【投稿】歴史的転換期の米新大統領 –地殻変動の第一歩–

【投稿】歴史的転換期の米新大統領 –地殻変動の第一歩–

<レーガン・ブッシュ=冷戦路線の終焉>
 クリントン米次期新大統領は、勝利宣言の冒頭で「今回の選挙は冷戦が終わり、次の世紀に向けた試練に米国が立ち向かい、成長を回復するための進軍
ラッパだ」と述べた。これはまさに冷戦の終焉という世界的な歴史の転換期に照応した米新大統領の登場といえよう。エポックメーキングな出来事である
とともに、米国全体の地殻変動の第一歩を示すものであろう。
 選挙戦でFOR A CHANGE =変革を訴えるクリントン陣営に対して、ブッシュ陣営はEXPERIENCE=経験を対置したのであるが、その経験はワープロ時代にタ
イブライターの修理経験をいうような、もはや時代遅れのご用済みのものとして拒否されたのである。
 ブッシュ陣営は、冷戦時代の思考そのままにクリントンの兵役拒否を個人攻撃の最大のテーマとしたのであったが、何の成果も得られなかった。逆にク
リントンは、「我々の世代の多くの米国民と同じように、私は国を愛していたが、ベトナム戦争には非常に強く反対した」と、これを正面から受けて立
ち、今の米国指導者に必要なのは戦争指導者ではなく、経済再建の指導者であることを訴えた。彼は英オックスフォード大留学時代から、ロンドンの反戦
デモに参加していたのである。
 本来ならば、ブッシュ大統領は冷戦と湾岸戦争という二つの戦争の勝利者であることからすれば、圧勝して当たり前のはずであった。事実昨年の湾岸戦
争時には90%以上の支持を獲得していたのである。
にもかかわらず事態は大きく変動した。ソ連を悪の帝国と叫び、軍拡経済に突き進んだレーガノミックスの負の遺産は、膨大な軍事費と巨大な財政赤字、
基幹産業の荒廃、産業競争力の低下、社会資本の劣化とマネーゲームをもたらし、40年にも及ぶ冷戦経済の重い後遺症を加速化させたのであった。冷戦に
負けたのはソ連だけではなかったのである。冷戦終焉はむしろ米国経済自身も冷戦経済に敗北したことを示し、さらにその「戦後処理」コストが膨大なも
のであることが明瞭になってきた。米国民はようやくそのことに気づき、クリントンに変革への希望を託したのである。

<クリントノミックス>
 クリントンはテレビ討論でこ「景気が本当に回復するためにはもう一人、ブッソユ大統領、あなたの失業が必要だ」と述べ、米国は公共投資、設備投
資、研究開発それに教育への投資を怠ってきたことを最大の問題として取り上げ、経済の健全さこそが国の強さと安全を確保する基盤であることを強調し
た。大統領直属の経済安全保障会議を設置するという構想は、冷戦時代には考えられもしなかったものであろう。冷戦時代の花形であった国家安全保障会
議(NSC)よりも、重要性を帯びてくるかもしれない。
 現在明らかにされているクリントンの経済政策(クリントノミツタス)の重要な柱は以下の通りである。
①経済基盤整備:社会基盤整備のための新規公共投資2000億ドル、中心は高速鉄道、先端技術、電気通信網、道路整備など。4年間で800億ドルの産業
 基盤整備、中小企業の育成。
②財政、税制:歳出削減1400億ドル。年収20万ドル以上の層の所得税を最高36%まで引き上げる(4年間で800億ドル増税)、年間報酬100万ドル以上の
 企業経営陣への所得控除の制限と加算税制の新設、中間所得層、年収6万ドル以下の減税(4年間で200億ドル減税)、投資減税(生産性向上や先端
 技術開発のための設備投資と中小企業の長期投資に対する税額控除)、海外に向上を移転した企業に増税、外国企業への徴税強化
③科学技術:軍事から民政研究への転換、政府研究予算の内、防衛と民政の比率を現在の6対4から、5対5とする。二酸化炭素排出規制の強化など、環境
 規制を強化する。
④軍縮:5年間で国防費を600億ドル削減する。兵力総数とSDIの見直し。枚実験の停止、枚拡散防止条約の強化。
⑤通商:不公正貿易を続ける国に対してスーパー301条を復活、適用する。

<地球環境版マーシャルプラン>
 経済政策とともに注目されるのは、地球環境問題への対応である。これに対してはブッシュ政権は何のリーダーシップも発揮しなかったばかりか、常に
ブレーキをかけてきたのであるが、アル・ゴア次期副大統領は、地球温暖化防止条約で米政府の政策を批判し、プッシュ陣営から「オゾンマン」と攻撃さ
れた環境保護論者であり、地球環境国際議員連盟の総裁もつとめている、いわば環境副大統領である。

 「地球環境に対する文明の攻撃という事態に際して、もし世界のリーダーとしてのカを発揮できなかったら、アメリカは再び将来の混沌を招いてしま
うかもしれない」と主張するゴア氏は、世界人口の安定化、環境に優しい技術開発、環境への影響を評価する経済システムの確立などを掲げた「地球環境
版マーシャルプラン」を提案している。
 これはまさに冷戦終焉後の世界史的な転挽点にあたって、全人類的課題である環境問題をもはや一刻もゆるがせに出来ない事態の反映といえよう。この
点でもブッシュ陣営は全く時代遅れの認識しか持ち得ていなかったのである。クリントンがいうように「いろんな問題が無視されてきた。エイズ、環境、
国内経済の活性化。今回の選挙は長期間にわたり、見逃されてきたこうした問題を直視することを呼びかけるものだった」のであり、エネルギー多消費を
はじめとするこれまでの生活様式そのものが問われたのである。
 クリントン新政権の政策は、多くの矛盾を抱え、これまでの政権のツケに苦しまざるをえないであろう。しかし地殻変動の第一歩が踏み出されたといえよう。

<問われる日本の政策>
 時代の大きな流れの変化の中で、全世界的な冷戦後のあらゆる問題は複雑に絡み合っており、世界的な新しい平和と協力、全人類的課題、地球環境保護
への姿勢がすべての国に問われている。
 クリントンは「われわれは日本に対して、首尾一貫した政策をまだ持ち得ていない」ことを明らかにしつつ、「日本と協力しつつ競争する」と明言して
いる。派閥抗争と腐敗・汚職、暴力団との結託の中で自民党政権は、何等の積極的なリーダーシップも発揮し得ずに、泥沼に引きずり込まれている。事態
を打開するイニシヤチプは野党側にこそあるはずである。日本の政治状況は世界史的な転換点とは余りにもかけ離れているのではないだろうか。来年7月
には東京でサミットが開かれるが、これまでのような理念のない個別対応型の行きあたりばったりのやり方ではもはや通用しない時代に突入しているとい
えよう。 (生駒 敬)

 【出典】 青年の旗 No.181 1992年11月15日  

 

カテゴリー: 生駒 敬, 経済 | 【投稿】歴史的転換期の米新大統領 –地殻変動の第一歩– はコメントを受け付けていません

『詩』 スケッチ  

『詩』 スケッチ  
                    大木透

(ネフスキー大通り)
イリッチは
ネフスキーを
閥歩するように
社会主義はやってこない
と 嘆いた
僕は
一本一二ルーブルの
アイスキャンデーを
なめなめ
やすやすとでこほこの王道を進む
前向きの資本主義者らしい
物売りが
言い争っている

舌の根に
にがみが走る
プーシキンを
探しに来たのでもあるまい
ジプシーが
俺を見上げる
なかには
ロシア人も混じっている

ああ
IMF総会で
ジプシー役を
演ずるひな鳥たちに
幸いあれ
俺は
急いで
ゴーリキー通りへ
隠れた

(スモールヌイ)
左にマルクス
右にエンゲルスの視線を
用心深く逃れて
スモールヌイに入る
磨き抜かれた
遠い昔の
遺跡のようだ

レーニンが愛用した
机に座ってみる
色の変わったプラウダが
土地を農民にと告げている
向かいのソファーに
妻が座り
数十年の生活を
振り返っている
ただ徹笑んでいる

案内人が言うには
時々サブチャータ市長が
お客を招いて
ここに座って見せるそうだ
さてもさても
市長の顔つきや
いかん
ご説明や
いかん

(チェルヌイシェフスキー像)
留学中に
ひと儲けした
自タクのドライバーは
メルセデスを操る
像を訪ねると言うと
びっくりして
ダサイおっさんやな-
と せせら笑う

花一輪もない
汚れきった銅像は
逆光のなかに
「なにをなすべきか」
考える
瞳は見えないが
もうシベリアを
望んでいるわけではあるまい

脱イデオロギーという
イデオロギーがあることも
気にかけずに
若者は
ローレンツに
凝っていると言う

なにも
誰も
信じないと言いながら
若者は
まだ交通信号だけは
信じている
サブチヤク氏よ
せめて
信号だけは
守ってやってくれ
(一九九二・八・一五)

 【出典】 青年の旗 No.181 1992年11月15日  

カテゴリー: | 『詩』 スケッチ   はコメントを受け付けていません

【投稿】沖縄で、オキナワを考える.その2

【投稿】沖縄で、オキナワを考える.その2沖縄戦こついて

(1) 沖縄戦の終結の日
敗戦記念日は8月15日で、この日は昭和天皇が玉音放送をした日である(ポツダム宣言を受諾したのは14日である)。では沖縄戦の終結はいつであろうか?
公式には一応、6月23日を「慰霊の日」として沖縄県では行事を行なっている。では6月23日は何の日であろうか。それは、米軍が丘の頂上を征服するにいたって、日本軍指令部は解散となり、軍指令官(牛島軍指令官、長参謀長)は沖縄作戦の責任をとって指令部壕のなかで割腹自殺したと言う日である。これは史実からいっておかしいようである。更に、軍指令官が自殺をしたのは22日という説もあり、また割腹自殺ではなくピストル自殺という説もあるそうである。
沖縄の日本軍の組織的な抵抗が終わった日とするなら、軍指令官が最後の命令電文を発して、作戦の指揮を打ち切ったのは6月19日である。米軍の勝利宣言あるいは作戦終了宣言を区切りとするなら、6月21日か7月2日である。正式の降伏調印なら9月7日である。いずれにしても6月23日を軍指令官の自決をもって「終戦日」とするのは矛盾がある。
なぜなら軍指令官の最後の命令は「爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」(自分の責任を放棄し、かつがんばって戦えとは、とんでもない命令である)というもので、降伏や停戦の意志表示となっていない。そして、何よりも軍本位の記念日となっている点である。もちろん旧軍関係者がこれを”帝国陸軍の最期”とするのは自由であるが。また、『観光コースでない沖縄』のなかでは「沖縄戦の終結日は各人が収容所に入った日とすればよい」としている。
(2)悲劇は読谷飛行場建設から始まった 44年7月のサイパン陥落後、読谷、嘉手納、伊江島、浦添、西原、宮古、八重山など15カ所で一斉に飛行場建設がはじまった。用地確保の為、国家総動員法が通用され、のベ1100平米の土地が強制接収された。工事の為に国民学枚(小学校)の児童まで動員され、住民は県外疎開どころではなくなった。これが、軍民一体となった避難生活、混乱の始まりである。
沖縄戦では、読谷から南側の中・南部地域では日本軍の主力部隊が布陣し“鉄の暴風”が3カ月吹き荒れた。
逆に、読谷から北は住民の避難地区に指定され、ゲリラ戦が関われた。
1941年4月1日朝、米軍は読谷から18万人が上陸し、飛行場はその日の午前中に無血占領した。皮肉なことに、この飛行場は一度も使われる事がなく、住民の強制労働はまったく無駄になった。

(3) チビチリガマ
読谷村の「象のオリ」の近くに、丸木位理・俊さんの作品にも措かれている(そうである。)チビチリガマがある。そばに川が流れており、チビ(尻)のチリ(切れる)にあるガマ(洞窟)という意味で、このガマの中に地域住民141人が避難しており、米軍上陸3日日に「集団自決」で84人が絶命した。
包丁や鎌で、毒薬注射、焼死、煙で窒息・・・・・・と2時間足らずで亡くなったという「集団自決」の様子を電灯を消した真っ暗なガマの中で聞いたがかなりの物があった。孜々がガマに入る時、先に見学していたグループの女性が泣きながらガマから出てきたが、そういう状況である。
国体の野球場から日の丸を下ろした知花さんは、この近くの人で子供の頃は「集団自決」やチビチリガマはタプーであり、ガマに近づいただけでも親に叱られたそうである。このガマは長い間立ち入り禁止地域であり、83年夏で児童文学作家の下嶋哲朗氏の『南風の吹く日』の取材をきっかけに遺骨収拾、調査が始まったそうである。今では洞窟内は整備されてされてきたが、当時の慰留品を少し残してあり、又遺族の了解のもと遺骨も残してある 【写真2】。入り口から10m程は腰を屈めなければ歩けず、なかは幾らか天井も高いとは言え、100人余りが生活するには余りに狭い。ただ避難した生活だけでも大変である。
遺骨収拾後に入り口に「世代を結ぶ平和の像」が建立されたが、国体での日の丸焼き討ち事件の報復として、87年に右翼グループが打ち壊し、無惨な姿をさらし、今でも敢えて修理をしていない 残念ながら知花さんの話は数分しか聞けなかったが日の丸を引き下ろした人というイメージには速い温厚な人であった(日の丸を引き下ろす感情は何も特別な感情ではないのかも)。我々の行った日も知花さんは、スーパー開店の準備を終えて、10時過ぎには弁当を持って出かけ夕方までガイド業に飛び回っていた。

(4)チビチリガマとシムクガマ
チビチリガマから東に1キロ“象のオリ”の近くに全長3キロのシムクガマでは避難していた住民1000人は米軍上陸1日日に全員が生還している。
シムクガマでは、ハワイ移民帰りで、英語を話せるアメリカの事情にも通じている人おり、「中には民間人しかいない攻撃しないでほしい」と米軍と交渉したのである。一方、チビチリガマでは、竹槍で武装した男達がいた。確かに英語が話せるか否かは大きいが、決定的な瞬間に軍隊が押し付けた“死の論理”が支配するか、民間人の“生の論理”が支配したかとの違いであった(この点は『観光コースでない沖縄』に詳しく記載されている)。
(5)嘉数(かかず)高地 この嘉数では住民の半分以上が戦死し、3分の1の家で一家全滅している。嘉数周辺では、日本軍の司令部のある首里城を目の前にした、沖縄戦最初で最後の組織的な銃撃戦が行われたのである。沖縄の土地は隆起サンゴ層の上に、土が堆積したものであり、「あたりは、真っ白だった」と言うくらいに土が吹き飛び、地形が変形し、サンゴ層が露出していたのである。
また、この隆起サンゴ層のおかげで沖縄にはたくきんの自然のガマができた。
また、この嘉数高地は地域の人たちにとっては、ノロ(沖縄の地域宗教?の女性神職)以外は立ち入り禁止の神聖なる場所で、ここに日本軍のトーチカが築かれ、銃撃戦が展開されたのである。

