組織活動強化に関する決議案 (デモクラートNo63)

デモクラート 第63号  1975年4月1日

組織活動強化に関する決議(案)
 民主主義学生同盟中央委員会常任委員会

組織活動強化決議(案) デモクラート No63

組織活動強化決議(案)
デモクラート No63

 
 この決議案は、日本学生運動の発展と統一のために、更に反独占勢力の前進に貢献するために、わが同盟の飛躍的強化の基本的原則的立場を明らかにしたものである。この決議案を基礎に組織活動を強化し、第14回同盟全国大会の圧倒的成功を全同志一丸となってかちとろう。この決議案は、3月16日の常任委員会で全員一致で決定された。 
 

 第十三回大会において、われわれが民学同の十年間の活動を総括し、その上にたって青年同盟の結成の意義について確認してから、一年間が経過した。この一年間の民学同の活動及びその間の諸情勢の発展は、前大会の決議の基本的な正しさと、その上にたった民学同の組織的活動の一層の強化の必要性を示している。
 この一年間に、民学同とそのO・B及びその周辺にある青年労働者との結合は、新しい発展をかちとり、一定の有機的関係を確立するにいたった。それは民学同の政策的組織的基礎をきわめて強固な不動のものとした。機関紙『デモクラート』は、O・Bの指導と協カを得て、編集体制の確立と強化、紙面の画期的な充実、定期的発行体制の実現、配布網と読者の著しい拡大を達成した。とりわけ、労働運動、国際事情と平和運動、経済分析、思想的文化的分野、等における紙面の充実は、機関紙とそれに基く同盟の政策的思想的指導力を画期的に向上させた。それは、日々同盟員とO・Bの日常的活動を活気づけ、青年労働者の一定の部分の間で、民学同への関心と期待を呼び起すようになった。
 平和運動においては、民学同O・Bの協力をえた政策的、理論的活動は、機関紙『デモクラート』を通して、新聞『日本のこえ』、雑誌『新世界ノート』、『知識と労働』等とならんで、平和共存と完全軍縮の為の国際主義的路線を系統的かつ広範にアピールし、平和に対する確信とそのための行動の重要性を学生、青年層に定着させてきた。さらに、同盟によって指導される国際主義の原則に基づく平和のための大衆行動は、青年労働者、知識人の連帯を獲得し、とりわけ、モスクワ平和勢力世界大会の諸成果を日本の現状へ具体化し、日本で真の国際主義にたった平和運動を組織するために、モスクワ大会に参加したわが同盟の代表者を先頭として、平和共存と核軍縮への前進に寄与し、我が国の平和運動、原水禁運動の路線と政策に、とくにその組織統一問題の原則的な解決をかちとる上で少なからぬ現実的影響を与えるほどに力強く発展してきた。
 われわれは、理論的思想的活動の領域においても、同盟O・Bたちとのしっかりした結合をうちかため、彼らの指導と協力によって、各大学の研究会活動を強化し、とりわけ、大阪学生唯物論研究会の活動を画期的に強化した。大阪学生唯研は大阪唯物論研究会の全面的援助と指導の下に、この一年間継続して毎週一回の入門講座を開催した。学生唯研は、マルクス主義と唯物論の原則性と党派性の確立の旗の下に展開されてきた大阪唯研の輝かしい伝統と理論的成果に導かれ、理論的関心と理論水準を不断に高め、古典を研究し、実践が提起する理論的諸問題に真剣にとりくみ、反動イデオロギーや修正主義との非和解的思想闘争を展開するための基本レールを、この一年間の活動を通して、敷くことができた。
 これらの諸達成は、青年同盟の結成へ向かっての力強い前進であり基礎がためである。それは、着実な第一歩がすでに踏み出されたことを示すものである。それは、近い将来の青年同盟の結成のための確実な保障となるものである。それゆえ学生同盟に固有の任務を果たすことによる民学同の学生同盟としての独自的強化と発展を今日かちとることなしに、明日の青年同盟の結成と強力な発展を獲得することはできない。
 青年同盟結成の必要性を力説するわれわれの主張は、学生運動と労働運動の連帯と統一、民主主義の徹底と根本的な社会変革をめざす学生の活動と青年労働者の活動の有機的結合、そこにおける労働者階級の政治的ヘゲモニーの貫徹を目的意識的に追求するものである。それは、学生同盟の発展と、その独自的活動の任務を青年同盟の結成へ依存させたり、解消させたりする見解とは全く無縁でありあいいれないものである。また、それは学生の孤立した「政治活動」を主張するエリート主義や一揆主義とは根本的に相反するものであり、それを必然的に助長しまた生み出す一源泉としての、労働者階級の政治的任務の否定論や、組合主義的経済主義、また労働者階級政党の任務の一貫した回避を徹底的に批判するものである。だから、われわれは、狭隘な特殊な関心に基く学生同盟のひきまわしに抗して、また政党の任務の同盟への押しつけと解消に抗して、一貫して闘わねばならない。


 資本主義世界は、全般的危機の「新しい局面」に入った。過剰生産恐慌の頻発とその著しい深刻化、その下でのとどまるところをしらないインフレーション、慢性的な国際通貨危機、 「エネルギー危機」、帝国主義の途上国にたいする搾取支配体制の危機、資源をもたない発展途上国の深刻な構造的危機、貿易戦争のかつてない激化これらの全世界的な同時的な進行、勤労者の精神的文化的・社会欲求の増大と、その実現との一層の乖離、などによって戦後の国独資の体制は根本から揺るがされ、社会的階級的矛盾はかつてなく激化している。全世界の労働運動が共通して主張しているように、 危機はそれの内容をなす総ての環の構造的な連関においてとらえなければならないのであり、この危機からの根本的な「出口」は、「社会主義革命以外にはない」。日本における階級闘争の発展、労働運動・人民運動の真の前進なしに、危機からのわが国だけに特殊な「活路」があるかに考えるのは、全くの幻想である。
 日本資本主義は、戦後最大の過剰生産恐慌におちいっている。鉱工業生産指数のおちこみはかつてねく長期にわたり、総ての生産部門をとらえ、その進行はかつてなく加速度をつけ、その深さは戦後最大である。完全失業者は、政府の作為的な統計によっても、一二〇万を越えている。その実数は数倍におよぶと考えなければならない。解雇、一時帰休、時間短縮、賃金カット等による資本の攻撃は労働者をおびやかしている。インフレによる大衆収奪と結びついて実質賃金の低下と絶対的窮乏化の進行は否定しがたいものとなっている。新規採用の取消、ストップ、初任給の抑制等、雇用条件の急激な悪化は、学生と青年の未来をおびやかしている。中小企業の倒産の激発は、労働者階級のみならず、中小の資本家階級をおびやかし、小所有者の全体をかつてなく不安に陥れている。
 労働運動と人民運動は、六〇年代の「高成長」の時代とは本質的に異なった、きびしい諸条件の下で闘われようとしている。独占資本とその政府は、一体となって先制攻撃を加え、恐慌の犠牲を労働者階級の上に集中しようとしている。春闘にたいする彼らの政策はインフレ抑制のみせかけのもとに賃金の抑制と切下げを敢行することを主要な攻撃目標としている。統一地方選挙にたいする彼らの政策は、基本的に中央政府と資本による地方財政の食いつぶしが生み出した地方財政の危機を、公務員労働者への攻撃とその犠牲によって、また同和対策と福祉政策の犠牲によって切り抜けることに重点をおいている。公務員労働者に民間労働者をけしかけることをはじめ人民内部の対立と分裂を煽動するデマゴギーが動員されている。
 しかし恐慌の深化は、同時に、その犠牲の分担をめぐる支配階級の内部の諸矛盾、独占と非独占の間の、および独占内部の矛盾をいちじるしく激化させている。金融引締めか緩和か、どの部門とどの独占体への緩和かをめぐって、また、総資本の利害と個別独占資本の利害が鋭く対立する「独禁法」改正をめぐって、支配層の諸分派の対立と闘争が深化している。支配階級は、選挙民の自民党からの大量的離反をともかくもくい止めるために、少数派閥出身の「クリーン三木」を総裁の座にすえることによって、かろうじて保守党の統一を保っている。革新陣営が田中内閣に対する攻撃を単なる”金脈”の追及と批判に終らせたがために、支配階級はその圧力を自民党の粛党運動に収飲させることによって、かろうじて政府与党の分裂をくいとめることができたのである。しかし、このような情勢のなかで、自民党内部の抗争は、深刻化の一途をたどっている。三木は、まったくの飾りものにすぎない浮き上がった存在であり、自民党の諸機関とそれを牛耳る各派閥領袖の勢力均衡によって実質的な操作を受けている。三木が国民大衆を操作するためのマヌーバーとして提起する口約束は、独占と支配階級の露骨な利害要求によって、すべて骨抜きにされようとしている。三木は、いまのところ「革新」陣営の議会主義的幻想とそれに基づく内部抗争と、危機感による財界の「統一歩調」によって救われている。しかし、激化する支配階級内部の対立と分岐は、恐慌の犠牲の転嫁に対する労働者階級を先頭とする人民の統一された大衆的闘争が、独占の総需要抑制政策、恐慌を利用した人民の生活水準の切下げ政策にたいして、真正面から対決する時には、必ずや顕在化し、自民党による政治的支配の危機を生み出さずにはおかない。
 いまこそ労働者階級と人民大衆は、雇用の保障と増大、それに必要な拡大政策への転換、一系列の反恐慌政策の実現を掲げて闘うことが必要である。そのためには、独占の利益の制限と削減、系統的な国有化と民主的統制のみならず、それとあわせて反独占人民政府の樹立を提起して闘うことが不可欠である。しかし、共産党は、これまでからの民族主義と議会主義=選挙第一主義に基く改良主義の誤りの上に「政策不況」論に立って恐慌の現状認識を意図的に回避し、日本資本主義の矛盾の深刻さを隠ぺいしている。社会主義政党の中には、循環局面と経済政策に関する科学的具体的分析の欠如から政策的動揺と混乱が根強く存在している。労働者階級の七五年春闘は、客観的情勢のかつてないきびしさと、その下での支配階級の攻撃に加えて、自らの指導部の政策的立ちおくれと根本的な誤謬により、異常に困難な状態におかれている。
 日本の労働運動と人民運動は新しい試練にかけられているのである。労働者階級とその思想的、理論的指導者の革命的で戦闘的な最良の分子の結集した力が、根本的な反独占政策の確立とそれに基づく広範な統一戦線結成への手がかりを一刻も早く見出だすべく、目的意識的な活動を集中することは、大衆運動と日本の社会的発展の客観的な要請である。


 民青とそれを指導する共産党が議会主義=選挙第一主義、改良主義に陥り、支配階級とその政府との政治的対決、深刻で激しい政治闘争の提起、広範で大衆的な全国闘争の組織を一貫して回避していることは、学生運動においても、本格的な大衆的政治闘争を組織することを著しく困難にしている。このような傾向は、ごの一年間にますます進行し、学生大衆の遅れた部分へ追随する日和見主義、身近な諸要求主義、卑俗な経済主義を、学生運動の根深い誤りとして夢延させている。
 日本労働運動に根深く作用している経済闘争の政治闘争からの切り離し、全国民的政治的課題の組合運動の課題への解消などの誤った方針は、労働者階級が広範な人民大衆と連帯して、自らの生活の諸条件を防衛し、改善するための闘争を、根本的な社会変革の展望と結合して闘い抜くことを防げている。
 この数年来、これらの条件は、かつてのベトナム闘争、安保闘争、大学闘争、沖縄闘争などにおいて見られたような広範な大衆的学生運動の政治的高揚を困難にしている基本的条件のーつである。
 極端なインフレーションの進行、恐慌の進行、それらによる勤労諸階級の絶対的窮乏化は、学生の生活諸条件を根底から破壊しようとしている。私学の莫大な学費はすべて事実上勤労諸階級の大衆の子弟の上に耐え離いまでの負担となってのしかかっている。六〇年代末の全国学園闘争以降急速に進行した大学の反動化とそのしめつけの重圧は、学生大衆の自由な思想的政治的成長を著しく妨げている。このような条件のもとでは学生生活の物質的諸条件の極端な悪化は、一方では学生運動の発展の客観的基礎を拡大すると同時に、他方では学生の政治的理論的な視野を著しく狭隘なものにし、社会変革と民主主蕊の徹底した発展への確信ある展望を形成することを著しく妨げるものとなっている。非合理主義と反動イデオロギーの支配的影響下に誕生したニューレフトの諸潮流といわゆる「トロツキズム」の諸党派は、支配階緞とその政府との政治的な対決点を見出せず、変革の客観的・具体的方針を提起し得ていない。彼らはこの一年間にこれまでからの根本的に誤った傾向を極端なまでに押し進めた。部落解放運動の利用主義(「解同かくれみの路線」)、陰惨で残虐な内ゲバとテロ活動の日常化、爆破活動の頻発は、彼らの活動の主要な形態になっている。彼らの誤謬の国家権力による利用は、アナーキズム的傾向のなかからファシズム的傾向が成長してくる危険な徴候を示している。
 今日ほど民学同の組織活動を強化する必要性が強まっている時はない。そのためには全同盟員が指導部のまわりに固く結集して全機関、全同盟員が一体となった有機的活動を展開しなければならない。
 これまでのわれわれの活励は、中央指導部の強固な指導力をすでに確立している。この指導部の力を同盟全体のものとして生かし、同盟の組織活動の全体を真に戦闘的な組織にふさわしいものにするためには、民主集中制の原則を断固として強化しなければならない。われわれは小ブル的、傍観者的な動揺と無責任とをあらわすサークル主義やサロン主義の潮流からきっぱりと手を切らなければならない。
 今日の、かつてなく困難できびしい客観的・主体的諸条件が民学同の組織的活動強化とそれに基く大衆的な政治的指導力の画期的な強化を要請している。われわれは困難な諸条件や誤った政治的指導が学生の中に持ちこむ停滞したムードやペシミズム、その裏返しとしての主観的はねあがりに抗して、表面的な現象に幻惑され、あるいは大衆の遅れた意識に迎合することなく、それらの背後にある真の大衆的要求とその基礎にある変革の客観的な諸条件に基いて、真に広範で戦闘的な大衆的学生運動を組織し、指導しなければならない。
 われわれは、それを基礎として、そのうえにたって闊うことのできる足場をわれわれの闘争の成果としてすでに獲得している。この一年間に学生運動に闘争課題として提起された重要な問題のすべてについて、われわれは着実な、現在の条件の下では誇るに足る前進をとげ、確固たる橋頭堡を築いている。
 昨年の被爆29周年原水禁大会において、民学同とのO・Bおよび青年労鋤者によって構成されたわれわれの代表団は、原水禁運励の原則的統一の路線を確立する一っの原動力になった。共産党と原水協が反ソ民族主義に転落し、それを一層深めている現在、モスクワ平和勢力世界大会の成果とその基本線に従って首尾一貫した活動を展開した部隊は、「日本のこえ」を含む数少ない人々とわれわれの代表団だけであった。
 この部隊の大会での活動と努力は、核防批准、全面核停の実現、アジア集団安保体制の達成、独自核武装阻止、被爆者援護法の制定の正しい方針を大会決議のなかに一定限度盛りこませる成果をあげた。平和パンフレット発行の活動をふくめてわれわれは今後この方向を一貫して追求していかなければならない。
 今年の三・一ピキニデーの統一集会は、一面において「統一行動が分裂を深める」という共産党の従来の主張が世論によって否定されたということを示すものである。しかし、そのスローガンが核兵器「全面禁止」にのみ限定されたことは、運動方針の抽象化でありまた共産党の主張してきた「拒否権」が「満場一致」方式として承認されたことは、排除の論理への屈服に他ならない。これを原則的統一への突破口と考えたり、運動の統一への一歩と考えたりするのは全くの幻想である。われわれは具体的で現実的なスローガンにもとづく統一行動をつみ上げることにより、この運動の原則的統一のために闘わねばならない。
 理科大、関大、奈良女大等で特に強力に押しすすめられた学費闘争は、各大学で広範な大衆運動を構築し、多大の成果を収めただけでなく、一定の全国的な影響力を発揮しえた。理科大、東洋大、関大等の私学のモデル的大学でかちとられた大衆的な高揚は、全国の戦闘的で良識ある学生の勇気を鼓舞すると同時に、支配階級の私学政策にたいし一定の打撃を加えるものであった。われわれは、私立大学、国公立大学の系統的な学費値上げの大波を前にして上記の大学でたたかわれた闘争の教訓を生かし、学費値上げ反対闘争の全国化と私立、国公立の統一した反対闘争の組織化に全力を傾注しなければならない。
 狭山闘争は、石川氏の完全無罪判決と即時釈放をかちとるための闘争であるだけでなく、部落解放運動にたいする官憲の弾圧と司法の反動化の傾向にたいして反撃を加えるものであった。それはまた同時に日本共産党の解同主要打撃論(「解同とたたかうかどうかが革新の試金石」)にたいして痛撃を加えるものであった。われわれは部落解放運動の原則的で正しい発展と強化のために今後一貫して努力を傾注しなければならない。
 AF2閾争が開始されたことは、環境変異原AF2がもつ現在と未来の国民と人類の健康に及ぼす致命的な影響力を明らかにし、その開発に数学部(医・工・薬・基礎工等)にわたる研究陣が系統的に参加した阪大の研究体制の責任、および国家行政当局(厚生省)と製薬資本(上野製薬)と食品加工産業、大学研究機関との密接な結合関係を批判するものとして、きわめて大きな先駆的意義をもっている。ようやく戦端が開かれ、本格的蹄争にはいろうとしているこの闘争に対して、われわれはすでにかちとられた消費者運動、研究者運動との連帯を強化しながら、大学闘争の継続と新しい発展としてこの闘争を強力に展開し、75年の大衆闘争の成果として結実させ、同時にAF2類似物質(環境変異原)の禁止への足がかりとしなければならない。
 「デモクラート」の定期的発行はすでに獲得されている。それによって各同盟員の組織的・実践的活動にたいしては、現実的で具体的な方針の提起と政治的指導が確固として保障されている。われわれは各同盟員一人一人の努力によって機関紙を真の意味における宣伝者、扇動者、組織者として活用するようにしなければならない。各支部の活動の機関紙への集中と、各支部の配布集金体制等の面での抜本的な改善が、今年の課題として各同盟員にたいして提起されているのである。
 われわれは、結成趣意において、平和と平和共存、反独占民主改革のための闘争をおしすすめるうえで系統的で具体的な方針をもち、規約の民主集中制の原則において、そのための組織活動の保障をもっている。わが同盟からその基礎にある強固な世界観的一致、思想的統一性を意識的に排除し、抜きとり、民学同の活動を単にあれこれの「具体的」な問題や特定の局面における部分的で一時的な意見の一致にのみ基く「統一戦線」的活動、あるいは、雑多な思想をもつ「活動家集団」の水準にまで引き下げるものは、民学同の組織を内部からほりくずし、組織解体を招来するものである。
 われわれは、われわれの運動と組織活動の正しさ、われわれの方針の正しさとその現実的な力に確信をもって新しい前進をかちとらなければならない。組織的実践的活動を通じて得られたわれわれの確信、闘争への意欲と決意は、思想的理論的活動の一層の強化によって真のものとされなければならない。古典的諸著作ーマルクス、エンゲルス、レーニンならびに彼らによって最高の遺産が継承されている人類史上の偉大な思想家たちーの系統的で真剣でねばり強い研究、国際的な綱領的な諸文献、マルクス主義の現代における原則的で正しい発展を示す理論的諸成果の系統的で真剣でねばり強い研究、これらを通じてわが国における社会変革と社会主義の実現への具体的展望について不動の確信を獲得しなければならない。「革命的理論なくしては革命的運動はありえない。流行の日和見主義の説教と実践活動のもっとも狭い形態への心酔とが抱合しているような時代には、どれほどこの思想を主張してもしすぎることはない。」このような日常不断の研究活動の強化を抜きにしては、支配的イデオロギーとふりそそぐ小ブルジョア的イデオロギーとマルクス主義の卑俗化による運動の歪曲と混乱から運動と大衆の真の莉益を防衛することはできない。また、現にわれわれの内部にもあらわれている諸種の弱点と限界を克服し、民学同の組織をしっかりとした思想的理論的基礎の上にのせることはできない。理論的関心を不断に高め、理論水準を不断に高めることの今日における特殊な重要性を自覚し、理論活動のための時間と体制が組醗的に保障されなければならない。


 昨年の大会で提起され、O・Bによってすでに着手され、促進されてきた青年同盟結成のための精力的で忍耐頭い努力には、一部の人々から持ちこまれた、政策上、理論上の原則的に誤った見解、方針のために、新しい困難と障害が設けられている。それは次の基本的な諸論点に及んでいる。
①全般的危機の「新しい局面」の理解および、その「活路」。
②今日の循環局面の具体的規定とそれに対する労働運動、人民運動の方針。
③平和と平和共存のための闘争と広範で深刻な社会変革のための闘争の関係。
④反独占民主主義のための闘争と社会主義革命および労働者階級のヘゲモニーの関係。
⑤闘争の根本的・長期的目標と当面の大衆闘争の具体的方針との関係。
⑥前衛政党、労働者政党の原則的な政治的指導の確立と統一戦線の結成の問題。
⑦日本の前衛政党の原則的逸脱、民族主義、議会主義への転落を批判する基本的観点。
⑧議会主義と労働組合主義の必然的な内的連関と「中道政権」の評価。
⑨支配階級内部の矛盾と、資本家階級と労働者階級の基本的矛盾の関係。
⑩帝国主義諸国間の矛盾および今日の国際関係の全体におよぼす両体制間の基本矛盾の影響。
⑪日本におけるマルクス主義の思想的理論的危機の現状認識と修正主義批判の意義。

 これらの問題についての誤った理解や一面的理解は、その本質において、あれこれの特定の諸個人のものではなく、学生運動、青年運動の実践の中に一貫した系統的なものとして現われ、運動の統一と発展にとって非常な危険をもたらしている。それは、青年同盟結成に不可欠の前提条件、同盟の基本的性格、同盟結成への道すじなどに関して原則的な理解や態度をとることを妨げ、混乱した無責任な態度を生みだす底深い理論的・思想的源泉となっている。
 これらの問題についての真剣で熟心な研究に基づく原則的で正しい解決なしには、学生同盟、青年同盟の確固たる政策的・理論的基礎の確立と大衆運動の力頭い発展はあり得ない。
 

 民学同の十年の活動とさらにこの一年の活動は、次のことを示している。すなわち、われわれが思想的・理輪的確信をうち固め、機関紙に導かれて目的意識的で強力な組織的活動を展開するならば、わが同盟の発展はゆるぎないものであり、民学同が、世界平和のための、わが国の社会変革と民主主義の徹底のための闘争場埋において現実的な推進力どなり労働者階級と広範な人民の統一戦線の一翼を担いうるものであることを示している。同盟員諸君!確信と熱意と勇気と忍耐とねばり強さをもって新しい組職的前進をかちとろう!
 指導部のまわりに堅く結集し、民主集中制に基づく堅忍不抜の強力な組織的活動を展開しよう!
 真に戦闘的な大衆的学生運動を組織し、学生戦線の統一を実現しよう!
 労働運動の発展と堅く結合した、戦闘的で真に革命的な学生運動を組織しよう!
 

1、春闘労慟者と連帯し、学生生活を支配階級の攻撃から守り抜こう。
●国公私学一斉学費値上げ阻止。勉学に専念できるだけの奨学金の必要者全員への貸与。
●私学経営・管理の民主化ー私学への国庫助成の抜本的拡大。文教予算の拡大。私学振興財団法即時廃棄。
●公共料金の凍結。家賃・生活必需物資価格の凍結。
●独占価格の原価公開と価格統制。
●雇用保障と雇用の増大のための拡大政策への転換。公共住宅建設を中心とする公共投資の拡大。法人に対する強累進課税。独占の利益の制限と系統的な国有化。国公営企業の民主的統制。

2、政治反動への大衆的反撃を組織しよう。
●「刑法改正」阻止。司法反動との対決。狭山闘争勝利。統一地方選挙勝利。スト権処分反対。

3、平和と平和共存のための大衆的活動を強化し、アジア集団安保体制を実現しよう。
●核防条約即時批准。被爆者援護法の即時制定。原水禁運動における統一行動の積み上げと原則的統一の実現。大衆的平和組織の活動強化による原水禁国民会議の原則的強化。
●南ベトナム臨時革命政府の即時承認。パリ和平協定完全実施。
●日ソ平和条約の締結、すべての社会主義国との国交樹立。対社会主義貿易と経済料学協力関係の拡大。
●四次防計画の中止。五次防阻止。軍事費の削減。
●アジア反共軍事政権への援助の打切り。新植民地主義的資本輸出反対。

4、大学の民主的改革を闘いとろう。
●新「大管法」策動粉砕。大学における反動的寡頭支配体制の打倒。無責任研究・教育・行政体制の粉砕。「産学」協同体制の粉砕。

5、公害、環境破環に反対し、人類の生存と健康を守ろう。
●AF2類似物質(環塙変異原)の製造・使用禁止。
●原発・再処理工場建設反対。被爆許容量の引下げ。

民学同第14回大会万歳!
学生と青年労働者の緊密な連帯万歳!

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【資料】大阪市大支部総会上申書(1975年3月25日)

市大支部総会での確認事項及び中央委・常任委員会への上申書(1975年3月25日)

(1)3月11日、12日の第7回中央委員会で提起され、論議された第14回全国大会第1次草案、並びに「組織活動強化に関する決議」について、市大支部では支部委員会を先頭に班会議、総会を通じて活発な論議を行ない、その検討を行なってきた。しかしながら、3月25日、支部総会において、常任委2名の同志によって配布されたデモクラートNo62は、この間、我々が支部全体をあげて進めてきた論議の過程の一切を無視し、否定するものであった。
(2)デモクラートNo62は、その「主張」の中で、「流行の日和見主義、改良主義ときっぱりと手を切り、組織活動強化に関する特別決議を全員一致で採択し、民学同の隊列をうち固めよう!」と呼びかけている。その内容は、実質的に、又文章表現においても、7中委草案「意義と任務」「組織活動強化に関する決議」を継ぎ合わせたものであり、それは、未だ中央委員会においても論議すらされていない内容を含んでいるし、勿論結論も出されていない内容である。
 当日の常任委員の同志の発言によると「組織活動強化に関する決議」は、”常任委員会で一致して下部討議にまわしているものであり、デモクラートNo62についても常任委員会で一致した見解を発表して、何が悪いのか”ということであった。しかしながら、たとえそれが常任委員会の一致した見解であったとしても、同盟の全国大会から全国大会までの間の最高決定機関は、中央委員会であり、とりわけ、その内容が同盟の組織問題に密接に関する問題を多く含んでいる以上、我々は、まず、中央委員会でそれらの問題の論議がなされるべきであり、そこで、一定の結論を見ないまま同盟機関紙にそれが発表されるということは、重大な組織運営上の誤りであると考える。(又、大会草案は、本来全国大会で採択されはじめて、全同盟のものとなる性格のものである。)
(3)しかも、その内容たるや「危機の到来とその下で大量の修正主義、日和見主義が発生し、我々の内部にも入り込んでいる・・・」と書かれる時、事態は更に深刻である。それは、まことに修正主義、日和見主義と規定されるような問題や事象が存在するならば、まず、その実態を我が同盟の内部で徹底して解明し、中央委員会はじめ各級機関で徹底した集団討議にかけ、その下で、はじめて克服の方向を確立しうる性格の問題だからである。そうした組織内民主主義に基づいた論議を公然と組織せず、単に常任委員会見解として、レッテルを貼るだけでは、決して「修正主義」、「日和見主義」は克服しえない。それは、それらの諸問題を解明し、中央委員会に提起し、解決への組織的活動を保障していく常任委員会としての任務の放棄である。
(4)更に、それが組織内通信として発表されるならまだしも、大衆の宣伝、扇動組織者としての機関紙上に発表されるに至っては、全く我が同盟の信頼を、対外的にも大衆的に失墜せしめるものである。
(5)更に、主張にとどまらず、No62の記事は、小野義彦氏に対する公然たる名指しの批判を行なっている。これは、現在の「知識と労働」No10をめぐって展開されている論争に対し、「政策論議を中心に問題を解明していく。公然たる同盟としての見解を出すまでには至っていないが故に同盟としての見解がまとまるまで、機関を通じての学習会等はやらないように」との7中委での確認に反している。そればかりか、その問題について、小野氏が、同盟の創立以来、援助と協力を惜しまず、我が同盟の発展に少なからぬ寄与をなされてきたという現在までの関係からも、その批判の内容がきわめて我が同盟の基本路線、平和共存、反独占民主主義、学生運動の統一に関わる問題である以上、まずもって中央委員会を中心として徹底して論議され、結論を下していくべき問題である。しかも、それが、現在発生している同盟の組織問題と深く関わっているが故に、更に慎重な配慮が必要であったはずである。組織内での論議の展開すら行なわれていない段階で、そう言った記事が同盟の見解として載せられることは、組織内民主主義の全くの破壊であり、きわめて、組織的な混乱をもたらすものである。
(6)以上のような諸点から、我々は、デモクラートNo62に関して、その撤回を要求する。かかる同盟内民主主義の破壊の上に編集され、しかも、我が同盟の見解として確立されてもいない見解を掲載しているデモクラートNo62を、我々は、大衆に販売することできない。同時に、我々は、このデモクラートの編集の手続き過程を明解にすること、その責任の所在を明確にすることを要求する。更に、同盟の組織問題、混乱の原因を明確にし、その克服の方向を明らかにしていく上でも、大会草案の内容を高め、更に豊富化し、具体化していくためにも、中央委員会を先頭として、各級機関での徹底した論議を行なうための組織的保障を確立することを要求する。
 又、25日、支部総会での論議の過程で出された疑問点を列挙し、それに明確に答えられるよう要請する。
①デモクラートNo61に掲載された「解放研運動の課題と任務」の記事について、GC、常任委員会での論議を経て、その記事に「多くの誤り」が指摘され、確認されており、次の機関紙に、その訂正を含め「解放研運動の課題と任務」についての原則的な記事を載せることが確認されていたにもかかわらず、No62にそれがないのは何故か?
②主張記事の中で、なぜ、市大学費闘争の評価が触れられていないのか!?
③知識と労働No10について「機関を通じて学習会等をするな」との確認が、7中委でなされていたにも関わらず、阪大、学大等で学習会が行なわれているのは、どういうことか?
④デモクラート編集体制は、どのようになっているのか?!

