【投稿】歴史的転換点となった今国会会期末

【投稿】歴史的転換点となった今国会会期末

<<「政権離脱」の大芝居>>
今国会会期末、小沢自由党の「政権離脱」をめぐり連日の大騒ぎが展開されたが、周知のような手打ちが行われ、三方一両損で決着。一両を出した小渕は自由、公明を手なずけて笑いが止まらず、一両損して二両せしめた自由、公明も分け前にあずかってよだれを垂らす。こうして自自公政権をめぐる問題点や矛盾はすべて先送りされた。結果として、自自連立は自自公連立の誘い水に過ぎなかったという事態が現出したわけである。
しかし、落語の大岡裁きなら笑って済ませられるが、この派手な、そして意図的とも言える演出の影で、戦後歴史の転換点ともなる重要な反動的諸法案が次から次へと成立したことは、笑って済ませられることではない。
会期末の最終日、8/13、小渕・小沢の自自会談が行われ、小渕首相は「今国会で166本の法律等を成立させていただいた。自自連立の大きな成果」であると小沢を褒め上げれば、小沢も調子に乗って「私の30年の経験からも、こんなに重要な法案が、しかも166本も成立したのはまさに初めてのことで、まさに自自連立の成果」と自賛する。
「こんなに重要な法案」のその筆頭は言うまでもなく、小沢が「その本質は戦争協力法」だと言ってのけたウォー・マニュアル=日米防衛協力のための新指針(ガイドライン)関連諸法である。これは憲法9条の下で曲がりなりにも維持されてきた「国の交戦権は、これを認めない」という不戦の原則を大きく逸脱するものである。小沢はこれに力を得て、今や公然と憲法9条そのものの改憲を前面に打ち出してきた。このガイドライン法に関連して、周辺事態法が自治体の「協力」義務を規定し、地方分権整備法が自治事務について国の代執行の可能性を認め、改正米軍用地特措法が沖縄等の米軍用地強制収容について自治体の権限を剥奪し、首相の直接代行裁決の制度を導入したのも重大である。これまで日米の軍事協力に足かせとなっていたものが、一挙に取り払われたのである。もはや沖縄県や地元自治体の意向など法的には一顧だにする必要がなくなったのである。

<法案成立の先兵>
さらに、6/28、小渕首相が自自公連立政権構想を正式に表明して以降、「盗聴法案」、「国旗・国歌法案」、「住民基本台帳法改正案」など、これまで法案の成立など念頭にもなく、棚ざらしになっていた諸法案が、急速に法案成立へ向けてあわただしく動き出したのである。いずれも公明が反対、ないしは保留し、法案審議では多くの問題点を指摘し、実際に、鋭い追及を繰り返してきた法案である。
浜四津・公明党代表代行などは、盗聴法反対の集会にも出席し、「戦前の特高警察や旧ソ連あるいはかつてのドイツの例に見られるように、いったん秘密警察的手段を認めてしまえば、歯止めが効かなくなる」と成立阻止を掲げていたのである。「日の丸・君が代」についても、多くの反対ないしは慎重意見が噴出していたものである。

しかしこうした公明の中の自自公連立に批判的な勢力に対してすでに可決・成立してしまったという既成事実を突き付け、「公明党大会でガタガタ言う連中を黙らせる」という方針が、自民党・創価学会・公明指導部の間で合意されたのであろう、たちまち適当な見せ掛けの修正と施しが加えられ、公明はすべて賛成へと方針転換するばかりか、一転して法案成立の先兵となった。
盗聴法については、確かに、法律の規定上は盗聴対象の犯罪を原則として薬物、銃器、集団密航、組織的殺人等に絞り込む形を取ったのであるが、別件盗聴、傍聴判断盗聴、事前盗聴、令状なし・立会人の切断権なしの盗聴がすべて認められている。きっかけとなったオウム真理教などの組織犯罪対象から、宗教団体などが除かれることとなり、これをエサに公明は急遽、賛成に転換。盗聴行為を自ら指揮し、関与したことのある公明・創価学会らしい、汚らしい政治的意図が見え見えの転換である。

<久方ぶりの徹夜・牛歩国会>
しかもこれらの法案については、衆参両院の所管委員会において、与野党の多くの委員から疑問や批判的意見が数多く出され、むしろ審議が進むに連れて、問題点が拡大、露呈し、それぞれの審議はこれからが本番を迎えるところであった。住民基本台帳法案についても、プライバシーの漏洩はもちろん、利便性どころか膨大な税金の浪費にしかならないことなど法案の欠陥も次から次へと露呈し始めていた。
しかし、自自公三党は8/13の会期期限切れを目前にして、これまでの委員会審議の経過も合意もいっさい無視して、審議を打ち切り、委員会での採決すら省略して、いきなり本会議での強行採決へと突っ走ったのであった。
民主党がここに至ってようやく与党側の強行採決という事態に、徹底抗戦を幹部会議で確認。これまでバラバラであった羽田、鳩山系列を含めての結束が、今国会で初めて確立され、それが民主、社民、共産、二院クラブ、無所属議員の結束へと拡大、内閣不信任案の提案、採決にあたり共同で対決していく事態となり、そこで久方ぶりの徹夜国会、牛歩国会が出現することとなった。時すでに遅しではあったが、最後の抵抗も無駄ではない。いかに成果と教訓を引き継ぐかが問われている。
この過程の中で、田中真紀子衆議院議員は、本会議を退席して組織的犯罪対策法案に賛成できないことを明らかにしている。栗本慎一郎衆院議員は「通信傍受法案は盗聴システムやコンピューターを組み込ませようとするアメリカの通信利権だ。小渕内閣は何の主体性もない。反対する民主党も子どもだましのセレモニーだ」と語って、衆院本会議の採決で自民党の方針に造反して退席し、党を除名されている。

<「玉虫色決着」の脆さ>
かくして国家管理を強化し、戦後平和憲法の下で築き上げてきた法体制を大幅に改編する策動が頂点を迎えようとしているともいえよう。自由党の小沢党首が「国民総背番号制と盗聴法は治安目的である」と発言し、憲法9条の改正を露骨に表明する事態である。
唐突に今度は“靖国問題”が持ち出されてきたりする一方で、有事立法が着々と準備されており、憲法改悪もいよいよ日程にのぼせかねない勢いである。
9/9告示、21日投票の自民党総裁選を前に、小渕首相は“私の後は財政が破たんしていて大変だろう”などと無責任きわまりないことを加藤前幹事長に語っているが、再選には自信満々である。公明・創価学会は「宗教団体と民主主義は相容れない」と発言してきた加藤前幹事長に対して根強い不信感を持っており、今や強力な小渕支援者である。総裁選後の内閣改造では、自自公翼賛政権の発足が予定されており、公明党への論功行賞として、浜四津厚生大臣、冬柴幹事長か草川国体委員長には他の重要閣僚といった案がすでに取り沙汰されている。
しかしこの自自公翼賛政権はいわば砂上の楼閣である。平和、改憲、福祉、自治、税制、宗教等々どれをとってもそれぞれにバラバラである。どれかが崩れると一挙に崩壊しかねない代物でもある。
「玉虫色決着」がはかられた定数削減問題はその象徴といえよう。衆院42議席の内、28人が比例区選出の公明にとって、この法案は死活問題であるが、実際に6/23に国会提出された公職選挙法改正案の内容は、全国11ブロックの定数が50削減され、公明の最大の票田である近畿ブロックは現行33が25へ削減される。公明狙い打ちが露骨である。もちろん、自由党にとっても次期総選挙は存亡の危機に直面している。7/7の自由党大会で次期総選挙の公認候補58人を発表したが、その多くが自民党現職のいる選挙区を狙い撃ちしており、さらに3桁の擁立を目指して「選挙協力」に応じないなら、自公の選挙協力も潰す姿勢を表明している。小渕首相は危なっかしい綱渡りをしているのである。
一方の民主党は、9月2日告示、下旬投票の線で、代表選と党役員人事が行われる予定である。国会最終盤で盛り上がった野党の結束をいかに維持・拡大し、自自公翼賛政権に楔を打ち込むか、そのことが問われているといえよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.261 1999年8月21日

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【投稿】バルカンから朝鮮半島へ –見えてきた新たな「有事」の姿–

【投稿】バルカンから朝鮮半島へ –見えてきた新たな「有事」の姿–

<1>
3月24日から開始されたNATO軍によるユーゴ空爆=「同盟の力」作戦は、6月12日までの約2か月半にわたって続けられ、途中アルバニア系住民への迫害強化や「誤爆」というイレギュラーはあったものの、事実上ユーゴを敗北に追い込み終了した。
ベトナム戦争では精密誘導兵器を含む200万トンもの爆弾を投下しながら、決定的な打撃を北ベトナムや民族解放戦線に与えられなかったアメリカは、その後巡航ミサイルやステルス機に代表される新たな「ハイテク兵器」を次々と開発した。
そしてアメリカ軍にとって、ベトナム戦争以来の大規模な空爆となった湾岸戦争では、それら新兵器の威力が遺憾なく発揮され、戦争の様相を一変させたのである。
「北爆」では、当初ハノイはおろか、発電所、港湾施設、そして空軍基地までもが、攻撃対象とはならなかったのに対して、湾岸戦争では、世界に通用する「大義名分」があったにせよ、戦争はいきなりバクダッド空襲からはじまった。
戦史上、開戦初日に首都が空爆されたのははじめてであり、それを可能にしたのは、防空システムや軍、政府の中枢機能への正確な攻撃能力であった。
とりわけ、一国家の防空能力を1日で破壊してしまう作戦行動など、アメリカにしか出来ない事であり、ソ連ーロシアの没落と相まって、アメリカは「潜在的世界制空権」(さらには「制海権」も)を持ったと言っても過言ではない。
さらに多国籍軍による攻撃は、軍事施設のみならず精油所発電所などにも及び、市街地への無差別爆撃以外は、何でもありに近いものがあった。
この湾岸戦争により首都を中心とする、軍、政府機関、及び情報システム、ライフラインなどのインフラへの早期精密攻撃が、20世紀末の戦争を特徴づけるものとなったのである。
こうしたことが、規模的、量的には小さいものの、質的にはより強化されたのが、ユーゴ空爆であった。 ピンポイント攻撃が強調された湾岸戦争でも、実際は精密誘導兵器は、使用された爆弾、ミサイルの1割程度に過ぎない。
これに対し、「同盟の力」作戦では、7割が精密誘導兵器であり、作戦後半ではさすがのアメリカも製造が追いつかない程の消費量であった。
反面、多大な犠牲を生む地上戦についてはベトナム戦争以来、極力回避する傾向にあり、「砂漠の嵐」作戦では4日で終了し、ユーゴでは当初から異常なほど強い調子で、クリントン大統領によって否定されていた。
これに対して、イギリスなどは積極的な地上軍投入姿勢はみせていたものの結局は、戦後進駐に落ちついた。
つまり今後陸軍の役割は、先のボスニアの例でも示されるように、アメリカのみならずNATO諸国、さらに旧東欧諸国においては、戦後処理、平和維持的任務となっていく方向が明らかとなった。
このような傾向は、21世紀に入っても引き続き暫くは維持されるだろう。

<2>

従来「第2次朝鮮戦争」のシナリオは、ペンタゴンによって「作戦計画5027」として立案され、それに従って各種のシミュレーションや論評も進められてきたし、わが国を揺るがしている「新ガイドライン」問題も惹起したのである。
ところが、今回のユーゴ空爆の結果で、アメリカの大規模な地上兵力(50万程度)の派遣を前提とした作戦の現実性が問われる事態となっている。
「砂漠の嵐」作戦は、同程度の派遣兵力で戦死者は115人だった。ユーゴの場合、民間の研究機関が行った地上戦に突入した場合の犠牲者の想定は、幅があったものの最大で数千人だった。
ところが朝鮮半島で本格的な地上戦が起こった場合最低でも数千人の犠牲者が出ると言われており、これは兵力の投入を躊躇させるに十分な数字である。
したがって、朝鮮半島で武力衝突が発生したとしても、北朝鮮の大陸間弾道ミサイルが現実の脅威になれば別だが、アメリカは徹底した空爆による戦争終結をめざし地上兵力の投入も、在韓の2万7千人以外は小規模な特殊部隊の派遣に止めるのではないかと考えられるのだ。
それが、はたしてアメリカ軍が一歩も二歩も後ろに下がる(そういう姿勢を示す)ことによって、全体の緊張が緩和されるのか。
逆に、犠牲者が少なく済むことによって、衝突の実現性が高まるのか。あるいは北朝鮮がアメリカは地上軍を派遣しないと踏んで強行姿勢にでるのか。また韓国はアメリカの姿勢を容認するのか。現時点では何とも言いがたい。
さらにそうなると、すったもんだの挙げ句成立した「周辺事態法」で規定されたわが国の対応も、影響を受けざるを得ない。
とりわけ自衛隊の活動については「周辺事態法」の範疇に止まらず、見直しが求められるだろう。
それは、先に述べた様な状況の変化に対応できる改革という事であり、「本土決戦」に舞い上がる有事法制推進派の主張などは、論外である。
しかし、わが国に最も必要なのは、アメリカの思惑に振り回されること無く、独自の主張と行動を担保できる、外交、安全保障政策の確立なのである。(O)

【出典】 アサート No.260 1999年7月24日

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【投稿】GDP1.9%成長!?の怪

【投稿】GDP1.9%成長!?の怪

<『ホンマかいな』>
6/10に、まるで小渕首相のサミット初参加にタイミングを合わせたかのように発表された「GDP(国内総生産)1.9%プラス成長」(年率換算7.9%)は、内外に大きな驚きをもって迎えられたことは周知のとおりである。発表した堺屋経企庁長官自身が、「大変高い成長率で、初めて見たときは『ホンマかいな』と驚いた」と語っている。97年第4四半期から6期連続、戦後最悪のマイナス成長を記録し続けてきた事態から、プラス成長へのまさにビッグニュースであった。
しかしこの実態とかけ離れた発表に多くの疑問が提起され、「景気粉飾決算」報道が各紙誌で取り上げられた。中でも大蔵省幹部が明かす統計上のトリックはリアルであった。
その匿名の大蔵省幹部が明かすカラクリとは、「統計上のトリック?それはあえて否定しないね。すべては小渕政権が掲げた国際公約『GDP0.5%』実現のためだったんだ。官邸から『是が非でもGDP0.5%を実現せよ』という指示が降りてきた。そこでわれわれは『成長率にゲタを履かせる』操作をした。…前年度末の1-3月期GDPを押し上げて、次年度のGDPを上げることをわれわれは『ゲタを履かせる』と呼んでいる。そして0.5%から逆算して作った数字が、今回の1.9%だったのだ。当初、1-3月期のGDPを2%に持っていけば、その後の各四半期のGDPがマイナス0.2%になっても平均GDPは0.5%を達成することができると考えていた。だから、そのために3月に巨額の公共投資をブチ込んでカサ上げしたわけだ」。実際に、GDP1.9%増の内、半分近い0.9%を公共投資が占めている。しかもそれは3月に集中している。

<「結果として出てきた」ゲタ>
これには当然、経企庁が反発せざるを得ない。堺屋長官自身が「粉飾決算報道は事実無根」と表明、「GDP算出を行っているのは経企庁です。今回のGDP算出に当たり、大蔵省から何らかの指示や依頼があったという事実はありません」と強硬な抗議が行われた。ところが、これに対して、「1-3月期のGDPにおいて、公共事業の伸びの部分が大きく影響を与えている。小渕政権として国際公約であるGDP0.5%を実現するために、逆算的に1~3月期ににいわゆるゲタを履かせたのではないかということです。前倒しで公共事業が増えている。これは、粉飾ではないんですか?」との反論に対して、堺屋長官「1-3月期の数字が高ければ次年度の数字は確かに高くなります。その場合に言う、ゲタとは、結果として出てくるもので、意図して履かせるものではありません。GDP1.9%の数字が出たときに驚いたのは事実ですが、景気回復宣言どころか、景気底打ち宣言すら、われわれはしていませんよ」と答えている(『週刊ポスト』7/16号、「堺屋長官が本誌に抗議、激論90分」)。薮蛇とはこのことか、結果としてゲタを履かせていることを認めているのである。
米主要紙も多くが「偶然」、「突発的現象」、「政府による数字操作」といった解説をつけており、7/11付けウォールストリート・ジャーナルは「政府の負債が膨大化するというツケだけが残り、発展途上国並みの新たな危機に遭遇する可能性がある」と指摘している。

<「息切れ」対策の「息切れ」へ>
ここでむしろ問題なのはこうして、税金を湯水のようにつぎ込んで嵩上げされた「上げ底」がプラス・マイナスいずれの方向に向かうかにかかっているといえよう。すでに堺屋長官は、「公共事業が息切れする前に補正予算が必要」と、このままだと秋以降に「息切れ」することを認めている。試算では、公的資本形成は前期に前倒し実施しすぎたために、99年度後半は約3兆円減少することが明らかになっている。
一方、産業界がとなえる「過剰三兄弟」=過剰債務・過剰設備・過剰雇用の調整・解消はこれからが本番であり、進行し始めたばかりである。株価はこれをリストラの進行・「雇用なき成長」と評価して歓迎し、1万8000円台に上昇しているが、これらは一方ではむしろ倒産を増大させ、設備投資を減少させ、失業者を増大させ、結果として景気後退を一層促進させるものであり、デフレ圧力をさらに強めるものでもある。とすれば、99年度後半ばかりか、来年度以降も中長期的に公共事業の増大をさらに維持し続けねばならないということになってしまう。
すでに99年度末の国と地方の財政赤字、長期借入金残高は、当初見込みでも600兆円を超えている。これは名目GDP比で120%を上回っており、先進国中で最悪の水準に達している。補正予算の連続と前倒し実施はもはや限界に達しつつあるといえよう。財政の破綻には必ずツケが回ってくるし、その前に国債の増発そのものが金利を急騰させ、それこそ「発展途上国並みの新たな危機に遭遇する可能性」が増大しているのである。

<債権回収→倒産の手段>
もちろんこれまでの景気対策が効を奏しているものもあるといえよう。しかしそれらは余りにも金融資本救済とばら撒き型公共投資に偏りすぎてきた。最も重視されなければならないGDPの6割以上を占める個人消費に対してはむしろ消費を冷え込ませる政策に終始し、自公連携の象徴となった地域振興券は消費拡大にほとんど寄与せず、その成果を上げることもできないほどの惨澹たる無駄遣いであることを周知させたとも言えよう。
また、昨年10月から実施された信用保証協会による特別保証は、確かにこの間の中小企業の倒産減少に貢献してきたことは間違いないと言えよう。すでにこの保証付き融資を受けた企業は75万社を超え、その額はすでに16兆円を超えている。しかしこれは逆に言えば、これら多くの企業が金融資本から見放され、融資も受けられなかったことを如実に示している。問題は、これら特別保証の返済が始まる10月を待たずに、特別保証融資後の倒産がすでに500件を超え、月毎に急増してきていることである。
銀行は融資を拡大するよりはむしろ、債権回収の手段としてこれを利用し、この公的資金によって回収すれば倒産させるというもっとも悪質な行動を拡大させたのである。ここでも公的資金が完全に死に金と化し、特別保証融資が新たな不良債権をさらに追加する事態をもたらしかねないのである。本格的なリストラの進行はこうした事態をさらに拡大、進行させるであろう。
このところ沈静化していた倒産件数も、8年ぶりに1000件割れとなった2月の955件を底にして、すでに3月1269件、4月1166件、5月1360件(帝国データバンク調べ)と再び増大してきていることは見逃し得ないことである。
日銀短観(6月調査)は、大企業・製造業を中心に景況感が改善してきていると、GDPプラス成長を裏付けるかのような発表をして浮かれている背後で、事態は楽観し得ない現実を突きつけているといえよう。

<中高年の自殺ラッシュ>
警察庁が7/1に発表した98年の自殺者数は史上初めて3万人を突破し、3万2863人に上ったことが明らかになった。毎日毎日、1日に90人もの人々が自殺をしているのである。特徴的なことは、40~64歳の働き盛りの中高年の自殺者が1万6540人と、前年より38%も増大したことである。それは自殺者全体の約半分を占め、その内男性が1万2669人となっている。
さらに問題なのは、原因・動機別では、「経済・生活問題」が6058人と、前年より70%も増えていることである。その内、40~64歳は4490人と74%を超えている。
当然のこととはいえ、中高年の家出も急増している。98年中に警察が捜索願いを受理した家出人数だけでも8万9388人、50代の家出人は16.9%も増大、その結果、街には中高年のホームレスがあふれ、東京・隅田川の堤防や大阪城公園にはブルーのビニールテントが所狭しと並び、駅構内や地下街通路もダンボールや新聞紙上で寝、ネクタイ姿のホームレスまで目立ち始めているという状況である。
7/16に発表された「98年の国民生活基礎調査」によっても、52.1%の世帯が暮らしの状況を「大変苦しい」か「やや苦しい」と答えている。「苦しい」と感じる世帯が5割を超えたのは、73年の調査開始以来初めてのことである。
政府・与党は、「70万人以上の雇用を作る」として緊急雇用対策費5429億円の補正予算を組んだが、自治体の事務作業を民間に委託するなど実施対象や具体策が不明で実効性の疑わしい小手先の対策を寄せ集め、水ぶくれさせるために公明党対策用の「少子化対策交付金」2003億円をこの緊急雇用対策費に潜り込ませている。金融機関の救済には60兆円もの公的資金を投入し、ばら撒き型公共投資には事業規模で100兆円を超える対策を実施してきながら、雇用対策にはこのありさまである。逆立ちした政策の根本的な転換こそが求められているといえよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.260 1999年7月24日

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『詩』 こちらの頭が古い

『詩』 こちらの頭が古い

                大木 透

今年になって はじめて聞いた地名だが
コソボでは 十月には
もう 寒波が 襲うらしい
住人は アルバニア人だという
昔 ホッジャという 男もいた
この近くに
毛沢東が盛んなころだった
こちらは なぜか 疎ましく思っていた
それに なにか 根拠があったか どうか
それを問うてもいいが
それより 懐しさが 先に立ってしまう

この地球を 自分たちのものだと思っていた
夢中になって 遠い未来に 眼を遣っていた
一歩一歩 地球は 美化される
と 信じて
こちらも 美しくなろうとしていた
フラクタルという言葉を知らなかったのに
世界が 美化されて
そして こちらも
武器を持たない素手は
真っ直ぐ アンドロメダに伸びて
背筋を伸ばして 歌っていた
筋の通った世界の歌を
世界の羅針盤の針は
脳裏のなかの森の深さを 測っていた
決して 枉げてなるものか
腕を振りあげていた

聞こえてくる
古い思い出のなかから 煙のように
立ち上ってくる

なぜ コソボなのか
なぜ アイルランドでないのか
なぜ クルドでないのか
なぜ なぜ なぜ
と 古い頭と 萎えた唇は 歌う

(一九九九・六・五)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

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【討論】労働運動の未来を考える意見交換会の記録

【討論】労働運動の未来を考える意見交換会の記録

<構成>
1、リストラの現場と労働運動の課題
2、欧州の新しい社会民主主義の動き
          (以上はNo.259に掲載)
3、現代若者の労働観と変革の時代
4、「市場(いちば)経済」と資本主義経済
          (以上はNo.260に掲載)

