【読者のお便り】鈴木市蔵さんより

【読者のお便り】鈴木市蔵さんより

五月の空は今日も晴れて、涼風が気持ち良く流れています。
「アサート」よく読んでいる方です。困難に負けず続けている苦闘に酬ゆるためにです。日本の「左」は実に、根底的に変わらねばなりません。革命論を放棄しなければなりません。いま、必要なことは、「改革」、左の綱領です。そこで戦線の統一を計るべきだと信じます。ご健闘を祈ります。
(鈴木 市蔵)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

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【投稿】21世紀の私たちのパラダイムへ声を

【投稿】21世紀の私たちのパラダイムへ声を 

日本型小宇宙の崩壊への突入
この大不況がいつまで続くのか、誰も分からない。80年代「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまでいわれた日本型経営、日本的社会構成は21世紀を目前にした今ではすべてが否定されているように思われる。90年代に入って土地の価格、株価、ゴルフ場の会員権などがみんな猛烈なスピードで下落し、当初はバラ色の日本経済と狭い日本の国土、その中で生まれた土地神話に疑いを抱く人はいなかったともいえるし、国際的な情報化社会と金融資本市場の市場競争の再編・変化への対応が遅れたともいえる。そして不況になっても給与は下げることはできないということもまた誰も疑いを挟んでこなかったのだろうが、いまやこれも守ることもできない状況である。
この神話や固定観念が作った社会のパラダイムの崩壊は、土地、株、人件費の崩壊だけでなく終身雇用、年功序列賃金などの労働慣行、成長主義、シェア主義、タテ型分業という経営思想、企業中心主義という社会構造などこれまでの日本的といわれるすべてのパラダイムを崩壊させている。
この崩壊がトリガーとなり、銀行を中心とする日本の金融システムの実質的崩壊、ノンバンク、ゼネコン、不動産業などにおける不良債権の山積みが明らかになり、日本経済の本格的なビックバンがはじまった。それはまたデフレ経済への移行でもある。
経済企画庁が6月10日発表した国民所得統計速報によると、今年1~3月期の国内総生産(GDP)は1997年7~9月期以来、一年半ぶりにプラス成長へ転じ、しかも実質で昨年10~12月期に比べ1.9%、年率換算で7.9%という大幅な伸びを記録した。しかしこれは昨年末におこなわれた特別保証枠の融資や銀行への公的資金の注入によりゼネコン-銀行間での不良債権処理がこの間に一気に行われてきたこと、公共需要の前倒しが集中して行われていることがやっと数字に出てきたという感を免れ得ない。大企業でのリストラや設備廃棄はむしろこれからよりいっそう本格化するというのが企業決算書から受け取れるからだ。それに私の業界でも4月、そして5月の連休明け以降は特に景況が悪化しているというのが偽らざる実感であり、年末より悪いという状況だ。これで特別保証枠を半年で借りている企業はそろそろ返済が始まる時期であり、厳しきなるのはむしろこれからといえる。

新しいパラダイムをつくりあげる声を
信用不安と社会的なモラルハザードを引き起こした様々な事件にもはや生活者的な感覚も麻痺されてきているといえる。ガイドライン法案の通過を手中にしてから、今国会の会期延長で一気に新たな政権「自自公」連立体制づくりをねらう自民党の動きは活発である。「盗聴法」、「中央省庁再編関連法」、「地方分権一括法」「住民基本台帳法」「日の丸・君が代」法制化など政治権力の集中化がねらわれている。21世紀はアジアの時代といわれるように、中国の経済的・政治的なエネルギーがその中心にあることは疑いはないだろうが、ガイドライン法をはじめこれら「有事」に備えるという名目はあったとしても、その狙いは実は国内の危機管理の側面がより強く現れているといえる。オウムの登場や昨今のインターネット犯罪にみられる国家支配の危機が背景にあるだろう。公明がこうした状況で「日の丸・君が代」に賛成を表明し、よりいっそう政権与党としての立場を明確にしはじめた事態を憂慮しなければならない。
21世紀を目前に日本は他のどの国よりも速いスピードで少子高齢社会へと突入している。私は年齢で言えば40代へ突入したが、この10年でますます子育てをする環境は悪化してきている。保育園の父母の会活動で実感できることは、経済的には確かに恵まれているのだが、一人っ子家族の多さである。学校では1学年1クラスが当たり前になり、学校の統廃合もでてきている。子供だけでなく親やその親も含めてコミュニケーションがとれない人々が多くなっていると感じるのは私だけでないだろう。企業の女性の戦力化で女性の社会進出はかなり前進したが、それは同時に生活空間・時間・人間関係におけるゆとりをいよいよ喪失させた。子供を産む生まないという選択の自由ができたといわれるが、それは一面的で、まず社会環境として子育てをできない状況がどんどん進行している。子供が減ると経済的にいっそう厳しい状況が待ち受けている。今の30代あるいは20代をみていると、このまま20年たてば本当に働く労働人口が激減することは誰の目にも明らかだ。そして来年から始まる介護保険である。老人介護は子育てが終わらない内に同時に我々世代におそってくる。
90年代はハイテク技術がいよいよ生活へどんどん入って来た時代であるが、21世紀にはこれらのハイテクが労働の軽減、環境保護、民主主義の徹底など人間生活のゆとりのために役立てられる時代へと向かうのが必然だ。人なくして20世紀に築き上げた文明は何の意味もなくなってしまう。21世紀が人間を中心とした新しい社会のパラダイムとなるように今、40代、30代、20代の世代がどんどん声を上げていきたい。(東京R)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

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【投稿】「自・自・公」路線と経済指標

【投稿】「自・自・公」路線と経済指標

<<ニューヨーク株価の変調>>
「もう落ちる、もう落ちる」と言われ続けながらも上昇を続けてきたニューヨーク株価も、いよいよ変調が現れてきたといえよう。今のところ5/13につけた1万1107ドルを最高値として、1万ドル台割れが焦点になりつつある。5/27にはNYダウ平均株価は前日比235ドルの全面安となり、1万466ドルへ急落、株、債券、ドルのトリプル安となった。その後再び持ち直していたが、6/11、またもや急落、前日比130ドル安、1万490ドル、再びトリプル安で、1ドル=117円のドル安円高となった。今回は大手ヘッジファンドのタイガー・マネジメントの危機説が浮上、顧客からの解約が相次ぎ、資金引き出しが噂され、「FRBが救済を検討する緊急会合を開いている」といった情報まで流れ、大揺れとなる事態をもたらしている。
このダウ平均株価、96年平均株価5742ドルから、99年1万1千ドル台まで急騰してきたのであるが、99年、今年に入ってからの急騰ぶりはバブルの絶頂を記録するかの勢いであった。今年、3/29に1万ドル台の大台を破って以来、わずかに24日という短期間で、5/3、ついに1万1千ドル台を突破している。これまでの1000ドル上昇に要した最短日数は85日(1997/2、6000ドル→7000ドル)である。実に3倍以上の猛スピードである。
ここには明らかに、株価上昇→キャピタルゲイン増加→消費・投資の拡大→株価上昇というバブル循環の過熱化が見て取れる。実体経済を無視した、債券と株式の間で資金がキャッチボールされている、いわゆる「過剰流動性相場」なのである。この過剰流動性は、新興諸国の金融危機で、日欧を中心とする海外の投資家が米国投資に方向転換したことによってさらに拡大されている。

<<FRB議長の「不健全」警告>>
しかしこれによって、昨年のアメリカの経常赤字は2330億ドルであったが、99年はこのまま行けば3500億ドルまで拡大する見込みである。これまではこの赤字を日本と欧州が主としてファイナンスしてきた。しかし日欧合計の経常黒字は2500億ドル程度である。このギャップは簡単には埋められるものではない。すでに米国は増え続ける経常赤字を補うために中南米投資を手控え、さらには引き揚げざるを得ないところに追い込まれようとしている。すでにNY株価の変調以来、ブラジルやアルゼンチンの株価が同時に下落、通貨切り下げ観測が出始め、南米市場が再び動揺し、世界経済撹乱の不安定要因として注視されつつある。
一方で、米経済の成長は、低金利と株価の高騰に支えられて、第1四半期のGDPは予想をはるかに上回る4.5%を記録(98年第4四半期は6%、98年年間成長率は4.3%)、11年ぶりの記録的な消費の上昇を示し、第1四半期の増加率は6.7%という高さである。しかし所得の根幹をなす労賃の上昇率に関しては、99年第一四半期は、当初の0.3%から0.7%に上方修正されたが、この上方修正された労賃上昇率でも、97年第三四半期以来の最低数字であるという。つまり、労働報酬は一貫して低く抑えられたままなのである。それでも「時給の上昇率が4月には0.2%だったのが、5月には0.4%上昇しており、金融市場ではこれをインフレの兆候と予測、懸念している」(6/7付けウォールストリート・ジャーナル)という、それほど危なかっしい曲がり角に来ているということであろう。
5/24、グリーンスパン米連邦準備理事会(FRB)議長が、「個人貯蓄率はマイナスなのに株高で人々は貯蓄が増えたと勘違いしている。現在の消費は、個人が保有する株価の上昇で強気になって消費を拡大する資産効果に支えられている。米国の個人貯蓄率が最近、可処分所得を消費が上回る状態のマイナスになっており、不健全である」、「これまで生産性の向上で、労働報酬の値上がりを抑えてきたが、それにも限度がある」と警告せざるを得ない状態である。

<<ジョブレス・リカバリーの可能性>>
米国の経常赤字とは逆に、日本の経常黒字は過去最高を記録している。98年度国際収支統計(大蔵省、5/17発表)によると、前年度比17.6%増の15兆2271億円の黒字を記録、過去最高を6年ぶりに更新している。輸出が4.5%減少したとはいえ、アジア向けが低迷したものの、欧米向けは増加、政府や財界の競争力弱体化論や高コスト構造論とは逆に「マクロ的には我が国産業の国際競争力は極めて強いといえるのではないか」(5/11日経)と指摘される実態である。一方、輸入は国内消費の低迷と原油価格の3割以上の下落を受けて、12.5%も減少、リストラ、コスト削減による輸出主導型のひずみがここにも如実に現れているといえよう。
さらに6/10、経企庁が発表した国民所得統計速報によると、99/1-3期の国内総生産(GDP)の実質成長率が前期比1.9%(年率7.9%)増と、6期ぶりにプラスに転じている。寄与度が最も高かったのは前期比10.3%増となった公共投資、その他は個人消費が1.2%増、設備投資が2.5%増である。公共事業の大盤振る舞いと、超低金利ならびに住宅ローン減税による住宅取得優遇策に支えられたものである。しかしこれらはいずれも5期連続にも及んできたマイナス成長の反動増であると同時に一時凌ぎの短期的性格を色濃く持ったものでもある。これらを持続させようとして計画されている5~10兆円にも及ぶさらなる補正予算は、国債の増発を余儀なくさせ、それは直ちに金利の上昇を招きかねないし、打ち出の小槌どころか逆に今後の増税と財政破綻をより一層鮮明にし、マイナス効果となる。企業が声高に叫ぶ「債務、設備、雇用」の過剰とそのリストラ策はこれからが本番である。最悪の失業率のもとでのジョブレス・リカバリー=「雇用なき回復」は、ドル垂れ流しの特権を持ったアメリカでは成立し得ても、日本ではさらに事態を悪化させるだけであろう。

<<「諸勝公明」>>
ここにきて、景気の上昇気運が垣間見えた今の内に懸案を一気に処理し、「GDP速報→補正予算処理などを名目にした会期延長あるいは臨時国会招集→衆議院解散・総選挙」という、経済指標が政局と直接連動する策動が急浮上している。
そうした動きと同時に進行しているのが、「自・自・公」政権誕生の策動である。野中官房長官が公明党に閣内協力を要請し、小渕首相も「参院で数が足りない以上、公明党の協力を得ないといけない。閣外もあるが、閣内に入ってもらえば一番いい」と表明、公明の入閣、内閣改造、党役員人事を行い、加藤前幹事長もその中に取り込んで、自民党の総裁選そのものを止めて、小渕政権の長期安定化を狙おうというものである。
すでに地域振興券以来、公明党は露骨に閣外協力を鮮明にしており、いわば自・自・公の「翼賛体制」のもと、問題法案がろくな審議もなしに、駆け足で次々と通っていく事態である。まさに公明さまさま、「諸勝公明」(6/15『エコノミスト』)である。
憲法違反が明々白々のガイドライン関連戦争法、組織犯罪対策3法、いずれも公明が慎重姿勢のポーズを見せ、つじつま合わせの修正案を提出、審議したとの形式だけ整えて強行可決するやり方である。この後には、国民総背番号制を目的とした住民基本台帳法改正、、憲法調査会設置のための国会法改正等が控えている。
当然、自由党は自公連携に危機感を持ち、自公だけで参院も過半数を超え、公明が入閣すれば自由党は御用済みとなる。すでに盗聴法、住民基本台帳法の修正などは、自由党抜きの自公で決められ、小沢党首は「自由党は政策の一致なしで公明党と連立を組むことはありえない」(6/13、京都での記者会見)と表明、「闘う政策集団」としてよりタカ派的政策を前面に出し、さらに公明が強力に反対している衆院比例区の50議席削減という自自連立の際の合意事項の実行を自民に迫っている。
公明にとっては小選挙区比例代表並立の現行選挙制度では惨敗必至で生き残れないとして、中選挙区制の復活、最低限都市部に二人区を作る、それまでは解散・総選挙は絶対に阻止することを自民に迫っている。自民は両者を使い分けながら事態を切り抜けようとしているわけである。
6/9、政府・自民党は、「日の丸・君が代」法制化法案を今国会に提出することを決定した。広島や長崎、沖縄などの創価学会の反発によって、公明党はこの法案への賛成から一転して慎重審議にに態度を変えていたのであるが、これも入閣条件の一つとして最終的には公明党の賛成を得られるとの見通しを持ったことを明らかにしている。
大阪では、卒業生を名乗る右翼男性が中学校長室に押し入り、日の丸の掲揚を要求して重傷を負わせるという事件が発生している。
盗聴法反対を続ける中村敦夫議員に対して「ハジキでやるぜ!」という脅迫電話が執拗にかけられ、それをを公開した同氏は、「(盗聴法には)与党の中にも疑問を持っている人はいる。時間をかけては造反が相次ぎかねない。それもまた採決を急ぐ理由の一つでしょう。君が代・日の丸法制化だって、なぜこんなに急ぐのか? 結局は、ガイドライン関連法案に関わるものとしてこれが出てきているとしか、私は思えないのです。いわば、準戦時体制の構築に必要なシステムを整えるということです。ガイドラインに合わせ、国内の反戦派の団体や個人、ジャーナリストを封じ込めることが目的なのです。戦時体制を前提においた法案と考える以外に、審議の異常さを説明することはできません。」と述べている。

<<「正体見たり 翼賛会」>>
「自自公の 正体見たり 翼賛会」、これは民主党の菅代表が詠んだ川柳だという。確かにそのとおりである。しかしここまで彼らを野放しにしていた民主党の責任も問われるべきであろう。
6/3に民主党の国会議員十数人が、「阪神タイガースを応援する議員の会」を発足させたという。「活動方針は阪神が優勝したら国会で六甲おろしを歌うこと」とし、すでに関西出身議員を中心に20数名になり、他の党にも働きかけ、「とりあえず東京ドームと甲子園球場に行って野村監督と選手を激励したい」と意気盛んであるという。阪神人気に便乗した魂胆丸出しの姿勢は、何か事態をはきちがえているのではないだろうか。自民党との対決のために、共産党との共闘にまで言及し出した鳩山幹事長代理が、「菅代表にオンブにダッコの政党からの脱皮」を言い出したことなど、もっと真剣に議論されるべき課題が山積しているのではないのか。
日の丸・君が代法制化ではそのきっかけを作り出した共産党の不破委員長が、6/9「戦争法を発動しない」政府を提唱、安保の承認はもちろん、今回強行成立したばかりのガイドライン関連の周辺事態法の存続を前提とした政府を提唱し出した。現実的といえばそれまでだが、これまでの姿勢ばかりか、今後の基本姿勢までが疑われる路線転換である。こうした基本戦略にかかわる路線転換、民主主義の欠如に反対して党内に発信し続けている『さざ波通信』は、6/10付け『しんぶん赤旗』に、「日の丸・君が代、10代、20代の思いは…」と題して掲載された意見の中に、「そのなかで、かつての侵略戦争を自衛のためのやむをえない戦争であったとし、『日の丸・君が代』を全面的に肯定する男子高校生の恥知らずな意見がそのまま掲載されている。この高校生の意見はおそらく小林よしのりらの自由主義史観派の影響によるものであろう。しかし、それにしても、このような反動的意見が堂々と『しんぶん赤旗』に掲載され、しかも批判的なコメントすらまったくつけられていないとは驚きである。『国民的討論』の名を借りた、反動的意見の垂れ流しに、われわれは断固抗議する。」(6/10『さざ波通信』トピックス)と表明している。われらが『アサート』にも思いをはせながら、同感を禁じ得ないところである。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.259 1999年6月19日