(6)ひめゆりの塔
ひめゆりの塔は、あまりにも有名な(きれいに整備された)観光コースである。ここは、第三外科壕跡に建てられており、4~5mの穴の底に濠の入り口があり、穴の周りには柵があり、入り口を見ることはできない。ここから100mほどの所に、第一外科壕が畑の脇にひっそりと当時のままで残されている。では、入り口から中の様子も若干見える。
第三外科壕では、脱出できず、壕内にガス弾を投げ込まれほほ全員死亡している。また、第一外科壕では脱出に成功したが、多くのひめゆり部隊は南部の海岸で手りゅう弾自殺していったのである。
また、筆者も82年の今井正の『ひめゆりの塔』を見ているが、ひめゆりが余りにも有名だが、女子学徒隊はひめゆり部隊だけでない。ひめゆり部隊は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の部隊の通称であり、表の様に他にも多くの学生が動員され、彼女らの多くは前線の野戦病院で働かされていたそうである(ひめゆり部隊は後方の陸軍病院で働かされていた)。

学 校 名       通称      動員数  戦死者
沖縄師範学枚女子部   ひめゆり     149   114
県立第一高等女学校   ひめゆり     148    96
県立第二高等女学校   白梅       67    36
県立第三高等女学校   名護蘭      10     1
私立積徳高等女学校   積徳       55    28
県立首里高等女学校   瑞泉       83    50
私立昭和高等女学校   梯梧       80    31
県立宮古高等女学校
               合 計 592 356(『沖縄戦とは何か』大田昌秀より)

ひめゆりの塔の周りも“霊域整備”のもとに観光地化している。同時に各地の戦跡に、海洋博や国体を前後して、戦争を美化する「八紘一宇」の塔や軍人遺族の記念碑が増えて来たそうである。

(7)韓国人慰霊塔
「1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国青年達は日本の強制的徴収により大陸や南洋の各戦線に配置された。この沖縄の地にも徴兵・徴用として動員された1万金名があらゆる難難を強いられたあげく、あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰ざるこれらの冤魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り、風となって吹くであろう。この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。願わくぼ安らかに眠られよ。1975年 韓国人慰霊塔建立委員会」これは、平和公園に隣接して(公園の外)建てられている饅頭型の碑の碑文である。日本文のほかハングル文、英文で書かかれているが、沖縄の数ある戦碑のなかで唯一「虐殺」の文字が刻まれている。碑の周りには韓国から運ばれて来た石も並べられている。
沖縄戦では日本軍側軍人の戦死者の記録はあるが、この中に韓国人関係者の記録はない。また住民戦死者の公式な調査は一度も行われていなそうであり、正確な死者数すら分かっていないので、強制連行きれた韓国人の死者数も分からないそうである。
しかし、この稗を見学に来た元従軍慰安婦の方々は、自分達のことが碑文の中に一切記載されていないことに、たいへんな怒りを吐いていたそうである。戦争を巡る重層的な差別構造を垣間見た感じである。
(参考資料 『観光コースでない沖縄』高文研発行、『沖縄TODAY』柘植書房他)

前号では校正に参加できない間に、何とトップになってしまい驚きました。今回は然るべき位置に戻れました。
次回は、沖縄戦の残りと沖縄文化について考えてみたい。

【出典】 青年の旗 No.180 1992年10月15日

カテゴリー: 平和, 沖縄 | 【投稿】沖縄で、オキナワを考える.その2 はコメントを受け付けていません

【報告】長良川 現地報告

【報告】長良川 現地報告
       河口堰建投を直ちに中止せよ!建設大臣は、反対住民と話し合え!

10月4日の、「すくえ長良川!世界行動DAY」を前後した長良川河口堰建設反対運動の現状について、レポートをします。

●河口堰建設中止を求めて
すでに8本のピアが建設され、残る5本のピア建設が10月下旬に再開されるという状況の中、反対運動側は10月上旬に大規模な現地行動を行い、建設を少なくとも中止させるという目標を本年4月の東京行動、7月のブラジル環境サミットの後、確認した。
7月から実行委員会である「長良川河口堰をやめきせる10・4の会」を地元流域住民団体、河口堰建設に反対する会全国支部、日本自然保護協会をはじめとする環境保護団体、自治労など労働組合を構成団体として結成し、準備が進められてきた。
宮沢総理、山崎建設大臣への抗議はがきを世界のNGO300団体への依願したのをはじめ、日本の様々な環境問題に取り組む市民団体への呼びかけ、BE-PALをはじめアウトドアー雑誌への意見広告掲載など、より幅広く運動の輪を広げる取り組みが行われた。新しい著名運動も追求された。
また、ブラジル環境サミットなどを通じて、世界の環境保護運動との連携も追求され、アメリカNGO「地球の友」創立者、シエラクラップ理事のデビット・プラウアー氏など世界の環境団体代表も10・4への参加が行われることになった。
集会前日の10月3日には、地元長島町で、日本環境会議主催の「国際河川環境会議」(インターナショナル・リバー・ミーチング)が開催され、デビット・プラウアー氏、フランス、ロワール川のダム建設反対運動家などが参加し、会場200名予定のところに350名余が参加し、河口堰の問題点を明らかにした。

●建設省 必死の妨害
こうした様々な準備段階を経て、10・4を迎えるわけだが、建設省・水資源公団も必死の対抗手段を取ってきた。その1は、通常10月下旬の工事再開を、10月1日に行うと建設省幹部が発表。説明では単なる工事矢板の工事であって、通年まずこの準備工事は10月1日に行っていると、弁解しているが、明らかに10・4を意識したもので、すでに着工したという印象を与えようとするもの
であった。
また、10・4に「官製レガッタ大会」を、集会会場のさらに上流域で行い、治水の歴史に学ぶと意義付けた。全国の大学ポート部に案内を出し、旅費まで出すという熱の入れよう。反対運動側も参加しないよう、逆オルグを行うなどして対抗した。テレビ報道は、上流で賛成の、下流で反対の取り組みと、反対運動の印象を薄めようとした。しかし、もちろん「官製運動」に盛り上がりもなく、現地は「世界行動DAY」一色という事になった。また、前夜祭の行われた河川敷への車乗り入れを禁するなど、執拗な妨害を行ってきたわけで、それだけ河口堰問題が政治問題化してきた証左でもあった。

●地元長島町の反対運動代表 大森さんハンスト突入
9月22日、社会党は建設省に対して、河口堰の一時建設中止を求めたが、建設省はその意志のないことを明らかにした。河口堰建設反対運動の最先端である現地長島町、桑名市、郡上八幡など流域反対住民の中から、建設を絶対させないために「ハンスト」も辞さず、との意志表明は8月段階から行われていたが、実行委員会では、ハンスト戦術の是非については必ずしも一致してはいなかった。しかし、現地の危機感を反映して、最終的には実行委員会としても現地の固い意志を確認し、10月1日より、長島町の大森さんがハンストに突入する。要求は「建設省は反対派市民団体との話し合いに応ぜよ」ということになった。自治労医師団も結成され、10・4終了後は、5日から建設省前の座りこみも準備されていた。

●10月3日 ナイトミーテンクに3000名
3日夜、「河口堰・早く止めナイト」が、長良川背割堤で行われた。これは運動への関心と世論の広がりを示した。昨年4月現地行動として「NAGARAGAWA DAY」が開催された時、ナイト・ミーテングは300名ほどのカヌーイストの集会であったが、今回は、その10倍の3000人規模の大集会となった。私は、前記の建設省の妨害と大量の参加者の自動車があふれたため、参加するには4kmを歩かないといけないとあって、参加を断念したので、詳しい内容はわからない。椎名 誠さんや野田知佑さんなどの運動へのアピールと明日の行動の注意などがおこなわれたようだ。

●盛り上がる世界行動DAY1万人以上が参加
(以下は現地リポート)
我々は、準備万端で3日午後4時大阪を出発。途中資材を積み込み、午後8時30分には、前夜祭会場付近まで到着した。ところが、実行委員会が通行規制。キャンプ地である長良川河川敷への車乗り入れを、建設省は許可せず、数百台の参加車が路上に延々4キロに渡り、駐車したため、実行委員会が乗り入れ規制したためであった。
そこで、速く離れた駐車場でテントをはり、一夜を明かす。北海道からきたという、ドラムカンカヌー(?)参加者の夫婦と深夜4時まで、話が弾んだ。
当日は、11時からのメイン集会(約6000名)に。会場は自治労東海地連、はじめ全国から1000名が組織参加。参加、野田、准名さんの激を聞いてから、一路カヌーデモの準備にむかった。
ここまでは、これが10月かというほどの著さ。我々四艇のカヌー出発のころから曇り始め、風と強い潮流との闘いが始まった。午後2時には、河口堰建設現場近くの伊勢大橋周辺には様々なカヌーが数え切れないほど終結、(3000艇との報道もある)3時のアピール行動を待った。
午後3時、集会参加のデモ隊が伊勢大橋に到着、総勢10000名の陸上、水上部隊が、一斉に「長良川河口堰」建設反対の大爆発。花火もあがる。建設反対のシュプレヒコールが河口堰を包む。下流からは大漁旗を掲げた赤須賀漁協のしじみ船16隻も合流。野田、准名、近藤さんも水上からアピール。アメリカ最大の自然保護NGO「地球の友」代表のデビット・バウアーさんも水上から「SAVE THE RIVERJ「SAVE NAGARA」と声をあげる。伊勢大橋欄干では「WAVE」。10m下に飛び込むパホーマンスも十名くらいが続々と。抗議行動は延々続き午後4時には終了した。
(これらの模様は、マスコミによってかなり取り上げられている)

●建設省との直接話し合いを求めて
反対する会は、10・4集会の盛り上がりと現地でのハンストを背景に、建設省との直接話し合いを求めて、10月5日建設省に向かう。
建設省側は一定話し合いに応ずるかのごとく、反対する会の代表4名との会談を行った。建設省側は「河口堰建設への疑問があるというのなら、質問に応える用意はある。中止云々という内容なら応じられない。反対住民と建設大臣との直接会談はできない」という姿勢であった。反対する会は、建設省側も例え前提付きとは言え、話し合いに応じざるを得なくさせたことを評価しつつ、窓口を開かせておくことを重視し、対応した。
しかし、現地長島町では、大森さんに加えて反対する会事務局長の天野さんも含めて8名がハンストに入り、大森さんはすでに10日のハンストとなっており、一定の判断が求められている。

●あいまいな社会党の対応
反対運動に協力的な社会党であるが、党の声明などでいまだ態度を明かにしていない。特に、10月中旬に社会党岐阜県本部の大会で、河口堰推進派の現知事を推薦する動きもあり、社会党建設族などが河口堰問題にブレーキをかけているわけである。
社会党は、直ちに「長良川河口堰建設反対」の党決定を行い、政府・国会対策、建設省対策を行わないと、反対運動との関係は、複雑なものになり兼ねない情勢にある。
また、河口堰建設にかかる地方負担がさらに増大することも明かになっており、すでに根拠を失った公共工事をこれ以上続けきせることは断じて許されない。建設工事の結末は、長良川とその生態系を破壊し、流域住民の生活を破壊することが明かなのだから。

●10月9日 反対する会建設省に抗議行動
話し合いを追及しつつ、煮えきらない建設省の対応に抗議する緊急行動が10月9日建設省前で全国から50名余が参加して行われた。反対する会は、「建設大臣は反対運動と話し合いに応じよ」と追ったが、建設省の態度に大きな変化は見られない。しかし、建設省の河川局の担当官が抗議行動に直接対応するなど、力関係は世論を形成しつつある反対する運動側に傾きつつあると考えられる。(私は参加出来なかったので、東京の仲間に参加してもらいました)
10月10日には、対応策を協議する10・4全国実行委員会が開催されるが、今まだこの情報は入っていない。
今刻々と、河口堰を巡る運動は、頂点に近付きつつあるように思う。建設が是か否か、反対運動はどうこの頂 点を闘い抜くのか。こうして長良川の自然を守る運動は、緊迫した状況を迎えている。

※ この記事の校正の時点で、ハンストに入っていた大森さんが10月11日午後2時35分、緊急入院との情報が入った。細菌性肺炎、飢敗状態という診断。社会党見解は今だ出ていない。反対運動側は社会党への早期に見解を出すよう働きかけをしている。(92-10-11H・S)

【出典】 青年の旗 No.180 1992年10月15日

カテゴリー: 環境, 社会運動 | 【報告】長良川 現地報告 はコメントを受け付けていません

【投稿】国際協同組合同盟(ICA)東京大会へむけて

【投稿】国際協同組合同盟(ICA)東京大会へむけて
            「変化する世界 協同組合の基本的価値」S.A.べ一ク著

10月にいよいよ東京でICA(国際協同組合同盟)世界大会(第30回ICA東京大会)が開催される。この大会にあたって「変化する世界、協同組合の基本的価値」と題する本が出版されているので紹介したい。発行は、日本協同組合連賂協議会、第30回ICA東京大会組織委員会(事務局 東京都千代田区大手町ト8-3全国農協中央会国際部内 03-3245-7563)である。(頒価1,000円)
紹介にあたって、まず協同組合運動といえば「生協」(生活協同組合)を身近なものとして連想されるであろうが、その他には農協、漁協、森林組合など、それに労働金庫などの信用・金融組合、住宅協同組合、そして最近では生産協同組合・労働者協同組合(ワーカーズ・コレタティプ)などを聞いたことがあることと思います。
抽象的にいえば協同組合は、組合員のニーズにしたがって、組合員が出資し、運営し、管理する組織です。
もちろん現在ではこの精神にのっとりながらも実に多様な形態と内容が実践されています。この出資、運営、管理の三位一体の運動の特徴のキーワードは、1:平等(民主主義)と公平 2:自発性と相互自助 3:社会的、経済的解放であり、現代的にはニーズに応える経済活動、利益の公平な分配、人と人の結合、参加型民主主義、社会的責任、協同のセクターの国内的・国際的協力などが大きな議論をよんでいます。
またこの運動は、資本主義体制のなかにありながらも独自のニーズと組織をもつ経済組織であり、それを意識的にコントロールするというすぐれた特徴があると思います。したがって運動的には大企業や独占資本とは独立した、生産一流通一消費、再生産過程を生み出し、そのことによって市場をコントロールしていくというプランもあるぐらいですから、協同組合運動というものもだいたいお分りいただけたのではないかと思います。
前置きが長くなりましたが、本書は、ICAが大きく変豹する世界のなかで協同組合運動を歴史的に総括し、その運動の価値を再評価し、そしてあらたな価値と実践を生み出していくために、研究プロジェクトをつくり作成された文書であります。著者はS.A.ベータ氏。スウエーデン協同組合学会会長であり、ICA「協同組合の基本的価値」研究プロジェクト座長です。ベータ氏は「協同組合運動に携わってきた私の25年間の中で、最もやりがいのある仕事となった」とし、「熱心な協同組合人にとって、当面これ以上にさしせまった問題は考えられない」と本書の執筆の気持ちを率直にかたっています。
内容は大きく次の3つの視点から構成され、1)理念と理想、2)実戌と経験、3)未来の展望とビジョン、時代の変遷を経ながらうまくまとめられています。価値の抽象化と同時に、世界中の協同組合運動との「行動と対話」を通じてまとめあげられた本書は、現代社会の現況をよりよく反映する問題提起が行われていることが、読者の様々な運動に示唆を与えてくれることと思います。今後の社会展望、ビジョン、人類的な価値等々。全260ページ近い内容は、21世紀に向けての大きな社会展望を語っているのではないかと思います。もちろん、未来を形成するのはテーゼや文書ではありませんが、私たち自身が行動を選択し、未来を切り拓いていくときの社会、経済、運動的な価値をよりよく反映していると私は思います。(東京WoZ)

