【投稿】政治とかかわろう

【投稿】政治とかかわろう

<政治はおもしろくない?>
東京都下では都議選とのダブル選挙となった今回の衆院選挙だが、投票行動では思いのほかかんばしくなかったことが、まず印象にある。先行した都議選は史上最低の51.43%、衆議院選でも都下では60.21%である。投票率の推移は回を重ねるごとに上下はあるが最低記録だけは更新しつづけている。都議選では国政選挙の波に飲み込まれたこともあるが、半数の人しか投票していないという事実は重大である。さらに不思議なのは衆議院選挙で政権交代も現実的問題とされながらも投票率が史上最低を記録したことだ。
とくに東京、千葉、埼玉、神奈川、名古屋、京都、大阪など都市部における投票率のおちこみは大きい。いずれもサラリーマンが多く、浮動票もおおい地域である。しかし、このことは生活レベルで考えると当然とも思える。それは政治とのかかわりがないからである。商店主や自営業者は商売がら結構敏感であるが、都会のサラリーマンは地域とのかかわりもなく、労働組合もない人が圧倒的であるのだから、政治とのかかわりはないに等しい(特に独身者や若者)。政治を「語る」場もなければ、政治を「感じる」場もないし、政治に「未来」を託すこともない。せいぜい、テレビを見て一票いれるのがやっとであろう。意識的な棄権者も多いとの指摘もあったが、実態はどうであろうか?
政治改革も制度だけでなく主権者の「政治とのかかわり」を増加させる手だても考えるべきだと思う。と同時に、われわれ一人一人が具体的な政治とのかかわりをどのように生活の中に持っているかも検討すべきことだ。政治とのかかわりが、もし「一票」を投ずることしかないのなら、政治をもっと楽しもうではないか!様々な社会運動はもちろん、身を投じて選挙活動をする人もいるだろう、とにかく会社などで働くこと以外で<社会生活を自ら作る時間と空間>を持とうではないか。
自民党は野党転落とはいえ、解散前の議席を維持しているのはなぜなのか? このことに無関心では連合政権は長続きしないだろう。家業を継ぐために地元へ帰った友人がいうには、商工会や地元の会合には自民党の人しかいないという。これまで野党だった人は、どんどんこれらの会合にも顔を出トて新政権を売り込むことも重要だ。

<合意形成なしには民主主義はない!>
非自民7党の政策大網にはいろいろの議論があろうが、合意形成抜きに政権ができないということ、政治的安協と民主主義とのバランスが今度の連合政権の中での大きな成果だと思う。自民党、政財官界の癒着が中央から地方にいたるまではびこってしまったこの日本で、新しい人心でこれらを一掃するため、この流れを地方でも実現することも重要であろう。
この点でのキャスティングボードは日本新党であり、細川氏であろうが、細川氏が選挙直前に「非自民政権に必ずしも参加せず、一線を画す」といった無責任な態度をとったことは残念でならない。もちろん選挙向けの発言とはいえ、やはりおおくの人の落胆と政治的な無関心を呼び起こしただろう。
選挙公約である政治改革は、現政権の最重要課題であり、これを取りまとめること自体至難の事業だろうが、このことを抜きに次はない。何のために連立し、何が重要なのか?問題をきちんと設定した政治が問われてきている。その次の課題は、景気対策、日米関係、行政改革(規制緩和、地方分権、情報公開)、予算、貿易、国連改革、税制改革などが上げられている。

<新連立政権で大いに学び改革しよう>
政権が交代し、政党はもちろん行政、財界などあらゆるレベルで新しい対応を迫られている。実は私のかかわっている地域ユニオンの運動がらみでも政権交代は予想外の出来事を引き起こしているのでお伝えしよう。解散前の国会でパート労働法が駆け足通過したことをお伝えしたことを覚えている方もいよう。その経過をふまえ今月24、25日にコミュニティユニオン全国交流集会が東京で開催されるのであるが、その全国行動の一環として政府交渉が企画されている。計画段階では、パート法策定に向けた指針の具体的内容をつめることや派遣労働、外国人労働者問題などで政府側姿勢を正す予定であった。ところが、ふたを開けてみたら、いままで野党側で折衝にあたってくれた議員がほとんど落選したり、または大臣や政務次官となってしまったのである。もちろん担当議員は非常にこころよく折衝を受諾してくれたものの、今度はスケジュールがあわない。なんでも政府として海外で会合があるとのこと。政府委月としての非常に忙しい日々が始まっているのだ。それに今度は社会党のみならず連立与党すべてに同様の働きかけが必要になってきたわけで、事務局ではてんやわんやである。
そんなわけで、法案ひとつ作るにも、いままではかやの外であったわけだが、今度はいままで以上に「参加」できる可能性がでてきたこと、あるいはそのためにも「合意」形成がかなり時間を要して必要な事態になってきている。確かに、これはひとつの運動する側にとっても政治と運動団体との新しい関係をつくっていくチャンスでもある。こうした積み重ねが、様々な形で、「東西冷戦構造」「55年体制」を乗り越えて実践されるべき時代の幕開けであろう。で、あるがゆえにみんなで「政治を楽しもう」という時代へと進んでいきたい。        (東京 R)

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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『詩』 旧友帰る

『詩』 旧友帰る
               大木 透

三年ばかり行方知れずだった友が
小ぎれいな出で立ちで現れた
やや白くなった顎髭
緑無しの赤いサングラス
サンスクリット語の模様入りのTシャツ
こいつは
「国富論」も「資本論」空んじているほどの
切れ者だった
いつも
ショスタコーヴイチのカルテットの何番かを口ずさみながら
酒を飲んでいた
そいつがだ
「よう元気かい ちょっとは立ち直ったかい」
「噂じゃ酒を断って改俊の情を示しているらしいねえ」
と、妙に挑戦的な口ぶりで絡んでくる
こりゃなにかあるな
確かにこいつをオルグったのは俺だった
繰り言のひとつぐらい覚悟しなくてはなるまい
俺はちょっと緊張して
次の言葉を待ったが
そいつは何事もなかったように
髭の下からマジシャンのように
一枚のB4ぐらいの紙を取り出すと
大事そうにテーブルのうえに広げる
「俺はねえようやく新しい牧場の見取図を完成させたよ」
「こいつは最後の審判にも堪えられるぜ」
見ると
なにやらやたらと入り組んだ線が引いてあって
誰だったか忘れてしまったが
ヨーロッパの画家が措いた曼陀羅に似ている
隅のほうに
タイトルだろうか
スリーゾーン・マネジメント・フロー
と、書かれている
こいつは三年も音信不通で
こんなくだらんものを仕上げるのに
隠遁生活を送っていたのだろうか

そいつはこのフローの説明を始める
図の中心には「上がり」があり
四隅には
「ルンペン」
「宗教家」
「マフィア」
「ホモ・エコノミクス」の象徴が描かれている
四隅からは
縦横無尽に
縦線、横線、双曲線、放物線が伸び
絡み合い
消し合い
フイリップス曲線に似たものや
ドーナツツの周りのジグザッグ線の終点へと続く
なかには消えかかった点線も見え
自信なさそうに揺れているものもある

俺はばかばかしくなってきて
「こんなもんで牧場がうまくいくのかい」
「羊にゃ心はないし、第一、心を決めるのは環境だって
いうのが君の持論じゃあなかったのかね」
と、軽くいなしてやる
それでも こいつは怯む様子もなく
ボールペンを取り出して
おもむろにキャップを外し
曼陀羅の外に
大きな円を書き入れ
そのボーダーライン上に
「物質か精神か?」と注を入れアンダーラインを引く
俺は思わず
「そこは宇宙かユートピアじゃないのかね」
「ボーダーラインから外へ向けて太い力強い直線で生産
手段の社会化と書き入れるべきじゃあないのかね」
と、促すが
こいつは平然として
「君は先走り過ぎていたんだよ」
「確かにマルクスもスミスも正しい批判をしたんだが、
彼らはこの四隅に鏡座し給う職業に就いたことはなかったんだよ」
「俺はこれから一○年単位でこの四隅に住んでみるよ」
こいつは百歳まで生きて
初志を貫徹するつもりらしいが
俺は面倒臭くて
とても
こいつについて行く気にはなれない
(1993,6,26)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【コラム】ひとりごと–異常気象に思うこと–

【コラム】ひとりごと–異常気象に思うこと–

◆クーラーのいらない奇妙な夏である。梅雨明け宣言は今年は夏の到来を意味しなかった。長雨は九州地方で過去最高の雨量を記録し、非自民連立政権が成立した8月6日には土砂崩れによる多数の死者が出ている。◆異常気象というのは、大きな環境問題である。アメリカでもミシシッピー川大洪水が起こっている。◆日照時間、大気の温度、雨量の変化などは農業や漁業に大きな影響を与え、経済政治へもいずれ影響してくる。◆アメリカ副大統領ゴアは「地球の掟」の中で、人間の歴史の中で、気象や火山活動など自然環境の変化が人間社会に大きな影響を与えてきたが、二酸化炭素の増加による地球の温暖化、オゾン層の破壊など、人間の文化、工業社会がいま地球の自然のバランスを壊 しはじめていると指摘する。◆土建・建設利権の公共事業が自民党を支えてきたが、長雨で多数の死者が出るという事態は、いかに自然を無視した公共事業であったかを物語る。天災というより人災であることは明らかだ。◆はたして、今年限りの異常気象となるのかどうか、専門家でない私は予想もできないが、人間の自然に対する馨りは、いずれ予想もできない事態を生むことを覚悟しなればならない。それもまた自然の摂理というものか。(佐野秀夫)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【書籍紹介】社会主義の実態を語る2冊の本

【書籍紹介】社会主義の実態を語る2冊の本

『長い旅の記録-わがラーゲリの20年』寺島儀蔵著、93.6.2発行、日本経済新聞社、1900円
『ワイルド・スワン』ユン・チアン著、93.1.25発行、講談社、上下二巻、各1800円

<理想の祖国・ソ連への亡命>
寺島儀蔵氏は現在83歳、ロシア共和国のトアプセ市に在住している。今年の3月、ソ連亡命以来、実に57年ぶりに生まれ故郷の根室に一時帰国された。氏が南樺太の国境を超えソ連に亡命したのは、あの岡田嘉子・杉本良吉亡命事件の2年以上前の1935年8月であった。十代で日本共産党員となり、治安維持法違反で二度逮捕され、6年半に及ぶ独房生活を「若かったですから、理想の社会を実現するまでは、と耐え抜き」、監視役の特高刑事の東京出張を、「理想の祖国・ソ連へ入るのはこのチャンスしかない」と決意して亡命を決行したのであった。時あたかも、ソ連社会はスターリンの独裁・恐怖政治が着々とその足場を固めていたときであった。

<「大反逆罪 スパイ罪により最高銃殺刑に処す>
モスクワでは、野坂参三、山本懸造両氏とも会っているが、ほどなく山本氏は周知のように野坂の密告によりありもしないスパイ罪で抹殺されている。氏の回想によると、「野坂参三さんは稀にしか見えなかった。彼と会っても山本さんのような同志としての温かさは感じなかった。会った時には私に対していろいろ質問などをするが、私の答えに対して自分の意見をほとんど言わなかった」という。「日本での人民戦線については君はどう思っているかね」と聞かれて、寺島氏は正直に「現在の目的は、軍閥が完全にブルジョア民主主義までも打ちひしごうとするのに対する国民闘争ですから、そのためには反動に対抗する積極的大衆ばかりではなく、消極的なブルジョア層も参加させるように働きかけるべきだと思います」と答えている。これに対して野坂は「君の意見として指導部に伝えておくよ」と言ったきりであった。氏は、1938年4月3日、「起訴状は全く事実無根であります」との必死の抗弁もむなしく、いきなり「大反逆罪、スパイ罪、妨害罪により最高銃殺刑に処す。本裁判は最終であって、宣告に対しては控訴権はない」と告げられたのである。

<「赤鬼が罪なき人々を苛む>
まさにこれからが「長い旅の記録」である。読むに耐えない拷問、なぶり殺し、死の恐怖、卑劣なラーゲリの支配体制、「赤鬼が罪なき人々を苛む」地獄図絵、寺島氏が想像した社会主義とは全く似ても似つかぬ、あまりにも悲惨な実態に絶望し、「罪なくして死んで行くこと、それを誰も知ってくれないことは残念でたまりません」と、同じ銃殺刑仲間に訴える。ところが1938年12月、「最高銃殺刑を25カ年重禁固刑に変更する」と告げられる。「ああこれで生きることが出来るのだ。何とかして25年生きて行こう。そして必ずもう一度祖国の土を踏もう。これがその時の私の偽らざる心境であった」。以後、極北のラーゲリを転々とさせられ、極寒と飢えと重労働の長い日々が果てしなく続く。ナチスとの戦いもようやく勝利し、ラーゲリにも希望が訪れる。四人仲間は「戦争が終わったら、第一にラーゲリの制度は真っ先に廃止されると思うよ」と語るが、寺島氏は「私は残念ながらそうは思いません。ラーゲリ制度は廃止されるどころか、ますます拡大して行くと考えます。われわれ何百万人もの囚人は5か年計画とか戦時非常経済計画の作業を遂行しているのです。ソ連にはこんな重要性を持ったラーゲリは何百、何千とあるでしょう。それを一朝にして廃止するなんて出来るものですか。反対に戦後復興工事にもっと多くの囚人労働が必要になると思いますよ」と答えている。期待せざる予感は事実であった。1953年3月、乱入のほとんどが願っていたスターリンの死が発表された。しかしソ連式社会主義に不可欠のものとなっていたラーゲリの「赤い奴隷」には、すぐには福音をもたらさなかった。ようやく1955年8月6日、「無国籍証明書を渡されて裟婆に放り出された私は、瞬間どうしていいか判らなかった」という。
実に貴重な記録である。こんなに悲惨な経験であるのに、読むものをとらえて離さない脈々と流れるものがある。それは何なのであろうか。

<「大日本帝国に反逆する極悪人の処刑」>
もう一つ紹介する『ワイルド・スワン』は、同じく社会主義を扱っているのであるが、こちらは祖母、母、作者の三代にわたる中国の女性のドキュメントである。上下二巻にわたる大作であるが、実に感動的で衝撃的な作品である。多くの固で翻訳され、世界的なベストセラーとなっており、作者へのインタビューが先頃NHKでも紹介されていたのでご存じの方も多いことと思う。
作者の母の回想に、日本帝国主義の実態が鮮明に語られている。「教育の一環として、母たち女学生は日本軍の戦況を収めたニュース映画を見せられた。日本の軍人は、自分達の残虐行為を恥じるどころか、逆にそれを誇示して少女達の心に恐怖を植え付けようとした。ニュース映画には、日本兵が人間をまっぷたつに切り捨てるシーンや、囚人を杭に縛り付けて野犬に食いちぎらせるシーンが映っていた。犬の餌食にされる囚人が恐怖に目を見開いた表情を、カメラは長々と大映しにして見せた。11歳と12歳の女学生通が目をつぶらないように、叫び声を止めようとして口にハンカチを押し込まないように、映画の間中日本人が見張っていた」という。さらにある日、母の女学校の友達が本を読もうとしてうっかり日本軍の武器庫に入ってしまい、捕まってしまった。「大日本帝国に反逆する極悪人の処刑」を見学するため、女学校の生徒全員、それに近所の住民まで集められた。目の前に連れてこられたのは、あの友達だった。鉄の鎖につながれ、ほとんど歩くこともできない。拷問されたらしく、見慣れた友とは似ても似つかぬ膨れ上がった顔だった。日本兵がライフルを構え、少女に狙いを定めた。少女は何か言おうとして口を動かしたが、声にならなかった。銃声がして少女が前のめりに倒れ、雪の上に血がにじみはじめた。日本人校長の「ロバ」は、生徒の顔を一人一人のぞきこんで歩いた。母は非常な努力をして感情を押しとどめた。だれかの押し殺した鳴咽が聞こえた。田中先生だった。即座に「ロバ」が気づき、田中先生をぶん殴り、蹴り上げた。貴様は大和民族を裏切ったんだぞ、とわめきちらしながら」。1945年8月9日、「アメリカが日本に原子爆弾を二発落としたというニュースが伝わり、町の人々は手をたたいて喜んだ」という。

<贅をつくした饗応>
上に紹介したことは、この本のごく一部のことである。中国の民衆に悲劇をもたらした日本帝国主義の侵略行為は、「過去に遺憾なる戦争があった」では済ませられぬ傷跡を残しており、今後も問い続けられなければならない課題である。しかしこの本の中で最も大きな位置を占めているのは、中国共産党と毛沢東の役割である。とりわけ毛沢東の百花斉放、清風運動、大躍進政策、そしてなによりも文化大革命を巡って、歴史の波に翻弄される作者の父母の苦闘の連続とあくなき理想への執念である。共産主義者であるならば、本当はこうあらねばならないのではないかという、祈りにも似たすさまじい努力にはただただ頭が下がるばかりである。この本、特に下巻を読んでいると涙がとめどなく流れてくる箇所がいくつかある。努力をすればするほど、悲劇的な結末を迎えなければならない、しかしそれをずる賢く回避しようとしない人々がいたのである。
作者はエピローグの最後を、「1988年に錦州へ旅行したとき、母は玉林の暗くて狭い、みすぼらしいアパートに泊めてもらった。アパートの裏手は、ごみ捨て場だった。通りを隔てた向いには錦州で最高のホテルがそびえ立ち、毎日毎日、中国こ投資してくれそうな外国人を招いては贅をつくした饗応がくり広げられていた。ある日、そうした宴会を終えて出てきた客人の中に、母はおほえのある顔をみつけた。まわりに取り巻き連中が群がり、その男が台湾に持っている豪邸やらの写真を見せてもらって盛んに褒めそやしている。それは、四十年前に女学生だった母を公安に通報して逮捕させた、国民党スパイの政治主任だった」という言葉で結んでいる。中国社会主義はどのようになるのであろうか。
ここに紹介した二書は、社会主義というものの歴史と実態、そのありようをあらためて考え直させる、深刻でありながら、なおも感動をもたらしてくれるものであった。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【書評】いま、問題の4冊

【書評】いま、問題の4冊

『日本新党 責任ある変革』 細川護熙編、93.4.30発行、東洋経済新報社、1500円
『日本改造計画』      小沢一郎著、93.5.20発行、講談社、1500円
『理想の国』        大前研一著、93.4.20発行、ジャパンタイムス、1200円
『日本新党のウソ、平成維新のデマ』 噂の真相取材班編93.6.10発行、第三書館、1030円

ここに上げた4冊は、いま注目の書、あるいは問題の書である。とりわけ非自民連立政権登場という新しい状況のもとでは、細川、小沢両氏にとっては、書かれている内容に責任を取って貰わなければならない書ともいえよう。それぞれは、やはりというべきであろうか内容的には底が浅く、フアジーでもあり、表面的でもある。しかしそれぞれに提起されている論点は、よく特徴が出ており、現在の直面している課題を浮き彫りにしているともいえよう。そこで限られた紙面で少し強引ではあるが、それぞれに最も問題となる要点を紹介しよう。

<細川=ファジジーが本質の「責任ある変革」
「今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私は敢えて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う」–昨年5月、日本新党の結党宣言で細川氏はこのように述べた。その理想主義の旗とは、「品格ある、教養ある国家」であり、基本理念は「平和主義」、政治的には「民主主義」、経済的には「市場主義」、社会的には「生活者主義-地方分権の確立」である。これは決して単なる書生論ではなく、行動する「実践的理想主義」を貫き、実現可能で具体的な「政策プログラム」を提示し、実行していく、と強調している。まことにごもっともであり、それを一貫させることを監視しなければならない。
確かに、男女共生社会や高齢化社会の政策においては、他の諸党よりも具体的であり、進んでもいる。たとえば、最重点政策として「65歳定年制と70歳就業態勢の確立」を掲げ、ゴールドプランの前倒し実施を要求し、さらには「女性の社会参加、特に政策決定の場への進出を促すため、国、地方公共団体におけるすべての審議会、委員会、議会等にクオーク制を採用し、どちらかの性が20%を下回らないものとし、2000年までに40%に引き上げることを目標とする」こと、男女の平均貸金格差の是正、就職時の年齢制限の撤廃、男女雇用機会均等法を努力義務から禁止規約へ、企業への積極的平等推進策の義務づけ、セクシヤルハラスメントに対する法規制、教育の場での性別役割分業の見直し、離婚法の抜本的改正、選択的夫婦別氏制度への移行、女性の職業活動を妨げる税制の廃止、などを掲げている。
「日本新党は女性向けのワナ」と指摘される(『日本新党のウソ、平成維新のデマ』)だけのことはある。現実にも、土井委員長と消費税反対運動の中で盛り上がった社会党への女性や高齢者の支持がごっそりと日本新党へ移動したことを考えれば、労組を含めたいわゆる革新勢力の女性蔑視に貫かれた旧態依然たる体質が有権者から見放されたのだといえよう。しかし、全体として「責任ある変革」の中身は、きわめてあいまいであり、融通むげである。フアジーと称されるところである。それは基本的には、その政治路線からきている。本来保守勢力の改革派であり、なおかつ公明、民社の中道路線を取り込み、それらの政策を「理想主義」と「品格」で味付けをして、実は社会党を切って捨てることにその眼目があるからではないだろうか。
日本新党は、「政権交代がないということが日本の政治の致命的な開港であるということ」を出発点として、その基本的費任を「既成政党」に求め、自民党はいわずもがなのこととして棚上げし、「55年体制打破」のために、社会党にこそその責任を求める。「野党第一党の社会党はというと、「政権交代」を叫びながら、結局は「保革二元論」のワクの中で歴史的役割を終えたと多くの国民は受け止めている」、「野党第一党の社会党は、いまだに「保革二元論」にしがみつき、そうした点に拘泥している。それが、多くの国民の失望を生んでいることを知るべきである。そこにこそ、新しい政党の必要性が望まれるゆえんである」と述べて、社会党にとって代わる自らの立党の基本的立場を表明しているのである。

