示のみ義務付けられているが、ほとんど普及していない)さらに解雇予告期間においても、ドイツ・フランス・イギリスでは、勤続年数によって延長されるようになっている。加えて会社合併・分割などにおける労働者保護措置は、EUの指令に基づき、加盟各国が、そのための法整備が行われている。
このように見てみると、欧米諸外国と比して日本は、経済・技術は益々、先進化されているものの、こと雇用関係を見る限りにおいては、相も変わらず、「雇ってやる⇔雇っていただく」という徒弟的・封建的なものと言わざるを得ないだろう。
4.最近の「解雇」に関わる法制化の動き
最近、坂口厚生労働相が、解雇ルールの法制化について論及した。このことは、今日の大量失業・リストラ時代において、また労働法制の様々な規制見直しの中で、効となるか罪となるかは別として、大きなインパクトをもつ議論となろう。
これに関する現時点での労使の意見は、双方とも各々の立場に立った思惑の意見が出されている。経営側は、現状より緩和されるルールを法制化することを求める反面、現状であれば訴訟的な争いにならない限り、法的には縛られないものを、法制化されることにより、新たに拘束されることへの危惧である。ある使用者サイドの学者は、「法制化されることにより、企業は逆に新規採用に慎重となり、より現在の失業者は長期化する」と述べていることは、こうした使用者側の思いを代弁していると言える。また労働側も、その逆に明確なルールに基づく解雇制限を求める意見もあるが、その一方で、この間の様々な労働法制が改悪されている状況の中で、「結果として解雇緩和法になるのでは」との反発の意見も出されている。
いずれにしても労働側の立場からすれば、リストラ合理化に抗し切れていない現状からすれば、その力関係の中で法制化の内容も規定されると考えるのが妥当であり、現実にある経営側の様々なリストラ攻撃に対し、具体的に闘いを展開せずして、安易に法制化を求めることは、過去の労働運動の歴史と成果を見ても、明らかに誤りと言わざるを得ないであろう。
5.最後に
今日、これほどの企業のリストラ攻撃-大量失業を許してきた労働組合の責任もまた大きい。その大きな要因は、これまでの企業依存型の「労使協調主義」と日本的雇用慣行の崩壊、雇用の流動化の中で、未組織労働者の組織化も含め、その対応がされてこなかったことにもあろう。とりわけ大企業における対抗軸としての役割を示さなかったこともあるが、中小企業・未組織労働者の劣悪かつ経営者の横暴に何ら、手つかずの状態であったことも、今日的状況を招いたと言っても過言ではない。
その中で、一人でも加入できる労働組合-合同労組は、既存労働組合に頼ることのできない、また訴訟的能力を持たない労働者の受け皿となって、個々の闘いを取り組んできたことの役割は一定、評価されなければならない。確かに合同労組の闘いの評価は、極めて個別的であり、また物取り主義的であるとの批判もあるが、少なくとも企業に依存することなく、また加速的に進む雇用の流動化に対し、それなりに柔軟な組織形態であり、新たなる労働運動発展の可能性を、全てとは言わないまでも、その一つとして秘めていると言えないであろうか。問題は、合同労組運動なるものが今後、更に健全かつどれだけ連携的に拡がるかにある。最近の動向として、連合中央は、全国コミュニティユニオンに対し連合参加を呼びかけるとともに、未組織労働者の組織化に向け、連携して取り組む方針を打ち出した。また全労連は、傘下の合同労組に対し重点的な財政措置を行い、その運動強化を図ることとしている。こうした動きは、前述の合同労組の可能性においても注目すべき事ではあるが、ただ既存ナショナルセンターにとって大事なことは、こうした合同労組運動との連携・取り組みを進めるだけではなく、自らも企業・本工・ユニオンショップの枠に止まらず、周辺・関連労働者の組織化も含め、大胆にその意識改革・組織改革に取り組むことが何よりも求められる。そして、こうした日本労働運動の再構築と闘いの積み重ねの中で、実効ある解雇規制の法制化の展望も切り開かれるのではないだろうか。

【出典】 アサート No.288 2001年11月24日

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【投稿】報復戦争参戦の危険な選択

【投稿】報復戦争参戦の危険な選択

<<「真昼の決闘」>>
 10/4付の「小泉内閣メールマガジン」は、現在の小泉首相の稚拙で危険な心理状態をよく現わしている。冒頭の「らいおんはーと」の見出しが「真昼の決闘」である。首相いわく。「先週のブッシュ大統領との首脳会談では、…席上、思わぬプレゼントがあった。大統領がサインした映画「真昼の決闘(ハイ・ヌーン)」のポスターだ。これにはいきさつがある。好きな映画は「真昼の決闘」と伝えた。主人公は、保安官役のゲーリー・クーパーと相手役のグレース・ケリー。…ブッシュ大統領は、六月の会談で、改革に立ち向かう私を、ハイ・ヌーンのゲーリー・クーパーにたとえた。先週の会談では、今度は私が大統領をゲーリー・クーパーにたとえた。悪漢を倒し二人で(グレース・ケリーと)町を去っていくラストシーン。たとえ自分ひとりでも悪に立ち向かう。娯楽映画でありながら、アメリカ人が思い描く崇高な精神を感じた。テロリズムに対する毅然とした態度は、自由と平和と民主主義を守ろうとする米国の精神そのものだ。映画と違うのは、孤独な戦いではないこと。」と、述べて、「今週、テロ対策の新法をまとめて国会に提出する」と締めくくっている。これ以外になにもない。飢えと貧困に苦しみ、難民に追いやられている人々への配慮、思考などこれっぽちも思い浮かばない単純思考である。アメリカでは、「我々は米国とともにある」と繰り返し目を吊り上げて強調し、迎賓館の宿帳には「ファイト・テロリズム 小泉純一郎」と署名。記者相手には「ブッシュ大統領は悪人と戦うゲーリー・クーパーだ」と語って得意がる。
 この首相と大統領には、正義を体現する保安官と悪漢の構図しかないのであろう。テロにはテロで報復し、拳銃を振り回して得意がり、悪漢を蹴散らせばいいという、単純西部劇戦争の再現である。ブッシュ自身も会見の席上、「西部劇のポスターを思い出した。ビンラディンを捕まえるには、デッド・オア・アライブ(生きていようが死んでいようが)だ」と、本当に保安官気取りなのである。あきれた程度の低さである。

<<「無駄撃ち」爆撃>>
 しかし事態の進展は、複雑で危険な泥沼化の様相を示し始めたと言えよう。「どこに逃げようと、穴ぐらからいぶり出す」とブッシュ大統領は言い放ったのであるが、すでに彼らが思い描いた短期決戦は不可能な事態となりつつある。
 「早急に正義は実行されるべきだ」(ラムズフェルド国防長官)、「ビンラディンとアルカイダを殲滅する」(ライス大統領補佐官)として、ブッシュ政権はインド洋上にはF14戦闘機など70~80機を搭載した米空母カール・ビンソン、エンタープライズ、セオドア・ルーズベルト、キティホークなどを大挙集結させ、大量の戦闘機が空爆に参加、洋上の駆逐艦からはトマホークミサイルや新型兵器をさながら実弾演習のごとく発射、アフガンを取り巻くトルコ、サウジ、クウェート、タジク、ディエゴガルシア島、などの基地からは、B52やステルス爆撃機が出撃。5000人を超える急襲上陸部隊や山岳部隊が派遣され、地上戦に備えているという。
 しかしこれに対するタリバン側は、正規軍三万人程度、保有戦闘機も20機あるかないかと言う、もともと防空能力は無きに等しい状態で、こんな大規模な空爆はそもそも「兵器・兵力の無駄遣い」、「無駄撃ち」であり、むしろ民間への犠牲を拡大すると疑問視されてきたものである。初日の空爆では、レーダー網をかいくぐる“ステルス爆撃機”B2で爆撃したのであるが、かいくぐるべきレーダー網もなく、軍事的意味ゼロの「果敢な」攻撃をしたに過ぎなかった。
 それでもラムズフェルド国防長官は「空爆は大変な成功だった」と誇らしげに語っているが、これとて当初、「3日で終わる」と明言していたのに、5日もかけてまだ、「一度攻撃した地点に、再攻撃をかけることもあり得る」(ラムズフェルド国防長官)と言っており、制空権を掌握したにもかかわらず、相次ぐ誤爆と民間人の犠牲者の増大、民家やモスクや国連NGO施設の破壊など怪しげな実態である。
 さらに危険なのは、焦りに刈られ、功を急ぐ余り、危険極まりない賭けに出る可能性さえ存在していることである。一部報道によると、米国防総省は戦術核兵器の使用を大統領に具申し、最高レベルの検討が続けられているという。この問題をテレビで問われた、ラムズフェルド国防長官は核兵器使用の可能性を否定はしなかったのである。

<<泥沼化がもたらすもの>>
 ここでたとえ、11月のラマダン入り前に米軍が相当華々しい「戦果」をあげ、また、あやふやな証拠で「主要な容疑者」と指名手配しているビンラディンをデッド・オア・アライブ、殺害あるいは逮捕し得たとしても、この「報復戦争」は成功でも勝利でもない、泥沼への道に踏み込んだとみなすことが妥当であろう。
 比較的目に付き易いテログループや集団は追い詰め、壊滅させることはできるかもしれないが、もっとより大きく、根が深く、長期的な問題は、先進諸国の国民所得が数万ドルの生活を享受している一方で、年間たった数百ドルの絶対的貧困の生活に追いやられている人口の方が圧倒的多数を占めているという現実である。とりわけ中東は、先進諸国が押し付けてきた果てしなき戦争状態によって大量の難民を生み出し、その飢餓と貧困と差別から利益を享受し、資源を支配し、今また彼らに都合良く再編成しようというアメリカ資本主義の勝手なグロ-バルスタンダードに抗議する当然の要求、「大義」が存在している限り、そして先進諸国がこれらの大義を無視し、放置している限り、「報復」の連鎖は断ち切られることはないといえよう。ましてや人々の苦しみをいっそう絶え難いものにさせ、爆撃のついでに食料や医薬品を放り投げるといった軍事作戦は、さらなる憎悪を煽り立てるばかりであり、テロの脅威は減るどころか、逆に火に油を注ぎ、世界中を「報復とテロの連鎖」、果てしなき「報復合戦」の時代に追い込んだともいえよう。すでに米国のFBI、CIA自身が「米軍がタリバンを空爆すれば報復テロは100%起きる」と上院に報告書を上げている。
 そして10/12、FBIが「新たなテロの可能性がある」と異例の警告を出し、全米は厳戒態勢に入っている。ニューヨーク市をはじめいくつかのメディア関係者に炭疽菌感染者が続出し始め、「貧者の核兵器」に対する米国民のいらだちと不安が高まっている。ワシントンでは、FBIが警察当局に対し、危険物を積んだ「トラック」爆弾を警戒するように求めたこともあって、すでに首都周辺への大型トラックの乗り入れ禁止措置がとられ、全米トラック協会も監視体制の強化に乗り出す騒ぎである。
 しかしこうした不安の連鎖には際限も無ければ、これで安心という決め手も無い。そしてこの報復戦争の泥沼化は、バブル景気の清算期に入りつつあった米経済にさらに深刻な影響を与えるとも言えよう。報復戦争で潤うのはそれに関連する業界だけである。ある意味では、ブッシュの背後に控える石油資本と軍需資本が高笑いしているのかもしれない。本来この時期、クリスマス商戦に向けて米個人消費が伸びる時期である。しかし、第2、第3のテロへの不安は、消費を萎縮させるものでしかないであろう。9月11日以来、航空業界、旅行・観光業界、航空機製造業界、そしてハイテク業界は、12万人にものぼる解雇を発表している。これらの悪影響は原油価格の高騰とあいまってさらに多くの分野・業界に広がることが懸念されており、エコノミストは、失業率が現在の4.9%から来春までには7%にまで上昇する可能性を指摘している。株式市場で買われているのは、軍需関連製造・製薬・セキュリティー機器といった会社だけである。

<<「情緒的反対論」>>
 本来、テロリズムに反対するのであれば、テロによって反撃する「報復攻撃」、ましてや国家的テロルの発動である「報復戦争」にも反対するのが当然でなければならない。これに賛成し、巨大な軍事力の行使に参戦することなど、国家的テロルを助長する以外の何物でもないと言えよう。
 ところが、わが小泉首相は、テロ事件発生直後にブッシュ大統領に「最大限の協力をします」と約束。翌日には「自衛隊派遣に向けた法案を早急にまとめてくれ」と官房副長官に指示。アーミテージ米国務副長官の「ショー・ザ・フラッグ」発言をここぞとばかりに利用して、自衛隊を後方支援部隊として参戦させることを国会審議なしで独断で決めてしまい、わずか1週間で7項目の支援策をまとめ、そしてワシントンでは「悪人と戦う正義の保安官」とブッシュ大統領を持ち上げ、帰国後は「危ない所に出さないでは話にならん」と自衛隊をインド洋、パキスタンに派遣することを決定、さらには「テロ対策特別措置法」という名の「自衛隊参戦法」、自衛隊法の改正を10/5日には国会提出という異常なはしゃぎぶりである。明らかに小泉首相は破綻に瀕している経済政策の行き詰まりを、テロ事件をこれ幸いと失政隠しに利用し、このドサクサの事態に便乗して一気に事実上の憲法改悪を強行しているのである。
 この自衛隊法の改正について、民主党の若手議員が、自衛隊の治安出動に関する政府の改正案がこれまで認められていなかった「重要施設」として、「在日米軍」と「自衛隊施設」に限定したのは解せない、首相官邸や原発施設は守れるのかと異議を唱え、政府・防衛庁側から「警察権力で守れる」との説明に対して、いや警察力では守れないと論陣を張っているのには驚かされる。かれらは「自民党の中では、野中氏に代表される有力者が『国民に対して自衛隊が銃を向けることは許されない』という趣旨の発言を繰り返しています。民主党内にも同様の議論があります。」として、これらを「情緒的反対論」として切って捨てている。危うい議論である。ミサイルで重装備した巨大軍事国家でも守れなかったテロ攻撃を、テロを対置することによって対抗する愚を犯そうとしている。テロを許さない平和的解決策こそが求められており、根源的な政策が問われているのである。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.287 2001年10月20日

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【書評】『転向再論』鶴見俊輔・鈴木正・いいだもも

【書評】『転向再論』鶴見俊輔・鈴木正・いいだもも
                       (平凡社、2001.4.5.発行、2,000円)

 本書は、先日亡くなった石堂清倫の視点に啓発されて、著者の3名が、それぞれに転向問題(非転向問題)を再考察したものである。

 転向問題については、日本の革命運動では、ともすれば「裏切り」の意識から後ろめたいものとして語られることが多く、個人の倫理の問題として片付けられがちで
あった。しかしこれに対して鶴見俊輔は、『共同研究・転向』(1959年)において、「転向はつねに、実行可能な非転向との対比において記述される必要がある」との視点を提出して、転向=悪、非転向=善論の単純化を批判した。

 またその後、吉本隆明は、転向を「日本の近代社会の構造を、総体のヴィジョンとしてつかまえそこなったために、インテリゲンチャの間におこった思想変換」としてとらえ、佐野・鍋山型の屈服も、蔵原・宮本型の非転向も、同時代の状況との接触を失うということでともに不毛な思想であるとした。そして中野重治の「村の家」(1935年)に、日本の封建的優性との対決に立ちあがっていく革命家の姿勢を見た。

 本書の鈴木論文「転向異説」では、中野の転向問題を取り上げた石堂が、その探究の過程で、当時の日本共産党の転向概念の誤りとその基礎として存在したコミンテルンの時代認識と指導理論が間違っていたことを自覚した点が強調される。

 鈴木によれば、石堂自身の反省では、「1930年代から陸軍が全国各地で組織的にくりひろげた農民に対する悪質なデマゴギーとその宣伝効果を見過ごしたこと」がもっとも悔やまれたとされる。

 「この動きを軽視したのはなぜか。石堂さんの反省は、最も強い反戦勢力であった日共が創立以来、コミンテルンのほうばかりに顔を向け、ソ連防衛の任務に忠実のあまり、日本の現実を自分の目でみて、その経験から反戦のための、より緩かな連帯行動を可能にするような共同の知恵を探ろうとしなかったからである」。

 すなわち1930年頃の帝国主義戦争反対の運動は、<大衆の中へ>と<共同戦線>に背を向けた極左的攻撃理論と自殺戦術であり、この中で何らかの迂回もしくは緊急避難の戦術は採用されなかったのである。これは、権力・軍部の側からの「母乳とともに飲みこんだ愛国心」という日本人の泣きどころを突いた転向政策と裏腹の関係をなしていたと言えよう。

 そして鈴木は、これに対して「抗日中国」における偽装転向による獄中からの同志の放免という中共の政策を紹介する。そしてそこで、革命運動における節義(正義と有効性)の問題は、この政策では「個人の道徳(私徳)の位相でなく、抵抗する集団の公徳にかんする問題としてとらえられている」ことを評価する。

 そして、「もし同様のことが日本の反戦と革命をめざした運動において時機を失することなく、提起され実行されていたら、石堂さんの尊敬する中野重治が、文学の場で果たそうとしていた『革命運動の伝統の革命的批判』を政治の場で遂行できたであろうに。そして転向と偽装転向の問題はもっと生産的になり、戦後の『転向』論の趣は変わったのではなかろうか」と述べる。

