【投稿】育児休業法について考える

【投稿】育児休業法について考える

昨年5月に民間企業を対象とした育児休業法が成立した。国家公務員及び地方公務員についても、同年12月、従来女子教職員、看護婦、保母等の特定職種に限られていた育児休業法(旧育児休業法)を公務員全体に認める公務員育児休業法が制定された。これで形式的には全労働者を対象とした育児休業制度が整備されたわけだが、果たしてその内容はいかなるものであろうか。
政府自民党は、育児休業制度の創設には極めて消極的であった。初めて法律の中に育児休業制度が登場するのは1972年に制定された勤労婦人福祉法である。この法律は産業構造の転換–第三次産業化–を迎えた日本資本主義が、女性を大量に市場に引きずり出すために制定された。この法律では、育児休業の位置づけは「事業主による便宜の供与」であり、あくまでも使用者の恩恵であった。
その後日教組による法制定運動が高まる中で、1975年に旧育児休業法が制定された。しかし、「職務の特殊性等にかんがみ、継続的な勤務を促進する」との立法目的が示すとおり、これも女性の働き続ける権利の保障という思想に基づくものではなかった。従って、不利益取扱の禁止を規定しながら無給であり、教職員と同じ職場で働いているのもかかわらず事務職員を通用からはずすなど、労働者間の格差を公然と認める内容となっていた。1985年に女子差別撤廃条約の批准にともない男女雇用機会均等法が成立したときも、育児休業は「事業主の便宜の供与」との位置づけは変わらなかった。
このような経過を辿りながらも、社会党を中心に育児休業法の提出が粘り強く続けられ、1987年以降は、社会・公明・民社・社民連の4野党が、法案提出を続けていた。ところが、1991年の通常国会に急拠内閣法案が提出された。もっとも政府自民党は当初から無給、罰則なし、中小零細企業には時間的猶予措置を設けることを原則としていた。従って、所得保障、法律の実効性の確保、不利益取扱の禁止等を求める野党の見解との間には大きな開きがあった。野党側の修正要求にもかかわらず、最終的には自民党案を基本にした内容に落ち着いた。それは、育児休業(育児休暇ではなく)という言葉が全てを物語っているとおり、子どもが1歳になるまで労働力の提供義務及び事業主の労務受領義務(賃金支払い義務)を消滅させるというに過ぎない。結局、労働者及び子の権利として社会的に保障されるべき休暇権とは程遠いものとなった。
まず、日々雇用される者と期間を定めて雇用される者は育児休業の対象者から除かれる。育児休業法は全労働者を対象としたものではなかったのである。また、常時30人以下の事業所では、3年間法の通用が猶予された。これで育休の有資格者と無資格者とが分断されてしまう。
次に、休業を理由とする解雇の禁止以外に不利益禁止条項がないため、賃金、昇進・昇給、退職金計算等マイナス影響を受けることが予想される。これは、原則無給であることと相まって、新たな賃金格差を生み出す。そして、育休を取得したくてもできない労働者を生み出すことになる。しかも、男女いずれも取得可能といっても、大方の夫婦の場合夫の方が給料が多いのが現実であるから、男性労働者が育児休業を取得することは事実上不可能である。
加えて、諸外国に例のない事業主の育休開始予定日指定権なるものが置かれ、時間管理に関する資本の執念を見る思いがする。この他、全体を通じて罰則がないため、法の実効性についても不安が残る。
このように今回の育児休業法は、長年労働者が求めてきた育児休業制度からは大きく後退するものとなった。資本にとっては、労働力を継続して確保できるうえ、賃金を切り下げることができるのであるから、一石二鳥である。
しかし、今回も土壇場で自民党の主導を許してしまう結果となったものの、これまでの民間企業を対象とした育児休業法の成立に消極的であった政府自民党がなぜ突然制定に意欲的になったのであろうか。ここに、1990年11月6日付けで自民党労働部会育児休業問題等検討小委員会が作成した「育児休業制度の確立等を行うための法的整備について」と題する文章がある。この前文には「近年において出生率の低下傾向がみられ、21世紀には我が国が超高齢化社会になると予測される状況の中では、女性の活力を社会に生かすともに、次代を担う者の健全な育成を図ることが、活力ある社会を築くために不可欠である。」とある。すなわち、労働力不足(現在及び将来の)現状に危機感を抱いた政府自民党は、女子労働力を確保しつつ、出生率の維持・増加を図る手段として育児休業制度に力を入れざるを得なくなったのである。すでに、今年度予算案で「仕事と家庭生活の両立を図るための就業援助対策の推進」に関する予算を前年度の20億6200万円から58億6800万円へと3倍近く増やし、その大半を育児休業制度に関する対策の推進にあてることが発表されている。(1992・3・2 日経新聞夕刊)。また、厚生省通達を見直し、育休中も上の子が保育所に継続して通えるようにすること、年度途中の保育所入所を定員の15%超過まで認め、育休明けの子の入所を促進することの二点が改善された(1992・3・5 毎日新聞朝刊)。これらの事実からも、政府の意気込みが伺われる。 従来、女性解放運動を推進する立場からは、女性が解放されるためには、家事の社会化(家事労働からの解放)がひとつの重要な柱であるとされていた。これは、女性労働者の職業と家庭の両立及び職場における男女の均等待遇を阻む原因は、資本主義的生産様式のもとで家事労働が私的労役として位置づけられていることであるとの認識に基づいていた。それでは、資本主義経済のもとでは家事(育児を含む)の社会化は実現しないのであろうか。そうではない。すでに見たように、自民党ですら女子労働力を活用するために不十分ながら育体制度の導入に踏み出したのである。1991年版の「婦人労働の実情」(いわいる婦人労働白書)には、明確に仕事と家庭の両立の促進というタイトルが現れた。家庭責任を担う女性の負担の軽減は今や資本のスローガンである。
資本主義経済と家事の社会化が決して矛盾するものでないことは、男女労働者の平等を社会政策として強力に推進しているECが如実に示している。イギリス、アイルランド、オランダを除き何らかの親休暇(育児休暇)の制度が存在し、スウェーデン、フランス、イタリア、ドイツ、デンマーク、ベルギーでは有給である。給付金は国もしくは事業主が負担している。現在作成中の親休暇及び家族休暇に関するEC指令案は、「親休暇とは、親休暇の期間 子の実際の世話をする責任を引き受けるという条件で、(略)出産休暇の後、一定期間賃金労働者(公的部門に勤務する職員を含む)に権利として付与される休暇をいう。」「親休暇の期間中労働者は、親休暇手当てを受給することができる。この手当は社会保障制度を含む公的基金から支払われるべきである。」としている。資本主義経済のもとでも、女子労働力への依存度が高まれば、家事の社会化は必然的に進むのである。我が国でも育休制度がEC並に整備されるのは時間の問題ではないだろうか。
資本主義的生産様式は、労働力の再生産としての家事労働の領域をも例外なく市場にまきこみ、まず電化製品の普及により家事労働を軽減していった。その後、資本主義の進展に伴い家族単位での労働力の再生産機能が低下するに伴い、家事労働自身の商品化(サービス産業化)という現象も起こっていく。さらに女性の賃労働者化は家族単位の再生産機能を決定的に破壊する。そのため、経済効率が悪く商品化しにくいがしかし労働力の再生産そのものである育児の部門は、保育所のような公的サービスに依存せざるを得なくなった。これらの家事労働の外部化の現象を家事の社会化と呼ぶかどうかはともかく、家事労働の軽減は資本主義自体の要請でもあったのである。育児休業は家事労働の外部化とは矛盾するようにも見えるが、家族の労働力再生産機能を維持しつつ労働力の確保を図る手段という意味では、再生産機能への介入であることはまちがいない。
それでは、女性が望むと望まないとにかかわらず資本主義の必然として家事の社会化が進展していくならば、私たちの課題は何なのか。家事労働に賃金をというスローガンによって、家事労働までが再生産労働として資本の搾取のもとに置かれている(しかも無償労働として)ことを暴露せよとの主張もある。しかし、もしかすると必要とあらば、家事労働すら有償化されるかもしれない。すでにECには、両親の就労状況にかかわらず育児手当の支給がなされている国もある。高齢者や病人に対する手厚い社会福祉制度も、実は労働力の効率的な活用を図るためということもできる。
結局資本主義経済のもとでは、あらゆる制度が労働力の再生産の要求と分かちがたく結びついている。それは、私たちが、肉体的にも精神的にも丸ごと資本に従属させられていることを意味しているのではないか。そうであるなら私たちは、資本のくびきから自由になるための活動を続けざるを得ない。搾取のない社会がどのような世界なのか、どのような価値観に基づくものなのかは今は明らかにできないとしても。しかし、おそらくそのような社会では、女性が育児に従事することを押しつけであるとか、不利益であるとか、差別であるというふうに認識することはないであろう。      (永嶋 92-4)

【出典】 青年の旗 No.175 1992年5月15日

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『詩』エリツィン船長に告ぐ  

『詩』 エリツィン船長に告ぐ     
           —–IMF加盟決まる—–

大木 透

酔いどれ船長よ
目が覚めたか
君は
半年も酔いつぶれていた
ペンを握りしめ
あたりかまわず
指令書にサインしていた

気球に乗った
G7のお偉方は
もう潮時と
甘い香水を
大地に徹り散いた

老人のすする
腐ったボルシチに
香水の一滴が落ちる
おおエリツィン様と
十字を切る

目覚めた君は
豚のように
髪を整え
クジャクの羽根を
振りまわす

君は今
杯をかかげ
仁王立ちしている
乾杯の音頭をとるのは
誰だ
     (一九九二・四・二五)

【出典】 青年の旗 No.175 1992年5月15日

 

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【コラム】ひとりごと –アースデイに思うこと–

【コラム】ひとりごと –アースデイに思うこと–

今年も「アースデー(地球の日、4月22日)」がやってくる。かけがえのない地球のために、私たち一人一人が国籍や民族などの違いを超えて、それぞれの地域でできることから始めようという草根的な地球市民運動に参加、行動する日である。環境の汚染、破壊が国境を超える前の1970年、米国の法律家で、環境保護運動の指導者であるデニス・ヘイズ米スタンフォード大学客員教授の呼びかけにこたえて、全米で約2千万人の市民が立ち上がったのが、その発端である。 又、6月にはブラジルで国連環境開発会議(地球サミット)が、国連史上初めて開かれる。地球環境の保全あるいは環境に優しい社会経済構造を具体的に実現するための制度的、資金的、組織的なルールを敷く歴史的出発点になるであろう。
地球環境の汚染、破壊はいまや、複雑、多岐にわたっている。しかし、地球環境問題に共通している最大の悩みは、人類の営みが地球をむしばんできた点にある。人の営みが天与の自然浄化作用の限界を超えて、地球に過剰な負荷を与え、自然の生態系を乱しているためである。 その元凶は、資源、エネルギーを大量に開発、生産、流通、消費することを可能にした近代科学技術とその所産である物質文明そのものにある。このため、問題の解決をなおさら難しくしているといえよう。その発端は18世紀中葉の産業革命で、まだ200年余の経験である。 宇宙の片隅に地球が誕生してから、46億年。その地球上で人間が文化、文明を持ち始めてから、1万年の歳月が流れているに過ぎない。宇宙の悠久な時空の中で考えると、人間の人間らし  い歩みは一瞬の出来事で、何と短い歴史であろうか。しかし、人間はその一一瞬の営みの中で46億歳の地球をむしばみ続けていることを忘れてはならない。
「地球の誕生日」でもあるアースデーを向かえるに当たって、個人はライフスタイルを、企業は経営スタイルを、自治体や回は行政スタイルを、それぞれに環境保安優先型へ組み直し、再構築していくことが問われている。
(名古屋Y)

【出典】 青年の旗 No.174 1992年4月15日

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【投稿】高校改革をめぐって (その2)<続>

【投稿】高校改革をめぐって (その2)<続>
      (大阪教員交流会ニュースNO.37 1992-01-20より)〈前号からつづく)