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【主張】第14回大会を成功させ、民学同の飛躍的発展を(デモクラート 62号)

【主張】第14回大会を成功させ、民学同の飛躍的発展を(「デモクラート」62号)

デモクラート62号主張  1975年3月24日

デモクラート62号主張
 1975年3月24日

 第14回同盟全国大会は、学費闘争の燃えあがる炎に明らかなように、日本学生運動が大きく発展しようとし、全国学友が我が同盟の新たな前進に熱意を持って注目し 、それに応える全同志の意気盛んな活動の雰囲気の中で開かれようとしている。
 第13回同盟全国大会以降一年間、我々は、平和と民主主義、学生運動の統一と発展をめざす闘いの中で、数々の成果を勝ちとったことを確認することができる。
同時に大会は、資本主義の全般的危機が新たな局面に突入し、階級闘争の激しい高揚の時代を迎えようとする時に開かれようとしている。恐慌下において、労働者階級の不満は増大し春闘を中心に闘う労働者階級の闘いは青年労働者を中心とした戦闘的な闘争を創出しながらも、政府独占の露骨な攻撃と、日共(代々木派)に代表される政治指導都の弱さの中で大きな試練に立たされている。
 学生運動のみならず、反独占勢力の一翼を担う我が同盟の発展はいつにも増して重要であり、今大会において獲得される政策に基づく闘いを通じて、学生運動の飛躍的前進へ大きく貢献しなければならない。
 今大会において、とりわけ以下の方針に十分な検討と全同志の努力をかたむける必要がある。それは第一に国公私学学費値上げが予定される現在、学費闘争の方針を確立することである。第二に、原水禁運動の無原則的統一が再び活発となり、日本平和運動が国際的に克ち取られた諸成果を正しく継承して闘えていない現在、学生平和運動の強力な一翼を担うための方針を確立することである。
 この一年間の民学同の活動とその間の内外の諸情勢の 発展は、前大会の決議の基本的な正しさとそのうえに立った民学同の組織的活動の一層の強化の必要性を示している。
第十四回全国大会の最も重要な意義は、中央委員会から提起される「組織活動強化に関する特別決議」を採択し、全同盟員が中央委員会の旗の下に固く団結して、情勢の発展が要求する新たな政治的組織的任務の目覚に基づき、その解決へ前進するための不屈の組織活動を展開する共通の意志を確認することにある。
 第十三回全国大会は、民学同の十年間の活動を総括しそのうえに立って、青年同盟の結成の意義を大会決議のなかで確認した。この大会決議と大会の成功は、多くの民学同OBとそのまわりに結集した労働青年を鼓舞し、大いに勇気づけるところとなった。十三回大会以降この一年間に民学同とそOB、およびそのまわりに結集する青年労働者との結合は新たな前進をかちとり、一定の有機的関係を確立するに至っている。
 その結果、機関紙「デモクラート」の編集体制の確立と強化、定期的発行体制の実現、紙面の画期的な充実とそれによる理論的思想的政策的指導力の画期的増大、配布網の拡大と読者層の著しい増大という画期的成果が生み出されている。平和運動の分野では「デモクラート」を通じて、平和共存と完全軍縮のための国際主義的路線を系統的に宣伝し、平和に対する確信とそのための行動の重要性を一貫して訴え青年労働者、学生層に定着させてきた。O・Bの協力を得て飛躍的に増大した平和運動分野における活動の強化は、大衆行動の分野にも発展し、日本における平和共存と完全軍縮への前進に寄与し、平和運動と原水禁運動の原則的統一に、その路線と改革に少なからぬ現実的影響力をもつにまで至っている。
 われわれは、理論的思想的活動の領域においても研究会活動を強化し、とりわけ大阪学生唯物論研究会の活動を画期的に強化することに貢献した。それは、今日までマルクス主義の原則性と党派性の擁護、確立の旗の下に精力的な活動を展開してきた大阪唯物論研究会の全面的援助と指導の下に実現された。そのことを通じて理論的関心と水準を不断に高め、古典を研究し、実践から提起される理論的諸問題に真剣にとりくみ、反動イデオロギーと種々の色あいの修正主義との非和解的闘争を展開していく基礎をうちかためることができた。
 民学同の第十二回大会で確立された甲央委員会の指導力は、この一年間さらに強化された。それはいま明らかにした成果とともに、この一年聞の大衆的で戦闘的な運動を各戦線、各大学で展開することができたことの中に端的に示されている。原水禁世界大会において、モスクワ平和勢力世界大会で確認された基本路線に立った首尾一貫した活動、原水禁運動の原則的統一のための精力的な闘争を展開したこと、東理大、東洋大、関大、奈良女大等において広汎で強カな学費学園闘争を組織し、多大の成果を収めたこと、狭山差別裁判に反対し、司法の反動化と日共の解同主要打撃論に抗して石川氏の完全無罪と即時釈放をかちとるための闘争を学生部隊として最も原則的大衆的に展開したこと、市大工学学都における3.16闘争を完全勝利へ導いたこと、阪大におけるAF-2闘争の開始と前進等がそれである。
 われわれは、われわれの運動と組織活動の正しさ、われわれの方針の正しさとその現実的力に確信をもって新しい前進をかちとらなければならない。また実践的活動を通じて得られたわれわれの確信、闘争への意欲、決意は、理論的・思想的活動の一層の強化によって真のものとされなければならない。このことは現在、いくら強調しても強調しすぎることはない。危機の到来とその下で大量の修正主義、日和見主義が発生し、われわれの内部に入りこんでいるとき、それはより一層の重要性を与えられているのである。資本主義世界は「全般的危機の新しい局面」に入った。過剰生産恐慌の頻発とその著しい深刻化、その下でのとどまるところを知らないインフレーンョン、慢性的な国際通貨危機、「エネルギー危磯」、帝国主義の発展途上国にたいする搾取支配体制の危機、貿易戦争のかつてない激化、これらの全世界的な同時的進行、などによって戦後の国独資の体制は根底から揺がされ、社会的階級的矛盾は、かつてなく激化している。日本資本主義もその例外ではない。この危機からの根本的な出口は「社会主義革命以外にはない」のであって、日本における階級闘争の発展、労働運動、人民運動の真の前進なしに、この危機からの我が国だけに特殊な「活路」がある、と考えることは全く幻想であるだけでなく、社会階層的矛盾を隠蔽し、階級闘争を放棄し、労働者階級に独占資本に対する「小さな改良、まだるっこい危機対策」での妥協と屈服を説く点で最も犯罪的である。
 日本の労働者階級の七五年春闘は、客観的情勢のかつてない厳しさとその下での支配階級の攻撃に加えて、自らの指導部の政策的立ち遅れと根本的な誤り—-議会主義、改良主義、卑俗な経済主義と労働組合主義によって異常に困難な決態におかれている。学生運動もこのような困難と無関係ではありえない。民青とそれを指導する共産党が、議会主義、選挙第一主義、改良主義、民族主義におちいり、支配階級とその政府との政治的対決、深刻で激しい政治闘争の提起、広汎で大衆的な全国闘争の組織を一貫して回避していることは、学生運動においても本格的で大衆的な全国的政治闘争を組織することを著しく困難にしている。この一年間このような傾向は、ますます進行し学生大衆の遅れた部分に追随する日和見主義、身近な諸要求主義、卑俗な経済主義を学生運動の根深い誤りとして募延させている。こうした困難に拝脆し、あるいは無関心になり、社会変革と徹底した民主主義のための闘争を目的意識的に、粘り強く大胆に提起して組総することを放棄して、民学同の活動をサークル活動や学習会運動、狭い限定された実践的活動のみに解消する誤まった右翼日和見主義傾向は組織活動の面では、下部の班活動を解体し、分散主義と民主集中的指導に対する「批判の自由」の要求となって現れ、理論的思想的活動の分野では、修正主義思想との非和解的な闘争を回避し、調停するという無条件に誤った考えとなって現れている。だが、「ただ近視眼的な人間だけが、党内論争や、色あいの厳密な区別だてを時宜に適さないとか、無用なことだとか考えることができる」(何をなすべきか)のであって、われわれはこのような誤りを断固として克服して、民学同の組織活動を強化する必要に迫られている。今日のかつてなく困難できびしい客観的、主体的条件が民宇同の組織活動の強化とそれに基づく政治的指導力の画期的な強化を要要請している。
 組織活動の強化、それは決っして官僚主義的な組織の締め付けや行政的組織運営を意昧しない。それは、原則的な理論と政策によって、全同盟員のそれへの確信によって真に有効なものとなり、組織活動の強化が達成されるのである。
 全国の同盟員諸君!第十四回全国大会で、流行の日和見主義、改良主義ときっばりと手を切り、組織活動に関する特別決議を全員一致で採択し、民学同の隊列をうち固めよう!   中央委員会の旗の下に固く団結し、不屈の学生同盟を建設しよう!

※太字強調は、佐野秀夫によるもの。

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【資料】民学同第13回大会・第7回中央委員会報告(1975年3月11・12日)

【資料】民学同第13回大会・第7回中央委員会報告(1975年3月11・12日)

<意義と任務>

 全国の同志諸君
 第14回同盟全国大会は、学費闘争の燃えあがる炎に明らかなように、日本学生運動が大きく発展しようとし、全国学友が我が同盟の新たな前進に熱意を持って注目し 、それに応える全同志の意気盛んな活動の雰囲気の中で開かれようとしている。
 第13回同盟全国大会以降一年間、我が同盟は、日本学生運動の中核部隊として闘争を牽引してきた。
 学費闘争を中心に教育学園闘争において、学園ストを背景に学費問題を社会問題化し、大衆的な学友の決起と政府文部省、私学資本を追いつめる基盤を拡大している。
 平和運動においては、原水禁運動の無原則的統一がなし崩し的に運動内部に持ち込まれている中にあって原則的統一を断固として推進し、国際的に勝ち取られた成果を発展させ、日本平和運動の方向を明示し、運動を展開する大衆的学生平和運動の文字通りの推進部隊となっている。
 狭山学連を中心に各大学における部落解放研運動の発展を基礎に狭山闘争を展開し、その中で大阪解放研連協を結成した。
 同時に大会は、資本主義の全般的危機が新たな局面に突入し、階級闘争の激しい高揚の時代を迎えようとする時に開かれようとしている。
 資本主義を襲っている深刻な恐慌は、国家独占資本主義が繰り延べ激化させてきた諸矛盾の爆発がさし迫っていることの顕著な表現である。
 イタリアの中道政権の危機に象徴的に示されるように、資本主義国の労働者階級の闘いは反独占的変革から社会主義への道を着実に歩んでおり、民族解放闘争も大きく前進している。
 社会主義世界体制の政治・経済・軍事の強化と平和の為のイニシアティブは決定的なものとなっており、こうした階級闘争の合流結合の中で平和共存とデタントの前進は不可逆的なものとなっており、帝国主義者の策動は、集団安保体制の確立へ着実に前進している。
 国内において、春闘を中心に闘う労働者階級の闘いは青年労働者を中心とした戦闘的な闘いを創出しながらも政府独占の露骨な攻撃と日共(代々木派)に代表sれる政治指導の弱さの中で大きな試練に立たされている。
 日本学生運動のみならず、反独占勢力の一翼を担う我が同盟の発展はいつにも増して重要であり、今大会において獲得される政策に基づく闘いを通じて、学生運動は大きく発展することができる。
 第13回大会以降一年の闘争総括と科学的情勢分析に基づく闘争方針の確立である。国公私学一斉学費値上げが予定される現在、学費闘争の方針を確立は急務である、大学改革綱領第一次案で獲得された諸原則の全面的な具体化へ進めなければならない。教育負担をめぐる矛盾の激化は、年々闘争の規模を拡大させている。政府の低文教予算政策と私学資本の営利主義に対決する闘いは、予算編成期における学生の介入を不可欠のものとしている。政府の文教政策を政治・経済政策全般にわたる解明から位置づけ闘争方針の確立を全同盟あげて行なわなければならない。
 さらに、日本平和運動が国際的に克ち取られた諸成果を正しく継承して闘えず、原水禁運動の無原則的統一の動きが再び活発となっている現在、国際平和運動と連帯した学生平和運動の強力な一翼を担うための方針を確立しなければならない。
 第二に、日本学生運動の統一と発展のために果たすべき同盟の力量を飛躍的に強化し、同盟が真に学生運動の指導的中核部隊として登場しうる指針とすべき『組織活動強化に関する決議』を克ち取ることにある。
 我々は、同盟第12回全国大会において、中央委員会=全国政治指導部を確立した。中央委員会を中心とする機関活動の強化は偉大な成果をあげている。
 しかし、日本学生運動は、我が同盟の一層の飛躍的発展を緊急の任務としている。
民青「全学連」が議会的改良主義、セクト主義を徹底し、闘争の指導を放棄し、闘争の敵対者となり、トロ諸派が挑発行動を行なうエネルギーを雲散霧消させている現在、我が同盟の飛躍的発展は日本学生運動発展の保障である。

 第13回全国大会で確認された青年労働者との連帯は、機関紙、平和運動、理論的思想的分野を中心に強化されており、それらを更に発展させ、青年学生運動の統一への大道へまい進する先進的インテリゲンチャ、青年労働者の努力とともに、学生同盟の独自的強化を通じて一層の前進を克ち取らなければならない。困難な情勢の下では理論と思想の確固たる確信と正しい政策・方針、堅忍不抜の組織かつっ同が一体となってはじめて闘争勝利への展望が切り開かれるのである。
 同盟再建第12回大会以後の組織確立の成果を確認すると同時に、堅忍不抜の同盟建設の事業を全同盟的に遂行しなければならない。
 全国全同志の活発な討議を通じ、同盟第14回大会を成功させよう。

以下略
国際情勢・国内情勢・教育学園情勢・教育学園闘争総括・新大管法粉砕闘争総括・教育学園闘争方針・部落解放研運動総括、狭山闘争総括・方針・大阪解放研連協総括方針・反戦平和闘争総括・平和組織総括・平和運動方針・組織活動総括・方針

 

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特集「大衆運動とマルクス主義」は何をよびかけているか

特集「大衆運動とマルクス主義」は何をよびかけているか
        学生党的傾向の克服のために
                          堺 新 一

 「知識と労働」第十号の「七四年の大衆運動とマルクス主義」という特集は、編集部内の一部の同志たちのあいだで企画され、編集会議の集団的討議にかける手続きをとらず印刷に付されたという事情から、内部でまだ十分討議されていない若干の意見の相違をいきなり公表する形となり、本誌の読者諸君にいろいろな誤解と疑惑をいだかせる結果になったことを、最初にお詫びしておかなければならない。私自身は、第十号の刊行を昨年九月に予定して送稿後九月末までシベリア経済開発見学のため訪ソしており、帰国後刊行の著しい遅延が気になり何回も編集事務局に問合せたが、遅れているのはもっぱら印刷上の都合によるものとの返事で、「特集」の編集とその十号への挿入については一切知らされていなかった。その他多くの編集委員の諸君も、本特集の企画や内容についてほとんど何も知らされていなかった。以上の経過からみて、意見の相違はかなり深く、すでに一部の組織的手段を伴っていたということが、明らかである。
 いうまでもないことだが、意見の相違を克服する方法は、徹底した集団討議以外にはない。同号の編集後記にいう“善意と熱意”があれば、この方途の復活はなお可能であろう。だが後記は 「『地獄への転落』を免れしめるものは、ただ理論と原則の力のみである」 とも書いている。察するにこれは危険である。集団討議を意識的に排除した下で展開される 「理論」と「原則」 の「力」の横行は、なにもよい結果をもたらさないだろうからである。
 同号の 「特集」が、編集部による特集の形ではなく、単なる討論論文の形で掲載され、然るべき反論 それは当然存在する と併せ編集されていたのであれば、それは一定の前向きの意義をもちえたかもしれない。若い諸君、とくに大衆運動経歴の少ない、大部分がインテリ出身の活動諸君のあいだには、最近の資本主義の危機の急速な進行に対応できないでいる既成革新政党の現状をみて、革命的前衛党待望のあせりのようなものが根強くあることは、否定できないからである。この特集はそうした気分を、だがただ気分だけを、反映している。


 特集の筆者たちが現日共指導部の議会主義的、民族主義的日和見主義の政策方針にたいして批判とバクロを加えている内容は、大体において妥当性をもっており、部分的には鋭い批判も みられないわけではない。それだけなら誰も異存はない。だが総じて批判というものは、相手をやっつけるだけでは芸のないものであり、批判の名に値しない。それに止まるなら比較的容易なものであり、破壊的効果はあっても、前向きの方向は打出されない。そこで現日共指導を否定する筆者たちは、くり返し 「革命的で、原則的な、マルクス主義に立つ前衛政党の確立」 をよびかけ強調している。だがそれは全く抽象的なよびかけにおわり、いったいどのようにしてそうした革命的前衛党を再建するのか、少くともどうしてそのような革命的指導の再建に接近するのか、そのためには何をなすべきか、その過程に当然横たわる多くの複雑で困難な諸問題にたいしてはどういう方針で対処するのか—-こうした、多くの良心的な共産主義者が直面し、模索し、試行錯誤を重ねてさえいる肝心な問題についてはなんの具体策、解決策も用意されておらず、ただ革命党の確立だけを叫んでいる。まずこの単純さ、現実離れした底ぬけの子供らしさには、まず脱帽するほかない。だが、それはこれまでも事あるたびに現われ、消えた「学生党」的傾向の再版ではなかろうか。あるいは筆者たちはいうかもしれない。 「革命的前衛党確立の必要性」 さえ訴えれば、それでこの特集の意義は十分なのだと。酒場での話ならそれでよかろう。だが「知識と労働」は、読者も同人の数もまだけっして多くないとはいえ、マルクス主義政治理論誌と銘打った全国でも数少い論壇なのだ。それを方策なしの気分や主観的願望を活字にしてヒレキする場に利用されたのでは、たまったものではない。
 特集の筆者たちは、現在の日共が完全にダメになったと否定して、それに代るべき革命的前衛党の確立をよびかけている。
 このさい、現日共の全体を否定しているのか現指導部だけを否定しているのかという重要な問題点についてのハッキリした見解は示されていない。しかし、全体の論調から察すればそれは前者であろう。いずれにしても党の確立をよびかける以上は、それを実行に移さねばならない。特集の筆者とその支持者諸君にはその用意があるのか?党のためのどんなにまじめな準備ー思想的、政治的、組織的準備がこれまでにつみ上げられてきたというのか?その後つたえ聞くところでは、この特集論文をふみ台乃至ふみ絵として党的組織への結集が訴えられているとのことだが、それはいったいどんなプラットフォームの上になされようとしているのか?特集の行動綱領的部分については後で問題とするが、それは大変オソマツで混乱したものであり、もちろんまちがっている。特集の支持者たちはこのようなものの上に党的結集が可能だとでも考えているのであろうか? たとえも少しまともなプログラムが文書として用意されていたとしても、「知識と労働」グループだけで、党的結集が可能だ、あるいはすべきだという結論をかんたんにひき出すことはできない。われわれのグループの現実的力量、その影響力はまだ比較的に小さく、関西ではともかく、全国的影響力という点ではいっそうである。このような状態の中で、特集論文にしたがって党的結集をしようとするものはさらに少数であろうから、諸君はほんの少数で”旗上げ”しなければならなぬということになる。それはもちろん党にはならず、小さい組織をさらに分裂させるだけの結果となろう。そんなことはやめたほうがよい。
 過去において、諸君より影響力かあり、より多数の人を結集できる人達が、そういう思いつめたかたちで“旗上げ”をしたが、すべて失敗してしまった。その理由を諸君は少しでも真剣に検討してみたことがあるのか。われわれは、こうした失敗の経験からも充分に学ばなければならないのだ。彼らはなぜ失敗したのか?理由はいろいろあろうが、そのーつは、五〇年分裂とその直後の時期にそうであったように、綱領論争、社会主義革命か人民民主主義革命かというような抽象的な革命の戦略論争で代々木指導部と論争することに大部分のエネルギーを費し、実際の労働運動やその他の大衆運動にとりくむ中で正しい政策・方針の確立のために闘い、運動の中で意見の相違を克服するという党内闘争のより本格的な取り組みにおいてきわめて不充分であったということが指摘されよう。反面、いろいろなグループが、党内での思想闘争を辛抱強くとことんまで行なわず、また大衆運動の中での政策対決を粘り強く追求するという方法によらず、いきなり組織的対決・別党樹立の道を急いだのではなかったろうか。彼らの多くは「別党」の旗を掲げ、代々木指導に批判的な戦略と綱領を掲げ、何千部かの機関紙を発行して、大胆に活動を進めていきさえすれば、比較的短期間の内に情勢は変る、と確信していたようである。また彼らは、日本の良心的な共産主義者たち(代々木内外の)の間に念入りに意志統一をとげるという準備活動も充分行なわないままに、待ちきれずに、 一部は代々木指導部に挑発されて、旗上げをした。だがその結果から明らかなように、大多数の党員大衆はその後については来なかった。今日党の問題についで発言し、党の原則的統一の手段を求めるものは、戦後すでに四半世紀におよぶ日共の党内闘争とその分裂のこの苦い経験を集約し、そこから教訓をひき出さなければならない。


 党の分裂後、その機関を占領し大量宣伝機関を握っていた宮本指導部は、分派よばわりと反党修正主義のレッテルはりを手段にして、彼らを党員大衆から切り離し、自己のセクト的官僚主義的支配体制を逆に強化していった。この党は、その後三〇万の党員、百万部をこえる日刊・日曜版機関紙、数十名の国会議員を擁する勢力に肥大化していった。この現実の勢力関係も当然考慮に入れられなければならない条件である。多くの国際主義的分派が押しつぶされ、分散させられていったあとに、なぜ宮本指導下の日共勢力がこのように肥大化したのか。その理由は何であったろうか。もし一言でいうなら、それは宮本指導の徹底的な大衆追随主義の産物であったといえよう。宮本指導は、八回大会から十二回大会に至る数次の大会を通じて、 “マルクス・レーニン主義の日本の現実への適用”ということを口実にして、プロレタリア党の綱領を少しづつ民族主義的議会主義的党の綱領に変質させ、人民大衆の中にある俗流的な見解、階級的に遅れた意識への迎合に外らせていった。その社会経済的な支柱は、いうまでもなく高度成長の過程で大量にプロレタリアートの陣営の中に引き入れられた非プロレタリァ的小ブルジョア的要素の拡大という事清に求めるほかはない。宮本指導は、 一九五二年の血のメーデー闘争と一九六〇年の安保闘争の高揚の中にあった米軍占領・半占領下の民族主義的ムードを用いて同じ闘争の中にあったプロレタリア的階級意識を麻ヒさせ、それを六〇年代の高成長経済が育くんだ労資協調主義の潮流と中和させ、議会を通じての、もっぱら議会を通じての“革命”–民主連合政府の樹立による安保廃棄というプログラムに定着させる一大カンパニアを行なった。
 今日世界中の共産党で公然とプロレタリァ国際主義に背き、民族主義的コースをとっているのはいうまでもなく中共と日共である。この両党は共に一九六〇年の八ーカ国共産党労働者党会議以後反ソ的傾向をあらわし、その後数年間は 「フルシチョフ修正主義」 反対、 —-実は国際プロレタリアートの平和共存路線反対 という形で両党は連携していたが、中国の文化大革命中の一九六七年に日共は中共と手を切るようになった。だがそれは民族主義の本質に根ざした分裂であり、何ほどかでも日共のプロレタリァ国際主義への復帰を意味した出来事ではなかった。従ってその後も日共の対ソ共関係はいっこうに改善されず、やがて最もロコツな民族主義的要求ー「北方領土全面返還要求」を掲げるという形で公然と平和と社会主義の勢力に挑戦し、復活した日本帝国主義の反ソ活動のお先棒かつぎの役割を演ずるようになっている。
 このように社会主義と国際プロレタリアートの利益にそむくことは即国内の労働者階級の利益を裏切ることと裏腹の関係にある。そのことは日共宮本指導部が、 一再ならず春闘における総評のゼネスト計画に反対したり、最も戦闘的な労働組合である動労、全電通、全逓、全国金属などの組織と運動に干渉して労働戦線に有害な混乱と分裂を引起したり、また教師聖職論をとなえて日教組の運動をつぶしにかかったり、最近の八鹿事件にはっきり現われたように貧困と差別に抗して闘っている部落解放同盟にファシスト的攻撃を加えるなどしていることの中に明らかである。宮本指導部は今年もまた、四月の統一地方選挙を前にして労働者の春闘運動を自党の議会主議的集票連動に解消させる方針を進めており、他方では同和行政にセクト的いいがかりをつけて、目前の地方選挙における反自民の統一戦線の条件をいたるところで破壊する戦術を採用している。このような現日共の右翼的セクト主義が独占資本の党自民党の支配延命を助けている度合は、すでに直接自民党に協力するに至っている民社党の役割にまさるとも劣るものではない。高成長経済の崩壊にともない、選挙民大衆が急速に反自民ムードに移行しつつある中では、反自民の看板を掲げながら、このようにして自民党延命の契機を作ってやっている現日共の方が支配層にとってより利用価値が高いことは明白である。
 このことに気付いていない国民大衆がまだ多いとはいえ、最近の宮本指導部の極端にセクト的で利己的な政策に対しでは、労働運動とその他の民主運動のなかで、また選挙に際しての革新統一戦線を要望する諸団体のあいだで深刻な疑念、批判、非難の声が高まるようになっている。宮本指導はその変節からすでに十余年を経ているが、これはこれまでになかったような新しい変化の兆しだといえよう。資本主義の新しい深刻な危機の到来、その中でインフレーンョンと石油危機、経済恐慌の犠牲をもっぱら労働者と国民の中の弱い層に転嫁して切抜けようとしている支配階級の激しい攻撃の下で、勤労国民大衆の気分は急速に変りつつあり、小ブル日和見主義の宮本指導の政策は、闘争以外に生きる道のない大衆から次第に見離されるようになってきた。とくに部落解放同盟を敵視している宮本指導部が、現下の地方選挙闘争で同和問題を理由に革新統一戦線を次々と分裂させ失敗させている行為は、日共への疑惑を強めている。
 今後、選挙のなりゆきによっては、日共の宮本指導がさらに広範な世論から厳しい批判と非難を受けることが必定であろう。同党の体質がこの十年来、議会主義によって固められてきていただけに、この選挙闘争において宮本指導が自らまねいた行き詰りと失敗は、同じ指導にとって致命傷とさえもなりかねないものである。


 このような客観的情勢の推移のなかで、革命的前衛的指導を再建することが焦眉の課題となっていることはいうまでもない。その路線が、宮本的な民族主義と議会主義ときっぱり手を切り、帝国主義に反対して平和共存の関係を固める中で、反独占民主主義の運動を発展させ、これを通じて社会主義への展望をひらく民主的な政権の樹立を当面の戦略的目標とするものであるという点では、すでに大方のコンセンサスができているとみてよかろう。だが、そのような路線をとる前衛党再建のための方途、その組織形態等については、遺憾ながらまだ全国の良心的共産主義者の間でコンセンサスができていない。いわゆる新党あるいは別党コース—-日共は宮本指導部の変節によっていまや全体としてダメになったので、それとは全く別に新党を結成しようとする動きは、過去に何回かみられたか、それらはいずれも成功していない。それらの試みに共通していた誤りは、変節した宮本指導部およびその機関とともに日本共産党全体にたいして清算主義的姿勢をとったことにある。このような姿勢によっては、過去の日共創立以来の革命的伝統を継承しえない。当然現日共の隊列内に残っておりあるいはその周辺にある良心的な人々—-その数はけっして少いと即断することはできない—-をひきつけ、結集していくことができない。この姿勢によっては、今後、危機の中で労働運動と民主連動が宮本指導とのあいだに重大な矛盾を深めてくる—-現にその兆候が多くの面にあらわれているのだが—-ような場合、党のランクアンドファイルと変節した指導部とを切り離してゆくことに成功しないであろう。
 一九六四年に党を除名されて以来、宮本指導部を批判し日共の正統派を自認する 「日本のこえ」は、一貫してこの種の「別党」組織に反対し、そうした動きを“別党コース”として排撃してきた。と同時に自己の組織をもって“別党ではない別組織”と規定し、結成十周年を経た昨年は第八回党大会の規約を援用して再登録を行い、この別組織確立を目途している。これは事実上の別党であろう。別党とは代々木とは別の中央集権的組織を作り、独自の指導機関をもって活動し、一定の情勢変化の時期に代々木指導にとって代ることを意図するものである。問題は、この形での運動がはたして宮本指導部にとって代りうるほど有力なものになりうるかどうかという点にかかっている。その点で気になるのは、 「こえ」 はその出発にさいして、代々木から追われまたは離れた多数の良心的共産主義者たちに呼びかけ、その組織活動方針について広くコンセンサスをとりつける手続きをとらなかったことである。一九六七ー八年にこの組織が提唱した共産主義者の 『結集」運動は、そのようなコンセンサスを作り上げる上での好機であったが、それまた不首尾に終
った。このような経過から 「こえ」 は、週刊の全国的機関紙をもつ唯一の代々木反対派でありながら、今日なお代々木に批判的な共産主義者の多数をその周囲に結集することに成功していない。従って、「こえ」 と一定の連携をもちながらも、それからは基本的に独立した多数の共産主義者の小グループが各地に存続し、大衆運動に一定の影響を及ぼしながら活動を続けているのが現状である。前衛政党再建という課題にてらして、そこからどのような結論がひきだせるであろうか。 それは、「こえ」をふくめて各地に分散する良心的な共産主義者のグループ、個人相互間に、批判と自己批判の方法による有機的結合の場をつくることがさし当って必要でありまた合目的だということである。そこでもし戦略的課題と当面の課題について意志統一が勝ち取られるならば、代々木の妨害を排しながら大衆運動に取り組み、今日の反独占的大衆運動が代々木指導とのあいだに矛盾を深める中で、宮本指導部の致命的誤りにとどめをさす展望がえられるであろう。この結合は、けっして早期に党の形をとり党を名のる必要はないであろう。それは共産主義運動の内部闘争(広い意味での党内闘争)の必要に応じた屈伸自在な、イニシァチブにとんださまざまの運動形態、組織形態を活用すべきであろう。共産主義者は、解決できることだけをとりあげる。
 革命的前衛党の確立を呼びかけている特集の筆者たちは、以上に概括したような日本の共産主義運動の困難な現状、このような経過、そのなかにみられる複雑で困難な諸問題を少しでも考慮に入れているのであろうか?またそうしたことを考えてみたことでさえもあるのだろうか。それとも、資本主義の全般的危機が今日深化しつつある中では、そのような面倒な考慮をしてる余裕はないとして、代々木を切る刃を返して、そのような考慮から直ちに前衛党樹立に賛成しない者を「日和見主義者」「解党主義者」呼ばわりしようとしているのであろうか。それこそ現実離れした“学生党”的主観主義、主意主義の袢天をつけている証左である。

4
 前衛党結集をあせっている特集論文には、その理論的背景をなしているような一連の世界と日本の現情勢分析における誤りも指摘できる。
 第一は、今日の世界情勢の基本的発展方向の把握そのものにみられる混乱ないしは一知半解である。 特集の筆者は、今日「国際的力関係は、社会主義と平和の諸勢力にとって有利な方向へと全般的に転換し」 ており 「デタントの趨勢は全世界的な規模で進行している」(P40)と書き、今日、世界の体制が両体制間の緊張緩和と平和共存の方向に向かいつつあることを認めているようである。ところが 「しかし」 と筆者たちはいう。「社会主義体制にたいする帝国主義諸国の根本的な対立関係は、支配階級のとる乎和共存政策と対社会主義接近を、社会主義体制への分裂策動をも含めて動揺と矛盾にみちた不安で中途半端なものにする」(P39)「支配階級とその右翼的反動的冷戦主義的傾向は、つねに必然的にまきかえしと反撃に出る」ので「一時的な部分的後退や停滞を生み出しうるのである」(P40)と述べ、「経済的政治的矛盾と対立によってたえず根底からゆるがされている対社会主義の帝国主義的軍事同盟の維持と補強(安保堅持と日米会談、独自核武装)を図らざるをえない」(P39)と強調している。
 これでは、今日の帝国主義にとって特徴的なその解体的傾向とその冷戦主義的まき返しの傾向とが単純に対立させて扱われており、そのどちらの傾向が今日の世界史発展の方向を決めるものとなっているかがぼやかされている。帝国主義はけっして死んではいないのだから筆者が指摘しているような帝国主義勢力のまき返しや反撃の策謀が執勤にくり返されでいること自体は事実であり、それにたいし警戒心を怠ることはできない。にもかかわらず今日の世界では、帝国主義と反帝国主義勢力(社会主義世界体制、広汎な民族解放勢力、各国労働運動の連帯した力)と、緊張緩和と平和共存への傾向とそれへの逆流と、そのどちらが優勢になり、情勢発展の基本方向を決定するようになっているのかというもっとも肝心な点を筆者は、故意にか無意識にか、アイマイにしている。そして、この点をアイマイにすることから、筆者は必然的に、帝国主義が朝鮮戦争やベトナム干渉戦争で暴威をふるい、何ほどかでも世界史の歯車を逆転させることができた一時代前の視点に逆戻りしている。この視点—-今日の帝国主義の力の過大評価と、社会主義世界体制と民族解放運動、各国労働運動の三要素が連帯する反帝国主義勢力の過少評価—- は、筆者が口をきわめて論難している日共宮本指導部の視点への意外な接近を示している。
 今日でも帝国主義の最反動派、たとえばアメリカのジャクソンとか西独のシュトラウスとか、日本の岸・佐藤とかのグループは、緊張緩和と平和共存の潮流にさからって騒々しい妨害を試みている。ソ連に最恵国待遇を与えることを邪魔したり、中東油田地帯の保障占領とか、米軍の南ベトナム、カンボジャへの再派遣とかの金切り声をあげている。しかし彼らはこれらの危険な計画にかんして国内支配上層のコンセンサスをとりつけることができず、かえって上層の意見分岐を深める結果を招いた。ジャクソンー派のあつかましい対ソ内政干渉にたいして、ソ連が一九七二年の米ソ通商協定の破棄をもって答えたことは、米財界上層をいたく狼敗させている。IBM、バンクオブアメリカなど米有力企業百七十社が参加している米ソ貿易経済委員会のケンドール委員長は米政府がこのまま手をこまねいていれば、拡大基調にあった米ソ貿易は日本、欧州諸国にとって代わられ、深刻な景気後退にあえぐいまの米経済に新たなマイナス要因になろう」 と警告、「対ソ貿易で米輸銀が二十億ドルの特別融資わくを実施すれば、米国内で新たに年間四十万人の雇用機会を確保することが可能となる。これは景気後退にあえぐ米経済にとって大きな救いとなろう」という意見を発表した。 (日経、1,23)「中東油田地帯の軍事占領もありうる」と発言したキッシンジャーは、全世界に世論のはげしい非難を浴びて、宇宙中継のテレビでその意図のないことを弁解しごまかさねばならなかった。帝国主義の冷戦派は、もはや平和共存への大声を動かせなくなっている。そのことは、産軍複合体を媒介にジャクソン派とも気脈を通じてきた米フオード大統領でさえが、SALTⅡや全欧安保の話合いにウラジオストックまで出かけねばならなかった一事によっても理解できる。ブルジョァ報道も、今年中にsALTも全欧安保も大きな進展をみるだろう、と予想している。筆者は、西独前首相ブラントの失脚をもってデタントの 「後退や停滞」の証拠としてあげているが、後継者のシュミツトはけっして前任者の 「東方政策」を変更じてはいない 。
 デタントのもとで帝国主義・独占資本主義の経済的政治的社会的矛盾・対立がいっそう激化してくるのは当然である。だがこの帝国主義の内部矛盾の激化が生み出すものは、けっして特集筆者がいっているように(P39)、反社会主義の軍事的同盟の補強という志向だけではない。同じ諸矛盾の激化からはまた、平和共存、南北問題へのより柔軟なとりくみという方向へのいっそうの傾斜も生み出されるのである。そのように捉えるのがより弁証法的ではないか?
 特集の筆者は、かしこそうに次のようにいう—-「支配上層の対外政策上の二面性と矛盾の基礎には、帝国主義の本質が生みだす一般的政治的目的(反動的目的のことかー堺 )と一国の客観的な国民経済的な利害の矛盾に基く客観的な矛盾対立がある。だが支配上層が後者(国民経済の利害のことー堺 )の自覚とその優位において行動することを待機することは全く問題になりえない」 と。誰れもそんなことを「待機」 などしてはいない。労働者階級は、その国の対外政策の状態の如何にかかわらず生きるためにはその斗争をすすめなければならない。国民経済はその内部に深い階級対立をはらんでおり、国民経済にかんする政策のあり方に主な影響をあたえるものは、国内における階級斗争の発展程度である。一方支配層の対外政策上の立場は、もちろん国内的事清を考慮に入れているとはいえ、それはより広い国際的な力関係の全体、その下での国際的な利害関係に基いて決められている。今日の資本主義諸国は大てい、国内では労働者階級にたいする圧迫体制を強化しながら、対外政策の分野では社会主義諸国との外交関係を調整し、経済協力をも拡大してゆく政策に移っているではないか。ところが特集の筆者は、このように本来次元を異にする二つの問題をキカイ的に直結するトリックを用いて、頭の弱い人に次のような全く誤ったお説教を信じこませようとしている。「労働者階級が国民的な指導階級として、平和と平和共存を目的とする首尾一貫した自らの対外政策 を掲げて闘うときにのみ、支配上層内部の矛盾を深刻なものとし、客観的な国民経済的利害の命ずる方向へその対外政策を向わせることができるのである」 と。これは事実上、わが国の国際関係の改善と、それにともなう国民経済の客観的条件の改善を、わが国の労働者階級が 「国民的指導階級として」「首尾一貫した対外政策をもつ」ようになる日まで待て!というにひとしい。それは字面だけ左翼的な、全くの日和見主義の主張である。
 今日、日本の労働者階級の戦線はなお分裂しており、従って首尾一貫した政策の下に統一されているわけではない。だが今日のインフレ下の総需要抑制という名の縮少均衛政策=独占集中策のあらゆる犠牲をしわよせされているかれらは、このような議論をしている間にも闘わないわけにはいかず、事実、仕事と雇用の確保、大巾賃上げを要求して闘争に立ち上っている。この大衆闘争の圧力が、弾圧や懐柔政策では到底おさえきれず、のりきれなくなるところまで大きくなるとき、支配上層は政策転換を強いられ、雇用、原料、市場、金融などの諸面において対社会主義市場への接近拡大をもふくむ拡大均衡政策への転換を図らぎるをえなくなるであろう。近年米ソ間貿易の取引量がかつてない急増傾向を示しているが、その背景にあるものはいまや8%をこえたアメリカ経済の高い失業率であり、米国上層内にデタントへの一定の逆流傾向がうごめいているにもかかわらず、米産業界をして対ソ経済協力の拡大に向けてつき動かしているものは、雇用維持・拡大ののっぴきならない要求だったのである。
 いうまでもなく一握りの独占集団の利害と国民経済全体の利害の間には鋭い相違と対立がある。だがこのことから独占的支配上層が国民経済の利害を全く無視してその支配を続けうるなどと考えるならば、それは正しくない。日本の自民党に限らず、一握りの独占体の狭い階級的利益の追求にのみ身を任せて国民諸階層の状態を全く考慮に入れないような政党や政権があるとしたら、それは今日の階級勢力関係の下では、おそかれ早かれ選挙によって政府の座からほうり出されてしまうであろうからである。このような国内の政治的危機に迫られながらも、自己の利潤への関心から国内の分配関係にだけは手をつけたくないとと欲している独占資本家的上層に、経済恐慌からの活路を、まず第一には海外進出の中に求めようとする。だが今日の資本主義世界市場の完全にゆきづまった、競争に充満している現状の下では、それは一時的例外にはともかく、一般的には困難というよりは不可能に近い。そこで、支配上層の中のより見通しのきく部分は、かれらが決定権をもっている対外政策の分野で東西接近をはかり、未開拓の分野で大きな将来性を約束する社会主義世界市場への進出策をねり、また社会主議国の平和へのイニシアチブをうけ入れて、その下で帝国主義によつてはもはやつなぎとめられなくなっている南の世界との関係を、何とか破局から救い出したいと願うようになっているのである。帝国主義ブルジョアジーのこのような主観的意図とは無関係に、このような現実の動きは、世界的規模での資本主義から社会主義への移行過程を早めている。
 どうやら、特集の筆者たちの救い難い誤りの根源のーつは、今日における平和運動=平和共存の関係を確立する運動と労働運動の課題の相違を理解せず、両者を全く混同している点にあったことが明らかになってくる。筆者たちはいう 「労働運動が支配層内部のあれこれの政策的分岐の単なる付属物にならないためには、労働者階級の掲げる外交政策、方針はその基礎をなす内政の根本的な変革、転換の方針との必然的な連関において、金融寡頭制支配の現体制とは異なった客観的経済的基礎をもっで提起されなければならない。労働者階級とその前衛は、独占の支配を打倒し国民経済を現実に指導するための準備をつねにおし進めることによってのみ、支配階級に政策転換を押しつけ、その中途半端で動揺的な部分的な対社会主義接近を一貫して拡大し発展させることができるのである」 (傍点堺)。これはほとんど空語であるだけではなく、今日の平和運動の未曽有に広範な性格を理解せず、それを労働者階級の革命運動の課題と同列視し、革命を要求するのでなければ平和と平和丑存はかちとれないものであるかのように主張することによって、今日の平和の戦線を全く幅のせまいものとしている点で全く有害な見解であるというほかはない。今日、平和と平和共存を求める平和運動は歴史上かってみない最大限に広範な性格をもっており、社会のあらゆる階層を包含する一大潮流を構成している。労働者階級は、本来的に平和を求める階級であるが、平和運動は労働者階級の独占物ではない。そこには世界の推移の客観的の方向について肯定的見解をもつ支配上層の部分も包含されるし、またそうされねばならない。そうでなければブレジネフはニクソンやフオードと会う必要はなかったはずである。今日、資本主義諸国の支配層を(そのすべてではなく、またその間に程度の差こそあれ)社会主義との交渉=平和共存下での経済、技術、文化的協力の方向につき動かしているものは、単に各国内の階級闘争の圧力—-その発展は各国内できわめて不均等である—-だけではなく、世界的な—-貸本主義と社会主義との両体制間の—-力関係(政治的軍事的経済的な)の根本的な変化である。一九七〇年代に主な資本主義諸国が残らず、あいつぐ通貨危機、石油・ェネルギー危機、経済危機に見舞われて、その成長率がきわだって鈍化しているとき、社会主義諸国は、これらすべての危機の圏外に立ち、7~9%の高成長を続けている。すべてこうしたことが今日の平和共存の大勢を決定しているのであり、本来その発展が不均等である各国階級闘争の状態が直接各国の東西接近の程度に関係しているわけではない。この事情は、各国労働運動にとっては、その条件であり、決してその結果なのではない。だが各国の労働運動が今日異口同音に平和を要求し、平和運動のもっとも一貫した支持者として立ち現われでいる理由は、別のところにある。それは、平和と平和共存の下で労働運動が最大限に発展しうる自由を保障されるからであり、戦争と戦争準備の条件下では、すなわち冷戦の下では労働運動への圧迫と迫害が不可避的に強まるという理由によるものである。労働運動が平和運動を自己の課題としてとりあげねばならないのは正にこの意味においてであり、それ以上でも以下でもない。特集筆者のように平和運動の課題を労働運動の課題、それも金融寡頭支配の変革という革命的課題に従属させ、両者を不可分の課題であるかのように規定することは、今日の平和運動に即座に分裂と弱化をもたらし、もっとも反動的な帝国主義者の策動を利する条件をつくりだすことになるだけである。

