【投稿】「対テロリスト報復戦」の展開と日本政府の対応

【投稿】「対テロリスト報復戦」の展開と日本政府の対応
         —-アメリカによるアメリカのための戦争—-
 
9月11日にニューヨーク、ワシントンを襲った同時多発テロは、アメリカのみならず、世界中を震撼させた。
ブッシュ大統領をはじめとする合衆国指導部は、このテロを「アメリカに対する戦争であるのみならず、民主主義、文明に対する挑戦である」と位置づけ、首謀者、およびそれを庇護する勢力、国家「大規模、長期的な報復を行うこと」を明言している。
これに対して、日本政府、NATO諸国など同盟国はもちろん、ロシア、中国などもアメリカの報復措置について、基本的な支持を表明した。
今回のテロは、ハイジャックした民間機での「特攻」というその手段、5千人にのぼる死者という結果において、過去に類例を見ないものであり、とりわけ世界貿易センター突入については、はじめから多数の非戦闘員の生命を狙ったものであり、許されるものではない。
一部には今回のテロは、グローバリズムや中東政策など「アメリカ帝国主義の侵略」に対する報復であり、テロを収束させるにはアメリカの政策転換が必要との主張もある。
確かに、ブッシュ政権は、京都議定書の批准拒否、ABM条約やCTBTなどの軍縮条約破壊、反差別国際会議のボイコット、パレスチナ和平への消極性など、それこそ先進国の中でも突出して「民主主義や文明」に背を向ける姿勢をとり続けてきたことは事実であり、アメリカはそうした姿勢を変えなければならない。
しかし、9月11日の出来事は、そうしたアメリカによる悪行、なかでも中東政策(これまでの「秘密政策」も含めた)への「報復」の側面は持つものの、「正当な反逆」ではない。つまり今回の事件の首謀者とされるウサマ・ビンラディンとその私兵「アル・カイーダ」は、どう大目に見ても正義の使徒ではないし、民族解放勢力とはいえないのである。
 もちろんソ連のアフガン侵攻に反対し、イスラム義勇兵に志願した当時のビンラディンは、純真な金持ちの坊ちゃんであり、敬虔なイスラム教徒であっただろう。
しかし、冷戦終結、湾岸戦争以降の「アメリカの裏切り」にあってからの彼らは、単なる破壊を目的とするカルトでありテロリストへと変貌してしまってたのであり、いかに正当な主張を展開しようとも、そうした行動をとり続ける限り、全く説得力を持ち得ない。
 テロによってアメリカの政策が変わることはないのである。
アメリカを中心とする先進国のグローバリズムによる発展途上国や、マイノリティへの抑圧に対しての異議申し立ては、この間WTO総会やG8(サミット)を包囲したような、国際的、市民的な行動こそが、正当性を持ち、かつもっとも効果的であるのは言うまでもない。
 とりわけ「我々は60億、おまえらは8人」のスローガンが突きつけられ、壮大な儀式のために犠牲者を出したジェノバの事態は、少なくとも西欧の指導者に動揺をもたらし、反対派との対話を打ち出さざるを得なくなった。
しかしアメリカは「我が道を行く」の姿勢を崩さず、建設的対話の埒外に去ろうとしていた。
 その意味で近いうちに始まるであろう戦争は、ビンラディンという怪物を生み出した責任も含めて、アメリカ対一部のテロリストという世界から浮き上がったもの同士の戦いともいえるのである。
現在アメリカはこうした構図が浮かび上がることを押さえ、「文明対一部テロリストの戦争」の枠組み作るため、これまでの一国主義から手のひらを返したように国際主義を唱え、「アメとムチ」を駆使した工作を進めている。
テロ根絶のためにはあらゆる手段が必要であり、その選択肢の一つに武力行使もあり得るだろう。しかし今回の場合は、「同盟国」は無条件にアメリカの報復戦を支持するのではなく、アメリカのダブルスタンダードを指摘し、他の問題についても国際協力を尊重するよう求めねばならないのである。
お調子者のダンス
このような観点から見れば、日本政府の対応は最悪である。今後開始される戦争がどうした展開を見せるかを考えもせず、小泉首相をはじめとする首脳の言葉、決意が先行し、ピントはずれの政策が立案されようとしている。
その最たるものが「有事法制」である。与党は来年1月からの通常国会で法案の成立を図るとしているが、その主な内容は「緊急移動時の民有地通行」「陣地構築のための海岸や森林の形状変更」すなわち自衛隊の戦車が田畑を走行したり、塹壕を掘るのに所有者の許可を得なくてもよくする、というものである。
「有事法制」冷戦時代にソ連軍が北海道や本州に上陸してくるのを想定して考えられたものだ。現在さらには近い将来において、そのような可能性はなく、また「周辺事態」にも対応できないにもかかわらずホコリをかぶった法案を引っ張り出してくるのは、防衛官僚、一部制服幹部、国防族議員が権限の拡大を自己目的としているからに他ならない。
こんなものが、今回のようなテロには何の役にも立たないことは一目瞭然であるにも関わらず、テロ対策の如く説明し、あたふたと成立させようとするのは、国民を欺くものであり、火事場泥棒と言われても仕方がないだろう。
また、今回の事態に即した対策としての自衛隊法改正についても、的はずれな論議が行われている。
9月11日以降米軍基地、関連施設の警備が強化されたが、通常の警察力だけでは限界があるのは明らかであることから、自衛隊による警備が検討されている。しかし、米軍基地の警備は米軍が行うのが最も効果的であり、武器の使用基準も曖昧な自衛隊ではポーズにしかならないし、テロが起これば、米軍が自衛隊を守ることになってしまう可能性がある。
さらにアメリカの報復戦に対する支援策についても、第2次朝鮮戦争を想定した周辺事態法の適用などという主張が一部にある。これについてはさすがに官邸サイドも無理があると判断し、「後方支援新法」の制定に動いている。要はインド洋の赤道と南回帰線のほぼ中間の島(環礁)にある備蓄基地(船)まで輸送船を中心とする自衛艦隊を出せ、ということである。
しかし長期戦に必要な大量の物資の集積地はパキスタンが想定されているのであって、海上輸送の場合、カラチに入港しなければ意味がないのである。
ところが、そうなるとインド洋上でも「戦闘地域に近い」との認識であるのに、アラビア海などに入っていけるはずがないのであり、立ち消えになる可能性がある。
 いずれにしても現時点での日本政府の対応は、テロ対策を口実とした戦略なき彌縫策としか言いようがいのである。(大阪 O) 

 【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【書評】『多文化主義社会の到来』

【書評】『多文化主義社会の到来』
      (関根政美著、2000.4.25.発行、朝日新聞社、1200円)

 グローバリゼーションがありふれた名詞となり、またこれに対応して国内では、多文化社会化・多民族社会化が促進されていることは否定できぬ事実のようである。しかし他方、全世界的な規模で民族間のあつれき、紛争も激発し、国内においては、多文化社会の限界が絶えず問われていることも事実である。本書はこの、グローバリゼーションと多文化社会化との関係(「グローバリゼーションは、各地域、各国間の共通性を高めると同時に異質性をも強める複雑な社会変動を引き起こす」)、限界と問題点を、解明しようとする。

グローバリゼーションとは多面的な次元をもつ現象である。すなわち(1)経済(多国籍企業、企業家の国際的ネットワークなどによる「大競争の時代」)、(2)人口移動(移民、難民、外国人労働者)、(3)メディア・コミュ二ヶーション(CNN、BBCなどの放送ネット、インターネットの普及)、(4)思想・イデオロギー(人権意識、民族自決・ナショナリズムなどの価値観の普及)、(5)工業化、脱工業化(先進諸国の脱工業化とNIES〔新興工業経済地域〕による技術革新)などの面におけるグローバリゼーションが、その内容を構成している。

本書は、この各方面からのグローバリゼーションが、近代国家システムに影響を与えざるを得ず、しかもその影響は、国民国家の形成原理への根本的な問いかけをも含んでいる、と指摘する。というのも「人種、民族、エスニシティ概念が世界的に普及したのはそれほど古いことではない」、「人種概念は十五世紀からの大航海時代にヨーロッパ人と有色人との接触が増え、人口集団の肉体的相違が大いに注目されるようになってから使用されはじめ」、「民族という概念も、(中略)十八,十九世紀の近代民族国家形成期から頻繁に使われるようになった」からであり、「また、民族そのものは、国民国家形成が盛んになった時代に民族自決権とともに成立したに過ぎない」からである。すなわち「それは、単なる文化、言語、生活習慣、祖先同一意識をもつ文化集団という普遍的な存在を意味するのではなく、(中略)きわめて政治的な概念であり、いいかえれば、むしろ国民国家形成を企図する人口集団を意味する」のである。

 このような国民国家形成に深くかかわる政治的概念である人種、民族、エスニシティ(エスニック集団)は、その境界があいまいで流動的、かつ主観的要素(同類意識など)に満ちていながら、心理的経済的政治的理由によって正当化され、こだわり続けられる。つまり心理的には、文化的・言語的同一エスニック集団への帰属が自らのアイデンティティの源泉となること、経済的には、文化・言語が生活手段でもあること[主流国民の文化・言語を自由に使用できないと、経済的に不利益を被る]、政治的には、国民国家の主流国民が、独立・自由・平等をその領域内においてのみ享受できることがその理由となる。

 かくして本書によれば、「国民国家システムは、民族・エスニシティへのこだわりを前提としたシステム」であり、「民族にこだわって国民国家をつくって、はじめて人間が自由・平等となれるシステム」なのである。それ故「国民国家制度の確立が人種・民族・エスニシティ問題の究極的原因だといっても過言ではない」。そしてまたマジョリティ主流国民も、すべてが国民国家に縛り付けられ、「すべての人にとり、国民国家は『酷民国家』」となっているとされる。

 この視点から、多文化主義が検討されるのであるが、本書では、移民受け入れの長い歴史をもち、多文化主義政策を推進しているオーストラリアがモデルとして考察される。

 多文化主義には、中庸なもの(①シンボリック、②リベラル、③コーポレイト、④連邦制/地域分権の多文化主義)から、急進的なもの(⑤分断的、⑥分離・独立主義的多文化主義)まで存在するが、オーストラリアの場合、ほぼコーポレイト多文化主義と言える。これは、公的領域での多言語放送・多言語使用、多言語・多文化教育の発展、エスニック・コミュニティの活動への援助、またマイノリティの就職・教育機会適正化のためのアファーマティブ・アクションの実施などによって特徴づけられる。

 オーストラリアがこの多文化主義推進にいたるまでの歴史的経過や現況での政治的社会的諸問題については、本書を読んでいただきたいが、その中で明らかになってきた重要なことの一つが、「多文化主義のパラドックス」である。これは、「人種主義の否定からはじまった人種・民族・エスニック集団関係の改善過程のなかで、多文化主義が生まれ、さらに改善が進められたが、結局は人種主義的関係あるいは国民分裂を進めてしまう」という矛盾である。つまり多文化主義が、多文化の許容性の低いものから高いものへと充実してくると、異文化集団の存在が目立つようになる、これに対して主流国民の側では「逆差別」の感情が発生し、互いに対抗意識を高め、「文化戦争」状態、「分断的文化主義」が生じる。また文化的差異を強調する「新人種差別」という陰湿な差別もあらわれることになる。

 この「多文化主義のパラドックス」について、本書では、多文化主義そのものの問題点というよりも、むしろ多文化主義・人権意識が根付いたことで発生する問題であるとして、経済的コストの問題に言及するとともに(多文化主義の諸政策は「人権問題の視点から考えるべきで、経済的物差しでは計りきれないこと」)、これまでの文化主義・文化観(「伝統文化を伝統的な形のまま守らなければならない、あるいは、変えようにもその本質は変えられない」という考え方)の限界を指摘する。「伝統的民族文化というものは、国民国家の形成を急ぎ自らの独立を全うするために主張された政治的レトリックに過ぎないことが多い」、それ故「民族文化あるいはエスニック文化の純粋性や不変性」は、国民国家システムの存続を求めるための者でしかない。むしろ政治的民族文化も生活的民族文化も、「本来的には雑種であり、(中略)文化の境界もファジーなもの」であることが、確認されるべきなのである。

そしてこの「個性的な雑種文化状況」(ハイブリッド文化あるいはクレオール文化)が、「多文化主義のパラドックス」を克服する視点であり、「多文化主義」を「多・文化主義」や「多分化主義」とはせずに、「多文化・主義」へと向かわせる方途であるとされる。この視点にまた、

近代同質的国民国家システムの限界を克服していく展望も存在するのである。

以上のように本書は、グローバリゼーションの時代に多文化主義が突き当たっている諸問題を、その歴史的社会的起源から解明し、国民国家システムとの関係で解決を試みようとする。しかしそれにしても、日本の現況(上述の多文化主義の区分では、未だに①シンボリック文化主義──文化・言語の多様性を認めようとしない、ほとんど同化主義に近いもの──の段階にあるとされる)では、多文化主義への道は、遥かに遠いと言わざるを得ない。(R) 

 【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【投稿】デフレスパイラルの危険性 

【投稿】デフレスパイラルの危険性 

<<ごろ寝休暇を直撃>>
 ごろ寝休暇を宣言した小泉首相を直撃するかのように、東京株式市場の株価は三日連続の下落、8/17、日経平均株価は1万1445円、バブル後最安値を更新した。この一ヶ月の間に四度も最安値を更新している。事態は容易ならざる展開と言えよう。
 一回目は参院選の最中、7/23、1万1609円の最安値を記録。5/7の所信表明演説に期待した株価は1万4529円をピークに下落し続け、1万2000円台を低迷、7/30、参院選の自民党圧勝が逆に株価を下落させ、バブル崩壊後の最安値を再び更新、1万1000円台半ばに落ち込み、8/13にはこれも更新、1万1477円に下落、そして8/17の続落である。
 同じ8/17、ニューヨーク株式市場もほぼ全面安となり、V字型やU字型回復の楽観的な希望的観測は影をひそめ、IMFがドル暴落の可能性を示唆し、バブル景気崩壊の本格化と「回復は来年以降にずれ込む」との悲観的観測が市場を覆っている。
 危機感を抱いた日銀が、8/14、急遽これまで否定していた金融の量的緩和を決定、金融機関の当座預金口座の残高を5兆円から6兆円に拡大し、長期国債の買い切り額を月4千億円から6千億円に増額、要するに日銀が金融機関から債権や手形などを大量に買い取り、過剰なカネ余り状態を作り出し、円安でデフレに歯止めをかけ、株価にテコ入れして景気を下支えしようという魂胆であったが、これもあえなく焼け石に水、株価もたった一日で逆戻り、為替も意に反して円高傾向を強め始め、むしろマイナス材料として受け取られる事態が進行している。
 首相たるもの、こんな事態にごろ寝などしている場合ではなかろうが、「株価に一喜一憂しない」と繰り返した手前、ただ拱手傍観しているだけである。市場の警告も受け止めることができないのは、近隣諸国の憂慮や警告も受け止めることができずに靖国参拝を強行してわが意を得たりと悦に入っている歴史認識ゼロ、稚拙な政治思想と同一線上の経済認識ゼロ、無策無内容なパフォーマンスの当然の帰結ともいえよう。

<<すべて「下方修正」>>
 4月末に小泉政権が発足してから3カ月余り、この間に平均株価は三千円以上も下落し、サラリーマン世帯の収入は2カ月連続マイナス、同じく消費支出は36万9000円から30万4000円に縮小、失業率は4.7%から4.9%へ、鉱工業生産指数は3カ月連続で前年比マイナス(ピーク時から5ヶ月で-8%)、倒産負債総額も4カ月連続で1兆円を超えるという惨たんたる状態が進行している。まさに小泉政権下で庶民の生活を直撃するデフレスパイラルが、「痛み」を耐えろといわんばかりに加速しはじめているといえよう。
 8/10、政府が発表した8月の月例経済報告は、前月の「景気は悪化している」から「さらに悪化している」に下方修正されたが、これも3月は「足踏み」だったものが、6、7月は「悪化」、そして8月の「さらに悪化」となったのであるが、問題はその「さらに悪化」の中身である。生産は「引き続き減少」が→「大幅に減少」、輸出「減少」→「大幅に減少」、設備投資「頭打ち」→「減少」、雇用「一部で底堅さ」→「求人や残業時間も弱含んでいる」、住宅着工「弱含んでいる」→「減少」というようにすべてがマイナスなのである。経済財政諮問会議自身が「景気の悪化が加速され、非常に厳しい」と分析し、「2~3年はデフレ傾向が続く」と自らの無策・無責任を棚に上げて投げ出している状態である。
 しかもこれが「構造改革なくして成長なし」という、その「改革」の結果の一時的な落ち込みならまだしも、「改革」に全く手もつけられていない、単なるスローガン、パフォーマンスの段階からこの事態である。小泉政権のお題目と化した「改革」は、すでにその程度と軽さが見破られたともいえようし、また「改革」が自らの無策・失政の責任回避の用語と化したともいえよう。

<<「9月危機」>>
 9/7に発表が予定されている4―6月期のGDPが、こうした事態の中で大幅マイナスになるのは確実だといえよう。株式市場は当然、月末から9月にかけて売り一色、1万1000円割れから、さらには1万円割れも避けられないという観測がしきりである。1万円割れとなればまさに恐慌である。
 金融機関の中間決算が集中する9月は、平均株価1万円割れで巨額の含み損を抱えた金融パニックの深刻な事態に突入する「9月危機」が現実化しかねない。すでに、バブル後最安値更新を主導しているのは大手銀行株であり、みずほホールディングス、三菱東京FG、UFJ、三井住友の4大グループ、そして大和銀とあさひ銀の6銘柄すべてが年初来安値を更新している。
 当然、欧米の格付け会社による日本の金融機関の格下げも相次いでいる。8/6、英米系のフィッチは、地銀4行を含む17行の財務格付けを一斉に1段階引き下げ、みずほホールディングスと傘下の一勧、富士、興銀3行、三和、東海など12行はD(収益性や将来性に問題あり)からDとE(重大な問題を抱え外部支援が必要)の中間のD/Eに、中央三井信託、安田信託、足利、北陸の4行はD/Eから最低評価のEに格下げしている。米系のムーディーズも同じ日、東京三菱銀の財務格付けをDプラスからD(時として外部サポートが必要になる可能性がある)に引下げ、日本の金融機関への警告を発している。
 さらに要注意なのが国債価格急落の可能性である。8/2、財務省が8月発行の20年国債の競争入札を行ったが、応札倍率は1.38倍と12年ぶりの低水準に終わり、6月下旬に1.1%台だった10年物国債の利回りは、7/24には1.4%を突破、国債離れが進行し始めていることである。
 9月金融危機が現実化すれば、国債を買う余力どころか、10月以降、もはやカバーしきれなくなっている流通大手やゼネコンを次々と見放し、連鎖的に地方銀行から大手の一部まで金融機関の破綻も相次ぐと予想されよう。さらに、これは同時的に株価再下落→不況拡大というデフレスパイラルを一気に加速させかねないものである。小泉政権がのんきに構えて舵取りを誤れば、以前のどの政権のときにも増して深刻な事態に突入することが確かだといえよう。

<<「キーワード」>>
 ところが、ここまで景気が底なし状態に陥ってきても、今や守旧派も安心して叫ぶ「構造改革なくして成長なし」などの掛け声ばかりで、何ひとつ具体的な対策をとろうとしていないのが小泉政権である。今こそ緊急かつ大規模にセーフティネットをはりめぐらし、倒産や失業の急増に対処できる施策が要請されているにもかかわらず、逆に倒産や失業をさらに増大させ、デフレスパイラルをいっそう加速させる政策にご執心である。
 8/7、小泉政権にとって初めてとなる来年度の概算要求基準の大枠を決定した。その特徴は、(1)国債発行は30兆円以下にする、(2)全体から5兆円削り、そのうち2兆円を構造改革の重点分野に回す、(3)その結果、総額3兆円の歳出削減をする、というものである。小泉首相は、「30兆、5兆、2兆。これが今回の概算要求基準のキーワードだな。国債発行を30兆円以下に抑え、歳出を5兆円カット、重点分野に2兆円増額というのが大枠だ」といかにも得意げである。問題はどこを削って5兆円を捻出するかである。要求基準では公共事業、地方交付税、ODAをそれぞれ1兆円、社会保障関係の自然増(1兆円)を7000億円程度に抑えるなどとしている。セーフティネット予算への配慮は皆無である。出てくるものは社会保障負担のいっそうの増大、地方交付税のカットに象徴される弱者への負担増大政策であり、個人消費をさらに冷え込ませる政策である。
 焦点となっている補正予算についても、塩川財務相は9月7日の4―6月期のGDP速報を受けて、直ちに編成に着手できるように準備を進めていく考えを明らかにしているが、これがまた「改革」とは無縁のゼネコン救済の補正予算がみえみえであり、ただ目先を変えるために「都市再生」を名目に、地方分を都市の道路整備に振り替えたり、財源も前年度の決算余剰金2381億円を全額回し、赤字国債の増発も検討するというのでは、守旧派の手法そのままである。
 8/4付、朝日新聞世論調査(1、2日実施)では、内閣支持率は69%で、5月の84%から15ポイント減の急落である。それでもまだこれほどの支持率があると見るのか、空前の高支持率もようやくその本質が問われ出したと見るのか、注視する必要があると言えよう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.285 2001年8月25日

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【誌上討論】 参議院選挙 その結果をどう考えるか

【誌上討論】 参議院選挙 その結果をどう考えるか

☆7月29日投票の第19回参議院選挙の結果について、在阪メンバーによる、アサート恒例の意見交換会を8月4日に開催しました。鉄は熱いうちに、ということで、急遽設定しましたので、5名の参加という事になりました。議論は2時間30分を越えて行われ、小泉現象と参議院選挙結果のテーマから発展して、「対立軸」の問題、ナショナリズムの問題、オランダモデル、IT革命の問題などの議論にも及びました。この内容について、2回に分けて掲載いたします。

参議院選挙 その結果をどう考えるか 意見交換会(その1)

A それでは、先週行われた参議院選挙の結果を受けて、意見交換会を始めたいと思います。司会の方からいくつかのテーマを設定させてください。一つ目は、小泉人気というかブームというか、今回の参議院選挙を規定していた小泉旋風というものの正体は何なのかということです。二つ目は、具体的に参議院選挙結果から何を汲み取るかと言う点、特に連合800万人と言われながら、労働組合候補は9人合わせても150万票であったわけで、マスコミも労働組合の力の低下、また空洞化などの評価が出ています。外から、そして内から、どう考えればいいのか、また無党派層というものの選挙動向をどう考えるか。また社民、共産の低迷をどう考えるかなども。そして3つ目は、今後の政局とそのポイントということになります。
まず、それぞれから選挙の感想をそれぞれからお願いします。

<小泉は大蔵族>
B 最近聞いたんですが、小泉は大蔵族なんですね。そう聞くと小泉改革でやりたいことがわかるんですね。郵政改革も第2の大蔵省をつぶすということでしょう。金融資本を助けようとね、この間の動きもそれを純粋に体現しているのかと。住宅金融公庫の廃止を選挙前に言い出しましてね、それで完全に民主党に入れようと思いましたが。やはり改革の順番が違う、生活実感が違うと思いますね。
住宅金融公庫の民営化ということは、おいしいところを民間でということで言うことですね。しかし長期の固定金利に耐えられるはずがないわけで、個人の金融資産を食いつぶして合理化もせずに銀行が生き延びるのかとね。正体見たりという感じでしたね。本当に腹が立ちましたね。もともと銀行を信用していないし公庫融資と比べて、金利は2%程度高いし固定金利はしないし。個人の住宅取得については、勤労者にとっては大きな問題なわけで。
銀行が抱える問題は大きいと思うんです。金融改革というならもっと大胆に合併知るなり、スリム化するなりすべきなんだけれど、合併したといっても人は減っていないしね。
公的金融機関をすべて民間に移すことはできても、借り難い人やベンチャーの人などにプラスにはならない。それをセイフティネットというのか知らないが、民主党なら、そういう暴力的なやり方はしないのではないか。
国民金融公庫には口を出していないが、やはり自営・中小業者が対象ということで、サラリーマンは、軽く見られているという気がしますね。