2.集団作りと学力保障・・・高校での集団作りの特殊性
A:交流会ニュースの前号の最後に集団作りのあり梯の再検討が必要とあったが。自分も 村的な共同体意識に基づく集団作りはできても、その場合には学力がつかないと思う。
T:その場合は生徒の中に、一方でここは他の高校と違うというプラス面と、他方で中学と同じことをやっているというマイナス面という、二側面の評価が出てくる。学力の段階に生徒の自主性が照応しているという現実のもとで、総合高校を目指すには集団作りの内容をどうしていくか。手厚く面倒を見るという義務制の絹神に学びつつ(原則)、中学生とは違った高校生の段階に応じた面倒の見方(方法)を整理することが必要なのである。集団作りのレベルを高度化しなければならない。高枚生では自主性を持つように指導するということが必要でいかに自主性を引き出すかということが教師の役割である。
A:教師の中には子どものニーズに応えると言うのはパチンコ講座や競馬講座を開くということであって、興味・関心というものの無い子どもがほとんどだとという者もいる。
T:進学校では生徒の自主性の名のもとに指導放棄している。そして授業の不十分を生徒の質で補っているのである。生徒のニ一ズというのは小中の過程で受験と
いう枠に限定されてきているので、幻想ででも進学に希望をもっているものは授業に関心はある。しかし、小中の過程でその希望を捨てさせられてきた者は、学問に対する興味・関心の芽を引き出すレディネス・助走が必要である。様々な肥料を撒く必要がある。
A:生徒にやる気が無いという教師に生徒に何を教えたいか、何が教えられるか、と開いても、答えを持ち合わせていない教師が多い。これまで人権教育と考えてきた教育が教師の資質をこのようにしてしまったのではないかと、考えてしまう。
T:教師は文糸・埋系という従前の枠でやっている。教科教師集団つくりをコース制とリンクして推進すべき。コース制では、コンピューターを導入している数学科、LLの英語科で教科教師集団つくりが一番進んでいる。
子どものニーズがどこにあるかを議論する中で生徒の把握と、教科の内容の創造に結び付けるのである。
B:組合の議論でも困難校ほど子どもに「興味・関心」はない、といっている。
T: 一方の生指で子ども理解といいながら、他方の教科では生徒蔑視になっている。教師が学力エリートだからである。
A:必修を少なく選択を多く、教師一人が一講座を担当するというスタイルを推進中。
T:レディネス・助走のカリキュラムを早くつくって府教委と交渉すべき。でないと、中でのサボリと、周辺での府教委の「多様化」スタイルの高校に包囲されて、“全ての”子どもを尊重した学校改革とそれに対する財政的裏付けを引き出す闘いは困難になる。
A:転任の生かし方を考えねばならない。強制人事でそのことに迫られている。
T:「最後まで子どもを切らないでほしい。後は見せてほしい。」といっておけばよい。プライドのある人はやろうとする。一生懸命しようとする人は子供理解もはやい。教師を生かすうえでは、こちらの尊大さは駄目。教師集団においてもそれぞれの存在を認め合わねばならない。進学校でも受験の学力に批判的な人もいるのである。子供を生かすためには教師を生かすことである。コースでは教科にまたがる内容を創造することである子供を中心にひとつのテーマに取り組むことで教師間の相互理解を進めることである。
A:勤務実態の困難さをいかに緩和するのかということも大きな問題になる。全員担任削や複数担任制の見直しやある程度分担制を導入して余裕をつくることも必要である。今後は授業を通じて生徒指導をすることが必要である。
T:その上では授業の内容の深化が不可欠。生活指導において体を張ってやってきた推進派の教師の一番つらいところでもある。しかし、無駄・遊びが無いと教えることに幅がでない。それをやろうとしてきた教師を「逃げ」と捉えてきたのである。国語の教師は文章を書かなくなったら終わりであるし、社会の教師はいろいろな雑学を知ってないと授業はおもしろくない。
授業をおもしろくするという必要性を強調するために授業で生徒を指導するというのは当たっている。しかし、授業のみに仕事が限定されていない今の日本の教育システムでは生活指導と教科指導を割り切ることはできない。かつての東ドイツに視察にいった報告では学校(教科指導)と地域(生活指導)で分担されているということで、その当時は非常に驚いたものである、日本の現状では、確かにおもしろい授業で引き付けるという面とともに、本当にしんどい子の生活面での支えを捨てることはできないのである。(おわり)

【出典】 青年の旗 No.174 1992年4月15日

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【投稿】ロシアレポート PARTⅢ

【投稿】ロシアレポート PARTⅢ
        <宗教のモード化 ペテルフルクから>
                大木 のり(在ペテルブルグ)

“プロコンテクス”(?)が過去3度にわたり、ペテルブルグ市民の宗教意識に関する世論調査を行った。調査は、宗教番組の開設に関するアンケートをもとに90年12月、91年5月、11月に実施された。

Q/あなたは宗教に関心がありますか?

A/     90/12   91/5   91/11
YES     73.9   69.7    60.2
NEUTRAL   22.7   25.2   33.1
NO      2.9    5.2    6.6

この数字は、近年の宗教への関心の急激な高まりを世論が全般的に高く評価している。

世論における<民族の復活>と<精神的浄化>への期待とに関係しているのであろう。
しかし、すべての人間が宗教の復活を軽はずみに歓迎しているわけではない。インテリ層の一部の人間はこの現象に疑いをもっている。91年11月の調査では、彼らのうちのわずか半数(53%)あまりが宗教性の高まりを肯定しているにすぎない。おかしなことだが、年金生活者もまた同様である。しかし一般の労働者(ブルー・カラー)は積極的に支持している。
つまり、インテリ層は高い教養と広い視野を身につけており、物事を分析することに慣れてしまった結果、宗教性の高まりをモードととらえ危惧している。彼らは、現在高まりつつある宗教への関心は表面的なものと見なしている。年金生活者・…彼らは無神論者を育てた時代の子供たちである。労働者……彼らは残念ながら、これまで常にさまざまな紋切り型のプロパガンダに簡単に左右され、現在もまた、宗教的な価値観に傾こうとしている。また、彼らの多くは昨日まで農村で育ち、都会人よりも厚い信仰JL、を持ち続けてきた。
都会人の多くは、宗教的モラルに基づいた情操教育を好意をもって受け入れている。これは90年12月の調査での質問である。“子供の教育に宗教は必要か?”–回答者の60.6%が必要と考えている。
だが、最近、宗教への関心が減少の傾向にあることに我々は注目している。この現象は、宗教に対して中立な態度の市民が増えたことと関係している。
おそらく、無神論の社会がもとのさやに治まると言うにはまだ時期尚早である。我々の見解では、宗教への関心は安定の傾向にある。“禁断の実’’から、モードから宗教は徐々に我々の生活の一部となり、人々の頭と心の中に浸透しようとしている。したがって宗教意識の減少の傾向は当然のことと言える。

Q/通常のテレビ放送において宗教番組は必要か?

A/    90/12   91/5   91/11
YES    76.1   76.0    58.2
NEUTRAL  18.4   17.9   26.2
NO     5.3    6.2   15.0

独自の宗教番組開設のアイデアは全般的に受け人れられている。いち早く、チャンネル<ロシアビデオ>の宗教番組は高い評価を受けた。91年5月の調査では、視聴者の64.5%がこれらの番組を支持した。しかし、11月の調査では、支持率に動きはなくなっている。おそらくこの原因は、他のチャンネルで流されている宗教番組があまりにお説教的なことにある。これらの番組は現実的なインフォメーションを志向する視聴者の欲求をまったく考慮にいれていない。このため視聴者の関心が低下していると言える。
我々のアンケートは、今日、人々は心的なテーマによる座談会や宗教儀式のテレビ中継よりも、むしろ生活に役立つ情報を求めていることを明らかにしている。例えば、宗教的な祝祭日や彼らに関係の深い慣習、あるいは聖人伝などについて関心を示している。また、哲学や宗教の歴史、美術や建築における宗教的な主題が大きな関心の的ともなっている。

Q/大人のための宗教番組は必要か?
A/    90/12   91/5   91/11
YES    69.1   75.5   63.9
NEUTRAL 20.8    15.7   25.3
NO    9.1    8.7    10.6
(11月の調査で“YES”と答えた回答者のうちわけは、インテリ層-48%、年金生活者、および労働者-58%、技術者-67%、学生-69%)

91年11月の調査結果は、番組の合目的性に疑問をもつ視聴者の数が増えたことを明らかにした。ここでは、現実的な欲求と視聴者の関心を考慮にいれなくては、最終的な目的を果たさない。

Q/子供のための宗教番組は必要か?
A/    90/12   91/5   91/11
YES    69.1   75.5   63.9
NEUTRAL  20.8   15.7   25.3
NO    9.1    8.7   10.6

91年11月の調査において、子供向けの宗教番組の必要性に疑問をもつ数が10%に増えた。しかし、それでも依然として番組の必要性は高い。都会人の3分の2が番組の開設に賛成している。(そのうちわけは、インテリ層--56%、年金生活者--58%、労働者--64%、技術者--72%、学生--74%)

【出典】 青年の旗 No.174 1992年4月15日

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【経済展望】岐路に立つ日本経済

【経済展望】岐路に立つ日本経済

<市場に無視された緊急経済対策>
3月31日、政府は深まる不況の進行を食い止めるために、緊急経済対策を決定し、公共事業の75%上期前倒しをはじめ電力など公共事業の設備投資増額、住宅、省力化投資の促進など7項目の景気テコ入れ対策を発表した。宮沢首相は「効果は5兆円」にのぼると胸をはった。
これを受けて、自民党から「総裁の首を切ってでも利下げを」と圧力をかけられていた日銀も翌4月1日、公定歩合を当初予想の0.5%を上回って、0.75%引下げた。首相は取引所及び証券業界幹部と会談し、低迷する株式市場の活性化に期待をかけた。
しかし政府、日銀の期待に反し、当日の日経平均株価は764円の大幅下落となり、失望をもって迎えられた。さらに4月3日には18000円の大台を割込むに至った(17898円)。発表後3日間で株価は1383円28銭もの値下がりを記録、加えて円安、債券安のトリプル安となった0利下げしても、緊急経済対策を打ち出し、首相が働きかけても、むしろ株下落に拍車がかかり、その景気浮揚効果は無視されたのである。

<金融システムの崩壊?>
株価は、86年末の19000円から、89年12月に日経平均が38000円台にまで上昇し、株式投資は土地投機とともに我が世の春を謳歌していたのであるが、現象的にはバブル経済の崩壊と軌を一にして崩れ始め、底値は2万円、景気の実態からすればこれから反転上昇するとの専門家のご託宣や期待もむなしく、今年3月には2万円を割込み、4月にはピーク時の半値以下にまで下落してきたのである。
「これ以上の株価の下げは、日本の金融システムの崩壊にもつながりかねない」と声高に叫ばれ始めている。
しかしバブル時代、暴騰させた不動産を担保に貸しまくったのは銀行やノンバンクであり、証券会社は企業に対してタダ同然の低コストで大量の資金を調達し、企業はそれらの資金を設備投資に拘さず、特金、ファントラ等財テクや不動産に投じ、金融・証券会社自身も不正取引と株価操作で不透明な価格形成を行ない、よってたかって投機熱をあおり、バブルを膨張させたのが日本の金融システムなのである。
バブル崩壊によってこれら金融システムが大きな痛手を負い、信用システムそのもののありかたが問われるのは当然のことであろう。

<「生活大国」とは無縁な対策>
不況期には積極的な景気テコ入れ策が取られなければならないことはいうまでもない。それではなぜ市場はいっそう厳しい反応を示したのであろうか。
財政で需要が喚起され、金利負担が軽減されても、当面救われるのはバブル崩壊で不良債券を抱え、その借入金利負担で苦しんでいる企業や金融機関のみであろうという冷めた判断、逆に言えば、金融緩和と積極財政はバブルの再膨張を助長することはあるにせよ、実体経済に対する内需を喚起し、景気を浮揚させる効果は微々たるものにとどまるであろうという判断である。
92年度の公共事業規模は15兆円弱で、このうち上半期の契約額は約11兆3千億で前年度上期を15.7%上回る規模であり、確かにその前倒し効果は無視し得ない。
しかし異常なほど地価の高い首都圏の公共投資をいくら増額しても、7~8割が用地費にとられるようでは社会資本の形成にはそれほど寄与せず、地価暴騰を再燃しかねない。公共投資は、従来のような大企業優先の産業基盤型から、生活基盤型の社会資本形成への明確な転換、地方への大胆な配分こそが緊急の課題となっているにもかかわらず、政府の対策にはそれが欠けているのである。「生活大国」は単なるかけ声だけで、緊急対策も7月の参院選挙をにらんだ政治色優先のものにしかすぎないという判断である。
さらにいえば、所得税減税や住宅投資の本格的な促進策など、GNPの6割近くを占める個人消費に波及効果の大きい政策がまったく抜け落ちていることである。春闘は金属労協大手に対する回答が、昨年を1%近く下回る4.7-4.8%水準に抑え込まれ、なかでも電機は、自動車の担当役員が驚くほどのペア抑制姿勢を示し、時短がペア抑制の材料とされて、実質賃金低下の事態である。

<黄金時代の終了?>
それでは今後の経済の動きはどのようになるのであろうか。最近の景気指標を見てみよう。
まず91年10-12月期GNP速報では2年半ぶりのマイナス成長になり、景気後退が予想以上に深刻なことを裏付けた。鉱工業生産は昨年10月から今年2月まで連続5カ月減少を続けている。2月は前年同月比4.2%減で、75年11月以来最高である。92年度の設備投資計画は前年度に比ベ4.9%減と円高不況期の86年度以来6年ぶりにマイナスになる。
東京電力社長は「産業用電力需要の世界は、あれあれという間にどしゃぶりになった。回復には1年かかる」(4/1日経)と述べている。事実、製造業の所定外労働時間は、前年同月比20%減少、これは75年7月以来、16年7カ月ぶりの大幅な減少で15カ月連続前年同月を下回っている。自動車関連の下請けは30%の受注減、建設・ゼネコン関連では40%前後の受注減となっている。設備投資とならんで大型景気を支えてきた個人消費にも波は及び、耐久消費財は昨年秋以降軒並出荷額が前年水準を下回っている。半導体、家電の販売不振で電機主要16社が軒並大幅減益。鉄鋼大手5社も2桁台の大幅な減益率、等々、深刻な不況への突入を裏付けるデータには事欠かない。
このような事態について米誌タイムは「日本経済のゴールデン・エイジは終った」(3/23)と述べている。