<小沢=強権政治への憧れ>
今や連立政権は二重権力状態であると言われているが、これを裏で操っているのが小沢だと目されている。その言動は確かに無視し得ないといえよう。この小沢氏のキーワードは「強力なリーダーシップ」である。
小沢氏は次のように述べる。「もはや指導力の欠如は許されない。弱い指導者は他国には迷惑でしかないのである。何が必要なのか。強力なリーダーシップである。問題の第一は権力のいたずらな分散である」、「改革の基本的な方向は、最高責任者が責任を持って政策決定できるように、いたずらに分散した権力を、形式的にも実質的にも民主主義的に集中化することだと私は思う」。まさかもはや民主主義の原則とは相い入れなくなっている共産党の組織原則がこんなところでお目にかかるとは。
小沢氏の民主主義に対する皮相的な理解は、マスコミ批判にまで及ぶ。「マスコミまでがこうした野党の行動に疑問を望しないばかりか、有力紙やテレビの多くは、審議を尽くしてコンセンサスを追求せよ、などと主張していた。現在の政治の閉塞状況をもたらしているのは、むしろ、権力を行使しない危険性によるものだ」「一朝有事になると、マスコミを筆頭にして「民主主義」が高らかに叫ばれる。しかもその場合の民主主義とは、きわめて手続き面に偏重した民主主義だ。「議論をとことん尽くせ」「多数決の横暴を許すな」といったスローガンが乱舞する(、これは国際社会の主要国としては許されないぜいたくであり、国際的な責務を放棄するに等しい」。
さらに小沢氏は、こうした事態を解決する特効薬を小選挙区制に求める。「冷戦の終結は日本政治の総談合構造の崩壊を意味する。なれ合い、もたれ合いの構造を壊し、政治のあり方を根底から変えねばならない。旧構造の打破は徹底的であればあるほどよい。衆議院の申達挙区制はぬるま湯構造の維持装置といっても過言ではない。現に政権を振っているから現状を変えたくない与党はもちろん、手をこまねいていても野党は130前後の議席を確保できる。中選挙区制が社会党を筆頭とする野党をダメにした。政治のダイナミズムを阻害しているのは、あまりに強すぎる比例代表制的な原理である。小選挙区制では、得票数の開き以上に議席数が開くので、支持率の変化が敏感に議席に反映され、政権交代が起きやすくなるという点も見逃せない。日本の政治が抱えているほとんどの問題は、小選挙区制の導入によって解決できそうだ」。
このように見てくると、小沢氏は、自民党の河野新総裁が述べているように「極めて国家主義的色彩の濃い政治運営を企図する勢力」の代表であるかのようである。確かにその危険性はあるといえよう。歴史の皮肉であろう、主客転倒して事態が進行している。この皮肉はそうしたことを許さないであろう。しかし小沢氏がこの本の中で提起している日本改造計画の具体的政策(五つの自由)は、高齢者や女性政策に明らかなように、より具体的で進んでもいる。やはりフアジーではあるが、日本新党と共通の特徴を持っているのである。むしろこれまで社会党を始めとする野党勢力、革新勢力が積極的で具体的なオルタナティプ(代案)を提起し、その選択を国民に迫るということにきわめて怠慢であったことのツケが回ってきたのだといえよう。

<大前=男性向けのウナ>
「平成維新の会」は今回の選挙では出番がなかった。そこで投票日の翌々日、主要各紙に「選挙の終わりがはじまりです」という大々的な一面広告を出し、「このたびの総選挙で、82名の平成維新の会推薦候補が当選。いよいよ”生活者のための政治”実現に向けて、活動が始まります」と述べて、自民党から新生党、日本新党、公明、民社、社会にいたる推薦議員を紹介している。大前氏は、「私たちは自分の出世や利権ばかりを考えるような議員は選ばない。私たち生活者の主権を中心に、生活を向上させ、これまでになかった理想の実現に邁進してくれる議員のみを推薦する」と述べている。
大前氏のキーワードは「生活者の主権」である。「国は富んでいるのに、生活者は依然として狭い家に済み、物価高に悩まされ、余裕のない生活に窮々としている」ところから出発する。そしてこうした事態をもたらした最大の問題を農業保護政策と税制に求める。「自動車産業などの隆盛があったからこそ、日本の今日の繁栄があったのです。だからこそ、国際市場の九倍もの米の値段を補助することができたわけです。農民が感謝すべきなのは自動車にであって、自動車をつぶしてアメリカの国旗を燃やすという蛮行はとんでもない話なのです。彼らの輸出があるからわれわれが市場開放させられて犠牲になる、というのはとんでもない詭弁なのです。コメ農家が日本を養ってくれる可能性は今後ともまったくないし、いまの生活水準を維持してくれる可能性もまったくないのです」と述べて、「私がいう第三次農地解放というのは、第一次、第二次が大農園主から小作人に対する農地解放だったのに対して、今度は農業従事者からサラリーマンに対する土地の解放が大都市周辺でなされなければならないという考え方です」と極論する。こういう切って捨てる論理が大前氏好みの特徴である。「適者生存原理がまともにわれわれを襲うような状況をつくるほうがいい、と私は思っています。競争なきところに競争力は絶対につかないのです。小売業でも農業でもぬくぬくと食っていける間は決して自分たちから生産性の改善などしないのです。むしろ「生活権」とか何とかいって甘えた現状維持を振りかざし、コスト高を生活者に平気で押し付けるのです」と述べて、弱者切捨て論を公然と振りかざす。
大前氏が怒髪天に登る勢いなのはどうも、自分の納めている税金にありそうである。「税制については、負担の公平ということを主張しています。所得税は「一律10パーセントでだれもが公平に負担する。所得の低い人の税金を免除するのはおかしいと私は思います。私自身は地方税も含めて65パーセントも取られています。年間の税金だけで1億円以上払います。累進制度というのは国家による搾取です」と、怒り露わである。確かに「男性向けのワナ」といえよう(『日本新党のウソ、平成維新のデマ』)。
大前氏は周知の通り、道州制論者である。「日本の都道府県や市町村は自立できる単位にはとてもなっていない。だから、私は第二次廃藩地県として、廃県地道ということをいっているのです。日本は1,000万人ぐらいの地域を単位として少なくとも一○ぐらいになるのがいい。これが私たちが提案している道州制の経済的根拠です」。地方自治に逆行して中央集権に屋上屋を重ねるようなこうした論法に対して、細川氏は、「ところで、似て非なる考え方として、「平成維新の会」の大前研一氏は、日本を一○のブロックに分ける「道州制」を捉唱されている。しかし現在の各都道府県の感覚からいうと、たとえば「九州府」として大分や沖縄まで一つにまとめるというのは、容易なことではない。いまの都道府県のサイズは、ひとつの行政の主体として、諸外国と比べてみても、妥当なところだと思うから、道州制に対して大前氏とは立場を異にしていることを示しておきたい」と述べている。
ところがこうした大前氏の立論に、社会党や労組を含めた一定の部分に支持と共感があることは見逃せないことであろう。大前氏は得意顔で述べている。「『平成維新の会』を始めたとき、いちばん賛成してくれたのは労働組合の人でした。社会党は政権担当意欲も能力もないわけだから、結局、組合側の声は為政者には永遠に聞こえない。組合も、連合など包括的に社会党を支持するのは間違いだ、と気が付いたようです。それはそうでしょう。会社で労使協調なんだから、政治的な運動も労使協調路線でやれる一つの新しい政治母体をつくるべきなのです。「平成維新の会」に対する組合の反応は全面的にいい。いまの社会党はこんなことをはっきりいってくれない。連合などは、「これ以上、政権担当意欲もないところにお金を注ぎ込むのは、組合員に対する冒涜だ」とまでいっています。まことにタイムリーな動きと評価してくれているのです」。

<人工甘味料=日本新党 平成維新の会>
『日本新党のウソ、平成維新のデマ』は、「噂の真相」取材班が両組織の実像、実態に追ったタイムリーな企画である。同書は「おわりに」の中で「どちらの組織もおどろくほど安易に現職の自民党議員を受け入れている事実をよく見ておく必要がある。日本新党といい、平成維新の会といい、実態は’自民党のままでは選ばれない議員を自民党とはひと味ちがうふりをして当選させる人工甘味料”としての役割に過ぎないのである」と断じている。
まず日本新党の細川氏については、「細川のバックには、うさんくささを競い合うような人脈が総結集している。何と元右翼テロリストに土下座までしているのだ。この元右翼テロリストとは四元義隆。右翼の次には元左翼の転向者で、一質して自民党のプレーンをつとめてきたタカ派学者香山健一がいる。日本新党の結党宣言を代筆したのが学習院大学教授の香山健一だという。次に、松下政経塾。現在の塾長は元JC(金属労協)議長の宮田義二、細川も松下政経塾の評議員をしている。この松下政経塾は、自民党小沢一郎親衛隊の別名で呼ばれる起タカ派の若手政治家志望者軍団でもある。さらに狂信的な信者の組織力と、反共を掲げた勝共連合という名林を偽装して自民党や民社党に勢力を浸透させてきた統一教会が日本新党を全面応援。そして隠しきれない佐川との決定的な癒着。細川は参院時代、田中角栄に佐川急使を紹介され、以来、今に至るまでずっと佐川急便をスポンサーに、トータルすると、細川はこの間、百億円以上の支援を受けているはずです」等々、そのあやしげな人脈については枚挙にいとまがないほどである。 大前氏についても同様の実によく似たあやしげな人脈が立証されている。繰り返すまでもないであろう。ただ、「平成維新の会が市民運動だというデマ」について、「平成維新の会は民主主義とは全く相入れない組織だ。チーフアドバイザーとしての独裁者大前研一が数万人のフラット(ヒラ会員)の上に鎮座することが大前提なのである。共産党の方針が宮本議長の周辺で決まるように、平成維新の会の政策は大前研一の周辺で決まるシステムである。
4月11日の平成維新の会初の全国大会では大前研一の顔がいたるところで大写しになって参加者をシラケさせた。個人崇拝まで共産党のマネすることはないだろうに」という指摘は、この組織の本質に迫るものであろう。
問題は、このような批判や斬定が事実であり、的を射ていたとしても、それらが掲げる政策やプログラムが多くの国民の支持を受ける場合、その客観的理由を明らかにし、より具体的で革新的な代案を明示し、彼らをそれに合流させる努力こそが求められているのではないだろうか。連合政権の登場という新しい事態は、そのことを切実なものとしているといえよう。  (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【投稿】思想の中じきり — 現代とは何か —

【投稿】思想の中じきり — 現代とは何か —

                         池田(1993年3月13日)

<はじめに>
<現在の特徴>
<現在についての若干の注解>
<マルクスの唯物史観>
<現在の経済過程の到達点>
<マルクスの構想の読解>
<生産過程からみた共産主義の特徴付け
<終わりに>

<はじめに>
思考において現在を把える事は、それが、どれ程の意味を持つかは別にして、そして、結論から言ってしまえば、そんな事はたいした意味がないというのが、まさに現在の可能性であると思っているが、ハードトレーニングが必要だ。また、この事は、現在を思考における現在として証明し、認識し、把えること。また、その唯一の方法でもある。これは、現在に到る全ての媒介を思考において一つづつ踏み固め、思考において現在を再構築するという作業でもあり、私としては、現在とてもその力量はない。
しかし、便利な事に、私の意識(これは言語を媒介に社会的に規定された自己意識にすぎず、しかし、この自己意識は諸個人を介在してしか存在しえない)において世界は、現実は、所与のものとして存在しているということである。従って、その世界の存在が、その必然性において把握されるか否かにかかわらず存在するという事である。「もともと、現実の世界の状況は、その実相を手に触れることができないように仕組まれている。だからそこでは、想定される実相に対して、どのような認識の水準をあらかじめとろうとするかが問題となる」(吉本隆明は、現象学の立場をはなれない。私ははなれうると考える。しかし、思考を対象化せざるをえない限りは現象学的であらざるをえないが)
そして、同時に、世界を把握するための方法、構想がすでに存在するとみなしたい。
以下の主張は、マルクスの思考を媒介にすることによって獲得しようとする現在についてのオピニオンの意味をなすにすぎず、決して証明されたもの(証明したいと思ってはいるが)ではない。なさけない事に問題意識の開示にすぎない。端的にいえば、私にみえる現在の可能性であり、それを表現したいという衝動です。現在とは何か。どこへ行こうとするのか。現在の可能性とは何か。これを一言で表現すれば、資本制総体の克服としての、そして狭義の意味における”共産主義がやってくる”という事になる。
これは、どのような世界のイメージとその可能性となるのか。

<現在の特徴>
①世界に関していえば、国民国家、民族国家が超えられつつあり、国家・民族国家が死滅に向かいつつあるという事。事実、世界は民族問題をはらんでおり、南北問題を生起し、解決されていないが、世界の最先端においては民族国家を超えつつあるということである。これは、以下に指摘する全ての問題が対立の中を進む事、すなわち逆の問題をはらんでいるが、世界の最先端においては、国家を超えつつあるということだ。これをイメージとして表現すれば、世界連邦と分権化された地域コンミューンすなわち自治体というイメージになる。

②私はPKOを非軍事、民主、文民に限定すべきであるという主張には欠陥、正確にいえば、不十分あるいは矛盾を含むものであると考えている。日本国憲法にみられる軍事における主権の制限が現実性をもちうるのは、世界連邦と国連軍の存在が担保された時である。冷戦前の第二次世界大戦後の世界情勢は、そのような可能性をはらむものであった。人類が初めて世界をコントロールしえる地点に到達したのは、第二次世界大戦を闘い抜いた結果であったと考えている。従って、この時点では日本国憲法は擬制ではなかった。また、当時から国連軍という構想は存在した。ごく単純化していえば、市民社会内部の階級間の闘争が、社会を破壊するのを防ぐために国家が必要である(スピノザやホッブス、ルソーが民主主義=国家を導出する論理)と同じように、国家間の闘争(戦争)を止揚するためには、国家間の一時的な妥協・協定などの恐怖の均衡によっては不可能であり(集団的安全保障が無意味だといっているのではない)、世界連邦と国連軍の存在が必要である。国家主権の制限に対応する「国際国家」(世界連邦)の存在が必要である。これが現実的な課題として登場したのが、冷戦後の世界情勢である。
従って、現在、軍縮が最大のテーマであるというだけでは不十分だ。同時に、世界連邦あるいは、国連軍と日本国家あるいは自衛隊の関係をどうするのかが問われている。
従って、自衛隊に対応するシビリアンコントロールの徹底と軍縮は必要であり、世界連邦、国連軍が必要であり、同時に、戦争の原因は軍事力ではなく、この原因は軍事力以外の手段で解決しうる。そして日本は軍事以外でのあらゆる努力を行うというテーゼと現実的な構想を対置しない限り、PKOを非軍事、民主、文民に限定するという主張は一貫性をもちえない。

③日本の象徴天皇制をめぐる問題である。
天皇制をめぐる論点は、吉本隆明や鷲田小弥太がのべつくしている。しかし、鷲田は象徴天皇制にこだわりすぎていると思う。私のイメージでは、スウェーデンの王室が市民と同じように街を歩き、マーストリヒト条約によってオランダの紙幣から王室の肖像が消え、イギリスの王室がスキャンダルで市民の批判にさらされたと同じように象徴天皇制は意味をなさなくなっていく。それはヨーロッパにおける王室よりも若干息が長い程度ではないか。鷲田の言い方を用いれば、象徴天皇制が戦後民主主義=「大衆の国家」に適合的であったように、逆に、国際化と、民主主義が徹底的に象徴天皇制に浸透する事によって天皇制は意味をなさなくなる。死滅する。

④中央集権制が限界を迎えており、国家は分権化へむかう。国家は、国際化(世界連邦)と分権化へ両極化する。分権化した地方自治体は成熟した市民社会(?)に最も適合的な国家の形態だ。中央集権制と分権を単純な対立によって把えることはできない。中央集権制の徹底の結果として分権に到るというイメージが必要だ。中央集権制が限界に達しつつあるということ。これは、コンピュータの高度化をめぐる論争の中で集権型(集中型)か分権型(分散型)かという論争と同じようなものである。(コンピュータの持つ意味については別に述べる)
日本の中央集権制は、非常に効率的な国家の形態であったという程度の総括は必要だ。日本は戦後一貫して政府(自民党政府)主導の改革路線できた。そしてこのシステムが諸利害を調整する上で最大の力を発揮してきた。そしてこのシステムが現在機能不全に陥りつつあるということだ。
いずれにしても、この分権化を如何に徹底的に、そして早く、効率的に進めるのかが現在の政治の最大のテーマである。

⑤政治のウェートが低下する。これは、イコールではないので少し、慎重ないい方が必要だが、オルタナティブ(対案や解決策)といったレベルの問題ではなく、政治のウェートが低下する。より正確にいえば、政治の概念、利害の概念が変化するという事。

⑥労働運動あるいは、労働者階級の解放運動という次元では、前衛主義の解体ということだ。「知識と労働」といういい方も含めて、右も左も含めてあらゆる形での前衛主義・啓蒙主義は不毛であり無効だ。日本共産党が無効ならば、あの鼻もちならない「保守主義者」西部 邁のようなエリート主義も無効だ。西部個人の人格が無効だといっているのではない。念の為。知識人と大衆、エリートとノンエリート、党と大衆、前衛と大衆という全ての対立は無効だ。この事を可能ならしめる本源的な規定は、資本であり、今日的にいえば、自由時間の拡大と情報化である。

⑦イデオロギーの領域では、この文章の全体が、いわば、イデオロギーに関するものであり、この点は繰り返し主張することになる。
私の感心についていうと、これまでのイデオロギー、わかりやすくいうと「価値観」といわれるものの崩壊家庭が進行しているように思える。例えば、「会社人間」「ぬれ落ち葉」「セクハラ」等々。また、「グローカル」などというおもしろい言葉も生まれている。このイメージをうまく表現できるかどうか分からないが、金丸批判の中で現れているのは、「政治家は特権でない」という批判ともう一つ、「政治家の権力志向と本質的な能力主義に対して、なぜあんな無意味なことをするのか」という批判が含まれているように思われる。少しまとめると80年代以降、フェミニズム、エコロジー、ノーマライゼンションというような思想が日本に登場しているが、イデオロギーの準位、レベルでいうとノーマライゼイションというイデオロギーは、差別を超える、もう少しいえば、能力主義や競争主義さえ超える、さらに踏む込めば、経済の分配における「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原理と等価なイデオロギーである。端的にいえば共産主義のイデオロギーだと考えている。吉本隆明の「重層的な非決定」というイデオロギーについての包括的な規定も、これに照応するものだと考えている。

⑧経済の領域についていえば
(1)所有形態からいうと法人資本主義の次に来るものは何なのかという事。日本では企業の自社株保有が認められていないがバブルの崩壊を機にこれを部分的に解除する動きがみられる。アメリカでは、企業の乗っ取り、買収が日常化しており、企業が買収に対抗して自社株を所有するケースが多いという。このような企業をどのように規定すればいいのか。
日本では、敗戦に伴う、財閥解体の結果①企業が安定株主対策として②系列化として③資本市場での資金調達の手段として企業が相互に網の目のように株式を所有し合うという法人資本主義といわれる所有形態を形成してきた。ここからは、経済学を専門とする人に教えてほしいと思っているが、このような所有形態を消極的には、オーナー的な、排他的な私的所有に対立する所有形態があると一応は規定しうる。では積極的にどのように規定しうるのか。また、法人資本主義の次にやってくるものは何なのか。