<総裁選挙で、すでに選挙は終わっていた>
C 今回の選挙ですが、始まった時にすでに選挙は終わっていたと思うんです。自民党総裁選挙が、自民党内の選挙でありながら、候補者が街頭演説に繰り出してマスコミに取り上げられたりして、すでにここで『擬似政権交替』が行われたわけです。森総理の後で、小泉さんが「自民党を変える」という公約を立てて、「利権圧力集団の橋本派」に勝ち目のない戦いを挑んで勝ったというわけです。ここで「バーチャル」な擬似の政権交替が起こったわけですね。その後の参議院選挙ということですから、小泉が勝って当たり前と思っていたわけです。という意味で私自身はこの選挙にあまり興味がなかった。菅幹事長も同じようなことを発言して批判されていましたが(笑)。
さらに比喩的に言うと、今回の選挙で重要な役割を演じた人がいます。森・前総理ですね。あそこまで自民党の悪いところをすべて体現した人はいなかった、個人の資質も発言の中身も含めてね。極めて自民党的で、自民党の持っていた悪弊をすべて体現していたわけです。この人が辞めて小泉さんが出たということは、ある種の「厄払い」の神事みたいなものです。一切の「厄」は、森さんとともに払われてしまった。その結果が、政治評論家の森田実さんも言っていますが、バートランド・ラッセルの言葉にある「極端な希望は極端な悲惨から生まれる」という事態です。

<キーワードは『バーチャル』だった>
現象的に見れば、擬似政権交替を含めて、キーワードは「バーチャル」だと思います。「自民党だけど自民党じゃない」とか、変っているはずがないのに「自民党は変る」とか、「変らなければ自民党をつぶす」とか、小泉自民党はどこの政党なのか分からないわけです。結果、「自民党でない自民党が勝った」という意味において、小泉内閣はすごい課題を背負ったわけです。もう後がない政権だということですね。
もうひとつの「バーチャル」は、構造改革問題ですね。「改革する」という言葉・決意だけがあって、中身がわからないんですね。どういう改革をして何が変るのか、わからない。自由党の小沢も言ってましたが。中身はわからないけれど、変えるんだという『姿勢』は分かるということでしょうか。閉塞感を打ち破る改革に期待が集まったということです。
もうひとつのポイントで、この間思ったことは、政治家個人の資質というか、行動のスタイル、言葉の使い方などが重要になってきたのではないかと。この前の加藤政変の時も思いました。あの最後の仕舞い方で彼も終わったと思いましたね。政治をどう定義するかと言う問題も絡んで、言葉で人の行動に影響を与える営みなんだという定義があるんですね。政治は言葉によって人を動かしていくということならば、小泉や田中真紀子のような言葉に力をもった政治家の存在は理解することができるのではないか。
そして今後ということなんですが、極端な期待は萎むのが早いということでしょう。選挙が終わって、自民党の中の批判勢力が発言を強めてくることは必至で、すでに動きが出ているわけです。支持率も下がってきた。来年度の予算編成がはっきりしてきた時点で熱病が覚めたら、どうなるかということでしょう。自民党の最終局面という意味で、現在の状況は経なければいけない、そんな気がしています。

<言葉だけが踊る小泉改革の中身とは?>
D 花火大会の最後のフィナーレということでしょうかね。よく似た感想を持っているんですが、投票率があまり伸びなかったですね。本当に政治に国民の関心がもどってきたのかという問題もあるんですね。それは、マスコミの報道などで小泉人気だけが先行して国民が煽られたわけですが、政治への関心が国民的にどうだったのか、意外と覚めた国民も多かったと言うことなんでしょうか。もうひとつは、どうせ自民党が勝つだろう、それならば遊びに行こうか、ということ。
もうひとつは、選挙の争点の、改革か、改革反対か、という2者の対立みたいなものが吹聴されたけれど、改革の中身が見えないということ。既得権益をなくすとか、国家行政をスリム化するとか言われるけれど具体的に何をするのかが見えない。例えば国債の発行を抑えるとかは少し出ていているけれど、まだまだパーツパーツなんで、どういう体制をめざすのかという点はまだ不透明ですね。ただ言葉だけが踊っているわけです。マスコミ的に「抵抗勢力」対「改革派」みたいな構図が全面に出されて、単純な対立図式がマスコミ的にはセンセーショナルなんで、対立構図が先行して具体的改革は逆に後景に退くということになっている。
危険性を強く感じるのは、抵抗勢力だということで改革に反対するのはけしからんと、ちょっと反対意見を言うとけしからんと、先日の朝まで生テレビでもそうでしたね。国会の党首討論でも民主党に抗議のFAXが届く。一種のファッシズムを感じるんです。その事について、本当の「抵抗勢力」かどうか、反対意見を言うことがいけないのか、そこに危険性を感じます。
小泉人気について、確かに言葉にメリハリがあるわけですね。「人がどう言おうと私はこう思う」というような、はっきりした発言をする政治家が受けているわけです。これは右や左を問わずです。例えば小泉、田中真紀子、田中康夫知事、石原慎太郎など比較的保守系に多いけれど、言葉をはっきり言うわけです。皆に受けようとすると言葉は曖昧になりますね。それが国民から政治不信を生んできた面もあるように思います。例えば抵抗勢力だと言われている鈴木宗男なんかでも、結構人気がある。言葉をはっきり言うというのは、これからの政治家には求められていることは確かだと思います。
そういう意味では、例えば共産党が改革政策を出したかどうかわからないんですけれど、言葉ひとつ取っても国民に対してわかりにくいわけですね。

<現状への不安と小泉人気>
小泉人気ということでは、国民の中に現状不安感が強いということが言えると思います。現状に不安感があって、誰かが何かを変えてくれるという期待感、ムードが強い。本当に不安なのは、金融資本の再編に対して徹底して会社分割法とか、企業再編が行われるにあたって、それを促進するための規制を緩和するための改革であったり、国のスリム化を進めるにあたって、この事は労働側から見れば雇用不安に直面するわけです。現状でも300万とも400万とも言われる失業者がいる、そして今後銀行やゼネコンの再編によって100万人以上が増えるとも言われているわけです。これに対するセイフティネットは何も準備されていないわけです。選挙の終盤に自民党の雇用対策が出されたんですが、従来の職業訓練枠を増やすというだけなんです。民主党もこれに対しては十分な政策を対置できてはいないんですね。リストラや雇用不安に直面している労働者は、どちらの政党にも投票しないと思うんですね。職業訓練をただ受けただけで何とかなるという世の中ではないんですね。中高齢者については、職業訓練を受けたとしてもそもそも雇用は厳しいわけです。そうすると先ほどのとおり、小泉支持率も今後下がる、失業もどんどん増えるということで、その時の社会状況はどうなるのか。民主党も有効な対抗策がだせないとしたら、その向こうはどうなるのか、そのことを考えると、本当の意味で私は不安感を覚えるわけです。

<小泉改革は、新自由主義を純化させるか>
A 森さんが悪い印象をすべてかぶってという話がありましたね、これまで参議院選挙は七夕選挙といわれたように7月上旬に行われてきた。それを投票率が上がると不利だということで、自民党が7月29日という夏休み期間中に敢えて設定した。それは小泉政権になる前の話で、森総理などを前提にしてのこと。それから、選挙制度改革で、非拘束名簿制の比例選挙に変えている。いずれも自民党が決めたことだ。
投票率が低かったということだが、世間は夏休みです、そして暑いんですね。29日の正午ごろでも投票率は25%前後で、それからも伸びないわけです。前回の参議院選挙は、時間延長で午後8時までになって、午後6時以降結構投票が伸びたんですね。
この二つは自民党が勝手にやったことなんですが、ことごとく外れたわけです。ただ、小泉人気で救われたと言うことなんです。自民党の戦略性なんてのは、実際はひどいものだと思うわけですね。
小泉改革への批判点として、新自由主義に純化しつつあるという評価がありますね。痛みを伴う改革だとか、自民党が本当にシフトを変えてくるのかどうか、この辺を注目してみています。先週の『エコノミスト』に興味深い文章が出ています。要するに、橋本派は『小泉改革』を見切っている、小泉の改革など自民党の政策の枠内で収束する、だから敢えて「抵抗勢力」だと、表に出る必要はなく、ただ見ているだけでいいんだ、という内容でした。郵政民営化も3年後の公社化は決定しているし、首相公選制や憲法改正も5年以上かかる問題で、小泉自身がそれまで首相でいることはあり得ないと。参議院選挙でも橋本派が増えたわけだし、小泉降ろしをしない限り、いずれ政権は橋本派に戻ってくる、という内容でしたね。
小泉は人気がだんだん下がるけれど、総選挙はしないだろう。3年もあるわけだ。そういう意味では、公明党との連立問題が今後火種になるのではないだろうか。都議選でも公明が出ていない選挙区では民主党候補に公明が票を回したという話もあり、公明にとって自民党圧勝ということは連立の意味が薄れるということを一番気にしていると思う。政権与党であり続けたいけれど、現在の経済状況で「改革の痛み」は、公明支持層に一番きついということは深刻だ。
選挙後、NTTの合理化問題、50歳以上は退職、または別会社へ行って大幅賃下げになるという提案や、三菱自動車が8000人の規模で早期退職募集をしたら1日で18000人以上が応募して受付を打ち切った話、さらにNECなど電機産業での経営不振と合理化、松下の45歳早期退職制度など、IT不況が今後一層深刻化するというなかで、小泉政権がどんな評価になるのか、これはまだ不明というところでしょうか。

<民主党は、なぜ負けたか>
民主党の評価と言う点です。なんで負けたのかということなんです。法定ビラが3回出ましたが、雇用対策などで自民党とどれだけ区別できたのかというと、自民党の『衣替え』に即時の対応ができなかったということだと思うんです。そして、公共事業の削減などの政策も自民党に取られたという面もあるけれど、同じ言葉にどれほどの信頼性があるのか、そういう意味では自民党が言い出すと、政策の中身と実行力みたいな部分では、先ほどの「言葉の力」との関係で、民主党よりも自民党の方にまだ「信頼性」は国民の中にあるのかな、という気もしますね。
この結果について、民主党なり連合にはかなり深刻な雰囲気がありますね。
C 大きな話は後でやりたいんですが、興味深かったのは比例代表の組合票なんですね。それぞれの地域での票がでたでしょう。組合内部ではどんな総括がされているんですか。
一番多く票を取った電力の候補でも25万票ですか、全部合わせても150万という結果ですが、これが民主党内の評価、また連合内の評価がどうなっているのか、非常に興味を持っているんですが。
A:どの産別候補も、居住組合員X2みたいな票を基礎に、予測していたと思うんですね。20年前の全国区選挙との比較という意味でもね。なんぼなんでも60万くらいは出るだろうと思っていたわけでね。しかし、電力総連も支持署名を300万集めたと言っていたわけですが、それでも25万票ということですから、大きなショックを受けているわけです。100万人の組合員の自治労でも21万ですからね。はっきり言って、まだ深刻な総括に入れていません。各県、各自治体毎の票が出ているわけで、妙な方向に行けば責任問題にもなる。ちょっと置いておこう、というところではないかな。
確かに、組合の組織力の低下という評価はできるかもしれないが、ただ、個人名ではない民主党という党名での投票がかなりあったということは言えると思うんですね。非拘束名簿制という制度改正そのものが徹底していなかったわけです。このことは、選挙終盤になってはっきりしてきたことです。
C:公明党は個人名で、というのが浸透していましたね。
B:混乱しなくていいんですけれどね。私のところにも、3つ以上の陣営から電話が入りましたけれどね。
C:比例区の順位を政党ではなく票で決めると言うことなんだから、本来は大きい組織は有利ということなんだな、きっちりやればね。ただ政党名での投票をした圧倒的多数の人にしたら、ふざけた制度ということにもなりますね。政党に入れたら、組織代表の人が多数当選するというのはね、政党の側では特色を出せないということでしょう。

<複数区では議席を守った民主党の評価>
A:大阪では選挙区で民主党山本たかしが勝ったでしょう。しかし労働組合は、比例区と選挙区の力の配分は、8:2で比例区重点だった。他の産別もそうだったはず。比例区は○○、選挙区は山本、とどこも徹底したわけだ。マスコミは、そうした産別の力が選挙区候補を押し上げた、という評価をしているが。そういう意味で、山本の勝因はまだはっきりしないんだな。
C:民主党に入れる人は、山本に入れるんじゃないの。
A:山本の場合は、大阪市内で3万負けて、府内で4万近く共産候補に勝って、当選したわけだね。同じように、北海道、埼玉、千葉、東京、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡と複数区の選挙区では民主党は議席を確保しましたね。共産党に勝ったという意味で、大阪の場合は充足感があるよね。共産党が退潮ぎみで、喜んでいいのかな、という気もするけれどね。
C:政界再編でガタガタしたけれど、この2回の国政選挙で第2の選択肢としての民主党の位置というのはそれなりに固まったという気がしますね。ただ、89年の選挙が、自民党1400万、民主党1200万なのに、今回自民党2100万、民主党890万という結果というのは異常な気がしますね。自民党が700万も票を上積みしたわけで、とんでもない話なんだ。自民党に替わる政党としての民主党の位置は固まったとは言えると思います、ただ、選挙に勝った負けたという話ではないな、と思います。
A:今回の比例区選挙は、今後深刻な総括がいるとは思うけれど、従来型の労組選挙に限界がきていることは間違いがない。労組型選挙というのは、組合員とその家族、紹介者の支持を固める、というのが基本。しかし、先ほどの「言葉の力」やマスコミ効果ということを考えると、自民党が2100万を取ったということに象徴的なように「マス」がどう動くか、ということとは無関係なところで、労組選挙があるということだ。労組OBを参議院に出す、ということが果たして、市民的にはほとんど意味がない、ということをどう考えるのか。

<対立軸はどこにあるのか>
C:これまでこの意見交換会に出てきているんだけれど、ずっと気になっているのが「対立軸」ということです。ただ、今、私には、初めて見えてきたような気がするんですね。実際には、今回も対立軸はなかったと言ってもいいぐらいなんですが。改革が見えないというけれど、「改革する」ということはみんな同じだった。改革しないといけないという点では、どの政党も一緒だったわけですね。そしてそれは概ね間違ってはいないと思います。
それでは、今後何が対立軸になっていくのかという点ですが、それを意図的に整理していくことが大事だと思います。そして、対立軸は個別の政策にはないと思うんですね。もっと大きなレベルの底流の、「拠って立つ所」の違いによって出てくるのではないかと思います。
今回、見えてきたなと思うものには、ふたつあります。ひとつは、20世紀型福祉国家の「大きな政府路線」というのは成り立たないということです。ある意味で成長を前提とした産業国家の裏返しのような路線は成り立たない。では、次の対立軸は何なのかというと、「競争を重視した激しい社会」と言いますか、「より競争力のある人が勝ってたくさん得るものがあり、取れない人はとことん落ちるという社会」か、「一定の範囲で競争優位に立った人は所得が増えるんだけれど、一定の枠があり、ひっそりと生きるというか、落ち着いた生活をする人は、それはそれで生きていける社会」をめざすのか、という二つの選択肢があると思うんです。

<新しい社会のビジョンをどう描くか>
小泉さんは、もともと「構造改革なくして景気回復なし」と言っていたが、微妙に変化して「構造改革なくして成長なし」と変えてきた。改革をして違う成長を求めるということですね、そういう路線なんです。より競争力のある産業を創造して、新しい成長を、というね。シュミレーションでも平成14年までは雌伏の時期で、それ以後は黄金の時代だ、などとね。年2%くらいの成長を実現すると。しかし、そんなことはもうないというのは自明なのではないでしょうか。実はこれだけリストラやって失業が出てもやっていけるというのは、社会が豊かだということなんですね。だから、はじき出された人がどう生活していくのかを含めて、少々活力がなくなろうが、職住接近でゆったりと生きていこうという割り切りができないものか。そしてがんばろうという人には、努力できる環境が保障される、そういう社会のビジョン、これも「小さな政府路線」ではあるんだけれども、こうした新しい社会のビジョンを出していく事が必要なのではないかな。
そうした基礎的な考え方ががっきりすれば、個別の政策にメリハリも出てくる。そして、内政的なビジョンがはっきりすると、外交をめぐるビジョンにも反映して分岐が出てくる。現在の小泉と田中外相との対立もそうだと思います。間違いなく小泉の路線はアメリカ追随ですね。ミサイル問題にしても環境問題、京都議定書にしてもブッシュに引っ付いていくというね。アメリカというのは、経済成長中心の国益中心国家で、そのアメリカ中心のグローバリスムに追随する路線ですね。世界的に見ればそんなことにはなっていない。EUも人類益を意識しながら多元的な価値の共存だとか、社会的規制をしながら「落ち着いた社会」を目指している。ワークシェアリングを進めるオランダモデルの話などは象徴的ですね。
日本をとってみれば、周辺諸国に経済や政治で圧倒的な指導力を発揮するようなパワーなど、もはやないのははっきりしている。世界的に見ればアメリカに対抗するもうひとつの核は、今やソ連ではなく中国です。中国・EU・アメリカという3極構造の中で、日本が韓国やアジアに警戒心を呼び起こすような国になる危険性があるという議論は、日本に対する過大評価でしょう。日本がアジアの中での身の程を知ってね、アジアの中で居場所を見出して信頼を勝ち取らないと、生き残れるはずがないんですね。だからこそ戦争責任問題もはっきりさせていく必要があるわけです。そう考えると、小泉さんの頓珍漢な対応では足元がすくわれることになると思う。靖国問題もそうですね。
こうした戦略的な方向をはっきりさせないと民主党も、景気対策や経済成長、活力などの問題に振り回されることになる。それを脱皮しないと、自民党との違いが出せないと思います。
A:ゆったりした生活とか、ゆったりとした人間関係とかね、多元的で人権もしっかり守られてね、みたいな路線は意外と求められていると思うな。
C:民主党も労働組合との関係があるし、労働組合というのは企業との関係があって、経済活性化とか産業育成、雇用確保などでは、自民党と同じスタンスになってしまう。先ほど言った社会を描こうとすれば、やはり地域政策ですね。財源問題含めて国の成り立ちを分散型の社会にしていく必要がある。これまで権限と財源を中央に集中する体制を作ってきたわけだが、ゆったりとした社会にするためには、その配分を変えていく必要があるわけ。めざすべきは、そんな世界じゃないのかな。

<政策論争をさせない選挙制度>
D:話を戻しますが、前の小選挙区制導入の時にも発言しているんですが、現在の選挙制度が、政策論争をさせないような、まるで選挙運動禁止法のような実態があるんですね。テレビでも、公示後は討論禁止だとか、立会い演説会もできない、もう連呼しかないみたいなね。共産党が元気なくて、体力が落ちているというのが退潮の原因だとも思うんですが、政策論争がしにくいという意味で、問題のある公職選挙法というのが実態なんですね。
対立軸の問題ですが、改革の中身がない中での、改革派か抵抗勢力かということに終始してしまったということとの関連で、選挙中に民主党が「私たちも改革に賛成です」という法定ビラを配っていまして、これは違うだろうと思いましたね。改革の具体論が提示されたいないとしても、本当に改革するのは私たちです、というべきですよね。小泉の改革ムードに流されているという感じがします。そこで改革の対立ビジョンとは何かという事なんですが、より一層の自由競争に基づく競争の激化と産業企業の変容ということなんですか、そこでセイフティネットが出てくる。つまり最低限の生活保障を明らかにした上で、その上で競争をすると言う意味でのセイフティネットの提起が出し切れていない。民主の側が出すとしたら、セイフティネット型社会の構築みたいな政策になるのかな、僕だったら、そんなビジョンを出したかな、と思います。それがビジョンにおける明確化ではないかな。

<個別政策と新しい枠組み>
C:僕自身、まだ描ききれていないんですが、たぶんその枠組みというのは、旧来の20世紀型の産業社会を前提にしたパラダイムの中にある発想では、対立軸としては描ききれないのではないかと思う。競争に力点を置くのか、セイフティネットに力点を置くのかというのは、大きな観点からは同じ土俵にある議論なんですね。例えば、個別の各論のレベルでは自民党だってセイフティーネットを言うと思うし、民主党も言うと思うんです。個別の政策議論では、自民党の中の一部と民主党の一部の議員がよく似た傾向の意見を持つこともあるし、党内は、結構モザイク模様というのが多いわけです。同じ政策を掲げていたとしても、大きな選挙を前提にした場合、有権者は、大きな底流というか、個別の政策を位置付ける戦略の中での個別政策を理解して、政党を選ぶということになるわけですね。そういう意味で個別政策での政党選択はだんだん不可能になってくるのではないでしょうか。
基調の部分で、方向を指し示す中でこそ、個々の政策が生きてくると思います。例えば、アメリカに着いていくのか、アジアとの協調を重視するのかとかね。経済問題でも活性化をめざさないとは言いにくいとは思うけれど、そういった方向にトーンを変えていって具体の政策を位置付けることをしないと、民主党は自民党との違いを出し切れないのでは、と思います。まだ自分もきっちりと明確にはできていないんだけれど、単なるセイフティネット強化論ではなくて、基調の部分を転換できないとね。そんなことを漠然と思っています。そこが描き切れたら、自民党と違う一人前の政党に民主党もなるんじゃないかな。
D:で言えば、Cさんの言うように、例えば今回の小泉人気について言えば、客観的な背景として背景に強烈な社会不安があるわけです。それが何かやってくれるという期待感と結びついたわけで、私の言うのは、むしろ当面の闘争方針のようなものとして発言しているんですが。具体的なセイフティネット策を明らかにできれば、もっと有権者に訴えられたと思うんですね。例えば年金などの社会保障制度とか雇用対策で安定雇用の社会政策などをね、そういう事をきっちり出すことが重要だったのではないかとね、今回の選挙についてね。
C:例えば社民党のように、年金制度を充実するとか、就業保障のための制度を確立するなどという「単一課題」を全面に押し出して一定の勢力を維持しようという野党の選挙ならいいのだけれど、すべての国家システムを整理して、実現可能な現実政策を打ち出すべき民主党としては、中々、個別課題をポッと整理できる話ではないのではないですかね。

<抽象的な痛みは理解できても・・>
A:今回の選挙で言えば、KSD疑惑だとか、特殊法人改革、天下り問題、外務省の機密費問題とか、今まで50年間日本を引っ張ってきた様々な国家や政財界のシステムに対して、もうだめだという感じは国民の中に明らかに存在していたわけ。昨年の衆議院選挙で、民主党が公共事業の見直しを全面にしたときも、国民は理解を示したわけだ。そうした怒りの票をさらっていったのが小泉だったわけだ。「痛みを伴うけれども実行するんだ」と、言葉に力のある小泉が言えば、こいつならやるかな、少々の痛みならしょうがないか、ということになったわけだな。
ただ、痛みの中身だけれど、あなたの失業手当は2分の1になる痛みですが、耐えられますか、とは言われないんだ、システム改革に伴う痛みという抽象的なものだったわけだ。
Dさんとは、選挙中にも話をしていてあの民主党のビラの話になったね。中折のビラで確かに表は、民主党の改革に賛成だとなっていたけれど、中を開くと6つの点で自民党と民主党の改革案の比較がされているんだ。
C:その民主党のビラは、中々特徴的でね、実は今回の選挙は、ビラの表の「改革」が中心で、中身の個別政策まで議論にならなかった、というのが特徴ではないか。改革への姿勢で国民は選択したんじゃないかな。改革に対して積極的か、そうでないかという姿勢をね。改革への姿勢が問われた選挙だったんだな。
自民党は、自民党でありながら自民党ではない、という小泉を押し立てて信任を得た。共産党や社民党は、各論に入る前に、改革の中身に入る前に、改革に否定的で従来どおりの政策を唱えて、結局支持を広げることが出来なかったという結果になり、一方自民党は国民に対して最後の大きな課題を背負ったということじゃないのかな。終わりのはじまりだ。
A:選挙後特殊法人の改革問題が具体的に出てきた。石油公団もそうだ。赤字垂れ流しの公団だが、廃止するためには1000億程度の税金の投入が必要ということだ。さあ、改革の中身の議論になっていたね。また国民負担だよ。