<楽観論 悲観論>
不景気時には成長悲観論、好景気の時には成長楽観論が勢力を伸ばす、つまり景気見通しも「景気循環とともに循環する」という皮肉な観察が紹介されていたが(4/2日経)、マルクス主義者あるいは左派の分析は、資本主義経済はうまく行くはずがないという大前提のもとに、常に成長悲観論、全般的危機激化論に必ず結論が落ち着く傾向が強かったのではないだろうか。これは自らの反省でもある。事態は楽観論をも悲観論をも乗り越えてきたといえよう。今回の不況突入についても悲観論と楽観論が交錯している。
一つは、「雇用面の過剰がはっきりし、個人の生活も防衛的になる。消費は崩れ、戦後最大級の不況になる」(野村総研経済調査部長4/1日経)という主張である。
いま一つは「不況は悪性なものではない。供給側の力が強すぎて、需要がそれに追いつかないだけのことであるから、緊急経済対策による内需拡大によってじきに景気はよくなる」(日本経済研究センター会長4/3日経)というものである。
いずれの主張についても、すでに述べたことを含めて重要な視点が欠落しているといえよう。それは日本経済が重要な転換点にさしかかっていることとも関連している。米ソ冷戦体制と緊張激化、軍拡競争のはざまで、米ソの経済の疲弊を最大限に利用し、いわば漁夫の利をもかせいできた世界的な条件が、ここ数年来で大きく変化し、これまでのようなやり方ではもはや通用しない状況が出現してきているのではないだろうか。技術革新、地域統合、環境問題、旧社会主義圏との交流・支援、貿易摩擦、等々、いずれをとっても転換が求められているにもかかわらず、場当り的な対応しかなし得ない状況が現在の事態をもたらしているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.174 1992年4月15日

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【投稿】イギリスに於ける労働事情

【投稿】イギリスに於ける労働事情

海外で働く:海外で働く時は、仕事以外でも“仕事”の為にエネルギーを使う。つまり生活するだけで日本に居るときよりも高い緊張状態にいると言う事である。これは、異文化の中で24時間生活しているので避けられない事である。また“安全”の問題など最近よく報道されているようである。また“日本人を狙った”というような報道もあるが、日本人が日本以外で生活した経験が少ないのと、日本製品がその国の経済を圧迫しているなどの問題があるようである。
依然として鎖国の国である日本の中で“外国人労働者問題”はあっても“外国での労働問題”はいまだ課題として上がっていないようである。もはや海外で働く、または、海外に住む日本人は“特殊な人”ではなくなりつつある。(現在は特殊な人である確率は大きい) イギリスでは、“外国人労働者”問題はすでに経験済みであるが、日本に付いてはまだ戸惑いがあるようである。物が先行して入ってきて市場を荒し(オーディオ製品の95%は日本製である)、それを作った日本人は、彼等がまったく理解できないような習慣を持っている。これで問題が起こらないほうが不思議である。日本国内の“外国人”労働者についても同様と考える。まして“鎖国の国目本で”である。
海外で働く事は、その国の全てが、労働環境といえる。もし労働組合が組合員の生活に責任を持つのであれば、その国の歴史や習慣など全てが労働環境であり、全てに対して議論すべきであろう。そして今から“出る方の鎖国”について議論を始めるべきであろう。
(GB.S)
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氏は、外資系企業に勤務し、数度の長期出張の末、ついにイギリスで雇用関係を結んでしまった。今回の一時帰国の際に一文を寄せてもらった(編集局)。

【出典】 青年の旗 No.174 1992年4月15日

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【書評】社会主義とは何であったのか

【書評】社会主義とは何であったのか
          『メシアニズムの終焉–社会主義とは何であったか』
           桜井哲夫 著  筑摩書房 1991年12月初版

題名を見てもわかるように、この本は、この間の世界史的な激動を総括しようという出版物のひとつである。ただ、他の多くの出版物は、政治ルポルタージュであるが、この本は、極めて本格的な「思想史」の研究書であるという点に特徴がある。
著者は、「はじめに」の中で、こう述べる。「問題は、スターリンにのみあるわけではない。そもそも、ロシア革命とは、何だったのかが、問われねばならない。
あるいは、ロシア革命を主導したポリシェヴイズムとは、いかなる思想だったのか。・・・さらには、社会主義の起源たる初期社会主義にまでさかのはって、こうした独裁を生み出した根源を探らねばならない」。
そして、著者は、「マルクス主義の名前のもとに、マルクスの思想とはまったく異質の思想が、世界を支配した歴史を語る試み」を行なう。著者は、この思想体系を、「サン=シモン主義的社会主義」と表現している。
以下、少し詳しく、本書の内容を紹介したい。

サン=シモンは、1760年~1825年に生きたフランスの思想家であるが、著者は、サン=シモン及びサン=シモン主義の核心を、生産力主義と知識ある者による権力の確立=「知の支配」に見る。そして、社会主義思想の系譜の中で、サン=シモン主義は影響を与え続け、ロシアにおけるレーニンの前衛党論の確立によって、サン=シモン主義は、支配的な思想となったとする。また、著者は、ここに至って、社会主義がプロレタリアート信仰のメシアニズムに転じたというのである。
本書の第2章において展開されているレーニンに至るロシアインテリゲンツィアの世界、第3章において展開されている知識人問題と社会主義に関する論争の整理、特にレーニンの『何をなすべきか』と『一歩前進、二歩後退』の分析は、非常に興味深い。著者は次のように指摘している。
(レーニンの、この2つの著作の論理を素直におってゆけば、)「ジャコバン派たるポリシェヴキ(彼らこそ正しいインテリゲンツィアである)こそ、イデオロギー形成はできないが、工場で規律に服することを学んだ労働者を指導し、管理するということになってしまう。これは、まさに、社会的司祭(革命的インテリゲンツィア)が、規律に服する大衆を指導するという、かつての、アンファンタンらのサン=シモン主義的な構図だとも思える」。
次に、本書の第4章で、著者は、ロシア革命が、結局のところ、「新しい階級」を生み出しただけであったということを、マハイスキー、トロッキー、リュシアン・ローラ、リツツイ、バーナム、カストリアデイス、ジラスなどという人々の議論をおって、論じていく。ここで言う「新しい階級」とは何か。それは、官僚集団(ビューロクラシー)のことである。
蛇足だが、後にノーメンクラトウーラと呼ばれることになる特権的知識官僚層による支配の問題を、「スターリン主義」という言葉では済ませられないということに、今日にして、ようやく気づかされたのは、決して私だけではないだろう。以前の私には、この種の指摘は、社会主義を妖悪する勢力の政治的キャンペーンだと、なぜかア・プリオリに思えて、一顧だにしないという反応を示していた。しかし、これは、一種の「思考停止」であったと、今、つくづく思う。
「新しい階級」とは、ジラス(戦後ユーゴスラヴイアでティトーのもとで副大統領をつとめたが、体制批判のかどで逮捕された人物)が、1957年に西側に持ち出して出版した本の題名である(この本から、以下の引用がなされているが、私には非常に興味深かった。少し長くなるが、次に紹介する。
「新しい階級は権力を掌握して、新しい経済秩序を完了したのではなく、独自の経済秩序をはじめて確立したのであり、また、そうすることによって、社会にたいする権力を樹立したのである。過去においては、ある階級、ある階級の一部、あるいはある政党が権力の座につくことは、その形成と発展の最終結果であった。ソ連の場合は、逆もまた真なりである。ソ連では、権力を獲得したのちに、新しい階級が明確に形成されたのであった。
(中略)新しい階級は、いろんな幻想にもかかわらず、工業化をめざす客観的な傾向を代表したのである。その実践上の性向はこの傾向から発している。(中略)トロッキーは、革命前の職業的革命家が将来のスターリン主義官僚の起源だったと指摘した。かれが気づかなかったのは、職業的革命家が所有者と搾取者の新しい階級の始まりだったことである」。
「新しい階級は工業化を達成すると、野蛮な暴力を強化し、民衆を収奪する以外にもはや道はない。新しい階級は、創造することをやめる。その精神的な遺産は暗黒にょってしっかとつかまれる。(中略)新しい階級が歴史の舞台から退場するときには--それは必ず起こるが-かつてのどの階級の退場にあたって涙が注がれたよりも、悲嘆はすくないだろう」。
さて、本書の第5章では、第1次世界大戦後、戦間期の社会主義と知識人の問題を整理している。
著者は、
(1)メシアニズムのもと、「選ばれた人=指導者」による統治を選ぶのか、あるいは、(2)世俗化(宗教の影響力の弱体化)を認識しつつ、合理的な世界設計を担う専門家による支配をえらぶのか、という、知識人たちの2つの道が、両大戦間の社会主義・共産主義運動の行方に大きな影響を与えているというのである。そして、この時期の共産主義運動は、メシアニズムの色彩を強く帯びていたが、そうでない道をとった2人の論者の紹介が、私には、特に興味深かった。
1人は、「マルクス主義を超えて」で有名な、ベルギーのド・マンである。ド・マンの路線は、いわば、「テクノクラートの社会主義」路線であり、彼の作った枠組は、「第2次世界大戦を経て、戦後のヨーロッパ諸国で、経済的には、政府主導の誘導的計画化を軸とする混合経済体制、政治的には、社会民主主義という『ネオ・キャピタリズム』の形で残った」と、著者は指摘している。
もう1人は、メシアニズムに染まらず、また、ド・マン型の「テクノクラートの社会主義」路線にも向かわずに、独自の「知識人」認識、独自の「ヘゲモニー」論を構築した、イタリアのグラムシである。本書ではふれられていないが、ソ連や東欧諸国の共産党の崩壊とは異なった、イタリア共産党の「解党」に至る経過を考えると、彼の理論に、私は、再度、注目したい。
本書の最終章で、著者は、知識人の解体とメシアニズムの崩壊に至ったことを指摘する。
そして、体制の担い手たる「メシアニズム(プロレタリアート信仰)に生きる知識人」がくずれさったとき、「体制もまた、弱体化し、崩壊の道をたどらざるをえない。ソ連の解体は、この30年間におけるメシアニズム失墜の当然の帰結であった」と、今日の事態を説明する。
この背景として、著者が指摘するのは、かってと比べものにならないほど拡大した知識層、高等教育機関の学生数の増大である。著者は次のように述べる。
「メシアニズム運動は、知識人などという自負とは無縁の、新しい世代の登場によってとどめをさされた。学生運動は、少数の特権的な学生たちの、殉教者としての自負なくして成立しない。いずこでも、19世紀以来、将来の国家を担うエリート層の運動にすぎなかったのである」。
私は、これに加えて、情報や知識の伝達におけるメディアの飛躍的な発達を指摘する必要があると考えているが、この点についての展開はひかえる。
最後に、著者は、19世紀に生まれた社会主義の命脈が尽きたのかどうかを問う。社会主義や共産主義が解決しょうとしたものは何だったのか、その課題は解決したのかと。著者は次のように述べる。
「いかにすれば、バラバラになった群衆的個人を結び合わせる、新しい『共同性』を作り出すことができるのか。まだ、このテクノクラート支配の高度産業社会は、その解答を見だしていない。その意味で、社会が、テクノロジックに、人と人の結びつきを断ち切るように管理されればされるほど、人びとの間にユートピアの希求は、再興するだろう」。
「社会主義を、人と人との、国と国との、民族と民族とのコミュニケーションを回復する道として、とらえなおせば、社会主義の命脈は、決して尽きてはいない。『万人の万人への闘争』の支配するこの地上への平和の回復を19世紀社会主義の願いだと規定するなら、社会主義の課題は、まだ、まったく果たされていないからである」。

「もうひとつのサン=シモン主義たるアメリカニズムはどうかといえば、ここもまた、倫理的基盤の崩壊、社会生活の荒廃という点で、ソ連に劣らない現実がある」。
そして、著者は、社会主義の本質的価値を、軍事的産業社会の非軍事化要求に見る。ロシア革命も、反戦運動として出発したこと、また、ソ連のその後の運命が、列強の干渉、内戦を経て、戦時共産主義という、戦時体制が固定したことに起因していることを、著者は指摘するのである。
そして、著者は、戦後、日本が生み出した憲法第9条の条文を高く評価する。そこにあるのは、「19世紀以来の、もっとも良質のユートピア社会主義の原理」であり、武装放棄、軍事的対決国家であることを放棄する決意こそ、どこよりも思想的に進んだ選択であった。だからこそ、現在の日本の繁栄があるのだと指摘するのである。
ただ、この指摘は、示唆にとどまり、本書の最後を著者は、こう締めくくる。
「われわれは、150年にわたって影響力を及ぼしてきたひとつの思想体系(サン=シモン主義的社会主義)の終焉に立ち会っている。しかしながら、ひとつの支配的な思想の解体は、新たな思想への道筋を必然的に準備するものである。すべては、混沌のなかからこそ生まれる。いずれにせよ、普遍的理念の再建への努力は、すでにさまざまな人びとがおりなしている運動や思惟のなかで始まっているのである」。
本書は、レーニンの名のもとにしか、マルクス主義を、社会主義を理解してこなかった私にとって、新たな視野の広がりを与えてくれるものだった。
ただ、本書を読んだあと、疑問がひとつ残った。それは、レーニンの前衛党論が「メシアニズム」であったとして、その「理論的源泉」をレーニンが何に求めたのかということである。
考えてみれば、著者のメシアニズム批判は、単なる社会システムとしての「社会主義」批判ではなく、思想としての「(サン=シモン主義的)社会主義」批判であるのだから、それは必然的に、哲学領域の見直しを迫ることになるのである。
前衛党がメシアとなれたのは、前衛党こそが、社会や運動の発展法則=「兵理」を把握できると考えられたからであった。そして、すべての前提として、社会や運動には「発展法則」が存在するとの理解がある。
私にとりついた疑問が、唯物論哲学に対する根本的な懐疑にいたるのか、その単純で皮相な適用に対する批判で終わるのか、現時点で、私には予測できない。
ただ、はっきりしているのは、すべてをつくり直す努力が必要だということだろう。 受け入れる、受け入れないは別にして、一読に値する著作であると思う。      (大阪 SAY)