1、リストラの現場と労働運動の課題

<労働現場から見えること>
( 録音の不手際のため、スタートから30分程度の部分が消えていましたので、編集者の責任である程度まで、要約させていただきます)
昨年4月からの大阪府の労働相談の報告を見ていて特徴的なのは、まず相談件数が増えていること。その中でも、解雇問題、退職金、賃金未払いなどの特に解雇をめぐる問題がトップで、いじめなども多く見られます。また、労働組合がないとなおさらですが、労働法の知識が労働者の側に極めて薄いことです。高卒の労働者の場合は学校教えられているそうですが、解雇するには1ヶ月前に通告しなければならないことなど、知らないわけです。労働契約は書面で示すことが経営者の義務であることとか、余りに労働者が知らなすぎる。(こうした報告の後、参加者のフリーな意見交換がありました・・・・)

<不安定労働者と労働組合>
佐野:新しい形態の労働組合も出来ています。連合加盟の全国一般東京地本でしたか、インターネット上でのみの労働組合というのもできていますよ。デモも集会もないけれど、相談などにはインターネットを通じてのみ行うということらしい。
吉村:こういう時代には、そんな組合もあっていいかも。特に若い子には、気楽だからね。
佐野:この組合は、以前にもインターネットによる労働相談なんかもやってますね。
中村:デモとか集会とか一切なしで、インターネットの上だけで相談に応じるんやね。
佐野:巣張さんがおっしゃったことですが、自治労では、正規職員以外の非常勤職員や、公務に関係ある外郭団体の職員なども組織対象にしているんです。相談などあれば自治労の組合を作るようにと。
巣張:それをやっている組合はまだ良いと思うんです。昔から採算上でやらんという風潮もあった。1960年前頃かな、うちの組合でも小さいところの相談を受けるとゼニがかかるわけや。計算すると赤字になるがな、というような考え方もあった。しかし、運動である限りは、みんな作っていく中で存在を高めていかな、ということでね。それはなくなったけれど、こんな所に手をかけて、金取られて、うちも財政的にしんどいのにということはあったな。
総評労働運動の前進の流れの中で、それは運動として考えるべきだ、面倒を見るべきだということになってきた。しかし、最近、見ているとそれがまた組合運動の基本的そのものが、ナショナルセンターではなしに、企業連や単組に重きを置く傾向が強まっているように思います。

<電機連合の春闘見直し論の問題点>
電機連合の春闘改革の方針の話がある。連合の存在、産別運動の存在よりも、特に、「すべて労働協約の改定を中心にした運動をすべきだ」というわけです。そうなってくると、企業連と単組が運動の中心であってね、産別の本部とかナショナルセンターとかは、大まかな運動の調整的機能さえあればいい、これは私の受け取り方なんですが、これが電機連合の春闘改革論の主眼だ、と思うわけです。交渉の中心は企業連と単組なんです。
佐野:まだ公務の場合は、本俸(基本給)の比率が高いわけですが、民間の場合は、基本給が3分の1程度、そして資格給と業績給という構成ですから、ベア中心の平均賃金方式では、運動にならないような気もしますが。
巣張:そういう意味で、労働者連帯がだんだんと薄れているという気がします
吉村:むしろ、労働者的連帯以上に、社会的連帯そのものが薄れてきているとも言える、バラバラになってきている。
巣張:電機は非常に高度な技術的な中心的な労働者の賃金基準を確立する、というのが運動になっている。金属機械は中小だから、たとえば旋盤工の賃金を基準にする。鉄鋼はこの労働者というように、この産業はこの労働者というように基幹労働者の賃金を決めただけで、それを中心にしながら社会的賃金を決めていくということで、それはそれなりに意味があるとは思うんだけれど、労働協約中心に2年に1回の交渉にするとかの話も出ているが・・・・・

<地区労運動の存在>
民守:全体として、運動の力が低下している、という問題はあります。そこには旧総評時代の地区労などの地域運動の存在の問題、そこに停滞の原因があるように思います。昔は、大阪の東南地区でも一人でも入れる組合があり、地区労もあって争議があれば、すべての組合が支援する、という関係がありました。連合になって、地域協、地区協というのが出来ましたが、ほとんど選挙対策が中心で、地域の労働者の運動のウエイトは少ないわけです。
合理化なんですが、最近管理職のリストラが多いんです。従来の労働運動が想定しなかった分野です。それが管理職ユニオンになってきた。もっとも、今まで労働者の首を切ってきた人が組合を作ったわけです。あの時もう少し守っていればよかった、という話もありましたが。そういう個別労使の問題も変形してきている、ということもありますね。
吉村:それは佐野くんの領域やと思うが。連合が選挙対策になっている、ということだが、せめて労働相談のホームページでも開け、ということかな。
佐野:連合も10年になりますが、やっぱり、まだ「おつきあい」の域を出ていないんです。たとえば、連合大阪の執行委員会なんて、1時間やって発言するのは、金属か教組なんで、ほとんど議論がないというのが実態では。産別の協調、つきあいみたいな関係が優先されてしまう。地域へいけば、今度は政治力をつけたいので、首長選挙には力を入れる。また、スケジュール的な平和や環境運動もありますが、ある産別だけが動員力がある、多く出すということでは、またギクシャクする、という具合にね・・・ですから、未組織の組織化が運動の方針にはあげられているが、それを一緒にするというところまで、腹割った話ができていないのでは。連合に対する提案を積極的に行っていく必要があると思う。

<緊張関係のある労使関係>
巣張:こないだ、京都の諸君と話をした。僕らもOBだが、連合大阪高退会というのがあって、中央にもOB会があり、他の産別のOB連中とも、よく話をするんだが、昔一緒に運動やった人が多いわけで、「なあ、バリさんよ、連合の会議というのは、発言をしない、ということらしいで」という話がありました。現役に諸君に聞いてもそんな話や。京都の諸君も一緒やというわけ。しかし、連合の会議も、産別の会議、さらに単組の会議もね。昔のようにね、年代別とか小グループに分けるとか工夫してね、やったもんやが、組合が第二労務課と言われるよな状況がないのか、どうかね。組合員は生活がかかっているわけだから、うちの組合は負けてないか、ちょっとぐらい負けていても、頼りになると思えば発言するわけや。そういう意味で連合の会議で発言が出ないという事と合わせて、単組の民主的な運営がなされているかどうか、という意味で昔と比べてよくなってきたかどうか。昔の先輩のやり方のかっこだけまねているのではないか。その辺で一から点検して見ないといけない。もう一つは、緊張関係なんだが、昔は会社とも緊張関係をもっていたというわけだ。緊張関係がね、単組でも産別でもナショナルセンターでもね、どうかということ。連合の今年の旗開きで日経連の根本会長が「日本の労使関係は、諸外国から高く評価されている。今後も連合と協力していく」と言わせておいて、いいのか。緊張関係という点ではいかがなものか。昔と比べると、緊張関係、民主的な運営という面でも弱くなって来ている。
レッドパージ以後、一時停滞した時期があった。その頃の地区労の任務は、社会党の選挙などが中心だった。運動が前進する中で、運動もやし、選挙もやった。運動が強いと選挙も強かった。やはり信頼関係で、運動で作られた信頼が選挙も生きたわけやね。あの頃が非常になつかしいですよ。もう現役を離れて10年になるとね。 今は生産関係もすでにオートメイションになって、現役の諸君もえらいと思うけれど、何かええやり方を見い出してもらいたいと思います。
生駒:NHKの討論で、鷲尾が、「我々は、これだけ協力してやっているのに。出してくれてもいいのに」というもののいい方をするわけやから。松下の代表も、それは非常に感謝していると。
民守:労使協調の問題ですが、緊張関係が必要なんですね。労使合体ではいけません。歩み寄る姿勢は別なんですが、基本的には、対立関係ですから。
生駒:私鉄も中央交渉がなくなってきましたね。
巣張:全体が弱くなってくると、どうしても弱い方向に流れるんです。
佐野:確か震災のあと、阪急と阪神が離脱して以降、ずっとですね。
巣張:日本の資本は、実に賢いし、うまいわな。歴史的に資本にとって有利な労使関係を作ろうという流れの中にある。60・70年代は、労働組合をどう弱めるかという企業の講習会もありましたし、会社が担当者を派遣したりしてね。最近はそんな研修の話は聞かなくなりましたね。必要性がなくなってきたのでは、と思うんですね。
生駒:今は、リストラのために管理職を研修に出すそうですね。自己を見つめなおせと。帰って来ないことを前提に、金をかけて追い出すわけですね。
民守:ある本屋さんの労組幹部と話をした時に、労働関係の本はまず売れないと、その中でも買っていくのが、明らかに労務関係の担当者が領収書をもらって買っていくと。経営者の方がよく勉強していると。
さらに、労働関係の流動化とも関連して、いろんな労働形態が生まれてきていて、労働運動が付いていけていないんです。それが実態なんですね。しかし、労使の問題として注目する必要があるのがセクハラ問題なんです。労働省のガイドラインも出されて、労働問題として対応していくことが必要なんです。ところが、職場において労働組合がまだ対応できていないんですね。

<セクハラ問題と労働組合>
中村:セクハラについては、企業の側の方が対応は早いですね。特に60億円の賠償になった三菱重工の事件以来企業イメージの問題やら、訴訟になることなど、セクハラが起きたら、企業が損をする、という発想ですね。最近日経連がセクハラ問題で1000円の本を出したのですが、なかなか面白いです。 労働省の研修にも企業の方が熱心だと。組合も女性部があれば、まだ取り組みがあるようですが、女性部がない組合では、まだまだ取り組みが弱いです。自治体でも女性部のない自治体では指針作りも進んでいません。自治体が一番遅れています。
福岡の事件以降100件の裁判が出てきて、企業はイメージ・労働意欲の問題などで非常に気を使っていますね。止めさせら訴訟になるとかね、金の問題ではなく、訴訟やごたごたなど損になりますよ、と日経連の本は書き出していますが、当たっていると思います。
巣張:金属機械の現場を見ても、重い労働はなくなりましたから、きたない仕事も機械がしてくれる。労働のあり方が違ってくると、組合員の気質も変わってくる。今の現役の諸君がしんどいな、と思うのは、油にまみれていた労働者なら、意気に感じてね、頭でなしに、「委員長が熱弁ふるってるで」と、中身別でも「よし、やったろ」という時代だった。技術革新・高学歴化が進むと、どう理解してもらうか、組合の方針を納得させて、運動してもらわないとあかん。また、ずっと専従というのも少なくなってきている。そして政党の存在もある。それと社会主義の崩壊も大きい。ソビエトが存在していた頃には、常に意識していたが、あれがあんなふうに崩壊したものやから。それも含めて、今の現役は大変や、と思う。組織労働者は1200万人おるんやから、この部隊ががんばればね、何とかなるんやから。

<社会主義運動と労働組合>
吉村:僕もそう思っていたんだが、労働組合の活動家というのは、少なくとも社会主義への展望をね、持った連中が中心であり、その周りに共感するメンバーがおって、幹部、役員、組合員と結んでいたと思うわけ。それがね、「なんぼやっても、資本主義の枠内だ」ということになるとね、出てこないですね。
中村:でもスエーデンなんか、面白いですね。社会主義は結構女性差別なんで。ソビエトよりもデンマークなんかの方が面白いですよ。女性にとったらね。
生駒:本来、そういうふうに発展すると思っていたわけだけれどね・・・
吉村:それに関係するんだけれど、職業紹介ね、民間でいう考え方が全面にでてきましたね。ところが職業紹介を政府機関もしくは認定された機関でしかできないというのは、昔は人入れ稼業みたいなのがあってね、ピンはねだとか中間搾取を排除するのが目的だった。それが、民間で、ということが出てきても誰も言わない。そしたら少なくとも20人でも30人でもいい、これは職業紹介だけの問題だけではないけれど、デモがあったら、問題になっていくだろうと。それもで出て来ない。けしからん事に問題提起していく、それさえも無くなってしまった、という状況でね。
民守:有料職業紹介の原則自由化という事なんですが、職業情報、リクルートというんですか、結構トラブルが多いんです。公的なものが絡まないと、いろんな事が起きる気がしますね。現実にトラブルが起きているじゃないか、という事を発信していくのか、悩ましい問題です。
吉村:商業新聞を読んでいても、問題提起する行動が出てこないんですね。民間化していくのはあたりまえという状況なんですが、基本的な事も消えているわけです。恐いと思うね。
中村:私は自治体ですが、民間と事情が違うと思うんですが、昔は安保とか賃金・労働条件もとか単純だったじゃないですか。今はすごく課題が多くて国会にかかっている法案だけでも、10数件取り組まないといけない。また地方分権や政策課題がすごく多い。昔って課題がはっきりしていて、また価値観もすっきりしていた。昔は皆が安保反対など旗を挙げてやってる、みたいなことがあったけれど、今は社会全体が動いているので課題が多いんです。また、反対反対ではだめで、対案が求められている。反対と言っている方が楽なんですね。また、課題でも夫婦別姓、など役員の中でも価値観が多様化していて、これは好きだけど、この課題はいや、みたいに。昔は百貨店みたいに、好き嫌いを言ってられなかったけれど、やる側も専門化していて、これもあれも、とたいへんなんです。自分の変革を迫られているし、組合自身もなんですね。能力も求められるが、当局は担当者が対応するわけで、介護保険の専門家との対応にも勉強しなければいけないから、大変です。
吉村:それは自治体の場合、言えないよ。組合の側にも専門家がいるわけやから。ごみならごみの専門家がね。それをいかにするかということね。

<国労、NTTの次は自治労に>
巣張:それはね、国鉄の次は公務員の皆さんのところへ来ているという気がするわけやね。NTTは国労と違った対応をしたと思うんですね。今ね、大阪府の賃金問題、東京でも神奈川でも、人員の削減なども出てきている。自治労が今後どのように自治体の運動を展開しながら、組合員の利益を守っていくか。それをやらないと敵の攻撃にやられてしまうのでは、と思いますね。
佐野:大阪府が2年間定昇ストップ、周辺の自治体でも一部で定昇ストップ、人勧の値切りも起こっています。今年の年末には、さらに多くの自治体で厳しい状況が生まれると予測できますね。人勧も民間のボーナス削減を受けて、マイナス人勧の恐れもあります。財政危機なんです。しかし、敵の攻撃という面と実際の財政危機の問題があるんです。組合も事業をチェックし、政策提案をしていく必要もあるんです。また、情報公開が進んでいるので、旧来の「ヤミ」部分では耐えられないわけです。合理的で情報公開にも耐えられて、財政的にも可能、市民も納得するような内容を組合からも提案する必要がある、という認識ではないでしょうか。経営参加の方向と言ってもいいと思います。まだ構想段階とも言えますが。

<100万人雇用創出問題>
吉村:その前にね、行革でね、公務員は何人減らすと出たでしょう。それに対してほとんどマスコミには反論がでなかった。一方で100万人雇用創出と連合も日経連も言っているでしょう。あの時には、福祉関係37万人ですか、教員関係は30任学級12万人ですか、・・その時に抜けていると思ったのは環境産業で何万人というのはなかったね。例えば福祉関係への投資も雇用を生むんだという提案が弱いと思うわけ。それは皆分かっているんです。例えば主婦の間に、アメリカからの食物に遺伝子操作されているものがあり、せめて表示するようにという意見が出ていますね。環境監視する仕事も公務員の仕事なんです。そういう意味で公務員組合の側からこれだけの仕事の拡大、公務員が要ると積極的な提案があるべきだと思うんです。福祉・介護でこんな仕事に何人要ると具体的な数字に基づく提案がいる。一方で首きりに反対しつつ、新たな人員増の提案もしていくことが必要です。
巣張:民間で言えば、発言権の拡大と。企業をつぶせば組合もえらい事になるわけで、こっちのイニシアで頑張るときは頑張ると。それと大体似たような内容だと思うわけやけれど。それをやったら若いもんも付いてくると思う。組合員は、一般的な話のときは寝ているわけ。ところが、「我が社の・・・」と来ると、ぱっと目の色が変わるわけや。
佐野:吉村さんも巣張さんも元気ですね。巣張さんはおいくつなんですか。
巣張:この4月で72や。1988年に現役引退。ソビエトの崩壊が89年、全金の最後も89年なわけ。

<連合と全労連>
生駒:組合の中の政党の組織化はどうですか。共産党はどうですか。
巣張:共産党の方も、連合結成で全労連になったでしょう。全労連になったということであかんわけ。職場に共産党がいる、ということで、職場での議論が活発化したという経過もあるわけだ。
佐野:あれは、お互いさまというところがあって、我が方でもそうだが、向こうも、ぜんぜん議論がなくなったのではないか。向こうも緊張感がなくなっている。
巣張:そういう意味では、僕らの「産別会議」の最後もそうだった。全労連は80万とかいっているわけだが、産別の最後は、我が金属は1万人やったわけ。連合は連合で強くなってほしいけれど、少なくとも80万人が結集しているという全労連ももうちょっと見えることをしてもらわんと、と思うわけやね。しかも、絶好のチャンスなはずなんや。前から言っているように、労働組合政策がないんやな。その意味では共産党の諸君が、連合と一緒になってね。力を合わせないと、敵の思いに乗っていく事になるんやからね。総評でやっている時は、あの諸君は元気やったよ。僕はひやかしたことがある。総評解散、連合結成の時に「そない反対するんやったら、総評時代になんで協力しなかったんや」とね。

<小野先生のことなど>
吉村:瞭くん、小野くんが亡くなって何年になるのかな。
小野:今年の11月で9年になります。
巣張:国労問題で今日のような懇談会をやった時、小野先生も来てはったね。あれが最後やったな。
吉村:9年と言えば、私は小野さんより8つ下やったから、小野さん以上に僕は生きているんやな。
吉村:彼はね、森さんも言っていたように、「吉村、おまえは、やる時はやるけれど、やらんようになったら、何もせん、小野と見てみ、彼はいつもやっとる」とね。小野さんの場合は息抜きがなかったと思うんやね。
巣張:原の全さんが小野さんより3つ上やったな。86か7才ですよ。明治45年生まれやから。
吉村:瞭くんらの後に、30代の人が出てこんといかんわけや。僕が市大の組合の委員長になった時、37才やったな。30代のその世代がいるんやね。
佐野:35才ぐらいまでは、まだいるんです。その後は、学生組織も旗を仕舞いましたので。市大最後のMGという奴もいますが。
巣張:あの時分は良かったよ。なあ(笑い)。

2、欧州の新しい社会民主主義の動き

<報告:欧州社民主義の動向について>
佐野:テーマを変えて、私の方から報告したいと思います。その前に私の問題意識として、現在の「労働の流動化」政策、あるいは「日本的労使関係」をめぐる攻防がどうなるのか、含めて、どこかで整理をしたいと思っています。日本的労使関係と言われるものは、実態的には「無邪気な労働者」と「悪徳な資本家」と言いますか、そんな関係はあるとしても、それなりに維持されてきたわけです。それを断ちきって「個人対企業」という関係にすっきりと変化できるのか、それで活力が生まれるのかどうか、経営者の側も全部がその方向なのか、後日、改めて検証する場を持ちたいと思っています。
1997年にイギリスでは、17年ぶりにサッチャーの保守党から労働党が政権を奪いました。サッチャーはすでに降りていましたが、労働党が政権に帰り咲いて、今の状況では、英の保守党はEU統合問題で分裂しているという中、4年後の総選挙においても労働党が勝つであろうと言われています。
イギリス労働党は1994年に綱領改正をしまして、党規約4条から「国有化」条項を削除しました。旧来の社会主義志向を完全に払拭したわけです。さらに、労働党自身を労働組合が利益代表として作ったという経過から、党への団体加盟という制度がありまして、大会をしますと、団体の構成員数によって、例えば9割も労働組合代表に評決権が与えられるような状況がありましたが、この間、個人加盟を重視して、規約改正が行われるなどブレアー党首という人材も得て、[New Labour]=新労働党として再生してきた。さらに、従来の党支持層に、職員層、知識層などの中間層の上層にも、支持を拡大してきています。
イギリス労働党の場合は、党を維持したままで、政策を転換してきた。79年の「不満の冬」と言われる、労働攻勢が労働党政権を倒すという状況以後、党内に社会主義派の台頭、総選挙での敗北などがあり、その後、現在の新しい路線を確立していったということは、これまで日本では余り紹介されてこなかったことです。
また、同様に中道左派政権であるイタリアの場合ですが、こちらの場合は、共産党自身が、自己変革し、左翼民主党になって以後、中道左派=オリーブの木を推進してきたわけです。我々の記憶でもイタリアは構造改革路線というイメージがあったわけですが、80年代を通じて、共産主義から「新しい左翼民主主義」路線に転換し、現在はDS(左翼民主主義者)という大きな勢力を形成しているわけです。少数政党が乱立をして、キリスト教民主党が政権の軸にいるという状況から、汚職事件の続発によって、キ民主党が分裂、一方で中道も加えたオリーブの木勢力が政権を取ったのが、1997年。その間に、選挙制度も小選挙区制に変わってきています。
先程の世代論との関係で言えば、イタリアの場合も60年代後半に学生運動の高揚期があったわけで、その世代の活動家がほとんど現在の共産党に最終的には加わっているということ。イギリスの場合も80年代を通じてたくさんの不満分子がいたそうですが、これらの人々も大きく現在の労働党の中にいるということ。「ベルリンゲルの子供達」という本が出ているそうですが、ベルリンゲルの背中を見て育った世代が、現在の党中枢にいるというわけです。日本の場合は、どうなのかなと思うわけですね。
EU15ヶ国のうち、13ヶ国がなんらかの形で中道左派政権というヨーロッパの状況について、我々も注目する必要があると思うわけです。
民守:イギリス労働党は、労働政策については、どうなんですか。
佐野:政権について以降、最低賃金法の制定、労働関係の法整備など積極的に進めているようです。

<資本主義は勝利したか>
吉村:89年にベルリンの壁が崩壊して、91年にはソ連が崩壊するということで社会主義体制が崩壊すると、しかし皆思っていたけれど、資本主義もそううまくいくはずがないということ。市場の原理ということで、弱者切り捨てというのが日本でも強く出てきているわけですが、そのプロセスの中で、最初の波が95・6年頃にポーランドでしたか、東欧で党が復活すると。それから97年くらいからヨーロッパで社会主義政権が出てくると。これの評価をね、ヘッジ・ファンドのジョージ・ソロスでしたか、市場の原理はあかんと、ヘッジ・ファンドの頭目自身が社会正義が必要と言い出す.
これらを全般的に社会主義の復活というに考えていいのか、少なくとも資本主義がいきづまっていることは、はっきりしているわけで、行きつく先が、カジノ資本主義と言う状況。さらに、そこで言われている社会主義というのが、従来の社会主義とは違うわけですね。少なくとも社会正義というのを追求し、実現していく、その中身を民主主義的な方法で追求していくわけですが、その形態は国によってそれぞれであると、いろんなプロセスがあって、いろいろ内容は違うけれども、それを社会正義の実現という言葉で包括できるものなら、再生ということで考えていいのかどうか。僕は、主観的にそう考えたいと思うわけです。