(2)連合白書や労働白書は、21世紀へ向けて労働力不足を指摘している。構造的な人手不足にまといつかれた資本主義とは何なのか。また、現在の資本の人口「法則」とは何なのか。さらに、家族の形態の変遷がなぜ生じるのか。労働力供給面で高度成長を支えた、農地改革の意義など、様々な根本的な問題がある。
今後予測される労働力不足に対して、もちろんそれ以外の対応策は可能であるが想定されるケースとして①女性の労働力化率を更に高めること②高齢者の労働化率を更に高めること③外国人雇用の拡大という事になる。これらは、いづれも社会の改革を伴い、また、もたらすものである。例えば、女性の労働力化率を高めるためには、男が会社人間であることをやめ、同時に時短を促進し、休暇、休業、さらに保育所や教育条件の整備、税制や年金制度の改革、生活の分担を含めたイデオロギーや習慣の改革抜きには、1.53という出生率が更に低下するという結果となり、高齢社会問題をより深刻にする。ちなみに、女性の労働力化率の高まりと出生率の低下、高齢化問題をテコに、日本の現在の人口動態とスウェーデンの歴史的経験をふまえ、「共同的生活手段」の比重の高まりから国民の税負担率の変化と分権化への流れを後づけようとする岡沢憲芙の構想は、日本の近未来(岡沢は、現在の日本が、スウェーデンの30年前の状況と類似していると断じる)を描くものとしておもしろいし、参考になる。彼の主張を踏まえれば、高齢者福祉計画や育児休業法、パート労働法など厚生省や労働省が大衆の風圧を受けながら、従来の政策の大転換を政府内におけるクーデターに近い形で進めざるをえない理由がよく解る。また、消費税導入の勝利者は厚生省であった。岩波新書で「スウェーデンの挑戦」が出版されている。また、「自治労通信」という組合の機関誌に「高齢化の時代における豊かさの政治選択」という講演録がある。一読を薦めたい。
女性の社会参加(経済的視点からすれば、労働力の価値分割)と出産率の低下、高齢化社会に伴う、核家族の解体と新たな家族形態の再生のドラマ。この過程で、生涯労働時間の短縮と多様で質の高い「共同的生活手段」の役割・比重が高まらざるを得ないこと。そして、この事が、国民の税負担を高め、税についての意識を変え、そして、分権化を促進するという論点は、非常におもしろい。確かに、「共同的生活手段」の欠除、未整備による社会的不安に対して貯金で対応せざるを得ない社会が豊かであるとはとてもいえない。唯、税の問題に限定すれば、日本の企業の実態からすれば配当と税を含めた実質的な負担率の強化が行われなければならない。現状で言うと、法人資本主義とは、企業がオールマイティーの社会だ。税制を含めた、企業に対する社会的規制の強化は必ず必要だ。
労働力不足は、もう一つ別の論点を提起する。それは、労働市場の逼迫による労働組合機能の高まり、これを通じた法人資本主義への労働組合(労働者団体)による規制という論点である。この点は労働組合運動の展望、未来にかかわる部分でもあるが、書くと長くなるのでおいておく。
(3)第3は、経済のサービス化という問題だ。これについては、より厳密な経済学的な規定が必要だ。端的にいって、マルクスが資本論の中で対象としたのは、まず、人間の物質的実存諸条件の生産、すなわち、物質的生産であり、これに照応する剰余価値(利潤?)を生み出す生産的労働である。従って、経済のサービス化という問題を積極的に展開する場合、少なくとも、物質的生産に対立する非物質的生産として、そして、不生産的労働を含み、精神的労働をも含むものとして展開されなければならないと考える。もちろん、非物質的労働と不生産的労働と精神的労働とサービス労働は、概念や対象をイコールの関係で結ぶことはできないから、この関係の整理が先だ。そして、この構想の中には、マルクスの経済学批判の体系がそうであったように、国家を含む、但し、上部構造としての、すなわち国家としての国家ではなく、生産過程に含まれる国家である。すなわち、市民社会の総括としての国家である。
ここでは、このようなややこしい問題を言いたいのではない。従って、逆に、消極的に問題を立ててみる。経済のサービス化という現象を一応、非物質的富の生産の拡大と規定するとサービス業に従事する就業人口が6割を超えるという現象は、少なくとも、物質的な富の生産に従事する就業者、労働者の割合が低下しているという事。すなわち、物質的富の生産力が飛躍的に高まっている事を意味する。これは、どこまで高まりうるのか、また、この現象がどのような意味を持つのか。
この問題については、吉本隆明が「ハイ・イメージ論」の中で、高度情報化革命(エレクトロニクス技術革命)の生産への適用とそこで得られる可能性について語っている。
ここで得られるイメージは、鉄腕アトムで育った私達の世代には別に難しい話ではなくて、又、これが意味ある事かどうかも別にして、可能性としては、社会の全ての生産工程をコンピューターシステムで制御することが可能だという事である。すなわち、物質的富の生産力を無限に高め、又、この生産に従事する労働力を無限に小さくする可能性をもったという事だ。これが何を意味するのか。
(4)この問題に直接的に関連するが、労働時間の短縮と自由時間の拡大である。現在、日本は年間1800労働時間をめざしているが、ドイツやフランスでは1500時間から1600時間台である。これがどこまで短縮可能なのか。1500時間台になれば、ほぼ、週休3日制に相当し、生涯を83年とし、定年を60才として、18才以降、睡眠時間を除く全生活時間に占める労働拘束時間の割合は、2割程度になる。これをどこまで短縮しえるのか。又、この事の意味は何なのか。

<現在についての若干の注解>
このようなイメージを結ぶ現在をどのように把えればいいのか。このような現在を認識する方法や構想、思考が存在するのかがテーマである。
このイメージを抽象化し、簡単にいうと諸個人の自立の可能性が飛躍的に高まったということ。同時に、人間が人間を支配することが困難な地点に到達したということだ。このことは、ここでいう支配が被支配者にとって無自覚だという含意を超えている。なぜなら一般的にいえば、常に支配とは、被支配者の無自覚な、あるいは自覚的な同意なしには成立しない。これは、対立を含む相互関係であるにすぎないから。
ここで、2つの問題について注を入れる。第1に、私は、現在の否定面、より正確にいえば、現在の対立のもう一つ逆の側面を意識的に描いていない。だから、私のイメージは一面的であり、楽観的なものにすぎないという点に対してである。
例えば、現在の日本の生活が環境問題や「会社人間」等々「貧しく」みえるのは、現在の「豊かさ」に到達しなければ不可能だということ。一つの原理は、それをとことん行かさなければ(展開されつくさなければ)その限界が明らかにならないという事。もう一つは、新しい現実が、過去のイデオロギーとの関連において、そして人間の思考とはすべからくこのようなイデオロギーにまといつかれているのだが、このイデオロギーとの関連において困難に見えるという事。そして私の主張からいえば、このイデオロギーの組み替えと新しいイデオロギーの創出がまさに現在の一つの課題であるということになる。また、これと類似することだが、一つの現象だけを把え、現実の全体、主要な傾向を否定する事をしたくないために。必要な事は、このような現象を現象として全体の中に位置づけることにある。同じ事だが現実の具体的な形態を、思考において再構築することが課題であるのに、これを抽象的な一般に還元し、この抽象的なものを再確認するだけで満足し、思考において一歩も前進しないこと。このような思考に不満なのだ。
第2の注は、これは、イデオロギーや政治過程という上部構造にかかわる課題について表現した方が正確と思うが、日本の場合、変革の課題が、二重、三重に重層的にそして同時に出現していることである。これを原理的にいえば、ブルジョア民主主義の徹底の課題と「社会主義段階の課題」、そして、狭義の共産主義段階の課題が、同時的に、重層的にそして相互に関連しあって出現しているということである。こんな表現が古いかどうか、あるいは、有効か無効か解らないが、旧来の方法でもって、現在の日本の革命戦略を規定すれば、ブルジョア民主主義の徹底の課題を部分的に含み、社会主義的任務を負う、狭義の共産主義革命ということになる。
どういうことか。政治の領域では、1票の投票価値の平等を求める課題。この1票の格差が米価と公共事業を通じて地方の都市に対する「独裁」を可能としてきた。この「独裁」とは、あくまでヒユ的なものだ。また、この都市と農村(地方)というテーマに触れるとなぜ、都市の賃労働者、サラリーマンが、自立しないかというテーマになるが、この点については、プロレタリアートは、3代を経て一人前になるという学生時代に何かの講演で聞いた話があたっていると思う。ほぼ団塊の世代の子供達からプロレタリアートの三代目が始まっている。ついでにいっておくと、プロレタリアートとは、経済的には賃労働者という規定でいい。これを例えば、工場労働者といった具合に特定に生産、労働の形態と結びつける必要はない。
この1票の投票価値の平等を求める課題と現在主要なテーマだといわれる政権交替をめぐる課題と分権化やPKOといった課題は、レベル、準位、原理が違う。また、イデオロギーの領域についても、エコロジーやフェミニズムとノーマライゼーションでは、その準位や原理が違っている。ひつこいようだが、これらの対象課題や対象領域が違っているということを指摘しているのではない。

<マルクスの唯物史観>
マルクスの思考を媒介にして現在についてのオピニオン展開するという限り、マルクスの思考、より限定すれば、マルクスの唯物史観=歴史の「学」の構想がどのようなものかを明らかにしなければならない。
マルクスは、歴史を諸個人の生活の生産過程として総体把握する。そして、これは「物質的生活の生産過程」「政治的生活の生産過程」と「精神的生活の生産過程」に分割される。マルクスは、歴史と社会を三軸で把える。これに照応するのが、階級闘争の三形態、経済闘争、政治闘争、イデオロギー闘争となる。しかし、この3つの生産過程はこれまで考えられてきたようにピラミッド型に土台があり、上部構造があり、社会的意識形態があるというように3つの社会、あるいは3つの別々の領域があるというのではなく、この3つの生産過程が3層あるいは3重に相重なる関係にあり、領域を画された別々の領域、社会があるというのではない。
例えば、イデオロギー的生産過程の対象領域は全世界である。しかし、イデオロギー(社会的意識)の生産過程は、独自の様式をもっている。端的にいえば、記号=言語を生み出し、これに媒介されるのである。
マルクスがドイツイデオロギーの中でいっているように、「意識は生まれながら物質--この場合は運動する空気層、音、要するに言語の形式であらわされるのであるが--につきまとわれるという呪いがかかっている」「言語は、意識と同じだけ古い。言語とは、実践的な、現実的な意識である。」「諸観念、諸表象、意識の生産は--ある民族の政治・法・道徳、宗教・形而上学などの言語で語られうる精神的生活の生産に関しても同じことがあてはまる。」
精神的生活、あるいは、社会的意識の生産過程、生産様式は、脳の産物、属性だというだけでは不十分なのだ。言語を生み出し、媒介されるという関係が不可欠なのだ。いわば、構造主義は、この欠陥を突いたのだ。大脳生理学だけで人間の精神生活の生産様式は解けない。解りやすいイメージを得るために、コンピュータとの対比でいえば、システムとプログラムと入力項目が必要なのだ。従って「反映論」というが、この反映の関係と、その様式は結構「複雑」なのだ。しかも、人間の精神的生活の生産過程においては、言語を生み出すのみならず、イデオロギーを生み出し、学的な認識形態等々をも生み出す。そして、これが、人間の意識を通じて形成され、これが流通するのだが、個々人の意識からは独立して形成される。諸個人からみれば、これは所与なのだ。コンピュータとの対比でいえば、プログラムやシステムのようなものだ。赤ちゃんは生まれながら言語やイデオロギーを受容する能力をもって生まれてこない。但し、言語やイデオロギーをもって、フォイエルバッハ的にいえば、自己を二重化する能力をもって生まれてくる。
同時にもう一つ言っておかなければならないことは、ここから唯物論がはじまるのだが、精神的生活の対象はあくまでも、精神的生活の生産物であり、現実ではないのだ。現実との関係は、媒介関係になる。従って、現実を生み出すことはできないのだ。もっといえば精神的生活の生産はその本質において受動的なのだ。すなわち、その最も主体的・実践的・生産的な形態において受動的なのだ。
これは、精神的生産物である「理論」が、あるいは、「学」が、未来を予測しうるか否かという問題とは別だ。この場合、理論が現実の運動を反映しているから未来と合致しうる可能性をもつのであり、その逆ではない。
確かに、革命には、意識の革命が先行する。意識革命なしには、現実の革命は起こり得ない。しかし、この意識の革命、イデオロギーの変革は現実的な根拠をもって遂行されるのだ。
総じていえば、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的な生産諸過程一般を制約する」ということになる。
このような、マルクスの構想を前提とした上で、現在につながるマルクスの思考が存在するか否かが問題となる。

<現在の経済過程の到達点>
現在の経済過程・物質的生活の生産過程(そして、この生産過程に照応する生産関係の総体こそ経済的構造からみた社会であり、これが、下部構造であり、土台である)、この生産過程の到達点を一言で表現すれば、国際化、サービス化、高度情報化(マイクロエレクトロニクス技術革命を含めて)と一応は規定しうる。もちろん、現在の経済過程の到達点の様々な現象をこれに対応するコンセプトで無限に結びつけることは可能である。その意味で、この一応の規定が十分な規定であるとはいえない。
このような現在の経済過程の到達点を解く鍵は存在するのか。これが問いである。
もちろん、マルクスは、現在の経済過程の到達点を知らなかった。しかし、マルクスの思考の中に、現在に到る、あるいは、現在につながる、また現在をこえる思考は存在するし、また、その言明もある。
唯、マルクスは、これを学的な形式において証明しなかったと思う。このような言い方が正しいのか、私には、解らないが、マルクスが獲得した資本の概念の延長あるいは自己展開の中に、現在に到る言明は存在する。
そしてこの直接的な言明は、私の知る限り、少なくとも4つある。
第1は、経済学批判要綱である。このうち、引用するのは、「固定資本と社会の生産諸力の発展」の中の1節。
第2は、資本論、この内、引用するのは第3巻第48章、「三位一体的定式」の一部分。
第3は、ゴーダ綱領の第1章第3節の評注の部分である。
第4は、剰余価値学説史である。この中の第4章「生産的及び不生産的労働に関する諸学説」と第21章「経済学者に対する反対論(リカードの理論を基礎とする)」が重要である。この第4章をふまえ、サービス労働論を書きたいと思っている。これは、マルクスが、資本論の主要な対象とした物質的生活の生産に対立する非物質的生活の生産に対応した精神労働をも含むものとして構想したい。この中には、経済過程からみて、あるいは、この過程に照応する国家も含まれる。但し、吉本隆明がいう「幻想的共同体」としての国家、すなわち、国家としての国家は含まない。これは、対象領域が違うはずであり、政治的生活の生産過程として取り扱われなければならないはずだ。
しかし、現在の状況に到る構想としては、既にアリストテレスが、2000年以上も前に指摘していることがある。
「管理者が部下を必要とせず、主人が奴隷を必要としないことを想定しうるただ一つの状態がある。この状態とは、『命のない道具』が、命令の言葉ひとつで、あるいは、自ら状況を判断して作業する場合である。」(アリストテレス「政治学」)
また、このような経済過程の到達点については、アメリカのマルクス主義者達が強調していた点でもある。むしろ、私の感心なり、疑問は経済過程の到達点においては非常に近い、というのは、1960年代には、既にスウェーデンとスイスが国民1人当たりのGNPでアメリカを追い越していた。このように生産の到達点において、世界の最先端を走っていたアメリカと北欧諸国において、イデオロギーや国家、社会のあり方になぜこれ程大きな違いがあるのかという点にこそ感心がある。アメリカは偉大ではあるが、同時に十分恐ろしい国家であり、社会だ。問題が大きくそれるが、第1は、冷戦に伴う国家のあり方である。第2は経済的富の大きな部分が軍事力に費やされたという事。第3は、これとは対立をなす、社会保障や福祉など、「共同的生活手段」に対する国家のあり方と関与の相違、国家のウェートが少さく、同時に、国家が非常に非効率であるということ。第4は、これとも関連するが、国家が、恐ろしいこと。国家が過剰にイデオロギー的であったということ。社会主義国家も恐ろしいが、アメリカという国家も十分に特異なイデオロギーを国民に強制した。(但し、国民が一方的に強制された、という事ではなく、国民も自覚的、あるいは無自覚的にこれを支持した。)「自由と民主主義」というイデオロギーは、他国も、アメリカと同じようにあるべきだという事で、他国への主権の侵害、軍事による介入、侵略を合理化してきたし、(アメリカでは外務省のことを国務省と呼ぶ)また国家と諸個人、あるいは、諸個人相互の関係においては、個人主義というより、能力主義、競争主義、差別的ですらある。イメージとしていえば、アメリカが生まれたばかりの開拓史の時代の、独立自営農民の当時の自由と民主主義、すなわちブルジョアイデオロギーが生のままで存在しているキツイ社会というイメージとなる。
また、アメリカのラジカルエコノミストがアファマティブアクション(差別克服のための積極的活動)(累種的差別に対する特別措置:吉村励)というイデオロギを生み出したがこれとアメリカの能力主義、競争主義が接合しない。外的な強制というイメージが得られる。諸個人の自立を支援するというイメージにつながらない。個人の人格を傷つける、抑制するというイメージが強い。この事は、アファマティブアクションが、有効か無効か、また、必要か、不必要かということを争点にしていない。積極的にいえば、アファマティブアクションをも包括しうるノーマライゼーションこそが、より適合的だということだ。

<マルクスの構想の読解>
以下、マルクスの三つの文章からの引用と若干の注釈を記して、中途半端なオピニオンを終えることとする。
この引用文から読み取りたいと思っているのは、マルクスが、経済過程=生産様式に限定しての話だが、しかも経済学批判という学の構想において、資本制総体の克服すなわち、資本の自己否定をどのように構想していたのかという点だ。端的にいうとこの三つの引用文章の中では、これをつなぐと「交換価値に基づく生産様式の崩壊」=(価値法則の死滅)=「自由の王国」=「それ自身の土台のうえに発達した共産主義社会」という関係になる。
そして、このような転換を可能とする基礎について、「生産が万人の富の生産を目的にしたものであるにもかかわらず、富の尺度が、労働時間ではなく、万人が自由に処分できる時間になる程、科学が直接的に生産に転化する程、生産が発展した段階」(要綱)と特徴づけている。また、同じように、労働時間の短縮、自由時間の拡大とこれの結果として「個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、精神労働と肉体労働の対立がなくなった後、労働そのものが、第一の生活要求になった後」というような特徴付けも与えている。また、要綱の別の箇所では、この段階の諸個人と社会関係について「諸個人の普遍的な発展のうえにきづかれた、また、諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることの上にきづかれた自由な個体性」と規定している。これは、共産党宣言の「各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件であるような一つの共同社会」という構想に直結するものである。
私個人についていえば、このような構想をマルクスの経済学批判の全体との関連において再構成したいと思っている。第2は、このマルクスの構想と現在の経済過程の到達点は、その現象において、非常に接近している。端的にいえば、まるで、マルクスの学の構想、予測が的中したかのようだ。このことに伴う重大な保留があるが、ここではふれない。従って、第1で述べたマルクスの経済学批判の体系を含め、あるいは、媒介にして、現在の経済過程の到達点を把握したい。また、これが、政治的生活の生産過程や精神的生活の生産過程、これは、イデオロギーや思想、理論といったもののみならず、人間の思考の様式や形態も含めてどのような変革をもたらし、また、もたらしているのかを把えたい。これは、証明も根拠もなしにいうのだが、弁証法が意味をなさなくなるのではないかとひそかに思っている。このことをライフワークにしてとことん考え抜きたいと思っている。
第4に、しかし、同時に、こんな事は大したことではないとも思っている。なぜか。簡単な話だが、たとえばマルクスの構想あるいは学が、上部構造やイデオロギー諸形態を含めた資本制総体の発生から死滅への過程をそして、現在をも思考において再構築、認識する可能性をもつという事は、大したものだ。マルクスの思考が、資本制総体の発生から死滅までを再構成しうる。すなわち、思考において、現実をわがものとしうる可能性をもつという事は偉大なことだ。これは、単に、書かれたものの帰結、結論や予測がどうであるかということのみならず、書かれたものすなわち書物の中には、潜在的にマルクスの思考のスタイルや構想が生きているということも含めて。そしてこれは、お化けのように場所と機会があればいつでも蘇ってくる。思考とはすべからくそういったものだ。
ただ、しかし、マルクスの構想や思考が如何に生産的であっても、思考にすぎないという本質的な限界を越えることはできない。どういうことか。簡単なことだが、マルクスの思考が、現実、資本を創造したのではないということだ。従って、また、資本制の否定、止揚は、反マルクスや、非マルクスといった政治やイデオロギーによって遂行される可能性があるし、その可能性の方が、多分に高いのだ。例えば、ノーマライゼーションやフェミニズム・エコロジーといったイデオロギーは、たぶん、というのは、誰がはじめに言い出したのか知らないからだが、マルクスの思考とは直接的にも間接的にも関係なしに、生まれてきたのだろう。こんなことについて、マルクスが言ったとかいわなかったというセンサクは、無意味だ。
第5の問題は、だが、しかし、反マルクスや非マルクスを掲げる思考が、結果的にマルクスの思考や構想に依拠しながら、あるいは、経済現象の一部分を拡大し、強調し、これをマルクスの全体に対置することによって、マルクスの思考に意味がないとする程度の批判が多い事も事実だ。しかし、こんなことによっては、マルクスの思考は死なないのだ。
例えば、経済学の領域に限っても、レオンチェフの「産業関連表」 バーリーとミーンズの所有と経営の分離 「経営者革命論」、国家の経済過程への介入の拡大を主張したケインズ、 「独占理論」等々。このような調子でかけば、福祉国家論、共同的生活手段の拡大、サービス経済論、高齢化問題と現在の人口法則、高度情報化社会論、コンピュータ論、「環境問題」などによって、マルクス批判はいくらでも書くことができるが、新しい、経済的現象をマルクスの思考に対置することによっては、マルクスの思考は死なない。
第6は、従って、正確にいうとマルクスの思考、もちろん、マルクスの思考だけではなくすべての思考についてもそうだが、思考の克服なり、否定をいう限り、マルクスの思考を正当に評価し、これを正当に処遇するすなわち、理解し、消費しつくし、止揚するという方法以外にはないのだ。大変な作業だ。これが、思考をするという事だ。思考の価値、意義と限界をふまえ、やりたい人間がこれをやればいいのだ。もう1つ大切なことは、こういった思考に関する限り、これは他の誰の問題、責任でもなく個人が生活の他の領域においてもその言動と行動に責任をもたなければならないのと同様に、思考する個人の責任である。資本制は、この程度には「進歩的」なのだ。
また、思考の生産性という事でいえば、対立する思考、例えば、反マルクスの思考からは相手の思考が自己の鏡となり、たくさんの事を学びうるのだ。
第7に、本質において個人の思考、思想的な課題が、過去においてそうであったように、これが、イデオロギーとして、自立し、これが、真理を所有する党として自立し、国家と結託するというようなアホなことがあってはならない。現在においては、その可能性はないし、こういった思考は殺さなければならない。
真理を所有する党というのは、真理が多数決で決まるという事と同程度におかしい。無意味だ。このような思考は、気持ちが悪いし、グロテスクだ。
こういった前衛主義、啓蒙主義が生み出す帰結は、不毛であり、無効だ。
マルクスの精神労働と肉体労働の対立がなくなるという構想からしても、また、大衆の自立の時代が急速に出現しつつある現在において前衛主義は無効なのだ。