5
 国際舞台の問題から、国内の階級闘争の問題に移ろう。「労働者階級は根本的な変革のための革命的な要求とならべて、独占体とその政府にたいして即刻の実現を迫るべき部分的で改良的な政策転換の要求を掲げてたたかわなければならない」 云々。 これは至極当然なことである。最低賃金制の確立、その物価スライド、公共料金の値上げストップ、公務員労働者へのスト権の回復、現下の総需要抑制政策の拡大均衡政策への転換などが当然後者の中心的要求として前面におし出されるべきであろう。
 ところが特集筆者の要求はそうしたものとはかなりちがったものであるようである。「今日の恐慌の深刻化の下では、日常的な経済闘争において、同時に、国家の財政金融政策の転換とそれに必要な一連の独占体の国有化を含む根本的な変革の要求を何ほどかでも系統的な政策として掲げてたたかわなければならない」「それなしには、実質賃金の切り下げから身を守り、賃上げをかちとり、生活水準の引下げと耐乏生活の強要に対抗して生活諸条件を改善する上で一歩も前へ進むことはできない」云々。
 いったいこれは誰にたいして説教されているのか?・主語が 「労働者階級」 となっていることから考えれば、それは当然その一般的なあり方である労働組合にたいしでも勧告されているのであろうが、その「日常的な経済闘争において」「一連の独占体の国有化の要求」を同時的にもちだせというのは、今日の労働組合の破壊にも通じかねないハネ上りの—-まさに学生党的な要求とでもいうべきものであろう。この種の幼稚で生硬な「外部注入」論的なセクト主義がこれまでどれほどわが国の労働運動の健全な発展をさまたげてきたことか?爪のあかほどでもそのような反省があってよさそうなものだという願いを特集の筆者たちは、こうして無惨にうちくだいてしまう。
 ほとんど代々木政策の批判と真の前衛党樹立の抽象的よびかけに終始しているこの特集の唯一の具体的政策部分は、その前文末尾に掲げられている「部分的な変革の政策」「即刻の実現を迫る闘争のスローガン」10項目にしか見出されない。これがおそらくその党的組織のための「行動綱領」「最少限綱領」に当たるものなのであろう。ところがこれは何ともオソマツ、全く混乱したアタマの産物としか評しようのないものである。詳綱は別の論者にゆずるが、即刻実現を迫る斗争の要求といいながら、平和斗争の重要な争点である「核防条約即時批推」の要求が脱けていたり、今日の労働運動の発展に不可欠の重要性をもつ「公務員、公企業体労働者のストライキ権奪還」要求が忘れられていたりする。かと思うと、「法人にたいする強累進課税」(法人といえば全法人を意味する)とかインフレを止めるための 「厳重な物価統制」とか、中小企業者や小企業者を怖れさせるようなスローガンが掲げられている。「小農経営にたいする経営保障と自発的協同組合化」 という本来両立しない要求を妥協させようとする試みがみられる一方、「倒産企業、閉鎖工場にたいする労働者による生産管理」 というような新左翼的スローガンも並べられている。何とも奇怪なのは、公共事業関連部門、とくに住宅建設関連部門の国有化という要求であり、それが一〇項目の筆頭第一に掲げられていることである。エネルギー産業の国有化がそれに追加されてはいるが、これは当面国有化要求を必要最少限なものにしぼって提起しようとしているものなのであろうか?だとすればその意図は、国有化を当面エネルギー産業にしぼって提唱している日共の現政策とも共通な配慮をしているものといえよう。ところがである。そこにいう公共住宅建設部門とは、筆者らによれば、私鉄、電力、ガス、セメント、鉄鋼、土木建設等と注記されているので、それは事実上大部分の重要産業の範囲に及んでおり(残るのは電機と自動車、造船と海運、繊維と食品位いのものとなる)、しかも企業の大小の区別もなく「系統的な国有化」 の対象とされるのだから、今日苦境にある中小零細土建会社も国有化の対象に含まれることになってしまう!これは日本の経済社会の現実に照し合わせるなら全く支離滅裂なスローガンであり、 一方でマイホーム主義の小ブル大衆への追随の意図をちらつかせながら、他方では彼らを迷わせたあげくあざむくプラグマチズムの、もちろん革命的マルクス主義者の要求とは全く無緑なスローガンとなっている。特集筆者の一〇項目要求に欠けている本質的なものは階級的立脚点であり、 一貫した反独占的な視点のあいまい化である。
 共産主義者は、その綱領を隠蔽する必要は少しもないと、マルクス主義の創始者たちはいった。—-「共産主義者は、自己の見解や意図をかくすことは恥とする。」彼らは「労働者階級の直接当面する目的と利益とを達成するためにたたかうが、しかし、現在の運動のなかにあって、同時に運動の未来を代表する」(マニフエスト」 第四章。)この教訓は今日でも全く正しい。われわれは、革命の現段階をつうじて一貫して追求すべき基本的な諸目標ー社会主義への展望をひらく反独占的人民政権の樹立、さし当っては自民党政治独占の打倒、国家諸機関の全面的民主化、重要産業と金融機関の国有化、少くともそれにたいする民主的統制の確立、その下での勤労大衆の労働条件と生活水準の抜本的改善などの諸要求ーを少しもあいまいにする必要はなく、また絶対にそうするべきではない。必要なことは、 労働者階級と勤労大衆の当面の諸要求貫徹の闘争において共産主義者が現在その先頭に立ち、もっとも有効にこれらの諸要求実現のために献身しながら、現在の運動を右の基本的な目標に結びつけ、労働者階級の意識をたえず高めてゆくことである。従って、共産主義者のプログラムにあっては、当面の諸要求をその綱領的要求に結合することこそが重要なのであって、特集筆者のように両者の間に隔壁をつくり、前者と後者のあいだに万里の長域をつくるべきではない。したがって共産主義者の「当面の要求」とは、けっして特集筆者がいうように 「部分的で改良的な政策転換の要求」 の水準にまで引下げてよいものではない。特集筆者が掲げている綱領が、日共のそれに新左翼のコショウをまぶしたようなだらしないものになっている真の理由は、まさに右の点にある。

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 終りに、老婆心から一言しておこう。特集も私論も日共の議会主義を批判し論難してきたが、しかしそれは今日の国家機構の中に占める議会の重要性をいささかでも軽視させる議論であってはならない。一般国民が広汎な参政権をもつ普通選挙をつうじて成立している今日の資本主義国の議会は、国家機構の中でもっとも世論の影響をうけやすい、特異な部分をなしている。反独占的民主勢力は、ひんぱんに行われる選挙斗争へのとりくみの如何によっては、民主勢力の代表者を多数議会に送りこみ、反独占的な諸要求を国政や各級地方政治の上に反映させてゆくことができる。それに止まらず、議会内外にわたる反独占統一義線の結或によっては、政府をさえ変えるニとができる。このような事情にあるため、議会は、独占資本家的上層の利益に奉仕している現在、ブルジョァ国家機構の中でもっとも傷つきやすい部分である。現代の国家独占資本主義における国家の相対的独立性とは、まず第一に、このような議会の地位と役割にかんして理解されねばならない。
 しかし議会をつうじて民主的諸要求を国政の上に反映させてゆくためには、選挙斗争と議会内斗争へのとりくみだけでは、決定的に不十分である。議会外の労働運動その他の大衆運動が強力、広汎に展開され、それが選挙闘争、議会内斗争と有効に結合される場合にだけ、支配階級はその政策上に一定の譲歩を行う。そしてこのような譲歩は、前にものべたように、 一面ではそれは民主勢力の獲得物であるが、他面では支配層が反独占運動を鎮静させ分裂させるための投餌である。したがって議会内でこのような譲歩を重ねさせるだけでは、すなわち議会主義によっては、政権への接近はできない。戦斗的な大衆運動に背を向けて、選挙闘争にだけ全力投球している代々木の議会主義によっては民主連合政権に接近しえない所以である。反独的民主勢力は、支配階級からかちとった譲歩を、それ自身の大衆運動前進の陣地に転化し、労働運動の統一をつよめ、それを中心にあらゆる大衆運動の結束をいっそう拡大強化してゆく場合にだけ、支配階級の校猪な策謀を打破り、反独占戦線の政治的影響力を圧倒的なものにまでもりあげてゆくことができる。
 この過程はけっして一直線なものではなく、大衆運動の浮沈、弾圧と反撃の交代する幾過程かを経るであろうが、今日変動のテンポを早めている資本主義の全般的危機の醸成がついに支配の、上層の危機を到来させるようなとき—-それは過去にも一度ならず到来したし、これからはもっとひんぱんに訪れるあろう—-たとえば今日の民主的革新勢力とよばれるような 結束がついに議会の多数を占め、革新政府を樹立する機会が到来してこよう。反独占勢力は全力を結集してこの政府を支えると同時に、それが一貫した反独占的政策を実行に移すことを要求しなければならない。しかしこの場合でも、すなわち、議会と政府が革新勢力の手に握られるに至った場合でも、その他のぼう大な国家機構ー軍事警察司法機構と国民経済全体の敢制高地をなす経済諸官庁とその無数の付属機関は依然として金融寡頭制と癒着したままの状態にあり、ひきつずきその権力を行使しつづけている。それらをそのままにしておいたのでは、革新政府は何ひとつ反独占的政革をおしすすめることはできず、反対に、官僚組織のおこなうサボタージュや反抗によって手足をとられ、資本逃避やインフレーションの大波に洗われ反動家どもの逆宣伝にあって首をしめられてしまうことにもなりかねない。
 したがって、誕生した革新政権がその存立をまもり、反独的政策を実行に移していくための不可欠な措置として、まずもって軍事警察機構の徹底した民主化、保守的高級官僚の入替えがなされなねばならず、併行して、民主的経済統制にのり出すため不可欠な重要産業と金融機関にたいする国有化措置が、日程に上されねばならない。これらの措置は、労働組合をはじめとする戦斗的な大衆運動の強力な、直接的な支持と参加なしには着手し、推進できないであろう。
 社会が現実に変革期に入ったことをおしえるこのような局面ー政治の熱い時期の到来は、何百万、何千万という大衆の政治的意識を一挙に、飛躍的に高め、彼らのイニシアチブを最大限に解放することとなろう。
 社会主義への途をひらく反独占的で真に民主的な政治権力の確立、それを生みだす政治革命への展望は、右の情勢のなかで具体的なものとなってくる。
(七五・二・二八記)

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田崎晋論文(『知識と労働』10号)と 日本共産党七五春闘方針について

田崎晋論文(『知識と労働』10号)と 日本共産党七五春闘方針について
                                                                                                        永杉 泉

 「一国的および国際的規模でのプロレタリアートの行動の統一こそ、労働者階級のファシズムと階級敵に対する防衛を成功させるだけでなく、また反撃の成功を可能にする強力な武器である」 (ディミトロフ『反ファッショ統一戦線』)

「七四春闘の成果と残された問題–労働運動と『前衛党』」
 (『知識と労働』第10号田崎晋論文)–以下田崎論文と略す–と日本共産党の七五春闘にあたっての無署名論文「国民生活擁護と政治革新をめざして」–以下日共方針と略す–一見奇異にみえるこの二論文をあえて併列したのは、両論文が、その結論において、意図はどうあれ、同床異夢といわざるをえない共通の問題点を有しており、しかも、これが日本の労働者階級の闘いにとって、数々の混乱をもたらしてきたし、もたらすであろうからである。つまり、田崎氏は批判の対象をつらぬく誤った論理を批判の出発点としているのではないか。
 最初に両論文の結論部分の簡単な論旨を紹介しておこう。
 田崎氏の主要な関心は、 「マルクス主義的政治」、 「党レヴェル」 からの春闘総括だという。田崎氏はそのために前衛党創出を目的意誠とする労働運動でなければ、経済主義に陥る。マルクス主義の立場に立つ前衛政党の確立がさし迫った急務となっており、そのための運動の環は、社会主義を掲げ、反独占民主改革のプログラムを労働運動につねに持ち込むことであるとされている。
 日共方針では、春闘の成否は、組合民主主義(政党支持の自由が中心)の徹底と政治の民主的革新にかかっているとされている。
 見られる通り、両論文は、労働者階級に対する指導の重要点として、 一方が反独占の民主的改革のプログラム、他方が政治の民主的革新の外部からの注入を強調し、両者は奇妙に符合していることに気づく。相違点は、その注入される意識性として、日共方針が議会主義を志向し、田崎氏が前衛党創出をめざしていることであろうか。
さらに、具体的な両論文の特徴的な主張を対比してみよう。

 田崎論文–「しかし、より重要なことは、原則的な問題の提起においては、改良は『革命的階級闘争の副産物』 (レーニン)だということである。危機の打開策として、独占体の危機の系統的な国有化と民主的な統制を伴う抜本的な反独占的変革およびそれを政治的に保障する反独占人民政府の樹立をつねに要求することなしに、当面の限られた部分的な要求のみをかかげて闘争することは、独占ブルジョアジーとその政府の支配の持続性を保障した上で、その若干の手なおしと手かげんを懇願することにしかならない。そのような闘争によっては、労働者階級の前進に何ほどかでも意味のあるような改良をかちとることさえできない。」

 日共方針–「労働者階級と国民の切実な諸要求を真に実現するためには、巨大な戦線の結集と同時に日米軍事間盟と手を切って、平和・中立の日本への進路をすすめて、日本経済の自主的・平和的発展をかちとるという真の政治革新の展望と結びつけて春闘を闘うことが、いよいよ緊急な課題となっている。・・・ 七五春闘勝利の展望は、この革新統一の事業の成否にかかっているといっても過言ではない。」

 田崎論文–「このような議会主義、選挙第一主義にたつ共産党の政治コースにたいして、かって一九六〇年代を通じて解党主義者がそうしたように、労働組合主義、経済闘争第一主義を対置してことたれりとするものは、経済主義の誤りに陥るものである。」
日共方針ー「わが党は『労働組合運動と政治革新の展望』の中で、日本の労働組合運動の中から、革新統一戦線の見地・を否定し、ストライキの“積み重ね”だけをもっぱら強調する組合主義的立場を克服することの重要性を強調した。今日の情勢は、このことの必要性を一層つよく求めている。」
 両者の共通項は、いうまでもなく、今日決定的に重要な労働者階級の統一、そのための具体的な政策、方針の提起ではなく、労働者の切実な要求の蔑視とセクト主義、政治主義の労働運動への押しつけである。
 このように、両者は、労働運動の指導にたいして本質的に同じ立場にたち、そこでは、労働運動への抽象的スローガンの注入(代々木にあっては政党支持の自由、田崎氏にあっては、「反独占民主改革」の注入)こそが最大の関心事である。
 もちろん、反独占民主改革の闘いの重要性については、いうまでもなく自明のことである。だが、問題は、日本の労働者階級をしていかにしてそれへの自覚に到達させうるのかという現実の道すじを示すことと、それに向けて分裂しているわが国の労働者階級を統一するために何をなすべきかということであり、このことを抜きにしてはすべて空文旬である。単に 「反独占のプログラム」 を日本の労働運動に注人することによって、現実の運動はいかほどかでも前進するというのであろうか。
 ちなみに、代々木にあっては、民主的改革のブラン(極めて不十分であるとはいえ)注人が、議会主義的選挙斗争への引きまわしという形で行っていることはここではおくとしても、「反独占の民主的改革」のスローガンについては、昨年の総評大会において、大木事務局長に語らせるならば「方針全体をヨーロッパのそれ、CGTスタイルに改めた」 というほど随所に羅列されている(もちろん十分整理されていないが)。
 だが、ヨーロッパの方針を直輸人して、運動がいかほどか前進したであろうか。現実はそれを示している。問題は、代々木の 「民主的改革」 の方針がただ理論的・思想的に間違っているというところだけにはない。要は、この闘いの前提としての主体的条件と闘争経験である。
 フランス、イタリアの労働者階級の闘いを見るまでもなく、ヨーロッパの今日の運動の到達点は、労働者階級の直接の経済的、政治的利益の擁護の闘いが、全ての労働者統一戦線の出発点となり、主内容として闘われた数多くの諸経験を経て、要求獲得闘争における経営内生産点の要求を社会改革の要求に結合、成長転化させ、労働者階級をして、反独占民主改革の闘いの必要性への自覚に到達させているのである。 (イタリアの69年の暑い秋を見よ。ここでは、たとえば時間短縮という経営内要求から出発して、余暇の再組織や雇用の増大の要求へ、さらに進んで、交通・通勤問題へ、住宅問題や都市改革闘争へと発展している。労働者の直接の経済的利害、欲望の擁護の闘いの発展の弁証法の生きた実例である)また、最近のヨーロッパの連動を見ると、単純で一方的なプランやプログラムの提起ではなく、大衆の要求や闘争の発展と緊密に結びついた形で、何よりも巨大な統一闘争をふまえ、プランやプログラムが提起され、大衆自身のものとなっている。
 ひるがえって日本の現状はどうであろうか。日本の労働者階級の闘いは、直接の経済的要求においても統一されておらず、また資本の利潤、メカニズムに食い込むような本格的闘争の経験をもっていない。労働者階級は、企業別組合に分断され、労働者階級の行動の統一も実現していない。
 この現実下で、われわれに要求されているのは、このような現状を克服するに、「今、何をなすべきか」である。
 代々木の議会主義に対する、マルクス主義政治の単なる対置ではなく、必要なことは、労働者階級の大多数を獲得するための現実の政策である。現実の諸条件を無視した外部注入論がいかに危険なものであるかはいうまでもないであろう。
 周知のように、マルクス・レーニン主義党の歴史上、党によって長短はあるが、主としてイデオロギー活動にだけ従事する時期がある。しかし、この時期が長びくならば、閉鎖性とか、自己のイデオロギー的純潔を守ることを名目として異説をもつ者との間に障壁を設定する志向とか、最後的には、レーニンが皮肉に 「口先だけのマルクス主義」 と呼んだような不可避的な病気となってあらわれる。レーニンは、このような「ロ先だけのマルクス主義」を任ずる人々を批判して、彼らが何ごとかを証明したり、また何ごとかに同意しないとしても、それはしばしばマルクスからの引用をもとにして 「マルクス主義の核心、その精髄をなす点、すなわち、具体的情勢の具体的分析」を避けているのだと述べている。
 現実の状況から切り離され、大衆の実際の必要や要求を考慮しない宣伝の書生的、インテリ的性格は、 「共産主義者」を孤立に導くであろう。
 コミンテルン第七回大会で、ディミトロフはこれを批判して、「共産主義者がマルクス・レーニン主義的分析の知識又は能力に欠けているくせに、 『危機からの革命的な脱出口』といった一般的な空文句やスローガンでおきかえている状態に対して終止符を打たなければならない」 と厳しくいましめている。
 田崎氏が今一度これを想起し、冷静な批断を下すことを望むものである。

 氏によれば、社会主義をいわず、反独占政府をいわない者は全て日和見主義者になるらしい。だがマルクス・レーニン主義者は、社会主義革命のための闘争のよびかけにとどまることなく、大衆が資本主義的略奪と搾取から自らを守るために本日何をなすべきかを彼らに示さなければならない。
 労働者階級の行動の統一は、宣言からはじまるのではなく、具体的目標のための闘争からはじまる。抽象的な呼びかけ、マルクス・レーニン主義思想の宣伝組織だけであっては、田崎氏が熱望している「党」は、幾多の代々木外共産主義者の失敗と破産の歴史から何の教訓も汲みとろうとしない、性急な「小ブルインテリ集団」 に終るであろう。
 マルクス・レーニン主義者は、労働者階級の内部に生じている全ての問題に責任をもち、どのような小さなあらわれであっても、大衆の要求を労働者の共同行動に組織するために、あらゆる機会を利用することを学び、これらの小さな問題を大きな政治問題に結びつけなければならない。
 そのためには、抽象的な呼びかけでなく、大衆行動を組織するスローガンを提出しなければならない。このことは自明のことであり、また代々木の今日の偏向を克服する道でもある。抽象的スローガンの教示で代々木の偏向は決して克服しえない。現実的な労働者階級に対する正しい政策指導(代々木は無方針と議会主義)と大衆闘争の圧力によってのみ、日共宮本指導部の偏向を克服し、田崎氏が熱望している前衛党創出が可能となるであろう。
 だから、われわれは、賃金闘争、経済的要求でさえ統一的に闘えない、わが国の労働運動の現状を克服するために、労働者階級の統一行動実現のために、企業別組合を脱却し、産業別組合への移行と接近のための政策についてこそ、われわれの内部で十分な論議をまき起すことを呼びかけるものである。
 ところで、田崎氏の論文を貫くセクト主義に対しても今日批判が必要であろう(氏の見解に同意しないものは全て改良主義者、経済主義者となる)。このことは、わが国の労働者階級がセクト主義の弊害により数々の混乱を重ねてきたという理由だけではなく、われわれ自身もにがい経験を有しているからである。
 かっての全共闘運動、ニューレフトグループ運動に見られるように、セクト主義は、通常若くて弱い運動に随伴する。これは、ようやく闘争を開始したグループが自己を保持しようという自然な願望として、自己が大衆から切り離れていることとか、あるいは、教条の表面的解釈では、新しい現象を説明する能力のないことの“正当化”として理解することができるであろう。
 これをレーニンが「左翼小児病」と呼んだのは十分根拠のあることであり、運動が成長し、成人になるとともに、経験が蓄積され、闘争過程で 「小児病」 は克服されることを確信していたのである。ひとりよがりのセクト主義に対する闘争は、今日特に重要といわれる所以である。
 最後に、田崎氏が、このようなひとりよがりの「左翼小児病」破産したニューレフトの再生に陥ることのないよう切に祈るものである。

カテゴリー: 民学同, 社会運動, 運動史 | 田崎晋論文(『知識と労働』10号)と 日本共産党七五春闘方針について はコメントを受け付けていません

古くて新しい問題 –田崎論文批判–(知識と労働討議資料)

<古くて新しい問題 —-田崎論文批判>   大 木 透

 「知識と労働」 誌第一〇号は”七四年の大衆運動とマルクス主義”を特集し総論的な”特集にあたって”各論的な七四春闘、原水禁運動、教育運動などの総括を通じて、日本共産党宮本指導部(以下宮本派という)のよく知られた右翼的偏向の数々を指摘するとともに、その現実的な克服の道として前衛組織の確立を提案している。
 私は同誌の同人であり編集委員会の一員であるが、これらが、労働グループの討議も編集委員会の共同討議も至ずして公表されたので、問題点を多く含む”七四春闘の成果と残された問題” —-労働運動と 「前衛党」—-に展開されている田崎晋氏(以下氏という)の諸見解を検討しこれについて一定の意見をのべる義務があると考える。
 だから小稿が「知識と労働」 グループの理論的思想的統一と団結強化にいささかでも貢献しうるならばこれにまさるよろこびはないしまた本論はこれだけを目的としている。

氏の見解の要旨
 氏が展開している、わが国の労働運動の現状に関する総括の基本的立場および結論はおおよそつぎの三点に要約しうる。
(1)まず総括の視点として「単に労働組合運動の内部で、組合幹部の指導力と組合の戦闘性の問題としてのみとらえることは本質的誤りであり…闘争過程全体を貫ぬく変革主体の側の最も根本的な重要な問題として、たえずそこに(前衛党の問題にー引用者)立ち帰って検討し考慮することなしに、春闘の総括もその成果も論じることも不可能である。…(それゆえにー引用者)特殊労働組合運動レベルでの問題は、その具体的政策の問題も含めていわば副次的に取りあげるにとどめる」と前後の文脈から判断して、これがマルクス主義にもとずく、労働組合運動の正しい認識方法であるとされているらしい。
(2)この基本的立場から氏は「今春闘の成果の基本的性格は、下からの自然発生的高揚が闘いとったものだということ、このような成果はインフレの問題ひとつとってみても何ら根本的な解決を与えるものでないのは勿論、それの直接の経済的獲得物については支配階級とその政府によって全く瞬時のうち取りかえさせる一時的譲歩にすぎず、ただ次の闘争の出発点そのための組織的基盤、「意識性の萌芽』としてのみ真の意義をもちうることである。後者の意味において、春闘の成果は労働者階級の真の前衛党の確立という任務をあらためて、もはや一刻の猶予も許さないほど切迫した問題として、日本の労働運動の自覚ある部分に提起したのである」と結論している。
 これは、ご存知の 「なにをなすべきか」の基本命題である、階級闘争の自然発生性(経済主義、労働組合主義)と意識性(マルクス主義)というカテゴリーをそのまま図式主義的に、現在のわが国の労働運動に適用し 「意識性の欠如」を導き出し、宮本派にかわるマルクス主義政党確立の緊急性をのべたものである。
(3)従って、確立されるマルクス主義政党は、日本労働運動を前進させるために、「国有化とその民主的管理と統制、反独占人民政府樹立」等を主内容とする、 —-今日における高度に発達した資本主義諸国共産党の国際総路線である、社会主義への接近のプログラムを改良の要求とつねに同時に要求してたたかわなければならない。そうでなければ、なにほどかでも意味のある改良は一切勝ちとられない。
 論者の提出した七四春闘総括の結論は以上のようなものである 。
 われわれはこれについて、 一般的抽象的論議として、とりたてて、異論をとなえようとは思わない。
 それは、現実運動にはかみあわない結論だからである。
 ただマルクス主義が行動の指針であり真理がつねに具体的であるからには、これらの見解が、今日のわが国の労働運動がおかれている客観的主体的条件に則して、いかなる実践的意義をもつものであるかは、真険に検討されなければならない。問題はそれ以上でもそれ以下でもない。

批判の前提
 本論を通読してまず第一に疑間に思うのはつぎの諸点である。すなわち、氏が改良要求と 「つねに」 「並べて」要求すべきとしている最大限綱領あるいは“過渡的綱領”–反独占民主改革プログラム–は、その政策・戦術そのものの内容を問うまえに、一体誰がかかげる要求なのか、それは具体的にいずれの主体勢力ー党なのか労働組合なのかである。つまりそれが党の政策と戦術に関するものとすればいまさらくり返すまでもなく、単にマルクス主義の当然の前提を再言したにすぎない。現に批判の対象とされている宮本派も第八回大会綱領として、内容はともかく”社会主義”をかかげている。また、そのほかのさまざまの色あいの政治潮流も、おしなべて”いまこそ社会主義を”と呼号している。
 しかし、もしかりに、氏が“反独占人民政府樹立”のスローガンを労働組合が「つねに」要求しなければならず、またそれなしに「なにほどかでも意味のある改良は勝ちとれない」 といっているのであれば、問題は別である。われわれは、氏が、当然、党の綱領問題を論じていると仮定した。だから、ここでは、問題を一歩進めて、批判の重点を、共産主義者の任務が最大限綱領を百万回くり返す”思想運動”(武井昭夫氏らの主宰する運動をさしているのではない)にはなく、労働運動をはじめとするあらゆる一般民主運動の発展方向をさし示し、大衆を闘いに立ち上らせ、その闘争経験を通じてはじめて党綱領を大衆自身のものとし–物質的力に高めうるのだという運動論においた。だが、いまもって、党と労働組合を区別せず、党を労働組合の執行機関に解消したり、あるいは反対に、労働組合そのものを反体制的政治組織に昇華させて、実質的に解党主義に走るといった誤った思想が根強く残存していることを考慮するならば、氏のこのアイマイさは問題である。
 いまひとつ、これに関連して、是非問いただしたいし、またまた懸念されるのは、氏が展開している労働運動論ーつまり、”革命なしに改良なし”は、今日の国独資下における全般的危機の新しい段階に対応するそれ以前の段階とまったく異質な政治路線の”ニューモデル”として提起されているのであるかどうかである(氏は 『つねに』とのべているのでおそらく一般論であるのかもしれない)。つまり、これが、意図はともあれ、かってトロツキーがコミンテルン第七回大会(一九三五)のよく知られた諸決議に敵対し、それへの対案の一部として提出しようとしたつぎの立場と内容的にどう異るのかということである。
(すこし長くなるが引用してみよう)
 トロツキーはこう断言している。「現代(恐慌と帝国主義の衰退期)における労働組合は、労働者階級の日常的必要に役立つということに自らを限定することはできない。労働組合はもはや改良主義的であることができない。なぜなら客観的諸条件は重要で持続的な改良のためのいかなる余地もあたえないからである」「したがって古い最小限綱領はプロレタリア革命にむけて大衆を系統的に動員することを任務とする過渡的綱領にとってかわられる」「帝国主義衰退期において労働組合が真に独立的でありうるのはそれが行動においてプロレタリァ革命の機関であることを意識しているときだけである。この意味で第四インターナショナルの大会決議である過渡的諸要求の綱領は党活動の綱領であるだけでなく、またその基本的性格において労働組合活動の綱領でもある」(「帝国主義衰退期における労働組合」傍点ー引用者)。