【出典】 青年の旗 No.174 1992年4月15日

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【書評】 『人生にとって組織とはなにか』

【書評】 『人生にとって組織とはなにか』
                   加藤秀俊書 中公新書1990年9月初版

「拘束」と「自由」が統合して収放する?
「まァ!大胆な題名だ」東京的習慣では、「そしき」と言ったらやはり「政治同盟、政治的組織」を指すであろう。しかし、残念ながら、この本での「組織」とは主に「会社組織」のである。
<民間企業に「勤めている」人は「会社」から給与を貰っている。では「会社」とはなにか・・・・・・株式会社ではサラリーマンは自分たちを「社員」だと思い込んでいるけれども、厳密に言えば、サラリーマンは株主という本来の「社員」たちによって雇われた「従業員」であるにすぎない。「役員」にしてもたまたま多少の株式を所有する「社員」を兼ねている場合もあるが、たまたま株主から経営を委託されているが「従業員」の一人には違いない>地縁・血縁に対する「社縁」(いわゆる会社、法人)の歴史は新しく、“明治”の成立の中で生まれたものである。縁も所縁もない人々が一つの目的の為に集まっているにすぎない。
まず、著者は「社縁」の成立過程と歴史、「社縁」法律的な存在根拠を迫っている。
サラリーマンは、日常は不安だらけである。失業の不安は当面ない(実際は?)としても、一旦『社縁社会』から離れてしまうと世の中は冷たい。社縁は利害関係あればこそ成立しているので、一旦その関係がなくなれば、その途端「縁」は完全に切れる。本来はそんな組織なのである。
その不安の原因の一つに忖度(そんたく)がある。
「他人の気持ちや願望を推量して、それに合わせて行動すること」…・・・正しく機能するれば大変“美徳”であるが、下から上まで迎合とゴマスリと遠慮が横行すれば、忖度の連鎖はしばしば逆説的に機能する。構成員のサラリーマンの憂欝も高まる。そして組織はツプレル。また、上司、部下、からのタテの圧力、同僚のヨコの圧力、他人の日、他人の「評価」を気にしていなければならない。一定の地位を獲得した人でも同じである。
これまで、組織への帰属意識、そして忠誠心等というものを日本の組織の伝統的特徴と論じているが、間違いではないだろうか・・・・・・司馬遼太郎は「お家大事」という忠誠心を持つようになったのは徳川幕府藩体制以降、と分析している。また、桜井徳太郎氏は義理や人情が成立したのは近世以降で、中世の主従関係は極めて冷酷な「契約」関係であったという。
「しごと」と我々との間に取り結ばれている関係をもう一度反省して見ることにあるように思う。まず組織と我々との関わりが、じつは人間の一面でのかかわりに過ぎない。ある会社で、従業員の特技調査をしたら70%の人が「会社人間」であると同時に、何らかの才能を他の領域でもっていたのである。当たり前といえば当たり前であり、「会社人間」であると「同時に」とかいたが、正しく言えば、全ての人間は「会社人間」である「以前に」個性を持った一人の人間なのであった。その個人が、たまたま組織に入り、その中で人格の一つの側面を見せている、と言うのが偽りのない事実なのではないか。その点について、組織、取り分け組織のリーダーたちがこれまでいかに鈍感であったかを反省した方が良いと思う。ひとりの人間の全てを「しごと」に投入することを期待するのは間違いだ。
もちろん・・・・・・、しごとじたいの持つおもしろさを発見することも大事だ。しごとと余暇という二分法で人生を分割するのはあまりにも単純すぎる。組織と個人の関係は、もっとさわやかな関係であっていいのである。別な言葉で言えば、優れた組織人とは、組織べったりの人間ではなく、人間としての他のもろもろの役割をも見事に果たしうる人間のことだ。
人生80年のうち「組織」に属し規律に従って9時から5時まで働く期間はたかだか40年間に過ぎないではないか。そう考えると、最近フリーターと呼ばれる種族、やパートタイマー、臨時社員、常勤非常勤等雇用形態はいろいろ生じているが、彼等は決して不真面目に働いているのではない。
全員「臨時」なのであり、一番長い「臨時」が定年までの30年間。一番短いのが日給制による1日限りの契約。われわれは全て人生の「パート」を組織の為にささげているに過ぎない。従って、正社員と臨時工の差別の無意味であり、そのことも述べている。まして、定年後になっても(更に20年もある)の人生で昔の「肩書き」・・・「元○○」を振りかざなければ生きれれないのは、余りにも空しい。
また、「組織を離れて自由に生きたい」と言う願望とは裏腹に、脱サラして「自由人」となっても「組織」は付きまとう。作家には作家の、古本屋は古本屋の、ほか弁屋もしかり。では逃れられないのなら、効率的で楽しいものにしていく努力が大切だ。経営者も、雇用者も。組織の論理と自己実現をどう調和させるか。気楽に考えようではないか?!というのがこの本の結論である。
組織にとって、人間とは、はっきり言って労働力である。・‥・・・人間側から組織を利用して自らを訓練し、向上させることもできるはずだ。拘束と自由という一見矛盾した二つの概念も、こうした観点から見れば、統合されて収赦されていく性質のものであろうと私は信じている、とも述べている。
こんな本を紹介すると「資本を美化し、シビアな組合と経営との関係を曖昧にする」等と言われそうだけれど、指摘も確かに当たっている。また、この本は、取り分けて新しい事象を展開しているわけではない。「じゃ、私は明日からどうすればいいのだ」と聞かれると困るが、そういう本ではない。また、組織の発展は「異文化交流」と「研修」にあると分析している。
「会社」「働き方」を考える上で、私にとって新鮮な“切り口”を提供してくれた一冊である。
また、ここで言われている「組織」を我々の目指そうとしている「組織」に置換えても興味が持てる。
(東京 C)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【短信】「私一人ぐらい」から「私一人は」

【短信】「私一人ぐらい」から「私一人は」

169号(11月発行)の『ひとりごと』の中で、東京Cさんが「(取り分け我々の関係者が)点検を取られなければ行動をしない」と、ものぐさな行動を嘆いていました。これは組織(と活動)がものぐさな個人しか集められなかったのか、組織(と活動)がものぐさな個人を変えることができなかったのか、いずれでしょう。
博物館的表現ですが、組織は一つの目的の為に自覚した個人が一致団結してことに当たれば、目的実現の有効な力を発揮する(一般的ですが、違ってはいないと思います)はずである(あった?)。従って、もし不可抗力で個人の一部が欠けた場合でも、目的実行の為に対策して事に当たるものです。ここで、「私一人ぐらい」と言う意識が働いているのではないだろうか。確かに、結婚式の二次会や、集会での50人や100人では確かに一人くらい増減したところで大勢に影響はないと思います。それが、「私一人ぐらい」が8割もいれば収拾が付かなくなります。
でもそれは、政治組織だけではなく、私の属している軟式野球のチームでも同じで、8人では公式戦は不戦敗になります。政治活動以前の問題だと思います。
まあ、今までの活動に欠点があったことだけは、確かでしょう。
最近、対案としてネットワーク型組織と言うことが語られています。言葉としては、結構古いと思いますが、不勉強でよく分からないので他の人の言葉を借りてみます。
金子郁容氏が書いた『ネットワークへの招待』(中公新書1986年)では、この本の中で様々なネットワーカーとネットワークが紹介されていますが、彼が関心を寄せて紹介する基準としたネットワークとは「固有の意思と主体性のある『ユニット』が夫々の自由意思で自発的で自発的に参加したまとまりであり、メンバーが互いの違いを主張をしながらも何らかの相互依存関係を持ちながら結び付き、関係の中で意味と価値を作り出すことを可能にするシステム」と定義しています。具体的には、以下のような組織生成原理とは根本的に異な為とも言っています。
① 全体の目的の達成の為に個々のメンバーが存 在するという考えに基づく組織の原則
② メンバーが、社会全体のなかの自分の絶対的位置ではなく、その特定の組織の中の相対的位置に重きを置き、メンバー間のあつれきを避けることを至上目的とする組織原則
③『友達の輪』のように、友達の友達はまた友達だといううように結び付き、和気あいあいとすることだけが目的で、互いの差異と意思の確認をすることを求めないネットワークの原理
④ 一部の市民運動団体のように、限られたいみの価値観を共有することを前提にしているために、自分立ちの価値観と相容れないものに対し
て排他的になってしまう組織の原理
⑤ 日米貿易摩擦に関する議論にあるように、他の人が自分と同じ「(文化的)場」を持つこと
を了承するか、逆に自分力平目手に屈して相手の「場」に引き込まれるのではなくては意味のある関係は持てない、という結び付きの原理
そして、当然「情熱と、ある種の余裕を持って対立したものを認めることができる為には、自己が確立していることが必要だ。」となります。そうして
みると「ユニット」(個人、あるいは主体性と意思を有する集団)の行動が大前提ということです。ユニットが情報を発信しなければ何も始まらないのではないでしょうか。
また、こうも述べています。「ネットワークは一人一人の自発性や主体性を発揮する為にのシステムではあるが、それがシステムに過ぎないということに注意したい。我々のいうネットワークは、自主性と相互依存性というデイレンマを最初から内包しているが、ネットワークそのものはデイレンマを解決したり、『アウフヘーペン』したりする機能は備えていない。デイレンマの解決はネットワークメンバーの自発性、意思、自主的調整に委ねられている。」
結局「この指とまれ」の指の種類と集まる個人の姿勢?の問題に帰ってしまうのではないだろうか・。(東京 N)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【投稿】地域ユニオン運動の状況

【投稿】地域ユニオン運動の状況
                「知らせ愛、励まし愛、助け愛、連帯しよう」

このスローガンはわたしが活動している地域ユニオンの合言葉です。わたしも子供ができ保育園や地域とのかかわりできるなかで地元で地域ユニオン結成という話もあり、最近になってかかわりはじめました。そこでみなさんにユニオンの活動を紹介しながら、ちょっとだけ問題提起もしたいと思います。
昨年は大阪でCUNN(コミュニテイ・ユニオン全国ネットワーク)全国交流集会が開かれました。わたしはユニオンに参加したばかりでしたので参加はしなかったのですが、組合員の報告をもとにお伝えします。
全国から集ったのは33ユニオン。その代表約150名が参加。事務局の報告では現在全国で65ユニオン、会員数は約1万人だそうです。活動としては、パートや女性、外国人、派遣、生協・ワーカーズコレタティブなどとのかかわり、市民運動などとの連帯ではばが広がっている、ユニオンの組織化や財政面でもと総評系地区労の解散などで活動のバラツキや停滞状況等がでているなどが報告されています。
開会式の挨拶で、連合組織局長の戸崎副事務局長が「連合も努力しているが、まだまだ大企業中心の労働運動。中小・パートの問題にも力を入れ、パート労働法の実現のために積極的に取り組む。来春、連合としてパート集会をひらく」とあいさつ。ちなみに大阪ということで、このほか大阪総評センター下市議長、社会党の佐藤衆議院議員、山中府議会議員、甲南大学熊沢教授等があいさつしました。
交流会はパネルディスカッション「地域・ユニオン・未来」ということで、各ユニオンの活動交流、「おんな・ユニオン・夢」というテーマで女性陣が活躍、この他に3つの分科会が開かれ、全体を終了しています。
ユニオン運動ではそれこそ秋田のように連合が全面的にバックアップしているところもあれば、独立独歩てやっているところ、地区労の支援で自立してきたところ等があります。運動としてはまだまだですが、ユニオンにはある意味で他の組合がタプーとしていることを地域を拠点に展開しているということで注目されています(マスコミがとびついているだけで、運動としてはまだまだです)。たとえば自治労のなかにも全国で20万人ほど非常勤がいるのですが、このうち組織されているのはほんのわずかです。こうしたひとたちもユニオンに入っています。
本当は自治労自身の問題です。こうした例は民間ではもっとあります。

