【映画紹介】「病院で死ぬということ」

【映画紹介】「病院で死ぬということ」

出演:岸部一徳・塩野谷正幸・石井育代・七尾伶子・山内 明
原作:山崎章郎(主婦の友社・刊)  監督:市川 準

インデイージョーンズのようなハラハラドキドキはない、すてきな恋愛模様もないし、ジュラシック・パークやREXにような恐竜も登場しない。とかく娯楽性を追求した映画が多い中で、この映画はとにかくまじめであるし、映画のもう一つの楽しみを、見て良かったと本当にあとで考えさせる映画である。
映画は淡々としていて、死ぬということは「こうだ」というようなおしきせ、医療体勢の告発的なトゲトゲしいものではない。しかしこの映画全体をとおして、ベッドで闘病する人、それを取り囲む家族や医師、看護婦などの様子が、まるで一つのドアを開けて見ているかのように描写される。これは考えてみると、私たちの一般的な「死」というものへの壊し方のょうな気もする。身近な家族に「死」をひかえた人がいれば、また違うかも知れないが、あえて「死」を考えたりはしていないのが日常だ。自分は「まだちがう」、おやじやおふくろも「ちかいけれど、まだまだ」と、かやの外で考えようとはしない。
そして「病院で死ぬということ」については、またほとんど予想だにしていないのではないだろうか?だが映画は私を含めて自分の両親、またその親の「死と生」についての近いあり様をそのまま写しているようだ。
原作は60万部のベストセラー「病院で死ぬということ」(主婦の友社刊)、著者は現役の医師、山崎章郎。出演者もほとんど本職の方であるから、病院で「死んでいく」毎日を本当に実写しているような映画監督・脚本の市川純は映画「BU・SU」「つぐみ」を手がけているといえば、若い人には知っている人もいるだろう。
この映画のもっとも変わっているところは[製作]に中高年雇用福祉事業団の名があることだろうか。現在、一般劇場作品としても公開されているが、これに成立って自主上映会が各地で行われたこともお伝えしておこう。事業団としても医療や福祉現場にかかわりをもっているだけに、まじめなこの映画も生きているょうである。劇場公開だけでなく上映運動として生き長くつづいってほしい。

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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【投稿】労働組合の再生について思う

【投稿】労働組合の再生について思う

183号より4回に渡って掲載しました「労働組合運動の再構築にむけて」論文に対して、意見を頂きました。以下に掲載させていただきます。更に投稿をお寄せください。

依辺氏とは以前よく議論をする機会があって、そのたびにその論理の明快さ、発想の大胆さに感心していたが、この間「青年の旗」紙上に載った論文「労働組合の再構築に向けて」を読んで改めて彼の現状分析の正確さ・未来をみる日の確かさに舌を巻いた。その背景には、彼自身が「自治労」の分裂を体験し、新組合の結成を決断し、「労働組合」の根本を問いなおしながら新組合の力量の強化・活性化をなし遂げてきたという大変な努力があったと思う。私などはとても彼と同じ水準で議論することはできないが、彼と同じく一組合役員として自治労分裂を体験し、これからの労働組合のありかたについて非常な危機感を持っている者として、感想を述べてみたい。
彼の論文は、労働組合論の広範囲にわたって展開しており、いちいち納得してしまうのであるが、私自身が共産党系の旧衛都連の組合に属しているため、特に「赤色労働組合主義の完全払拭」それに関連した組合の民主主義的運営の問題について感じるところが大きかった。
共産党系の組合は表向きは政党支持の自由を掲げて「連合」組合との一線を画しているが、その活動の中身をみると完全に共産党の方針に従属していることはだれの目から見ても明らかである。ビラを見ても、情勢の評価や政治方針は共産党の方針が出なければ出てこない。ほとんど赤旗の受け売りや、ひどいときになるとまったく赤旗と同じ文章が載っていたりする。例えば、市長選挙をめぐる推薦問題でも自分達では決定できず、共産党地区委員会の決定が出てから選挙の直前になってなんの下部討議もなく突然推薦取り下げを決定したりする。彼らの情勢評価や方針に共産党の方針に反するものが一つでもあるだろうか。その意味では、社会党の方針であろうと公然と反論し、行動もするいわゆる社会党系組合のほうがずっと政党との対等性、独立性を保っているといつも思うのである。
このような組合であるからその組織運営についてもいわゆる「民主集中性」の名の下に徹底的な異論の排除、圧殺が行われる。自治労からの分裂の際、私は組合の方針に反対し、ビラを撒いて大会でも反対意見を述べた。しかし、私が執行委員の一人であったことから、執行委員会で決定したことを覆そうとするのはまさに裏切り行為であり、そのようなことするのは社会党の回し者で資本の手先だと徹底的なキャンペーンをはられた。イタリア労働運動における「反対意見者の行動留保権」などという発想は微塵もないのである。
しかし、分裂のほとほりがさめ、自治体労働運動が二つの潮流に固定した現在、組合の中はいたって平穏である。一時は役月選挙で執行部反対票がかなり出たにもかかわらず、今は組合大会で執行部方針が全員一致で承認される。これは一体どういうことであろうか。これはまさに依辺氏のいう「暗黙の二重理解」ということであろう。提案された「案」はあくまでも「建前」なのだから提案者の顔を立てて賛成するが、実際上の行動は現実対応で行う。組合員、特に行政の実態をよく理解している本庁の事務職は冷め切っているのである。
もし、現在の組合が一定支持を得ているとしたら、それは「職場委員会活動」の積極的な展開であろう。私自身も組合役員をしているときはそれを主な活動に してきた。しかし、この活動も現在の組合の古い発想の下では矛盾につきあたる。結果的にイデオロギーの一致を求めている組合の方針と、職場の実態から出される具体的な職場要求とは当然質が違ってくる。それを統一させることは困難である。例えば、職場では仕事を効率的に進めていくためにコンピューターの導入を求めても、組合中央が認めて当局と交渉しない限り導入はできない0しかし、組合中央は職場の実態を具体的に把捉する能力は持っていないからコンピューター導入に対する一般的な評価しか下せない。結果として、現場から組合中央に対して突き上げがあるということが起こる0職場の具体的な要求に基ずいて組合全体の方針を変えていくなどという発想は起きるはずもないから、結局職場には言いたいことを言わせてそのエネルギーを利用するというところにとどまっている。職場要求を本当に大切にしていこうと思うならば、依辺氏の指摘するように交渉権や財政権・決定権などの組合機能の分権化が不可欠である。
このような労働組合の中で役員になることはまさに苦行である。以前に役員をやっている共産党員の活動家から「しんどい」「組合員がちっともわかってくれない」という愚痴をよく聞いた。イヤイヤやる組合活動などやめたらいいのである。
これからの労働組合運動を考えるとき、官公労組合、民間組合にかかわらず労働組合と地域社会との結び付きが非常に重要だと思う。自治体組合については特にその意味が大きい。自治体には地域の様々な情報が集中している。それらの中には市民生活や市民運動にとって本当に必要であるものがあるにもかかわらず、肝心なところはほとんど市民に伝わっていない。
これらの情報をただ広報として流すだけでなく、具体的な市民生活や市民運動に自治体職員がかかわる中で的確に効率よく利用できるなら、どれだけ地域社会を活性化することができるであろうか。(市民運動に参加した自治体職員がどれだけ重宝がられるか!)その媒体としての自治体労働組合への期待は相当なものがあると思う。しかし、現状では、できるだけ自治体内部の情報は外に流さないという「役所的」あるいは、一種の「会社本位主義的」対応に終始しているのではないだろうか。その意味で、自治体労働組合が地域の様々な人々とともに情報公開運動の先頭に立っていくことが必要ではないだろうか。(もちろんプライバシーの保護と対にしながら)そのことが、市民の自治体労働組合に対する「お役所」批判を克服できるし、自治体労働組合の社会性を拡大する道だと思う。新政権の下で、迂余曲折を経ながらも地方分権は確実に進んでいくと考えられるから、この運動の契機は十分にあると思う。
一方、民間組合についても、これまでの「会社本位主義」を克服し、地域社会にかかわっていくことは、組合員の生活を確実に豊かにし、組合の社会性を拡大していくのではないだろうか。
(大阪:N)

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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【投稿】「組合論」メモ

【投稿】「組合論」メモ

総選挙後、連立政権が誕生した。私は、この結果を、単純に喜んでいる。「単独支配」「一党支配」が、社会の発展や人々の幸福に、多くの害を与えてしまった、この間の歴史上の教訓から、そう思うのである。
社会が高度に発達し、一人一人に大量の情報が手軽に届くにつれ、それぞれ発想したり、考えたりすることが多様になるのは、当然の成り行きである。その多様な考え・意見を、必要に応じて、一つの結論・方針に収赦させることは、社会の運営上、避けては通れないことだ。だが、「国のため」「党のため」「組職のため」という、上からの論理の組み立て方が一般的になってしまうと、個人の様々な意見が吸い上げられにくくなり、一人一人の都合など無視されてしまいがちである。
私が教員になった頃は、職に就いたら「組合にはいる」のが当り前のことだった、少なくとも大阪の地では。「6カ月」を過ぎようが過ぎまいが、始めから組合員だった。しかし、今や、日教組の組織率は減少の一途をたどっており、非組合員が増加している。「連合加盟」云々の状況下で、組織分裂に至ってしまったことは、組戚率低下の主たる原因であることは周知の通りだが、それでは問題の解決にならない。もっと原点に立ち返って、考えてみなければならない。
「生活と権利を守る」--お題目のごとく頭にある、「組合の定義」である。そして、ある一定、歴史的役割を果たしたこの定義を、もっとふくらませて幅のあるものにする必要がある。もっと「サービス機関」に徹することを考えてみたらどうだろうか。私の属する単組では、毎月5千余円の組合費を集めている。年間6万余円を個人から融資されていると考え、それに見合う「サービス」の提供に、役員は知恵をし
ぼるべきである。また、組合員自身も、「困ったときの相談窓口」として、組合を活用すればよい。相談料は、すでに組合費として払い込まれているし、遠慮なく電話やファックスを使って、組合を利用すべきだ。
冷戦時代は終わった。外敵を想定して、「反○○」を鼓舞することは要らない。人間が人間らしく生きれるように、個人の多様な意見・要求を多くの場で求め、それにもとずいて活動方針・組織運営を考える、いわゆる下からの組合作りを、もっと強める必要がある。そのためには、「動員」などという組合用語を一日も早く死語にしなければならない。動員されて集会に行くのではなく、組合員一人一人が、集会の意義や行動の意味をもっと主体的に認識し、参加する形式にして行くようにしたい。その意味で、この間連載された依辺論文には、これまでつねづね感じていたことでもあり、多くの示唆を与えられた。
さらに言えば、日教組は教育について、自治労は自治について、その分野のプロとして提言を積極的に行う必要がある。そのためには、社会に受け入れられるだけの見識を持たなければならない。「批判」を並べ、「反対」を叫ぶだけの組合は、先細るだけだ。高い見識とプロとしての自覚と実行力を兼ね備えれるような組合を目指したいものだ。 (田中 雅恵)

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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【投稿】連立政権の存続と社会党の再生に期待

【投稿】連立政権の存続と社会党の再生に期待
                               森田一夫

8月9日、長年の自民党政権に代わって細川連立政権が発足。社・公・民・社民連というこれまでの野党と新生・さきがけ・日本新党の保守3新党が政権与党となり、自民党が野党となるという歴史的な局面が出現しました。
細川新政権について、思うことを文章にしてほしいという編集部からの依頼で投稿をする与とになりましたが、正直なところ私は「この政権はいったいどうなって(進んで)いくんだろうか?」と推移を眺めている毎日で、野党第1党としての社会党を支持してきた一人として社会党の政権参加から政権与党として選挙制度での社会党の妥協などには複雑な気持ちをもっています。

まず、政権成立から最近までの新聞記事(朝日)の見出しのいくつかを追ってみます。
8/9 細川連立内閣発足 6党首起用 主要閣僚に新生党
民間2人、女性3人
山花社会党委員長が政治改革担当相に
8/10 靖国参拝閣僚激減(新生党のみ)
8/14 自民派閥研修会を中止・延期 求心力の低下も一因
8/16 全国戦没者追悼式 細川首相「アジアの犠牲者に哀悼の意」
土井議長「アジアの人々との和解を手にしていない」
経団連 献金あっせん廃止
8/17 大内厚生大臣「平和祈念館」見直し 加害責任問う声を配慮
経済規制 秋にも一部緩和
8/21 「5兆円越す減税を」 連合が要求 日経連一致
8/23 2大政権勢力めざす 公明党大会で委員長ら強調「新・新党を視野に」
労働者政党消滅を懸念 全国一般労組委員長
細川首相、初の所信表明演説 政治改革年内一括で
「生活者優先」を強調 黒字縮小へ構造転換
「侵略行為」をおわび
8/25 河野自民党総裁が代表質問へ
連立与党の矛盾追求へ 減税・防衛を軸に護憲強調、新生と対決色
8/28 小選挙区比例代表並立制 定数各250 2票制
政党助成 国民一人あたり500円(合計600億円)
9/2 経団連 企業献金の斡鹿廃止 全廃含め見直し民借金分は例外

<過大評価しないが、変化ほ期待できると思う>
細川新政権は、選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制)を公約として成立したのであるが、成立してのこの3週間ほどの間で、これまでの自民党政権とは「違う」と期待してよい兆候はいくつかあると思う。
例えば、先の戦争を「侵略戦争」と規定し、アジア各国にたいして日本の戦争責任を明らかにするとともに、再び政治的軍事的脅威を与えないよう配慮していること。
自民党永久政権の下、経団連が自民党献金をするのが当然のことのように思われていたが、それに見直しの動きが出てきたこと。
派閥長老や族議員の求心力は政・官・業の癒着構造のもとで強くなってきたが、自民党派閥研修会が中止となったり、官僚の根回しの対象が変わったりして変化してきていること。
連立政権がその発足において、これまでの政治の継続を掲げている以上、新政権の「新しさ」がこれまでの政策の継続性とあつれきが生じるときには、連立与党内の対立となり、「侵略」発言の後退に見られるような紆余曲折が出てくると思います。それでもなお、連立政権が続けば続くほど、それだけ自民党は野党となり、政・官・業の癒着の流れに変化が生まれ、私たちがこれまで経験したことのない政治システムが生まれると思うし、またそれを期待しています。

<景気対策で実績を期待>
これまで社公民連合政権構想など自民党に代わる政権づくりの取り組みはいろいろありましたが、新政権の誕生には到りませんでした。その原因には例えば、社・公・民それぞれの支持拡大の取り組みが足りなかったとか、いろいろあると思いますが、私は「野党には政権担当能力がない」という自民党の批判を跳ね返すだけのものが野党にはなく、それ故政権交代によって景気後退や経済の混乱のリスクを犯したくないという国民の安定志向にインパクトを与えられなかったからではないか、と思っています。
現在は、野党にとって政権担当能力を示す絶好の機会です。自民党がやってきたことぐらいは野党(社公民)でもできることを示すために全力を傾けることがもっとも重要なことと思います。確かに、日本の政治経済をとりまく状況は超円高、貿易黒字と日米経済摩擦、ウルグアイ・ラウンドと非常に難しい課題ばかりですが、景気の回復と経済の安定と発展が連立政権に対する国民の支持を左右すると思います。(私は、経済の専門家ではないのでどうすればよいのかはわかりませんが)

<自民党政権との違いを際立たせることも重要>
細川首相の所信表明演説に対して自民党内からは、「自民党と同じ」という意見も出ており、また、共産党は連立政権に対して「第2自民党政権」というキャンペーンを展開しています。これらの主張自体は我田引水、党利党略のなかから出てきているとは思いますが、同時に連立政権が自民党政権と違うことを際立たせることも重要と思います。9月1日連合山岸会長が細川首相にあったとき、そのために①公務員給与に対する人事院勧告の完全実施を今月中旬に召集される臨時国会の冒頭で処理する②被爆者援護法の制定③文相と日教組委員長の定期会談を始める、と申し入れています。
山岸会長の提案だけでよいのかという主張はあると思いますが、連立与党間の基本政策の違いが大きくあるなかで、自民党政権との違いを際立たせることができれば連立政権への支持はますます大きなものになると思います。

<難しい状況を乗り越え、社会党よ、がんばれ>
社会党が最も難しい状況に置かれていることは言うまでもありません。総選挙での惨敗、小選挙区比例代表並立制への合意と連立政権参加という進展のなかで、一方でこれまでの抵抗野党というイメージを一歩脱却しなければ再生の道はない、という思いと、結党の原点を忘れるな、小選挙区制をのめば党がなくなる、という思いが複雑に入り交じっていると思います。さらにそれが左右(保守各党と共産党)の攻撃にあっています。山花委員長の責任論と委員長選挙と絡み連立政権の不安定要因の一つになっています。
社会党の党内事情はよく知りませんが、党内での論争点が克服しがたいものとは思えません。自民党は結党以来、自主憲法制定が党是となっていますが、改憲のため自民党に投票してきた人は少ないと思います。
政権政党としての実績が自民党の勢力につながったと思います。一方、河野総裁は先の国会では護憲を強調していました。社会党も基本政策は今のままでいい、政権政党としての実績を積むなかで国民に理解してもらえばいい、くらいの立場に立てないのかと思います。社会党の旧来の立場のなかでは、朝鮮半島問題などは現実と大きくかけ離れたと思うし、原発をなくしていく立場は環境問題からみても世界の流れでもあり、これからますますそうなると思います。
さらに難しいのが、選挙制度(小選挙区比例代表並立制)の問題です。連立与党内で合意された内容ですら党内で異論があるのに、今後国会審議のなかでさらに修正があるとなっています。社会党の存立の危機が言われるのもよく解ります。
しかし、私は今回の連立政権准生が何十年間に一度の”歴史のはずみ”に終わることなく、日本の政治が政権交代と連立政権の時代に入っていき、社会党が今までの基本政策を持ち、政権政党としての実績を積んで再生していく遣を模索し、党内での争いがその方向で克服されることを期待しています。(9/3)

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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【投稿】新世界と日本の進路について

【投稿】新世界と日本の進路について

<93年選挙結果が示すもの>
93年衆議院総選挙における社会党の歴史的敗北は、日本に冷戦構造の崩壊という世界を揺るがした大地震の津波がようやく押し寄せたことを感じさせた。米ソを軸とした冷戦構造の中で極東の前線地域における日本の平和を守るために、自民党の行き過ぎた対米追随の好戦政策に対する護憲を旗印にした対抗勢力として一定の役割を果たしてきた社会党は、もはや「お払い箱」同然の扱いを受けている。
国民の審判は、新しい世界情勢に対応して新しい政治を担う政党の登場を期待するということである。東西の冷戦の危機が去った今日、いわゆる「自由世界」の陣営は自民党という保守の統一戦線的性格の政党に結集する必要は何もない。新生党や日本新党あるいは新党さきがけといった新しい勢力は、冷戦構造の崩壊によって初めて次々と生み出され、国民の支持を幅広く得ることができた。国民は政治の空白や不安定さを何ら心配することなく、安心して日本の政治の選択をできたのではないだろうか。
東西冷戦下で米国の戦争瀬戸際政策に対して常に警鐘を鳴らし続けてきた社会党は、自らの新しい任務を国民の前に示すことができなかった。すなわち新世界の創造と日本の役割を明確にする必要があるにもかかわらず、相変わらず「93宣言」というような旧式の火縄銃のようなものを持ち出して、やたら打ってはみたものの国民に相手にされず、その内容の難解さと党内議論の質の低さをさらけ出す結果にしかならなかったのである。また、めざすべき方向も明らかにしないまま、自民党政権の継承をするかのような対応をしたことが国民にどっちを向いているのか分からないという印象を与えたのであろう。