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【コラム】ひとりごと–東京・大阪の知事選挙に思うこと

【コラム】ひとりごと–東京・大阪の知事選挙に思うこと

統一地方選挙が終わった。今の国民の政治認識や当面の政局を把握するに一つの機会であると思ったが、しかし、その結果は、経済の低調と同様に、もう一つ、メリハリに欠けた結果だったように思える.少なくとも「日本の民主運動は前進している」とはとても言えないものではなかった。○その中で筆者が感じたのは、むしろファシズムへの危機、いや、それがたいそうと言われるのなら、右への旋回ムードである.その一つが東京都知事選挙の石原氏の当選.彼は言うまでもなく、東京都の抱える行政諸問題について、何ら具体的な政策提起をせず、どちらかといえば国政レベルの、また中国への挑戦的言動など、右翼的イデオロギッシュなアジテーションに終始し、しかし長期不況を反映した何となくある民衆の不満を背景に「何か、大胆に行動する」イメージに仕立て上げ、それが票に結び付けたのではないか.民衆をある一つの方向に引き付けようとするとき、それが具体的なものではなく、抽象的・センセーショナルなものであることをみたとき、いささか危険なものを感じざるをえない。○大阪の知事選挙でも然りである。横山府政は、いかに財政状況が悪いとはいえ、特段、この4年間、府民福祉の向上に成果を上げたとは御世辞にも言えない。いや、むしろ4年間の府政を見れば、関西新空港の二期工事の推進や大して需要の見込めない国際会議場の建設、信用組合等への府費投入など、全てが全て、財政再建へに傾注しているとも思えない。そして選挙演説を聞いていると「ソ連生まれの共産府政か、庶民生まれの横山府政か」と前近代的な反共プロパガンダの選挙宣伝であった。それでも票を多く集めたのは、これもまた抽象的な大阪的人気であったのではないか。○おりしも、これを執筆している日は、5月3日の憲法記念日。しかし新聞の見出しを見て驚いた。日の丸の法制化に賛成しているのは77%、君が代でさえ61%が賛成しているという。ほんの十数年前なら考えられないこと。いかに国民の意識が右傾化していることか。また新ガイドラインの国会審議では、民主党の小手先の修正案を受け入れたとはいえ、然したる反対運動もなく、あっさり参議院に送られてしまった。自称「民主派」と唱える政治家は多くいるだろうが、実際のところ何をしているのか。あまり原則的なことばかり言っていても「票にならない、政治家としての立場を危うくする」とでも思っているのか、詭弁を労してあれやこれやと現実主義を全面に出して正当化しているのだろうが。今更ながら「我、連帯を求めて孤立を恐れず」が気骨のある言葉に聞こえてくる。○少々、ファシズムへの危機感を感情的に述べ立てた感もしないでもないが、ただ、その素地・要素だけは備わりつつあるのではないかと言う思いだけは、解っていただきたい。(民)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】『石原慎太郎知事誕生が警告するもの』への疑問

【投稿】『石原慎太郎知事誕生が警告するもの』への疑問

<レッテル張りではなく、正確な石原批判をして欲しい>
本誌前号(NO257)の生駒論文『石原慎太郎都知事誕生が警告するもの』を読んで、いろいろ違和感を感じた。「何故こういう書き方、論理展開になるのだろう。はじめから結論ありきで書いているからではないだろうか。」と思わざるをえなかった。石原都知事誕生を批判する事は、自由である。問題は批判の中身である。レッテル張りではなく、正確な石原批判をして欲しいと思うo「右翼民族主義のもっとも危険で差別意識丸出しの知事の誕生」と書いてある。右翼民族主義とは何なのか。差別意識丸出しとはなにをさしてそういうのか。石原都知事誕生そのものの評価とは別に、石原都知事誕生を批判する生駒論文の批判の内容に納得がいかないのである。

<南京大虐殺とシナ・核発言での程度の低さを露呈した人物か>
「石原は周知のように、これまで何度も虚言・差別発言を売り物にしてきた人物であり、南京大虐殺を『中国側の作り話』『うそ』と断言し、今回も平気でシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら耳らじる事のない程度の低さを露呈してきた人物である。核の問題についても『少なくとも、自前の核を持った国は、厭な、妙な言い方だが、それを盾にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる。』とする認識の程度である。こんな人物が『政治不信』を理由に国会議員を辞任しながら、今度は野心万々に同じ政治不信の伏魔殿とまでいわれる都政に乗り込んで、またもや責任放棄といった事態は十分にありえる事であろう。」と批判している。石原氏がこれまでどんな虚言・差別発言を売り物にしてきた人物か、私は知らないが、今回その根拠として生駒さんがあげている点については、納得がいかないのである。

<いまだはっきりしない「南京大虐殺」の真偽>
生駒さんは「石原は南京大虐殺を『中国側の作り話』『うそ』と断言し・・・」と批判している。「南京大虐殺」の真偽については、現在論争の真っ只中にあることについては周知の事実である。
この問題について石原氏は4月19日の産経新聞(99年4月20日朝刊)のインタビューで次のように応えている。「(当時を知る日本の代表的な有識者に何人もあって)聞いた限りでは、『私たちは見なかった』としている。南京陥落から五日目に(現地に)入った人たちだ。ニューヨーク・タイムスの記者も『おかしい』と言っている。日本軍が攻めてくる前に、ずいぶん、南京で中国人が中国人を殺したんだ。焦土作戦のためにね。・・・日本軍が南京に入る時の人口は20万人足らずだったと思うが、それがなんで30万人になるのか。一万、二万の兵隊、市民は殺したかもしれない。ゲリラとも見分けがつかずに。・・・短期間に三十万人を殺すと言うのは余程計画的でないとできないし、無理な事ですよ。やはり作戦指導(計画)とか日本側にもいろいろあり、(そうした公文書は)改ざんできないのだし、そういう物を(日中)両方でキチツと資料として出し合って、すみやかに検証する必要がある。日本軍が悪い事をしなかったと言っているわけではないのだから。日本政府がやらないのなら東京都が金を出したっていい。大事な事だから日本民族の汚名をそそがないと」
石原氏の発言は、極めて常識的であり、政策的にも重要な事をいっている。「従軍慰安婦」論争と同じく「南京大虐殺」論争も未だ決着がついていない。論点は出尽くしているのである。あとは、韓国政府、中国政府と日本政府が共同して本格的に検証して決着をつけるべき問題なのであるが、不思議にその動きが出てこない。「日本政府がやらないのなら東京都が金を出したっていい。」と主張する石原氏のどこが右翼民族主義者なのだろうか。

<「シナ」は中国への差別発言か>
「今回もシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら恥じる事のない程度の低さを露呈してきた人物…」と批判している。これにたいして石原氏は「最近になって(過去の歴史において中国側がシナと言う言葉に)傷ついた史実が合ったらしいと言う新たな発見をした。(それでシナという言葉は最近使っていないが、もともとは)フランス人がシーヌ、イギリス人がチャイナと言うのと(同じ意味合いで、それとは)違って、同列に日本人がシナというのは(けしからんと中国側がいうのは)、日本とは歴史的に特殊な関係があったからで、それならあえて言う事はないと思った。取り消したわけでもないし、いわない事にしただけだ。」と応えている。インタビュウーの要旨記事だからちょっとわかりにくい点もあるが、石原氏の考えはそれなりに分かる。シナという言葉を使う事によって、石原氏は中国差別をしていることになるのだろうか。生駒さんは、シナという言葉が何故に中国差別になるのか、その根拠を示さずに中国差別の発言と決めつけ、差別意識丸出しの知事の誕生と批判している。シナという言葉が、中国差別であると言う根拠をまず示すべきである。

<核で「駄々」をこねているのは北朝鮮>
「少なくとも、自前の核を持った国は、厭な、妙な、言い方だが、それを盾にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる」とする認識の程度だと生駒さんは石原氏を批判している。この石原氏の発言はどんな文章の中での発言か、生駒さんはここだけを抜粋して批判しているので分からない。この文章を読んで「核で世界に駄々をこねているのは、まさに今の北朝鮮だな。」と真っ先に思ったものである。核を持つた国が世界に向かって駄々をこねられると言うのは、世界政泊をリアルに見た場合の一つの真理である。だからどうするのかが問題なのである。そこの論理展開を抜いて、石原氏のここの発言だけを取り上げて、こんな認識の程度であると批判しても、説得力に欠ける。石原都知事誕生を批判する事は自由である。しかし批判にはその根拠を正確に提示しなければきめつけ、レッテル張りになってしまうのである。

<「日の丸・君力く代」を認める人は右翼民族主義者か。
「石原の『YES,NO』の基準が、『日の丸・君が代』を基軸とした民族主義と右寄りのスタンドプレーと暴言であるだけに、多くの予期せぬ事態をもたらしかねないであろう」と生駒さんは批判しているが、「日の丸・君が代」を基軸とした民族主義と右寄りのスタンドプレーと言う内容が語られていない。「日の丸・君が代」を国旗、国歌と認める事が民族主義になるのか。それの法制化を認める事が民族主義になるのか。もしそうだとすれば、石原氏に限らず国民の大半が民族主義者と言う事になってしまう。ここでも民族主義とは何なのかと言う事は全く明らかにされていない。生駒さんは、自らが批判する民族主義の内容と日の丸・君が代の関係について明らかにする中で、石原氏の批判を展開すべきなのである。

<「日本をほめよう」キャンペーンヘの深読み>
3月17日の全国紙朝刊3紙や地方紙など全国の55紙見開き右側に「ニッポンをほめよう」と大きな活字、その下に「日本の強み、日本のいいところを、ポジティブな姿勢で見つけ出し、見直していこう」などの文書が記され、左側には故吉田茂元首相の顔をアップにした一面大の写真が、製造、金融、サービスなどの広告主59社と、それを掲載した新聞社の計60社による意見広告として掲載された。
生駒さんは「3・29の記者会見で民主党の羽田幹事長が『これは、現在の政府や現状を批判するなと言う事だ。これは民主主義を踏みにじろうとする危険なものだと思う。この時に、何故、こんなキヤンヘーンが行なわれているのか』と厳しく批判したのは当然の事と言えよう」と述べている。
わたしの感じ方と全く違う。わたしはこれを見たとき「いいタイミングで、いい広告をだすなあ」と感心したものである。長く続いた日本経済の不況、政治、官僚、財界の不祥事の連続の中で自信をなくしていた日本。今年に入って経済にも少し明るさが見えかかってきた時に、「ニッポンをほめよう。日本の強み、日本のいいところを見つけ出し、見直していこう」という意見広告が掲載された事が、どうして民主主義を踏みにじろうとする危険なものになるのだろうか。現在の政府や現状を批判するなと言う事にどうしてつながるのか。深読みすぎるのではないだろうか。しかしこれはそれぞれの感じ方の問題であり、どう感じるかは自由である。
問題にしたいのは、羽田幹事長や生駒さんの批判が、国と、時の政府をストレートに一体のものとみなし、国をほめる事が時の政府や現状を批判するなと言う事につながり、民主主義を踏みにじるものだと決めつけている事である。国をほめることと、時の政府をほめる事は直接的には結びつかない事は自明の事ではないか。この「ニッポンをほめよう」の広告のどこに時の政府や現状を批判するなと言う事がかいであるのか。本当に理解に苦しむ批判である。

<あいまいな低投票率批判の矛先>
生駒さんは今回の統一自治体選挙の低投票率を批判している。低投票率を批判するのも自由である。しかし低投票率批判の矛先があいまいなのである。「問題はこうした関心の低さ、投票率の低さを逆に良しとし、その土俵の上でしか政治を考えないようにし、政治を狭め、無関心層を増大させ、政治を馴れ合いと取り引きの場に変え、政界、官僚、財界の利益配分の場にしてきた現実、石原知事誕生はこうした現実にたいする警告であると言えよう」と生駒さんは書いている。この文書には、誰が、どの陣営がそうさせたのかと言う主体を欠落させているので、その意味がよく分からないのである。生駒さんは、意図的に今回の統一自治体選挙で低投票率に誘導したものがいるとでも言うのだろうか。おそらく、政府・自民党が誘導したとでも言いたいのではないかと推測する。これは現場で選挙戦を闘ったものの実感とは全くかけ離れている。選挙戦を闘うものは、投票率一般を上げる事を第一義に考えてはいない。個別の支持する候補者へのできる限りの支持を取りつけるために、決められたルールに従って死力を尽くすのである。その結果、投票率が上がる事もあるし、下がる事もある。それを決めるのは有権者であり、誰かが意図的に操作して低投票率にする事などできるわけがないではないか。生駒さんの低投票率批判の内容は本当に分からない。

<投票棄権も有権者の意志表示>
低投票率である事がそんなに批判されるべき事なのか。かねてからの私の疑問である。低投票率=政治不信、無関心層の増大と決めつけてしまっていいのだろうか。投票棄権も有権者の意思表示ととらえることができるのである。「私は投票を棄権する。この人にどうしても入れたいと言う人がいないから。しかし、投票の結果には従います。」と言う主張があってもいいし、現にあるだろう。投票は、誰かに強制されてするものではないからである。本人の意思で決めるものである。自ら投票を棄権した結果、その後の政治で自らに不利益を被ったと感じれば、自ずと次ぎは投票にいく場合もあるだろうし、また棄権する場合もあるだろう。それはあくまで本人の選択である。それが民主主義のルールではないか。選挙結果をまず素直に認める事である。みずからの政治主張と違った結果になったからと言って、その原因をみずからの政治主張の正当性を導くように分析するのは間違っている。何故、自らの思うようにならないのかと言う自らの政治主張の反省も必要なのではないか。そういう反省の中から、できるだけ選挙結果を客観的に分析し次のとりくみに生かしていくべきなのである。

<旧態依然の公職選挙法の改善を>
選挙戦の論評の中で決まって出てくるのが、「ほとんど政策対決も論議もない盛り上がりに欠ける低調な選挙であった」と言う批判である。何故政策対決も論争もない選挙戦となるのか。批判ばかりしていないでその原因を分析し、具体的改善策を提言すべきなのである。日本の選挙戦は旧態依然の選挙戦で、時代に全くあっていないと思う。公職選挙法の改正抜きに、選挙戦が政策論争を闘うものになるはずがないのである。誰もが感じているのに、その事が大きな声にならない。もっと、選挙活動を自由にし、地方のテレビ・ラジオを使って候補者間の政策論争の場を大胆に提供する。候補者個人が活用する活字媒介については一切制限せず、一定の限度で公的補助をする。「選挙公報」ももっとぶあつい冊子形式に改める。公開討論会も戸別訪問も自由にする。その代わり、街頭演説会を除き、スピーカーでただ候補者の名前を連呼して回る宣伝カーや駅頭での朝だち夕立などは禁止する。今の公職選挙法の改正をしない限り、候補者同志の政策論争などできるわけがない。
(1999・4織田 功)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【書評】アソシエーション論的転回による21世紀へのオールタナティヴを

【書評】アソシエーション論的転回による21世紀へのオールタナティヴを
捧堅二・宇仁宏幸・高橋準二・田畑稔『二一世紀入門──現代世界の転回にむかって』
(青木書店、1999.1.25.発行、2800円)