 われわれは(そうあってほしいと願うが)氏の見解を曲解しているのかもしれない。また氏の表現が、トロツキーのそれに酷似しているという理由だけから氏を責めようとも思わない。ただ、ここで最小限いいたいのは、このようなトロツキストの図式主義的な単純化された極左主義が、一九三〇年代後半の、まさに社会主義が問われ全運動の統一が課題であったその時に、世界のいたるところで、全民主運動、労働運動、反ファッショ闘争に分裂と混乱をもちこみ、労働者階級に多大の犠牲と損失を与える結果をもたらしたこと、この歴史的事実に、氏は、少しでも考慮を払っているかである。
 われわれは早まわりしすぎたかも知れない。しかし、氏が、全体的にややもすれば(みずからの主体的力量を考慮してか)”革命”と“党”を語りながらそれを「要求」するとか「かかげる」 とだけしかのべず、現実にどうするのかについてはきわめてあいまいな無責任な姿勢におちいっているかに見えるので、氏のこの中途半端な主張の底にある思想の本質を見ぬくために、トロツキーのより明確な純化された所説をあえてもちだした。そうでないと、この氏の見解にたいし大衆のあいだに当然生ずるであろう素朴な疑問ーたとえば 「きみは賃金要求と同時にそれとならべてつねに反独占人民政府の樹立を要求しなければならないという。では、現実に、七五春闘において、われわれは後者の要求実現のためにいかなる形態のまたどのような政治配置と同盟体制にもとづく闘争を展開したらよいのか。」 これに対し、氏が 「いや、まて、いまはその条件はない、だから一応要求の一項目としてかかげておけばよい。現実の闘争はわれわれが宮本派にかわる前衛党をつくってからだ」あるいは「反独占人民政府樹立は党の要求であるから労働組合へもちこまなくてもよい」などと答え、質問を発した労働者から「要求するぐらいのことはわれわれだってとうの昔からやっている。現に七四秋闘においてわれわれは”田中内閣打倒”をかかげたではないか。だのに、いまさら党の要求だなどとあたりまえのことをくり返すのは時代おくれだ」と失笑を買うことにもなりかねないのである。われわれは、氏にこの素朴な疑問に回答することを求めざるをえない。
 さもないと、われわれは、ここで氏の所論を検討することをやめ、この労働者とともに”失笑”ですまさざるをえなくなる。これは氏には不本意であろうので、以下、右の観点から、氏の見解をくわしく検討してみることにする。

労働者の統一か党の前進か
 氏は、七四春闘の大衆的高揚を指摘しつつつぎのようにのべている。
 「労働者階級の団結の拡大–その『意識と組織』の前進を労働組合組織のレベルにおいてのみとらえることが誤りであり・・ 前衛的政党への組織化にこそ労働運動の根本的な真の前進を求めなければならない」と。これは、はたして現実的意義をもちうるか。
わが国の労働運動は、現在、深刻な分裂に直面している。くりかえしのべるまでもなく、氏も別の場所で指摘しているように、わが国の労働者階級は、依然として産別組識が形成されない条件下で、それを通じて“統一と団結の力と、みずからがこの社会の主人公であること”を認識し、その階級意識を飛躍的に高めるであろうーナショナルセンターレベルの統一闘争を、成功不成功をとわず、ついぞ一回も体験していない。これは、高度に発達した資本主義諸国の、反独占民主改革闘争の基本路線と諸経験をわが国に適用しようとする場合、最大の考慮事項とされなければならない彼我の主体的条件の決定的相異である。
(予断ながら”特集にあたって”の筆者は、戦略戦術論議をするまえに、党だけでなくこの主体的条件の相異もよく認識する必要がある)
 われわれは、今日世界のとりわけ高度に発達した資本主義諸国の階級闘争、革命運動の成熟度をしめす決定的に重要なメルクマールのひとつは、その国の労働運動が統一されているかどうか、またその統一運動に共産主義者がいかなる指導性を発揮しているかだと考える。同時に、それは共産主義者が労働者階級に依拠しあらゆる大衆運動の統一を重視しセクト主義を排して反独占民主的多数派、労働・政治戦線統一のための正しい政策と戦術を追求しているかどうか、つまり、政治路線、運動路線そのものの確かさをしめすメルクマールでもある。これはレーニンの時代と異なりプロレタリアートが絶対的にも相対的にも社会の決定的階級勢力に成長した、現代帝国主義諸国において当然のことである(レーニンの『なにをなすべきか』が反ッ ツアーリ“労農同盟”を念頭において書かれていることを想起せよ)。しかしわれわれはこれだけでも不充分である。 われわれが「労働者階級の統一」というときまず第一に、われわれは、労働者階級の最も広範な大衆的組識である労働組合の運動と組識の統一を考えなければならない。なぜならこの統一を基礎としない限り、高度な多少なりとも過渡的性格をもつ高度な政治闘争はもとより、賃金闘争などのもっとも初歩的な闘争でさえがけっして持続的に発展しない。これはいかなる意図からであれ、またたとえ“経済主義”と悪ロをたたこうともいささかもゆるがせにできない。だからョーロッパの共産主義者はヴィトリオの“伝導ペルト論”批判を引き合いにだすまでもなく、これに最大限のー気の遠くなるようなー努力と関心をはらっできたのである。氏にとっては、労働組合の統一、その行動と組織の統一が出発にあるのではなくて、「党にこそ」「前衛党への組織化の前進」こそが出発点である。このように媒介項ぬきに党と労働組合を機械的に分離し、 一面的に“党の前進こそ”と叫ぶのが氏の立論の特徴である。これでは、氏には不本意かもしれないが、みずからが批判してやまない宮本派の議会主義的偏向ー労の利益を大衆の利益のうえにおき大衆運動を分裂させるーを単に革命的に粉飾したにすぎなくなる。

なにが革命的か
 あらためてのべるまでもなく、わが国の労働組合運動の発展と統一にとって最大かつ最も根深い桎梏となっているものが前近代的な年功的労資関係とその組織形態をなす企業別組合であることはいうをまたないであろう。それは今日反独占的な労働戦線形成と発展上に最大の足かせとなっている。それゆえわれわれが運動の前進と統一をはかろうとする場合まずその物質的基盤を取りはらう闘いー具体的には(”革命的”でなくてまことに申し訳ないが、)産別最賃制・横断的賃金体系の確立、産別労働協約の締結などを単にスローガンとして唱えるだけでなしに、それを大衆運動の政策方針として具体化し、発展させていかなければならない。このようにして労働組合運動の力を実際に強化していくことなしに大衆の死活の利益を擁護できないのでそれはさけて通ることのできない課題であり、けっして“特殊”な”副次的)な課題などではない。
 われわれが社会主義をめざし、改良と革命を目的意識的に階級闘争のなかに結合していく任務をもっている以上、たしかに「つねに前衛党の問題に立ち帰」らねばならないだろう。しかし問題はその立ち帰り方である。要するに、それはマルクス主義の諸原則を単純にくり返したり前衛党一般の必要性や前進を抽象的に語ることではない。われわれは、生身の地道な労働組合運動にー大衆を数歩ではなく一歩前進させるために、まじめにねばり強く取りくんでいる良心的な共産主義者にむかって、それは労働組合の 「特殊レベル」の組合幹部にまかせておけばよい「副次的」活動だからとして「変革主体の側の最も根本的な重要な」 ”党”の建設にとりかかれなどと説教して 「党の問題に立ち帰」らせることが必要なのだろうか?労働組合内部にあってそれを強化し統一させる闘いを通じて、まわりの大衆を引きつけ、共産主義者の影響力を拡げ、党の源泉そのものを構築しようとしている人たちにたいしてである。

大衆の死活の利益と党
 いま、わが国の労働者階級は、世界的規模における恐慌の進行のもとで仕事の確保と実質賃金の低下阻止という死活の要求に直面し、それに必要な広範な強固な統一闘争を求めている。政府独占は所得政策の実質的導入である”総需要”抑制を強制しようとしてい。”賃上げかインフレ”か、 ”賃上げか首切りか” のイデオロギー攻勢とともにこれ見よがしの雇用削減策(一時帰休、不当配転、採用取消し、雇用調整給付金による休業奨励など)があいついでいる。 (恐慌を客観的必然性として認識するかわりに、大衆革命化の契機として待望する考えが一部に存在するが、支配者は恐慌を生産基盤の破壊、職場からの放遂、生活水準切下げとルンペン化をつうじて、労働者階級の政治的・道徳的たい敗によって乗り切ろうとするのであって、状況は悪いほどよいというわけにはいかない。危機はファシストのもっとも親密な友人である)
 この政府独占の一体となったデフレ攻勢と闘い労働者階級の死活の利益を擁護し、政治的・文化的・道徳的たい敗を阻止するためには、この支配者の抑圧と収奪の意図全体をあますことなく暴露するとともに、大衆の死活の利益をまもる方向と、それに向って大衆を数歩でなく一歩前進させる政策と具体的戦術を提起しなければならない。恐慌下の生活防衛の斗いに苦しんでいる大衆にたいして、われわれは、遠い先の課題をもち出だしたり、 “社会主義なしに出口なし”と高踏的に説致するだけでは、まだ社会主義や共産主義を理解していない広範な大衆を反発させることになる。あるいはすでに社会主義を支持ないし支持しようとしている一部の先進的労働者にたいしては、かれらを大衆の死活の利益擁護の闘争から目をそらさせてしまうことになる。
 このように労働者階級の死活の利益が問われ大衆闘争の広範な統一が切望されている、まさにその時に、氏は 「労働運動の高揚にのっとって意識的で一貫したこの運動の担い手(産別闘争を自覚的に追求しているがいまだ“経済主義”にとどまっているような人々ー引用者)が力強い活動をはじめるとき…産別闘争の前進…がこの活動のテコとなり、武器となっていくであろう」 (傍点ー引用者)とのべている。ここでは一体どの国の労働運動が論じられているのであろうか。氏は、わが国において、あたかも 「労働運動の高揚」がすでに確固たる既成事実として定着し、大衆の意識と要求は次のより高度な政治闘争を準備しているといいたげである。しかもこうした仮定に立って、氏は、現実の労働運動とは別に 「力強い運動」(これが氏のいわんとする“意識性”であり”党”の運動であろう)を求め、そのテコあるいは武器としてはじめて産別闘争の重要性を承認する。企業主義的分裂の状況下で労働者階級がいかにして今日の不況と斗うべきかを悩み、運動発展の現実的な方途を探し求めている時に、それには答えようとせずあえて別に 「より力強い運動」を求めることがマルクス主義的政治なのであろうか?氏のいう”マルクス主義”とはなんと労働者階級の当面する問題と無縁なものであることか。

宮本派との闘争
 明らかに、氏は論文全体を通じて宮本派批判に全精力をかたむけている。しかしその批判が単に宮本派の理論的思想的小ブルジョァ性の暴露に終始し、彼らが過去一貫してとり続けてきた分裂主義と党利己主義的な政治主義の政策と戦術の批判にまで至っていないのはなぜか。宮本派との闘争は理論的批判や暴露でこと足りるのではない。現に動労、全金、全ていなどの労働組合あるいは部落解放同盟などをはじめあらゆる大衆組織の内外ですでに強力に展開されている彼らの裏切的利敵行為のあらわれを具体的に系統的に暴露し、大衆の闘いにもとづいて、現在まだ彼らに一定の幻想を抱いている多数の労働者大衆を引きはなし、彼らの面前でその権威を先墜させ孤立させるというー真に宮本派の議会主義的偏向を正す道をねばり強くつき進むことを回避してはならない。
 だからわれわれは、どうしても、宮本派が四・八声明などによって大衆運動と決定的に対立ししかも(氏がこれを批判しないのは氏が本質的に彼らと同種の運動路線に立っているのではないかと疑いたくなるが)その口実がつねに、 “経済主義”批判に名を借りた政治主義と分裂主義であり大衆運動の基本的要求と政策に一貫して無関心であったこと、これをあらためて想却し、その今日的形態である議会主義との闘争を深化させなければならない(それゆえ、彼らが、相対的安定期において採用している議会主義路線を、危機の時代において、街頭主義と極左冒険主義路線に転換させないなどと断定できない)。
 「左」右の日和見主義はつねに大衆の緊切な要求と運動の発展を無視するところに本質があり両者はメダルの表裏をなしている。運動は戦術が急激であればよしというわけにはいかない。誤った氏が論文全体を通じて宮本派の現実の労働運動にたいする政策と戦術そのものを少しも批判していないこと、さらに、“革マル派”など「左」翼日和見主義諸集団の挑発的方針の危険性にまったく目が向けられていないのは一面的であり、疑問と懸念を禁じえない。残念ながら、このわれわれの疑問と懸念は、氏のつぎの一面的な極論をみるにおよんで、いっそう深まらざるをえない。

革命運動の副産物としての改良とはなにか
 氏は、最低賃金制、年金の賃金スライド制などの要求と闘争にふれたあとで 「しかし、より重要なことは、原則的な問題の提起においては、改良は『革命的階級闘争の副産物』(レーニン)だということである。危機の打開策として、独占体の系統的な国有化の民主的な統制を伴う抜本的な反独占的変革およびそれを政治的に保障する反独占的人民政府の樹立をつねに要求することなしに、当面の限られた部分的な要求をのみかかげて闘争することは、独占ブルジョアジーとその政府の支配の持続性を保障したうえで、その若干の手直し手かげんを懇願することにしかならない。そのような闘争によっては、労働者階級の前進にとってなにほどかでも意味のあるような改良をかちとることさえできない。打倒されたくなければ譲歩しろ、でなければかわってわれわれが支配する。論理はこのように提起されている。支配階級の『延命策』はさし迫る死の恐怖のもとでのみ採用される」とのべている。氏は、「原則的問題」 の提起として支配階級を打倒し、かわって労働者階級が支配しうる主体的条件をまず整備し、その政治的圧力によって「改良」や「譲歩」を勝ちとるという。これはまったく奇妙な論理である。労働者階級が権力を掌握し、独占資本を収奪する力量をもちながら、どうして「改良」や「譲歩」で満足しなければならないか。どうして権力奪取につき進まないか。“党と革命”を語っていた氏が、このように日和見主義に陥っているのは理解に苦しむ。
 この氏の論理矛盾は一応さておくとしてここで問題にされていたのは、労働組合が緊急に勝ちとらねばならない要求である最賃制であり年金の賃金スライド制であった。
 だがこれに対して強調されている氏の 「原則的な問題提起」は本質的に”革命なしに改良なし”であり、これは、とりもなおさず危機の時代における悪しき「最大限綱領主義」そのものの単純化された再生産であり、これらの課題をかかげて統一闘争をまじめにねばり強く追求することにかえて、革命的スローガンと運動が対置されている。氏はここで”ひかえめに”革命的要求を 「同時にかかげて」 闘争するとだけのべているが、まさか宮本派のごとく政治要求と経済要求を機械的に結合したり諸要求を羅列するだけで支配者に「さし迫る死の恐怖」を与えうると考えているはずはないから、当然、現実の革命的スローガンを実現するに適応した労働組合運動と別の闘争が組織されなくてはならない。しかも「つねに」あらゆる主観的、客観的条件のもとで“反独占人民政府樹立”のスローガンをかかげることが要求されている。またさもなければ 「なにほどかでも意味のある改良は勝ちとれない」 とショッキングにのべている。 ぽう頭に指摘したように、ここで氏から“要求”され“恫喝”されているのはいかなる主体勢力であるのか。党のプログラム、テーゼは権力問題、 政府問題をさけて通ることができないという意味ならことあらだてていうことはない。あるいは、これが、危機の時代”恐慌か社会主義か”二者択一の時代(このような情勢評価と階級戦略が適当であるかどうかは一応さておくとして)における労働組合の機能と任務の質的転換を意味するのであろうか。これは氏のより明確な立場が明らかにされた段階で、現代の危機の科学的分析と主体勢力の意識と組織ー彼我の力関係の的確な判断にもとずき別に検討されなければならないにしても、この氏の見解が、その本質において、けっして 「原則的な問題提起」などではなく、ご存知の宮本派が“民主連合政府綱領”を労働組合におしつけ自党派の”躍進”に血道をあげたり、新左翼諸グループが春闘の政策・戦術をまじめに検討することを拒否するとともにこれに単純に”反体制”“反戦・反帝”のスローガンを対置して、大衆の死活の要求と運動に敵対しようとした路線と、客観的にまったく同一の誤びゅうの再生産そのものとみなさざるをえない。もし、氏が首尾一貫して、この理論と実践を結合させ、戦術的にエスカレートさせるならば、ゆきつくところ、革命的スローガンを至上のものとして、これを要求としてかかげない大衆的な労働組合にかえて限られた少数派の純枠な“闘争組織”を対置し、“権力奪取”のためのゲリラ闘争を呼号することにもなりかねない。また、氏が、この”大胆さ”と“勇敢”をかいて、この路線を貫徹させようとすれば、せいぜい、労働者大衆の要求と意識と無縁の、レーニンを歪少化した“外部注入論”に依拠して、無内容な”革命”主義を普及させること、 一種の左翼的伝道師の道をたどらざるをえない。われわれは「前衛党の問題に立ち帰る」 ことの必要をけっして否定しないばかりか、むしろそのためにこそと問題をたててきた。だが、われわれは、けっしてこのような活動を性急に求めないし、またそれを主目的とする理解を必要ともしていない。われわれに必要なのは、あくまでも 「すでに立ちあがりつつある大衆をたすけて、彼らがいっそう大胆に、いっそう心をあわせて決起するようにならせ…補捉しえない個人、大衆に方向をしめす能力をもった真の戦闘組織…(であり)…凡百の純インテリゲンツィァ組織や 『党』 (ではない)」(「新しい事件と古い問題」 レーニン)また、氏は、これを迫求すべき政府形態問題にふえんして、改良的要求=よりまし政府、革命的要求=反独占人民政府と図式主義的に単純化し“社共連合政府”さえ全面的に否定しかねない態度で、それを当然考慮の対象にしようとする立場を、かの有名なゴーゴリの主人公になぞらえてやゆしているが、卒直にいってわれわれは、アカーキー・アカキェビッチがあらゆる苦闘の末にようやく手に入れた新品の外とうが、このような超革命的言動によって略奪されないよう、また“哀れな大衆”が怨霊にならないよう、最大限の注意をはらわなくてはなるまい。氏が、このように、それが政治戦線統一の基礎であり政治戦線統一を促進する大衆的圧力そのものである強大な労働組合運動の統一がいまだ形成されないもとで、(よりまし政府さえが容易にできはしない条件下で)、一方でかかる課題(労働戦線の統一)を“経済主義”的路線といって軽視しながら、他方において革命政府を要求するのは、社共両党が議会主義的分裂主義的に、あれこれの過渡的政府形態を要求すると同様の、あるいは、氏が政府を構成しうる責任ある政治勢力を代表しているのでないからそれ以上に、政治的に無恥な、客観的に大衆の要求と対立する姿勢といわねばならない。

党をもてあそぶな(レーニン)
 宮本派の右翼的偏向がわが国の大衆運動と階級闘争を先進資本主義諸国にくらべて大巾に立ちおくれさせ、結果として三〇数年にわたる自民党政府の不動の政治独占を許してきた根源的問題であることは、氏もいうとおり、良心的な共産主義者のあいだではまったく共通の認識となっている。だが、これに対置して前衛党確立を提起するのは、それほど自明の真理でもなければ、その意図のいかんを問わず、つねに正しいとはいいきれない問題である。われわれのささやかな経験と見聞ー一九六七年の“総結集”運動の坐折、あるいは日本共産党の最古参幹部のひとりである志賀義雄氏によって主掌される“日本のこえ” が別党コースを否定しながらも別組織を形成していること、さらにさかのぼれば、日共第八回大会直前に現在の条件とはちがうとはいえ春日庄次郎氏などの一部中央委員が“離党主義”という批判をあえてかえりみず”別党”を組織しようとした事実などーを少しでも想起すれば、”真の前衛党の確立”が、 一般的要求としてはともかくも、現実の組織方針としては、良心的共産主義者のあいだでも容易に一致しうる問題でないことは明らかである。それは、日共が三〇数万人の党員と二百数十万部の政治機関紙をもち、名称、形態において前衛党でありしかも、国際的に一定の評価を受けながら、その本質において右翼的偏向をおかしているという、古今東西の共産主義運動の歴史においてまったく未経験の、特殊な条件下にわれわれがおかれていることとおおいに関連している。それゆえ、 一般論としては再言する必要もない自明の真理を、あえて氏のように提起するからには、それなりの理由があるのではないかと期待するのは無理からぬことである。しかし、氏は、それ以上なにも語ろうとしていない。だから、われわれは、氏につぎのように忠言する義務がある。
 問題の性質上、あるいは、宮本派以外のすべての共産主義的諸潮流がすでに”党”の必要性を千回も万回もくり返したあとでは、なおさら、この問題は、わが国の階級闘争のおかれた客観的諸条件の全面的な科学的分析と変革主体の側の歴史的経験の真険な総括にもとづき、求められている党がいかなる具体的な形態・内容をもち、その形成に必要な条件がなんであるかを明らかにし、しかも、現に存在する良心的共産主義者のあいだの共通の問題として、共同討議を喚起するにふさわしい手続をふまえて、注意深く提起されなければならない。

 そうでなければ“自覚的規律”にもとずき一定の結集につとめ、大衆運動に責任を負うことに最大の関心を払ってきた諸グループ(「知識と労働」グループもそのひとつである)のあいだに、無用の混乱と対立をうみ出し、宮本派に批判的な良心的な共産主義者の政治的結集と影響力そのものを弱め、結果として、宮本派を激励することになる。氏が、宮本派を打倒し、それにかわる前衛党形成を目ざすのであれば、ぜひ冷静にこの現実をみてほしい。さらに、われわれは、こうは思いたくないしそうさせてはならないが、こういった思想と提案が、政治的経験の浅い青年学生のあいだに、大衆運動より主体形成といった、過去において学生組織(民学同)の分裂の契機ともなった、あのいまわしい偏向をあらたに再生産する結果になりはしないか、また前章において指摘したように、氏が、前衛党確立に性急なあまり、労働組合運動に革命的運動を対置し、それにしたがわない者を、あまねく、“経済主義的・解党主義的”と批判しかねない論理を展開していたことから、客観的に、氏の前衛党論が、党の源泉である大衆運動の発展に基礎をおかない、つまり、レーニンの拒否した「凡百の純インテリゲンチァ組織」 のひとつの誕生につながりはしないかと真険に憂慮される。
 「ロシア革命の全歴史がしめすところによれば、革命運動の強力な高揚はすべてこのような大衆的な経済運動を基礎としてのみ発生した。 (それゆえ)すべての党組織はこの現象にもっとも真剣な注意を払うこと、…大衆の間の経済的せん動にできるだけ多くの党勢力を集中することが必要である。ほかならぬこの経済運動を、革命的危機全体の根本的な源またもっとも重要な基礎として考慮しなければならない」(レーニン)(傍点ー引用者)のであり、労働者階級がこの社会の絶対的多数派となった今日の国独資下においては、このことはいっそう力をこめて強調されなければならない。

反独占民主改革プログラムの緊急性とは
 最後にこれは予断になるかもしれないが、氏が悪名高い、かの“ベルンシュタイン病”の政治的”ワクチン”として提起し、マルクス主義者の注意を換起しようとしている”反独占民主改革プログラム”確立と宣伝活動の緊急性について、これが、はたして、わが国の階級闘争の前進にとって、根源的な課題であるかどうかについて一言しておく。
 この場合、われわれは、このプログラムがもちこまれるべき労働運動の主体的状況としてまず、わが国の労働組合運動が現在おちいっている、各単産、ナショナルセンターに共通な、政治路線と支持政党の相異を主因とする深刻な分裂状態を考慮しなければならない。周知のごとく、総評は”安保破棄・反戦平和””自民党政府打倒”を政治要求としてかかげている。また、その七五春闘方針は、反独占的な制度要求さえ含んでいる。他方、 同盟は”安保、自衛隊の存続を承認”し“民主社会主義”をめざし、総評と対立している。
この現実をいかに打開し、運動と組織を統一するか。反独占的な基本方向において、労働戦線統一をいかにして構築するか。またこれに向けて一歩でも接近するためになにをなすべきか。 これが焦眉の課題である。これに対し、氏のように、運動の現状をまったく無視して革命的空語を注入することが、これに役立つかどうか。これは、かえって、分裂を固定化したり拡大する結果をまねきはしないか。ここでは、これ以上、くどくどとのべる余裕はないが、労働戦線統一の基本問題を具体的に追求した 「知・労」第二号の拙論を参考にしていただきたい。
 われわれは 「日程にのぼっている諸問題が諸政党に対する巧妙な提案だけによってあるいは正しい政治、綱領的な提案を作成し、普及することによって解決されるかもしれないと考えるような情ない立場」(『イタリア共産党第一四回大会準備について』ベルリングェル)にけっしておちいってはならない。必要なのは、大衆をいまただちに立ちあがらせる具体的な政策と戦術であり、それに依拠して、われわれが大衆の先頭に立ってたたかうことである 「(なぜなら)第一の必要は労働運動と民主主義に向かっておこなわれている攻撃をはねのけねばならないからである」(ベルリングェル)このような現実を無視し、政府に参加する主体的条件もない、それゆえに、プログラムの実行にならん責任をもてないみずからの立場を考慮せずに、“プログラム確立とその宣伝”を至上のものとし、これなしには不可避的に ベルンシュタイン病にかかるなどと極言するのは間違っている。また、かかる主体的条件を熟慮して、あえて“プログラム””テーゼ”などと大言壮語せずに、現実の運動の一歩一歩を”一ダースの綱領よりも重視する”人々をおしなべて「日和見主義者」 「改良主義者」などと誹謗してはばからないのは書生の金切声以外のなにものでもない。
 すでにのべたように、われわれには、残念なことであるが、残された課題が山積している。だから”はじめにロゴスあり” といって高踏的に説教しているわけにはいかない。大衆的基盤をもったフランス共産党でさえが、その”先進的民主主義・社会主義のためのプログラム”を確定するまでに十分時間をかけ大衆の意識と運動の諸経験をふまえ 「独占資本にみずから生み出した先鋭化した経済的、社会的矛盾を解決する能力がないことが明らかになり(大衆的に)運動は、是非とも必要となった緊急の諸要求の充足の粋を越えて、この社会のもっとも根本的で決定的な変革にむかって進まざるをえなかった」(フランス共産党第二一回大会政治報告)あの歴史的な一九六八年五ー六月闘争の真剣な総括をまってはじめて決定されたのである。
 氏も、ぜひ、この事実を教訓として、銘記してほしい。

☆  ☆  ☆
 以上、田崎晋氏の諸見解について(氏の主観的意図の純粋さと革命的精神の高さを十分評価しつつ)検討を加えできるだけ直裁に、卒直に批判してきた。運動にたずさわる者のあいだに、このような、現実の運動の基本方針、具体的政策と戦術をめぐって、意見の相異や不一致が生ずるのは、あえて驚くに価しない。なぜなら、われわれをとりまく客観情勢および主体諸勢力の要求と運動はそれほど複雑かつ豊富であり、要は、われわれが意見の相異と不一致そのものを敵対的な非和解的関係とみなすことなく、あくまでも、理論的思想的問題の領域において、納得と説得にもとずく、批判と自己批判、自由な討論を展開しうるかどうかである。このようなマルクス主義者の当然の民主的手続と自覚的規律を無視し、いたずらに政治的組織的対立をあおりたてるのは間違いであるばかりか犯罪的でさえある。
 だから、われわれは、最後に、田崎氏に、このマルクス主義者の原則的立場にたち、ねばり強く、真剣に討論と相互批判を展開されるよう心から呼びかけたい。
(一九七五・二・九)

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「特集にあたって」はどこに導くか  (知識と労働討議資料)

「特集にあたって」はどこに導くか
    —-「74年の大衆運動とマルクス主義」批判 —-    松 原 敬

 『知識と労働』第10号は、「特集にあたって–74年の大衆運動とマルクス主義」と題する無署名論文(文書K・S.K・M、以下SM論文と略す)を掲載している。「特集にあたって」と題していることからも、当然このSM論文は、『知識と労働』が集団討議を重ねた上で発表した編集局論文であろう、と受けとられる形で発表されている。
 しかし、果してそうなのであろうか。遺憾ながらこのSM論文には、きわめてあいまいで折衷主義的ではあるが、 『知識と労働』がこれまで掲げ闘い築いてきたマルクス主義の諸原則、社会主義に至る上での平和と平和共存、反独占民主主義、統一戦線という最も基本的な政策に背反し、逆行する重要な問題、見解が表明されている。このSM論文が、多くの良心的なマルクス主義者の注目しているこの『知識と労働』に突如発表され、一人歩きしようとしている以上、問題の重要性から率直に、批判的意見を述べさせてもらわなければならない。