 この問題意識から鈴木は、「事例研究」として、古在由重、戸坂潤、吉野源三郎、中井正一の四人を取りあげてそのそれぞれの転向の本質を探ろうとする。

 また鶴見俊輔の論文「国民というかたまりに埋めこまれて」も、石堂を評価して、次のように述べる。

 「石堂の記述は、転向からほとんど七十年のあいだの、当人による絶えざる照合の積み重ねである。その過程で、日本共産党の転向の裁定のかたくなさと勇み足への批判、そのもととなったソヴィエト・ロシア共産党の同時代観の根拠のなさへの論証が行われる。さらに、敗戦後の満州でおこった転向・偽装転向・再転向、それらについての根拠のない流言と、流言による粛清についての記述があり、そこには敗戦後から現在にいたる知識人の右往左往への予知がこもっている」。

 この視点から、「国家の圧力に屈した個人の決断」を「その一回かぎりの形を見つけるごとに記述する」という転向研究のもつ有効性を、「その特定の状況をこえて、ちがう状況の中で、その転向がもち得る意味を考えさせる。日付の特定がかえって、別の日付のちがう状況の中で、その転向の形がどのようにくりかえされるか、受けつがれるかを考える可能性をひらく」点にあるとする。

 そして石堂が認識し、鈴木が指摘した点にこそ、現在の「戦後のすでに五十五年におよぶ、国家の強制を感じさせない形ですすむ転向を見すえる」枠組みを可能にするものがあるのではないかとする。

 転向を近代国家としての日本の進歩に並行する事実としてとらえることで、日本文化の強さにつきまとう弱さを認識し、「非転向への不毛な固執を避け、しかもまともな人間として現代に生きてゆこうとする考え方」があらわれることを鶴見は提唱す
る。
 以上の二論文の問いかけに対して、本書の約7割の分量を占める、いいだももの論文「八・一五相移転における『転向』の両義性」は、その冗長な博識の割には、内容が乏しい。ここでは、いいだの主張で注目に値すると思われる二点をあげるにとどめよう。

 その一。いいだが、伊藤晃の『転向と天皇制』から次の文章を引用して、これを重要な提起としていることである。

 <『満州事変』で共産党が戦わずして敗れたことこそ、二年後の起きた大量転向の潜在的な一理由だった、と考えなければならない。『満州事変』は無産階級全体に予防反革命として働いた。『指導者の転向の足下には国民大衆の転向があったのである』(本多秋五)。・・・社会対立のエネルギーが戦争のエネルギーとして吸収されていった、『満州事変』に至る歴史過程は、大衆のあいだで支配階級と共産主義運動とが思想的に競合するべき期間ではなかったか。その実戦で共産党は敗れたのではないか>。

 これはまさしく石堂と軌を一にする問題のとらえ方であろう。

 その二。「天皇制打倒」のスローガンをかかげた日本共産党の運動は、「スターリン専制指導部の圧倒的影響下に置かれ続けたまま、佐野・鍋山の『転向声明』以来、天皇制への帰順、中国戦争参加等への流行的氾濫は見られたものの、共産主義的異端派としてのトロッキズム運動の“洗礼”はよくもあしくもほとんど見られなかった」ことの指摘である。いいだは、ここに「コミンテルン日本支部として出発した日本共産党の理論と運動の『輸入』体質・『事大主義』根性もふくめて、そのようにも根深いスターリン主義的体質」を見、現状においてもスターリン主義批判は依然として皆無であるとする。

 この点については、日本共産党のみならず、他の緒潮流においてもなお批判的検討が必要なところであろう。

 以上本書について、その主なところを紹介してきたが、転向をどのように位置づけ、そこからどのような経験知を得るかは、現在のわれわれに課せられた思想的政治的問題であり、このための有効な視点が本書にはある。そして次の鶴見の言葉は、われわれ自身が考えるひとつの手がかりを与えるであろう。

 「転向前と転向後の思想のつながりを自分で確認することを、最初の関門としておく、そしてこの関門を一度通ったらそれで終わったと見なさないようでありたい」。
(R) 

 【出典】 アサート No.287 2001年10月20日

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【コラム】ひとりごと–自治労事件に思うこと

【コラム】ひとりごと–自治労事件に思うこと

○とんでもない事が起こった。労働組合と右翼(暴力団?)が関係、そして簿外口座の存在、そして簿外の借入金の存在。金額も億単位。どうしてこんなことが労働組合で。連日のマスコミ報道に少し気が滅入る。○一方では、これは先の参議院選挙で郵政族の高祖議員派の摘発に対抗して、自民党内から自治労・労組潰しの攻撃意図があるんだ、との意見もある。特にこの秋は、公務員制度改革が正念場を迎える時期である。○だとしても、である。組合費や組合共済の剰余金などは、あくまでも組合員の財産である。組合からの組合離れが進んでいる中で、一番公明正大にしなければいけない組合財政への信頼が揺らぐとなれば、最悪の事態といわねばならない。○毎日新聞はその主張で「組合費を払うに値するか」と厳しい論調で、述べている。読んで見て少しムッとするほど厳しい内容だが、率直に受け入れるべき内容だ、と思う。○私は、旧来の労働組合観、それは「社会主義」や「政治革新」を暗黙の了解事項とするような組織感覚から早く脱却するべき、という意見を持っている。これらの組織感覚は決して運動方針には出てこないが、明らかに底流に存在する意識である。それは目的のためには少々の逸脱も許される、目的が正しければ(正しいと思っていれば)、許されることもある、というような感覚である。旧来の左翼組織にも共通の感覚である。○組合は、NPOの一種というくらいの感覚が必要である。そして組合費は執行部に預託された活動資金ということになる。大組織になればなるほど、組合員一人ひとりの顔は見えなくなり、遠くなる。この距離をどう埋めるか。○幸い自治労の場合は、単位組合の連合体であり、本部への組合費はあくまでも、単位組合からの上納金方式であり、単位組合は独立して執行権・交渉権を持っている。だからこれが、すぐに組合脱退につながるケースはそれほど多くはないと思う。もちろん共産党からの組織破壊は覚悟しなければならない。○だからこそ、徹底した真相究明と公開、責任の明確化が求められている。組織が萎んでいくのは、権力の弾圧からのみではない。組織構成員からの信頼が失われる時である。この試練を正面から乗り越えていく中にしか、信頼の回復は有り得ないのである。(佐野) 

 【出典】 アサート No.287 2001年10月20日

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【読者の声】私のボヤキ

【読者の声】私のボヤキ
 
 アメリカの景気刺激策-前世紀のニューディール変形版。
 公共投資を増やして需要を喚起するやり方ではなくて、緊張を生み出しておいて、相手に先制攻撃をする様に仕向けて、そこからやおら立ち上がり相手を無慈悲な程に叩きのめす。それから景気回復。
 1941年にもやりませんでしたか?あの時は、最後に人類史上初めて原子爆弾まで投下しましたね。
 テロと戦争の被害者は特に20世紀以後は、非戦闘員。特に「女性と子供」。
 貿易センターで働くある黒人のシングルマザーには4歳の女の子がいたそうです。その子のママはあの日から帰ってこないそうです。誰がこの子に「事実」を話すのでしょうか!
 ブッシュ大統領?ビンラディン?
 アフガンでは、今日も餓えと寒さと病で多くの子供たち死んでいる。
 憲法の前文にある「・・・国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」とは!?
アメリカの近代兵器の不良在庫一掃の大セールに付き合うのも考え物。
「旗を見せてくれ。」まさに恫喝。
米軍のケツで食料と資材を運ぶぐらいでいいの?違うでしょう。日本の憲法の事も熟知してるくせに。
 湾岸戦争の時、日本は総費用の20%も出したんですよ。「金を出せ」と言ったら強盗と同じだから「show the flag」と言ってるのでしょ。
 この戦のあとで、アフガン復興基金みたいなものに、さらに金を出せと言うんでしょ。自分たちが身勝手で無茶したところに。その辺の魂胆は見え透いていますよ。
 こんな事を思いながら先日、アメリカ大使館にテロ被害者の為の記帳にいってきました。多くの市民が記帳していました。献花もたくさんありました。これ以上、罪もない女・子供を死なせない為の貢献ができないものか。
9.24集会にいけなくて残念です。集会どうでしたか教えてください。(宝山 9/25) 

 【出典】 アサート No.287 2001年10月20日

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【寄稿】「小野義彦と私 –敗戦前後–」

【寄稿】「小野義彦と私 –敗戦前後–」
                       小野 みどり

この寄稿は、アサート 287号(2001年10月20日)と288号(2001年11月24日)の2回に分けて掲載されました。
目次:石切軍刑務所から宮城刑務所へ/東京大空襲/政治犯釈放命令、そして宮城へ/釈放そして山口へ/戦後、山口で/父のこと/力石・武井・安仁と小野義彦/

<石切軍刑務所から宮城刑務所へ>
一九四五年三月十日、東京下町、本所・深川・浅草方面は米軍B29の大編隊の空襲を受け、一夜で焼け尽くされ、死者十万人に上ったと報ぜられたが、その二ヵ月後の五月二五日、B29は山の手方面を大空襲した。その時、私は東京世田谷下北沢の小野の家にいた。
小野義彦は一九四三年十月、オーストラリアに近いタニンバル島にて日本からそのためにはるばる派遣された憲兵によって逮捕され、日本の石切軍刑務所に入れられたが、軍籍剥奪、懲役五年の判決後は民間の堺刑務所へ送られ、その年六月、東京豊多摩刑務所に更に移された。当時、山口で、結核で倒れた弟の看病をしていた私は、月一回許された刑務所での面会にも行けず、文通だけが唯一のコミュニケーションの手段であった。翌四四年二月豊多摩刑務所で、顔一面に赤くシモヤケとヒビに覆われ、薄い獄衣をまとった彼に面会した時、そして外の廊下を看守と共に歩いて行く痩せ細った亡霊のようにヒョロヒョロと歩いていく赤い獄衣の人を見たとき、このままの状態が続いたら、彼は必ず獄死するだろうと感じた。月一回の面会許可は三ヵ月後には、累進処遇によって月二回になった。面会日に私は秘かに面会室の屑入れにバター・ヴィタミン剤・焼いた餅やパンなどようやく手に入れた食物を入れてきた。もしもそれが看守に発見されたら小野は刑務所内での苛酷な懲罰(エビ手錠という両手を背中で斜めに縛られ、食事も用便もそのままの状態でおこなう)を受けることは明らかであった。しかし、何とか続けなければ彼は死んでしまう。
こうしてその年五月、B29の空襲によって刑務所が全焼し、囚人全員仙台の宮城刑務所に移されるまで、秘密の差入を続けることができた。

<東京大空襲>
月に二度、中野の豊多摩刑務所に面会に行くことは、話の内容はそばの看守にすべて記録されるという形のものではあったが、私にとって唯一の心の救いであった。そして同時に月に二度だけの休息の時でもあった。中野からの帰り、新宿で中央線から山手線に乗換え(小野の家は世田谷下北沢)運良く座席に坐れた時、私はそのまま山手線が新宿から新宿まで何周か走る間、その座席に坐り続け一時間余りの休息を取った。
三月十日のB29の下町大空襲のあと、アメリカは日本の地方都市を次々空襲し、東京にも殆ど毎夜のように空襲警報が発令され、安眠できない夜が続いた。五月二五日夜、いつものように空襲警報が発令され、敵機五〇〇機が横浜方面から侵入し東京上空へ向かっているという。私は身支度(といってもモンペを履き、防空ズキンを首に結びつける)して二階へ上がり、はるか北の空でB29が赤い雨を降らせるように焼夷弾を落とし、その度にその方面の空が赤く燃え上がるのをワクワクしながらも半分は火事場の野次馬根性で高見の見物をしていた。何分たったか、はるか遠く中野のあたりが一面に燃え上がった。ああ、豊多摩刑務所がと身体が震えた。そしてハッと気がつくとB29の編隊が下北沢の真上の空を掩い、焼夷弾の雨がシャーッと音を立てて降り出した。義父は丁度軍司令官が戦況を判断するように、鉄カブトを被り、軒下に立ち、義母は気が狂ったように庭の土を掘って御飯の入ったままの釜や煮物の入った鍋を埋め出した。私は、大森で焼け出されてころがりこんでいた若い人と一緒に家中の雨戸を閉め、雨戸を濡らすためにバケツの水を必死にぶっかけ続けた。そのうち、家の横の道路は北の方から焼け出されて逃げて来る人たちで一杯になった。彼らはあとからあとからまだ焼けていない南の方面へ少しばかりの荷物を背にぞろぞろと走り去っていく。煙があたりに充満し眼もあけていられず、降る火の粉で着ているものが焼けそうになる。もう全てを棄てて逃げる外ない。義父に続いて、まだ焼けていない東側の崖下に逃げるため庭の冊を乗り越えかけたとき、空が白々と明け、さっきまでの地獄のようなB29の影もなくなっていた。夜が明けて家の前の道へ出てみてあっと息をのんだ。家から五十メートル先の成徳女子商業学校を起点として北へ何百キロかはるか小田急線まで全くの無惨な焼け野原であった。しかし、われわれの家は幸運にも塀の外に一発焼夷弾が落ちた跡があっただけであった。
それから数日後、中野へ行った。豊多摩刑務所はまわりのコンクリート塀とわずかの建物を残すだけで殆ど焼け落ち、収容されていた囚人は全員仙台に送られたと知らされた。
それまで疎開をためらっていた小野の両親もそれ以後疎開を急ぎ、六月末郷里の山口県防府へ疎開し、私は山口後河原の家に一人で帰った。

<政治犯釈放命令、そして宮城へ>
七月二六日、新聞には日本の降伏を迫る米英ソ首脳会談の八項目にわたる条項が載せられた。そのなかに「日本政府は言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すべきこと」という項目があったのを私は見落とさなかった。思想の自由と基本的人権。いつ日本がポツダム宣言を受諾するか、祈るような毎日であった。そして八月十五日、日本敗戦の日。これで小野は解放される。その日私は母の里の田舎へ行っていて、天皇の言葉が放送されたのを知らなかった。夕方になって近所の人から日本がポツダム宣言を受諾し降伏したのだと聞いて、自分の国が三等国か四等国になってしまったのだと涙が出たが、同時に己が解放される喜びが実感として胸に広がった。十月四日遂にマッカーサーの政治犯釈放命令が出た。朝から晩までラジオの前に坐り続けてその放送を何度繰り返して聞いたことか。そして小野のいる仙台まで迎えに行く準備を始めた。仙台で泊まる宿に出すための五合あまりの米、規定より多い目の食糧切符、配給の度にためていたタバコ、ローソク、マッチ等必要となりそうなものをすべてリュックに詰め込んだ。「人間魚雷」として敵艦に体当たりするため海軍基地で待機していて、出撃直前に終戦となり家に戻っていた小野の末の弟が、防府の両親が用意した牛革の大きいスーツケースを持って見送りにきてくれた。小郡駅から夜十時発の東京行き特急に乗った。混乱の時期の女一人旅である。少しでも安全を願って二等切符を買っていたが、ホームに入ってきた汽車は二等も三等もない。デッキまで人が溢れて到底乗り込めない。弟の手をかりて窓からもぐり込み、スーツケースを窓の中へ放り込んでもらう。客車の中に灯火はなく真っ暗であったが、通路までギッシリ荷物が積まれ、私の居場所などどこにもない。誰かが通路の荷物の上に坐るように言ってくれた。
汽車が動き出してしばらくすると、その暗闇の前後から男の手が何本も伸びて私の足に触る。その時はじめて気がついたのだが、それは九州からの復員列車で、乗って居たのはすべて兵役を解除されたばかりの兵隊だった。出発準備でくたびれはてていたが、眠るどころではない。足を動かし続け、坐る向きをあちこち変えながら必死で男たちの手から逃れようとした。二、三時間経ったであろうか。汽車は広島に止まった。原爆投下の災害の跡を自分の眼で見ておこう。何人かが窓から飛び下りた後に続いて私も飛び下りた。私の眼の前には少し間隔をおいて左右に立てられた二本の丸太と、それに引っ掛けられた裸電球、そこに駅員らしい人が一人立っている。それが広島駅改札だった。そしてその背後に全く黒々とどこまでも続く静まりかえった焼け野原。鬼気迫る、異様な情景がそこにはあった。
午前四時過ぎ、外はまだ薄暗かったが、列車は動かなくなった。ここから歩いて幾つか先の駅まで(今は駅名は記憶していない)徒歩連絡だという。一ヵ月前の枕崎台風のために鉄橋が流され、汽車は不通になっていた。重いスーツケースを持って歩きだす。二時間ばかり歩いただろうか。そこからまた汽車に乗り(今度は復員列車ではなかった)、正午ごろ東京駅着。上野発仙台行きは午後六時というのに。上野駅に午後二時頃着いたとき、すでに上野駅は二重三重の仙台行きを待つ人々の列で取り巻かれていた。待つこと四時間、漸く駅の改札が始まって列車に乗り込んだが、座席はもとより、向き合った座席の間の空間も通路も人が詰められるだけ詰まっている。これでは仙台まで十数時間立ち通さねばと覚悟したところ、ただ一つの座席だけが空いている。すぐそばに占領軍の上級将校らしい白髪の米軍人とその副官らしい若い将校が一つのボックスに向き合って坐っていて、日本人乗客は誰一人そのボックスに敢えて坐ろうとはしない。しめた。私は年配の将校に向かって「ここに坐ってもよろしいですか」と英語で聞いた。昭和十二年学校を出てから八年ぶりの英語だった。快く自分の横を空けてくれたその老将校は仙台まで行くのだった。
私はできるだけなにげなく、自分は英語のカレッジを出たこと、そして学校時代読んだ本や日本の有名な古典の話など思いつくままに英語でしゃべった。相手も楽しそうに聞いてくれた。どれくらい経ったか、私は前夜来の疲れでいつの間にか眠っていたらしい。ふと気がつくと眠っている老将校と私のひざの上には膝掛け毛布が掛けられていた。副官が掛けてくれたのであろう。翌朝仙台駅に着くまで、敗戦直後の殺人的な満員列車の中で、日本人としては私だけがゆっくり腰掛けて行くという幸運を得たのだった。
仙台駅前の粗末な宿を取った後、休む暇もなく、仙台市番外地という宮城刑務所へと重いカバンを持って歩き出した。駅前からその番外地までどれくらいの距離があったのか、回りがどんな風景だったのが、全く記憶がない。私の心はただ小野を迎えにいくということだけで一杯だったのだろう。