<ナショナリズムの問題>
E:歴史のターニングポイントというわけだけれど、経済的には日本はバブルの崩壊で違う状況に入って、そして空白の10年があって、これからは前のような成長はあり得ないし、今後は緩やかな成長ということになるだろうね。それに対応する構造改革の方向をどう出していくのか、確かに求められている。小泉は、はっきりわからないがアメリカ型のようで、それに対する対案が明らかではない。そこが問題なんだ。
特に危機感を感じるのは、小泉のナショナリズムの傾向だ。生駒さんも書いていたけれど、グローバリスムに対する反動として、いろいろな問題が出てきている。Cさんが言うように、もちろん日本が侵略するとかアジアの盟主になることはあり得ないわけだけれどね。失われた10年とは言うけれど、NPOなど平場の努力は続けられてきたわけで、そういう流れに水をさす結果になりかねないわけだ。国民の中にも不満が溜まっているので、ナショナリズム的傾向に流されている人も多いんだ。日本の状況に対して非常に狭い視野の傾向が生まれてきていて、我々もこうした傾向に対置していくことが求められているように思う。

<ナショナリズム批判の方法論について>
C:今日は生駒さんが来ていないから面白くないんだけれど、生駒さんの論調と、ちょっと感覚が合わないな、ものすごく古いな、と思うわけ。発想枠組みがね。変ろうとがんばっておられるんだけれどね。(A:おるときに言えよ!!) でも、残念なんだけれど古いよ、って言おうと思ってきたんだけれどね。例えば、古いなと思うのは、小泉の評価なんかね。教科書や靖国の問題にしても違う切り口から見ないと。
ナショナリズム批判も、ナショナリズムとは何ぞやという定義の話から議論をしないといけない。それで、今、アーネスト・ゲルナーの「民族とナショナリズム」という本を読んでいるわけです。日本で批判されているナショナリズムのことなんですけれど、ナショナリズムはどこでも生まれる現象ではなくて、沸騰するには一定の条件があるように思う。そういう観点では、抽象的な言い方で申し訳ないけれど、この種の動きをどう読み取るべきかという点で、過剰評価することで相手を強化する側面があるのではなかろうか。非常に漠然とした話ですがね。例えば、民間レベルでの多元的な運動は、そんなにゆり戻されることは無いと思うし、戦前と圧倒的に違うのは、アジア諸国のすごいエンパワーに日本の側が負けていることだと思う。

E:そうした動きが表面化してきたわけだけれど、いままでもやもやしたものが形になってでてきたわけで、対立点ははっきりしている。そういう意味でこれまで積み上げてきたことを対置していきたいですね。はっきり対置することが求められていると思う。
C:ただね、その対置する内容が問題だと思うわけ。いままでの紋きり型の批判、例えば新しい歴史教科書を作る会のあの教科書ですけれど、従来の論調での批判だけでは克服できないのはないだろうか。もっと根の深いところで捉えていかないといけない。例えば、日本が単一国家で単一民族だみたいな常識、あるいは縄文時代があって、弥生時代があって、古墳時代があって、みたいな西日本でしか通用しない歴史が学校で教えられてきたことですね。これは、網野さんが展開している日本論とか、「東西/南北考」(岩波新書)で赤坂さんが主張している日本の歴史の見方の違いに関わる話なんだけれども。作る会が「歴史は物語りだ」みたいに言っていることの根拠のなさみたいなところをもっと深いところで切断していかないとね。もっと高みに立って、国際的観点からも、「日本的」観点からも、何を子供じみたことを言っているのか、そんなことではだめになるよ、という批判の仕方の方がいいのではないかと思う。

<守るべき伝統のある>
A:僕自身も、やわらかなナショナリズムは容認するんですね。アメリカ映画でも結構海兵隊ものが好きだったりしてね。国のために死ぬなんてね、物語のなかではね。それから僕のおやじが大工でね、むかしから職人というのが好きなんですね。テレビ番組でも職人技の番組なんか好きですね。この間も金属関係の人と話をしていてね、伝統工芸や職人技をね、後世に残すみたいな事業を起こしてみてはどうかと言う話なんだが。現在の金属関係の職場もコンピューター化が進んでいるんだけれど、歯車や精密製品の最後の部分で職人技が残っているらしい。そんな技術を残さないと、製造業もだめになるんじゃないかという話をしたんです。伝統工芸や技術を残す事業をね、労働組合がファンドを作って行うことは決して無駄にはならないとね。ナショナリズムというわけじゃないだけれどね。伝統ということかな。
C:テレビ番組に「どっちの料理ショー」というのがあって、「本日の特選素材」というルポに出てくる人たちは結構高齢の人たちなんだけれど、見るとほっとする面があるね。
それから、先ほどのAさんの話の中で出た愛国心という概念には、二つの言葉があるんですね。ナショナリズムとパトリオシズム。これは別物なんですね。パトリオシズム、つまり愛国主義という、言語や文化を共有している国家とか郷土を愛する素朴な感情があるわけで、それをみんな一緒くたにして排斥してもだめなんですね。
ナショナリズムと言う概念は、ゲルナーによると、政治的な単位と民族的な単位が一致しないといけないと主張する政治的原理で、それが一致した時の熱狂、あるいは侵害された時の怒りをナショナリズムの感情と言い、その感情に動機づけられた運動のことだと言うんだけれど、実は前提となる国家という概念も民族と言う概念も非常に曖昧な概念ですよね。国家は200台の数で、一方、民族の分類に密接な言語の体系は8000ほどあるんですね。そこで不一致が起こっているんだけれど、でも、どこでもナショナリズムが起こっているわけではない。だから、ナショナリズムがどうやって起こるのかということをもう少し明確にする必要があるし、日本の中での議論で言えば、国家的なことに関連することを何でもナショナリズムとして排斥してしまう傾向があるように思う。

<ナショナリズムは勃興するか>
網野さんの説によれば、律令国家をつくった100年の間と明治維新以降の70年の二つ、合わせて170年だけが特殊な世界だと言えるそうだ。戦前の70年というのは、天皇を戴いて他国を侵略していった時代、「八紘一宇」ということで他民族を支配下に置こうとした時代ですね。ナショナリズムに満足心を持ち、且つ非常に抑圧的な時代だったわけ。そういう条件に今あるのかということを問題にしなくてはならない。アジア各国の主権に日本が政治的支配を及ぼすようなことはできっこないし、支配統一できる満足感も持ちようがない。そういう意味で、今の日本でナショナリズムが勃興する基盤はないといわなければならない。ナショナリズムが強化される基盤はないと思うんですね。
E:本当にないかな。
C:ただ、危険なものがあるとすれば今後、痛みの伴うかたちの政治的な改革が実行され、社会が極端に不安定になっていって、そこに他国の民族が、それこそ異なる言葉、言語体系を持った外国人が非常に大量に入ってきて、実際に自分の職業を脅かしたり、影響力を持ち始めると、ナショナリズムが非常に激化する可能性は大いにある。可能性が一般的にないというわけではなく、今の状況の中ではないと言えるのではないか。
E:流れとしては、外国人は今後とも入ってくるだろうし、一般論としてはないとしても可能性はあるわけだ。

<アジアの追い上げはすごい>
A:立場を変えて、私の場合はニュースステーションが見れない時間に帰宅するので、WBSを見ているんです。小谷さんのやつね。あれを見ていると、中国の労働者は、ユニクロの場合、月給が2万円です。2万円だけれども技能はすごく高い。昔は「安かろう悪かろう」だったが「安くても良いもの」ということになっている。アジアの労働者は、ベトナムでもどこでも同じ状況なんだな。賃金は安いけれど技能は高まっている。製造業だけではなくコンピューター技術でも、中国でもすごい数のコンピューター技術者が養成されている。昔からインドはよく例に出されるけれどね。現地の給料という事で安いというだけで、技能はそうとう高いということを忘れてはいけない。単純労働者が入ってくるというだけでなく、高度な技能をもった労働者が今後入ってくるという前提が必要ではないかな。そうした労働者が日本に大量に入ることは想定できるし、その時、明らかに排外的な傾向は予想されるだろうね。
B:来なくても仕事は流れますよ。
A:日本人は、日本がまだまだ技能が高いと思っているかもしれないが、ここ10年以内に確実にアジアの諸国が技能的にも追い上げてきますよ。活力が違うからね。小野瞭さんが言っている起業家社会の議論で言えば、負けちゃう可能性もありますよ。
C:例えば、日産でゴーンさんが社長になったでしょ。トップが外国人ですよ。ビシビシ、リストラしますよね。ああいうのが日常風景になってきますよね。企業であれ組織であれ、国際的なM&Aが進んで実権が外国の人に握られるという状況になって、日本の企業の実権が『日本人』でない人に握られるということになれば、確実にナショナリズムの傾向は強まるでしょうね。
B:僕はそうなっていくと思うし、そうなっていかないと活力を見出せないんです。つまり人脈や信用を破壊しないとベンチャーは上がっていけないんですね。仕事ができないんですね。ある種の品質を持っているだけでは日本では受注できないんです。海外からみてもそういうように言われてきましたね。自分で仕事を始める、起業しようとすると系列とか商習慣の壁にぶち当たるわけで、できるだけビジネス機会は公開されていないと困るわけ。フラットな条件で競争できる、競争といっても、がむしゃらに仕事をするんじゃなくて、サラリーマンが普通に仕事をするように個人でも起業して働いていける、本当にチャンスが公開されていくんですよ、というのがセイフティネットというんじゃないのかな。
E:そうかもしれないね。
C:貫いているのが合理主義の世界、例えば企業にしてみれば、国家とか民族というのは間違いなく不可解なものに違いないわけ。企業組織はそんなものを超越しているわけで、だからこそゴーンさんが社長になり、リストラをしているわけだれど、ただすべての人間が合理主義で動くわけではないし、合理精神で感情を乗り越える人ばかりではないわけだ。不合理の上にナショナリズムも起こるし排斥も起こる。だから、その摩擦が大きくなる可能性はある。今は表にでないけれど、今後その摩擦が大きくなる可能性は高いというべきかな。

<人権運動の対抗としてのナショナリズム>
E:僕は、逆に、合理主義というか人権主義というか、そうした運動の流れが強くなってきたから、反発としての「ナショナリズム」の動きが強まってきている、という考え方なんだな。だからこそ、こうした流れに対抗していくことが必要だということを、今回の選挙でもどこの言っていないんだ。

<オランダモデルとは>
B:構造改革というわけで制度のことが言われているわけだけれど、僕はひとり300万円くらいでね、誰でも生きていける社会が理想なんです。僕は子供の頃から、男が女を食わせるというのは嫌いだったんですね。オランダに友達がいるんですね、変ったやつなんだけれど、男ひとりと女二人で暮らしているんだけれど、女の子は姉妹なんだけれど、それは自由なんです。性的モラルも全然違うんですね。オランダは、空家があったら、占拠して3日たったら所有権が移るんですね。空家に入って暮らしているんです。800万とか違って、働いたり失業したりしながら暮らしているんですね。年に3回長期休暇があってバカンスも楽しんでいる。彼が日本に遊びにきた時に「クレージーだ」というんです。朝から晩まで働いてね。しかし、こうした現状から、ゆったりとした、安定した社会に誘導していくスローガンというのは、出すのは難しいですね。結果としてなっていくのかな、という気がしますが、 結果としてならないかもしれないわけですね。
情報政策が強化されて、新たな成長が生まれるかもしれないし、金融資産が1200兆円あるとけれど、ほとんどが高齢者のものですし、国家とアメリカが全部吸い上げて、最後は何も残らず、日本が普通の国になってしまっているかもしれないわけです。
いずれにしても、代表制としての政党が、言わば生活を切り下げるということを主張できるかどうか、非常に難しいとは思いますがね。
C:そういう転換をしてもいいと思っている人の中に、無党派層と言われる人が多いと思うんですね。無党派層は、従来の枠組みと従来のベーシックな発想、パラダイムと言って良いのかな、そんな枠組みでの有り様を覚めて見ている人たちのことで、そんな人たちが都市には結構いるような気がしてね。そういうところをつかむような打ち出し方ができるのかなと。
昨年の総選挙の後にも書いたんですけれど、オランダの場合、政権交替が起こったのはそんなに古いことではなくて1994年ですね。それまでの中道で支配していたキリスト教民主党政権が崩壊するんです。「紫連合」と言われる、右派自由主義と左派自由主義と社民党の連立政権ができる。そしてオランダの労働組合総連合の委員長が首相になるんです。そこで方向が変わって、徹底した自由主義路線に転換していくんです。ポイントは、ケインズ式の福祉型国家路線を社民党が放棄したので、連立が可能になったということです。
(続く) (文書責任 佐野秀夫)

参議院選挙 その結果をどう考えるか 意見交換会(その2)<No287に掲載>

<徹底した個人主義は日本で可能か>
C:鍵は、オランダではケインズ式の大きな福祉国家路線を社民党が放棄したので、連立が可能になったということです。
だから、ワークシェアリングで仕事を分け合い、何もかも国家がするのではなくNPOもどんどん活用していく仕組みにしようという事になったと思います。
ただ、オランダは徹底した個人主義の国で、日本で同じようなことが可能かどうかと考えると疑問もあるけれどもね。
A:日本はまだ「ムラ社会」ですからね。
C:そこに不安があるわけ。オランダはすごく他民族の国なんですね。そして個人主義で、それぞれが踏みこまないんです。だから、合わせるという文化がない。合わなければ別れましょう、という感じですね。「とことん話し合って仲良くなる」というの発想はないんです。とことん喧嘩すると宗教も絡んで最悪になる。一体化できるという幻想がないんですね。日本ではまだ幻想があるので、だから、個人主義に非常にマイナスのイメージがあるんですけれど、オランダ型の社会を作ってみようよ、みたいな呼びかけは可能じゃないかな、と思うんですね。
B:そういうのは、遺伝子的にいうと、緑の党という感じですね。すごいナイマーな政党ですね。民主党とか与党になろうという政党で言えるかどうかですね。経済成長して、所得を増やして、一家の大黒柱が家族を養えるというような家族観、国家観に則った言い方をしないと支持されないのでは。
C:その怖さを抱えていると、自民党と同じところから抜け出せないということです。
B:それは昔の社会党も同じですね。
A:例えばですね、契機として、土地価格がとことん下がるということが起こればね、ローンを抱えている人は大変だけど、まだまだ土地価格が公表されて下がってはいるんだけれど、部分的には上がっているところがあってね、、どこかに上がって欲しいという期待感が残っているんだけれど、徹底的に下がるというような刺激的なことが起こって、勤労者の夢を打ち砕くようなことがおこればね、新しい考え方も起こるかな、とも思うけれど。

<新しい働き方の価値観>
E:ナショナリズムの話に関わって、その話になっていると思うんだけれど、まずナショナリズムの話については、僕はかなり危険な状況だと思っています。さっきも言った社会の不安、例えば失業者がもっと増えていくとどうなるのか、ナショナリズムの方にいくのか、「開き直り型社会」の方にいくのか。どちらにしても外部注入というか、政治的なイニシアチブが必要になるということですね。
ただ面白いのは、最近、ベンチャーも一つの働き方ということだけれど、かなり失業者が増えていて、失業者の中から、言われているような傾向が出てくる可能性があると思いますね。別に雇用、雇用と言わなくていいよ、けったくそわるい、とね。あれだけひどい仕打ちを受けて、もう一度働きにいくより、自分で何とかしようか、とね。例えば農業に帰る、帰農というんですが。農業というのは、高額所得さえ望まなければ、とりあえず食べるいうことだけなら可能なんですね。あいりんやホームレスの人が結構、農業についているんですね。農村では田んぼを遊ばせるわけにはいかないし、耕す人がいないということで、結構需要もあるんですね。また、自分たちで企業を起こしていこうという人たちも多くなっています。決して大きな資本ということではなく、これまでの会社時代の顧客リストを利用したりして、月20万くらいでいいからのんびりしたいというわけだね。そんな考え方が出てきているんですね。ワークシェアリングというのもそういう事だと思うんですね。そんな考え方、働き方の価値観の変化は起こっている。
労働組合もね、雇用を要求することだけが労働運動ではなくて、労につけばいいんだということで、それがセイフティネットということなのかも知れないね。
A:労働者供給事業もできることなんだからね。仕事を作り出す方もね。
C:NPOなんかもね、地域の課題解決に貢献できるような事業、コミュニティビジネスといいますが、福祉・環境・子育て、介護などで、いわば小銭を稼いで、自分の生きがいと生活を充実させようという傾向はもっと強まると思う。
非常に駆け足で高度成長をしてきたわけだけれど、「ポスト高度成長」の社会をイメージすることから始めて、文明論的、文化的な戦略も加えていかないと対立軸を形成することはできないのではないかと思うわけです。そういうことを描くことを期待したいわけです。

<新しい長期ビジョンと具体的政策>
D:Cさんの話は、今日の参議院選挙総括みたいなことで言うと、かなり先の話かなとも思うわけです。それが真剣に議論されることもいずれ来ると思うけれども、言わば「当面の闘争方針」みたいなね・・・・
C:いや、逆に長期ビジョンを語れる人がでないと、小泉さんみたいな人には勝てないということです。
D:僕は逆に具体論の提起しかないと思うわけです。
A:具体論で言えば、農民と言うのは農業をやめても土地を手放さないですね。それで地方の土地の有効活用ができないですね。例えば年金でも厚生年金とか公務員共済とか教員の年金とかと国民年金の格差があるでしょう。それぞれが利害を持っていて、利害の調整がどういうようにされようとしているのか。小泉改革は皆に平等ということはないだろうし、小泉に投票した人は、自分の得にならないと思って投票したわけではないわけで、そこがねじれているならば、自分の利害にとって合致する政党に投票すればいいわけです。
もっと普遍的な、利害を乗り越えた課題、社会を改革していくプランということになれば、一般に理解されるというのは難しいかもしれない。嘘か本当かわからないわけだから。明治維新のように思想家が言ったとしても、実現していこうというのに一般的にはすぐにならない。なってから気がつく、結果としてそうなった、ということにもなるかもしれないですね。
小泉のやろうとしている改革が、今の利害関係の中で、どこの利害を代表しているのか、小泉自身がそんなものを超越してもっと社会の構造を抜本的に変えてしまうと口で言っているけれど、本当にやろうとしているか、どうかですね。
C:いずれにしても、どんな政策もそれを全体として調和させる背中を一本貫いたヴィジョンがないとバラバラになってしまう。一つの利害を重視することは、誰かの利害を損なうというゼロサム社会なんですね。100%皆が得をする社会は無いんでね、全体がちょっとずつ損をして、最大多数の利害で、少数の損害を調和して調和してとやっていくと何をしているのかわからなくなるということになる。大きなヴィジョンみたいなものをベースにして整理しないと、体系立たないし、有効じゃない。
E:今の方向が出るまでは、オランダだって、北海油田がでてバブルになって、そして落ち込んでオランダ病とまで言われていたわけだ。それを変えたわけだ。本を読んで見ると、その時労働組合の役割は大きいわけだね。結局企業側と賃下げの交渉をして、賃金抑制して、そのかわりワークシェアリングしましょうと、大転換をするわけですね。完全な路線転換ですよ。そして、労働組合の委員長が連立政権の首相になってしまった、ということでしょう。
C:やはり、そういう転換ができる人物がいるんですね。

<年金一元化とセイフティネット>
B:年金は、セイフティネットにすごく関係があると思うんですね。年金について、今支払っているのは、今使われているものという説明に変えましたが、自分たちが貰えるころには、残高がなくなる、みたいなことがありますね。僕らは年金制度は一本化してほしいんです。すべての人が例えば10万円はもらえる、そして団体別の年金はすべて廃止する、だから損をする人も出てくる。
E:今は、職域年金やね。個別利害は出てくるな。
B:年金制度の一本化に反対するのは誰か、たぶん民主党は反対しますね。
C:年金制度をなんで一本化するのか、と。10万円で一元化するという理屈はね、その社会的合意を調達しようと思えば、違う次元で説明がいるわけだ。どんな社会にするのか、という説明がいるのではないか。それを抜きに、一元化の話は出てこないんですね。そこが、さっき言った言葉で人の行動に影響を与えることが政治だとしたら、そういう個別の利害を乗り越えてこういう世界を作っていこうという合意調達の役割が政治だとすれば、それを言える政治家が出てこなければいけないし、世の中を変える時に、思想のレベルや理念の話がついてこない改革、革命はありえない。近代の革命である市民革命も、社会主義革命も、そして明治維新もそうですね。
E:社会が変わるときに、全体像が示されるわな。
D:いまなお、という時に、いまそれが直ちにニードなのかというと、そうなるかはわからんな。そういうのを出していかなあかん、ということは分かるけれどね。
C:間違いなく、ある意味での社会主義幻想というか、20世紀を支配した社会主義幻想は、崩壊したんですね。力を持ちえなくなったんです。

<労働組合も新しい発想で>
A:労働組合の話題も出たけれど、連合が800万人で150万票しか取れなかったということは、元気がないのは、はっきりしているよ、賃金は上がっていないんだから。NTT労組が参議院選挙で職場の組合員にオルグしたら、「おれの雇用はどうなんねん!」と言われる状況なんだよ。選挙どころではない、という状況も一方にあるわけ。連合が元気がないというのは、賃上げがとれない、それが基本的なところですよ、ベースはそこにあると思うけれど。
公務員だって3年連続の一時金マイナスだしね。労働組合がものを取ってきた、そこに依存してきたいままでのパターンが通用しなくなっている。「労働組合は抵抗勢力」とマスコミは評価しているし、いったい労働組合はどんな役割をするのか、この場の議論では新しい役割が議論されているけれど、役員を支配しているのは、組織維持であったり、面子であったりね。労働組合、とくに公務員の場合、労働基本権がない中で、公務員制度改革が強行されるということになった場合、労働組合が本当に生き延びられるのか、労働組合が生き延びることが主眼であるという考え方と、腹くくって一点突破していこうというのか。リストラされた皆さんと協力していこうという立場に立つのかね。労働組合の持っているファンド、組織をどう投入していくのか、ワークシェアリングもあるし。公務員給与は一面では確かに高い水準を維持しているわけだから、それを吐き出せ、と言われて中々できないけれどね。
E:僕は難しいのではと思いますね。だけど、オランダの場合は、賃上げを放棄したわけだ。
A:オランダの場合は、ワークシェアリングということで、そのかわりに余暇が増えたわけだ。
E:家庭の総収入と言う意味では、維持されたわけだね。物価も安定したわけで、家計の可処分所得が減ったというわけでもいない。そういうイメージが出せて、それを労働組合が主導でやったということが面白いわけ。
D:日本の場合は企業内労働組合ということで、難しい面もあるわけ。そして民間主要大手の労働組合の場合、労働組合の態をなしていないという現状だ。第二労務管理部的な役割もある。法的な36協定なんかも法律違反はできないから、やっているみたいな面もある。オランダの事はよく知らないけれど、ここまでではないと思う。自立的になっているかどうか、ということだろうな。
A:自治労というのは、平和・人権とか違う組織のコンセプトを維持しているから、違うレベルの議論はできると思うけれど。