 最初に、このSM論文を通読し、繰返し読めば読むほど感じることは、このSM論文は、 かつて(一九六四年)日本共産党宮本指導部が、反ソ主義に貫かれた路線に公然と踏み出した時に、「ケネディとアメリカ帝国主義」と題して発表した無署名の評論員論文と非常に酷似した特徴をもっているということである 。
第一は、情勢評価の問題であり、ついでそれにもとづく政策の問題、そして集中的表現としてのスローガンの問題であり、SM論文では欠落しているが統一戦線とセクト主義に関する問題である。
 情勢評価と政策に関連して問題となる点は、次の点である。
 社会主義世界体制と資本主義世界体制という両体制間矛盾の取扱いの問題、そこにおける帝国主義諸国間の矛盾・対立と帝国主義同盟の問題、それと関連する支配階級内の矛盾・対立の問題題である。これらの点についてSM論文は、次のように述べている。
 「社会主義体制にたいする帝国主義諸国の根本的な対立関係は、支配階級のとる平和共存政策と対社会主義接近を、社会主義体制への分裂策動をも含めて、動揺と矛盾にみちた不安定で中途半端なものにする。支配階級は、一方では社会主義貿易と経済協力関係の拡大を志向すると同時に、他方では経済的政治的矛盾と対立によってたえず根底からゆるがされている対社会主義の帝国主義的軍事同盟の維持と補強を図らざるをえない。」
 「客観的な利害が支配上層に選択をせまり、平和共存的方向を余儀なくさせる可能性は大きい。しかしそれが国内的な基本的な階級対立と階級支配そのものを排除するものではないにもかかわらず、支配階級の反共的反社会主義的な本性にもとづいて、また緊張緩和と平和共存が労働者階級の闘争に有利な条件を切り開くことへの恐怖に基いて、支配階級とその右翼的反動的、冷戦主義的傾向は、つねに必然的にまきかえしと反撃に出る。」
 一体このような論述から何が導き出されてくるのであろうか。「社会主義体制にたいする帝国主義諸国の根本的な対立関係」とか「支配階級の反共的反社会主義的な本性」といったことは、少くともマルクス主義者にとっては自明の前提である。支配階級、帝国主義者が軍事同盟を維持、補強し、常に必然的にまき返しと反撃に出る、ということも自明のことである。このような自明のことが、いまだマルクス主義者の間で確認されていないとでもいうのであろうか。
 問題は、帝国主義同盟が、なお全体としては維持されつつも、個々の帝国主義の利益、支配階級の個々の利害が、「支配階級の反共的反社会主義的本性」という共通の利益の前に躍り出て、常にその足並みをかき乱しているところにあるのである。今さら確認するまでもないが、ロシア革命の成功、ドイツ・ファシズムの崩壊、社会主義世界体制の形成と発展は、そのことを端的に証明している。
 何よりもまず帝国主義列強の同盟を妨げるのは、個々の帝国主義国、支配階級の意図とは別個な、独立して発展する帝国主義そのものの内的な矛盾の激化である。彼らの「神聖同盟」は、彼ら自身の内部からたえず生起してくる鋭い矛盾によってむしばまれざるをえないのである。そして社会主義世界体制の政治的経済的地位の強化は、社会主義諸国との政治的経済的結びつきをめぐって、両体制間の平和共存の原則をめぐって、この矛盾をより一層、質的に鋭いものとしているのである。そこには常に反動があり、まきかえしがあることは事実である。しかしその反動やまきかえしを分析する際にも忘れてはならないことは、この客観的必然的法則性である。
 ここに、平和と平和共存をめぐる闘いは、勝利の展望のない単なる平和主義的願望にもとづいているのではなくて、資本主義の根本的な経済的矛盾の激化、資本主義に固有な不均等発展の法則、その結果としての労資の矛盾、独占資本間の矛盾、帝国王義諸国間の矛盾、これらを一層の激化へと導く社会主義世界体制の存在と発展、その客観的優位性という、力強い根拠を持っているのである。このことは、「一方では」「他方では」 といった論理的一貫性のない、折衷主義的、多元論的理解によってうやむやにされ、不問にされてはならない問題なのである。
 このことは、SM論文がさらに次のように語る時、 一層明らかになる。
「支配上層の間に、ブルジョァ評論家が好んで図式化するような冷戦派と共存派、頑迷派と開明派といった単純な、できないの分岐、対立があるわけではない。だから支配上層のいずれかの部分、階級分派に依存し、それを支持することによって、国家政策の全体を平和共存の方向に転換させうると考えるのは、主観的で一面的な単純化による日和見主義的見解であろう。」
 これは、日本共産党宮本指導部が、「モスクワ声明」(一九六一年世界党会議)の内の革命的な原則をのみ守るのだと称して、平和と平和共存をめざす闘いを日和見主義だとして、ソ連共産党をはじめとする国際友党を「帝国主義者の平和への“自覚”や”平和的進歩的翼”と”侵略的反動的翼”への”分化”に期待をかける現代修正主義者」だと中傷、攻撃したあの同じ論理内容を持っている。日共評論員論文 「ケネディとアメリカ帝国主義」 は、次のように述べている。
 「たしかに、帝国主義支配層のあいだにも、さまざまな葛藤と矛盾を生み出し、深刻かつ複雑な意見の分化をつくりだしている。しかし、帝国主義者の間の意見の分化とは、 本質的には、あくまでも帝国主義という同じ経済的土台に照応した範囲内での、社会主義に敵対し、労働者階級と植民地従属国の人民を抑圧し搾取する階級的本質の範囲内における、敵の間の部分的な意見の衝突と利害の対立にすぎず、戦争と侵略、抑圧と反動という帝国主義政策を、どちらの政策がもっともうまく遂行することができるか、どちらの独占グループに最大の利益をもたらすように推進することができるか等々についての戦略と戦術、方向と形態などの差異でしかない」 というのである。
 このように、SM論文は、日共宮本指導部の批判という体裁をとりながら、批判したはずの相手と同じ側に立ってしまっているのである。レーニンが帝国主義の評価にあたって、その矛盾を前面に押し出したのに対して、両者は一致して、帝国主義の本性、帝国主義者の同盟を説いているのである。
 平和と平和共存をめざす闘いは、国際的舞台における階級闘争の一形態であるとともに、この闘争における力関係の変化をはっきりと表現しており、これは国内における階級闘争と密接に関連し、その力関係の変化をも表現するものである。SM論文は、「労働運動にとって必要なことは、階級支配と現情勢への適応の異ったスタイル、方法を表現するあれこれの総裁志望者と派閥代表者のいずれの思惑が実現するかに主たる関心を寄せることではなくて」 とか 「マルクス主義者にとってまず第一に必要なことは、危機の深刻化を前にして動揺し、対立しあっている与党指導者のあれこれの傾向のいずれかを選択し、それに期待を寄せることではなく」 といった表現をしばしば使っている。このようないかにもくだらない“期待論者”を描いてみせて叩くというやり方、批判して当然のような結論から何が出てくるかといえば、「首尾一貫して闘争すること」とか「闘争こそが決定的に重要な意義をもつのである」といったことが強調される。日共宮本指導部が議会主義の悪弊にますますおぽれつつある時、大衆闘争の重要性を語るのは、マルクス主義者にとって当然のことであり、必要不可欠である。しかし、このようなかたちで語ることは、多くの“新左翼”諸潮流がそれこそもっと”戦闘的、革命的”に語ってきたところである。真のマルクス主義者にとっては、支配階級内部の“適応の異ったスタイル、方法、思惑”、”動揺、対立、抗争”–帝国主義者間の矛盾、支配階級内部の対立は、労働者階級にとってどうでも良いことではなく、両体制間の闘争が主要な矛盾となっている現在、階級闘争を敏感に反映しており、、労働者階級は、このことから離れて政策転換全体の指導性をかちとることはできないし、ましてや根本的改革という反独占政策の貫徹、そのための権力の樹立はできないのである。ここにこそレーニンが強調した 「マルクス主義の核心、その精髄をなす点、すなわち具体的情勢の具体的分析」が必要となるのである。教条的衒学主義にもとづくような一般的真理の強調は、何度行なわれても階級闘争の指針とならないばかりか、セクト主義的なくさみしか残さないものである。このことについては、レーニンが『左翼小児病』で何度も強調していることである。 「力のまさっている敵に打ち勝つことは、最大の努力をはらう場合にはじめてできることであり、かならず、もっとも綿密に、注意深く、慎重に、たくみに、たとえどんなに小さなものであろうと敵の間のあらゆる『ひび』を利用し、各国のブルジョアジーの間や、個々の国内のブルジョアジーのいろいろなグループまたは種類の間のあらゆる利害の対立を利用し、また大衆的な同盟者を、よしんば一時的な、ぐらついた、ふたしかな、たよりにならない、条件つきの同盟者でも、手に入れる可能性を、それがどんなに小さいものであろうと、すべて利用する場合にはじめてできることである。このことを理解しないものは、マルクス主義と科学的な近代社会主義一般を少しも理解しないものである。」(『左翼小児病』)


 帝国主義の敵対と矛盾をぼかし、その深さと鋭さを体制的危機の深化といった一般的表現でぬりぶすことは、不可避的に独断的な教条主義と労働者階級にたいする悲観主義、ペシミズムを生み出す。SM論文が次のように述べる時、何と支配階級は力強く、労働者階級はか弱いことであろうか。
 「財界首脳たちが考えている『保守新党』の結成と、それによる野党との『連合政権構想』は、その本質において革新諸党の分断を基本的な目標とするものである・・・いわゆる 『受皿論』として支配階級によってあけすけに語られているこのような構想の実現が、労働運動と労働組合運動に新しい分裂を持ち込み、壊滅的な打撃を与えることは火をみるよりも明らかである。」

 「今日の新しい政治的状況を『多党化の時代』『連合政権の時代』として一面的に礼讃するものは事柄の本質を見抜けない日和見 主義的超楽観論であると言わなければならない。幾多の歴史的経験が示しているように、議会主義的日和見主義にたいする人民大衆の幻滅は、露骨な反動と右翼的な公然たる権力主義に道をひらくものだからである。」
 なぜ、このような「保守新党」論や「連合政権」構想を、支配階級の意図と一定の客観的理由を認めつつも、その本質において、支配階級の危機、矛盾の激化の表現として、階級闘争の反映として、自民党の政治独占の危機の表現としてとらえられないのであろうか。このようにとらえることは、おめでたいとでもいうのであろうか。
 「一方では”人民戦線”、他方ではファシズムが、プロレタリア革命にたいする闘争で帝国主義が用いる最後の政治的手段である。」—- これはコミンテルン七回大会の統一戦線政策にたいして、敗北主義とセクト主義を対置したトロツキーの言葉である。(一九三八年『転換期の綱領』) SM論文は、これと同じ立場に立とうというのであろうか。日本共産党の現状を見る時、論者の危機意識は理解しえても、問題はこのように立てられてはならないのである。
 イタリアに「中道左派政府」が登場した時(一九六二年)、故トリアッティは、これをこれまでのキリスト教民主党の権力の政治的独占にたいする「現在の政治的社会的闘争のエピソードである」と評価している。そして現在、イタリア共産党は、イタリアの政治的経済的危機の深化を前に、中道左派の道をこえる、共産党の政権参加をも含む新しい政治の民主的転換を訴えて、中道左派政府の期間を、「共産党が統一政策を押しすすめた粘り強さと忠実さとによって、そして社会党が閣内にいるということによって決定された新しい政治情勢のもとで、イタリア社会における運動の可能性と民主的発展の可能性とが年ごとに拡大し、一九六八年の選挙、一九六八ー六九年の労働者および人民の闘争の偉大な季節となり、その後の諸闘争や諸提案となって、ついに一九七四年五月一二日の国民投票をもたらしたのであった」 と評価している。問題はこのように立てられ、このようにこそ闘われなければならないのである。


政策転換の要求に関連してSM論文は次のように述べている。
 「労働者階級とその前衛は独占の支配を打倒し国民経済を現実に指導するための準備を常におし進めることによっでのみ、支配階級に政策転換を押しつけ、その中途半端で動揺的な部分的な対社会主義接近を一貫して拡大し発展させることができるのである。」—- ここでは、独占の支配を打倒しない限り政策転換を押しつけることはできないと結論づけている。いや、その準備を常に押しすすめる場合はできるというのであろうか。第一、その”準備”とは具体的に何をさしているのであろうか。
 その直前でSM論文は、「労働者階級が国民的な指導階級として、平和と平和共存を目的とする首尾一貫した自らの対外政策を掲げて闘うときにのみ、支配上層内部の矛盾を深刻なものとし、政策的選択をせまり、客観的な国民経済的利害の命ずる方向へその対外政策を向わせることができるだろう。」 と述べている。ここでは”独占の打倒や国民経済指導の準備”がなくても、なぜ政策転換が可能なのであろうか。
 またSM論文は、「労働者階級は根本的な変革のための革命的な要求とならべて、独占資本とその政府にたいして即刻の実現を迫るべき部分的で改良的な政策転換の要求を掲げてたたかわなければならない。」と述べる。そしてこの 「ならべて」 というところに、わざわぎ傍点を付している。ここでは”即刻の実現”がなぜ可能なのだろうか。根本的な変革の要求を「ならべて」掲げるからなのだろうか。

 つづいてSM論文は、「資本主義をなくさないかぎり、恐慌をなくすることはできない。しかし労働者階級は、今日の恐慌の深刻化の下では、日常的な経済闘争において、同時に、国家の財政金融政策の転換とそれに必要な一連の独占体の国有化を含む部分的な変革の要求を何ほどかでも系統的な政策として掲げてたたかわなげればならない。それなしには、実質賃金の切下げから身を守り、賃上げをかちとり、生活水準の引下げと耐乏生活の強要に対抗して生活の諸条件を改善する上で一歩も前へ進むことはできない。」と主張する。「それなしには」「一歩も前へ進むことはできない」 という。何という極端論好み、何という尊大なポーズであろうか。ことここに極まれりである。
 少し長々と引用を繰返したが、SM論文はこのようにすっかり混乱し、上気してしまっている。しかしその底に流れているものははっきりとしてきている。それは、労働者階級の経済的利益のための闘争、民主主義を要求する闘争、様々な反独占的改良闘争、統一闘争、統一戦線をめざす闘い、 これらを経済主義、組合主義、改良主義、日和見主義だとして蔑視し、おれたちはそんなものとは違うんだとまじめにふんぞり返るセクト主義である。
 経済的利益のための闘い、また首切り、合理化等、資本の攻勢から身を守る闘争は、労働者階級にとって統一戦線の出発点であり、常に第一義的重要性をもつ闘いである。そしてこの闘いを通じてのみ、労働組合運動の統一を作り出すことができるし、その統一は、重要産業独占体の国有化、金融機関の国有化をめぎす反独占権力樹立への統一戦線にとって、死活の重要性をもっているのである。フランスやイタリアの労働者階級の闘いは、このことを如実に示している。
 労働者階級は、自らの闘いの経験と成果にもとづいてのみ、次の目標のために闘うことができるし、このことが闘争の前進と発展にとって決定的であり、その現実と内外の情勢に密着した革命的政策を要求している。SM論文のような尊大なセクト主義的な立場によっては、よくみてインテリデンチァ的焦りによっては、いくら日和見主義に主要打撃を与えても、それを克服することも打倒することもできないし、ましてや労働者階級の自覚を高めることさえできないであろう。


 SM論文は、後段に至って「われわれの部分的な変革の政策は『かならず日和見主義者にも鉾先を向けているような綱領でなければならない』(レーニン)」 として、「次のような政策的諸要求のうち、少なくともその主要なもの、基本的なものを、それの即刻の実現を支配階級に迫る闘争のためのスローガンとして、掲げることが必要不可欠であると考える。」として一〇項目のスローガンを掲げている。
「一、公共部門を中心とする拡大政策の導入とそれに必要な部門の国有化」「公共住宅建設の拡大とその関連部門の系統的な国有化」 「それに必要な部門」とか「その関連部門」とは一体どこまでをさしているのであろうか。文字通り読めば、これは中小零細企業を含めて全産業が対象となる。これらの国有化を「即刻の実現を支配階級に迫る」というのであろうか。低家賃住宅を大量に建設せよ!という勤労大衆の切実な要求が語られずに、即刻の実現を迫るにしてはまったく具体性のない、はね上ったスローガンとなっているのではないか。
「三、法人にたいする強累進課税の実施」 ここでは財政投融資の名の下に郵便貯金や各種年金などの勤労諸階級の零細な貯蓄、基金を独占資本にまわす”くれてやれ”政策、租税特別措置法の撤廃、利子配当・土地・株式等のキャピタルゲインに対する分離課税の即時廃止等に何らふれることなく、全法人の九割以上を構成する中小零細法人をもおしなべて敵においやるようなスローガンをよしとしてしまっている。
「四、インフレの進行を押しとどめるために厳重な物価統制を行うこと」 ここに至っては、インフレの真の元凶となっている独占資本の管理価格、独占価格、カルテル行為等を不問に付してしまっている。もちろん独占禁止法の反独占的改正も全然問題にしていない。
「五、物価上昇に匹敵するインフレ手当(三か月以上)の支給」—- ここでは突如、変革の政策の中に、論者からいわせれば組合主義的経済主義的要求であるはずのものが掲げられている。「三か月以上」 だから日和見主義に鉾先を向けているというのだろうか。六の「一切の形態の賃金カット阻止」をも含めて、変革の政策としては、SM論文の筆者たちがいみきらう経済主義的組合主義的スローガンとしてさえおそまつ限りないものであるが、これについては別に詳しく取り上げられなければならない。
「七、全面的な公共医療制度の確立と医療・薬剤費の無料化」—-医療の社会化は勤労大衆の切実な要求である。しかしこれは、そこに至る現在の健康保険制度、開業医制をはじめとする医療実態に対する具体的政策が要求されているし、反独占権力のもとにおいてさえ変革の要求として掲げられるものである。医療において独占的利潤をほしいままにし、薬害をたれ流している薬業独占資本の国有化がなぜ提起されていないのであろうか。
「八、兼業農家を含む小農経営にたいする経営保障と自発的協同組合化」 とか「都市自営業者にたいする無利子長期の国家による財政的金融的援助」 これらのどこに日和見主義者にも鉾先を向けた内容があるのであろうか。小農経営の経営保障と自発的協同組合化がどうして両立できるのであろうか。
「九、倒産企業及び閉鎖工場にたいする労働者による生産管理を含む国有化。倒産切迫企業にたいする国家の財政的金融的救済と国有化」—-倒産切迫企業は総じて中小零細企業である。国有化とは、独占資本よりも先にこれらのところでなされるべきこととして提起されている。また財政的金融的救済と国有化は、 一体どのように両立するのであろうか。これでは、独占資本は自己の力を使うことなく、国の力を使うことによって独占系列の再編成、スクラップアンドビルドを行ない、 一か月に一千件をこえる倒産企業、それをうわまわる倒産切迫企業への財政的金融的救済に狂喜することであろう。
 以上、ここに掲げられたスローガンは、 一貫して反独占的見地、独占資本を孤立させる反独占統一戦線の重要性をまったく見失った、日和見主義的見地と超革命的見地の雑炊であるとしかいいようのないものである。こうしてSM論文の筆者たちは、独占資本を孤立させるのではなく、非独占諸階級を独占のまわりに結集させたり、逆にプチブル的小農経営や都市自営業者におもねったりするスローガンを、「必要不可欠」 のスローガンとして提起しているのである。「必要不可欠」 にしては、公務員のスト権回復、刑法改悪・司法反動化の阻止、等の政治要求として最も重要なものが欠落しており、自治体の民主的改革とその自主的財源の拡充、学校、病院、下水道等の建設、独自核武装阻止、核防条約即時批准、日共宮本指導部の部落差別キャンペーン糾弾、部落解放同盟連帯—-等々、われわれがさまぎまなあらゆる戦線で掲げ闘ってきたこれらの基本的要求が抜け落ちてしまっているのはどうしたことであろうか。そして問題は、これら「必要不可欠」 のスローガンが、SM論文いうところの根本的変革のスローガンと、同時に、ならべて掲げられているかどうかによって、あらゆる大衆運動、組合組織、統一行動、統一戦線を判断し、そこに持ち込むことをなにか革命的行為であるかのように錯覚し、意にそわないものは評価に値しないとするセクト主義と結びついているごとである。
 SM論文は、これまで述べてきたことの結論として、次のように語っている。
「われわれは、このような、労働者階級の恐慌からの脱出政策の核心が、軍事費(四次防、五次防)の削減と打切りを要求し、それによる公共投資と住宅建設の拡大を要求すること、この二つの要求の結合にあると考える。恐慌の深刻化に直面する労働者階級の闘争は、平和のための全人民の闘争と結合して闘わなければならない。『労働運動と平和運動の統一』が当面の大衆運動の主要なスローガンのーつとならなければならないのである。」
 軍事費削減、住宅建設を要求すること自体は正しいことである。これは日共宮本指導部も自己の民族主義的日和見的見地を陰ペイし、反独占闘争を放棄し、軽視するためによくいってきたことである。しかし「恐慌からの脱出政策の核心」が、五〇年度予算において軍事予算総額一兆三千億円の内の四次防費の削減と、その程度の住宅建設を要求することにあるといった、驚くべき政治的無恥は、 一体どうしたことであろうか。そしてこれこそが「労働運動と平和運動の統一」だというのであろうか 。
 「アメリカ帝国主義に反対し、日本政府の反動政策とたたかわないで、賃金一本で独占資本と対決するようなやり方で、どうして労働者の生活と権利を守ることができるでしょうか。」—-これは、 一九六四年四月一七日の歴史的ゼネストを 「仕組まれた挑発」だとして、日本共産党がスト破壊に狂奔した時の、かの悪名高い「四・八声明」 の一節である。日共宮本指導部が 「日本人民の独立・平和の愛国闘争と結合して春闘をたたかうべき」だとして、労働者階級の経済的要求にもとづく闘いを、経済主義、組合主義だとして蔑視し、日韓会談反対や民主連合政府樹立を同時に、ならべて掲げていれば、”階級的民主的”労働組合だとする、今も一貫してとり続けている骨がらみのセクト主義、日和見主義と同一な傾向が、このSM論文の結論となってしまっているといえないであろうか。

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 SM論文は最後に、これらの見解を目的意識的に 「マルクス主義の原則と党派性をまもること、労働運動と人民運動の政策の理論的基礎」を提示したものとして語っている。SM論文も語っている全般的危機の新しい局面、日共宮本指導部の原則的な誤りと日和見主義に直面している時、このような目的意識性は常に必要である。しかしSM論文の目的意識性は、まったく逆の結果となってしまっているのである。
 このSM論文の目的意識性が、マルクス主義の原則性の擁護の名の下に、「結合の前の分離」をとなえた福本主義的誤りにおちいり、革命的焦燥感がいつまのにかあらゆる異説にたいする悪しき不寛容と尊大なセクト主義、”大衆の無理解と無関心”から自己を隔離し、防衛するセクト主義に転化することを深く憂慮しないわけにはいかない。
福本和夫氏は、「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか」と題して 「一旦みずからを強く結晶するために、『結合する前に、まずきれいに分離しなければならない』『単なる意見の相違』—-同一傾向内の と見えたところのものを『組織問題』にまで、したがって単に『精神的に闘争する』にとどまりしものを、『政治的、戦術的闘争』にまで展開しなければならない。」と語った。(一九二五年、『マルクス主義』10月号)
 SM論文の筆者たちが、このようにして、わが派の主体の形成、わが派の主体の構築、すべてはここからだ このような実践的結論にならないことを願って、問題提起としたい。

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「知識と労働」 討議資料 1975年3月

「知識と労働」 討議資料 1975年3月   発行:知識と労働社

知識と労働 討議資料 1975年3月

知識と労働 討議資料1975年3月

「討議資料」の発行にあたって

 「知識と労働」第十号は 「七四年の大衆運動とマルクス主義」 と題する特集を行っている。
 しかし、本号は本誌のこれまでの編集とは異った仕方で編集された。それは多数の編集委員の共同討議を経ないで編集刊行され、しかもその内容に多くの思想的理論的誤りを含んでいるため、当然のことながら、これに対する批判的意見が続出している。 「特集にあたって」の筆者は 「これらはいずれも試論でありマルクス主義者の間での広範な討議を組織するため」 のものであるといい、また編集後記では「本号で提起されている理論的原則的問題について真剣な検討と批判が行われることを期待してやまない」とも書かれている。このことからみても、こうした批判的意見を、 一定の手続きを経て公表することが、本誌の今後の健全な発展のために不可欠なことであろう。
 われわれは、十号特集の刊行によって生じた諸問題を検討し処理するため、かねて編集会議の開催を求め、去る三月一日にはそれを召集したが、十号特集の筆者の一部は、何故かその会議に出席することを拒否した。しかし、十号にあらわれた理論的思想的混乱が、すでに一部の大衆運動のなかに否定的な影響を生みだしているなどの事情にかんがみ、この混乱を早期に収拾するためには、本「討議資料」の発刊が急がれねばならないとの意見が、多数の編集委員および 「知・労」グループの指導的メンバーの多くの者により出されたことにもとづいて、本臨時号を発行することにした。
 読者諸君が、これを参考にして、当面の理論的思想的問題について真剣な討議を深められることを切望する。

一九七五年三月三日

「知識と労働」編集委員会       代表者  小 野 義 彦

 

「特集にあたって」はどこに導くか
 「74年の大衆運動とマルクス主義」批判         松 原 敬

古くて新しい問題—-田崎論文批判—-      大 木 透

田崎晋論文(『知識と労働』10号)と
 日本共産党七五春闘方針について        永杉 泉

特集「大衆運動とマルクス主義」は何をよびかけているか
 学生党的傾向の克服のために          堺 新一

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市大学生唯研 No11 「知識と労働」小野論文の問題点

市大学生唯物論研究会 No11 75.3.3 (後に「原則」と改称)

「知識と労働」第10号を巡って、小野論文の問題点(市大唯物論研究会 No11)

市大学生唯研 No11 1973年3月3日

市大学生唯研 No11
1973年3月3日

【1】二つの路線 二つの立場
「知識と労働」10号をめぐって「混乱」が生じている。
 しかし、もっと深く洞察する人には、生じているのは決して「混乱」などではなく、明確に区別された二つの思想的立場、二つの路線、二つの潮流の間の非和解的な対立と闘争であることがわかるだろう。すなわち、小野論文を先頭として、マルクス主義の諸原則への重大な修正、日和見主義、改良主義の「沼地」へ行こうとする人々と、マルクス主義の原則性、党派性の旗を守り、けわしい道をいかに苦しくとも、一歩一歩よじのぼって行こうとする人々との間の思想的決べつである。問題は、極めて原則的に提起されており、ここには中間の道は絶対にありえない。
 諸君、公然と論争に参加しよう。
 冒頭、小野論文は、明確に一つの政治的立場を表明した論文であり、一個の政治論文である。なぜなら、それは、当面の危機の評価と戦術と、一定のスローガンを提起し、それを大衆の行動と結びつけようとしているからである。以下、小野論文の基本的傾向を示すいくつかの問題点を提起し、討論のための材料とすることとする。

【2】危機の評価
 小野論文の危機の評価について次の点が問題とされなければならない。
(1)危機緩和論
小野「われわれマルクス主義者は、右にみてきたような資本主義の全般的危機深化の諸現象を、ひとつひとつの総体的な過程として把えるものであるが、この危機の激化を待望したり、それをさらに激化させることに関心をもっているのではない。われわれは断じて危機待望論者ではない。」
ベルンシュタイン「我々はやがて期待されるべきブルジョア社会の崩壊に直面しているという見解、及び社会民主党はこのように直面している社会的大危機を期待することによって、その戦術を適応させ、また従属されなければならないという見解には、私は反対せざるをえない。」
レーニン「個々の政治的経済的危機という意味でも、また資本主義体制の完全な破滅という意味でも」「資本主義が崩壊に向かっている」。「革命家は、革命の到来以前にこれを予見し、その不可避性を意識し、その必然性を大衆におしえ、革命への道と革命のやり方を大衆に説明する」義務がある。
ソ連邦科学アカデミー 世界経済国際関係研究所テーゼ
「資本主義の全般的危機は、この社会体制の力によっては一時的にすら克服することは出来ない。この危機は社会主義革命によってしか解決されない」
(2)現在の日本の危機が、日本資本主義の内的矛盾、基本的矛盾から説明されず、もっぱら外的要因、石油不足とメジャーの石油価格引上げに求められていること。
小野「このように日本の経済にとって戦略的意義を持っていた原油の輸入が今後アタマウチ、ないしよくても微増状態におち入る(ママ)ならば、日本産業の成長が止まるとまでは言い切れないにしても、それが全体としてひどく純化することはまちがいない・・・・石油が必要なほど買えねば、景気回復も経済成長も全くオジャンである。」「石油帝国の最重要な物的基礎が失われようとしている。それとともに国際石油会社が第3世界の産油国を掠奪してきた”安い石油”の上に築かれてきた先進資本主義諸国の成長経済の基礎が崩れ、これらの国の経済状態には”暗い見通し”が避けられなくなった。
ベルンシュタイン「一般的恐慌なるものは・・・予想外の外部的出来事によって何時でも起こり得るものではあるが、もしそれによってひき起こされないものとすれば、このような恐慌が・・・発生するということを推論すべき確固たる根拠がない。

【3】改良と革命
 改良と革命の関係についての小野論文の基本的傾向は次の点に集約される。
小野「われわれは、資本主義が最終的に清算されるまでは、一切の状態が改善されえないとするような考え方にはくみしない」「社会発展のたえがたい桎梏となっているこれらの諸関係を一つ一つ取除いていくこと、それは・・・世界的規模での帝国主義の後退がいよいよ明白になりつつあるとき、そのことは完全に可能になっている。・・・小さな改良、まだるっこい危機対策、上べだけの独占規制策であっても・・・・僅かばかりの譲歩であっても、もしそれが広範な大衆的圧力の介入の下にかちとられる場合には、反独占、民主勢力の介入の下にかちとられる場合には、反独占、民主勢力の結束の強化、その政治的力量の増大をもたらし、より重要で本質的な反独占改革実現への途をきりひらくことになる」
レーニン「社会主義者は、その革命的活動を、改良主義的活動にすりかえない」「改良はプロレタリアートの革命的階級闘争の副産物である、ということである。全資本主義世界にとって、この関係はプロレタリアートの革命的戦術の基礎であり、イロハである」「われわれが賛成する改良の綱領は、かならず日和見主義者にも鉾先をむけているような綱領でなければならない。」
【4】日共の評価
(1) 政策そのものについては批判しないこと。
小野「よいことづくめのスローガンをならべ立てた『民主連合政府』
(2)政策の実現のために、議会主義を労働組合主義で補足していないのが「最大の弱点」として日共を批判している。
小野「日本共産党は国民の増大する不満を背景に近年中央と地方の議会にかなりの勢力を占めるに至ったが、労働運動との結合が弱い点を最大の弱点としている。」
要するに、小野論文によれば、日共は、政策や政治路線が誤っているのではなく、その政策の実現の手段だけが誤っているわけである。
【5】平和共存と労働運動
(1)小野論文によれば、エネルギー輸入をはじめとする東西貿易が十分に進展していないのは、「経済的条件というよりは」すなわち日本帝国主義の階級的本姓というよりは、政治的外交的な事情であり、その面での日本支配層の”優柔不断”と”臆病さ”である」自国のブルジョアジーへの信頼。
(2)小野論文は、アジア集団安保の実現を単に尖閣列島をはじめとする大陸ダナでの「わが国が必要とするエネルギー開発し確保する途」としてしかとらえられていない。明らかに自国帝国主義の擁護の立場。
(3)国際平和運動の原則となっている平和運動と労働運動の結合の視点が、また平和共存の前進を国内の革命的階級闘争の前進のために利用する立場が欠落し、平和共存を、単なる外交政策の「転換」として、ブルジョアジーないし、その一分派に「勧告」するだけにとどめようとし、大衆的平和運動をその付属物にしている。
これらの諸点については、”特集にあたって”およびデモクラート参照。
【6】石油危機
小野 メジャー「性悪説」、石油・エネルギー危機が、全般的危機の現段階における、帝国主義間のエネルギー資源再分割競争であり、帝国主義間の世界市場再分割競争の一環であるという指摘がされていない。ここでも自国の帝国主義擁護の立場。

**********************************************
 以上から、小野論文の基本的特徴を簡単に次のようにまとめることができる。小野教授は、プロレタリアートには「小さな改良」、「僅かばかりの譲歩」を、ブルジョアジーには、対ソ「戦略」の転換による日本の帝国主義的地位の強化を、危機のいっそうの激化、崩壊、革命的闘争のかわりに、約束している、と。
 しかもこのような論文のスタイルはかなり以前から小野教授にとって「骨がらみ」のものとなっていると。
 小野論文から以上の内容、マルクス主義の原則の修正、日和見主義、改良主義を読みとることのできない人は、それを欲しない者だけであろう。

 以上の諸点は、我々がどうしても見逃すことができない、氏の論文の問題点である。最初に述べた様に、これらはマルクス主義の根本原則に関するものであり、日本の共産主義運動再建の途上で避けて通ることのできない問題であると考える。我々の問題提起がマルクス主義の擁護と発展を願うすべての民主的学友の間で真剣な討議に付されることを願ってやまない。(T・K)

※ このビラのあとに、2枚のビラが撒かれたことを確認している。
「原則」No12 1975.3.16
「市大は如何に『マルクス主義』を教授しているか。」
(小野義彦教授批判、吉村励教授批判)
「原則」No14 1975.4.16
「マルクス主義の理論と党派性を打ち固めよ!」

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デモクラート 第61号

デモクラート 第61号 1975年2月12

学費反撃 東京理科大1500名 予算国会包囲
春闘労働運者に連帯し、学費凍結・文教費拡大を

 

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】学費値上げ阻止闘争の課題と展望
学費値上げ阻止・処分撤回
東京理科大 3波ストライキ
3.1ビキニデーに結集を
移転阻止勝利:東洋大経営・社会スト
2面 日ソ平和条約即時締結
反ファッショ闘争へアピール
欧州共産党会議を決定
75春闘の課題と展望
寮問題 学生立つ 筑波大
3面 学費闘争:東京理科大先頭に全国でスト・団交
連日2000同盟登校 東京理科大
学費値上げ阻止勝ち取る 大阪市大理事会の逃亡糾弾:関大
学生大会3000名で成功:立教大
部落解放運動の課題と任務 他

4面 原発と反独占闘争
破局に向かう経済恐慌
私学危機の解決へ今すぐ7千億を
日和見主義的「革新」の帰結
雑誌「現代の理論」
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デモクラート 第60号

デモクラート 第60号 1975年1月20

恐慌の犠牲転嫁許すな
国公私学一斉学費値上げ阻止掲げ
春闘決戦の強力な一翼を

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】恐慌下における反独占勢力の課題
75予算 軍事費削減・文教費拡大
反恐慌政策掲げ75春闘を闘い抜こう75年反独占勢力の飛躍的前進を
2面 75予算公共・文教部門の大幅拡大を
援護法制定へ2月タイ政府行動
75年平和運動の課題と展望
中東への軍事介入許すな
チュー政権打倒へ前進
3面 全国学園スト・団交・デモの嵐
団交へ連日数千名:関大
52名の不当逮捕糾弾:明大
全市大学生集会成功:大阪市大
学長団交へ決議集中:大阪学大
AF2公開検討会:阪大
狭山闘争勝利へ前進を
4面 教育労働運動の飛躍的前進を
ジョーン・バエズ「ここに人生が」 チリ人民への連帯の歌
支配階級と底知れぬ結託
日共、自民と結託し「反暴決議」被爆30周年原水禁運動の原則的統一へ
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七四春闘の成果と残された問題 (「知識と労働」10号)

(「知識と労働」10号 特集論文)

七四春闘の成果と残された問題   –労働運動と「前衛党」–  

「知識と労働」No10 1974年12月10日

「知識と労働」No10
1974年12月10日

                  田崎 晋

 七四年春闘のように画期的で重大な意義をもつ闘争は、あらゆる機会にその主要な諸側面について、種々の観点と問題領域において、検討され総括されるべき問題であろう。しかし、今日の国独資の条件下では、経済と政治、巨大企業と政府がますます密接にからみあい、資本主義と国家の二つの巨大な力が「一つの機構」 (レーニン) となって支配しているので、経済闘争といえども何ほどかでも大規模な、国民経済的な影響力をもつものは、国家の経済政策のわく組みの中で直接的に規制されるという意味で政治的な性格をもつ。だから、春闘のような広範な労働者階級の闘争の総括を、それが闘われた政治的条件、特に労働者階級の側においてはその政治的自覚と力量の度合を集中的に示す前衛党の政治的組織的指導カの問題を捨象して、単に労働組合運動の内部で、組合幹部の指導力と組合の戦闘
性の問題としてのみ、とらえることは本質的な誤りであろう。この春闘の全期間を通じて、日本の 「前衛党」 がもっている主要な、本質的な誤謬—-議会主義=選挙第一主義と日和見主義的改良主義、民族主義とセクト主義に根深く浸蝕されていること、最も戦闘的な組織労働者の間に真の階級的組織を形成しえていないこと、したがって、一方では政府の強権的な弾圧にたえず恐怖し、他方では中小企業者、その経営的ェリート、小所有者等に体現化される「国民」大衆の偏見への迎合に腐心すること、国有化と民生的管理を中心とする真の意味での反独占的性格の政策を提起せず、それによる広範な政治的統一戦線が形成されないこと等々–は、闘争の勝利をたえず限界づけ妨害する致命的な条件として作用し続けていた。だから、日本の労働者階級は真の級は真の前衛政党の指導と組織的な支持なしに、それ故たえず政府と支配階級を根本的な変革の要求で政治的におびやかすことなく、この側面から譲歩の幅を広げ量を増大させるという力の作用なく、 今春闘を闘い抜いたのである。今日の社会において共産党が現実にもっている決定的に重要な意義と役割を考えるとき、このような異常事態を労働者階級の闘争過程全体を貫く変革主体の側の最も根本的な重要な問題として、たえずそこへ立ち帰って検討し考慮することなしに、春闘の総括もその成果を論じることも不可能である。したがって小論では今日のわが国労働運動のロードス島ともいうべき前衛政党の問題に主要な焦点を絞り今春闘の政治的総括のための一試論を提起することにする。このような本論の性格上、特殊労働組合運動レヴェルでの問題は、その具体的政策の問題も含めていわば副次的に取り上げられるに止まる。