<生産過程からみた共産主義の特徴付け>
マルクスからの引用は以下の通り。
①第一は、経済学批判要綱の「固定資本と社会の生産諸力の発展」というタイトルの中の一節である。唯、手元に、要綱の全訳をもっていない。これは今年の3月18日に大月書店からメガ第2部、資本論草稿集2として経済学批判要綱の第2分冊が出版される予定で、その中にある。現在手元にあるのは、都留重人の訳文と高木幸二郎訳の部分引用のみであり、正確かどうか解らない部分もある。
「生きた労働と対象化された労働との交換すなわち社会的労働を資本と賃労働の対立という形態に置くという事は価値関係と価値に基づく生産の最後の発展である。この生産の前提条件は、直接的な労働時間の分量、充当された労働の量であり、なおかつそうである」(資本の抽象的な規定、後の資本論からの引用では、この部分が少し長くなる。)
「だが、大工業が発展すればするほど、現実的な富の創造は、労働時間と消費された労働の量よりも、労働時間中に動員される諸作用因(機具類)の力に大きく依存するようになる。そして、これらの強力な諸作用因(機具類)の有効性は、それを生産するのに必要な直接的な労働時間と比例的な関係にはない。その有効性はむしろ科学と技術進歩の到達した水準に依存する。言い換えれば、当該科学の生産への応用に依存するのである。このような変換の中においては、生産と富の大黒柱(生産過程の主作用因)はもはや人間自身によってなされる直接的労働でも労働時間でもなく、かれら自身が身につけた全般的生産性、即ち、かれの知識とかれの社会的存在を通じて獲得された自然の支配である。一言でいえば社会的個人の発展である」「直接的な形態での人間の労働が富の偉大な源泉であることを止めるや否や労働時間は富の偉大な尺度であることをやめるであろうし必然的に止めざるをえない。また、そうなると交換価値は、必然的に使用価値の尺度であることを止めざるをえない。」「大衆の剰余労働は、一般的富の発展のための条件ではなくなっており、同時に小数者の非労働も人間の頭脳の一般的力の発展のための条件ではなくなっている。・・・・・諸個性の自由な発展、したがって剰余労働を生み出すための必要労働時間の短縮ではなくて、そもそも社会の(諸個人の生活に必要な物質的実在諸条件の生産に必要な)必要労働時間を最小限へ引き下げること。これが、全ての諸個人に充てられる時間とつくり出された諸手段による諸個人の芸術的、科学的などなどの教養に対応するのである」「・・・・交換価値に基づく生産様式は崩壊する」
②これに、照応する資本論の一節は、資本論第3巻第7編第48章三位一体的定式の中にある。先ほど述べたように、この引用では、資本の抽象的な規定が長くなっている問題は後段である。
「すでにみたように、資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この後者(社会的生産過程)は社会の成員の人間生活一般の物質的実存諸条件の生産過程であると同時に、また、独自な歴史的=経済的な生産諸関係において行われる。この生産諸関係そのものを---従ってこの過程の担い手たちを、彼らの物質的実存諸条件と彼らの相互の諸関係とを、すなわち彼らの一定の経済的社会形態を---生産し、再生産する一過程でもある。というのは、この生産の担い手たちがそこにおいて自然と結び相互に結び合うこれらの関連の全体、彼らがそこにおいて生産するこれらの関連の全体、この全体こそ、経済的構造から見ての社会だからである。資本主義的生産過程は、それに先行する生産過程と同様に一定の物質的諸条件の下で行われる。ただし、これらの諸条件は、同時に諸個人が生活の再生産過程で取り結ぶ一定の社会的諸関係の担い手でもある。これらの(一定の物質的)諸条件は、この(一定の社会的)諸関係と同じく資本主義的生産過程過程一方では前提であり、他方では結果であり創造物である。それらは、資本主義的生産過程によって生産され、再生産される。さらに、すでにみたように、資本は--そして資本家は、人格化された資本にほかならず、生産過程では資本の担い手として機能するだけである。従って、資本は、それ(資本)に照応する社会的生産過程において直接的生産者たち、または労働者たちから一定分量の剰余労働をくみ出すのであり、この剰余労働は、資本が等価物なしで受け取るものであり、いかに、それが、自由な契約による合意の結果として現れようとも、その本質からみれば、依然としてやはり、強制労働である。
この剰余労働は、一つの剰余価値のうちに現れ、この剰余価値は一つの剰余生産物のうちに実存する。」(これに続く文章が、核心的な部分である)「剰余労働一般は、所与の欲求の程度をこえる労働として、つねに実存し続けなければならない。<しかし>剰余労働は、資本主義制度においては、奴隷制などと同じように、ただ敵対的形態をとるほかなく社会の一部分のまったくの無為によって補足される。一定分量の剰余労働は、不慮の出来事に対する保険のために必要であり、諸欲求の発達と人口の増加とに照応する再生産過程の必然的な累進的な拡張---この拡張は、資本主義的立場からは蓄積と呼ばれるものである---のために必要である。資本が、この剰余労働を奴隷制・農奴制などの以前の諸形態のもとでよりも生産諸力の発展にとって、社会的諸関係の発展にとって、またより高度の新たな社会形態のための諸要素の創造にとって、いっそう有利な様式と諸条件とのもとで強制するという事は、資本の文明化的側面の一つである。こうして資本は、一方では、社会の一部分による他の部分を犠牲にしての、強制と社会的発展(その物質的、および知的諸利益を含む)の独占化とがみられなくなる一段階をもたらす。他方では、この段階は、社会のいっそう高度な一形態において、この剰余労働を物質的労働一般にあてられる生産一般(時間)の大きな縮小と結びつけることを可能にする諸関係のための物質的諸手段およびその萌芽をつくり出す。というのは、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいで総労働日が小さくても大でありうるし、総労働日が大きくても相対的に小でありうるからである。もし、必要労働時間が3時間で剰余労働が3時間ならば総労働日は6時間で剰余労働の率は100%である。必要労働が9時間で剰余労働が3時間ならば総労働日は12時間で剰余労働の率はわずかに33、1/3%である。しかし、次に、一定の時間に、従ってまた一定の剰余労働時間にどれだけの使用価値が生産されるかは労働の生産性に依存する。したがって、社会の現実的富と社会の再生産過程の恒常的な拡大の可能性とは剰余労働の長さに依存するのではなく剰余労働の生産性、および、剰余労働が行われる生産諸条件の多産性の大小に依存する。自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところではじめて始まる。従って、それは当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも全ての社会諸形態において、ありうべき全ての生産諸様式のもとで彼(人)はそうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに諸欲求が拡大するため自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時にこの諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由はただ、社会化された人間、結合された生産者たちが自分達と自然との物質代謝によって---盲目的な支配力としてのそれによって---支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分達の共同の管理のもとにおくこと。すなわち、最小の力の支出で自らの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行うこと、この点だけにありうる。しかし、それでもこれはまだ、(自然的)必然性の王国である。」
マルクスの主張を解りやすくするため、物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的諸過程を制約するという含意でイデオロギーとの照応関係からみるとこの生産過程の段階(社会主義)の規定は、エコロジーやフェミニズムの思想の領域の大部分を包括しうると考える。また、構造主義や物象化論という「説明概念」という規定を与えれば、ややひどいが、「哲学」というにはやや陳腐なもの射程をも対象領域に収めうると考えている。どういう事か。問題の焦点は、人間の対象化の到達点としての高度情報化とこの技術的骨格をなすコンピュータにある。その核心は、人間の脳はオンラインではないが、コンピュータはオンラインである。すなわち、世界が結びつき、連がる可能性をもったということ。
人間を含む自然は、類が直接的に個体であるという存在形式はない。すなわち、特殊は普遍、個別は類であるという命題で表される存在形式以外にはありえない。従って、人間は、精神的生活の生産過程、対象化においては言語を必要とし、これを外化し、これが構造として自立し、逆立するという疎外関係に立つ。この疎外関係は、物質的生活の生産過程(貨幣や資本)も、政治的生活の生産過程(法や国家)も同様の構造をもっている。この疎外関係は、人間的永遠であり、あっさりいってしまえば、この形態が歴史的に、あるいは歴史として発展するだけだ。しかし、コンピュータは、この疎外関係に終止符を打たないまでも、根本的な変様をもたらすものではないか。もちろん、コンピュータによって、個人と個人の脳がオンラインになるわけではない。
マルクスの引用を続ける。
「この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が---といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが---始まる。労働日の短縮が土台である。」
イデオロギーとの関連でいえば、ノーマライゼーション。そしてもっとも包括的なイデオロギーの規定でいえば、吉本隆明の「重層的な非決定」という概念が適合する段階であると考えられる。また、この段階において精神労働と肉体労働の対立が止揚される。
これは、吉本隆明に聞かなければ解らないが、「重層的非決定」が、共産主義のイデオロギーのもっとも包括的な規定だといえば、吉本隆明はなんというであろうか。これは、私個人に関していえば、冗談ではなく本心から問い質したいと思っている。これは、鷲田小彌太が強く主張する事だが、吉本の思考は、マルクスの思考とスッポリと重なり合うものである。また、鷲田小彌太は、正確なマルクスの思考の解説者だ。ただ一言だけいえば、鷲田が三一書房から出版した「いま社会主義を考える・資本主義の臨界点としての社会主義」という規定は不充分だ。やはり、「資本主義の臨界点としての共産主義」というタイトルの方が正確だ。
ついでに言ってしまうと、対象領域は違うが、同様の思考を展開している思考者がいる。法人資本主義とその超克をテーマにしている奥村宏、マルクスの経済学批判要綱をテコに自由時間論でもって現在を解こうとしている内田弘、そして反マルクス(主義)を掲げ、技術論だと自己限定しているが、実は、<マルクスの思考>と非常に近いところで現在に肉薄している飯尾要などがいる。構造主義は、構造を閉じ、固定してしまう。一言でいえば、ダイナミズムがないのだ。
③そして、最後は、これらに照応するのが、ゴーダ綱領批判の文章である。全文は長いので必要と思われる部分を引用する。
「公正な分配とは何か。・・・・経済関係が法律概念によって規制されるのか。それとも反対に、法律関係が経済関係から発生するのではないのか」「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では生産者は、その生産物を交換しない。同様にここでは生産物に費やされた労働が、この生産物の価値としてすなわち、その生産物の有する物的特性としてあらわれることもない。なぜなら、いまでは、資本主義社会とはちがって、ここの労働は、もはや間接にではなく直接に、総労働の構成部分として存在しているからである。」
(誰か、経済学を学んでいる人は、クレジットカードをどのように規定しうるのか教えてほしい。また、コンピュータ論、高度情報化論を疎外や物象化の克服、止揚との関連において展開することができないのか教えてほしいと思っている。)
「ここで問題にしているのは、それ自身の土台のうえに発展した共産主義社会ではなく、反対にいまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがってこの共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも、精神的にも、それが生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、彼が社会に与えたのと正確に同じものだけを---控除を行った上で---かえしてもらう。彼が社会に与えたものは彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は社会的労働日のうちの彼の持分である。・・・・
ここではあきらかに、商品交換が等価の交換である限り、この交換を規制する同じ原則が支配している。内容と形式は変わっている。・・・しかし、個人的消費資料が個々の生産者に分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい量の労働と交換されるのである。それゆえ、平等な権利は、ここではまだやはり、ブルジョア的権利である。もっともここではもう原則と実際とが衝突することはないが。ところが、商品交換のもとでの等価物の交換は平均として存在するだけで一つ一つの場合には存在しないのである。
このような進歩があるにもかかわらず、この平等な権利はまだつねにブルジョア的な制限につきまとわれている。生産者の権利は彼の労働給付に比例する。平等は、ひとしい尺度で、すなわち、労働で測定される点にある。・・・・この平等な権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である。誰でも他の人と同じく労働者であるにすぎないから、この権利は何ら階級差別をも認めない。しかし、それは不平等な個人の天分と、したがってまた不平等な給付能力をうまれながらの特権として暗黙のうちに承認している。だからそれは、内容からいえば、すべての権利と同じように不平等の権利である。権利は、その性質上、ひとしい尺度をつかうばあいにだけなりたちうる。しかるに、不平等な諸個人(そしてもし不平等でなかったら別々の個人ではなかったろう)をひとしい尺度ではかることのできるのは、ただ彼らをひとしい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをみるかぎりである。たとえば、この場合には人々はただ労働者としてだけ観察され、彼らのそれ以外の点は認められず、ほかのことはいっさい無視される。
・・・・すべてこういう欠陥をさけるためには、権利は平等ではなく不平等でなければならないだろう。(マルクスのこの言い方を引きのばせば、この時、権利という概念はなくなるであろう)
しかし、こうした欠陥は、長い苦しみの後にうまれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない。権利は、社会的構成および、それによって制約される文化の発展よりも高度にあることは、けっしてできない。
共産主義社会のより高度の段階において、すなわち、個人が、分業に奴隷的な従属をすることがなくなり、それとともに、精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、(前衛と大衆、知識と労働という対立、分業が意味をなさなくなったのち)労働がたんに生活の手段たるのみならず、労働そのものが第一の生活欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって生産力も増大し、協同社会的富のあらゆる泉がいっそうゆたかにわきでるようになったのち(資本論の中の、自由の王国は本来の物質的生産の領域の彼岸にあると同義だ)---そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界を完全にふみこえることができ、社会は、その旗のうえにこう書くことができる。---各人はその能力に応じて、各人には、その必要に応じて」 この段階に適合的なイデオロギーがノーマライゼーションであり、より包括的なイデオロギーの規定が、吉本隆明の「重層的な非決定」である。そして、差別は死滅する。
そして、この段階の社会的諸関係の原理は何か。資本主義の段階の原理が、「物象的依存にもとづく人格的独立」平たくいえば、相互無関心=エゴイズム=相互利用の関係である。ただ、このエゴイズムも、あまり、私たちがイメージとして描くように、倫理的に否定的に把える必要はない。なぜなら、民主主義の原理は、このエゴイズムに支えられている。
民主主義論=国家論は別途に、上部構造論、そして、吉本隆明のいう「共同幻想論」としての展開が必要であるが民主主義=デモスクラフト=大衆の力=大衆の支配=大衆の国家をこの相互に無関心なエゴイスト達(大衆)の集合力=アトムズクラフトというイメージで展開した方が解りやすい。
この段階との対比において、マルクスは、自立した自由な社会的個性の相互豊饒化の社会関係として「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件」となるような社会的諸関係として特徴づけている。

一つだけ注を入れれば、マルクスが比喩的に「真に自由の王国」と表現しているが、これは、あくまでも比喩的なものだ。ここでいっているのは、本来の物質的生産の領域の彼岸に自由の王国がはじまるいう点ではなく、この点こそがマルクスの思想の核心だ。そこに到れば、全ての矛盾が解決する天国、あるいは、千年王国というイメージについてである。千年王国は存在しない。マルクスがいうように、「人間が立ち向かうのは、いつも自分が解決できる課題だけである」という唯物論についていっている。

<おわりに>
マルクスの文章を現在についての私のオピニオンに無理に結びつけたような文章になっている。しかも二重の意味で実証ではなくオピニオンにすぎない。もっとハードトレーニングを積み重ねて具体的な課題に絞り込んでが、または、マルクスの構想について、厳密に、そして解りやすい文章を書きたいと思っている。
しかし、現在を把えるには、ここにのべた構想以外には、ありえないと思い致している。
どういう事かというと、このオピニオンは同時に、問題意識としては、ここ数年間の思考としては、大きな影響を受けてきた鷲田小彌太と吉本隆明への批判を含意している。もちろん、部分的なものだ。マルクスにおいて、学的に展開されなかった、上部構造論(政治的生活の生産過程と精神的生活の生産過程)は、ソシュールの言語理論とヘーゲルと吉本隆明と若干の構造主義者を集めれば、その大部分を書きうるはずだ。ここにおいて、マルクスの唯物史観の構想は学的な形態において一応の骨格を整えうる可能性をもったということだ。この上部構造論の領域での全体的でもっとも包括的な思考者は、ヘーゲルと日本では吉本隆明だろう。さらに、吉本隆明は、現在を解くために、下部構造を含めたほぼ全領域での発言を続けている。しかし、そして、吉本隆明は常に明確に保留をつけているが、「マルクス伝」以来、一貫して、「経済的範疇」についてのマルクスの思考をせばめていると思える。この点に関しては、鷲田小彌太についても同じだ。私は、直接的には、鷲田小彌太の「現代思想論」や「吉本隆明論」を通して「重層的な非決定へ」の中にある「・・・
それは、先進資本主義国の賃労働者が週休3日制を超えたときからだと思います。そのとき、消費としての賃労働者と生産としての賃労働者とは、自己対立を媒介にして、・・・自分達を解放する方位を確定していく・・・」という文章を通して初めて吉本隆明の思考に近づいた。以来、「大状況論」「超西欧的まで」「ハイ・イメージ論」「マルクス伝」「マルクス紀行」などを読んだ。読むことと理解することは別だという批判を覚悟の上でこの文章を書いている。この中でも吉本隆明は、労働価値説にこだわり、(このこだわり自体は正当だ)、サービス経済化や高度情報化等についてマルクスの主要な考察、分析の射程外であったといっている。(これ自体も正当だ。端的にいうとマルクスは現在を知らなかったといっているにすぎないから)
しかし、現実の対象と思考の対象は別なのだ。つまり、吉本隆明が、これらの著作の中で展開した思考を「交換価値に基づく生産様式の崩壊」というマルクスの思考と近づけ、結びつけたとき、はじめて、マルクスの構想と吉本の思考が、その全体像において浮かびあがると考えている。これが、私の思考において得られる現在だ。

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日(前編)
【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日(後編)

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【座談会】総選挙後の情勢をどう考えるか

【座談会】総選挙後の情勢をどう考えるか   (匿名座談会第2弾)

☆.新党勢力‥・新たな保守の受け皿/☆政権交代の意味を考えてみるのも/☆新党の伸長をどう見るか☆選挙制度改革への態度について☆93宣言は効果があったか/☆新党が強調したこと☆政界再編と連合の役割☆社会党は再生可能か/☆共産党は蚊帳の外でいいのか☆団体献金の禁止と公費助成

歴史的結果を生みだした衆議院選挙を終えて、情勢は非自民政権の確立と、従来の保守革新の枠を越えて、新たな政治再編を急速に進もうとしている。
大阪府委員会は、7月25日にこうした問題について、議論を行った。