<連立政権の行く末>
戦い済んで日が暮れて、昨日まで難攻不落の城に見えていた「自民党政権」が落城した。そして38年ぶりの政権交代が国民に政治への期待をふくらませている。8月9日に成立した細川連立内閣は7派の連立という非常に不安定な体制であるにもかかわらず、なんと国民から7割という高い支持率を得ている(8月24日日経新聞。最近の自民党政権では海部内閣が90年6月の調査で得た52%が最高。)。国民は、政治改革と不況対策を期待しているが、この大きな期待に応えて改革を実現できるかどうか、ここ3カ月の細川内閣の仕事ぶりに注目したいところだが、社会党の内紛が政権の足を引っ張りかねない。片山内閣の苦い記憶がいまだに国民に焼きついているが、今また社会党が混乱し、せっかくの政権交代が水泡に帰する可能性もないとは言えない。社会党の委員長選挙は、連立政権への国民の期待を裏切るものであり、これを経としたいという山花委員長の委員長選挙への出馬問題も国民不在の党内論理としか言いようがない。「93宣言」が国民に語りかけるものとして作られなかったことと同様に、ここでも社会党と国民との距離をさらけ出す結果となっている。

<日本の進路の選択は、どうあるべきか>
自民党の再分裂がまず不可避である。新生党は、公明党とともに新党をつくるため、自民党の分裂を促進することに全力を挙げるだろう。地方議員も含め、公明党から選挙協力を受けている自民党議員は一人また一人と新党結成になびいていく可能性が強い。当面はこのような動きが注目されるが、中長期的には、自民党河野総裁に代表されるようなリベラル保守と新生党の小沢に代表されるような政治大国・国家主義路線に自民党が分裂し、それぞれ日本新党・新党さきがけと新生党・公明党などと新党をつくる可能性もある。
悩みが深くなっているのが社民勢力の結集をめざしてきた連合を中心とする旧革新・中道勢力である。社会党候補の選別推薦によって社会党を改革に追い込もうとした山岸路線は、社会党の惨敗と連立政権樹立という予想以上の展開を示したため、あわてて保守2大政党路線に代わる第3の道を模索している。そうしないと連合の影響力を行使できないと考えているのではないか。しかし、足元での労働組合の組織率低下に対応したジリ算労働者政党を旗揚げして、果たして政治力を行使できるのであろうか。生きる道は、米国の民主党が蘇ったような市民とともに歩む政党、市民の声を代弁する政党づくりであるはずだ。
自民党から社会党までの政策のひらきは、年々縮小しつつある。自治体での共産党を除く総与党体制の進行もその原因の一つかも知れないが、決定的な対立点が少なくなってきている。いわば保守と革新の境界線が消えつつあり、支持者や労働組合員の意識の上でもその融合が進んでいる。それに加えて社会党は、細川政権の経験の中で党の基本政策と現実に実行する政策との間に当然乖離が生じる。したがって、党の政策をより現実的なものに変えざるを得ないのである。これは連立政権に参加する他党も多かれすくなかれ生じる問題であり、まさにそれが連立政権であるが、社会党の生きる道はそこにある。すなわち、連立政権の中で現実的な政策を打ち出すとともに、社会党のめざすべき政策を常に国民に明らかにし、国民の支持を得てその実現をはかること。イメージ先行の新党に対抗して政策で勝負することである。

<新社会党への提言>
平和勢力の一翼を担い続けてきた社会党、労働者と共に歩んできた社会党、そしていま瀬戸際に立たされた社会党の生きる道があるとすれば、「会社主義」の壁を破る市民や労働者の人間としての復権を担う政党となったときである。それは新生党のめざす「普通の国=国家主義の日本」とは対極の社会である。どちらかと言えば日本新党や新党さきがけのめざす「地方分権・消費者重視」路線に近いかもしれない。しかし、日本新党や新党さきがけよりも徹底した草の根民主主義すなわち地方の自立、分権、市民参加をめざすものでなければならない。リベラル保守の政治改革路線や消費者重視の経済対策という側面での共闘関係を維持しつつ、それを真に市民の立場や弱者の立場にたったものに、より徹底したものに推進する勢力として存在価値が見いだされる。
また冷戦後の自衛隊の存在が質的に変化した以上、自衛隊をめぐる議論に終止符を打ち、直ちに合憲宣言を下すと同時に、アジアの国民に対して過去の侵略戦争を正式に首相が謝罪し、しかるべき補償をすることが社会党の力で実現しなければならない。被爆者援護法が一日も早く制定されるように社会党が動かなければならない。外国人を含めた全ての人々が日本で差別を受けないように公民権法を社会党の力で作らねばならない。労働者が年休を完全に消化しつつ、1カ月のバカγスを楽しめるような要員の確保を企業に義務づける法律を制定させねばならない。課題は山積みである。内紛している余裕はないはずだ。
(1993・9・1大阪・M)

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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【投稿】政治とかかわろう

【投稿】政治とかかわろう

<政治はおもしろくない?>
東京都下では都議選とのダブル選挙となった今回の衆院選挙だが、投票行動では思いのほかかんばしくなかったことが、まず印象にある。先行した都議選は史上最低の51.43%、衆議院選でも都下では60.21%である。投票率の推移は回を重ねるごとに上下はあるが最低記録だけは更新しつづけている。都議選では国政選挙の波に飲み込まれたこともあるが、半数の人しか投票していないという事実は重大である。さらに不思議なのは衆議院選挙で政権交代も現実的問題とされながらも投票率が史上最低を記録したことだ。
とくに東京、千葉、埼玉、神奈川、名古屋、京都、大阪など都市部における投票率のおちこみは大きい。いずれもサラリーマンが多く、浮動票もおおい地域である。しかし、このことは生活レベルで考えると当然とも思える。それは政治とのかかわりがないからである。商店主や自営業者は商売がら結構敏感であるが、都会のサラリーマンは地域とのかかわりもなく、労働組合もない人が圧倒的であるのだから、政治とのかかわりはないに等しい(特に独身者や若者)。政治を「語る」場もなければ、政治を「感じる」場もないし、政治に「未来」を託すこともない。せいぜい、テレビを見て一票いれるのがやっとであろう。意識的な棄権者も多いとの指摘もあったが、実態はどうであろうか?
政治改革も制度だけでなく主権者の「政治とのかかわり」を増加させる手だても考えるべきだと思う。と同時に、われわれ一人一人が具体的な政治とのかかわりをどのように生活の中に持っているかも検討すべきことだ。政治とのかかわりが、もし「一票」を投ずることしかないのなら、政治をもっと楽しもうではないか!様々な社会運動はもちろん、身を投じて選挙活動をする人もいるだろう、とにかく会社などで働くこと以外で<社会生活を自ら作る時間と空間>を持とうではないか。
自民党は野党転落とはいえ、解散前の議席を維持しているのはなぜなのか? このことに無関心では連合政権は長続きしないだろう。家業を継ぐために地元へ帰った友人がいうには、商工会や地元の会合には自民党の人しかいないという。これまで野党だった人は、どんどんこれらの会合にも顔を出トて新政権を売り込むことも重要だ。

<合意形成なしには民主主義はない!>
非自民7党の政策大網にはいろいろの議論があろうが、合意形成抜きに政権ができないということ、政治的安協と民主主義とのバランスが今度の連合政権の中での大きな成果だと思う。自民党、政財官界の癒着が中央から地方にいたるまではびこってしまったこの日本で、新しい人心でこれらを一掃するため、この流れを地方でも実現することも重要であろう。
この点でのキャスティングボードは日本新党であり、細川氏であろうが、細川氏が選挙直前に「非自民政権に必ずしも参加せず、一線を画す」といった無責任な態度をとったことは残念でならない。もちろん選挙向けの発言とはいえ、やはりおおくの人の落胆と政治的な無関心を呼び起こしただろう。
選挙公約である政治改革は、現政権の最重要課題であり、これを取りまとめること自体至難の事業だろうが、このことを抜きに次はない。何のために連立し、何が重要なのか?問題をきちんと設定した政治が問われてきている。その次の課題は、景気対策、日米関係、行政改革(規制緩和、地方分権、情報公開)、予算、貿易、国連改革、税制改革などが上げられている。

<新連立政権で大いに学び改革しよう>
政権が交代し、政党はもちろん行政、財界などあらゆるレベルで新しい対応を迫られている。実は私のかかわっている地域ユニオンの運動がらみでも政権交代は予想外の出来事を引き起こしているのでお伝えしよう。解散前の国会でパート労働法が駆け足通過したことをお伝えしたことを覚えている方もいよう。その経過をふまえ今月24、25日にコミュニティユニオン全国交流集会が東京で開催されるのであるが、その全国行動の一環として政府交渉が企画されている。計画段階では、パート法策定に向けた指針の具体的内容をつめることや派遣労働、外国人労働者問題などで政府側姿勢を正す予定であった。ところが、ふたを開けてみたら、いままで野党側で折衝にあたってくれた議員がほとんど落選したり、または大臣や政務次官となってしまったのである。もちろん担当議員は非常にこころよく折衝を受諾してくれたものの、今度はスケジュールがあわない。なんでも政府として海外で会合があるとのこと。政府委月としての非常に忙しい日々が始まっているのだ。それに今度は社会党のみならず連立与党すべてに同様の働きかけが必要になってきたわけで、事務局ではてんやわんやである。
そんなわけで、法案ひとつ作るにも、いままではかやの外であったわけだが、今度はいままで以上に「参加」できる可能性がでてきたこと、あるいはそのためにも「合意」形成がかなり時間を要して必要な事態になってきている。確かに、これはひとつの運動する側にとっても政治と運動団体との新しい関係をつくっていくチャンスでもある。こうした積み重ねが、様々な形で、「東西冷戦構造」「55年体制」を乗り越えて実践されるべき時代の幕開けであろう。で、あるがゆえにみんなで「政治を楽しもう」という時代へと進んでいきたい。        (東京 R)

【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日

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『詩』 旧友帰る

『詩』 旧友帰る
               大木 透

三年ばかり行方知れずだった友が
小ぎれいな出で立ちで現れた
やや白くなった顎髭
緑無しの赤いサングラス
サンスクリット語の模様入りのTシャツ
こいつは
「国富論」も「資本論」空んじているほどの
切れ者だった
いつも
ショスタコーヴイチのカルテットの何番かを口ずさみながら
酒を飲んでいた
そいつがだ
「よう元気かい ちょっとは立ち直ったかい」
「噂じゃ酒を断って改俊の情を示しているらしいねえ」
と、妙に挑戦的な口ぶりで絡んでくる
こりゃなにかあるな
確かにこいつをオルグったのは俺だった
繰り言のひとつぐらい覚悟しなくてはなるまい
俺はちょっと緊張して
次の言葉を待ったが
そいつは何事もなかったように
髭の下からマジシャンのように
一枚のB4ぐらいの紙を取り出すと
大事そうにテーブルのうえに広げる
「俺はねえようやく新しい牧場の見取図を完成させたよ」
「こいつは最後の審判にも堪えられるぜ」
見ると
なにやらやたらと入り組んだ線が引いてあって
誰だったか忘れてしまったが
ヨーロッパの画家が措いた曼陀羅に似ている
隅のほうに
タイトルだろうか
スリーゾーン・マネジメント・フロー
と、書かれている
こいつは三年も音信不通で
こんなくだらんものを仕上げるのに
隠遁生活を送っていたのだろうか

そいつはこのフローの説明を始める
図の中心には「上がり」があり
四隅には
「ルンペン」
「宗教家」
「マフィア」
「ホモ・エコノミクス」の象徴が描かれている
四隅からは
縦横無尽に
縦線、横線、双曲線、放物線が伸び
絡み合い
消し合い
フイリップス曲線に似たものや
ドーナツツの周りのジグザッグ線の終点へと続く
なかには消えかかった点線も見え
自信なさそうに揺れているものもある

俺はばかばかしくなってきて
「こんなもんで牧場がうまくいくのかい」
「羊にゃ心はないし、第一、心を決めるのは環境だって
いうのが君の持論じゃあなかったのかね」
と、軽くいなしてやる
それでも こいつは怯む様子もなく
ボールペンを取り出して
おもむろにキャップを外し
曼陀羅の外に
大きな円を書き入れ
そのボーダーライン上に
「物質か精神か?」と注を入れアンダーラインを引く
俺は思わず
「そこは宇宙かユートピアじゃないのかね」
「ボーダーラインから外へ向けて太い力強い直線で生産
手段の社会化と書き入れるべきじゃあないのかね」
と、促すが
こいつは平然として
「君は先走り過ぎていたんだよ」
「確かにマルクスもスミスも正しい批判をしたんだが、
彼らはこの四隅に鏡座し給う職業に就いたことはなかったんだよ」
「俺はこれから一○年単位でこの四隅に住んでみるよ」
こいつは百歳まで生きて
初志を貫徹するつもりらしいが
俺は面倒臭くて
とても
こいつについて行く気にはなれない
(1993,6,26)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【コラム】ひとりごと–異常気象に思うこと–

【コラム】ひとりごと–異常気象に思うこと–

◆クーラーのいらない奇妙な夏である。梅雨明け宣言は今年は夏の到来を意味しなかった。長雨は九州地方で過去最高の雨量を記録し、非自民連立政権が成立した8月6日には土砂崩れによる多数の死者が出ている。◆異常気象というのは、大きな環境問題である。アメリカでもミシシッピー川大洪水が起こっている。◆日照時間、大気の温度、雨量の変化などは農業や漁業に大きな影響を与え、経済政治へもいずれ影響してくる。◆アメリカ副大統領ゴアは「地球の掟」の中で、人間の歴史の中で、気象や火山活動など自然環境の変化が人間社会に大きな影響を与えてきたが、二酸化炭素の増加による地球の温暖化、オゾン層の破壊など、人間の文化、工業社会がいま地球の自然のバランスを壊 しはじめていると指摘する。◆土建・建設利権の公共事業が自民党を支えてきたが、長雨で多数の死者が出るという事態は、いかに自然を無視した公共事業であったかを物語る。天災というより人災であることは明らかだ。◆はたして、今年限りの異常気象となるのかどうか、専門家でない私は予想もできないが、人間の自然に対する馨りは、いずれ予想もできない事態を生むことを覚悟しなればならない。それもまた自然の摂理というものか。(佐野秀夫)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【書籍紹介】社会主義の実態を語る2冊の本

【書籍紹介】社会主義の実態を語る2冊の本

『長い旅の記録-わがラーゲリの20年』寺島儀蔵著、93.6.2発行、日本経済新聞社、1900円
『ワイルド・スワン』ユン・チアン著、93.1.25発行、講談社、上下二巻、各1800円

<理想の祖国・ソ連への亡命>
寺島儀蔵氏は現在83歳、ロシア共和国のトアプセ市に在住している。今年の3月、ソ連亡命以来、実に57年ぶりに生まれ故郷の根室に一時帰国された。氏が南樺太の国境を超えソ連に亡命したのは、あの岡田嘉子・杉本良吉亡命事件の2年以上前の1935年8月であった。十代で日本共産党員となり、治安維持法違反で二度逮捕され、6年半に及ぶ独房生活を「若かったですから、理想の社会を実現するまでは、と耐え抜き」、監視役の特高刑事の東京出張を、「理想の祖国・ソ連へ入るのはこのチャンスしかない」と決意して亡命を決行したのであった。時あたかも、ソ連社会はスターリンの独裁・恐怖政治が着々とその足場を固めていたときであった。

<「大反逆罪 スパイ罪により最高銃殺刑に処す>
モスクワでは、野坂参三、山本懸造両氏とも会っているが、ほどなく山本氏は周知のように野坂の密告によりありもしないスパイ罪で抹殺されている。氏の回想によると、「野坂参三さんは稀にしか見えなかった。彼と会っても山本さんのような同志としての温かさは感じなかった。会った時には私に対していろいろ質問などをするが、私の答えに対して自分の意見をほとんど言わなかった」という。「日本での人民戦線については君はどう思っているかね」と聞かれて、寺島氏は正直に「現在の目的は、軍閥が完全にブルジョア民主主義までも打ちひしごうとするのに対する国民闘争ですから、そのためには反動に対抗する積極的大衆ばかりではなく、消極的なブルジョア層も参加させるように働きかけるべきだと思います」と答えている。これに対して野坂は「君の意見として指導部に伝えておくよ」と言ったきりであった。氏は、1938年4月3日、「起訴状は全く事実無根であります」との必死の抗弁もむなしく、いきなり「大反逆罪、スパイ罪、妨害罪により最高銃殺刑に処す。本裁判は最終であって、宣告に対しては控訴権はない」と告げられたのである。

<「赤鬼が罪なき人々を苛む>
まさにこれからが「長い旅の記録」である。読むに耐えない拷問、なぶり殺し、死の恐怖、卑劣なラーゲリの支配体制、「赤鬼が罪なき人々を苛む」地獄図絵、寺島氏が想像した社会主義とは全く似ても似つかぬ、あまりにも悲惨な実態に絶望し、「罪なくして死んで行くこと、それを誰も知ってくれないことは残念でたまりません」と、同じ銃殺刑仲間に訴える。ところが1938年12月、「最高銃殺刑を25カ年重禁固刑に変更する」と告げられる。「ああこれで生きることが出来るのだ。何とかして25年生きて行こう。そして必ずもう一度祖国の土を踏もう。これがその時の私の偽らざる心境であった」。以後、極北のラーゲリを転々とさせられ、極寒と飢えと重労働の長い日々が果てしなく続く。ナチスとの戦いもようやく勝利し、ラーゲリにも希望が訪れる。四人仲間は「戦争が終わったら、第一にラーゲリの制度は真っ先に廃止されると思うよ」と語るが、寺島氏は「私は残念ながらそうは思いません。ラーゲリ制度は廃止されるどころか、ますます拡大して行くと考えます。われわれ何百万人もの囚人は5か年計画とか戦時非常経済計画の作業を遂行しているのです。ソ連にはこんな重要性を持ったラーゲリは何百、何千とあるでしょう。それを一朝にして廃止するなんて出来るものですか。反対に戦後復興工事にもっと多くの囚人労働が必要になると思いますよ」と答えている。期待せざる予感は事実であった。1953年3月、乱入のほとんどが願っていたスターリンの死が発表された。しかしソ連式社会主義に不可欠のものとなっていたラーゲリの「赤い奴隷」には、すぐには福音をもたらさなかった。ようやく1955年8月6日、「無国籍証明書を渡されて裟婆に放り出された私は、瞬間どうしていいか判らなかった」という。
実に貴重な記録である。こんなに悲惨な経験であるのに、読むものをとらえて離さない脈々と流れるものがある。それは何なのであろうか。