<マルクス主義理論の再検討>
さらに、もう一つ、マルクス主義が持っていたもの、唯物論哲学から史的唯物論、剰余価値学説、階級闘争論などの、どこが残って、どこが間違っていたのかと。これは一人ではできないので、つまり分業体系でね、検討する必要もあるのではないか、と思うわけです。
少なくとも、今までの私たちのマルクス主義の概念と確かに違う、ヨーロッパの新しい民主主義とね。どこが違ったのか、理論的再検討をきっちり全分野にわたってやらんといかんと思うわけ。それが皆やれていないしね。何人か集まって、それぞれの分野で、こういう所が間違いであったか、ということをね。
それから、どう考えていいのか分からないが、今年ですかソビエト共産党の第32回大会があって、初めて旧ソ連の構成国から共産党の代表が集まったそうです。そしたら、ヨーロッパにおける社会主義化の波とね、ソビエトにおける共産党の動きに関係があるのかないのか。そして、おそらく共産党の32回大会の事なんか、ほとんど知らないのではないか。
それからもう一つ、吉瀬さんですか、イギリス労働党についてお話を聞いたのですが、働いて賃金をもらっているものは労働者だと、ホワイトカラーもブルーカラーも一緒に考えてきたわけだ。しかし彼の場合には、ブルーカラーがホワイトカラー化した、そしてホワイトカラー化した労働者に適応しながらイギリスの新しい社会主義の路線を作っていったと。私にはとても印象的だったんです。理論的には労働者であっても、ホワイトカラーと考えている、そして技術革新でホワイトカラー化しているところで、ホワイトカラー化というものを、どういうように考えるべきか、取り込んでいったらいいか、ということだと思うんです。この層への取り組みに我々に柔軟性が欠けてきたのではないか、と思うわけです。
少なくとも破綻した、と言う事は目に見えてきたと思う。
さらに、労使の関係というのは、売った買ったというドライな関係であるはずなのに、俺は会社に20数年働いてきたと、尽くしてきたのに放り出すとは、何事か、と。本来そんなことはありえないわけです。そういう家父長的労使関係の幻想をどう突き崩すか、ということなんだが。
まとまらないんだけれど、今日もしもう少し人が集まっていたら、何も結論を急ぐh必要はないんであってね、いろいろな考え方を出す、年代が違い、活動の場所が違い、現役からリタイア組みから出してもらって、皆バラバラになっているのを、そういうことを語りあえる場、社会主義のことを語り合える場が少なくなっているから、中央大阪、北大阪、南大阪みたいな場を一月に一度でも集まる場があればね。というのは、皆自信が持てないわけ、話し合いがないとね。
佐野:率直に言いますが、僕らの年代の半数は、自信喪失状態ではないか、と思うんです。それぞれ生活があり、また労働運動をしていたりはしてますが、忙しさに負けてね。半分が自信喪失、半分が何とか踏み止まろうと、していると思います。
吉村:社会主義も言われるようにみじめなものではなかったと思います。ヨーロッパの状況をみてもね。日本が一番ヘンなんですがね。

<史上最悪の失業率とホームレス問題>
巣張:労働者が今の生活をどう見ているのかというところが分からないんだが。失業者は多いし、ホームレスは大阪が一番多いと言うし。それに対しても運動が弱いし、悪い事する奴に対する攻勢も弱いし。総評・社会党やったら、どんどん行動があったと思うわけ。ホームレス問題もや。大塩平八郎の時も町民の米弼が空になった時に奮起したというかね。
吉村:意図的にホームレス襲撃なんてことになったらファシズムになりますからね。ところが、失業率4.4%、300万人とホームレス問題は繋がっているんですから。
民守:ホームレスの問題は、連合でも調査したり、大阪市内で8630人かな。民生対策として検討が始まっていますが、国会の労働委員会でも問題になってます。どちらかと言えば景観問題の面もあります。きっちりとした内容をださないと、治安対策になってしまう危険性もあります。
吉村:新聞に出てましたが、ホームレスが近くにいると、レイプされたとか、うわさが出るそうで、大変危険だと思うわけです。
中村:普通の給与所得者がホームレスになっているようですね。

<民主主義と社会主義の関係>
民守:資本主義の中で社会主義的な政策の取り込が行われているということでしょうか。長銀や日債銀の国有化問題も永続的になれば社会主義ということになるわけですが、一時預かりということで問題になっていない、ということでしょうか。イギリス労働党でもあいりんの問題でもそうですが、労働者主権の下での社会主義政策の実行と資本主義の中での社会主義的政策の一時的導入は根本的に違うものだと思います。もう一つは、労働組合の幹部は、これまで社会主義ということが頭にあったということですが、私の方はそうでもなかったのですが、学生時代そっちの方の勉強は好きでなかったわけですが、どっちにしろ思うのは、女性問題でもそうですが、民主主義というものを社会主義と分離させて考えてきたのではないか、民主主義の究極的な発展形態が社会主義であるとすれば、なおさらなんですが。
吉村:感覚的にそう思うのであれば、理論化せなあかんですよ。一時、民主主義の徹底が社会主義だ、と森さんが言ってましたね。あれをもう少し書いておいてほしかったな。
佐野:生駒さんも反省することが多いでしょう。(笑い)
生駒:反省は多いな。(笑い)そのひとつに、社会主義には生産力理論というのがあって、たいへん色濃く濃厚であった。先程雇用100万人計画の中に環境型の問題が出たけれど、環境問題について社会主義ほど鈍感で、むしろ社会主義国と言われた国ほど、僕は悪い役割を果たしてきたのではないかと。原発問題でもそうですが、私自身もそうですが、それほど重視していなかったですね。しかし、ここまで来ると非常に大きな問題になっているし、人類の未来に関わってきているし、今度、生産力主義の裏返しの問題が出てきているような気がします。その辺で理論的な反省がいるんだろうという感じがしています。
佐野:平等感というのも違ってきていますね。昔なら、服がないから大量生産して衣食が足りたわけですが、今は私はこれが欲しい、私はあれが欲しい、という個性的な欲求を満たす時点での平等とは何か、と言う意味で確かに変わってきていますね。
生駒:吉村先生、先程ロシア共産党の話をされましたが、それはどこで読まれましたか。
吉村:「思想運動」でしたか、「解放」でも見ましたよ。
生駒:反省の上にたっているのなら良いのですが、なにやら民族主義的なものを感じるんですが。本来の民主主義的な意味でのものであればいいのですが。確かに、今のエリチィンに対する反発というのはわかるんですけれど、代案がいいものなのかどうかですね。
吉村:資本主義の一人勝ちではなかった、というのははっきりしていますね。
しかし、佐野君の同年代やそれから若い人の中に、資本主義に敗北したということで、流されていくというとね、。私も思い出すと色々な顔がでているわけだが、どうしているのかな。
佐野:前にも言いましたが、大学時代に研究会で「小野・森だ」でやってて、チュウターなんかやってたやつ程、何かに没頭している、という感じですね。
吉村:何かやっているということだけでもね、それこそ知らせてもらったら、と思うわけです。年賀状はたくさんもらっていますが。
生駒:Eさんなんですが、今あの会社の組合委員長なんですが、ずっとなんですが。
巣張:よーやっているな。
生駒:今日は名古屋に出張で、出られないそうなんですが、この2月にやっと年末の一時金の決着がついて、2ヶ月が1ヶ月になったそうですが・・。それでも組合員はしっかり守っているそうです。あの人はやっているな、と思いますね。
民守:社会主義の崩壊に余り落胆しなかった方なんですが、少なくとも今の社会の中で労働者の利害を大切にするような、社会主義的と言ってもいいのですが、具体的な政策がなされるべきだ、とは思っているんです。例えば、規制緩和ではなくて、労働者保護という意味で規制強化ということも必要なんです。また、小さな政府より大きな政府、また地方分権の推進みたいなことも、社会主義的な政策なのかな、とも思うんですが。とりわけ若い世代については、具定的な政策の議論をしないといけないと思うわけです。

3、現代若者の労働観と変革の時代

<現代の若者の状況について>

小野:学生たちと接していますと、今の若い世代は現在のシステムとは何か非常に違うものを求めているように思います。今とは何か根本的に大きく違うもの、それがあるはずだと漠然と感じながら、それはどこにもないわけです。求めているんだけれど、はっきりした展望としてはどこにも得られない。もっと下の子供の学級崩壊問題などにも、そのことは現れていると思うんですが、要するに何の未来的展望もないという状態です。
例えば、最近のセクハラ問題にしても、あるいは地球環境問題にしても、福祉問題にしても、多くの様々な問題に関して個別の問題としては取り組まれてはいても、一つの大きなヴィジョンに包摂されたものではない。だから、個別問題にのめり込む人はどんどんのめり込むし、そういう単目的運動タイプがどんどん出てくるんですが、それにしても何か違うんじゃないの、という気分はあるわけです。
吉村先生が先程おっしゃったような、マルクス主義とは何だったのか、現実の社会主義世界体制とは一体何だったのか、という話をしてやると、学生たちの心にはすごく入るんですね。びっくりするぐらい入るんです。
つまり、何か漠然とした不満・不安があって、それは我々の頃に「時代閉塞感」と言われたような感覚とはかなり違うのですが、でも多少とも依拠できるような「大きな枠組み」もないし、具体的な解決策も何も無いという状況だからこそ、いっそう大きな展望に惹かれるということです。かなり、時代の雰囲気は変わってきていると思います。30代がいないという話がありましたけれど、むしろ20代の中から出てくるのでは、という気がします。

民守:組合の中でも、団塊よりも若い人の方がグループでいろいろやっているという印象はあります。もちろん統制型ではなくて。阪神大震災のは特にそれが出ました。何かをしたい、というエネルギーですね、三無主義とか言われながらね。我々と違った価値観なんですが、求めているといんは感じます。障害者運動なんかにも若い人がボランティアに来てますし。若者に、将来へのビジョン、メニューの提示が出来てないように思います。

小野:私自身が学生だった頃と比べて、学生たちの気分が根本的にどこが違うかと言えば、労働というものに対する考え方が違うわけです。我々の頃は、卒業したら企業に入ると思い込んでいて、しかも入社する企業は大きい方が良いというのがあたりまえであったわけですし、そこからドロップアウトしたら人生破綻する、ということでした。
今の学生は、そんな風には全然思っていないんですね。好きなことがしたい、好きなことをして趣味と実益が合って儲かればそれでいいと。それが見つかるまではパートでもなんでも良いから、フリーターみたいなことをする。それで十分食っていける。要するに「自分探し」ということをやっているわけです。
労働観そのものが、ガラッと変わったと思います。それが何を意味しているのか、ということです。私は、今、これまでの企業観・労働システムが、巨大な変革期に直面しているということではないかと考えています。この労働観の変化というものを、きっちりと理論化していくとすれば、どのような理論作業が必要なのか。
確かに、今の若者たちの行動パターンは、我々が保持してきた価値観・労働観からすると、どこか無責任でいいかげんに写るんですけれど、そうではないんです。生き方そのもの、生きがいそのものが時代として変わってしまっているんです。これは日本だけでなく世界的な傾向で、アメリカなんかもっとずっと進んでいる、ヨーロッパでもそうです。日本はかなり遅れている方でしょう。
労働観・人生観に関わる、そういう雰囲気の変化、価値観の変化をベースにして、ヨーロッパでは新しい形の社民主義政権が誕生している。この欧州の社民政権の考え方は、確かに以前の社会民主主義とはまったく違う、そういう価値観の変化、労働観の変化というものを多少なりとも取り入れたからこそ大衆に受け入れられているのだとは思います。しかし、今大切なのは、じゃ、その先に何があるのか、その先を考えることではないでしょうか。
今のヨーロッパ型社民の考え方、いわゆる「第3の道」というものですが、私は未来への道はこの志向性の中には無いと思います。確かに、それなりに新しい考え方ではあるけれども、考え方そのものはずっと昔からあるものを焼き直しただけですよね。考えるべきは、根本的な労働観の変化のその先に何があるのか、ということをもっと大きなグランドセオリーとして出していく必要があるのではないかということです。

<小林よしのりの「戦争論」>
中村:関係あるかどうか、なんですが、小林よしのりの「戦争論」が流行った時に私思いました。若い子は自己実現を探していると思っていたけれど、そうじゃなくて、あれはとてもわかりやすく書いてあって、ひどい文章だけれど、すごい大反響でベストセラーになったでしょう。ほっておいたら「国のために死ねるのか」みたいなのに行ってしまいそうで、・・・難しい説教調でなく語り言葉で話すんですね。「国のために死ねるのか」というのが新鮮だったんでしょうね。

小野:今年、私のゼミの学生が卒論に取り上げたのが、その「戦争論」だったんです。議論もかなりしました。要するに、小林が語っている問題は、戦後の民主主義の潮流が覆い隠してきたものなんです。きちんと議論をしてこなかった、避けてきた。当然、その中に様々な矛盾があったはずで、そこをうまく突いている。国家という枠組みを前提した上で国家とは何かを考えれば、当たり前の疑問ばかりですから、国家に関する何の思考訓練もしていなければ、彼らの論はすっと染みとおるように入るのです。やっぱり、グランドセオリーを作る中で、戦後50年、隠してきたものを逆の意味で真剣に議論する必要はあると思います。
例えば、自由党の小沢党首の改憲論的考え方についても、やっぱり同じように学生たちに入り込んでいます。小沢党首も、そういう同じ点を突いているわけですね。「普通の国」なら軍備を備え、愛国心を涵養するはずだ-そうした議論に対して、国家とは何かを曖昧にしたままの従来型護憲論の枠組みを根本的に変えるような、あるいは一国平和主義的な偏狭な国家論に基づく考えを変えて、民族国家の思考枠組み自体を超える新たな世界平和のグランドセオリーを建てないと、とても対抗できないと思います。でなければ、これは必ず負けると私は思います。
私は、自衛隊と平和憲法を如何に両立させるかに関して、自衛隊から日本国籍を奪い国連常備軍(自衛隊員は日本国籍を失い史上初の「地球人」となる)として無償提供すべきだとの主張を論文に書きましたが、世の中はとてもまだそこまでは至っていないようです。

中村:学生の人は、小林よしのりを批判する立場ですか。
小野:もちろん、受け入れるほうです。ずっぽりと。
巣張:こっちの方がないんやからな。
民守:若い人に、仮に「社会主義」という価値観が通用しないのだとしたら、なおかつ危険な方向に行かないようにする立場をさがすか、という議論になるんでしょうか。

<社会主義的「企業家」の問題>
小野:まだ旧ソ連が健在だった90年に、オレグ・シャフナザロフという人が、「私的所有-静かなる革命」という論文を書いていまして、私はそれを亡くなる直前の父から読んでみろと教えられ、父の死後、91年にその紹介論文を大学紀要に書きました。シャフナザロフが何を言ったかというと、人々の私的所有に基づく経済的自立ということが最も大切なことであって、私的所有そのものを認めなければならないと、ソ連社会主義体制の中にあって主張した訳です。彼は全ソ労働組合の研究所のスタッフでした。
そうした考え方が旧ソ連に出てきまして私は驚きましたが、実はそうした考え方の源流は50年代、60年代にすでにあったわけです。80年代に、ハンガリーで「社会主義所有論争」という有名な論争がありましたが、それ以前から「社会主義的企業家」=社会主義が目標とすべき最高の価値目標は、人々が自立した企業家として、経済生活を自由に作り出していけるよう支援をしていくべき、という考え方があったのです。リシュカ・チボールというハンガリーの経済学者が60年代から唱えていた説です。私は80年代後半に、このリシュカ理論を勉強しまして、これはすごい、1960年代からこんな考え方を共産主義体制の中で唱えていたということにびっくり仰天しました。
実は今、この考え方は、中国にプラグマティックに取り入れられていて、国有と国営は違う、国有であっても民営でやれるというような考え方に変わってきて、いわゆる「社会主義的市場経済」という形で唱えられています。これは、共産党が国有主体である限り中途半端に終わるでしょうし、うまくいくはずがないと思いますが、考え方自体としては非常に面白い、新しい考え方です。本来、社会主義の議論には国有化論が付いて回るわけですが、国有にして誰が管理し運営し収益を上げることができるのか、それは民営でかまわないよと。そこでは、「所有と経営の分離」として現れている、資本主義の下での所有問題とも同質の問題があるわけですが、このさらに先に、所有と利用との積極的切断が土台となったときには、所有の概念そのものが変わってくるわけです。
古来、革命的変革とは、所有主体の変更を伴うものです。今、起こりつつあることは、所有概念それ自体の根本的変化への動きです。これは、国家論の問題とも直結することになります。ひと頃、「社会有」ということが議論になったことがありましたが、社会有という概念の下での徹底的な民営化をリシュカは早くから唱えておりまして、そうした方向が有り得るのかどうか、徹底的に議論する必要があると思います。

4、「市場(いちば)経済」と資本主義経済

<「いちば」の思想と「しじょう」の思想>
私は、「非資本主義的市場(いちば)経済システム」、別の用語で「万人起業家社会論」と名付けている構想を唱えているんです。つまり資本主義経済システムではないけれども、市場(いちば)経済システムではある、market economyではあるということです。このネーミングは全然受けないので、何か他に良い名前があったらお教え頂きたいのですが。要するに、すべての人が経済的に自立・自律し、自己の経済生活を自分の力で築いていくための経済社会的な土台を如何にすれば築いていくことができるかということです。 このことを理解するには、市場とは何か、資本主義とは何か、に関する原理的考察が必要です。何よりも先ず、「市場」という経済学用語を如何に理解するかが問題となります。これまでの経済学では、その漢字を「しじょう」と読んで、「いちば」と読んではならないと教えてきました。私はそれを「いちば」と読めと教えています。
「しじょう」という読み方は、西欧経済学を輸入してきた日本独特の言い方です。西欧経済学を輸入した時、その経済学はすでに「マーケット・エコノミー」を「価格メカニズム」として定義していました。現実の「いちば」で何が起こっているか、人々の思いがどんな交換関係となって渦巻いているか、そうしたことを一切捨象して、「モノ」と「モノ」との交換比率を表現する、きわめて抽象的で数理的な「価格メカニズム」理論に置き換えてしまっていたのです。日本に経済学が輸入された時、日本の学者たちは「いちば」という具体的な場で起こる複雑極まりない現象・状況をすべて説明する新理論として、それを了解しました。その結果、「マーケット」を「いちば」と翻訳するのでなく、「しじょう」と読ませることで、そうした西欧経済学流の価格理論を意味する言葉として定義したのです。その結果、今でも経済学の教科書の1ページ目は、価格メカニズムの説明から始まります。
マルクス経済学の場合は、ご存じのとおり「商品」から始まります。どちらにしても「モノ」から出発する。マルクスは商品というものに隠された人間関係というものを、商品を解き明かして行く中で追求していくわけですが、少なくとも出発点は商品という「モノ」であって、彼が問題にしたのは商品に含まれる労働量なんですね。
私はまだ教科書を書いていませんが、書くとしたら、1ページは「交換」、つまり市場(いちば)での交換。交換するのは人間ですから、交換の「場」において、人間と人間がどのような思いで取り引きをするか、どのような情報や知識のやり取りをするか、それが経済学の出発点でなければならないのではないか。つまり「モノ」ではなく「ヒト」が出発点になるべきだ、と一生懸命に言っているわけです。市場(いちば)とは、人と人とが対応して、相対取り引きをする「場」、交換の「場」としての市場(いちば)なんです。マーケットとは、きわめて具体的な交換の場そのものです。そこでは、毎日のように無数の交換が行われ、無数の人々の複雑な思いや欲望や諦め等々が錯綜しています。そこで成立する価格関係は、そうした無数の要因の刹那的一断面に過ぎないのです。
「いちば」とは無数の人々の思いから成る「場」なのだとすれば、一人の思いが変われば、価格関係も変化します。それは無限の価格が成り立ち得る、無限の変化可能性を孕んだ「場」なのです。そこに「経済法則」と呼べるような定型的関係は成立しませんし、「等価交換」などという関係も一切成立してはいません。これまでの経済学は、ヒトが行う交換行為を「価格メカニズム」や「経済法則」の中に押し込め、ヒトの要因を徹底的に排除しようとしてきました。経済学において、優れた「理論モデル」とは、ヒトの恣意的意図が一切寄与する余地のない、ヒト抜きの抽象的・数学的モデルのことでした。ヒトの関与要因を一切消し去ったモデルこそが、エレガントなモデルとして学問的に評価されてきたのです。
しかし、ヒトとは、無限に複雑な存在なのではないでしょうか。ヒトが創り出す現実の経済現象から、ヒトを消し去ってしまったら、そこに残るのは非人間的な自己満足的学問に過ぎないのではないでしょうか。私の経済学である「万人起業家社会論」は、出発点にヒトがいます。ヒトどのような思いと共に交換に参加していくか、交換を通じてどのような経験を得るか、それが私の経済学の第一頁です。

<資本主義をどう定義するか>
昔、大阪市大の院生であった頃、教授連中をつかまえて「先生、資本主義を一言で定義してください」と聞きまわったことがあったんです。一言で定義できる教授は、一人もいませんでした。それは、彼らが市場経済に関して従来の理解の枠組みに止まっていたからですし、資本主義経済と市場経済との違いなどという原理的概念を何一つ考えたことがなかったからです。彼らは「資本」概念すら定義できませんでした。
私が資本主義と言う時、それは「法人企業主義」を意味しています。資本主義とは、要するに「資本」が主人公であるような経済社会システムのことですが、資本とは、すなわちその体現者=実際に資本を処理し管理し運用している法人企業のことですから、資本主義というのは要するに「株式会社主義」なんです。
そうすると、非資本主義=資本主義ではない経済システムとはどういうことか。それは、法人が主人公でないということです。では法人企業支配社会をどう覆すかという事ですが、法人企業が主体でなく、人間個人一人ひとりが経済主体と成り得るような、究極の民主主義みたいなシステムを考えています。実は、それこそがマルクスの希求したものでした。株式会社でもなく協同組合でもない、個人をベースとする協同的事業形態をマルクスは模索しました。マルクスは一番最後の晩年に「株式会社でもなければ、協同組合でもない、新しい協業形態とは一体何なのか」を一生懸命考えましたが結論は出ませんでした。
その答えというのが、「万人起業家社会論」の中にあるのではないか、と思うんです。
民守:反論するわけではないですが、封建社会が資本主義に発展する過程には、今おっしゃっている非資本主義的市場経済が存在したはずですね。
小野:そのとおりです。
民守:それでは、そこへ戻るということですか。
小野:違います。結局、この考え方を体系化するためには、すべての学術用語の再定義が必要になります。例えば、先程、今までの市場(しじょう)という言葉を、「いちば」と読めと言ったことは、「いちば」における人間の交換行為を如何に理解するかに直接に関わってきます。
そういう市場(いちば)関係はつまり交換関係であって、サルからヒトになった時、ホモ・サピエンスと呼ばれるようになった時、すでに存在したのではないか。ヒトというのは、対他関係を抜きにしてあり得ないですよね。対他関係を持ちうるものをヒトと呼ぶととりあえず定義すれば、その対他関係は必ず「交換」であった。交換される中味はモノの場合も有り得るし、情報の交換、あるいはヒト自体(奴隷)でもあった。人類史とは、その発生の最初からそういう交換関係を前提にしており、つまり交換の場としての「いちば」が存在していたのです。
サルとヒトとがどこが違うか、それはモノとモノを「やり取り」するかどうかということです。生態学的とか動物行動学的にいろいろ議論はありましょうが、経済学的にみれば、要するにサルは相手の持つモノが欲しければ奪い取ることしかできませんし、また高等なチンパンジーでは自分が獲得したモノを獲得でなかった弱い相手に対して贈与することはできますが、自分のバナナを差し出して相手のリンゴと交換するような、高度に抽象的な媒介・相互評価能力を必要とするようなことはできません。
つまり、ヒトの特質というのは、他のどんな哺乳類・類人猿にもできないような「交換」ができるところにある。だから、人類史は、交換の場としての「市場(いちば)=マーケット」を使ってきた歴史を持っているんじゃないでしょうか。封建時代であれ、古代、先史時代であれ、すべて市場(いちば)関係というものをベースに社会が成り立ってきた。その市場(いちば)のやり取りがベースになって、そして制度的に複雑化され組織化され、また「いちば」の自由が拡大され「いちば」への参加者も拡大していくプロセス、それが人類史ではなかったか、と私は思います。