<新党勢力‥・新たな保守の受け皿>
0:まず最初に今回の総選挙の感想ということで皆さんのご意見をいただきたい。全体的な評価というところではどうだろうか。
A:宮沢は今国会で政治改革をやると、とりわけ選挙改革をやると言いきったが、中曽根らの長老の圧力の中で言うことが変ってきた。社会党の議席が前の消費税の関係で多いと言う関係があって、日本新党やさきがけ、新生党ができる前であれば自民党は敗北していただろう。そういう意味で「第2自民」としての新生党やさきがけの役割があったし、財界の支援もあったと見ておくべきだ。今回の選挙結果を見ると社会党だけが負けて新生党や日本新党などの第2自民が伸びた。選挙前からマスコミなども社会党バッシングに中軸をおいていたのではないか。社会党を伸びさせない、自民党への不満を吸収する受け皿作りをしたと理解すべきだろう。そういう意味では財界は自信を持っている。例え自民党が分裂しても全体的に見て安定的な保守勢力があればあえて自民党にこだわる必要はない。保守2大政党を展望したところに今の政権構想もあるのではないか。
逆に言えば、社会党がなぜあれほど負けたのかが問題だ。政治改革の議論に社会党がまともに乗ったことが良かったのか。選挙制度よりも定数是正や腐敗防止法等の改革を先にやるという共産党の議論はある程度正しかったのではないか。そこの議論を抜きにしていきなり連立政権構想ということで羽田派との連携とか社会党は一見情勢に機敏に対応しているようで実はぶれているだけのようにしか見えなかったのではないか。政治改革の議論はマスコミで騒がれている投票率を見てもわかるように、国民が主体的にかかわろうというテーマではなくて、ドラマを見ているように蚊帳の外からおもしろおかしく見ていると言うのが実態ではないか。政治改革や非自民政権などよりも不況の問題や福祉などの身近な政策を出していく方が良かったのかなと思う。マスコミの論調に躍らされてきたという社会党のスタンスがあったのではないか。
今後の政権構想を考える上で、社会党の支持層の中には、社会党の革新性に期待していたリベラルな部分があるので、その部分を捨ててまでもで安易に政権協議に乗るというよりも、もっと地に足のついた社会党内部の議論をきちんとやって、浮わつかず対応すべきだと思う。公明、民社は頑張ったが、民社はたちが悪いと思う。わずか15議席の党が社会党に向かって「左ミを切らなければ政権協議に乗らない」というのは失礼な話で、マスコミもそれをつかって社会党バッシングをやっている。そこは社会党の主体性をしっかり持って政権協議に乗っていくように言いたい。

<政権交代の意味を考えてみるのも>
T:自民党が政権をおりる可能性がある。この事態はいままでなかった事で、例えば、官僚との関係で、米価審議会など総て白紙だという事がいわれている。結局保守が勝ったといういい方があるが、自民党以外のところが政権を握るということになると、経済にたいして影響を与える可能性があり、やはりこれも一つの政権交代だとおもう。これがいいか悪いかはわからないが大きな変化という感じがしている。社会党が負けたということをどう考えるか。本来の支持者を大事にしていない、主張が曖昧だったという意見もわかるが、従来の社会党の護憲・PKOなどの主張が弱かったから負けたのかというところはよくわからない。それよりも自民党が下野せざるを得ない状況というのはもっと大きな影響があるのではないか。そこから、政権が変るということで経済についても今までと違った対応が出てくるのではないか。その意味では変ったほうがおもしろい。これから政権交代が繰りかえす中で投票率もあがるのではないか。
0:朝日新聞によれば、総保守という観点からみれば今回の選挙ではあまり変っていないという記事が出ていたが。
B:あれは重要な視点だ。自民党に新生党とさきがけをプラスして、絶対得票率でいけば5大政党は総て従来通りの逓減傾向をそのままさし示しているというものだ。総保守は相対得票率では増えているが、絶対得票率では減っている。そこで棄権の果たした意味を分析している。1/3が棄権し、残りの2/3のうち2/3が自民党以外に投票した。自民党に投票したのは1/3で、明らかに時代は変ってきているという考えだ。ここに政権交代の現実的可能性が国民的レベルで確認されたという言い方だった。

<新党の伸長をどう見るか>
C:今日の議論のテーマとして、一つ目に、非自民党政権の成立を我々はどう考えるかということ。もう-一つは新党勢力の伸長をどう考えたらいいか。それと社会党の問題。更に非自民党政権成立後、どんな展開が考えられるか。それを貰いていわゆる旧革新といわれる部分がどういう対応をとるべきかということになるとおもう。
総保守が増えただけだという意見がある。選挙速報を見ていて新党の出ていないところはあまり変化がないのでおもしろくない。国民が新党に投票した原動力というのは新しいものにたいする期待感が絶対あるはずだ。もし、日本新党とさきがけが自民党と連立を組むことになれば次の選挙ではぜんぜんだめになる。その意味では彼らも危ない橋を渡っている。投票率が低かったということは別の総括がいると思うが、日本の国民も新しいものを選びたいという意欲を持っていたということについては評価すべきだろう。
次の選挙で自民党をさらに空中分解することができたなら、その時に本物の政党かどうかが試されるわけだ。マスコミ効果がいい悪い、例えば、投票率が低かったのは当落予想が事前にわかっていたからだという議論があるにしても、やはり自分の一票を入れることで政治が動いたということは肯定的に評価すべきだと思う。
投票率の問題だが、若い人は投票しているのだろうか。例えば、大阪3区4区で日本新党が大きく伸びたが、あれは一体どの層が入れているのだろうか。新党勢力の伸長の原動力はどこにあったのか。ともかくも私は歓迎すべき事態だとおもう。
しかし、みな次が問われているからピリピリしている。日本新党も議員総会で非自民でいかないことには納まらないという事態になった。
B:確かに新生党やさきがけは本来総保守の中の構成部分だとおもう。しかし、集って協議すると当選してきた過程から非自民でいかざるを得ないという事実は一方で存在している。その非自民がいいのかどうかはまた別の問題だが、投票行動に現れた期待度というのはそういう変化を求めた結果だとおもう。その辺をどう評価するかだ。
A:自民党が色あせ、老朽化した。そこに皇民党事件にもあらわれるように、やくざともいっしょになるような政権だったということにたいして国民の中にいやけがさしたというのは事実だろう。それにたいして斬新性を求めて新党ブームがおきたのも事実だろう。そこの国民の心境の変化というものは事実として素直に認めることはできる。しかし、よいとか悪いとかいう評価にはまだ早いという気持ちを持っている。結局このまま自民党に政権を続けさすことによって、結果的に保守に対する期待、結集力を更に弱めさせることになるという財界の危横感があったと思う。そういう意味で、自民党にかわる第2自民をどう作っていくかという中で政治浄化、政権交代が考えられた。新しい保守政権をどう作っていくかという財界の模索の中で新生党やさきがけがあるとみておくべきだと思う。
間題は、そのことが民主主義の拡大につながるかどうかということだ。その民主主義というのは国民にとってよい政府につながるかどうかという議論だ。大衆運動が無い中で政治改革の議論がされ、自民党が割れ、国民の中におもしろいけれど主体的参加はしないという状況が一つと、政治改革の議論が先行して、福祉などの国民的に身近な論議に焦点があたらなかった。その結果が小選挙区制も含めて、選挙制度の改革の議論にいっている。これが本当に民主主義の前進、よりましな政府の樹立という方向にいくのかどうかはすこぶる難しい。変化の時代で孜々がいろいろな提起をしやすいことは事実だが、それは、とり分け社会党がその主体性をいかんなく発揮しながら、よりましな政府をどう作るかという構想を現実的なものとしてだしていかないと、ただ変化があっておもしろいという議論に終わるのではないか。そのことを前進的だと評価するのはマスコミの評価と変らないのではないか。
B:大きな流れの中でいえば冷戦体制終結後の選挙であるという評価がある。確かに、55年体制、自社対決の終焉という意味でそういうこともいえるという感じもする。選挙制度改革というという論議に集約されていったがために、政策的対決は一つも明らかにならないまま選挙になってしまった。その政治改革の中身についてはより一層わけがわからない。そこにしらけたムードと棄権が多かった理由があるのではないか。その一方で社会党の対応のしかたは政策的課題でよりまし政府のあるべき姿がひとつも出てこない。そこで選択枝がなくなった。政治改革で清潔さや腐敗を防止するということで日本新党やさきがけが得点を稼ぐという構図になってしまったのではないか。だがにもかかわらず、それらは時代の大きな流れの中で、より大きくなって政権交代も可能な、よりまし政権も作りうる基盤が形成されつつあるのだという反映だとおもう。

<選挙制度改革への態度について>
T:日本新党とさきがけが政権協議の一つの柱としているのは小選挙区比例代表並立制だが、あの制度は元々自民党が言っていたことだ。あれを提案された時だれでも不思議に思うのは、「あれは自民党の言っていたことやないか。あれをいうのやったら、自民党の推進派といっしょにやってもいいのやないか」ということだ。社会党は非自民政権を作るためにそれを受け入れるといっている。
B:今度は自民党も受け入れるといっている。それなら一体何のために解散したのかということになる。
0:宮沢が一番腹を立てているよ。
T:あれを提案されたとき、受け入れるなら社会党として条件をつけるようなことができなかったのか。
Ⅰ:受け入れたら今度は自民党が一人勝ちする心配もある。何であんなもので妥協するのだろうか。
T:非自民党政権というものが近づいてきたのは確かだ。しかし、そのときに自民党が提案してきたものを踏み絵にされている。
0:もともと日本新党は連用制だったのではないか。あれはどこへいったのか。
C:そのへんは日本新党やさきがけの化けの皮がはげてくるところだ。自民党でポシャツた案でも今は勝った勢いで進めている。まさにそこで社会党がどういう主張をするかだが。今は受け入れそうな雰囲気だ。
K:いうてもあかんというあきらめが社会党の中にある。
T:それでも非自民政権を作らねばならないのか。
A:選挙改革の問題でいえば、小泉元郵政相が、旧守派とレッテルをはられているが、共産党のいっていることは正い、定数是正をきっちりすべきだ、中達挙区制の中でやるべきことはやれ、政治に金がかかるから汚職があるというのは泥棒にも3分の利の理屈だ、そのへんのけじめをつけるような政治改革政策をきっちり出すべきだといっている。これは、区割りの問題や増減の問題などで自民党の長老の中で反対があったり、小選挙区で若手がとおって良老が比例で拾いあげられるというのはメンツが保たれないといったいろんな議論の中で定数是正が自民党の中で翻弄されてきたのは事実だ。小選挙区と比例代表制を入れるような政治改革をとめるために中選挙区の中で定数是正もあるのではないかと中曾根はいった。それは逆にいえば中曾根はどっちもやりたくない。今更選挙改革の議論を止めるということは言えない状況になってきている。ということは保守総体として二大保守政党の展望も含めて、選挙改革を乗りきらなければしかたないと自民党も割りきったのだろう。それはこのあいだの両院議員総会であらわれていた議論だとおもう。しかし、そのことと社会党が今何をいわなければならないかは議論を分けるべきだと思う。それは、社会党が主体性を持ってどう政治改革をするのかという政策を独自のスタンスで出す中で、どうしても選挙改革に触れないと政治資金規制法や政治腐敗防止法などの国民が本当に期待する議論ができないのであれば、ある程度ここまでは認めるが、しかしこちらの方が大事だということをきっちり言わないとだめだと思う。社会党の議論と自民党や新生党がいっている政治改革の議論と我々はきっちり区別して評価していくべきだとおもう。

<93宣言は効果があったか>
A:もっと問題なのは、今回社会党が落ちた原因には93宣言の問題が大きいと思う。社会党の基本政策の問題を大きく見直すということだが、今まで言ってきたことを否定して新しいものを出すということでもない。情勢が変ったからこうだといっているのだが、だれから見てもすりよりにしか見えない。政権を取るために民社・公明がもっと右に来いといったときにそれに答えているとしか見えない。それが一番はっきりしているのが例えば自衛隊問題。はっきり憲法違反だといえばよい。
日本新党の細川が原則はどこかに持っていきながら現実対応は柔軟な発言が多い。それはマスコミにはわかりにくい。センセーショナルでない、曖昧性がある。これからは国民が政治的な思考を身につけていくためにもある程度指向性のある政策を出してもかまわないとおもう。その意味では自衛隊は憲法違反だとはっきり言ったらよい。現実に巨大な組織としてある。これをどうしていくのかということと現実の予算編成で防衛費をどうしていくのかという問題は別の問題であるとはっきり言ったらよい。そういう根本的な思想の部分までぶれるから社会党の本来の思想もなくなってくる。基本的な部分はこうなんだということをいえば左翼バネもそれほど働かないとおもう。93宣言の問題も基本政策の問題もすりよっているという感じしかしないから社会党に対する失望感が現れ、頼りなさが目につくような感がある。
T:自民党というのは結党以来改憲党だが、選挙でそれを支持して自民党に投票している人は圧倒的に少ないとおもう。他のところで投票している人が多いとおもう。
K:世界観の問題を前に出してもすれ違ってしまうとおもう。93宣言にしても世界観の問題に始まって個別具体の生活にかかわる問題まで一緒くたになってしまっているから、わかりにくい。もっと整理して、世界観の勝負はついたということで、ただこれまで社会党が言ってきた政策の中でこれは例えどんな政権になっても押し通すという、例えば人権とか環境とかそこははっきりといった方がよいと思う。特に、外交問題などは余り選択枝の中には入らないのではないか。
T:そのへんを社会党はいつもマスコミや他の政党に攻撃されていて、対応に四苦八苦している。
A:93宣言は選挙向けに作ったという側面があるから、選挙が終わった後、宣言の仕上げをどうするのか、このまま、なあなあで幻の宣言になるのではないかという気がする。93宣言を見るとマクロ的な問題からミクロ的な問題までごちゃごちゃになっている。改革というならもっと国民に理解されやすい政策をどうだすかということだろう。そういう意味では、長すぎる。社会党というのはアバウトなところだからもっと行動綱領的な、簡潔なものにまとめて後は国会のその都度展開していく方が現実的ではないか。あれは民社・公明相手にアリバイ的に作っているようだが、内部の説得のための文章になっている。政権を担うにあたっての地に足のついた政策研究ができているような気がしない。結果的にかえってポロがでている形になっている。新党の見通し問題でいうと、今は新しいからいいのであって、政治の流れが早い中で1、2年も経てば古くなる。そのときに、皮がはげる時が来るだろう。その時が勝負で、その意味では政治が変りやすくなっているということは同感する。その時に社会党がだめなものはだめとしながら、現実セはこういっているということを主体的にきちんと出せれば社会党の支持層は広がるのではないか。変りやすい時に自分をどういかんなく発揮できるかということが今社会党に試されてきているのではないか。

<新党が強調したこと>
B:新生党やさきがけが自民党と区別するために行動綱領的に出したもので、彼らが意図的に強調したことでは、政治改革以外に地方自治と環境問題、女性の重視などがある。これらを旧来の保守とは違うという形で出したことは見ておく必要がある。それが化けの皮がはがれるかどうかの問題になる。
A:そういう意味で一番おもしろいのは米の自由化問題だ。この間題は右か左か真ん中はない。そこでは新生党なども抽象的な書き方をしている。
B:日本新党は最初反対していたのに選挙中に引っ込めた。この間題は社会党でもしんどい。そういうことは自社対立構造ではみな自民党にやらしておいて、社会党は抵抗政党としての存在価値があった。しかし、今やそういう時代でなくなった。連合の選別推薦はどう評価するか。

<政界再編と連合の役割>
A:連合は非自民非共産政権樹立ということで社会党にもものをいう。一方で民社は自民との連立を考えていたようだが、同盟糸の幹部を集めて非自民に説得したと聞いている。個人的におもうのは、連合が今の政治の中核になる力量があるのかどうかそこから議論をしたい。連合の存在意義を問われるとした今回の春闘で結果的に負けている。連合はもっと労働者の利益代表としてもっと徹すべきだと思っている。今政界再編成の仕掛け人になる力量が本当にあるのか。連合はまず労働者の権利を守る政策をもっときっちり出すべきではないか。例えば解雇制限法や労働基準法の改正、時短促進法などやらなければならない課題がいっぱいあるのではないか。そういう政策を出す中で、その連合にとって利益になる党であれば社会党であろうと民社党であろうと政策協定を結んで選挙協力をするということが必要だと思う。前々回の参議院選挙での連合候補の躍進でおもいあがりがあるのではないか。
B:今回連合は社会党の17侯補を推薦せず10人落ちている。これは後々尾を引くだろう。
K:山岸の動きは彼の単なるスタンドプレーとは見られない。やはり有力単産が納得した上でやってるはずだ。
Ⅰ:一方で選挙の5日前だか文化人が護憲の議員を守れという声明を出した。
T:社会党は結局自分の基本政策に振りまわされている。
A:連合は今そういうことをしなければならないのか。連合は労働組合の集まりというところをきちんとするべきではないか。
0:しかし、非自民の連立政権ができれば結果的に連合は仕掛け人としての役割を果たしたことになる。そこから先が本当に連合の力が問われるだろう。
B:彼は今後も社会党の分裂も視野に入れてまだまだやるだろう。社会党は選挙戦衝の問題もあるのではないか。複数区でほとんど落ちている。

<社会党は再生可能か>
C:社会党の今後の話しだが、展望がないと思う。共産党・公明党は抵抗政党・宗教政党として生き残る。社会党はもともとアバウト政党で釆て、これだけ数が減るとつぎに社会党に票を戻すためにはイメージを大分あげなければいけない。しかし、これから分裂も含めてひともめもふたもめもしないと本当の社会党のイメージが出てこないのではないかという気がする。93宣言でも中央ではやっていても各地方では議論になっていない。政党として社会党は本当に成立しているのか。自民・共産・公明に対する社会党というなら確実にそういう層はある。そういう枠組みの中で社会党が票をとってきた歴史があった。それが選択枝がたくさんできて新党に流れ、その中でいわゆる社会党のアイデンティティーをどう出すかということが問われていて、それが今の社会党のギャップになっている。自民党では羽田のように自民党に財界の援助があっても決断するものがいた。社会党を見ると、産別出身の議員は産別の了解がなければできないだろう。最近シリウスなどの議員個人が政策を持つという萌芽が出てきたが今回の選挙でつぶれてしまった。社会党が変っていく契機が奪われてしまったという感じがする。確かに社会党の政策をはっきり出すべきだと思う。しかし出せるのだろうか。結局社会党は自社体制の中での社だったということだu 自が分解しようとしている時、社会党のアイデンティティーが逆に本当に問われてきた。その時に議員はほとんど産別の支援を受けて当選している。社会党が労働組合の支持基盤がなければ成立しない政党になってしまっている。このことでどこかで問題がおきてくるのではないか。これからどうなるか非常に恐い。
K:最悪の場合はばらばらになることも考えられる。そのとき連合が単産出身議員だけでもまとめるという役割を果たすかもしれない。
A:社会党は党員や機関紙や党費などから見ると少数政党だが、集めてくる票からすると非常に幅広いそうが支持する国民政党だといえると思う。それは一つの価値観ではなくていろいろな価値観の人間が集まっているから国民政党としての体面を保ってきたと思う。ところが、その組織実態は党員に支えられているのではなく労組に支えられている。その労組政治部としての社会党が政権党を目指すとしんどい面が出てくると思う。労組によりながら幅広い支持を得て独自の政党としての機関は弱いというのが社会党だが、今回の政権協議の中で注目を浴びているのも事実だ。しかし、社会党の混迷の中で連合がタガ填めをすることは恐いと思う。推薦候補がらみのことを含めて今回の政界再編の問題を無理に絡めると労組の組織分裂も出てくる。それだったら労組は労組としての政策を持って、政党との関係を整理した方が労組にとっても政党にとっても結果的にはよいのではないかという感じがしている。
K:今の社会党執行部よりは連合幹部のほうが現実的な面では大部ましだと思う。
A:社会党は政党である以上は国民的な政策を出さなければならない。ただ支援母体との関係で空回りしているところはある。社会党は政策研究をきちんとやって、従来スタンスは変らない中で新しいものにどう答えを出していくか、きちんと政策を出していくべきだ。それは社会党の主体性でやるべきで連合がやることではない。連合は春闘などきっちりやって欲しい。
0:基本政策では口は出さなくても労働政策では大いに発言していくべきだろう。
T:選挙の話しになるが、年内に選挙ともいわれているが、小選挙区比例代表制では結局社会党は自分の首を自分で絞める結果にならないか。政権党であるならもっと政権にしがみついて欲しいし、予算も組んで欲しい。
C:選挙制度はなかなかきまらないのではないか。きまったとしても周知期間がいる。