<「大日本帝国に反逆する極悪人の処刑」>
もう一つ紹介する『ワイルド・スワン』は、同じく社会主義を扱っているのであるが、こちらは祖母、母、作者の三代にわたる中国の女性のドキュメントである。上下二巻にわたる大作であるが、実に感動的で衝撃的な作品である。多くの固で翻訳され、世界的なベストセラーとなっており、作者へのインタビューが先頃NHKでも紹介されていたのでご存じの方も多いことと思う。
作者の母の回想に、日本帝国主義の実態が鮮明に語られている。「教育の一環として、母たち女学生は日本軍の戦況を収めたニュース映画を見せられた。日本の軍人は、自分達の残虐行為を恥じるどころか、逆にそれを誇示して少女達の心に恐怖を植え付けようとした。ニュース映画には、日本兵が人間をまっぷたつに切り捨てるシーンや、囚人を杭に縛り付けて野犬に食いちぎらせるシーンが映っていた。犬の餌食にされる囚人が恐怖に目を見開いた表情を、カメラは長々と大映しにして見せた。11歳と12歳の女学生通が目をつぶらないように、叫び声を止めようとして口にハンカチを押し込まないように、映画の間中日本人が見張っていた」という。さらにある日、母の女学校の友達が本を読もうとしてうっかり日本軍の武器庫に入ってしまい、捕まってしまった。「大日本帝国に反逆する極悪人の処刑」を見学するため、女学校の生徒全員、それに近所の住民まで集められた。目の前に連れてこられたのは、あの友達だった。鉄の鎖につながれ、ほとんど歩くこともできない。拷問されたらしく、見慣れた友とは似ても似つかぬ膨れ上がった顔だった。日本兵がライフルを構え、少女に狙いを定めた。少女は何か言おうとして口を動かしたが、声にならなかった。銃声がして少女が前のめりに倒れ、雪の上に血がにじみはじめた。日本人校長の「ロバ」は、生徒の顔を一人一人のぞきこんで歩いた。母は非常な努力をして感情を押しとどめた。だれかの押し殺した鳴咽が聞こえた。田中先生だった。即座に「ロバ」が気づき、田中先生をぶん殴り、蹴り上げた。貴様は大和民族を裏切ったんだぞ、とわめきちらしながら」。1945年8月9日、「アメリカが日本に原子爆弾を二発落としたというニュースが伝わり、町の人々は手をたたいて喜んだ」という。

<贅をつくした饗応>
上に紹介したことは、この本のごく一部のことである。中国の民衆に悲劇をもたらした日本帝国主義の侵略行為は、「過去に遺憾なる戦争があった」では済ませられぬ傷跡を残しており、今後も問い続けられなければならない課題である。しかしこの本の中で最も大きな位置を占めているのは、中国共産党と毛沢東の役割である。とりわけ毛沢東の百花斉放、清風運動、大躍進政策、そしてなによりも文化大革命を巡って、歴史の波に翻弄される作者の父母の苦闘の連続とあくなき理想への執念である。共産主義者であるならば、本当はこうあらねばならないのではないかという、祈りにも似たすさまじい努力にはただただ頭が下がるばかりである。この本、特に下巻を読んでいると涙がとめどなく流れてくる箇所がいくつかある。努力をすればするほど、悲劇的な結末を迎えなければならない、しかしそれをずる賢く回避しようとしない人々がいたのである。
作者はエピローグの最後を、「1988年に錦州へ旅行したとき、母は玉林の暗くて狭い、みすぼらしいアパートに泊めてもらった。アパートの裏手は、ごみ捨て場だった。通りを隔てた向いには錦州で最高のホテルがそびえ立ち、毎日毎日、中国こ投資してくれそうな外国人を招いては贅をつくした饗応がくり広げられていた。ある日、そうした宴会を終えて出てきた客人の中に、母はおほえのある顔をみつけた。まわりに取り巻き連中が群がり、その男が台湾に持っている豪邸やらの写真を見せてもらって盛んに褒めそやしている。それは、四十年前に女学生だった母を公安に通報して逮捕させた、国民党スパイの政治主任だった」という言葉で結んでいる。中国社会主義はどのようになるのであろうか。
ここに紹介した二書は、社会主義というものの歴史と実態、そのありようをあらためて考え直させる、深刻でありながら、なおも感動をもたらしてくれるものであった。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【書評】いま、問題の4冊

【書評】いま、問題の4冊

『日本新党 責任ある変革』 細川護熙編、93.4.30発行、東洋経済新報社、1500円
『日本改造計画』      小沢一郎著、93.5.20発行、講談社、1500円
『理想の国』        大前研一著、93.4.20発行、ジャパンタイムス、1200円
『日本新党のウソ、平成維新のデマ』 噂の真相取材班編93.6.10発行、第三書館、1030円

ここに上げた4冊は、いま注目の書、あるいは問題の書である。とりわけ非自民連立政権登場という新しい状況のもとでは、細川、小沢両氏にとっては、書かれている内容に責任を取って貰わなければならない書ともいえよう。それぞれは、やはりというべきであろうか内容的には底が浅く、フアジーでもあり、表面的でもある。しかしそれぞれに提起されている論点は、よく特徴が出ており、現在の直面している課題を浮き彫りにしているともいえよう。そこで限られた紙面で少し強引ではあるが、それぞれに最も問題となる要点を紹介しよう。

<細川=ファジジーが本質の「責任ある変革」
「今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私は敢えて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う」–昨年5月、日本新党の結党宣言で細川氏はこのように述べた。その理想主義の旗とは、「品格ある、教養ある国家」であり、基本理念は「平和主義」、政治的には「民主主義」、経済的には「市場主義」、社会的には「生活者主義-地方分権の確立」である。これは決して単なる書生論ではなく、行動する「実践的理想主義」を貫き、実現可能で具体的な「政策プログラム」を提示し、実行していく、と強調している。まことにごもっともであり、それを一貫させることを監視しなければならない。
確かに、男女共生社会や高齢化社会の政策においては、他の諸党よりも具体的であり、進んでもいる。たとえば、最重点政策として「65歳定年制と70歳就業態勢の確立」を掲げ、ゴールドプランの前倒し実施を要求し、さらには「女性の社会参加、特に政策決定の場への進出を促すため、国、地方公共団体におけるすべての審議会、委員会、議会等にクオーク制を採用し、どちらかの性が20%を下回らないものとし、2000年までに40%に引き上げることを目標とする」こと、男女の平均貸金格差の是正、就職時の年齢制限の撤廃、男女雇用機会均等法を努力義務から禁止規約へ、企業への積極的平等推進策の義務づけ、セクシヤルハラスメントに対する法規制、教育の場での性別役割分業の見直し、離婚法の抜本的改正、選択的夫婦別氏制度への移行、女性の職業活動を妨げる税制の廃止、などを掲げている。
「日本新党は女性向けのワナ」と指摘される(『日本新党のウソ、平成維新のデマ』)だけのことはある。現実にも、土井委員長と消費税反対運動の中で盛り上がった社会党への女性や高齢者の支持がごっそりと日本新党へ移動したことを考えれば、労組を含めたいわゆる革新勢力の女性蔑視に貫かれた旧態依然たる体質が有権者から見放されたのだといえよう。しかし、全体として「責任ある変革」の中身は、きわめてあいまいであり、融通むげである。フアジーと称されるところである。それは基本的には、その政治路線からきている。本来保守勢力の改革派であり、なおかつ公明、民社の中道路線を取り込み、それらの政策を「理想主義」と「品格」で味付けをして、実は社会党を切って捨てることにその眼目があるからではないだろうか。
日本新党は、「政権交代がないということが日本の政治の致命的な開港であるということ」を出発点として、その基本的費任を「既成政党」に求め、自民党はいわずもがなのこととして棚上げし、「55年体制打破」のために、社会党にこそその責任を求める。「野党第一党の社会党はというと、「政権交代」を叫びながら、結局は「保革二元論」のワクの中で歴史的役割を終えたと多くの国民は受け止めている」、「野党第一党の社会党は、いまだに「保革二元論」にしがみつき、そうした点に拘泥している。それが、多くの国民の失望を生んでいることを知るべきである。そこにこそ、新しい政党の必要性が望まれるゆえんである」と述べて、社会党にとって代わる自らの立党の基本的立場を表明しているのである。

<小沢=強権政治への憧れ>
今や連立政権は二重権力状態であると言われているが、これを裏で操っているのが小沢だと目されている。その言動は確かに無視し得ないといえよう。この小沢氏のキーワードは「強力なリーダーシップ」である。
小沢氏は次のように述べる。「もはや指導力の欠如は許されない。弱い指導者は他国には迷惑でしかないのである。何が必要なのか。強力なリーダーシップである。問題の第一は権力のいたずらな分散である」、「改革の基本的な方向は、最高責任者が責任を持って政策決定できるように、いたずらに分散した権力を、形式的にも実質的にも民主主義的に集中化することだと私は思う」。まさかもはや民主主義の原則とは相い入れなくなっている共産党の組織原則がこんなところでお目にかかるとは。
小沢氏の民主主義に対する皮相的な理解は、マスコミ批判にまで及ぶ。「マスコミまでがこうした野党の行動に疑問を望しないばかりか、有力紙やテレビの多くは、審議を尽くしてコンセンサスを追求せよ、などと主張していた。現在の政治の閉塞状況をもたらしているのは、むしろ、権力を行使しない危険性によるものだ」「一朝有事になると、マスコミを筆頭にして「民主主義」が高らかに叫ばれる。しかもその場合の民主主義とは、きわめて手続き面に偏重した民主主義だ。「議論をとことん尽くせ」「多数決の横暴を許すな」といったスローガンが乱舞する(、これは国際社会の主要国としては許されないぜいたくであり、国際的な責務を放棄するに等しい」。
さらに小沢氏は、こうした事態を解決する特効薬を小選挙区制に求める。「冷戦の終結は日本政治の総談合構造の崩壊を意味する。なれ合い、もたれ合いの構造を壊し、政治のあり方を根底から変えねばならない。旧構造の打破は徹底的であればあるほどよい。衆議院の申達挙区制はぬるま湯構造の維持装置といっても過言ではない。現に政権を振っているから現状を変えたくない与党はもちろん、手をこまねいていても野党は130前後の議席を確保できる。中選挙区制が社会党を筆頭とする野党をダメにした。政治のダイナミズムを阻害しているのは、あまりに強すぎる比例代表制的な原理である。小選挙区制では、得票数の開き以上に議席数が開くので、支持率の変化が敏感に議席に反映され、政権交代が起きやすくなるという点も見逃せない。日本の政治が抱えているほとんどの問題は、小選挙区制の導入によって解決できそうだ」。
このように見てくると、小沢氏は、自民党の河野新総裁が述べているように「極めて国家主義的色彩の濃い政治運営を企図する勢力」の代表であるかのようである。確かにその危険性はあるといえよう。歴史の皮肉であろう、主客転倒して事態が進行している。この皮肉はそうしたことを許さないであろう。しかし小沢氏がこの本の中で提起している日本改造計画の具体的政策(五つの自由)は、高齢者や女性政策に明らかなように、より具体的で進んでもいる。やはりフアジーではあるが、日本新党と共通の特徴を持っているのである。むしろこれまで社会党を始めとする野党勢力、革新勢力が積極的で具体的なオルタナティプ(代案)を提起し、その選択を国民に迫るということにきわめて怠慢であったことのツケが回ってきたのだといえよう。

<大前=男性向けのウナ>
「平成維新の会」は今回の選挙では出番がなかった。そこで投票日の翌々日、主要各紙に「選挙の終わりがはじまりです」という大々的な一面広告を出し、「このたびの総選挙で、82名の平成維新の会推薦候補が当選。いよいよ”生活者のための政治”実現に向けて、活動が始まります」と述べて、自民党から新生党、日本新党、公明、民社、社会にいたる推薦議員を紹介している。大前氏は、「私たちは自分の出世や利権ばかりを考えるような議員は選ばない。私たち生活者の主権を中心に、生活を向上させ、これまでになかった理想の実現に邁進してくれる議員のみを推薦する」と述べている。
大前氏のキーワードは「生活者の主権」である。「国は富んでいるのに、生活者は依然として狭い家に済み、物価高に悩まされ、余裕のない生活に窮々としている」ところから出発する。そしてこうした事態をもたらした最大の問題を農業保護政策と税制に求める。「自動車産業などの隆盛があったからこそ、日本の今日の繁栄があったのです。だからこそ、国際市場の九倍もの米の値段を補助することができたわけです。農民が感謝すべきなのは自動車にであって、自動車をつぶしてアメリカの国旗を燃やすという蛮行はとんでもない話なのです。彼らの輸出があるからわれわれが市場開放させられて犠牲になる、というのはとんでもない詭弁なのです。コメ農家が日本を養ってくれる可能性は今後ともまったくないし、いまの生活水準を維持してくれる可能性もまったくないのです」と述べて、「私がいう第三次農地解放というのは、第一次、第二次が大農園主から小作人に対する農地解放だったのに対して、今度は農業従事者からサラリーマンに対する土地の解放が大都市周辺でなされなければならないという考え方です」と極論する。こういう切って捨てる論理が大前氏好みの特徴である。「適者生存原理がまともにわれわれを襲うような状況をつくるほうがいい、と私は思っています。競争なきところに競争力は絶対につかないのです。小売業でも農業でもぬくぬくと食っていける間は決して自分たちから生産性の改善などしないのです。むしろ「生活権」とか何とかいって甘えた現状維持を振りかざし、コスト高を生活者に平気で押し付けるのです」と述べて、弱者切捨て論を公然と振りかざす。
大前氏が怒髪天に登る勢いなのはどうも、自分の納めている税金にありそうである。「税制については、負担の公平ということを主張しています。所得税は「一律10パーセントでだれもが公平に負担する。所得の低い人の税金を免除するのはおかしいと私は思います。私自身は地方税も含めて65パーセントも取られています。年間の税金だけで1億円以上払います。累進制度というのは国家による搾取です」と、怒り露わである。確かに「男性向けのワナ」といえよう(『日本新党のウソ、平成維新のデマ』)。
大前氏は周知の通り、道州制論者である。「日本の都道府県や市町村は自立できる単位にはとてもなっていない。だから、私は第二次廃藩地県として、廃県地道ということをいっているのです。日本は1,000万人ぐらいの地域を単位として少なくとも一○ぐらいになるのがいい。これが私たちが提案している道州制の経済的根拠です」。地方自治に逆行して中央集権に屋上屋を重ねるようなこうした論法に対して、細川氏は、「ところで、似て非なる考え方として、「平成維新の会」の大前研一氏は、日本を一○のブロックに分ける「道州制」を捉唱されている。しかし現在の各都道府県の感覚からいうと、たとえば「九州府」として大分や沖縄まで一つにまとめるというのは、容易なことではない。いまの都道府県のサイズは、ひとつの行政の主体として、諸外国と比べてみても、妥当なところだと思うから、道州制に対して大前氏とは立場を異にしていることを示しておきたい」と述べている。
ところがこうした大前氏の立論に、社会党や労組を含めた一定の部分に支持と共感があることは見逃せないことであろう。大前氏は得意顔で述べている。「『平成維新の会』を始めたとき、いちばん賛成してくれたのは労働組合の人でした。社会党は政権担当意欲も能力もないわけだから、結局、組合側の声は為政者には永遠に聞こえない。組合も、連合など包括的に社会党を支持するのは間違いだ、と気が付いたようです。それはそうでしょう。会社で労使協調なんだから、政治的な運動も労使協調路線でやれる一つの新しい政治母体をつくるべきなのです。「平成維新の会」に対する組合の反応は全面的にいい。いまの社会党はこんなことをはっきりいってくれない。連合などは、「これ以上、政権担当意欲もないところにお金を注ぎ込むのは、組合員に対する冒涜だ」とまでいっています。まことにタイムリーな動きと評価してくれているのです」。

<人工甘味料=日本新党 平成維新の会>
『日本新党のウソ、平成維新のデマ』は、「噂の真相」取材班が両組織の実像、実態に追ったタイムリーな企画である。同書は「おわりに」の中で「どちらの組織もおどろくほど安易に現職の自民党議員を受け入れている事実をよく見ておく必要がある。日本新党といい、平成維新の会といい、実態は’自民党のままでは選ばれない議員を自民党とはひと味ちがうふりをして当選させる人工甘味料”としての役割に過ぎないのである」と断じている。
まず日本新党の細川氏については、「細川のバックには、うさんくささを競い合うような人脈が総結集している。何と元右翼テロリストに土下座までしているのだ。この元右翼テロリストとは四元義隆。右翼の次には元左翼の転向者で、一質して自民党のプレーンをつとめてきたタカ派学者香山健一がいる。日本新党の結党宣言を代筆したのが学習院大学教授の香山健一だという。次に、松下政経塾。現在の塾長は元JC(金属労協)議長の宮田義二、細川も松下政経塾の評議員をしている。この松下政経塾は、自民党小沢一郎親衛隊の別名で呼ばれる起タカ派の若手政治家志望者軍団でもある。さらに狂信的な信者の組織力と、反共を掲げた勝共連合という名林を偽装して自民党や民社党に勢力を浸透させてきた統一教会が日本新党を全面応援。そして隠しきれない佐川との決定的な癒着。細川は参院時代、田中角栄に佐川急使を紹介され、以来、今に至るまでずっと佐川急便をスポンサーに、トータルすると、細川はこの間、百億円以上の支援を受けているはずです」等々、そのあやしげな人脈については枚挙にいとまがないほどである。 大前氏についても同様の実によく似たあやしげな人脈が立証されている。繰り返すまでもないであろう。ただ、「平成維新の会が市民運動だというデマ」について、「平成維新の会は民主主義とは全く相入れない組織だ。チーフアドバイザーとしての独裁者大前研一が数万人のフラット(ヒラ会員)の上に鎮座することが大前提なのである。共産党の方針が宮本議長の周辺で決まるように、平成維新の会の政策は大前研一の周辺で決まるシステムである。
4月11日の平成維新の会初の全国大会では大前研一の顔がいたるところで大写しになって参加者をシラケさせた。個人崇拝まで共産党のマネすることはないだろうに」という指摘は、この組織の本質に迫るものであろう。
問題は、このような批判や斬定が事実であり、的を射ていたとしても、それらが掲げる政策やプログラムが多くの国民の支持を受ける場合、その客観的理由を明らかにし、より具体的で革新的な代案を明示し、彼らをそれに合流させる努力こそが求められているのではないだろうか。連合政権の登場という新しい事態は、そのことを切実なものとしているといえよう。  (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【投稿】思想の中じきり — 現代とは何か —

【投稿】思想の中じきり — 現代とは何か —

                         池田(1993年3月13日)

<はじめに>
<現在の特徴>
<現在についての若干の注解>
<マルクスの唯物史観>
<現在の経済過程の到達点>
<マルクスの構想の読解>
<生産過程からみた共産主義の特徴付け
<終わりに>