<法人支配が資本主義時代>
その一つの今日的発展形態が資本主義なのです。だから、資本主義経済という概念と市場(いちば)経済という概念はまったく違うものです。ところが今までの「しじょう」読みの経済学は、市場経済=資本主義経済とほとんどイコールと見なしてきた。市場経済と言えば資本主義のことであり、資本主義経済と言えば市場経済というように、暗黙のうちに考えてきたのです。ところが、「いちば」経済と資本主義経済とは、概念的にまったく違う。だから、その概念を区別するところから経済学は出発するべきではないか。
ポスト資本主義の時代を考えても、市場(いちば)経済を離れることはできません。つまり、経済時代を画するメルクマールは、そういう市場(いちば)経済を、誰がどのような形で支配してきたか、ということ。武士であるのか貴族であるのか、あるいはその土台に奴隷制があるのか農奴制なのか、そういう違いです。資本主義時代には誰が市場(いちば)を牛耳っているのか、法人企業(株式会社)でしょう。
非資本主義的市場経済システムへの方向は、少数の巨大企業が「いちば」を支配するようなシステムから、個人一人ひとりが主体となって「いちば」に大規模に参加し「いちば」を駆動させていく新たな時代への前進であって、当然、個人の自由が平等に保証される新たな民主主義の土台の大規模な建設・拡張をもたらす方向への変化なのです。それは、個人が身分制や土地に縛り付けられていた資本主義以前の封建主義や、古代・中世の農奴社会への後退であるはずがありません。マルクス流の言い方をすれば、それは「資本主義が達成した巨大な物質的成果を土台に、その上に打ち立てられる個体的所有の再建」そのものなのです。その意味で、数年前に、「21世紀にこそ可能な共産主義?」という論文を書いたことがあります。
法人制資本企が経済の支配的担い手として登場してくるのは、19世紀の終わり頃からですね。資本主義がいつ出来たかって言う議論ですが、いろいろな議論がありますが、その本質に着目すれば、19世紀であって、それ以前の17・18世紀は、プレ資本主義ということができる。そういう新しい規定ができる。
そして、法人企業が主導型の市場(いちば)経済システムというものは、もう今や崩れつつある。私はその意味で巨大な変革期である、と言っているわけで、それは先程申し上げた学生たちの気分の中にも、極めて濃厚に現れてきているわけです。もう法人企業に就職するのは嫌だ、という形で。それから、どんどんドロップ・アウトしていく、自立していく、起業家として。退職者が自分で会社を作る、また女性が仲間のネットワークを使って、また優秀な技術者がどんどんスピンアウトしてしまう、インキュベーションをやる、という世界的な、あらがい難い現象。つまり、資本主義はそういう意味でつぶれつつあるのです。ある意味で、インターネットは資本主義の敵だとすら言えるかも知れません。

<起業家をどう育てるか>
だから、労働運動・民主主義運動の課題という点からしても、起業家的な自立をどう育てていくか、ということが運動の基本課題となるべきでしょう。自治体も一生懸命インキュベーションをやっていますが、あれは本来、労働組合や民主主義勢力がやるべき仕事ではないか、と思います。起業家の卵を育てるということ=経済的自立の道筋と土台を作っていく(インキュベーション)仕事ですが、今はほとんどの自治体がやり、国もやっています。通産省がベンチャービジネス協議会というものを作りましたが、大学もインキュベーション講座を作って、関西でも立命館、龍谷、同志社など、関東ではほとんどの大学が作っている。
今までの労働組合運動は賃金・雇用条件を守るということが基本任務でしたが、今はそうではなくて、人間として生きていくための土台つくり、社会的システムつくり、というのを本来やるべきではないか、と思うわけです。
民守:言っていることに誤解があるかもしれませんが、雇うものと雇われるものとの関係というのはこれからもあると思うんです。小野さんの言われることと私の考えが一致するとしたら、企業に従属する労働者ではなくて自立する労働者というものであろうかと、職業能力開発ということが言われますが、労働者自身が技能や技術を高めることにこれまで無関心であったことは事実だろうと思います。これらの支援事業が労働組合の要求でできたかと言えば、職業能力開発=研修=管理強化・労働強化、みたいな教条的、依存的観念が存在していたように感じていますが、そのあたりは一致しているのでしょうか。
小野:おっしゃるとおりだと思います。特に雇用という問題ですが、マルクスの同時代人にジョン・スチュアート・ミルという偉大な思想家がいますが、彼が主張したのは、「雇用関係の廃棄」ということなんです。「雇う・雇われる」という関係そのものが人格的従属・依存関係を生むんであって、これこそ個人的自由の最大の敵であると。その延長線上で「自由論」や「婦人解放論」を書くわけです。他方、マルクスはそういう言い方では直接言及していない。あくまでも労働対資本という問題設定なんです。

<田畑稔さんのアソシエイション論>
実は、数年前に、田畑稔さんが「マルクスとアソシエーション」という本を出されています。私はあれを読んでびっくり仰天して、これはすごいなと思ったんです。つまり、先述しましたマルクスの有名な「個体的所有の再建」という概念がありまして、これは平田清明さんの市民社会派と共産党派の間で何十年も前から議論されて、決着ついていなくてわけがわからないままになっているんですが、田畑さんは「個体的所有」の問題に絡んで、マルクスにおける「個体性」ということを徹底的に掘り下げているんですね。
つまり、ミルが言ったような「雇用関係の廃棄」という問題意識も、マルクスも当然前提として持っていた。やはり共産主義が実現すべきは、徹底した個人的自由であって、その実現の上に人々が新しいつながり方をどうやって創っていくのか、っていうことであって、だから「自由な生産者の連合」につながるわけなんです。
実はマルクスは、「社会主義」という言い方をおそらくしていないと思うんです。私まだちゃんと調べてないんですが、あくまで「共産主義」だと。その共産主義というのを私たちは社会主義だと思っています。ですからレーニンにとって社会主義化の第一歩は電力の国有化だったわけです。つまりすべてを国有化することが社会主義だったわけで、それを通じて共産主義へ、という道筋が描かれたわけです。
実は、マルクス自身はそうではなかった、ということを田畑さんは一生懸命書いているわけです。この指摘は非常に正しい指摘じゃないか。マルクスが例の個体的所有の再建という部分だけに、フランス版資本論を何回も書き直す、最晩年の作業ですがそこだけにこだわって、一生懸命推敲しているんですね。マルクスが何を考えていたのか、我々は原点に帰って、考え直さなければならないのでは、と思います。
佐野:失業に関する本が出ていまして読んだんですが、アメリカでリストラやアウトソーイングということで中高年の人が結構首きりにあって、その人たちが、例えば経理業務、税務などを引き受ける仕事を作りだしているというのがありました。日本の管理者層ならば、「経理部長はできるが、経理はできない」みたいな人がたくさんいるそうですが、アメリカの場合は首きりにあった人がたくさん会社を創ったという話なんですが、それは繋がる話でしょうか。

<非資本主義化しつつあるアメリカ>
小野:まったく同じ話です。要するにアメリカ社会というのは、半分は、もう非資本主義なんです。つまり、アメリカの国民の中上層部に属する人々は、企業への長期従属意識なんて全然持っていません。ある時期企業にいることがあっても、2・3年すると政府の役人してたり、また2・3年すると大学の教授してたり、あるいは全部一緒にやっているとか。これはもう、私の定義によれば、資本主義ではないんです。
アメリカ中上層部のかなりの部分で出来ているということは、その裏返しがあるわけで、それが黒人差別やマイノリティ、ブルーワーカーへのしわよせとして出ている。だから、アメリカの下半分は完全な資本主義、上は資本主義じゃなくなりつつある。ただ、一人ひとりが自立するようになると、リスクという問題が出てくる。生活のリスクをどうするのか。病気になったり、女性が出産したり、その時にどうするか。当然、人間も生き物で動物ですから、生まれた以上は生きなければいけない。人間以外の動物は何も労働しないで、もちろん「労働」しているわけですが、天からの恵みがあるわけです。人間だけなんですね、天からの恵みがないのは。狩猟採集生活をすればもちろん生きていけますが、まあ人間は労働をしなければならない、でもそれは個人のリスクに全面的に依存してなされるべきではない。そこに「社会有」という形態が支えうるのではないか。

<バングラディッシュのグラミン銀行>
私は「生涯生活必要基金」と言っているのですが、動物への天与の恵みのような、人間が一生涯生きていくに必要なものが、人間社会にあっては社会全体のシステムとして当然保障されなければならない、と私は思います。江戸時代以前には、「講」のような相互扶助システムが成立していました。今日の種々の社会保障制度やさまざまな手当て、退職金、生命保険などとして、部分的にはシステム化されています。でも、それらの多くは「天与の恵み」のようなものではありません。
一つの具体例ですが、バングラデシュ、世界で一番貧しいイスラム国ですが、貧しい国の中で最も貧しく、人間扱いすらされていないのは女性なんです。その女性達の自立をどうやって支援するか、そして発展途上国の内発的テイクオフをどうやって実現していくのか、という課題について、チッタゴン大学のムハマド・ヤヌスという教授が80年代前半に、グラミン銀行という画期的な銀行を創設しました。これは、何一つ担保らしき所有物を持たない最底辺の女性達に、無担保でお金を貸していくものです。ごく些細な額ですが、それで牛一頭買う、網かごを作って売りに行く、しかもグループを作らせて連帯責任を持たせる。そして回収していく。回収率は、バングラデシュの市中銀行では半分以下が常態となっていましたが、グラミンでは85%以上という驚異的な成績です。
銀行というと店舗を構えて人々が来るのを待っているのが普通でしょうが、グラミン銀行は違いまして、村へ出かけて金を貸すわけです。しかもタダ貸すだけでなく、一緒に経営指導や生活指導・栄養指導など事細かな支援態勢を組んでいます。女性の場合は、避妊まできっちり教えるというような、一種の総合的生活改善運動なんです。例えば、何年か前の国連人口会議で注目されたのが、バングラデシュの出生率の劇的な低下なんです。それはグラミン銀行の活動があったからなんです。これは、大変な評判になりまして、一つのモデルとされた。
これが1982、3年頃ですが、爆発的にバングラデッシュ全域に広がりまして、さらに同じような方式を取り入れる国がどんどん広がっていっています。先進国でもニューヨークのゲットーの黒人達を対象に自立支援銀行ができ、日本でも「市民バンク」が設立されるなど、そういう形で世界的に大きな運動になってきている。最底辺の人々、寝たきりのお年寄り、障害をもつ人々、幼子を抱えた寡婦等々が、どのように自立していけるか、それをどうやって助けていくか。それがすべての運動の出発点であり、前提とならなければならない、と私は思います。
民守:おっしゃることはよく分かるし、原点としては理解できるんですが、現場から見ますと、まだシステムが出来ていない段階で、・・・・皆路頭に迷うと思うんです。現実政策としてそれを対置するとたいへんな事になると思うんです。根本にする愚論としては、いいと思いますが。

<若者をどう組織化していけるか>
佐野:結論の一歩手前という意味での話なんですが、我々の組織というのはまだまだ統制型の運動なんです。今の若い人を考えると、それではもたない、ということは分かっているんだけれど、その次を考えると、今のお話は考えるヒントになると思います。
民守:労働組合も、ある意味では銀行などとおなじで護送船団方式であった。ただ、すぐに、そうのように変えていくというのもうまく行かない、個人加盟の組織に変えていくこともそうですが。
小野:例えばですね、この多くの人々が自立し自律的経済生活を自ら切り開いていく、そうした現象が日本でも社会現象として起ってきていますし、退職者やリストラされた中高年者たち、普通の家庭の主婦グループなど、市民レベルでの「起業」が増加しています。ただ、特に手を差し延べるべきは、今の学卒者でしょう。半分ぐらいは就職できていません。へんな格好でフリーターやっているというのが半分の半分くらいです。就職しても大企業なんか、うちの大学では無理なんで、もうどんどんやめて行きます。一年経って手紙をよこしたりすると、職場が変わっている。挙げ句の果てに、どんどん自立していきます。整体マッサージ師になったり、あるいは情報関係でゲームソフトを作ったり、やっぱり時代は変わっているんだな、と思いますね。そういう人々、若い層の自立を助ける運動をもし本格的に起こすことができるとしたら、大きな勢力になりうると思います。それから退職者、リストラされた人、そういう人々を繋ぐんですね。それらの人々は力はあるわけですから、その力をどうやって使ったらいいのか、要するに人に使われる経験しかありませんから、自立する踏ん切りがつかなくて、自分を使ってくれる企業や人を探すのが先になってしまっているわけですが、とにかく自分で立ち上がりなさい、という支援活動が
これからの労働組合運動にも不可欠ではないでしょうか・・・
民守:管理職でリストラされた人々は、求人活動をして、「何ができますか」と言われて「私は管理職です」と言ったという話がありますが、そういう意識をどう変えるか。

<労働組合はまだまだ閉じた世界>
佐野:今日の話は、労働運動をテーマにしていますが、巣張さんの現役時代とは違って、今、労働運動の世界は非常に狭い世界になっていると思います。うちの組合でもね、非常に閉じた世界になっています。ただ、私の場合は、環境の市民団体とのつきあいとか、今日のようなつきあいとか、いろんなチャンネルがあるので救われていると思っています。それがなければ本当に狭い世界なんですね。完結した世界というのは、本当に困るんですね。
巣張:今のままの日本の労働組合を見ていると、特権階級の組合に行きつつあるように思うわけだ。先生も言われたような労働者がどんどん増えているわけやね。本工はどんどん減らされているわけ。今の労働組合は差別をね、本工以外の労働者への優越感を持ってね、他の労働者にどう訴えていくのか、ナショナルセンターの活動は、政府とちょこっとやってね、労働条件は企業連の中で、みたいな、今の先生の話を聞くともっともっと、労働組合が運動をしなければいけないわけだ。むしろ今まで以上に、労働組合の運動が強まるということが必要なんやね。昔から企業別労働組合ではなんぼやってもあかんで、諸外国のように個人加盟の労働組合にしないとアカンと、前から言われながら定着している労働組合の歴史を、良い意味で変えていく。今解散してもあかんし、個人加盟でつくってもね、東京の内山さんもね、個人加盟の合同労組などを評価されている。しかし、それはそれなんだが、存在価値からみたら、百人増えたとかねそんな状況では、巨大な勢力になるかと言えば、僕は無理やと、あの展開から見ればね。それは、それとして、今の連合運動に刺激を与えていくとか、・・。
ただ、今の先生の話を聞くと、企業別か産業別か、みたいな問題は飛び超えているね。
中村:私、すごく(小野さんの)授業を受けたいと思った。すごく分かる。うちなんか凄く安定していて、係長にならなくても凄い給料がもらえるんです。悪いことさえしなかったらね。そんな中でも、若い人って、 人間関係につまづいたり、自分で飛び出して農業をやっている子とか、医者をめざしている子、外国のNGO活動をしている子とか、いろいろいるんです。きちっと準備をしてね。
おとうさん(小野義彦氏)の授業を受けた時も非常に感動したけれど、・・・凄い学生に人気があるでしょうね。

<大企業に入らないアメリカの学生達>
小野:学生に、いつも最初にアンケートを取るんです。大きな会社で安定的に働きたいと思っている人、手を挙げてと言っても、3分の1いませんね。毎年減っていますね。じゃ、君は何をするのというと「まあ、フリーターかな」って言うわけです。親はそうして欲しくない、と言うそうですが、会社って嫌という子ばかりですね。私が「君たちのそういう感覚は正しいんだよ」と先ず最初に言うと、すごく授業に乗ってくるんですね。僕たちの学生時代の感覚とまったく違う、君たちの感覚こそが新しい時代を創るんだよ、そういうことを社会のシステムに定着させていくことができるのか、それを考えるのが経済学なんだよとね。

民守:国立大学とか私学とか、大学によって意識は少しは違うんでしょうね。
小野:ただ、こういう感覚は先進国の中で日本が一番遅れているんです。アメリカなどはるかにもっと先を行っていまして、88年頃だったと思いますが、全米経営者連盟というほとんどのビックビジネスが入っている団体ですが、ここと商務省が連名である声明を出したんです。「学生諸君、大企業に入りましょう!」というアピールなんです。どういう事かと言うと、アメリカでは一番優秀な学生は大企業には行きません。彼らは学生時代に事業企画書、プレゼンテイションを作って、こんな会社を作りたいと全米を飛びまわっているんです。大学在学中に企業を作っている。ですから大企業に来るのは、優秀な学生ではないんですね。ですから、大企業のモラルが80年代、非常に低下したわけです。アメリカでは深刻な社会問題にまでなった。それで「声明」になってでてきた。大企業に入ろうと。アメリカはとうの昔にここまで来ているんですね。日本でも遅かれ早かれそうなります。ヨーロッパでも同様ですね。
民守:優秀の価値観が、日本と違う、ということもあるでしょうね。どちらかというと、知識偏重主義ですからね。
小野:集団主義、組織主義なども先進国の中でも、日本の特徴ですね。
民守:同窓会をすると、ドロップアウトした奴が会社の社長、というのが多いし、よく勉強できた奴が公務員ね。
佐野:僕らもドロップアウト組でしょう。勉強せんと旗振ったり、デモばかりしてましたよ。

<ドラスティックに変貌している大企業>
巣張:その観点から行くと、松下でも富士通でも、退職金をね給料の中に組み込むという賃金を導入しているでしょう。今の若い人はこれに賛成だということは、アメリカなんかの例を見て、優秀な若いのを企業が取りたい、というのがあるのかな。
小野:企業の内部そのものが、大きく変わってきているということなんです。昔は、従業員引きとめ、家族的雇用関係とか労使協調路線で来たんですね。ソニーや松下などの大企業は、ドラスティックに変わっています。リストラの人減らしではなく、むしろ社員個人を鍛えるために「出ろ」と言うんです。外の衛星会社や、企業内別会社を作らせて、分社化してしまうなどの変化は今では当たり前に起こっている。こうした変化に、労働運動も民主主義運動もまったく対応していないわけです。例えば富士通に行きますと、従業員が皆違うバッチを付けています。4つくらいの色がありまして、なぜかと聞くと、正社員は1割くらいしかいなくて、後はみんな出向や派遣だというわけです。派遣の形態も単純なものから、いろんな形態があるようで、働いている8,9割が富士通の社員ではないわけです。こんな形態があたりまえになっている。これに対してどうするのか、という話は聞いたことがないですね。
生駒;富士通自身も、外国からの部品の組み立てをしているだけ、みたいなね。
小野:アセンブリなんてしていませんね。
民守:企業の組織形態に変化が出ているのは、管理職は一人、トップは一人だけで、あとは皆フラットなんですね。提供型・参加型で会社運営がされている。それが広がりつつありますね。
小野:大阪に「類塾」というグループがありましす。もともと塾なんですが、非常に伸びて、もう塾なんてものじゃない一大企業集団です。入ってきた新入社員をいきなり社長にするんです。そして、会社をどんどん作れ、というわけです。ありとあらゆる事をやっています。社長の公選制とかも広がっていますし、やりたい奴は手を挙げろとか、社員は2年ぐらいは社長を経験するローテイション制のところも出てきました。大企業のドラスティックな変化というのも結局同じことですね。
民守:労働運動、労働問題に関わるものとして、大きく事情が変わってきていることは事実なんですが、ただそれに柔軟に、或は対抗的に対応できる労働組合なのか、それはどちらでも良いと思うわけです。ただ、その変化を見実据えた対応なのかどうかが問われると思います。見えていない、というのが現状と思います。
中村:たまごクラブのベネッセ・進研ゼミも面白いですね。新入社員に企画を出させる。だから企画ができないのが、こぼれていくわけ。たまごクラブがヒットしたのも、育児書は市場としては開拓しつくされた分野だったのに、女性社員が「おばあちゃんの智恵」を集めようと、おばあちゃんのネットワークを全国につくって発行してヒットしたらしい。企画したのは若い女性社員だったそうです。
佐野:結論を出さないのが、懇談会でして、刺激を与えあって、次に続けたいと思います。私の構想としては、次は教育問題を取り上げたいと思います。今後2ヶ月に1回程度を定期開催できれば、と考えていますので、協力をお願いして、終わりたいと思います。(編集責任:佐野秀夫)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

カテゴリー: 分権, 対談・意見交換 | 【討論】労働運動の未来を考える意見交換会の記録 はコメントを受け付けていません

【読者のお便り】鈴木市蔵さんより

【読者のお便り】鈴木市蔵さんより

五月の空は今日も晴れて、涼風が気持ち良く流れています。
「アサート」よく読んでいる方です。困難に負けず続けている苦闘に酬ゆるためにです。日本の「左」は実に、根底的に変わらねばなりません。革命論を放棄しなければなりません。いま、必要なことは、「改革」、左の綱領です。そこで戦線の統一を計るべきだと信じます。ご健闘を祈ります。
(鈴木 市蔵)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

カテゴリー: 雑感 | 【読者のお便り】鈴木市蔵さんより はコメントを受け付けていません

【投稿】21世紀の私たちのパラダイムへ声を

【投稿】21世紀の私たちのパラダイムへ声を 

日本型小宇宙の崩壊への突入
この大不況がいつまで続くのか、誰も分からない。80年代「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまでいわれた日本型経営、日本的社会構成は21世紀を目前にした今ではすべてが否定されているように思われる。90年代に入って土地の価格、株価、ゴルフ場の会員権などがみんな猛烈なスピードで下落し、当初はバラ色の日本経済と狭い日本の国土、その中で生まれた土地神話に疑いを抱く人はいなかったともいえるし、国際的な情報化社会と金融資本市場の市場競争の再編・変化への対応が遅れたともいえる。そして不況になっても給与は下げることはできないということもまた誰も疑いを挟んでこなかったのだろうが、いまやこれも守ることもできない状況である。
この神話や固定観念が作った社会のパラダイムの崩壊は、土地、株、人件費の崩壊だけでなく終身雇用、年功序列賃金などの労働慣行、成長主義、シェア主義、タテ型分業という経営思想、企業中心主義という社会構造などこれまでの日本的といわれるすべてのパラダイムを崩壊させている。
この崩壊がトリガーとなり、銀行を中心とする日本の金融システムの実質的崩壊、ノンバンク、ゼネコン、不動産業などにおける不良債権の山積みが明らかになり、日本経済の本格的なビックバンがはじまった。それはまたデフレ経済への移行でもある。
経済企画庁が6月10日発表した国民所得統計速報によると、今年1~3月期の国内総生産(GDP)は1997年7~9月期以来、一年半ぶりにプラス成長へ転じ、しかも実質で昨年10~12月期に比べ1.9%、年率換算で7.9%という大幅な伸びを記録した。しかしこれは昨年末におこなわれた特別保証枠の融資や銀行への公的資金の注入によりゼネコン-銀行間での不良債権処理がこの間に一気に行われてきたこと、公共需要の前倒しが集中して行われていることがやっと数字に出てきたという感を免れ得ない。大企業でのリストラや設備廃棄はむしろこれからよりいっそう本格化するというのが企業決算書から受け取れるからだ。それに私の業界でも4月、そして5月の連休明け以降は特に景況が悪化しているというのが偽らざる実感であり、年末より悪いという状況だ。これで特別保証枠を半年で借りている企業はそろそろ返済が始まる時期であり、厳しきなるのはむしろこれからといえる。