<労働組合はすべての労働者の味方か?>
いま労働組合の組織率は24.5%です。公務員・教員関係では組織率90%ほどでしょうから、民間の実態はさんざんたるものです。
民間の給与の実態はどれくらいか知っていますか? 国税庁企画課が毎年調査する「民間給与の実態」によると、給与所得者の56.1%が年収400万円以下です。特に女性は73.5%が年収300万円以下です。全体の平均給与は425万円(年齢41.4歳)、男子は520万円(41.8歳、勤続12.7年)、女子は249万円(40.8歳、勤続8.7年)です。全体の54.5%が99人以下の事業所に勤務しています。これら労働者はほとんど組織されていないと言っていいでしょう。また共働き家庭は全世帯の1/3に達しています。
一方で、特徴的なのは従業員5000人以上の事業所では年収800万円を超える人が25.4%もいることです。こちらは大体、労働組合があって、社宅や福利厚生面でも手厚い労働者と言っていいでしょう。連合の中心組合もこんなものかもしれません。(詳しい方がいましたら教えてください)
さて日本の労働組合は企業別で、従業員の組合なのはよくご存知でしょう。つまり企業のなかでは労働組合員でありながら、ひとたび外へ出ると、「企業戦士」(このことばは本当に軍隊みたいですネ)なわけです。自社製品を売らなければ飯が食えないのですから、自分の企業を守ります(本人は知らず知らずこうなっているのです)。もっといえば競争相手とたたきあいます。産別の労働組合の中にもこうした面がどうしてもでてしまいます。
労働組合の事務所や労働会館等も会社のなかにあって組合員以外は入れません。これでは労働組合はそれ以外の人に取っては権力といっしょです。固く門を閉ざした労働組合です。たとえ隣に困った労働者がいても相談する事もできないのです。組合員はそれがあたりまえになってしまっています。

<企業組合のからをやぶるべきだ>
春闘ということばも知らない世代が増えてきました。労働組合運動もある意味でこれまでのやり方では力を持てないのではないでしょうか?組織率の低下や運動のダイナミズムという点でも、これまでのからを破らなければ「公正、平等、連帯」などはスローガンに終わってしまいます。
そこで一つ。企業別組合にとらわれない組織化を地域を基盤に支援してほしい事です。地域ユニオンや全国一般など地域でいろいろあると思います。できるところは組合事務所やセンターでこうした活動の場を提供してほしい事です。そして共済組合員や生活協同組合、労働者事業、労働者基金をつくってほしいとおもいます。よい街づくりにはこうした地域での活動をもとに働くものの広-いネットワークが必要です。
知らせ愛、励まし愛、助け愛、連帯する活動を、誰の目にも見える活動として展開するならば、そこにひょっとすると労働運動の再生のヒントもあるかもしれません。まわりは誰を見ても働いている人が圧倒的なのですからネ。
まあ、こんなことを夢におもいながら一歩一歩やっているのです。
だれか好きな人がいたら声をかけてください。
ユニオンはその地域で働く人、住んでいる人ならだれでも加入できます。 
(東京・R.Ⅰ)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【投稿】外国人登録法の改正について

【投稿】外国人登録法の改正について

在日外国人の人権問題を端的に現すものとして、注目されてきた外国人登録法がついに大幅な改正をされることになった。法制度の根幹をなす指紋押捺制度は、かねてから基本的人権をじゅうりんするものとして、在日韓国・朝鮮人をはじめとする多くの在日、外国人が押捺を拒否、更に、登録証の常時携帯義務、重罰規定の廃止などを求める運動が1985年をひとつのピークとして盛り上がった。
こうした、国内の動きと韓国政府の度量ねる要求によって、政府、法務省は何回か小手先の改正を行ってきたが、それは到底在日外国人を納得させるものではなく、法の抜本的改正を求める運動は、地方自治体をも巻き込んだ形で続けられた。
この間法務省は、指紋押捺拒否者に対して、見せしめとも言える不当な圧力をかけ続けてきたが、1991年1月の日本と韓国政府の首脳会談により、指紋制度の全廃を含む政治決着が図られた。その後庁間で杏室協議が重ねられ今国会への法案提出となったのである。 その内容であるが、指紋押捺制度については、旧植民地出身者である特別永住者、および永住者に限り、写真、署名、家族登録の代替手段の導入を持って廃止することとなっている。そもそも外国人登録法=指紋押捺制度は、東西冷戦・朝鮮戦争を背景として在日韓国・朝鮮人を治安管理する目的で制定されたものである。したがって、冷戦が崩壊し、日朝国交回復もちかじかという情勢の今日、当初の目的はほとんど喪失してしまったものである。
これに変わるようにアジア諸国を中心とする外国人の急増に対し、治安管理の対象はシフトされた。しかし資格外就労者は、外国人登録法で網羅することが不可能であり、法務省は入管法を軸とした対策を行っている。
このように、外国人登録法は権力側にとってもその歴史的役割は終焉したも同然であって、少なくともこれからの社会には対応できない法律であることは明らかである。しかし今回の改正案では、依然として1年以上の在留外国人に対する指紋押捺制度及び常時携帯義務、重罰規定はそのまま残されているのである。
また今回の改正では、地方分権に逆らうごとく、現行法以上に登録事務を地方入管局に移行し、地方自治体の裁量を削減しようとしており、まったくの時代錯誤のものとなっている。
外国人登録法は、そこから冷戦時代の残滓を一掃し、在日外国人が必要な公的社会保障などを受けるための制度に抜本改正して、その業務はすべて、地方自治体に移管すべきである。これはすでに運動に関わってきた多くの団体から捉起されていることであるが、今こそそれを実現する時期なのである。               (大阪 0)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【投稿】高校改革をどう進めるか(その2)

【投稿】高校改革をどう進めるか(その2)
             大阪教員交流会ニュースNO.37 1992-01-20より

1月例会は8人の参加で行いました。内容は高校改革の続きです。

1 コース(領域)制と集団作りの今後のあり様について
B:コース制で、コース別クラスか原学級か、現場で議論を整理しなければならない。
A:先月号のこユースの9の集団作りのあり様についての再検討について深めたい。
T:この間、大賀さんは解放運動の第3期論で教育のあり様について問題提起をしている。そのことに我々は理論的にも実践的にも答えを出すこと、つまり先進事例を出すことで教育運動、教育労働運動をリードしていくことが求められているのである。
この問題提起の内容のひとつに集団と個人の関係の整理があるのではないか。集団を重視してきたが、個人は重視してきたか、という問題である。臨教審風に言うと、画一性に偏重してきたために個性が伸ばされなかったのではないか、という問題提起である。集団において個性が伸びるということが強調されすぎて、集団に支えられることを前提にしないと何もできないということになっていないか、という問題である。コース制を実施すると、コース別クラスにするか、原学級クラスにするのか、という問題が当然出てくる。この問題も「同質」生徒の共同体意識に依拠するか、異質なる個性を認めあっての連帯意識に依拠するかという問題である。
つまり集団と個人の関係という問題がコース制とリンクする形で具体的に現象していると捉えられる。もちろん、現実には原学級クラスによる展開授業は、生指上、教務上の問題点があることははっきりしている。このことを認めると、条件派は、だからコース制はないほうがいい、と言うことになる。にもかかわらず、コース制でいくという時には、教育改革についての助走の議論を先行させなければならないのである。
A:一時、被差別生徒の拠点クラスを作り、問題提起クラスとして学年に位置づけたが、それは良くないという総括を残してきている。このクラスは特別や、という具合いに生徒に映り、クラス間に序列ができ拠点クラス内外に悪い影響の方が大なのである。今は被差別生徒を過度に集中しないという形で各クラスの編成を行っている。しかし時には問題提起クラスのアンチで選択授業なしで10クラスとも同じカリキュラムでやるべきであるという時期もあった。そのことも余り成果を上げないということで、集団作りのあり様について一段高める必要性が出てきているのである。生徒の選択を尊重するということが必要になってきており、そのためには生指上の問題も二次的な間遠だと思っている。
T:コース別のクラスはやはり問題が多い。基本的な考え方でいえばひとつのクラスで混在する方が個性の認め合いができるのでよい。しかし、技術的には展開授業が多くなるという困難点を克服しなければならない。
この問題の本質は何か。人間はひとつの物差しで優劣をつける方が意欲が出るのか、それとも、多様な物差しでそれぞれの長所を認めることで意欲が出るのか、という問題である。コース別クラスはそれぞれのクラスに物差しがひとつである。そこから、英語クラス、体育クラス、芸術クラス等のクラスの中でひとつの物差しに基づいて生徒の中で優劣の関係が出て来ぎるを得ないのである。それは物差しがひとつだからである。クラスの中で優劣関係が生まれると、クラスの中で劣等意識をもったものは、「他の00クラスにいくよりましだ」と、他のコースに対して優越感を持とうとすることで劣等意識を補おうとすることになる。クラスの中ではひとつの物差し(体育なら体育)で能力の劣った生徒に対して他のものに負けるな、頑張れということになる。そこには優劣関係がはっきりあるわけで、いつも劣位におかれるものは固定されているのである。固定的に劣位におかれた者に優越感をもたせるのは体育大会や文化祭等の行事で他のコースのクラスに「勝つ」ということにおいて行われるのである。
学校が力を入れているコース別クラスを軸に、優劣関係が普延して、他のクラスにも優劣関係をつけることになる。つまり、コース別クラスは縦横に優劣関係を固定化するのである。お互いを認め合うのは優位にある一部の子供間のみで、多くの子供は競争の関係におかれ、お互いを蔑み合うという非常に殺伐とした関係になるのである。
A:現在、うちでも教務的に可能な限り原学級を基本にした展開授業を模索しようとしている。原学級に多様な子供を包含するのは、他の子の生き方を認め、自分の生き方を認められる関係でこそ子どもは生き生きできるという考え方(これを多様の統一といってもいい)からきているのである。体育コースを選択している子どもが自分のことを誇らしく感じるのは、他のコースを選択している子どもにそのことを認められるときである。また、他の子どものコース選択に当たっての問題意識に触れることは自分以外の人間の過去の経験の総体に触れることになるので、間接的にであれ、自分の経験を豊富にするものである。その結果、自分の興味、関心が変化して学年が進行するに当たってコースを変えてもよいではないか。コースが子どもに自分の興味・関心、学習、進路に関する自分の意識を明確にする過程を与えるものと考えると、原学級でのコース変更は、多様な進路を保障したもとでの興味・関心の変化に対するより高い次元での保障ということになる。しかし、コース別クラスの場合はコース変更は狭い進路しか保障しないもとでのドロップアウト=敗北を意味することになる。
多様なコースを選択している子どもの中で物差しそのものを対比するからこそ、自分の興味・関心についての意識が明確になり、それぞれの物差しを認めようという基盤がクラスにできるのである。この中でこそ、それぞれのコースの中で学力に優劣関係があっても、それを越えて相互に認め合う関係が基本になったクラス、学年の関係がつくられるのである。
T:もちろん、進学志望の者にはコースでの競争を協調しなければならない必要もあるし、教務的な問題としてのクリアーが前提であるが、できる限り多様な生徒を包含したクラスが基本的方向ではないか。
A:狭い意味での進路(進学)に対応しコース別クラスを積極的に導入して特進クラスをつくっているのは私学である。進学にのみ対応するということで一日8時間授業土曜も6時間授業を展開し、夏休みも無しというところもある。さらに生徒が休日に集まってソフトポールをしているところをたまたま教師に見つかったところ、宿題が少ないからこんなことになるのだとして、どっさり宿題を出された、という笑えない詰もある。
T:親もそんなゆがんだ教育は望んでいないが、私学にその様な実態を許していてもその実態が全く表に出てこないのは、それでも公立高校の進路指導よりもすっとまし、という親の意識があるからではないか。だからマスコミも取り上げない。それだけ、公立高枚の教師のサボリに比べたら、荒っぼくても熱心にやってくれているのだから文句を言えないというところではないか。我々自身の問題として考えねばならない。親に進学(私学)か人間性(公立)という選択できないものを選択せよという苦渋の選択を追っているのは公立高校の学力・進路指導のお租末さなのである。
A:だから公立高校の中でもその私学の動きを見て、私学と同じ考え方で、コース制とコース別クラス、あるいは府下一区の学科制に移行しようというところが出てくるのもうなずける。この方法の基礎にある原則は、単一の物差しで競争させるところから人間の意欲は高まるのだという考え方である。人間は「多様」なのでそれぞれの物差しに応じてクラス、学科に分けてそこで競争させるという考え方である。しかし、この原則と方法は「多様」の名のもとに多数を切り捨てる結果を生み出すのである。“全ての”子どもが尊重されるのではなく、序列で優位にある一部の者のみが尊重されるのである。
原学級をもとにした授業展開は、それぞれが持つ多様な物差しを認めることで、人間の意欲は高まるのだという考え方である。子どもの多様性を認めることで全ての子どもを尊重するという考え方である。
T:教育委員会との対決点は“全ての”子どもを尊重する多様性か、それとも一部の者のための多様性か、である。この閣いは、全ての親、解放運動と連携することで十分勝利する可能性のある運動である。教育委員会に対して納税者である親と共にこの論点で闘うための運動を構築するためにも、教育改革の内容を教職員で練り上げねばならない。そのときにてががりになるのは関東の学校である。神奈川の弥栄東や埼玉の伊奈総合学園等がすごく進んでいる。108の選択授業があって、領域選択と自由選択を組み合わせている。私学では明浄、和光、玉川、栄進(?)等である。これらはかつて工業高校がしんどい時に総合科学技術教育の高校の先進例としてつくられた高校である。しかし日教組の議論が没になってその後取り組みが広がらなかったのである。
A:それらは新しいコンセプトに基づいて新たにつくられた高校であるが、都市部では用地確保の上で困難なのでいくつかの高校をまとめてひとつにするという案がある。
T:府教委でも160数校のうち50校は不必要になると考えており、統廃合を考えている。一刻も早く地域に根ざして改革案を持たないと高校が統廃合されて無くなっていくときに飯のタネとしての職場も守れないということになってくる。
それともうひとつ高校改革を行うときには、こちらの立場でカリキュラムを作れる人間を教務に入れておくことが必要そぁる。カリキュラムをいじるということは人事が絡むのである。選択制を実施するとさにどの授業を切るか、というのはどの教師をの仕事が不用かということを打ち出すということである。首切りの宣告である。これを大衆論議でやるのは大混乱を引き起こすだけである。政治判断するトップと、そのもとでの実務スタッフが必要なのである。このスタッフが教務ということになる。教務に人材をおかずに「そんなカリキュラムは組めません」と言われたら、全ては破綻するのである。徹夜ででも自分一人ででも原則に沿って最大限の可能性を追求するという人間を投入しなければならないのである。我が方の人間がリーダーシップをとるにしても必ず、シンパの中に教務の意義と任務を理解する人間にまで育てることを目的として活動することが必要である。