<はじめに>
思考において現在を把える事は、それが、どれ程の意味を持つかは別にして、そして、結論から言ってしまえば、そんな事はたいした意味がないというのが、まさに現在の可能性であると思っているが、ハードトレーニングが必要だ。また、この事は、現在を思考における現在として証明し、認識し、把えること。また、その唯一の方法でもある。これは、現在に到る全ての媒介を思考において一つづつ踏み固め、思考において現在を再構築するという作業でもあり、私としては、現在とてもその力量はない。
しかし、便利な事に、私の意識(これは言語を媒介に社会的に規定された自己意識にすぎず、しかし、この自己意識は諸個人を介在してしか存在しえない)において世界は、現実は、所与のものとして存在しているということである。従って、その世界の存在が、その必然性において把握されるか否かにかかわらず存在するという事である。「もともと、現実の世界の状況は、その実相を手に触れることができないように仕組まれている。だからそこでは、想定される実相に対して、どのような認識の水準をあらかじめとろうとするかが問題となる」(吉本隆明は、現象学の立場をはなれない。私ははなれうると考える。しかし、思考を対象化せざるをえない限りは現象学的であらざるをえないが)
そして、同時に、世界を把握するための方法、構想がすでに存在するとみなしたい。
以下の主張は、マルクスの思考を媒介にすることによって獲得しようとする現在についてのオピニオンの意味をなすにすぎず、決して証明されたもの(証明したいと思ってはいるが)ではない。なさけない事に問題意識の開示にすぎない。端的にいえば、私にみえる現在の可能性であり、それを表現したいという衝動です。現在とは何か。どこへ行こうとするのか。現在の可能性とは何か。これを一言で表現すれば、資本制総体の克服としての、そして狭義の意味における”共産主義がやってくる”という事になる。
これは、どのような世界のイメージとその可能性となるのか。

<現在の特徴>
①世界に関していえば、国民国家、民族国家が超えられつつあり、国家・民族国家が死滅に向かいつつあるという事。事実、世界は民族問題をはらんでおり、南北問題を生起し、解決されていないが、世界の最先端においては民族国家を超えつつあるということである。これは、以下に指摘する全ての問題が対立の中を進む事、すなわち逆の問題をはらんでいるが、世界の最先端においては、国家を超えつつあるということだ。これをイメージとして表現すれば、世界連邦と分権化された地域コンミューンすなわち自治体というイメージになる。

②私はPKOを非軍事、民主、文民に限定すべきであるという主張には欠陥、正確にいえば、不十分あるいは矛盾を含むものであると考えている。日本国憲法にみられる軍事における主権の制限が現実性をもちうるのは、世界連邦と国連軍の存在が担保された時である。冷戦前の第二次世界大戦後の世界情勢は、そのような可能性をはらむものであった。人類が初めて世界をコントロールしえる地点に到達したのは、第二次世界大戦を闘い抜いた結果であったと考えている。従って、この時点では日本国憲法は擬制ではなかった。また、当時から国連軍という構想は存在した。ごく単純化していえば、市民社会内部の階級間の闘争が、社会を破壊するのを防ぐために国家が必要である(スピノザやホッブス、ルソーが民主主義=国家を導出する論理)と同じように、国家間の闘争(戦争)を止揚するためには、国家間の一時的な妥協・協定などの恐怖の均衡によっては不可能であり(集団的安全保障が無意味だといっているのではない)、世界連邦と国連軍の存在が必要である。国家主権の制限に対応する「国際国家」(世界連邦)の存在が必要である。これが現実的な課題として登場したのが、冷戦後の世界情勢である。
従って、現在、軍縮が最大のテーマであるというだけでは不十分だ。同時に、世界連邦あるいは、国連軍と日本国家あるいは自衛隊の関係をどうするのかが問われている。
従って、自衛隊に対応するシビリアンコントロールの徹底と軍縮は必要であり、世界連邦、国連軍が必要であり、同時に、戦争の原因は軍事力ではなく、この原因は軍事力以外の手段で解決しうる。そして日本は軍事以外でのあらゆる努力を行うというテーゼと現実的な構想を対置しない限り、PKOを非軍事、民主、文民に限定するという主張は一貫性をもちえない。

③日本の象徴天皇制をめぐる問題である。
天皇制をめぐる論点は、吉本隆明や鷲田小弥太がのべつくしている。しかし、鷲田は象徴天皇制にこだわりすぎていると思う。私のイメージでは、スウェーデンの王室が市民と同じように街を歩き、マーストリヒト条約によってオランダの紙幣から王室の肖像が消え、イギリスの王室がスキャンダルで市民の批判にさらされたと同じように象徴天皇制は意味をなさなくなっていく。それはヨーロッパにおける王室よりも若干息が長い程度ではないか。鷲田の言い方を用いれば、象徴天皇制が戦後民主主義=「大衆の国家」に適合的であったように、逆に、国際化と、民主主義が徹底的に象徴天皇制に浸透する事によって天皇制は意味をなさなくなる。死滅する。

④中央集権制が限界を迎えており、国家は分権化へむかう。国家は、国際化(世界連邦)と分権化へ両極化する。分権化した地方自治体は成熟した市民社会(?)に最も適合的な国家の形態だ。中央集権制と分権を単純な対立によって把えることはできない。中央集権制の徹底の結果として分権に到るというイメージが必要だ。中央集権制が限界に達しつつあるということ。これは、コンピュータの高度化をめぐる論争の中で集権型(集中型)か分権型(分散型)かという論争と同じようなものである。(コンピュータの持つ意味については別に述べる)
日本の中央集権制は、非常に効率的な国家の形態であったという程度の総括は必要だ。日本は戦後一貫して政府(自民党政府)主導の改革路線できた。そしてこのシステムが諸利害を調整する上で最大の力を発揮してきた。そしてこのシステムが現在機能不全に陥りつつあるということだ。
いずれにしても、この分権化を如何に徹底的に、そして早く、効率的に進めるのかが現在の政治の最大のテーマである。

⑤政治のウェートが低下する。これは、イコールではないので少し、慎重ないい方が必要だが、オルタナティブ(対案や解決策)といったレベルの問題ではなく、政治のウェートが低下する。より正確にいえば、政治の概念、利害の概念が変化するという事。

⑥労働運動あるいは、労働者階級の解放運動という次元では、前衛主義の解体ということだ。「知識と労働」といういい方も含めて、右も左も含めてあらゆる形での前衛主義・啓蒙主義は不毛であり無効だ。日本共産党が無効ならば、あの鼻もちならない「保守主義者」西部 邁のようなエリート主義も無効だ。西部個人の人格が無効だといっているのではない。念の為。知識人と大衆、エリートとノンエリート、党と大衆、前衛と大衆という全ての対立は無効だ。この事を可能ならしめる本源的な規定は、資本であり、今日的にいえば、自由時間の拡大と情報化である。

⑦イデオロギーの領域では、この文章の全体が、いわば、イデオロギーに関するものであり、この点は繰り返し主張することになる。
私の感心についていうと、これまでのイデオロギー、わかりやすくいうと「価値観」といわれるものの崩壊家庭が進行しているように思える。例えば、「会社人間」「ぬれ落ち葉」「セクハラ」等々。また、「グローカル」などというおもしろい言葉も生まれている。このイメージをうまく表現できるかどうか分からないが、金丸批判の中で現れているのは、「政治家は特権でない」という批判ともう一つ、「政治家の権力志向と本質的な能力主義に対して、なぜあんな無意味なことをするのか」という批判が含まれているように思われる。少しまとめると80年代以降、フェミニズム、エコロジー、ノーマライゼンションというような思想が日本に登場しているが、イデオロギーの準位、レベルでいうとノーマライゼイションというイデオロギーは、差別を超える、もう少しいえば、能力主義や競争主義さえ超える、さらに踏む込めば、経済の分配における「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という原理と等価なイデオロギーである。端的にいえば共産主義のイデオロギーだと考えている。吉本隆明の「重層的な非決定」というイデオロギーについての包括的な規定も、これに照応するものだと考えている。

⑧経済の領域についていえば
(1)所有形態からいうと法人資本主義の次に来るものは何なのかという事。日本では企業の自社株保有が認められていないがバブルの崩壊を機にこれを部分的に解除する動きがみられる。アメリカでは、企業の乗っ取り、買収が日常化しており、企業が買収に対抗して自社株を所有するケースが多いという。このような企業をどのように規定すればいいのか。
日本では、敗戦に伴う、財閥解体の結果①企業が安定株主対策として②系列化として③資本市場での資金調達の手段として企業が相互に網の目のように株式を所有し合うという法人資本主義といわれる所有形態を形成してきた。ここからは、経済学を専門とする人に教えてほしいと思っているが、このような所有形態を消極的には、オーナー的な、排他的な私的所有に対立する所有形態があると一応は規定しうる。では積極的にどのように規定しうるのか。また、法人資本主義の次にやってくるものは何なのか。

(2)連合白書や労働白書は、21世紀へ向けて労働力不足を指摘している。構造的な人手不足にまといつかれた資本主義とは何なのか。また、現在の資本の人口「法則」とは何なのか。さらに、家族の形態の変遷がなぜ生じるのか。労働力供給面で高度成長を支えた、農地改革の意義など、様々な根本的な問題がある。
今後予測される労働力不足に対して、もちろんそれ以外の対応策は可能であるが想定されるケースとして①女性の労働力化率を更に高めること②高齢者の労働化率を更に高めること③外国人雇用の拡大という事になる。これらは、いづれも社会の改革を伴い、また、もたらすものである。例えば、女性の労働力化率を高めるためには、男が会社人間であることをやめ、同時に時短を促進し、休暇、休業、さらに保育所や教育条件の整備、税制や年金制度の改革、生活の分担を含めたイデオロギーや習慣の改革抜きには、1.53という出生率が更に低下するという結果となり、高齢社会問題をより深刻にする。ちなみに、女性の労働力化率の高まりと出生率の低下、高齢化問題をテコに、日本の現在の人口動態とスウェーデンの歴史的経験をふまえ、「共同的生活手段」の比重の高まりから国民の税負担率の変化と分権化への流れを後づけようとする岡沢憲芙の構想は、日本の近未来(岡沢は、現在の日本が、スウェーデンの30年前の状況と類似していると断じる)を描くものとしておもしろいし、参考になる。彼の主張を踏まえれば、高齢者福祉計画や育児休業法、パート労働法など厚生省や労働省が大衆の風圧を受けながら、従来の政策の大転換を政府内におけるクーデターに近い形で進めざるをえない理由がよく解る。また、消費税導入の勝利者は厚生省であった。岩波新書で「スウェーデンの挑戦」が出版されている。また、「自治労通信」という組合の機関誌に「高齢化の時代における豊かさの政治選択」という講演録がある。一読を薦めたい。
女性の社会参加(経済的視点からすれば、労働力の価値分割)と出産率の低下、高齢化社会に伴う、核家族の解体と新たな家族形態の再生のドラマ。この過程で、生涯労働時間の短縮と多様で質の高い「共同的生活手段」の役割・比重が高まらざるを得ないこと。そして、この事が、国民の税負担を高め、税についての意識を変え、そして、分権化を促進するという論点は、非常におもしろい。確かに、「共同的生活手段」の欠除、未整備による社会的不安に対して貯金で対応せざるを得ない社会が豊かであるとはとてもいえない。唯、税の問題に限定すれば、日本の企業の実態からすれば配当と税を含めた実質的な負担率の強化が行われなければならない。現状で言うと、法人資本主義とは、企業がオールマイティーの社会だ。税制を含めた、企業に対する社会的規制の強化は必ず必要だ。
労働力不足は、もう一つ別の論点を提起する。それは、労働市場の逼迫による労働組合機能の高まり、これを通じた法人資本主義への労働組合(労働者団体)による規制という論点である。この点は労働組合運動の展望、未来にかかわる部分でもあるが、書くと長くなるのでおいておく。
(3)第3は、経済のサービス化という問題だ。これについては、より厳密な経済学的な規定が必要だ。端的にいって、マルクスが資本論の中で対象としたのは、まず、人間の物質的実存諸条件の生産、すなわち、物質的生産であり、これに照応する剰余価値(利潤?)を生み出す生産的労働である。従って、経済のサービス化という問題を積極的に展開する場合、少なくとも、物質的生産に対立する非物質的生産として、そして、不生産的労働を含み、精神的労働をも含むものとして展開されなければならないと考える。もちろん、非物質的労働と不生産的労働と精神的労働とサービス労働は、概念や対象をイコールの関係で結ぶことはできないから、この関係の整理が先だ。そして、この構想の中には、マルクスの経済学批判の体系がそうであったように、国家を含む、但し、上部構造としての、すなわち国家としての国家ではなく、生産過程に含まれる国家である。すなわち、市民社会の総括としての国家である。
ここでは、このようなややこしい問題を言いたいのではない。従って、逆に、消極的に問題を立ててみる。経済のサービス化という現象を一応、非物質的富の生産の拡大と規定するとサービス業に従事する就業人口が6割を超えるという現象は、少なくとも、物質的な富の生産に従事する就業者、労働者の割合が低下しているという事。すなわち、物質的富の生産力が飛躍的に高まっている事を意味する。これは、どこまで高まりうるのか、また、この現象がどのような意味を持つのか。
この問題については、吉本隆明が「ハイ・イメージ論」の中で、高度情報化革命(エレクトロニクス技術革命)の生産への適用とそこで得られる可能性について語っている。
ここで得られるイメージは、鉄腕アトムで育った私達の世代には別に難しい話ではなくて、又、これが意味ある事かどうかも別にして、可能性としては、社会の全ての生産工程をコンピューターシステムで制御することが可能だという事である。すなわち、物質的富の生産力を無限に高め、又、この生産に従事する労働力を無限に小さくする可能性をもったという事だ。これが何を意味するのか。
(4)この問題に直接的に関連するが、労働時間の短縮と自由時間の拡大である。現在、日本は年間1800労働時間をめざしているが、ドイツやフランスでは1500時間から1600時間台である。これがどこまで短縮可能なのか。1500時間台になれば、ほぼ、週休3日制に相当し、生涯を83年とし、定年を60才として、18才以降、睡眠時間を除く全生活時間に占める労働拘束時間の割合は、2割程度になる。これをどこまで短縮しえるのか。又、この事の意味は何なのか。

<現在についての若干の注解>
このようなイメージを結ぶ現在をどのように把えればいいのか。このような現在を認識する方法や構想、思考が存在するのかがテーマである。
このイメージを抽象化し、簡単にいうと諸個人の自立の可能性が飛躍的に高まったということ。同時に、人間が人間を支配することが困難な地点に到達したということだ。このことは、ここでいう支配が被支配者にとって無自覚だという含意を超えている。なぜなら一般的にいえば、常に支配とは、被支配者の無自覚な、あるいは自覚的な同意なしには成立しない。これは、対立を含む相互関係であるにすぎないから。
ここで、2つの問題について注を入れる。第1に、私は、現在の否定面、より正確にいえば、現在の対立のもう一つ逆の側面を意識的に描いていない。だから、私のイメージは一面的であり、楽観的なものにすぎないという点に対してである。
例えば、現在の日本の生活が環境問題や「会社人間」等々「貧しく」みえるのは、現在の「豊かさ」に到達しなければ不可能だということ。一つの原理は、それをとことん行かさなければ(展開されつくさなければ)その限界が明らかにならないという事。もう一つは、新しい現実が、過去のイデオロギーとの関連において、そして人間の思考とはすべからくこのようなイデオロギーにまといつかれているのだが、このイデオロギーとの関連において困難に見えるという事。そして私の主張からいえば、このイデオロギーの組み替えと新しいイデオロギーの創出がまさに現在の一つの課題であるということになる。また、これと類似することだが、一つの現象だけを把え、現実の全体、主要な傾向を否定する事をしたくないために。必要な事は、このような現象を現象として全体の中に位置づけることにある。同じ事だが現実の具体的な形態を、思考において再構築することが課題であるのに、これを抽象的な一般に還元し、この抽象的なものを再確認するだけで満足し、思考において一歩も前進しないこと。このような思考に不満なのだ。
第2の注は、これは、イデオロギーや政治過程という上部構造にかかわる課題について表現した方が正確と思うが、日本の場合、変革の課題が、二重、三重に重層的にそして同時に出現していることである。これを原理的にいえば、ブルジョア民主主義の徹底の課題と「社会主義段階の課題」、そして、狭義の共産主義段階の課題が、同時的に、重層的にそして相互に関連しあって出現しているということである。こんな表現が古いかどうか、あるいは、有効か無効か解らないが、旧来の方法でもって、現在の日本の革命戦略を規定すれば、ブルジョア民主主義の徹底の課題を部分的に含み、社会主義的任務を負う、狭義の共産主義革命ということになる。
どういうことか。政治の領域では、1票の投票価値の平等を求める課題。この1票の格差が米価と公共事業を通じて地方の都市に対する「独裁」を可能としてきた。この「独裁」とは、あくまでヒユ的なものだ。また、この都市と農村(地方)というテーマに触れるとなぜ、都市の賃労働者、サラリーマンが、自立しないかというテーマになるが、この点については、プロレタリアートは、3代を経て一人前になるという学生時代に何かの講演で聞いた話があたっていると思う。ほぼ団塊の世代の子供達からプロレタリアートの三代目が始まっている。ついでにいっておくと、プロレタリアートとは、経済的には賃労働者という規定でいい。これを例えば、工場労働者といった具合に特定に生産、労働の形態と結びつける必要はない。
この1票の投票価値の平等を求める課題と現在主要なテーマだといわれる政権交替をめぐる課題と分権化やPKOといった課題は、レベル、準位、原理が違う。また、イデオロギーの領域についても、エコロジーやフェミニズムとノーマライゼーションでは、その準位や原理が違っている。ひつこいようだが、これらの対象課題や対象領域が違っているということを指摘しているのではない。