ソ連型社会主義の崩壊と余震の後、目指すべきであると思われていた社会は霧散した。しかし現存する資本主義体制は、米国一極中心に相変わらず矛盾の拡大を続けている。個のような時期に、「始まりつつあるこの21世紀はどんな世紀なのか」を問うのが本書であり、「現代社会をトータルに、また根本的にとらえなおす」という視点をもつ。
このため本書は、政治学・経済学・科学史・哲学という専門の異なる四人の著者たちの報告と、それをめぐる討論というかたちをとっている。著者たちの問題意識には、共通認識とともにかなりの差異があり、十全にまとまっているとは言い難いが、大筋では次の点に示されていよう。
すなわち「近代主権国家」、「成長経済」、「産業文明」、「近代世界システム」としてとらえられる現代の基本システムが、危機を伴いつつ、脱近代主権国家、脱成長経済、脱産業文明、脱近代世界システムへと向かう再編過程に入っているという認識である。
第一部(政治論)「現代世界とラディカル・デモクラシー」においては、近代主権国家の再編・止揚の主張と、これに代わるものとしての政治的多元主義、ラディカル・デモクラシー、「アソシエイショナルな革命」が説かれる。
第二部(経済論)「現代資本主義の構造変化と調整──成長経済を超えて」では、レギュラシオン理論の立場から、フォーディズムの涸喝の結果、「規模の経済」から「連結の経済」へ、「賃金の生産性インデクセーション」から「自由時間の生産性インデクセーション」への移行、「自由時間の非商品化」が提唱される。
第三部(文明論)「文明は自然を超えられるか」は、自然と文明との関係から、人間中心・人間の例外扱い(天動説的思考)が批判され、人間に対する「より客観的な見方」を主張する。その上で人類の文明史の三段階(狩猟採集文明、農耕文明、工業文明)の最後の段階である工業文明の行き詰まりの指摘と、「脱消費社会」への価値観の転換が重要であるとされる。
そして第四部(世界論)「世界とは何か、現代とは何か──現代と世界の三層構造」では、世界を「我々である我、我である我々」を包摂・囲繞するものの総体として考えるならば、「基本骨格としては、自然層─日常生活層─近代世界システムの三層からなる」構造として解明していくことが不可欠であるとする。そしてその中核をなす近代世界システムの構造的特質(ミクロの合理=マクロの非合理)が陥った危機からの変革のために、「アソシエーション論的転回」の必要が主張される。すなわち「システム─→危機─→闘争─→アソシエーションの実践という、この自生的に再生産されているダイナミズム」こそが、未来論のベースになるとする。
以上のように本書は、それぞれの視点からオールタナティヴの基本方向、基本価値を提示し、読者に呼びかける。しかしこれは、あくまでも第一歩であり、本書で提唱されている事柄も、現実との絡みで進展困難な状況に陥ることもあり得ると言わねばならない。この意味で以下にあるような指摘も、冷静な判断の材料として考慮に入れられねばならないであろう。例えばこうである。
「単純に市民社会を『善玉』扱いするのは危険です。先進国で途上国でも、市民社会は闘争の舞台だということは押さえておく必要があります。日本のNGOについての書物が描くように、(略)それを一律に単なる善意の団体とみるのはナイーヴすぎます。人道だけで動いているのではないことはいうまでもありません」(政治論)。
「貨幣を伴った交換のシステムが発達した状態を経済学者は市場経済と呼びます。しかし、市場経済という社会制度が単独で存在したことはないはずです。市場を通した取得と暴力(実力)による取得という二大方式がいつも競合・共存していたし、現在もそうなのです」(文明論)。
「近代国家が成立する直前のヨーロッパにおいては、私有財産を保護したり経済的契約の履行を強制したりする暴力機構が成立することと市場経済が普及することとは表裏の関係をなしていたことが分かります。今日でもその原理は同じで、経済契約履行の究極的強制力は暴力によって保証されるのです。それがなければ資本主義制度はありません」(同)。
これらの指摘は、現実の社会変革の困難と矛盾を象徴している。しかし本書のような共同研究を手始めとして、これらの面をも含み込んだ、より包括的で具体的な討論と実践が行われることを期待したい。(R)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】緊急経済対策と地方自治体(第2回)

【投稿】緊急経済対策と地方自治体(第2回)
      –「地域振興券」「地域戦略プラン」のドタバタ劇– 

前回は、政府の「緊急経済対策」の中でも、とりわけ地方自治体との関わりが深い「地域振興券」について、そのドタバタ劇、現場の混乱ぶりをレポートしたところである。今回は、「地域振興券」と同様に地方自治体を巻き込み、その現場を混乱させているにもかかわらず、マスコミの関心が薄いため、世間一般にはあまり知られていない「地域戦略プラン」についてレポートする。

ドタバタその2「地域戦略プラン」
<「地域戦略プラン」って?>
「地域戦略プラン」とは何か。これは、小渕首相が平成10年9月に提唱した「生活空間倍増戦略プラン」(質の高い居住スペース、ビジネススペース、レクレーションスペースなどを拡大し、5年間を視野において「明日への投資」を積極的に推進するとして各種の規制緩和策・予算の重点配分などを行ったもの)の一環として打ち出されたもので、「都市と地方の各地域自らがテーマを選んで、複数の市町村等の広域的な連携のもとに、活力とゆとり・うるおいのある生活空間を創造するための総合的なプランを主体的に策定する」としているものである。
「生活空間倍増戦略プラン」そのものは、小渕首相のウリであったにもかかわらず、住宅金融公庫の融資基準・額の増額をはじめ、既存の施策の上乗せや緩和レベルにとどまったものが多く、その内容の新味の無さゆえに、すっかり色あせてしまい、世間やマスコミの注目は後の「経済戦略会議」に移ってしまった。ただ、その一環であるこの「地域戦略プラン」については、地方分権が具体化している状況にある一方で、国・都道府県・市町村の旧来からの関係を如実に反映し、地方自治体の現場に多大な混乱と疲弊をもたらしているものとして、見過ごすことのできない多くの問題をはらんでいるのである。
<メリットは?>
「地域戦略プラン」の策定主体は「複数の市町村」であり、あくまで自主的・主体的にテーマ設定を行って策定するものとされている。その柱は国庫補助事業であり、そのプランが、国土庁を窓口とした関係22省庁からなる「地域戦略プラン推進連絡会議」の認定を受けると、各省庁所管の国庫補助事業の重点的な支援を受けることができるとされている。政府は、全国で400カ所、1地域あたり100億円の事業費(補助金額ではない)で5年間で4兆円程度のプランになると想定していた。
ここで問題となるのは、策定主体が「複数の市町村」であるということである。複数の市町村が広域的に連携して一つの事業を行うということは、それぞれに首長がおり、独立した自治体である以上、その実現には多大な時間・労力がかかるものである。平成6年に制度化された「広域連合」制度があまり活用されていないことを例にとっても、その難しさが分かるというものである。プランの策定期限が3月であるという短期間の中で、そのような広域的に連携したプランを策定せよということは、そもそも無理な話なのである。特に、新たな国庫補助メニューができたわけでもなく、既存の国庫補助事業で重点的に支援するという、市町村にとってメリットが見えにくい状況の中にあっては、そこまで手間暇をかけてまで策定しようという意欲が湧くわけはなく、「地域戦略プラン」が打ち出された当初は、様子見で慎重な市町村が多かったようである。
<予算に群がる省庁・政治家>
一方、平成11年度の政府予算において、この「地域戦略プラン」を推進するための経費として、国土庁は2,000億円の枠を確保しており、認定されたプランの国庫補助事業に対して、各省庁に所管替えして予算執行をするということになった。このため、予算編成過程で小渕カラーを出すために従来のシェア縮小を余儀なくされた各省庁は、我が省庁のシェアを再び確保するべく、この国土庁の2,000億円にハイエナのように群がってきたのである。
結果何が起こったか。国の各省庁は、プランに盛り込むことができる事業の一つに「関連する国や都道府県等の事業」という条項があることをテコに、我が省庁の所管する国や都道府県の事業を基本としたプランを市町村に策定させ、プラン認定を受けることにより、事業予算を獲得しようとしたのである。その手法は様々で、地方出先機関を通じて各都道府県の事業部局に限りなく「命令」近い「事務連絡」を行い、それに呼応した都道府県の事業部局が国から指示のあった事業について市町村にプラン策定を促す、という方法が主にとられたようである。
都道府県にとっては、近年の財政状況の悪化により、少しでも国の補助があることは事業推進にとってありがたい話であり、市町村に対して、ときには「脅し」に近いかたちでプラン策定を迫ったのである。「おたくが要望していた国道延伸の予算を確保するためにはプランを策定せよ」「プランを策定しないと農道設置の予算は保証できない」など・・・。
さらには、自らの選挙区に公共事業予算を引っ張ってきたい政治家の蠢きも随所に表れ、選挙区によっては自-自間の保守系代議士同士の争いの様相を呈するなど、混乱に拍車をかけることになったのである。
市町村にとっては迷惑な話である。確かに市町村が要望していた国や都道府県の事業であるが、未だ事業認可や補助採択の権限を有している国や都道府県あるいは保守系国会議員の意向に逆らうことはできず、短期間でのプラン策定作業を強いられることとなった。しかも、建設省や農水省など国のあらゆる省庁から、それぞれ話が持ち込まれるものであるから、整合性も総合性もあったものではない総花的な「事業てんこ盛り」のプランが、市町村の「自主的・主体的な策定」の名のもとに、できあがってしまったのである。
<欲張った市町村?>
結果、全国で476カ所、総額で当初想定の15倍近くの59兆円となってしまい、あわてた国土庁はその削減にやっきとなり、各都道府県ごとの上限を決めるなどして、プランの見直しを市町村に迫ることとなってしまったのである。日経(2/22)によると、国土庁のコメントとして「市町村が欲張りすぎて、あれもこれもと詰め込みすぎた」としているが、実態はむしろその逆であり、「各省庁が欲張りすぎて、市町村にあれもこれもと詰め込ませた」のである。また、各都道府県ごとの上限も、人口や行政投資実績に基づいて設定されることとなったため、都市部がかなり優遇されることとなった。
市町村にとっては、はたまた迷惑な話であり、せっかく策定したプランの見直し作業を強いられ、都道府県の事業部局の顔色を伺いながら、事業費の削減作業を行ったのである。都道府県内部の混乱も極まっており、各省庁の意向を受けた各事業部局間では、国における予算分捕り合戦さながらの折衝、調整が行われていたようである。
<「分権」の最中に>
いずれにせよ、地方自治体にしてみれば、国の「思いつき」施策によって、ただでさえ忙しい年度末・年度当初を国の予算分捕り合戦に巻き込まれ、忙殺されることとなったのである。
地方分権の議論の中で指摘されていた、旧来からの国庫補助金による地方自治体のコントロールという問題が、地方分権一括法案の作業中という、まさしく地方分権具体化の第一歩の最中に浮かび上がってきたというのは、何とも皮肉なことである。

前回レポートした「地域振興券」と合わせ、国に振り回された地方自治体であるが、裏を返せば、地方分権の現段階での実態はまだまだこの程度なのである。甚だ一般的・抽象的で恐縮であるが、これからの不断の自己努力と自己改革により、地方分権の実現を成し遂げ、このような安易な施策を許すことのない「力」を蓄えていかなければならないことを痛感するのである。(大阪 江川 明)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】99年・統一地方選挙観戦記

【投稿】99年・統一地方選挙観戦記 

ワールドカップ・フランス大会観戦記以来の投稿です。今回は99年統一地方選挙の感想を書かせてもらいます。大きくは2点です。
まず第一は、共産党の日の丸、君が代問題に対する姿勢です。

○恥知らずの日本共産党
統一地方選挙の火蓋が、まさに切られようとする直前に記者会見、さらには大量の全戸ビラ。内容はみなさんご存知のとおり、「国旗、国歌の法制化については反対しない」、「国会で法律として採択されればこれを認める」。要約すればこんなところ。
票を取るためには、なんでもするこのような態度ははなもちならない。今の議席状況を考えれば、「国旗・国歌の法制化」=「日の丸・君が代の法制化」であることは誰の目にも明らか。これに対する責任は無視。「恥知らずの日本共産党」これに極まれり。

○自民党ですら逡巡する法制化
「日の丸・君が代」法制化を語るとき、近隣諸国の反応(近代史の評価をめぐる問題)は忘れてはならない視点。だからこそ自民党ですらその本心とは別にこれまで踏み切ってこなかったはず。
それをいとも簡単に、たかが選挙の票が欲しいために、この時点に言い出すことの犯罪性は誰の目にも明らか。「筋を通す政党」が聞いてあきれる。

○あさましすり替え
「日の丸・君が代」はその出典の議論もさることながら、しょせん明治政府が国策として作成したもの。「君が代」で言えば、本来大昔の「恋歌」。尾崎豊の「I LOVE YOU」となんら変わらない。これを天皇にすり替えた当時の明治政府のコーディネート能力は特筆に価します。時代が変わり今度は、日本共産党が見え見えのあさましいすり替えをするとは、開いた口が……こんなやつらにワールドカップの時の
感動が解るかい!

第二点目には大阪の知事選挙です。
○「相い逃げの大阪」
この選挙の中で、知事選挙が全国で12個所、そのうち10個所が「相乗り」。
大阪では、各政党ともノックの前にまさに「不戦の誓い?」。東京がうらやましく
思えたのは、わたしの人生ではじめてのこと。
4年前にノックが出たときを思い出してください。大政党が談合して、中央官僚を
擁立し、これに対して、賢明な大阪府民はまさに神の審判を下したのでした。
この4年間、大政党は何をしていたのでしょうか。1999年4月に知事選挙があることは、予定のこと。日本が戦争に巻き込まれて、政府がその統治能力を失い、憲法が停止しないかぎり、たとえ天皇が休止したとしても不動の予定。ノック4年間の評価をする前に自己の評価をすべき。
まさに、これを「相い逃げ」と言わずになんと言うのでしょうか。

○「相い逃げ」は立派な犯罪
なぜなら、政党助成法が成立、施行されています。政党は少なからず国民の税金で運営されているはず。政党は常に政見、政策を国民に提示し政権を目指す人間の集団だと私は思っています。その意味では「相乗り」の方がまだまし。闘わずして金を受け取ることは、詐欺または不当利得を得ることと同じ。立派に犯罪の構成要件を成立させていませんか。この意味で、日本共産党だけは犯罪を構成しないのがこの世の皮肉。

○大阪に政党は不要
今回、知事選挙の無効票および白票の数が例年の倍あったことが、4月13日の朝刊に報じられていました。私もその内のひとりです。決してノックに対して評価も否定もできる材料もありあませんが、「ラ」しなかったのです。個人的にはおもしろいオッサンだと思います。ただ、大阪の政党は、政党を名乗る資格がないことだけはわかります。
大阪には政党は不要です。今すぐその看板を外して解散すべきです。
途方もない財政赤字を抱える地方自治体。東の石原、西の横山両氏の健闘と手腕に注目していきたいものです。
(大阪・宝山 豊)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【投稿】日米首脳会談の危うさ、脆さ

【投稿】日米首脳会談の危うさ、脆さ

<<首相訪米、相手にされず>>
小渕首相の訪米は、クリントン大統領から盛大な歓迎を受け、首相自身が「大成功」と大はしゃぎしたにもかかわらず、アメリカのマスコミは三日間完全に黙殺、首脳会談と晩餐会が終わった翌日の4日になって初めて儀礼的に短い記事を掲載したが、1面記事はなしという惨澹たるものであった。
小渕首相の就任時、「冷めたピザ」と酷評した米政治評論家のJ・ニューファー氏が「あなたは冷めたピザではない」と語ってくれたと喜び、表紙にピザを両手で差し出す写真が掲載された米週刊誌「タイム」を手にとって、「これだけ宣伝したんだから、ピザ会社からお届け物があっていいのでは」とまでおどけてみせたのであるが、アジア版の表紙にはなったが、肝心の米国版では表紙どころか記事としても全く取り上げられなかったのである。G7メンバー国の元首が公式訪問しながら、新聞が社説でこれをまったく取り上げないという事態は、ある意味では異常とも言えよう。しかし異常なのは、こうした事態をもたらしてきた日米関係である。日本側は始めから小渕首相が対米関係を最も重視し、アメリカ側の要求や宿題に誠心誠意応えることに汲々とし、アメリカ側はそれらを点検し、さらに注文を突きつけるという構図が出来上がってしまっていることにある。
したがっていくら体裁を整え、レンジで再加熱したところで、代わり映えのしない
気の抜けたピザの味は変えようがないと言うものであろう。米国べったりの路線が初めから周知されており、世界の政治経済に緊迫感あるインパクトや事態の打開策など期待できないと見透かされている小渕首相は、米国の新聞での存在感はほぼゼロという状態である。それよりもアメリカのマスコミは、国内でも批判が高まり出したユーゴ空爆や、ロシア元首相チェルノムイルジンの訪米、高校での銃乱射事件、過熱気味の株式市場への警告におおわらわであり、クリントン自身、小渕首相との会談よりも、チェルノムイルジンの調停工作にこそ大いなる期待をかけて緊迫した会談が設定された。これには小渕首相も慌ててチェルノムイルジン特使との会談を急遽行ったのであるが、独自の政治解決の方針や打開策も持たない以上、ありきたりのすれ違いに終わらざるを得なかった。