【出典】 青年の旗 No.180 1992年10月15日

カテゴリー: 労働, 書評 | 【投稿】国際協同組合同盟(ICA)東京大会へむけて はコメントを受け付けていません

【経済の動き】日米欧同時不況の進行

【経済の動き】日米欧同時不況の進行

<小差のウイ>
EC欧州共同体12カ国は来年1月1日から市場統合がスタートする。人口計3億4千万、GNP5兆ドル、域内のヒト、モノ、カネの動きは原則自由になる。これ自身が今後の展開に巨大な意義と影響をもたらすことは間違いないであろう。しかしマーストリヒト条約はこれを更に押し進めて、遅くとも1999年には通貨、政治まで一本化しようというもので、いわばヨーロッパ合衆国誕生への挑戦である。
しかし9月20日のフランスの国民投票は、ウイとノン(賛否)がほほ同数、かろうじてウイが上回ったに過ぎなかった。わざわざ議会から国民投票の場に移して、大差でこの条約を押し進めようとしたミッテランの意図は大きく傷つけられたといえよう。彼は、「独自の価値観に基づいて反対票を入れた人々の感情を尊重する」と発言し、コール・ドイツ首相は「各国国民の懸念をなくすためEC委月会の権限の制限を検討する」との考えを表明せざるをえなくなった。このことは独仏主導の統合へ向けた政治的意志や計画が、国民の理解と支持を踏まえずに先走っていたという現実を如実に示した。

<ドイツ経済・社会の変貌>
しかし事態の展開はそれだけではないことを示している。少なくとも今年前半までのおよそ5年間は、79年創設のEMS(欧州通貨制度)、その為替相場メカニズム(ERM)は有効に機能し、ドイツ・マルクを基軸にすることによって各国ともまずまずは安定した状態にあったことは間違いない。ところがEC12カ国中、GNP、成長率とも最大の強さを持つドイツの経済が失速し姑めた。
一時は統一特需にわいた旧西独地域の経済も景気の低迷、膨大な財政赤字、インフレ圧力に苦しみ、高金利政策を継続せざるをえず、それはポンドやリラ、フランの暴落、マルクの独歩高をもたらし、ERMを根底から揺るがす事態を育んでいた。旧東独への財政資金援助額は1800億マルクにのほり、91年の財政赤字は1200億マルク、GNP比4.3%とEC通貨統合の参加条件(3%)をさえ上回る事態にまで突き進んでいたのである。92年の実質成長率は大幅に低下する見通しであり、実質的な失業者は500万人に達する。
それに呼応して、ネオファシストや極右系の青少年による外国人や難民への襲撃は8月下旬からほは1カ月以上にわたって連日続き、極右の暴力事件は今年に入って約1千件を数えている。州や市町村議会では極右政党が議席を増やし、ワイツゼッカー大統領は「難民襲撃や人種差別的攻撃に憤りを覚える」と強調するほどの事態である。旧社会主義圏をも含めた狭量なナショナリズムの台頭が全ヨーロッパに拡大し始めているといえよう。

<国際通貨不安への発展>
フランス社会党左派のシュベーヌマン元国防相は「マーストリヒト条約は欧州の東半分を排除している。条約が目指す欧州はベルリンの壁の代わりにお金の壁を築くことで、東西分断のヤルタ体制の国境維持を図ろうとしている」としてノンを訴えたのであるが、今やそのような壁の構築は不可能となっている。
フランスの国民投票を目前にして、EC12カ国中、経済成長率最下位のイギリス(-2.2%、2年連続マイナス見込み)がまず利上げと利下げの混乱の中でERMから脱落、続いてフランス、イタリアは自国通貨防衛のために利上げに追い込まれ、カナダはカナダドル売りを浴びて公定歩合を引き上げ、ドル暴落への波及さえ懸念される状況となった。国際通貨不安が世界経済最大の撹乱要因になりかねない事態を迎えたのである。
イタリアでは、リラが史上最安値を更新、9月末には預金封鎖の噂がながれ、取り付け騒ぎが起こり、全銀行の預金残高が急減、ERMから離脱してもリラは下げ止まらず、リラに見切りをつけての資本流出まで始まっている。アマート内閣がリラ防衛のために打ち出した予算案の福祉切捨てと増税に抗議する三大労組は全面対決、ゼネストに打って出る可能性が強まっている。

<クリントノミツクス>
このようにして急速に表面化してきた通貨危機の影響で、欧州経済はさらに悪化し、93年も低迷が続くことは避けられないであろう。同時に米国の景気も今年は年率1.5%前後、来年も2-2.5%程度の低成長にとどまることが予想され、生産活動の停滞、個人消費の減少、雇用者数の減少の中で、米国産業・企業のリストラクチェアリングの名のもとに人員整理が拡大している。
米国勢調査局が最近発表した統計によると、米国の貧困者数は昨年210万人も増加し、3570万人に達した。景気が下降局面に入った90年から増加に転じ、貧困層と規定される家庭(家族4人、年収が13924ドル=約170万円以下)の割合は10.7%から11.5%に上昇し、黒人の貧困層比率は30%を起す事態である。
クリントン優位・プッシュ苦戦といわれる大統領戦をなんとか挽回しようとして、プッシュ大統領は、とにかく速効を求めて武器輸出の拡大に乗り出し、軍需産業大手ゼネラル・ダイナミクス社製造工場で、台湾への150機のF16戦闘機売却を発表、続いてマクダネル・ダグラス社の工場では「サウジアラビアに72機のF15戦闘機を売却する。これで皆さんの雇用は守れる」と、文字どおり選挙目当ての発表で危険きわまりない行動に乗り出している。
これに対するクリントン候補の政策構想の核心は、インフラ整備を中心とする公共投資の拡大と中所得者向け減税で景気を浮揚し、同時に増税・歳出削減によって財政赤字の大幅な削減(1996年度までに財政赤字を半減させる)を目指す点にある。一律減税・歳出削減一点張りのプッシュ構想に対決するこのクリントノミツタスの勝敗は、今後の行方を大きく左右するといえよう。

<動揺する日本経済>
日本経済もこうした状況と無縁では有り得ない。今年4-6月期の実質経済成長率は、年率換算で1.1%という低成長(政府見通し3.5%)に落ち込んでいる。現象的には地価の下落や株価の低迷というバブル経済の崩壊で始まった景気後退が、生産や消費、設備投資など実体経済そのものの中にまで現れてきている。
成長をリードしてきた自動車、電機、機械の「ご三家」は、国内販売不振に加えて、通貨不安と円高基調、貿易摩擦による輸出抑制要因が大きく作用し始めている。GNPの6割近くを占める個人消費の環境も、雇用面、所得面とも悪くなっている。百貨店販売は昨年から弱かったが前年比マイナスになったのは今年3月からである。スーパーやチェーンストアの売上も伸びが鈍化している。あれほど騒いで行われた利下げにもかかわらず、盛返すはずの中小企業分野の設備投資も依然として低迷している。そしてバブル期を通じていわば地価や株価の上昇を前提としてきた日本的経営が大きく揺らぎ始めたのである。
ただし、住宅建設は7月からバブル以前の好況期を上回る年140-150万戸のペースに上昇してきており、鉱工業生産指数も7-9月期には4期ぶりにプラスに転じる見通しとなってきている。事態は一方的に進行するものではなく、回復と落ち込みがせめぎあいながら進展している。

<銀行の-つや二つつぶれても>
10兆70恥億円にも及ぶ政府の総合経済対策は、確かに日経平均株価を約5000円も押し上げ一時19000円台を回復させた。だがその後は再び低調そのものである。確かにその影響と効果は今後とも過小評価できないほどの規模である。しかしこの総合経済対策では銀行救済を大きな柱としたのであるが、各界からたちまち大きな反撃を受けた。土地や株の投機者に融資して、いわゆる「バブル」に手を貸した銀行を公的資金を使って救済するというのは何事かというわけである。銀行の一つや二つつぶれても構わないという自民党幹部まで現れた。金融システムの危機を煽ってきた経済企画庁は「不良資産の額は金融界全体で支えきれないほどの大きさではなく、冷静な対応が求められる」と言い出した。しかし破綻のリスクを抱えている中小金融機関、農協、生保、揖保は戦戦恐恐としている実態である。92年3月末現在の都銀、長期信用銀行、信託銀行の不良債権総額は大蔵省の公式見解で7兆9900億円、実際には20-30兆円に達しているとの見方が多く、不良債権額が経常利益を上回る規模にまでなっている。

<財界が所得税減税要望>
10月5日、関経連は「消費は落込み続け不況色を強めている。本年度から2年間に限り、戻し減税による思い切った所得税減税を実施すべきだ」とする93年度税制改正に関する意見をまとめた。東京商工会議所も同様な意見を出している。しかしそれは同時に消費税の大幅な税率アップを求めるという矛盾したものである。
ところで85年の家計の借入残高は可処分所得の67%であったが、90年には94%にまで急増している。さらにクレジットカードの普及ともあいまって年間可処分所得に対する消費者信用残高の比率は90年に22.5%を記録、米国を初めて上回ったのである。家計の収入に占める利払いの割合も5%近くに高まっており、バブル時代に増やした借入金の返済圧力が高まり、消費抑制傾向が顕在化せぎるをえない状況に立ち至っている。
一方、所得税収の国民所得比を見ると、80年代の中ごろに6%程度であったものが、現在では7.2%になっている。これは実質的な増税にほかならない。また一人当りの国民所得に対する所得税課税最低限の比率でみても、さらに低所得層にまで課税範囲が拡大されている。これを最低限、80年代中ごろの水準に戻すには、所得税を国民所得比で1.2%強減税しなければならない。これは約4兆円の減税規模でなければならないことを示している。

<危機打開への運>
世界同時不況、同時株安、日米欧同時債務デフレという不気味な状況は、ソ連東欧旧社会主義圏の底知れない経済的崩壊状況とあいまって、今何の不況がこれまでになく深く、かつ長期に及ぶ可能性を一方では示している。しかしそれは同時に、グローバルであると同時に相互依存的な国際関係の進展、そして冷戦体制崩壊の中で、事態を打開できる多様で実現可能な幾つもの選択枝を提供しているともいえよう。
何よりも徹底した軍事費の削減、軍需から民需への転換、軍事費の平和と協力への配当、地球環境防衛への共同行動、環境の保護と改善に向けたエネルギー・都市・住宅・交通問題、廃棄物、下水、ゴミ処理など人類共通の利益に立った社会資本投資と蓄積、これらは世界的な課題であると同時に、個々の国の必要不可欠な課題となっており、その社会的経済的効果ははかりしれないほど大きくなってきている。そしてこうした方向と離れた政策提起は混乱と危機をしか招かないであろう。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.180 1992年10月15日

カテゴリー: 生駒 敬, 経済 | 【経済の動き】日米欧同時不況の進行 はコメントを受け付けていません

【コラム】ひとりごと–自治労大会に参加して–

【コラム】ひとりごと–自治労大会に参加して–

◆自治労大会にいってきた。3回目の大会参加であった。◆会場は博多。辛子めいたいとラーメンの町である。◆参議院選挙敗北が直前にあったが、自治労中央は、連合政権をめざす「自治労の政治方針」を提起し、議論になった。◆「左派」と自分では思っている、協会系と思われる発言だけが気を吐いている◆連合型でも社会党中心を明確にしろ、とか自衛隊違憲、安保は廃棄を曖昧にするな、とか、大阪的には考えられない主張の嵐であった。◆彼らの主張は、PKOを明確にしなかったから社会党は負けたということらしい◆社会党を強烈に支持する彼らの発想がそこに有る限り、社会党に明日はあるのかと逆に思ってしまう。参議院選挙の敗北は連合の敗北ではない。社会党の敗北であったはずだ◆政党支持の議論だけが行われた自治労大会。組合員の気持ちとずいぶんかけ離れた組合役員◆自治労の組合をつくって3年。産別強化の中身を真剣に考えたい気持ちになる。◆少なくとも連合結成のなかで、自治労 の果たす役割は制度政策要求のなかで、政策マンとして現実の改革を主導していくことであろう。選挙に明け暮れる労働運動ではやる気も魅力もなくなると思う。(H)

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: 労働 | 【コラム】ひとりごと–自治労大会に参加して– はコメントを受け付けていません

【書籍紹介】「砂上の改革-ベレストロイカに挑んだ日々」

【書籍紹介】「砂上の改革-ベレストロイカに挑んだ日々」
                ニコライ・ペトラコフ著 日本経済新聞社 ¥2700

エリツィンのロシアが揺れている。昨年八月のクーデターから一年が過ぎた今、改革の遅れ、経済の危機的状況の進行からまたしてもCISの危機が指摘されている。エリツィンの9月訪日の突然の中止も改めてエリツィン政権の不安定性を示した。
ところで、7月上旬、本屋でこの本に出会った。著者の回想が中心であるため2日間で読んでしまった。読み易い本だと思う。(現在は、「エリツィンの選択」を読んでいる)
著者のニコライ・ペトラコフは、1937年生まれ、1956年のフルシチョフのスターリン批判に影響を受けた当時、モクスワ大学経済学部の学生であり、以後共産主義のドグマを見直し、ロシア史を別の角度から考え直しはじめ、行政的経済管理制度の根本的誤りを知り、市場制経済への信念を持ったと自らを語る。市場制経済論故に批判され、発言の場も狭められたが、1986年以降、制限が解かれる。
1989年人民代議員、ゴルバチョフ共産党書記長経済担当補佐官、そして大統領特別補佐官をつとめ、500日計画のプロジェクトに参加するが、その後の500日計画放棄に始まるゴルバチョフの経済改革路線の後退、右傾化の中で補佐官を辞任、91年のクーデター後、ゴルバチョフ辞任まで大統領経済顧問を務めている。
この本の面白さは、その間の、大統領府内でのゴルバチョフとそのとりまきたちの動きを、克明に描きつつ、ソビエト社会主義がどんな実態であったのか、経済と共産党、官僚機構などソビエト社会主義の根本的な問題を明らかにしていることにある。