<マルクスの唯物史観>
マルクスの思考を媒介にして現在についてのオピニオン展開するという限り、マルクスの思考、より限定すれば、マルクスの唯物史観=歴史の「学」の構想がどのようなものかを明らかにしなければならない。
マルクスは、歴史を諸個人の生活の生産過程として総体把握する。そして、これは「物質的生活の生産過程」「政治的生活の生産過程」と「精神的生活の生産過程」に分割される。マルクスは、歴史と社会を三軸で把える。これに照応するのが、階級闘争の三形態、経済闘争、政治闘争、イデオロギー闘争となる。しかし、この3つの生産過程はこれまで考えられてきたようにピラミッド型に土台があり、上部構造があり、社会的意識形態があるというように3つの社会、あるいは3つの別々の領域があるというのではなく、この3つの生産過程が3層あるいは3重に相重なる関係にあり、領域を画された別々の領域、社会があるというのではない。
例えば、イデオロギー的生産過程の対象領域は全世界である。しかし、イデオロギー(社会的意識)の生産過程は、独自の様式をもっている。端的にいえば、記号=言語を生み出し、これに媒介されるのである。
マルクスがドイツイデオロギーの中でいっているように、「意識は生まれながら物質--この場合は運動する空気層、音、要するに言語の形式であらわされるのであるが--につきまとわれるという呪いがかかっている」「言語は、意識と同じだけ古い。言語とは、実践的な、現実的な意識である。」「諸観念、諸表象、意識の生産は--ある民族の政治・法・道徳、宗教・形而上学などの言語で語られうる精神的生活の生産に関しても同じことがあてはまる。」
精神的生活、あるいは、社会的意識の生産過程、生産様式は、脳の産物、属性だというだけでは不十分なのだ。言語を生み出し、媒介されるという関係が不可欠なのだ。いわば、構造主義は、この欠陥を突いたのだ。大脳生理学だけで人間の精神生活の生産様式は解けない。解りやすいイメージを得るために、コンピュータとの対比でいえば、システムとプログラムと入力項目が必要なのだ。従って「反映論」というが、この反映の関係と、その様式は結構「複雑」なのだ。しかも、人間の精神的生活の生産過程においては、言語を生み出すのみならず、イデオロギーを生み出し、学的な認識形態等々をも生み出す。そして、これが、人間の意識を通じて形成され、これが流通するのだが、個々人の意識からは独立して形成される。諸個人からみれば、これは所与なのだ。コンピュータとの対比でいえば、プログラムやシステムのようなものだ。赤ちゃんは生まれながら言語やイデオロギーを受容する能力をもって生まれてこない。但し、言語やイデオロギーをもって、フォイエルバッハ的にいえば、自己を二重化する能力をもって生まれてくる。
同時にもう一つ言っておかなければならないことは、ここから唯物論がはじまるのだが、精神的生活の対象はあくまでも、精神的生活の生産物であり、現実ではないのだ。現実との関係は、媒介関係になる。従って、現実を生み出すことはできないのだ。もっといえば精神的生活の生産はその本質において受動的なのだ。すなわち、その最も主体的・実践的・生産的な形態において受動的なのだ。
これは、精神的生産物である「理論」が、あるいは、「学」が、未来を予測しうるか否かという問題とは別だ。この場合、理論が現実の運動を反映しているから未来と合致しうる可能性をもつのであり、その逆ではない。
確かに、革命には、意識の革命が先行する。意識革命なしには、現実の革命は起こり得ない。しかし、この意識の革命、イデオロギーの変革は現実的な根拠をもって遂行されるのだ。
総じていえば、「物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的な生産諸過程一般を制約する」ということになる。
このような、マルクスの構想を前提とした上で、現在につながるマルクスの思考が存在するか否かが問題となる。

<現在の経済過程の到達点>
現在の経済過程・物質的生活の生産過程(そして、この生産過程に照応する生産関係の総体こそ経済的構造からみた社会であり、これが、下部構造であり、土台である)、この生産過程の到達点を一言で表現すれば、国際化、サービス化、高度情報化(マイクロエレクトロニクス技術革命を含めて)と一応は規定しうる。もちろん、現在の経済過程の到達点の様々な現象をこれに対応するコンセプトで無限に結びつけることは可能である。その意味で、この一応の規定が十分な規定であるとはいえない。
このような現在の経済過程の到達点を解く鍵は存在するのか。これが問いである。
もちろん、マルクスは、現在の経済過程の到達点を知らなかった。しかし、マルクスの思考の中に、現在に到る、あるいは、現在につながる、また現在をこえる思考は存在するし、また、その言明もある。
唯、マルクスは、これを学的な形式において証明しなかったと思う。このような言い方が正しいのか、私には、解らないが、マルクスが獲得した資本の概念の延長あるいは自己展開の中に、現在に到る言明は存在する。
そしてこの直接的な言明は、私の知る限り、少なくとも4つある。
第1は、経済学批判要綱である。このうち、引用するのは、「固定資本と社会の生産諸力の発展」の中の1節。
第2は、資本論、この内、引用するのは第3巻第48章、「三位一体的定式」の一部分。
第3は、ゴーダ綱領の第1章第3節の評注の部分である。
第4は、剰余価値学説史である。この中の第4章「生産的及び不生産的労働に関する諸学説」と第21章「経済学者に対する反対論(リカードの理論を基礎とする)」が重要である。この第4章をふまえ、サービス労働論を書きたいと思っている。これは、マルクスが、資本論の主要な対象とした物質的生活の生産に対立する非物質的生活の生産に対応した精神労働をも含むものとして構想したい。この中には、経済過程からみて、あるいは、この過程に照応する国家も含まれる。但し、吉本隆明がいう「幻想的共同体」としての国家、すなわち、国家としての国家は含まない。これは、対象領域が違うはずであり、政治的生活の生産過程として取り扱われなければならないはずだ。
しかし、現在の状況に到る構想としては、既にアリストテレスが、2000年以上も前に指摘していることがある。
「管理者が部下を必要とせず、主人が奴隷を必要としないことを想定しうるただ一つの状態がある。この状態とは、『命のない道具』が、命令の言葉ひとつで、あるいは、自ら状況を判断して作業する場合である。」(アリストテレス「政治学」)
また、このような経済過程の到達点については、アメリカのマルクス主義者達が強調していた点でもある。むしろ、私の感心なり、疑問は経済過程の到達点においては非常に近い、というのは、1960年代には、既にスウェーデンとスイスが国民1人当たりのGNPでアメリカを追い越していた。このように生産の到達点において、世界の最先端を走っていたアメリカと北欧諸国において、イデオロギーや国家、社会のあり方になぜこれ程大きな違いがあるのかという点にこそ感心がある。アメリカは偉大ではあるが、同時に十分恐ろしい国家であり、社会だ。問題が大きくそれるが、第1は、冷戦に伴う国家のあり方である。第2は経済的富の大きな部分が軍事力に費やされたという事。第3は、これとは対立をなす、社会保障や福祉など、「共同的生活手段」に対する国家のあり方と関与の相違、国家のウェートが少さく、同時に、国家が非常に非効率であるということ。第4は、これとも関連するが、国家が、恐ろしいこと。国家が過剰にイデオロギー的であったということ。社会主義国家も恐ろしいが、アメリカという国家も十分に特異なイデオロギーを国民に強制した。(但し、国民が一方的に強制された、という事ではなく、国民も自覚的、あるいは無自覚的にこれを支持した。)「自由と民主主義」というイデオロギーは、他国も、アメリカと同じようにあるべきだという事で、他国への主権の侵害、軍事による介入、侵略を合理化してきたし、(アメリカでは外務省のことを国務省と呼ぶ)また国家と諸個人、あるいは、諸個人相互の関係においては、個人主義というより、能力主義、競争主義、差別的ですらある。イメージとしていえば、アメリカが生まれたばかりの開拓史の時代の、独立自営農民の当時の自由と民主主義、すなわちブルジョアイデオロギーが生のままで存在しているキツイ社会というイメージとなる。
また、アメリカのラジカルエコノミストがアファマティブアクション(差別克服のための積極的活動)(累種的差別に対する特別措置:吉村励)というイデオロギを生み出したがこれとアメリカの能力主義、競争主義が接合しない。外的な強制というイメージが得られる。諸個人の自立を支援するというイメージにつながらない。個人の人格を傷つける、抑制するというイメージが強い。この事は、アファマティブアクションが、有効か無効か、また、必要か、不必要かということを争点にしていない。積極的にいえば、アファマティブアクションをも包括しうるノーマライゼーションこそが、より適合的だということだ。

<マルクスの構想の読解>
以下、マルクスの三つの文章からの引用と若干の注釈を記して、中途半端なオピニオンを終えることとする。
この引用文から読み取りたいと思っているのは、マルクスが、経済過程=生産様式に限定しての話だが、しかも経済学批判という学の構想において、資本制総体の克服すなわち、資本の自己否定をどのように構想していたのかという点だ。端的にいうとこの三つの引用文章の中では、これをつなぐと「交換価値に基づく生産様式の崩壊」=(価値法則の死滅)=「自由の王国」=「それ自身の土台のうえに発達した共産主義社会」という関係になる。
そして、このような転換を可能とする基礎について、「生産が万人の富の生産を目的にしたものであるにもかかわらず、富の尺度が、労働時間ではなく、万人が自由に処分できる時間になる程、科学が直接的に生産に転化する程、生産が発展した段階」(要綱)と特徴づけている。また、同じように、労働時間の短縮、自由時間の拡大とこれの結果として「個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、精神労働と肉体労働の対立がなくなった後、労働そのものが、第一の生活要求になった後」というような特徴付けも与えている。また、要綱の別の箇所では、この段階の諸個人と社会関係について「諸個人の普遍的な発展のうえにきづかれた、また、諸個人の共同体的、社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることの上にきづかれた自由な個体性」と規定している。これは、共産党宣言の「各人の自由な発展が、万人の自由な発展のための条件であるような一つの共同社会」という構想に直結するものである。
私個人についていえば、このような構想をマルクスの経済学批判の全体との関連において再構成したいと思っている。第2は、このマルクスの構想と現在の経済過程の到達点は、その現象において、非常に接近している。端的にいえば、まるで、マルクスの学の構想、予測が的中したかのようだ。このことに伴う重大な保留があるが、ここではふれない。従って、第1で述べたマルクスの経済学批判の体系を含め、あるいは、媒介にして、現在の経済過程の到達点を把握したい。また、これが、政治的生活の生産過程や精神的生活の生産過程、これは、イデオロギーや思想、理論といったもののみならず、人間の思考の様式や形態も含めてどのような変革をもたらし、また、もたらしているのかを把えたい。これは、証明も根拠もなしにいうのだが、弁証法が意味をなさなくなるのではないかとひそかに思っている。このことをライフワークにしてとことん考え抜きたいと思っている。
第4に、しかし、同時に、こんな事は大したことではないとも思っている。なぜか。簡単な話だが、たとえばマルクスの構想あるいは学が、上部構造やイデオロギー諸形態を含めた資本制総体の発生から死滅への過程をそして、現在をも思考において再構築、認識する可能性をもつという事は、大したものだ。マルクスの思考が、資本制総体の発生から死滅までを再構成しうる。すなわち、思考において、現実をわがものとしうる可能性をもつという事は偉大なことだ。これは、単に、書かれたものの帰結、結論や予測がどうであるかということのみならず、書かれたものすなわち書物の中には、潜在的にマルクスの思考のスタイルや構想が生きているということも含めて。そしてこれは、お化けのように場所と機会があればいつでも蘇ってくる。思考とはすべからくそういったものだ。
ただ、しかし、マルクスの構想や思考が如何に生産的であっても、思考にすぎないという本質的な限界を越えることはできない。どういうことか。簡単なことだが、マルクスの思考が、現実、資本を創造したのではないということだ。従って、また、資本制の否定、止揚は、反マルクスや、非マルクスといった政治やイデオロギーによって遂行される可能性があるし、その可能性の方が、多分に高いのだ。例えば、ノーマライゼーションやフェミニズム・エコロジーといったイデオロギーは、たぶん、というのは、誰がはじめに言い出したのか知らないからだが、マルクスの思考とは直接的にも間接的にも関係なしに、生まれてきたのだろう。こんなことについて、マルクスが言ったとかいわなかったというセンサクは、無意味だ。
第5の問題は、だが、しかし、反マルクスや非マルクスを掲げる思考が、結果的にマルクスの思考や構想に依拠しながら、あるいは、経済現象の一部分を拡大し、強調し、これをマルクスの全体に対置することによって、マルクスの思考に意味がないとする程度の批判が多い事も事実だ。しかし、こんなことによっては、マルクスの思考は死なないのだ。
例えば、経済学の領域に限っても、レオンチェフの「産業関連表」 バーリーとミーンズの所有と経営の分離 「経営者革命論」、国家の経済過程への介入の拡大を主張したケインズ、 「独占理論」等々。このような調子でかけば、福祉国家論、共同的生活手段の拡大、サービス経済論、高齢化問題と現在の人口法則、高度情報化社会論、コンピュータ論、「環境問題」などによって、マルクス批判はいくらでも書くことができるが、新しい、経済的現象をマルクスの思考に対置することによっては、マルクスの思考は死なない。
第6は、従って、正確にいうとマルクスの思考、もちろん、マルクスの思考だけではなくすべての思考についてもそうだが、思考の克服なり、否定をいう限り、マルクスの思考を正当に評価し、これを正当に処遇するすなわち、理解し、消費しつくし、止揚するという方法以外にはないのだ。大変な作業だ。これが、思考をするという事だ。思考の価値、意義と限界をふまえ、やりたい人間がこれをやればいいのだ。もう1つ大切なことは、こういった思考に関する限り、これは他の誰の問題、責任でもなく個人が生活の他の領域においてもその言動と行動に責任をもたなければならないのと同様に、思考する個人の責任である。資本制は、この程度には「進歩的」なのだ。
また、思考の生産性という事でいえば、対立する思考、例えば、反マルクスの思考からは相手の思考が自己の鏡となり、たくさんの事を学びうるのだ。
第7に、本質において個人の思考、思想的な課題が、過去においてそうであったように、これが、イデオロギーとして、自立し、これが、真理を所有する党として自立し、国家と結託するというようなアホなことがあってはならない。現在においては、その可能性はないし、こういった思考は殺さなければならない。
真理を所有する党というのは、真理が多数決で決まるという事と同程度におかしい。無意味だ。このような思考は、気持ちが悪いし、グロテスクだ。
こういった前衛主義、啓蒙主義が生み出す帰結は、不毛であり、無効だ。
マルクスの精神労働と肉体労働の対立がなくなるという構想からしても、また、大衆の自立の時代が急速に出現しつつある現在において前衛主義は無効なのだ。