新しいパラダイムをつくりあげる声を
信用不安と社会的なモラルハザードを引き起こした様々な事件にもはや生活者的な感覚も麻痺されてきているといえる。ガイドライン法案の通過を手中にしてから、今国会の会期延長で一気に新たな政権「自自公」連立体制づくりをねらう自民党の動きは活発である。「盗聴法」、「中央省庁再編関連法」、「地方分権一括法」「住民基本台帳法」「日の丸・君が代」法制化など政治権力の集中化がねらわれている。21世紀はアジアの時代といわれるように、中国の経済的・政治的なエネルギーがその中心にあることは疑いはないだろうが、ガイドライン法をはじめこれら「有事」に備えるという名目はあったとしても、その狙いは実は国内の危機管理の側面がより強く現れているといえる。オウムの登場や昨今のインターネット犯罪にみられる国家支配の危機が背景にあるだろう。公明がこうした状況で「日の丸・君が代」に賛成を表明し、よりいっそう政権与党としての立場を明確にしはじめた事態を憂慮しなければならない。
21世紀を目前に日本は他のどの国よりも速いスピードで少子高齢社会へと突入している。私は年齢で言えば40代へ突入したが、この10年でますます子育てをする環境は悪化してきている。保育園の父母の会活動で実感できることは、経済的には確かに恵まれているのだが、一人っ子家族の多さである。学校では1学年1クラスが当たり前になり、学校の統廃合もでてきている。子供だけでなく親やその親も含めてコミュニケーションがとれない人々が多くなっていると感じるのは私だけでないだろう。企業の女性の戦力化で女性の社会進出はかなり前進したが、それは同時に生活空間・時間・人間関係におけるゆとりをいよいよ喪失させた。子供を産む生まないという選択の自由ができたといわれるが、それは一面的で、まず社会環境として子育てをできない状況がどんどん進行している。子供が減ると経済的にいっそう厳しい状況が待ち受けている。今の30代あるいは20代をみていると、このまま20年たてば本当に働く労働人口が激減することは誰の目にも明らかだ。そして来年から始まる介護保険である。老人介護は子育てが終わらない内に同時に我々世代におそってくる。
90年代はハイテク技術がいよいよ生活へどんどん入って来た時代であるが、21世紀にはこれらのハイテクが労働の軽減、環境保護、民主主義の徹底など人間生活のゆとりのために役立てられる時代へと向かうのが必然だ。人なくして20世紀に築き上げた文明は何の意味もなくなってしまう。21世紀が人間を中心とした新しい社会のパラダイムとなるように今、40代、30代、20代の世代がどんどん声を上げていきたい。(東京R)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

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【投稿】「自・自・公」路線と経済指標

【投稿】「自・自・公」路線と経済指標

<<ニューヨーク株価の変調>>
「もう落ちる、もう落ちる」と言われ続けながらも上昇を続けてきたニューヨーク株価も、いよいよ変調が現れてきたといえよう。今のところ5/13につけた1万1107ドルを最高値として、1万ドル台割れが焦点になりつつある。5/27にはNYダウ平均株価は前日比235ドルの全面安となり、1万466ドルへ急落、株、債券、ドルのトリプル安となった。その後再び持ち直していたが、6/11、またもや急落、前日比130ドル安、1万490ドル、再びトリプル安で、1ドル=117円のドル安円高となった。今回は大手ヘッジファンドのタイガー・マネジメントの危機説が浮上、顧客からの解約が相次ぎ、資金引き出しが噂され、「FRBが救済を検討する緊急会合を開いている」といった情報まで流れ、大揺れとなる事態をもたらしている。
このダウ平均株価、96年平均株価5742ドルから、99年1万1千ドル台まで急騰してきたのであるが、99年、今年に入ってからの急騰ぶりはバブルの絶頂を記録するかの勢いであった。今年、3/29に1万ドル台の大台を破って以来、わずかに24日という短期間で、5/3、ついに1万1千ドル台を突破している。これまでの1000ドル上昇に要した最短日数は85日(1997/2、6000ドル→7000ドル)である。実に3倍以上の猛スピードである。
ここには明らかに、株価上昇→キャピタルゲイン増加→消費・投資の拡大→株価上昇というバブル循環の過熱化が見て取れる。実体経済を無視した、債券と株式の間で資金がキャッチボールされている、いわゆる「過剰流動性相場」なのである。この過剰流動性は、新興諸国の金融危機で、日欧を中心とする海外の投資家が米国投資に方向転換したことによってさらに拡大されている。

<<FRB議長の「不健全」警告>>
しかしこれによって、昨年のアメリカの経常赤字は2330億ドルであったが、99年はこのまま行けば3500億ドルまで拡大する見込みである。これまではこの赤字を日本と欧州が主としてファイナンスしてきた。しかし日欧合計の経常黒字は2500億ドル程度である。このギャップは簡単には埋められるものではない。すでに米国は増え続ける経常赤字を補うために中南米投資を手控え、さらには引き揚げざるを得ないところに追い込まれようとしている。すでにNY株価の変調以来、ブラジルやアルゼンチンの株価が同時に下落、通貨切り下げ観測が出始め、南米市場が再び動揺し、世界経済撹乱の不安定要因として注視されつつある。
一方で、米経済の成長は、低金利と株価の高騰に支えられて、第1四半期のGDPは予想をはるかに上回る4.5%を記録(98年第4四半期は6%、98年年間成長率は4.3%)、11年ぶりの記録的な消費の上昇を示し、第1四半期の増加率は6.7%という高さである。しかし所得の根幹をなす労賃の上昇率に関しては、99年第一四半期は、当初の0.3%から0.7%に上方修正されたが、この上方修正された労賃上昇率でも、97年第三四半期以来の最低数字であるという。つまり、労働報酬は一貫して低く抑えられたままなのである。それでも「時給の上昇率が4月には0.2%だったのが、5月には0.4%上昇しており、金融市場ではこれをインフレの兆候と予測、懸念している」(6/7付けウォールストリート・ジャーナル)という、それほど危なかっしい曲がり角に来ているということであろう。
5/24、グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長が、「個人貯蓄率はマイナスなのに株高で人々は貯蓄が増えたと勘違いしている。現在の消費は、個人が保有する株価の上昇で強気になって消費を拡大する資産効果に支えられている。米国の個人貯蓄率が最近、可処分所得を消費が上回る状態のマイナスになっており、不健全である」、「これまで生産性の向上で、労働報酬の値上がりを抑えてきたが、それにも限度がある」と警告せざるを得ない状態である。

<<ジョブレス・リカバリーの可能性>>
米国の経常赤字とは逆に、日本の経常黒字は過去最高を記録している。98年度国際収支統計(大蔵省、5/17発表)によると、前年度比17.6%増の15兆2271億円の黒字を記録、過去最高を6年ぶりに更新している。輸出が4.5%減少したとはいえ、アジア向けが低迷したものの、欧米向けは増加、政府や財界の競争力弱体化論や高コスト構造論とは逆に「マクロ的には我が国産業の国際競争力は極めて強いといえるのではないか」(5/11日経)と指摘される実態である。一方、輸入は国内消費の低迷と原油価格の3割以上の下落を受けて、12.5%も減少、リストラ、コスト削減による輸出主導型のひずみがここにも如実に現れているといえよう。
さらに6/10、経企庁が発表した国民所得統計速報によると、99/1-3期の国内総生産(GDP)の実質成長率が前期比1.9%(年率7.9%)増と、6期ぶりにプラスに転じている。寄与度が最も高かったのは前期比10.3%増となった公共投資、その他は個人消費が1.2%増、設備投資が2.5%増である。公共事業の大盤振る舞いと、超低金利ならびに住宅ローン減税による住宅取得優遇策に支えられたものである。しかしこれらはいずれも5期連続にも及んできたマイナス成長の反動増であると同時に一時凌ぎの短期的性格を色濃く持ったものでもある。これらを持続させようとして計画されている5~10兆円にも及ぶさらなる補正予算は、国債の増発を余儀なくさせ、それは直ちに金利の上昇を招きかねないし、打ち出の小槌どころか逆に今後の増税と財政破綻をより一層鮮明にし、マイナス効果となる。企業が声高に叫ぶ「債務、設備、雇用」の過剰とそのリストラ策はこれからが本番である。最悪の失業率のもとでのジョブレス・リカバリー=「雇用なき回復」は、ドル垂れ流しの特権を持ったアメリカでは成立し得ても、日本ではさらに事態を悪化させるだけであろう。

<<「諸勝公明」>>
ここにきて、景気の上昇気運が垣間見えた今の内に懸案を一気に処理し、「GDP速報→補正予算処理などを名目にした会期延長あるいは臨時国会招集→衆議院解散・総選挙」という、経済指標が政局と直接連動する策動が急浮上している。
そうした動きと同時に進行しているのが、「自・自・公」政権誕生の策動である。野中官房長官が公明党に閣内協力を要請し、小渕首相も「参院で数が足りない以上、公明党の協力を得ないといけない。閣外もあるが、閣内に入ってもらえば一番いい」と表明、公明の入閣、内閣改造、党役員人事を行い、加藤前幹事長もその中に取り込んで、自民党の総裁選そのものを止めて、小渕政権の長期安定化を狙おうというものである。
すでに地域振興券以来、公明党は露骨に閣外協力を鮮明にしており、いわば自・自・公の「翼賛体制」のもと、問題法案がろくな審議もなしに、駆け足で次々と通っていく事態である。まさに公明さまさま、「諸勝公明」(6/15『エコノミスト』)である。
憲法違反が明々白々のガイドライン関連戦争法、組織犯罪対策3法、いずれも公明が慎重姿勢のポーズを見せ、つじつま合わせの修正案を提出、審議したとの形式だけ整えて強行可決するやり方である。この後には、国民総背番号制を目的とした住民基本台帳法改正、、憲法調査会設置のための国会法改正等が控えている。
当然、自由党は自公連携に危機感を持ち、自公だけで参院も過半数を超え、公明が入閣すれば自由党は御用済みとなる。すでに盗聴法、住民基本台帳法の修正などは、自由党抜きの自公で決められ、小沢党首は「自由党は政策の一致なしで公明党と連立を組むことはありえない」(6/13、京都での記者会見)と表明、「闘う政策集団」としてよりタカ派的政策を前面に出し、さらに公明が強力に反対している衆院比例区の50議席削減という自自連立の際の合意事項の実行を自民に迫っている。
公明にとっては小選挙区比例代表並立の現行選挙制度では惨敗必至で生き残れないとして、中選挙区制の復活、最低限都市部に二人区を作る、それまでは解散・総選挙は絶対に阻止することを自民に迫っている。自民は両者を使い分けながら事態を切り抜けようとしているわけである。
6/9、政府・自民党は、「日の丸・君が代」法制化法案を今国会に提出することを決定した。広島や長崎、沖縄などの創価学会の反発によって、公明党はこの法案への賛成から一転して慎重審議にに態度を変えていたのであるが、これも入閣条件の一つとして最終的には公明党の賛成を得られるとの見通しを持ったことを明らかにしている。
大阪では、卒業生を名乗る右翼男性が中学校長室に押し入り、日の丸の掲揚を要求して重傷を負わせるという事件が発生している。
盗聴法反対を続ける中村敦夫議員に対して「ハジキでやるぜ!」という脅迫電話が執拗にかけられ、それをを公開した同氏は、「(盗聴法には)与党の中にも疑問を持っている人はいる。時間をかけては造反が相次ぎかねない。それもまた採決を急ぐ理由の一つでしょう。君が代・日の丸法制化だって、なぜこんなに急ぐのか? 結局は、ガイドライン関連法案に関わるものとしてこれが出てきているとしか、私は思えないのです。いわば、準戦時体制の構築に必要なシステムを整えるということです。ガイドラインに合わせ、国内の反戦派の団体や個人、ジャーナリストを封じ込めることが目的なのです。戦時体制を前提においた法案と考える以外に、審議の異常さを説明することはできません。」と述べている。

<<「正体見たり 翼賛会」>>
「自自公の 正体見たり 翼賛会」、これは民主党の菅代表が詠んだ川柳だという。確かにそのとおりである。しかしここまで彼らを野放しにしていた民主党の責任も問われるべきであろう。
6/3に民主党の国会議員十数人が、「阪神タイガースを応援する議員の会」を発足させたという。「活動方針は阪神が優勝したら国会で六甲おろしを歌うこと」とし、すでに関西出身議員を中心に20数名になり、他の党にも働きかけ、「とりあえず東京ドームと甲子園球場に行って野村監督と選手を激励したい」と意気盛んであるという。阪神人気に便乗した魂胆丸出しの姿勢は、何か事態をはきちがえているのではないだろうか。自民党との対決のために、共産党との共闘にまで言及し出した鳩山幹事長代理が、「菅代表にオンブにダッコの政党からの脱皮」を言い出したことなど、もっと真剣に議論されるべき課題が山積しているのではないのか。
日の丸・君が代法制化ではそのきっかけを作り出した共産党の不破委員長が、6/9「戦争法を発動しない」政府を提唱、安保の承認はもちろん、今回強行成立したばかりのガイドライン関連の周辺事態法の存続を前提とした政府を提唱し出した。現実的といえばそれまでだが、これまでの姿勢ばかりか、今後の基本姿勢までが疑われる路線転換である。こうした基本戦略にかかわる路線転換、民主主義の欠如に反対して党内に発信し続けている『さざ波通信』は、6/10付け『しんぶん赤旗』に、「日の丸・君が代、10代、20代の思いは…」と題して掲載された意見の中に、「そのなかで、かつての侵略戦争を自衛のためのやむをえない戦争であったとし、『日の丸・君が代』を全面的に肯定する男子高校生の恥知らずな意見がそのまま掲載されている。この高校生の意見はおそらく小林よしのりらの自由主義史観派の影響によるものであろう。しかし、それにしても、このような反動的意見が堂々と『しんぶん赤旗』に掲載され、しかも批判的なコメントすらまったくつけられていないとは驚きである。『国民的討論』の名を借りた、反動的意見の垂れ流しに、われわれは断固抗議する。」(6/10『さざ波通信』トピックス)と表明している。われらが『アサート』にも思いをはせながら、同感を禁じ得ないところである。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

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【コラム】ひとりごと–東京・大阪の知事選挙に思うこと

【コラム】ひとりごと–東京・大阪の知事選挙に思うこと

統一地方選挙が終わった。今の国民の政治認識や当面の政局を把握するに一つの機会であると思ったが、しかし、その結果は、経済の低調と同様に、もう一つ、メリハリに欠けた結果だったように思える.少なくとも「日本の民主運動は前進している」とはとても言えないものではなかった。○その中で筆者が感じたのは、むしろファシズムへの危機、いや、それがたいそうと言われるのなら、右への旋回ムードである.その一つが東京都知事選挙の石原氏の当選.彼は言うまでもなく、東京都の抱える行政諸問題について、何ら具体的な政策提起をせず、どちらかといえば国政レベルの、また中国への挑戦的言動など、右翼的イデオロギッシュなアジテーションに終始し、しかし長期不況を反映した何となくある民衆の不満を背景に「何か、大胆に行動する」イメージに仕立て上げ、それが票に結び付けたのではないか.民衆をある一つの方向に引き付けようとするとき、それが具体的なものではなく、抽象的・センセーショナルなものであることをみたとき、いささか危険なものを感じざるをえない。○大阪の知事選挙でも然りである。横山府政は、いかに財政状況が悪いとはいえ、特段、この4年間、府民福祉の向上に成果を上げたとは御世辞にも言えない。いや、むしろ4年間の府政を見れば、関西新空港の二期工事の推進や大して需要の見込めない国際会議場の建設、信用組合等への府費投入など、全てが全て、財政再建へに傾注しているとも思えない。そして選挙演説を聞いていると「ソ連生まれの共産府政か、庶民生まれの横山府政か」と前近代的な反共プロパガンダの選挙宣伝であった。それでも票を多く集めたのは、これもまた抽象的な大阪的人気であったのではないか。○おりしも、これを執筆している日は、5月3日の憲法記念日。しかし新聞の見出しを見て驚いた。日の丸の法制化に賛成しているのは77%、君が代でさえ61%が賛成しているという。ほんの十数年前なら考えられないこと。いかに国民の意識が右傾化していることか。また新ガイドラインの国会審議では、民主党の小手先の修正案を受け入れたとはいえ、然したる反対運動もなく、あっさり参議院に送られてしまった。自称「民主派」と唱える政治家は多くいるだろうが、実際のところ何をしているのか。あまり原則的なことばかり言っていても「票にならない、政治家としての立場を危うくする」とでも思っているのか、詭弁を労してあれやこれやと現実主義を全面に出して正当化しているのだろうが。今更ながら「我、連帯を求めて孤立を恐れず」が気骨のある言葉に聞こえてくる。○少々、ファシズムへの危機感を感情的に述べ立てた感もしないでもないが、ただ、その素地・要素だけは備わりつつあるのではないかと言う思いだけは、解っていただきたい。(民)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】『石原慎太郎知事誕生が警告するもの』への疑問

【投稿】『石原慎太郎知事誕生が警告するもの』への疑問

<レッテル張りではなく、正確な石原批判をして欲しい>
本誌前号(NO257)の生駒論文『石原慎太郎都知事誕生が警告するもの』を読んで、いろいろ違和感を感じた。「何故こういう書き方、論理展開になるのだろう。はじめから結論ありきで書いているからではないだろうか。」と思わざるをえなかった。石原都知事誕生を批判する事は、自由である。問題は批判の中身である。レッテル張りではなく、正確な石原批判をして欲しいと思うo「右翼民族主義のもっとも危険で差別意識丸出しの知事の誕生」と書いてある。右翼民族主義とは何なのか。差別意識丸出しとはなにをさしてそういうのか。石原都知事誕生そのものの評価とは別に、石原都知事誕生を批判する生駒論文の批判の内容に納得がいかないのである。

<南京大虐殺とシナ・核発言での程度の低さを露呈した人物か>
「石原は周知のように、これまで何度も虚言・差別発言を売り物にしてきた人物であり、南京大虐殺を『中国側の作り話』『うそ』と断言し、今回も平気でシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら耳らじる事のない程度の低さを露呈してきた人物である。核の問題についても『少なくとも、自前の核を持った国は、厭な、妙な言い方だが、それを盾にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる。』とする認識の程度である。こんな人物が『政治不信』を理由に国会議員を辞任しながら、今度は野心万々に同じ政治不信の伏魔殿とまでいわれる都政に乗り込んで、またもや責任放棄といった事態は十分にありえる事であろう。」と批判している。石原氏がこれまでどんな虚言・差別発言を売り物にしてきた人物か、私は知らないが、今回その根拠として生駒さんがあげている点については、納得がいかないのである。

<いまだはっきりしない「南京大虐殺」の真偽>
生駒さんは「石原は南京大虐殺を『中国側の作り話』『うそ』と断言し・・・」と批判している。「南京大虐殺」の真偽については、現在論争の真っ只中にあることについては周知の事実である。
この問題について石原氏は4月19日の産経新聞(99年4月20日朝刊)のインタビューで次のように応えている。「(当時を知る日本の代表的な有識者に何人もあって)聞いた限りでは、『私たちは見なかった』としている。南京陥落から五日目に(現地に)入った人たちだ。ニューヨーク・タイムスの記者も『おかしい』と言っている。日本軍が攻めてくる前に、ずいぶん、南京で中国人が中国人を殺したんだ。焦土作戦のためにね。・・・日本軍が南京に入る時の人口は20万人足らずだったと思うが、それがなんで30万人になるのか。一万、二万の兵隊、市民は殺したかもしれない。ゲリラとも見分けがつかずに。・・・短期間に三十万人を殺すと言うのは余程計画的でないとできないし、無理な事ですよ。やはり作戦指導(計画)とか日本側にもいろいろあり、(そうした公文書は)改ざんできないのだし、そういう物を(日中)両方でキチツと資料として出し合って、すみやかに検証する必要がある。日本軍が悪い事をしなかったと言っているわけではないのだから。日本政府がやらないのなら東京都が金を出したっていい。大事な事だから日本民族の汚名をそそがないと」
石原氏の発言は、極めて常識的であり、政策的にも重要な事をいっている。「従軍慰安婦」論争と同じく「南京大虐殺」論争も未だ決着がついていない。論点は出尽くしているのである。あとは、韓国政府、中国政府と日本政府が共同して本格的に検証して決着をつけるべき問題なのであるが、不思議にその動きが出てこない。「日本政府がやらないのなら東京都が金を出したっていい。」と主張する石原氏のどこが右翼民族主義者なのだろうか。

<「シナ」は中国への差別発言か>
「今回もシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら恥じる事のない程度の低さを露呈してきた人物…」と批判している。これにたいして石原氏は「最近になって(過去の歴史において中国側がシナと言う言葉に)傷ついた史実が合ったらしいと言う新たな発見をした。(それでシナという言葉は最近使っていないが、もともとは)フランス人がシーヌ、イギリス人がチャイナと言うのと(同じ意味合いで、それとは)違って、同列に日本人がシナというのは(けしからんと中国側がいうのは)、日本とは歴史的に特殊な関係があったからで、それならあえて言う事はないと思った。取り消したわけでもないし、いわない事にしただけだ。」と応えている。インタビュウーの要旨記事だからちょっとわかりにくい点もあるが、石原氏の考えはそれなりに分かる。シナという言葉を使う事によって、石原氏は中国差別をしていることになるのだろうか。生駒さんは、シナという言葉が何故に中国差別になるのか、その根拠を示さずに中国差別の発言と決めつけ、差別意識丸出しの知事の誕生と批判している。シナという言葉が、中国差別であると言う根拠をまず示すべきである。

<核で「駄々」をこねているのは北朝鮮>
「少なくとも、自前の核を持った国は、厭な、妙な、言い方だが、それを盾にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる」とする認識の程度だと生駒さんは石原氏を批判している。この石原氏の発言はどんな文章の中での発言か、生駒さんはここだけを抜粋して批判しているので分からない。この文章を読んで「核で世界に駄々をこねているのは、まさに今の北朝鮮だな。」と真っ先に思ったものである。核を持つた国が世界に向かって駄々をこねられると言うのは、世界政泊をリアルに見た場合の一つの真理である。だからどうするのかが問題なのである。そこの論理展開を抜いて、石原氏のここの発言だけを取り上げて、こんな認識の程度であると批判しても、説得力に欠ける。石原都知事誕生を批判する事は自由である。しかし批判にはその根拠を正確に提示しなければきめつけ、レッテル張りになってしまうのである。

<「日の丸・君力く代」を認める人は右翼民族主義者か。
「石原の『YES,NO』の基準が、『日の丸・君が代』を基軸とした民族主義と右寄りのスタンドプレーと暴言であるだけに、多くの予期せぬ事態をもたらしかねないであろう」と生駒さんは批判しているが、「日の丸・君が代」を基軸とした民族主義と右寄りのスタンドプレーと言う内容が語られていない。「日の丸・君が代」を国旗、国歌と認める事が民族主義になるのか。それの法制化を認める事が民族主義になるのか。もしそうだとすれば、石原氏に限らず国民の大半が民族主義者と言う事になってしまう。ここでも民族主義とは何なのかと言う事は全く明らかにされていない。生駒さんは、自らが批判する民族主義の内容と日の丸・君が代の関係について明らかにする中で、石原氏の批判を展開すべきなのである。