<釈放そして山口へ>
刑務所の受付で面会の手続きをすますと、受付の指示で小野のいるという事務所に入った時、目の前に小野がいた。そこに私が現れるなどということは全く予期していなかった彼は、驚きの声を上げ、すぐに自分たちの釈放の日が明日であることをいつもの快活な口調で喋り始めた。私が駅前の宿をとったことを告げると、傍にいた教戒師が、今夜は自分のところへ泊まったらとすすめてくれた。その申出を断ってその日はもとの汚い宿へ戻ったが、食事の貧しさも、布団の粗末さも何も気にならず、三日ぶりに初めて身体を横たえて眠れたのであった。
翌十月九日、その日出所できた十人余りの人々と共に私は刑務所が出してくれたバスで仙台駅へ向かった。小野を除いた他の人々は刑務所支給の茶色のコールテンの上着とズボンを着ていたが、小野だけは私が持参した軍服を着ていた。それは私が山口を出発する時小野の両親が私に持たせたスーツケースの中身だった。小野が山口に帰ったとき、軍隊から召集解除となって帰還したと親類や近所の人たちに思わせるための苦しい工作だった。
治安維持法違反という罪名は小野の両親にとっては破廉恥罪と変わらぬものであった。小野が豊多摩刑務所にいた時、義母は一度だけ面会に行った。その日は雨が降り、今なら傘で顔が隠せるからといって、私と同道した。義父は行こうとしなかった。
仙台駅で東京行きを待つ間、私はリュックの中の乾パンを皆に配ったが、手からこぼれて雨の泥水に汚れてしまった乾パンを、すばやく拾って口に入れたひとがいたのには驚くと同時に、彼らのこれまでおかれていた状況の最低の厳しさを思わせられた。汽車に乗り込んだ人々はみな興奮状態で殆ど夜通ししゃべり続けた。
十月九日、早朝東京着。その夜東京成宗の兄鈴木健一郎の家に泊めてもらった私たちは、昭和十五年五月山口駅を出征して以来、というより、知り合ってから六年目初めて全くの二人きりになったのだった。
翌日私たちは焼け跡のまだ生々しい東京を友人を訪ねて歩き回ったが、前日まで私が持ち歩いたスーツケースもリュックも彼が持ってくれた。私は生まれて初めて大切にされ、いたわられ、夫とはこんなに有り難いものかと自分の境遇の大きな変化を身に滲みて感じた。苦難の連続であった仙台行きの旅に比べて、山口への帰りの旅はいま四四年後に振り返ってみても、涙のでるほどのうれしい旅であった。荒廃した窓外の景色、布はなくむき出しになった木の座席。乗り合わせている乗客の粗末な服装。すべて敗戦国日本の状況がそのままそこにはあったが、そのことに感慨を促すとか、敗戦を悲しむとか、そんな心の余裕はまるでなかった。そして私がずっと住み続けていた山口後河原の家でのわれわれ二人の生活が始まった。
( 以上 No287に掲載)

<戦後、山口で>
敗戦を契機として物価は急上昇した。それまで何拾銭単位で手に入っていたものは何拾円の単位にハネ上がった。先ず米の値段が上がった。それまで私の亡父母の残した貯金と恩給で生活していた私は、小野を迎えて忽ち収入の道を講じなければならなかった。小野が山口県庁の通訳として傭われ、小野の留守の時は私が代わりに県庁に通った。また、敗戦と同時に、当然使用されなくなった山口四二連隊(七年前小野が召集されて入っていた)の兵営は占領軍が入るため徹底的な掃除を要求され、その頃もまだ解消されず残っていた「隣組」の婦人たちにその仕事が要求された。私もまた「隣組」の一人として兵営の床を洗いに行ったが、米兵の命令を理解できない婦人たちに、自然に私が通訳をつとめる形となり、仕事が終わった時、その当時全くの貴重品であった固形洗濯石鹸を数個米兵から与えられて皆からうらやまれた。また占領軍は周囲の日本人と馴染む必要を感じたのか、「隣組」の女性を数十人単位で兵営に招待し、茶菓を振る舞った。そうした時も自然な形で私が通訳することになり、その都度謝礼としてクッキーや食パンをもらったが、当時そんな品は、町のどこにも存在しないものだった。そして兵隊の中には日本人と交際を望む者もいて、私は彼らをうちへ招待し、小野と共に友人として対等につきあった。
敗戦を契機として自らの社会的地位も経済的状況も一変した。義父母が家庭内で一番弱い立場にある私に向かって、その覚悟を投げつければやむを得なかったであろうが、そう我慢できなくて離婚を決意したこともあった。それは義父がそれまで住んできた下北沢の家を売って郷里の山口県防府へ帰るまで三年間続いた。私たちはその売れた金額の十分の一をもらって大崎に土地を買い、小さなテックス張りの家を建て、移り住んだ。一九四九年十二月のことであった。小野が見つけてきた土地は、品川区戸越で、私たちだけでは広すぎる。当時一番信頼し、親しかった内野壮児さんにすすめて半分ずつ買うことにした。こうして内野さんとは隣同士、塀も何もない地続きであけっぴろげな親友となった。
翌五〇年正月には横井亀夫氏が内野さんを訪れるようになり、自然私たちとも親密になったが、横井氏はその後内野さんが女医であった夫人の診療所のある大島(江東区)へ移転のあとを受けて旧内野家に移ってきたため横井氏一家とも親密な交流を続けることとなった。
一九四八年、小野は代々木共産党本部勤務から「アカハタ」機関紙記者となっていた。

<父のこと>
父は、私が十三歳の時亡くなったが、東京高商(現一橋大学)の学生時代、正岡子規の根岸庵に高浜虚子や荻原井泉水とともに出入りし、俳号を「芒生」といった。のちに季語のない荻原の自由律俳句に変わったが、その流れは次兄周二に受け継がれ、京大生だった兄が帰省し、月一回持つ句会には殆ど毎回当時山口に住んでいた種田山頭火が顔を出していた(これは句会の後夕食会で一杯できるのと、帰りに母から金一封を受け取るのが本当の目的だったかも知れないが)。
また父は画家津田青楓と親交を持ち、大正四年私が生まれた時丁度山口に滞在していた津田青楓が、後河原のみどりの美しさに感動して、「みどり」という名を生まれてきた子どもにつけたのだと、ものごころついてから父に聞かされた。安井曽太郎・岸田劉生・川端龍子・南薫造などの油絵が座敷の欄間に掲げられ、朝鮮京城(現ソウル)の高商の校長になってからは李朝陶器や李朝木工品を家から溢れ出るばかりに収集し、京城在住の民芸運動家、浅川伯教・巧兄弟と親密な交際を続け、その親密さは後に柳宗悦・外村吉乃介たち民芸運動家にも及んだ。また母千代野は明治末期東京女子高等師範学校理科を卒業し、父と結婚後も女学校の数学教師を長年にわたってつとめる一方、熱心なクリスチャンとしてというより教会に身を置いた新しい目覚めた婦人の一人として人々との交流の輪を広げた。ずっと後のことになるが、東京下北沢の小野の家の二階を誰かの紹介で共産党経済学者(当時立教大学教授)高川実氏に貸した時、「私は山口でみどりさんのお母さんが中心になってやっておられた集まりに出たことがあるのですよ」と言われ、全くの偶然に驚いた。(因に、高川氏は山口県出身である。)そして私が出た学校はあらゆる点でリベラルなアメリカ的合理主義で貫かれていた。

<力石・武井・安仁と小野義彦>
一九五〇年五月GHQ教育顧問イールズ博士の東北大学での講演を学生が妨害したため同大学長が辞意を表明、このことから東大、早大等に『イールズ闘争』が起こった。そして戸越の家には、力石定一・武井昭夫・安東仁兵衛氏等のイールズ闘争を闘っていた学生が集まるようになった。長男暸が生まれて二ヵ月余りのことだった。大振りのかごに寝かされていた暸の顔を見ながら「りょうという名前よりもペンさんという名の方がいいですよ」と言ったのは武井昭夫氏だったと思う。ペンというのは、小野がソ連一辺倒だという意味で、彼ら学生が小野につけた仇名だった。小野が彼ら学生をどのように指導していたのかは知らないが、「昭和史全記録」(毎日新聞社版)の一九五〇年5・5の項に「共産党・コミンフォルム批判後、分派的傾向の東大細胞・早大第一細胞の解散指令.5・6全学連書記局細胞に解散命令.6・2全学連執行委反論。学生運動指導に関し、共産党中央委員会と全学連指導部の対立強まる。」とある。これを見ると、当時の小野と学生たちの活気と自身に満ちた顔をまざまざと思い出す。
四九年から五〇年にかけて、東大学生だった力石定一、武井昭夫、安東仁兵衛氏たちが家に出入りしはじめた。イールズ闘争のための会議だと聞かされた。(GHQイールズの「各大学から赤い教授を追放せよ」という通達に反対して始まった)彼らがくるのは大抵夜間であったが、私は小野と共に彼らにも遅い夕食を出した。或る夜十一時頃来た安東仁兵衛氏に夕食を出したところ、「僕はこのイカの煮たのが大好きなんです。この匂いが僕をここに引きつけるのです」という。それは苦しい家計の中ながら、若い人たちへ食事を出す私への言い訳だったかも知れないが、その頃苅田のある店へ行くと、いつも赤くなってすこし臭いのするイカが安く手に入ったので、殆ど連日うちの夕食はイカの煮付けだった。またある時は武井氏と力石氏が数日うちに寝泊まりした。それは秘かに朝鮮に行くために待機していているのだという説明だった。(結局これは実現しなかったらしい)
またある日曜日、当時話題になっていた「米」という映画を見に品川まで行った時のこと、映画館の横で待ち合わせているところへ約束時間に遅れた安東仁兵衛氏が、大きい靴でドタドタと音をたてながら走ってきた。その時小野が「そんな大きな音を立てて走ってきたら、スパイの注意を引くことになるじゃないか」と彼をたしなめた。この時のことを私ははっきり覚えているが、それから四十年以上経った一昨年(九一年)たまたま安東仁兵衛氏が何かに小野のことを書き、小野の言うことが「朝令暮改」だったこと、「ある時小野から些細なことで強くたしなめられたということから、小野から離れていった」と書かれていて、人と人との接触がいつも必ずしもその意図通り受け入れられないのだということを強く感じさせられた。また同じ頃、平沢栄一氏がしばしば小野を訪ねてきた。そして必ずといっていいほどうちで食事をしたが、彼の食欲は旺盛で、私は内心ヒヤヒヤしながら食事を出していた。ずっと後になって平沢氏は「小野君の奥さんは、俺が東京の食い物をけなし、関西の食い物自慢をすると悔しがっていくらでも食い物を出してくれる」といっていたとか。平沢氏は太っていて、よく胸を広げては、その頃三ヵ月になっていた暸に乳房を含ませる恰好をして皆を笑わせていた。私は長女を出産したとき、できるだけ産後の休暇を長く取るため、出産ギリギリまで出勤し、「小野さん、もう休めよ」と見かねた同僚から言われるまで出勤したが、第二子の妊娠に気づいてそのことを外報部デスクに告げた時、「小野さん、もういい加減にしてヨ」と言われた。私はその言葉をおして出勤を続ける勇気がなく、休職の手続きを取った。
五〇年三月長男暸誕生。七月、新聞・放送のレッドパージ開始、私は休職のまま九月パージされた。
一方小野はアカハタ編集局で伊藤律と対立し、十二月出勤停止となった。そして私たちは全くの無収入となった。

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【投稿】テロ攻撃「報復戦争」の危険性

【投稿】テロ攻撃「報復戦争」の危険性

<<「第2の真珠湾」>>
 9/11、突如世界を震撼させた史上最悪、同時多発の自爆テロ攻撃が、憎悪と混迷の渦を巻き起こしている。アメリカ資本主義繁栄の象徴でもある世界貿易センタービルとアメリカ帝国主義の軍事的覇権の象徴でもあるペンタゴン攻撃と言う思いもよらぬ事態に、ブッシュ米大統領は、当初の驚愕から立ち直るや「草の根をかき分けても犯人を追い詰め、厳罰に処す」との共和党タカ派の本領を剥き出しにした第一声を発した。続く閣僚、ホワイトハウス要人の発言もことさらに「戦争状態」を強調、「悪魔」「ヒットラーの再現」「卑劣」「厳罰」等々、感情剥き出しの憎悪と「正義の報復戦争」にすべてが収斂されている。
 9/13、ブッシュ大統領が「この戦争に勝利することを目指しながらも、アラブ系米国人やイスラム教徒に相応の敬意を払うことを忘れないでおくべきだ」と述べたその後から、パウエル国務長官は「これは米国にたいする戦争ではなく、文明に対する戦争だ」と述べて、文明と非文明の対立を強調、非文明社会に対する戦争行為の正当性を主張。これに呼応するかのように、インターネット・リレー・チャット(IRC)上では、犠牲者の家族への弔辞、献血の呼びかけとは別に、激越な非難が飛び交い、『アラブを核攻撃せよ』(Nuke-the-arabs)や『アラブを殺せ』(kill-the-arabs)といった反アラブ的なチャンネルがいくつも現れている。
 9/12付ワシントン・タイムズは、1面に炎上する世界貿易センタービルの写真を掲載、その中に「汚辱(Infamy)」という1語だけの大見出しを掲げ、中面にはやはり日本軍の真珠湾攻撃によって炎上するパールハーバー奇襲の大写真を載せて、両者の同一性を浮き上がらせ、今回の攻撃を「第2の真珠湾」と形容している。これはアメリカの全メディアに共通する姿勢であり、「アメリカ本土が直接攻撃されたのは真珠湾以来」という歴史的事実、「奇襲」「自爆」「神風特攻隊」といった攻撃形態の共通性に言及、「戦争勃発」という非常事態に対する、そして「報復」攻撃に対する「挙国一致」の核に据えられている。同13日付けワシントン・タイムズのトップ社説の最後は「奴らはアメリカに1発かませた。それならやってやろうじゃないか」で締めくくられているという。

<<テロ攻撃促進政策>>
 事態の展開は、憎悪が憎悪を呼ぶ危険極まりない「戦争状態」に突き進もうとしているが、問題はそう単純ではないとも言えよう。9/12付けニューヨーク・タイムズは、「人の心に育つ憎しみがこのような事件の根元だけに、問題解決に単純な方程式はない」と述べているように、このような時にこそ冷静な判断と評価が必要とされている。同じく同日付の英紙フィナンシャル・タイムズのアメリカ版社説は、「ブッシュ大統領は中東政策を再考慮すべきであろう。アメリカ政府がイスラエル・シャロン首相の強引な政策を許容してきたことが、アメリカに対するテロ攻撃を促進したことは間違いない」と断言している。 民主党から共和党、クリントンからブッシュへの政権移行の顕著な変化は、「嫌いな相手との対話拒否」とまでいわれている。前政権の紛争仲介・介入政策の放棄は、イスラエル・パレスチナ問題、南北朝鮮の対話促進問題等に端的に現れている。むしろ紛争を激化させることに腐心してさえいる。9/3の国連人種差別反対会議の完全ボイコットは、ブッシュ大統領が「事前の準備や決議にイスラエル非難があり、これを撤回しない限りアメリカは参加しない」と繰り返し発言していた結果である。今回のテロ攻撃はいわば自らが招き寄せた側面があるともいえよう。事実、ブッシュ政権以降、「対イスラエル自爆テロ」が増大してきたのである。
 さらに今回の事態が明らかにしたことは、いかに重武装し、ハイテク兵器を展開し、がんじがらめの警戒体制をひいたとしても、すべての可能性を防ぎきることは決してできないという厳然たる事実であろう。対話ではなく、憎悪をあおる戦略の危険性は、むしろ今回の事態によってさらに高まったともいえよう。すでに多くのメディアで指摘されていることでもあるが、あの自爆攻撃が原子力発電所にかけられていたら、放射能汚染が地球規模で拡散し、世界は悲劇的な事態に遭遇していたであろう。「報復戦争」の遂行は、そのような事態をももたらしかねない危険性を内包しているとも言えよう。