<生産過程からみた共産主義の特徴付け>
マルクスからの引用は以下の通り。
①第一は、経済学批判要綱の「固定資本と社会の生産諸力の発展」というタイトルの中の一節である。唯、手元に、要綱の全訳をもっていない。これは今年の3月18日に大月書店からメガ第2部、資本論草稿集2として経済学批判要綱の第2分冊が出版される予定で、その中にある。現在手元にあるのは、都留重人の訳文と高木幸二郎訳の部分引用のみであり、正確かどうか解らない部分もある。
「生きた労働と対象化された労働との交換すなわち社会的労働を資本と賃労働の対立という形態に置くという事は価値関係と価値に基づく生産の最後の発展である。この生産の前提条件は、直接的な労働時間の分量、充当された労働の量であり、なおかつそうである」(資本の抽象的な規定、後の資本論からの引用では、この部分が少し長くなる。)
「だが、大工業が発展すればするほど、現実的な富の創造は、労働時間と消費された労働の量よりも、労働時間中に動員される諸作用因(機具類)の力に大きく依存するようになる。そして、これらの強力な諸作用因(機具類)の有効性は、それを生産するのに必要な直接的な労働時間と比例的な関係にはない。その有効性はむしろ科学と技術進歩の到達した水準に依存する。言い換えれば、当該科学の生産への応用に依存するのである。このような変換の中においては、生産と富の大黒柱(生産過程の主作用因)はもはや人間自身によってなされる直接的労働でも労働時間でもなく、かれら自身が身につけた全般的生産性、即ち、かれの知識とかれの社会的存在を通じて獲得された自然の支配である。一言でいえば社会的個人の発展である」「直接的な形態での人間の労働が富の偉大な源泉であることを止めるや否や労働時間は富の偉大な尺度であることをやめるであろうし必然的に止めざるをえない。また、そうなると交換価値は、必然的に使用価値の尺度であることを止めざるをえない。」「大衆の剰余労働は、一般的富の発展のための条件ではなくなっており、同時に小数者の非労働も人間の頭脳の一般的力の発展のための条件ではなくなっている。・・・・・諸個性の自由な発展、したがって剰余労働を生み出すための必要労働時間の短縮ではなくて、そもそも社会の(諸個人の生活に必要な物質的実在諸条件の生産に必要な)必要労働時間を最小限へ引き下げること。これが、全ての諸個人に充てられる時間とつくり出された諸手段による諸個人の芸術的、科学的などなどの教養に対応するのである」「・・・・交換価値に基づく生産様式は崩壊する」
②これに、照応する資本論の一節は、資本論第3巻第7編第48章三位一体的定式の中にある。先ほど述べたように、この引用では、資本の抽象的な規定が長くなっている問題は後段である。
「すでにみたように、資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この後者(社会的生産過程)は社会の成員の人間生活一般の物質的実存諸条件の生産過程であると同時に、また、独自な歴史的=経済的な生産諸関係において行われる。この生産諸関係そのものを---従ってこの過程の担い手たちを、彼らの物質的実存諸条件と彼らの相互の諸関係とを、すなわち彼らの一定の経済的社会形態を---生産し、再生産する一過程でもある。というのは、この生産の担い手たちがそこにおいて自然と結び相互に結び合うこれらの関連の全体、彼らがそこにおいて生産するこれらの関連の全体、この全体こそ、経済的構造から見ての社会だからである。資本主義的生産過程は、それに先行する生産過程と同様に一定の物質的諸条件の下で行われる。ただし、これらの諸条件は、同時に諸個人が生活の再生産過程で取り結ぶ一定の社会的諸関係の担い手でもある。これらの(一定の物質的)諸条件は、この(一定の社会的)諸関係と同じく資本主義的生産過程過程一方では前提であり、他方では結果であり創造物である。それらは、資本主義的生産過程によって生産され、再生産される。さらに、すでにみたように、資本は--そして資本家は、人格化された資本にほかならず、生産過程では資本の担い手として機能するだけである。従って、資本は、それ(資本)に照応する社会的生産過程において直接的生産者たち、または労働者たちから一定分量の剰余労働をくみ出すのであり、この剰余労働は、資本が等価物なしで受け取るものであり、いかに、それが、自由な契約による合意の結果として現れようとも、その本質からみれば、依然としてやはり、強制労働である。
この剰余労働は、一つの剰余価値のうちに現れ、この剰余価値は一つの剰余生産物のうちに実存する。」(これに続く文章が、核心的な部分である)「剰余労働一般は、所与の欲求の程度をこえる労働として、つねに実存し続けなければならない。<しかし>剰余労働は、資本主義制度においては、奴隷制などと同じように、ただ敵対的形態をとるほかなく社会の一部分のまったくの無為によって補足される。一定分量の剰余労働は、不慮の出来事に対する保険のために必要であり、諸欲求の発達と人口の増加とに照応する再生産過程の必然的な累進的な拡張---この拡張は、資本主義的立場からは蓄積と呼ばれるものである---のために必要である。資本が、この剰余労働を奴隷制・農奴制などの以前の諸形態のもとでよりも生産諸力の発展にとって、社会的諸関係の発展にとって、またより高度の新たな社会形態のための諸要素の創造にとって、いっそう有利な様式と諸条件とのもとで強制するという事は、資本の文明化的側面の一つである。こうして資本は、一方では、社会の一部分による他の部分を犠牲にしての、強制と社会的発展(その物質的、および知的諸利益を含む)の独占化とがみられなくなる一段階をもたらす。他方では、この段階は、社会のいっそう高度な一形態において、この剰余労働を物質的労働一般にあてられる生産一般(時間)の大きな縮小と結びつけることを可能にする諸関係のための物質的諸手段およびその萌芽をつくり出す。というのは、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいで総労働日が小さくても大でありうるし、総労働日が大きくても相対的に小でありうるからである。もし、必要労働時間が3時間で剰余労働が3時間ならば総労働日は6時間で剰余労働の率は100%である。必要労働が9時間で剰余労働が3時間ならば総労働日は12時間で剰余労働の率はわずかに33、1/3%である。しかし、次に、一定の時間に、従ってまた一定の剰余労働時間にどれだけの使用価値が生産されるかは労働の生産性に依存する。したがって、社会の現実的富と社会の再生産過程の恒常的な拡大の可能性とは剰余労働の長さに依存するのではなく剰余労働の生産性、および、剰余労働が行われる生産諸条件の多産性の大小に依存する。自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところではじめて始まる。従って、それは当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも全ての社会諸形態において、ありうべき全ての生産諸様式のもとで彼(人)はそうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに諸欲求が拡大するため自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時にこの諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。この領域における自由はただ、社会化された人間、結合された生産者たちが自分達と自然との物質代謝によって---盲目的な支配力としてのそれによって---支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分達の共同の管理のもとにおくこと。すなわち、最小の力の支出で自らの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行うこと、この点だけにありうる。しかし、それでもこれはまだ、(自然的)必然性の王国である。」
マルクスの主張を解りやすくするため、物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的諸過程を制約するという含意でイデオロギーとの照応関係からみるとこの生産過程の段階(社会主義)の規定は、エコロジーやフェミニズムの思想の領域の大部分を包括しうると考える。また、構造主義や物象化論という「説明概念」という規定を与えれば、ややひどいが、「哲学」というにはやや陳腐なもの射程をも対象領域に収めうると考えている。どういう事か。問題の焦点は、人間の対象化の到達点としての高度情報化とこの技術的骨格をなすコンピュータにある。その核心は、人間の脳はオンラインではないが、コンピュータはオンラインである。すなわち、世界が結びつき、連がる可能性をもったということ。
人間を含む自然は、類が直接的に個体であるという存在形式はない。すなわち、特殊は普遍、個別は類であるという命題で表される存在形式以外にはありえない。従って、人間は、精神的生活の生産過程、対象化においては言語を必要とし、これを外化し、これが構造として自立し、逆立するという疎外関係に立つ。この疎外関係は、物質的生活の生産過程(貨幣や資本)も、政治的生活の生産過程(法や国家)も同様の構造をもっている。この疎外関係は、人間的永遠であり、あっさりいってしまえば、この形態が歴史的に、あるいは歴史として発展するだけだ。しかし、コンピュータは、この疎外関係に終止符を打たないまでも、根本的な変様をもたらすものではないか。もちろん、コンピュータによって、個人と個人の脳がオンラインになるわけではない。
マルクスの引用を続ける。
「この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が---といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが---始まる。労働日の短縮が土台である。」
イデオロギーとの関連でいえば、ノーマライゼーション。そしてもっとも包括的なイデオロギーの規定でいえば、吉本隆明の「重層的な非決定」という概念が適合する段階であると考えられる。また、この段階において精神労働と肉体労働の対立が止揚される。
これは、吉本隆明に聞かなければ解らないが、「重層的非決定」が、共産主義のイデオロギーのもっとも包括的な規定だといえば、吉本隆明はなんというであろうか。これは、私個人に関していえば、冗談ではなく本心から問い質したいと思っている。これは、鷲田小彌太が強く主張する事だが、吉本の思考は、マルクスの思考とスッポリと重なり合うものである。また、鷲田小彌太は、正確なマルクスの思考の解説者だ。ただ一言だけいえば、鷲田が三一書房から出版した「いま社会主義を考える・資本主義の臨界点としての社会主義」という規定は不充分だ。やはり、「資本主義の臨界点としての共産主義」というタイトルの方が正確だ。
ついでに言ってしまうと、対象領域は違うが、同様の思考を展開している思考者がいる。法人資本主義とその超克をテーマにしている奥村宏、マルクスの経済学批判要綱をテコに自由時間論でもって現在を解こうとしている内田弘、そして反マルクス(主義)を掲げ、技術論だと自己限定しているが、実は、<マルクスの思考>と非常に近いところで現在に肉薄している飯尾要などがいる。構造主義は、構造を閉じ、固定してしまう。一言でいえば、ダイナミズムがないのだ。
③そして、最後は、これらに照応するのが、ゴーダ綱領批判の文章である。全文は長いので必要と思われる部分を引用する。
「公正な分配とは何か。・・・・経済関係が法律概念によって規制されるのか。それとも反対に、法律関係が経済関係から発生するのではないのか」「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では生産者は、その生産物を交換しない。同様にここでは生産物に費やされた労働が、この生産物の価値としてすなわち、その生産物の有する物的特性としてあらわれることもない。なぜなら、いまでは、資本主義社会とはちがって、ここの労働は、もはや間接にではなく直接に、総労働の構成部分として存在しているからである。」
(誰か、経済学を学んでいる人は、クレジットカードをどのように規定しうるのか教えてほしい。また、コンピュータ論、高度情報化論を疎外や物象化の克服、止揚との関連において展開することができないのか教えてほしいと思っている。)
「ここで問題にしているのは、それ自身の土台のうえに発展した共産主義社会ではなく、反対にいまようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがってこの共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも、精神的にも、それが生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだおびている。したがって、個々の生産者は、彼が社会に与えたのと正確に同じものだけを---控除を行った上で---かえしてもらう。彼が社会に与えたものは彼の個人的労働量である。たとえば、社会的労働日は個人的労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は社会的労働日のうちの彼の持分である。・・・・
ここではあきらかに、商品交換が等価の交換である限り、この交換を規制する同じ原則が支配している。内容と形式は変わっている。・・・しかし、個人的消費資料が個々の生産者に分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい量の労働と交換されるのである。それゆえ、平等な権利は、ここではまだやはり、ブルジョア的権利である。もっともここではもう原則と実際とが衝突することはないが。ところが、商品交換のもとでの等価物の交換は平均として存在するだけで一つ一つの場合には存在しないのである。
このような進歩があるにもかかわらず、この平等な権利はまだつねにブルジョア的な制限につきまとわれている。生産者の権利は彼の労働給付に比例する。平等は、ひとしい尺度で、すなわち、労働で測定される点にある。・・・・この平等な権利は、不平等な労働にとっては不平等な権利である。誰でも他の人と同じく労働者であるにすぎないから、この権利は何ら階級差別をも認めない。しかし、それは不平等な個人の天分と、したがってまた不平等な給付能力をうまれながらの特権として暗黙のうちに承認している。だからそれは、内容からいえば、すべての権利と同じように不平等の権利である。権利は、その性質上、ひとしい尺度をつかうばあいにだけなりたちうる。しかるに、不平等な諸個人(そしてもし不平等でなかったら別々の個人ではなかったろう)をひとしい尺度ではかることのできるのは、ただ彼らをひとしい視点のもとにおき、ある一つの特定の面だけからこれをみるかぎりである。たとえば、この場合には人々はただ労働者としてだけ観察され、彼らのそれ以外の点は認められず、ほかのことはいっさい無視される。
・・・・すべてこういう欠陥をさけるためには、権利は平等ではなく不平等でなければならないだろう。(マルクスのこの言い方を引きのばせば、この時、権利という概念はなくなるであろう)
しかし、こうした欠陥は、長い苦しみの後にうまれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない。権利は、社会的構成および、それによって制約される文化の発展よりも高度にあることは、けっしてできない。
共産主義社会のより高度の段階において、すなわち、個人が、分業に奴隷的な従属をすることがなくなり、それとともに、精神労働と肉体労働の対立がなくなったのち、(前衛と大衆、知識と労働という対立、分業が意味をなさなくなったのち)労働がたんに生活の手段たるのみならず、労働そのものが第一の生活欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって生産力も増大し、協同社会的富のあらゆる泉がいっそうゆたかにわきでるようになったのち(資本論の中の、自由の王国は本来の物質的生産の領域の彼岸にあると同義だ)---そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い限界を完全にふみこえることができ、社会は、その旗のうえにこう書くことができる。---各人はその能力に応じて、各人には、その必要に応じて」 この段階に適合的なイデオロギーがノーマライゼーションであり、より包括的なイデオロギーの規定が、吉本隆明の「重層的な非決定」である。そして、差別は死滅する。
そして、この段階の社会的諸関係の原理は何か。資本主義の段階の原理が、「物象的依存にもとづく人格的独立」平たくいえば、相互無関心=エゴイズム=相互利用の関係である。ただ、このエゴイズムも、あまり、私たちがイメージとして描くように、倫理的に否定的に把える必要はない。なぜなら、民主主義の原理は、このエゴイズムに支えられている。
民主主義論=国家論は別途に、上部構造論、そして、吉本隆明のいう「共同幻想論」としての展開が必要であるが民主主義=デモスクラフト=大衆の力=大衆の支配=大衆の国家をこの相互に無関心なエゴイスト達(大衆)の集合力=アトムズクラフトというイメージで展開した方が解りやすい。
この段階との対比において、マルクスは、自立した自由な社会的個性の相互豊饒化の社会関係として「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件」となるような社会的諸関係として特徴づけている。

一つだけ注を入れれば、マルクスが比喩的に「真に自由の王国」と表現しているが、これは、あくまでも比喩的なものだ。ここでいっているのは、本来の物質的生産の領域の彼岸に自由の王国がはじまるいう点ではなく、この点こそがマルクスの思想の核心だ。そこに到れば、全ての矛盾が解決する天国、あるいは、千年王国というイメージについてである。千年王国は存在しない。マルクスがいうように、「人間が立ち向かうのは、いつも自分が解決できる課題だけである」という唯物論についていっている。

<おわりに>
マルクスの文章を現在についての私のオピニオンに無理に結びつけたような文章になっている。しかも二重の意味で実証ではなくオピニオンにすぎない。もっとハードトレーニングを積み重ねて具体的な課題に絞り込んでが、または、マルクスの構想について、厳密に、そして解りやすい文章を書きたいと思っている。
しかし、現在を把えるには、ここにのべた構想以外には、ありえないと思い致している。
どういう事かというと、このオピニオンは同時に、問題意識としては、ここ数年間の思考としては、大きな影響を受けてきた鷲田小彌太と吉本隆明への批判を含意している。もちろん、部分的なものだ。マルクスにおいて、学的に展開されなかった、上部構造論(政治的生活の生産過程と精神的生活の生産過程)は、ソシュールの言語理論とヘーゲルと吉本隆明と若干の構造主義者を集めれば、その大部分を書きうるはずだ。ここにおいて、マルクスの唯物史観の構想は学的な形態において一応の骨格を整えうる可能性をもったということだ。この上部構造論の領域での全体的でもっとも包括的な思考者は、ヘーゲルと日本では吉本隆明だろう。さらに、吉本隆明は、現在を解くために、下部構造を含めたほぼ全領域での発言を続けている。しかし、そして、吉本隆明は常に明確に保留をつけているが、「マルクス伝」以来、一貫して、「経済的範疇」についてのマルクスの思考をせばめていると思える。この点に関しては、鷲田小彌太についても同じだ。私は、直接的には、鷲田小彌太の「現代思想論」や「吉本隆明論」を通して「重層的な非決定へ」の中にある「・・・
それは、先進資本主義国の賃労働者が週休3日制を超えたときからだと思います。そのとき、消費としての賃労働者と生産としての賃労働者とは、自己対立を媒介にして、・・・自分達を解放する方位を確定していく・・・」という文章を通して初めて吉本隆明の思考に近づいた。以来、「大状況論」「超西欧的まで」「ハイ・イメージ論」「マルクス伝」「マルクス紀行」などを読んだ。読むことと理解することは別だという批判を覚悟の上でこの文章を書いている。この中でも吉本隆明は、労働価値説にこだわり、(このこだわり自体は正当だ)、サービス経済化や高度情報化等についてマルクスの主要な考察、分析の射程外であったといっている。(これ自体も正当だ。端的にいうとマルクスは現在を知らなかったといっているにすぎないから)
しかし、現実の対象と思考の対象は別なのだ。つまり、吉本隆明が、これらの著作の中で展開した思考を「交換価値に基づく生産様式の崩壊」というマルクスの思考と近づけ、結びつけたとき、はじめて、マルクスの構想と吉本の思考が、その全体像において浮かびあがると考えている。これが、私の思考において得られる現在だ。

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日(前編)
【出典】 青年の旗 No.190 1993年9月15日(後編)

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【座談会】総選挙後の情勢をどう考えるか

【座談会】総選挙後の情勢をどう考えるか   (匿名座談会第2弾)

☆.新党勢力‥・新たな保守の受け皿/☆政権交代の意味を考えてみるのも/☆新党の伸長をどう見るか☆選挙制度改革への態度について☆93宣言は効果があったか/☆新党が強調したこと☆政界再編と連合の役割☆社会党は再生可能か/☆共産党は蚊帳の外でいいのか☆団体献金の禁止と公費助成

歴史的結果を生みだした衆議院選挙を終えて、情勢は非自民政権の確立と、従来の保守革新の枠を越えて、新たな政治再編を急速に進もうとしている。
大阪府委員会は、7月25日にこうした問題について、議論を行った。

<新党勢力‥・新たな保守の受け皿>
0:まず最初に今回の総選挙の感想ということで皆さんのご意見をいただきたい。全体的な評価というところではどうだろうか。
A:宮沢は今国会で政治改革をやると、とりわけ選挙改革をやると言いきったが、中曽根らの長老の圧力の中で言うことが変ってきた。社会党の議席が前の消費税の関係で多いと言う関係があって、日本新党やさきがけ、新生党ができる前であれば自民党は敗北していただろう。そういう意味で「第2自民」としての新生党やさきがけの役割があったし、財界の支援もあったと見ておくべきだ。今回の選挙結果を見ると社会党だけが負けて新生党や日本新党などの第2自民が伸びた。選挙前からマスコミなども社会党バッシングに中軸をおいていたのではないか。社会党を伸びさせない、自民党への不満を吸収する受け皿作りをしたと理解すべきだろう。そういう意味では財界は自信を持っている。例え自民党が分裂しても全体的に見て安定的な保守勢力があればあえて自民党にこだわる必要はない。保守2大政党を展望したところに今の政権構想もあるのではないか。
逆に言えば、社会党がなぜあれほど負けたのかが問題だ。政治改革の議論に社会党がまともに乗ったことが良かったのか。選挙制度よりも定数是正や腐敗防止法等の改革を先にやるという共産党の議論はある程度正しかったのではないか。そこの議論を抜きにしていきなり連立政権構想ということで羽田派との連携とか社会党は一見情勢に機敏に対応しているようで実はぶれているだけのようにしか見えなかったのではないか。政治改革の議論はマスコミで騒がれている投票率を見てもわかるように、国民が主体的にかかわろうというテーマではなくて、ドラマを見ているように蚊帳の外からおもしろおかしく見ていると言うのが実態ではないか。政治改革や非自民政権などよりも不況の問題や福祉などの身近な政策を出していく方が良かったのかなと思う。マスコミの論調に躍らされてきたという社会党のスタンスがあったのではないか。
今後の政権構想を考える上で、社会党の支持層の中には、社会党の革新性に期待していたリベラルな部分があるので、その部分を捨ててまでもで安易に政権協議に乗るというよりも、もっと地に足のついた社会党内部の議論をきちんとやって、浮わつかず対応すべきだと思う。公明、民社は頑張ったが、民社はたちが悪いと思う。わずか15議席の党が社会党に向かって「左ミを切らなければ政権協議に乗らない」というのは失礼な話で、マスコミもそれをつかって社会党バッシングをやっている。そこは社会党の主体性をしっかり持って政権協議に乗っていくように言いたい。

<政権交代の意味を考えてみるのも>
T:自民党が政権をおりる可能性がある。この事態はいままでなかった事で、例えば、官僚との関係で、米価審議会など総て白紙だという事がいわれている。結局保守が勝ったといういい方があるが、自民党以外のところが政権を握るということになると、経済にたいして影響を与える可能性があり、やはりこれも一つの政権交代だとおもう。これがいいか悪いかはわからないが大きな変化という感じがしている。社会党が負けたということをどう考えるか。本来の支持者を大事にしていない、主張が曖昧だったという意見もわかるが、従来の社会党の護憲・PKOなどの主張が弱かったから負けたのかというところはよくわからない。それよりも自民党が下野せざるを得ない状況というのはもっと大きな影響があるのではないか。そこから、政権が変るということで経済についても今までと違った対応が出てくるのではないか。その意味では変ったほうがおもしろい。これから政権交代が繰りかえす中で投票率もあがるのではないか。
0:朝日新聞によれば、総保守という観点からみれば今回の選挙ではあまり変っていないという記事が出ていたが。
B:あれは重要な視点だ。自民党に新生党とさきがけをプラスして、絶対得票率でいけば5大政党は総て従来通りの逓減傾向をそのままさし示しているというものだ。総保守は相対得票率では増えているが、絶対得票率では減っている。そこで棄権の果たした意味を分析している。1/3が棄権し、残りの2/3のうち2/3が自民党以外に投票した。自民党に投票したのは1/3で、明らかに時代は変ってきているという考えだ。ここに政権交代の現実的可能性が国民的レベルで確認されたという言い方だった。

<新党の伸長をどう見るか>
C:今日の議論のテーマとして、一つ目に、非自民党政権の成立を我々はどう考えるかということ。もう-一つは新党勢力の伸長をどう考えたらいいか。それと社会党の問題。更に非自民党政権成立後、どんな展開が考えられるか。それを貰いていわゆる旧革新といわれる部分がどういう対応をとるべきかということになるとおもう。
総保守が増えただけだという意見がある。選挙速報を見ていて新党の出ていないところはあまり変化がないのでおもしろくない。国民が新党に投票した原動力というのは新しいものにたいする期待感が絶対あるはずだ。もし、日本新党とさきがけが自民党と連立を組むことになれば次の選挙ではぜんぜんだめになる。その意味では彼らも危ない橋を渡っている。投票率が低かったということは別の総括がいると思うが、日本の国民も新しいものを選びたいという意欲を持っていたということについては評価すべきだろう。
次の選挙で自民党をさらに空中分解することができたなら、その時に本物の政党かどうかが試されるわけだ。マスコミ効果がいい悪い、例えば、投票率が低かったのは当落予想が事前にわかっていたからだという議論があるにしても、やはり自分の一票を入れることで政治が動いたということは肯定的に評価すべきだと思う。
投票率の問題だが、若い人は投票しているのだろうか。例えば、大阪3区4区で日本新党が大きく伸びたが、あれは一体どの層が入れているのだろうか。新党勢力の伸長の原動力はどこにあったのか。ともかくも私は歓迎すべき事態だとおもう。
しかし、みな次が問われているからピリピリしている。日本新党も議員総会で非自民でいかないことには納まらないという事態になった。
B:確かに新生党やさきがけは本来総保守の中の構成部分だとおもう。しかし、集って協議すると当選してきた過程から非自民でいかざるを得ないという事実は一方で存在している。その非自民がいいのかどうかはまた別の問題だが、投票行動に現れた期待度というのはそういう変化を求めた結果だとおもう。その辺をどう評価するかだ。
A:自民党が色あせ、老朽化した。そこに皇民党事件にもあらわれるように、やくざともいっしょになるような政権だったということにたいして国民の中にいやけがさしたというのは事実だろう。それにたいして斬新性を求めて新党ブームがおきたのも事実だろう。そこの国民の心境の変化というものは事実として素直に認めることはできる。しかし、よいとか悪いとかいう評価にはまだ早いという気持ちを持っている。結局このまま自民党に政権を続けさすことによって、結果的に保守に対する期待、結集力を更に弱めさせることになるという財界の危横感があったと思う。そういう意味で、自民党にかわる第2自民をどう作っていくかという中で政治浄化、政権交代が考えられた。新しい保守政権をどう作っていくかという財界の模索の中で新生党やさきがけがあるとみておくべきだと思う。
間題は、そのことが民主主義の拡大につながるかどうかということだ。その民主主義というのは国民にとってよい政府につながるかどうかという議論だ。大衆運動が無い中で政治改革の議論がされ、自民党が割れ、国民の中におもしろいけれど主体的参加はしないという状況が一つと、政治改革の議論が先行して、福祉などの国民的に身近な論議に焦点があたらなかった。その結果が小選挙区制も含めて、選挙制度の改革の議論にいっている。これが本当に民主主義の前進、よりましな政府の樹立という方向にいくのかどうかはすこぶる難しい。変化の時代で孜々がいろいろな提起をしやすいことは事実だが、それは、とり分け社会党がその主体性をいかんなく発揮しながら、よりましな政府をどう作るかという構想を現実的なものとしてだしていかないと、ただ変化があっておもしろいという議論に終わるのではないか。そのことを前進的だと評価するのはマスコミの評価と変らないのではないか。
B:大きな流れの中でいえば冷戦体制終結後の選挙であるという評価がある。確かに、55年体制、自社対決の終焉という意味でそういうこともいえるという感じもする。選挙制度改革というという論議に集約されていったがために、政策的対決は一つも明らかにならないまま選挙になってしまった。その政治改革の中身についてはより一層わけがわからない。そこにしらけたムードと棄権が多かった理由があるのではないか。その一方で社会党の対応のしかたは政策的課題でよりまし政府のあるべき姿がひとつも出てこない。そこで選択枝がなくなった。政治改革で清潔さや腐敗を防止するということで日本新党やさきがけが得点を稼ぐという構図になってしまったのではないか。だがにもかかわらず、それらは時代の大きな流れの中で、より大きくなって政権交代も可能な、よりまし政権も作りうる基盤が形成されつつあるのだという反映だとおもう。