<IT革命と景気・文化・雇用>
A:話題を変えたいんですが、IT革命と言われているんだけれど、景気や経済への影響は、本当のところどうなんだろうか。
B:IT革命というのは技術革新なんだから、生産性も向上させるでしょうし、文化そのものや精神生活そのものにも大きな変化をもたらすでしょうね。
僕らの世代よりの上の人は別にして、若い世代の人たちは幾つかの人格を持つようになると思います。ヴァーチャルの人格をね。一つ、二つ、三つ、四つとね。携帯電話もある意味でそうですね。精神生活の変化が社会生活にも現れるのではないかと。文化にも大きな影響が現れるでしょうね。今まで起こってきた人間関係をも壊してしまう、「お蔭様で元気に暮らしています」と言う文化・土壌も変化していく。顔が見えないどころか、本当の自分は今生活している自分とは違うんだ、みたいな人も増えてくるのではないでしょうか。
D:ITで景気が良くなるかということだけれど、ITというのはね、先端を走っている限りはいいんですね。しかし、2番手3番手はもう経済への先導力はないんですね。そういう意味で全体への経済効果は期待できないのではないか。僕の関心は景気がどうなるかではなく、雇用がどうなるか、という点なんですが、景気がよくなることと雇用が安定することとは一致しないので、企業はリストラして贅肉落として立ち直って、もう一度人を雇うかというとそうはならない。森内閣の時にいろいろ言ってましたが、ITで雇用が拡大するということにはならないと思っています。経済界・産業界もITで雇用拡大なんていうのはとんだもないと言っています。雇用を少なくするための技術革新なんですからね。
A:僕らなんかは、技術革新の結果、小企業でもやっていけるんですね。今まで考えられなかったことです。何千万、何億という資金が要ったんですね。DTPでね。仕事のシステムの中で、技術革新というのは働き方の自由度を高めてくれているとは思うんですね。ついていけた人はね。
D:SOHOというやつだね。
A:付いていけた人は、救われたということですかね。
C:仕事でIT政策関連に関わっているんですが、ITというのは、これはすごい転換で、機会費用や取引費用を軽減するんです。いままでならすごい装備を抱えていないと国際的な貿易や取引もできない、その設備投資のためには資本が要るというわけ。ところが、今では電子メール一つで取引ができるし、ソフトウェアだって自分で買わなくてもフリーの物がたくさんある。そんなわけで、組織はそれに伴って小さくなりますよね。大きな企業などというのは、20世紀型の組織です。日産にしても、飲料メーカーのウェルチだって、リストラするだけであれだけの利益が出るわけだから。そういう意味でIT社会というのは、組織を小さくしていくんですね。効率化されるということは、GDPを減少させていくことにもなる。そういう意味では景気がよくなるはずがないんですね(笑)。どんどんコスト削減できるわけだから、景気がよくなるわずがないわけ。そういう意味で生き方を変えるような理念が追いつかないと、先ほど来言ってきた「開き直り型社会」に対応できる思想と政治の体系、社会の仕組みと言うのはというのは、IT社会の進行と競争の激化の中で、もうすぐそこに来ているのかもしれないな。
D:そういえばそうですね。
C:だから理念の方を追いつかせて、ヴィジョンをはっきりさせて、うちの方が新しい社会を考えていますよ、自民党ではできませんよ、と言わないと民主党に将来はないんではないかと思います。

<再チャレンジできる社会>
A:競争社会という意味でね、今までは100人いれば20名の「成功者」を産む社会だったとすれば、中どころが50名くらいで、最下層も20名だったとしよう。今後考えられるのは「成功者」は5名になり、中くらいが70名になる社会と考えてみよう。今の学生達は、就職志向は大企業なんだろうね。でもそれはもう不可能なんだ。今の親たちは、こうした社会の変容の中で子供をどう育てようとしているかなんだな。そこにセイフティネットの鍵があるような気がするな。セイフティネットの対象は、一番下の人たちのためのように皆考えているんだろう。「落ちこぼれ」みたいな感じで対象を想定しているのではないか。競争とセイフティネットとの関係なんだけれどね。
C:今までの「中流」というのは、もっと落ちるんですね。
B:生活保護みたいな受け止めではなく、再チャレンジみたいな、事業が失敗しても再挑戦できる、やりなおせる、3回くらいまでは罰点が付かないとかね、そういう社会をセイフティネットのある社会というべきではないのかな。
C:福祉国家における「生活保護」みたいな概念ではなくてね。
A:起業者のためのセイフティネットやね。
B:事業が失敗したから、自殺するみたいなことのない社会ね。それだけ追い詰められる社会なんだな、現状は。
C:その辺の価値観の変化が必要でしょうねね。この話は、小野瞭さんの「万人企業家論」とつながる話だろうし、一度最近の話が聞きたいですね。  (終)
( 文章化責任は、佐野にあります)

【出典】 アサート No.286 2001年9月22日

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【投稿】参院選 対決の焦点は何か

【投稿】参院選 対決の焦点は何か

<<「2人の小泉の挑戦に力を」>>
 12日公示の参院選は、圧倒的な“小泉人気”の前に野党はなす術もなく、早くも“自民圧勝”が既定事実になるかのような報道である。自公保与党三党は過半数確保の63議席を勝敗ラインとしているが、自民単独で70議席前後、3党で80議席を超えるという圧勝予測である。自民党は、3年前の参院選が選挙区30議席、比例区14議席、計44議席、これが今回は、47選挙区のほとんどで議席を確保、比例区でも20人以上の当選が見込まれるという。“怖いのは陣営の緩みだけ”といった楽勝ムードである。ほんの数カ月前の森政権末期には、「民主党の大躍進、与党の過半数割れ必至」と言われていたのが、空前の小泉人気で事態が完全に逆転しているわけである。
 先日の東京都議選、江戸川区では、小泉氏とのツーショットをポスターに使った候補が前回選挙の2倍の5万6000票を獲得したのに対し、使わなかった公認候補は半分の2万5000票しか取れなかった。そして、千葉市長選では無効票全体の2割近くが小泉首相票であったと言う。参院選ではこの票まで掠め取らねばと言うわけであろう、自民党比例区公認で名前が同じ小泉顕雄・京都府園部町元町議が、野中元幹事長の地元で突如立候補。野中氏の後ろ盾があるとはいえ、何の脈絡もない泡沫候補である。それが、ポスターに小泉首相と並んで「2人の小泉の挑戦に力を」と大書、純一郎と明記していないすべての全国の「小泉」票をいただき、今や当選確実とまで言われている。完全な便乗、悪乗り作戦である。議会選挙の本質を自らここまで落としても恥じらいさえ感じない小泉氏は、党首や総理大臣としての資格があるのであろうか。実にいい加減な政治姿勢を如実にあらわしていると言えよう。

<<「天気のように変わりやすい」>>
 日本と違ってアメリカでは、小泉首相の評価は、実に冷静かつ辛らつである。ニューヨーク・タイムズ(7/4付)は、「天気のように変わりやすい小泉首相」と題して、「渡米前には、ブッシュ大統領の議定書離脱を『嘆かわしい』と評しておきながら、会談後は、『大統領は環境問題に情熱的』と言い、アメリカで『アメリカ抜きでは議定書を追求しない』と言いながら、イギリスでは『最後まで説得努力を続ける』と述べる。議定書に対して二転三転する小泉首相の言動は、自身が政治生命を賭ける経済改革推進のためのテコとして同議定書を扱っていることに起因する」とその変転ぶりを分析している。事実、いまだに小泉氏は京都議定書を抹殺するような行動をとりながら、ブッシュ政権が態度を翻すことなどありえないと確信しながら、あくまでも「説得を続ける」とごまかし、事態の本質を隠蔽しているのである。
 同じく7/4付英紙「フィナンシャル・タイムズ」も「日本のショーマン」と題した記事で、「国民は、具体的中身のない曖昧な政策を支持しているだけだ。首相は参院選後まで“改革の痛み”の詳細を明らかにできない。このことは、小泉氏の考えはひどくあやふやなものでしかなく、深刻な景気後退で簡単に撤回しかねない、ということを暗示している」と、その指摘は実に的確と言えよう。
 さらにフランスのルモンド紙(7/4付)は、「小泉氏の人気は、これまでの自民党政治指導者や金融界の指導者に対する幻滅やフラストレーションがもたらした世論の強い苛立ちを反映したもの」である。しかし小泉首相の掲げる改革は、「純粋の」景気後退を招くであろうと警告し、「日本人は小泉氏を信頼することで幻想に酔っているのであろうか。ほらを吹くだけの改革派にまたしても失望させられた場合、より高いところから墜落するだけに、影響はより深刻であろう」と指摘している。

<<「絶叫パフォーマンス」>>
 冷静に考えれば、こうした指摘は当然のことであろう。小泉首相は7/8 、参院選全国遊説の皮切りとなった神戸で、「聖域なき構造改革」を訴え、「小泉改革に反することをしたら、私が自民党をぶち壊す」と、こう絶叫した。しかしこうした演説は具体的中味、痛みを明示していないと言う野党や新聞の論調に対して、7/12の松江市の演説では、「参院選を勝って安定的な政権を作ってから改革の中身を考える」と明らかに後退。同じ12日、参院と自民党を牛耳ってきた橋本派の青木幹雄参院幹事長が、同じ松江市で「(小泉首相の)聖域なき改革は支持を得ている一方、地方切り捨てとの不安が広がっている。首相の周囲がはしゃぎすぎて、いろいろ言っているためだ」と論難した後、「小泉さんとは『参院選を勝って安定的な政権をつくってから、改革の中身を考えよう』と話しているので、誤解しないでほしい」と、首相との合意内容を明らかにし、選挙に勝ちさえすれば、その後はどのようにもできるから心配ご無用といわんばかりの演説をしている。
 その意味では小泉氏は彼ら裏の支配者の「ショーマン」なのであろう。絶叫してもらってでも、少々痛いところを言われても当選さえすれば、多数派は当方と言うわけであろう。しかし、かれらの思惑通りにいくわけでもなければ、同時に小泉氏の思惑通りにもいくものではない。それでも浮ついた小泉人気は日本列島を席巻しており、小泉首相の行くところ何万という群衆が殺到する。ここに日本の政治状況のすべてが集約されているともいえよう。期待と危険性とモロさが同居しているのである。問題は、野党の中からこれを突き破る力が期待されてもいなければ、現実にも存在していないかのような政治状況である。
 こうした状況の中で、ついには「本当に怖いことは、最初、人気者の顔をしてやってくる。今しかない。戦前へ走らない道を。護る女。社民党」というコマーシャルが「誹謗中傷」に当たるとして、多くのテレビ局の放映拒否に遭っているという(6/30付朝日)。大政翼賛会的な言論統制そのものである。実に危険で、あぶなかしい事態への進展である。
<<「余りにも自信がなさすぎる」>>
 しかしこのような事態をもたらした責任の一端は野党にもあると言えよう。とりわけ民主党、なかでも鳩山党首の政治姿勢が問われている。サンデープロジェクトの党首討論がその典型である(7/15)。小泉氏から「民主党も自由党も私の考え方に近い」と言われても、回りくどい反論しかできず、ならば自民党を放り出して民主党とこそ手を組むべきであるといった大胆な提案もできず、ただ個々の「構造改革」について「本気でやるのか」とお伺いをしているだけなのである。逆に小泉氏から「鳩山さん、余りにも自信がなさすぎる」と激励される始末である。小泉氏にとっても、参院選後の旧主流派からの抵抗と反撃はそうたやすく乗り切れるものではない。最大の援軍は野党なのかもしれない。今や参院選の焦点は、参院選後の政界再編、自民と民主の党内抗争と再編のありように移行してしまっている観さえ生じさせている。
 菅直人幹事長にいたっては、「夢を見つづけていたい人は自民党に、夢から覚めたときのことを考える人は民主党に」などとまるで敗北自認姿勢である。夢を見つづけていたい人に政治的選択を迫らなければならないのに、はじめからそれを放棄してどうするのか。今現在進行している小泉内閣の破壊的な経済政策、無慈悲なデフレ強行政策、中小零細業者、勤労者に犠牲を押し付ける政策はすでに具体化している。建設・流通部門のスケープゴートはすでに熊谷組・マイカルとしてとりざたされ(八月中旬のXデー)、大手の金融機関や資本はすでに利益確保の手当てを済ませ、セーフティネットやガードが何も提起されていないなかで、圧倒的多数の下請けや関連業者、労働者は放り出され、小泉氏言うところの「痛み」を甘受せよというわけである。ブッシュ政権の環境保護政策への敵対、全く無意味で軍需産業を喜ばせるだけのミサイル防衛政策に追随し、これらに「理解」を示す、靖国神社・歴史教科書問題では近隣諸国との対立を激化させ、それに反省の姿勢さえ示し得ず、逆に開き直る、こうした小泉氏が抱える最大ともいえる問題点について、民主党が全く対決できないところに民主党が浮上し得ない原因があるとも言えよう。
 民主党から立候補するにあたって、大橋巨泉氏が「国のためにあたら若い命を散らした人達と、彼らを戦場に送りこんだもの達の区別もつかない小泉首相の化けの皮を、必ずはいで見せます」と述べたこの姿勢こそが要請されているのである。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.284 2001年7月21日

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【投稿】参議院選挙に思うこと

【投稿】参議院選挙に思うこと

☆比例区選挙の実像
 内閣支持率が10%を切るという森内閣を抱えて、自公保政権が考えついたのが、参議院選挙の制度改悪であった。政党名による投票で、政党枠当選者数が決まるという従来の方式(拘束名簿方式)では、党内立候補者の当選順位が決まった時点で、二つの面で選挙の取り組みが弱まる。一つは、ほぼ当選ライン以上の順位を獲得した候補者陣営は、当選が確実になったと思い、運動が弱まる、その2は、当選がおぼつかない順位となった候補者陣営は、どうせ当選しないんだからと、同様に運動から手を抜くことになると。
 さらに、KSD疑惑で明らかなように、自民党の参議院比例区候補はそれぞれに業界団体と結びつき、獲得党員を水増しし、党費を業界団体に肩代わりさせ、その見返りに当選後は業界の利益代表として業界に有利な国会質問や省庁への働きかけを行うという構造である。まさに政官財の癒着構造そのものであった。
 森政権で参議院選挙を迎えれば自民党の敗北必死、拘束名簿制であれば従来どおりに、業界団体の運動はあるものの、候補者は最後まで必死にならない、という判断から、まさに自民党の党利党略で参議院制度改革が強行され、非拘束名簿式となった。比例区の立候補者の得票と政党名での得票の合計が、その政党の比例区における得票となり、政党枠の当選者が決まり、個人名での得票の多い候補から当選する制度となったのである。

☆小泉人気で逆効果
 こうして制度改正した自民党だったが、4月の小泉総裁就任以降は、逆に小泉=自民党という従来の比例選挙の方がよかったとの声も出始め、行き当たりばったりの政治の実態をさらけ出すことになる。都議会選挙で「小泉」票が6%もあったということで、生駒さんも指摘の「第2の小泉」立候補という「ていたらく」である。
 一方、連合など労働団体は、当初「非拘束名簿制」については、自民党の党利党略と批判していた。だが、実際には「大産別組合の」の場合、組織を固めれば、当選できる、という意味で反対運動の裏で「支持署名」の取り組みを開始するなど、両面の対応に走ってきたわけである。

☆比例区重視で、選挙区後回しの実態
 今回の制度改正により、20年前の「全国区」選挙が復活したことになった。比例選挙になる前の旧全国区を経験した労組幹部はすでに現場を去っている。今回改選を迎える6年前に当選した議員は、昨年までは政党名での比例選挙を前提に活動してきた故、悪く言えば、「比例選挙に安住して」きた議員が多いのも事実。個人名の浸透という課題は、決して簡単な話ではない。そういう意味で、比例区候補を抱える9産別労組は、それなりの危機感を持って選挙を準備してきたと言えるだろう。しかし、産別毎の独自の候補者選挙である故の弊害も深刻になりつつある。連合などが地域の選挙区候補の選挙本部を立ち上げても、比例区候補を抱える主要産別の取り組みは、比例区に重点が置かれてしまい、連合上げての取り組みになりえていないのが現状だ。大橋巨泉などの大物タレント候補についての連合の目線も冷ややかという複雑な構造が見え隠れしている。

☆すでに選挙は公示され、小泉効果での自民党の復調は確実な状況となっている。6月末の都議会選挙の評価だが、「風が吹かない」状況、むしろ逆風と言う中での、民主党の底が見えたということだが、決して敗北したという意味ではない。むしろ健闘したとも言える。「小泉の構造改革は、民主党が言ってきたこと」とか「小泉の改革を実行できるのは、むしろ民主党」などのような政党の存在感そのものを消滅させかねない主張は、ダメダメ!ということだろう。しかし、その中でも候補が比較的若かったという点、それなりに連合の集票が功を奏した点など、「逆風」の中で、私は健闘したという評価だ。
 参議院の場合、選挙戦に突入して、それまでの小泉・田中がテレビを独占してきたような雰囲気はなくなり、テレビの党首討論等でも、構造改革に伴うセイフティネット議論などでは、小泉の議論に具体性が乏しいことも目に見えてきたように感じられる。
 いずれにしても、選挙結果が出てから、ということになろうが、読者諸氏には、小泉自民党に「NO」の選択を行使していただくことを要請したい。(佐野) 

 【出典】 アサート No.284 2001年7月21日

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【投稿】歴史教科書問題とマルクス主義史観

【投稿】歴史教科書問題とマルクス主義史観   by 生駒 敬

☆小泉新政権登場の意味
 小泉政権の登場によって、がぜん日本の政治状況は騒々しくなってきた。前首相の森氏はいわば粗雑、粗暴、底の知れた乱暴者の程度、自民党内でも御し易しき存在であったが、小泉氏は御し難く、奇人、変人といわれながらもスマート、シャープ、ソフト、そして実行力が売り物である。それが一〇%以下の支持率と九〇%にも達する支持率という、対照的な差となって、異常な小泉旋風を巻き起こしている。しかし両者は同根である。後者が前者を徹頭徹尾支えていたのである。いや、後者のほうが靖国公式参拝へ異常な熱意を示し、集団的自衛権の行使を当然のごとく主張し、そのためには憲法改悪もいとわず、この際首相公選も、と前者よりは悪質でたちが悪い。しかし前政権の無能・無策・利権漁り、放漫財政をさらに拡大しようとする無責任さにほとほとあいそをつかしていた世論は、歓呼の声で小泉氏を迎えた。野党のふがいなさを見るとき、ある意味では当然とも言えよう。民主党の支持者では八割前後、共産党の支持者でも五割前後が小泉支持という事態である。かくも世論が軽々に流れ、それに棹さす者が非難、難詰される、これは危険な事態の到来ともいえよう。タカ派の内実を、その場限りの大衆迎合的な「構造改革」や環境政策で補完して一気に押し通してしまおうというこの新政権、一見「改革的」な側面ももたざるを得ないし、政策転換も行い、矛盾と軋轢を生み出してはいるが、大勲位・中曽根元総理に庇護され、おだてられ、何をしでかすか分からないという意味では、前代よりも危険であり、反動的でさえある。あの石原都政と相通ずるものがあろう。
 しかし私はここで、小泉新政権論を論じようとするものではない。軌を一にして問題が浮上している教科書問題である。この問題、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書も、きわめて復古調であり、反動的である。小泉新政権と自民党はこの際一気にこの反動的な教科書を全国の教育現場に広めようとさまざまな画策をしている。これに対して韓国、中国からは検定の撤回と個々の具体的な修正要求まで出されている。自民党内や右派勢力からは「干渉に屈するな!」の大合唱である。この教科書の情緒的で非科学的・反動的な内容に対する一通りの批判ならば、いとも簡単であろう。事実、鋭い的確な批判が多数出されている。あえて付け加えることもないといえよう。問題提起としたいことの一つは、こうしたものがなぜ台頭し、これとどのように対抗すべきかという政治的思想的な位置付けの問題である。

☆「フリーパス」の検定
 この「新しい歴史教科書をつくる会」は、周知のとおり、「現行の歴史教科書は旧敵国のプロパガンダ(宣伝)をそのまま事実として記述するまでになっています。」として、「新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直す」ことを設立趣意書に掲げてきた。そしてついに、皇国史観を「誇りうる歴史」、「大東亜戦争」を「アジア解放の戦争」と主張する歴史教科書と公民教科書の検定を合格させ、教科書採択の前から産経新聞社と一体になって大々的な宣伝を行い、教科書の市販本まで出版して大量販売に乗り出し、地方議会や教育委員会、教育現場に彼らの教科書の採択を迫るよう、右翼暴力団と結びついた政治的暴力的な圧力までかけだしている。
 つくる会の西尾幹ニ会長は、検定合格前までは、「個別部分は屈辱的ともいえる修正も受け入れた。ただ、マルクス主義史観とは違うわれわれの考え方そのものは残っている。」(『朝日新聞』三月五日)などと述べていたのだが、検定が合格するや、「(家永三郎氏の教科書は四〇〇箇所もの修正があったのに対して)一三七ヶ所といいますとほとんどの他の部分は修正されていないといってもいいんですよ。重大な叙述の部分がほとんどそのままフリーパスで通っているというのが、実は一方の事実なんです」(産経新聞社『正論』二〇〇一年七月号「我々の歴史教科書は死なず!」)と本音をずばり吐露している。
 同教科書の共同執筆者の小林よしのり氏も、「特攻隊員の遺書は、白表紙本のなかでは、本文の記述になっていたんです。そこに検定意見がついて削られてしまったからコラムを作って、本文で一本だけ紹介していたものを二本に増やしてやった。このように闘争心に燃えた検定に対する処し方もあるわけです。検定でどうのこうのと意見をつけられても、唯々諾々とそれに従ったわけではありません。…だからいろいろ修正されたといっても、この教科書の記述は決して薄まっていない」と豪語している。(同上、『正論』誌)
 彼らが自ら暴露しているように、文部科学省は彼らの教科書のためにだけ一ヶ月以上遅らせた第三次修正期間を設け、それまでにこの教科書の不合格を主張していた検定調査審議会委員を更迭し、韓国側からの反発を字句修正問題に持ちこめるように表現を和らげ、町村文部科学大臣の「特別の計らい」で検定をゆるめ、明らかに検定を合格させる「通すための検定」が行われたのである。

☆「歴史学者の問題」なのか
 それでも事態は、韓国・中国両政府の根本的な修正要求となって日本政府に突き付けられる事態を招来した。事実上のフリーパスで、語句の修正だけでは切り抜けることのできない本質的な欠陥を数限りなく抱えている以上、小手先のごまかしでは対処できるものでないことは当初から明らかであった。それでも小泉首相は「これは再修正はできないんだけど、お互いに歴史学者の見解が違うから将来、どういう対応をできるか前向きに考える必要がある」(五月八日・記者質問に対して)などと、問題の重要性さえ認識できず、歴史学者の見解の相違のごとく装い、逃げ切り策に終始しようとしている。しかし韓国政府が問題にしているのは、歴史学者の問題などではなく、韓国・日本間の合意事項、日本が自ら表明した国際的約束、国際社会が公表した歴史教育に関する基本的立場に反しているものであると明確に指摘し、日本政府の公約違反を問題にし、批判しているのである。
 こうした事態に対して、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(中川昭一会長)などは「これは明らかに内政干渉だ」と叫び、「つくる会」理事の坂本多加雄・学習院大教授は「要求に応じれば禍根残す」として、「韓国政府より再修正要求があった。要は自分たちが書いてほしいように書いていないという指摘である。…一方的な修正要求に直面しているのである。韓国政府による「検定」が今後慣例化すれば、日本国民の多くは、阿諛追従するか反発を強めるか、いずれにしても心底から隣国に親愛を抱くことはむずかしくなろう」(『朝日新聞』五月十四日)として、いずれも意図的に問題を内政干渉論にすり替えている。
 問われている問題の本質、「日本軍国主義が犯した侵略の残虐行為を美化し、あれこれ逃れようとしている」、「すべてのアジアの被害国人民の感情を侮辱する」、「歴史的事実と人類の英知に対する挑発」(中国外務省談話)としての今回の歴史教科書問題の本質を一切問うことも省みることもなく、「一方的な修正要求」、「国内問題に対する外国からの干渉」、「国家の存立の基本にかかわる」などとして排他的なナショナリズムを鼓吹する、こうした態度からは偏狭な拝外主義が生まれても、国際的な協調と連帯、相互交流と信頼の精神は生まれないであろう。