<<「スーツケース核弾頭」>>
 さらに危険なのは、テロ攻撃の形態には核弾頭さえ含まれる可能性さえ指摘されていることである。ブッシュ政権は、クリントン政権時代の「ゴア=チェルノムイルジン合意」を「高くつきすぎる」との理由で破棄しているが、この合意はゴア副大統領とロシアのチェルノムイルジン首相との間で「現在、世界における最大の脅威は米ロおよび旧ソ連から分離した旧共和国に存在する合計20万発近い核弾頭で、特にロシアにおける不完全な管理態勢が脅威だ」として、その核弾頭の段階的解体と厳重な管理への資金援助について合意に達していたものである。それはいわゆる「スーツケース核弾頭」にも適用されるものであった。問題は、すでにこの「スーツケース・サイズの核弾頭100個のうち、半分近くが行方不明だ」との驚くべき実態が報道されていることである。
 すでに世界のどこかで闇取引されている可能性のあるこの核弾頭は、無線起爆装置によって広島原爆の10倍以上となる破壊力を持っている。以前から「ドイツ諜報部は、巨大なスーツケースを背負った人間が五月雨式にカイバル峠を通過した事実を確認している」とのニュースが流されている。カイバル峠の先は、中東諸国であり、アメリカが再び叫び出した「ごろつき国家」群である。今騒がれているオサマ・ビン・ラディンのグループであれば、すでに入手している可能性さえあるであろう。まさに「報復戦争」の当事者でもあり、それをかくまう当事国でもある。緊急に必要とされている措置を放棄し、こうしたずさんな実態を野放しにすることからどのような利益が得られるというのであろうか。
 ブッシュ政権はさらに、ロシアとの弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の一方的破棄を宣言し、途方もない幻想的なミサイル防衛構想に巨額の予算を配分しようとしている。この夏には「中国の核ミサイルの拡張にあえて目くじらを立てない」と示唆し始め、米各紙は「新たな世界的核軍拡を容認するもの」と批判したばかりであった。
 こうしたブッシュ政権の一方的軍拡と覇権主義、対立をあおる緊張激化政策が、その深刻なツケを払わねばならない事態を迎えているとも言えよう。

<<「テロリストに救われた」>>
 テロ攻撃は憎悪を増すばかりであり、事態をより悪化させることは言うまでもない。「報復」もしかりである。すれすれで大統領の座を確保したブッシュにとって、今回のテロ攻撃は全国民的支持を取り付ける絶好の機会ともなった。しかしこの「報復戦争」は自らの政策が招き寄せた国家的テロルとしての軍拡と緊張激化政策の結果でもあり、際限のない泥沼化の道でもある。
 小泉首相も事件後ただちにブッシュ大統領に「アメリカに全面的に協力する。日本のできることは何でもやる」と伝え、「民主主義社会への重大な挑戦であり、わが国は米国を強く支持し、必要な援助と協力をおしまない」と強調し、ことさらに「米国と一体になって闘う」決意を表明した。それはあたかも自らへの攻撃として米国とともに戦争を決意し、はせ参じる「特攻隊精神」の表明でもある。そして自衛隊法改定による自衛隊の米軍基地警備実現や有事立法の制定、集団的自衛権の行使の合憲解釈などへの動きをこの際一機に実現しようとあわただしい動きを見せている。
 株価暴落では打つ手を何も提起できず、ただただ傍観していた小泉首相にとって、刻々と近づいていた株価1万円割れが自らの責任ではなく、米国の同時多発テロの影響による全世界的な株価下落に責任を転嫁できたのである。9/12の東京市場は実に17年ぶりに1万円を割り込み、開始後わずか6分で1万円台を割り、終値は前日比682円安の9610円。小泉政権登場以来、株価は政権を見放すかのように下落を重ね、8/29に11000円台を割ってからは、連日株価は急落し、直前の9/10には10195円にまで下落、その後数日で1万円台割れが確実視されていたのである。そこにふってわいたテロ攻撃、まさに「テロリストに救われた」わけである。しかし責任逃れが可能なのは当面のことにしかすぎない。ブッシュ路線に入れ揚げていけばいくほど、日本発の世界的大恐慌への道を先導しかねない事態へと日本を引きずり込むのではないだろうか。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【投稿】「対テロリスト報復戦」の展開と日本政府の対応

【投稿】「対テロリスト報復戦」の展開と日本政府の対応
         —-アメリカによるアメリカのための戦争—-
 
9月11日にニューヨーク、ワシントンを襲った同時多発テロは、アメリカのみならず、世界中を震撼させた。
ブッシュ大統領をはじめとする合衆国指導部は、このテロを「アメリカに対する戦争であるのみならず、民主主義、文明に対する挑戦である」と位置づけ、首謀者、およびそれを庇護する勢力、国家「大規模、長期的な報復を行うこと」を明言している。
これに対して、日本政府、NATO諸国など同盟国はもちろん、ロシア、中国などもアメリカの報復措置について、基本的な支持を表明した。
今回のテロは、ハイジャックした民間機での「特攻」というその手段、5千人にのぼる死者という結果において、過去に類例を見ないものであり、とりわけ世界貿易センター突入については、はじめから多数の非戦闘員の生命を狙ったものであり、許されるものではない。
一部には今回のテロは、グローバリズムや中東政策など「アメリカ帝国主義の侵略」に対する報復であり、テロを収束させるにはアメリカの政策転換が必要との主張もある。
確かに、ブッシュ政権は、京都議定書の批准拒否、ABM条約やCTBTなどの軍縮条約破壊、反差別国際会議のボイコット、パレスチナ和平への消極性など、それこそ先進国の中でも突出して「民主主義や文明」に背を向ける姿勢をとり続けてきたことは事実であり、アメリカはそうした姿勢を変えなければならない。
しかし、9月11日の出来事は、そうしたアメリカによる悪行、なかでも中東政策(これまでの「秘密政策」も含めた)への「報復」の側面は持つものの、「正当な反逆」ではない。つまり今回の事件の首謀者とされるウサマ・ビンラディンとその私兵「アル・カイーダ」は、どう大目に見ても正義の使徒ではないし、民族解放勢力とはいえないのである。
 もちろんソ連のアフガン侵攻に反対し、イスラム義勇兵に志願した当時のビンラディンは、純真な金持ちの坊ちゃんであり、敬虔なイスラム教徒であっただろう。
しかし、冷戦終結、湾岸戦争以降の「アメリカの裏切り」にあってからの彼らは、単なる破壊を目的とするカルトでありテロリストへと変貌してしまってたのであり、いかに正当な主張を展開しようとも、そうした行動をとり続ける限り、全く説得力を持ち得ない。
 テロによってアメリカの政策が変わることはないのである。
アメリカを中心とする先進国のグローバリズムによる発展途上国や、マイノリティへの抑圧に対しての異議申し立ては、この間WTO総会やG8(サミット)を包囲したような、国際的、市民的な行動こそが、正当性を持ち、かつもっとも効果的であるのは言うまでもない。
 とりわけ「我々は60億、おまえらは8人」のスローガンが突きつけられ、壮大な儀式のために犠牲者を出したジェノバの事態は、少なくとも西欧の指導者に動揺をもたらし、反対派との対話を打ち出さざるを得なくなった。
しかしアメリカは「我が道を行く」の姿勢を崩さず、建設的対話の埒外に去ろうとしていた。
 その意味で近いうちに始まるであろう戦争は、ビンラディンという怪物を生み出した責任も含めて、アメリカ対一部のテロリストという世界から浮き上がったもの同士の戦いともいえるのである。
現在アメリカはこうした構図が浮かび上がることを押さえ、「文明対一部テロリストの戦争」の枠組み作るため、これまでの一国主義から手のひらを返したように国際主義を唱え、「アメとムチ」を駆使した工作を進めている。
テロ根絶のためにはあらゆる手段が必要であり、その選択肢の一つに武力行使もあり得るだろう。しかし今回の場合は、「同盟国」は無条件にアメリカの報復戦を支持するのではなく、アメリカのダブルスタンダードを指摘し、他の問題についても国際協力を尊重するよう求めねばならないのである。
お調子者のダンス
このような観点から見れば、日本政府の対応は最悪である。今後開始される戦争がどうした展開を見せるかを考えもせず、小泉首相をはじめとする首脳の言葉、決意が先行し、ピントはずれの政策が立案されようとしている。
その最たるものが「有事法制」である。与党は来年1月からの通常国会で法案の成立を図るとしているが、その主な内容は「緊急移動時の民有地通行」「陣地構築のための海岸や森林の形状変更」すなわち自衛隊の戦車が田畑を走行したり、塹壕を掘るのに所有者の許可を得なくてもよくする、というものである。
「有事法制」冷戦時代にソ連軍が北海道や本州に上陸してくるのを想定して考えられたものだ。現在さらには近い将来において、そのような可能性はなく、また「周辺事態」にも対応できないにもかかわらずホコリをかぶった法案を引っ張り出してくるのは、防衛官僚、一部制服幹部、国防族議員が権限の拡大を自己目的としているからに他ならない。
こんなものが、今回のようなテロには何の役にも立たないことは一目瞭然であるにも関わらず、テロ対策の如く説明し、あたふたと成立させようとするのは、国民を欺くものであり、火事場泥棒と言われても仕方がないだろう。
また、今回の事態に即した対策としての自衛隊法改正についても、的はずれな論議が行われている。
9月11日以降米軍基地、関連施設の警備が強化されたが、通常の警察力だけでは限界があるのは明らかであることから、自衛隊による警備が検討されている。しかし、米軍基地の警備は米軍が行うのが最も効果的であり、武器の使用基準も曖昧な自衛隊ではポーズにしかならないし、テロが起これば、米軍が自衛隊を守ることになってしまう可能性がある。
さらにアメリカの報復戦に対する支援策についても、第2次朝鮮戦争を想定した周辺事態法の適用などという主張が一部にある。これについてはさすがに官邸サイドも無理があると判断し、「後方支援新法」の制定に動いている。要はインド洋の赤道と南回帰線のほぼ中間の島(環礁)にある備蓄基地(船)まで輸送船を中心とする自衛艦隊を出せ、ということである。
しかし長期戦に必要な大量の物資の集積地はパキスタンが想定されているのであって、海上輸送の場合、カラチに入港しなければ意味がないのである。
ところが、そうなるとインド洋上でも「戦闘地域に近い」との認識であるのに、アラビア海などに入っていけるはずがないのであり、立ち消えになる可能性がある。
 いずれにしても現時点での日本政府の対応は、テロ対策を口実とした戦略なき彌縫策としか言いようがいのである。(大阪 O) 

 【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【書評】『多文化主義社会の到来』

【書評】『多文化主義社会の到来』
      (関根政美著、2000.4.25.発行、朝日新聞社、1200円)

 グローバリゼーションがありふれた名詞となり、またこれに対応して国内では、多文化社会化・多民族社会化が促進されていることは否定できぬ事実のようである。しかし他方、全世界的な規模で民族間のあつれき、紛争も激発し、国内においては、多文化社会の限界が絶えず問われていることも事実である。本書はこの、グローバリゼーションと多文化社会化との関係(「グローバリゼーションは、各地域、各国間の共通性を高めると同時に異質性をも強める複雑な社会変動を引き起こす」)、限界と問題点を、解明しようとする。

グローバリゼーションとは多面的な次元をもつ現象である。すなわち(1)経済(多国籍企業、企業家の国際的ネットワークなどによる「大競争の時代」)、(2)人口移動(移民、難民、外国人労働者)、(3)メディア・コミュ二ヶーション(CNN、BBCなどの放送ネット、インターネットの普及)、(4)思想・イデオロギー(人権意識、民族自決・ナショナリズムなどの価値観の普及)、(5)工業化、脱工業化(先進諸国の脱工業化とNIES〔新興工業経済地域〕による技術革新)などの面におけるグローバリゼーションが、その内容を構成している。

本書は、この各方面からのグローバリゼーションが、近代国家システムに影響を与えざるを得ず、しかもその影響は、国民国家の形成原理への根本的な問いかけをも含んでいる、と指摘する。というのも「人種、民族、エスニシティ概念が世界的に普及したのはそれほど古いことではない」、「人種概念は十五世紀からの大航海時代にヨーロッパ人と有色人との接触が増え、人口集団の肉体的相違が大いに注目されるようになってから使用されはじめ」、「民族という概念も、(中略)十八,十九世紀の近代民族国家形成期から頻繁に使われるようになった」からであり、「また、民族そのものは、国民国家形成が盛んになった時代に民族自決権とともに成立したに過ぎない」からである。すなわち「それは、単なる文化、言語、生活習慣、祖先同一意識をもつ文化集団という普遍的な存在を意味するのではなく、(中略)きわめて政治的な概念であり、いいかえれば、むしろ国民国家形成を企図する人口集団を意味する」のである。

 このような国民国家形成に深くかかわる政治的概念である人種、民族、エスニシティ(エスニック集団)は、その境界があいまいで流動的、かつ主観的要素(同類意識など)に満ちていながら、心理的経済的政治的理由によって正当化され、こだわり続けられる。つまり心理的には、文化的・言語的同一エスニック集団への帰属が自らのアイデンティティの源泉となること、経済的には、文化・言語が生活手段でもあること[主流国民の文化・言語を自由に使用できないと、経済的に不利益を被る]、政治的には、国民国家の主流国民が、独立・自由・平等をその領域内においてのみ享受できることがその理由となる。

 かくして本書によれば、「国民国家システムは、民族・エスニシティへのこだわりを前提としたシステム」であり、「民族にこだわって国民国家をつくって、はじめて人間が自由・平等となれるシステム」なのである。それ故「国民国家制度の確立が人種・民族・エスニシティ問題の究極的原因だといっても過言ではない」。そしてまたマジョリティ主流国民も、すべてが国民国家に縛り付けられ、「すべての人にとり、国民国家は『酷民国家』」となっているとされる。

 この視点から、多文化主義が検討されるのであるが、本書では、移民受け入れの長い歴史をもち、多文化主義政策を推進しているオーストラリアがモデルとして考察される。

 多文化主義には、中庸なもの(①シンボリック、②リベラル、③コーポレイト、④連邦制/地域分権の多文化主義)から、急進的なもの(⑤分断的、⑥分離・独立主義的多文化主義)まで存在するが、オーストラリアの場合、ほぼコーポレイト多文化主義と言える。これは、公的領域での多言語放送・多言語使用、多言語・多文化教育の発展、エスニック・コミュニティの活動への援助、またマイノリティの就職・教育機会適正化のためのアファーマティブ・アクションの実施などによって特徴づけられる。

 オーストラリアがこの多文化主義推進にいたるまでの歴史的経過や現況での政治的社会的諸問題については、本書を読んでいただきたいが、その中で明らかになってきた重要なことの一つが、「多文化主義のパラドックス」である。これは、「人種主義の否定からはじまった人種・民族・エスニック集団関係の改善過程のなかで、多文化主義が生まれ、さらに改善が進められたが、結局は人種主義的関係あるいは国民分裂を進めてしまう」という矛盾である。つまり多文化主義が、多文化の許容性の低いものから高いものへと充実してくると、異文化集団の存在が目立つようになる、これに対して主流国民の側では「逆差別」の感情が発生し、互いに対抗意識を高め、「文化戦争」状態、「分断的文化主義」が生じる。また文化的差異を強調する「新人種差別」という陰湿な差別もあらわれることになる。

 この「多文化主義のパラドックス」について、本書では、多文化主義そのものの問題点というよりも、むしろ多文化主義・人権意識が根付いたことで発生する問題であるとして、経済的コストの問題に言及するとともに(多文化主義の諸政策は「人権問題の視点から考えるべきで、経済的物差しでは計りきれないこと」)、これまでの文化主義・文化観(「伝統文化を伝統的な形のまま守らなければならない、あるいは、変えようにもその本質は変えられない」という考え方)の限界を指摘する。「伝統的民族文化というものは、国民国家の形成を急ぎ自らの独立を全うするために主張された政治的レトリックに過ぎないことが多い」、それ故「民族文化あるいはエスニック文化の純粋性や不変性」は、国民国家システムの存続を求めるための者でしかない。むしろ政治的民族文化も生活的民族文化も、「本来的には雑種であり、(中略)文化の境界もファジーなもの」であることが、確認されるべきなのである。

そしてこの「個性的な雑種文化状況」(ハイブリッド文化あるいはクレオール文化)が、「多文化主義のパラドックス」を克服する視点であり、「多文化主義」を「多・文化主義」や「多分化主義」とはせずに、「多文化・主義」へと向かわせる方途であるとされる。この視点にまた、

近代同質的国民国家システムの限界を克服していく展望も存在するのである。

以上のように本書は、グローバリゼーションの時代に多文化主義が突き当たっている諸問題を、その歴史的社会的起源から解明し、国民国家システムとの関係で解決を試みようとする。しかしそれにしても、日本の現況(上述の多文化主義の区分では、未だに①シンボリック文化主義──文化・言語の多様性を認めようとしない、ほとんど同化主義に近いもの──の段階にあるとされる)では、多文化主義への道は、遥かに遠いと言わざるを得ない。(R) 

 【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【投稿】デフレスパイラルの危険性 

【投稿】デフレスパイラルの危険性 

<<ごろ寝休暇を直撃>>
 ごろ寝休暇を宣言した小泉首相を直撃するかのように、東京株式市場の株価は三日連続の下落、8/17、日経平均株価は1万1445円、バブル後最安値を更新した。この一ヶ月の間に四度も最安値を更新している。事態は容易ならざる展開と言えよう。
 一回目は参院選の最中、7/23、1万1609円の最安値を記録。5/7の所信表明演説に期待した株価は1万4529円をピークに下落し続け、1万2000円台を低迷、7/30、参院選の自民党圧勝が逆に株価を下落させ、バブル崩壊後の最安値を再び更新、1万1000円台半ばに落ち込み、8/13にはこれも更新、1万1477円に下落、そして8/17の続落である。
 同じ8/17、ニューヨーク株式市場もほぼ全面安となり、V字型やU字型回復の楽観的な希望的観測は影をひそめ、IMFがドル暴落の可能性を示唆し、バブル景気崩壊の本格化と「回復は来年以降にずれ込む」との悲観的観測が市場を覆っている。
 危機感を抱いた日銀が、8/14、急遽これまで否定していた金融の量的緩和を決定、金融機関の当座預金口座の残高を5兆円から6兆円に拡大し、長期国債の買い切り額を月4千億円から6千億円に増額、要するに日銀が金融機関から債権や手形などを大量に買い取り、過剰なカネ余り状態を作り出し、円安でデフレに歯止めをかけ、株価にテコ入れして景気を下支えしようという魂胆であったが、これもあえなく焼け石に水、株価もたった一日で逆戻り、為替も意に反して円高傾向を強め始め、むしろマイナス材料として受け取られる事態が進行している。
 首相たるもの、こんな事態にごろ寝などしている場合ではなかろうが、「株価に一喜一憂しない」と繰り返した手前、ただ拱手傍観しているだけである。市場の警告も受け止めることができないのは、近隣諸国の憂慮や警告も受け止めることができずに靖国参拝を強行してわが意を得たりと悦に入っている歴史認識ゼロ、稚拙な政治思想と同一線上の経済認識ゼロ、無策無内容なパフォーマンスの当然の帰結ともいえよう。