<共産党は蚊帳の外でいいのか>
A:社会党が選挙改革論議に乗ったのは基本的には誤りだと 思うが、ここまできたらひき下がれない。けじめはつけな ければならないと思う。それと選挙評価の問題では共産党の問題がある。共産党は一貫して原則的なことをいいつづけてきたという意味では立派だと思う。しかし、今回首班指名になった時にいつまで綺麗事で済むのか。完全に蚊帳の外で、へたをすると自民を助ける可能性がある。そういう意味では今回の非自民政権が日本の民主主義によいものかどうかは拙速な評価をしてはならないと思うが、少なくとも変りやすくしたことははっきりしているし、そこに主体的に関わらなければだめだということははっきりしているとおもう。羽田にしても社会党にしても「よりましな政権」をつくるために最大限のアクションを起こしたということは国民は見ているから、その中でも綺麗事を言い続けていくというのは現実の政治の中では共産党はまったく蚊帳の外になる。
C:東京では社会党票は大部共産党に流れているのではないか。社会党の動揺的な言動を共産党は批判したのでそれに動指した左派的な人は共産党に入れたと思う。
B:しかし、共産党の票は着実に減っている。このままでは伸びる要素はない。
Z:身の回り(社会党糸の人)を見るとほとんど共産党に入れていない。
A:マスコミが教条的左派の共産党をバッシングしなかったことに今の財界の意図が見える。

<団体軟金の禁止と公費助成>
0:さきがけ・日本新党の提案の中で公費助成を前提に企業団体献金の禁止ということがけっこう大胆にうたわれているが、この辺は腐敗防止に結び付くのか。
A:公費助成の問題で、本当に腐敗防止・民主主義に役立つかよくわからない。財界にとって献金をしなくてなおかつ財界のいうことを聞いてくれたら一番よい。大企業丸がかえで票をとりまとめれば影響力を行使できる。
C:問題は公費助成の額だろう。そのことで選挙資金に枠がはめられれば一歩前進だろう。
A:もう一つ問題なのは政党法との関係だ。これは結社の自由や政党活動の自由との関係が出てくる。単に公費助成が腐敗防止に役立つという議論に安易に乗ることは危険だと思う。
B:共産党は公費助成もいらないといっている。実際は労組・宗教団体の問題など難しい問題が多い。
K:政策秘書などと同じでこの問題はまとまるのではないか。
A:ゼネコン汚職に見られる政治腐敗の問題は、選挙制度の問題というより情報公開とか行政組織のありかたの問題だと思う。
K:あれは地方分権たたきの側面もあるのではないか。新聞報道でも大統領並みの権限などと言っている。

*やや、話が広がりすぎた感もある。それだけ、今回の選挙結果と今後の取るべき道について議論が必要だ、ということでしょうか。
8月5日の特別国会、そして組閣、臨時国会という流れの中で、政界再編は一層進む状況にある。こうした変化の中でこそ、政策と思想が問われる。議論の中でも、選挙結果の評価において、ニュアンスの違いもあるが、結局は、こちら側の主体的な行動こそ必要という結論は変わらない。引き続いて紙上討論を行いたいので、読者の皆さんの参加をお願いいたします。 (大阪府委員会発)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【投稿】総選挙結果の示すもの

【投稿】総選挙結果の示すもの

今回の総選挙は、戦後政治の大きなエポックであったことは、事実であるが、それは新たな時代のはじまり、もしくは終わりの始まりであり、総選挙結果だけを特殊化する訳にはいかないであろう。
すくなくとも、選挙結果については、事前から予測されたものであった。多少のプラスマイナスの誤差はあろうとも、大きな違いは生じないほど、マスコミ報道は”的確”であった。選挙戦がゲーム化され、有権者がまるで観客席に座っているかの様に描かれた結果、唯一大きく予測に反したのは、低投票率であった。あれほど、今回の選挙は、久しぶりに「おもしろいことになりそう」と宣伝し、番組によっては、高投票率に向けてのキャンペーンを行ったにも、かかわらずである。国民の政治に対する思想的ニヒリズムと、行動様式におけるアナーキズムは、深化している一因がテレビを中心としたマスメディアにあるのも皮肉である。
さて、選挙戦の争点であった「政治改革」論議は、有権者の投票行動に対して、そしてその後の推移からしても全く結果に対するファクターではなかったと云える。何をして、今回の結果をもたらしたのであろうか。
社会党の敗北は明確である。元来党員数に比して”異常”な得票数を保持してきたが労働界の再編の結果、その良し悪しは別として、従来選挙のたびに動いていた「地区労」「県評」組合員が存在しなくなり、事実上社会党独自の組織は、ほとんど崩壊したに等しい。活動家の存在しない党は、政策によって多くの支持者を集めねばならない。
従来の社会党投票者が非常に不安定な、ゆるやかな支持者であろうとも、「反戦、平和」「反独占」「護憲」といった看板によせる期待は、少なからずあった。ところが、自民党の一党支配が、あやうくなることで「反自民」としての存在が同時にあやうくなることに対する認識が過少であるのに留まらず、非自民政権のために、その看板すら実質上おろすことになるに至り、従来の支持者は、彙権も含め左右に飛び散る結果となった。組織的にも、政策的にも分散化を許してしまったこの党に再度結集するためのエネルギー、存在の意義を見いだすのには、非常な困難さを感じるのは、私だけであろうか。
自民党の(保守)分裂と云っても、その内容は、基本的に二つの流れがある。一つは、新しい形態の保守主義を目指すグループ、さきがけ、日本新党であるが、今回の特異なことは、新生党(小沢グループ)の分裂?である。元来、田中一竹下一金丸とつづく、このグループは、戦後日本の保守政治においては決して本流ではなかった。日本の高度成長後半期に登場した保守党のなかの金権グループとしての特異な流れである。ただし、この金権派閥が長い間実質的な権力を握っていたのであるが、今回の新生党の登場は、本来の保守本流に見切りをつけたこの金権グループの新たな出発にすぎない。後者は、保守二大政党論を述べるが、前者はそこには力点を置かず、党内民主主義やクリーンさに力点を置いている。
いずれにしても自民党を含めて、これらの保守諸党の集めた投票率は史上最高であるという点を私たちは、充分認識しなくてはならない。したがって、”変革”を求めたとしてもそれは「保守政治」のシステムの「改革」であり、政策上の「改革」には、きわめで慎重であったと云える。しかも、これら保守新党は「形式」を含めたシステムの改革の中味については、いまだほとんど明確にしていない。
非自民政権が、相変わらずの「二重権力」構造を保持しつづけるなら、新たな権力闘争がはじまるし、自民党内のシステム「改革」にも、影響を受けるであろう。
時代変化の本質的な流れへの最大のファクターは、国民の民主主義に対する姿勢である。
どのような時代のはじまりであり、終わりであるかを決定するのは、すぐれて勤労国民の民意であり、単純な「世代交代論」ではないであろう。
(東京・T)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【投稿】総選挙は何をもたらしたか

【投稿】総選挙は何をもたらしたか
                                          —-非自民連立政権の登場と社会党の惨敗が問いかけるもの—–

<総保守が勝利したのか?>
今回の選挙結果を見て、たとえ自民党の過半数割れという新しい事態をもたらしたとしても、新生党やさきがけはもともと自民党から分裂したものであり、日本新党も本来保守勢力の一翼にしかすぎないことからすれば、保守勢力がかつてなく強化されたのである、という論調が主流となっている。果してそうであろうか。確かに得票率を見ると、自民=36.6%(9.5%減)に対して、新生=10.1%、さきがけ=2.6%、日本新党=8.0%で、3新党合計で20.8%を獲得し、自民と社会=15.4%(9%減)の減少分を合わせても、それ以上Lの得票率であり、自民+3新党の得票率合計は57.4%となり、有効投票の6割近くが保守勢力に投じられたといえる。しかし3新党、とりわけ日本新党の得票の多くは、これまで保守批判票の受け皿であった社会党から流れたものである。問題はそれだけではない。
それは、棄権票がかつてなく増大したことである。そこで、有権者全体に対する得票率、つまり絶対得票率で党派別の推移を見ていくと、86年7月選挙、90年2月選挙、そして今回で、社会党は約1.2%、公明、共産、民社3党も0.7から0.3%、それぞれの党のサイズに応じて同様な得票率を減少させている。問題は、総保守も今回で約2.5%減少させていることである。既成野党が総じて得票率をすべて減少させているのと同様に、保守の得票率もやはり減少傾向を免れなかったのである(7/27朝日の分析)。これは何を意味しているのだろうか。今回の投票率は67.8%で、史上最低であった。しかも今回の棄権には、政治的無関心の棄権に加えて、政治に高度な関心を持ちながらも、現在の与野党の実態から意識的に棄権を選択する「攻撃的アパシー」の有権者の増大が指摘されている。自民党が、野党連立政権などという不安定な事態を許すのか、といわば体制選択を迫ったにもかかわらず、有権者の3分の1が棄権し、しかも投票した人の3分の2が自民党以外の政党に投票したのである。総保守の勝利とはとても言えないばかりか、保守の要であった自民党はもはや政権与党から引きずり下ろされてしかるべきであるという、これまで想定もされなかった審判が下されたのである。
日本の政治が一気に緊迫の度を増し、政権交代が現実のものとなり、反共と談合政治、政官財の癒着構造で腐敗しきっていた自民党の政治独占が打破され、新しい歴史的変革への胎動と活性化が始まったといえよう。

<問われている社会党の再編成>
しかし今回の選挙は、こうした保守党一党支配の終えんをもたらしたにもかかわらず、同時に社会党に深刻な敗北をもたらした。保守の「分裂太り」とともにすなおに喜び得ない事態でもある。議席を大幅に減らした上に、最下位当選がもっとも高く、実に41.4%が最下位滑り込みである。連立政権与党第一党を誇れる状態ではないばかりか、こういう状態のままで小選挙区制に突入すれば、決定的な敗北につながりかねないといえよう。それは保守勢力を喜ばせるだけであり、見過ごし得ないことである。
どこに原因があるのであろうか。田辺前委員長と金丸前自民党副総裁との「親密な関係」によるイメージタウンであるとか、自民党政府の政策を受容するかどうかを巡る現執行部のふらつき、その時の対応のまずさであるとか、情勢の変化を追認するだけで独自政策がまるで出されていない、等々、
いろいろ指摘されており、それらはその通りであろうが、あくまでも短期的な敗因である。また、55年体制・冷戦時代の思考に埋没し、単なる抵抗政党のままにとどまっているとか、あるいはいまだに労組依存から脱却し得ていないといった長期的な原因も指摘されているが、それは今に始まったことではない。いずれも克服されなければならいことではあろう。
一つの視点として、鍵は、日本新党の躍進がどこからきているのかということにあるのではないだろうか。それは新しい活力をどこに求め、いかに取り込み、結集していくかということでもある。これまでの基本政策の大胆な見直しは当然必要なことではあるが、それ以上に、平和、人権、環境、そしてとりわけ女性と高齢者問題で独自の、分かりやすい、具体的な政策を打ち出し、しかもその政策形成は、過程から決定に至るまで広範な公開を原則とし、党内外のあらゆる勢力を結集することである。これは夢想であろうか。歴史的な大きな変化の兆候の中で、社会党自身の新たな再編成が問われているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【コラム】ひとりごと –政治の激動が始まるか–

【コラム】ひとりごと –政治の激動が始まるか–

◆6月18日宮沢内閣不信任決議可決。さあ、いよいよ政治の激動が始まるか。おもしろくなってきた。◆20日日曜日の朝のニュース番組は、海部元首相、三塚政調会長、羽田代表、会党赤松書記長などが出演し、評論家の森田実などは、総選挙で羽田内閣の誕生は必至と気も早い発言。◆羽田は「与野党改革派の大連合を作り、自民党に変わる政権を」目指すといい、連合山岸会長も羽田派、武村グループとの連携もあると踏み込んだ発言。日本新党細川は、武村派との連係、総選挙後新党へ合同もありうると発言。◆羽田といい武村、細川となかなかテレビで映える人材がいる。こうなれば、自民党には橋本龍太郎しかいない(?)。しかし、社会党はどうか。赤松書記長はテレビ映り(安心感・好感度)は良いように思う。(山花委員長はだめだが)◆一連の報道の中で、通行人のインタ ビューがあり、「カリスマ性のある指 導者が出てきて欲しい」との声があっ た。◆指導者待望論は、宮沢首相の悪印象から見てもなるほどとの感もある。今回の総選挙の争点も、改革か否かとい  う、はっきりしているようで、実ははっきりしない中では、指導者待望で決ってしまう恐れもある。◆めまぐるしい動きの中で、しつこく「改革」の中身を問い続けていきたい。 (佐野)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】国会傍聴初体験

【投稿】国会傍聴初体験

政府は今国会に「短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律案」(いわゆるパート労働法案)を提出した。
6月2日(水)から6月10日の採択まで、緊急に国会での審議傍聴行動がコミュニティユニオン首都圏ネットワークでとりくまれ参加した。 2日の国会衆議院労働委員会の審議傍聴について以下紹介します。 この日の審議には多くの傍聴者がかけつけ、傍聴席はいっぱいで立っている人もいるほどで、村上労働大臣もこのような「はじめての出来事」に驚きを隠せず、多少興香している様子でした。
まず、国会審議の傍聴といいましてもわたしも初めて。案内にあった集合場所、衆議院議員面会所へかけつけました。周囲は警察官が巡回しておりそれだけでも物々しいような感じでした。(緊張してしまう) 面会所では数人ごとのグループで椅子に腰掛けており、はて誰がユニオンメンバーなのかと頭を働かせなければなりませんでした。腕章や雰囲気をうかがいながら、なんとなく女性ばかりのグループがユニオンの人たちであろうと名前を出してうかがい、メモ用紙にの名前があるのを確認するとホットしました。
国会傍聴には傍聴券が必要です。これはユニオンの方で紹介議員を通じて前日に準備されておりました。傍聴券には住所と氏名を明記する必要があります。傍聴券を提示して委員会室のある建物へ入ります。エスカレータをおりて傍聴者の受付へ向かいます。委員会室にはメモ用紙程度のもの以外はもって入れません。
ここで簡単な身体検査を受け(ポケットの中身を全部出す)ます。所持品はロッカーがありそこへ入れます。ロッカーの鍵は自分で持てます。
さてこのチェックがすみますと、いよいよ委員会室へと行けます。着いたときにはすでに審議が始まっておりました。委員会室は図のような形式で、傍聴者は一番後ろに並んだ席に案内されます。政府委員、大臣、議長、速記者や事務官など、そして自民党、各野党の席、そして記者席、それから傍聴席です。
委員会室には歴代の労働大臣らしき人物の絵が周囲に飾られていました。
傍聴席は椅子だけで机も何もありません。メモを取るのも容易ならぬことです。それに比べ、各委員の席は机もありますし、喫煙もできるようですし、のどが渇いたら水も用意されております。それに驚いたことに結構人の出入りがあって、そわそわしていることが気になりました。記者席はかろうじて机だけは用意されておりました。最後に、今回傍聴者が多く詰めかけ、立っている人もいたのですが、椅子は数多く空いているのに座らせてくれないことにはいかにも杓子定規な扱いで多少憤慨しました。こうした国会審議の形態もやはり旧態依然たる形式だと感じました。

<パート法案審議で>
今回の法案は、すでに昨年2月に野党が提出したパート法案に対して、政府側がやっと重い腰をあげ政府案として提出してきたものです。審議のなかでもこの提案する立場の違い、何を重視するのかという基本点をめぐって議論が行われました。
私は岡崎トミ子さん(30分)、岡崎宏美さん(90分)の質疑を傍聴することができました。
岡崎トミ子さんはパート労働者の役割を歴史的にひもときながらその社会的役割が今日重要な位置を占めていること、しかしながら女性問題ともいえるこのパートの処遇は一貫して差別されてきていることが指摘されていました。そして今度こそパート労働者がきちんと守られる法案を作りたいと、政府側の姿勢を正しました。対応に当たった政府委員は労働省の松原婦人局長。松原さんはいままでの労働省のさまざまなパート労働に関する調査、指導指針、勧告などだけでなく「労働省の『パートタイム労働指針』に法的根拠が与えられることになる」と政府案の意義を述べるにとどまりました。
続く岡崎宏美さんの質疑はまずこの点から行われました。つまり、この法案がパート労働者に通常の労働者と同様の均等待遇が確保されること、バブル崩壊後の経済状況の悪化の中で違反が横行する事態を見ても、不当な解雇、扱いをさせないような、パート労働者の保護をきちんとするべきで、法案の中身は最低限~してはいけないというようなものの方がわかりやすのではないかと迫りました。そしてユニオンからよせられたアンケートなどを通じてパート労働者の実体を政府側に伝え、いかにこのような不当な事態を改善するのか、政府側を正しました。政府案は「雇用管理の改善」をうたっており、法的に事業主の責任の明確化をはかること、また各地に援助センターを設置することだけにとどまり、違反者への罰則規定などについてはふれられていません。
またこの法案は「短時間労働者・・・」となっていますが、これは質疑の中でいわゆる疑似パート、フルタイムパートなども含む解釈であることが政府側から説明されました。

<参院では>
6月10日の衆院通過の後、参院の労働委員会で各党から法案についての質問があった。
大脇議員は、「現在ILOで議論が始ったばかりのパートタイマーの問題を条約にするか勧告にするかについて、日本政府が勧告でよいという意見をだしているのはどういうことか」と質問。婦人少年局長は「各国はそれぞれ多様な実態にあるから一律な条約として規制すべきではない」と回答。また、ILOから各国への質問の中で「パートの労働雇用を改善すべきか」との問いに、日本政府は「フルタイムがパートより不利になるべきではない」というナンセンスな答えをしている。「国際的なコンセンサスを労働大臣は共有しているのか」と聞くと村上労働大臣は「もちろん」と答えた。
焦点の疑似パートについては、現行のパート指針で「ふさわしい処遇」をうたっているが、その線に沿うと答えた。フルタイム以上に働いている労働者については、短時間労働者ではないので非正社員として別の臨時雇用問題として考えると回答。今回の法案はあくまでも通常の労働者より短時間の労働者を対象とし、均衡待遇(量だけでなく質も違うのでそれに見合った待遇)をするという。ファーストフード店など店長以外はみんなパートという場合、通常勤務者とは誰を指すのかとの質問には、店長であると回答した。
正社員からパートタイマーへの移行についての質問には、待遇が著しく異なる場合は問題があると回答。有期間雇用については、今後労働基準法の「改正」で期限延長も含めた労働契約法制の問題であると回答。 援助センターを民間委託にするのは問題という問いには、行政指導機関ではなくバックアップ機関であるが、労働省の責任範囲であると回答。 非課税限度額100万円の問題は、労働省の管轄外だが大事な問題なので関係省庁とも話し合いたいと思うと回答。
ILO165号条約を日本政府が批准しないのは何故かとの問いには、均等法の再就職援助が女性に限られていること、公務員の育児休業法が女性だけの通用になっていることが、ⅠLOの家庭責任は男女ともという規定に合わないためであると回答した。

<法案をつくる国会の現実>
総じて、国会傍聴をつうじて感じたのは、これまで野党が提出してきた法案とずいぶんと違う内容である政府案が、このようなたった数日の討議で通過するということに驚かざるを得ない。それを目の前で見たので、憤慨もひとしおである。
テレビで見たPKO法案もすごかったが、国会という立法府の実態がなんとも頼りない感じがした。というのも、もちろん質疑をする議員、政府委員の対応はそれぞれに、それとなりに話の筋は通っているのであり、立場や考えの違いもあるわけで、当然答弁の内容にはそれらが反映されている。だが、討議の内容でふかまった認識や法案制定の背景的なものは、やはり国会を傍聴したものにしか分らないということである。
また今回ユニオン側で様々な要請をして、そのことで質問やら答弁の内容が大きく変っていったということも、大きな成果であるが、その半面、議員は意外と知らないゾという認識も深まった。ある意味では「法案内容を専門としない人々が、実態とかけはなれたところで、勝手(もちろん選挙で選ばれた人ではある)に法律を作っている」ともいえる。せめて実効力ある法律にするならば、経営者、パート労働者を招いた公聴会などを開催し、内容をつめた法を策定してほしいものである。
全国ユニオンネットワークでは9月の交流集会(東京)にあわせ、ふたたび国会要請をおこない、パート指針の内容、援助センターとの連携なども交渉していく予定である。         (東京・R)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】パート労働法 国会通過参院で附帯決議とともに採択

【投稿】パート労働法 国会通過参院で附帯決議とともに採択

<均衡待遇って何だ?>
6月10日参院労働委員会で、衆院で修正されたパート労働法(短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律)が附帯決議とともに採択された。政治改革法案が今国会で棚上げになるという状況の中で、急遽動き出した政府提出「パート労働法」。まとまらない政治改革で国会の無能ぶりをさらけだす前に、なんとか会期内にまとめる法案として矢面に立たされたようである。
突如の集中審議と「今国会成立を」という国対の強い要請に、ユニオン全国ネットワークでは全国から国会に声を集中して、議員要請や国会傍聴行動、記者会見、街頭宣伝等を勢力的に取り組んだ。もちろん、政府案として提出されたことは前向きに評価できるが、法案の中身はあくまでも「短時間労働者の雇用管理」であり、野党・連合側がこれまで提出してきた「均等待遇、就業条件確保」とは性格を異にする内容であったからである。
衆院における討議結果、以下の内容で修正が行なわれた。
①適正な労働条件の確保、②通常労働者との均衡これが参院でもめた)、③「雇い入れ通知書の発行、④就業規則の作成、⑤3年後に法を見直す等である。
参院では、衆院での修正をふまえ、結局たった1日の審議で通過。その日は午前10時から午後7時までの「残業委員会」となり、「均等待遇か均衡待遇か」をめぐって論戦がたたかわれた。結局、討議をふまえた附帯決議を確認し、「均衡」の概念に関する確認答弁をとるなど異例づくめの法案成立となった。(衆院、参院での討議内容については後述「国会傍聴記」を参照されたい)
とにかくパート労働法は駆け足で衆議院、参議院の労働委員会を通過して成立することになった。今後、法案成立によって6ケ月後の施行前に作成される「指針」の内容をつめること、また3年後の見直し(附帯決議による)をみすえた全国のユニオンでの活動も予定される。さらに微力ながらパート問題ではユニオンの存在を無視できないという認識も広がりつつあり、700万から1000万人ともいわれるパート労働者、今後各地に作られる援助センターへの働きかけも含めてますます、ユニオンの活躍も期待されるところである。

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】政治改革、またもや消え去るのか?