☆「日本人再生の糸口」
 さてここまでは、いわば当然のこと、言わずもがなのことを述べてきたとも言えよう。問題提起したいことはここから先のことである。こうした動きは、ドイツやオーストリアにおけるネオナチの動き、歴史修正主義の胎動、ヨーロッパにおける外国人排斥運動などと共通の根を持っていること、等については、本誌前号「社会主義と全体主義論」でも指摘したところである。論を進めたいのは、マルクス主義、唯物史観との関係である。
 前出の西尾幹ニ・「つくる会」会長は「マルクス主義史観とは違うわれわれの考え方」と言い、坂本多加雄・同理事はマルクス主義に基づくこれまでの「日本近代史解釈」を「講座派の立場からする歴史の物語」として批判する。彼らはマルクス主義史観を十把一からげに階級闘争史観=「自虐史観」と決め付け、敵意を剥き出しにする。そこには真剣でまじめな論証もなければ、悪罵・中傷・冷笑はあっても対話の可能性など存在し得ない。このように論ずることこそが彼らの存在意義でもある。しかし彼らの動きが一部の言論やマスメディア、資本と結びつき、大々的なキャンペーンを展開し、一定の支持を獲得し、政治勢力としても無視し得ない段階に達し、自民党や右派政治勢力が彼らを取り込み、彼らに頼り、依存する事態にまで進展していると言えよう。
 こうした事態は、大きく言えば、ソ連崩壊と相前後する冷戦体制の崩壊に伴う事態の進展の反映でもある。冷戦体制の崩壊は、それぞれの体制を防御し、統制していた冷戦を維持する構造をも崩し始めた。それは急速な市場主義の拡大と貿易・経済の国際化、グローバリゼーション化として現出し、国境や体制の相違を突き崩し、公開せざる情報をも公開させ、非民主主義的な権威主義的政治体制はもちろんのこと、一見進歩的な開発主義的独裁主義的政治体制をも風前の灯と化させ、先進諸国においてもこれまで押さえつけられ、表面化していなかった矛盾や問題を噴出させることとなった。その典型の一つが強制連行や強制労働、従軍慰安婦問題に現れた戦後補償の問題である。冷戦体制下では解決済みの問題であったものが、民主主義と人権、国際的道義的規範に照らして未解決の問題として浮上してきたのである。過去に問題解決を図ることなく責任を回避し、封印してきた「ツケ」を払わなければならない段階に達したのであるが、一方では国家の統治能力がグローバル化とともに低下し、方向喪失状態に陥っている。
 こうした事態を危機意識と不安感でとらえ、坂本多加雄は「輪郭を失い人類や市民に拡散してしまった日本人のリアリティの再生の糸口」を皇国史観に見出し、自虐史観の克服に「日本」再発見を重ねる、その意味では単純に復古主義的なものではなく、グローバリゼーションに対応するものとして持ち出されていることに注意すべきであろう。

☆「マルクス主義的史観」の反省点
 冷戦崩壊後の社会、二一世紀は、それぞれの諸国が孤立しては存在しえず、相互に複雑に絡み合い、相互依存関係の中で社会が形成されている、ゴルバチョフがかつて述べたように「共同の家族」をお互いに構成しあっているともいえよう。そうした世界では、環境問題が諸国の一致した協力と解決への努力がなければ無に帰するのと同じように、一国の歴史といえども他の諸国との関係を無視しては成り立ち得ないし、侵略と植民地化を正当化するような自国本意の優越主義的歴史観は有害無益である。むしろそうした史観をどのように反省・克服するかということが、一国の内部だけではなく、国際的な共同の努力の中で形成、蓄積され、それらが諸国の共通の成果として獲得されなければならない段階に来ている。しかもそれらが国家的・専門家的レベルだけではなくて、市民的・社会的・民際的レベルでこそさらに広範に追求されない限り、実となり花となり得ない段階でもある。
 二〇世紀社会主義は、まさにこの点において本質的な欠陥を持っていたと言えるのではないだろうか。その国際主義は一国社会主義の中に埋没し、その民主主義は国家主義的権威主義と官僚主義の中に圧殺され、本来自由闊達に競い合うべき政党政治が一党独裁に合理化され、その党内民主主義さえピラミッド型組織体制の下に有名無実化し、党官僚が真理の決定権を独占し、市民社会の民主主義的発展を抑圧する国家権力が正当化され、「個」の民主主義と人権は「公」の利益と統制の下に従属させられ、市場経済の合理性と普遍性がその無政府性と暴力性のゆえに国家主義的統制経済の中に窒息させられ、結果として、「富国強兵」的軍事経済、冷戦体制の中でしか存続し得なかったという、深刻かつ苦渋に満ちた経験である。しかもその中には一貫して進歩主義的・生産力主義的史観が他に優越するものとして脈々として受け継がれてきた。その負の遺産は「包囲された社会主義」の名の下にすべて合理化されてきた。これらは筆者自身の深刻な反省でもある。
 ところが、自虐史観を口を極めてののしる自由主義史観の彼らは、彼らがもっとも忌み嫌う「共産主義者」の手法そのままに、国家主義的権威主義を追い求め、「公」の優先の名のもとに自由な批判を封じ込め、劣っているアジアを解放し、進歩し優越している日本の成果を分け与える「大東亜共栄圏」を当時としては西洋列強に包囲された中でのやむを得ざる選択であったと正当化する。滑稽な歴史の逆転でもある。しかし笑って済ませられる問題ではない。かれらはすでに「君が代」と「日の丸」ですでに国家主義的な権威主義にひざまずくことを強制し、民主主義的な選択可能性を排除している。今度は彼らの得手勝手な進歩主義史観に基づいた「誇りうる歴史」を唯一正当な歴史観として押し付けようとしている。これに対抗する側の思想性と政治性が問われているし、社会主義の本質としての民主主義の発展、成熟度が試され、再試練を受けているとも言えよう。 

 【出典】 アサート No.284 2001年7月21日

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【投稿】「多文化共生社会」の危機~「外国人選挙権法案」不成立が示すもの~

【投稿】「多文化共生社会」の危機~「外国人選挙権法案」不成立が示すもの~
 
 「人権の二一世紀」、多民族・多文化共生社会への、重要なステップとして期待された「永住外国人地方選挙権法案」は、先の通常国会で「継続審議」となり、またしてもその成立は遠のいた。
衆議院選挙終了後の一年前の段階では、自・公・保の与党三党のみならず、すべての政党が、付与条件の違い等はあるものの、こぞって選挙権法案について賛意を示しており、早い時機での成立は間違い無いものと思われていた。
しかし、昨年秋以降、法案成立が現実のものとなるにつれて、自民党内反対派が巻き返しを図ったため、与党内推進派の野中自民幹事長(当時)や公明党も一歩引いた形となり、途中「加藤政局」の混乱もあって、「年内成立」=「二十世紀中の決着」は困難となった。
さらに、年明け以降は、自民党に加え民主党内で反対派が結成され、独自の立場から法案に反対する朝鮮総連も、地方で社民党など「友誼勢力」への働きかけを強めた。
このように推進派の足並みが乱れる一方で、反対は勢いづき、あたかも「反選挙権法案多国籍軍」が結成された如き様相を呈したのであった。
これに対して、自治労、日教組などの労働組合と市民団体、さらに韓国民団などは、東京、大阪を中心に集会、署名活動などを進めたが力不足は否めず、当事者能力を喪失した森内閣のもとで、法案は実質たな晒しとなり、膠着状態が続いた。
それでも自民党総裁選挙、参議院選挙と言う政治情勢の「激変」が期待されていた中では、一縷の望みもあったのである。

<小泉内閣誕生でとどめ>
こうした状況に決着をつけたのが、小泉政権の成立である。圧倒的な支持率を誇る小泉首相の前では「外国人選挙権問題」が懸案であるという事実さえ、「改革、改革」の大音声と異常な熱気にかき消されてしまい、「継続審議」であるにもかかわらず、参議院選挙では争点にもならなかった。与党の公明党も、野党の民主党もそれどころではなくなったと言うのが実態だろう。
さらに今回の不成立は過去の場合とは違い、背景に「新しい歴史教科書」の検定合格など民族排外主義が勢いを強めている状況がある。
 その意味で問題は「外国人選挙権法案」にとどまらず、日本社会がきわめて深刻な方向へと進んでいることにある、と言わざるを得ない。
このような動きに拍車を掛けようとしているのが「小泉改革」による「痛み」である。 小泉内閣は、不良債権処理を軸とする構造改革の推進によって、相当の痛みが発生すると公言している。
とりわけ、雇用面においては、政府の見込みで五十四万人、民間の想定では最大百三十万人の失職者が発生すると予測されている。景気が後退局面に入った現在、政府の推定は甘すぎると批判されており、新たな雇用創出も「画餅」という中では、最終失業者数は百万を超えるとさえ言われている。

<「排外主義」に警戒を>
このような「痛み」「不安」がその矛先を向けるのは、マイノリティー、とりわけ外国人であることは、過去の欧米の実態を見れば明らかである。
すでに、インターネット上では「外国人を追い出して痛みの緩和を!」などという主張が目立ち始めている。また先日、富山ではコーランが破り捨てられると言う事件が発生した。さらに外国人排斥を公言してはばからない都知事が、相変わらず高い支持を得ている。
こうした事態を放置するなら、やがては外国人排斥を唱える政治勢力の伸張、さらには在日外国人の生命、財産を直接脅かす事態になることが懸念される。
現在、差し迫る雇用不安に対しては、セーフティネットの整備が唱えられている。しかし「人権のセーフティーネット」こそ、早急に整備すべきものではないだろうか。
 「痛み」を強いるものに向かって、主権者として「N0」を唱えることができる選挙権こそ、本来その最たるものであったはずだ。しかし、それが実現していない状況である以上、早急に外国人の人権擁護について、具体的検討を進めるのが政治の責任である。
だが小泉首相は、靖国神社公式参拝問題や教科書問題解決の事実上の放置、などの後ろ向きの対応で危険な風潮をとどめるどころか、逆に追い風を送っている。
 以上のような状況では、外国人選挙権の確立はもちろん、多文化共生社会への歩みは、厳しい逆風にさらされ、しばらくの間は守勢を余儀なくされるだろう。
しかしながら、多民族・多文化共生社会実現への取り組みを弱めることはできない。民族的少数者に「他文化強制社会」に住むことを、強いるわけにはいかないのである。
そのためには、今一度、外国人選挙権法案の意義である「内なる国際化」「地方分権の推進」「戦後処理」などを確認し、それら一つひとつの地道な活動を継続していくことがもとめられている。(大阪O) 

 【出典】 アサート No.284 2001年7月21日

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【書籍紹介】山口二郎著 「日本政治 再生の条件」

【書籍紹介】山口二郎著 「日本政治 再生の条件」
               (岩波新書 2001年6月発行 700円+税) 

 参議院選挙を前にして、90年代の連立政権発足前後、政治改革を積極的に論じてきた筆者が、現在の日本の政治の現状と改革の方向について政治家・新聞社論説委員、大学教授・県知事などのインタビューを通じて明らかにしようとしたのがこの本である。
 「・・森政権のもとで、政治に対する不満は頂点に達した。まずいものを食べさせられたあとは、ただの水でさえおいしいと思える。・・自民党政治を否定することで自民党総裁に選ばれた小泉氏は・・自民党政治を否定する具体的な実績を上げなければ、国民に否定されてしまう。」と小泉政権の性格を規定した上で、「・・いったい自民党政治の何が問題なのか・・いまこそメディアも学問も、現実政治に対する批判能力を回復しなければならない。その意味でこの本は日本政治の現状に対する冷静な危機感を読者に持ってもらうことを目指している」と筆者は前書きで問題意識を明らかにしている。
 そこで、インタビューに登場するのは、第一章「危機の政党政治」では、自民党からは、森政権時代に「明日の自民党を創る会」を作った、現行政改革大臣の石原伸晃衆議院議員、野党民主党からは、若手の政策通と言われる枝野幸男衆議院議員、薬師寺克行・朝日新聞論説委員、第二章の「経済危機と政治空白」では、谷垣禎一・元金融再生委員長、金子勝・慶応大学教授、第三章「市民政治への展望」では、北川三重県知事、辻元清美衆議院議員、といった顔ぶれである。
 紙面の都合で、それぞれの特徴的な紹介をすることができないが、全体を通じて自民党政治の限界と格闘する問題意識は明らかになっている。それは、戦後長く続いた右肩上がり経済が終焉した今、旧来の癒着の「ばらまき行政」を突き崩し、如何に市民・国民の政治への意識変革と積極的参加を促すのか、という点に集約することができる。
 一方、民主党に対しては、自民党とは違う意味で筆者の評価は厳しい。「『非自民』という茫獏とした共通項しかないというところに、民主党の低迷がある。自民党の内側から、小泉と言う非自民を行動で体現する政治家が出現したとき、民主党は存在理由を失ってしまった。」と。「いまどき、自由、民主主義、地方分権、環境重視、民間活力などは誰でも唱える言葉である。そうした理念を実現するにあたって、程度の差を論じることが政治の役割である。・・・小泉政権の構造改革がスローガンにとどまって、具体性を欠くならば、野党にとって機会は広がる。族議員が跳梁跋扈する自民党には決してできないような資源配分のプランを示すことで、野党は自民党との差異を訴えることができるはずである」と。
 小泉首相人気に押されがちな今日この頃、日本政治の再生の条件をじっくり議論しておくことが必要であり、問題提起の書と言えるだろう。(H) 

 【出典】 アサート No.284 2001年7月21日

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【投稿】小泉改革の危うさ、モロさ

【投稿】小泉改革の危うさ、モロさ

<<「塩爺ブーム」>>
 小泉首相の支持率はいまだ上昇中である。首相就任直後、「あとは落ちるだけ」と自ら認識していたものが、逆に上昇、朝日では78%から84%へ、NHK調査では、+4%で85%(6/11発表)、日経調査でも+5%で85%に達した(6/12)。同時に自民党の支持率も上昇、日経調査では実に48%である。自らが支えていた森政権時代、つい数ヶ月前までは自民党の支持率は一桁台でしかなかったのである。
 その意味では、ハンセン病訴訟の控訴断念は、支持率上昇か下降かの分岐点であったといえよう。官僚の控訴方針を追認しておれば、厚相を3回も歴任した小泉首相自身が怠慢の責任を負うべき重要人物として追及され、小泉人気に大きな陰りができ、その支持率も暴落しかねないものであった。控訴断念は、支持率をいっそう高めることに寄与した。「小泉で政治が変わった証拠」として主張できる。しかし、その後の水俣病関西訴訟、在外被爆者訴訟ではいずれも画期的な判決によって国の責任が厳しく問われ、敗訴しながら、高齢の患者や被爆者の願いを無視して無慈悲な控訴を選択している。公明党との連立関係や人権感覚を天秤にかけた政治的決断と、こうした問題に機敏に対応できない、人権や庶民の感覚に鈍感な野党の対応が、小泉内閣の高支持率を支えているともいえよう。
 しかしながら、期待度が高ければ高いほど、この高支持率、いかにもあぶなかしいものである。マスコミやあらゆるメディアが小泉ブームを演出し、自民党本部前に一枚50円の小泉ポスターに女子高生が並び、とぼけて事態をごまかす塩川財務相までが「塩爺ブーム」などとアイドル扱いで、いかにも浮ついている。

<<“改革抵抗勢力”>>
 自民党はここぞとばかりに、図に乗って、参院選選挙区で次々と「複数候補擁立」に動き出し、静岡(改選数2)、群馬(改選数2)に続き、新潟、福島、栃木、福岡などでもあわよくばと、自民党の圧勝を狙っている。森政権時代は、複数候補など論外、共倒れ回避で危機感をあおっていたものが、森から小泉に看板を掛け替えただけでこの事態である。7月の参院選は、「よほどの失敗がない限り、自民党だけで55議席、公明・保守党を加えて過半数の64議席を獲得するのはほぼ確実」とまでいわれている。森内閣であれば、自民党は30議席を獲得するのがやっとと見られていたのだから、笑いが止まらないといえよう。
 その前に東京都議選が行われており、本誌が発行される頃にはすでに結果も出ている。自民党の現有議席は48であるが、森政権下なら30議席台といわれ、自民党離党・石原新党結成を息巻いていた連中が一変、小泉ブームに便乗したツーショット写真を売り込み、今回は55人の公認候補を立てている。日経調査では「投票に行く」が90%に達し、小泉内閣発足後の最初の大型選挙として注目されるところである。
 さらに自民党は小泉人気を当て込んで、参院比例区候補者に芸能人やプロレスの大仁田厚らスポーツ選手をズラリと並べるタレント作戦を立て、大量票をかっさらう作戦である。
 自民党自身が大きく激変しているかに見えるが、表面上だけである。現在の参院選自民候補71人のうち21人が橋本派であり、青木参院幹事長は「参院改革は首相に言われてするものではなく、参院自ら行う」として、「派閥離脱」など始めから無視している。しかもタレント以外の比例区候補の多くが官僚上がりで、彼らは関係業界団体や天下り特殊法人、現職官僚らと組んだ、小泉言うところの“改革抵抗勢力”である。小泉ブームは彼らを超え太らせ、強化させるのである。

<<「思い込みじゃねえ!」>>
 小泉首相と竹中経済財政相がリードする経済財政諮問会議が、“骨太の方針”で、道路特定財源の見直し、公共事業費の削減、地方交付税の大幅削減、特殊法人の民営化を打ち出すや、すぐさま自民党の政策決定機関・総務会は、「諮問会議は党と何の調整もしていない。議院内閣制を理解してないんじゃないか」「基本方針案が公表される前に新聞に載ったのは世論誘導だ」として反対の大合唱、自民党執行部と内閣との対立が鮮明化しだしている。麻生・自民党政調会長は「参院選前に議論することはない」と明言し、完全な棚上げ姿勢である。
 とりわけ、道路特定財源の見直しには、橋本派を中心とした「建設族」「道路族」が猛反対し、鈴木宗男・同派事務総長代理は「道路がもう十分なら減税すべし」と一般財源化に反対、野中元幹事長も遊説先で「都市と地方部の対立はよくない」と事実上地方の反対・反乱を促す行動に出ている。5/25、東京・砂防会館で開かれた「道路整備促進期成同盟会全国協議会」には全国から2000人の市町村長が集まり、特定財源見直しに反対の決議が採択され、多数の自民党族議員も参加し、国土交通省幹部や、道路公団総裁も出席、扇国土交通相まで駆けつけ、壇上で“必要なところに早期に集中的な投資をしたい”と演説する始末である。さらに6/7の全国市長会議総会では、「誤解や思い込みで地方から反発やら抵抗が起きている」とあいさつする小泉首相に、「思い込みじゃねえ!」と鋭いヤジが飛ぶ事態である。
 実際に、国会審議で律儀に「小泉首相の政策に協力する」とエールを送っているのは民主党の議員ばかりであり、自民党の議員は冷ややかに見つめているだけである。
 すでにこうした事態に、手打ちが行われている。6/2に行われた小泉首相、森前首相、青木参院幹事長の3者会談で、「改革の具体策は参院選後にする」ということである。つまり、自民党は選挙戦で小泉ブームと改革のイメージだけで圧勝を狙う作戦である。

<<「らいおんはーと」>>
 この作戦に一役買っているのが、小泉内閣メールマガジンである。このメルマガの登録者が14日18時に100万人を突破したという。登録者はどんどん増えている。これも異常な人気である。いかにこれまでの歴代政権が情報公開に否定的で、秘密主義と隠蔽体質に犯されていたかと言うことの反動でもあろう。期待するのも当然であろう。しかしその内容たるやお粗末の一言である。もちろん小泉首相自らの声がメールとして届くというのが狙いであり、確かに官邸に親近感を抱かさせるにはそれなりの意義があろう。しかし「らいおんはーと」と銘打った「小泉総理のメッセージ」第一声は、「24時間公人」である。「24時間かごの鳥」、「24時間、精一杯のことをやっていきます」それだけである。引っかかれば、「危機管理の面からもそれが大切」という、何やらきな臭さが感じられはする。旗幟鮮明な改革への熱意もメッセージもない。
 「大臣のほんねとーく」は、扇国土交通大臣のあほらしい自慢話と塩川財務大臣のおべんちゃらに満ちた小泉秘話、期待するのが間違い、と言えばそれまでの内容である。塩川氏が「小泉内閣の誕生は、1979年英国でのサッチャー首相出現と酷似した政治ドラマだと思っています」にはあきれる。労働党のブレア政権がつい先ごろ圧勝したばかりである。サーッチャー路線はすでに乗り越えられてしまったのである。小泉氏はブレアにこそ擬せられたかったであろう。その程度の政治感覚である。
 しかしそれでもこのメルマガ、官邸との一体感をかもし出すとすれば危うい手段になりかねない。「憲法改正」「靖国神社参拝」「集団的自衛権の行使」など、右派的な問題発言が異常で熱狂的な支持率の前で、それが問題視もされず、批判的意見を全く無視し、敵視するとすれば、危険極まりないと言えよう。つい2年前まで小泉氏は、憲法改正について「まだ機は熟していない」「日本には軍隊は国民に被害をもたらしたという感情が強く残っている」「国連軍への自衛隊参加は憲法改正につながるから、様子をじっくり見た方がいい」と消極的だったのである。ところがトップに立つや「(憲法9条は)将来改正すべきだ。自衛隊は軍隊でないという部分は不自然。いざという場合に命を捨てる自衛隊にだれもが敬意を持つような憲法を持った方がいい」(自民党総裁就任会見での発言)とエスカレートし、“靖国参拝がなぜ悪いんだ”“海外に批判される筋合いはない”などと言いだす。本質的に軽佻浮薄なのであろうか、ところがこのストレートな言い方が共感を受け、本人自身が危険な方向に流れだす、タカ派勢力が大喜びする所以でもある。

<<「小泉改革は売り」>>
 6/11、内閣府が発表した1―3月期のGDP(国内総生産)は、前期比で0.2%減、年率換算0.8%減のマイナスとなった。これで2000年度の名目GDPは前年比0.6%マイナスで、現行の基準で統計を取り始めた1981年以来、初の3年連続のマイナス成長である。原因は民間設備投資がマイナスに転じ、個人消費は4月の1世帯当たりの消費支出が前年同月比で4.6%もの減(総務省統計)となり、庶民の買い控え・需要減が明確である。株価も、小泉内閣発足直後の5/7には年初来高値の1万4529円をつけたが、その後は下げ一方、6/5以降は1万3000円を割り込み、今や1万2000円台である。小泉政権発足後、わずか1カ月半で東証1部の時価総額は約50兆円が消失した計算である。
 ところが小泉政権が掲げている政策はさらに景気を冷え込ませるデフレ政策である。国債発行30兆円枠を守り、財政出動を削減し、銀行に不良債権の直接償却を迫る、これによってさらに景気は悪化し、倒産は激増し、失業率は増大する、当然、マーケットは「小泉改革は売り」と判断しているのである。それでもプラスに転じる展望を示し得れば、事態は異なってこよう。しかしその肝心な政策を示し得ない。すでに来年度の税収不足は33兆円が見込まれ、国債発行枠さえ守れそうにもない。歴代政権のツケ回しとはいえ、不良債権もデフレ政策下では破綻先債権をよりいっそう拡大させ、増大させる。竹中経済財政相への依存は、ただ市場主義の名の下に、事態の進行を成り行きに任せ、放置しようとしているだけである。そこに、この政権の“モロさ”と“自己矛盾”があり、それを回避しようとする危険な方向への危うさが並存している。
 小泉首相の登場に世間は期待し、野党まで含めて異常なほどの支持を寄せているが、事態はそう甘くはないといえよう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.283 2001年6月23日