<<すべて「下方修正」>>
 4月末に小泉政権が発足してから3カ月余り、この間に平均株価は三千円以上も下落し、サラリーマン世帯の収入は2カ月連続マイナス、同じく消費支出は36万9000円から30万4000円に縮小、失業率は4.7%から4.9%へ、鉱工業生産指数は3カ月連続で前年比マイナス(ピーク時から5ヶ月で-8%)、倒産負債総額も4カ月連続で1兆円を超えるという惨たんたる状態が進行している。まさに小泉政権下で庶民の生活を直撃するデフレスパイラルが、「痛み」を耐えろといわんばかりに加速しはじめているといえよう。
 8/10、政府が発表した8月の月例経済報告は、前月の「景気は悪化している」から「さらに悪化している」に下方修正されたが、これも3月は「足踏み」だったものが、6、7月は「悪化」、そして8月の「さらに悪化」となったのであるが、問題はその「さらに悪化」の中身である。生産は「引き続き減少」が→「大幅に減少」、輸出「減少」→「大幅に減少」、設備投資「頭打ち」→「減少」、雇用「一部で底堅さ」→「求人や残業時間も弱含んでいる」、住宅着工「弱含んでいる」→「減少」というようにすべてがマイナスなのである。経済財政諮問会議自身が「景気の悪化が加速され、非常に厳しい」と分析し、「2~3年はデフレ傾向が続く」と自らの無策・無責任を棚に上げて投げ出している状態である。
 しかもこれが「構造改革なくして成長なし」という、その「改革」の結果の一時的な落ち込みならまだしも、「改革」に全く手もつけられていない、単なるスローガン、パフォーマンスの段階からこの事態である。小泉政権のお題目と化した「改革」は、すでにその程度と軽さが見破られたともいえようし、また「改革」が自らの無策・失政の責任回避の用語と化したともいえよう。

<<「9月危機」>>
 9/7に発表が予定されている4―6月期のGDPが、こうした事態の中で大幅マイナスになるのは確実だといえよう。株式市場は当然、月末から9月にかけて売り一色、1万1000円割れから、さらには1万円割れも避けられないという観測がしきりである。1万円割れとなればまさに恐慌である。
 金融機関の中間決算が集中する9月は、平均株価1万円割れで巨額の含み損を抱えた金融パニックの深刻な事態に突入する「9月危機」が現実化しかねない。すでに、バブル後最安値更新を主導しているのは大手銀行株であり、みずほホールディングス、三菱東京FG、UFJ、三井住友の4大グループ、そして大和銀とあさひ銀の6銘柄すべてが年初来安値を更新している。
 当然、欧米の格付け会社による日本の金融機関の格下げも相次いでいる。8/6、英米系のフィッチは、地銀4行を含む17行の財務格付けを一斉に1段階引き下げ、みずほホールディングスと傘下の一勧、富士、興銀3行、三和、東海など12行はD(収益性や将来性に問題あり)からDとE(重大な問題を抱え外部支援が必要)の中間のD/Eに、中央三井信託、安田信託、足利、北陸の4行はD/Eから最低評価のEに格下げしている。米系のムーディーズも同じ日、東京三菱銀の財務格付けをDプラスからD(時として外部サポートが必要になる可能性がある)に引下げ、日本の金融機関への警告を発している。
 さらに要注意なのが国債価格急落の可能性である。8/2、財務省が8月発行の20年国債の競争入札を行ったが、応札倍率は1.38倍と12年ぶりの低水準に終わり、6月下旬に1.1%台だった10年物国債の利回りは、7/24には1.4%を突破、国債離れが進行し始めていることである。
 9月金融危機が現実化すれば、国債を買う余力どころか、10月以降、もはやカバーしきれなくなっている流通大手やゼネコンを次々と見放し、連鎖的に地方銀行から大手の一部まで金融機関の破綻も相次ぐと予想されよう。さらに、これは同時的に株価再下落→不況拡大というデフレスパイラルを一気に加速させかねないものである。小泉政権がのんきに構えて舵取りを誤れば、以前のどの政権のときにも増して深刻な事態に突入することが確かだといえよう。

<<「キーワード」>>
 ところが、ここまで景気が底なし状態に陥ってきても、今や守旧派も安心して叫ぶ「構造改革なくして成長なし」などの掛け声ばかりで、何ひとつ具体的な対策をとろうとしていないのが小泉政権である。今こそ緊急かつ大規模にセーフティネットをはりめぐらし、倒産や失業の急増に対処できる施策が要請されているにもかかわらず、逆に倒産や失業をさらに増大させ、デフレスパイラルをいっそう加速させる政策にご執心である。
 8/7、小泉政権にとって初めてとなる来年度の概算要求基準の大枠を決定した。その特徴は、(1)国債発行は30兆円以下にする、(2)全体から5兆円削り、そのうち2兆円を構造改革の重点分野に回す、(3)その結果、総額3兆円の歳出削減をする、というものである。小泉首相は、「30兆、5兆、2兆。これが今回の概算要求基準のキーワードだな。国債発行を30兆円以下に抑え、歳出を5兆円カット、重点分野に2兆円増額というのが大枠だ」といかにも得意げである。問題はどこを削って5兆円を捻出するかである。要求基準では公共事業、地方交付税、ODAをそれぞれ1兆円、社会保障関係の自然増(1兆円)を7000億円程度に抑えるなどとしている。セーフティネット予算への配慮は皆無である。出てくるものは社会保障負担のいっそうの増大、地方交付税のカットに象徴される弱者への負担増大政策であり、個人消費をさらに冷え込ませる政策である。
 焦点となっている補正予算についても、塩川財務相は9月7日の4―6月期のGDP速報を受けて、直ちに編成に着手できるように準備を進めていく考えを明らかにしているが、これがまた「改革」とは無縁のゼネコン救済の補正予算がみえみえであり、ただ目先を変えるために「都市再生」を名目に、地方分を都市の道路整備に振り替えたり、財源も前年度の決算余剰金2381億円を全額回し、赤字国債の増発も検討するというのでは、守旧派の手法そのままである。
 8/4付、朝日新聞世論調査(1、2日実施)では、内閣支持率は69%で、5月の84%から15ポイント減の急落である。それでもまだこれほどの支持率があると見るのか、空前の高支持率もようやくその本質が問われ出したと見るのか、注視する必要があると言えよう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.285 2001年8月25日

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【誌上討論】 参議院選挙 その結果をどう考えるか

【誌上討論】 参議院選挙 その結果をどう考えるか

☆7月29日投票の第19回参議院選挙の結果について、在阪メンバーによる、アサート恒例の意見交換会を8月4日に開催しました。鉄は熱いうちに、ということで、急遽設定しましたので、5名の参加という事になりました。議論は2時間30分を越えて行われ、小泉現象と参議院選挙結果のテーマから発展して、「対立軸」の問題、ナショナリズムの問題、オランダモデル、IT革命の問題などの議論にも及びました。この内容について、2回に分けて掲載いたします。

参議院選挙 その結果をどう考えるか 意見交換会(その1)

A それでは、先週行われた参議院選挙の結果を受けて、意見交換会を始めたいと思います。司会の方からいくつかのテーマを設定させてください。一つ目は、小泉人気というかブームというか、今回の参議院選挙を規定していた小泉旋風というものの正体は何なのかということです。二つ目は、具体的に参議院選挙結果から何を汲み取るかと言う点、特に連合800万人と言われながら、労働組合候補は9人合わせても150万票であったわけで、マスコミも労働組合の力の低下、また空洞化などの評価が出ています。外から、そして内から、どう考えればいいのか、また無党派層というものの選挙動向をどう考えるか。また社民、共産の低迷をどう考えるかなども。そして3つ目は、今後の政局とそのポイントということになります。
まず、それぞれから選挙の感想をそれぞれからお願いします。

<小泉は大蔵族>
B 最近聞いたんですが、小泉は大蔵族なんですね。そう聞くと小泉改革でやりたいことがわかるんですね。郵政改革も第2の大蔵省をつぶすということでしょう。金融資本を助けようとね、この間の動きもそれを純粋に体現しているのかと。住宅金融公庫の廃止を選挙前に言い出しましてね、それで完全に民主党に入れようと思いましたが。やはり改革の順番が違う、生活実感が違うと思いますね。
住宅金融公庫の民営化ということは、おいしいところを民間でということで言うことですね。しかし長期の固定金利に耐えられるはずがないわけで、個人の金融資産を食いつぶして合理化もせずに銀行が生き延びるのかとね。正体見たりという感じでしたね。本当に腹が立ちましたね。もともと銀行を信用していないし公庫融資と比べて、金利は2%程度高いし固定金利はしないし。個人の住宅取得については、勤労者にとっては大きな問題なわけで。
銀行が抱える問題は大きいと思うんです。金融改革というならもっと大胆に合併知るなり、スリム化するなりすべきなんだけれど、合併したといっても人は減っていないしね。
公的金融機関をすべて民間に移すことはできても、借り難い人やベンチャーの人などにプラスにはならない。それをセイフティネットというのか知らないが、民主党なら、そういう暴力的なやり方はしないのではないか。
国民金融公庫には口を出していないが、やはり自営・中小業者が対象ということで、サラリーマンは、軽く見られているという気がしますね。

<総裁選挙で、すでに選挙は終わっていた>
C 今回の選挙ですが、始まった時にすでに選挙は終わっていたと思うんです。自民党総裁選挙が、自民党内の選挙でありながら、候補者が街頭演説に繰り出してマスコミに取り上げられたりして、すでにここで『擬似政権交替』が行われたわけです。森総理の後で、小泉さんが「自民党を変える」という公約を立てて、「利権圧力集団の橋本派」に勝ち目のない戦いを挑んで勝ったというわけです。ここで「バーチャル」な擬似の政権交替が起こったわけですね。その後の参議院選挙ということですから、小泉が勝って当たり前と思っていたわけです。という意味で私自身はこの選挙にあまり興味がなかった。菅幹事長も同じようなことを発言して批判されていましたが(笑)。
さらに比喩的に言うと、今回の選挙で重要な役割を演じた人がいます。森・前総理ですね。あそこまで自民党の悪いところをすべて体現した人はいなかった、個人の資質も発言の中身も含めてね。極めて自民党的で、自民党の持っていた悪弊をすべて体現していたわけです。この人が辞めて小泉さんが出たということは、ある種の「厄払い」の神事みたいなものです。一切の「厄」は、森さんとともに払われてしまった。その結果が、政治評論家の森田実さんも言っていますが、バートランド・ラッセルの言葉にある「極端な希望は極端な悲惨から生まれる」という事態です。

<キーワードは『バーチャル』だった>
現象的に見れば、擬似政権交替を含めて、キーワードは「バーチャル」だと思います。「自民党だけど自民党じゃない」とか、変っているはずがないのに「自民党は変る」とか、「変らなければ自民党をつぶす」とか、小泉自民党はどこの政党なのか分からないわけです。結果、「自民党でない自民党が勝った」という意味において、小泉内閣はすごい課題を背負ったわけです。もう後がない政権だということですね。
もうひとつの「バーチャル」は、構造改革問題ですね。「改革する」という言葉・決意だけがあって、中身がわからないんですね。どういう改革をして何が変るのか、わからない。自由党の小沢も言ってましたが。中身はわからないけれど、変えるんだという『姿勢』は分かるということでしょうか。閉塞感を打ち破る改革に期待が集まったということです。
もうひとつのポイントで、この間思ったことは、政治家個人の資質というか、行動のスタイル、言葉の使い方などが重要になってきたのではないかと。この前の加藤政変の時も思いました。あの最後の仕舞い方で彼も終わったと思いましたね。政治をどう定義するかと言う問題も絡んで、言葉で人の行動に影響を与える営みなんだという定義があるんですね。政治は言葉によって人を動かしていくということならば、小泉や田中真紀子のような言葉に力をもった政治家の存在は理解することができるのではないか。
そして今後ということなんですが、極端な期待は萎むのが早いということでしょう。選挙が終わって、自民党の中の批判勢力が発言を強めてくることは必至で、すでに動きが出ているわけです。支持率も下がってきた。来年度の予算編成がはっきりしてきた時点で熱病が覚めたら、どうなるかということでしょう。自民党の最終局面という意味で、現在の状況は経なければいけない、そんな気がしています。

<言葉だけが踊る小泉改革の中身とは?>
D 花火大会の最後のフィナーレということでしょうかね。よく似た感想を持っているんですが、投票率があまり伸びなかったですね。本当に政治に国民の関心がもどってきたのかという問題もあるんですね。それは、マスコミの報道などで小泉人気だけが先行して国民が煽られたわけですが、政治への関心が国民的にどうだったのか、意外と覚めた国民も多かったと言うことなんでしょうか。もうひとつは、どうせ自民党が勝つだろう、それならば遊びに行こうか、ということ。
もうひとつは、選挙の争点の、改革か、改革反対か、という2者の対立みたいなものが吹聴されたけれど、改革の中身が見えないということ。既得権益をなくすとか、国家行政をスリム化するとか言われるけれど具体的に何をするのかが見えない。例えば国債の発行を抑えるとかは少し出ていているけれど、まだまだパーツパーツなんで、どういう体制をめざすのかという点はまだ不透明ですね。ただ言葉だけが踊っているわけです。マスコミ的に「抵抗勢力」対「改革派」みたいな構図が全面に出されて、単純な対立図式がマスコミ的にはセンセーショナルなんで、対立構図が先行して具体的改革は逆に後景に退くということになっている。
危険性を強く感じるのは、抵抗勢力だということで改革に反対するのはけしからんと、ちょっと反対意見を言うとけしからんと、先日の朝まで生テレビでもそうでしたね。国会の党首討論でも民主党に抗議のFAXが届く。一種のファッシズムを感じるんです。その事について、本当の「抵抗勢力」かどうか、反対意見を言うことがいけないのか、そこに危険性を感じます。
小泉人気について、確かに言葉にメリハリがあるわけですね。「人がどう言おうと私はこう思う」というような、はっきりした発言をする政治家が受けているわけです。これは右や左を問わずです。例えば小泉、田中真紀子、田中康夫知事、石原慎太郎など比較的保守系に多いけれど、言葉をはっきり言うわけです。皆に受けようとすると言葉は曖昧になりますね。それが国民から政治不信を生んできた面もあるように思います。例えば抵抗勢力だと言われている鈴木宗男なんかでも、結構人気がある。言葉をはっきり言うというのは、これからの政治家には求められていることは確かだと思います。
そういう意味では、例えば共産党が改革政策を出したかどうかわからないんですけれど、言葉ひとつ取っても国民に対してわかりにくいわけですね。

<現状への不安と小泉人気>
小泉人気ということでは、国民の中に現状不安感が強いということが言えると思います。現状に不安感があって、誰かが何かを変えてくれるという期待感、ムードが強い。本当に不安なのは、金融資本の再編に対して徹底して会社分割法とか、企業再編が行われるにあたって、それを促進するための規制を緩和するための改革であったり、国のスリム化を進めるにあたって、この事は労働側から見れば雇用不安に直面するわけです。現状でも300万とも400万とも言われる失業者がいる、そして今後銀行やゼネコンの再編によって100万人以上が増えるとも言われているわけです。これに対するセイフティネットは何も準備されていないわけです。選挙の終盤に自民党の雇用対策が出されたんですが、従来の職業訓練枠を増やすというだけなんです。民主党もこれに対しては十分な政策を対置できてはいないんですね。リストラや雇用不安に直面している労働者は、どちらの政党にも投票しないと思うんですね。職業訓練をただ受けただけで何とかなるという世の中ではないんですね。中高齢者については、職業訓練を受けたとしてもそもそも雇用は厳しいわけです。そうすると先ほどのとおり、小泉支持率も今後下がる、失業もどんどん増えるということで、その時の社会状況はどうなるのか。民主党も有効な対抗策がだせないとしたら、その向こうはどうなるのか、そのことを考えると、本当の意味で私は不安感を覚えるわけです。