<<「ならずもの」対策>>
しかし表面上のこうした状況とは裏腹に、今回の日米首脳会談の合意には見逃し得ない重大な問題が提起されていることは間違いない。第一は軍事問題であり、第二は経済問題である。
なにしろ軍事予算世界第2位の国が国内立法措置まで尽くして、世界最大の軍事大国と「軍事同盟強化」を図ったのである。小渕首相にとっては、大統領へのお土産として日米共同作戦の戦争マニュアル=ガイドライン法案の衆議院通過を報告し、参議院でも野党を取り込んで通過させる決意を表明しただけではあるが、周辺諸国はもちろん、日本自身にとっても危険な種をまいたと言えよう。日本側は冷戦体制崩壊後の世界の安全保障体制について米国追随以外に何らの政策・理念・構想も持ち合わせていないのである。一方、米国側は、世界の「ならずもの国家」=イラク、ユーゴ、北朝鮮等に対して、まさに「ならずもの」に対しては、「ならずもの」的にふるまうことを当然とし、軍需産業の在庫消化と新たなミサイル迎撃網構築・スターウォーズ構想を展開し、それらの分担から戦費・兵器・軍隊調達までを同盟国に押し付け、取り仕切ろうとしている。今回の日米合意はこうした危険極まりない戦争挑発行為への加担をより明確にしたのである。
米国のGDP7兆6000億ドル、軍事費約27000億ドルに対して、こうした「ならず者国家」全て合わせてもGDP1740億ドル、軍事費150億ドルにしかすぎない。どの国も米国を脅かすほどの「十分な経済力も軍事力もない」ことは歴然としている。
日本にとって問題は北朝鮮への対応である。米国防総省の「99年国防報告」で、北朝鮮を初めて「アジア太平洋地域で最も重大な脅威」と断定し、「経済状態の悪化が脅威を予測不可能にしている」、「米国まで到達する弾道ミサイルを開発する可能性もある」と脅威を煽っている。煽られている最大の対象は日本である。
これに対して直接の当事国である韓国の金大中大統領は北朝鮮問題の軍事的解決はありえないとの立場から、これまでの政権とは違い、大掛かりな平和攻勢を展開、いわゆる「太陽政策」を堅持していることは周知のことである。
北朝鮮のテポドン発射については「建国50周年で国威発揚にぶち上げた、子供だましの人工衛星打ち上げの失敗であった」という米国防省最終報告が、「北朝鮮が、米国本土が射程距離に入るような弾道ミサイルの開発寸前である」に見解変更が行われ、「この見解変更がクリントン政権の弾道弾迎撃ミサイルシステム導入構想のきっかけ」(2/3ニューヨークタイムズ)となり、クリントンは、かつてレーガンでさえ引っ込めざるを得なかった「スターウォーズ」計画に復活予算をつけると発表した。日本側はすでにこの計画への研究段階からの加担を約束している。これは今や中国にとって最大の警戒すべき脅威ともなっている。今回の日米首脳会談で再び確認された対米追随一辺倒の日本の姿勢が問われているのは当然のことと言えよう。

<<「10月解散説」>>
このところ「あと3年は政権を担当したい」と言い始めた小渕首相である。その首
相個人の政権維持にとってもさらに重大な問題は、日米共同声明の中で「99年度のプラス成長達成に不退転の決意で取り組む」と、99年度のプラス成長を国際公約にしてしまったことである。
ところが、首相訪米前の4/20、IMF(国際通貨基金)は世界経済の見通しを発表し、日本の99年の実質経済成長率をマイナス1.4%と予測したばかりである。IMF
は、日本は99年も戦後最悪の景気後退から抜け出せないとの厳しい見通しを公表したのであるが、これは昨年12月の時点で99年の日本の成長率をマイナス0.5%と予測していたのを0.9%もさらにマイナス修正したものである。失業率についても5%を上回る可能性をあきらかにしている(ムッサー調査局長の記者会見)。3年連続のマイナス成長が確実視されているのである。
にもかかわらず、99年度の成長率を「プラス0.5%」と言い張り、「景気は底を打
ちつつある」、「明るさがみえてきた」、堺屋経企庁長官など「99年度は必ずプラス
成長になる。その確信はますます強くなっている」等と言っているが、今やプラス成長を言うのは小渕首相とその周辺だけにしかすぎなくなっている。
確かに、株価は再び1万7000円台に乗り、金融機関は一息つき、国債などの債券も買われている。しかしそのほとんどは外国人投資家によるものである。外国人投資家は、昨年10月半ばに買い越しに転じて以来、日本株を買い続けており、3月の買い越し額は過去最高の1兆8483億円に達し、株価もこれに応じて急上昇、4/23には日経平均株価は1万6923.25円と昨年3月以来の高値を記録した。これは、アメリカの株価がバブル的上昇のために、一株当たり売上高の1.82倍、それに対して日本株はわずか0.47倍、世界的に見ても最も割安だという(ニューズウィーク誌5/5号)こと、さらに国内的には、政府が実質ゼロまで金利を引き下げたために、運用先を失った投資資金が仕方なく株式市場に流れているだけという、実体の伴わない株高の側面が強いことである。金利ゼロ下での金余りが生み出している「流動性相場」というものである。
50円の額面割れだったゼネコン株が2倍から10倍に急騰したり、200円、300円だった都銀株が2,3倍に急上昇しているのはその証左と言えよう。しかしその脆さは市場参加者の誰もが感じているものである。
実体経済では、それぞれGDPの62%、16%を占める個人消費と設備投資に回復の兆しなどまったくどこにも見えていない。過去最悪の失業率と消費の落ち込みは何度も指摘されていることであるが、設備投資にしても経企庁試算で86兆円の過剰設備があり、99年度の設備投資計画は大企業で前年比9.4%減、中小企業で26.2%減、経団連等からはリストラとともに、「設備廃棄減税」が声高に叫ばれている現状である。「景気は今が底」ではなくこれからまだ二番底、三番底が控えているとも言えよう。
こうした危うさ、脆さを前にして、まずは6月解散説で公明党の抱き込みと与党化、総裁選を前倒しする「無投票再選」まで画策し、景気がさらに底を割る以前に何とか解散を仕掛けたいというのが小渕首相の本音であろう。小渕首相が総裁選再選後直ちに解散・総選挙に踏み切るという「10月解散説」が急速に高まっている、あるいは意図的にそう仕向けているのは、迫り来る危機感から来るものと言えよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.258 1999年5月22日

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【書評】『いま、非情の町で』

【書評】『いま、非情の町で』
                (鎌田慧著、岩波書店、1998.12.18.発行、1,700円)

失業者が戦後未曾有の規模と割合に達し、しかもその内訳では若年労働者の失業の増加という特徴を示している。この大不況・大倒産時代をもたらしたものとその有様について、具体的な現場から冷徹に見通しているのが本書である。
著者は今さら言う必要もない有名なジャーナリストであるが、その姿勢は一貫して、権力構造による抑圧に抗して闘う民衆や個人・地域・生活の側にある。それ故この視点からの主張は、必然的に日本の近代化・企業文化への痛烈な批判となる。
「日本の近代化とは、スクラップ・アンド・ビルドの別名であり、それは、企業の利益のための一方的都合によった」。
「他国の工場を蹴落とすのを至上命令としてきた日本の企業文化の精神とは、競争至上主義だった。(略)とにかく、なりふりかまわずドルを稼ぐ。そのためには、農業も漁業も衰退してもかまわない。なぜならそれら生産性の低いものは、稼いだドルによっていくらでも買うことができる、というのが、日本の産業政策だった」。
このような日本の、「がむしゃらな、バランスを欠いた官・政・財が結託した競争主義」は、いまや「空洞化とリストラ」という破綻を迎えることになったとされる。そしてその象徴が「企業城下町」の大規模な変化である。それはかつての基幹産業であった石炭や重工業にとどまらない。日本各地の元「企業城下町」で次のような光景が見られる。
「炭住など、企業城下町の社宅は廃墟となり、取り壊されて空き地となる。わたしは、これまで、全国でたくさんの草深い廃墟をみてきた。『兵(つわもの)どもの夢の跡』である。城主と重臣は立ち去り、行き場のない、足軽、雑兵の類いがかろうじて余生を送っている。(略)炭鉱は閉山、高炉は解体、ドックはつぶされ、工場は閉鎖されたのである。自動車のコンベアラインも、取り外しはじめられている」。
しかしこの無残な光景にもかかわらず、企業文化の精神(競争主義)はすでに、一致協力、秩序、同調化の強制等の特徴をもったまま、「清潔と排除の論理」として、工場の外部へと流れ出し、社会に蔓延してしまった、と著者は指摘する。このことは、公害、労災、過労死、自殺、精神障害、いじめ、交通事故の多発、汚染食品等々として結果しているのであり、さらにはこのような傾向を批判するべきであった、労働組合もジャーナリズムをも巻き込んでしまったのである。端的に言えば「日本では、戦後もなお、〈経済戦争〉のもとでの戦時体制だったのである」。
そしてこれに対して著者は、「非情の競争から連帯と共生へ。それが労働運動の精神のはずである」として、企業文化の精神(競争主義)を打破する可能性を、地域の住民運動と、反骨の人びとの精神に探ろうとする。本書の内容では、「沖縄の生きる力」や「三井三池炭鉱閉山の陰に」等のルポルタージュが前者のそれであり、丸木俊、今村昌平、家永三郎、浅野史郎(宮城県知事)、土屋正忠(武蔵野市長)等へのインタビューが後者のそれである。これらは、「いままでの政策が破滅への突進であったとすれば、これからはさまざまな産業を活かす、複合的な生き方である。それこそは、子どもたちの将来にさまざまな可能性を生かすことができる」と位置付けられ、「共生であり、共成である」生き方への一筋の道とされる。
「いま、サラリーマンたちが、必要以上に失業の不安におびやかされるようになったのは、依拠するものが喪失しかかっているからである。会社の永遠性と生涯雇用の約束はもはやない。倒産と失業に対抗するための労働組合には信頼性はなく、連帯感は断ち切られたままだ」。
このような状況に置かれながらも、「孤立してなお抵抗するようには生きてきていなかった」人びとに対して、「無理をせずに、ともに生きる関係とはどういうものか」を考えさせる素材として本書はある。(R)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【投稿】統一地方選 前半戦を終えて

【投稿】統一地方選 前半戦を終えて

4月11日投票の知事選挙、府県議会・政令都市議会議員選挙が確定し、統一自治体選挙前半戦が終わった。十分な分析は今後に譲るとして特徴的なことだけ述べてみたい。

<東京、大阪でタレント知事>
マスコミも注目したように、東京、大阪で政党候補が敗北し、タレント候補が共に圧勝したことは、大きな特徴であった。東京では、青島辞任により、石原、鳩山、桝添、三上、明石、柿沢の6候補の争いとなり、当初懸念されていた4分の1条項・再選挙もなく、石原の圧倒的勝利に終わった。
今回も投票率は57%と高かったが、民主鳩山も含めて、支持政党層からも石原票が出ているという調査がでている。朝日新聞によれば、石原に投票した人の内、50%以上が実行力に期待している、という。青島前知事への期待に反して、都政改革が出来なかったことへの反発とも言えるが、石原の「実行力」とは都民の期待とは、少し違った方向に向うことは間違いがない。特に「福祉サービスはすべて民間で」発言など東京都職員・労組への攻撃は厳しいものが予想される。
一方、大阪では、ノックと共産党候補の構図となったが、ノックが票を倍増する勢いで圧勝し、共産候補も票を伸ばしたものの、躍進とは言えない結果となった。選挙終盤で運動員の女性がノックをセクハラ告訴する動きもマスコミが報道を控えたことで、大きな影響とはならなかった。知事というより、人柄に対する評価で圧勝したと言えるが、第2期府政運営にあたって、共産党を除く政党対応は、前回のような少数与党からは変化するものと思われる。
東京、大阪に共通しているのは、東京が「石原軍団」、大阪の「吉本興行」と大量のタレントが「人寄せパンダ」としてマスコミ効果を利用できる候補である点だ。地方自治の論争が行われず、人気選挙の面が強まっていることは、決して好ましいことではない。

<民主横ばい、共産躍進の府県議員>
府県議員に目を移すと、大きな変化が生まれているというわけではない。地方組織の確立が遅れている民主党は、従来の旧社民、旧民社グループなどの系列で、候補毎の独自の運動が行われたわけで、当選議員数も横ばいとなった。選挙協力という形では、単独候補の場合に個別の協力関係はかなり進んだ面も否定できない。昨年の参議院選挙の余韻を残す運動員には、民主党への風を期待する傾向もあったが(私も含めて)、ほとんど無風と言う結果であった。
他方、共産党に、風は吹いたようだ。特に兵庫県議会には、昨年の神戸市長選挙から続く空港反対運動と連動して、共産党が躍進した。全国的にも府県議会議員を増やし、公明、民主とほぼ同数の議員を確保している。
公明は現職確保をしたが、一方で候補を立てない選挙区での、自民、民主、無所属候補などとの選挙協力を強め、各議会での政治的影響力の確保、衆議院選挙への戦略という意味でしたたかな選挙をおこなったのではないか。
4月18日から、統一地方選挙後半選、市町村での首長選、議員選挙に突入する。前半選の傾向は、おそらく変わらないと思われる。私も含めて、また忙しい日々が続くというわけだ。(佐野秀夫)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【投稿】緊急経済対策と地方自治体

【投稿】緊急経済対策と地方自治体
    —「地域振興券」「地域戦略プラン」のドタバタ劇—

政府は、昨年11月16日の経済対策閣僚会議において、「緊急経済対策」を取りまとめた。金融システムの安定化対策、景気回復策を中心に鳴り物入りで打ち出されたものであるが、当初からその効果に疑問の声があり、4ヶ月経った今では、すっかり色あせたものとなっている。一方、従来の経済対策と違って今回特徴的なのは、地方自治体とりわけ市町村と密接なかかわりを持ったものとなっていることである。今までも景気対策にからめて、公共事業の積極的な推進に地方自治体を誘導したものはあったが、今回はそれ以上に地方自治体を巻き込み、国・地方の総力を挙げて景気回復を図ろうという姿勢を見せようとしている。その内容たるや、地方自治体にとっては甚だ迷惑なおそまつなものなのだが、地方分権関連法案がいよいよ国会で審議され、「地方分権が具体化の段階に入った」と言われている昨今、看過できない多くの問題を含んでいる。今月と来月の2回に分けて、緊急経済対策の一環である「地域振興券」と「地域戦略プラン」のドタバタ劇をレポートする。