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【投稿】小泉改革と地方自治~市町村合併を中心に~ 

【投稿】小泉改革と地方自治~市町村合併を中心に~ 
 
 小泉改革の目玉である「今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する方針」いわゆる「骨太の方針」の素案が、さる6月11日の経済財政諮問会議において示された。すでにマスコミ等において報道されているように、不良債権処理や首相公選制など様々な構造改革に向けた大胆な施策が打ち出されており、その実現が小泉内閣の成否に関わるものであるとして、大きな議論を巻き起こしている。
 本稿では、この「骨太の方針」が、今後の市町村合併をはじめとした地方行政の議論にも大きく影響を与えるものとして、とりわけ地方自治に関わる部分でのいくつかの論点について、考えてみたい。

<自立=市町村再編?>
 素案では、6章あるうちの一つの章をさいて、「個性ある地方の競争-自立した国・地方関係の確立」と題して、地方行政の方針を謳っている。
 まず、「地方の潜在力」を発揮させるべきだとして、「均衡ある発展」重視から「個性ある地域の発展」「地域間の競争による活性化」重視へと基本理念を転換することが求められるとしている。その下で、「自助と自律の精神」に基づいて、自治体が自らの判断と財源で行政サービスや地域づくりに取り組める仕組みへの是正が必要であるとしている。
 このこと自身は、何年も前から、地方分権を議論する大前提として指摘されてきたことであり、全く目新しさがないものであることは言うまでもない。
 その上で、「自立し得る自治体」を確立するために、市町村合併を強力に推進し、目途を立てすみやかな市町村の再編を促すべきだと、唐突に言い出すのである。
 確かに、地方分権や少子高齢化、介護保険、環境問題、IT革命など、地方行政を巡る課題が山積している中で、ほとんど地方交付税頼みの財政体質で、自治体の体をなしていない町村が数多く存在しているのは事実である。住民サービスを維持・充実させ、将来の展望あるまちづくりを進めていく上で、市町村合併は避けて通れない課題ではある。

<「自主的な」は何処へ?>
 しかしながら、これまでの国のスタンスは、あくまでも「自主的な」市町村合併の推進であったはずである。地方交付税や地方債などの優遇措置を定めた合併特例法の期限が、2005年3月に迫る中、一向に飛躍的な成果が挙がらない状況において、国のホンネとして強力に推し進めたいとは言え、地方分権の趣旨は尊重せざるを得ず、ある意味で自治体に気遣い、「自主的な」の4文字ははずせなかったのである。国の公式文書として初めて1000自治体という目標値を掲げた、昨年12月の行政改革大綱ですら、「自主的な」という文言は抜くことはできなかったのである。
 これらの経過を一気に飛ばして、「強力に」「すみやかに」市町村再編を進めるなどと謳うこと自体が、素案の言うところの自助・自律、自立した国・地方などの理念と相容れるものではないことは明白である。
 そのようなはき違えた理念に基づくならば、後段の「地方財政の抜本的改革」の中で、国庫補助負担金の整理合理化や地方交付税の見直し、地方税の充実確保をいくら謳ったところで、合併特例法のアメでは足らず、いよいよムチが登場してきたのだと、うがった見方をせざるを得ないのである。

<本来の自治体改革>
 では、本来の地方自治の構造改革とは何か。それは、国から言われるまでもなく、まずもって自らが自治体改革を進めていくということに他ならない。すなわち、公共事業はもちろん、あらゆる施策・事業に対して徹底した自己評価を行い、それらを住民に広く開示し、説明責任を果たす中で、真にあるべきまちの将来像を住民との協働により打ち立てていくことである。その結果として、市町村合併というのも大きな選択肢の一つになっていくのである。
 そのようなこともできず、また、課税自主権も制度的には十分保障されている中で、その一歩を踏み出せないでいるのは、ある意味で、利権にまみれ、がんじがらめになっている自治体側のサボタージュであると言っても過言ではない。国に付け入るスキを与えてしまっているのである。(なお、景気対策や雇用対策の名の下で、否応なしに国の愚策を押しつけられ、体制としても財政的にも、自治体が疲弊しきっていることは、十分に理解されなければならない。)
 もちろん、国:地方の仕事が3:7であるにも関わらず、税源が7:3になっている制度的な欠陥を是正していくことは急務である。ただし、そのことは、昨今喧伝されている「都市対地方」という論理のスリカエに、議論を陥らせてはならない。小規模の自治体においては、いくら所得税や消費税の配分を見直したところで、税収が上がることなど考えられない。住民の生活・生命がかかっている中では、地方交付税の調整機能は維持せざるを得ないのである。その意味で、素案が地方交付税の「見直し」というレベルに止まるとともに、「規模に応じた市町村の責任」を言わざるを得なかったことは、当然のこととは言え、理にかなった落とし所であると言えよう。

<市町村連合型の政令指定都市へ>
 では、大都市部においては、どのような自治体改革の議論が求められているのか。一定の行政水準を有し、ある程度の税収が確保されている大都市圏の自治体においては、国・地方の税源配分の制度的な見直しはもとより、説得と納得に基づく自主課税の議論を推し進めるべきである。
 さらには、中核市や特例市などという中途半端な権限委譲ではなく、府県の顔色を気にすることなく、あらゆる施策や事業、事務を自らの判断で行いうるという点で、現行制度における最大の権限を有する最良の形態=政令指定都市をめざすべきである。例えば、大阪においては、堺市が府内2番目の政令指定都市を市町村合併により実現させようとしているが、他地域においても、そういった議論をもっと活性化するべきである。一定の規模の中で一定の自立をそれぞれの自治体が確率している大都市部では、国に尻を叩かれて中途半端な規模で合併して、疲労と混乱を招くくらいであれば、区役所行政として旧市町村の枠組みや一体性を残し得る政令指定都市の方が、むしろスムーズに議論が進むのではないだろうか。言い換えれば、広域行政の一つの形態として、市町村連合としての政令指定都市をめざし、強力な自治体をつくっていくべきなのである。

 折しも、地方分権推進委員会が最終報告を提出したところである。分権論議の中で先送りにされていた税財源問題に一定の回答を示したものであり、まずもってこれらの提言を実行に移すべきである。そのような足腰の議論を抜きに、行政体の存廃に関わる議論を情緒的に優先させるべきではない。
 小泉首相の地方自治への理解・見識は、如何ほどのものかは分からない。ただ一つ言えるのは、市町村合併というものは、中央政府のリーダーシップによって進むものではないということである。決して忘れてはならないのは、地方政府には「大統領制」に基づいて住民から直接選ばれた3200余のリーダーがいるということであり、自らの任命権に担保された中央省庁や官僚に対するのと同様に、軽々しく「再編」などと言うこと自体、おこがましいのである。 (大阪 江川 明) 

 【出典】 アサート No.283 2001年6月23日

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【コラム】 ひとりごと

【コラム】 ひとりごと

○小泉人気はすさまじいものがある。この点については、本号の生駒さんの投稿でも述べられている。確かに、森政権の時には考えられない「改革」政策を掲げている。小泉政権が長続きするかどうかわからないが、小泉人気のある内に少しでも、旧来の自民党政治の様々な政権維持システムの「破壊」が進めば、一面しめたものだと言う気がするのは、私だけだろうか。○道路特定財源の問題、さらに特殊法人の整理、公共事業の合理的削減など。小泉首相が政権を維持しようとすればするほど、自民党内に強力な基盤がないだけに、「国民的支持」を維持しなければならない。「永田町の変人」というコピーは、旧来の自民党政治に飽き飽きしている国民に直接訴えるメッセージだし、改革実現には国民の「ちから」を私(小泉)に、というのも、直接国民・有権者に訴えるメッセージだ。○そういう意味で、人気があるだけに、今後、有権者の監視も一層厳しくなってくるだろう。他方、少々不甲斐ないのが民主党ということになる。明らかに小泉の「改革」は、ほぼ7割位は、鳩山民主党の政策だ。無駄な公共事業の縮減しかりだ。おかぶを取られた感じは否めない。さらに、「指導者」としての党首イメージも、残念ながら、鳩山と小泉では、「庶民性」や「大胆さ」という意味でも、小泉の勝ち、ということだろう。○しかし、共通点もある。小泉につづく「改革イメージ」の自民党次期リーダーは存在しない。一方、民主党も、菅、鳩山に続く3番目のリーダーは、今のところ見当たらない。菅は国民的人気は一定あるにしても、議員の中では既に過去の人となっており、再登板はあり得ないらしい。民主党の今後については、機会を改めて論じてみたいが、都議選・参議院選挙の結果、そして小泉政権をめぐる様々な暗闘の中から、新たな政界再編の可能性も否定できない。○細川政権が圧倒的な国民的支持を受けながら、急速にしぼんだことは記憶に新しい。小泉首相がんばれ、という国民の声の裏側にある政治への「期待と不信」が、流れを決定することには変りはない。(H)

 【出典】 アサート No.283 2001年6月23日

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【投稿】小泉内閣の危険性

【投稿】小泉内閣の危険性

<<史上空前の内閣支持率>>
 前号の筆者の「自民党政権崩壊への序曲」は、野党がもたもたし、危機に瀕する自民党の内部抗争を対岸の火事視し、傍観している間に、小泉新総裁の実現によって「自民党再生への序曲」と激変してしまった。今や小泉内閣の支持率は、朝日78%、読売87%、毎日85%、日経80%、共同通信86%、等々いずれも史上空前の支持率である。テレビ局調査では91%を記録(TBS)し、小泉首相や田中外相に対する野党の当然の正当な質問までが抗議や嫌がらせの対象となる異常な事態が現出している。
 これは、橋本―小渕―森と続いてきた歴代3代の政権、とりわけ最後の自公保連立・森政権の醜態にホトホトあきれはて、繰り返される腐敗・汚職への怒り、既得権益にしがみつき、利益誘導に汲々として、放漫財政をさらに拡大しようとする自公保政治への不信がついに限界点に達していた反動の表れともいえよう。これが自民党多数派の思惑や統制を大きく乗り越え、派閥政治との全面対決を唱え、「自公保にこだわらず、野党でも政策の一致があれば協力を得る」とした政治姿勢が党派を超えた支持を獲得し、「小泉支持」となって一挙に噴出したのである。自民党内部の危機感を、より広大な政治的危機感へと広げ、自民党の枠を超えた小泉支持へと収斂させたのである。しかしこれはいかにもあぶなかしいものである。

<<衆参同時選挙の可能性>>
 事態の激変は、「大惨敗→与党3党で過半数割れ確実」といわれた参院選の様相をも変えようとしている。貧乏神と揶揄された元首相と心中の運命だった橋本派候補の多くは小泉人気で俄然当選ラインに浮上、小泉人気に便乗、内心ウハウハ・楽勝ムードに浸り、小泉に擦り寄っている。党内は、「守りから攻めに転じよ」、「小泉と田中真紀子の投入で都市部もいける」、“1選挙区1候補”の方針から「複数選挙区の追加公認を出せ」「比例区ももっと増やせる」と押せ押せムードである。「衆参ダブル選なら衆院では300議席も可能」などとはじき、衆参同時選挙の現実的可能性まで取り沙汰されている。
 6月都議選で惨敗を覚悟し、“予備選の結果を無視して橋本龍太郎が新総裁に就任するようなら、公認返上や集団離党を決断する”と息巻いていた自民党系都議たちは、たちまち変身、5/2には都議団の強い要望で、候補者と小泉首相のポスター用ツーショット写真の撮影が行われている。
 しかし事態は彼らが期待するほど単純ではない。朝日5/17付朝刊の「世論モニター調査」(今月5~7日実施)結果は、「小泉支持の有権者が、そのまま選挙で自民党を支持するとは限らない」ことが明確に示されている。5カ月前の同じ調査で、森内閣を「支持しない」と答えた人の78%が小泉支持に転換。小泉支持の回答者を支持政党別に見ても、41.5%が無党派層。ところが、無党派層全体で「参院選で議席が増えてほしい政党」に自民党を挙げたのはたった8%にしかすぎない。森不支持から小泉支持に転換した層では、22%が自民党に「議席が減ってほしい」と回答しているのである。そして無党派層の73%が小泉支持でありながら、自民中心政権が良いとするのが22%に対して、民主中心の政権がよいとするのが30%と逆転している。

<<「大胆」「斬新」の装い>>
 5/7の小泉首相の所信表明演説では、小泉カラーを意識したキャッチフレーズが次々と繰り出された。「構造改革なくして景気回復なし」「国債発行を30兆円以下に抑制」に始まり、「新世紀維新」「恐れず、ひるまず、とらわれず」、さらには「閣僚が出席するタウンミーティングの実施」、次いで「小泉内閣メールマガジンの発刊」など、など。
 しかしこの所信表明演説から、予算委員会での答弁を見ると、総裁選に打って出たときの公約から明らかに“後退”している。総裁選で多用した“増税なき財政再建”の文言は完全に消え、“新規国債発行の30兆円以下への抑制”も、公約から努力目標に格下げ、「聖域なき構造改革」も「総理ならできることもある」と希望的観測の表明にとどまり、諫早湾干拓・川辺川ダム建設についても事業推進候補者の差し替えや工事中止を拒否、「そうした候補も最終的に党の意見に従えば問題ない」と放置する姿勢である。
 一見「大胆」「斬新」に見える装いを凝らし、新たなキャッチフレーズを連発しているが、一皮むくと、ろくな役割も責任も果たしてこなかった森内閣の閣僚を七人も再任し、問題の郵政利権にかじりつき支配してきた橋本派の片山総務相を再任させ、派閥人事丸出しで新たに二人の森派幹部を入閣させ(塩川、尾身)、民間人起用の目玉、竹中慶大教授も森内閣の経済戦略会議メンバーを引き上げただけ、連立政権の枠組みも有り方もそっくり引き継いでいるともいえよう。派閥隠しにタレント性で人気の高い田中真紀子・外務大臣を据え、小泉・真紀子人気で七月の参院選をしのぐといったところであろう。

<<「われわれのサイドの首相」>>
 しかしこの脱派閥を宣言した小泉氏を支えているのは、中曽根康弘・元首相、森喜朗・前首相、最大派閥・橋本派を牛耳る青木幹雄・参院幹事長の3人であり、事実上、3大派閥を基盤にしているともいえよう。それは、総裁選の最中に森氏が中曽根氏と会談し、江藤・亀井派が本選で小泉支持にまわるという秘密合意を交わし、その中曽根氏と小泉氏が終盤に会談・合意したことに象徴的である。橋本派についても、青木幹雄参院幹事長が野中氏との確執から「裏提携」を探り、同派の竹山裕参院議員会長とともに留任、自民党5役のうち2人は依然として橋本派が占めている。
 問題はこの小泉内閣の性格を決定付ける中曽根氏の露骨な発言である。「日本の内閣には吉田、池田、佐藤などの経済中心内閣と鳩山、岸、中曽根内閣など日本の民族性や統治権を中心に考えた内閣の二系統があるが、小泉君はわれわれのサイドの首相になり得るし、なってもらいたい」とあけすけに語っている(5/15都内講演)。さらに「憲法改正、首相公選、靖国神社の参拝、集団的自衛権の行使は私が言ってきたことだから、やってもらおうという気持ちがある」と具体的な政策指針まで明瞭に提起している。
 そして事実上、小泉氏は経済政策ではどんどん不明瞭となってきているが、中曽根氏の言う民族性や統治権についてはきわめて頑固で、復古調の危険な政策に固執し、「改革」の衣の下に古くて危険な鎧を身に着け、こわばっているのである。それがあの面相や態度にも表れているともいえよう。

<<新たな“小泉包囲網”>>
 もちろん、事態はそう単純ではない。自民党内に確固とした基盤を持たない小泉氏は、常に世論の動向や他党の動向を自己に有利なように取り込まなければ政策遂行がおぼつかないことも事実である。それは弱さでもあるが、強さでもある。だからこそメーデー会場にわざわざ乗り込み、「政権交代があったのとおなじようなものだ」と訴え、拍手喝さいの中、労組幹部のお株を奪って支持を取り付けようとする。中曽根氏をも含めて自民党内の多くの派閥領袖が不安がる点もそこにあるといえよう。いつ野党と手を組むかもしれないという不安もその一つであろう。
 そこで、水面下ではすでに新たな“小泉包囲網”づくりが始まっているという。利用され裏切られた亀井前政調会長は、「小泉は絶対に許せない」と気炎をあげ、野中氏や前幹事長の古賀、河野、高村という連合軍形成を画策し、国会議員票の圧倒的優位の確保を目指して惷動、参院選後の9月総裁選に焦点を合わせている。それまでは、小泉に好きにやらせて、せいぜい参院選で負けを最小限に食い止め、自公保連立を維持してもらわなければならない、というわけである。参院選そのものについても、現在の候補者の多くは橋本派が中心になって決めた利益団体の代表者である。比例代表候補者を総入れ替えでもしない限りは、小泉首相の唱える構造改革と逆行する候補者でもある。だが、ダーティな裏取引に常に顔を出し、疑惑を持たれている亀井氏とてひやひやものであろう。

<<民主党の競い合い>>
 5/9の代表質問で民主党の鳩山代表は、「私たち民主党が党是としてき主張してきた日本の構造改革に、あなた(小泉総理)が嘘偽りなく取組むというのであれば、あなたの内閣と真摯に議論を重ねていき、改革のスピードを競い合うのは、やぶさかではありません」とエールを送り、小泉首相は検討することを強調してこれに応えた。代表質問で民主党が提案したのは、
・国債発行額30兆円以下に制限する法案の作成
・財政投融資制度の大改革
・外交機密費の補正予算による減額修正
・官僚の天下り禁止法
などであるが、すべて小泉首相が唱える改革にあわせたものである。現実はこの程度でも次から次へと後退を重ねている。小泉首相と田中外相の答弁がその典型である。その後退に民主党が付き合っていく限り、民主党は、自民党の付属物と化し、一切の展望が開けないであろう。
 しかしこの民主党の姿勢にはもう一つ決定的な問題があるといえよう。それはこの時期、教科書問題・靖国神社参拝問題を始めアジア近隣諸国との険悪な緊張関係を打開し、日本が平和外交の方向性を明確に打ち出すべきときに、小泉内閣はきわめて危険なウルトラ右翼ともいえる逆行政策を打ち出し、強行しようとしていることに対して、何ら対案を示し得ず、改憲問題や集団自衛権問題では同調さえしていることである。民主党はこの点で政策転換を明確にしない限り、参院選では決定的ともいえる敗北に直面するのではないだろうか。(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.282 2001年5月26日

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【投稿】米中緊張激化と李前総統訪日

【投稿】米中緊張激化と李前総統訪日

<その場しのぎの日本政府>
4月1日アメリカの電子偵察機が中国軍戦闘機と空中接触、海南島に緊急着陸した問題の余熱がさめないなか、台湾の李登輝前総統が来日した。
明確な対台湾方針を持たない日本政府、外務省は当初、ビザ申請はされない、されても取り下げられるものと高をくくっていたが、李氏側の決意の強さに、慌てふためき右往左往する結果となった。
結局ビザ発給は、政策の変更ではなくて、自民党内の力関係の変化によって許可された。
一方李氏の訪日反対論についても、中国政府の主張に配慮するものばかりで、日本の主体的判断はいかにあるべきかについては示されなかった。
 このような状況では、人道上の問題として正面から押してくる李氏側に抗すべくもなかったのである。李氏の病気治療のための訪日が問題だとするなら、フジモリ前ペルー大統領の滞日を認めていることの方がよほど問題だろう。
中国側は対抗措置として、李鵬首相の訪日延期などを打ち出したが、日本の今回の対応は彌縫策であることと、直後に内閣が交代し「親中派」の田中外相が「今後ビザ発給はしない」と表明したこともあり、教科書問題、首相の靖国参拝問題を抱えるものの、日中関係はひとまず落ち着きを取り戻したと観てよい。

<大きく踏み込んだブッシュ政権>
一方米中関係については、偵察機の乗員の引き渡しは交渉は粛々と進んだものの、事件の背景にはブッシュ政権の抜本的とも言える対中政策の見直しが存在するため、当分の間は緊張関係が続くだろう。
前クリントン政権は、中国を「戦略的パートナー」と位置づけ、「人権問題」への言及をおこなう一方で、IMF加盟問題や最恵国待遇で最大限の便宜を図ってきた。しかしブッシュ政権は中国を「戦略的競争相手」と見なすしたうえで、台湾についてはイージス艦の売却は見送られたが、8千トン級駆逐艦などの売却を決定したうえ、陳水扁総統の入国を許可するなど、日本とは比べものにならないほどの肩入れを進めている。
 この様なアメリカ政府の対応をみれば、アジア地域におけるアメリカの戦略的関心が朝鮮半島から、台湾~南シナ海方面へ移行したことが明らかとなっている。ブッシュ政権は、クリントン政権があやふやな対応をしている間に、中国が東南アジア地域への影響力と軍事能力を拡大していったと、苦々しく思っている。
 ベトナムとの領有権が問題となっているパラセル(西沙)諸島については、中越戦争時には地上戦で苦杯をなめた中国軍も制空権、制海権は容易に確保するだろう。
また、フィリピンとの間にあるプラタス(東沙)諸島については、中国が拠点を構築するなど実効支配を既成事実化している。対するフィリピンは政情が不安定であり、国軍も国防より内政に関心が高く、海、空軍力はあまりに貧弱である。
 ベトナム戦争後の冷戦時代は米、ソの軍事的プレゼンスで相対的な安定を保っていたこの地域には、NATO型の軍事同盟や地域安定システムが存在しないことから、冷戦崩壊でカムラン湾からソ連軍が消え、スービックからアメリカ軍が消えたあとの空白に、中国がカンボジアの時ように間接的ではなく、直接的に入り込んだ形となっているのである。
台湾については、近年強化された独自の戦力に加え、米空母機動部隊という後ろ盾があるため、中国は現在のところ総統選挙ごとの言葉による警告(恫喝)以上の行動はしていない。
しかし、中国内陸部から台湾海峡に展開する空母部隊が攻撃可能な戦域ミサイルが完成すれば、軍事バランスは一気に不安定なものとなるだろう。
さらに、過去の経過からアメリカとベトナム、フィリピンとの軍事協力は、たやすくは進展しないだろう。