<小泉改革は、新自由主義を純化させるか>
A 森さんが悪い印象をすべてかぶってという話がありましたね、これまで参議院選挙は七夕選挙といわれたように7月上旬に行われてきた。それを投票率が上がると不利だということで、自民党が7月29日という夏休み期間中に敢えて設定した。それは小泉政権になる前の話で、森総理などを前提にしてのこと。それから、選挙制度改革で、非拘束名簿制の比例選挙に変えている。いずれも自民党が決めたことだ。
投票率が低かったということだが、世間は夏休みです、そして暑いんですね。29日の正午ごろでも投票率は25%前後で、それからも伸びないわけです。前回の参議院選挙は、時間延長で午後8時までになって、午後6時以降結構投票が伸びたんですね。
この二つは自民党が勝手にやったことなんですが、ことごとく外れたわけです。ただ、小泉人気で救われたと言うことなんです。自民党の戦略性なんてのは、実際はひどいものだと思うわけですね。
小泉改革への批判点として、新自由主義に純化しつつあるという評価がありますね。痛みを伴う改革だとか、自民党が本当にシフトを変えてくるのかどうか、この辺を注目してみています。先週の『エコノミスト』に興味深い文章が出ています。要するに、橋本派は『小泉改革』を見切っている、小泉の改革など自民党の政策の枠内で収束する、だから敢えて「抵抗勢力」だと、表に出る必要はなく、ただ見ているだけでいいんだ、という内容でした。郵政民営化も3年後の公社化は決定しているし、首相公選制や憲法改正も5年以上かかる問題で、小泉自身がそれまで首相でいることはあり得ないと。参議院選挙でも橋本派が増えたわけだし、小泉降ろしをしない限り、いずれ政権は橋本派に戻ってくる、という内容でしたね。
小泉は人気がだんだん下がるけれど、総選挙はしないだろう。3年もあるわけだ。そういう意味では、公明党との連立問題が今後火種になるのではないだろうか。都議選でも公明が出ていない選挙区では民主党候補に公明が票を回したという話もあり、公明にとって自民党圧勝ということは連立の意味が薄れるということを一番気にしていると思う。政権与党であり続けたいけれど、現在の経済状況で「改革の痛み」は、公明支持層に一番きついということは深刻だ。
選挙後、NTTの合理化問題、50歳以上は退職、または別会社へ行って大幅賃下げになるという提案や、三菱自動車が8000人の規模で早期退職募集をしたら1日で18000人以上が応募して受付を打ち切った話、さらにNECなど電機産業での経営不振と合理化、松下の45歳早期退職制度など、IT不況が今後一層深刻化するというなかで、小泉政権がどんな評価になるのか、これはまだ不明というところでしょうか。

<民主党は、なぜ負けたか>
民主党の評価と言う点です。なんで負けたのかということなんです。法定ビラが3回出ましたが、雇用対策などで自民党とどれだけ区別できたのかというと、自民党の『衣替え』に即時の対応ができなかったということだと思うんです。そして、公共事業の削減などの政策も自民党に取られたという面もあるけれど、同じ言葉にどれほどの信頼性があるのか、そういう意味では自民党が言い出すと、政策の中身と実行力みたいな部分では、先ほどの「言葉の力」との関係で、民主党よりも自民党の方にまだ「信頼性」は国民の中にあるのかな、という気もしますね。
この結果について、民主党なり連合にはかなり深刻な雰囲気がありますね。
C 大きな話は後でやりたいんですが、興味深かったのは比例代表の組合票なんですね。それぞれの地域での票がでたでしょう。組合内部ではどんな総括がされているんですか。
一番多く票を取った電力の候補でも25万票ですか、全部合わせても150万という結果ですが、これが民主党内の評価、また連合内の評価がどうなっているのか、非常に興味を持っているんですが。
A:どの産別候補も、居住組合員X2みたいな票を基礎に、予測していたと思うんですね。20年前の全国区選挙との比較という意味でもね。なんぼなんでも60万くらいは出るだろうと思っていたわけでね。しかし、電力総連も支持署名を300万集めたと言っていたわけですが、それでも25万票ということですから、大きなショックを受けているわけです。100万人の組合員の自治労でも21万ですからね。はっきり言って、まだ深刻な総括に入れていません。各県、各自治体毎の票が出ているわけで、妙な方向に行けば責任問題にもなる。ちょっと置いておこう、というところではないかな。
確かに、組合の組織力の低下という評価はできるかもしれないが、ただ、個人名ではない民主党という党名での投票がかなりあったということは言えると思うんですね。非拘束名簿制という制度改正そのものが徹底していなかったわけです。このことは、選挙終盤になってはっきりしてきたことです。
C:公明党は個人名で、というのが浸透していましたね。
B:混乱しなくていいんですけれどね。私のところにも、3つ以上の陣営から電話が入りましたけれどね。
C:比例区の順位を政党ではなく票で決めると言うことなんだから、本来は大きい組織は有利ということなんだな、きっちりやればね。ただ政党名での投票をした圧倒的多数の人にしたら、ふざけた制度ということにもなりますね。政党に入れたら、組織代表の人が多数当選するというのはね、政党の側では特色を出せないということでしょう。

<複数区では議席を守った民主党の評価>
A:大阪では選挙区で民主党山本たかしが勝ったでしょう。しかし労働組合は、比例区と選挙区の力の配分は、8:2で比例区重点だった。他の産別もそうだったはず。比例区は○○、選挙区は山本、とどこも徹底したわけだ。マスコミは、そうした産別の力が選挙区候補を押し上げた、という評価をしているが。そういう意味で、山本の勝因はまだはっきりしないんだな。
C:民主党に入れる人は、山本に入れるんじゃないの。
A:山本の場合は、大阪市内で3万負けて、府内で4万近く共産候補に勝って、当選したわけだね。同じように、北海道、埼玉、千葉、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡と複数区の選挙区では民主党は議席を確保しましたね。共産党に勝ったという意味で、大阪の場合は充足感があるよね。共産党が退潮ぎみで、喜んでいいのかな、という気もするけれどね。
C:政界再編でガタガタしたけれど、この2回の国政選挙で第2の選択肢としての民主党の位置というのはそれなりに固まったという気がしますね。ただ、89年の選挙が、自民党1400万、民主党1200万なのに、今回自民党2100万、民主党890万という結果というのは異常な気がしますね。自民党が700万も票を上積みしたわけで、とんでもない話なんだ。自民党に替わる政党としての民主党の位置は固まったとは言えると思います、ただ、選挙に勝った負けたという話ではないな、と思います。
A:今回の比例区選挙は、今後深刻な総括がいるとは思うけれど、従来型の労組選挙に限界がきていることは間違いがない。労組型選挙というのは、組合員とその家族、紹介者の支持を固める、というのが基本。しかし、先ほどの「言葉の力」やマスコミ効果ということを考えると、自民党が2100万を取ったということに象徴的なように「マス」がどう動くか、ということとは無関係なところで、労組選挙があるということだ。労組OBを参議院に出す、ということが果たして、市民的にはほとんど意味がない、ということをどう考えるのか。

<対立軸はどこにあるのか>
C:これまでこの意見交換会に出てきているんだけれど、ずっと気になっているのが「対立軸」ということです。ただ、今、私には、初めて見えてきたような気がするんですね。実際には、今回も対立軸はなかったと言ってもいいぐらいなんですが。改革が見えないというけれど、「改革する」ということはみんな同じだった。改革しないといけないという点では、どの政党も一緒だったわけですね。そしてそれは概ね間違ってはいないと思います。
それでは、今後何が対立軸になっていくのかという点ですが、それを意図的に整理していくことが大事だと思います。そして、対立軸は個別の政策にはないと思うんですね。もっと大きなレベルの底流の、「拠って立つ所」の違いによって出てくるのではないかと思います。
今回、見えてきたなと思うものには、ふたつあります。ひとつは、20世紀型福祉国家の「大きな政府路線」というのは成り立たないということです。ある意味で成長を前提とした産業国家の裏返しのような路線は成り立たない。では、次の対立軸は何なのかというと、「競争を重視した激しい社会」と言いますか、「より競争力のある人が勝ってたくさん得るものがあり、取れない人はとことん落ちるという社会」か、「一定の範囲で競争優位に立った人は所得が増えるんだけれど、一定の枠があり、ひっそりと生きるというか、落ち着いた生活をする人は、それはそれで生きていける社会」をめざすのか、という二つの選択肢があると思うんです。

<新しい社会のビジョンをどう描くか>
小泉さんは、もともと「構造改革なくして景気回復なし」と言っていたが、微妙に変化して「構造改革なくして成長なし」と変えてきた。改革をして違う成長を求めるということですね、そういう路線なんです。より競争力のある産業を創造して、新しい成長を、というね。シュミレーションでも平成14年までは雌伏の時期で、それ以後は黄金の時代だ、などとね。年2%くらいの成長を実現すると。しかし、そんなことはもうないというのは自明なのではないでしょうか。実はこれだけリストラやって失業が出てもやっていけるというのは、社会が豊かだということなんですね。だから、はじき出された人がどう生活していくのかを含めて、少々活力がなくなろうが、職住接近でゆったりと生きていこうという割り切りができないものか。そしてがんばろうという人には、努力できる環境が保障される、そういう社会のビジョン、これも「小さな政府路線」ではあるんだけれども、こうした新しい社会のビジョンを出していく事が必要なのではないかな。
そうした基礎的な考え方ががっきりすれば、個別の政策にメリハリも出てくる。そして、内政的なビジョンがはっきりすると、外交をめぐるビジョンにも反映して分岐が出てくる。現在の小泉と田中外相との対立もそうだと思います。間違いなく小泉の路線はアメリカ追随ですね。ミサイル問題にしても環境問題、京都議定書にしてもブッシュに引っ付いていくというね。アメリカというのは、経済成長中心の国益中心国家で、そのアメリカ中心のグローバリスムに追随する路線ですね。世界的に見ればそんなことにはなっていない。EUも人類益を意識しながら多元的な価値の共存だとか、社会的規制をしながら「落ち着いた社会」を目指している。ワークシェアリングを進めるオランダモデルの話などは象徴的ですね。
日本をとってみれば、周辺諸国に経済や政治で圧倒的な指導力を発揮するようなパワーなど、もはやないのははっきりしている。世界的に見ればアメリカに対抗するもうひとつの核は、今やソ連ではなく中国です。中国・EU・アメリカという3極構造の中で、日本が韓国やアジアに警戒心を呼び起こすような国になる危険性があるという議論は、日本に対する過大評価でしょう。日本がアジアの中での身の程を知ってね、アジアの中で居場所を見出して信頼を勝ち取らないと、生き残れるはずがないんですね。だからこそ戦争責任問題もはっきりさせていく必要があるわけです。そう考えると、小泉さんの頓珍漢な対応では足元がすくわれることになると思う。靖国問題もそうですね。
こうした戦略的な方向をはっきりさせないと民主党も、景気対策や経済成長、活力などの問題に振り回されることになる。それを脱皮しないと、自民党との違いが出せないと思います。
A:ゆったりした生活とか、ゆったりとした人間関係とかね、多元的で人権もしっかり守られてね、みたいな路線は意外と求められていると思うな。
C:民主党も労働組合との関係があるし、労働組合というのは企業との関係があって、経済活性化とか産業育成、雇用確保などでは、自民党と同じスタンスになってしまう。先ほど言った社会を描こうとすれば、やはり地域政策ですね。財源問題含めて国の成り立ちを分散型の社会にしていく必要がある。これまで権限と財源を中央に集中する体制を作ってきたわけだが、ゆったりとした社会にするためには、その配分を変えていく必要があるわけ。めざすべきは、そんな世界じゃないのかな。

<政策論争をさせない選挙制度>
D:話を戻しますが、前の小選挙区制導入の時にも発言しているんですが、現在の選挙制度が、政策論争をさせないような、まるで選挙運動禁止法のような実態があるんですね。テレビでも、公示後は討論禁止だとか、立会い演説会もできない、もう連呼しかないみたいなね。共産党が元気なくて、体力が落ちているというのが退潮の原因だとも思うんですが、政策論争がしにくいという意味で、問題のある公職選挙法というのが実態なんですね。
対立軸の問題ですが、改革の中身がない中での、改革派か抵抗勢力かということに終始してしまったということとの関連で、選挙中に民主党が「私たちも改革に賛成です」という法定ビラを配っていまして、これは違うだろうと思いましたね。改革の具体論が提示されたいないとしても、本当に改革するのは私たちです、というべきですよね。小泉の改革ムードに流されているという感じがします。そこで改革の対立ビジョンとは何かという事なんですが、より一層の自由競争に基づく競争の激化と産業企業の変容ということなんですか、そこでセイフティネットが出てくる。つまり最低限の生活保障を明らかにした上で、その上で競争をすると言う意味でのセイフティネットの提起が出し切れていない。民主の側が出すとしたら、セイフティネット型社会の構築みたいな政策になるのかな、僕だったら、そんなビジョンを出したかな、と思います。それがビジョンにおける明確化ではないかな。

<個別政策と新しい枠組み>
C:僕自身、まだ描ききれていないんですが、たぶんその枠組みというのは、旧来の20世紀型の産業社会を前提にしたパラダイムの中にある発想では、対立軸としては描ききれないのではないかと思う。競争に力点を置くのか、セイフティネットに力点を置くのかというのは、大きな観点からは同じ土俵にある議論なんですね。例えば、個別の各論のレベルでは自民党だってセイフティーネットを言うと思うし、民主党も言うと思うんです。個別の政策議論では、自民党の中の一部と民主党の一部の議員がよく似た傾向の意見を持つこともあるし、党内は、結構モザイク模様というのが多いわけです。同じ政策を掲げていたとしても、大きな選挙を前提にした場合、有権者は、大きな底流というか、個別の政策を位置付ける戦略の中での個別政策を理解して、政党を選ぶということになるわけですね。そういう意味で個別政策での政党選択はだんだん不可能になってくるのではないでしょうか。
基調の部分で、方向を指し示す中でこそ、個々の政策が生きてくると思います。例えば、アメリカに着いていくのか、アジアとの協調を重視するのかとかね。経済問題でも活性化をめざさないとは言いにくいとは思うけれど、そういった方向にトーンを変えていって具体の政策を位置付けることをしないと、民主党は自民党との違いを出し切れないのでは、と思います。まだ自分もきっちりと明確にはできていないんだけれど、単なるセイフティネット強化論ではなくて、基調の部分を転換できないとね。そんなことを漠然と思っています。そこが描き切れたら、自民党と違う一人前の政党に民主党もなるんじゃないかな。
D:で言えば、Cさんの言うように、例えば今回の小泉人気について言えば、客観的な背景として背景に強烈な社会不安があるわけです。それが何かやってくれるという期待感と結びついたわけで、私の言うのは、むしろ当面の闘争方針のようなものとして発言しているんですが。具体的なセイフティネット策を明らかにできれば、もっと有権者に訴えられたと思うんですね。例えば年金などの社会保障制度とか雇用対策で安定雇用の社会政策などをね、そういう事をきっちり出すことが重要だったのではないかとね、今回の選挙についてね。
C:例えば社民党のように、年金制度を充実するとか、就業保障のための制度を確立するなどという「単一課題」を全面に押し出して一定の勢力を維持しようという野党の選挙ならいいのだけれど、すべての国家システムを整理して、実現可能な現実政策を打ち出すべき民主党としては、中々、個別課題をポッと整理できる話ではないのではないですかね。

<抽象的な痛みは理解できても・・>
A:今回の選挙で言えば、KSD疑惑だとか、特殊法人改革、天下り問題、外務省の機密費問題とか、今まで50年間日本を引っ張ってきた様々な国家や政財界のシステムに対して、もうだめだという感じは国民の中に明らかに存在していたわけ。昨年の衆議院選挙で、民主党が公共事業の見直しを全面にしたときも、国民は理解を示したわけだ。そうした怒りの票をさらっていったのが小泉だったわけだ。「痛みを伴うけれども実行するんだ」と、言葉に力のある小泉が言えば、こいつならやるかな、少々の痛みならしょうがないか、ということになったわけだな。
ただ、痛みの中身だけれど、あなたの失業手当は2分の1になる痛みですが、耐えられますか、とは言われないんだ、システム改革に伴う痛みという抽象的なものだったわけだ。
Dさんとは、選挙中にも話をしていてあの民主党のビラの話になったね。中折のビラで確かに表は、民主党の改革に賛成だとなっていたけれど、中を開くと6つの点で自民党と民主党の改革案の比較がされているんだ。
C:その民主党のビラは、中々特徴的でね、実は今回の選挙は、ビラの表の「改革」が中心で、中身の個別政策まで議論にならなかった、というのが特徴ではないか。改革への姿勢で国民は選択したんじゃないかな。改革に対して積極的か、そうでないかという姿勢をね。改革への姿勢が問われた選挙だったんだな。
自民党は、自民党でありながら自民党ではない、という小泉を押し立てて信任を得た。共産党や社民党は、各論に入る前に、改革の中身に入る前に、改革に否定的で従来どおりの政策を唱えて、結局支持を広げることが出来なかったという結果になり、一方自民党は国民に対して最後の大きな課題を背負ったということじゃないのかな。終わりのはじまりだ。
A:選挙後特殊法人の改革問題が具体的に出てきた。石油公団もそうだ。赤字垂れ流しの公団だが、廃止するためには1000億程度の税金の投入が必要ということだ。さあ、改革の中身の議論になっていたね。また国民負担だよ。

<ナショナリズムの問題>
E:歴史のターニングポイントというわけだけれど、経済的には日本はバブルの崩壊で違う状況に入って、そして空白の10年があって、これからは前のような成長はあり得ないし、今後は緩やかな成長ということになるだろうね。それに対応する構造改革の方向をどう出していくのか、確かに求められている。小泉は、はっきりわからないがアメリカ型のようで、それに対する対案が明らかではない。そこが問題なんだ。
特に危機感を感じるのは、小泉のナショナリズムの傾向だ。生駒さんも書いていたけれど、グローバリスムに対する反動として、いろいろな問題が出てきている。Cさんが言うように、もちろん日本が侵略するとかアジアの盟主になることはあり得ないわけだけれどね。失われた10年とは言うけれど、NPOなど平場の努力は続けられてきたわけで、そういう流れに水をさす結果になりかねないわけだ。国民の中にも不満が溜まっているので、ナショナリズム的傾向に流されている人も多いんだ。日本の状況に対して非常に狭い視野の傾向が生まれてきていて、我々もこうした傾向に対置していくことが求められているように思う。