<ゴルバチョフは社会主義崩壊の偉大なコロンブス>
「社会主義の民主的革新」をめざしたゴルバチョフのベレストロイカが、どうして彼の目指したものとはならず、皮肉にも社会主義の終焉をもたらしたか。それがこの本のテーマでもある。冒頭ペトラコフは、はたしてゴルバチョフはこの結末を予見した上で、ベレストロイカを進めたのだろうかと自問している。彼は、ゴルバチョフをコロンブスに例える。91年12月辞任の瞬間まで、ゴルバチョフは社会主義の革新を信じていたが、それは全く不可能なことであって、逆にたどり着いたのは社会主義の崩壊であったと。
「ゴルバチョフが本当は偉大な改革者として名を残すだろうが、彼が本当にやりたかったのはソ連社会主義を改造し、共産主義思想を復権して世界の人々に認めさせ、ソ連国民に対しては70年間の血脱い歴史にささげられた犠牲はやはり無駄ではなかったと証明してみせることだった。ところがベレストロイカの歴史は全体主義的共産主義権力システムを改革することが不可能だという事を示した。このシステムはそのまま姿を保つか、もしくは崩壊するしかなかった。その中間で生きながらえる道はなかった。」

<経済改革の試みは1965年から>
ソ連において経済管理型システムを市場型に変えようと言う試みは1965年頃から意識されはじめていたという。経済の全般的な悪化が背景であった。それは成長率の低下となって現れた。コスイギン改革の初期の段階で、改善が見られた。しかし、プラハ事件の衝撃からソ連国内でも市場志向の経済改革に修正主義の烙印が押されてしまう。
70年代は、石油価格の高騰による外貨の獲得が、命令型経済を生き続けさせた。しかし、石油外貨は破綻したシステムの穴埋めに浪費されたにすぎなかった。こうしてチエコ事件とオイルショックは、ソ連の改革を20年間遅らせる結果となった。そして1985年再び改革がテーマに上る。もちろん、さらに深刻な経済の悪化が背景であった。
共産党書記長として登場したゴルバチョフは、ベレストロイカを打ち出すが、最初の2年間は、旧来の社会主義のシステムはそのままに、やり方を変えれば、改革が進むという認識だった。改革は行政的な管理や規律の問題を取り上げた。しかし、経済の好転は見られなかった。
87年の二つの中央委員会では自由選挙による議会制度の導入と競争と商品経済・市場経済の考えをゴルバチョフは選択する。89年市場派経済学者ペトラコフは、ゴルバチョフ書記長経済担当補佐官となり、「灰色の党本部」に入ることになる。
ペトラコフは、「87年6月の改革計画は、競争を作り出さず、独占の効果を作りだした。(問題は)経済管理機関としての部門別産業省が存続したことである。これこそ、スターリン式国家経済管理システムの骨幹であったからだ。89年6月まで経済改革は事実上足踏みを続け、経済危機は加速度的に深まった。」という。
すなわち、89年までの2年間は、かえって旧権限を有する産軍複合体がそのカを強め、競争よりは一層の独占体勢が進んだ。ゴルバチョフは、市場と民主主義を導入しなければならないと、89年選挙制度における民主主義実現をはじめ、政治改革へと進む。

<500日計画の準備と破産>
その後の経過は、「上からの革命」を「下からの革命」が追い越す事になる。グラスノスチによって民主主義を獲得した民衆は、ゴルバチョフよりもエリツィンはじめ、改革派を支持した。90年春民主ロシアをはじめとする民主ブロックが、ロシア新議会の代議員選挙で前進をする。エリツィンはモスクワで復権し、ゴルバチョフと共産党の妨害にも関わらず、ロシア最高会議議長となる。国民の意識はゴルバチョフから離れていく。
情勢の変化を感じた政治家ゴルバチョフは、むしろエリツィンとの同盟を選択する。それが「500日計画」推進の背景だったと、ペトラコフは語る。
500日改革の骨子は、連邦を維持しつつ、市場経済を導入するため、共和国の経済同盟を確立する事、過剰流動性の排除を目的とした厳しい通貨財政政策、国有資産の私有化と斬新的な価格統制の撤廃、などを通じて市場経済の移行期に国家の資源を最大限に導入することであった。さらに、自由価格の導入、土地私有化、軍民転換の促進など。
出来上がった「500日計画」は、共産党、軍産特権層を代表する勢力から反撃を受ける。エリツィン批判も加わり、ルイシコフ政府は500日計画に対抗し、価格値上げを中心とする「改革案」を迫る。ゴルバチョフも1歩ずつ後退していく中、改革への躊躇にいらだつエリツィン演説があり、90年秋、エリツィンとゴルバチョフの同盟に終止符が打たれる。90年秋ペトラコフも大統領補佐官の辞任を決意するのである。

<共産党員コルパチヨつの限界>
ソ連共産党第28回大会もまた、転換点であった。90年には憲法第6条が削除された。一方、大統領会議が設置され、国内政治での重点は共産党から大統領府に移ったかに見えた。この年第28回大会が開かれた。ペトラコフなど他の大統領補佐官も、ゴルバチョフが複数政党による民主政治にむけ、社会管理勢力としての共産党の役割をさらに弱める措置をとるものと期待した。しかし、ゴルバチョフは党書記長の地位から離れなかった。
一方、ペトラコフは、特権と旧体制にしがみつく党官僚や特権層と、一般党員、国民に意識のずれが生まれており、ゴルバチョフが大会などをつうじて直接一般党員やソ連の民衆に改革を呼びかけることこそ必要だったのに、ゴルバチョフは最後までできなかったとペトラコフは指摘する。「このような状況下で唯一正しい道は、党を分裂させ、保守的、反動的な古い党官僚層と袂を分かつことだった、と今でも私は思っているが、ゴルバチョフは党の分裂を恐れただけでなく、名称の変更にさえ踏み切る勇気がなかった。・‥・・・もしゴルバチョフが去っていたならば、党の反動層は社会に対する影響力を失っていただろう」と。
それこそが、共産党員ゴルバチョフの限界であったと。その後、党の反動層は社会のリベラル層と党書記長その人に対する攻撃の準備にかかっていく。

<社会主義の「思想」と「制度」>
著書では、91年のクーデターまで筆を進めた後、最後の章では、社会主義経済制度そのものについて展開する。「社会主義体制は歴史的敗北を喫したが、体制の危機の震源地は経済の分野にあった」と。そもそも社会主義経済制度は成立するか、とペトラコフは、所有の平等をめざす社会主義の思想は間違っていないが、それを社会の原理にまで高めることは、誤りだったと。
最後の10章は、そうした問題提起の章でもある。これを簡単に紹介することは私には少々荷が重いので、省略する。ともあれ、この本は、ソ連邦の解体とベレストロイカを理解する大きな助けとなる。一読に値する著作であろう。(大阪:佐野 秀夫)

(参考 :「砂上の改革」目次

1最初の出会いから大統領顧問就任まで
2灰色の党本部での仕事
3大統領の経済プログラム
4イントナショナルのメロディでポロネースやを蹄れ
5共産党の再生をはかるゴルバチョフ
6「500日計画」・・・コやがチョフ・エリツィン同盟への期待
71990年秋 壊走状態のゴルバチョフ
8KGBの罠に落ちたゴルバチョフ
9八月クーデター
10共産主義信仰の終焉

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: ソ連崩壊, 書評 | 【書籍紹介】「砂上の改革-ベレストロイカに挑んだ日々」 はコメントを受け付けていません

【投稿】10月4日長良川をすくえ!世界行動DAY

【投稿】10月4日長良川をすくえ!世界行動DAY
           数万人の行動で 河口堰建設中止を

長良川を“死の川”にする「長良川河口堰」建設工事が、4年前から行われています。現在までに予定されている堰柱が8本できており、10月下旬にものこり5本の建設工事が再開されようとするなか、このイベントが計画されてきました。
NHKの地元世論調査では、建設反対が、岐阜市で89%、八幡町で86%、長島町で74%の高さに達し、内外の多くの学会や研究者、市民の世論も、建設に反対となっている中で、建設再開を中止させるため、反対する会を中心に自然保護団体、流域住民団体、労働団体が総結集するのが「世界行動DAY」です。
前日3日には、アメリカの自然保護運動家デヴイット・ヴァウアー氏も参加して、現地長島町で国際河川環境会議も日本環境会議の主催で行われます。
当日は、カヌーデモをはじめ、いろんなパフォーマンスで、建設反対をアピールします。百万人の反対署名も呼びかけています。
なお、この行動については アウトドアー雑誌各誌に意見広告で紹介されています。
長良川と日本の自然を守るため、どんどん参加ください。
日時10月4日 午前10時
会場 桑名市 吉之丸コミュニティパーク
特設ステージでイベント
3時からカヌーデモなどアピール行動
(大阪 H)

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: 環境, 社会運動 | 【投稿】10月4日長良川をすくえ!世界行動DAY はコメントを受け付けていません

【ロシアレポート・PART4】ソ連邦解体による負の通産

【ロシアレポート・PART4】ソ連邦解体による負の通産–ナターシャの場合–
                                 大木 のり

ソ連邦解体によってもたらされたものは数多い。それらは時間が経つにつれて顕在化し始めている。
スラブ3共和国(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)がソ連邦の運命を決定した昨年の12月8日、私はロシアの第2の都市サンタト・ペテルブルグ(旧レーニングラード)にいた。現地で最初の一報は、お昼の“プレーミャ”で流された。しかし、平日だったこともあり見ている人は少なかった。私もたまたま遊びにきていた友人のナターシヤとのおしゃべりに夢中であった。丁度その時、ミンスクでのCIS協定調印のニュースを日本からの国際電話で知った。驚いた私は慌ててナターシヤにそのことを伝えた。彼女も私が話すまで知らなかったようであるが、平然と「あらそう。当然よ。これでロシアの経済も良くなるわ。と言った。「でも連邦がなくなると横の管理など連邦の問題だけではないようなことも起こってくるのよ。ちょっと性急すぎない?」と私が言うと、「今は皆民族主義の熱に浮かされているけれど、そのうちやっぱり一緒じゃないとやっていけないってことが分かるわよ。一度はなれてみた方がいいのかもしれないわ」という返事が返ってきた。それでも私が何か言おうとすると、「でももう実際に決ってしまったんだから私たちが何を言ってもしようがないわ。まあ”Πоживём увидм!’’よ(生きてみなければ分からない。この表現はロシア人の好きな表現であり、同時にロシア人自身ののんきな気質を的確に表現していると思う。)」とかわされた。しかし、その時ナターシヤはその後に起る解体の影響など考えもしなかった。
当時、西側にマスコミはこのセンセーショナルなニュースを頻繁に報道し、専門家の間では共同体の今後を占うことが盛んに行われていた。しかし、当のロシアでは大半の人がナターシヤの見せた反応とほぼ同じであった。もちろんこの時期は物不足が最高点に達していた時期であったので、一般の人は将来のことなど考える余裕もなかったのである。
連邦消滅から8カ月が過ぎた現在、やっと事の重大さに皆気付き始めている。ナターシャの弟ミーシャは黒海艦隊のエリート海軍軍人である。彼自身も奥さんもロシア人で、2人の子供がいる。ミーシャー家にも解体による波が押寄せている。周知の通り黒海艦隊を巡っては、ロシアとウクライナの確執が続いている。
ロシア人であるミーシヤもウクライナ軍へ忠誠を誓いなおすことを余儀なくされている。ミーシヤはロシアに戻りたいと思っている。この先国境が閉められる可能性も否定できないからである。その上年老いた母もペテルブルグに住んでいる。ナターシャの話では、ミーシャはいつ解雇されるか分からない状態にあり、もし解雇されてロシアに戻ってきても住む場所も仕事もない。とくに軍人は再就職しにくいらしい。今までは夏の休暇になるとミーシャー家はペテルブルグの母とナターシャのところに遊びにきていたが、今年の夏は娘のレーナー人が来ただけであった。ウクライナでは現在クーポンで給料をもらっているのである。これが通貨の代りを果たしている。しかし、奇妙なことにロシアまでの航空券はルーブルでしか買えない。一人1000ルーブルしかクーポンをルーブルに交換してもらえない。それも多くの書類、証明書、長い行列の後っと交換してもらえるのである。結局ミーシャー家では娘のレーナ1人分しか交換できなかった。
最近になって身内にも及ぶ解体の後遺症をナターシャもひしひしと感じている。「これじゃミーシャたちにも来年は会えないかもしれないわ。どうなっていくのかしら。あの子達の家捜しをしないとダメだわ」と不安そうな口調である。
ナターシャ以外にも親子、兄弟で違う旧共和国に住んでいて、簡単に会えなくなってしまったという話は日常茶飯事である。
70年の間に民族も国家もゆがめられてきたのは事実であるが、現在も旧共和国では様々な民族が共同生活をしていることは現実である。一度解体してしまったものはもうもとには戻らない。反対に旧共和国は独自の利益のみを追求することに専念している。そのことがいかに一般市民の生活に影を落としているかは考慮されずロシアでもウクライナでも権力闘争ばかりが先行している。この先CISがどのようになっていくのか予見することは難しいが、ナターシャ達の幸せを祈らずにはいられない。
9月25日からキルギス共和国の首都ビシュケクでCIS首脳会議が予定されているが、求心力のバネが少しでも回復することが切実に求められている。

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: ソ連崩壊 | 【ロシアレポート・PART4】ソ連邦解体による負の通産 はコメントを受け付けていません

【メディア寸評】映画「紅の豚」を256倍楽しむ方法

【メディア寸評】映画「紅の豚」を256倍楽しむ方法

この映画はどんな人にも、それこそ「疲れた頭をカラッポにして」、老若男女を問わずなんの気合いもなく、素直に笑えて楽しませてくれるだろう。この夏、私(35歳になる)と私の長女(もう5歳になった)は、少ない夏休みの夕暮れを映画「紅の豚」で楽しんだ。ちなみに、映画を見るときに小学生未満は「無料なので、お勧めする。これで2倍は楽しめよう。
はっきりいって、宮崎駿の一連の作品「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」などで見終わったあとの感動を、この映画に期待しては裏切られてしまうだろう。ただし、これを補うに十分な「手」は宮崎監督が用意してくれている。
この映画は当初「日本航空」の機内上映用の短い(30分程度の)作品として企画されていった。宮崎映画に一貫して登場する「飛行」(とぶこと)は、この作品では特に中心におかれている。主人公の「紅の豚」ことポルコはなうての飛行機乗りで、それこそ空のつわもの仲間たちと自由自在に滑空して見せてくれる。わたしのようにメカ好きのものは、これだけで「ウォー」と声を上げたくなりそうである。アニメならではの「動き」の楽しさをみせてくれるし、まあ登場人物や物の「動き」や「音」などは映画館で見るだけのことはあろう。90分退屈せずに見せてくれる。
だが、やはりわたしの頭は「カラッポ」ではない・‥と映画のあとでいいたくなるのである。こういう人のために、本紙の読者はほとんどがそうなるであろうが、必ずパンフレットを購入することをお勧めする。そこには、この映画を何倍にも楽しませてくれる「言葉」が数多く、出演者や製作者、評論者などから寄せられている。ここで、まだ見ていない人には気の毒であるが、キーワードをほんの少しだけかいつまんでみることをお許し願いたい。