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【ロシアレポート PARTⅡ】土地改革をめぐる世論の動向

【ロシアレポート PARTⅡ】土地改革をめぐる世論の動向
                        大木 のり(在ペテルスブルグ)

このデータは、ペテルブルグの「社会プロセス予測研究センター」とモスクワ、ケメロボ、サマラの研究センターが変化している生活条件に対する大都市住民の対応の様子を共同アンケートしたものである。アンケートはペテルブルグのセンターが作成したものであり、約1万人を対象に行われた。
“土地の個人への譲渡は経済危機からロシアを救うと思うか?”と言う質問に対してモスクワ市民の72%がYES、13%がNO。ペテルブルグ市民の75%がYES、11%がNO。サマラ市民の63%がYES、15%がNO。残りはこの問いに対してまだはっきりとした意見を持っていない人である。
この結果から分かるように重要な土地改革の支持者は反対者を上回っている。また、92年2月の時点ではペテルっ子は(この質問から)モスクワっ子より急進的である。そして最も保守的なのがモスクワからそれほど速くないサマラっ子である。これは最近、違う都市の人達が出会ったら必ず話題になる“どの町が最近悪くなった?”ということに対する間接的な回答と見ることも可能である。
一般に30歳までの若い人達が最も急進的である。例えばペテルブルグではこの質問に対して若い人の中での支持者と反対者の割合は15:1である。また年齢が上がるほど過激性が低くなり、“以前と同じように生活したい”と思う傾向がある。しかし最も保守的であると見なされている60歳以上の人の中でも土地改革の支持者と反対者の割合はモスクワでもペテルブルグでも3:1である。この年齢層の人達が以前どのように、またどのような体制下で生きてきたかを考慮すればこの数字は若者の15:1より重みを持っている。
モスクワ、ペテルブルグでは最も支持者の多い層は文科系インテリで、サモラでは技術系インテリ層である。また3都市とも反対者の最も多い層は未熟練労働者である。この層は自分達の現在の経済状態と近い将来の見通しを身にしみて感じているから反対者が多いと見ることができる。このアンケートによるとこの層は2月の時点ではその他の職業グループに比べて今までの食事のレベルを維持できていない(働いていない年金生活者の次に)。そして彼らは土地改革が成功したその効果の恩恵を受けるのもまた一番最後になるであろう。
また国営企業に勤めている人となんらかの形で自由を味わった“新しい経済体系”の企業に勤めている人とでは改革に対する態度はかなり違っている。

土地の個人への譲渡は経済危機からロシアを救うと思うか?

A/     モスクワ市   ペテルブルグ   サマラ市
YES       72%       75%      63%
NO       13%       11%      15%

雇用層別に見れば教育、学術、文化関係者が最も改革に賛同している。つまり文科系のインテリと言うことになる。
土地改革を認めるか認めないかということは、イデオロギー的、政治的見解の表明であり、社会経済生活の法則性の理解度でもある。
土地改革に対する見方は、社会的オプティミストと社会的ペシミストでもはっきりと異なっている。
土地改革を承認するか、しないかは価格の自由化と私有化に対するしかるべき評価と一致している。一連の改革は全てセットで受け入れられるかいないかである。
最後に一つだけ確実に言えることは、都市の住民にとって土地改革は不可欠である。今後改革が停滞することがあれば、それは農民が改革を望まない時である。しかし実際農民に土地が不必要であるはずがない。
エリツィン政権は口先では“土地を農民に”をスローガンに掲げているが、実際に新ノメンクラツーラや旧保守層の抵抗を打破して、土地改革を実行することができるかどうか注目されるところである。
(92-3-3)
*サマラ市はボルガジ河中流域の都市で、ウリヤーノフスタ市の近くにある。
く表も送られてきましたが、紙面の都合で省略しています)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【投稿】国連史上初 安保理15カ国サミット開かる

【投稿】国連史上初 安保理15カ国サミット開かる

<冷戦は終結し、空想は現実に>
米国とロシアの劇的な戦略核兵器大幅削減相互提案で軍縮機運が高まる中、国連史上、初の国連安全保障理事会首脳会議(サミット)が1月31日、ニューヨークの国連本部に15理事国首脳を集めて開かれた。会議は、冷戦の終結で核兵器の大幅な軍縮が動き出すなど、世界規模の戦争については危険の度合が大きく低下したが、地域紛争や大量殺りく兵器の拡散など、冷戦後の世界はまた新たな危険を抱えていることを確認して、軍縮推進や地域紛争防止への国連の役割強化をうたった議長声明を採択して終了した。
世界が冷戦の終結や湾岸戦争を経たいま、世界の安全保障のために国連がより大きな役割を果たそうとすることは、国連本来の目的に立ち返ることであり、長い間「理想主義者の空想の産物」だった国連と国連憲章がようやく実現の「世界規範」として通用する時代を迎えたことを如実に示している。合意された議長声明が5大国のどの国にも無難な「最大公約数」にならざるを得なかったものの、冷戦後の新しい世界の枠組みを作ろうとの姿勢を明らかにした歴史的サミットとなった。

< 安保理サミット>
安保理サミットは、5常任理事国(米・ロ・英・仏・中)と10非常任理事国(日・インド・ベネズエラ他)によって開催された。サミット議長報告の骨子は、①国際平和と安全の維持に国連安保理が果たす責任が拡大、②平和への脅威に対処する国連の集団安保体制を再確認、③紛争予防、平和創造、平和維持のため国連機能の強化が必要、④軍備管理、兵器拡散防止の重要性を強調、⑤薇輸出管理、国際原子力機関(IAEA)の薇査察の効率化を強調、⑥南アのアパルトヘイト終結を評価、⑦対イラク国連決議は湾岸地域の平和回復のため依然不可欠、⑧安保理理事国は米ロが推進する中東和平交渉を支持、であった。
そして、ガリ事務総長に対して、「7月1日までに予防外交、平和の創造、平和維持のための具体策を勧告するよう」要請。今回のサミットが示した道筋を具体的に描く作業が始まることになった。

<米・口首脳会談と相互軍縮提案>
安保理サミットに先駆けて提案された米・ロ相互軍縮提案とサミット後行われた首脳会談は、「軍拡競争から軍縮競争へ」という新しい時代の幕開けが、いよいよ明確なものになってきたことを明らかにした。このことは、軍縮と協調の新しい時代を本来担うべき国連の登場を容易にしている。
今回の相互軍縮提案は、昨年10月のブッシュ・ゴルバチョフ相互軍縮提案を受けて行われたが、少なくとも、いくつかの新しい点が付け加えられている。
第1は、先端戦略核兵器に関する全面破棄が含まれている点である。米からはMXミサイルの生産停止と配備済み同ミサイルの破棄、潜水艦発射ミサイル(SLBM)核弾頭3分1削減と新規生産中止、そして戦略爆撃機B2生産は発注済み20機を最後に停止することが各々打ち出された。これを受けたエリツィンの軍縮提案もまた、複数弾頭ICBMの追加削減、戦略兵器削減交渉(START)合意の4年間繰上げ(7年から3年へ)完全実施等、旧ソ連のもつ最強部門の削減に手をつけた点で意味がある。
第2は、今回の相互軍縮提案が、米の経済的復権を目指す戦略と結び付いている点である。軍縮史上、米大統領が年頭の一般教書の中で、経済・社会政策と対になった形で軍縮提案を行った例はない。しかし今回は、向こう5年間で総額500億ドルの国防費節約を提案している。米国内経済の衰退が軍縮を促し続ける現実を逆証するものだといってよい。軍拡の不経済効果が、米・ロ両大国の政策決定者レベルで等しく共有されていることの表れと言えよう。
又、今回の米・ロ首脳会談で両首脳が署名した「キャンプデービット宣言」は、米ソ冷戦に明確に終止符をうち、新たな関係の基本原則を定めた、短い文章ではあるが、平和条約に匹敵するような政治的意味を持つ内容である。

<国連創設以来の特徴と現状>
国連は第2次世界大戦への反省として、世界の民衆を再び戦禍にまみれさすことのなく、世界平和を達成するために創設された。しかし、米ソ両極体制の下で国連の活動は大きく制限されてきた。国連創設以来の特徴と現状を述べると、①五大国中心体制が崩壊し、他方、米国のヘゲモニーの行方も米国の自制と他の諸国の反発により混沌としている。②国連諸国機関の中で安保理事会の優位が確定したが、その性格は変化過程にある。③事務総長が交代し、その地位変動は避けられない。④国連機構の肥大化とその調整困難は今後も続く。⑤地域紛争の頻発に対し、国連の警察機能の強化が必要である。すなわち、(ア)憲章上の国連軍の創設、(イ)国連決議に基づく多国籍軍的国連軍、(ウ)現PKO(国連平和維持活動)の強化-のいずれかの選択が急務である。(エ)経済処理機構の統合が求められていると言うことである。

< 国連の改革の課題>
現在の国連が目指すべき立場は、最も重要な趨勢である民主化へのうねりに呼応して国連自体の民主化を図り、全ての加盟国が平和の構築と維持に連帯責任をとることにより、安全保障の確保を図ることができる体制を構築することである。
こうした立場にたって、国連改革の第一の課題は自治能力の増強である。自治能力の増強は、国連が「主権国家の集合体」であるという今日までの国際機関の限界を打ち破ることを意味する。今日、グローバルな問題といわれている環境、人権、麻薬、人口、難民などの問題は、実はすでに国境を超えて国際協力によって処理されているのが現実である。この為、国連により強力な政治的、軍事的手段を持たせることが必要になる。 第二は安保理事会強化である。安保理事会強化の問題は、常任理事国の旧戦勝五大国による独占継続の可否であり、拒否権の独占の可否でもある。現在の安保理が第二次大戦における戦勝国の優位論に立ってできた制度であるが、今日ではそのよって立つ前提ともいうべき戦後秩序が全面的に崩壊してしまっている。さらに経済大国日本と政治大国ドイツが浮上し、この両国を無視して国連が有効に機能し得ないことは確実である。湾岸危機においても、経済分野におけるG7の活動においても、両国は新しい役割をすでに演じているのである。
第三は国連財政を強化することである。国連財政は、80年代米レーガン政権の「国連軽視外交」から急激に悪化した。1億ドルの運転資金ファンドを食いつぶした87年に破産の危機を1千万ドルのアンタイド自主拠出金で救ったソ連も、深刻な外貨不足で91年米国に次ぐ「対国連債務国」に転落した。国連を通じた平和維持・平和創造活動を唱えるのはやさしいが、その真にあるのは深刻な資金難という厳しい現実である。議長声明が実績を高く評価したPKOにしても、加盟国の分担金未払い額は昨年末時点で3億8千万ドル近くに達しているのが現状である。
その他の課題として、(ア)予防外交推進のため、事務総長機能を拡大する。(イ)強制措置用の国連軍の設置を検討する。(ウ)経済問題審議機関の統合・強化を急ぐ(エ)多数決制に伴う弊害(決議の激増と不履行)を是正する。(オ)機構・人事行政の刷新を継続する。(カ)環境問題、新しい南北間題への対応を真剣に検討する。(キ)敵国条項の廃棄の実現を期する等があり、国連改革は世界秩序構築そのものとも言えよう。

<安保理サミット後の世界>
冷戦後の世界は、米ソの財政難が冷戦構造を崩壊させたように経済の変化が国際政治の枠組みを変えて行くだろう。現代の資本主義経済の産業構造は、国家経済を拠点としていたかっての経済機構から新たな経済体制を選択したのである。国家の枠を突破せざるをえない生産構造を形成し、経済活動を全世界に拡大し、グローバルな活動を推進する企業の多国籍化の時代に進んでいる。これらの経済活動が銀行・金融の多国籍化をもたらし、企業相互間の世界的ネットワークを必要とさせている。世界は益々一体になって動き始めている。
又、冷戦後の世界は協調の時代である。新世界秩序をうたう米国もかつてのように世界を主導する経済力をもち合わせていない。国内においては財政・貿易赤字を、国外では累積債務問題をかかえ苦境にあえいでいる。バックス・アメリカーナの崩壊である。しかしながら、誰もはっきりとした主導権は取れない。誰もが責任と役割を分担しなければならない時代である。今までのような資本主義体制・社会主義体制では解決のできない歴史的局面に突入したのである。
このように、世界が一つになる中、国際社会が協調しなけれはならない現実が存在するが故に国連の役割がいっそう重要になってきている。
(名古屋Y)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【書籍紹介】『欧州通貨統合-マネーヘゲモニーの政治力学-』