<ナショナリズム批判の方法論について>
C:今日は生駒さんが来ていないから面白くないんだけれど、生駒さんの論調と、ちょっと感覚が合わないな、ものすごく古いな、と思うわけ。発想枠組みがね。変ろうとがんばっておられるんだけれどね。(A:おるときに言えよ!!) でも、残念なんだけれど古いよ、って言おうと思ってきたんだけれどね。例えば、古いなと思うのは、小泉の評価なんかね。教科書や靖国の問題にしても違う切り口から見ないと。
ナショナリズム批判も、ナショナリズムとは何ぞやという定義の話から議論をしないといけない。それで、今、アーネスト・ゲルナーの「民族とナショナリズム」という本を読んでいるわけです。日本で批判されているナショナリズムのことなんですけれど、ナショナリズムはどこでも生まれる現象ではなくて、沸騰するには一定の条件があるように思う。そういう観点では、抽象的な言い方で申し訳ないけれど、この種の動きをどう読み取るべきかという点で、過剰評価することで相手を強化する側面があるのではなかろうか。非常に漠然とした話ですがね。例えば、民間レベルでの多元的な運動は、そんなにゆり戻されることは無いと思うし、戦前と圧倒的に違うのは、アジア諸国のすごいエンパワーに日本の側が負けていることだと思う。

E:そうした動きが表面化してきたわけだけれど、いままでもやもやしたものが形になってでてきたわけで、対立点ははっきりしている。そういう意味でこれまで積み上げてきたことを対置していきたいですね。はっきり対置することが求められていると思う。
C:ただね、その対置する内容が問題だと思うわけ。いままでの紋きり型の批判、例えば新しい歴史教科書を作る会のあの教科書ですけれど、従来の論調での批判だけでは克服できないのはないだろうか。もっと根の深いところで捉えていかないといけない。例えば、日本が単一国家で単一民族だみたいな常識、あるいは縄文時代があって、弥生時代があって、古墳時代があって、みたいな西日本でしか通用しない歴史が学校で教えられてきたことですね。これは、網野さんが展開している日本論とか、「東西/南北考」(岩波新書)で赤坂さんが主張している日本の歴史の見方の違いに関わる話なんだけれども。作る会が「歴史は物語りだ」みたいに言っていることの根拠のなさみたいなところをもっと深いところで切断していかないとね。もっと高みに立って、国際的観点からも、「日本的」観点からも、何を子供じみたことを言っているのか、そんなことではだめになるよ、という批判の仕方の方がいいのではないかと思う。

<守るべき伝統のある>
A:僕自身も、やわらかなナショナリズムは容認するんですね。アメリカ映画でも結構海兵隊ものが好きだったりしてね。国のために死ぬなんてね、物語のなかではね。それから僕のおやじが大工でね、むかしから職人というのが好きなんですね。テレビ番組でも職人技の番組なんか好きですね。この間も金属関係の人と話をしていてね、伝統工芸や職人技をね、後世に残すみたいな事業を起こしてみてはどうかと言う話なんだが。現在の金属関係の職場もコンピューター化が進んでいるんだけれど、歯車や精密製品の最後の部分で職人技が残っているらしい。そんな技術を残さないと、製造業もだめになるんじゃないかという話をしたんです。伝統工芸や技術を残す事業をね、労働組合がファンドを作って行うことは決して無駄にはならないとね。ナショナリズムというわけじゃないだけれどね。伝統ということかな。
C:テレビ番組に「どっちの料理ショー」というのがあって、「本日の特選素材」というルポに出てくる人たちは結構高齢の人たちなんだけれど、見るとほっとする面があるね。
それから、先ほどのAさんの話の中で出た愛国心という概念には、二つの言葉があるんですね。ナショナリズムとパトリオシズム。これは別物なんですね。パトリオシズム、つまり愛国主義という、言語や文化を共有している国家とか郷土を愛する素朴な感情があるわけで、それをみんな一緒くたにして排斥してもだめなんですね。
ナショナリズムと言う概念は、ゲルナーによると、政治的な単位と民族的な単位が一致しないといけないと主張する政治的原理で、それが一致した時の熱狂、あるいは侵害された時の怒りをナショナリズムの感情と言い、その感情に動機づけられた運動のことだと言うんだけれど、実は前提となる国家という概念も民族と言う概念も非常に曖昧な概念ですよね。国家は200台の数で、一方、民族の分類に密接な言語の体系は8000ほどあるんですね。そこで不一致が起こっているんだけれど、でも、どこでもナショナリズムが起こっているわけではない。だから、ナショナリズムがどうやって起こるのかということをもう少し明確にする必要があるし、日本の中での議論で言えば、国家的なことに関連することを何でもナショナリズムとして排斥してしまう傾向があるように思う。

<ナショナリズムは勃興するか>
網野さんの説によれば、律令国家をつくった100年の間と明治維新以降の70年の二つ、合わせて170年だけが特殊な世界だと言えるそうだ。戦前の70年というのは、天皇を戴いて他国を侵略していった時代、「八紘一宇」ということで他民族を支配下に置こうとした時代ですね。ナショナリズムに満足心を持ち、且つ非常に抑圧的な時代だったわけ。そういう条件に今あるのかということを問題にしなくてはならない。アジア各国の主権に日本が政治的支配を及ぼすようなことはできっこないし、支配統一できる満足感も持ちようがない。そういう意味で、今の日本でナショナリズムが勃興する基盤はないといわなければならない。ナショナリズムが強化される基盤はないと思うんですね。
E:本当にないかな。
C:ただ、危険なものがあるとすれば今後、痛みの伴うかたちの政治的な改革が実行され、社会が極端に不安定になっていって、そこに他国の民族が、それこそ異なる言葉、言語体系を持った外国人が非常に大量に入ってきて、実際に自分の職業を脅かしたり、影響力を持ち始めると、ナショナリズムが非常に激化する可能性は大いにある。可能性が一般的にないというわけではなく、今の状況の中ではないと言えるのではないか。
E:流れとしては、外国人は今後とも入ってくるだろうし、一般論としてはないとしても可能性はあるわけだ。

<アジアの追い上げはすごい>
A:立場を変えて、私の場合はニュースステーションが見れない時間に帰宅するので、WBSを見ているんです。小谷さんのやつね。あれを見ていると、中国の労働者は、ユニクロの場合、月給が2万円です。2万円だけれども技能はすごく高い。昔は「安かろう悪かろう」だったが「安くても良いもの」ということになっている。アジアの労働者は、ベトナムでもどこでも同じ状況なんだな。賃金は安いけれど技能は高まっている。製造業だけではなくコンピューター技術でも、中国でもすごい数のコンピューター技術者が養成されている。昔からインドはよく例に出されるけれどね。現地の給料という事で安いというだけで、技能はそうとう高いということを忘れてはいけない。単純労働者が入ってくるというだけでなく、高度な技能をもった労働者が今後入ってくるという前提が必要ではないかな。そうした労働者が日本に大量に入ることは想定できるし、その時、明らかに排外的な傾向は予想されるだろうね。
B:来なくても仕事は流れますよ。
A:日本人は、日本がまだまだ技能が高いと思っているかもしれないが、ここ10年以内に確実にアジアの諸国が技能的にも追い上げてきますよ。活力が違うからね。小野瞭さんが言っている起業家社会の議論で言えば、負けちゃう可能性もありますよ。
C:例えば、日産でゴーンさんが社長になったでしょ。トップが外国人ですよ。ビシビシ、リストラしますよね。ああいうのが日常風景になってきますよね。企業であれ組織であれ、国際的なM&Aが進んで実権が外国の人に握られるという状況になって、日本の企業の実権が『日本人』でない人に握られるということになれば、確実にナショナリズムの傾向は強まるでしょうね。
B:僕はそうなっていくと思うし、そうなっていかないと活力を見出せないんです。つまり人脈や信用を破壊しないとベンチャーは上がっていけないんですね。仕事ができないんですね。ある種の品質を持っているだけでは日本では受注できないんです。海外からみてもそういうように言われてきましたね。自分で仕事を始める、起業しようとすると系列とか商習慣の壁にぶち当たるわけで、できるだけビジネス機会は公開されていないと困るわけ。フラットな条件で競争できる、競争といっても、がむしゃらに仕事をするんじゃなくて、サラリーマンが普通に仕事をするように個人でも起業して働いていける、本当にチャンスが公開されていくんですよ、というのがセイフティネットというんじゃないのかな。
E:そうかもしれないね。
C:貫いているのが合理主義の世界、例えば企業にしてみれば、国家とか民族というのは間違いなく不可解なものに違いないわけ。企業組織はそんなものを超越しているわけで、だからこそゴーンさんが社長になり、リストラをしているわけだれど、ただすべての人間が合理主義で動くわけではないし、合理精神で感情を乗り越える人ばかりではないわけだ。不合理の上にナショナリズムも起こるし排斥も起こる。だから、その摩擦が大きくなる可能性はある。今は表にでないけれど、今後その摩擦が大きくなる可能性は高いというべきかな。

<人権運動の対抗としてのナショナリズム>
E:僕は、逆に、合理主義というか人権主義というか、そうした運動の流れが強くなってきたから、反発としての「ナショナリズム」の動きが強まってきている、という考え方なんだな。だからこそ、こうした流れに対抗していくことが必要だということを、今回の選挙でもどこの言っていないんだ。

<オランダモデルとは>
B:構造改革というわけで制度のことが言われているわけだけれど、僕はひとり300万円くらいでね、誰でも生きていける社会が理想なんです。僕は子供の頃から、男が女を食わせるというのは嫌いだったんですね。オランダに友達がいるんですね、変ったやつなんだけれど、男ひとりと女二人で暮らしているんだけれど、女の子は姉妹なんだけれど、それは自由なんです。性的モラルも全然違うんですね。オランダは、空家があったら、占拠して3日たったら所有権が移るんですね。空家に入って暮らしているんです。800万とか違って、働いたり失業したりしながら暮らしているんですね。年に3回長期休暇があってバカンスも楽しんでいる。彼が日本に遊びにきた時に「クレージーだ」というんです。朝から晩まで働いてね。しかし、こうした現状から、ゆったりとした、安定した社会に誘導していくスローガンというのは、出すのは難しいですね。結果としてなっていくのかな、という気がしますが、 結果としてならないかもしれないわけですね。
情報政策が強化されて、新たな成長が生まれるかもしれないし、金融資産が1200兆円あるとけれど、ほとんどが高齢者のものですし、国家とアメリカが全部吸い上げて、最後は何も残らず、日本が普通の国になってしまっているかもしれないわけです。
いずれにしても、代表制としての政党が、言わば生活を切り下げるということを主張できるかどうか、非常に難しいとは思いますがね。
C:そういう転換をしてもいいと思っている人の中に、無党派層と言われる人が多いと思うんですね。無党派層は、従来の枠組みと従来のベーシックな発想、パラダイムと言って良いのかな、そんな枠組みでの有り様を覚めて見ている人たちのことで、そんな人たちが都市には結構いるような気がしてね。そういうところをつかむような打ち出し方ができるのかなと。
昨年の総選挙の後にも書いたんですけれど、オランダの場合、政権交替が起こったのはそんなに古いことではなくて1994年ですね。それまでの中道で支配していたキリスト教民主党政権が崩壊するんです。「紫連合」と言われる、右派自由主義と左派自由主義と社民党の連立政権ができる。そしてオランダの労働組合総連合の委員長が首相になるんです。そこで方向が変わって、徹底した自由主義路線に転換していくんです。ポイントは、ケインズ式の福祉型国家路線を社民党が放棄したので、連立が可能になったということです。
(続く) (文書責任 佐野秀夫)

参議院選挙 その結果をどう考えるか 意見交換会(その2)<No287に掲載>

<徹底した個人主義は日本で可能か>
C:鍵は、オランダではケインズ式の大きな福祉国家路線を社民党が放棄したので、連立が可能になったということです。
だから、ワークシェアリングで仕事を分け合い、何もかも国家がするのではなくNPOもどんどん活用していく仕組みにしようという事になったと思います。
ただ、オランダは徹底した個人主義の国で、日本で同じようなことが可能かどうかと考えると疑問もあるけれどもね。
A:日本はまだ「ムラ社会」ですからね。
C:そこに不安があるわけ。オランダはすごく他民族の国なんですね。そして個人主義で、それぞれが踏みこまないんです。だから、合わせるという文化がない。合わなければ別れましょう、という感じですね。「とことん話し合って仲良くなる」というの発想はないんです。とことん喧嘩すると宗教も絡んで最悪になる。一体化できるという幻想がないんですね。日本ではまだ幻想があるので、だから、個人主義に非常にマイナスのイメージがあるんですけれど、オランダ型の社会を作ってみようよ、みたいな呼びかけは可能じゃないかな、と思うんですね。
B:そういうのは、遺伝子的にいうと、緑の党という感じですね。すごいナイマーな政党ですね。民主党とか与党になろうという政党で言えるかどうかですね。経済成長して、所得を増やして、一家の大黒柱が家族を養えるというような家族観、国家観に則った言い方をしないと支持されないのでは。
C:その怖さを抱えていると、自民党と同じところから抜け出せないということです。
B:それは昔の社会党も同じですね。
A:例えばですね、契機として、土地価格がとことん下がるということが起こればね、ローンを抱えている人は大変だけど、まだまだ土地価格が公表されて下がってはいるんだけれど、部分的には上がっているところがあってね、、どこかに上がって欲しいという期待感が残っているんだけれど、徹底的に下がるというような刺激的なことが起こって、勤労者の夢を打ち砕くようなことがおこればね、新しい考え方も起こるかな、とも思うけれど。

<新しい働き方の価値観>
E:ナショナリズムの話に関わって、その話になっていると思うんだけれど、まずナショナリズムの話については、僕はかなり危険な状況だと思っています。さっきも言った社会の不安、例えば失業者がもっと増えていくとどうなるのか、ナショナリズムの方にいくのか、「開き直り型社会」の方にいくのか。どちらにしても外部注入というか、政治的なイニシアチブが必要になるということですね。
ただ面白いのは、最近、ベンチャーも一つの働き方ということだけれど、かなり失業者が増えていて、失業者の中から、言われているような傾向が出てくる可能性があると思いますね。別に雇用、雇用と言わなくていいよ、けったくそわるい、とね。あれだけひどい仕打ちを受けて、もう一度働きにいくより、自分で何とかしようか、とね。例えば農業に帰る、帰農というんですが。農業というのは、高額所得さえ望まなければ、とりあえず食べるいうことだけなら可能なんですね。あいりんやホームレスの人が結構、農業についているんですね。農村では田んぼを遊ばせるわけにはいかないし、耕す人がいないということで、結構需要もあるんですね。また、自分たちで企業を起こしていこうという人たちも多くなっています。決して大きな資本ということではなく、これまでの会社時代の顧客リストを利用したりして、月20万くらいでいいからのんびりしたいというわけだね。そんな考え方が出てきているんですね。ワークシェアリングというのもそういう事だと思うんですね。そんな考え方、働き方の価値観の変化は起こっている。
労働組合もね、雇用を要求することだけが労働運動ではなくて、労につけばいいんだということで、それがセイフティネットということなのかも知れないね。
A:労働者供給事業もできることなんだからね。仕事を作り出す方もね。
C:NPOなんかもね、地域の課題解決に貢献できるような事業、コミュニティビジネスといいますが、福祉・環境・子育て、介護などで、いわば小銭を稼いで、自分の生きがいと生活を充実させようという傾向はもっと強まると思う。
非常に駆け足で高度成長をしてきたわけだけれど、「ポスト高度成長」の社会をイメージすることから始めて、文明論的、文化的な戦略も加えていかないと対立軸を形成することはできないのではないかと思うわけです。そういうことを描くことを期待したいわけです。

<新しい長期ビジョンと具体的政策>
D:Cさんの話は、今日の参議院選挙総括みたいなことで言うと、かなり先の話かなとも思うわけです。それが真剣に議論されることもいずれ来ると思うけれども、言わば「当面の闘争方針」みたいなね・・・・
C:いや、逆に長期ビジョンを語れる人がでないと、小泉さんみたいな人には勝てないということです。
D:僕は逆に具体論の提起しかないと思うわけです。
A:具体論で言えば、農民と言うのは農業をやめても土地を手放さないですね。それで地方の土地の有効活用ができないですね。例えば年金でも厚生年金とか公務員共済とか教員の年金とかと国民年金の格差があるでしょう。それぞれが利害を持っていて、利害の調整がどういうようにされようとしているのか。小泉改革は皆に平等ということはないだろうし、小泉に投票した人は、自分の得にならないと思って投票したわけではないわけで、そこがねじれているならば、自分の利害にとって合致する政党に投票すればいいわけです。
もっと普遍的な、利害を乗り越えた課題、社会を改革していくプランということになれば、一般に理解されるというのは難しいかもしれない。嘘か本当かわからないわけだから。明治維新のように思想家が言ったとしても、実現していこうというのに一般的にはすぐにならない。なってから気がつく、結果としてそうなった、ということにもなるかもしれないですね。
小泉のやろうとしている改革が、今の利害関係の中で、どこの利害を代表しているのか、小泉自身がそんなものを超越してもっと社会の構造を抜本的に変えてしまうと口で言っているけれど、本当にやろうとしているか、どうかですね。
C:いずれにしても、どんな政策もそれを全体として調和させる背中を一本貫いたヴィジョンがないとバラバラになってしまう。一つの利害を重視することは、誰かの利害を損なうというゼロサム社会なんですね。100%皆が得をする社会は無いんでね、全体がちょっとずつ損をして、最大多数の利害で、少数の損害を調和して調和してとやっていくと何をしているのかわからなくなるということになる。大きなヴィジョンみたいなものをベースにして整理しないと、体系立たないし、有効じゃない。
E:今の方向が出るまでは、オランダだって、北海油田がでてバブルになって、そして落ち込んでオランダ病とまで言われていたわけだ。それを変えたわけだ。本を読んで見ると、その時労働組合の役割は大きいわけだね。結局企業側と賃下げの交渉をして、賃金抑制して、そのかわりワークシェアリングしましょうと、大転換をするわけですね。完全な路線転換ですよ。そして、労働組合の委員長が連立政権の首相になってしまった、ということでしょう。
C:やはり、そういう転換ができる人物がいるんですね。