<「日本をほめよう」キャンペーンヘの深読み>
3月17日の全国紙朝刊3紙や地方紙など全国の55紙見開き右側に「ニッポンをほめよう」と大きな活字、その下に「日本の強み、日本のいいところを、ポジティブな姿勢で見つけ出し、見直していこう」などの文書が記され、左側には故吉田茂元首相の顔をアップにした一面大の写真が、製造、金融、サービスなどの広告主59社と、それを掲載した新聞社の計60社による意見広告として掲載された。
生駒さんは「3・29の記者会見で民主党の羽田幹事長が『これは、現在の政府や現状を批判するなと言う事だ。これは民主主義を踏みにじろうとする危険なものだと思う。この時に、何故、こんなキヤンヘーンが行なわれているのか』と厳しく批判したのは当然の事と言えよう」と述べている。
わたしの感じ方と全く違う。わたしはこれを見たとき「いいタイミングで、いい広告をだすなあ」と感心したものである。長く続いた日本経済の不況、政治、官僚、財界の不祥事の連続の中で自信をなくしていた日本。今年に入って経済にも少し明るさが見えかかってきた時に、「ニッポンをほめよう。日本の強み、日本のいいところを見つけ出し、見直していこう」という意見広告が掲載された事が、どうして民主主義を踏みにじろうとする危険なものになるのだろうか。現在の政府や現状を批判するなと言う事にどうしてつながるのか。深読みすぎるのではないだろうか。しかしこれはそれぞれの感じ方の問題であり、どう感じるかは自由である。
問題にしたいのは、羽田幹事長や生駒さんの批判が、国と、時の政府をストレートに一体のものとみなし、国をほめる事が時の政府や現状を批判するなと言う事につながり、民主主義を踏みにじるものだと決めつけている事である。国をほめることと、時の政府をほめる事は直接的には結びつかない事は自明の事ではないか。この「ニッポンをほめよう」の広告のどこに時の政府や現状を批判するなと言う事がかいであるのか。本当に理解に苦しむ批判である。

<あいまいな低投票率批判の矛先>
生駒さんは今回の統一自治体選挙の低投票率を批判している。低投票率を批判するのも自由である。しかし低投票率批判の矛先があいまいなのである。「問題はこうした関心の低さ、投票率の低さを逆に良しとし、その土俵の上でしか政治を考えないようにし、政治を狭め、無関心層を増大させ、政治を馴れ合いと取り引きの場に変え、政界、官僚、財界の利益配分の場にしてきた現実、石原知事誕生はこうした現実にたいする警告であると言えよう」と生駒さんは書いている。この文書には、誰が、どの陣営がそうさせたのかと言う主体を欠落させているので、その意味がよく分からないのである。生駒さんは、意図的に今回の統一自治体選挙で低投票率に誘導したものがいるとでも言うのだろうか。おそらく、政府・自民党が誘導したとでも言いたいのではないかと推測する。これは現場で選挙戦を闘ったものの実感とは全くかけ離れている。選挙戦を闘うものは、投票率一般を上げる事を第一義に考えてはいない。個別の支持する候補者へのできる限りの支持を取りつけるために、決められたルールに従って死力を尽くすのである。その結果、投票率が上がる事もあるし、下がる事もある。それを決めるのは有権者であり、誰かが意図的に操作して低投票率にする事などできるわけがないではないか。生駒さんの低投票率批判の内容は本当に分からない。

<投票棄権も有権者の意志表示>
低投票率である事がそんなに批判されるべき事なのか。かねてからの私の疑問である。低投票率=政治不信、無関心層の増大と決めつけてしまっていいのだろうか。投票棄権も有権者の意思表示ととらえることができるのである。「私は投票を棄権する。この人にどうしても入れたいと言う人がいないから。しかし、投票の結果には従います。」と言う主張があってもいいし、現にあるだろう。投票は、誰かに強制されてするものではないからである。本人の意思で決めるものである。自ら投票を棄権した結果、その後の政治で自らに不利益を被ったと感じれば、自ずと次ぎは投票にいく場合もあるだろうし、また棄権する場合もあるだろう。それはあくまで本人の選択である。それが民主主義のルールではないか。選挙結果をまず素直に認める事である。みずからの政治主張と違った結果になったからと言って、その原因をみずからの政治主張の正当性を導くように分析するのは間違っている。何故、自らの思うようにならないのかと言う自らの政治主張の反省も必要なのではないか。そういう反省の中から、できるだけ選挙結果を客観的に分析し次のとりくみに生かしていくべきなのである。

<旧態依然の公職選挙法の改善を>
選挙戦の論評の中で決まって出てくるのが、「ほとんど政策対決も論議もない盛り上がりに欠ける低調な選挙であった」と言う批判である。何故政策対決も論争もない選挙戦となるのか。批判ばかりしていないでその原因を分析し、具体的改善策を提言すべきなのである。日本の選挙戦は旧態依然の選挙戦で、時代に全くあっていないと思う。公職選挙法の改正抜きに、選挙戦が政策論争を闘うものになるはずがないのである。誰もが感じているのに、その事が大きな声にならない。もっと、選挙活動を自由にし、地方のテレビ・ラジオを使って候補者間の政策論争の場を大胆に提供する。候補者個人が活用する活字媒介については一切制限せず、一定の限度で公的補助をする。「選挙公報」ももっとぶあつい冊子形式に改める。公開討論会も戸別訪問も自由にする。その代わり、街頭演説会を除き、スピーカーでただ候補者の名前を連呼して回る宣伝カーや駅頭での朝だち夕立などは禁止する。今の公職選挙法の改正をしない限り、候補者同志の政策論争などできるわけがない。
(1999・4織田 功)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【書評】アソシエーション論的転回による21世紀へのオールタナティヴを

【書評】アソシエーション論的転回による21世紀へのオールタナティヴを
捧堅二・宇仁宏幸・高橋準二・田畑稔『二一世紀入門──現代世界の転回にむかって』
(青木書店、1999.1.25.発行、2800円)

ソ連型社会主義の崩壊と余震の後、目指すべきであると思われていた社会は霧散した。しかし現存する資本主義体制は、米国一極中心に相変わらず矛盾の拡大を続けている。個のような時期に、「始まりつつあるこの21世紀はどんな世紀なのか」を問うのが本書であり、「現代社会をトータルに、また根本的にとらえなおす」という視点をもつ。
このため本書は、政治学・経済学・科学史・哲学という専門の異なる四人の著者たちの報告と、それをめぐる討論というかたちをとっている。著者たちの問題意識には、共通認識とともにかなりの差異があり、十全にまとまっているとは言い難いが、大筋では次の点に示されていよう。
すなわち「近代主権国家」、「成長経済」、「産業文明」、「近代世界システム」としてとらえられる現代の基本システムが、危機を伴いつつ、脱近代主権国家、脱成長経済、脱産業文明、脱近代世界システムへと向かう再編過程に入っているという認識である。
第一部(政治論)「現代世界とラディカル・デモクラシー」においては、近代主権国家の再編・止揚の主張と、これに代わるものとしての政治的多元主義、ラディカル・デモクラシー、「アソシエイショナルな革命」が説かれる。
第二部(経済論)「現代資本主義の構造変化と調整──成長経済を超えて」では、レギュラシオン理論の立場から、フォーディズムの涸喝の結果、「規模の経済」から「連結の経済」へ、「賃金の生産性インデクセーション」から「自由時間の生産性インデクセーション」への移行、「自由時間の非商品化」が提唱される。
第三部(文明論)「文明は自然を超えられるか」は、自然と文明との関係から、人間中心・人間の例外扱い(天動説的思考)が批判され、人間に対する「より客観的な見方」を主張する。その上で人類の文明史の三段階(狩猟採集文明、農耕文明、工業文明)の最後の段階である工業文明の行き詰まりの指摘と、「脱消費社会」への価値観の転換が重要であるとされる。
そして第四部(世界論)「世界とは何か、現代とは何か──現代と世界の三層構造」では、世界を「我々である我、我である我々」を包摂・囲繞するものの総体として考えるならば、「基本骨格としては、自然層─日常生活層─近代世界システムの三層からなる」構造として解明していくことが不可欠であるとする。そしてその中核をなす近代世界システムの構造的特質(ミクロの合理=マクロの非合理)が陥った危機からの変革のために、「アソシエーション論的転回」の必要が主張される。すなわち「システム─→危機─→闘争─→アソシエーションの実践という、この自生的に再生産されているダイナミズム」こそが、未来論のベースになるとする。
以上のように本書は、それぞれの視点からオールタナティヴの基本方向、基本価値を提示し、読者に呼びかける。しかしこれは、あくまでも第一歩であり、本書で提唱されている事柄も、現実との絡みで進展困難な状況に陥ることもあり得ると言わねばならない。この意味で以下にあるような指摘も、冷静な判断の材料として考慮に入れられねばならないであろう。例えばこうである。
「単純に市民社会を『善玉』扱いするのは危険です。先進国で途上国でも、市民社会は闘争の舞台だということは押さえておく必要があります。日本のNGOについての書物が描くように、(略)それを一律に単なる善意の団体とみるのはナイーヴすぎます。人道だけで動いているのではないことはいうまでもありません」(政治論)。
「貨幣を伴った交換のシステムが発達した状態を経済学者は市場経済と呼びます。しかし、市場経済という社会制度が単独で存在したことはないはずです。市場を通した取得と暴力(実力)による取得という二大方式がいつも競合・共存していたし、現在もそうなのです」(文明論)。
「近代国家が成立する直前のヨーロッパにおいては、私有財産を保護したり経済的契約の履行を強制したりする暴力機構が成立することと市場経済が普及することとは表裏の関係をなしていたことが分かります。今日でもその原理は同じで、経済契約履行の究極的強制力は暴力によって保証されるのです。それがなければ資本主義制度はありません」(同)。
これらの指摘は、現実の社会変革の困難と矛盾を象徴している。しかし本書のような共同研究を手始めとして、これらの面をも含み込んだ、より包括的で具体的な討論と実践が行われることを期待したい。(R)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】緊急経済対策と地方自治体(第2回)

【投稿】緊急経済対策と地方自治体(第2回)
      –「地域振興券」「地域戦略プラン」のドタバタ劇– 

前回は、政府の「緊急経済対策」の中でも、とりわけ地方自治体との関わりが深い「地域振興券」について、そのドタバタ劇、現場の混乱ぶりをレポートしたところである。今回は、「地域振興券」と同様に地方自治体を巻き込み、その現場を混乱させているにもかかわらず、マスコミの関心が薄いため、世間一般にはあまり知られていない「地域戦略プラン」についてレポートする。

ドタバタその2「地域戦略プラン」
<「地域戦略プラン」って?>
「地域戦略プラン」とは何か。これは、小渕首相が平成10年9月に提唱した「生活空間倍増戦略プラン」(質の高い居住スペース、ビジネススペース、レクレーションスペースなどを拡大し、5年間を視野において「明日への投資」を積極的に推進するとして各種の規制緩和策・予算の重点配分などを行ったもの)の一環として打ち出されたもので、「都市と地方の各地域自らがテーマを選んで、複数の市町村等の広域的な連携のもとに、活力とゆとり・うるおいのある生活空間を創造するための総合的なプランを主体的に策定する」としているものである。
「生活空間倍増戦略プラン」そのものは、小渕首相のウリであったにもかかわらず、住宅金融公庫の融資基準・額の増額をはじめ、既存の施策の上乗せや緩和レベルにとどまったものが多く、その内容の新味の無さゆえに、すっかり色あせてしまい、世間やマスコミの注目は後の「経済戦略会議」に移ってしまった。ただ、その一環であるこの「地域戦略プラン」については、地方分権が具体化している状況にある一方で、国・都道府県・市町村の旧来からの関係を如実に反映し、地方自治体の現場に多大な混乱と疲弊をもたらしているものとして、見過ごすことのできない多くの問題をはらんでいるのである。
<メリットは?>
「地域戦略プラン」の策定主体は「複数の市町村」であり、あくまで自主的・主体的にテーマ設定を行って策定するものとされている。その柱は国庫補助事業であり、そのプランが、国土庁を窓口とした関係22省庁からなる「地域戦略プラン推進連絡会議」の認定を受けると、各省庁所管の国庫補助事業の重点的な支援を受けることができるとされている。政府は、全国で400カ所、1地域あたり100億円の事業費(補助金額ではない)で5年間で4兆円程度のプランになると想定していた。
ここで問題となるのは、策定主体が「複数の市町村」であるということである。複数の市町村が広域的に連携して一つの事業を行うということは、それぞれに首長がおり、独立した自治体である以上、その実現には多大な時間・労力がかかるものである。平成6年に制度化された「広域連合」制度があまり活用されていないことを例にとっても、その難しさが分かるというものである。プランの策定期限が3月であるという短期間の中で、そのような広域的に連携したプランを策定せよということは、そもそも無理な話なのである。特に、新たな国庫補助メニューができたわけでもなく、既存の国庫補助事業で重点的に支援するという、市町村にとってメリットが見えにくい状況の中にあっては、そこまで手間暇をかけてまで策定しようという意欲が湧くわけはなく、「地域戦略プラン」が打ち出された当初は、様子見で慎重な市町村が多かったようである。
<予算に群がる省庁・政治家>
一方、平成11年度の政府予算において、この「地域戦略プラン」を推進するための経費として、国土庁は2,000億円の枠を確保しており、認定されたプランの国庫補助事業に対して、各省庁に所管替えして予算執行をするということになった。このため、予算編成過程で小渕カラーを出すために従来のシェア縮小を余儀なくされた各省庁は、我が省庁のシェアを再び確保するべく、この国土庁の2,000億円にハイエナのように群がってきたのである。
結果何が起こったか。国の各省庁は、プランに盛り込むことができる事業の一つに「関連する国や都道府県等の事業」という条項があることをテコに、我が省庁の所管する国や都道府県の事業を基本としたプランを市町村に策定させ、プラン認定を受けることにより、事業予算を獲得しようとしたのである。その手法は様々で、地方出先機関を通じて各都道府県の事業部局に限りなく「命令」近い「事務連絡」を行い、それに呼応した都道府県の事業部局が国から指示のあった事業について市町村にプラン策定を促す、という方法が主にとられたようである。
都道府県にとっては、近年の財政状況の悪化により、少しでも国の補助があることは事業推進にとってありがたい話であり、市町村に対して、ときには「脅し」に近いかたちでプラン策定を迫ったのである。「おたくが要望していた国道延伸の予算を確保するためにはプランを策定せよ」「プランを策定しないと農道設置の予算は保証できない」など・・・。
さらには、自らの選挙区に公共事業予算を引っ張ってきたい政治家の蠢きも随所に表れ、選挙区によっては自-自間の保守系代議士同士の争いの様相を呈するなど、混乱に拍車をかけることになったのである。
市町村にとっては迷惑な話である。確かに市町村が要望していた国や都道府県の事業であるが、未だ事業認可や補助採択の権限を有している国や都道府県あるいは保守系国会議員の意向に逆らうことはできず、短期間でのプラン策定作業を強いられることとなった。しかも、建設省や農水省など国のあらゆる省庁から、それぞれ話が持ち込まれるものであるから、整合性も総合性もあったものではない総花的な「事業てんこ盛り」のプランが、市町村の「自主的・主体的な策定」の名のもとに、できあがってしまったのである。
<欲張った市町村?>
結果、全国で476カ所、総額で当初想定の15倍近くの59兆円となってしまい、あわてた国土庁はその削減にやっきとなり、各都道府県ごとの上限を決めるなどして、プランの見直しを市町村に迫ることとなってしまったのである。日経(2/22)によると、国土庁のコメントとして「市町村が欲張りすぎて、あれもこれもと詰め込みすぎた」としているが、実態はむしろその逆であり、「各省庁が欲張りすぎて、市町村にあれもこれもと詰め込ませた」のである。また、各都道府県ごとの上限も、人口や行政投資実績に基づいて設定されることとなったため、都市部がかなり優遇されることとなった。
市町村にとっては、はたまた迷惑な話であり、せっかく策定したプランの見直し作業を強いられ、都道府県の事業部局の顔色を伺いながら、事業費の削減作業を行ったのである。都道府県内部の混乱も極まっており、各省庁の意向を受けた各事業部局間では、国における予算分捕り合戦さながらの折衝、調整が行われていたようである。
<「分権」の最中に>
いずれにせよ、地方自治体にしてみれば、国の「思いつき」施策によって、ただでさえ忙しい年度末・年度当初を国の予算分捕り合戦に巻き込まれ、忙殺されることとなったのである。
地方分権の議論の中で指摘されていた、旧来からの国庫補助金による地方自治体のコントロールという問題が、地方分権一括法案の作業中という、まさしく地方分権具体化の第一歩の最中に浮かび上がってきたというのは、何とも皮肉なことである。

前回レポートした「地域振興券」と合わせ、国に振り回された地方自治体であるが、裏を返せば、地方分権の現段階での実態はまだまだこの程度なのである。甚だ一般的・抽象的で恐縮であるが、これからの不断の自己努力と自己改革により、地方分権の実現を成し遂げ、このような安易な施策を許すことのない「力」を蓄えていかなければならないことを痛感するのである。(大阪 江川 明)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】99年・統一地方選挙観戦記

【投稿】99年・統一地方選挙観戦記 

ワールドカップ・フランス大会観戦記以来の投稿です。今回は99年統一地方選挙の感想を書かせてもらいます。大きくは2点です。
まず第一は、共産党の日の丸、君が代問題に対する姿勢です。

○恥知らずの日本共産党
統一地方選挙の火蓋が、まさに切られようとする直前に記者会見、さらには大量の全戸ビラ。内容はみなさんご存知のとおり、「国旗、国歌の法制化については反対しない」、「国会で法律として採択されればこれを認める」。要約すればこんなところ。
票を取るためには、なんでもするこのような態度ははなもちならない。今の議席状況を考えれば、「国旗・国歌の法制化」=「日の丸・君が代の法制化」であることは誰の目にも明らか。これに対する責任は無視。「恥知らずの日本共産党」これに極まれり。

○自民党ですら逡巡する法制化
「日の丸・君が代」法制化を語るとき、近隣諸国の反応(近代史の評価をめぐる問題)は忘れてはならない視点。だからこそ自民党ですらその本心とは別にこれまで踏み切ってこなかったはず。
それをいとも簡単に、たかが選挙の票が欲しいために、この時点に言い出すことの犯罪性は誰の目にも明らか。「筋を通す政党」が聞いてあきれる。

○あさましすり替え
「日の丸・君が代」はその出典の議論もさることながら、しょせん明治政府が国策として作成したもの。「君が代」で言えば、本来大昔の「恋歌」。尾崎豊の「I LOVE YOU」となんら変わらない。これを天皇にすり替えた当時の明治政府のコーディネート能力は特筆に価します。時代が変わり今度は、日本共産党が見え見えのあさましいすり替えをするとは、開いた口が……こんなやつらにワールドカップの時の
感動が解るかい!

第二点目には大阪の知事選挙です。
○「相い逃げの大阪」
この選挙の中で、知事選挙が全国で12個所、そのうち10個所が「相乗り」。
大阪では、各政党ともノックの前にまさに「不戦の誓い?」。東京がうらやましく
思えたのは、わたしの人生ではじめてのこと。
4年前にノックが出たときを思い出してください。大政党が談合して、中央官僚を
擁立し、これに対して、賢明な大阪府民はまさに神の審判を下したのでした。
この4年間、大政党は何をしていたのでしょうか。1999年4月に知事選挙があることは、予定のこと。日本が戦争に巻き込まれて、政府がその統治能力を失い、憲法が停止しないかぎり、たとえ天皇が休止したとしても不動の予定。ノック4年間の評価をする前に自己の評価をすべき。
まさに、これを「相い逃げ」と言わずになんと言うのでしょうか。

○「相い逃げ」は立派な犯罪
なぜなら、政党助成法が成立、施行されています。政党は少なからず国民の税金で運営されているはず。政党は常に政見、政策を国民に提示し政権を目指す人間の集団だと私は思っています。その意味では「相乗り」の方がまだまし。闘わずして金を受け取ることは、詐欺または不当利得を得ることと同じ。立派に犯罪の構成要件を成立させていませんか。この意味で、日本共産党だけは犯罪を構成しないのがこの世の皮肉。

○大阪に政党は不要
今回、知事選挙の無効票および白票の数が例年の倍あったことが、4月13日の朝刊に報じられていました。私もその内のひとりです。決してノックに対して評価も否定もできる材料もありあませんが、「ラ」しなかったのです。個人的にはおもしろいオッサンだと思います。ただ、大阪の政党は、政党を名乗る資格がないことだけはわかります。
大阪には政党は不要です。今すぐその看板を外して解散すべきです。
途方もない財政赤字を抱える地方自治体。東の石原、西の横山両氏の健闘と手腕に注目していきたいものです。
(大阪・宝山 豊)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】日米首脳会談の危うさ、脆さ

【投稿】日米首脳会談の危うさ、脆さ

<<首相訪米、相手にされず>>
小渕首相の訪米は、クリントン大統領から盛大な歓迎を受け、首相自身が「大成功」と大はしゃぎしたにもかかわらず、アメリカのマスコミは三日間完全に黙殺、首脳会談と晩餐会が終わった翌日の4日になって初めて儀礼的に短い記事を掲載したが、1面記事はなしという惨澹たるものであった。
小渕首相の就任時、「冷めたピザ」と酷評した米政治評論家のJ・ニューファー氏が「あなたは冷めたピザではない」と語ってくれたと喜び、表紙にピザを両手で差し出す写真が掲載された米週刊誌「タイム」を手にとって、「これだけ宣伝したんだから、ピザ会社からお届け物があっていいのでは」とまでおどけてみせたのであるが、アジア版の表紙にはなったが、肝心の米国版では表紙どころか記事としても全く取り上げられなかったのである。G7メンバー国の元首が公式訪問しながら、新聞が社説でこれをまったく取り上げないという事態は、ある意味では異常とも言えよう。しかし異常なのは、こうした事態をもたらしてきた日米関係である。日本側は始めから小渕首相が対米関係を最も重視し、アメリカ側の要求や宿題に誠心誠意応えることに汲々とし、アメリカ側はそれらを点検し、さらに注文を突きつけるという構図が出来上がってしまっていることにある。
したがっていくら体裁を整え、レンジで再加熱したところで、代わり映えのしない
気の抜けたピザの味は変えようがないと言うものであろう。米国べったりの路線が初めから周知されており、世界の政治経済に緊迫感あるインパクトや事態の打開策など期待できないと見透かされている小渕首相は、米国の新聞での存在感はほぼゼロという状態である。それよりもアメリカのマスコミは、国内でも批判が高まり出したユーゴ空爆や、ロシア元首相チェルノムイルジンの訪米、高校での銃乱射事件、過熱気味の株式市場への警告におおわらわであり、クリントン自身、小渕首相との会談よりも、チェルノムイルジンの調停工作にこそ大いなる期待をかけて緊迫した会談が設定された。これには小渕首相も慌ててチェルノムイルジン特使との会談を急遽行ったのであるが、独自の政治解決の方針や打開策も持たない以上、ありきたりのすれ違いに終わらざるを得なかった。