★舞台となったアドリア海とユーゴスラビア紛争
★第1次世界大戦後
★ポルコ・ロツソ(赤い<共産主義>豚野郎)と ファシスト
★豚というキャラクターとアニメ映画
★挿入歌「さくらんほの実る頃」はパリコンミユーンで流行った歌
★「紅」と社会主義・・・「俺は一匹だけでもいいから飛んでるぜ」
★「飛ばねえ豚は ただのブタだ」
★「カツコイイとは、こういうことさ」
★「おめえはイイ子だ。みてるとな人間もすてたもんじゃねえって
そう思えてくるぜ」
等々。これはパンフレットからそのまま抜出した言葉である。
もちろん映画としての、飛行機としての、製作サイドとしての「コトバ」も数多くあり、それこそパンフレットをよむことで無限の楽しみが湧き出てくるようだ。
最後にこの映画・パンフレットでも宮崎監督は出演・スタッフの一覧を長々と掲載している。映画は監督だけがすばらしいのではなく、それにたずさわった全ての人が素晴らしいのだと主張しているようだ。
私たちもそうありたい。
追伸 映画が終わって、5歳の娘は「どうして豚になっちゃったの?」とききました。たしかに大事なテーマであるこの間は、5歳の子供には難しすぎるかも知れません。
パンフレットを読んだ私には、すこ-しわかった様な気がします。

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: 芸術・文学・映画 | 【メディア寸評】映画「紅の豚」を256倍楽しむ方法 はコメントを受け付けていません

【投稿】公務員採用国籍条項 大阪市など部分撤廃

【投稿】公務員採用国籍条項 大阪市など部分撤廃

1、風穴はあいたが
今年4月、大阪市が今年度の大学卒採用試験の事務職に「経営情報」と「国際」の2職を新設し、この2職種のみ国籍条項を撤廃して外国籍の者も受験できることとなった。相次いで、神戸市、川崎市、横浜市も国籍要件を付さないほぼ同様の職種を新設した。都道府県、政令指定都市においては一般事務職、技術職、福祉職、消防職などに外国人は採用しないとする「公務月採用の国籍条項」が設けられており、事務職で国簿条項が部分的ながら撤廃されることははじめてのことである。
大阪市では在日韓国人3世の学生が2年続けて受験を拒否されており、3年目にしてようやく受験できるに至り、今後の国簿条項全廃への足掛かりになったとも言われるが、問題点も少なくない。
①まず、新設された「経営情報」と「国際」はいわゆる一般事務職(行政職)とは別の専門職であり、 昇進も課長級止まり(神戸市は局長級まで可能)であること。
②従来から国籍条項の設けられた「一般事務」「技術」「福祉」などは依然として国藷条項が残され、その結果、採用人数で見た場合、国籍条項の撤廃された「経営」や「国際」は若干名の採用であり、多人数を採用する一般事務職への門戸は閉ざされたままであること。実際、「国際」には日本人の受験者も殺到し、ここしか受験できない在日韓国・朝鮮人にとっては極めて狭き門となっている。
(特に横浜市などは「国際職」に英検準1級以上、TOEFL550点以上、「経営職」に簿記検定2級以上などの資格が必要であり、より狭き門となっている。)
③「外国人はこの職種しかだめ」ということを明確にしたため、人事管理面での区別(差別)が残されていく。
④上記4市以外の政令市並びに全ての都道府県においては何の措置も取られていない。
⑤高枚卒業生には全く門戸が閉ざされたままである。

2、国籍条頂を巡る経緯
1970年代に入り、かつて日本の植民地支配により日本に移り住むことを余儀なくされた韓国・朝鮮人ら在日外国人の2世、3世が中心となって国籍による就職差別の撤廃を求めてきた。
その結果、1970年代後半より阪神間の自治体を中心に国籍条項の撤廃が進み、大阪、兵庫などでは既に府県と政令市を除いて、東京でも都と23区を除いて一般事務職などの職種は全ての市町村が撤廃するに至っている。
しかし、全ての都道府県と政令市では一般事務職、技術職などに国簿条項を残していた。
こうしたもと、1985年には神戸市を相手どり違憲訴訟が起こされ、1990年には大阪の大学生が大阪市の採用試験を受験しようとしたのである。
これらにはマスコミなどもこれまでになく注目した。
これは、外国人労働者の増加など日本社会の急速な国際化の進展の中で、在日外国人に対する日本の人権保障のありかたが問われてきていたこと、さらには、韓国大統領来日などにより日韓の間における在日韓国人の在留、人権問題などが焦点となっていたからである。この時は政府も一時地方自治体の門戸解放の気運があるとも伝えられ、大阪市などは「国籍条項全廃」とスクープされたほどである。
しかし、1991年1月に交わされた日韓外相による「覚書き」が交わされた直後より事態は急変した。
「覚書き」では在日韓国人の在留権の確立や指紋押捺の撤廃などが確認されたが、その中で公務員採用については「国籍による合理的な差異をふまえた日本国政府の法的見解を前提としつつ、採用機会の拡大を図る」とされている。自治省はこれについてト般事務職など公権カに携わる職種への採用は認められず、それ以外の職種(医療職など)への門戸解放を進める」との指導をし、撤廃を検討していた大阪市、神戸市、川崎市などは自治省による強力な「指導」を受けることになる。

3、「当然の法理」の欺瞞性
自治省による強力な指導の中身は「当然の法理」である。1973年、大阪府からの照会に対する自治省の回答がその代表とされ、それは「公務員の当然の法理に照らして地方公務員の職のうち公権力行使または地方公共団体の意思の形成への参画に携わるものについては、日本の国籍を有しないものを任用することはできないものと解する」というものである。
「当然」というにはこれほど粗雑な論理もない。基本的人権をやむなく制約する場合は、その根拠と範囲が厳常に明確化・必要最少限のものとされねばならない。しかし、生活の基本である職業選択の自由(基本的人権)を制約しながら、制約する根拠が「当然」としか説明されず、しかも制約する範囲が「公権力行使」という一般的な概念であり、実際この文言により、一般事務職全般の職に就くことができないのである。そして法律には何の規定もなく、一方的な行政の判断によって、門戸を閉ざされているのである。
そもそも地方自治の本旨からして、地方行政の運営は当該地方行政の独自性によって運営されるものであり、その地方に住む在日外国人は住民であり、地方自治に参画し、「公権力」を行使しても何ら支障があるものではない。
また、在日外国人の多くは日本の植民地政策により日本に住まざるを得なくなった在日韓国・朝鮮人とその子孫であり、彼らに対して国籍の違いを「当然の法理」などとして排除するのは全く理不尽な論理であり、実際、民間の就職差別をも温存する結果となっている。

4、厚かった自治省の壁
1991年1月の「日韓覚書き」以後、自治省の壁は厚かった。都道府県、政令市の完全撤廃がなされた場合、次は国家公務員や参政権の問題にも及ぶと考えたのか、韓国との交渉でも自治省が猛烈に粘り、その結果、文言の曖昧な「覚書き」が交わされた。さらに自治省はこの「覚書き」を自らの都合のいいように解釈し、自治体を指導したのである。事実、自治省の「覚書き」に対する見解が政令市等の門戸開放を拒否する内容であることが伝えられるや、韓国側からは遺憾の意が表されている。しかし、自治省は日参する自治体を相手にしなかった。一般市町村は国籍条項を撤廃しながらも、政令市が自治省を無視して撤廃できなかったのは日頃から自治省と直接窓口があるため、地方債の制限をちらつかされたとも伝えられているが、中央と地方の決定的な力関係をあらわしていることは確かであろう。
そこで、在日韓国人の受験者の存在など具体的な撤廃の要求を受けている大阪市、神戸市、川崎市などでは自治省の見解の範囲を守りながら、門戸を開放する道を採るしかなくなった。その結果出されたのが今回の部分撤廃である。

5、場あたり 玉虫色の撤廃内容
今回の部分撤廃の措置が極めて部分的であり、実質的な門戸の開放になっていないことは冒頭に述べたが、それにとどまらず、非常に場あたり的・玉虫色のものとなっている。
大阪市などで新設されたのが「経営情報」「国際」職であるが、これはいったい、「一般事務職ではなく全く別の専門職」であるのか、それとも「一般事務職の中の専門職」なのかはっきりしないのである。これは、大阪市などが自治省に対しては「事務職ではなく専門職」と説明し、一方、市民向けには「あくまで事務職の中の専門職」という使い分けをしているのである。なぜなら自治省は「公権力を行使しない専門職は門戸を広げてもよいが事務職はだめ」とし、市民などから撤廃を要求されていたのは、事務職であったからである。
大阪市などは「経営情報」「国際」の職について、「公権力の行使に触れないギリギリの最大限の範囲」などとしているが、大きな自治体の数多くの職種の中でこの2職種だけが公権力に触れないとは到底理解しがたい。2職種を撤廃した論理からしても福祉関係はもちろん、一般技術職もほとんどが撤廃の対象となり得るのではないか。部分撤廃を足掛かりに全面撤廃という指向よりはむしろ、とりあえず自治省と撤廃を求める在日外国人らの両方の顔を立てた場あたり的なものとなっている。「経営情報」などは大阪市の受験を求めていた在日韓国人が商学部出身だったから設けられたにすぎないとも言われているくらいである。
この部分撤廃は自治省も容認している。「当然の法理」を盾に「公権カの行使に携わる職はだめ」と指導しながら、今回の措置については「専門職だからよい」としているのである。自治省としては国籍条項撤廃運動の収拾をはかろうとする大阪市などを配慮し、部分撤廃を黙認したのである。しかし明らかに従来よりも姿勢を後退せざるを得なくなり、「当然の法理」も綻んできている

6、部分撤廃から全面撤廃へ
かくして、一部政令市の国籍条項の部分撤廃が実施されたものの、依然として大部分の職種は残されたままである。今後は、①「部分撤廃」を2職種にとどめず、部分撤廃の拡大 等も含め、全面撤廃へ向かわせていくこと。
②部分撤廃でさえ未実施の残りの政令市・東京都区部 及び全ての都道府県に対して門 戸の開放を求めていくこと。
③住民である在日外国人の採用は自治省の指示に単純に従う問題ではなく、地方自ら の問題とし、内からの国際化を実現していく地方自治を確立すること。
など、事態の収拾をはからせない取り組みが必要である。 (大阪 A)

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: 人権, 分権 | 【投稿】公務員採用国籍条項 大阪市など部分撤廃 はコメントを受け付けていません

【投稿】沖縄で、オキナワを考える

【投稿】沖縄で、オキナワを考える
                                                            –その1 沖縄の米軍基地—

「恋をしたら、オキナワへ行きましょう。」と今年もANAがキャンペーンをやっていた沖縄。今年は本土復帰20周年ということで(?)沖縄に行ってきました。実際沖縄の海はきれいである。伊豆と比べても(西伊豆の穴場と比べても)、かなりの違いがある。
房総、湘南であろう(私はどちらもいったことがないので分からない)。海を求めて集まってくる人々が多いことも納得できる。にも関わらず海には伊江島で30分位浸かっただけであった‥・‥。
私は、これまで沖縄に触れる機会がなく、出発に先立ち改めて勉強をしてみると知らないことだらけであった。実際に行ってみると、自分の無知もあり、カルチャーショック的感動が多かった。
このカルチャーショックを、何回かに分けて報告したい。今回は、沖縄の米軍基地に焦点を当てて考えてみた。

(1)本土から空路沖縄に向かい、沖縄本島に近付く
と、那覇空港に着陸するまでの4~5分間高度300メートルの低空飛行を強いられる。離陸時もまず300mまで上がり、そこから水平飛行に移り、嘉手納基地を過ぎてから再度上昇する。通常、旅客機は一気に巡行高度(1000m以上)まで上昇することが安全運行状必要だといわれている。
この不快な低空飛行は、危険でありかつ燃料を余分に消費する(従って、沖縄までの航空料金は距離当たりでは割高になるそうである)。嘉手納基地と普天間基地の米軍機の出発・進入コースを妨げないように、米軍から「民間機は1000f(300m)以下で飛行するように」と規制されているからである。これは「嘉手納ラプコン」と呼ばれるレーダー・アプローチ・コントロールの権限を米軍が持っており、米軍機を優先(高度450m~600m)し、次に自衛隊機(高度300m~450m)であり、最後に民間機の航行区域が決められている。また、嘉手納と普天間の滑走路は平行になっているが、那覇空港の滑走路はこれらと交差して平行になっていないことが更に拍車をかけている。
我々の到着した日(7月30日夜)の夕方まで恒例の米空軍と航空自衛隊の共同訓練が行われ、とりわけ着陸するまでの待ち時間が多かった様である。那覇空港の管制官の8割がニアミスの危険を感じると言い、実際3割がニアミス経験者あるそうである。本土ではニアミスがあっただけでニュースになるが、沖縄では日常茶飯事の様である。
現在沖縄には、日本の米軍基地(専用施設)の75%が集中している。沖縄県全体の11%、沖縄島の20%は米軍基地によって占められている。しかし、地上以外の空域や海域も併せて米軍に握られているのでる。
(2)周囲17.4km、甲子園球場が800個、羽田空港が6個人る広さの嘉手納基地。将校住宅、学校(大学まで)、教会、劇場、銀行、診療所、ゴルフ場もあり、約2万人の米軍人、軍属とその家族が住む。嘉手納基地を定点観測しているグループの人から嘉手納基地の縁に沿った位置にある丘(通称「安保の見える丘」)から説明を受けた。居るは居るわ、F15イーグル、F16、ハリアー、FA18ホーネット、C130オライオン、C5Aギャラクシー、KC135、E3B、P3C・・・・・・、航空機ファンには応えられない光景である。丘からは、思い入れ予算で作った航空機(F15)用の蒲鉾型格納庫(シェルター)1ケ4億円也も見えたが、全部で15戸建設予定だという。思い入れ予算は米軍入用の住宅ばかりではない。でも、こんな物を日本の国家予算で出費していいのだろうか?!
夜は「3時間英会話教室(?)」に参加して、この安保の丘を嘉手納基地の内部から眺めた。この企画は、米軍関係者と基地内をドライブし、基地内のレストランで食事をし、基地内のパブで酒を飲み、基地内のディスコで遊びながら“英会話を勉強しよう”という企画である。「英会話の勉強」という理由であれば、紹介してくれる基地関係者とコンタクトさえ取れば、割りと自由に基地内に入れるようである。基地内で実際に英会話の勉強をしている琉球大学の学生は結構多いそうである。昼間の“英会話”コースでは嘉手納基地内から小型機(もちろん米軍機)で飛び立ち沖縄上空を遊覧飛行しながら“英会話を勉強する”という、とんでもないオプションもある。そんな企画を立て、米軍関係者との仲介を商売としている人が居るのである。なんとも沖縄の人は逞しい。