1 大衆的高揚
 七四春闘が大衆の自然発生的高揚と組合運動の組織的前進の点で特に注目すべき特徴をもち、その頂点の四月決戦ゼネストの参加者の規模と範囲は労働運動の新しい高揚を示す戦後最大のものであったことは、周知のことである。参加者は八一単産六五〇万人で、昨年の、これも史上最高といわれた四・一七年金ストの規模(五四単産、三五三万人)をはるかに凌駕し、従来の戦闘力ある組合を中軸として無数のスト初参加組合を加えたその組織的な範囲は、それだけでもまさに 「国民春闘」 の名にふさわしいものであった。同時に、これを構成する各単産の闘争の内容も、新しい前進の実例で満たされていた。公労協の五日間にわたるスト敢行、私鉄のかつてない二日間のスト貫徹、全金(とくに大阪地本) の強力な先行的闘争等、春闘中核組合の強力な力量とその発展が如実に示されていた。電機が金属四単産、「同時決着」という右からの方針を乗り越えてゼネスト以降まで闘争を続行したこと、全繊もまた十三年ぶりのストライキを決行したこと、さらに公務員共闘二〇〇万人が半日、 一日ないしは半日反復と本格的な春闘入りを果たしたこと、これらの事実は、数多くの組合の春闘初参加と並んで、今次春闘の広範で底深い威カを示すものである。
 今春闘の原動カとなったものは、いうまでもなく労働組合下部における終始一貫した広範で力強い大衆的な盛り上 がりであった。すでに当初の要求額の決定段階で上級機関の提案が下部からの強い要求と圧カで次々に増額修正されたことは、このことの最初の最も明白な現われであった。さらに、国労は当初の幹部声明に反じて順法闘争に入り、全繊は労使平和条項破棄を要求し、これまでから労資協調的傾向をきわめて強く示していた電労連はスト規制への闘争宣言を行うまでになった。これらは、下部における闘うエネルギーの蓄積と充満を如実に示すものである。そしてこのような力こそ、決戦ゼネストを最後まで貫徹させ、春闘共闘委員会と私鉄の幹部に第二波を構えることを真剣に考慮させた決定的な原因である。
 このような労働組合の戦闘性の新しい前進は、労働者階級の政治的意識の発展を喚起せずにはおかない。今や、対個別資本だけではなく、独占資本とその政府との経済的政治的対決がますます広範に強く意識されるようになっている。三・一統ーストが史上初めて対政府要求のみにしぼって提起され、大成功裡に打ち抜かれたことは、この意味で特記されるべきであろう。
 今春闘にみられるこのような変化—-高揚と前進—-の客観的な基礎は、いうまでもなく、情勢の急激な転換—-危機の急速な進行—-にあった。インフレーションは、すさまじい勢いで労働者階級と人民に襲いかかり、その生活を窮地に陥いれていた。実質賃金は政府の作為的な統計によってすら六・一%も低下し、絶対的貧困化がだれの目にも明らかなほと急速に進行していた。しかるにその一方で独占の利潤は昨年九月決算で見ても、前年同期と比べての利益増が大法人平均四割増、高いところでは七倍増と、包み隠しようもなくふくらんでおり、両者の矛盾と対立は、極度に深刻なものとなっていた。
 もちろんこのような状態は、特殊に日本のみの問題ではない。資本主義全体が深刻で全般的な新しい危機にまきこまれている現在、各国の労働運動は共産党に指導されて画期的な前進を見せており、日本の労働運動にたいしてすばらしい手本を示していた。仏・伊の根本的な反独占改革へ向けた大きな前進や、英炭鉱労働者の不屈のストライキ闘争、西独労働者の下部からの強力なつきあげによる大ストライキ闘争等々は、まさに学ぶべき多くのことがらを示しているといえよう。
 今春闘に現れた大きな変化は、それがまだいかに不充分なものであろうとも、これらの国際的な労働運動の高揚の不可分の一環をなすものであり、その規模と深さにおいて日本の労働運動発展の新しい段階への飛躍の前兆、その序曲を示すものであったといえるのである。
 日本資本主義をとらえている現在の危機は、まだほんの始まったばかりであると言っても過言ではないほど、今後一層の深刻化が予測されるが、この段階ですでに労働運動はこれだけの活力とエネルギーをもって闘う姿勢を示したのである。危機の本格的展開は、必ずや労働運動の、さらには全人民をまきこんだ反独占闘争の爆発的な高揚をもたらすにちがいない。

2  成果とその限界
 決戦ゼネストを頂点とする今春闘は、その直接の成果として、賃金の上昇率と引上げ額の点においてこれまでにない新しい成果を獲得することができた。しかし、「狂乱物価」を前にして反インフレを主要スローガンとしながらも物価上昇分を賃上げによって完全に取り返すことも実質賃金を大幅に上昇させることもできなかった。支配階級とその政府は昨秋に 「石油危機」を利用した極端な物価騰貴によって先制攻撃を加え、予測される春闘の賃上げ分を前もって取り返していたのである。このような事情の下では、各単産によって相異はあるけれども、春闘の指導者達が当初に設定した獲得の目標は下部からのつき上げで増額訂正されたとはいえ、決定された目標額そのものが全体として相対的に低いものであり、インフレに追いつき追い越せるような「大幅賃上げ」 とはいい難いものであったた。しかし、ここでは、まず、このような限られた限界内で日本の組織労働者が組合活動を通じて現実に闘いとった直接の成果の一つ一つについて評価しておくことにする。
ゼネストの中心部隊たる公労協・私鉄の獲得額(公労協二万七六九一円、私鉄二万八五〇〇円)は、ここ数年春闘相場の上限をなしていた造船重機の妥結額二万七五〇〇円を上廻ったものであった。周知のように、追船重機の回答は、鉄鋼と並んで独占の”春闘低額買い取り”の意図をストレートに表現していた。だからとりわけ鉄鋼が下部組合員のつきあげによってそうした意図の忠実な体現者たりえなくなりつつある今日では、造船重機の妥結額を乗り越えて進みえたことは今後の闘争にとって大きな自信となるものであった。更に、春闘共闘委員会に結集した組合全体の平均妥結額が、日経連の当初の意図—-25~30%に押えこむ—-を越えて、34%に達したことは獲得額の面における、春闘の全体としての大きな前進を示すものである。このような成果は、闘わぬビッグユニオンの下部に大きな影響を与え、幹部をも含めて一定の動揺を生みだしている。こうしたことの結果、これまでビッグユニオンの幹部に依拠して労働戦線統一のヘゲモニーを握ってきた全民懇は、その路線の破綻が避けられないものとなっている。
 いわゆる「国民的要求」 の面でも、今春闘は政府の当初予算を、額としてわずか (総額一三〇億円) ではあるけれども、また共産党、社会党の適切な指導がなかったにもかかわらず、実カで増額変更させることができた。この闘いは、労働者階級の政治的自覚の高まりをはっきり示しており、彼らを急速に全人民的闘争の代表者としでその先頭におしあげた。前段の三・ーストを中心としたとの闘いは、同時に、労働者階級自身に大きな自信を与え、後段の自分百身の要求のための闘いへ力強く奮いたたせていったのである。今や、学生でもなく、住民一般でもなく、労働者階級こそが、反政府、反独占統一闘争の盟主であることが、事実をもって明白となった。労働者階級が現代社会において占める位置とその歴史的任務からいえば、これは当然のことである。しかし、本来ならば労働者階級の前衛であるべきはずのわが国の共産党がこのことの意義を軽視するだけではなく、事実上否定している現状のもとでは、とくにこの点を強調する必要があるといわなければならない。
 労働者の団結の拡大と強化を、闘争の真の結果としで評価する観点からとらえる時、今春闘の最大のそして最も本質的な成果、前進のーつは、この闘争を最も真剣に最も戦闘的に闘い抜いた労働組合組織の組織カの拡大、その組織的権威と信頼の確立、強化である。例えば国労の場合、第二組合からの復帰者と加入者は、三・ースト、三・二六、四・ー三と闘争の前進に照応して数の上でもテンポを速めて増大し三ケ月合計で四四O〇名を数え、これに昨年の大会(六月)以後の復帰者五六O〇名を加えれば、組織拡大は実に一万名を越えるものであった。全逓では、春闘の四ケ月で三ニ〇〇名、昨年大会(六月)以後十ニ月までの七ケ月で2000名、あわせて5000名の復帰、加入者を獲得 して、かつてない組織拡大を実現した。同様の組合員の大量復帰の傾向は、全林野についてもあらわれている(数字の詳細についでは『学習のひろば』七四年七月号五四頁以下参照)。民間部門に関しても、闘争の前進と上部の指導性の発揮がただちに労働組合の組織拡大(例えば、全金の場合は実に六千名にのぽる)、新しい組合結成の気運となって結実していく傾向は今春闘の顕著な特徴であった。単に各単産の組合員数の増加だけではなく、今春闘を通じて多数の民間組合が闘うナショナル・センターとしての総評へ新しく結集していった(春闘共闘委員会、七四春闘中間総括、『総評時報』四六六号、五頁参照)。 それは、賃上げへの譲歩と同時に、いなそれを見越してすでに昨秋から行われだ、支配階級とその政府による「狂乱的な」物価騰貴によっても、決して奪い返されることのないものであり、労働者階級の今後の闘争の基本的な武器となるものである。わが国の労働者階級は、このような新しい組識的力量とかつてない戦闘性、組織性の下からの高揚のもとに、参院選、夏の一時金闘争、秋の第二春闘を迎えることになるのである。
 しかし労働者階級の団結の拡大ーーその 「意識と組織」の前進を労働組合組織のレヴェルにおいてのみとらえることが誤りであることはいうまでもない。労働者階級の歴史的使命を認めるものは、労働者階級の政党、前衛政党への組織化の前進にこそ労働運動の根本的な真の前進を求ねばならない。この最も重要な、最も根本的な点では、今春闘は、労働組合運動の前進とそれを指導すぺき労働者階級政党の指導力、組織力との隔絶、対立、矛盾を白日のもとにおき、ますます深刻な問題として提起した。春闘の期間中、日本共産党の方針は、労働組合の行う闘争を可能な限り激しくないものに押え、「節度」をもたせ、「ゼネスト」という言葉の回避を含あて階級闘争の印象をできる限りものやわらかいものとすることにおかれた。春闘ではなく来るべき参院選こそが全問題への解決をもたらすべき主戦場であり、そこにおけるヴォーターとしての 「国民」大衆の投票態度こそ共産党にとって死命を決するものと考えられたからである。春闘の期間、この党の主要な批判の目標は、権力的弾圧を受けている日教組と「順法闘争」を展開する動労であった。これらの問題については、春闘の残した課題として後に検討することとし、ここでは次のことを確認することに止める。「何をなずlべきか」 の観点からとらえるならば、今春闘の成果の基本的性格は、下からの自然発生的高揚が闘いとったものだということ、このような成果はインブレの問題一つを取ってみても何ら根本的な解決を与えるものではないのは勿論、それの直接の経済的獲得物については支配階級とその政府によって全く瞬時のうちに取り返される一時的譲歩にすぎず、ただ次の闘争の出発点、そのための組織的基盤、 「意識性の萌芽」としてのみ真の意義をもちうるということである。後者の意味において、春闘の成果は労働者階級の真の前衛党の確立という任務をあらためて、もはや一刻め猶予も許されないほど切迫した問題として、日本の労働運動の自覚ある部分に提起したのである。と同時に、それは真の前衛党への一般的な期待に基く今日の共産党の誤謬への鋭く仮借ない大衆的批判という形で真の前衛党組織のための大衆的関心を準備したのである。今春闘の時期ほど共産党の問題が、広範な大衆の間で鋭い問題意識をもつて真剣な態度でかつ公然と論じられたことはこの十年来かってなかったことである。

3  権力の介入
 春闘のこのような高揚は、国家権力の直接的な介入をもたらした。政府は 「官公労ストの違法性」「政治ストの違法性」を主張して、閣議決定をテコとしてのむきだしの恫喝をくわえた。政府はまたゼネスト切り崩しを狙って、その「反国民性」を訴え、公労協等の中心組合への集中攻撃にさえ訴えた。政府のこのような政治面での介入は、経営者団体やマスコミが 「コストプッシュインフレ論」 「スト迷惑論」「組織労働者のェゴ論」等々を大々的に宣伝し、政府を叱陀激励する中で、これと一体となって進められたのである。
 だが最も重要なのは、単にイデオロギーを前に出した攻撃だけではなく、警察による直接的な強権的な介入であっだ。警察は、ここ数年みられなかったほど異常で積極的な強圧的な介入を行った。警視庁は決戦ゼネストの最中に日教組への強制捜索を決行し、その後に数名の幹部と委員長を逮捕した。機動隊は各地で全逓、自治労等々にたいしてピケ破りを行った。また裁判所も、動労鳥栖、国労尼崎等の反動的判決を打ちだし、労働者の闘争への敵対を一層強めていった。
 国家権カのこのような、あまりにも露骨な直接の介入は、労働運動高揚の自然発生的性格と現労働組合幹部の指導力の限界、何よりも共産党の議会主義的日和見主義に基く組織的弱体と内部からのセクト的分裂活動(「全動労」結成、日教組批判)を充分に考慮にいれた上のことであった。と同時に、それは独占の危機意識の現れでもあった。 この意味で介入は支配の強さの現われではなく、むしろその弱さの現われであった。彼らは危機の深化と労働運動の新たな高揚への徴候を本能的に感じとったのである。
 さらに国家権力のこのような介入は、国家権力の階級的性格を否応なく誰の目にも明らかにするものであった。国家は経済闘争のどのような現れに対しても、それが幾分かでも本格的に闘われる徴候をみせるや、たちまちのうちに介入してくる。特に今日の国家独占資本主義の下においては、個々の資本、企業の賃金決定であっても、そのような個別性をこえて、総資本、国家としての経済政策の重要な一要素としてこれに規定される側面を持っている。このことは公労協、公務員共闘への回答がーつの共通の基準として巨大な影響力をもっていること、私鉄についてはそれが政府に運賃値上げや事業拡張の許認可権を握られているだけでなく、巨額の事業補助金を交付されていること、国家と深く癒着している独占資本の代表的産業たる鉄鋼や造船重機の回答が大きな波及効果をもっていること等々、数多くの事例の中に現われている。したがって現在では、労働組合運動もまた個々の資本とそのグループとの闘争だけではなく、総資本としての国家の経済政策との対決なしには、多少とも本格的な譲歩は引きだしえない。今春闘に現れた労働組合幹部や下部からの政党への期待と支援の要請あるいはそれと裏腹な不満の表明は、一つにはこのことに根拠をもっていたのである。
 決戦ゼネストの最後のツメの局面での労資間交渉の経緯も、それを真剣に見守った者にたいして、要求の今一段の獲得が簡単なものでないことを示すものであった。春闘共闘委員会の指導部が、私鉄や日教組の第二波ゼネスト突入要請にもかかわらず、「支配体制の壁」 の予想外の厚きと、「泥沼」化して「収拾の見通しも立たない」ということを理由に収拾策をとったことは、もちろん「権力分析の甘さ」として批判されてしかるべきことであろう。しかし同時にわれわれがそれを乗り越えて進むためには、より根本的な闘輝の解決を迫られているということを真剣に考慮しなければならない。「上尾事件」の記憶を蘇らせながらそれに訴えてブルジョア・ジャーナリズムが「ゼネストの反国民性」を大々的に宣伝し、同様の事件を待って政府と国家権力が露骨な介入のチャンスをうかがっていることが示唆されている状況では、政府・独占とのより本格的で断乎たる対決のためには、単に組合次元だけで解決しうる問題の域を越えた問題として、とくに労働者階級の前衛政党の政治的指導の不可欠なことを、大部分の真剣で主体的な闘争参加者が痛感させられたのである。

4 残された問題
 七四春闘はこのように重大な問題を内包し、したがって闘争に参加した多数の労働者大衆に闘い抜き得たという大きな自信と同時に、不充分な成果しかあげえなかったという大きな不満を残したまま収東した。すでに述べたような成果をあげえたにもかかわらず、要求額あるいは実質賃金の向上をかちとるような額にも遠く、労働分配立の向上を展望しうるような学にはまだ程遠いものであった。さらに、収拾段階で最終的に目標とされていた額三万円すら達することができなかった。そしてそのような不充分さは、その後の急激な物価上昇によって日を経るにしたがって大衆的に切実な実感となっていかざるをえない。
スト権問題において、政府自らが関係閣僚協議会の殺置と期限を明示せざるをえないところまで追いつめたが、この内容での決着は、当初の労働陣営の”74決着”あるいはその後の処分の軽減等に焦点をあてた方針からも、大きく後退するものであった。しかも日教組の強制捜索まで行われたにもかかわらず、そのような後退があったのである。国民的諸要求も一定の、過去にはなかった成果がかちとられたものの、内容の点ではどれをとりあげても本格的な成果とはいいがたいものであった。
 七四春闘の以上のような経過と結果は、運動の強さ—-労働者階級の大衆的高揚—-と同時にその弱さをも明るみに出した。
 弱さの第一は、春闘共闘委員会に結集する各単産が賃金闘争を最後まで闘い抜く上でも根本的な欠陥と限界をもつ企業別組合の集合体であるということ、 つまり闘争の困難さは、組織が企業別でありながら国民的要求を闘うということのなかにあった。産別でないから闘えないという主張は逆の日和見主義ではあるが、しかし”国民春闘”という重大な全人民的規模の要求を提起する以上、少くとも組織を産業別に再編成する志向性と具体的展望をもたなければならない。しかもこの産業別組合の必要性とそれへの発展の方向は今七四春闘にもすでに具体的に現われており、その最も象徴的な現われは決戦時に発揮された交通ゼネストの力であったといってよい。国労・動労・私鉄・都市交を中心とする交通労組の統一した力の発現なしには、今春闘がこれ程の盛り上りを見せなかったであろうことを断言できる。この統一の力は、まさに産業別闘争の力強さを物語るものであった。同時にまた闘争の中心的存在であった公労協の場合には、組織が事実上の産別組合の注格をもっていることにその力の源泉があったとみてよい。加えて公労協のこの強さは、資本制社会のワク内における最も進んだ企業組織の形態としての国営部門が、労働者階級にいかに有利な条件となっているかということの証明でもあった。国営部門の拡大とそこにおける労働運動の発展が社会主義への移行にさいして非常に重要な役割を果すことはいうまでもないが、ヴァルガの指摘をまつまでもなく、資本主義における国有部門の労働運動は、利潤追求に基く個別資本の圧力を直接うけず、全国民的な政治的力関係のもとで展開されるという点で、全く有利である。
 七四春闘に現れた注目すべきもうーつの実例は、日本における公営部門を除いた唯一の産業別組合ー海員のあげた成果である。彼らは、春闘共闘委員会が、”三万円以上”というような要求を提起していた時、平均で六万円以上にものぽる要求を提起し、ストライキを行うまでもなく、内航三万ハ九四四円(四四・九%)、外航三万九〇三九円(四一・五%) の賃上げをかちとることができた。しかもこのような額を産業別最賃の形で勝ちとることによって、職務給体系による企業内支配を大きく後退させることができたのである。この組合がゼネストにたいする協力の姿勢を欠いているということが春闘全体の高揚にとって問題を残しているとはいえ、その成果は産別組織のもつ強さを示すものとしては大きな意義をもっている。経営者団体が一昨年の九〇日ストにこりて、春闘対策のーつに 「海員ストをやらせない」と言明していたのも、まさに右の事実にてらして根拠のあることであった。また産別への移行をめざしつつ闘ったいくつかの組合が、大きな成果をあげたことも今春闘の特徴のーつであっーた。電機が二万八〇〇〇円の歯止めをかけたニ波の産業別統ーストを打ち抜き、全繊も中労委にもちこんで統一無期限ストの直前に二万九〇八二円(三二%)を獲得したのである。とりわけ闘争の内容によって産業別的なとりくみを意識的に推進した全金(大阪地本)は、輝やかしい成果をあげることができた。彼らは強カな統一要求・統一交渉・統一闘争によづて、ゼネストまでに三万円以上、最終三万二五一九円をたたきだし、”西高東低” の重要な基礎を構築した。この意識的なとりくみを、現場の闘争の実質的な指導者である地本オルグの多くが、積極的に果たしたことも、注目すべき重要な事実である。なぜなら,企業別組合から産業別組合への移行は、労働者階級のねばり強い自覚的闘いを要する問題であり、このような闘争の意識的で一貫した指導部分とその意識的で積極的な取りくみなしには、ほとんど不可能だと思われるからである。特に今日の日本では、企業ごとに賃金水準・体系、労働条件がパラバラであり、それが更に経済の二重構造という一層大きな亀裂の中におかれている。しかも日本の資本が企業別組合のこの 「すばらしさ」を大いに自覚しているばかりか、 一方では現在の組合幹部たちの多くもその客観的基盤のゆえに産別への移行に消極的であり、更に日本共産党指導部は中小企業への配慮から産別移行には真剣に取りくもうとしていないのである。しかし労働運動の高揚にのっとって意識的で一貫したこの運動の担い手が力強い活動をはじめる時、今述べたような産別闘争の前進と賃金・労働条件の平準化傾向、それに資本の集中化傾向までが、この活動のテコとなり、武器となっていくであろう。二重構造の解消もまたこのような闘争の上にこそ展望されるのである。そして当面、このような方向での取り組みを、産業別組合への移行の客観的条件が最も整備されている民間基幹産業の労働組合に集中して押しすすめることが要求されている。
 今春闘が残した問題の第二は、 ”国民春闘路線” のあり方である。この路線は、今日全労働者が就業人口中68%をも占めており、その意味で労働者の要求そのものが全人民の圧倒的多数の要求ともなっていることの客観的な反映でもあった。それはまた、すでに述べたように、全人民的課題を自らの課題として担い、そのイニシアティブをとる以外に自らの勝利の条件はないという労働者階級の自覚の高まりを反映するものでもあった。しかし同時に、見過せないことは、「国民春闘」 の名によって支配階級とそのオピニオンリーダー達による 「組織労働者のエゴ」等のイデオロギー的攻撃にたいして正面から対決し反撃することを避け、ことさらに組織労働者とは異った部分の要求に強調点を置いて弁解に努める弱々しい対応があったことである。大木事務局長の「順法はやらせません」という発言や、あるいは春闘共闘委員会の方針書の中で、スト権問題が”七四決着”といわれていた線から大きく後退していったのも、その具体的な現れということができるだろう。この傾向は、 一方では労組の最高幹部を国会に送りだすためには中間諸層や意識の遅れた部分の偏見に妥協し迎合することが必要だと考える全く誤った日和見主義的議会主義的発想とも結びついていた。「国民春闘」 の名によって抽象的な「国民」一般の支持をあてにするような日和見主義的傾向は同時に他方では、そのような要求を政党の指導と協力抜きに労働組合のみで闘いとれるかのような幻想に基く請負い主義的傾向となって現われた。
 われわれはこのような傾向を克服し、組織労働者自身の要求の正当性と、それが全人民に及ぽす意味を強調し、その発展の上に全人民的要求を打ち田していかなければならない。この意味で力点をおくべき点は、”弱者救済”という名目で労働者階級それ自身の経済的向上の努力を弱めることではなく、組織労働者と未組織労働者の結合の方針であり、その環となる最賃制の要求を具体的で科学的な根拠に基く政策として提示することであった。そしてまたこのような最賃制の実現のための闘争を抜きにしては、”弱者救済”ーー社会保障の抜本的向上ー もありえない。なぜなら、階級社会では、被支配者階級に属する働けない人間が働ける人間以上に得られるそいうことはありえないからである。ところで、現在この最賃制要求が現実的なカとなりえていない原因としては、現労働運動指導部の取りくみの弱さと同時に、”全国全産業一律最賃制”を中心とする政策の抽象的な性格とこの要求を社会保障的考え方に基ける理解の一面性と限界がある。組織労働者自身が関心を集中させ、主体的にとりくみうるためにはそれにふさわしい形の要求ー物価スライド制の基礎となりうるような高額の産業別最賃制ー を主要なものとして提起していかなければならない。そしてこのことは、このような産業別最賃を基礎とした賃率に基く産業別の横断的な賃金体系の確立の方向にも一定の道を開くであろう。
 ”国民春闘路線” に含まれるもうーつの重要な問題は、労働組合の闘争が政治的に正しく指導される時には、覗在の独占の政府の下でも一定の部分的譲歩として獲得できるような当面の要求、課題 (例えば賃金、年金、ス小権等)と独占の政府を打倒して反独占の政府でとりかえなければ実現されえないような課題 (例えばインフレ阻止) が、明確な意識的な区別に基いて原則的に正しく提起されていなかったことである。勿論、両者の区別は相対的なものであり、その間に越えてはならない万里の長城ばない。だが、たとえばインフレを一掃することは現在の国独資の支配体制をそのままに放置しては実現できない。しかし一連の公共料金の値上げを強力なストライキ闘争でストップさせることはできる。また、全国全産業一律最賃制の法制化と実現はおそらく反独占政府の樹立を必要としよう。しかし産業別協約に基く最賃制の実現、それを基準とする賃金の物価スライド制の実現は、現在の政府の下でも即刻の実現を要求して闘わねばならぬ緊切な課題である。年金の賃金へのスライドやその幅の決定も後者の課題となる。勿論、後者のための闘争は、どの重要な課題においてでも首尾一貫して闘われる時、独占の政府の打倒と反独占政府の樹立とのための闘争に成長転化する必然性をもっている。だから後者のための闘争過大は労働組合が自己抑制したり越えてはならない垣根として提起されてはならないこととはいうまでもない。しかし、より重要なことは、原則的な問題の提起においては、改良は「革命的階級闘争の副産物」(レーニン)だということである。危機の打開策として、独占体の系統的な国有化と民主的な統制を伴う抜本的な反独占的変革およびそれを政治的に保障する反独占人民政府の樹立をつねに要求することなしに、当面の限られた部分的な要求のみをかかげて闘争することは、独占ブルジョアジーとその政府の支配の持続性を保障した上で、その若干の手なおしと手かげんを懇願することにしかならない。そのような闘争によっては、労働者階級の前進にとって何ほどかでも意味のあるような改良をかちとることさえできない。打倒されたくなければ譲歩しろ、でなければかわってわれわれが支配する。論理はこのように提起されている。支配階級の「延命策」はさし迫る死の恐怖のもとでのみ採用されるのである。今日では、勿論社会主義体制の脅威がかかるものとしてつねに支配階級の上にのしかかっている。だがそれが具体的に如何なる譲歩となってあらわれるかは一国の階級闘争が決定することは、いうまでもあるまい。勿論反独占人民政府の樹立にいたる中間段階には、階級的なカ関係と支配階級内部の利害対立に照応して様々な色合と様々な性格の、いずれの側面に力点を置いて評価すればよいか識別困難な「よりまし政府」が現われて来るだろう。しかし、政治的力関係と経済的諸条件のさまざまな組み合わせの下で、各局面毎に一定のリアリティをもって前面に浮かんでは消える。このような政府の一つ一つを自らの目標としてその場その場で 「主観的力量」 に応じて追求することに終始することは、現代資本主義のアカーキー・アカーキェヴィッチの外套のつぎあてに労働者階級とその組織を没頭させることであろう。現代における国民的指導者階級としての労働者階級にとって決定的に重要なことは、賃金労働者としての自らの地位の部分的な改善や当面の改良の要求だけでなく、今日の国民的な問題の基本的な解決の方向、今日の新しい危機からの脱出を可能とする根本的な反独占民主主義的変革、独占体とその権力の打倒の方向をつねに提示することによって、現実に国民の代表者指導者とならねばならないということである。
 総評と春闘共闘委による「国民春闘路線」の提起は、このことの萌芽的な、原初的な現われとして、意識的に発展させられなければならない。しかしそれは客観的に労働組合の任務のワクを越えたレヴェルの問題である。プロレタリアートの基本的な目標も自らの綱領も、少くとも当面は掲げることなしに、部分的な改良のつみ重ねで 「なし崩し的に」ずるずるべったりで将来の社会主義へ接近するという考えは、いわゆる「構造改良論」の右翼的日和見主義的解釈に基くベルンシュタイン主義の擁護、その新しい変種に他ならない。このような思想の誤謬は、党を労働組合幹部へのイニシャチブグループに解消しようとした一九六〇年代を通じての解党主義者達の政治的没落と理論的破産、マルクス主義からの逃亡によってすでに歴史的に証明されたところである。しかし、わが国の労働運動にとって、今日の最大の危険は、抜本的な反独占改革でなく部分的なあれこれの改良、手直し、「規制」しか要求しないという根本的な点において、共産党指導部がかつての解党主義者の日和見主義と本質的に同様の誤謬に陥っているということにある。異るところは、かつての解党主義者が労働組合主義に力点を置いて経済主義を主張したのに対して、今日の共産党指導部は選挙第一主義を強調して議会主義を前面に押し出していることにある。また、かつての解党主義者がイニシャチブ・グループによって既存の組合幹部に取り入ろうとしていたのにたいして、今日の党指導部は議員活動に重点を置いて、一方では小所有者と小企業者中企業者の「営業」 の利益の代表者となることに主たる関心を寄せ、他方では労資の階級的対立が直接的に鋭くあらわれにくい部分(教員や公務員労働者)や、集中的にはあらわれない部分(点在の小組合の集合) に依拠して既存の組合組織の指導的中心を下から切り崩そうとし、また戦闘的な大組織(動労、全逓等)を直接的に分裂させようとしている。 一方での労働組合主義と他方での議会主義は、同一の日和見主義的改良主義の二つのあらわれ、異った形態に他ならない。しかし、かつては一部解党主義者の脱マルクス主義的転落の途であった誤謬は、今日では「満場一致の党決定」と官僚主義的締めつけをもって、党の全組織をあげた転落として拡大再生産されようとしている。ここに日本の労働運動の今日の致命的欠陥がある。この問題については、あとでとくに取りだして論じなければならない。
 第三の問題は、広い意味での労働者政党—-労働者階級の大衆の上に組織的支柱を求める政党の問題である。春闘の国民的な要求、それを支えた労働者大衆の自覚の高まり、そして資本に対する対決の政治的性格は、かつてなく労働者政党の政治的指導の任務と役割を重大なものとした。しかし、実際に示された労働者政党の指導力は、それにたいする客観的要請とはあまりにもかけ離れたものであった。労組の責任ある幹部、大単産の委員長、書記長たちの春闘直後の総括意見は、政党が何もしてくれなかったこと、「反インフレ」といった国民的性格の要求は労組だけではにないきれない政治的課題であること、政党を先頭とする全国民的な政治闘争の組織が必要であること等、労働者政党への期待と裏腹な強い不満で、誰もが共通していた。(例えば『社会新報』五月十二日)そこまで自然発生性が高まったのであり、そこまで意識性がたちおくれているのである。
 「反インフレ」というスローガンは、社会党によっても共産党によっても全く安易にとらえられ、単なる「高成長」—-それが田中内閣によってとくに急激に狂乱的な形で展開され、異常な物価暴騰をもたらしたことは事実であるが—-との対決と同義のものとして、全く一面的に理解されていたことは否定できない。社会党の主な主張は、「総需要引締」政策によるデフレ転換との闘争が緊急焦眉の問題として客観的に提起されている時に、依然としてこれまでからの 「高度成長」との闘争を主要な課題として前面におし出していた。そこには、物価高騰が戦後の国独資の条件の下では「高成長」と好況の局面でも「引締」 による不況下でも一貫して進行するということ、このような条件の下ではヨーロッパの労働運動がそうしているように政府にたいして独占の利益に対する「引締」と同時に人民の利益になるような 「成長」 の政策を一貫して要求してゆかねばならないこと、そのためにはこの局面での後者の具体的な政策と展望が根本的な反独占的変革の路線の上に提起されねばならないこと、等々の、今日の国独資の体制の下で労働運動がおかれている客観的諸条件に基く闘争の基本線の全くといえるほどの無理解が集中的に現われている。このような政策上の誤謬は、この党の一部で追求されている社公民による反独占的政府樹立の安易な展望とは異った意味で、春闘でのたたかう労働者階級の真の力の発揮を大きく制約するものであった。後者についていえば、ヨーロッパにみられるような右から左までさまざまな性格とニュアンスをもつ「中道政府」 のような政府が今の政府に比して「よりまし」 であるかどうかということではなく、そのような政府の樹立でインフレーションをストップさせることを含めて果たして今日の国民的課題を解決できるか否か、そのような政府の樹立を労働運動の目標として提起しうるか否かということに、今日の問題があるということである。