【書籍紹介】『欧州通貨統合-マネーヘゲモニーの政治力学-』
       藤井良広著   (日本経済新聞社、1991年12月、1,800円)

今年末を目標として単一市場完成を急ぐECを題材とする書物の出版が相次いでいる。その中で市場統合の次の課題となる通貨統合に焦点を当てた本書は、メージャー英首相、シュミット元西独首相をはじめ、書中に紹介されている分だけでも約20名にのぼる政治家、各国の中央銀行首脳、研究者などとの単独インタビューをもとに、欧州中央銀行システムの設立を経由し、単一欧州通貨への移行に至るECの経済・通貨同盟のプログラムの作成の内幕とその見通しについて、丹念な描写をしている。その場合、本書はこの統合への歩みの裏にあるEC諸国の思惑の相違、国家間の対立の側面を無視していない。むしろ、通貨統合が各国の利害の相克の中で進められていること、そのことが統合の具体的あり方に大きく陰を落としていることに目を向けている点で、本書には類書にない分析力の鋭さがみられる。
このことはとくに、通貨同盟が政治同盟と不可分であり、それが国家の存立基盤に直掻かかわるものであるだけに、欠かせない分析視点となる。
フランスの伝統的なドイツ取り込み(封じ込め)策が統合への動きの底流にあるのに対し、国家主権へのイギリスの固執、東西ドイツ統合以後のドイツの慎重論への傾斜など、欧州統合は各国当局者の間の職烈かつしたたかな攻防の中で進められている。しかも、EFTA諸国のECへの接近と旧ソ連・東欧諸国の動向は、この葛藤の舞台をさらに広いものとしつつある。本書は、ECを中心としてEFTAと東欧諸国を外周とする3つの同心円を構想するドイツ封じ込めのEC統合プランに対して、外のサークルの国々をEC内に引き込むことで中を薄めようとするイギリスの立場を紹介するとともに、その一方でソ連をも包含してアメーバー的に広がるマルク通貨圏拡充の動きが進んでいることをも指摘している。
本書はこのように通貨統合問題を導きの糸としつつ、ヨーロッパにおける国際関係の大きなうねりに肉薄する書といえよう。いうまでもなく、「三極体制」の一端を担うと自負する日本もまた、このうねりの外にあるわけではない。
(安喜博彦)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【投稿】もうすぐ春だよ・・・最後の追込みだ…、4/11全国行動で。

【投稿】もうすぐ春だよ・・・最後の追込みだ…、4/11全国行動で。

長良川河口堰建設反対運動がいま面白い。昨年10月の東京デモは、反対運動に大きな前進をもたらし、10月末に参議院環境特別委員会の現地視察が実現した。さらに、11月の同委員会では、建設省のかねての主張であった「塩害防止」について、否定せざるをえないところまで追い込んだ。さらに12月のNHKの番組の中で、住民アンケート調査は、建設反対が多数を占めるに至る。
これからの運動の山は、来年度予算審議時期(来年度予算大蔵原案には河口堰建設費250億満額計上)、国土庁の水需要予測4月初旬、4月中旬の世界賢人会議(環境問題が重要なテーマ 竹下登出席)、5月NGOプレ・ブラジル会議などと続く。
「河口堰に反対する会」では、こうした流れに積極的にカを集中しようと、以下の大きな取り組みを決定している。国会審議の中で河口堰が本来必要のないものであることを追及する、地元では岐阜市長島町、郡上八幡町での住民直接請求運動開始、海外からの自然破壊への批判を盛り上げる、全国で地方支部の結成など他面的な運動で追い詰めることになっている。
仕上げは、4月5日の東京・浦安での全国シンポジュームの開催と、4月11目白然保護団体の総結集と言うわけで、東京代々木公園を1日使った大集会、イベント、デモ行動です。
全国各地で反対する会の支部が続々結成されていますが、貴方の町の反対する会の運動に是非協力してください。現在、4月の連続行動に向けて取り組みが始まっています。マスコミも日本の代表的な川である長良川の動向に注目をしはじめています。(この間の「ギミアプレイク」の長良川特集は良かったなあ!!)

(行動提起)
4・5 シンポジューム
清安市文化会館11:00から19:30
4・11河口堰建設反対デモ、環境フェスティバル
東京代々木公園10:00から15:00
15:00からデモ 渋谷まで
(H)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【投稿】7月参院選の行方は?

【投稿】7月参院選の行方は?
               —-はたして自民党政治独占に終止符は打てるか—-

12月の全国協議会で,[旗]の紙面に、政治、経済の問題を継続的に掲載することが議論された。意志統一ではなく、あくまでも議論の叩き台、問題提起として。
7月参議院選挙は政局転挽の焦点に成りつつある。
自民党政治独占に終止符を打つことを期待する。

<共和事件と政治の震動>
ソ連邦の崩壊などで、社会主義に資本主義が勝ったなどの合唱騒ぎから醒めてみると、国内では数年前のリクルート事件並の根の深い腐敗構造が明るみに出て、政治を震動させている。自民党宮沢派阿部代議士の共和事件と東京佐川事件である。
宮沢政権諺生の立役者であった阿部代議士の逮捕という事態は、奇奇怪怪。週刊誌では東京佐川急便の巨大疑惑を追及しないという「了解」の下で、阿部逮捕のシナリオが出来たとも言われていた。佐川問題が明らかになれば自民党のみならず、野党からも逮捕者がでるとの裏話もささやかれてきたからである。
共和、佐川と続く事件の解明は、大きな政治の震動を呼び起こすことになるであろう。もちろん、中曾根民活がリクルート事件の下地であったように、今回の事件の背景はバブル経済そのものである。バブル経済華やかなりし頃、リゾート法が成立、全国各地にリゾート開発の嵐が吹いた。自然保護されるべき国定公園の中にまで開発が認められた。当然政治と企業が結び付く、不動産融資も際限がない。ノンバンクなるダミー融資がのさばった。そして、バブルの崩壊と共に、さまざまな金融疑惑が吹き出した。政治家もこうした融資や開発の中に介在し、汚職の感覚も無くなってしまった。
今回の事件も氷山の一角であろう。しかし、リクルート事件をきっかけとして「政治改革」を主張したのは自民党ではなかったか。首相派閥の中心人物が億単位の企業丸抱え政治を行っていたことは、国民に深刻な不信を与えている。2月9日投票の奈良県参議院補欠選挙は国民の正常な政治判断をしめすことになった。
佐川疑惑追及は奈良補選から1週間にして強制捜査となった。これ以後も政治家の疑惑は与野党を巻き込んで噴出する気配である。特に佐川関係では、運輸族を中心にし、昨秋の総裁選候補の元運輸大臣で国鉄民営を強行した三塚の名前も浮かんできているし、首相経験者の名前も見え隠れしている。
7月の参議院選挙を頂点に、日本の政治そのものが問われようとしている。それは、自民党のみならず社会党をはじめ野党陣営の力量を問うものになる。

<東西対立の解消による国民意識の変化>
昨年のソ連邦の解体は、長く続いた東西冷戦を機軸とした世界政治の終焉を意味する。朝鮮半島での対立の緩和、昨年末には米ロの首脳による積極的な軍縮提案が競い合うように打ち出された。東西の対立関係の解消を印象付ける事象が続々と現れている。
従来政権党であった保守党は、北からの脅威、ソ連の脅威を叫び、軍事力の増強が必要と国民に訴えてきた。それが保守政治の基盤でもあった。国際関係もこの立場から日米関係の重視を基礎としていたのである。しかし、明らかになったCIS(旧ソ連)の経済混乱と軍事的弱体は、もはや脅威でも何でもない。またアメリカの経済不況の深刻さも「大国アメリカ」の終焉を示している。
これら情勢の根本的な変化は、国内政治をめぐる国民意識に大きな変化を生み出している。すでに「体制の選択論」は色あせている。今選挙で資本主義か社会主義かの選択はない。
PKOに絡んで、自民党最右翼の小沢率いる「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」(小沢調査会)が、「能動的平和主義」なるものを打ち出し、解釈改憲論を唱えた。しかし、国民の反応は冷やかであり、自民党内ですら議論が起こっている。自民党右派も変化の中にいる国民意識をもはや捉えられない。
「豊かになった」国民は、危機感や扇動に影響されて選挙権を行使することは少なくなった。政策が問われ、清潔さ、誠実さ、頼りになるのかどうかを問い始めている。
すでに、マスコミは共和・佐川疑惑発覚から奈良補選での連合候補の勝利そして7月参議院選挙への流れを、3年前の参議院保革逆転を生み出した経過とを重ね併せて、同様のシナリオを措いてみせている。従来の保守党政治の基盤が変化した以上、このシナリオはかなり大きな確率でその実現が予想できる。

<宮城補選の結果、
宮沢内閣の命運も尽きるか?>
さらに、保守党内部の不安定さも、この流れを促進する要素になる。
宮沢政権は久々の理性的な保守本流内閣との振れ込みで登場したが、昨年末の国会で早くも指導力のなさ、竹下派リモコン内閣であることを国民の前にさらけ出した。さらに、共和事件の阿部議員が宮沢政権誰生の番頭役であったことや、鈴木元首相など首相派閥から疑惑議員が続出するなかで一層支持率を低下することは目に見えている。
また、一方で自民党内部も、竹下派の党内独裁政治への批判の高まりの中で、政治改革ひとつとっても「小選挙区並立制」での一致も出来ず、不安定さを隠せないでいる。
創価学会問題を抱えた公明党と、独自性を出したい民社党と言う中で、参議院での自公民路線が破綻し、通常国会を政治改革を目玉に乗り切ろうとする宮沢内閣も早晩行き詰まることになる。
他方、予想どおり、野党からも疑惑議員の名前が出始めた。「運輸族」を中心に。これでは、前回のリクルート事件の場合と同様、政治への国民不信は一層深まることになる。 参議院選挙での大きな政治転挽を望むものにとって、複雑な状況である。

<連合と政界再編>
そこで注目すべきは、連合の動向と政界の再編である。情勢の変化を受けて民社党の存在意義はもはや無くなったと言っていいのではないだろうか。国際情勢の変化で「安保自衛隊」問題の比重は低くなっているし、活動家レベルでの意識の問題は残るとはいえ、社会党・民社党の統一、ないし、新党結成ということも社会主義協会の問題を除けば大きな障害を持っていない。
そこで、連合の動きである。奈良補選での元民社党衆議院議員を連合候補として勝利させ、7月参議院選挙では、さらに連合型候補、自民党に勝つことに第1の目的を絞った候補者多数の擁立を目指している。これは国民にとって非常に分かりやすい選択支を提供することになる。
労働運動の分野で連合は、制度政策面など大きな成果を上げつつある。育児休業法の成立をはじめ、パート労働法、介護休業法運動など社会的に大きな関心を呼ぶ事に成功し、連合という言葉はすでに社会的認知と信頼を受けつつあると言えるのではないか。特に、政策研究の分野で従来の総評や、現在の社会、民社両党よりもしっかりした研究者グループを持ち、国際情勢の変化にも十分耐えていける力量を付けていると私は考えている もちろん、連合は政党ではない。しかし、力を付けたナショナルセンターは、政界の再編に大きな影響を与えて当然である。私自身も参議院選挙の結果が政界の再編を生み出すことを期待する。もっともどの様に再編されるべきか、問題は何かなど、「青年の旗」の紙上討論などで大いに議論してはどうかと思う。
(大阪 H・Ⅰ)

【出典】 青年の旗 No.173 1992年3月15日

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【現場から】高校改革をどう進めるか

【現場から】高校改革をどう進めるか
         (労青大阪教員交流会ニュース NO .36 1992-01-10より)

謹賀新年
1991年はソ連の崩壊という歴史的な事件で終わり、1992年も南北朝鮮の非核化宣言で始まるという、激動の時代の中を我々は生きてきているわけですが、この時代をどの様に理解するか、そしてそれぞれの職場、地域、家庭の中でどのように生活することが時代を進めるのか、いよいよ自分自身で考えなければならないと思います。しかし、日々の多忙の中で理論的に物事を思考していくのは非常に困難であることも事実です。交流会はそんな日常の中でも何とか自分の実践に生かせるような数少ない機会にしたいと考えています。交流会ニュースは例会などで聞くかぎりではなかなか好評の様です。また、住所変更の連絡なども4件ほど電話・葉書などでいただいており、教育労働運動の数少ない指針として期待されているのだということをひしひしと感じます。そのニュースも36号になっており、毎月定期的に発行できているものをまとめて今年度中に一冊の冊子にできれば、と考えています。教育労働運動についての指針としてもっと広がればと思います。