(3)この嘉手納基地の前身は、旧日本軍の中(なか)飛行場であった。旧日本軍は沖縄を本土防衛の防波堤とすべく、沖縄島、伊江島等に幾つかの飛行場を建設した(これらがほとんど使用される前に米軍の手に落ちた)、その最大なものが中飛行場で、米軍が40倍に拡張し、15の部落を飲み込んだ嘉手納基地となった。いくら占領下とはいえ合法的にそんなに自由にできるはずはない。
若干歴史を見てみると、沖縄戦の終了と同時に、戦場で捕虜にした住民を収容所にいれ、その間に米軍は白地図に線を引くように軍用地を確保した。その後、軍事的に必要でない地域の住民から順に帰還を認めた。当初米軍は地主に一銭の使用料も支払っていなかった。アメリカは、1950年代、半永久的支配を前提にした巨大基地建設の開始(54年の一般教書)し、一方、私有財産を尊重する立場から使用料を支払う方針を出した。しかし、その額は1円8銭/坪/年程度であった(CoKe1本10円の時代にである)。当然、地主は拒否して、新たな土地の提供に応じない。米軍は銃剣とブルトーザーとによって必要な土地を強奪したのである。
この強奪に対する闘争は、いわゆる「島ぐるみ闘争」へと発展し、軍用地使用料大幅引上げ等によって一応終止符を打ち、軍用地主の大多数は賃貸契約に応じる。しかし、具志、伊江島の農民は依然契約を拒否していた。
その後、沖縄の日本復帰によって、今度は日本政府が軍用地を米軍に提供する義務を負ったのである。つまり、政府は2万数千人の軍用地主と土地の賃貸借契約を結ばなければならなかった。この時、約3000人の地主が契約拒否し、「権利と財産を守る会」(通称、反戦地主会)を結成した。復帰後の10数年は防衛施設局と反戦地主の闘いが続き、政府は、
①復帰前から軍用地は地主の同意がなくとも軍用地  として使用可能とする法律を制定する。
②使用料を一挙に平均6倍にupし、契約に応じた地主に協力謝礼金を払う。
③契約に応じない地主の土地が基地の周辺部にある場合には基地のフェンスを内側にずらして土地を返還し、同時に隣接する契約地主の土地も株がせ的に返還するなど契約地主と契約拒否地主の反目対立化させた。などの対応をし、地主の  切り崩しをはかってきた。現在、反戦地主は数十人に減少しているが、嘉手納基地に末契約軍用地を共有する一坪反戦地主は全国に2000余人を数えている。政府は、反戦地主の土地を20年間強制使用するべく沖縄県収用委員会の裁決を求め、公開審理等で激しい攻防を繰り広げ、委員会は1987年5月以降10年間の強制使用を認めた。
その後、契約地主からも契約拒否を宣言する地主も登場し始めているそうである。

(4)車で走っていると、突然道路の真ん中に突然3m位のコンクリートの箱が出現する。ななんだこれは!?-一道路の下にはパイプラインが埋設してあり、そのバルブが地上に出ているのだそうである。
(5)普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校を見せてもらった。都会の学校のように狭い校庭で、校庭のフェンスの先は当然米軍基地になっている。更に全校生徒が集まる運動会など使用するグランドは、フェンス沿いに2~3分歩いた基地の中にある。運動会の時には仮設トイレを用意して対応するのだそうである。

(6)先の湾岸戦争では、イラク軍撤退期限の1月15日に向けて手に汗握る和平交渉が展開されていると思っていたが、何のことはない。既に夏前に嘉手納では演習が始まり、突然8000人が居なくなったという。
いつもに賑やうコザの米軍相手の店は閑古鳥が鳴いていたそうである。湾岸に部隊を整える期間に半年間必要としていただけなのである。撤退期限までに揃えた軍隊を再び帰す訳はなかったのではないだろうか。

(7)沖縄–基地の町、という泥臭いイメージは少なくなっている(見えにくくなっている)。基地の周りは夾竹桃の真っ赤な花で仕切られているところもあり、そこでは基地内はもとより、フェンスすら見えない。夾竹桃といえば「夏に咲く花、爽竹桃・・・・・・」と歌った夾竹桃である。海洋博を前後して政府が成長の早い夾竹桃を植えたそうである。(参考資料『観光コースでない沖縄』高文研発行、他)次回は、沖縄戦について考えてみたい。(東京Y)

【出典】 青年の旗 No.179 1992年9月15日

カテゴリー: 平和, 沖縄 | 【投稿】沖縄で、オキナワを考える はコメントを受け付けていません

【コラム】ひとりごと –自民党圧勝の参議院選挙に思う–

【コラム】ひとりごと –自民党圧勝の参議院選挙に思う–

▲「PKO法案反対」で揺れ動いた国会の後の参議院選挙だったが、その結果は、自民党の圧勝・野党側の敗北だった。細かい選挙分析結果は、ともかくとしてPKOが選挙の争点にならなかったのは、事実。▲その理由は、自民党側の、景気対策を前に出してくるなと、争点ぼかしもあったが、なんとなく日本人の熱しやすく、さめやすい体質もあるように思う。▲それにしても連合の敗北は、深刻だ。連合は「自民党に代る政治勢力の結集」を唱えているが、選挙結果は、むしろ悪い政界再編をもたらしそうだ。それは自公民路線の足がかり。▲我が組織は「反独占・反自民の戦線統一」をかかげているが、その意味では連合のスローガンは賛成。しかしその現実には単純に枠組みだけの論議では済まされない深い問題があるように思う。。▲ただ言えることは、統一戦線は継続した忍耐と努力。この選挙結果だけで一喜一憂するのは軽はずみというもの。▲いずれにしても、これからの社会変化は、益々、不透明。自民党・財界は何を考えているのか、民主勢力は、どこを主体に何を目指すべきなのか、国民は、実際のところ、何を求めているのか、冷静沈着に分析してみる必要があると思う。(U)

【出典】 青年の旗 No.178 1992年8月15日

カテゴリー: 政治, 雑感 | 【コラム】ひとりごと –自民党圧勝の参議院選挙に思う– はコメントを受け付けていません

【投稿】「日本環境会議四日市」 現地報告1

【投稿】「日本環境会議四日市」 現地報告1

わが国の公害裁判史上画期的な判決とされる四日市公害判決から2周年を迎えた7月24日から2日間、三重県四日市で、環境問題専門研究者ら約500人で組織する日本環境会議(JEC)がシンポジウム「第12回日本環境会議四日市」を開催した。シンポジウムは、非政府組織(NGO)の立場から、日本の環境破壊の原点・四日市の経験を再認識するとともに、日本とアジアを結ぶ課題、6月にブラジル・リオデジャネイロで開かれた国連環境開発会議(地球サミット)の成果、課題を生かす道を模索していくことを主題にして、約500人の参加で熱心に論議された。
そして、環境保全を国家の最優先政策として、公正で客観的な環境アセスメント制度を立法化するなどを骨子とした「四日市宣言」を採択した。又、宣言とは別に、「長良川河口ぜきの公正で客観的なアセスメントの実施と事業の総合的、抜本的な見直しを要求する特別決議」も採択した。しかし、この秋にも政府が準備している環境基本法」への取り組みが、準備不足もあって十分討議できず、今後、早急に政策を提案し、論議していくことにした。
会議の性格・内容は当日採択された「四日市宣言」によく表れているため原文をそのまま掲載して報告としたい。(詳細報告は次号)(名古屋Y)

■  日本環境会議四日市宣言
国連・環境と開発に関するリオ会議から1か月余り、四日市判決から20年を経た今日、NGOの立場から環境政策の提言をめざすわれわれ研究者、弁護士、市民は、戦後日本の開発のあり方を鋭く批判した四日市判決からの20年を検証し、リオ会議では十分に成功しなかった環境と開発との関係にかかわる基本政策を日本とアジアを結ぶ視点から検討するため、ここ四日市に参集し、1992年7月24日及び25日の2日間にわたって、議論を重ねた結果、次のような認識を共有した。
1・国連・リオ会議は、現在及び将来世代の権利と福祉のために環境保全の枠内での地域の発展を可能とする国際的及び国内的社会システムづくりの合意に達しなかっただけでなく、そのモデルを示せなかったと言う意味で、成功しなかった。経済優先の国内政策を 環境保全型に転換できなかった先進諸国のリーダーシップの不足及び先進国と途上国との対立が解けな かったことが、その主要な原因と考えられる。しかし、現在の世代のみならず、将来世代の権利と福祉の追求が人類共通の課題である以上、われわれは、環境保全の枠内での地域の発展をめざす社会システムづくりに全力を傾ける責任がある。
2・環境保全の枠内の地域の発展をめざす新たな社会システムづくりのためには、開発は環境と鋭く対立した過去の事例をどう克服したかの反省が重要である。四日市判決からの20年の検証はこの意味で極めて意義深いものと考えられる。それは–四日市開発の検証にとどまるだけでなく、環境と開発にかかわる日本社会のあり方の検証ともなるからである。検証の結果、四日市コンビナートが公害対策を通して一定の転換をとげたことが明らかとなった。また、四日市が公害防止技術の移転という形でアジアと結ぶ志向を持っていることも明かとなった。しかしなお、被害者の全面救済や都市構造上の歪みを是正し、住民参加のもとに豊かな住みよい都市環境の再生をすすめるべき課題を残している。しかも、いま新たに内陸部で再び「外来型開発」を推進しようとしていることも明かとなった。四日市開発の検証はまた、アジアへの展開をめざした日本経済の一つの問題性をも明らかにした。四日市および日本経済のアジアへの展開は、アジア現地において新たな環境問題を引き起こしつつあるからである。先頃、マレーシアのイポー高等裁判所から差し止めの判決が言い渡されたARE事件は、四日市判決によって立地上・操業上の過失を厳しく問われた日本企業が多国籍企業化し、アジアの地域で再度環境問題を引き起こしたと言う意味で、われわれに大きな衝撃を与えた。しかし、それが国際化した日本経済のあり方に対する厳しい批判でもある以上、われわれは、日本とアジアを結ぶ視点から環境と開発のあり方を再度問い直す必要がある。

3.環境保全の枠内での地域の発展をめざす新たな社会システムづくりのためには、また、足元の環境問題を検証し、新たな地域づくりを考える必要がある。中部地域で開かれた今回の環境会議を機会に、われわれは、中部地域で展開されているいくつかの地域づくりの例を議論し、ともに考えることによって、地域からの内発的発展をめざすことが環境と開発との関係を解く一つの重要な鍵であることを確認し、そのためにも地域住民主体の行動性の重要性を再確認した。われわれは、また、中部地域で行われた今回の環境会議を機会に、長良川河口ぜき建設問題を取り上げ、いったん決定された公共事業がいかにして転換され得るかの道を探ったが、その結果、住民参加を前提とした社会的、経済的評価を含む公正で客観的な環境アセスメント制度の必要性と、いったん決定された公共事業を見直し、必要な場合にはそれを修正し、撤回する行政手続きの明確化が不可欠との認識に到達した。
以上の認識に基づいて、日本環境会議四日市シンポジウムに参加したわれわれは次のような環境と開発にかかわる政策を提言する。
1.環境の保全を国家の最優先的の政策として宣言すること。今後制定される可能性のある「環境基本法」には、このような宣言が含まれるものであること。
2.国家および公共団体の環境保全の責任を宣言するとともに、現在および将来世代の権利を代表するものとしての国民ないし市民の環境権を宣言すること。
「環境基本法」はこのような宣言をも含むものであること。
3.環境保全の枠内での地域も発展を可能とする行政手続きとして、社会・経済的評価を含む公正で客観的な環境アセスメント制度を立法化すること。同制度を立法化するにあたっては、住民の参加の権利と情報を受ける権利とを十分に保証すること。
4.環境アセスメントは、国内の開発行為に通用されるのみならず、日本企業ないし日系資本の海外進出やODAに対しても通用できるよう制度的に考案されるべきこと。また、既に海外に進出している企業は、進出先地域の住民の生命・健康と人権を尊重するよう自ら措置すること。
5.環境と開発にかかわる国内の環境問題を見直し、公共事業については、必要な場合には計画の修正と撤回ができるような行政手続きを明確にすること。長良川河口ぜき建設問題はこのような制度がつくられ、公正で客観的なアセスメントを踏まえて見直されるまで工事を中止すること。
われわれは、今後とも、アジアへの視点をもちつつ、国内環境政策の前進と国内外における環境問題の解決に向けて一層の努力を傾ける覚悟である。
1992年7月25日                         日本環境会議四日市

【出典】 青年の旗 No.178 1992年8月15日

カテゴリー: 環境 | 【投稿】「日本環境会議四日市」 現地報告1 はコメントを受け付けていません

【集会報告】PKO法は成立したけれど……、

【集会報告】PKO法は成立したけれど……、 派兵阻止の行動はこれからだ。

 7月17日、東京・総評会館で「海外派兵を止める市民のつどい」が行われた。これは、広瀬隆氏、色川大吉氏などが中心となって(日市連も絡んでいるよう)、アジアに視点を置き、PKO法案通過後の自衛体の派兵をやめさせようとする会の発足に向けた集会だった。
 当日は、色川氏の報告(①「軍隊の歴史・現実・未来とPKO」)の他ダグラス・ラミス氏(津田塾大学教員)の②「国連との交渉~自衛隊派兵は国際法違反」、中村欣資氏(TBSラジオニュースデスク)の③「カンボジア現地報告」、姜尚中氏(国際キリスト教大学教員)の④「日本の新たな動向と朝鮮半島」、広瀬隆氏⑤「国連・死の商人」などの報告があった。次の日は代々木オリンピックセンターで1日討論会が開かれた。

色川大吉氏の問題提起の要旨

 PKO法案通過後の世論調査では「法案成立をよかった」とする人のなかで半数以上が「憲法上問題あり」とする意見である。要するに「憲法違反だけど、とりあえずよかった」と言うとんでもない声である。自衛隊の志願者は減少しており、来年は半減するといわれている。このなかで、限定徴兵制度(年齢限定、体力限定)の検討もされている。ある大学で、PKO法通過後に同様のアンケートをとったら同じような結果であり、併せて限定徴兵の賛否を問うたら、認める3%、認めない90%だった。
 かつて、満州事変のころには「日本の生命線一満州防衛」というスローガンであり、誰も戦争だと思っていなかった。次第に中国大陸に入り、「アジアに新しい秩序を作る」「野蛮なシナの支配から国民を助ける」と叫ばれ、10年たっても終わらない。更に「大東亜共栄」「欧米の支配からアジアを解放する」になり、タイービルマーインドまで侵攻していった。この出発点ば”国際貢献””国際協力”と同じような響きがある。
 核時代の”自衛”は核兵器を持たなければ成り立たない。”自衛”とは崇高なイメージがあるが戦争を伴うものであり、フランス革命のころからの国民国家の崇高な権利であった。以来、200年続き、民族・人種を一つの国として中央集権的支配を掛けてきた。しかし、欧州では、資本主義の危機を感じ、国家の統合が進み、”自衛”は過去の遺物となりつつある。
 日本国憲法は、5000万人の死者の願として、自衛権としての戦争も放乗した。ところが米ソ冷戦のなかで自衛隊を持たせてしまった。従って、米ソ冷戦が終了した現在「自衛隊は解体してなくなる」はずである。しかし、湾岸戦争・PKO問題で、専守防衛から国際貢献に新しい任務を得て存続している。
 我々の国際貢献は、実際アジアの民衆が何を求めていのかから出発して、彼らの要求をフイードバックできるネットワークを作る必要がある。彼らの声は知らされていないし、PKO調査団が政府や軍隊を見てもけっしてわからない。
 過去の侵略を繰り返すようなバカなことはありえないと
 の、意見もあるが自衛隊は十分な能力と技術がある。従っ て、25万自衛隊は半分は民間に、残りの半分は災害・国際救助を任務とする組織に改編すべきである。自衛隊の蓄積した能力は十分利用し、予算の4兆円は減らし、ボランティアで バックアップする機関にすべきである。
 では自衛はどうするのか。武器は一切禁止。民族紛争に外国の軍隊を入れても解決はできない。割って入って説得しかない。 PKO参加が100カ国になっても参加しない。平和憲法下の国際貢献を実験しよう。