<年金一元化とセイフティネット>
B:年金は、セイフティネットにすごく関係があると思うんですね。年金について、今支払っているのは、今使われているものという説明に変えましたが、自分たちが貰えるころには、残高がなくなる、みたいなことがありますね。僕らは年金制度は一本化してほしいんです。すべての人が例えば10万円はもらえる、そして団体別の年金はすべて廃止する、だから損をする人も出てくる。
E:今は、職域年金やね。個別利害は出てくるな。
B:年金制度の一本化に反対するのは誰か、たぶん民主党は反対しますね。
C:年金制度をなんで一本化するのか、と。10万円で一元化するという理屈はね、その社会的合意を調達しようと思えば、違う次元で説明がいるわけだ。どんな社会にするのか、という説明がいるのではないか。それを抜きに、一元化の話は出てこないんですね。そこが、さっき言った言葉で人の行動に影響を与えることが政治だとしたら、そういう個別の利害を乗り越えてこういう世界を作っていこうという合意調達の役割が政治だとすれば、それを言える政治家が出てこなければいけないし、世の中を変える時に、思想のレベルや理念の話がついてこない改革、革命はありえない。近代の革命である市民革命も、社会主義革命も、そして明治維新もそうですね。
E:社会が変わるときに、全体像が示されるわな。
D:いまなお、という時に、いまそれが直ちにニードなのかというと、そうなるかはわからんな。そういうのを出していかなあかん、ということは分かるけれどね。
C:間違いなく、ある意味での社会主義幻想というか、20世紀を支配した社会主義幻想は、崩壊したんですね。力を持ちえなくなったんです。

<労働組合も新しい発想で>
A:労働組合の話題も出たけれど、連合が800万人で150万票しか取れなかったということは、元気がないのは、はっきりしているよ、賃金は上がっていないんだから。NTT労組が参議院選挙で職場の組合員にオルグしたら、「おれの雇用はどうなんねん!」と言われる状況なんだよ。選挙どころではない、という状況も一方にあるわけ。連合が元気がないというのは、賃上げがとれない、それが基本的なところですよ、ベースはそこにあると思うけれど。
公務員だって3年連続の一時金マイナスだしね。労働組合がものを取ってきた、そこに依存してきたいままでのパターンが通用しなくなっている。「労働組合は抵抗勢力」とマスコミは評価しているし、いったい労働組合はどんな役割をするのか、この場の議論では新しい役割が議論されているけれど、役員を支配しているのは、組織維持であったり、面子であったりね。労働組合、とくに公務員の場合、労働基本権がない中で、公務員制度改革が強行されるということになった場合、労働組合が本当に生き延びられるのか、労働組合が生き延びることが主眼であるという考え方と、腹くくって一点突破していこうというのか。リストラされた皆さんと協力していこうという立場に立つのかね。労働組合の持っているファンド、組織をどう投入していくのか、ワークシェアリングもあるし。公務員給与は一面では確かに高い水準を維持しているわけだから、それを吐き出せ、と言われて中々できないけれどね。
E:僕は難しいのではと思いますね。だけど、オランダの場合は、賃上げを放棄したわけだ。
A:オランダの場合は、ワークシェアリングということで、そのかわりに余暇が増えたわけだ。
E:家庭の総収入と言う意味では、維持されたわけだね。物価も安定したわけで、家計の可処分所得が減ったというわけでもいない。そういうイメージが出せて、それを労働組合が主導でやったということが面白いわけ。
D:日本の場合は企業内労働組合ということで、難しい面もあるわけ。そして民間主要大手の労働組合の場合、労働組合の態をなしていないという現状だ。第二労務管理部的な役割もある。法的な36協定なんかも法律違反はできないから、やっているみたいな面もある。オランダの事はよく知らないけれど、ここまでではないと思う。自立的になっているかどうか、ということだろうな。
A:自治労というのは、平和・人権とか違う組織のコンセプトを維持しているから、違うレベルの議論はできると思うけれど。

<IT革命と景気・文化・雇用>
A:話題を変えたいんですが、IT革命と言われているんだけれど、景気や経済への影響は、本当のところどうなんだろうか。
B:IT革命というのは技術革新なんだから、生産性も向上させるでしょうし、文化そのものや精神生活そのものにも大きな変化をもたらすでしょうね。
僕らの世代よりの上の人は別にして、若い世代の人たちは幾つかの人格を持つようになると思います。ヴァーチャルの人格をね。一つ、二つ、三つ、四つとね。携帯電話もある意味でそうですね。精神生活の変化が社会生活にも現れるのではないかと。文化にも大きな影響が現れるでしょうね。今まで起こってきた人間関係をも壊してしまう、「お蔭様で元気に暮らしています」と言う文化・土壌も変化していく。顔が見えないどころか、本当の自分は今生活している自分とは違うんだ、みたいな人も増えてくるのではないでしょうか。
D:ITで景気が良くなるかということだけれど、ITというのはね、先端を走っている限りはいいんですね。しかし、2番手3番手はもう経済への先導力はないんですね。そういう意味で全体への経済効果は期待できないのではないか。僕の関心は景気がどうなるかではなく、雇用がどうなるか、という点なんですが、景気がよくなることと雇用が安定することとは一致しないので、企業はリストラして贅肉落として立ち直って、もう一度人を雇うかというとそうはならない。森内閣の時にいろいろ言ってましたが、ITで雇用が拡大するということにはならないと思っています。経済界・産業界もITで雇用拡大なんていうのはとんだもないと言っています。雇用を少なくするための技術革新なんですからね。
A:僕らなんかは、技術革新の結果、小企業でもやっていけるんですね。今まで考えられなかったことです。何千万、何億という資金が要ったんですね。DTPでね。仕事のシステムの中で、技術革新というのは働き方の自由度を高めてくれているとは思うんですね。ついていけた人はね。
D:SOHOというやつだね。
A:付いていけた人は、救われたということですかね。
C:仕事でIT政策関連に関わっているんですが、ITというのは、これはすごい転換で、機会費用や取引費用を軽減するんです。いままでならすごい装備を抱えていないと国際的な貿易や取引もできない、その設備投資のためには資本が要るというわけ。ところが、今では電子メール一つで取引ができるし、ソフトウェアだって自分で買わなくてもフリーの物がたくさんある。そんなわけで、組織はそれに伴って小さくなりますよね。大きな企業などというのは、20世紀型の組織です。日産にしても、飲料メーカーのウェルチだって、リストラするだけであれだけの利益が出るわけだから。そういう意味でIT社会というのは、組織を小さくしていくんですね。効率化されるということは、GDPを減少させていくことにもなる。そういう意味では景気がよくなるはずがないんですね(笑)。どんどんコスト削減できるわけだから、景気がよくなるわずがないわけ。そういう意味で生き方を変えるような理念が追いつかないと、先ほど来言ってきた「開き直り型社会」に対応できる思想と政治の体系、社会の仕組みと言うのはというのは、IT社会の進行と競争の激化の中で、もうすぐそこに来ているのかもしれないな。
D:そういえばそうですね。
C:だから理念の方を追いつかせて、ヴィジョンをはっきりさせて、うちの方が新しい社会を考えていますよ、自民党ではできませんよ、と言わないと民主党に将来はないんではないかと思います。

<再チャレンジできる社会>
A:競争社会という意味でね、今までは100人いれば20名の「成功者」を産む社会だったとすれば、中どころが50名くらいで、最下層も20名だったとしよう。今後考えられるのは「成功者」は5名になり、中くらいが70名になる社会と考えてみよう。今の学生達は、就職志向は大企業なんだろうね。でもそれはもう不可能なんだ。今の親たちは、こうした社会の変容の中で子供をどう育てようとしているかなんだな。そこにセイフティネットの鍵があるような気がするな。セイフティネットの対象は、一番下の人たちのためのように皆考えているんだろう。「落ちこぼれ」みたいな感じで対象を想定しているのではないか。競争とセイフティネットとの関係なんだけれどね。
C:今までの「中流」というのは、もっと落ちるんですね。
B:生活保護みたいな受け止めではなく、再チャレンジみたいな、事業が失敗しても再挑戦できる、やりなおせる、3回くらいまでは罰点が付かないとかね、そういう社会をセイフティネットのある社会というべきではないのかな。
C:福祉国家における「生活保護」みたいな概念ではなくてね。
A:起業者のためのセイフティネットやね。
B:事業が失敗したから、自殺するみたいなことのない社会ね。それだけ追い詰められる社会なんだな、現状は。
C:その辺の価値観の変化が必要でしょうねね。この話は、小野瞭さんの「万人企業家論」とつながる話だろうし、一度最近の話が聞きたいですね。  (終)
( 文章化責任は、佐野にあります)

【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【投稿】参院選 対決の焦点は何か

【投稿】参院選 対決の焦点は何か

<<「2人の小泉の挑戦に力を」>>
 12日公示の参院選は、圧倒的な“小泉人気”の前に野党はなす術もなく、早くも“自民圧勝”が既定事実になるかのような報道である。自公保与党三党は過半数確保の63議席を勝敗ラインとしているが、自民単独で70議席前後、3党で80議席を超えるという圧勝予測である。自民党は、3年前の参院選が選挙区30議席、比例区14議席、計44議席、これが今回は、47選挙区のほとんどで議席を確保、比例区でも20人以上の当選が見込まれるという。“怖いのは陣営の緩みだけ”といった楽勝ムードである。ほんの数カ月前の森政権末期には、「民主党の大躍進、与党の過半数割れ必至」と言われていたのが、空前の小泉人気で事態が完全に逆転しているわけである。
 先日の東京都議選、江戸川区では、小泉氏とのツーショットをポスターに使った候補が前回選挙の2倍の5万6000票を獲得したのに対し、使わなかった公認候補は半分の2万5000票しか取れなかった。そして、千葉市長選では無効票全体の2割近くが小泉首相票であったと言う。参院選ではこの票まで掠め取らねばと言うわけであろう、自民党比例区公認で名前が同じ小泉顕雄・京都府園部町元町議が、野中元幹事長の地元で突如立候補。野中氏の後ろ盾があるとはいえ、何の脈絡もない泡沫候補である。それが、ポスターに小泉首相と並んで「2人の小泉の挑戦に力を」と大書、純一郎と明記していないすべての全国の「小泉」票をいただき、今や当選確実とまで言われている。完全な便乗、悪乗り作戦である。議会選挙の本質を自らここまで落としても恥じらいさえ感じない小泉氏は、党首や総理大臣としての資格があるのであろうか。実にいい加減な政治姿勢を如実にあらわしていると言えよう。

<<「天気のように変わりやすい」>>
 日本と違ってアメリカでは、小泉首相の評価は、実に冷静かつ辛らつである。ニューヨーク・タイムズ(7/4付)は、「天気のように変わりやすい小泉首相」と題して、「渡米前には、ブッシュ大統領の議定書離脱を『嘆かわしい』と評しておきながら、会談後は、『大統領は環境問題に情熱的』と言い、アメリカで『アメリカ抜きでは議定書を追求しない』と言いながら、イギリスでは『最後まで説得努力を続ける』と述べる。議定書に対して二転三転する小泉首相の言動は、自身が政治生命を賭ける経済改革推進のためのテコとして同議定書を扱っていることに起因する」とその変転ぶりを分析している。事実、いまだに小泉氏は京都議定書を抹殺するような行動をとりながら、ブッシュ政権が態度を翻すことなどありえないと確信しながら、あくまでも「説得を続ける」とごまかし、事態の本質を隠蔽しているのである。
 同じく7/4付英紙「フィナンシャル・タイムズ」も「日本のショーマン」と題した記事で、「国民は、具体的中身のない曖昧な政策を支持しているだけだ。首相は参院選後まで“改革の痛み”の詳細を明らかにできない。このことは、小泉氏の考えはひどくあやふやなものでしかなく、深刻な景気後退で簡単に撤回しかねない、ということを暗示している」と、その指摘は実に的確と言えよう。
 さらにフランスのルモンド紙(7/4付)は、「小泉氏の人気は、これまでの自民党政治指導者や金融界の指導者に対する幻滅やフラストレーションがもたらした世論の強い苛立ちを反映したもの」である。しかし小泉首相の掲げる改革は、「純粋の」景気後退を招くであろうと警告し、「日本人は小泉氏を信頼することで幻想に酔っているのであろうか。ほらを吹くだけの改革派にまたしても失望させられた場合、より高いところから墜落するだけに、影響はより深刻であろう」と指摘している。

<<「絶叫パフォーマンス」>>
 冷静に考えれば、こうした指摘は当然のことであろう。小泉首相は7/8 、参院選全国遊説の皮切りとなった神戸で、「聖域なき構造改革」を訴え、「小泉改革に反することをしたら、私が自民党をぶち壊す」と、こう絶叫した。しかしこうした演説は具体的中味、痛みを明示していないと言う野党や新聞の論調に対して、7/12の松江市の演説では、「参院選を勝って安定的な政権を作ってから改革の中身を考える」と明らかに後退。同じ12日、参院と自民党を牛耳ってきた橋本派の青木幹雄参院幹事長が、同じ松江市で「(小泉首相の)聖域なき改革は支持を得ている一方、地方切り捨てとの不安が広がっている。首相の周囲がはしゃぎすぎて、いろいろ言っているためだ」と論難した後、「小泉さんとは『参院選を勝って安定的な政権をつくってから、改革の中身を考えよう』と話しているので、誤解しないでほしい」と、首相との合意内容を明らかにし、選挙に勝ちさえすれば、その後はどのようにもできるから心配ご無用といわんばかりの演説をしている。
 その意味では小泉氏は彼ら裏の支配者の「ショーマン」なのであろう。絶叫してもらってでも、少々痛いところを言われても当選さえすれば、多数派は当方と言うわけであろう。しかし、かれらの思惑通りにいくわけでもなければ、同時に小泉氏の思惑通りにもいくものではない。それでも浮ついた小泉人気は日本列島を席巻しており、小泉首相の行くところ何万という群衆が殺到する。ここに日本の政治状況のすべてが集約されているともいえよう。期待と危険性とモロさが同居しているのである。問題は、野党の中からこれを突き破る力が期待されてもいなければ、現実にも存在していないかのような政治状況である。
 こうした状況の中で、ついには「本当に怖いことは、最初、人気者の顔をしてやってくる。今しかない。戦前へ走らない道を。護る女。社民党」というコマーシャルが「誹謗中傷」に当たるとして、多くのテレビ局の放映拒否に遭っているという(6/30付朝日)。大政翼賛会的な言論統制そのものである。実に危険で、あぶなかしい事態への進展である。
<<「余りにも自信がなさすぎる」>>
 しかしこのような事態をもたらした責任の一端は野党にもあると言えよう。とりわけ民主党、なかでも鳩山党首の政治姿勢が問われている。サンデープロジェクトの党首討論がその典型である(7/15)。小泉氏から「民主党も自由党も私の考え方に近い」と言われても、回りくどい反論しかできず、ならば自民党を放り出して民主党とこそ手を組むべきであるといった大胆な提案もできず、ただ個々の「構造改革」について「本気でやるのか」とお伺いをしているだけなのである。逆に小泉氏から「鳩山さん、余りにも自信がなさすぎる」と激励される始末である。小泉氏にとっても、参院選後の旧主流派からの抵抗と反撃はそうたやすく乗り切れるものではない。最大の援軍は野党なのかもしれない。今や参院選の焦点は、参院選後の政界再編、自民と民主の党内抗争と再編のありように移行してしまっている観さえ生じさせている。
 菅直人幹事長にいたっては、「夢を見つづけていたい人は自民党に、夢から覚めたときのことを考える人は民主党に」などとまるで敗北自認姿勢である。夢を見つづけていたい人に政治的選択を迫らなければならないのに、はじめからそれを放棄してどうするのか。今現在進行している小泉内閣の破壊的な経済政策、無慈悲なデフレ強行政策、中小零細業者、勤労者に犠牲を押し付ける政策はすでに具体化している。建設・流通部門のスケープゴートはすでに熊谷組・マイカルとしてとりざたされ(八月中旬のXデー)、大手の金融機関や資本はすでに利益確保の手当てを済ませ、セーフティネットやガードが何も提起されていないなかで、圧倒的多数の下請けや関連業者、労働者は放り出され、小泉氏言うところの「痛み」を甘受せよというわけである。ブッシュ政権の環境保護政策への敵対、全く無意味で軍需産業を喜ばせるだけのミサイル防衛政策に追随し、これらに「理解」を示す、靖国神社・歴史教科書問題では近隣諸国との対立を激化させ、それに反省の姿勢さえ示し得ず、逆に開き直る、こうした小泉氏が抱える最大ともいえる問題点について、民主党が全く対決できないところに民主党が浮上し得ない原因があるとも言えよう。
 民主党から立候補するにあたって、大橋巨泉氏が「国のためにあたら若い命を散らした人達と、彼らを戦場に送りこんだもの達の区別もつかない小泉首相の化けの皮を、必ずはいで見せます」と述べたこの姿勢こそが要請されているのである。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.284 2001年7月21日

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