ドタバタその1「地域振興券」
<地方分権の試金石!?>
参議院で過半数を大きく割っている自民党が、公明党の取り込みを目的に参議院選公約の「商品券構想」を譲歩して受け入れたものであることは周知のことである。「7,000億円の国会対策費」「天下の愚策」などと揶揄されながらも、緊急経済対策の目玉として一人あたり2万円の地域振興券交付事業は実現してしまったのである。
その実施主体は市町村となった。経費は事務費も含めて、すべて国が補助するのであるが、法律の根拠がまったくない、いわゆる予算補助である。法的には市町村の固有事務、最近の言い方で言えば自治事務だという。「地域振興が目的だから」(自治省)であるが、市町村の側に事業を実施するかどうかの主体的な判断の余地はまったくないに等しい。市町村にとっては法的には拒否できるのであるが、外堀を埋められ半ば強制的に実施せざるを得ない状況に追い込まれているのである。年度末までの交付という短期間で施策を実施させるために、市町村を最も「押さえている」自治省が所管したことからも、その意図が伺えるだろう。しかも、事細かに交付事務の詳細が決定され、地域振興券のデザイン以外は市町村の独自判断はほとんどできない状況になっている。
自治省首脳は「地方分権の試金石だ」などと言っているそうだが、国の態度や現場の現実を見るならば、地方分権にはほど遠い実態なのである。
<景気対策?福祉対策?>
その事業の内容であるが、公明党の当初の一律交付構想が政治的妥協の中で大きく変容し、15歳以下の児童を持つ世帯主と一定条件の年金・手当受給者、非課税の65歳以上などに交付対象が限定されることになった。景気対策なのか、福祉対策なのか、よく分からない施策となったのであるが、これが住民や市町村の混乱に拍車をかけることになった。
まず、市町村のどの部署でこの事業を担当するのか。福祉部門なのか、商業部門なのか、いずれにせよ、短期間で実施しなければならない状況の中で、縦割りの振り合いをやっている場合ではなく、臨時機構や推進本部などによって、横断的に対応し、職員の動員も含めて総力で実施している市町村が多いようである。皮肉なことに、自治省の「指導」に従って、積極的に人員削減・行革を進めてきた自治体ほど、降って湧いたこの仕事への対応が苦しくなっているのである
住民にとっては、マスコミ報道などにより65歳以上ということが先行し、実際は老齢福祉年金や障害基礎年金などの受給者など一部の人々が対象なのにもかかわらず、多くの高齢者は自分が対象となると期待してしまい、市町村に多くの抗議が殺到した。一方で、在日外国人高齢者など制度的無年金者が切り捨てられることとなり、在日コリアン団体などからの批判の対象となっている。
15歳以下というのも評判が悪い。子育て・教育的にはむしろ16歳以上の方が教育費など負担が大きいのではないかとの反発が強い。税制的に言えばこの層は扶養控除額で考慮されているのであるが、商品券の現物の前には納得が得られない。
<またもバラマキ>
地域振興券の取り扱い店舗は、事前に所在の市町村に登録しなければならず、当該市町村の地域振興券しか取り扱えない。地元業者や商店街のみに限定することは慎重に、という国のお達しもあり、実際は大規模店舗も含めて登録されている。 そうなると、最近の住民の消費傾向からすれば、ほとんどが大規模店舗に地域振興券が流れることは必至である。
何をもって「地域振興」というのか議論があるだろうが、実態としてはいわゆる地元にあまり効果は及ぼさないのではないかと見られている。各市町村では、地域振興券とリンクした商店街のイベントに助成金を出すなど、地元商店街の活性化に工夫を凝らしているが、例によって行政との持たれ合い・補助金バラマキとなってしまっている。
<果たして効果は・・・>
マスコミはデザインや交付開始日の早さなどを盛んに報道し、市町村間の不毛な競争を煽っている。3月中旬からは全国的に交付が本格化する中で、短期間で事務をこなしたことによる市町村の交付ミスや事業者への換金の遅さなどが、テレビ・新聞を賑わせている。
「地域振興券は我が党の提案」と統一地方選に向けて大宣伝をしていた公明党であるが、またもや国会対策で自民党が第2弾の実施をにおわせていることに対しては、住民のあまりの反発の強さ、不評の多さに、腰が引けた状況に陥ってしまっている。
先日ある民間シンクタンクの調査が発表された。今回の地域振興券でプラスアルファの買い物をするのは2割、普段どおりの買い物に使うというのは7割という結果だった。大半の人々は地域振興券で浮いた分を不足している生活費の足しや貯蓄に回そうとしているのである。やはり、景気対策としての効果は疑わしいのであろうか。ただ、これだけの公費をつぎ込み、年度末でただでさえ忙しい市町村を苦しめていた状況になってしまったからには、少しは効果が出てほしいものである。

次回は、小渕内閣のウリである生活空間倍増戦略プランの一環である「地域戦略プラン」のドタバタ劇を紹介し、各省庁の予算分捕り合戦に巻き込まれた市町村・都道府県の混乱ぶりをレポートしたい。(大阪 江川 明)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【投稿】統一地方選・・石原慎太郎都知事誕生が警告するもの

【投稿】統一地方選・・石原慎太郎都知事誕生が警告するもの

<相乗り主義への反撃>
小渕政権が発足して初めての全国レベルの選挙、統一地方選挙、とりわけ注目された都知事選挙で、自民・公明が推した明石候補は完敗し、石原慎太郎都知事が実現することとなった。右派民族主義の最も危険で差別意識丸出しの知事の誕生である。
12都道府県知事選の内、東京と福井以外の9知事選は、自民党から民主党、公明党をはじめとした2~7政党の相乗りで現職が再選され、それに対して共産党がオール与党批判で挑戦するというお決まりの選挙戦で、ほとんど政策対決も論議もない盛り上がりに欠ける低調な選挙となった。府県議会議員選挙ではこれを反映して、大枠には変化のない自民減・共産増となった。
唯一乱戦選挙となった都知事選の結果は、まさにこうした既成政党の御都合主義と相乗り主義、政党隠しや裏取り引きに対する強烈な反撃であったとも言えよう。そのことは、自民党支持票の45%が石原支持に流れ、明石には22%しか行かず、最大の票田である無党派層は31%が石原へ、21%が舛添に、17%が三上、15%が鳩山、明石には実に5%しか行かなかったということに象徴的に現れている(NHK4/11出口調査集計結果)。

<「このダメな国を、ほめよう!」作戦>
投票率は若干は上がったというが、相いも変わらず低く、激戦で盛り上がったといわれる都知事選でも7%上がっても57.87%にしかすぎず、大阪府知事選では54.17%という低さであった。
問題はこうした関心の低さ、投票率の低さを逆に良しとし、その土俵の上でしか政治を考えないようにし、政治を狭め、無関心層を増大させ、政治を馴れ合いと取引の場に変え、政界、官僚、財界の利益配分の場にしてきた現実、石原知事誕生はこうした現実に対する警告でもあるといえよう。
この点で今回異常なキャンペーンが行われたことに警戒すべきであろう。それは東京都知事・大阪府知事をはじめ統一地方選前半の告示日当日の3/25から一斉に掲載された「ニッポンをほめよう」というキャンペーンである。それは、全国紙、地方紙、スポ-ツ紙などほとんどすべての新聞の一面を使った広告作戦で、そこには「わたしたち60の企業が発信する、共同声明です。」とうたわれ、大手企業59社とその広告を掲載した新聞社が加わった意見広告が掲載されている。3/25付け大手紙には一斉に「このダメな国を、ほめよう!」と題して今人気のコンビ『爆笑問題』のコントが掲載されている。
「まあ、正直言って、日本はダメなところも多いですよ。でも、本当はダメでOK!って考えたほうがいい。例えば、日本は投票率が低すぎるというでしょ。
でもワタシが思うに、問題の多い国ほど投票率は高い。国民がつねに政治を見張ってなきゃ いけないってことだからね。そう考えたら、日本なんて、投票率が低くてOK!じゃないですか。」と言わせている。
漫才の中のひとこまでいうならまだしも、統一地方選の最中に全国紙1面全面広告を使ってわざわざ言うことなのか。その知ったかぶりのいいかげんさと無知のさらけ出しが、民主主義の根幹を否定し、国民のチェック機能をまで嘲笑うようなシニカルな姿勢を肯定し、礼賛しているのである。しかも日頃棄権防止を呼びかけている新聞社が自ら加わってこうした意見広告に荷担しているとはどういうことなのか、厳しく問われてしかるべきであろう。
3/29の記者会見でで民主党の羽田幹事長が「これは、現在の政府や現状を批判するなということだ。これは民主主義を踏みにじろうとする危険なものだと思う。この時に、なぜ、こんなキャンペーンが行われているのか。」と厳しく批判したのは当然のことと言えよう。
ちなみに、日本は96年総選挙の投票率が59.65%、昨年の参院選が58.54%であるのに対して、97年のイギリス下院選挙=71.3%、フランス国民議会選挙=71.4%、カナダ下院選挙=66.7%、昨年のドイツ連邦議会選挙=82.2%である。

<「最後に来た”意中の人”」>
こうした状況の産物が石原知事誕生となった。石原は当選確定の第一声で、「既存の政党にはほとんど価値がなくなったということを都民が感じたのであり、そのことを既存の政党が見事に鈍感に感じていない」と断じ、「既存の政党は滑稽なていたらくを示した」といわば挑戦状を突き付けた。指摘はまさにそのとおりであろうが、突きつけられた側は「まあ、まあ」と今後の石原取り込みに早速重点を移している。
石原は選挙期間中、「はっきりYES、はっきりNO」をスローガンに、青島の弱いリーダーシップに対する、石原の強いリーダーシップを前面に押し出してきた。そして「米軍横田基地の返還と日米共同使用」、「首都の第三空港に」を石原独自の政策に押し上げ、その選挙戦術が支持を拡大させたことは事実であろう。読売新聞などは、「最後に来た”意中の人”」(3/10付け朝刊)と最大級の持ち上げを行ってきた。
だが、石原は周知のように、これまで何度も虚言・差別発言を売り物にしてきた人物であり、南京大虐殺を「中国側の作り話」「うそ」と断言し、今回も平気でシナ、シナと中国差別の発言をしても何ら恥じることのない程度の低さを露呈してきた人物である。核の問題についても、「少なくとも、自前の核をもった国は、厭な、妙な、いい方だが、それを楯にして、紛争対決の相手にだけではなく世界に向かって、駄々をこねられる。」とする認識の程度である。こんな人物が「政治不信」を理由に国会議員を辞任しながら、今度は野心万々に同じ政治不信の伏魔殿とまでいわれる都政に乗り込んで、またもや責任放棄といった事態は十分にあり得ることであろう。
さらに石原の「YES、NO」の基準が、「日の丸・君が代」を基軸にした民族主義と右寄りのスタンドプレーと暴言であるだけに、多くの予期せぬ事態をもたらしかねないであろう。

<『さざ波通信』の波紋>
統一地方選挙を直前に控えた今年の2月、共産党は「日の丸・君が代」には反対だが、国旗・国歌の法制化には賛成であり、この問題の解決には何よりも国旗・国歌の法的根拠を定めることが重要であるという「新見解」を打ち出したことは周知の通りである。この時点では政府・自民党がすぐさま法制化を持ち出してはこないであろうと判断していたのであろうが、3/2の広島で校長が自殺した事件を契機に、一挙に法制化推進を持ち出し、小渕首相自身がNHKのインタビュー番組で「あのお堅い党の代表があそこまでおっしゃって下さるのですから」と、破顔一笑、「この際、ぜひ法制化を進めたい」と、政府・自民党をはじめ多くの右翼諸派を激励することとなってしまったことは、共産党指導部の重大な責任と言えよう。
4/7付け日経調査によれば、「日の丸・君が代」法制化に反対する人は、共産党支持者層においてさえ少数派で、29%にしかすぎなかったと報道されている。さらにこのほど光文社から出版された不和哲三・井上ひさしの対談本『新日本共産党宣言--象徴天皇制と日本共産党は矛盾しない』の中では、有事などの緊急事態の場合にそなえ、「自衛のための軍事力を持つことも許される」し、合憲であるという意見まで述べられている。ここまでくれば、石原慎太郎も多いに意を強くしさらに前を行くことに何らの躊躇も感じさせなかったとも言えよう。
こうした共産党指導部の一方的な路線変更に憤りを感じ、内部から公然と批判することの重要性を確認し、インターネットのホームページ上で活動を開始しだしたグループが登場し、共産党の内外に多くの波紋を広げている。それが現役の党員達によって運営されている『さざ波通信』(http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/)である。そこには先の対談本に関連して、「井上ひさしさんへの手紙」と題された30台の現役党員のG・Tさんが実際に井上氏に送ったものが公開されている。
「この新見解それ自体、党内でのいかなる民主主義的な討論もなしに、党指導部は一方的にどこかで決定し、マスコミに一方的に発表したのです。彼らは自分達の状況判断に誤りがあったことを認めないどころか、陰に陽に、あたかも今回の自民党の動きが計算済みであるかのように開き直るとともに、あいかわらず、国旗・国歌の法制化こそが解決策だという「間違い」に固執しています。」
さらにこの手紙は、本誌アサート№253号で妹尾健氏が取り上げられていた川上徹氏の『査問』(筑摩書房)での民主主義とはまったく無縁な家族にも連絡を取らせず13日間にも渡った暴力的監禁によって、分派活動なるものの自白を迫る、青年党員に対する弾圧事件に触れて、「これによって、生き生きとした青年運動は消滅し、ひたすら党中央の顔色をうかがいながら活動する物言わぬ党員がはびこるようになったのです。現在の不破指導部は、今なおこの事件を反省しておりません。今なお、あの時の処置は正しかったと強弁しております。おかげで日本の共産党は青年党員の比重が圧倒的に小さく、そして活気に乏しいという病に苦しめられています。あの時のつけを、今なお支払わされているのです。」と述べている。こうしたツケが石原都知事誕
生に貢献したであろうことは間違いのないことと言えよう。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.257 1999年4月17日

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【書評】近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る

【書評】近代日本のイデオロギーの本質解明に迫る
      『フェミニズムが問う王権と仏教──近代日本の宗教とジェンダー』
              (源淳子著、1998.7.31.発行、三一書房、2,300円)

「この国の近代思想の歴史は、(略)つねにその時代社会の権力に迎合する営みを繰り返してきた。近代日本の著名な思想家の仕事は、現実の意味づけに腐心し、その営みのために自己を保ち続けてきた。そして、そのような多くの思想家が、かつて天皇制にまつろうてきた自らの思想を、『終戦』に転嫁し、自らの責任を放棄し、新たな民主主義(現実)のなかに安住したのである。彼らの無責任な生き方は、近代天皇制国家の特徴である」。
「それはまた同時代を生きた知識人女性も無関係ではない。日本のフェミニズムも、戦争責任の問題を自らの文化や思想の課題として担ってきたとは残念ながらいえない。フェミニズムが自らの文化や思想との対峙をしてこなかったからである」。
このような問題意識から著者は、「思想のモラル」を天皇制と宗教の関係から明らかにしようして、その中で、天皇制とジェンダーの関係を位置づける。そして本書はこの点を、これまで問題にされることの少なかった、近代仏教に焦点を合わせて展開する。
著者によれば、「かつて真宗教団は、幕藩体制で『真俗二諦論』で仏法(真)と王法(俗)を使い分けた。その理由は、権力としての共存を計るための政治的な政教分離論であり、教義的には政教一致論をもって信者教化した。それが近代になって、幕府への随順が国家への随順に変更しただけであった。仏教は、『護法論』で『国体』に追順することになっていくのである」。
著者は、日本における仏教教団が、絶えずその時代の権力に迎合して自分の生き延びる道をはかってきたことを鋭く突く。このことは近代において、仏教が「新たな教学を生むことができなかった」こと、「仏教は仏教として自立することができなかった」(信教の自由=権力からの自由、が確立されなかった)こと、近代天皇制国家という「国家の宗教政策の前にひれ伏すことになってしまった」ことに示される。すなわち「反権力の鎮め役を仏教は果たしたのである」。
この仏教のあり方を政治的に徹底的に利用して、天皇制国家は、祖先崇拝と家族制度を近代的に完成させたさまざまな制度を構築する。すなわち「宗教が祖先崇拝を担い家族制度を補完しているということである。さらにその構造が、天皇制国家を支えるのである」。そしてこの究極の思想が「国体」となる。
「『天皇の下に同一血族・同一精神』の国民の帰一するところは『祖先』だという。これは国民に二重のよりどころをもたせることになる。ひとつは『天皇』(『国家』)、これが公的領域におけるよりどころである。そして、私的よりどころが『祖先』である。その両者が密接なつながりをもって国民を呪縛していく。天皇制の万世一系の徹底化である」。
こうした「国体」の思想は、個々人にとっては「個』を越える存在である「家」とこれを基盤とする「戸籍」制度による呪縛として現前し、「国体」の中心思想である「和」とは、その具体化として「それぞれが『分を守る』こととされる。夫婦の間においては、夫は夫の『分」を、妻は妻の『分』を守る」性別分業によって「美しき和」が成立し美化されるのである。すなわち近代天皇制のイデオロギーは、「個人の人権、とりわけ女性の役割を軽視する」構造を有する。このことは、女性が結婚して夫の家の氏に変えることではじめて夫の戸籍に入れてもらうことができ、離婚した女性が「戸籍を汚す」といわれた社会意識(=これは、個々の女性にとっては、「どんなことがあっても離婚してはならない」という意識の内面化となる)などに示される。著者は、「このような戸籍制度は、天皇制国家の狭隘な精神と同質である。天皇制と戸籍制度と家制度はまったく別のもののようにみえるが、相互に密接な関係をもって支え合っている」と指摘する。
さらにここで重要なことは、この「国体」によって軽視され抑圧された女性が、逆にその「国体」を支える最も強力な基盤とされたことである。この点については、次のように述べられる。
「ジェンダーの視点から『国体』を分析すると、『国体』の頂点に立つ存在は、天皇である。そして、その天皇からもっとも遠く底辺にあって、『没我と献身、慈悲と忍辱』(略)によって天皇にまつろい、そして天皇制を補完する役割を担わされたのが、『日本の母』である」。
そしてこの場合に、皇国史観に仏教的言説が重ねられる。すなわち「『母』とは(略)『み国の御恩』につかえる皇国の母であり、軍国の母である。その母に要求されたのが(略)『仮令身をもろもろの苦毒の中におくとも、(略)忍んでつひに悔いじ』という『仏』への信仰であった」。これは真俗二諦論を女性に適応させた教化であり、「母」と「仏」が「国体」によって結合され、「聖戦」と美化した戦争に加担する論理として機能した。そしてその本質は、「『国体』のなかで女性が『工場』として、つまり出産機能としての役割で認められるということ」であり、「その機能を『国体』は『母性』と捉える」(=「お国に捧げる子の母たる自覚と信念」をもつ母)と著者は指摘する。
このような「日本の母」が戦争中にプロパガンダとして利用され、それに対して当の人々のみならず、知識人女性でさえも有効な批判をなし得なかったことを著者は重大な戦争責任として批判する。
「戦後、(略)多くの『日本の母』は、戦争犠牲者として『日本遺族会』に吸収されていく。そして、その多くの母は、夫や息子がどのような戦争を戦ったかを知ることもなく、軍人恩給を受け取っている。15年に及んだアジア・太平洋戦争中、軍靴で踏みにじったアジア諸国への加害の事実を自らの問題として考えるという戦争責任に及ぶこともなかっただろう」。
そして、かつての「日本の母」に対する反省のないままに戦後日本の急速な経済成長の中で、新たな「日本の母」=「企業戦士の母」が存在することになる。本書はこのように近代天皇制国家のイデオロギーが、仏教を根底に置きながらいかにして形成され、それがまたジェンダー・「性」をいかに利用してきたかを問う。現代日本社会のあり方と深くかかわる問題を、日本人自身に即して内在的に批判する書である。(R)