<地域安定への日本の役割>
こうしたことから、アーミテージ国務副長官や政府系研究者は東アジア戦略見直しにかかる具体的対応を提言しているが、それらを総合すると、①中国のミサイルの脅威にさらされる沖縄から、空軍や海兵隊などの部隊をグアム島などへ後退させる。②その空白と同盟国の疑念を解消するためNMD(米本土ミサイル防衛)、TMD(戦域ミサイル防衛)を統合し、アジア地域への配備を進める。③日本に対し集団的自衛権の行使を求め、東アジアの有事には日米で対処する、こととなる。
日本は、李前総統の訪日許可で無意識のうちに、アメリカの描く戦略に一歩踏み込んだと言える。もちろん基本的な戦略が定まっていないので、揺り戻しも考えられる(中国はそこに「期待」しているわけだ)が、アメリカに引きずられていく可能性が大きい。
自衛隊はすでに強襲揚陸艦を配備し、今後予定されている、空中給油機、軽空母などの装備化が実現すれば、東南アジア全域への戦略的展開能力を持つこととなり、アメリカの「イコールパートナー」、「東南アジアの警察官」として登場することも可能となる。
しかし一方でこうした部隊や装備は、東ティモールのような事態やもっと大規模な内乱が発生し、国際的協調の下での軍事介入が求められた場合にも、有効に活用できるのであり、東南アジア地域安定に役立つものである。
実際、世界の趨勢にに基づく現実的な可能性から言えば、台湾、南シナ海でのパワーゲームは続くものの、米中間で大規模で破滅的な紛争が勃発する恐れは低い。それゆえ日本としては、東南アジア地域の安定に資するための政策を第一義的に追求すべきであり、軍事力整備にあたっても、そうした方向性(PKFやPKOへの参加など)を明確にしなければならない。
 ニュージーランド政府は、国軍をPKF、PKO対応部隊へ特化する方針を明らかにしたが、日本も参考とすべきだろう。
 小泉首相は、集団的自衛権の容認について前向きの姿勢を示しているが、アメリカへのリップサービスのつもりでも、有事法制論議と併せて全面戦争や「日本本土決戦」を前提とした、頭に血が上った、冷戦時代のような話を持ち出すのは、あまりに軽率である(おまけに「靖国参拝」とくれば「近々お国のために死んでもらうかもしれません」と言っている、と考える人がでても仕方がない)し、新装備も侵略の準備でしかないということになる。
参議院選挙前の今こそ、なし崩し的な政策転換と決別し、台湾、東南アジアを包括する総合的なアジア戦略を明らかにすることが与野党に求められている。(大阪O)

 【出典】 アサート No.282 2001年5月26日

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【投稿】改憲・教育基本法改悪の急先鋒=「新しい教科書をつくる会」にどう対抗するか

【投稿】改憲・教育基本法改悪の急先鋒=「新しい教科書をつくる会」にどう対抗するか
                             立花 豊

 4月3日、文部科学省は来年から小中学校で使われる教科書の検定結果を発表した。そこで、「新しい教科書をつくる会」(西尾幹二会長)の執筆による中学歴史教科書と公民教科書(どちらもフジ・サンケイグループの扶桑社発行)も、それぞれ137 カ所、99カ所という従来にない多くの修正(資料1参照)をされながらも検定合格となったことが明らかになった。

<「新しい教科書をつくる会」とは>
この「新しい教科書をつくる会」は1996年12月「我が国の歴史教育の現状を憂い、歴史教科書の不健全さをただす必要を痛感した西尾幹二ら数名が中心となって・・・・新しい歴史教科書をつくる運動への支持を呼びかけ」(引用、「つくる会」ホームページより」)て、1997年1月正式に結成されたものである。
同会では、現在の中学校歴史教科書を「『権力者の支配に対する被支配に民族の抵抗』という、今や学術的にも全く説得力を有珠なった階級闘争史観の図式によって貫かれており、新しい次代を担う子どもたちにふさわしくない内容」ときめつけ、「こうした現状を正すため、『学習指導要領』に準拠した中学校用の『歴史』及び『公民』教科書を執筆し、次回平成13年3月の検定合格とそれに続く採択、そして14年度の使用・普及をめざし」て、「産経新聞社・扶桑社と協力しつつ」(引用、同)進めてきたものである。

<検定結果について>
このようにして執筆・編集された「つくる会」の教科書の検定結果について、「子どもと教科書全国ネット21」とほか12団体は連盟で次のように10点の特徴を挙げ、批判的な見方をしている。

1.歴史教育観について
冒頭の「歴史を学ぶとは」は、歴史学・歴史教育の科学性を否定する重大な問題を含んでいる。
しかし、「歴史は科学ではない」の1句を削除し、ワシントンの記述の間違いを訂正したのみで、根本的考え方はそのままである。

2.神話
神話に関する記述は、史実とは混同していないというアリバイのための最低限の修正をほどこしたのみで、神武東征、日本武尊東征の地図もそのままで、内容・分量ともほとんど変化がない。これでは、事実上、史実と混同しかねない。

3.天皇の地位
神武以来の皇統譜による歴代天皇の即位順をそのまま示している。
幕府による支配の時代も、征夷大将軍の地位が天皇の任命によるものであることをつねに記述し、権力の実態を示していない。つねに天皇が日本社会の最高の権威者であることを強調している。

4.侵略と植民地支配の正当化
アジア太平洋戦争を「大東亜戦争」とよび、大東亜共栄圏など日本が戦争目的として掲げたことをそのまま記述し、最後には、アジア諸国の独立のきっかけとなったと述べる。 日露戦争時の日本の勝利にたいするアジアの人々の一面的一時的な評価の囲み記事はそのままである。国内の非戦論にはまったくふれていない。
大東亜戦争(太平洋戦争)の緒戦の勝利がアジア諸国の独立への夢と希望を育んだとの記述もそのままである。
朝鮮半島は「大陸から突きつけられている凶器」、韓国併合は「合法的」などの記述は一部修正している。しかし、韓国は列強の脅威に対し十分対応できなかった、だから「日本の安全と満州の権益を防衛するために必要」だったなどと、韓国併合を正当化している。また、併合にいたる全体的な経過が述べられず、したがって韓国併合の実態と本質がわからない。しかも、併合後、鉄道・潅漑などで開発がすすんだと述べている。
「従軍慰安婦」にはふれず、南京大虐殺については、否定論を記述する。いっぽう、中国側の「南京でおこった外国人襲撃事件」については、記述がそのまま残っている。
侵略・植民地支配であったことをそもそもまったく記述していない。
日本の戦争責任についてはあいまいにし、責任が他国の側にあるような記述が一貫している。

5.アジア蔑視
「眠りつづけた中国・朝鮮」という小見出しは改められたが、そのなかの本文はまったく変わっていない。「近代日本がおかれた立場」「近隣外交と国境画定」の項でも同じである。

6.明治国家の評価・大日本帝国憲法と教育勅語近代のアジア蔑視とはうらはらに、明治国家を高く評価する点も変わっていない。ここでは、五か条の誓文を近代日本の民主主義の出発点としてとらえる特異な立場が打ち出され、ここでも天皇中心の日本というイメージが押し出される。
明治憲法の人権条項の説明で、「法律の範囲内で」という言葉が付け加えられたが、そのことがどういう意味をもち、実際には人権が著しく抑圧されたことについての具体的な説明は何もされておらず、その結果、明治憲法を民主的憲法ととらえるようになってしまう。
教育勅語についても、1945年までという限定はつけられただけで、その他の文章はそのまま生きており、教育勅語の賛美は変わらない。

7.国家意識の強調と民衆のうごきの軽視
とくに古代のところで国家意識の形成を強調し、近代では、国民の義務、国難にたいする意識の形成、日露戦争=国民戦争論など、随所で国家中心思想の存在が強調されている。
その反面、民衆のくらしなどは、中世の土一揆までは記述がない。自由民権運動も、政府側との共通面が一面的に強調され、そのなかに流れる民衆の願いは無視される。アイヌ民族のおかれた状況についての記述もない。

8.国家への義務・国防の義務の強調
日本国憲法にはない国防義務規定を各国憲法からひいて資料として掲載しているのも変わらない。

9.国際緊張を強調し、軍備当然論、安保肯定論を一面的に強調
口絵ページの「国境と周辺有事」では、尖閣列島に強行上陸した代議士の写真を掲載し、そのほか、阪神淡路大震災と自衛隊、国連の混乱と限界、大国日本の役割などのページで、国際緊張を過大に描きいまの世界のなかでの軍事的対応の必要性、軍備の必要を説く。

10.核廃絶否定論
「核廃絶は絶対の正義か」というコラムは、前半に核廃絶をめざすうごきについての記述が付け加えられたが、後段にはもとの文章がそのまま残ったので、その部分が結論のような形になり、結局、核廃絶への疑問を投げかける形で終わっている。

<教科書攻撃は憲法改正・教育基本法改正に連動したもの>
国会では憲法調査会が設置され、その内容も逐一報道されている。改憲派の特徴をその発言からみると、先に挙げた教科書の問題点に共通する意識が非常に多いことがわかる。つまり太平洋戦争への無反省、国家意識の強調、アジア蔑視、天皇中心主義、おしつけ憲法論などである。これらが現在の平和憲法と矛盾することは明らかであり、その「危機意識」が情緒的な国家意識に結びついたものといえるだろう。
憲法改正では、「平和条項=第9条をさわらず、首相公選制からはじめる」とか、環境問題や女性の権利を憲法に記述するとか、さまざま語られている。しかし、今回のつくる会の教科書を見る限り、どれも方便であり、結局明治憲法の再現をもくろむものとしか言えない。石原都知事の「第三国発言」にあるように、そこには現代社会の諸問題すべてにおいて、アメリカなど他国・他民族に責任を持っていったり、現行憲法の民主的な条項にあったり、「戦後民主教育」に原因を追求するという、かなり偏向的な民族意識である。だからこそ、彼らは憲法を改正し、教育基本法を変え、その表現である歴史教科書を改竄・偏向させる必要があるのだといいたいのではないか。

<抗議行動、拡がる>
「つくる会」ではこれまでに教科書から従軍慰安婦の削除を要求したり、全国に下部組織などもつくり、これまでの右翼運動とは一線を画した“草の根”的な運動を繰り広げてきている。また、「つくる会」の出版した教科書の版元などもフジ・サンケイグループの扶桑社であり、産経新聞の支援をも得ている。さらに「つくる会」の賛同者になっている財界団体では、PHP研究所、太平洋経済協力会議日本委員会、資本市場振興財団、三菱総合研究所、矢野経済研究所などがあり、企業では、鹿島建設、大成建設、大林組、清水建設、小松建設、千代田化工建設、東日本ハウス、住友勤続、住友重機、井関農機、富士通、ヤナセ、ブリジストン、日本合成ゴム、横浜ゴム日本開発銀行、日本たばこ、丸紅、味の素、松屋など多くの大企業が名を連ねている。地方議会での採択運動も市民レベルで行われてきている。また国会議員レベルでも超党派で歴史教科書の見直しの動きが強まっている。

一方、4月14日「市民の力で憲法・教育基本法の理念にそった教科書の採択を求める4.14緊急集会」が首都圏の自治労、教職員組合など多くの労組活動家を集めて日本教育会館で開催された。これは、「新しい歴史教科書をつくる会」によって作成された中学校歴史教科書が多くの削除・修正を受けながらも文部省の検定を通過したことを受けての抗議を含めた緊急集会である。
集会では、これまで歴史教科書をめぐってさまざま発言をしてきた山住正己代表委員の基調報告からはじまり、高島伸欣氏(琉球大学教授)によって「あぶない」教科書の「あぶない」内容と題しての報告がなされた。さらに福島県教組の教科書採択問題のこれまでの取組も紹介され、最後に検定合格にたいする抗議のアピールが採択された。
教科書攻撃に反撃する動きでは、ここで引用した「教科書ネット21」など市民団体をはじめ数多い。労働組合では、「当事者」の一人である日教組や自治労では抗議行動の動きが強まっている。
しかしそれ以外の組合にそう拡がっているとは言い難い。関西地方では、昨年から日教組からの離脱など、ほんの一部だが組織的干渉すら行われている。全労働組合・民主勢力の総力をもって、国民的な取組を期待したい。 

 【出典】 アサート No.282 2001年5月26日

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【投稿】自民党政権崩壊への序曲

【投稿】自民党政権崩壊への序曲

<<「卒業旅行」>>
 「死に体」と化してしまった森・自公保政権の政治的空白期をねらうかのように重大な政治的選択が行われている。「時間の無駄」とまで揶揄された日米首脳会談ではあったが、クリントン時代から一転して軍事優先・強行対決姿勢を鮮明に打ち出しつつあるブッシュ政権。かれらは、もはや退場するしかない森政権をうまく利用したつもりであろう。ブッシュ大統領は森首相との会談で、“日本のような強固な同盟国との協力で平和を維持できる”として、日本が同盟国にふさわしい軍事的役割を果たすように求め、アジア・太平洋地域の政治的軍事的緊張や紛争に日米共同で対処することを求め、戦争マニュアルとしての新ガイドライン(日米防衛協力のための指針)が有事の際に遅滞なく機能するような法整備を要請したのである。
 訪米も、もはや「卒業旅行」気分でしかない森首相は、深く検討することもなくすべていうがまま「Yes I do」を連発してきたのであろう。いやむしろ失礼な訪米へのご機嫌取りの意味もあって、当初から日米首脳会談で意図的に「有事法制の検討」を持ち出すハラであった。事実、渡米当日の3/19、防衛大卒業式の訓示で「日米同盟関係の重要性」から、いきなり「有事法制は、自衛隊が文民統制の下で国家・国民の安全を確保するために必要であり、平時においてこそ備えておくべきものである。政府として、法制化を視野に入れた所要の検討を鋭意進める」と言い放ったのである。そして日米首脳会談でこの「有事法制の整備」を対米公約としてしまった。「ボランティアの義務化」を「自衛隊で」という人物である、何を密約してきたかきな臭い限りである。

<<「日本の政治的意思の問題だ」>>
 日本経済の「政治的不況」、「日本発の国際金融危機」については、当初「教訓をたれるつもりはない」としてきたブッシュ政権であったが、日米首脳会談では「教訓」どころか、「不良債権の早期処理」という日本政府の具体的課題に介入。ブッシュが「米国内には日本は不良債権問題に全力で取り組んでいないという見方がある。友人として心配だ」と詰め寄ると、森はこれまでろくに取り組んでこなかったという弱みからか、一転して「全力で取り組む」、「半年くらいで結論を出したい」とこれまたいとも簡単に公約してしまったのである。首脳会談の事前打合せでは日米経済一般について意見交換するだけのはずであったものが、日米共同声明で「不良債権に効果的に対処する」という一文が入り、日本側が削除を申し入れたが拒否され、引き下がるというお粗末さである。
 その後もアメリカ側の苛立ちはますます増大している。4/4、FRBのグリーンスパン議長が米議会で「世界第2位の日本経済の低迷が他国に影響を与えないことはあり得ない」、「アジア地域に連鎖的な影響が出かねない」と強い調子で日本を非難、オニール財務長官も同日、緊急経済対策の決定が遅れたことに「率直に言って残念だ」と文句をつけ、リンゼー大統領補佐官は「(長引く不況の解決は)日本の政治的意思の問題だ」とバッサリである。バブル経済の過熱に浮かれ、それが破綻し、清算過程にはいるやその責任を他国に転嫁する、日米双方ともその責任や原因をなすりつけあう、よくある常套手段であろう。しかしその重荷を勝手に持ち込み、約束されてはたまったものではない。

<<同一人物の本音>>
 そこで、自公保与党3党が株価急落、デフレ突入など与党の無為・無策批判をかわすために急ごしらえでデッチ上げたのが「緊急経済対策」(4/4)。その主要な柱は、(1)不良債権処理、(2)株式買い上げ機構の創設、(3)都市部の土地流動化、(4)証券市場の活性化であるが、いずれも全く具体性に欠けている。しかしこれらが具体化されるに際しては、きわめて重要で危険な政策転換が行われる可能性が指摘できる。
 まず、その時期について。銀行が保有する持ち合い株を買い上げる「取得機構」設立法案の提出時期をめぐって、“金融界に異論もあるので慎重に……”として9月メドを主張する柳沢金融担当相に対して、亀井・自民政調会長が“緊急事態なんだ”“なにもしないなら政府なんてなくてもいい”と激しくかみつき、怒鳴り合いとなり、麻生経済財政担当相が“和やかな意見交換とはとても言えない雰囲気だった”という。
 この「株式買い上げ機構」は、時価会計制度導入に伴って急増している銀行の持ち合い株解消売りをここで吸収して、株価を維持しようという狙いである。しかし問題は、買い上げた株式が売却時に下がっていれば損失が出るし、売れなければ丸損。それに符号を合わせるかのように宮沢財務相が「仮に損失が生まれるとしたら、財政で面倒を見ることも考えたらどうか」と本音を出した。つまり実際は、金融機関が保有していて、株価下落でそれ自体が不良債権化した持ち合い株だけをわざわざ買い取り、結局はこれまた公的資金によって銀行を救済し、それにつらなる不良債権企業を救済しようというものである。底無しの財政出動へのゴーサインでもある。
 これが「日本の財政は破局に近い状況だ」と発言した同一人物の本音なのである。すでに660兆円にも達している財政赤字、もはや返済不可能であろう。たとえ消費税率を現行の2倍、10%に引き上げたとしても赤字解消には100年以上もかかってしまう。それならこの際、積極的なインフレ政策に転換し、日銀には国債の買い切りオペの増額を迫り、市場に札束をあふれさせ、ハイパ-インフレを現出させ、財政赤字もチャラにしてしまえ、これが本音であり、こうした危険な政策へ転換しだした証左でもある。しかもこのような重大な政策転換が、この政治的空白期を狙うかのようにしてろくに議論もされない中でまかり通ろうとしているのである。

<<「橋龍暴落」>>
 4/6、橋本派が橋本龍太郎元首相擁立で固まったとの報道が出始めると、みるみる株価は下がり続け、緊急経済対策への失望ともあいまって、土日を挟んだ2営業日で800円も下落。市場では「本当に橋龍が再登板したら1万2000円割れ」の声まで出ている。さらに4/9、「総裁選は橋龍本命」のニュースが流れるや、平均株価は542円安の大暴落。明らかな「橋龍暴落」である。前回の首相在任中(96年1月~98年7月)に日経平均を2万2666円(96年6月)から1万6201円(98年7月)まで下げた疫病神の再登場というわけであろう。
 橋本氏は、急ごしらえの「200日プラン」なるものを発表して「私が総理の時に財政再建を急いだことが、今の不況の原因であることをおわびし、その悔しさをバネに状況を乗り切りたい」、「景気対策か財政再建かという分け方はおかしい。2つは両立する」などと言っているが、誰も相手になどしていないのである。ところが自民党の派閥力学は、「主流派になり続けること」、地位と利権の配分に関与することがすべてであり、深刻化する経済危機や増税・福祉・生活・年金等の不安などまるで眼中にない。
 4/10、自民党の全国幹事長会議では、九州を中心に各地の地方組織から「地方の持ち票を4票にしろ」という要求が相次いだが、執行部は強引に3票で押し切り、「小泉ブーム」の押さえ込みに必死の体である。24日の総裁選では、たとえ1回目の投票で橋龍が過半数を取れなくても、決選投票で亀井が橋本に乗る「1.3位連合」が成立して、橋本総裁誕生という筋書きが描かれている。こんな筋書きはよりいっそうの反発を拡大し、参院選では手痛い敗北が決定的となるばかりであろう。そして橋本総裁が誕生したとしても、任期は9月までの暫定政権でしかない。
 小泉氏が派閥を飛び出し、派閥を超えた支持を呼びかけ、さらに現在の与党3党以外にも協力の可能性を示唆したことは、注目すべき事態であろう。野党はこうした事態を傍観していてはならないし、政界の再編に向けて積極的な関与と行動を起こすべきであろう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.281 2001年4月21日

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【投稿】千葉県知事選を振り返って

【投稿】千葉県知事選を振り返って  by 市川 信一 

 3月8日告示、3月25日投票で、千葉県知事選がたたかわれた。既に新聞等で報道されているように、結果は前参議院議員の堂本暁子氏が当選、連合が推薦した若井康彦氏は惜敗した。

堂本暁子   491,205票
岩瀬良三   472,325票 (自民、保守推薦、公明支持)
若井康彦   428,153票 (民主、社民、連合千葉推薦)
河野 泉  240,271票 (共産推薦)
門田正則   53,865票

<混迷した候補者選び>
 県知事選は長期政権であった沼田知事(5期20年)が引退表明する中で、候補者選びから難航した。岩瀬氏は当初より立候補の意思を示していたが、自民党は岩瀬では勝てないとして、中央官僚などに接触したがことごとく断られ、連合候補との相乗りもままならず、最後の選択として岩瀬氏を推薦した。対する民主党は市民団体との候補者調整を図ったが、最初に「堂本」ありきに終始した「市民派」と決別し、連合の推す若井康彦氏(都市計画プランナー)を推薦、市民派は予定通り堂本氏を推薦し、それぞれ選挙戦に突入した。

<序盤岩瀬、中盤若井 そして最終版>
 マスコミによる世論調査では、選挙戦序盤は、全国的には自民党に逆風が吹いていようとも保守王国千葉県の貫禄を発揮、岩瀬氏がリードした。しかしその時点で都市部では、若井氏がかなり浸透し、トップを取っていた。 中盤の世論調査では、開きは大きくないが若井、堂本、岩瀬の順でマスコミは報道。連合・民主党陣営は「このままいけば、当選する」との思いを強くする。民主党は、この知事選を参議院選の前哨戦と位置付け中盤以降、鳩山・菅と言った看板を投入し、民主対自民の構造を押し出していった。
 しかしながら、直前4日ほど前から不可思議な現象が起きてくる。自民党の元代議士「水野清」(千葉県の北総地区では、一定の影響力を持つ)が勝手連を名乗り堂本応援を表明、動き出す。また、前日まで鳩山・菅と仲良く三番瀬を視察していた民主党代議士、「田中甲」が突如として、労組に依存した民主党体質、県知事選民主・連合陣営を批判、離党届を提出し、実質的に堂本応援にまわった。マスコミの論調も、無党派選挙を標榜する堂本陣営に好意的になっていった。
 一方、当初中立を標榜していた公明党は、中央のてこ入れの中で岩瀬支持を打ち出していった。
 選挙戦は、最終版まさに混戦の中で迎え、結果として連合候補である若井氏は惜敗した。

<「無党派・市民派」の内実、そして無党派の風は....>
 選挙の総括視点は色々ある。①中盤有利とされた若井陣営に気の緩みは無かったのか、連合が組織力を発揮できたのか、②民主党が前面に出る中で社民党が引けていったのではないか、③あまりに絶妙なタイミングで労組依存を理由に離党届を出し、堂本応援に回った田中甲代議士の背景は?など色々ある。特に田中代議士の離党騒ぎの影響力はかなり大きく、彼の地元の市川市では、堂本・若井で1万票以上の差が出ており利敵行為以外の何者でもない。④また、自民党県連が分裂している中で、一方のグループの一部が利権確保のため堂本陣営のために動いたのも事実である。戦術的な総括や利権がらみの動きの分析はとりあえずここではこれ以上は触れないこととする。
 一番の関心事は、堂本陣営の「無党派・市民派」とは何であったのか、無党派層がなぜ動いたのかである。
 結論から言えば堂本陣営は無党派ではない。当初、市民が中心となった組織であったが途中からは、「市民ネット」が前面に立ち、さらには「市民の党」を名乗る斉藤正志グループ(MPD-ポルポト支持)が中村敦夫選挙、川田悦子選挙をへて乗り込んでくる。たしかに既成政党ではないが、明確な政治セクト主導の陣営であった。 
 しかしながら、堂本陣営は無党派層に食い込んでいった。今まで民主党は、そういった無党派層をターゲットにしてきたが、森退陣に明確な筋道を作れない野党に対する不満、一向に好転しない経済情況などでの閉塞感の中で、既成政党への批判は民主党にも直撃した。そのことが、中盤から民主党を前面に押し出した若井陣営にマイナス影響を与えたと言えよう。一方で、唯一の女性候補、無党派を掲げた堂本氏がムードとして、そして「したたかな戦術」を持って無党派層を取り込んでいった。 