<選挙制度改革への態度について>
T:日本新党とさきがけが政権協議の一つの柱としているのは小選挙区比例代表並立制だが、あの制度は元々自民党が言っていたことだ。あれを提案された時だれでも不思議に思うのは、「あれは自民党の言っていたことやないか。あれをいうのやったら、自民党の推進派といっしょにやってもいいのやないか」ということだ。社会党は非自民政権を作るためにそれを受け入れるといっている。
B:今度は自民党も受け入れるといっている。それなら一体何のために解散したのかということになる。
0:宮沢が一番腹を立てているよ。
T:あれを提案されたとき、受け入れるなら社会党として条件をつけるようなことができなかったのか。
Ⅰ:受け入れたら今度は自民党が一人勝ちする心配もある。何であんなもので妥協するのだろうか。
T:非自民党政権というものが近づいてきたのは確かだ。しかし、そのときに自民党が提案してきたものを踏み絵にされている。
0:もともと日本新党は連用制だったのではないか。あれはどこへいったのか。
C:そのへんは日本新党やさきがけの化けの皮がはげてくるところだ。自民党でポシャツた案でも今は勝った勢いで進めている。まさにそこで社会党がどういう主張をするかだが。今は受け入れそうな雰囲気だ。
K:いうてもあかんというあきらめが社会党の中にある。
T:それでも非自民政権を作らねばならないのか。
A:選挙改革の問題でいえば、小泉元郵政相が、旧守派とレッテルをはられているが、共産党のいっていることは正い、定数是正をきっちりすべきだ、中達挙区制の中でやるべきことはやれ、政治に金がかかるから汚職があるというのは泥棒にも3分の利の理屈だ、そのへんのけじめをつけるような政治改革政策をきっちり出すべきだといっている。これは、区割りの問題や増減の問題などで自民党の長老の中で反対があったり、小選挙区で若手がとおって良老が比例で拾いあげられるというのはメンツが保たれないといったいろんな議論の中で定数是正が自民党の中で翻弄されてきたのは事実だ。小選挙区と比例代表制を入れるような政治改革をとめるために中選挙区の中で定数是正もあるのではないかと中曾根はいった。それは逆にいえば中曾根はどっちもやりたくない。今更選挙改革の議論を止めるということは言えない状況になってきている。ということは保守総体として二大保守政党の展望も含めて、選挙改革を乗りきらなければしかたないと自民党も割りきったのだろう。それはこのあいだの両院議員総会であらわれていた議論だとおもう。しかし、そのことと社会党が今何をいわなければならないかは議論を分けるべきだと思う。それは、社会党が主体性を持ってどう政治改革をするのかという政策を独自のスタンスで出す中で、どうしても選挙改革に触れないと政治資金規制法や政治腐敗防止法などの国民が本当に期待する議論ができないのであれば、ある程度ここまでは認めるが、しかしこちらの方が大事だということをきっちり言わないとだめだと思う。社会党の議論と自民党や新生党がいっている政治改革の議論と我々はきっちり区別して評価していくべきだとおもう。

<93宣言は効果があったか>
A:もっと問題なのは、今回社会党が落ちた原因には93宣言の問題が大きいと思う。社会党の基本政策の問題を大きく見直すということだが、今まで言ってきたことを否定して新しいものを出すということでもない。情勢が変ったからこうだといっているのだが、だれから見てもすりよりにしか見えない。政権を取るために民社・公明がもっと右に来いといったときにそれに答えているとしか見えない。それが一番はっきりしているのが例えば自衛隊問題。はっきり憲法違反だといえばよい。
日本新党の細川が原則はどこかに持っていきながら現実対応は柔軟な発言が多い。それはマスコミにはわかりにくい。センセーショナルでない、曖昧性がある。これからは国民が政治的な思考を身につけていくためにもある程度指向性のある政策を出してもかまわないとおもう。その意味では自衛隊は憲法違反だとはっきり言ったらよい。現実に巨大な組織としてある。これをどうしていくのかということと現実の予算編成で防衛費をどうしていくのかという問題は別の問題であるとはっきり言ったらよい。そういう根本的な思想の部分までぶれるから社会党の本来の思想もなくなってくる。基本的な部分はこうなんだということをいえば左翼バネもそれほど働かないとおもう。93宣言の問題も基本政策の問題もすりよっているという感じしかしないから社会党に対する失望感が現れ、頼りなさが目につくような感がある。
T:自民党というのは結党以来改憲党だが、選挙でそれを支持して自民党に投票している人は圧倒的に少ないとおもう。他のところで投票している人が多いとおもう。
K:世界観の問題を前に出してもすれ違ってしまうとおもう。93宣言にしても世界観の問題に始まって個別具体の生活にかかわる問題まで一緒くたになってしまっているから、わかりにくい。もっと整理して、世界観の勝負はついたということで、ただこれまで社会党が言ってきた政策の中でこれは例えどんな政権になっても押し通すという、例えば人権とか環境とかそこははっきりといった方がよいと思う。特に、外交問題などは余り選択枝の中には入らないのではないか。
T:そのへんを社会党はいつもマスコミや他の政党に攻撃されていて、対応に四苦八苦している。
A:93宣言は選挙向けに作ったという側面があるから、選挙が終わった後、宣言の仕上げをどうするのか、このまま、なあなあで幻の宣言になるのではないかという気がする。93宣言を見るとマクロ的な問題からミクロ的な問題までごちゃごちゃになっている。改革というならもっと国民に理解されやすい政策をどうだすかということだろう。そういう意味では、長すぎる。社会党というのはアバウトなところだからもっと行動綱領的な、簡潔なものにまとめて後は国会のその都度展開していく方が現実的ではないか。あれは民社・公明相手にアリバイ的に作っているようだが、内部の説得のための文章になっている。政権を担うにあたっての地に足のついた政策研究ができているような気がしない。結果的にかえってポロがでている形になっている。新党の見通し問題でいうと、今は新しいからいいのであって、政治の流れが早い中で1、2年も経てば古くなる。そのときに、皮がはげる時が来るだろう。その時が勝負で、その意味では政治が変りやすくなっているということは同感する。その時に社会党がだめなものはだめとしながら、現実セはこういっているということを主体的にきちんと出せれば社会党の支持層は広がるのではないか。変りやすい時に自分をどういかんなく発揮できるかということが今社会党に試されてきているのではないか。

<新党が強調したこと>
B:新生党やさきがけが自民党と区別するために行動綱領的に出したもので、彼らが意図的に強調したことでは、政治改革以外に地方自治と環境問題、女性の重視などがある。これらを旧来の保守とは違うという形で出したことは見ておく必要がある。それが化けの皮がはがれるかどうかの問題になる。
A:そういう意味で一番おもしろいのは米の自由化問題だ。この間題は右か左か真ん中はない。そこでは新生党なども抽象的な書き方をしている。
B:日本新党は最初反対していたのに選挙中に引っ込めた。この間題は社会党でもしんどい。そういうことは自社対立構造ではみな自民党にやらしておいて、社会党は抵抗政党としての存在価値があった。しかし、今やそういう時代でなくなった。連合の選別推薦はどう評価するか。

<政界再編と連合の役割>
A:連合は非自民非共産政権樹立ということで社会党にもものをいう。一方で民社は自民との連立を考えていたようだが、同盟糸の幹部を集めて非自民に説得したと聞いている。個人的におもうのは、連合が今の政治の中核になる力量があるのかどうかそこから議論をしたい。連合の存在意義を問われるとした今回の春闘で結果的に負けている。連合はもっと労働者の利益代表としてもっと徹すべきだと思っている。今政界再編成の仕掛け人になる力量が本当にあるのか。連合はまず労働者の権利を守る政策をもっときっちり出すべきではないか。例えば解雇制限法や労働基準法の改正、時短促進法などやらなければならない課題がいっぱいあるのではないか。そういう政策を出す中で、その連合にとって利益になる党であれば社会党であろうと民社党であろうと政策協定を結んで選挙協力をするということが必要だと思う。前々回の参議院選挙での連合候補の躍進でおもいあがりがあるのではないか。
B:今回連合は社会党の17侯補を推薦せず10人落ちている。これは後々尾を引くだろう。
K:山岸の動きは彼の単なるスタンドプレーとは見られない。やはり有力単産が納得した上でやってるはずだ。
Ⅰ:一方で選挙の5日前だか文化人が護憲の議員を守れという声明を出した。
T:社会党は結局自分の基本政策に振りまわされている。
A:連合は今そういうことをしなければならないのか。連合は労働組合の集まりというところをきちんとするべきではないか。
0:しかし、非自民の連立政権ができれば結果的に連合は仕掛け人としての役割を果たしたことになる。そこから先が本当に連合の力が問われるだろう。
B:彼は今後も社会党の分裂も視野に入れてまだまだやるだろう。社会党は選挙戦衝の問題もあるのではないか。複数区でほとんど落ちている。

<社会党は再生可能か>
C:社会党の今後の話しだが、展望がないと思う。共産党・公明党は抵抗政党・宗教政党として生き残る。社会党はもともとアバウト政党で釆て、これだけ数が減るとつぎに社会党に票を戻すためにはイメージを大分あげなければいけない。しかし、これから分裂も含めてひともめもふたもめもしないと本当の社会党のイメージが出てこないのではないかという気がする。93宣言でも中央ではやっていても各地方では議論になっていない。政党として社会党は本当に成立しているのか。自民・共産・公明に対する社会党というなら確実にそういう層はある。そういう枠組みの中で社会党が票をとってきた歴史があった。それが選択枝がたくさんできて新党に流れ、その中でいわゆる社会党のアイデンティティーをどう出すかということが問われていて、それが今の社会党のギャップになっている。自民党では羽田のように自民党に財界の援助があっても決断するものがいた。社会党を見ると、産別出身の議員は産別の了解がなければできないだろう。最近シリウスなどの議員個人が政策を持つという萌芽が出てきたが今回の選挙でつぶれてしまった。社会党が変っていく契機が奪われてしまったという感じがする。確かに社会党の政策をはっきり出すべきだと思う。しかし出せるのだろうか。結局社会党は自社体制の中での社だったということだu 自が分解しようとしている時、社会党のアイデンティティーが逆に本当に問われてきた。その時に議員はほとんど産別の支援を受けて当選している。社会党が労働組合の支持基盤がなければ成立しない政党になってしまっている。このことでどこかで問題がおきてくるのではないか。これからどうなるか非常に恐い。
K:最悪の場合はばらばらになることも考えられる。そのとき連合が単産出身議員だけでもまとめるという役割を果たすかもしれない。
A:社会党は党員や機関紙や党費などから見ると少数政党だが、集めてくる票からすると非常に幅広いそうが支持する国民政党だといえると思う。それは一つの価値観ではなくていろいろな価値観の人間が集まっているから国民政党としての体面を保ってきたと思う。ところが、その組織実態は党員に支えられているのではなく労組に支えられている。その労組政治部としての社会党が政権党を目指すとしんどい面が出てくると思う。労組によりながら幅広い支持を得て独自の政党としての機関は弱いというのが社会党だが、今回の政権協議の中で注目を浴びているのも事実だ。しかし、社会党の混迷の中で連合がタガ填めをすることは恐いと思う。推薦候補がらみのことを含めて今回の政界再編の問題を無理に絡めると労組の組織分裂も出てくる。それだったら労組は労組としての政策を持って、政党との関係を整理した方が労組にとっても政党にとっても結果的にはよいのではないかという感じがしている。
K:今の社会党執行部よりは連合幹部のほうが現実的な面では大部ましだと思う。
A:社会党は政党である以上は国民的な政策を出さなければならない。ただ支援母体との関係で空回りしているところはある。社会党は政策研究をきちんとやって、従来スタンスは変らない中で新しいものにどう答えを出していくか、きちんと政策を出していくべきだ。それは社会党の主体性でやるべきで連合がやることではない。連合は春闘などきっちりやって欲しい。
0:基本政策では口は出さなくても労働政策では大いに発言していくべきだろう。
T:選挙の話しになるが、年内に選挙ともいわれているが、小選挙区比例代表制では結局社会党は自分の首を自分で絞める結果にならないか。政権党であるならもっと政権にしがみついて欲しいし、予算も組んで欲しい。
C:選挙制度はなかなかきまらないのではないか。きまったとしても周知期間がいる。

<共産党は蚊帳の外でいいのか>
A:社会党が選挙改革論議に乗ったのは基本的には誤りだと 思うが、ここまできたらひき下がれない。けじめはつけな ければならないと思う。それと選挙評価の問題では共産党の問題がある。共産党は一貫して原則的なことをいいつづけてきたという意味では立派だと思う。しかし、今回首班指名になった時にいつまで綺麗事で済むのか。完全に蚊帳の外で、へたをすると自民を助ける可能性がある。そういう意味では今回の非自民政権が日本の民主主義によいものかどうかは拙速な評価をしてはならないと思うが、少なくとも変りやすくしたことははっきりしているし、そこに主体的に関わらなければだめだということははっきりしているとおもう。羽田にしても社会党にしても「よりましな政権」をつくるために最大限のアクションを起こしたということは国民は見ているから、その中でも綺麗事を言い続けていくというのは現実の政治の中では共産党はまったく蚊帳の外になる。
C:東京では社会党票は大部共産党に流れているのではないか。社会党の動揺的な言動を共産党は批判したのでそれに動指した左派的な人は共産党に入れたと思う。
B:しかし、共産党の票は着実に減っている。このままでは伸びる要素はない。
Z:身の回り(社会党糸の人)を見るとほとんど共産党に入れていない。
A:マスコミが教条的左派の共産党をバッシングしなかったことに今の財界の意図が見える。

<団体軟金の禁止と公費助成>
0:さきがけ・日本新党の提案の中で公費助成を前提に企業団体献金の禁止ということがけっこう大胆にうたわれているが、この辺は腐敗防止に結び付くのか。
A:公費助成の問題で、本当に腐敗防止・民主主義に役立つかよくわからない。財界にとって献金をしなくてなおかつ財界のいうことを聞いてくれたら一番よい。大企業丸がかえで票をとりまとめれば影響力を行使できる。
C:問題は公費助成の額だろう。そのことで選挙資金に枠がはめられれば一歩前進だろう。
A:もう一つ問題なのは政党法との関係だ。これは結社の自由や政党活動の自由との関係が出てくる。単に公費助成が腐敗防止に役立つという議論に安易に乗ることは危険だと思う。
B:共産党は公費助成もいらないといっている。実際は労組・宗教団体の問題など難しい問題が多い。
K:政策秘書などと同じでこの問題はまとまるのではないか。
A:ゼネコン汚職に見られる政治腐敗の問題は、選挙制度の問題というより情報公開とか行政組織のありかたの問題だと思う。
K:あれは地方分権たたきの側面もあるのではないか。新聞報道でも大統領並みの権限などと言っている。

*やや、話が広がりすぎた感もある。それだけ、今回の選挙結果と今後の取るべき道について議論が必要だ、ということでしょうか。
8月5日の特別国会、そして組閣、臨時国会という流れの中で、政界再編は一層進む状況にある。こうした変化の中でこそ、政策と思想が問われる。議論の中でも、選挙結果の評価において、ニュアンスの違いもあるが、結局は、こちら側の主体的な行動こそ必要という結論は変わらない。引き続いて紙上討論を行いたいので、読者の皆さんの参加をお願いいたします。 (大阪府委員会発)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【投稿】総選挙結果の示すもの