<<「ならずもの」対策>>
しかし表面上のこうした状況とは裏腹に、今回の日米首脳会談の合意には見逃し得ない重大な問題が提起されていることは間違いない。第一は軍事問題であり、第二は経済問題である。
なにしろ軍事予算世界第2位の国が国内立法措置まで尽くして、世界最大の軍事大国と「軍事同盟強化」を図ったのである。小渕首相にとっては、大統領へのお土産として日米共同作戦の戦争マニュアル=ガイドライン法案の衆議院通過を報告し、参議院でも野党を取り込んで通過させる決意を表明しただけではあるが、周辺諸国はもちろん、日本自身にとっても危険な種をまいたと言えよう。日本側は冷戦体制崩壊後の世界の安全保障体制について米国追随以外に何らの政策・理念・構想も持ち合わせていないのである。一方、米国側は、世界の「ならずもの国家」=イラク、ユーゴ、北朝鮮等に対して、まさに「ならずもの」に対しては、「ならずもの」的にふるまうことを当然とし、軍需産業の在庫消化と新たなミサイル迎撃網構築・スターウォーズ構想を展開し、それらの分担から戦費・兵器・軍隊調達までを同盟国に押し付け、取り仕切ろうとしている。今回の日米合意はこうした危険極まりない戦争挑発行為への加担をより明確にしたのである。
米国のGDP7兆6000億ドル、軍事費約27000億ドルに対して、こうした「ならず者国家」全て合わせてもGDP1740億ドル、軍事費150億ドルにしかすぎない。どの国も米国を脅かすほどの「十分な経済力も軍事力もない」ことは歴然としている。
日本にとって問題は北朝鮮への対応である。米国防総省の「99年国防報告」で、北朝鮮を初めて「アジア太平洋地域で最も重大な脅威」と断定し、「経済状態の悪化が脅威を予測不可能にしている」、「米国まで到達する弾道ミサイルを開発する可能性もある」と脅威を煽っている。煽られている最大の対象は日本である。
これに対して直接の当事国である韓国の金大中大統領は北朝鮮問題の軍事的解決はありえないとの立場から、これまでの政権とは違い、大掛かりな平和攻勢を展開、いわゆる「太陽政策」を堅持していることは周知のことである。
北朝鮮のテポドン発射については「建国50周年で国威発揚にぶち上げた、子供だましの人工衛星打ち上げの失敗であった」という米国防省最終報告が、「北朝鮮が、米国本土が射程距離に入るような弾道ミサイルの開発寸前である」に見解変更が行われ、「この見解変更がクリントン政権の弾道弾迎撃ミサイルシステム導入構想のきっかけ」(2/3ニューヨークタイムズ)となり、クリントンは、かつてレーガンでさえ引っ込めざるを得なかった「スターウォーズ」計画に復活予算をつけると発表した。日本側はすでにこの計画への研究段階からの加担を約束している。これは今や中国にとって最大の警戒すべき脅威ともなっている。今回の日米首脳会談で再び確認された対米追随一辺倒の日本の姿勢が問われているのは当然のことと言えよう。

<<「10月解散説」>>
このところ「あと3年は政権を担当したい」と言い始めた小渕首相である。その首
相個人の政権維持にとってもさらに重大な問題は、日米共同声明の中で「99年度のプラス成長達成に不退転の決意で取り組む」と、99年度のプラス成長を国際公約にしてしまったことである。
ところが、首相訪米前の4/20、IMF(国際通貨基金)は世界経済の見通しを発表し、日本の99年の実質経済成長率をマイナス1.4%と予測したばかりである。IMF
は、日本は99年も戦後最悪の景気後退から抜け出せないとの厳しい見通しを公表したのであるが、これは昨年12月の時点で99年の日本の成長率をマイナス0.5%と予測していたのを0.9%もさらにマイナス修正したものである。失業率についても5%を上回る可能性をあきらかにしている(ムッサー調査局長の記者会見)。3年連続のマイナス成長が確実視されているのである。
にもかかわらず、99年度の成長率を「プラス0.5%」と言い張り、「景気は底を打
ちつつある」、「明るさがみえてきた」、堺屋経企庁長官など「99年度は必ずプラス
成長になる。その確信はますます強くなっている」等と言っているが、今やプラス成長を言うのは小渕首相とその周辺だけにしかすぎなくなっている。
確かに、株価は再び1万7000円台に乗り、金融機関は一息つき、国債などの債券も買われている。しかしそのほとんどは外国人投資家によるものである。外国人投資家は、昨年10月半ばに買い越しに転じて以来、日本株を買い続けており、3月の買い越し額は過去最高の1兆8483億円に達し、株価もこれに応じて急上昇、4/23には日経平均株価は1万6923.25円と昨年3月以来の高値を記録した。これは、アメリカの株価がバブル的上昇のために、一株当たり売上高の1.82倍、それに対して日本株はわずか0.47倍、世界的に見ても最も割安だという(ニューズウィーク誌5/5号)こと、さらに国内的には、政府が実質ゼロまで金利を引き下げたために、運用先を失った投資資金が仕方なく株式市場に流れているだけという、実体の伴わない株高の側面が強いことである。金利ゼロ下での金余りが生み出している「流動性相場」というものである。
50円の額面割れだったゼネコン株が2倍から10倍に急騰したり、200円、300円だった都銀株が2,3倍に急上昇しているのはその証左と言えよう。しかしその脆さは市場参加者の誰もが感じているものである。
実体経済では、それぞれGDPの62%、16%を占める個人消費と設備投資に回復の兆しなどまったくどこにも見えていない。過去最悪の失業率と消費の落ち込みは何度も指摘されていることであるが、設備投資にしても経企庁試算で86兆円の過剰設備があり、99年度の設備投資計画は大企業で前年比9.4%減、中小企業で26.2%減、経団連等からはリストラとともに、「設備廃棄減税」が声高に叫ばれている現状である。「景気は今が底」ではなくこれからまだ二番底、三番底が控えているとも言えよう。
こうした危うさ、脆さを前にして、まずは6月解散説で公明党の抱き込みと与党化、総裁選を前倒しする「無投票再選」まで画策し、景気がさらに底を割る以前に何とか解散を仕掛けたいというのが小渕首相の本音であろう。小渕首相が総裁選再選後直ちに解散・総選挙に踏み切るという「10月解散説」が急速に高まっている、あるいは意図的にそう仕向けているのは、迫り来る危機感から来るものと言えよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【書評】『いま、非情の町で』

【書評】『いま、非情の町で』
                (鎌田慧著、岩波書店、1998.12.18.発行、1,700円)

失業者が戦後未曾有の規模と割合に達し、しかもその内訳では若年労働者の失業の増加という特徴を示している。この大不況・大倒産時代をもたらしたものとその有様について、具体的な現場から冷徹に見通しているのが本書である。
著者は今さら言う必要もない有名なジャーナリストであるが、その姿勢は一貫して、権力構造による抑圧に抗して闘う民衆や個人・地域・生活の側にある。それ故この視点からの主張は、必然的に日本の近代化・企業文化への痛烈な批判となる。
「日本の近代化とは、スクラップ・アンド・ビルドの別名であり、それは、企業の利益のための一方的都合によった」。
「他国の工場を蹴落とすのを至上命令としてきた日本の企業文化の精神とは、競争至上主義だった。(略)とにかく、なりふりかまわずドルを稼ぐ。そのためには、農業も漁業も衰退してもかまわない。なぜならそれら生産性の低いものは、稼いだドルによっていくらでも買うことができる、というのが、日本の産業政策だった」。
このような日本の、「がむしゃらな、バランスを欠いた官・政・財が結託した競争主義」は、いまや「空洞化とリストラ」という破綻を迎えることになったとされる。そしてその象徴が「企業城下町」の大規模な変化である。それはかつての基幹産業であった石炭や重工業にとどまらない。日本各地の元「企業城下町」で次のような光景が見られる。
「炭住など、企業城下町の社宅は廃墟となり、取り壊されて空き地となる。わたしは、これまで、全国でたくさんの草深い廃墟をみてきた。『兵(つわもの)どもの夢の跡』である。城主と重臣は立ち去り、行き場のない、足軽、雑兵の類いがかろうじて余生を送っている。(略)炭鉱は閉山、高炉は解体、ドックはつぶされ、工場は閉鎖されたのである。自動車のコンベアラインも、取り外しはじめられている」。
しかしこの無残な光景にもかかわらず、企業文化の精神(競争主義)はすでに、一致協力、秩序、同調化の強制等の特徴をもったまま、「清潔と排除の論理」として、工場の外部へと流れ出し、社会に蔓延してしまった、と著者は指摘する。このことは、公害、労災、過労死、自殺、精神障害、いじめ、交通事故の多発、汚染食品等々として結果しているのであり、さらにはこのような傾向を批判するべきであった、労働組合もジャーナリズムをも巻き込んでしまったのである。端的に言えば「日本では、戦後もなお、〈経済戦争〉のもとでの戦時体制だったのである」。
そしてこれに対して著者は、「非情の競争から連帯と共生へ。それが労働運動の精神のはずである」として、企業文化の精神(競争主義)を打破する可能性を、地域の住民運動と、反骨の人びとの精神に探ろうとする。本書の内容では、「沖縄の生きる力」や「三井三池炭鉱閉山の陰に」等のルポルタージュが前者のそれであり、丸木俊、今村昌平、家永三郎、浅野史郎(宮城県知事)、土屋正忠(武蔵野市長)等へのインタビューが後者のそれである。これらは、「いままでの政策が破滅への突進であったとすれば、これからはさまざまな産業を活かす、複合的な生き方である。それこそは、子どもたちの将来にさまざまな可能性を生かすことができる」と位置付けられ、「共生であり、共成である」生き方への一筋の道とされる。
「いま、サラリーマンたちが、必要以上に失業の不安におびやかされるようになったのは、依拠するものが喪失しかかっているからである。会社の永遠性と生涯雇用の約束はもはやない。倒産と失業に対抗するための労働組合には信頼性はなく、連帯感は断ち切られたままだ」。
このような状況に置かれながらも、「孤立してなお抵抗するようには生きてきていなかった」人びとに対して、「無理をせずに、ともに生きる関係とはどういうものか」を考えさせる素材として本書はある。(R)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【投稿】統一地方選 前半戦を終えて

【投稿】統一地方選 前半戦を終えて

4月11日投票の知事選挙、府県議会・政令都市議会議員選挙が確定し、統一自治体選挙前半戦が終わった。十分な分析は今後に譲るとして特徴的なことだけ述べてみたい。

<東京、大阪でタレント知事>
マスコミも注目したように、東京、大阪で政党候補が敗北し、タレント候補が共に圧勝したことは、大きな特徴であった。東京では、青島辞任により、石原、鳩山、桝添、三上、明石、柿沢の6候補の争いとなり、当初懸念されていた4分の1条項・再選挙もなく、石原の圧倒的勝利に終わった。
今回も投票率は57%と高かったが、民主鳩山も含めて、支持政党層からも石原票が出ているという調査がでている。朝日新聞によれば、石原に投票した人の内、50%以上が実行力に期待している、という。青島前知事への期待に反して、都政改革が出来なかったことへの反発とも言えるが、石原の「実行力」とは都民の期待とは、少し違った方向に向うことは間違いがない。特に「福祉サービスはすべて民間で」発言など東京都職員・労組への攻撃は厳しいものが予想される。
一方、大阪では、ノックと共産党候補の構図となったが、ノックが票を倍増する勢いで圧勝し、共産候補も票を伸ばしたものの、躍進とは言えない結果となった。選挙終盤で運動員の女性がノックをセクハラ告訴する動きもマスコミが報道を控えたことで、大きな影響とはならなかった。知事というより、人柄に対する評価で圧勝したと言えるが、第2期府政運営にあたって、共産党を除く政党対応は、前回のような少数与党からは変化するものと思われる。
東京、大阪に共通しているのは、東京が「石原軍団」、大阪の「吉本興行」と大量のタレントが「人寄せパンダ」としてマスコミ効果を利用できる候補である点だ。地方自治の論争が行われず、人気選挙の面が強まっていることは、決して好ましいことではない。

<民主横ばい、共産躍進の府県議員>
府県議員に目を移すと、大きな変化が生まれているというわけではない。地方組織の確立が遅れている民主党は、従来の旧社民、旧民社グループなどの系列で、候補毎の独自の運動が行われたわけで、当選議員数も横ばいとなった。選挙協力という形では、単独候補の場合に個別の協力関係はかなり進んだ面も否定できない。昨年の参議院選挙の余韻を残す運動員には、民主党への風を期待する傾向もあったが(私も含めて)、ほとんど無風と言う結果であった。
他方、共産党に、風は吹いたようだ。特に兵庫県議会には、昨年の神戸市長選挙から続く空港反対運動と連動して、共産党が躍進した。全国的にも府県議会議員を増やし、公明、民主とほぼ同数の議員を確保している。
公明は現職確保をしたが、一方で候補を立てない選挙区での、自民、民主、無所属候補などとの選挙協力を強め、各議会での政治的影響力の確保、衆議院選挙への戦略という意味でしたたかな選挙をおこなったのではないか。
4月18日から、統一地方選挙後半選、市町村での首長選、議員選挙に突入する。前半選の傾向は、おそらく変わらないと思われる。私も含めて、また忙しい日々が続くというわけだ。(佐野秀夫)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【投稿】緊急経済対策と地方自治体

【投稿】緊急経済対策と地方自治体
    —「地域振興券」「地域戦略プラン」のドタバタ劇—

政府は、昨年11月16日の経済対策閣僚会議において、「緊急経済対策」を取りまとめた。金融システムの安定化対策、景気回復策を中心に鳴り物入りで打ち出されたものであるが、当初からその効果に疑問の声があり、4ヶ月経った今では、すっかり色あせたものとなっている。一方、従来の経済対策と違って今回特徴的なのは、地方自治体とりわけ市町村と密接なかかわりを持ったものとなっていることである。今までも景気対策にからめて、公共事業の積極的な推進に地方自治体を誘導したものはあったが、今回はそれ以上に地方自治体を巻き込み、国・地方の総力を挙げて景気回復を図ろうという姿勢を見せようとしている。その内容たるや、地方自治体にとっては甚だ迷惑なおそまつなものなのだが、地方分権関連法案がいよいよ国会で審議され、「地方分権が具体化の段階に入った」と言われている昨今、看過できない多くの問題を含んでいる。今月と来月の2回に分けて、緊急経済対策の一環である「地域振興券」と「地域戦略プラン」のドタバタ劇をレポートする。

ドタバタその1「地域振興券」
<地方分権の試金石!?>
参議院で過半数を大きく割っている自民党が、公明党の取り込みを目的に参議院選公約の「商品券構想」を譲歩して受け入れたものであることは周知のことである。「7,000億円の国会対策費」「天下の愚策」などと揶揄されながらも、緊急経済対策の目玉として一人あたり2万円の地域振興券交付事業は実現してしまったのである。
その実施主体は市町村となった。経費は事務費も含めて、すべて国が補助するのであるが、法律の根拠がまったくない、いわゆる予算補助である。法的には市町村の固有事務、最近の言い方で言えば自治事務だという。「地域振興が目的だから」(自治省)であるが、市町村の側に事業を実施するかどうかの主体的な判断の余地はまったくないに等しい。市町村にとっては法的には拒否できるのであるが、外堀を埋められ半ば強制的に実施せざるを得ない状況に追い込まれているのである。年度末までの交付という短期間で施策を実施させるために、市町村を最も「押さえている」自治省が所管したことからも、その意図が伺えるだろう。しかも、事細かに交付事務の詳細が決定され、地域振興券のデザイン以外は市町村の独自判断はほとんどできない状況になっている。
自治省首脳は「地方分権の試金石だ」などと言っているそうだが、国の態度や現場の現実を見るならば、地方分権にはほど遠い実態なのである。
<景気対策?福祉対策?>
その事業の内容であるが、公明党の当初の一律交付構想が政治的妥協の中で大きく変容し、15歳以下の児童を持つ世帯主と一定条件の年金・手当受給者、非課税の65歳以上などに交付対象が限定されることになった。景気対策なのか、福祉対策なのか、よく分からない施策となったのであるが、これが住民や市町村の混乱に拍車をかけることになった。
まず、市町村のどの部署でこの事業を担当するのか。福祉部門なのか、商業部門なのか、いずれにせよ、短期間で実施しなければならない状況の中で、縦割りの振り合いをやっている場合ではなく、臨時機構や推進本部などによって、横断的に対応し、職員の動員も含めて総力で実施している市町村が多いようである。皮肉なことに、自治省の「指導」に従って、積極的に人員削減・行革を進めてきた自治体ほど、降って湧いたこの仕事への対応が苦しくなっているのである
住民にとっては、マスコミ報道などにより65歳以上ということが先行し、実際は老齢福祉年金や障害基礎年金などの受給者など一部の人々が対象なのにもかかわらず、多くの高齢者は自分が対象となると期待してしまい、市町村に多くの抗議が殺到した。一方で、在日外国人高齢者など制度的無年金者が切り捨てられることとなり、在日コリアン団体などからの批判の対象となっている。
15歳以下というのも評判が悪い。子育て・教育的にはむしろ16歳以上の方が教育費など負担が大きいのではないかとの反発が強い。税制的に言えばこの層は扶養控除額で考慮されているのであるが、商品券の現物の前には納得が得られない。
<またもバラマキ>
地域振興券の取り扱い店舗は、事前に所在の市町村に登録しなければならず、当該市町村の地域振興券しか取り扱えない。地元業者や商店街のみに限定することは慎重に、という国のお達しもあり、実際は大規模店舗も含めて登録されている。 そうなると、最近の住民の消費傾向からすれば、ほとんどが大規模店舗に地域振興券が流れることは必至である。
何をもって「地域振興」というのか議論があるだろうが、実態としてはいわゆる地元にあまり効果は及ぼさないのではないかと見られている。各市町村では、地域振興券とリンクした商店街のイベントに助成金を出すなど、地元商店街の活性化に工夫を凝らしているが、例によって行政との持たれ合い・補助金バラマキとなってしまっている。
<果たして効果は・・・>
マスコミはデザインや交付開始日の早さなどを盛んに報道し、市町村間の不毛な競争を煽っている。3月中旬からは全国的に交付が本格化する中で、短期間で事務をこなしたことによる市町村の交付ミスや事業者への換金の遅さなどが、テレビ・新聞を賑わせている。
「地域振興券は我が党の提案」と統一地方選に向けて大宣伝をしていた公明党であるが、またもや国会対策で自民党が第2弾の実施をにおわせていることに対しては、住民のあまりの反発の強さ、不評の多さに、腰が引けた状況に陥ってしまっている。
先日ある民間シンクタンクの調査が発表された。今回の地域振興券でプラスアルファの買い物をするのは2割、普段どおりの買い物に使うというのは7割という結果だった。大半の人々は地域振興券で浮いた分を不足している生活費の足しや貯蓄に回そうとしているのである。やはり、景気対策としての効果は疑わしいのであろうか。ただ、これだけの公費をつぎ込み、年度末でただでさえ忙しい市町村を苦しめていた状況になってしまったからには、少しは効果が出てほしいものである。

次回は、小渕内閣のウリである生活空間倍増戦略プランの一環である「地域戦略プラン」のドタバタ劇を紹介し、各省庁の予算分捕り合戦に巻き込まれた市町村・都道府県の混乱ぶりをレポートしたい。(大阪 江川 明)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【投稿】統一地方選・・石原慎太郎都知事誕生が警告するもの

【投稿】統一地方選・・石原慎太郎都知事誕生が警告するもの

<相乗り主義への反撃>
小渕政権が発足して初めての全国レベルの選挙、統一地方選挙、とりわけ注目された都知事選挙で、自民・公明が推した明石候補は完敗し、石原慎太郎都知事が実現することとなった。右派民族主義の最も危険で差別意識丸出しの知事の誕生である。
12都道府県知事選の内、東京と福井以外の9知事選は、自民党から民主党、公明党をはじめとした2~7政党の相乗りで現職が再選され、それに対して共産党がオール与党批判で挑戦するというお決まりの選挙戦で、ほとんど政策対決も論議もない盛り上がりに欠ける低調な選挙となった。府県議会議員選挙ではこれを反映して、大枠には変化のない自民減・共産増となった。
唯一乱戦選挙となった都知事選の結果は、まさにこうした既成政党の御都合主義と相乗り主義、政党隠しや裏取り引きに対する強烈な反撃であったとも言えよう。そのことは、自民党支持票の45%が石原支持に流れ、明石には22%しか行かず、最大の票田である無党派層は31%が石原へ、21%が舛添に、17%が三上、15%が鳩山、明石には実に5%しか行かなかったということに象徴的に現れている(NHK4/11出口調査集計結果)。

<「このダメな国を、ほめよう!」作戦>
投票率は若干は上がったというが、相いも変わらず低く、激戦で盛り上がったといわれる都知事選でも7%上がっても57.87%にしかすぎず、大阪府知事選では54.17%という低さであった。
問題はこうした関心の低さ、投票率の低さを逆に良しとし、その土俵の上でしか政治を考えないようにし、政治を狭め、無関心層を増大させ、政治を馴れ合いと取引の場に変え、政界、官僚、財界の利益配分の場にしてきた現実、石原知事誕生はこうした現実に対する警告でもあるといえよう。
この点で今回異常なキャンペーンが行われたことに警戒すべきであろう。それは東京都知事・大阪府知事をはじめ統一地方選前半の告示日当日の3/25から一斉に掲載された「ニッポンをほめよう」というキャンペーンである。それは、全国紙、地方紙、スポ-ツ紙などほとんどすべての新聞の一面を使った広告作戦で、そこには「わたしたち60の企業が発信する、共同声明です。」とうたわれ、大手企業59社とその広告を掲載した新聞社が加わった意見広告が掲載されている。3/25付け大手紙には一斉に「このダメな国を、ほめよう!」と題して今人気のコンビ『爆笑問題』のコントが掲載されている。
「まあ、正直言って、日本はダメなところも多いですよ。でも、本当はダメでOK!って考えたほうがいい。例えば、日本は投票率が低すぎるというでしょ。
でもワタシが思うに、問題の多い国ほど投票率は高い。国民がつねに政治を見張ってなきゃ いけないってことだからね。そう考えたら、日本なんて、投票率が低くてOK!じゃないですか。」と言わせている。
漫才の中のひとこまでいうならまだしも、統一地方選の最中に全国紙1面全面広告を使ってわざわざ言うことなのか。その知ったかぶりのいいかげんさと無知のさらけ出しが、民主主義の根幹を否定し、国民のチェック機能をまで嘲笑うようなシニカルな姿勢を肯定し、礼賛しているのである。しかも日頃棄権防止を呼びかけている新聞社が自ら加わってこうした意見広告に荷担しているとはどういうことなのか、厳しく問われてしかるべきであろう。
3/29の記者会見でで民主党の羽田幹事長が「これは、現在の政府や現状を批判するなということだ。これは民主主義を踏みにじろうとする危険なものだと思う。この時に、なぜ、こんなキャンペーンが行われているのか。」と厳しく批判したのは当然のことと言えよう。
ちなみに、日本は96年総選挙の投票率が59.65%、昨年の参院選が58.54%であるのに対して、97年のイギリス下院選挙=71.3%、フランス国民議会選挙=71.4%、カナダ下院選挙=66.7%、昨年のドイツ連邦議会選挙=82.2%である。

<「最後に来た”意中の人”」>
こうした状況の産物が石原知事誕生となった。石原は当選確定の第一声で、「既存の政党にはほとんど価値がなくなったということを都民が感じたのであり、そのことを既存の政党が見事に鈍感に感じていない」と断じ、「既存の政党は滑稽なていたらくを示した」といわば挑戦状を突き付けた。指摘はまさにそのとおりであろうが、突きつけられた側は「まあ、まあ」と今後の石原取り込みに早速重点を移している。
石原は選挙期間中、「はっきりYES、はっきりNO」をスローガンに、青島の弱いリーダーシップに対する、石原の強いリーダーシップを前面に押し出してきた。そして「米軍横田基地の返還と日米共同使用」、「首都の第三空港に」を石原独自の政策に押し上げ、その選挙戦術が支持を拡大させたことは事実であろう。読売新聞などは、「最後に来た”意中の人”」(3/10付け朝刊)と最大級の持ち上げを行ってきた。
だが、石原は周知のように、これまで何度も虚言・差別発言を売り物にしてきた人物であり、南京大虐殺を「中国側の作り話」「うそ」と断言し、今回も平気でシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら恥じることのない程度の低さを露呈してきた人物である。核の問題についても、「少なくとも、自前の核をもった国は、厭な、妙な、いい方だが、それを楯にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる。」とする認識の程度である。こんな人物が「政治不信」を理由に国会議員を辞任しながら、今度は野心万々に同じ政治不信の伏魔殿とまでいわれる都政に乗り込んで、またもや責任放棄といった事態は十分にあり得ることであろう。
さらに石原の「YES、NO」の基準が、「日の丸・君が代」を基軸にした民族主義と右寄りのスタンドプレーと暴言であるだけに、多くの予期せぬ事態をもたらしかねないであろう。