(追記:本書の出版元・三一書房が労働争議のために出版活動を停止している。このため本書については入手困難な状況となっているが、機会があれば一読を要請する次第である。)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

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【投稿】世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く

【投稿】世間にはびこる「トンデモ経済論」を暴く

<間違いだらけの経済論にだまされるな>
世間に「トンデモ本」がはびこっている。トンデモ本とは「著者のおおぼけや、無知、カン違い、妄想などにより、常識とはかけ離れたおかしな内容になってしまった本」(トンデモ学会編『トンデモ本の世界』)のことを言う。
『経済対立は誰が起こすのかー国際経済学の正しい使い方』(ちくま新書・98年)『間違いだらけの経済論ー天動説に等しいトンデモ論にだまされるな』(ごま書房・99年)の著者、野口 旭氏(専修大学経済学部教授)はその著作の中で切々と訴えている。
「長引く不況の中で書店には、世界恐慌論や日本経済の再生策を提案する本などが溢れている。ベストセラーになっている本もたくさんある。その中でタチが悪いのは、一見まじめそうでいて、実は百害あって一利もないトンデモ本である。著者はマスコミにもよく出てくる有名なエコノミストであったり、有名大学の教授であったりするので、読者はなんとなく納得してしまう。それこそとんでもないことだ」と。そして「トンデモナイ」国際経済論の典型として、今はやりのエコノミストや経済学者の名前をあげて、根本的な批判を展開している。
野口氏が、ヤリ玉にあげている著者と著作をざっと挙げてみる。リチャード・クー(野村総合研究所)『投機の円安 実需の円高』(東洋経済新社・96年)やレスター・サロー(MIT大学教授)『資本主義の未来』(TBSブリタニカ・96年)をはじめ、最近話題になっている石原慎太郎『宣戦布告「NO」と言える日本経済ーアメリカの金融奴隷からの開放』(光文社・98年)や吉川元忠(神奈川大学教授)『マネー敗戦』(文春新書・98年)などは、国際経済学の基本中の基本すら踏まえていないトンデモ本だと、批判している。そして、「今、経済学という分野で怪しげな理論や政策を吹聴する人々は、古今東西あとをたたず、そういった人達のおかしな理論や政策が、世間一般の世論形成に大きな影響を与えたり、さらにそれが実際の政治の中に反映されたりする事が、社会にとって迷惑千万である」と強く主張している。

<間違った経済論を見分けるのは難しい>
この野口氏の著作は、私を多いに刺激させてくれた。今日の激しく動く国際経済、日本の経済をどう認識したらいいのか、書店に氾濫している経済に関する書物を、自分なりに選別して乱読しても解ったようで解らない。「トンデモ本」とそうでない本とを見分けることなど到底できなかった。どれを読んでもそれなりに解ったつもりになったり、しばらく経つとそれと反対の事が書いてある本を読んで納得してしまうのである。なぜそうなってしまうのかが、この書物を読む中ではっきりと理解できたように思う。経済学を基本からきっちりと勉強したことのない者にとって、いろいろな経済論議のうち、どれが経済学的に正しくどれが間違っているのかを見分けろといっても不可能なのである。ましてや経済ジャーナリストや経済評論家と言われる多くの人が、経済学の基本とは無縁な「手軽に実感できるトンデモ知識」を、マスコミで盛んに撒き散らしている中では。ほとんどが言いぱなしである。自分がいままで主張してきた事が、今日正しかったのか、間違っていたのか全く自己検証もせず、新たな国際・国内経済状況にたいして、かつて自らが主張した事とまったく違うことを平気で言い出す。経済論議にはこんな現象が特に多いと思う。

<貿易黒字・赤字についての間違い>
一つ例を挙げれば、つい最近まで「日米貿易摩擦問題」が焦点化していた時、日米両方の経済評論家は、日米二国間における日本の貿易黒字の拡大とアメリカの貿易赤字の拡大を前にして、日本の黒字減らしの為にはとにかく輸入拡大が必要だとして、日本の市場開放とか規制緩和などが主張され、アメリカからは、自国製品の日本への輸出を増やす為に、日本に「輸入数値目標」を要求し、それが出来なければ制裁を加えるべきだとする日米包括協議などが繰り返されてきた。
野口氏は、これらの日米貿易収支の不均衡にたいする捉え方が、トンデモ的な考え方であると強く批判している。このとらえ方がおかしい為に、結果として見当違いの的外れを長々と展開している経済論が非常に多いと言っている。その典型が、日米の貿易収支の不均衡が拡大しつつあった1986年に出された「前川リポート」で、不均衡を日本が自ら縮小することが必要だとする観点から、内需拡大と市場開放に向けた規制緩和の「黒字減らし」を提言し、これには著名な経済学者が何人も関わっていたと言う。
このトンデモ的な見方とは何かといえば「貿易収支(経常収支)をもっぱら輸出と輸入の差額としてとらえ、その輸出入に影響を与えると信じられている諸要因(市場の開放性・閉鎖性、国際競争力、為替レート等々)にのみ注目する見方」という事になる。市場開放も規制緩和も多いに結構なことだが、そこをいじったところで日本の貿易黒字それ自体が減るという保証はまったくないと、野口氏は言う。貿易黒字・赤字の問題は基本的に一国全体のマクロ的な貯蓄・投資バランスの問題であり、そこが変化しない限り、何をやったところで貿易黒字・赤字は増えもしない。貿易収支、経常収支の決定メカニズムは、(民間貯蓄ー民間国内投資)+(政府収入ー政府支出)=(輸出ー輸入)であり、これこそが、貿易収支問題を考える場合、すべての議論の出発点となる枠組みである。

<貯蓄・投資バランス論が貿易収支問題の基本>
これを「貯蓄・投資バランス論」と言う。この式の左辺全体は、民間と政府を合わせた一国全体の資金供給と資金需要の差額、すなわち貯蓄・投資バランスを示している。一国全体の資金余剰ないしは不足と言いかえる事もできる。一国全体が資金余剰を持つとすれば、その分だけ海外に資金を供給、すなわち海外純投資をしていることを意味する。一国の輸出入差額、すなわち経常収支は、常にその貯蓄投資差額に等しく、かつその海外純投資額に等しく、その所得(GNP)と支出の差額に等しいのである。
この事は何を意味するか。貿易黒字・赤字とは、海外投資、すなわち国際的な資金貸借にともなって生じる現象だと言う事である。逆に言えば、海外投資が存在しなければ、経済収支(貿易収支)の不均衡は決して起こらない。海外から資金を借り入れる事無くしては、どの国も貿易赤字を出す事はできないし、逆に海外に資金を供給している国は貿易黒字にならざるを得ない。日本が貿易黒字を持つには、海外投資の結果として日本の貯蓄が国内投資を上回るからであり、アメリカが貿易赤字を持つのは、海外投資を受け入れた結果としてアメリカの貯蓄が国内投資を下回るからである。
これを踏まえると、貿易黒字が得で、貿易赤字が損だと言う見方は基本的に間違っている。日本に今貿易黒字が増えているのは、日本の経済が不況で国内の投資先が少なく、海外に投資する方が得だからである。アメリカに貿易赤字が増えているのは、アメリカ経済が好況で、新しい産業がどんどん起きているから、そこに海外資金が集まってきているからである。これは、日本とアメリカの両方が得をしていることに他ならない。

<妄想のアメリカ金融陰謀説>
もう一つの例を挙げよう。「世界最大の債権国=金持ち日本が不況にあえぎ、世界最大の債務国=貧乏国アメリカが好景気に沸いている。こんな事はどう考えてもおかしい。日本が輸出で稼いだお金が、アメリカ国債を買うことでアメリカに還流してしまう。アメリカは日本にアメリカ国債を保有させ・・・いったん貸しているという形をとりながら、その後基軸通貨であるドルを垂れ流しドルを減価させる政策を取る。日本の持っている米国債はドル建てだから、それが目減りしていく形で借金を棒引きする事をアメリカは狙っている」と言うわけである。すなわち「金融戦争」」である。
野口氏は、貿易や資金貸借などの経済取引を戦争と同じ様に考えるのは間違いだと述べている。経済取引は、戦争でも競争でもなく、対立ですらないと言っている。要するに、損得を考えて、お互いに得だと考えて行っているに過ぎないと言う。もちろん投資にはリスクがつきものである。特に海外投資となれば、為替リスクを十分考慮しておかなければならない。そのリスクを計算した上で、国内で資金運用するよりも海外投資の方が有利だと判断したからこそ、海外投資を行うのである。
ところが、今はやりの経済論調は、かつてアメリカでジャパンバッシャーと呼ばれた人達がアメリカ経済は日本に侵略されて駄目になったと論じていたように、「アメリカの金融謀略によって、日本の経済はやられてしまっている。」といった「アメリカの金融覇権論」や「ドル帝国主義論」が主流となっている。その背後にあるのが、1997年7月のタイにおけるバーツ暴落に始まるアジア通貨危機であり、その後のロシアの経済危機である。こうした事態を招いた最大の原因は、アメリカの金融・資本市場の自由化をグローバル・スタンダードと称して各国に押し付け、その結果ヘッジ・ファンドを尖兵とするアメリカの投機資本が、アジア経済、ロシア経済をハイエナのようにむさぼり始めた・・・。と言うような構図に基づいて、このところの世界的な経済混乱を説明するわけである。
野口氏は、アジア通貨危機も、ロシア通貨危機にしてもその本質は極めて単純なものであり、「グローバル資本主義の危機」でも「アメリカの陰謀」でもないと言う。アジア通貨危機の真の原因は、アジア各国が、ドルにリンクした固定レート制、すなわちドル・ペッグ制を採用していた事にあるのだと。固定レート制を取った国は、金融政策の独立性を放棄しなければならないからである。そこに破壊的な投機資金移動が発生するのであり、変動レート制においてはめったに起こらない。もちろん為替の乱高下は日常的に生じるが、決して破壊的なものにはならないと言う。実際、アジアの国の中でも、台湾やシンガポールのように為替の変動制を取っていた国では何も問題は起こらなかったのである。

<国際資本移動は「なだめすかす」ことである!>
国際資本移動と言うのは、お金の貸し借りを単に国境をはさんで行っているに過ぎない。もちろん国境をはさむということで、為替の取引が必要になり、そこに為替リスクというのが問題になって通貨危機という現象が生じる。この為替の面さえ除外すれば、それは基本的には我々が国内で行っているお金の貸し借りに過ぎないと野口氏は言うのである。世界の中には、日本のようにお金があまって困っている国もあれば、逆にお金がなくて困っている国もある。国際資本移動の本来の機能とは、こうした世界的資金の効率的配分を実現させるというところにあり、問題は資本移動そのものにあるのではなく、この資本移動本来の機能を歪めてしまうような通貨システムのありかたにあるのだと。
そもそも、国内であろうと国外であろうと、お金の貸し借りには常にリスクが伴う。海外投資にも、債務不履行は一定の確率で必ず生じる。確かに、これまでの歴史上、恐慌によって金融システムが崩壊した事は何度もあった。こうした問題をなくす為には、借金を禁止するしかない。借金を禁止したら経済は成り立たない。一定の確率で債務不履行が発生するのは仕方がない事であり、それをどこまで許容していくかと言う事であり、経済システムとしては、それをうまくなだめすかしながらやっていくしかない。その「なだめすかす」と言う事が、経済政策の一つの大きな目的であると、野口氏は冷静に主張する。
IMFは、国際収支危機やあ流動性危機が発生した国にたいしての融資や支援をその大きな目的とする国際機関であり、いわば「なだめすかす」ための機関であると言う。問題は、今回のアジア危機の教訓をどう生かすかであり、IMFは今後、その機能を強化する事が必要であり、逆に国際的な資本移動の方を規制してしまうのは最悪の選択だと言う。

<アジア円構想は間違い>
いま「アジア円構想」が「ドル覇権の奪取」論と合わせて議論されているが、アジア通貨危機の原因は、ペッグ制をとっていた事それ自体にあるのであり、ペッグする通貨がドルだったからではないのである。アメリカのグローバルスタンダードと対抗する為にアジアと手を組み「アジア円構想」などと言うブロック経済圏じみた論議は、戦前の「ブロック経済」につながる極めて危険な論議であると、野口氏は警告する。貿易取引や資本取引の際に、それを円建てでするのかどうかと言う判断には、円の利便性いかんに大きく関わっているものであり、日本の金融・資本市場の環境整備や規制緩和を進めればいいのである。そして、円が実際に経済取引の決済手段としてアジアを始め諸外国でどの程度使われるかと言う事は、各国民間経済主体なり各国通貨当局の判断の結果に過ぎないのであり、日本の政策当局が関与すべき事でも、できるはずの事でもない。つまり目標はあくまでも円の利便性を高めて世界経済の拡大・発展に資することであり、「ドルに対抗する円圏」などというブロック経済じみたものを作り出す事ではないと、野口氏は力説している。

<冷静で公平な国際経済論議を!>
以上、野口氏の著作から主な論点の要旨を、私なりにまとめてみた。この2冊の書物によって、初めて国際経済の基本的見方を教えてもらった。世間には、いたずらに危機感、国家間対立だけをことさら煽る無責任な経済論調がいかに多い事か。経済学の基本的な考え方を学ぶ必要性を痛感する。いま、『貿易黒字・赤字の経済学』小宮隆太郎著(東洋経済新社・94年)、『経済政策を売り渡す人々』P・グルーグマン著(日本経済新聞社・95年)『クルーグマン教授の経済学入門』P・クルーグマン著(メディアワークス・99年)など、野口氏が紹介する経済書を読み始めている。その著作の中で書かれている経済論争は実に面白い。いま国際経済においても、冷静で公平な論議が求められている。
(1999・3 織田 功)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

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【レポート】 連合 3・6「生活危機突破」国民集会・99春季生活闘争総決起集会