 ダグラス・ラミス氏の問題提起の要旨
 これまで日本の平和運動は憲法9条1項の「戦争放棄」のみに集中していた。政府の軍拡と戦う上で、これは当然のことである。海外派兵が問題となっている現在、9条2項の「交戦権はこれを放棄する」に注目しなければならず、政府も過去「放棄をやめた」との見解を発表していないので、放棄されたままである。
 日本政府は過去、憲法国際法を無視してきた。先の色川氏の報告のように「法案通って良かったが、憲法上問題がある」意見など、自衛隊を作ったことで、国民の中にも憲法を無視して良いという感覚になれてしまっている。
 自衛隊を海外に送った場合、国際法が関係する。武器を持ったものを海外に出して国際法を無視するのはとんでもないことである。
 「交戦権」とは国際法上「侵略する権利」ではなく、侵略する権利」はどの国も持っていない。国家(派遣された軍人)は人を殺しても逮捕されない。正当防衛か否か裁判で決まる。兵隊は国家の交戦権に基づいて行動する。派遣先で捕まったら捕虜になる権利がある(告訴されるのではなく)。
従って戦争が終わったら帰国できる。交戦権は侵略された際に、自衛の時だけにある。自衛権は交戦権と同じような意味。
 「交戦権を復活させた」との政府の声明はこれまでないので、「PKO法が成立した」ことによっても、自衛隊を海外派兵できる根拠とはならない。
 「交戦権がない者(自衛隊)が武器を持って外国に行く」という事例は過去に存在しない。PKFは国家交戦権を持つ軍隊である。おそらく、国連では日本以外の人は「日本国憲法」について無知であり、「日本は正規な兵力を持っていない」とは思っていない。事務総長もおそらく知らないのでは?だから知らせましょうと公開質問状を出そうと思っている(翌日出した)。
 派兵する可能性として以下の3点が考えられる。①非合法に出す‥‥ヤクザと同じである。②警察権はあるので、これに基づいて出す‥‥普察権の拡大解釈であり、普察権は国境で終わる0従って海外派兵できない。③交戦権とは別に「自衛権」がある・…国際法上は存在しない。仮に存在したとしても海外で使えるはずがない。
 国際法違反の武力行使は大変なことになる。人を撃った自衛隊貞は一般犯罪人として逮捕され、一人一人裁判になり、正当防衛か否か判断される0アジアでは日本国憲法の知識はある。自衛隊110番の電話相談で自衛隊員や家族からジュネーブ協定(捕虜に関する)に当てはまるか否かを訪ねる相談が多いそうである。軍人以外が戦場で人を打ったら戦犯であるが、”国連の権威”により「一般犯罪人扱いとなる確率は少ない」かもしれない。しかし法的根拠はない。
結論として、日本国憲法は生きている。従って、自衛隊の参加は「やめてほしい」「やめてもらいたい」のレベルではなく、「やってはいけない」ものである。
公開質問状は翻訳もしてあちこちに配りたい。集会の主旨とは異るかもしれないが、自衛隊を海外に送らないとの視点で同じだと思う。

 また、中村氏はカンボジアの現地報告をスライドを使って報告し、UNTACの問題点として、①費用17億ドル(93年9月15日まで)が必要で日本の分担金は12.45%といっているが具体的な見積を出していない、②本部要点が落とす金でカンボジアのインフレを招いている、などが報告された。
 また、姜尚中氏の報告は、国連には現業的面と政治的面の2面性があり、政治的に利用されている部分がある旨報告された。また、自衛隊の存在が朝鮮の軍隊の縮小や北朝鮮の核(たぶん能力的にあるでし上う)の撤去の支障になり、自衛隊は既に十分に、憲法9粂の「武力による威嚇」にあたっている。日本が朝鮮の南北統一の阻害要因にならないでもらいたい。また、広島に、軍港広島の果たした役割を残したもう一つの記念館を作りたい旨の提案もなされた。
 最後に、広瀬隆氏は、既に集会終了時間を過ぎており時間がなく、詳細は出版された『国連死の商人』(八月書館発行)を読んでもらいたい旨報告された。

 尚、発言の要旨は筆者のメモを元に文章を起こしましたので、「そのようなことを言っていた」程度であり、言い回しや文脈は筆者の判断によるところが多いので、ご了承 ください。  (東京 C)

【資料】 公開質問状

 国連事務総長殿

 去る6月15日、日本の自民党政権は、議会と世論の強い反対と疑問の声にもかかわらず、国連平和雑持活動に関する新法の制定を強行しました。政府はこの法律によって、国連平和維持活動として日本の自衛隊を、武装した形で海外へ派遣することが可能になるとの見解をとっています。しかしながら私たちは、武装した自衛隊の海外派遣は、国内法及び国際法の双方に抵触するものであると確信しています。
 敗戦後、日本国憲法が制定されて以降自民党政権は、交戦権を放棄した第9条を厄介視し、あらゆる手段を用いて日本の再軍備を実現しようとしてきました。武装した自衛隊の国連平和維持活動への参加が、日本の再軍備を大きく進める重大な一歩であるということは、多くの日本のアジアの人々の知るところです。私たちは、国連が武装した自衛隊を利用する前に、以下の事について慎重に考慮して下さるよう、強く要請します。

 過去国連が、非軍事要員を武装させ、平和維持活動に参加させた先例はありません。武装した形での参加は、すべてのケースにおいて、国家の軍隊(国家の交戦権のもとに創られている)の成員に限られて来ました。
 ご存知のように日本国憲法は第9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記しており、条項の最後には「国の交戦権は、これを認めない」とあります。この条項は、日本における積極的平和希求の民意を反映し、これまで破棄されたことも、修正されたこともありません。このことは以下の疑問につながります。
 すなわち、国内法および国際法において、日本の自衛隊が有する資格は何なのか?自衛隊は、武装した形で国連平和維持活動に参加する資格を有しているのだろうか?
 理論上、三つの可能性が考えられます。第一に、自衛隊は他国の軍隊と同じ資格を持つ「軍隊」であること。もしそうであれば、自衛隊は憲法違反であることが明かです。実際、相当な割合の日本の法律学者が、自衛隊は非合法の組織であるという見解をとっています。この場合、国連は当然、そのような組織に関与すべきではありません。
 第二の可能性は、自衝隊は、憲法が否定していない、国家警察権の拡大解釈として創られたということ。実際自衛隊は、当初は警察察予備隊として創設され、現在の形にまで拡大されてきました。もちろんこれは、国家警察権の強引な拡大解釈です(潜水艦や戦闘機を持つ警察なんて、一体だれが聞いたことがあるでしょうか?)。より重要なことは、警察権はそもそも国境を越えて行使されることはない、ということです。つまり、自衛隊が国家警察権に基づく物であるとしても、自衛隊には国外で活動する法的鳩拠はないことになります。
 第三の可能性は、自衛隊は交戦権とは別個の「自衛権」に基づいて創られたということ。これは、日本政府の立場です。政府はこれまでに、日本やアジアの人々に対して、日本国の交戦潅が復活したと言ったことはありませんし、自衛隊を「軍隊」と呼んだこともありません。日本政府はあくまで、自衛隊は「自衛権」に基づいて創られた、という見解をとっています。もちろんこの「交戦権ではない自衛権」は、国際法では存在しえない概念です。仮に国連が日本政府の立場を受け入れ、そのような「権利」の存在を認めたとしても、それは国家警察権と同様に、国境の枠内のみしか行使できないことは明かです。
 上記のどの場合も、PKO法のような新しい法律の制定を正当化する逃げ道地ならないことは明かです。問題の核心は、自衛隊の存在自体のあいまいさにあるからです。
 上記の考察はきわめて複雑で重要な法的疑問につながります。「軍隊」とみなされていない自衛隊が海外で武装して活動する場合、ジュネーブ条約(1948年制定)において、その資格は、どのように規定されているか?(多くの日本の自衛隊員はこのことに関して大きな関心を寄せています)もし、自衛隊員が捕虜となった場合、文民としてみなされるのか、軍人としてみなされるのかは、捕らえた側の判断によって左右され得ます。特にアジアでは、日本の自衛隊は違憲であ非合法な組織であると認識されており、武装グループが自衛隊員の法的地位を文民とみなし、武器を使用した彼らを一般犯罪者とりて取り扱うことは充分考えられることです。これがどの程度起こりうるかは別として、問題は、これらの扱いが明確な国際法違反になるかどうか、そうだとしたら法的根拠は何なのか、ということです。
 上記の点からも、自衛隊がいかに解釈されようとも、交戦権の放棄を明示した日本国憲法下では、自衛隊の国外での武器の使用を可能にする法的根拠はないのだということを、ご理解していただけると思います。また、このようなあいまいな性質を持つ部隊を、国連平和維持活動に参加させることにより、活動全体にあいまいな様相をもたらし、日本の隊員のみならず、他国の隊員をも不必要な危険な状況におくことになりねません。
 冷戦の終結とともに、世界中の多くの人々が新しい平和希求の道を模索しはじめている現在、日本の憲法第9条は、これまでになく多大な関心を集めています。
 この日本国憲法は戦争を永久に放棄したという点で、世界的に先例のないものです。日本の自衛隊にかかわる法的問題が特異なのはこのためであり、したがってこれらの諸問題は、先例を参照することにその解決の道を求めることはできません。

 私たちは、以上の問題に関して、国連としての明確な見解を表明してくださるよう、強く要請いたします。

1992年7月
             津田塾大学学生・教員有志 

 【出典】 青年の旗 No.178 1992年8月15日  

カテゴリー: 平和, 政治 | 【集会報告】PKO法は成立したけれど……、 はコメントを受け付けていません

【投稿】PKO法と日本の「国際貢献」

【投稿】PKO法と日本の「国際貢献」

PKO法に対する国民の支持率は50%を超えたといって良いであろう。自公民の議席は改選議席の50%を超えた。
一方でまた、唯一反PKO法を掲げて関った広島栗原君子さん、沖縄鳥袋宗康さんが当選した。社会党候補は、各地で連合との選挙協力の為、鮮明な反PKOの主張で闘えなかった中にあって、被爆地広島と唯一の地上戦の地沖縄の市民の選択は自衛隊海外派兵の本質を見抜いたと言えるだろう。
全国的にPKO法の本質が国民に広く理解されいるとは言えない。公明党が「平和貢献」をスローガンに支持者を組織化し、選挙戦を有利に関った。反戦平和の公明党の支持者は昨年の国連平和協力法案の強行採決に強く反発したが、今回のPKO法の強行採決には理解を示した。なぜであろうか。PKOは戦争のために軍隊を送るのではない、平和のために軍隊を送るのだ、という主張が浸透したからであろう。また、現地を代表するシアヌークSNC議長、フンセン首相、ソン・サンが皆こぞって自衛隊の派遣を希望したことがあげられよう。現地が望んでいるのなら、と肯定派にかわった人も多いはずだ。
PKO法に対する見解を巡る議論がしばしば平行線になってしまうのは、別の問題がごちゃごちゃに議論されているからであろう。
第一に、PKOの活動に対する評価の問題がある。
第二に、PKOとは無関係に存在する日本国憲法の規定の問題がある。平和憲法は他国に例を見ない戦争放棄の親定を持つ。それは国の交戦権の否定と戦力の不保持を唱っている。自民があれまでこだわった自衛隊の部隊としての派遣はその双方に反する。国内的には「国家の自衛権」と解釈して合理化しているが、国際的には通用しないであろう。
第三に、カンボジア情勢の評価の問題がある。 この三つが別にして論議された上で、日本のなすべき選択が検討されなければならないのに、自公民はきわめて情緒的議論に流されているきらいがある。「日本は国際貢献しなくては世界の中で孤立する。社会党、共産党はこれに反対する。」とか、「PKOは戦争に行くんじゃじゃない。平和のためにいくのだ」とか「カンボジアの人々も自衛隊の派遣を望んでいるから」とか。
国際貢献に、社会党共産党は反対しているのではない。賛成している。国際貢献だからと言って、日本の憲法親定をじゅうりんしてよいという話にはならない。津田塾大学のダグラス・ラミス教授は、PKO法に基づいて自衛隊のPKO参加が国際法違反になるのではないかと、国連事務総長宛に公開質問状を出した。ジュネーブ条約は戦争における捕虜の取扱い等について規定しているが、日本からPKOに派遣された自衛官の身分があいまいだと指摘している。もし、自衛官が軍人として取り扱われるなら、明確に日本国憲法日本の憲法に反する事になる。もし、民間人として扱われる事になるなら、民間人に武器をもたせることは犯罪になる。どちらにしても、PKOへの自衛隊の参加は国際法上許される事ではないので、国連事務総長は受け入れるべきではない、というのがその公開質問状の趣旨だ(公開質問状全文参照)。
PKOを平和のための活動、戦わない軍隊として宣伝する向きがある。果してそうであろうか。活動は停戦状態から始まる。停戦は戦崗行為一時停止にすぎない。カンボジアPKOの場合、ポルポトは停戦とその後の選挙までの活動を定めたパリ和平協定に調印したものの、この停戦の取り決めを公然と破っている。停戦状態は既に崩れている。戦闘がカンボジアに未だ続いているのである。ここに自衛隊を送ることは戦争状態の中に軍を送ること以外の何ものをも意味しない。
ただし、通常の戦崗行為と違う点は、自衛隊の参加するPKO部隊の側に戦闘意志がなく、相対するポルポト派にはあるということだけである。決して戦闘行為(防衛という形にしても)が予想されない状態ではない。
カンボジアを代表するSNC議長、プノンペン政権、ソンサン派がなぜ自衛隊の派遣を望んでいるかは、ひとえにポルポト派の軍事的脅威ゆえであろう。あくまでも武装闘争をめざすポルポト派にわかる言葉は「強大な軍」だけであろうと各派は身にしみているのだ。カンボジア当局者にとってはどこの国の軍でもいい。一つでも一つでも多くの国が、一人でも多くの兵員を派遣してくれることを望んでいるのだ。彼らにとっての和平への期待がそこにしかない。彼らにとって日本の平和憲法は視野の外にあるだろう。
カンボジア4派のうち、ポルポト派以外の3派が望んでいるのは、日本の平和的貢献ではなく軍事的貢献である。
日本は国際貢献をしたいと言って、PKOに自衛隊を参加させることで、ジュネーブ協定他の国際法に抵触し、平和的貢献のはずが軍事的貢献をカンボジアで期待され、停戦合意が崩れた下で、自衛官はポルポト派の標的にされかねない。ポルポト派はあくまでも和平のプロセスを妨害し、自派に有利な情勢(現状ではシアヌークの大統領選出はほほ確定的で、ポルポト派が選挙で多数派を占めることはあり得ないだろう)を期待している。そのためには、日本の自衛官を殺傷し、日本がPKOから撤退する情勢を作り出すこともまた、ひとつの選択肢かもしれないからである。
PKO法は成立したが、自衛隊の海外派兵はこれからである。アンゴラの停戦監視団への自衛隊派遣はPKO法通用の第1号である。万が一、カンボジアに自衛隊が派遣できなくなった際の、PKO法下における実施の実績作りであろう。狙いはカンボジアPKOであろう。その規模も500~600人と期待されている(明石国連特別代表)。目標は10月中である、と新聞は伝えている。
決着はまだついていない。未だに国論は二分されたままである。PKO法実施に伴う数々の問題を民衆の間に広げ、自衛隊の派遣をSTOPさせよう。
(8月4日  東京 S)