<『さざ波通信』の波紋>
統一地方選挙を直前に控えた今年の2月、共産党は「日の丸・君が代」には反対だが、国旗・国歌の法制化には賛成であり、この問題の解決には何よりも国旗・国歌の法的根拠を定めることが重要であるという「新見解」を打ち出したことは周知の通りである。この時点では政府・自民党がすぐさま法制化を持ち出してはこないであろうと判断していたのであろうが、3/2の広島で校長が自殺した事件を契機に、一挙に法制化推進を持ち出し、小渕首相自身がNHKのインタビュー番組で「あのお堅い党の代表があそこまでおっしゃって下さるのですから」と、破顔一笑、「この際、ぜひ法制化を進めたい」と、政府・自民党をはじめ多くの右翼諸派を激励することとなってしまったことは、共産党指導部の重大な責任と言えよう。
4/7付け日経調査によれば、「日の丸・君が代」法制化に反対する人は、共産党支持者層においてさえ少数派で、29%にしかすぎなかったと報道されている。さらにこのほど光文社から出版された不和哲三・井上ひさしの対談本『新日本共産党宣言--象徴天皇制と日本共産党は矛盾しない』の中では、有事などの緊急事態の場合にそなえ、「自衛のための軍事力を持つことも許される」し、合憲であるという意見まで述べられている。ここまでくれば、石原慎太郎も多いに意を強くしさらに前を行くことに何らの躊躇も感じさせなかったとも言えよう。
こうした共産党指導部の一方的な路線変更に憤りを感じ、内部から公然と批判することの重要性を確認し、インターネットのホームページ上で活動を開始しだしたグループが登場し、共産党の内外に多くの波紋を広げている。それが現役の党員達によって運営されている『さざ波通信』(http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/)である。そこには先の対談本に関連して、「井上ひさしさんへの手紙」と題された30台の現役党員のG・Tさんが実際に井上氏に送ったものが公開されている。
「この新見解それ自体、党内でのいかなる民主主義的な討論もなしに、党指導部は一方的にどこかで決定し、マスコミに一方的に発表したのです。彼らは自分達の状況判断に誤りがあったことを認めないどころか、陰に陽に、あたかも今回の自民党の動きが計算済みであるかのように開き直るとともに、あいかわらず、国旗・国歌の法制化こそが解決策だという「間違い」に固執しています。」
さらにこの手紙は、本誌アサート№253号で妹尾健氏が取り上げられていた川上徹氏の『査問』(筑摩書房)での民主主義とはまったく無縁な家族にも連絡を取らせず13日間にも渡った暴力的監禁によって、分派活動なるものの自白を迫る、青年党員に対する弾圧事件に触れて、「これによって、生き生きとした青年運動は消滅し、ひたすら党中央の顔色をうかがいながら活動する物言わぬ党員がはびこるようになったのです。現在の不破指導部は、今なおこの事件を反省しておりません。今なお、あの時の処置は正しかったと強弁しております。おかげで日本の共産党は青年党員の比重が圧倒的に小さく、そして活気に乏しいという病に苦しめられています。あの時のつけを、今なお支払わされているのです。」と述べている。こうしたツケが石原都知事誕
生に貢献したであろうことは間違いのないことと言えよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【書評】近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る

【書評】近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る
      『フェミニズムが問う王権と仏教──近代日本の宗教とジェンダー』
              (源淳子著、1998.7.31.発行、三一書房、2,300円)

「この国の近代思想の歴史は、(略)つねにその時代社会の権力に迎合する営みを繰り返してきた。近代日本の著名な思想家の仕事は、現実の意味づけに腐心し、その営みのために自己を保ち続けてきた。そして、そのような多くの思想家が、かつて天皇制にまつろうてきた自らの思想を、『終戦』に転嫁し、自らの責任を放棄し、新たな民主主義(現実)のなかに安住したのである。彼らの無責任な生き方は、近代天皇制国家の特徴である」。
「それはまた同時代を生きた知識人女性も無関係ではない。日本のフェミニズムも、戦争責任の問題を自らの文化や思想の課題として担ってきたとは残念ながらいえない。フェミニズムが自らの文化や思想との対峙をしてこなかったからである」。
このような問題意識から著者は、「思想のモラル」を天皇制と宗教の関係から明らかにしようして、その中で、天皇制とジェンダーの関係を位置づける。そして本書はこの点を、これまで問題にされることの少なかった、近代仏教に焦点を合わせて展開する。
著者によれば、「かつて真宗教団は、幕藩体制で『真俗二諦論』で仏法(真)と王法(俗)を使い分けた。その理由は、権力としての共存を計るための政治的な政教分離論であり、教義的には政教一致論をもって信者教化した。それが近代になって、幕府への随順が国家への随順に変更しただけであった。仏教は、『護法論』で『国体』に追順することになっていくのである」。
著者は、日本における仏教教団が、絶えずその時代の権力に迎合して自分の生き延びる道をはかってきたことを鋭く突く。このことは近代において、仏教が「新たな教学を生むことができなかった」こと、「仏教は仏教として自立することができなかった」(信教の自由=権力からの自由、が確立されなかった)こと、近代天皇制国家という「国家の宗教政策の前にひれ伏すことになってしまった」ことに示される。すなわち「反権力の鎮め役を仏教は果たしたのである」。
この仏教のあり方を政治的に徹底的に利用して、天皇制国家は、祖先崇拝と家族制度を近代的に完成させたさまざまな制度を構築する。すなわち「宗教が祖先崇拝を担い家族制度を補完しているということである。さらにその構造が、天皇制国家を支えるのである」。そしてこの究極の思想が「国体」となる。
「『天皇の下に同一血族・同一精神』の国民の帰一するところは『祖先』だという。これは国民に二重のよりどころをもたせることになる。ひとつは『天皇』(『国家』)、これが公的領域におけるよりどころである。そして、私的よりどころが『祖先』である。その両者が密接なつながりをもって国民を呪縛していく。天皇制の万世一系の徹底化である」。
こうした「国体」の思想は、個々人にとっては「個』を越える存在である「家」とこれを基盤とする「戸籍」制度による呪縛として現前し、「国体」の中心思想である「和」とは、その具体化として「それぞれが『分を守る』こととされる。夫婦の間においては、夫は夫の『分」を、妻は妻の『分』を守る」性別分業によって「美しき和」が成立し美化されるのである。すなわち近代天皇制のイデオロギーは、「個人の人権、とりわけ女性の役割を軽視する」構造を有する。このことは、女性が結婚して夫の家の氏に変えることではじめて夫の戸籍に入れてもらうことができ、離婚した女性が「戸籍を汚す」といわれた社会意識(=これは、個々の女性にとっては、「どんなことがあっても離婚してはならない」という意識の内面化となる)などに示される。著者は、「このような戸籍制度は、天皇制国家の狭隘な精神と同質である。天皇制と戸籍制度と家制度はまったく別のもののようにみえるが、相互に密接な関係をもって支え合っている」と指摘する。
さらにここで重要なことは、この「国体」によって軽視され抑圧された女性が、逆にその「国体」を支える最も強力な基盤とされたことである。この点については、次のように述べられる。
「ジェンダーの視点から『国体』を分析すると、『国体』の頂点に立つ存在は、天皇である。そして、その天皇からもっとも遠く底辺にあって、『没我と献身、慈悲と忍辱』(略)によって天皇にまつろい、そして天皇制を補完する役割を担わされたのが、『日本の母』である」。
そしてこの場合に、皇国史観に仏教的言説が重ねられる。すなわち「『母』とは(略)『み国の御恩』につかえる皇国の母であり、軍国の母である。その母に要求されたのが(略)『仮令身をもろもろの苦毒の中におくとも、(略)忍んでつひに悔いじ』という『仏』への信仰であった」。これは真俗二諦論を女性に適応させた教化であり、「母」と「仏」が「国体」によって結合され、「聖戦」と美化した戦争に加担する論理として機能した。そしてその本質は、「『国体』のなかで女性が『工場』として、つまり出産機能としての役割で認められるということ」であり、「その機能を『国体』は『母性』と捉える」(=「お国に捧げる子の母たる自覚と信念」をもつ母)と著者は指摘する。
このような「日本の母」が戦争中にプロパガンダとして利用され、それに対して当の人々のみならず、知識人女性でさえも有効な批判をなし得なかったことを著者は重大な戦争責任として批判する。
「戦後、(略)多くの『日本の母』は、戦争犠牲者として『日本遺族会』に吸収されていく。そして、その多くの母は、夫や息子がどのような戦争を戦ったかを知ることもなく、軍人恩給を受け取っている。15年に及んだアジア・太平洋戦争中、軍靴で踏みにじったアジア諸国への加害の事実を自らの問題として考えるという戦争責任に及ぶこともなかっただろう」。
そして、かつての「日本の母」に対する反省のないままに戦後日本の急速な経済成長の中で、新たな「日本の母」=「企業戦士の母」が存在することになる。本書はこのように近代天皇制国家のイデオロギーが、仏教を根底に置きながらいかにして形成され、それがまたジェンダー・「性」をいかに利用してきたかを問う。現代日本社会のあり方と深くかかわる問題を、日本人自身に即して内在的に批判する書である。(R)

(追記:本書の出版元・三一書房が労働争議のために出版活動を停止している。このため本書については入手困難な状況となっているが、機会があれば一読を要請する次第である。)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

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【投稿】世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く

【投稿】世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く

<間違いだらけの経済論にだまされるな>
世間に「トンデモ本」がはびこっている。トンデモ本とは「著者のおおぼけや、無知、カン違い、妄想などにより、常識とはかけ離れたおかしな内容になってしまった本」(トンデモ学会編『トンデモ本の世界』)のことを言う。
『経済対立は誰が起こすのかー国際経済学の正しい使い方』(ちくま新書・98年)『間違いだらけの経済論ー天動説に等しいトンデモ論にだまされるな』(ごま書房・99年)の著者、野口 旭氏(専修大学経済学部教授)はその著作の中で切々と訴えている。
「長引く不況の中で書店には、世界恐慌論や日本経済の再生策を提案する本などが溢れている。ベストセラーになっている本もたくさんある。その中でタチが悪いのは、一見まじめそうでいて、実は百害あって一利もないトンデモ本である。著者はマスコミにもよく出てくる有名なエコノミストであったり、有名大学の教授であったりするので、読者はなんとなく納得してしまう。それこそとんでもないことだ」と。そして「トンデモナイ」国際経済論の典型として、今はやりのエコノミストや経済学者の名前をあげて、根本的な批判を展開している。
野口氏が、ヤリ玉にあげている著者と著作をざっと挙げてみる。リチャード・クー(野村総合研究所)『投機の円安 実需の円高』(東洋経済新社・96年)やレスター・サロー(MIT大学教授)『資本主義の未来』(TBSブリタニカ・96年)をはじめ、最近話題になっている石原慎太郎『宣戦布告「NO」と言える日本経済ーアメリカの金融奴隷からの開放』(光文社・98年)や吉川元忠(神奈川大学教授)『マネー敗戦』(文春新書・98年)などは、国際経済学の基本中の基本すら踏まえていないトンデモ本だと、批判している。そして、「今、経済学という分野で怪しげな理論や政策を吹聴する人々は、古今東西あとをたたず、そういった人達のおかしな理論や政策が、世間一般の世論形成に大きな影響を与えたり、さらにそれが実際の政治の中に反映されたりする事が、社会にとって迷惑千万である」と強く主張している。

<間違った経済論を見分けるのは難しい>
この野口氏の著作は、私を多いに刺激させてくれた。今日の激しく動く国際経済、日本の経済をどう認識したらいいのか、書店に氾濫している経済に関する書物を、自分なりに選別して乱読しても解ったようで解らない。「トンデモ本」とそうでない本とを見分けることなど到底できなかった。どれを読んでもそれなりに解ったつもりになったり、しばらく経つとそれと反対の事が書いてある本を読んで納得してしまうのである。なぜそうなってしまうのかが、この書物を読む中ではっきりと理解できたように思う。経済学を基本からきっちりと勉強したことのない者にとって、いろいろな経済論議のうち、どれが経済学的に正しくどれが間違っているのかを見分けろといっても不可能なのである。ましてや経済ジャーナリストや経済評論家と言われる多くの人が、経済学の基本とは無縁な「手軽に実感できるトンデモ知識」を、マスコミで盛んに撒き散らしている中では。ほとんどが言いぱなしである。自分がいままで主張してきた事が、今日正しかったのか、間違っていたのか全く自己検証もせず、新たな国際・国内経済状況にたいして、かつて自らが主張した事とまったく違うことを平気で言い出す。経済論議にはこんな現象が特に多いと思う。

<貿易黒字・赤字についての間違い>
一つ例を挙げれば、つい最近まで「日米貿易摩擦問題」が焦点化していた時、日米両方の経済評論家は、日米二国間における日本の貿易黒字の拡大とアメリカの貿易赤字の拡大を前にして、日本の黒字減らしの為にはとにかく輸入拡大が必要だとして、日本の市場開放とか規制緩和などが主張され、アメリカからは、自国製品の日本への輸出を増やす為に、日本に「輸入数値目標」を要求し、それが出来なければ制裁を加えるべきだとする日米包括協議などが繰り返されてきた。
野口氏は、これらの日米貿易収支の不均衡にたいする捉え方が、トンデモ的な考え方であると強く批判している。このとらえ方がおかしい為に、結果として見当違いの的外れを長々と展開している経済論が非常に多いと言っている。その典型が、日米の貿易収支の不均衡が拡大しつつあった1986年に出された「前川リポート」で、不均衡を日本が自ら縮小することが必要だとする観点から、内需拡大と市場開放に向けた規制緩和の「黒字減らし」を提言し、これには著名な経済学者が何人も関わっていたと言う。
このトンデモ的な見方とは何かといえば「貿易収支(経常収支)をもっぱら輸出と輸入の差額としてとらえ、その輸出入に影響を与えると信じられている諸要因(市場の開放性・閉鎖性、国際競争力、為替レート等々)にのみ注目する見方」という事になる。市場開放も規制緩和も多いに結構なことだが、そこをいじったところで日本の貿易黒字それ自体が減るという保証はまったくないと、野口氏は言う。貿易黒字・赤字の問題は基本的に一国全体のマクロ的な貯蓄・投資バランスの問題であり、そこが変化しない限り、何をやったところで貿易黒字・赤字は増えもしない。貿易収支、経常収支の決定メカニズムは、(民間貯蓄ー民間国内投資)+(政府収入ー政府支出)=(輸出ー輸入)であり、これこそが、貿易収支問題を考える場合、すべての議論の出発点となる枠組みである。

<貯蓄・投資バランス論が貿易収支問題の基本>
これを「貯蓄・投資バランス論」と言う。この式の左辺全体は、民間と政府を合わせた一国全体の資金供給と資金需要の差額、すなわち貯蓄・投資バランスを示している。一国全体の資金余剰ないしは不足と言いかえる事もできる。一国全体が資金余剰を持つとすれば、その分だけ海外に資金を供給、すなわち海外純投資をしていることを意味する。一国の輸出入差額、すなわち経常収支は、常にその貯蓄投資差額に等しく、かつその海外純投資額に等しく、その所得(GNP)と支出の差額に等しいのである。
この事は何を意味するか。貿易黒字・赤字とは、海外投資、すなわち国際的な資金貸借にともなって生じる現象だと言う事である。逆に言えば、海外投資が存在しなければ、経済収支(貿易収支)の不均衡は決して起こらない。海外から資金を借り入れる事無くしては、どの国も貿易赤字を出す事はできないし、逆に海外に資金を供給している国は貿易黒字にならざるを得ない。日本が貿易黒字を持つには、海外投資の結果として日本の貯蓄が国内投資を上回るからであり、アメリカが貿易赤字を持つのは、海外投資を受け入れた結果としてアメリカの貯蓄が国内投資を下回るからである。
これを踏まえると、貿易黒字が得で、貿易赤字が損だと言う見方は基本的に間違っている。日本に今貿易黒字が増えているのは、日本の経済が不況で国内の投資先が少なく、海外に投資する方が得だからである。アメリカに貿易赤字が増えているのは、アメリカ経済が好況で、新しい産業がどんどん起きているから、そこに海外資金が集まってきているからである。これは、日本とアメリカの両方が得をしていることに他ならない。

<妄想のアメリカ金融陰謀説>
もう一つの例を挙げよう。「世界最大の債権国=金持ち日本が不況にあえぎ、世界最大の債務国=貧乏国アメリカが好景気に沸いている。こんな事はどう考えてもおかしい。日本が輸出で稼いだお金が、アメリカ国債を買うことでアメリカに還流してしまう。アメリカは日本にアメリカ国債を保有させ・・・いったん貸しているという形をとりながら、その後基軸通貨であるドルを垂れ流しドルを減価させる政策を取る。日本の持っている米国債はドル建てだから、それが目減りしていく形で借金を棒引きする事をアメリカは狙っている」と言うわけである。すなわち「金融戦争」」である。
野口氏は、貿易や資金貸借などの経済取引を戦争と同じ様に考えるのは間違いだと述べている。経済取引は、戦争でも競争でもなく、対立ですらないと言っている。要するに、損得を考えて、お互いに得だと考えて行っているに過ぎないと言う。もちろん投資にはリスクがつきものである。特に海外投資となれば、為替リスクを十分考慮しておかなければならない。そのリスクを計算した上で、国内で資金運用するよりも海外投資の方が有利だと判断したからこそ、海外投資を行うのである。
ところが、今はやりの経済論調は、かつてアメリカでジャパンバッシャーと呼ばれた人達がアメリカ経済は日本に侵略されて駄目になったと論じていたように、「アメリカの金融謀略によって、日本の経済はやられてしまっている。」といった「アメリカの金融覇権論」や「ドル帝国主義論」が主流となっている。その背後にあるのが、1997年7月のタイにおけるバーツ暴落に始まるアジア通貨危機であり、その後のロシアの経済危機である。こうした事態を招いた最大の原因は、アメリカの金融・資本市場の自由化をグローバル・スタンダードと称して各国に押し付け、その結果ヘッジ・ファンドを尖兵とするアメリカの投機資本が、アジア経済、ロシア経済をハイエナのようにむさぼり始めた・・・。と言うような構図に基づいて、このところの世界的な経済混乱を説明するわけである。
野口氏は、アジア通貨危機も、ロシア通貨危機にしてもその本質は極めて単純なものであり、「グローバル資本主義の危機」でも「アメリカの陰謀」でもないと言う。アジア通貨危機の真の原因は、アジア各国が、ドルにリンクした固定レート制、すなわちドル・ペッグ制を採用していた事にあるのだと。固定レート制を取った国は、金融政策の独立性を放棄しなければならないからである。そこに破壊的な投機資金移動が発生するのであり、変動レート制においてはめったに起こらない。もちろん為替の乱高下は日常的に生じるが、決して破壊的なものにはならないと言う。実際、アジアの国の中でも、台湾やシンガポールのように為替の変動制を取っていた国では何も問題は起こらなかったのである。

<国際資本移動は「なだめすかす」ことである!>
国際資本移動と言うのは、お金の貸し借りを単に国境をはさんで行っているに過ぎない。もちろん国境をはさむということで、為替の取引が必要になり、そこに為替リスクというのが問題になって通貨危機という現象が生じる。この為替の面さえ除外すれば、それは基本的には我々が国内で行っているお金の貸し借りに過ぎないと野口氏は言うのである。世界の中には、日本のようにお金があまって困っている国もあれば、逆にお金がなくて困っている国もある。国際資本移動の本来の機能とは、こうした世界的資金の効率的配分を実現させるというところにあり、問題は資本移動そのものにあるのではなく、この資本移動本来の機能を歪めてしまうような通貨システムのありかたにあるのだと。
そもそも、国内であろうと国外であろうと、お金の貸し借りには常にリスクが伴う。海外投資にも、債務不履行は一定の確率で必ず生じる。確かに、これまでの歴史上、恐慌によって金融システムが崩壊した事は何度もあった。こうした問題をなくす為には、借金を禁止するしかない。借金を禁止したら経済は成り立たない。一定の確率で債務不履行が発生するのは仕方がない事であり、それをどこまで許容していくかと言う事であり、経済システムとしては、それをうまくなだめすかしながらやっていくしかない。その「なだめすかす」と言う事が、経済政策の一つの大きな目的であると、野口氏は冷静に主張する。
IMFは、国際収支危機やあ流動性危機が発生した国にたいしての融資や支援をその大きな目的とする国際機関であり、いわば「なだめすかす」ための機関であると言う。問題は、今回のアジア危機の教訓をどう生かすかであり、IMFは今後、その機能を強化する事が必要であり、逆に国際的な資本移動の方を規制してしまうのは最悪の選択だと言う。

<アジア円構想は間違い>
いま「アジア円構想」が「ドル覇権の奪取」論と合わせて議論されているが、アジア通貨危機の原因は、ペッグ制をとっていた事それ自体にあるのであり、ペッグする通貨がドルだったからではないのである。アメリカのグローバルスタンダードと対抗する為にアジアと手を組み「アジア円構想」などと言うブロック経済圏じみた論議は、戦前の「ブロック経済」につながる極めて危険な論議であると、野口氏は警告する。貿易取引や資本取引の際に、それを円建てでするのかどうかと言う判断には、円の利便性いかんに大きく関わっているものであり、日本の金融・資本市場の環境整備や規制緩和を進めればいいのである。そして、円が実際に経済取引の決済手段としてアジアを始め諸外国でどの程度使われるかと言う事は、各国民間経済主体なり各国通貨当局の判断の結果に過ぎないのであり、日本の政策当局が関与すべき事でも、できるはずの事でもない。つまり目標はあくまでも円の利便性を高めて世界経済の拡大・発展に資することであり、「ドルに対抗する円圏」などというブロック経済じみたものを作り出す事ではないと、野口氏は力説している。

<冷静で公平な国際経済論議を!>
以上、野口氏の著作から主な論点の要旨を、私なりにまとめてみた。この2冊の書物によって、初めて国際経済の基本的見方を教えてもらった。世間には、いたずらに危機感、国家間対立だけをことさら煽る無責任な経済論調がいかに多い事か。経済学の基本的な考え方を学ぶ必要性を痛感する。いま、『貿易黒字・赤字の経済学』小宮隆太郎著(東洋経済新社・94年)、『経済政策を売り渡す人々』P・グルーグマン著(日本経済新聞社・95年)『クルーグマン教授の経済学入門』P・クルーグマン著(メディアワークス・99年)など、野口氏が紹介する経済書を読み始めている。その著作の中で書かれている経済論争は実に面白い。いま国際経済においても、冷静で公平な論議が求められている。
(1999・3 織田 功)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

カテゴリー: 経済 | 【投稿】世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く はコメントを受け付けていません