【レポート】 連合 3・6「生活危機突破」国民集会・99春季生活闘争総決起集会
           —都知事候補鳩山氏の大胆演出登場にビックリ—

3月6日、春一番が吹き荒れるなか東京代々木公園において連合・連合東京・NPO(市民団体)の共催による「生活危機突破」国民集会・99春季生活闘争総決起集会が開催された。「賃上げ、雇用・景気回復、社会保障改革で日本全部を元気に!」というスローガン、久々に結集した5万人(掛け値なく)の参加者の多くが「何とかならないものか」という期待感をにじませていたようである。
今回の集会は、連合がNPO団体にも広く参加を呼びかけて開催されたことも特徴で、障害者や介護福祉の団や退職者組合、派遣労働者ネット、コミュニティユニオンネットなど様々な参加団体からもきちんとひとことアピールが行われた。連合組織を代表しては金属部門を代表して草野自動車総連会長、化学繊維・中小部門を代表して高木ゼンセン同盟会長のあいさつがあったのみである。また地方自治体選挙を前に各党代表の挨拶も行われた。民主党の菅代表、公明党の神崎代表、自由党の塩田団体渉外委員長、社民党の淵上幹事長、改革クラブの小沢代表からそれぞれ連合との連帯の挨拶が述べられた。やはり菅代表をひとめ見ようと集会場前方は自然ににぎわっていたのは印象的であった。菅氏は「春闘集会に集まられたみなさん。どうか民主党とともにこの東京を動かしましょう。世の中を変えましょう!」と連合会長以上に熱っぽく語っていた。
そして突如、巨大な音楽とともに壇上に登場したのは、都知事候補の鳩山邦夫氏であった。集会次第にも案内されていなかったし、進行の議長団からの案内がなかったため、このプロレス会場並みの演出音による鳩山氏の登壇には、ちょっとシラケた雰囲気がただよった。壇上での鷲尾連合会長をはじめとする役員のはしゃぎぶりをみてよけいにシーンとなってしまったようであった。鳩山氏は「わたしは顔は悪いが、人情だけは誰にも負けずあたたかいのです」と切り出し、持ち前の「友愛」論をひとしきりしゃべると、東京都知事選の応援を5万人の参加者に訴えていた。

自民の混迷で不透明な99都知事選突入へ

3月25日告示、4月11日投票の都知事選挙は、すでにテレビ・マスコミ・インターネットとあらゆるメディアを通じて戦われている。6人の候補者が出そろうまでの自民党の混迷ぶりが今でも続いており、しかしながらこれに民主・鳩山氏や共産・三上氏がいまひとつ食い込めないという現状だろう。
まず、これまでの自民党の混迷ぶりの経過は以下のとおりである。

3月10日 石原慎太郎出馬表明
3月10日 舛添要一、栗本慎一郎選挙対策本部長を解任
3月 8日 柿沢弘治の自民党除名を決定
3月 6日 野末陳平出馬取り止め、舛添要一を全面支援
3月 2日 鳩山邦夫支持を民主党が決定
2月25日 明石康支持を自民党が決定
2月23日 ドクター中松出馬表明
2月19日 自民党森幹事長及び小渕首相の説得で明石康出馬表明
2月17日 柿沢弘治出馬正式表明
2月14日 柿沢弘治、「サンデープロジェクト」で突然の出馬表明
2月12日 鳩山邦夫、舛添要一出馬表明
2月10日 自民党、明石康擁立を決定
2月10日 柿沢弘治、森幹事長の要請を受け、出馬断念を表明
2月 3日 野末陳平出馬表明
2月 1日 青島幸男都知事不出馬表明
1月26日 自民党都議団、柿沢弘治擁立で最終調整
1月23日 自民党、舛添要一擁立を断念
1月21日 自民党都連幹部会、舛添要一擁立で合意
11月11日 三上満出馬表明

自民党の混迷はいくつもでた。森幹事長の説得工作を振り切って立候補表明し、自民党を除名された柿沢氏、一度自民党推薦候補から漏れた舛添氏も自民党離反組と目されており、無党派を標榜する舛添氏としても、組織票が期待できるとしてもイメージダウンのデメリットが大きく、簡単に支持は受けられない、また、亀井氏等の自民党非主流派に近い石原氏も支持できない。最後に鳩山氏であるが、民主党の推薦がほぼ決定している現在、既に手遅れ状態。そして今回の明石氏の降ろしの動きである(明石氏は否定)。
そこで、当然の帰結として、3月16日付けの毎日新聞朝刊で有権者の電話世論調査の結果が発表での結果は以下のとおりである。

順位 候 補 者 比率
1 石原  慎太郎 25%
2 舛添  要一 13%
3 柿沢 弘治  8%
4 鳩山 邦夫  8%
5 明石 康  6%
6 三上 満  6%
7 ドクター中松  1%

テレビに出ればでるほど人気を失ってゆく明石氏に自民党は業を煮やしているといわれている。万一、自民党がこの首都都知事選で負けることは、その後の地方選での惨敗を決定的にすることは疑いないからである。しまいには世論調査報道の規制まで自民党は言及している。選挙でキャスティングボードとなってくるのが公明であるが、一度は自主投票の構えを見せていたが、ここにきて特定候補支持を打ち出すポーズを漂わせているようである。

東京を変えれば日本が変わる

これは青島都知事誕生の時もそういわれたが、青島都政は結果として鈴木都政の後始末も何もできなかった。またその結果この4年間で東京の財政を逼迫させ、「財政再建団体」に転落予想の都民向け「緊急アピール」を発表したのが98年10月13日である。「財政再建団体」とは民間会社における「会社更生法」ともいえる制度で、財政難に陥った自治体が国の管理の下で財政再建を目指す制度である。東京の域内の国内総生産(GDP)は約80兆円、これは日本全体の18%にあたり、カナダ1国分に匹敵するのである。東京は世界で最も「裕福」な都市といわれる。こんな大都市が、もはや財政的にはどうにもならなくなってしまっている。そしてこれは東京だけでなく、大阪、神奈川、愛知をはじめわが国自治体の実に6割がこの財政危機に直面して、警戒ラインを突破しているのである。国会でいくら前代未聞の膨大な公共事業費をくもうと、地方にはその余裕はないのである。破綻に破綻を上塗りするのが顛末であることがこの4年間の推移であったはずである。以前なら「中央との太いパイプ」が候補者の判断材料であったが、いまやこれでは通用しない。
このことは明石氏と柿沢氏以外ははっきりと言及している。明石氏と柿沢氏はよりいっそうこの事業を推進すべきという立場だ。石原氏は立場は違うが徹底した規制緩和と行革の推進という点では明石氏と柿沢氏よりも過激で、「クーデターをおこすくらいの気持ち」だと相変わらず暴言をはいている。鳩山氏はこの中でハト派的にいい立場であるのだが、それをうまく器用にマスコミむけにアピールできないのが残念である。
さらに来年から実施予定の介護保険のあり方については残念ながら具体的議論がみえてこない。「ハコもの」行政からの脱却とともにめざすべき市民参加・参画型の行政のありかたについては誰も希薄である。その具体的なあらわれとして介護保険はまっさきに問われているはずである。しかし希薄なのは東京という都市があまりにも大きすぎるからであり、もうすこし目に見える形(区部・市部)での議論を組み立てる必要がある。(R.I)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

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【投稿】 バブル破綻と日米経済

【投稿】 バブル破綻と日米経済

<拍手喝采のNY市場>
3/16、ニューヨーク株式市場はダウ平均株価が一時1万ドルを突破、拍手喝采に沸いたが、その後1分足らずで9000ドル台に逆戻りした。しかし、その後3/19にも一時1万ドル台を更新、一進一退が繰り返されている。「バブル崩壊寸前」、「近い内にバブルがはじける」との警告もよそに、株高による資産の膨張に支えられて、米国の消費者は収入の伸びを上回る勢いで消費を増大させ、昨年10-12月期にはついに家計の貯蓄率がゼロになる極限とも言える状態となった。その後も消費は全く衰えず、99/2月には一般消費率がさらに伸び、前月比+0.9%、前年同月比では+7.3%もの上昇である。今や借入れオーバー、貯蓄率マイナスの状態とまでいわれている。
こうした中で、ドル暴落説を声高に叫ぶものはいないかに見える。ところが実際には、米経済の持続的な高成長を支えてきたドルへの資金集中は終わりに近づいてきたという議論と現実の動きが静かに台頭してきている。引き金は、ドルからユーロ、あるいは円への雪崩を打ったような巨額の資金移動か、あるいは米国株価の下落か、支えきれなくなったヘッジファンドの破綻の連鎖か、いずれにしても結果はバブル崩壊への序曲である。
現実に、すでに割高となってきた米国株から割安な日本株へ資金が移動する動きが東京市場の外人投資家主導の株高に表れてきており、NY市場が1万ドル台を記録した同じ日、東京株式市場は7ヶ月半ぶりに1万6000円台を回復している。「海外のあふれた資金が日本の株式市場に向かっている」結果でもある。足もとの危機を見ずに、これらを「日本株式会社の回復」(ウォールソトリート・ジャーナル)とか、「日本の回復への期待高まる」(ニューヨーク・タイムズ)、「日銀の超低金利が回復に貢献する」(ワシントン・ポスト)といった認識の甘さと希望的観測で糊塗していていいものであろうか。

<「破裂を待つバブル」>
実のところ、ダウ平均が1万ドルを突破すること自体に特別な政治的経済的な意味があるわけではない。ダウ・ジョーンズ社が2年前に30社の採用銘柄の入れ替えを行った時に、ヒューレット・パッカードを加えたが、これがマイクロソフト社であればダウ平均はとっくに1万ドルを突破していたであろう、と指摘されている通りである。したがって1万ドルという株価は、これまでの株価からすれば未知の領域ではあるが、冷静に考えればバブルの頂点をどのレベルで画するかという象徴的な株価に過ぎないとも言えよう。ダウ平均は、単純平均ではないが、たった採用30銘柄の株価を合計して割ったものに過ぎないのである。
問題は、「過去20年間で株価は最も割高な水準にある。現水準から10-20%下落しても不思議ではない」(3/18日経、メリルリンチのシニア・アナリストのW・マーフィー氏)というところにある。
グリーンスパン連銀議長が、2/23米上院銀行委員会で証言しているように、「米経済の繁栄は、経済成長の急速な拡大でインフレが再発する可能性と、株価の値下がりもしくは世界の経済不況による脅威との間」のバランスの上に立っていること、そして「連銀の内部調査で、すでに株価は21%も高すぎるという結果が出ている」ことを明らかにし、さらに米国の貿易赤字の拡大について、「米国の国際経常赤字が支払不能になるのではないかと外国の投資家から懸念されるようになれば、ドル安が進行、米国の物価に圧力がかかる恐れがある」との見解を示している。それと関連して、外国の経済状態については、ロシアは危険状態にあり、ブラジルも前途不透明、日本に関しては「日本政府の不況は底を突いたという判断には賛成できない。むしろ日本経済の前途は悪化する可能性がある」との見解を示したことにこそ注目すべきであろう。
3/11付けUSAトゥデー紙は「米経済は破裂を待つバブル」という見出しで、米経済を取巻く三つのバブルとして、貿易赤字の増加と株価の急騰、消費者の借入れ急増をあげ、バブルは結局は破裂し、リセッション(景気後退)が起きると警告している。
このところ論壇でも注目を浴びている米ヘッジファンド大手を率いるジョージ・ソロス氏までが、最近の著書や各紙への寄稿論文の中で「世界各地の経済危機は米国経済にプラスに働いている。安価な輸入品を享受する一方で、資本が危機の国から米国に流れ込んでいるからだ。その結果、米国の消費者は稼ぐ以上に消費できるようになっているが、健全でないし、長続きしない。」「80年代後半の日本とまったく同じ状況の資産バブルになっている」「バブルは自身の重さに耐えられなくなるまで大きくなり続ける。こんな状況だというのにクリントン大統領は一般教書演説で公的年金に株式投資を認める策を表明した。バカげた考えだし、それこそ弾劾に値する。」と遠慮会釈のない論陣を張っていることは周知の通りである。

<5期15ヵ月連続のマイナス成長>
対照的に、バブルの後遺症からいまだに脱しきれない日本経済の現状に関して、昨年来、しきりに軽自動車の売れ行きが好調だとか、マンションが売れはじめ、白モノ家電の買い替え需要が出てきたとか、還元セールがにぎわったとか、消費の復調をにおわすキャンペーンが盛んに展開されてきたことは周知の通りである。しかしその結果は惨めなものであった。98/10-12月期の実質経済成長率は、前期比マイナス0.8%、前年同期比マイナス2.8%であった。公的資本形成は前期比実質10.6%の増加となったが、消費は前期比実質マイナス0.1%、設備投資は同マイナス5.7%と軒並み減少となったのである。住宅投資についても、低金利効果で下げ止まってきたとか、持ち家に回復の兆しが見られるとか、やはり期待先行の発言が相次いでいたが、住宅投資は前期比実質マイナス7.0%、前年同期比同マイナス10.7%という大幅な落ち込みであった。実質国民総生産が5期15ヵ月連続のマイナス成長というのは戦後来初めての記録的な最悪の事態である。

実質国内総生産 10-12月期(前期比)  1998年(前年比)
——————————————————
国内総支出    473,664(▲ 0.8) 478,265(▲ 2.8)
年率換算成長率      (▲ 3.2)
民間最終消費支出 281,663(▲ 0.1) 282,103(▲ 1.1)
民間住宅      17,103(▲ 7.0)  18,554(▲13.7)
民間企業設備    73,366(▲ 5.7)  78,717(▲11.4)
民間在庫品増加   1,650( 28.3)  1,669(▲25.3)
政府最終消費支出  45,318(▲ 0.6)  45,306(  0.7)
公的固定資本形成  42,635( 10.6)  39,470(▲ 0.3)
公的在庫品増加   -584        -69(▲171.1)
財貨サービス純輸出 12,510(▲10.7)  12,513( 29.7)
財貨サービスの輸出 64,302(▲ 3.4)  65,738(▲ 2.3)
財貨サービスの輸入 51,702(▲ 1.5)  53,225(▲ 7.7)
——————————————————
国民総支出    481,050(▲ 1.0) 485,273(▲ 2.0)
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単位10億円、四半期数値は年率換算

確かに、景気指標に微妙な動きが現れてきているのは事実である。株価は少し戻し、生産指数や機械受注、消費などの各指標も落ち込み幅は縮小する傾向にある。鍵を握る個人消費は、全世帯の消費支出は昨年11月に前年比+1.3%と増加に転じたが、12月-0.6%、99年1月+1.4%と交錯している。住宅ローン減税の拡大によって一戸建て住宅、マンションが売れはじめ、住宅展示場を訪れる人が増え、これらに「変化の胎動」(堺屋経企庁長官)が感じられるというわけである。しかしこれらの住宅需要のほとんどは結婚や転居に伴う新規需要だという。買い替え需要の方は元の買い値で売ること自体が困難でむしろ売却差損が拡大し、自己破産が年間10万件を超え、その中でも住宅ローン返済不能者が急増しているのが現実である。

<「リストラ予備軍」>
しかし、雇用所得が前期比実質マイナス1.1%、前年同期比実質マイナス2.0%といった具合に、所得が減少し続けている状態でマクロレベルの消費増を期待するのはそもそも無理というものであろう。今年はさらに減税と銘打った増税によって、年収794万円以下の世帯は、98年度より所得税、住民税の負担が約1兆円増大する。これによって給与所得者の内6割は税負担が増えるのである。
2/26労働省発表の毎月勤労統計調査結果速報(99/1月分)によると、従業員5人以上の事業所が労働者に支払った現金給与総額は前年同月比2.0%減の31万2387円となり、2ヵ月連続の減少、実質賃金指数は同2.3%減で18ヵ月連続のマイナスとなっている。
おまけに今年の企業の3月期決算は、史上空前の赤字ラッシュになることが確実な情勢となっている。銀行が不良債権償却のために軒並み巨額の赤字を計上し(住友7500億、第一勧銀6500億、高吟3500億、あさひ2150億等々)、すでに日立が3750億、NECが2200億という巨額の赤字転落、東芝も23年ぶりの赤字転落(単独で200億円)三菱電機900億円、富士通200億円、富士電機120億円、沖電気500億円、王子製紙、コマツ、日本精工、等々、続々と赤字を計上しようとしている。この際黒字企業まで不良資産を上積みして赤字決算を続出させているという。「法人税減税以前に、法人税そのものが入ってこない」のではと揶揄される所以でもある。これらの赤字決算と同時に人員整理が空前の規模になろうとしている。すでに大手銀行で2万人、NECが1万5000人(内、6000人強制解雇)、三越1000人、といった具合である。ベアゼロどころか、三井造船やコスモ石油のように賃金一律10%カットの企業が続出してもいる。
朝日生命が2月にまとめた雇用動向予測調査によると日本企業が抱える「リストラ予備軍」はサービス業で173万人、卸・小売業で124万人、建設業105万人など、全産業で約446万人に上り、そのすべてが失業した場合、失業率は10.7%に達すると予測している。
「変化の胎動」などと浮かれている事態とは裏腹に、雇用情勢がより悪化し、消費がより冷え込みかねない事態が進行しているといえよう。