【投稿】政治改革、またもや消え去るのか?

<自民党崩壊のはじまり>
6月12日現在、政治改革関連法案は今国会での成立はほぼ絶望的な状況となっている。「またか」というより今回こそは政治が国民から見離されるのではという危機感を覚える。もともと政治改革の問題が選挙制度改革に流し込まれ、腐敗構造、汚職構造の改革は避けられようとしていた。それでも日本新党など新勢力の台頭もあり、宮沢首相の再三の「決意表明」にみられるように、選挙制度改革だけでも至上課題となっていた。野党もこれに乗っていったが、「並立」「連用」「併用」と言葉だけ取り出しても到底理解不可能な制度案が乱立することとなった。
()内は(小選挙区定数/比例区定数の比率)
①単純小選挙区制(500/0)自民党案
②小選挙区比例代表並立制(300/200)海部内閣案
①と②の妥協案 (自民一部)
③小選挙区比例代表連用制(300/200)民間臨調案
①と⑤の仲介案  (②の変型)
④小選挙区比例代表連用制修正版(275/225)
③と⑤の妥協案(野党・③の修正)
⑤小選挙区併用型比例代表制(200/300)社公案
⑥比例代表制(都道府県単位)民社党
選挙において、「代表」を選出する目的を「政府形成」におくか、「民意の正確な反映」におくかにより、前者が小選挙区制、後者が比例代表制が優れていると言われる。実際には両者が組み合わされることになる。
概ね①から⑥の案が出されているが、①が比例度がゼロで順に比例度が高くなっていく。自民党が①の単純小選挙区制、社会・公明が⑤の小選挙区併用型比例代表制の法案をそれぞれ提出した。①は自民党に庄倒的有利、⑤は野党に有利であるから当然①と⑤の間で安協案を模索するしかなかった。ここまでは自民党の思惑とおりだったはずだ。海部内閣の時に廃案になった②の「並立」案すら妥協案に含んでいたからだ。その後、民間臨調から③の「連用」案が出され、「連用」を軸に安協案が展開された。「連用」で各党の議席は現状維持、「並立」との間の妥協案なら自民党有利だから②と③の間くらいの線で野党に安協を迫れば野党も引かれざるを得なかったはずだ。ここで宮沢首相に誤算があった。自民党の議員は各選挙区の後援会を基盤にした「後援会」政党であるということだ。小選挙区300の「並立」案ですら、前職、新人などを入れるとはみ出る者が出てくる。自民党の議員は党などを信用していないから比例区で拾われると説明されても納得しないのである。それゆえ、選挙制度改革が「本当に」あり得ると感じたところで、海部内閣の出した「並立」実にも妥協できないとする「慎重派」が帽をきかしてきたのである。「改革派」と「慎重派」の亀裂は、かつてなく深まっている。そして妥協を拒否した自民党の責任は重い。あとは世論の後押しと自民党崩壊後の政界再編の受け皿の問題である。

<世論は冷めてる?>
選挙制度改革に関して世論は冷めている。おそらく、選挙制度が変わったから政治腐敗がなくなるとは誰も思っていないからだろう。また、どの制度を支持するかという世論調査なども見た覚えがない。「併用」「連用」などあまりにもわかりにくかったからだ。また、選挙制度の議論も選挙結果の数字に注意が向けられ、結局既成政党の議席の維持に目が向けられたことも嫌気がさした一因だろう。最も多いのは「支持政党なし」であり、既成政党はことごとく見離されかけているのである。既成政党の議席の維持に人々の関心が向くはずはなかった。
また、「民意を反映する」と言われる比例代表をベースにした制度にしてもどの程度の支持をうけていたのかは疑問である。比例代表になれば候補者選定は政党主導になるが、政党自体が国民から遊離している実感が強い。小選挙区制にしても政党主導になることでは同じだが、候補者選定にかかる予備選挙を行うなど、政党が民意を反映するシステムをつくことが先決であるように思う。
全くの中途半端になってしまったが、政治改革に関する本(漫画)をお薦めしたい。ヨシイエ童話「世直し源さん」(講談社ヤンマガKCスペシャル1~4巻)である。ステテコ姿で国会に登庁する源さんが首相となり、「国会議員性根たたき直し法」を与野党、官僚、財界の猛烈な破壊工作にも負けず、国会議員らを目覚めさせ見事成立させる物語である。「国会議員性根たたき直し法」とは、一切の政治献金の禁止、議員は選挙区に足を踏み入れたり選挙区の有権者と接触してはならない、などを内容とする4年間の時限立法である。政治腐敗の原因を有権者や企業が政治家にタカる衆愚政治にあるとし、そんな民主主義であれば4年間停止し、その間に利益誘導から解放された国会議員により政治を改革しようというものである。筆者の政治に対する深い観察をもとに描かれており、非常におもしろく、感動的でさえある。(大阪AC 93/6/12)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【報告】歴史的な総選挙を前に 匿名座談会

【報告】歴史的な総選挙を前に 匿名座談会

大阪府委員会では、6月19日に定例会議をもった。不信任決議可決から総選挙へと向かう政局について討論をした。その議論の内容は以下のようなものでした。

<不信任案を可決した原動力は何だったのか>
c:今日は18日の不信任決議を受けて総選挙へと向かう情勢について話あってみたい。ひさびさに面白いというか、興奪するような状況で、何かが必ず変わるという流れがあるので、感想でもいいので発言して行ってほしい。
A:何故不信任案が可決される事態まで行ったのか。
その原動力は何か、ということについて話し合ってはどうか。
B:みんな秋だ、と思っていましたからね。ひょっとしたらと思いながらもね。
A:6月17日の夕刻まで、我々も不信任案の採決まで行くとは思っていなかった。自民党中枢が羽田派をいじめているような感じ、また羽田派が不信任実に賛成するとは思っていなかった。せいぜい会期延長で乗り切るのではないか、という認識だった。宮沢がもっと早い時点で会期延長を言い出していれば、別の話だっただろう。それが、17目深夜で羽田派の意志が表面化して、情勢が動きだした。正直あたふたした。サミットということもあったし、総裁選ということもあった。それが、こんなに急展開したのはなぜなのか。
B:やはり、自民党の党内事情が決定的だった。
F:羽田派は一時後退したイメージであったが今週くらいから変わってきた様子。
D・:僕も朝刊を見てびっくりしたという感じだ。
A:なぜ羽田派が決断できたんだろう。
B:羽田派は何もできないだろうという材料が幾らかあった。政治資金規制法で新党資金と言われていた金丸資金が検察に押さえらたとか、金丸絡みで小沢の名前が出てくるとか。不信任を前後してそういう話が出てこないということは実際は何もなかったという可能性もある。つぶすだけの材料がなかったから、これだけのことが出来たという判断も出来る。
c:経世会の分裂以来の小沢派、小渕派の抗争のなかで、小沢派を追いだそうと言う意図もあったのではないか。
D:経世会の中の権力争いの中で羽田派が出てきたが、実態は権力争いをしていただけで、改革派というのは単なる看板という印象がある。
c:改革派と羽田派はいうが、その中身は依然としてはっきりしないのではないか。それに対して、昨日テレビにでていた武村グループの若手は一人ひとりが主張をもっているように思えたが。みんな坂本龍馬のような意識で。
F:やはり金丸が言っていた保守2党制みたいなところが狙いなのかな。
A:リクルート、佐川、金丸と自民党から金権腐敗を取ったら何も残らないというところまできた。自民党の看板を変えなければ国民の離反は避けられないところまできているように思う。ただ今向の自民党分裂が単なる看板の塗り変え、のれん分けに終わるのかということが問題だ。離党組の若手はほとんどが政治改革推進協議会(民間政治臨調)に参加している。それなりの活動歴を持っているように思える。こちらの方が「改革派」という印象だが。
c:毎日新開の夕刊(6・19)には、武村グループがシリウスと合流という記事も出ている。そういう意味ではシリウスをつくったのは、正解だったことになる。こういう事態を予測して受け皿を作って置いたのだから。
A:羽田派が飛び出したのも、何らかの財界のOKが あったということだろう。
B:そうでなければこんなことはできない。財界の支 援は確実でしょう
D:それでは、システムは今後もそれほどかわらない ということか
c:それは違う。何か違うだろう。選挙制度も含めて何か違うイメージを出してくるのでは。ただ、羽田派の主張と言うのがまだよく分からない。
E:この新開では「新党の名称はまだ決まっていないが、自民党に対抗し、改革と自由主義を基調とする政党として再出発したい」と羽田は言っている。
C:よくわからないな
F:日本新党の細川は、少し距離を置きたいところだろうな。もう少し力をつけて。
B:羽田は総理大臣をねらうだろう。細川もそうだ。細川家500年の夢という事か。ずっと外様だった怨念か?
A:羽田は新党を創って、野党と大連合で自民党と対抗すると言っている。23日に羽田新党を作り、7月4日の選挙告示までに「大連合」を創ると言っているわけだ。しかし、国民の側からは、新党の政策はイメージ以上ではない。マスコミも分かりやすい選挙にするべきだと主張している。何を改革するのかという意味で。
C:いずれにしても、自民党も追い込まれたものだ。すでに海外の論調は「死に体首相の主催するサミットは中身がない」と議長国の政治混乱に不信が出てきている。
B:サミットについては、ソ連崩壊の後は、政治的セレモニーの感があり、無意味化しているのではないか。

<選挙制度改革のゆくえは>
A:選挙制度については、野党6党で連用制までまとまったわけだ。連用制がこれからもキーポイントになるわけだ。
B:「小沢派」としては中選挙区でも小選挙区でも選挙制度なんかどうでもいいのではないか。・・・・・・むしろ、社会党が心配だ。社会党の場合、自民党に隠れてもめ事も表にでていないが、議員は中選挙区で行きたいわけで、・・・。
F:小選挙区制では、社会党は今の1割か2割ぐらいしか取れない。そこで比例制も加味してというところか。
E:2大政党制の受け皿作りということか?
D:やはり当初言われてきた腐敗防止はどこかへ行ってしまったのか
F:どのような選挙制度になるにせよ、このままでは何らかの小選挙区がはいる。連用制でも「2大政党」という枠組が必死ではないか。そうすると保守2大政党にするか、そうでないものにするかが大きな焦点では?社会党はそこまで踏む込む意志なのか。
連用制が出発点とすれば、さらに並立制に近いものが着地点という事ではないのか。

<18日の選挙結果、その後の政界再編?>
A:民社党はもうだめでしょう。
B:今度の選挙では、もう政党としての意味ががなくなるのでしょう
A:民社党はいままでも保守の補完勢力であったが、もうその必要がなくなったわけだ。羽田派と日本新党、公明党と社会党の一部が結びつくという構図が選挙の前後に出てくるわけだが、社会党は全体としてどの方向なのか。
B:政権を取ることを考えれば過半数250が必要。羽田派が40、日本新党、武村グループも入れ、ついでに公明民社が50、会わせて150くらいか。そこで社会党がどう動くかだ。改革派、右派のグループが動くということは考えられるが、いわいる左派も入れての社会党全体ということになるのかどうか。
A:羽田派40といっても、総選挙には羽田派新人もでてくるわけで、それがどこまで伸びるのか。自民党本体がどこまで防げるのか。また、日本新党がどこまで伸びるか、総選挙の結果が、新たな再編を生み出すとも十分予想される。
B:連合や仝電通の選別推薦という詰もあるが、今回の選挙ではどうなるか。
A:これはどう考えても、保守2大政党制的な形になっていくのかな。2大政党とならなくても、第2保守党を創る、そうしなければ、「腐敗する自民党」だけの受け皿では、保守支配が続かないところまで、彼らが追い込まれてきたことは事実だ。財界団体も17日前後に政治改革が進まない中での政治混乱に対して不快感を示していたし、それで自民党に資金援助ということにもならないだろう。自前でやってみろと言う感じかな。
D:財界も資金的には、景気の問題もあり、しんどいという状況もあるのでは。そして、社会党のなかでさえ分岐がでてくれば我々も一定の判断が必要になりますね。
F:このままでは、羽田派と日本新党を足せば、社会党が第2党でなくなる事態になる。
A:どちらにしても、今回の選挙では、羽田派を抜いての自民党単独政権の崩壊は必至であるということは確実。それ自体は歓迎すべき、歴史的なこと。ただ、改革の中身をめぐる問題となるのではないか。

<社会党は、改革派となれるか>
A:ところで社会党だが、今でさえ危機感が無いように思う。93宣言というのもあるけれど、党内では本気の議論になっているのか0 これだけ、自民党がパフォーマンスを演じているなかで、不信任案が通ったというだけで喜んでばかりはいられない。次はなにかが、社会党サイドからは示されていないように思う。「さあ、連合政権だ」だけでは、逆に社会党が低迷する可能性が高いのではないか。
B:55年以前の右派社会党、左派社会党みたいなかちにはもうならないだろう。例え、そうなったらもう「統一」はない感じだ。
C:いすれにしても、7月18日が次の新たなスタートになる。それぞれの場所で選挙に関わり、自民党の歴史的敗北を実現したいものだ。

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】自民党一党支配体制の崩壊から

【投稿】自民党一党支配体制の崩壊から
                                                                                       連合政権時代への新たな胎動

7月7日から始まる先進国首脳会議を目前に控えて、よもやと思われた事態が展開し始めた。サミット開催国、議長国をつとめる日本において、自民党宮沢内閣はもはや死に体同然、「不信任された首相」が議長をつとめるという、これまでに例のない、屈辱的な姿でサミットを迎えることになったのである。宮沢首相にとって、もっとも回避したかった最悪のケースが現実のものとなった。冷戦時代の終焉とともに到来した新しい時代に、新しい思考と先見性や行動力が何にもまして重視される時代に、もはや旧態依然たる自民党政権、そして野党を含めてそれを許してきた旧来の政治体制の役割はすでに終わっているのだということを示したといえよう。
今や一般紙でさえ、「指導力のなさ」を見込まれて旧竹下派に推された宮沢氏が首相だったことは日本の政治のひとつの悲劇であった、と断言している。そして総選挙後を展望して、宮沢政権の役割を徳川第15代将軍慶喜になぞらえて、「文字通り一党支配時代の幕引き役となるのは、天の配剤というべきかもしれない」とまで見透かされている。そのうえ、「政治的に無能な宮沢首相でさえできたのだから、野党でも政権をとれないことはない」という皮肉まで社説で展開されている。
明らかに新しい時代の展望が開きかけているといえよう。自民党が事実上分裂し、自民党の独占的な政治支配が不可能となったことの意味は大きく、総選挙の結果によっては日本新党を含む野党連合政権、あるいは羽田・小沢派と野党による連立政権誕生の可能性も出てきた。自民党は過半数割れどころか、200人割れも不思議ではない。自民党では、首相の応援演説を求める地方組織がないという事態にまでなっている。羽田・小沢への憎しみを前面に党内引締めに全力を傾注した梶山幹事長は、「政治改革に名を借りた権力闘争だ」として、いやがる宮沢首相に内閣不信任案の採決を主張、羽田派の野党との同調をあぶり出すように仕向けた結果がこれであった。いわば一種のハプニング解散であったにもかかわらず、政治のダイナミズムは予測をはるかに越えて、新しい時代の幕開けとなったのではないだろうか。
そしてこうした事態は、野党とて無縁ではあり得ないといえよう。今後予測される政界再編の激動は、旧来の政治手法、国対政治、派閥取引、与野党癒着の腐敗構造、等々が許されない事態をもたらし、これらによりかかってきた野党の再編をもたらすのではないだろうか。何よりも先ず、この総選挙において自民党を政権の座から放逐する連合、連立政権の樹立に向けてあらゆる勢力を結集し、糾合しなければならないであろう。       (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【コラム】ひとりごと –労働組合を担う世代について–

【コラム】ひとりごと –労働組合を担う世代について–

▽企業の「リストラ」ブームで、とうとう中高年管理職が会社から弾き出される時代になった。「管理職は組合をつくって聞え!」という声もちらほら。日本のサラリーマンには「滅私奉公すれば、やがてはバラ色の生活」という世界が存在してきたが、とうとうそれもメガトン級のパンチで壊されたようだ。考えてみたまえ、45歳にもなればもう退職を迫られる世界である。子供も家も、なにもかも大変な時代である。▽不況で企業が倒産することは通例であるが、今回、はちょっと違う。先を見ての中間管理職の合理化、事業部門等の整理統合である。これからの減収減益の中で企業収益構造を高めるための体質転換だ。売上重視から収益重視へと変ってきている。もうけるためには何でもやりますから、うちはこれでもうけますだ。「安易な中高年いじめは企業の力を弱めるだけであって、企業の損失」だと三菱総研あたりが忠告するぐらい、リストラで中高年はやられている。▽さて新しい人事管理には年報制が話題を呼んでいる。プロ野球選手と同じだ。上司との間で細かな目標管理が行なわれ、達成率によって査定され、給料が決る。比較的技術職関係には「プロ集団」「技術集団」を形成する上でのく働きがい)との関係で取り入れられていっているようだ。すでに職能給制度でもこれに近いところがある。▽労働組合といえば公務員関連および大企業の労働組合だ。中小は数でいえばビビたるものだ。もちろん運動的にはいろいろある。ただ全体への影響力では比較にならない。労働者の4人に1人以下になった組織率。しかも組合員であることを自覚できない組合員が増えている。私の実感からいっても、ふつうの人が労働組合をやっている人はめずらしい。活動家だけがとっかえひっかえ組合の執行部をやっているとしたら、もう末期症状である。ただ気掛りなのは、今30歳前後の人以後の世代に、労働組合をやる人がはたしているのかどうか?そうした組合に出来るのかどうか?だ。運良く(?)私たちはその鍵を握ってしまっている。(東京・i)