<政策を打ち出さないことが政策?>
 堂本氏の政策とは何であったか。 はっきり言って政策らしい政策は皆無に等しい。唯一公約と言えるのは、県下全市町村をまわり対話集会を開くことである。 選挙戦でも街頭でのインタビューに徹し、皆さんのご意見を聞くと言ったスタイルをとった。結果として、そのことを含めソフト路線が堂本陣営には効を奏し、女性票、若者票の獲得に結びついた。
 政策的提起を押し出した若井陣営は、団塊の世代を中心とする男性層には食い込んだが、女性層には浸透しきれなかった。政治不信、既成政党不信という中で、手段である「住民対話」が政策になり公約になってしまうのは皮肉な現象である。
 選挙の結果は出た。政策なき「ご意見拝聴型県政」が自民党主導、官僚主導の青島都政の再現を想像してしまうのは私だけであろうか。既に68歳と高齢の堂本氏の次の時代に何が起こるのか.....。  
 来るべき4年を「失われた4年」にさせないために、労働現場からの提言を続けていきたい。(市川信一) 

 【出典】 アサート No.281 2001年4月21日

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【書評】『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

【書評】『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』
           (C.ダグラス・スミス、2000.9.25.発行、平凡社、1300円)

「常識というものは不変的なものにみえるが、大きく変化することもある。/今私たちは、決して変わらないかのようにみえる常識の大転換、つまり大多数の人が『非常識』と判断しているものの考え方が主流の常識にとって代わる、そんな大転換の少し前の段階に生きているような気がする」。
本書は、ユニークな発想と問題提起で現代日本社会をラディカルに分析批判し続けているダグラス・ラミスの著書である。『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』という題名そのものが、上に述べた「常識」と「非常識」の関係を象徴している。そして議論されている戦争と平和、安全保障、日本国憲法、環境危機、民主主義などの諸問題について、現代社会の「『常識』といわれる考え方が、本当のところは現実離れしたもの」であること、特に「『経済は発展しなければならない』という考え方」こそが、「私たちの目を本当の現実からそらせた『現実離れ現実主義』の張本人である」という指摘が、本書の眼目である。
著者は、この「現実離れ現実主義」を「タイタニック現実主義」と名づける。すなわちわれわれが今乗っているこの地球という「タイタニック」は、やがて氷山にぶつかるということを人々は知っている。しかしその氷山はまだ見えないし、現実的な話だとは理解しにくい。「多くの人にとっての唯一の現実は、『タイタニック』というこの船だけなのです。
/タイタニックのなかにはいろいろなルーティン(日常の仕事)があります。乗客がやること、船員がやること。(中略)それを続ける人が『現実主義者』なのです」ということである。
この「タイタニック現実主義」は、「もしタイタニックが全世界ならば、船の外には何も存在しないということなら、それはとても論理的でしょう。タイタニックの論理はそれを前提に成り立っていると思います。(中略)同じように、もし世界経済システム以外に何の現実もなければ、とても立派で合理的な論理になるわけです」。
「ところがタイタニックの外には海があって、氷山がある。そして世界経済システムの外には、自然環境がある。そこが問題です」。
われわれは、この本書の視点の重要さを肝に銘じるべきであろう。
本書で議論されている諸問題のうち、「国家と暴力」に関しては、日本の「平和常識」(日本国憲法成立以来の半世紀で、日本国政府の交戦権の下で一人の人間も殺されたことがないという事実)と、アメリカの「戦争常識」(アメリカ合衆国の、男文化の中で、大人になるということ=「人を殺せる人間になる」という殺人学校[軍隊]での訓練における常識)との差異が重要である。これらのいずれが人間的文化的に優位性を有するかについては、本書では、憲法第9条と周辺事態法第9条(著者はこれを「新9条」と名づけるが)についての考察(第2章)を見られたい。
「経済発展」の問題について言えば、まず経済発展が「20世紀の一番深いところまで根を下ろしたイデオロギー」であることが押さえられねばならないことが指摘される。この点については、自由主義者、保守主義者、ファシスト、ナチ、レーニン主義者、スターリン主義者、民族主義者すべてが共有していた考え方であるからである。すなわち「経済発展イデオロギーのイデオロギー性は、不透明(インヴィジブル)で見えにくい。イデオロギーではなくて客観的な事実、あるいは必然性というふうに思われていた」。それ故このイデオロギーが一体何であったのかが検討されねばならない。
そこで本書では、「発展(デヴェロープメント)」という言葉を検討して、これが「作り変えられた言葉」(1949年にトルーマンによって世界に対する政策として使い始められた──「世界中の相対的に金持ちでない国々を『発展させる』という他動詞的用法」であることが解明される。そしてこの意味で、「『未開発』(アンダーデヴェロープト)の共通点はそれぞれが持っている特徴ではなく、同じものを持っていない、ヨーロッパ、アメリカの経済制度に入っていない、その『欠如』が共通点なのです」ということが指摘される。
つまり「発展」という言葉で「ものすごく大きな思想の転換、パラダイム転換」が起こ
って、「実際にやっていることは、植民地時代とそれほど変わらないにもかかわらず」、「外から資本が入って、自然を破壊し、伝統的な文化を破壊し、搾取する。それを『発展(デヴェロープメント)と呼べば、それはその社会の、自然で当たり前な、決定された過程であるというように思えてくる』のである。「内政干渉ではなくて発展、搾取ではなくて発展、暴力的な変化ではなくて発展」となる。そして「発展」という言葉の不思議な魔力によって「搾取は見えなく」なって「強制労働」は歴史から消えたかのような観を与える。そして本書は、「経済発展の論理」が国家の政治的、軍事的な政策を方向づけており、ひいては政治権力による抑圧や民主主義の阻止に決定的な力となっていると主張する。
現実にこの「経済発展」のイデオロギーがもたらしたものは、「みんながいつかは発展するという『約束』や」「パイが大きくなればピースも大きくなる」という夢ではなく、「『貧困の近代化』の構造」(=「貧困を利益がとれる形に作り直す、『貧困の合理化』」)に他ならない。すなわち「何か新しい技術ができると最初は金持ちだけが買う。それがだんだん、あればいい、ではなく、なければ困る、というふうになってくる。買えない人たちは、それを買うお金がないから貧乏、ということになる。この貧困の特徴は、経済発展や技術発展によって解消するのではなく、経済発展や技術発展によって再生産される」のである。
従ってこの貧困の解決のためには、経済発展以外のものが必要となる。
「貧困の差というのは、経済発展によって解消するものではない。貧富の差は正義の問題だと思います。(後略)/『正義』というのは、政治の用語です。(略)貧富の差を直そうと思えば、政治活動、つまり議論して政策を決め、それをなくすように社会や経済の構造を変えなければならない」。
そして本書ではこの視点から、現在の日本のゼロ成長の状況を、むしろ有意義な「機会(チャンス)」としてとらえ、これを「経済成長なしで、ゼロ成長のままでどうやって豊かな社会を作るか、という別の問題提起」に変えていくことを主張する。
それは「成長ではなくて、分配」、「正当な、正義にもとづいた分配という解決を求める」ことであり、「今の競争社会を、相互扶助というか、人々が互いに協力し合える社会に切り換え」、「安全(セーフティー)ネットを作ること」を目指すこととされる。著者は、このような社会を求める過程を、「対抗発展(カウンター・デヴェロープメント)」と呼び、その特徴を、(1)「減らす発展」(エネルギー消費、経済活動に使っている時間、値段のついたもの等々を減らす)、(2)経済以外のものを発展させること(経済活動以外の人間の活動、文化等々)とする。換言すれば、「時は金」という経済発展の論理を、「金は時」という対抗発展の論理によって置き換えること、「豊かさを余暇に替えること」である。そしてこのように変えていく必要があるのは、「南の国」ではなく、逆に、「過剰発展、過剰生産をしている産業国」、「北の国」の方であることが強調される。
われわれ自身がとらわれている、経済発展の論理に根本的な疑問を呈した本書は、またこの状況を変えていく可能性(萌芽的で荒削りな示唆ではあるが)をも示す。20世紀までの近代化=発展の論理を経ち切る状況に迫られている今日、まことに「現実主義」的な問題提起の書といえよう。(R)

【出典】 アサート No.281 2001年4月21日

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【投稿】日本発の国際金融危機

【投稿】日本発の国際金融危機

<「株価急落の主犯」>
 先月号で指摘してきた「3月経済危機」説の現実的可能性が、当たり前のことではあろうが筆者の指摘もむなしく、回避されることもなく進行し始めた。3月に入ると2日には日経平均株価が、前日比419円86銭安の1万2261円80銭と、85年7月以来の低水準に急落、そのスピードと規模がこれまでにない様相を呈し始めたのである。そして3/14のニューヨーク株式市場の暴落は、ついにニューヨークダウ平均株価が1万ドルの大台を割り込み、9973.46ドルで終了、ヨーロッパからアジア、中南米にまで至るパニック的な売り一方の展開となり、この連鎖的な株価の急落の「主犯」に日本の金融不安が上げられる事態となったのである。
 欧州系格付け会社のフィッチが日本の銀行19行の格付を引下げる方向で見直すことを発表し、大和や中央三井信託など破綻する銀行名まで具体的に取り沙汰され、「日本発の国際金融危機」不安説が現実化し始めたのである。もちろんその背景には、いまや「死に体」と化してしまった森内閣、自公保三党連立政権にたいする失望、焦眉の政治・経済の問題解決能力を示すことが出来ないばかりか、その存在自体がマイナス要因と化しているにもかかわらず、政権交代さえままならず、緊急事態を打開する能力さえ示し得ない日本の政治経済への失望売り、根深い不信が横たわっているといえよう。
 3/16のニューヨーク株式市場はさらに9900ドル台も割り込み9823.41ドルの終値で取引を終え、円は1ドル=123円台まで続落している。ここにきてこれまでのいいかげんな経済専門家やエコノミストたちの「V字型」や「U字型」回復の希望的観測が実にいいかげんな根拠薄弱なものであり、実際にはアメリカはバブル経済の清算過程に突入し始めていること、バブルに依存し、バブルに希望を託してきた世界、とりわけ日本がこの連鎖的な危機の波及にいかに対処できるかが問われ、なすすべさえ示し得ない否定的現実に世界が大きく動揺しだしたのである。

<「破局」財務相の放言>
 「1万3000円割れで大半の銀行、生保に含み損が発生する」(都銀幹部)といわれているのに、3/12には1万2171円までさらに大幅下落、3/14には1万1500円割れの場面まで出現、ここまでくると兆単位の含み損を抱え、ほとんどの銀行・証券・生損保等の大手金融機関にとっては「倒産株価」そのものの事態である。ほんの一握りを除いて全滅の恐れすらあり、その規模、破壊的影響、連鎖倒産の危機はこれまでの山一、長銀、日債銀の比ではない、戦後最大、未曾有の経済恐慌の事態を招きかねい「危機の淵」である。いまのところ、株価は1万2000円台に行きつ戻りつしているが、金融・株価パニックはいわばまだ始まったばかりである。これからが本格的な危機の到来が控えているともいえよう。すでに「株価1万円割れ」「1ドル=140円」「国債暴落」という予測までささやかれだしている。
 さらに、益出しや帳簿操作、さらには再々度の公的資本注入でこの3月危機をなんとかしのいだとしても、4月から導入される時価会計は、9月の中間決算から具体的な数字となって表面化される。ここで減配、無配、赤字決算が続出する事態となれば、市場の選別は容赦なく、資金繰りさえつけられない9月危機が待ち構えているのである。
 3/15になって、政府与党はようやくのところで、緊急経済対策本部の初会合を開いたが、その緊急対策の中身は、一時的な損失隠しにしかすぎない「株式買い上げ機構」や、「銀行優遇税制」など、問題先送り、論議も内容も粗雑で小手先の当面を取り繕う弥縫策ばかりである。つい先日、「わが国の財政はやや破局に近い」と発言したばかりの宮沢財務相が「(株式買い上げ機構で)仮に損失が生まれるとしたら、財政で面倒を見ることも考えたらどうか」と、無責任な公的資金の投入を示唆し、一時株価が反発したが、問題だらけの株価対策にたちまち失望売りが浴びせられている。

<森訪米「時間の無駄」>
 問題は、この重要な危機的情勢に対応できる政治体制が存在し得ていない、むしろ危機を深化させているという深刻な事態である。世界同時株安の連鎖的波及で日本問題が急浮上してきた3/13、コメントを求めるマスコミに森首相は「お話はしない」と一言、まるっきりすねた子供のダンマリを決め込み、緊急対策の必要性にも思いが及ばず、その夜には自粛だったはずの高級料亭の宴席に繰り出し、遊びほうけ、飲みほうける始末である。与党3党はこんな首相を担いで不信任案を否決し、訳の分からない「総裁選前倒し」というだけの辞意表明でお茶を濁し、首相本人は辞任など言った覚えはないと開き直り、それは「マスコミが書き、報道されていること」、「言わないことを言えといったって、それは無理な話だ」とはぐらかし、真顔で「(森政権は)死に体とおっしゃられたが、この通り極めて健康体だ」と茶化し、おどけて何の恥じらいさえ感じないありさまである。
 3/14付ニューヨーク・タイムズは「政治と経済が同時にメルトダウンしている日本」の苦境と混乱、無能ぶりを掲載、その中で「森首相と会談するのは時間の無駄。だが外交儀礼は必要」とのホワイトハウス当局者のコメントを紹介している。英エコノミスト誌は「日本の森首相は辞任すべし」という特集を組み、「ミスター森が総理の座にいる限り、日本は困難と災難に巻き込まれるだろう」「人々が記憶する限り、ミスター森は史上最低の首相である」とまで酷評している。
 ところが森首相本人は、3/19の訪米に引き続き、25日の訪ロ、4/21の首相主催の“桜を見る会”や24日の叙勲の閣議決定、5月ゴールデンウイークのアフリカ訪問まで計画しているという。

<「負の悪循環」>
 日本経済のデフレスパイラル、物価下落→企業収益の悪化→倒産・失業の急増→個人消費の悪化→物価下落がようやく認識され出し、政府も認めざるを得なくなってきたのであるが、この「負の悪循環」の最大のものが実は政治そのものであり、自公保3党連立政権の存続そのものがデフレスパイラルを引き起こしているともいえよう。
 3/5の、森内閣への不信任案を否決した国会の茶番劇は、腐敗・堕落したこの国の政治を典型的に象徴している。表の国会議場で信任しておいて、その直後からすぐさま引き摺り下ろす算段に全精力を傾ける、この国の政治は完全に“密室政治”を公然と横行させても平然としておられるほど腐敗・堕落しきってきたのであろう。野党がこのような事態の横行を許し、国会審議に応じ、決め手も迫力も欠いた質疑に終始し、与党の日程に野党が引きずりまわされ、審議拒否も出来ずに予算審議に付き合っている姿はあわれでさえある。本来なら現政権を葬り去る絶好のチャンス到来である。野中か小泉か、暫定政権か大穴政権かといったのんきな論議が出来ない事態に追い込める対抗政権構想を明示し、直接大衆に訴えかけ、組織し、現政権打倒の行動にこそ立ち上がるべきであろう。
(生駒 敬)

 【出典】 アサート No.280 2001年3月24日

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【投稿】田中康夫知事の「脱ダム宣言」 

【投稿】田中康夫知事の「脱ダム宣言」  
 
さる2月20日、長野県の田中康夫知事は原則ダムに頼らずに利水・治水対策を推進するという「脱ダム宣言」を発表した。田中知事の宣言があまりにも唐突だったため、県幹部や県議、国土交通省の反発をまねき、光家土木部長の解任、県議会三会派の共同提出による「脱ダム」に歯止めをかける条例の可決等状況は混沌としているが、長野県の事例は今後の公共事業のモデルとなっていくのではあるまいか。
河川事業は(利水はまた別の機会に述べることとして)自然条件をはじめ要因が無数にあり、また生活への影響も広範囲に及ぶため、現在、国や各都道府県で検討している行政評価手法だけではその正当な評価は無理である。現在の河川事業の思想は、「降った雨水を川に集めて、海まで早く安全に流すことを基本」とする、河道に任せきる洪水処理対策であり、全ての水を河道に集めるというハード優先の考えであった。それが洪水最大流量を増大させる結果を招き、開発の進展に伴なって治水安全度を次々に向上させなければならないシステムが形成され、堤防などの治水施設の自己増殖傾向を強めてしまった。
特にダムは、下流部の沖積地では、宅地開発が進んでいたり、用地買収が困難で川幅が広げられない、堤防も高くできない、河床のの掘削もできないといった中で、住民の反対の少ない河川の上流部に洪水を貯留しようというものである。しかし、もともと上流部は河川の全流域面積に対してダムが支配できる流域面積は小さいため、下流に発生する洪水の一部を貯留できるにすぎない(高橋裕編『水のはなしⅠ』)。ところが、用地交渉が比較的スムーズであることなども手伝って建設が自己目的化している。
しかし、近年こうしたシステムの欠陥が次々に明らかとなってきている。1998年の栃木県余笹川での水害等、河川の流下能力を遥かに超える洪水の頻発であり、昨年夏の東海水害、1999年の福岡水害等、都市水害の増大である。都市水害の増加は豪雨時の水循環変化の典型例である。都市化により、豪雨の地下浸透は激減し、下水道などの排水施設の完備によって、流出は一挙に河川へと突進するようになった。
こうした中で、河川審議会委員・水資源開発審議会会長を勤めた高橋裕東京大学名誉教授は雑誌「科学」1999年12月号の、「河道主義からの脱却を」というテーマの中で「もはや堤防をより高く、河幅をより広げることは現実的でないとともに、土地問題への圧迫もあり、投資に対する治水効果としても疑問がある。」とし、「いまや、この1世紀実施してきた治水システムを、自然としての川の本性とその機能尊重する方向に転換する時機に立ち至っている。」河川の自由を徹底的に抑えるのではなく、ある程度の自由を与える。つまり、「大洪水を完全に河道において処理するのではなくて、氾濫原の一部を大洪水の氾濫のために用意することである。そのためには氾濫原の新たな土地利用計画を樹立する必要があり、治水計画が都市計画、地域計画、農業政策と相まって検討されるべきである。」「氾濫原管理を治水政策の中に正当に位置づけることである。」と提案している。
こうした意見を背景として建設大臣の諮問機関である河川審議会計画部会は昨年12月19日に「流域での対応を含む効果的な治水の在り方」と題する中間答申を出した。答申では「近年頻発している集中豪雨等により極めて甚大な洪水被害を受けたところでは、その規模の洪水に対応できるよう河川改修を行った場合に、下流が流出量の増大に対応できない事態や、地域の基盤である宅地や農地の大半を堤防敷地として失ってしまうような事態を生ずるため」、これまでの連続堤方式による河川整備ではなく、河川の氾濫を前提として、「氾濫区域において、浸水区域や浸水深の実績についての情報を公開」するとともに、「建築物を新築する場合の制限」等の「土地利用方策を組み合わせた対策」を提案している。
この答申はこれまでの建設省の堤防やダムといった河川構造物一本槍の河川事業の大転換を図るもので画期的なものである。もはや100年、200年といった確率洪水のレベルを上げて治水の質を上げるべき時代ではなくなったといえる。治水機能には限界があることを行政も市民も心得ておくべきことを宣言したといえる。
しかし、問題は今後である。元々、連続堤方式は堤内地の住宅や農地を“その自然的条件に左右されずに”「平等」に守ろうという発想である。答申はこの“戦後民主主義”の「平等」概念を根底から崩すことになる。もう1点は全面的に自由な土地所有権の修正である。答申でも述べているように、「建築物の建築の制限」「開発行為の制限や移転勧告」等「水害の危険性のある区域において、土地利用の規制や移転の促進等を図」り、土地利用に規制をかけることとしている。
土地利用は自然の前では元々「平等」ではなかったのである。戦後の高度成長と河川技術の発達が、「不平等」であった自然の立地条件を、あたかも「平等」であるかのように“幻想”を振り撒いてきたのである。その結果、建築物を建ててはならないところに住宅が建ち、土地所有者はその流域の開発利益を無制限に享受してきたのである。さらに具体的にいえば、河川改修事業という膨大な財政措置を講じて「不平等」な立地条件を人為的に「平等」な立地条件に近付けようとしてきたのであり、その財政措置を何らの対価なしに配分を受けたのは流域の「不平等」な土地の所有者であったといえる。こうした“幻想”が洪水という自然の前に、そして財政の破綻による公共事業の見直しの前に崩れ去ろうとしている。
戦後、1945年の枕崎台風から1959年の伊勢湾台風に至る15年間は毎年のように水害が発生し、その死者は1000人を越え、利根川をはじめ重要河川は毎年破提を繰り返していた。その原因は「流域の開発と…連続高堤防方式による近代的治水事業であった」「要するに同程度の豪雨に対して、以前よりは大きな洪水流量が発生する流出構造になっていたのである」(「河道主義からの脱却を」:高橋裕)。その後も現在までさらに流域の開発は進み河川の洪水負担は増していたのであるが、高度成長による河川改修事業費の負担と河川工学の発達により洪水は堤防の中に封じ込められたものと“錯覚”していたのである。それが、この間の洪水によって事実上破綻したことが明らかとなったのである。
ところで、7~8kmもの河川改修区間があるにもかかわらず、20年間にわずか数百mしか完成していない河川改修事業に何の価値があろうか。現状では何十年たっても安全を保障するものとはならない。都市河川(排水河川)の場合には、上流部の開発行為を抑えるべきではなかろうか。上流部を開発自由の原則に任せ、土地所有者にその開発利益を享受させておいては、付けは必ず下流部の住民に回ってくる。
これまで、行政は開発自由の原則のもと、土地所有者に対して最大限の飴を認めてきた。これを河川の周辺について土地利用の規制を行うということであるが、浸水の虞があれば土地の評価は下がり、場合によっては買い手もつかないこととなる。土地所有者が規制に納得するとは思えない。まずは安全“幻想”の払拭から説得を始めざるを得ないであろう。自分の土地は浸水の虞があるという自覚である。そのためには徹底した情報の公開が必要である。答申でも指摘するように「現在及び将来計画を含めた治水安全度等の公表」「過去の浸水実績、現在及び将来の浸水予想区域、浸水深、治水安全度及び河川の改修計画等について」住民への情報提供を行うことが大切である。具体的には「河川管理者と下水道管理者が浸水実績図の作成、氾濫シュミレーション等を実施し、市町村がこれを基にハザードマップ等を作成し」広く住民に提供していくことである。情報や警報の精度向上や効率的な伝達方法、それに基づく避難計画の樹立、水防技術の普及なども必要であろう。その上に立って河川整備計画の原案段階から地域の意見を反映するようにしていかねばならない。無論、その調整は困難を極めるであろうが、行政はそれを避けては通れない。
国土交通省では答申を受け、早速市町村がハザードマップを作るよう通知を出したが、過去に堤防のどの箇所が破提したか、どの土地が周囲よりどれだけ低いのか、どこの場所はかって河川であったか等々の情報を含めたマップが作成できれば、より具体的な議論ができるのではないだろうか。氾濫シュミレーション等については、過大な仮定により、ダム建設や河川事業の根拠にしようとするケースも考えられるので、過去の破提や越流実績等に基づいたシュミレーションを行うべきである。こうした根拠に基づき公共事業の評価を行えば、いたずらに100年や150年確率の洪水の不安を煽るのではなく、何が本当に今必要であるかがより具体的に分析できることとなる。これまで、あまりにもハード、しかもダム等の巨大なハードに依存して洪水を押さえ込もうとしてきたが、ムダな公共事業を増やすばかりで、これでは何百年かかっても治水はできない。早急にソフトに依拠した考えに移行すべきである。
さて、遊水地等の取扱い―農地等への規制の問題であるが、答申では建物の移転・改造・建築物の制限等が提案されている。こうした規制が合理的な範囲内にとどまれば、補償を要しないといえる(答申では建築物の移転や耐水化については助成等を検討している)。農地については、農地とういう普通の利用は禁止されないのであるから、財産権の本質的な規制とはいえず、土地所有者はこの程度の規制は無補償で受忍すべきではないだろうか。
いずれにしても、これまでの白図の上に勝手に線を引くような公共事業のあり方は大きく見直さなければならない時代となっている。(福井:R) 

 【出典】 アサート No.280 2001年3月24日

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