《12月例会のまとめ(高校改革について)≫
1高校改革についていろいろなが起こってきている。
茨木・高槻・吹田地区では中高の連絡会では、地元に根ざした高枚改革が中学の方から要請したが、高校の方の対応の鈍さが目だっている。高教組の中でも地元集中校だからこそできるのが高校改革であるという意見もあれば、コース制には否定的で急減期を宣伝で乗り切るという意見もある。同和教育研究指定校の内部でも教科の方から論議してほしいという意見がでても、人権教育派の教師の方が否定的なとらえかたになっている。
教育委員会のコース制は多様化路線については反対せねばならない。我々は念仏のように「コース制反対」ということで事足れりとする組合の中の意見に対して、文部省のいう多様化の背景には大衆の要求があることを見なければならないと問題提起してきたし、実践的に実例を創りつつある。
このことの影響もあってか、左翼が無原則的にコース制賛成になだれ込んできている。このことの無原則性を批判せねばならない局面にきているのではないか。我々が高校改革をいうとき、準義務化、学校間格差、中退・留年、進路保障等の問題の解決をいかに目指すか、という問題の立て方をするのである。高校が抱える問題をいかに解決するのかという方法のひとつとしてコースや領域というものの有用性が検討課題としてのぼって来るのである。
教師集団の意志統一は無前提的な内容では不可能である。統一するには統一の軸が必要である。無前提的にコース制にすべきである、というのでは教師の意志統一はできない。統一の軸は教師の意志から独立した、学校それぞれの実態に基づいて設定されなければならない。そのときの原則は、教育は生活指導・学力保障・集団育成の三位一体であるということ、しかし、学校の実態によって強調点が異なってくるということである。困難校では「荒れを克服する」という右翼・保守派でも乗りそうなスローガンを通して、本当に荒れを克服するためには、集団を育成することであるし、さらには中退や留年を無くしていくことであると指導していく。中堅校では「いかに進学を上げるのか」という右翼・保守派路線に乗りながら、本当に学習に意欲をもたせていくために何をすべきかと、指導していく。
しかし組合が軸になって公立の良さは「余裕」であるというサボリの論理で、右翼・保守派からの批判に自らを耐えられないものにしているのである。学校の生徒実態によって統一の課題は異なるが、それを本当にやるためにどうするか、ということで、統一を図るのである。その意味で、コース制を方法としてではなく、目的として理解するかのような安易なコース制賛成は、無原則であり、統一の軸にはなり得ないのである。高校の実態に基づかない安易な議論は大衆の行動を喚起しないどころか、左翼の信頼を低下させるものである。

2 高校改革の目的をはっきりさせること
高校改革の目的は生徒の学習に対する意識・意欲をいかに引き出すかということである。その目的をはっきり出さないところで、方法を議論すると教師集団に亀裂が入るのである。例えば0、7時間目授業などの方法は、教育活動の目的についての教師集団の一致がなければ、教師集団は、一般的に良いという「実践派」と、労働条件を求める「条件派」へと分岐が入るであろう。
学習に対する意欲を高めるには高校生活全体を高めねばならない。自治活動、クラブも高めることがなければ、高校生活と離れたところでダラダラとエンジョイするという傾向がでてくるのである。そのもとでは学習に対する意欲もでてこない。
同推校ほど学力が高まるという形にもっていかねばならない。「子供がいかに学枚生活を送るのか」という問題を問い直すことが大事である。このテーマは学校間格差の中にあっても、どの高校についても言えるのではないか。どの高枚でも、被差別の立場にありながらも自らの学力を奪い返して進路を切り開いてきた姿を教材として活用できるのではないか。子供の意欲は高校の現状の中で非常に傷つけられている。保母さんになりたいけど、短大にいかないかんが、その学力はないと思うと、それだけで意欲をなくす。意欲をなくすとそこから学習しようとはせず「分にあった」高枚生活をしようとするのが現実である。単に卒業すれば良い、と点数も出欠も計算してやっていくというのがリアリズムである。やっても大学にいけないと思うと勉強しないのがリアリズムである。
その高校生の現実を踏まえたうえで、高校生に意欲もたせるということを教師集団で確認したうえで、方法のひとつとしてコース制の議論があるのである。意欲をいかに高めるのかという助走の議論がないとコースの是非を問うことはできないのである。

3 具体的な高校の議論
この冬休み、Ⅰ高校ではバングラデシュにボランティアに高校生を連れていっている。ユネスコの日本委員会の役員をしている教師が中心になって、そういう形で子供の学習意欲をひきだそうとしている。国際理解から入るが、内容は人権、開発の問題である。そのような活動は各地にできていている国際交流センターや留学生会館等を通じてやろうと思えばできる基盤は広がっている。また、障害者との交流では軽音楽部が養護学校にいって演奏したりしている例もある。そこで、音楽しか興味のなかった子供達は、障害者のことを考えるきっかけを得るのである。交流はもっと気軽にできるべきである。部落問題についても昔はセツルやボランティア等でやっていたのである。ハガキー枚、空かんひとつ、牛乳パックひとつ、リップひとつでもできる福祉の形態を考えて、障害者との交流や福祉を誰もができる身近な問題にしなければならない。

4 助走の議論に於いて、右と「左」を批判すること もちろん様々の形態があるが、具体的な取り組みの形態を様々考えるためにも、高校改革の助走の議論を早くすることである。推進派のイニシアティブのない学力保障は右派の学力保障になるので、早く推進派の議論を起こすことである。いつも、推進派の意識変革が遅れるのである。そのときには学力と進路を保障するための総合施策と銘うって議論を始めるべきである。そこでコース、メニューを活用できないかを考えるのである。
左派を攻めるのはここ。浪人できない子供に進学を諦めろというのか、と攻める。子供のこと、家のこと、学力のことで攻める。なぜ、親はそれ程までに子供の大学進学にこだわるのかを議論していくのである。年輩の左翼ほど、大学に失望していたため、大学進学を無理に進めたがらないのである。そのような左派を批判するには、勉強がわからなくて苦労した子供をつかまえて、勉強させたという実例をもつことである。そして教師との信頼関係でその時の気持ちを語らせて、教師の教材として提示するのである。学力エリートは学力の被差別者からその思いを学ばねば分からないのである。欠点をとったり補習を受けたりするのは生徒のプライドからすると屈辱以外の何物でもない。同じ救済措置でも、事前のバッチリプリント等という粉飾を施してやると、生徒の大義名分が立って、生徒は意欲的に取り組もうとするのである。そんなことは生徒の立場を理解することからしか始まらない。

5 教育活動の全ては生徒実態から要請される
学校教育計画は生徒実態を踏まえて立案されるものである。いい管理職は生徒実態を調べる、そして「好きにやりなさい」というやり方である。学校教育計画に子供をはめ込んだり、合うようにしむけていこうというのは駄目な管理職のやることである。
その意味では、子供に一番接している教師をスタッフとして集めることである。反対派でもいいからそういうスタッフを集めることが必要なのである。そして教育計画は年々、変化するのである。文章を前年度のものから手直しもせず、毎年同じというのは、おかしいのである。

6 ガラスのような自信
子供の自信はガラスのようなものである。自分の依拠するものが崩れるともろくも、全体が崩れてしまう。一坪の土地に30階建てを建てるようなものである。ピッチャーで速い球を投げられなくなると、それで高校生活の全てに投げやりになってしまう。進学校に進学した子が、いきなり、30点40点を取る。あの子がそんな点数を取るはずがないとうプレッシャーに耐えられなくて、試験の日に休むようになり、さらには学校に来なくなってしまう。塾型の受身学習をしているために高校にいって塾にいかなくなると、勉強に対応できないのである。自信とともに意欲もなくなるのである。そして集中力、持続力もなくなるのである。高校進学の時の財産を3年間で食いつぶしてしまうのである。
その意味では、高校1年の1学期が非常に重要である。

7 自信の必要な子には自信を、刺激の必要な子には刺激を
解放教育は子どもの多様な実態に合わせた教育をしてきたために多様化と言っても、それぞれの実態に合わせるのは当り前と言うことから、アレルギーは少ない。これまで、生活指導において培われてきた原則・方法を学力・進路に普遍化するのである。

8 文部省の言う多様化は多様化のもとで多数をきりすてるのである。
高校教育の課題。
左派は多様化に対して平等・同一性を、文部省は平等・同一性を画一性と批判してきた。しかし、実質的平等は多様性を認めるのである。解放教育は多様性を認め、-10の実態には10を、-1の実態には1をあたえる、というものである。
左派は社会人に必要な資質にこだわっている。これを全ての子どもに保障せよと言ってきた。しかし、そのカリキュラムが進学用のカリキュラムであった。それに対して右派はボールとバット、中曽根はバイクと言った、をもたせそこらでさせておけと言うのである。
右と左を批判せねばならない。右派に対しては日標が大事であること。中曽根は手間も暇もいらんようにバイクと言っている。我々がバイクと言うときは、マシンの構造に関心をもたせ、勉強に意欲をもたせるためのものである。左派はバイクではなく微分・積分を教えろといっているのである。しかし、生徒のくいつきは悪い。
今の高校教育の課題はなにか。高校教育は親の運動で権利としてかち取ったのに、その内容が強制的義務になっていることである。それは進学率90%を越えた高校のカリキュラムの内容をいかに変えていくか、権利として高校での学習を受けられるようにするためには、子どもの権利をいかに引き出してくかということである。その方策を早急かつ明確に出さなければならない。
そのときのポイントは、「全ての子ども」である。文部省の言っているのは、多様性の元での多数の切り捨てである。これに対して我々は「一人一人の課題と欲求に応える教育を」をスローガンにすべきである。ゆくゆくは、25人ぐらいのクラスで興味、関心、学力の多様性に応えるようにすべき。高枚生ぐらいの年齢になってくると、選択、多様性、がウエートを重くする時期ではないかと思う。

9 異質の同-が問われ、多様の統一が求められている時代
興味・関心でコース制を敷くときに、コース別クラスにするのか、原学級を元にコースの展開授業を行うのか、という議論がおこっている。
コース別クラスというのは、同じ興味・関心を持つものが集まるので、切磋辣磨が起こるし、コース毎にリーダーも育つという考え方である。しかし、「みんなで○○コースにしよう」というのは一人では何もできない、という子どもの側の論理である。一方で子どもは一人では何もできないということを自覚しているしそれを学校に認めろといっている。他方で学校はそのような子どもに対して学校作りのリーダーであると位置づけているのである。支えを前提にしないと自立できない子どもは、一体いつTAKEOFFするのか。大阪の解放教育のこのあり様を、広島や奈良の解放教育が批判するところである。教師がいないと勉強しない子どもにしても同じである。教育といいながら、自立できない子どもを認めたうえで、安心のパスポートを渡しているということになっていないか、ということが問題なのである。大阪の解放教育の先進性は①集団が個人を変えるという側面であり、②反差別生徒集団が学校全体を変えるムーブメントになっているという側面である。
しかし、集団と個人との関係は整理していく必要があるであろう。
自立なき連帯はないし連帯なき自立もない。集団なき個人はないし個人なき集団はない。ところが、個人が自立していないところでは連帯はもたれ合いになる。
反差別生徒集団がムーブメントになっているはずであるが、これが形式のみになっている。個人の役割、リーダーの役割、中心の子がいかに自分の課題をクリアしたのか、という教師の関わりが少なくなってきているのである。TAKEOFFするカをいかに身につけさせるのか、というプロセスについて明らかにしてこな かったのではないか。
さらに日本的な村意識が同質性の集団を求める風土かもかも知れないが、この集団では人間関係はオレとオマエしかないのである。12年間、地域の学校に行かせたのに、その旅立ちの姿が、知った者ばかりの集団の中で支えられながら、泣きながら「自分は部落民やねん」というのでは、到達目標として低すぎるのである。親がみんなで建てた学校がその程度のものなら、部落の親は怒るのが当り前であるし、地元高校から離れるであろう。集団作りの形式を追求し過ぎて目標を見失っていないか。それと同質性に依拠し過ぎていないか、なぜ異質を求めないのか。集団作りのあり様の再検討が必要であろう。    (大阪 S.F)

(大阪の教員交流会は、ここ数年毎月開催されている。まさに継続は力である。今後青年の旗紙面に定期的に掲載していきますので、御意見をお寄せください。:編集局)

【出典】 青年の旗 No.172 1992年2月15日

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【コラム】ひとりごと –能力に応じて働き–

【コラム】ひとりごと –能力に応じて働き–

★現代のキーワードというよりは流行り言葉の一つだが、「夢」というのがある。企業の人材募集広告にもよく見られる言葉である。★「やりがい」「充実感」が就職先を選択する基準の上位にランクされている。★そうでない者は「仕事は生計を立てるための手段」と割り切ってしまって「3K」「新3K」が基準となるらしい。★このことは漠然とではあるが、「仕事」・「社会」・「企業」が夢のないものとしてとらえれていることの反映であろう。★説l明するまでもないがここでいう博」とは「現実」のl対語としての意味でなく、次代を照らし出す光明とでlもいうか、いわゆる目標のことを指している。★たしlかに夢のない時代なのかもしれない。★何かをするのlにどれだけの労力やお金が必要かあらかじめわかってしまうということなのか。わかりきったことが多すぎるというのか。おもしろくないのか。★少なくとも若い世代には見切られてしまっているのである。★一方、他の人々はどうかといえば、社会不安はたしかにあるようである。★宗教ブームは衰えを知らないし、リバイバルと称して過去の栄光を振り返る企画が多いように思う。★現代は社会がシステマチックであるとともに、自分の足下がなんだかおぼつかない時代らしい。★20世紀の終わりにまたひとつ「夢」をなくしそうな変化があった。★「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、「能力に応じて働き要求に応じて受け取る」へと我々は夢を持ち続けられるのだろうか。★こんなことさえ世迷い言と、とられかねない時代ではlあるが……。(みなと派)

【出典】 青年の旗 No.172 1992年2月15日

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