【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日

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【映画評】「永遠のマリー」とイタリアン・リアリズム

【映画評】「永遠のマリー」とイタリアン・リアリズム

4月下旬の日経新聞、「シチリアの少年院を舞台に、そこへ赴任した教師と少年達のぶつかり合いを描いたマルコ・リージ監督の『永遠のマリー』は、現実を乗り越える視点と、さわやかな映像で観客に強く迫る。技法の面からも注目したい作品だ」という映画評に引き付けられてこの映画を観た。
題名からすると、恋物語のようにも響くが、パンフレットのサブタイトルは「囚われの美しき青年達」とあり、文字通り美少年のマリーのカット写真が載っている。同映画評で「題名のマリーは男娼のトラブルで収監された美少年のことで、その美しさと、彼らを犯罪へと追い込む社会のゆがみとを対置させている」と紹介されているとおり、イタリアン・リアリズムの社会派的伝統が脈々と生き続けていることを実感させるものであった。
主人公のマルコ(ミケーレ・プラチド)は、ミラノでの幸福な生活に破れ、古典文学の教師の職を捨て、失業者のあふれる故郷のシシリー鳥に帰ってきた。失意の彼が選んだ職業は、誰もが敬遠して応募しなかった少年院の教師の職だった。バレルモの少年院には、麻薬、売春、暴力などで捕らえられた少年たちが待っていた。反抗と事件を繰り返す少年たちに、マルコは一つ一つ教えていく。きれいな川がつぶされ、水をなぜ買わなければならなくなったのか、美しい自然が破壊され、コンクリートだけの住宅団地になぜ住まなければならなくなったのか、シチリアの貧困の歴史的背景とマフィアの犯罪的行為を、マフィアにあこがれ、マフィアに連帯感を持つ少年たちに説く。授業といったものが成立しない雰囲気の中で、読み書きすらできなかった彼らに、文を綴らせ、人間として己を振り返り、誇りを持って生きるよう、繰り返す。
しかしマルコ・リージ監督は、教師を聖職者に仕立て上げることなく、主人公のマルコもまた悩み、揺れ動く人間として措いている。少年たちと格闘しつつ、一方で文部省からの一般高校教師の採用通知を待っているマルコであった。そうした揺れを管理強化と罰にやっきとなる院長や看守たちに見透かされてもいる。だが、マルコは、心を開き始めていたピエトロ少年が脱走した後、おもちゃのピストルを持ってデパートを簸い、警官に射殺された事件を機に、少年院に残ることを決める。この決意は、監督自身の生き方を表しているように、私は感じた。
周知の通り、イタリア政界とマフィアとの癒着は、今に始まったことではなく、つい先日も前首相が辞めぎるをえなくなったように、広く深く浸透している。そして、追及し悪を断ちきろうと立ち上がった人々を容赦なく死に追いやってきた、残酷な現実がある。「世の中、持ちつ持たれつじゃないの」を、政界や財界はむろんのこと、司法界まで地でいっている。しかしこのところ明らかに事態が変化してきている。
ミラノの3人の検察官が摘発した政界・財界の汚職と腐敗構造の追及が、ついに政界のトップにまで及んできたのである。その先頭に立つ検察官の一人が、これまでは必ずもみ消され、上からの指示でストップさせられてきたが、今度は世論が、多くの国民の一人一人がそんなことを許さなくなってきたと語っている。この映画は、1988年に製作・配給されているが、「イタリア政界を揺るがしているスキャンダルを見据えていたようにも見える」と、日経編集委員の嶋田氏は書いている。
リージ監督の最新作「Ragazzi Fuori」は、「永遠のマリー」の続編とも言うべき作品だそうだ。機会があれば、ぜひ観たいと思っている。       (大阪・田中雅恵)

【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日

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【投稿】揺らん状態のロシア民主主義

【投稿】揺らん状態のロシア民主主義
                                                       –ロシア国民投票の結果と新たな権力闘争–

<「改革」対「共産主義の復権」?>
4月25日に行われたロシア国民投票の結果は、エリツィン現大統領の信任を改めて確認した。しかし以前の熱狂的な支持率からは明らかに後退しており、その社会経済政策も信任されたとはいえ、多くの批判票が投じられた。また都市部や工業地域では高い支持率を獲得したが、農村部や民族共和国地域では多くのところで批判票が上回る結果となっている。
大統領と対立する人民代議員の繰上げ選挙実施の是非については、過半数の支持を得られなかった。これによって、大統領・行政府と議会・立法府のいわば二重権力状態は新たな段階に入ったといえよう。事態は遅かれ早かれ「大統領と議会の早期繰上げ選挙」が不可欠な方向に進展しており、ルツコイ副大統領はエリツィン氏の対抗馬として大統領選立候補を明らかにしている。
エリツィン大統領は、今回の投票を通じて国内外に「改革」対「共産主義の復権」という対決の図式を前面に押し出し、海外からの緊急支援をテコに一定の成功をおさめたことは事実であろう。エリツィン氏は、「強い大統領」への国民の期待の高まりを背景に、大統領権限を強化した新憲法草案を公表、これに対抗して議会側は、「大統領は独裁に近い政権を想定している」として、独自の新憲法草案を起草、発表した。エリツィン氏は、これに対して「特別統治」といった強硬措置を導入したり、起法規的措置を使ってでも新憲法早期導入を目指す可能性を示唆している。

<現実の着実な改革からの逃避>
しかしこのような対決主義の図式はもはや過去のものであり、積極的なものを生み出さないのではないだろうか。対決主義は逆に現実の課題からの逃避を合理化させ、改革を棚上げすることにしか役立ってこなかったのである。社会の分裂を深刻化させ、対立をあおることによって、現実の着実な改革を遅らせることに利益を感じているものを喜ばせるだけであろう。市場経済がいずれの側からも語られながら、独占的経済構造は逆に強化され、インフレの激化と無政府状態が野放しにされている。
そもそもエリツィン氏を最高会議議長に選出し、大統領制を導入し、さまざまな追加的権限を与えたのは、現在のロシア人民代議員大会なのである。にもかかわらずその後の事態は、両者ともに現実の社会経済改革に失敗し、紙幣の乱発と年2~3000%におよぶハイパーインフレ(92年には物価は26倍にも跳ね上がった)をもたらし、生産をさらに落ち込ませ、国民の窮乏化を一層促進し、地域的民族的対立を激化させ、無政府的状態を深亥肘ヒさせてきたことを示している。

< 訪日の余裕などなし>
エリツィン大統領が再び訪日の延期を発表したことに対して、日本経済新聞5月8日付社説は、「現議会を廃止して大統領主導の国家体制を確立するには、新憲法を制定しなければならない。これは現在の規定によれば現議会で採択される。保守派の強い議会は当然反対する。そこで大統領倒は今月末か来月初めに特別の制憲会議を開催し、強引に新憲法を成立させようとしている。権力闘争が正念場を迎える時期に、日本を訪問している余裕はないというわけだ。」「さらに、もうひとつ見逃せない点がある。エリツィン大統領一流の野放図な振舞いは、国内で許されても対外関係では通用しない、という認識が現政権内には薄いことだ」と、痛烈な皮肉をこめて論評している。
権力闘争が正念場を迎えているかどうかは疑問であるが、問題は、困難な社会的経済的な対立や矛盾が存在することにあるのではなくて、そうした矛盾や対立があるのはむしろ当然であって、いかにそれらを解決、あるいは前進させて行くかということにある。ロシアはこの点で、それらを民主主義的に解決するすべも、それを支える政治制度も、民主的諸政党もまだ確立し得ていないといえよう。こうした段階での対決主義、急進主義は、ろくな結果をしかもたらさないし、むしろ社会を危険な状態におちいらせかねないものである。

<レッテル張りと原始的サディズム>
「もちろん、今のエリツィン大統領の政府は、自ら批判を呼び起こしているところがある。だからこの政府を批判するのは簡単だ。だが簡単であるが故に私は批判を控える気持ちになっている。今のロシア大統領は、以前のソ連大統領の時と同じ勢力、つまり防衛産業部門、封建地主階層、民族主義者の抵抗を受けているのだ」--こう述べているのは、A・ヤコプレフ氏である。
近著「歴史の幻影」(1993.4.22、日本経済新聞社、2800円)の中で、氏はこうした対決・急進主義に触れて、「この不寛容の思想こそがまさに今また社会を分裂させつつあると私は深く信じている。・・レッテルを張り、侮辱を加え、我々自身の子や孫を顧みず、神をも悪鬼をも恐れず、ただひたすら身近な者を塵芥のように地面に踏みつけることに専念し、この原始的なサディズムから甘美な満足を得てきた。ゴルバチョフとエリツィンを礫にせよ、サプチヤクとポポフを銃殺せよ、共産党を裁判にかけよ、民主主義を八つ裂きにせよ、と」と述べて、その弊害を厳しく糾弾している。氏はさらに、「政治的な武器としての烙印押しは相変わらず使われている。誰かがロシア大統領や政府を批判しようものなら、批判者は直ちにネオコムニストか保守派等々にされてしまう。烙印押しは以前は共産党政権と共産党メディアの得意手だったが、今は一部の民主派がこの手を愛用している」ことについても指摘している。

<民主主義にとっての三つの危険>
ヤコプレフ氏は、「だがそれでもベレストロイカは前進した。紆余曲折、緩急、停滞を繰り返しながらも進んでいる。社会はそれによって変貌」したことを明らかにしながら、同時に「ある人々は、宗教裁判さながらに、ゴルバチョフを裏切り者として、マルクス・レーニン主義の聖堂破壊者として非難している。私もまた同様の非難を賂びせられている。エリツィンを悪魔の化身とみなしている人たちもいる。また別の人々は、みるみる窮乏化しつつある社会からできるだけおくのものをむしり・とろうとしている。後は野となれの精神である。そして、誰が出てきてどうなるのかを憂欝そうに見守っている人々が大多数だ」という現実を見すえている。
氏はそうしたロシアの現状を厳しく見つめながら、「私はまだ揺藍状態にある民主主義にとって三つの危険があると考えている。第一に政治的、行政的未熟さであり、新エリートの能力の低さである。第二には民主主義の経済的、社会的基盤の侵食であり、第三には改革勢力の分裂、政治家の叡智とカは頭ごなしの否定ではなく民主的プロセスの一貫性のある継承にあるという理解の欠如である」と述べている。
これに関連して、ソ連共産党最後の大会となる28回大会の期間中、「若手代議員集会には450人から500人もが集まったが、その一部が私の所に押し掛けて、この大会を放棄して新党の結成大会を開催したいがどうか、と追った。だが私はゴルバチョフを見捨ててはならないという思いからこの提案を断わり、今はその時ではないと論じた。このことを今振り返ってみれば、私は間違っていたと思う。たぶん間違っていただろう。あの時にまともな、活力のある、改革を目指す民主的な政党を作ることは可能だったと思う」と振り返っている。まさにこうした政党、あるいは改革勢力の団結の欠如こそが現在のロシア情勢を規定しているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日

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【投稿】現代ゴミ事情 ゴミ焼却場建設を巡って

【投稿】現代ゴミ事情 ゴミ焼却場建設を巡って

読者の皆さんは、家庭から出るゴミをどうしているでしょうか。きっとゴミ袋か何かに詰めて、町内や団地内の決められた場所に決められた曜日の朝に出していることでしょう。
出されたゴミは、程なく昼までみはパッカー車で残らず運ばれている筈です。残っているゴミ袋があったり、集配が忘れられたりすることなど絶対にないでしょう。ところがゴミが運ばれることなく、町のあちこちで置き去りにされてしまう事件がありました。私の住んでいる大阪府河内長野市のゴミ事情をレポートしつつ、ゴミ問題を考えてみました。

<焼却場周辺住民が、ゴミ搬入に実力行動>
新聞やテレビのニュースなどで少々騒がれましたので、御存知の方も多いと思いますが、事の発端にはゴミ焼却場建設の問題がありました。河内長野市のゴミは、近隣の市町村でつくる南河内清掃組合という事務組合によって処分されており、現在のゴミ焼却場は富田林市に有ります。ここに3市2町1村分のゴミが全て集められ、日々フル回転しているわけです。この南河内地区というのは、近年大規模な住宅開発や高層マンションの建設が進み、人口が急増している状況にあります。当然ゴミの量は増え、富田林市のゴミ焼却場だけでは持ちこたえることができず、第二焼却場の建設の必要性が生じてきたのです。と言ってもこれは今になって出てきた話しではなく、かれこれ13年前に、現在の市長が初当選する際に「ゴミ焼却場建設」を公約してからずっと焦点化していたものです。その後、2度候補地があげられましたが、住民に金をバラまいたり、周辺住民の強硬な反対にあったりで、いずれも頓挫しています。そして、今回の天野地区が3度目の最後の候補地となったのですが、やはり周辺住民の反対運動が起こり、行政側はまたも立往生することになります。そうこうしているうちに、第1焼却場に運ばれるゴミは増え続け、河内長野のそんな状況に業を煮やした第1焼却場周辺地区の住民が「第2焼却場建設のメドが立つまで、河内長野市のゴミを搬入させない」とアピールし、ついには焼却場入口でのピケによる実力行動に出たのです。行政側は集配時間を早める等で対応しましたが、とっさの目先の対応でしかなく、当日は積み残されたゴミが街中で見受けられるという状況になったわけです。

<住民エゴでは、解決しないゴミ問題>
さて、河内長野市のゴミをめぐる状況を簡単に説明しましたが、ここで問題になっているのが、増え続けるゴミの処理をどうするのかという点です。出されたゴミは焼却しなければならず、焼却揚が足らなければ建設しなければならない。この点では、行政はもとより、議会も住民も一致しているのですが、いざ実際に自分の住んでいるところに焼却揚ができるとなれば、反対の住民運動が起こります。その反対の根拠は「焼却場建設によって緑が破壊される」「空気が汚染される」云々といったものです。特に今回の天野地区では「市営斎場に続き、またもや嫌悪施設を押し付けるのか。同じ市民でありながら、他地区に比べて不公平ではないか」ということが強く叫ばれています。
私は、たいていの住民運動に対して理解するところが多いのですが、この「ゴミ焼却場建設反対」の住民運動だけはどうも納得できません。なぜなら、生活していく上でどうしても生じるゴミに対する考え方の転換なしに、ゴミを出し続ける市民でありながら、近くにゴミ焼却場が建設されるとなれば反対するというのは、生活者としてあまりにも無責任ではないかと思うからです。確かにあらゆる地区から出されたゴミが自分の住んでいる一点に集中するというのはイヤなものでしょうが、自分もそのゴミを出している一市民なのです。ゴミを減らす努力はしているのでしょうか。再利用できるものがまだあるのではないでしょうか。資源ゴミと一般ゴミを分別しているでしょうか。古紙は回収業者に出しているでしょうか。牛乳パックはちゃんと集めているでしょうか。これらのことは市民一人ひとりに問われている当然の義務です。「ゴミに対する考え方の転換」というのはこういうコツコツとした日々の心がけの問題なのですが、実際にはなかなか定着していません。現実にゴミが増えている中で、並行してこうした減量化の努力は続けなければなりませんが、やはり焼却場は必要なのです。私なら、もし自分の住むに街にゴミ焼却湯ができるとなれば、これまでの生活を省りみつつ、賛成するでしょう。
ゴミ焼却場建設を巡ってのやりとりで、河内長野市が注目されることになりましたが、これは現在のゴミ問題のほんの一端ではないかと思います。大量消費社会などと言われている中で、現れ方の違いはあれども、いろいろな面でゴミの問題は問われています。それらは、企業や行政の問題として扱われている場合が多く、確かにそういった側面も強いのですが、今や生活者としても市民の自覚、モラルの問題にもなってきているのではないでしょうか。何もかも行政まかせにするのではなく、市民としてできることは自分達でやっていく、それが本当の意味での住民意識の高さ、市民レベルの高さであり、力強い住民自治を創っていく上での実になっていくのではないでしょうか。ゴミ事情や反対運動を見て、そんなことを感じた次第です。     (大阪 江川 翔)

【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日

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【投稿】政治改革の裏舞台

【投稿】政治改革の裏舞台
                                                            –日本新党にみる政界再編の構図–

政治改革はもっぱら選挙制度の問題にまたもや煮詰まってきた感があるが、ともかく腐るところまで行き着いた政治の現状を何とかしなければいけないという点では同じ土俵にあるわけで、それはこれまでの保守とか革新とかいうそれぞれの政治事情をとうに乗り超えて、具体的な生活選択の問題としてもリアルに政治が応えなければならないという、<日本と世界の現況>に大きく動かされていることは間違いないであろう。
このいわば「改革」ブームにおおきく波紋を投げかけたのが日本新党であり、平成維新の会であるが、この政治グループの背景もしっかりと見ておく必要があると思い、以下紹介する形でそれに代えさせてもらう。もちろんこの指摘がすべてではないが、現実にそうであるという事実は彼等は何も説明していないのであえて紹介し、議論の材料としてほしい。

<日本新党の流れ>
細川護熙は旧熊本藩主細川家18代。1938年1月東京都生れ。父、細川護貞は近衛文磨首相秘書官、永青文庫理事長、神社本庁統理。母、湿子は近衛文磨の二女。上智大卒。朝日新聞記者。71年から参議院議員(自民党)2期、83年から熊本県知事(自民党公認)2期つとめる。90年自民党の推薦で、東京都知事選に出馬の動きがあったが、現職の鈴木知事が降りず、断念した。91年かわって出馬した磯村尚徳が、鈴木知事に惨敗したのは記憶に新しい。細川出馬、磯村出馬を仕切ったのが、誰あろう小沢一郎・自民党元幹事長である。91年行革審部会長。92年日本新党結成。
細川と佐川清(佐川急使元会長)との関係は有名で、新潟・赤倉細川別荘と京都・南禅寺にある細川家別邸を、佐川清や次男の光に長年にわたり賃貸し、家賃収入を得てきた。細川はまた右翼の四元義隆(血盟団員。黒幕牧野伸薪、大川周明と井上日召、団員との連賂役。安岡正篤の弟子)とも頻繁に交友関係にあり、四元は日本新党の陰の立役者ともいわれている。
細川の日本新党が旗揚げされたのは92年5月。結党宣言はr文芸春秋』92年6月号に掲載された。文芸春秋はアメリカCIAの下請けジャーナリズムといわれ、日本新党の対米政策も、市場開放の推進、日米安保条約のより包括的・安定的な発展をめざすなどアメリカー辺倒である。実は規制緩和、許認可権の見直し、市場開放(コメや食品の自由化)、地方分権(小さな政府)など新党の政策は、アメリカの「スタンフォード大フーバー戦争・革命・平和研究所」が中心となっている「モンペラン協会」のかかげる(大資本優遇)政策や中曽根の臨調・行革路線の主張と同じである。
日本新党は主として五つの人脈があると言われている。一つは細川自身の殿様人脈。事務局長は永田良三、永田家は細川家の代々家老職をつとめる。二つは八幡製鉄から鉄鋼労連会長、松下政経塾長の宮田義二を筆頭とする松下政経塾人脈。宮田は勝共連合人脈のひとり。三つは行革固民会議のメンバーで日本新党企画調整本部長の金成洋治を筆頭とする行革審人脈。四つは政治分析センター代表の松崎哲久(ハーバード大研究員、中曽根自民党総裁付)を筆頭とする政治プロパー人脈。五つは小池百合子、円より子などタレント人脈。日本新党は結党以来、自民党小沢派の別動隊といわれる。別動隊の中核が宮田を筆頭とする松下政経塾人脈である。

<平成維新の会の流れ>
日本新党と併走する集団に「平成維新の会」がある。
大前研一が平成維新の会を旗揚げしたのは92年11月。大前はMIT大学院原子工学科博士課程修了、70年から日立製作所で高速増殖炉の開発に従事、72年マッキンゼー(世界最大手の経営コンサルティング会社。本社ニューヨーク)に転身、79年日本支社長。現在マッキンゼー・ジャパン会長。大前はアメリカ企業の代理人としての商売をしているにすぎない。夫人はジャネット。また大前は加山雄三のヨット仲間。各地の漁港が公的補助で作られているのにひきかえ、ヨットハーバーが不十分なのに腹を立て、農漁民への補助の打ち切りと、一定所得以下の農漁民の切り捨てを主張する。
岩国哲人出雲市長も重要である。東大法学部卒。日興諾券入社、77年モルガン・スタンレー投資銀行部長、84年世界最大の証券会社メリル・リンチ社(本社ニューヨーク)専務、のち上席副社長、89年に出雲市長に当選。岩国はアメリカ私企業から日本の行政へ送り込まれた代理人。岩国には細川との共著『鄙(ひな)の論理』がある。

<財界が政治のおもて舞台へ>
一連の動きが、1)政治浄化のはずが選挙制度の問題にすりかえられ、国際貢献という名の改憲へまっしぐら、2)談合を中心とする族議員・業界の癒着構造、許認可権の緩和と市場開放、この二本立てである。金丸逮捕は、アメリカ、そして政官財界の奥の院、検察がつるんだ威しであり、1)、2)は「本気だぞ」と内外に示した意味がある。
検察は従来、竹下派が牛耳り、本来なら金丸逮捕に動くわけがない。ところが昨年秋、文芸春秋から根来法務事務次官攻撃が行われ、同じ頃佐藤札幌高検検事長が朝日新聞の論壇に投稿、検察批判を行ったことによって検察内部の空気が一変した。法務大臣に後藤田正晴が就任し流れは決定した。金丸逮捕の直接のきっかけは大蔵省国税局査察部(マルサ)からの情報である。
中曽根の臨調方式以降、財界は政治の表舞台へ堂々と登場した。彼等は直接、政策を提示し、しかもあたかもそれが第三者的な立場で「多数の利益」であり「正義」であるかのような雰囲気づくりをして、マスコミを動員した。こうした事態に国会は空白化し、政党政治が無形化することは明らかであり、野党はこれに国会対策政治で対抗するだけであったことはつい最近の事である。いまやその自民党すら必要がなくなったのである。自民党自身が財界にとっての「改革」の邪魔となったのである。
政界再編の流れを仕切っているのは、モペラン協会と結んだ「産業計画懇談会」(桜田武代表世話人=元日経連会長)、「世界経済調査会」(木内信胤理事長=元勝共連合を応援する会座長)から第二臨長、行革審へいたる人脈。
現在は政治改革推進協議会(民間政治臨調。亀井正夫会長=元住友電工会長、日本生産性本部会長。国鉄再建管理委員長として国鉄分割・民営化に葬走)である。ここには後藤田法相のほか細川護照、小池百合子なども加わっている。    (東京Ⅰ・板橋M)

【出典】 青年の旗 No.187 1993年5月15日

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