<「やけっぱち政策」>
今月3日、日銀は日々の金利調節の誘導対象としている「無担保コール翌日物金利」を0.02%に誘導し、実質ゼロ金利を容認することとなった。先進国で金利をつけずに資金取引をするのは事実上初めてのことである。悪夢の国債引受を呑む代わりに最後の金利カードを切ったというわけである。だがゼロ金利による副作用が早くも出てきた。こうした金融資本間のコール市場では、投資信託や生命保険会社が、運用の旨みがなくなったコール市場からこれらの巨額の資金を流出しはじめたのである。無担保コール翌日物による資金調達額は「上位都銀の場合、3兆円にも上る」といわれ、国内資産の1割にも相当する資金を「その日暮らし」でしのいでいるのが日本の金融機関の実態である。これらの資金を融通してきた出し手のコール市場からの逃避によって、信用力の乏しい銀行の決済リスクが俄然高まりかねない危険性を招来しているのである。
たしかに今回の日銀による「実質ゼロ金利」容認後、長期金利は数日で0.2%以上も低下、日経平均株価は1000円近く上昇、一段の金融緩和はとりあえずは金融・資本市場からは評価された格好である。しかし、英フィナンシャル・タイムズ紙が3/4付けの社説で「日本は金融政策の極限に挑戦しはじめたが、”デスパレート(やけっぱち)”の政策が経済状態を改善に向かわせる可能性は小さい」と断じている通りであろう。
すでに日銀の資産悪化が同時に進んでいるために、こうした強引な緩和策は将来に様々なツケを残すことになろう。すでに日銀の預金保険機構向け貸出は、昨年3月末に1兆円台だったが、長銀と日債銀の破綻・国有化などで年末には8兆円弱に急増、今回の公的資金7兆4500億円注入の大部分も日銀からの借入金でまかなう見通しであり、すでに国債引受と同じ現象がすでに始まっている。ゼロ金利が招来する新たな銀行破綻、すでに破綻の危機がささやかれている投資信託や生命保険会社の信用崩壊は、またもや新たな公的資金導入を拡大させることとなろう。ここでも再び、国債の日銀引受という「禁じ手」議論が台頭するであろう。
こうした破れかぶれの金融政策が長引けば、その行き着く先はとめどもない貨幣価値の下落かもしれないし、それは正真正銘の「日本発の世界恐慌」をもたらす危険性を内包しているとも言えよう。小渕首相の「鈍牛」どころか、日本の政府・与党、野党ともにこうした事態の進展に何とも鈍感なことは、一体何をもたらすのか、真剣な検討が必要なのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 アサート No.256 1999年3月27日

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【感想】吉村先生からの手紙

【感想】吉村先生からの手紙

1月9日は久しぶりに楽しい時間を持てて喜んでいます。有難う!アサート254号拝受しました。いつも対談が活字化されると話し言葉と書き言葉の違いを痛感します。対談の時には雰囲気が言葉の足らなさを補ってくれますが、活字になると、そのギャップが出るのですね。しかし、テープをおこして、まとめてくれた貴兄達に感謝します。これを機に日々の感懐をボツボツまとめようと思っています。唯、現在悪性のカゼで熱とダルサにノックアウトされています。
(99-01-26 吉村 励)

【出典】 アサート No.255 1999年2月20日

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【投稿】公共事業に厳しい視点広がる

【投稿】公共事業に厳しい視点広がる
           —吉野川・神戸空港・びわこ空港・藤前干潟—

財政再建構造改革の中でも公共事業の効率化が謳われ、また経済対策としての公共事業の投資効果にも疑問が投げかけられている。公共事業が環境破壊を生み出したり、さらに住民生活のためになるのかどうかという疑問も広がり、一般的な国民意識も公共事業全般に対して厳しくなってきている。こうした状況を反映して、環境問題とも関連しながら、最近の特徴的な動きを追ってみる。
徳島県の吉野川可動堰問題、愛知県の藤前干潟埋め立て問題、そして神戸空港間題である。

◎吉野川にも可動堰計画
「四国三郎」と呼ばれる自然豊かな吉野川を、巨大なコンクリートの構造物でさえぎる建設省の可動堰計画。吉野川河口堰計画は、現在の堰を取り壊し、一.ニキロ下流(河口から十三キロ地点)に長さ七百二十五メートルの可動堰を建設するもので、長良川河口堰の六百六十一メートルをしのぐ大プロジェクトである。江戸時代に石を積んで造られた現在の第十堰が洪水時に流れを妨げ、堰上流部の堤防に危険が生じる、というのが計画の根拠だ。この堰を撤去し、すぐ下流に巨大な上下開閉式の堰を約一千億円かけて建設するというもの。
以前から、計画はあったものの、長良川河口堰問題の反省から、建設省が95年に「ダム事業の中止を含めた見直し」を掲げて、審議委員会制度を設けた際、全国14の対象事業の一つになり、「吉野川第十堰建設事業審議委員会」が2年8ケ月の「審議」を経て、「計画は妥当」の報告をまとめたのが、昨年の6月であった。
市民団体側は、すでに94年8月「吉野川シンポジウム実行委貝会」(住民投票運動を担ったグループ)が「吉野川発 川フォーラム」を開催し、可動堰建設への疑問を訴え、この審議委員会に対しても、計画の必然性や環境への影響について、疑問を投げかけ、住民の意見の反映を訴えてきた。
当初、利水と治水が目的とされていたが、97年に徳島県は利水開発からの撤退を表明したため、治水すなわち洪水対策が唯一の目的となった。

◎住民の過半数が条例制定に賛成
審議委員会の「計画妥当」結論、また建設省が来年度に調査費四億円を概算要求すると言う状況の中で、市民団体側は、昨年10月、吉野川で「ライブ!吉野川メッセージ」を開催し、カヌーデモを行うとともに、事業の是非を問う「住民投票条例」の制定を徳島市に求める住民署名を提案し、11月から署名活動を開始した。
請求に必安な署名の数は有権者の五十分の一(約四千二百人)だが、運動側は有権者の三分の一にあたる約七万人分を目標にした。三分の一を越えると、市議会のリコールも可能な数字となるからである。最終的に署名は、短期間に有権者の49%に相当する10万1500名の署名が集まり、住民の関心の高さを示すことになった。
これに対し、審議委員だった円藤寿穂・徳島県知事は「計画の判断には専門知識が必要で、住民投票はそぐわない」とし、小池正勝・徳島市長も「市議会は計画推進の意見書を可決しており、条例案を議会に諮る時は、住民投票は必要ないと意見を付けるつもりだ」となどと、市民の関心の高さに無神経な対応。「推進派」も動き出した。
そして市民の過半数にも達する条例制定要求に対して、2月8日市議会は制定要求を否決してしまう。
こうした事態を前に、運動側は統一地方選挙で徳島市議会に条例制定賛成派議員をさらに拡大する運動など新たな運動に取り組んでいる。

◎建設省、少し方針変更(?)
そっけない市議会の対応に対して、2月9日日経新聞の主張に「吉野川可動堰は凍結を」が掲載された。
市議会の否決には「高度な技術判断を要する計画に二者択一一はなじまない」「行政は住民の命と生活を守る責務がある」という理由が挙げられたが、『だが、高度な技術であればこそ、住民には丁寧な説明が必要だ』、『堤防の補強などの市民グループの代替案に建設省はきちんと応えず、可動堰を誘導する資料だけ示しても市民の納得は得られない』と住民の意思表示を軽視する姿勢を批判している。また、建設省が『着工を前提とした話し合いを続けても住民の不信感は消えない。まず計画を凍結し、そのうえで住民の意見を聞くべきだ』と厳しい主張だ。
こうした「住民過半数の署名」の声は、建設省を動かしつつある。朝日新聞が伝えるところでは、建設省は「可動堰が最有力案」との考えは捨てていないが、3~5年のアセスメント期間を持って住民と話し合いを行うとして、事実上の着工延期を判断したという。
長良川河口堰の経験から言えば、建設省と住民の新しいステージが始まったというところで、油断はできないが。

◎住民投票の定着はできないのか
私自身も徳島出身ということで、吉野川可動堰問題については、すでに5年前から注目をしてきた。子供の頃、親父とともに吉野川流域の親戚の家でご馳走になったことがある吉野川の鮎の味は今でも覚えている。何匹食べたか分からない程こ馳走になった。それは、母なる吉野川の賜物であった。吉野川は、剣山とともに徳島県の象徴でもある。今回の吉野川可動堰の問題に対しての徳島市民の行動は、実は私自身の故郷の問題でもあり、昨年10月のカヌーデモに私も参加ける予定が、果せなかったという意味でも、多いに拍手を送りたいと思っているわけだ。「国が決めたことだから間違いはない」と、当時の自社さ政権の時代、野坂建設人臣が「長良川河口堰の運用決定」を行った年でもあり、その時代に「ダム事業の見直し審議委員会」の設置も決まったわけで、結局、官僚と御用学者のみで、「建設妥当」と結論したダム見直し審議委員会に、住艮が「ノー」と、
断じた意味は大きい。
すでに述べたように、このダム計画には「利水」事業のメドはない。工業用水にしても、生活用水にしても、高度成長時代の水需要はもはや存在しない。
唯一の理由は、150年に一度の大洪水のため、というわけだ。150年に一度のために、吉野川の生態系を破壊していいのか、他に方法はないのか、という市民団体のささやかな主張が、建設省・徳島県の事業優先姿勢に待ったを掛けた、というわけである。
さて、その運動手法である。市民連動は住民投票を求めた。過去河川事業をめぐる住民投票条例制定の運動は、三つあるが、いずれも議会で否決されている。そもそも地元で行われる事業に対して、住民の意見が反映されない、というのでは、地方自治など存在しない。直接請求、それも住民・有権者の過半数が疑問を持っている事業を、お国が強行するという構造では、何が地方分権だ、ということであろう。
ご承知のように、四国は、まだ保守王国でもある。後藤川VS三木戟争も記憶に新しい。その保守王国でさえ、住民は、地元の環境・雁史・風土をも無視する計画には、Noと主張した、この変化を我々は評価しなければならない。

◎神戸空港、びわこ空港、藤前干潟
住民投票という意味では、神戸空港建設をめぐる住民投票条例制定連動が、昨年取り組まれたが、吉野川と同様に議会で否決されている。吉野川の市民団体は、神戸の署名運動にかなり学んだようで、署名を引き受ける人(受任者)を、8千人確保して、署名を集めたという。同様の収組みは、滋賀県のびわこ空港に反対するグループにも、その「ノウ・ハウ」は引き継がれている。
大型公共事業で景気浮揚、という従来の構図は変わらない。地方財政の空前の危機と言われる中でも、こうした大型公共事業には、今だメスは入っておらず、住民意識の変化に対して行政の側の認識は極めて薄い。ゼネコン・土建のみ潤う環境は破壊される、という構図では平行線を辿るしかないのである。
愛知の藤前干潟の場合は、少し事業が違う。この計画は最近白紙になった。野鳥や貴重な生き物の生息地である、干潟や湖沼の保護は、世界的に注目されている。愛知県が藤前干潟を埋め立てて、処分場を造るという計画に対しては、環境庁も疑問を投げかけていたし、環境団体も反対運動を行ってきた。それが、現職引退に伴う知事選挙(2月7日投票)を前にして、計画が白紙となった。愛知県では「愛知万博」が、貴重な森林を破壊して計画されるという中、共産党候補などが環境破壊の「愛知万博」「藤前干潟埋め立て」計画反対を掲げて、相乗り候補に批判を展開してきた。その過程で、「藤前・断念」ということになった、と聞いている。ここでも、環境と公共事業が大きく問われたことは間違いがない。

そうした意味で、大阪で「国際ダム反対行動DAY」
の取り組みが進んでいることを報告して、この稿を閉じたい。(1999-02-15佐野秀夫)

【出典】 アサート No.255 1999年2月20日

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【書評】『お父さんの面積』

【書評】『お父さんの面積』
        (猪熊弘子著、1998.3.25.発行、農山漁村文化協会、1600円)

 家庭崩壊、孤立する家族、父親不在等々家族をめぐる諸問題が爆発し、対応策として、父親の復権や強い父親像が要請され、図に乗って封建主義的な「旧家族」が声高に語られている。しかし語られるべきは、明治以来形成強化されてきた家族制度の崩壊であり、その中での家族の関係の変化である。また対応とされるべきは、強い父親の復権ではなく、家族の一員として当り前の父親やその他の構成員のあり方なのである。
 この意味で本書は、その父親像に焦点を合わせたユニークなレポートと言える。それ故その中味はさまざまな父親たちの試みや奮闘──例えば、「元祖『育児パパ』」、「父親だけのPTA」、「竹とんぼ」、「運転ボランティア」、「ログハウス」、「トンボ公園」、「森を育てる」といったふうに──であり、そのそれぞれがいわゆる「普通の」父親のイメージとは少し異なるものとして(実はこちらの方こそが本来の父親の姿ではないかとして)描かれている。そしてそこに据えられた視点は、その父親たちが担いでいる──実は家族の他のメンバーも同様に担いでいるのであるが──現代日本社会のあり方を考えさせる契機となっている。
 本書から、その父親たちの言葉を引用してみよう。
 (「おやじの会」で)「月一回の定例会でいろんな情報交換をするのですが、(略)・・・。学校を中心とした集まりなので、利害関係もないし、思ったことを好きなように話せる父親の居場所だと思うんです。おもしろおかしい話をしているかと思えば、まじめに子どもたちの健全教育の話で盛り上がることもあります。/こんな場、他にはまずないでしょうね」(「父親だけのPTA」)。
 「日曜日には、こうして外で竹とんぼを作ることが多いんです。でも、これがなかったら仕事にもハリが出ないんですよ。休みの日には仕事とまったく関係のない遊びに熱中する。そうすることで仕事に打ち込むときの、めりはりがつくみたいなんです」(「竹とんぼ」)。
 「ボランティアしていて、いろんな人と関わっているうちに、自分の幅が拡がっていくような気がするんです。それに地域の中に自分の居場所を見つけることができるのもいいんです。/もちろん僕にとっては仕事も大切。(略)仕事がちゃんとしていないと、ボランティアなんてできっこないんです。だけど、会社での僕の人生はあと二○年くらいしかないわけでしょう。そのあとは地域に関わって生きていかないといけないんですから、もっと積極的に地域に働きかけていくことも大切だと思うんです」(「運転ボランティア」)。
 「参加した人には定年退職した人も多いんですが、会社人間が退職すると、案外地域で身の置き所がないものなんです。地域は会社での権力も地位も関係ない社会です。肩書きじゃなくて『私はこれができる』というのがその人の価値になります」(「人生の面積」)。
 以上のさまざまな引用からも理解されるように、本の父親たちは、著者の言葉を借りれば、「自分の人生の面積」を広げていく努力をする中で自分のあり方を考えている人々である。そして著者は、これらの父親たちに共通しているのは、次のことではないかと問いかける。
 「彼らがみな口にしていたのは『まず自分が楽しむこと』だっった。自分が楽しく生きることで、子どもたちは後からちゃんと親の姿を見てついてくるというのだ。私はこれが、豊かに育った世代の子育ての、いちばんのキーワードではないかと思う。/(略)楽しいことが仕事であれば、働く姿を見せればいい。趣味ならば一緒にやってみればいい。それが、これからの父親に(もちろん母親にも)いちばん求められるものなのではないだろうか」。
 現代の親たちへの警告と励ましとして、この問いかけが発せられている。ここには、われわれ自身が身につまされて感じる問題が存在している。
 しかしまた同時に、著者の視点には、楽観的に過ぎるものがあることも否定できないであろう。すなわちこのような父親たちの「自分の人生の面積」を広げる努力(「自分が楽しむこと」)は評価するとしても、その努力が社会的制度的に保障されていない現実の状況──長時間労働、過労死、リストラなどによって「自分が楽しむこと」すらできない状況──についての認識の不十分さがある。この意味で本書は、ユニークな側面から現代社会を映し出し、かなりの程度の説得性を持って語っているにもかかわらず、たんなるエピソード集に終ってしまうものとなる可能性もある。現代社会に対して斬り込んでいく著者自身の姿勢までもが今後の課題とされる書と言えよう。(R) 

 【出典】 アサート No.255 1999年2月20日

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