5  共産党の根本的な誤り
 しかし、当初に指摘したような意味で、今春闘にかんする政策上指導上の限界と欠陥について、その本来の任務化てらして最も重い責任を問われなければならないのは、共産党の方針と活動の根本的な誤りである。—-それは今春闘に限られた問題ではなく、労働者階級の行う重要な闘争では、主体の側の限界としてたえず形を変えてあらわれてくる。労働運動の発展にとって決定的に重要なこの問題を労働者政党や労組の一般的な限界や誤りと同列にあつかったり、またこの問題を回避して労働組合運動論一般のワク組のうちに解消したりすることは、前衛党の本来の階級的政治的任務そのものを本質的に理解することも認めることもしない解党主義と同様の誤りに陥ることになろう。
 今春闘を通じて、 ”共産党は闘わない”ということが、戦闘的な組合の指導者と組合員大衆の卒直な意見、現場での実践に基づく批判であった。それは、単に党指導部の方針、政策だけではなく、下部の労働者党員と党組織が本気で闘う気がないという事実への強い不満である。四・一七ゼネストの裏切りが、あいまいな形ではあるが公式に「自己批判」された後も、共産党の労働者軽視と激しい闘争の回避は、日常不断に、特に困難な厳しい闘争に際しては集中的に、組合活動の実践を通じて一貫した傾向として現われている。今日では、このような傾向が意外なことではなく常識的なこととして、日本の 「前衛政党」 そのものの抜き難い体質として組合員の間では受けとられている。このことにこの問題の本質的な深刻さとこの上ない危険性がある。
 共産党指導部は、春闘にたいする一般方針を党中央の公式決定として提起することさえせず、「赤旗」 の一無署名論文(「七四春闘前進のために」一・一七)によって、権威も責任の所在もあいまいな形で提起した。これは、参院選のためにはニ月と五月、二回の中央委員会総会が開かれているのと全く対照的な取り扱いである。春闘の直箭の第二回中央委総会(二月) は、参院選対策を中心にすえ、春闘の方針は独立した特別の議題にのせられることも特別決議に採択されることも、されなかった。そこでは、春闘の問題は幹部会報告の単なる一小部分として、独立した章でも節でもなく、一項目として扱われたに止まる。(全文で九万五千字を越える決議、決定のうち・わずか千六百字を占めるに過ぎない!)一方では同じ重さと分量をもつ別の項目が、春闘の中心部隊であり、組織力と戦闘性に・おいて最精鋭部隊である動労にたいする批判と攻撃にあでちれている。このような会議と議事の形式面のうちにも、共産党指導部が組織労働者の闘争をどの程度にまで軽視しているか、労働運動へのわずかに限られた関心と精力の主要なものを何に向けているかが、疑問の余地なく明瞭にあらわれている。
 春闘の真最中にそれに対置して決定的に重要なのは参院選のみだと強調することは闘争を「選挙に流しこむ」ものとして組合員大衆の間で強い批判を受けた。共産党のこの選挙第一主義、選挙至上主義は、二中総の決議、決定全体のきわだった特徴、一貫した基調となっている。二中総決議の主題は 「参院選での躍進」 であり、この時期の階級闘争と全大衆闘争の指導にかんする党の主要スローガンは 「選挙戦を前面にすえた総合活動」 であった。それは事実上春闘をはじめ一切の大衆闘争を、選挙のための集票活動を中心にすえてその一部分として、それに従属させて行うことを要求するものである。ニ中総決定や、先の無署名論文には労働者と労働組合の 「もっとも重要な役割」や、それが「徹底的にたたかいぬくとと」 や、自民党政府と「正面から対決すること」や、それと他階層との 「連帯」 について言葉としては語られている。しかし、問題はこれらのすべてをマルクス主義の原則にしたがって提起するのか、それとも議会主義と選挙第一主義にしたがって提起するのか、というところにある。労働者階級の経済闘争は、これを最後まで徹底的に発展させ、単に資本とその諸グループとの闘争に止らない、政府及び政治権力と「正面対決する」一大政治闘争にまで指導し発展させるとともできる。あるいは、これを選挙のための反自民的ムード作りに利用し、また 「徹底的にたたかいぬ」 いても結局は意義がないという結論をひき出して、選挙での投票にすべてをゆだね、議会主義のワク内で 「正面対決」する目的で指導することもできる。 「連帯」はゼネストの労働者階級に国民他階層が連帯し支援する形でも提起できる。あるいは、春闘中の労働者が中小企業者の 「経営」 のために 「節度を守る」 こと、また教育労働者の闘争が「保安要員」を置いて父母の偏見に妥協すること、という形でも提起することができる。しかしマルクス主義者が忘れてならないのは、後者の議会主義と選挙第一主義に基く日和見主義的方向においては、労働者の 「重要性」も「闘争」も「対決」も「連帯」も、全ては空文句になり、結局は階級協調主義に転落するということである。
 共産党指導部は右翼日和見主義と反共主義については共産党を「暴力革命と独裁主義」とみる誤解に基づくデマゴギーと解して 「けっして軽視できない問題」(無署名論文)とし、そこには第二義的な副次的な危険性しかみようとしていない。これにたいして主要な批判と攻撃は、動力車労組にに向けられ、その指導部を事実上「国家権力の中枢にむすびつく」「挑発策動に狂奔している集団」 に 「私物化された」ものとして、本質的に階級敵の組織として規定している。だから、春闘の中心部隊、わが国の労働者階級の最精鋭部隊のーつである動労との闘争がファシズムとの闘争と同様の「民主主義擁護の試金石として」提起されている。この、眼を疑いたくなる規定は、共産党が議会主義と右翼日和見主義によってどれほどまで深く侵蝕されているかを示すーつの証左である。また選挙至上論に立つ時、どこまで原則的にはめをはずしてふるまえるか、その危険性のもつ深刻さの度合を示す「試金石」である。
 しかし、このような議会主義、選挙第一主義にたつ共産党の政治コースにたいして、かつて一九六〇年代を通じて解党主義者がそうしたように、労働組合主義、経済闘争第一主義を対置してことたれりとするものは、経済主義の誤りに陥るものである。それはうまく成功した場合でも、結局は支配階級のあれこれの階級分派の対立と政治的抗争の「予備カ」として労働者階級の経済闘争を組織することにしかならないだろう。共産党の無原則的な議会主義的政治にたいしては、原則的な「マルクス主義的政治」 (レーニン)が対置されなければならない。労働者階級の経済闘争は、政治闘争に発展させなければならないというだけではない。 それは、つねに窮極的目的に導かれて首尾一貫した形での政治闘争に、支配階級とその国家権力に対する闘争にまで発展させる方向で指導せられなければならない。それは今日の条件下では、抜本的な反独占的諸改革を可能とする反独占人民政府の樹立とそれを通じての社会主義への移行を切り開く途である。
 共産党指導部は選挙での勝利と議会内多数派の形成による「民主連合政府」 の樹立をその政治的目的として提起している。それはうまく「選挙に流しこむ」ことが成功した場合の、「七四春闘の基本的勝利の展望」(無署名論文)でもあるらしい。この政府については、専ら議会主義に基いて、単に選挙における投票の獲得の結果である議会の議席数(それは院内の政治的力関係とさえ異る) の問題としてだけ提起され、議会と国家権力諸機関との関係、金融寡頭制支配の物質的諸力との関係から切り離して、全く抽象的に語られている。それは、国家権カ、その暴力的諸機構の問題を原則的に提起していないだけではなく、選挙における勝利が真に労働者階級と人民の政治的組織力の勝利でありうるための諸条件—-下からの政治的統一戦線の組織、労働者階級の統一、労働組合運動の統一、労働者階級と国民諸層との反独占的政治闘争における連帯等々—-についでは何一つとして語られていない。しかしそれは単に議会主義の誤謬にのみとどまるものではない。それはこの政府の下で実現される変革の社会経済的内容においても、独占資本と金融寡頭制の支配にたいしては指一本ふれないという意味において、全くの右翼改良主義をその本質としている。それは、「自民党政府のJ経済政策」や独占資本の「反社会的行動」 について批判することによって、一見反独占的な立場と政策をとるかにみえる。しかし、かかる「政策」や独占資本の 「行為」 の根本的な源泉であるところの独占資本主義の経済構造そのもの、かかる「政策」 や 「行為」がそこから必然的、不可避的に生み出されざるを得ないところの経済的土台については、それは何ら本質的で総体的な批判を行おうとはしない。だから「民主連合政府」 の下で、独占資本主義の経済構造は何ら変革されることなく独占資本は自由な運動と発展をとげ、したがって階級的な搾取活動、抑圧活動を自由に展開する!!(共産党指導部はこのことをジャーナリズムを通じて支配階級と一般世論に誤解なく周知徹底させることにイデオロギー闘争の重点を置いてさえいるかにみえる。)「民主連合政府」 の下で行われるところの社会経済的変革の内容は、帰するところ独占資本主義と金融寡頭制の支配を根本的に承認した上での、あれこれの政策の手なおしと、独占資本の個々の 「行為」の 「規制」「統制」、それを専ら上からの議会主義と官僚主義を本質とする「規制」「統制」以外の何ものでもない。—-勿論そのようなものでもある方がないよりましかという問題は、個々の政治的局面で、革命的な階級闘争の見地に立っても提起されうる。しかしそれを変革の基本的・本質的目標として進むか否かという問題は改良主義とマルクス主義を区別する原則的な分岐点である。マルクス主義者は、 自分の政策において 「部分的弥縫」 ではなく、それに対して 「現実的変革の根本条件」(レーニン)を対置しなければならないのである。
 銀行・金融機関の国有化、重要産業独占体の国有化及びそれらの民主的統制は、今日、社会主義への道を切り開く反独占民主主義闘争を最後まで闘い抜く国際プロレタリアートの共通の政綱として既に確立されたものである。一方でこのような反独占的な根本的改革を何ら行わず、他方で小所有者と中小企業者の「営業」「経営」を守ることを政策の主要な課題として追求する時、それは、現在の独占資本主義の経済構造を根本的に承認した上で、したがって金融寡頭制支配による小所有者と中小企業者の体制内的な組織化の現状をそのままの形で無批判的に承認した上で、その限られたワク組の内部で後者の反独占的な志向と利害を防衛するという改良主義的政治指導に終始することにしかならない。このような政策は、無論中小企業者や小所有者の反独占的民主も義の要求を一定限度反映するものではあるが、労働巻階級の要求するところの社会主義・反独占民主主義の政綱とは根本的に異ったものである。それは本質的に労働者階級の利害を前二者の利害に従属させ、小ブルジョア的ブルジョア的改良主義を階級的本質とする。と同時に、今日の諸条件の下では、歴史的国民的な指導階級としてのプロレタリアートに指導される時にのみ他の国民諸階層は根本的な反独占的変革を闘いとることができるのである限り、このような改良主義は小所有者や中小企業者の「経営」や「営業」にたいしでも何ほどかでも意味のある改良をもたらしうるものではない。このことは、 かかる改良主義が支配するならば、恐臓と危機の深刻化のもとでの独占ブルジョアジーの政策活動とその結果が手痛い事実をもって証明することになるだろう。共産党の政策で独占体の国有化が提起されている唯一の部門であるエネルギー産業に関しても、今日の 「石油危機」との連関でまた対米資本関係で最も中心的なカナメとなる石油産業については、国有化の問題を可能な限り遠い将来へ押しやる方向で動揺を重ねている(たとえば「生活をまもる緊急政策」を見よ)。
 マルクス主義のこのような修正は、何も新奇なものではない。独占資本の 「政策」や「行為」を独占資本主義の土台から切り離して論じ、経済構造とそれが規定する「政策」「行為」を唯物論の見地から必然的連関においてとらえない誤謬は、帝国主義をただ「政策」としてのみ理解し批判したかつてのカウッキー主義の」変種にほかならない。
それは、一九五〇年代末の七回大会と八回大会の当時からの共産党の綱領的方針に一貫した特徴である。帝国主義の「政策」とその土台である独占資本主義を、政治と経済を、切り離して論じることによって、『帝国主義論』と史的唯物論を修正することは、七回大会と八回大会では、日本における民族問題至上論にたって日本を帝国主義国と規定することを回避し、日本は独占資本主義ではあるが帝国主義ではない 「半占領従属国」 であると規定する、宮本指導部の主要な論拠であった。十二回大会の今日では、本質において同一の修正主義的誤謬は、独占資本主義の土台に手をつけない 「反独占政策」を正当化する論拠として、姿を変えてあらわれたのである。二中総決議が「自民党政治こそが今日の国民生活危機の元凶」(傍点筆者)という時、全く意味深長である。
 宮本指導部に固有の本質的な誤謬である民族矛盾至上論民族主義的修正主義は、事実上の「主敵」米帝からの解放が議会主義とその法的形式論に基いて、そのための政治的諸条件をなすこところの国際的なカ関係も国内の階級闘争も捨象した上で専ら議会内の手続と法的形式としでのみ提起されるようになった今日でも、他の諸党派と統一戦線を締結する場合のイデオロギー的な「垣根」として機能し、セクト主義の主要な源泉のーつとなっている。共産党指導部は、一方で 「日米軍事同盟打破」を春闘の中心環のーつであるかに強調する政治主義的態度を一示すと同時に、他方ではこのスローガンを一切の 「国政レヴェルの統一戦線」に参加するための条件として提示し、スローガンそのものではなく、それを統一戦線の条件とすることを社会党か承認せずに「全野党共闘論」を主張しているとして、結局は社会党との間にも目下の緊急問題、例えば「ェネルギー危機」と生活の危機の問題で反独占統一戦線を結成することを拒否している。ここでは、「安保廃棄」や「日米軍事同盟打破」はそのために真剣に闘争するための政治的行動のスローガンではなく、 むしろそれによって緊急に妻請される反独占闘争とそのための統一戦線の結成をネグレクトするためのセクト主義的なロ実として機能していることは否定されえない。共産党が「革新統一戦線の結成こそが決定的要因」だと強調するにもかかわらず、むしろ実態は「中間政党」 が共産党に 「対抗しようとする傾向のつよまりがある」 (二中総決議)事実は、党中央も認めざるを得なくなっている。しかし何故にそういうことになるのかということは、少しも反省されてはいない。
 共産党指導部の誤謬はこのように系統的で体系的なものであり、党の政治的体質を最も奥深いところで根底から侵蝕している。それは、今日では共産党の 「党勢拡大」 に照応して、全国民的意義をもつような大きな闘争の高揚に際しては、たえず日本の労働運動の前途を遮る巨大な壁として前方に立塞がるものとなっている。日本の労働者階級とその政治的指導者達は、これを克服し乗り越えることなしには、ただの一歩も本質的な前進をかちとることはできないのである。
 最後に無署名論文の賃金政策は、「だれでも最低これだけの賃上げ」という「最低保障額」を主張する抽象的な見解を無批判的に擁護し主張している。このような見解は、現在の年功序列制や職務給制にたいする自然発生的な鋭い批判としては一定の意義をもつものではある。しかし、それは賃金額について何らの科学的な根拠をも示さない抽象的な悪平等の主張であり、産業別、職種別、熟練度、労働強度等による 「労働の質と量」 に基づく客観的な基準の観点からいっても、他方では年令、家族構成、養育費、教育費等々の生活に必要な賃金、生活給の観点からいっても、科学的な検討に耐えうる主張といいがたい。
 その他、無署名論文では、「総需要抑制政策」及びインフレの責任を労働者階級に転嫁する「所得政策」導入の方向について、デフレ的方向と引締政策への警戒が語られているという限りでは相対的に客観的リアリティをもっているのにたいして、五月の三中総の決定では、インフレ抑制のために 「引締政策を推進することが決定的に重要」という驚くべき主張を参院選での共産党の 「四大基本政策」 のうちにもりこんでいる。わずか数ケ月で党の方針の重要な考えが変わるということもさることながら、恐慌の一層の深刻化と直面しながら労働者階級が闘わねばならないまさにその時に、このような政策を提趨できるとは信じ難いこととである。しかしこのような具体的政策における根本的で致命と思われる誤謬も、既に批判した基本政策の総体における体系的で系統的な誤謬の一要素、 一部分としてみる時、必然的で不可避的なものといわなければならない。
 七四春闘は、その成果においても限界においても日本の労働者階級の運動の現状をまさに集中的に表現するものであった。七四春闘は、日本の労働者階級の運動が到達した大きな前進—- 労働者大衆の運動への広範で大規模な参加と政治的自覚の高まり—-を示すと同時に、ぞれの一層の前進を妨げている労働運動内部の主観的な要因、前衛政党の問題を明らかにきわだたせた。そのことによって七四春闘は、新しくわれわれに重大な任務を課したのである。
 七四春闘の総括が明かにわれわれに課した任務は、日本の労働者階級の運動を支配階級との本格的な対決の道に立たせ、独占とその政府との対決をカ強く闘い抜くことのできる、”英炭鉱労働者”が見せたような、不屈の運動に鍛えあげていくことである。そしてこの目的のためには、 真に革命的で原則的な、マルクス主義に立つ前衛政党の確立がさし迫った急務となっているのである。(一九七四・六)

<付記> 本稿は総評の第四十八回大会以前に書かれたものであり、それについて改めて本論のなかに組み入れて論じることはできなかった。しかし、 この総評大会は、総評結成以来初めて主要単産の大会以前に設定され、その意味からも労働者の大きな関心と注目を集めた画期的な大会であり、それは独立に論じられるべき新しい大きが問題を数多く提起している。しかし時間が許されぬので、ここではさしあたり、既発表(民学同機関紙「デモクラート」第五五号への寄稿) のものであるが今大会についての若干のコメントを本論に付して以下に掲載しておくことにしたい。

七四春闘の高揚を第二春闘へ!
総評第四八回大会ー 「節度ある闘争」に
抗して恐慌下の賃金抑圧と対決

大会の基調とそれを包む情勢
 大会の基調は、七四春闘の力強い高揚、更にはそれをふまえた参議院選挙の前進に支えられており、それらを組織的に闘い抜いた総評労働者の自信と確信に貫かれていた。
だが、大会は、それとともに、より困難な、その意味ではより本格的な闘争を要する情勢下におかれていた。
 その第一は、政府と独占か参院選挙の政治的な敗北にもかかわらず、その姿勢を軟化させず、それどころか居直ったように一層強化する傾向をみせてきたことである。物価の高騰は、参院選以降も私鉄・電力・化学製品を始めとしてとどまるところをみせず、消費者米価の引き上げは三〇%にものぼる見込みである。しかも政府は、これまでコスト・インフレと所得政策に「慎重」 であった労働省と長谷川労相までが賃金抑制の必要を前面に押し出し、強圧的姿勢を固めている。国家公務員に対する人事院勧告の完全実施をしぶり、支払を引き延し、取引材料にし、それとともに自治体労働者の賃金水準引き下げにのりだしているのもこの姿勢の現われである。
 大会を包む清勢の第二は不況の深刻化であった。倒産件数は”危機ライン”のメドといわれる1000件に近づき、倒産規模は一層大規模なものとなってきた。求人件数が大幅に縮小しはじめた。資本は春闘時の「コストプッシュインフレ」所得政策と並んで「企業危機」論をますます前面におしだしてきている。
 このような情勢の中で、大会を見守る全ての労働者が、七四春闘の高揚をいかに発展させ新しい成果を勝ちとっていくかに深い関心をよせていた。

大会の内容と第ニ春闘
 大会は、論議を通じて秋の闘争目標を、①公共料金値上げ反対、②一時金三カ月分の獲得闘争、③スト権問題では処分を出させない闘争、④国民春闘路線の継承として低所得者層の救済予算要求、⑤中小企業の倒産対策、と設定した。これらの目標は、いずれも現局面における労働者・勤労入民のさしせまって切実な要求を表わしている。しかしそれらの実現のためには、大衆闘争の強力な展開が必要なことは勿論、それとならんで労働者政党の強力な政治指導が必要である。
 公共料金引き上げ反対の闘争は、国鉄・消費者米価引き上げ反対を先頭に、反インフレ闘争の軸として最前面に据えられた。物価の高騰が一層重苦しく労働者・勤労人民・学生の上にのしかかっている今日、この課題の重視は全く当然のことである。すでに全電通は、この総評大会直後に開かれた大会において、電話料金引上げ反対闘争の重視を打ちだしており、これらの動きを含めて公共料金引き上げ反対の闘争は今「第二春闘」の一大焦点となっていくであろう。
 当初、大会の準備過程では、七四春闘を闘った労働者大衆の戦闘力と自信を基礎に、独占がインフレによって賃金面での七四春闘の成果を侵食した分を再度取り返す闘いとして”賃金再引き上げ要求”ないしは通常の年末一時金とは独自の”インフレ手当要求”が、反インフレ闘争の主軸をなしていた。「第二春闘」という位置づけも、まさにこのことの表現であった。にもかかわらず、このような要求が、物価上昇を織り込んだ”ー時金ニ力月分獲得要求” へと後退し「更に”公共料金値上げ反対”に中心的位置を譲って、「第二春闘」という位置づけも弱まらざるを得なかったいきさつは大きな問題を含んでいるといわざるを得ない。この問題とは、公労協と並んで日本の労働組合運動を支えるべき民間労働組合の弱さ、とりわけ不況期に顕著にあらわれる弱さであり、日本の労働運動指導者全てに再度その克服の方針が問われた。
 この問題は、恐慌の結果の労働者への押付けと「所得政策」を容認する宮田鉄鋼労連委員長発言に及んでおり、労使協調路線に対する即時の反撃の必要を教えている。
 大会は、七四春闘で多くの問題を残したスト権問題をとりあげ、今第二春闘において「七四春闘に対する処分を完全に阻止する」方針を採択した。我々はこの闘争を、「関係閣僚協議会」あるいは「公務員連絡会議」の結論待ち姿勢を克服し、大衆闘争を基礎としたスト権回復闘争の一環とすべく、積極的に展開していかねばならない。

不況の進行と大会討議への影響
 先に指摘した不況の進行は、大会に大きな影響を与えた。全金・繊維労連・全港湾・全国一般・全日自労、更には私鉄総連等、主として中小企業労働者や日雇労働者を中心とする、もしくは、下部にそれをかかえる単産からは、「企業危機」 への政策に対する質疑が出される状態であった。今日、危機を利用して驚くべき高利潤を搾り上げている巨大独占との闘争が主要なものであることはいうまでもない。それだからといって中小企業の労組の不安と危機意識を、官公労と民間組合、更には大手組合と中小企業組合の違いを意図的に煽る支配階級の論調にも通じるものとしてのみ批判しさることはできない。
 いうまでもなく、労働者は、企業あるいは資本の状態がどうあろうと、生活していかねばならず、その状態を改善してゆかねばならないのであるから、自らの生活に基礎をおいた要求では断固として闘争する以外にはない。
 しかし、現局面では、この論理を貫徹する諸条件はあまりにもきびしく、ぞの具体的形態、闘争の方針を決定することは容易な問題ではない。個別企業の単位や、個々の組合の闘争のみによっては、また組合運動だけの範囲でほ解決できない形で問題は提起されているのである。大木事務局長は組合レベルの方針として危機打開には「例年のようにデモ位でばすまない」 「準春闘規模の闘いが必要」といっている。これは積極的な主張である。問題は、政党がそれをどう指導するかにある。
 現在、共産党の方針は、「中小企業危機」「繊維危機」等を訴え、一見その解決にカ点をおいているかに見える。しかし、その打開の方法を見れば、その方針が少しも真面目で真剣なものでないことは明らかである。彼らは、中小企業経営者、あるいは資本家の利害、「営業を守る」ことに主要な関心を寄せている。だから、労働者階級には「節度を守ること」を主要なスローガンとして要請している。そして危機の解決策としては、国会への請願やあれこれの陳情や世論喚起をしているのみである。このようなことでは何ら政府と独占体の政策を変えさせることはできない。労資協調によって組合をだめにしてしまうのは勿論、共産党が心配している企業経営者の倒産の危機に対しても、何ら打開策をもたらすことにはならない。
 このような事態の根本的打開のためには、金融機関、ェネルギー産業の国有化とその民主的統制—- 国家の金融、エネルギー政策の抜本的転換が絶対に必要である。大会方針案でも、いまだ抽象的一般的ではあるが「民主的変革」 の必要が語られているのは、このような客観現象を一定限度反映したものである。まさに望まれるべきは、労働者政党が労働者に対してもっと具体的体系的な政策を提起し、自覚的な闘争を首尾一貫して組織することである。闘う労組幹部の間に政党への期待が高まっているゆえんもここにある。一定の政治的力関係を必要とする根本的な反独占政策が即時一挙に実現できないとしても、この第二春闘で獲得すべき当面の対恐慌政策を打ち出していかねばならない。この中心環は、総需要抑制政策に対決し、福祉の増大と労働者・勤労人民のための公共事業の根本的な拡大を勝ちとることである。公共投資の拡大と国有部門を中心とした拡大政策・民間倒産企業の民主的な生産管理を可能とするような諸措置が必要である。国民春闘路線の継承として提起されている対政府予算要求等は、この方向で提起されてはじめて実りあるものどなるであろう。そのためには、対外政策の面で、社会主義諸国との貿易拡大を中心とした平和共存外交への大転換が同時に進められることが必要不可欠であり、労働運動はこの面でもまた、主導的に政策を展開してゆかねばならない。

大会論議を占領した「政党支持自由」
 大会を通じての最大の問題点のーつは、代議員三四名の発言の殆んどが「政党支持自由」の問題に集中したことであった。既に述べたように重要な課題が山積していたにもかかわらず、限られた時間の大部分をこのような討議に費さざるを得なかったことの根本的な源泉は共産党の労働組合政策にある。共産党は、大会に向けて危機の根本的な解決策を提示することもなく、論議の内容を深め前進させる努力も何ら行わず、大会キャンペーンを殆んどこの問題のみにしぼり、しかも攻撃のホコ先を総評左派系の戦闘的単産に向けていたことは全く驚くべきことである。
 共産党が執勤に主張してそのためには重要な組合の組織分裂をもあえて辞さないところの「政党支持自由」とは、どのような意味をもっているのだろうか。それは、基本的には、選挙の時に共産党候補者を、組合で支持せよという要求である。この一見単純で当然すぎる要求が、ことあらためて主張され、しかもそれが労働組合によって受け入れられないということに問題の本質がある。共産党は労働組合の日常活動に真剣にとりくんでいないし、少しでも困難な闘争や激しい闘争は回避していることは、組合員大衆の間では周知のことである。このような状態では選挙のときだけに限って「支持」を要求しても受け入れられないのは不思議なことではない。しかも組合が春闘などで困難な闘争を真剣に行っている時に、全ては議会で、だから選挙と投票で決まると主張して、闘争を選挙に「流しこむ」ことに力点が置かれている。これでは組合の反発を招くことは避けがたい。だから組合員大衆は、共産党は選挙のみに的をしぼって労働組合を利用しようとしている、組合は共産党にとって単なる集票装置としてしか考えられていない、と受けとっている。したがって、社会党の政党としての組織が弱く労働組合への依存が強い条件のもとで、これと同様の議会主義的レヴェルで共産党が割り込むということになる。このような論理の上では、悲惨な組合分裂という結果は避け難い。このような事態を共産党は少しもおそれてはいないかにみえる。組織を割っても票をとることが、闘争でなく投票が、アクターではなくヴォーターが、主眼となっているかにみえる。これは日本の労働者階級にとって、これ以上ない危険な方向である。共産党が正常な活動をしている時には当然に得られる共産党への「支持」を、このような形でしか問題にしえないのは全くの異常事態である。このような時に、政党と組合の関係や組合員の政治活動の自由の一般論をもち出もて抽象的な問題で具体的な問題を置きかえるものは事柄の本質、その最高度の危険性を認識しえないものか、でないとすればそれを故意にぽかせるものである。
 もし共産党が真剣な姿勢で「政党支持の自由」をいうのであれば、形式論ではなく、労働者大衆の支持と信頼をえられるような政策を掲げ、正しい戦術指導を行なわねばならない。それたけではない。そのような活動と闘争の任務に耐えられる下部基本組織を組織してゆかなければならない。そしてそのことを下部の党員の日常不断の積極的な活動を通じて実践によって証明していかなければならない。この意味で「政党支持自由」の問題を真剣にとりあげ最も深刻な問題として反省しなければならないのは他ならぬ共産党の方であろう。

おわりに
 大会は一定の限界をもちながらも、七四春闘の高揚をひきつぎ七五春闘をめざして例年にない準春闘級の秋闘—-第二春闘を提起した。闘争は四波にわたり、臨時国会の行われる10、11月をヤマ場として国労・勤労を中心とした一大ストライキが展開される予定である。
 現在、労働運動は依然として下からの大衆的高揚の局面にあり、政府と支配階級はかつてなく深刻な内部矛盾をかかえている。我々は労働大衆の高揚する工ネルギーに依拠し、政府と独占に譲歩を迫る巨大な第二春闘を構築していかねばならない。

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74年の大衆運動とマルクス主義 (「知識と労働」10号)

特集にあたって  (「知識と労働」 10号)

74年の大衆運動とマルクス主義

「知識と労働」No10 1974年12月10日

「知識と労働」No10
1974年12月10日

 七月の参院選での革新諸党の勝利は、 「保革伯仲」 の参院議席比(議席数差7)を実現し、この選挙だけに限れば参院議席数の「保革逆転(獲得議席数六三対六七)を実現するものであった。それは保守合同以来、支配階級が選挙戦で蒙った最初のそして最大の敗北であった。七〇議席の獲得の手段、「金権選挙」(何百億円といわれる)と「企業ぐるみ選挙」の結果がこれであった。衝撃を受けた財界首脳は、議席数と得票率(初めて四〇%を割る)の「ダプル負け」であると政府与党への露骨な非難をあびせた。しかし、この勝利も敗北もプルジョア議会主義の枠組の内部での出来事であった。これについては、マルクス主義者の間で然るべき評価と批判が行なわれていない。


 選挙をたたかった革新諸党の間には、根本的な反独占改革のための共同の綱領も、それにもとづぐ反独占統一戦線の組織も、なかった。共産党と社会党の間には、政府与党と根本的に対決するために必要な共同の選挙綱領、選挙協定はなぐ、全国レヴェルでそれを締結するための努力さえ行われなかった。「準与党」 の方向をとる民社党と「中道革新連合」 をかかげる公明党については、 いまの局面で共社と同一の水準で問題にすることは当を得たことではない。しかし、革新諸党の間の選挙綱領の一致、政策協定なしには、それら各党の候補者の調整をすることも、したがって諸野党の得票数の合計では結果的には自民党を上まわったいくつかの選挙区(岩手、秋田、山梨、滋賀、島根、宮城、愛媛、大分等々)で政府与党に勝利することも、事後における机上の数量計算以上のものとしては全く問題とさえなりえない。だからわが国の国政選挙での革新諸党の進出を、たとえばフランスのように根本的な反独占改革の共同政府綱領をもってたたかっている国の「入民連合」の前進と同様に評価することは根本的な誤りである。
 わが国の選挙戦の総括を行う上で、 根本的に重要な問題は、 他の革新諸党を「中間政党」と規定し、頭から批判する共産党が、自らの政綱においても戦術においてもブルジョア議会主義の枠組そのものにたいして本質的な批判を存わず、その枠組の内部にとどまっていることである。それはわが国に特殊な、全く異常な事態である。
 共産党の「民主連合政府綱領」は、主要な金融機関と重要産業独占体の国有化及び国有部門の民主的統制を提起していない。それは金融資本の寡頭支配の体制そのものを基本的に承認するものである。それは独占資本主義と国独資の政治的経済的構造そのものには何ら手をつけず、それの存続を前提とした上で、議会主義的=官僚主義的な「統制」や「規制」のこまごまとした諸措置を行うこと以上の変革要求を何らかかげるものではない。無論、このような限界の内部でとられる、あれこれの部分的な改善や改良の政策が、今日独占資本と鋭い利害対立に陥っている中小の資本や小経営者(都市自営業者、商人、農民)の民主的反独占的要求を一定限度反映するものであり、またそれを部分的に満足させることもありうることは、否定できない。しかし、それは労働者階級の基本的利害の上に立った革命的な社会的変革の要求とも、また労働者階級階級と広範な勤労・被搾取人民大衆の反独占的な根本的変革の要求とも本質的に異なったものである。このような共産党の綱領的方針は今日国際共産主義運動の確立された共通の綱領—-根本的な反独占民主主義改革を通じて社会主義革命へ接近する戦略—-とは全く無縁な、それと根本的に対立する右翼日和見主義、ブルジョア的改良主義をその本質とするものである。
 「政府綱領」の政治的変革の部分は「国家とその諸制度の問題をその階級的基礎と権力掌握者から切り離して論じるブルジョア法律家的形式主義に基いている。「国民主権」がブルジョア独裁の法的政治的形式であること、議会主義が官僚主義を不可欠の補足物とし、その頭部における金融寡頭試の権力を不可避的に生み出すこと、等の現代ブルジョア国家の本質的な特徴は全く忘れ去られているかにみえる。常備軍(自衛隊) の問題についても、民主運動と「国民抑圧の軍隊」であることを認めておきながら、その「解散」については専ら法律手続 「防衛庁設置法、自衛隊法の廃止」ー を示すのみで、そのような手続をとることを可能とするような政治的諸条件、階級間の力関係については全く述べられていない。 「民主連合政府」の存続と活動は支配階級の「弾圧」 「抑圧」装置としての自衛隊と如何なる関係に立つのか。 この根本的な問題は真剣に提起されてもいない。もうーつの抑圧装置、警察についても、全く同様の形式主義的な取り扱い、法律手続論と改善策しか示されていない。しかし、国家と国家権力の問題におけるこのような無関心で無批判的な態度は、「政府綱領」 の社会経済的変革におけるブルジョァ改良主義と全く相照応したものであり、後者と同一の根源、金融資本とその寡頭支配の政治的経済的体制を根本的に承認し前提することから、必然的に生じてくるものである。このことは、チリーの反革命クーデターに際して共産党指導部によって恥知らずの露骨さで語られた。チリの「人民連合」は国有化や民主的統制のような、社会主義をめざす根本的変革を行ったから、軍隊による反革命クーデターが生じたのであって、日本共産党の方針ではそのようなことは生じる余地がありえない、と。
 総じて政治的国家的制度の領域で「民主連合政府綱領」が掲げているところの当面の変革の要求と目標は、その根本においてブルジ ョア法規範 —-「憲法とそれに基く法体系」—-を唯一の基準として提起され、それの「忠実な実行」「厳正な実行」という以上に何ら本質的な変革要求は掲げられていない。他方ではマルクス主義がブルジョア的法制度を問題とする場合の基本的な事項—-市民の「財産の尊重が必然的に資本と搾取関係、階級対立を生み出すこと、平等の下で実質的不平等(階級的区別と社会的差別)、民主主義の下でのブルジョア独裁等—は全て無知でなければ注意深く回避されている。このような政治的綱領は、社会主義へむかって進むことではなく、「純粋民主主義」のモデル国家を形成することを目的としているとしか言いようのないものである。これまでブルジョアジーの階級的支配のための法的政治的理想型であったものが、今や労働者階級の当面の変革の目標として掲げられ実現されうるような新しい諸条件が存在するようになった、とでも考えられているのであろうか。いずれにしろ、日本共産党の政綱の根本的な誤謬、度し難いまでのマルクス主義からの逸脱は、戦術的方針とその実践のうちに集中的に表現されている。
 共産党は、戦術においては選挙第一主義、議席獲得至上論ー 選挙こそが「党躍進のものとも重大な課題」(二中総決議)ー に立ち党活動のすべてを集票活動に集中し解消している(「選挙戦を前面にすえた組織活動」同上決議)。だから、共産党の宣伝活動の最大の重点のーつが、 「北方領土要求」の反ソ・反社会主義的な民族主義におかれ、大衆の理性にではなく、ブルジョア的、小ブルジョア的偏見に訴えることにおかれているというだけではない。共産党は、危機の新しい局面と恐慌の深刻化のもとで労働者階級のたたかった 「国民春闘」を首尾一貫して最後まで指導し、これを勝利に導く方針を提起することも、組織された労働者階級の闘争を原動カとして広範な人民大衆の「生活防衛闘争」を組織し、その政治的統一戦線の力によって内閣を打倒する方針を提起することも、なかったのである。革新市長と国会及び地方議会の共産党議員を介して党のもつ政治力の主要なものは、「経営」「営業」の危機に対する全く弥縫的な援助策にふりむけられていたにすぎない。他方では春闘と参院選の全期間を通じて党指導部の主要な活動のーつは、労働者階級の組織されたもっとも戦闘的な部隊(動労、全電通、全逓、全国金属等々)にたいする政治的批判と組織的分裂活動、及び支配階級とその権力の公然たる攻撃をもっとも強くうけている部隊(日教組)にたいするイデオロギー的政治的攻撃に集中された。この意味では参院選での共産党の進出は、労働者階級の「国民春闘」にたいする指導の放棄と事実上の敵対という本質的な裏切り行為を代償として、全党をあげたブルジョア選挙方式の集票活動の所産として獲得された成果だったのである。
 しかし得票内容の統計的数量的検討からも一見して明らかなように、東京、大阪をはじめとする都市部の選挙区の全てにおいて、共産党の得票数と得票率の頭打ちと減退傾向がすでに現れでいる事実は、その組織的責任の所在が誰にあるかといった党内の意見対立とは別に、共産党の議会主義的偏向と改良主義的政策にたいする不満と批判が都市労働者と先進的知識人層の間ですでに開始され高まり、はじめていることを示すものであろう。