【出典】 青年の旗 No.178 1992年8月15日

カテゴリー: 平和, 政治 | 【投稿】PKO法と日本の「国際貢献」 はコメントを受け付けていません

【投稿】転換を求める意思表示–参院選の結果が示すもの–

【投稿】転換を求める意思表示–参院選の結果が示すもの–

<<前回より1200万人が棄権>>
今回の参院選の投票率は、50.72%で史上最低を記録した。これは何を意味しているのであろうか。89年の前回参院選65.02%から約15%も低下し、単純に考えても、前回投票した人の内実に約1200万人が棄権しているのである。そして今回社会党は、改選議席と同じ22議席を維持したから善戦と評価しているが、比例区の得票では前回の得票を1200万票近く減らしている。この1200万票近くの激減が選挙区の連合候補を直撃し、公認候補全滅となったわけである。
逆に自民党はこの低投票率、棄権に支えられて、獲得票数が減少しているにもかかわらず、1人区で3年前の3勝22敗から様変わりし、25勝1敗、2人区でも4県で独占、大阪、滋賀で議席を獲得、空白区を解消するという大勝を獲得したのであった。
またこの低投票率は、浮動票にあまり期待できず、支持者がある意味で固定し、宗派的な独善色の強い公明、共産両党には有利に作用した。法難来ると奪い立った公明党はこの低投票率にもかかわらず、わずかながらも票数までも増大させた。共産は苦戦し、票、議席とも減らしたとはいえ、社会主義陣営崩壊という不利な状況からすれば激減にまでは至らなかった。

<<様変わりをもたらしたもの>>
何がこのような様変わりをもたらしたのであろうか。3年前は反自民の3点セット=消費税、リクルート、農政不信、それに土井委員長の登場と連動した女性ならびに無党派市民層の大いなる活性化と期待が前面にでた。その結果、たとえ参院とはいえ自民党は過半数割れという大変動をもたらし、自民党長期単独政権は崖っぷちに立たされた。しかしその後の3年間の事態の推移は、たとえ「逆転」しても、政治は活性化されず、期待したほどの成果は上げられず、参議院の存在意義自体に疑問を投げかけるものであった。さらに3点セットそのものが完全にうやむやにされ、リクルート事件以上といわれる佐川急使事件ではすでに野党側の名前が表面化しており、自民党への不信が野党をも含めた政治不信へと拡大した。それはまた中小業者から女性、市民層に至る新しい支持層の結集と拡大もなおざりにさせ、そっぼをむかせる事態をもたらした。
そしてこの間に社会党委員長は、交渉の巧みさと柔軟さが売りもので国対政治のテクニシャンに交替した。それはある意味で自民党政権に取って代る新しい連合政権形成にとって必要な野党連合への期待を込めたものであったが、結集軸なき交渉技術と柔軟さは自らを策に溺れさせ、ついには出口なき袋小路に追詰めることとなった。逆に自民党は、PKO法再修正で公民両党の要求をほとんど受け入れ、社会対民社・公明間の分断を難なくなしとげ、連合型選挙に致命的な打撃を与えることに成功した。もはや最後の抵抗となった徹底牛歩や「議員総辞職戦術」といった強硬戦術は、本音との乖離を見透かされ、かえってしらけ気分を拡大させることとなったといえよう。

<<PKOと国際貢献>>
こうしたことが、各種世論調査で多数を占める自衛隊海外派遣批判派をなぜ結集できなかったかということと密接に関係している。確かに、広島ではPKO反対を掲げた社会党推薦女性候補が連合に競り勝ち、自民と議席を分け合った。しかし得票率は、前回社会党票24.6%の半分以下11.7%であり、また沖縄では、「許すな自衛隊海外派兵」を前面に掲げて革新側が勝利し、自民に空白区をもたらしはしたが、それは辛勝といえるもので、その得票率は83年選挙以来最低であった。
争点なき選挙、争点隠しの選挙といわれたが、PKO問題は厳然として存在しており、環境問題はリオの国連環境開発会議の地球規模の問題からゴミ処理問題に至る生活に密着した重大な開演に浮上してきており、さらにソ連邦崩壊と冷戦終結による世界的規模での軍縮と日本の軍事費の削減問題、その中での国際貢献の有り方、等々は、世界と日本の進路をめぐる大問題として急速に浮上してきている。そこではPKO=戦前への復帰、PKO=徴兵制といった短格的な訴えは、一定の根拠をもちながらも説得力を持たなかったばかりか、時代錯誤的な思考ととらえられたのである。もはやそのような反動的な回帰が不可能なほどの内外の情勢の転換を有権者は冷静に見ていたのである。
問題は与野党ともにこのような世界史的な曲り角に明確な指針を持ち合せていないことである。そうした無方針と怠慢は必然的に旧態依然たる利益誘導型で、争点をあいまいにした連呼中心型の、有権者を単なる1票の投票機械としかみなさない選挙運動を横行させたのであった。いわば有権者はそうしたものの出直しを求めて棄権をしたともいえよう。

<<日本新党が示したもの>>
こうした中で、環境問題と平和、政治改革を前面に掲げ、既成政党の政治の打破を訴えた日本新党が、比例区で民社、共産を上回る360万票、4議席を獲得、8%の支持をえて、健闘したことは注目すべきであろう。たった数ヵ月間で、既成政党の内、共産、民社を一気に乗り趨えて、時代の要請を受け止めようとする有権者の受け皿になったのである。しかしこれとて、善戦したとはいえ広範な政治不信の票を結集することは出来なかった。それは革新の側の連合と同様に、保守の側の連合の限界を示すものでもあろう。にもかかわらず、保守革新を問わず、政治の転換が強く求められていることを明瞭に示したのではないだろうか。
自民党は大勝したというものの改選議席77を維持できず、参院での与野党の勢力差はさらに拡大したのである。このことはすくなくとも3年間は、自民党は公明、民社との協調体制を維持し、公明、民社は自民党へのすりよりにしか活路を見出せないという事態を作り出したといえよう。しかしこうした路線こそが政治を不透明なものにさせ、政治不信を蔓延させ、史上最低の低投票率をもたらしたのであって、こうした路線の継続は彼ら自身の内部に自己崩壊と分裂の危機を育てるものでしかない。
自民党の勝利が大々的に予測されていたにもかかわらず、投票日直前には株価が急落し、政府・自民党はあわてて緊急経済対策を練り直し、総花的な公約をばらまいた。そして予想以上に自民党が勝ち、公定歩合も0.5%引き下げたのに、翌日の株式市場は冷たい反応を示し、自民党の勝利をあざ笑うかのように、株価は年初来の最安値を更新したのである。経済はよりいっそう深刻に政治への不信を表明したともいえよう。
このようにして時代の要請に対応した根本的な政治の転換が求められていることを、今次参院選は浮き彫りにしたのではないだろうか。  (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.178 1992年8月15日

カテゴリー: 政治, 生駒 敬 | 【投稿】転換を求める意思表示–参院選の結果が示すもの– はコメントを受け付けていません

【投稿】大手会社のイキイキ時短?事情

【投稿】大手会社のイキイキ時短?事情

ざっくばらんに私の知り合いの人は年間休日120。つまり一年365日ですから3日に1日は休みなわけです。これに、有給休暇やリフレッシュ休暇などもあるのですから・・・。本人日く、「とても3日に1日休んでいるとは思えない」。と思っていたら、129日という人もいたりして。イヤー、今はすごいな-とあらためて実感しています。ことしは時短もちょっぴりだったようですけれど、話題のひとつに残業の割り増し率のアップがありました。これも土、日に限りOKとなったようですが、これも土日は出勤させないという前提で、経営側の理由も大きいようです。
ちなみに3K代表格の中小の印刷産業ではやっと隔週2日というところや、週休2日制にするために一日の勤務時間を30分延ばしたりというところもあります。(これをやるところは次には一日の時間を減らすしかないので、さいごのアガキともいいます)。さて、みなさんはイキイキ時短してますか?
本当は「休みたいときに休める」時短がいいな-!会社が決める「休み」は、まるで生産調整ですよネ!(まわりの時短でよけいに忙しい零細印刷屋 それでも休みは増えている 東京・Ⅰ)

【出典】 青年の旗 No.177 1992年7月15日

カテゴリー: 労働 | 【投稿】大手会社のイキイキ時短?事情 はコメントを受け付けていません

【投稿】「前衛党主義」からの脱却は可能か

【投稿】「前衛党主義」からの脱却は可能か

<左翼主義を引きずる私の場合>
以前、左翼のメシアニズムについて、書評の形で問題提起があったので、私の問題意識を書いてみる。
私は72年大学入学、2年生で民学同加盟。以来その年の秋に民学同創建10周年記念集会に参加した。筑波大学法案反対や学費闘争で盛り上がった時代であり、4年生でデモクラート派との分裂を経験した、そんなかなり「古い世代」である。来年は40歳になってしまう。
吉村先生が、2年前「私のように、スターリンの『レーニン主義の基礎』で学習を始めた世代は、頭の構造を変えるのはむずかしいだろう」と言うことを発言された時、他人事のように聞いていた自分だったが、この頃は、ひょっとして自分もそうなのかな、と思い始めているのである。
私自身は、85年のベレストロイカ以降の新思考、ゴルバチョフ路線を違和感無く受け入れた。もちろん「社会主義の枠内での民主的革新」という意味である。確かに東欧の民主革命ではかなりぐらついた。社会主義が否定されたからである。それでも、ソ連はまだ大丈夫だと思っていた。しかし、昨年の事態の中で、ソ連共産党の解体にまで至り、根本的な出直し以外には考えられなくなってきたのである。この考え方自身もかなり、ソ連依存主義の臭いがするのだが。

<前衛党主義とは何だううか>
そこで問題提起されている「前衛党主義」とは何だろうか。それはレーニンの「なにをなすべきか」に示された、自然成長主義に対する意識注入主義であり、真理を唯一獲得している革命家の集団、労働者階級の前衛の指導性を承認し、かつその具体的指導に従うこと。大衆運動とは独立し、且つ「それ以上の規律と思想性」をもった、唯一の前衛党の再建を目標とすることであり、少なりと言えど、我が派が前衛党になるように、またそうであるように他と区別する事を大事にする考え方と、とりあえず定義しよう。
この考え方は、つい数年前まで我々自身の中に確実にあった。学生時代には、積極的にこの考え方を学んだ。プロレタリア国際主義の立場から、日本共産党の議会主義と民族主義を批判し、前衛党の再建事業を心情的に支持してきたのである。
もちろん、私たちの組織、民学同や労青は、小型共産党主義を徹底的に批判してきたし、むしろ運動の統一を掲げてきた。また、運動の組織化にあたっては、運動の利益を最も尊重し、大衆運動の利益の上に、我々の組織の利益を考える事は間違いと「伝導ベルト論」も批判してきた。要するに、セクト主義の徹底的批判者であった。

<前衛党主義は私の身体の中に、今もまだ生きている(?)>
にも関わらず、である。小型共産党はだめだが、大型の本格的な共産党なら創るべきとの考え方は確実にあった。それをする状況にない、そういう中では、強行すれば小型共産党となり、左翼小児病的誤りに至ると。
こうした議論は、決して労青の組織議論の中で行われた訳ではなく、むしろ暗黙の了解事項という感覚であった。原則的な本格的な共産党、前衛党組織の結成が可能ならば、それを歓迎するし、意識的に推進すべきという考え方であろう。もちろん、そんな状況は生まれず、組織の目標として党の再建を掲げた事もないのであるが。
私は、労青をどうしようかと考える時、こうした前衛党主義、また前衛党期待主義をどうにかして整理・総括してしまわないと、本当の意味で転換したことにならないのでは、と考えている。

< 前衛党主義に冒されると、運動の枠は狭くなり、広がらない>
さて、実は私の中には、まだ学生運動の時代の感覚が生きている。かなり薄れて来たとはいえである。まとまらないが、以下に思い当たることを列挙してみよう。
★叶うならば、「上から方針」が出るのを待っている (特定の人物に頼る)
★運動を見ると、どこのセクトが関わっているかに興味がある(最近はセクト主導の運動など余りなく なったが)
★特定の支持する理論に強い(?)が、違った意見を真剣に検討しない
★自分の運動領域を、他派から守ろうとする(テリトリー主義)
★他派批判や日共批判するのに、事欠かない
★どこかに、自分達は一般の人たちと違うんだという意識がある。
学生時代は確かにセクト別の運動が多かった。この「セクト」というのは、究極的に前衛党主義の産物でしかなかったのではないか。自分のセクト拡大のための「運動」であれば、テリトリー主義は必然である。
前衛党主義は、セクトの乱立には寄与したが、健全な運動の成長には有害であったわけである。我々もその責任を免れるわけにはいかない。

<前衛党主義に基づかない組織への脱皮は可能か>
前衛党主義では運動が前進しないこと、獲得された社会主義すらも、前衛党主義が民主主義を破壊し、内側から崩壊した事実を私は深刻に受けとめている。
少なくとも社会主義を理想と考えるなら、前衛党主義に替わる原理を提出しなければならない。それは、だれでもなく私たち一人ひとりの仕事ではないかと思っている。(92年7月 大阪:H)

追記)これだけであれば、我々のこれまでの組織的活動が無意味であったようにとられそうである.もちろん,決して断じてそうではない。これからも継承されるべきものは何なのか、今後の活動に継承発展させるべきものは何か。次の機会に整理することにさせていただきたい。

【出典】 青年の旗 No.177 1992年7月15日

カテゴリー: 思想, 政治, 社会運動 | 【投稿】「前衛党主義」からの脱却は可能か はコメントを受け付けていません