 参院選での革新諸党の勝利をもたらしたものは、異常なまでの急激な物価高騰と賃金給与の購買力の下落、実質賃金の低下にたいする、雇用減退とさしせまった失業の不安にたいする、不況の深刻化と経営不振にたいする、また小農経営の没落の危機にたいする、労働者階級と入民諸層のヴォーターとしての強い不満、自然発生的な憤激と危機感の表明であった。いうまでもなくその根底にあったのは、わが国経済情勢の急激な悪化、誰もが認めざるをえない危機の到来である。
 全世界のマルクス主義者が一致して認めているように、資本主義世界は全般的危機の「新しい局面」に入った。あらゆる標識がそのことを示している—-全世界的な過剰生産恐慌の諸条件の成熟、 インフレーションの急激な進行、国際通貨危機の慢性的な深刻化、ェネルギー(石油にかぎらない)危機、国際的な経済戦争と帝国主義的対立の激化。戦後の国独資の体制そのものが生みだし、あらゆる方策によって一時的に繰延べ蓄積し、深刻化させてきた諸矛盾の激化とその全世界的な爆発はさし迫ったものとなっている。
 しかしこの情勢はわが国の「前衛党」によって科学的具体的に規定されることもなかったし、それにもとづく具体的で現実的な危機からの真の脱出策が提起されることもなかった。選挙の争点は主としては単なる「物価」の問題として庶民の消費生活の次元でのみ扱われている。せいぜいのところそれは政府のーつの政策、「高成長政策」との対決に解消され、それを他の一政策、「引締め政策」で取り代えることによって解決可能であるかに主張されている。しかも単なる議会内部の議席数の変化と内閣の更迭のみによって問題が片づくかに主張されているのである。独占資本とその政府がデスレ的転換を志向し、恐慌とインフレーションが必然的、同時的に深刻化している現在、このような政策を提起することは、また、政治闘争と社会変革における原動力としての大衆闘争の決定的な力から切りはなして単なる議会内部の力関係に全てを委ねることは、かりにもマルクス主義を掲げ、労働者階級の「前衛」を自認するものの態度として全く信じがたいことである。


 危機の深刻化は支配階級内部の対立(独占間の、独占と非独占間の)をも激化させずにはおかない。支配階級は国独資のあらゆる方策を用いてそれらの対立を部分的で一限られたものに押しとどめ、同時的に急速に激化することを阻止しようとしている。しかしいうまでもなく、支配階級は基本的で主要な攻撃を労働者階級と人民諸階層の上に集中し、恐慌の一切の犠牲をその上に転嫁するととによって危機を乗切ろっとしている。独占とその政府は、選挙戦の期間を通じて、選挙戦の終了後は一層露骨に公然と速度をはやめて、激しく、物価騰貴—-独占価格の凍結解除、公共料金の一斉値上げ—-に訴えて労働者階級と給与生活者の実質賃金を低下させ、時間短縮、レイオフ、解雇によって恫喝を加えながら所得政策による賃金の凍結を図ろうとしている。支配階級とその政府は公共部門と民間部門、大手と中小、不況の潜在的な産業と顕在的な産業、組織労働者と未組織労働者、本工と社外工・臨時工・季節工等々、労働者階級内部に分裂と対立を持ち込む一切の要因を駆使して、労働者階級とその組織への攻撃と分断を強めようとしている。同時に独占とその政府は、財政的金融的措置を通じて恐慌の深刻化、倒産の激化(10月11月頃には月間千件を予測)による、中小企業の淘汰と独占的集中、小所有者の収奪を遂行しようとしている。
 支配婚級によるこのような攻撃は労働者階級と人民の反撃と下からの政治的高揚を生み出さずにはおかない。春闘の大衆的な勝利はその前哨戦であり、参院選の革新陣営の進出はその一徴候を示すものにほかならない。これに対して政府は、その階級的本性にしたがって、一方では公然たる弾圧と権力主義的支配の確立と強化に訴えようとしている。その要素はすでに選挙期間中に行なわれた日教組への弾圧、一連の反動的裁判による司法の反動化のうちに露骨に現れている。系統的なファッショ化の方向を阻止するためには、これらの部分的な、端緒的な現れの一つ一つとの即刻の真剣な闘争が必要不可欠であることは言うまでもない。
 「前衛政党」の政策と戦術における原則的な誤りと日和見主義、及び革新陣営全体としての立遅れは、労働者階級と勤労人民をこのような経済的政治的攻撃から自らを防衛し反撃に転じる上で決定的に立遅れた状態においている。


 プルジョァ議会主義の枠組の内部において自民党の「単独政権」「一党独裁」の時代は終止符を打たれようとしている。参院の議席差の接近は、議会の手続面、議事運営面だけからも「政府与党による支配の政治的不安定と対立の激化の新しい条件を生み出している。数量政治学的予測にもとづく衆院におげる「保革逆転」の展望は支配階級とその政府をおびやかすものとなっている。
 危機の深刻化が必然的に不可避的に生みだす労働者階級と人民大衆の経済闘争および政治闘争の激化は、現在のところは議会主義の内部に押しとどめられている広範な大衆の政治的意識を前進させずにはおかない。それはマルクス主議にもとづく原則的で現実的な政治指導の確立と結びつくときには、ブルジョア議会主義の枠組そのものをくつがえさずにはおかない。春闘を闘った労働者階級の戦闘的な部隊の間ではすでに今日の「前衛政党」の議会主義的日和見主義と政治的組織的指導力の無力と根本的な欠陥にたいして大衆的な不満と批判が集中している。このような力は革命的で原則的なマルクス主義者の諸要素にたいしてその思想的政策的指導力の確立と政治的組織的結集の必要性を自覚させ、決意させる原動力の一つにならずにはおかないだろう。
 支配階級は、こうした一切の動きをブルジョァ議会主義の枠内に押しとどめ、「ブルジョア的政治」の土俵の上で階級闘争と一切の対立を解決するための新しい政治的対応策とマヌーヴァーを模索しはじめている。財界首脳たちが考えている「保守新党」(自民党の四分の一程度) の結成とそれによる野党との「連合政権」構想は、その本質において革新諸党の分断を基本的な目標とするものである。それは共産党と社会党の「社会主義協会派」を除く全野党の連合を「保守新党」が指導する計画であり、社会党を分裂させ、「社会主義協会派」を締め出すことを第一の前提条件どしている。いわゆる「受皿論」(永野重雄)として支配階級によってあけすけに語られているこのような構想の実現が、労働運動と労働組合運動に新しい分裂を持ち込み、壊滅的な打撃を与えることは火を見るよりも明らかである。しかし、公然と「準与党」を名のる民社党はもとより社会党の一部(これまでからの社公民路線の追求者に限らない)と他の野党にも、この構想に呼応して進んで支配階級の「保守新党」をその上に載せる「受皿」の作成を準備する活動が早くも開始されているのは、わが国の革新陣営にとってこのうえなく危険な動向のーつである。このような保革の「大連合」による中道政権が予定している部分的国有化と独占体の規制を含む統制経済政策にたいして、共 産党の「民主連合政府」の政策内容は原則的な一線を画せないのみならず、本質においてそれと全く同一のものである。
 議会主義の内部における政治的対立の新しい方向のーつは、その内容において本質的な区別をもたないーつの政策、「中道政策」の政権担当者の座をめぐる争いであり、「保守新党」による連立構想と共産党による「連合政権」が争っでいるということにある。この争いにおいて「民主連合政府綱領」の提起者が自らの掲げた政策を担当する政権の座から排除される事態を単なる喜劇として傍観して済ませることのできるものは、マルクス主義者でも人民の護民官でもない。それは労働者階級と人民にとってこの上ない災厄であり、悲劇である。また、今日の新しい政治的状況を「多党化の時代」 「連合政権の時代」として一面的に礼讃するものは事柄の本質を見抜けない日和見主義的超楽観論であると言わなければならない。幾多の歴史的経験が示しているように、議会主義的日和見主義にたいする人民大衆の幻滅は、露骨な反動と右翼的な公然たる権力主義に道をひらくものだからである。


 恐慌の深刻化が生み出す支配階級内部の経済的利害の対立は、議会内部における政治的不安定の条件の下で、政府与党内の矛盾と対立、各派閥間の対立抗争をかつてなく激化させている。安保闘争と岸内閣の瓦解後の党内の深刻な分裂と派閥抗争が「高成長政策」によって鎮静化されたような有利な条件は、今日の新しい危機の下では支配階級にとって存在していない。三木と福田および保利の閣僚辞任は自民党内派閥闘争の激化の結果であり、また与党内の分裂と抗争の新しい原因ともなっている。デフレ政策の徹底と権力主義的抑圧支配による「保守本命」の道を歩もうとする福田と、かつては「国民協同」主義を掲げ、労資協調による野党の懐柔と分断の立役者になることを期待されている三木とは、今日反田中において同調しているけれども、前者の冷戦派的な体質と後者の平和共存派的な体質の相違を含め深刻な対立関係にある。いずれにしろ参院選の敗北によって窮地に陥った田中首相は、党内入事の操作により党内派閥闘争を一時的表面的に抑えこみ、強引な逃亡と沈黙によって臨時国会を乗り切った。今日田中を政権の座にとどめているものは金(伝えられるところでは一八〇億—-これは国民協会から自民党への年間献金額と等額である)と権カの力以外のなにものでもない。自らの出身業界である建設業界を最大の不況部門のーつとし、年来の持論である「高成長政策」と「列島改造論」を暗礁に乗りあげさせた田中首相は、自らの本来の姿とその利害的基礎に反して危機の下での総資本の利害に従って何らの政策的確信も展望もない引締め政策をとりつづけている。田中内閣はかつてなく、もろく脆弱な状態におかれているのである。しかし展望の欠如は田中に限ったことではない。台湾、韓国にあまりにも深くコミットし過ぎ、また産軍複合体の政治的推進者として、その冷戦主義の体質が今日の国際的なデタントの動向とあまりにもかけ離れている福田を含め、支配階級とその与党指導者の誰一人として今日の危機を乗り切る政策上の確信をもっているものはいない。「一寸先は闇」というブルジョア政治家の自戒の言葉が今日ほど深い意味をもつ時はない。それは恐慌の波と犠牲を誰が最も多く受けるかをめぐって、支配階級内部の「敵対する兄弟間の戦闘」(マルクス)が激化し、個別資本の利害と総資本の利害の対立が前面に押し出されている、今日の客観的情勢そのものに基づくものである。
 労働運動にとって必要なことは、階級支配と現情勢への適応の異ったスタイル、方法を表現するあれこれの総裁志望者と派閥代表者のいずれの思惑が実現するかに主たる関心を寄せることではなくて、そのいずれのスタイル、方法による階級的抑圧にたいしてもそれにふさわしい的確な対決点を見い出し、首尾一貫して闘争することであろう。 マルクス主義者にとってまず第一に必要なことは、危機の深刻化を前にして動揺し対立し抗争しあっている与党指導者のあれこれの傾向のいずれかを選択し、それに期待を寄せることではなく、彼らの対立や抗争を生みだしている危機の客観的な根源とその現情勢を具体的に規定し、支配階級の出ロとは根本的に異なった労働者階級のヘゲモニーによる危機からの真の出ロを提起することである。


 資本主義の「自動的崩壊」はありえない。支配階級にとって「絶対に活路のない情勢というものはない」(レーニン)。支配階級は基本的には消費の抑制と対外的膨張によって危機からの脱出をはかろうとしている。それは経済戦争の一層の激化と帝国主義的対立の一層の激化をもだらさずにはおかない。しかし今日の新しい国際的なカ僕係と社会主義体制の優位の条件の下では、支配階級は自らの体制の瓦解の危険を冒すことなしに世界的な戦争の手段に訴えることはできない。このような条件の下では世界経済の緊密な国際的連関の利害は、最も深い、根源的な力として、帝国主義的矛盾と対立の下にある帝国主義各国を対社会主義市場への接近の方向に向かわせずにはおかない。しかし、社会主義体制に対する帝国主義諸国の根本的な対立関係は、支配階級のとる平和共存政策と対社会主義接近を、社会主義体制への分裂策動(対ューゴスラビア、ルーマニア、「自由化」のチェコ、中国の社会主義体制からの分裂)をも含めて動揺と矛盾にみちた不安定で中途半端なものにする。支配階級は一方では対社会主義貿易と経済協力関係の拡大(田中訪ソ、チュメニ、ヤクート)を志向すると同時に、他方では経済的政治的矛盾と対立によってたえず根底からゆるがされている対社会主義の帝国主義的軍事同盟の維持と補強(安保堅持と日米会談、独自核武装)を図らざるをえない。
 支配階級が全体として矛盾し動揺し分裂しているのと同様に、その個々の政治家、派閥、それらの背後にある財界と独占グループもまたニ面的で矛盾に満ちた利害をもっている。勿論、これらのそれぞれについて、複雑にからみあった二つの傾向と対立にだいする比重の置き方、コミットの仕方、度合にしたがって「一定の音階」(ガントマン)を区別することはできる。しかし、支配上層の間に、ブルジョァ政論家が好んで図式化するような冷戦派と共存派、頑迷派と開明派といった単純な、できあいの分岐、対立があるわけではない。だから支配上層のいずれかの部分、「階級分派」に依存し、それを支持することによって、国家政策の全体を平和共存の方向に転換させうると考えるのは、主観的で一面的な単純化による日和見主義的見解であろう。
 確かに支配上層の対外政策上のニ面性と矛盾の基礎には、帝国主義の本質が生みだず一般的政治的目的と一国の客観的な国民経済的な利害の矛盾に基く、客観的な対立矛盾がある。だが、支配上層が後者の利害の自覚とその優位において行動することを待機することは全く問題となりえない。労働者階級が国民的な指導階級として、平和と平和共存を目的とする首尾一貫した自らの対外政策—-社会主義諸国との全面的で長期的で安定した経済協力関係の実現—-を掲げて闘うときにのみ、支配上層内部の矛盾を深刻なものとし、政策的選択をせまり、客観的な国民経済的利害の命ずる方向へその対外政策を向わせることができるだろう。労働運動が支配層内部のあれこれの政策的分岐の単なる付属物にならないためには、労働者階級の掲げる外交政策、方針は、その基礎をなす内政の根本的な変革、転換の方針との必然的な連関において、金融寡頭制支配の現体制とは異なった客観的な経済的基礎をもって、提起されなければならない。労働者階級とその前衛は独占の支配を打倒し国民経済を現実に指導するための準備を常におし進めることによってのみ、支配階級に政策転換を押しつけ、その中途半端で動揺的な部分的な対社会主義接近を一貫して拡大し発展させることかできるのである。
 勿論、今日の世界のカ関係と社会主義体制の優位のもとで、帝国主義対立の激化に基く他の帝国主義たとえばアメリカの集中的な攻撃を受けた場合、自らの帝国主義国としての国際政治的地位の維持と上昇のためにも、客観的な利害が支配上層に選択をせまり、平和共存的方向をとることを余儀なくさせる可能性は大きい。しかし、それが国内的な基本的な階級対立と階級支配そのものを排除するものではないにもかかわらず、支配階級の反共的反社会主義的な本姓に基いて、また緊張緩和と平和共存が労働者階級の闘争に有利な条件を切り開くことへの恐怖に基いて、支配階級とその右翼的反動的、冷戦主義的傾向は、つねに必然的にまきかえしと反撃に出る。それは、客観的な世界情勢のカ関係によってすでに形成された「東西間」の条約や協定の体制そのものをくつがえすことは妨げられるにしろ、一時的な部分的後退や停滞を生み出しうるのである。ドイツの共産主義者が指摘しているように、それはプラントの失脚と更迭にもよく示されているであろう。ここでもまた労働者階級と広範な人民大衆の平和と平和共存のための闘争こそが決定的に重要な意義をもつのである。
 今日、国際的な力関係は、社会主義と平和の諸勢力にとっで有利な方向へと全般的に転換している。デタントの趨勢は全世界的な規模で進行している。だから、労働者階級は既に獲得された一連の「段階的諸成果」 の上に立って緊張緩和と平和共存のための新しい闘争を組織することができる。「アジア集団安全保障体制」のスローガンはますます現実的な意義をもつものとなっている。それは、日米安保条約の存在の下でも即刻着手することが可能な、緊張緩和のための政策要求である。その第一歩として、何よりもまず、日ソ、日中、日朝の平和条約の締結、南ヴェトナム臨時革命政府の承認を要求してたたかわなければならない。集団安保体制の確立は、現実的で具体的な過程ともて把えなければならない。それは、社会主義体制に敵対する帝国主義の軍事同盟が存在する現状から出発して、国境の現状承認と尊重に基ぐ平和条約、相互不可侵条約、双方の車事力の相互引き離し、均衡ある相互的な軍備縮少等を含む一連の過程として現実の晴勢と力関係によってその進行のテンポや形態を規定される、ジグザグなコースをとるであろう。そこにおいて全欧安保会議のような国際会議をアジアで開催することは、過程を短縮し一挙に促進させるものとしてつねに目的意織的に追求されなければならないだろう。いずれにしろ、それは安保体制の解体と廃棄に到る具体的なコースのーつであり、またその重要な構成部分でもある。安保条約の廃棄は、この過程の進行途上で国内の政治的力関係を根本的に変えることによって一挙に実現されることも可能である。だから、 「集団安保体制の確立」と「安保廃棄」は相互に補足し促進しあうものとして統一的に把握されなければならない。
共産党の「民主連合政府綱領」は、安保条約の廃棄について、法的手続以外の何も規定していない。そのような手続をとることを可能とする現実の客観的情勢と政治的諸条件については一言も語られていない。それは従来かち現指導部によって革命の主要な戦略目標とされてきたものが、事実上議会主義の内部での法的手続の問題に解消されてしまったととを意味している。 「民主連合政府綱領」は一方では「アジアにおける真の集団安保体制の確立」について要求しながら、それの実現には「いっさいの軍事同盟の解体」が前提条件となると想定することによってこの要求を全くの無意味な理想論とし、事実上棚上げしている。共産党指導部は他方では、現実の目標として提起されている「アジア集団安保体制」のスローガンにたいしては、冷淡に無視するというよりは事実上敵視している。しかし、安保条約の廃棄や集団安全保障体制の樹立について、いかにそれを一般的な目的、高い理想として認めていようとも、それに到達する具体的過程や方策について冷淡な沈黙や敵対をもっで応えるものは、目的そのものにたいして真剣な態度をとるものとはいうことができない。それは自らの掲げる目的を全くの空文句に転化させるものである。このような二心的な態度の背後には、ソ連と社会主義体制に対たいする根底からの不信と表裏一体の全く悲観主繭的な情勢把握がある。それは、昨年夏の宮本委員長の「核政策転換」を新しい契機として、反米闘争第一主義の民族主義と並んで、反ソ反社会主義体制の民族主義の側面が全面的に展開され前面に押し出されてきた、日本共産党の政治的イデオロギー的変節の新しい局面と照応するものである。


 労働者階級は根本的な変革のための革命的な要求とならべて、独占資本とその政府にたいして即刻の実現を迫るべき部分的で改良的な政策転換の要求を掲げてたたかわなければならない。
 恐慌は資本主義的拡大再生産の不可避的な結果である。現代の国独資の諸条件の下で恐慌の発現の仕方、そのテンポは国家介入の諸方策により構造的な変更をっけ、その潜在的な爆発力はかつてなく深刻で激しいものになっている。資本主義をなくさないかぎり、 恐慌をなくすることはできない。しかし労働者階級は、今日の恐慌の深刻化の下では、日常的な経済闘争において、同時に、国家の財政金融政策の転換とそれに必要な一連の独占体の国有化を含む部分的な変革の要求を何ほとかでも系統的な政策として掲げてたたかわなければならない。それなしには、実質賃金の切下げから身を守り、賃上げをかちとり、生活水準の引下げと耐乏生活の強要に対抗して生活の諸条件を改善する上で一歩も前へ進むことはできない。いうまでもなく、このような変革の要求はいかに部分的な、限られたものであり、金融寡頭制の支配そのものを廃棄するものではないとはいえ、それが独占体の利害の一部に手をつけるものである以上、独占資本とその政府との深刻で困難な闘争を抜きにしては、したがって労働運動の統一した闘争なしには、かちとられることはできない。しかし、この困難さは労資の階級対立の非和解性のーつの表現であり、資本の側からの、ごく一部のものへのほんのわずかの欺瞞的な譲歩に幻惑され、あるいは桐喝に屈服するのでないかぎり、避けて通ることのできないものである。われわれの部分的な変革の政策は「かならず日和見主義者にも鉾先を向けているような綱領でなければならない」(レーニン)。われわれは、恐慌の深刻化に直面するわが国の労働者階級がみずからの利害と地位を守ってたたかうためには、次のような政策的諸要求のうち、少なくともその主要なもの、基本的なものを、それの即刻の実現を支配階級に迫る闘争のためのスローガンとして、掲げることが必要不可欠であると考える。

1,公共部門を中心とする拡大政策の導入とそれに必要な部門の国有化。 抜本的な雇用の増大。
公共住宅建設の拡大とその関連部門(私鉄、電切、ガス、セメント、鉄鋼、土木建設等) の系統的な国有化。
エネルギー産業の国有化。
2,軍事費(四次防)の削減と打切り。五次防の阻止。
アジアの反共軍事政権(韓国、台湾、南ベトナム等)への援助打ち切り
3,法人にたいする強累進課税の実施。
投機的利得の取上げ。
産業独占体と銀行、商社にたいする財政的金融的援助の制限と打ち切り。
4,インフレの進行を押しとどめるために厳重な物価統制を行うこと。
公共料金の凍結。家賃の凍結。食料等生活必需品の価格凍結。
5,物価上昇に匹敵するインプレ手当(三カ月以上)の支給。
勤労者課税の抜本的削減。間接税の廃止。
産業別協約最賃の確立に基く賃金の物価スライド制の実現。
労働者の平均賃金に見合う社会保障費及び老齢年金の支給と賃
金スライド制の確立。
6,一切の形態の賃金カット阻止。
一時帰休、一時解雇阻止。
全失業期間中(さしあたっては少くともニケ年間)最終賃金に
見合う失業保険(さしあたっては八五%以上)の給付。
全額企業者負担を含む失業保険制度の抜本的改善。
7,全面的な公共医療制度の確立と医療・薬剤費の無料化。
私学教育費の全額国庫負担を含む文教予算の抜本的拡大。
全面的な公共的保育制度の確立と育児費用の国庫負担。
8,兼業農家を含む小農経営にたいする経営保障と自発的協同組合化。
国家による無利子長期の財政的金融的援助。肥料、農業、農業機械器
具の価格凍結。
転用農地の国家・公共機関による専一的取得。
農業生産物の国家による買上げ保障。
都市自営業者にたいする無利子長期の国家によ石財政的金融的援助。
9,倒産企業及び閉鎖工場にたいする労働者による生産管理を含む国有化。
倒産切迫企業にたいする国家の財政的金融的救済と国有化。
10.対社会主義貿易と経済協力関係の拡大。
資本輸出にたいする規制。
発展途上国との平等互恵の基礎に立つ貿易、経済交流の発展。
日ソ、日中、日朝平和条約の締結、南ベトナム臨事革命政府の承認。
アジアにおける集団安全保障体制の確立。

 われわれは、このような、労働者階級の恐慌からの脱出政策の核心が、軍事費(四次防、五次防)の削減と打切りを要求し、それによる公共投資と住宅建設の拡大を要求すること、この二つの要求の結合にあると考える。恐慌の深刻化に直面する労働者階級の闘争は、平和のための全人民的な闘争と結合して闘わなければならない。「労働運動と平和運動の統一」が当面の大衆運動の主要なスローガン、のーつとならなければならないのである。


 わが国の労働運動とマルクス主義は、労働者階級と入民諸階層の掲げてたたかうべき反独占民主主義的な根本的変革と社会主義革命への接近の綱領的政策においても、また当面の部分的で改良的な政策転換の要求の提示においても、決定的に立遅れた、原則的な方針にもとづく準備の全く行なわれていない状態の下で、全般的危機の新しい局面を迎えようとしている。
 一九六九年の「共産党・労働者党国際会議」で再度確認され強調されたように、社会変革と革命において、民主主義と社会主義をざす闘争において原動力となるのは、労働者階級と広範な人民の大衆行動の力である。危機の深刻化は歴史を創造する大衆の活動力を著しく強め高めずにはおかない。だから今日ほど「革命的階級の能力」を鍛えあげ、大衆行動を首尾一貫して指導するマルクス主義者の目的意識的活動の強化が客観的に要請されている時はない。大衆闘争とマルクス主義がーつの現実的で革命的な力に結合され統一されることなしには、今日支配階級によるかつてない収奪と攻撃にさらされている労働者階級と広範な人民をその貧困と窮乏化の現状から脱出させ解放することはできない。マルクス主義者は労働者階級と広範な人民を議会主義的諸政党の政治的指導のもとにゆだねておくことも、支配階級の対立と抗争の深刻化が呼びおこさずにはおかない政治的覚醒の枠内にとどめておくことも許されない。
 本特集は、すでに開始されている危機の新しい局面に立向う労働運動と広範な人民大衆の運動にたいするマルクス主義者の間での綱領的・戦術的見解と意見の一致をはかるためのーつの寄与を提供するものである。これらはいずれも試論であり、マルクス主義者の間での広範な討論を組織するための皮切りと問題提起のためのものである。もちろん論者たちの見解は具体的な問題のすべての点で一致しているわけでばない。しかしマルクス主義の原則と党派性をまもること、労働運動と人民運動の政策の理論的基礎を提示すること、それによって現実的変革にたちむかうことのけ的意識性は共通のものである。
(一九七四・八 文責 K・S、K・M)

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デモクラート 第59号

デモクラート 第59号 1974年12月7

学費攻撃・全国学園ストで反撃を
秋闘・労働者の闘いと結合し、低文教予算を打破しよう

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】不況政策と対決する大衆運動の前進を
フォード来日・核安保反対、130万人怒りのデモ
日本共産党宮本指導部のスト破りを糾弾する
狭山上告棄却阻止へ 12.7関西集会
2面 ソ米会談 SALT画期的前進
盛り上がる74秋闘 正しい政治指導は急務
チリ人民連合は健在
核防批准・集団安保実現 平和集会開催へ:都平連・大阪四平連
3面 全国で学園ストへの戦列強化
経済自治会で圧倒的勝利 関大
クラ連(準)結成 明治大
市長団交実現へ 大阪市大
法政大・大阪学大
4面 AF2開発 産官学の責任を追及しよう (九州大学の闘い)
総需要抑制下の労働運動
日共代々木派、同和会と結託
恐慌と勤労者
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デモクラート 第58号

デモクラート 第58号 1974年11月12

核・日米安保・4次防の破棄へ!
フォード阻止・自民内閣打倒の闘いを!

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】選管内閣の幻想たちきり総需要抑制政策に反撃を
恐慌の犠牲転化を拒否し、秋闘連帯・学費闘争の高揚を
東京高裁無期判決糾弾
石川青年は無実だ、最後まで闘い抜こう(民学同中央委)
10.21行動に、首都・関西700名
2面 政府は韓青同への弾圧をやめよ
韓青同アピール
政府危機の根本的転換へ 闘うイタリア労働運動階級
民営移管に反対し無期限ゼネスト:フランス郵便労組
3面 全国私大で燃え上がる学費闘争
関西大・明治大・天理大・法政大(工)・東京理科大・東洋大
闘う大学祭 大衆的に成功
小田実氏講演に600 大阪市大
市民まじえAF2シンポ 阪大
4面 アジア集団安保の意義と展望
日共スト妨害 大衆的な制裁を
恐慌と勤労者(4)
「チリのテロ支配の一年」
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デモクラート 第57号

デモクラート 第57号 1974年10月15

日米軍事同盟に鉄槌を!
10.21反戦・反核の一大決戦

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】10.21国際反戦デーに総決起しよう
核・基地撤去の闘いを
ナイキ基地阻止 10.5全関西集会
石川青年は無実だ、我々は完全勝利を確信する(民学同中央委)
2面 恐慌の犠牲 労働者を直撃
所得政策導入を許すな
人民と軍隊の同盟勝利:ポルトガル
ファバ論文批判の意味するもの
3面 私大学費 一斉値上げ阻止を
警察権力導入に抗議 大阪市大
全面勝利へ400決起:東京理科大
寮費負担増に反撃:奈良女子大支部完全無罪を確信 9.26集会に900決起
4面 自粛論打破し、ストを
インフレ阻止・11月下旬統一スト 産別組織の強さと現状
(大阪労働講座10月例会)
恐慌と勤労者
被爆29周年原水禁世界大会「報告決定集」の特徴と問題点
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デモクラート 第56号

デモクラート 第56号 1974年10月1

朝鮮人民・チリ人民に連帯し、
10.21国際反戦デーを闘い抜こう

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】秋期学園闘争の一大高揚を勝ち取れ
狭山闘争勝利へ、闘いの渦
9.19チリ人民連帯集会
日本共産党は、解放同盟への恥知らずな攻撃をやめよ
2面 9.19チリ人民連帯青年学生集会決議帝国主義的拡張に質的強化
日本共産党は解放同盟への不当攻撃をやめよ
共産党批判を決議 大阪地評大会
3面 AF2と産学協同を告発 阪大
9・10月公判連続闘争に決起 狭山
阪学大問題 腐敗極まる薬事行政
狭山:統合移転に1000名署名集中
宮内裁判全面勝利 :東京理科大
学費値上げ阻止へ :関大
4面 日教組:11月下旬に半日スト決定
恐慌と勤労者
自粛ではなく長期ストで:全金大阪唯物論入門講座第7回例会
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デモクラート 第55号

デモクラート 第55号 1974年9月7

第2春闘に連帯し、総需要抑制・政治反動と対決し
田中内閣を打倒しよう

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】独占の恐慌・反動政策 第2春闘を軸に粉砕を
チリ人民連帯、9月中旬国際連帯行動進む独自核武装の準備
狭山9月公判:総力で結集しよう
2面 8.4広島平和集会 400名参加
核拡散防止条約即時批准を
学生階層別集会 原則的に開催
矛盾の中にフォード新政権
3面 AF2問題 腐敗極まる薬事行政
狭山闘争:現局面と我々の任務
日教組大会:日本共産党に批判続出奨学金の大幅拡大へ
4面 74春闘の高揚を第2春闘へ
第48回総評大会開かれる
恐慌と勤労者
唯物論入門講座第6回
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デモクラート 第54号

デモクラート 第54号 1974年8月1

核実験の完全禁止・核拡散防止条約即時批准を
被爆29周年原水禁世界大会を成功させよう

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】参議院選の結果と反独占勢力の任務
世評アピールに応え、国際統一行動呼びかけを
朴は反ファッショ闘士を釈放せよ
学生階層別集会の成功を
2面 参議院選挙結果と各党の消長
ギリシャ軍事政権の崩壊
民学同推薦候補全員勝利
3面 大管法:臨時国会上程阻止
東京 → 広島 キャラバン隊
8.4ノーモア・ヒロシマ平和集会
東京理科大 全学自治会選挙
社会学部自治会再建・経営自治会選挙勝利:東洋大
根本的改革へ巨歩 阪大Cスト
4面 公共料金値上げラッシュ
日本共産党ストライキを否定
欧米に広がる国際金融恐慌
新刊紹介:マルクス主義の根本問題
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