【投稿】総選挙結果の示すもの

今回の総選挙は、戦後政治の大きなエポックであったことは、事実であるが、それは新たな時代のはじまり、もしくは終わりの始まりであり、総選挙結果だけを特殊化する訳にはいかないであろう。
すくなくとも、選挙結果については、事前から予測されたものであった。多少のプラスマイナスの誤差はあろうとも、大きな違いは生じないほど、マスコミ報道は”的確”であった。選挙戦がゲーム化され、有権者がまるで観客席に座っているかの様に描かれた結果、唯一大きく予測に反したのは、低投票率であった。あれほど、今回の選挙は、久しぶりに「おもしろいことになりそう」と宣伝し、番組によっては、高投票率に向けてのキャンペーンを行ったにも、かかわらずである。国民の政治に対する思想的ニヒリズムと、行動様式におけるアナーキズムは、深化している一因がテレビを中心としたマスメディアにあるのも皮肉である。
さて、選挙戦の争点であった「政治改革」論議は、有権者の投票行動に対して、そしてその後の推移からしても全く結果に対するファクターではなかったと云える。何をして、今回の結果をもたらしたのであろうか。
社会党の敗北は明確である。元来党員数に比して”異常”な得票数を保持してきたが労働界の再編の結果、その良し悪しは別として、従来選挙のたびに動いていた「地区労」「県評」組合員が存在しなくなり、事実上社会党独自の組織は、ほとんど崩壊したに等しい。活動家の存在しない党は、政策によって多くの支持者を集めねばならない。
従来の社会党投票者が非常に不安定な、ゆるやかな支持者であろうとも、「反戦、平和」「反独占」「護憲」といった看板によせる期待は、少なからずあった。ところが、自民党の一党支配が、あやうくなることで「反自民」としての存在が同時にあやうくなることに対する認識が過少であるのに留まらず、非自民政権のために、その看板すら実質上おろすことになるに至り、従来の支持者は、彙権も含め左右に飛び散る結果となった。組織的にも、政策的にも分散化を許してしまったこの党に再度結集するためのエネルギー、存在の意義を見いだすのには、非常な困難さを感じるのは、私だけであろうか。
自民党の(保守)分裂と云っても、その内容は、基本的に二つの流れがある。一つは、新しい形態の保守主義を目指すグループ、さきがけ、日本新党であるが、今回の特異なことは、新生党(小沢グループ)の分裂?である。元来、田中一竹下一金丸とつづく、このグループは、戦後日本の保守政治においては決して本流ではなかった。日本の高度成長後半期に登場した保守党のなかの金権グループとしての特異な流れである。ただし、この金権派閥が長い間実質的な権力を握っていたのであるが、今回の新生党の登場は、本来の保守本流に見切りをつけたこの金権グループの新たな出発にすぎない。後者は、保守二大政党論を述べるが、前者はそこには力点を置かず、党内民主主義やクリーンさに力点を置いている。
いずれにしても自民党を含めて、これらの保守諸党の集めた投票率は史上最高であるという点を私たちは、充分認識しなくてはならない。したがって、”変革”を求めたとしてもそれは「保守政治」のシステムの「改革」であり、政策上の「改革」には、きわめで慎重であったと云える。しかも、これら保守新党は「形式」を含めたシステムの改革の中味については、いまだほとんど明確にしていない。
非自民政権が、相変わらずの「二重権力」構造を保持しつづけるなら、新たな権力闘争がはじまるし、自民党内のシステム「改革」にも、影響を受けるであろう。
時代変化の本質的な流れへの最大のファクターは、国民の民主主義に対する姿勢である。
どのような時代のはじまりであり、終わりであるかを決定するのは、すぐれて勤労国民の民意であり、単純な「世代交代論」ではないであろう。
(東京・T)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【投稿】総選挙は何をもたらしたか

【投稿】総選挙は何をもたらしたか
                                          —-非自民連立政権の登場と社会党の惨敗が問いかけるもの—–

<総保守が勝利したのか?>
今回の選挙結果を見て、たとえ自民党の過半数割れという新しい事態をもたらしたとしても、新生党やさきがけはもともと自民党から分裂したものであり、日本新党も本来保守勢力の一翼にしかすぎないことからすれば、保守勢力がかつてなく強化されたのである、という論調が主流となっている。果してそうであろうか。確かに得票率を見ると、自民=36.6%(9.5%減)に対して、新生=10.1%、さきがけ=2.6%、日本新党=8.0%で、3新党合計で20.8%を獲得し、自民と社会=15.4%(9%減)の減少分を合わせても、それ以上Lの得票率であり、自民+3新党の得票率合計は57.4%となり、有効投票の6割近くが保守勢力に投じられたといえる。しかし3新党、とりわけ日本新党の得票の多くは、これまで保守批判票の受け皿であった社会党から流れたものである。問題はそれだけではない。
それは、棄権票がかつてなく増大したことである。そこで、有権者全体に対する得票率、つまり絶対得票率で党派別の推移を見ていくと、86年7月選挙、90年2月選挙、そして今回で、社会党は約1.2%、公明、共産、民社3党も0.7から0.3%、それぞれの党のサイズに応じて同様な得票率を減少させている。問題は、総保守も今回で約2.5%減少させていることである。既成野党が総じて得票率をすべて減少させているのと同様に、保守の得票率もやはり減少傾向を免れなかったのである(7/27朝日の分析)。これは何を意味しているのだろうか。今回の投票率は67.8%で、史上最低であった。しかも今回の棄権には、政治的無関心の棄権に加えて、政治に高度な関心を持ちながらも、現在の与野党の実態から意識的に棄権を選択する「攻撃的アパシー」の有権者の増大が指摘されている。自民党が、野党連立政権などという不安定な事態を許すのか、といわば体制選択を迫ったにもかかわらず、有権者の3分の1が棄権し、しかも投票した人の3分の2が自民党以外の政党に投票したのである。総保守の勝利とはとても言えないばかりか、保守の要であった自民党はもはや政権与党から引きずり下ろされてしかるべきであるという、これまで想定もされなかった審判が下されたのである。
日本の政治が一気に緊迫の度を増し、政権交代が現実のものとなり、反共と談合政治、政官財の癒着構造で腐敗しきっていた自民党の政治独占が打破され、新しい歴史的変革への胎動と活性化が始まったといえよう。

<問われている社会党の再編成>
しかし今回の選挙は、こうした保守党一党支配の終えんをもたらしたにもかかわらず、同時に社会党に深刻な敗北をもたらした。保守の「分裂太り」とともにすなおに喜び得ない事態でもある。議席を大幅に減らした上に、最下位当選がもっとも高く、実に41.4%が最下位滑り込みである。連立政権与党第一党を誇れる状態ではないばかりか、こういう状態のままで小選挙区制に突入すれば、決定的な敗北につながりかねないといえよう。それは保守勢力を喜ばせるだけであり、見過ごし得ないことである。
どこに原因があるのであろうか。田辺前委員長と金丸前自民党副総裁との「親密な関係」によるイメージタウンであるとか、自民党政府の政策を受容するかどうかを巡る現執行部のふらつき、その時の対応のまずさであるとか、情勢の変化を追認するだけで独自政策がまるで出されていない、等々、
いろいろ指摘されており、それらはその通りであろうが、あくまでも短期的な敗因である。また、55年体制・冷戦時代の思考に埋没し、単なる抵抗政党のままにとどまっているとか、あるいはいまだに労組依存から脱却し得ていないといった長期的な原因も指摘されているが、それは今に始まったことではない。いずれも克服されなければならいことではあろう。
一つの視点として、鍵は、日本新党の躍進がどこからきているのかということにあるのではないだろうか。それは新しい活力をどこに求め、いかに取り込み、結集していくかということでもある。これまでの基本政策の大胆な見直しは当然必要なことではあるが、それ以上に、平和、人権、環境、そしてとりわけ女性と高齢者問題で独自の、分かりやすい、具体的な政策を打ち出し、しかもその政策形成は、過程から決定に至るまで広範な公開を原則とし、党内外のあらゆる勢力を結集することである。これは夢想であろうか。歴史的な大きな変化の兆候の中で、社会党自身の新たな再編成が問われているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.189 1993年8月15日

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【コラム】ひとりごと –政治の激動が始まるか–

【コラム】ひとりごと –政治の激動が始まるか–

◆6月18日宮沢内閣不信任決議可決。さあ、いよいよ政治の激動が始まるか。おもしろくなってきた。◆20日日曜日の朝のニュース番組は、海部元首相、三塚政調会長、羽田代表、会党赤松書記長などが出演し、評論家の森田実などは、総選挙で羽田内閣の誕生は必至と気も早い発言。◆羽田は「与野党改革派の大連合を作り、自民党に変わる政権を」目指すといい、連合山岸会長も羽田派、武村グループとの連携もあると踏み込んだ発言。日本新党細川は、武村派との連係、総選挙後新党へ合同もありうると発言。◆羽田といい武村、細川となかなかテレビで映える人材がいる。こうなれば、自民党には橋本龍太郎しかいない(?)。しかし、社会党はどうか。赤松書記長はテレビ映り(安心感・好感度)は良いように思う。(山花委員長はだめだが)◆一連の報道の中で、通行人のインタ ビューがあり、「カリスマ性のある指 導者が出てきて欲しい」との声があっ た。◆指導者待望論は、宮沢首相の悪印象から見てもなるほどとの感もある。今回の総選挙の争点も、改革か否かとい  う、はっきりしているようで、実ははっきりしない中では、指導者待望で決ってしまう恐れもある。◆めまぐるしい動きの中で、しつこく「改革」の中身を問い続けていきたい。 (佐野)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】国会傍聴初体験

【投稿】国会傍聴初体験

政府は今国会に「短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律案」(いわゆるパート労働法案)を提出した。
6月2日(水)から6月10日の採択まで、緊急に国会での審議傍聴行動がコミュニティユニオン首都圏ネットワークでとりくまれ参加した。 2日の国会衆議院労働委員会の審議傍聴について以下紹介します。 この日の審議には多くの傍聴者がかけつけ、傍聴席はいっぱいで立っている人もいるほどで、村上労働大臣もこのような「はじめての出来事」に驚きを隠せず、多少興香している様子でした。
まず、国会審議の傍聴といいましてもわたしも初めて。案内にあった集合場所、衆議院議員面会所へかけつけました。周囲は警察官が巡回しておりそれだけでも物々しいような感じでした。(緊張してしまう) 面会所では数人ごとのグループで椅子に腰掛けており、はて誰がユニオンメンバーなのかと頭を働かせなければなりませんでした。腕章や雰囲気をうかがいながら、なんとなく女性ばかりのグループがユニオンの人たちであろうと名前を出してうかがい、メモ用紙にの名前があるのを確認するとホットしました。
国会傍聴には傍聴券が必要です。これはユニオンの方で紹介議員を通じて前日に準備されておりました。傍聴券には住所と氏名を明記する必要があります。傍聴券を提示して委員会室のある建物へ入ります。エスカレータをおりて傍聴者の受付へ向かいます。委員会室にはメモ用紙程度のもの以外はもって入れません。
ここで簡単な身体検査を受け(ポケットの中身を全部出す)ます。所持品はロッカーがありそこへ入れます。ロッカーの鍵は自分で持てます。
さてこのチェックがすみますと、いよいよ委員会室へと行けます。着いたときにはすでに審議が始まっておりました。委員会室は図のような形式で、傍聴者は一番後ろに並んだ席に案内されます。政府委員、大臣、議長、速記者や事務官など、そして自民党、各野党の席、そして記者席、それから傍聴席です。
委員会室には歴代の労働大臣らしき人物の絵が周囲に飾られていました。
傍聴席は椅子だけで机も何もありません。メモを取るのも容易ならぬことです。それに比べ、各委員の席は机もありますし、喫煙もできるようですし、のどが渇いたら水も用意されております。それに驚いたことに結構人の出入りがあって、そわそわしていることが気になりました。記者席はかろうじて机だけは用意されておりました。最後に、今回傍聴者が多く詰めかけ、立っている人もいたのですが、椅子は数多く空いているのに座らせてくれないことにはいかにも杓子定規な扱いで多少憤慨しました。こうした国会審議の形態もやはり旧態依然たる形式だと感じました。

<パート法案審議で>
今回の法案は、すでに昨年2月に野党が提出したパート法案に対して、政府側がやっと重い腰をあげ政府案として提出してきたものです。審議のなかでもこの提案する立場の違い、何を重視するのかという基本点をめぐって議論が行われました。
私は岡崎トミ子さん(30分)、岡崎宏美さん(90分)の質疑を傍聴することができました。
岡崎トミ子さんはパート労働者の役割を歴史的にひもときながらその社会的役割が今日重要な位置を占めていること、しかしながら女性問題ともいえるこのパートの処遇は一貫して差別されてきていることが指摘されていました。そして今度こそパート労働者がきちんと守られる法案を作りたいと、政府側の姿勢を正しました。対応に当たった政府委員は労働省の松原婦人局長。松原さんはいままでの労働省のさまざまなパート労働に関する調査、指導指針、勧告などだけでなく「労働省の『パートタイム労働指針』に法的根拠が与えられることになる」と政府案の意義を述べるにとどまりました。
続く岡崎宏美さんの質疑はまずこの点から行われました。つまり、この法案がパート労働者に通常の労働者と同様の均等待遇が確保されること、バブル崩壊後の経済状況の悪化の中で違反が横行する事態を見ても、不当な解雇、扱いをさせないような、パート労働者の保護をきちんとするべきで、法案の中身は最低限~してはいけないというようなものの方がわかりやすのではないかと迫りました。そしてユニオンからよせられたアンケートなどを通じてパート労働者の実体を政府側に伝え、いかにこのような不当な事態を改善するのか、政府側を正しました。政府案は「雇用管理の改善」をうたっており、法的に事業主の責任の明確化をはかること、また各地に援助センターを設置することだけにとどまり、違反者への罰則規定などについてはふれられていません。
またこの法案は「短時間労働者・・・」となっていますが、これは質疑の中でいわゆる疑似パート、フルタイムパートなども含む解釈であることが政府側から説明されました。

<参院では>
6月10日の衆院通過の後、参院の労働委員会で各党から法案についての質問があった。
大脇議員は、「現在ILOで議論が始ったばかりのパートタイマーの問題を条約にするか勧告にするかについて、日本政府が勧告でよいという意見をだしているのはどういうことか」と質問。婦人少年局長は「各国はそれぞれ多様な実態にあるから一律な条約として規制すべきではない」と回答。また、ILOから各国への質問の中で「パートの労働雇用を改善すべきか」との問いに、日本政府は「フルタイムがパートより不利になるべきではない」というナンセンスな答えをしている。「国際的なコンセンサスを労働大臣は共有しているのか」と聞くと村上労働大臣は「もちろん」と答えた。
焦点の疑似パートについては、現行のパート指針で「ふさわしい処遇」をうたっているが、その線に沿うと答えた。フルタイム以上に働いている労働者については、短時間労働者ではないので非正社員として別の臨時雇用問題として考えると回答。今回の法案はあくまでも通常の労働者より短時間の労働者を対象とし、均衡待遇(量だけでなく質も違うのでそれに見合った待遇)をするという。ファーストフード店など店長以外はみんなパートという場合、通常勤務者とは誰を指すのかとの質問には、店長であると回答した。
正社員からパートタイマーへの移行についての質問には、待遇が著しく異なる場合は問題があると回答。有期間雇用については、今後労働基準法の「改正」で期限延長も含めた労働契約法制の問題であると回答。 援助センターを民間委託にするのは問題という問いには、行政指導機関ではなくバックアップ機関であるが、労働省の責任範囲であると回答。 非課税限度額100万円の問題は、労働省の管轄外だが大事な問題なので関係省庁とも話し合いたいと思うと回答。
ILO165号条約を日本政府が批准しないのは何故かとの問いには、均等法の再就職援助が女性に限られていること、公務員の育児休業法が女性だけの通用になっていることが、ⅠLOの家庭責任は男女ともという規定に合わないためであると回答した。

<法案をつくる国会の現実>
総じて、国会傍聴をつうじて感じたのは、これまで野党が提出してきた法案とずいぶんと違う内容である政府案が、このようなたった数日の討議で通過するということに驚かざるを得ない。それを目の前で見たので、憤慨もひとしおである。
テレビで見たPKO法案もすごかったが、国会という立法府の実態がなんとも頼りない感じがした。というのも、もちろん質疑をする議員、政府委員の対応はそれぞれに、それとなりに話の筋は通っているのであり、立場や考えの違いもあるわけで、当然答弁の内容にはそれらが反映されている。だが、討議の内容でふかまった認識や法案制定の背景的なものは、やはり国会を傍聴したものにしか分らないということである。
また今回ユニオン側で様々な要請をして、そのことで質問やら答弁の内容が大きく変っていったということも、大きな成果であるが、その半面、議員は意外と知らないゾという認識も深まった。ある意味では「法案内容を専門としない人々が、実態とかけはなれたところで、勝手(もちろん選挙で選ばれた人ではある)に法律を作っている」ともいえる。せめて実効力ある法律にするならば、経営者、パート労働者を招いた公聴会などを開催し、内容をつめた法を策定してほしいものである。
全国ユニオンネットワークでは9月の交流集会(東京)にあわせ、ふたたび国会要請をおこない、パート指針の内容、援助センターとの連携なども交渉していく予定である。         (東京・R)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】パート労働法 国会通過参院で附帯決議とともに採択

【投稿】パート労働法 国会通過参院で附帯決議とともに採択

<均衡待遇って何だ?>
6月10日参院労働委員会で、衆院で修正されたパート労働法(短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律)が附帯決議とともに採択された。政治改革法案が今国会で棚上げになるという状況の中で、急遽動き出した政府提出「パート労働法」。まとまらない政治改革で国会の無能ぶりをさらけだす前に、なんとか会期内にまとめる法案として矢面に立たされたようである。
突如の集中審議と「今国会成立を」という国対の強い要請に、ユニオン全国ネットワークでは全国から国会に声を集中して、議員要請や国会傍聴行動、記者会見、街頭宣伝等を勢力的に取り組んだ。もちろん、政府案として提出されたことは前向きに評価できるが、法案の中身はあくまでも「短時間労働者の雇用管理」であり、野党・連合側がこれまで提出してきた「均等待遇、就業条件確保」とは性格を異にする内容であったからである。
衆院における討議結果、以下の内容で修正が行なわれた。
①適正な労働条件の確保、②通常労働者との均衡これが参院でもめた)、③「雇い入れ通知書の発行、④就業規則の作成、⑤3年後に法を見直す等である。
参院では、衆院での修正をふまえ、結局たった1日の審議で通過。その日は午前10時から午後7時までの「残業委員会」となり、「均等待遇か均衡待遇か」をめぐって論戦がたたかわれた。結局、討議をふまえた附帯決議を確認し、「均衡」の概念に関する確認答弁をとるなど異例づくめの法案成立となった。(衆院、参院での討議内容については後述「国会傍聴記」を参照されたい)
とにかくパート労働法は駆け足で衆議院、参議院の労働委員会を通過して成立することになった。今後、法案成立によって6ケ月後の施行前に作成される「指針」の内容をつめること、また3年後の見直し(附帯決議による)をみすえた全国のユニオンでの活動も予定される。さらに微力ながらパート問題ではユニオンの存在を無視できないという認識も広がりつつあり、700万から1000万人ともいわれるパート労働者、今後各地に作られる援助センターへの働きかけも含めてますます、ユニオンの活躍も期待されるところである。

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】政治改革、またもや消え去るのか?

【投稿】政治改革、またもや消え去るのか?

<自民党崩壊のはじまり>
6月12日現在、政治改革関連法案は今国会での成立はほぼ絶望的な状況となっている。「またか」というより今回こそは政治が国民から見離されるのではという危機感を覚える。もともと政治改革の問題が選挙制度改革に流し込まれ、腐敗構造、汚職構造の改革は避けられようとしていた。それでも日本新党など新勢力の台頭もあり、宮沢首相の再三の「決意表明」にみられるように、選挙制度改革だけでも至上課題となっていた。野党もこれに乗っていったが、「並立」「連用」「併用」と言葉だけ取り出しても到底理解不可能な制度案が乱立することとなった。
()内は(小選挙区定数/比例区定数の比率)
①単純小選挙区制(500/0)自民党案
②小選挙区比例代表並立制(300/200)海部内閣案
①と②の妥協案 (自民一部)
③小選挙区比例代表連用制(300/200)民間臨調案
①と⑤の仲介案  (②の変型)
④小選挙区比例代表連用制修正版(275/225)
③と⑤の妥協案(野党・③の修正)
⑤小選挙区併用型比例代表制(200/300)社公案
⑥比例代表制(都道府県単位)民社党
選挙において、「代表」を選出する目的を「政府形成」におくか、「民意の正確な反映」におくかにより、前者が小選挙区制、後者が比例代表制が優れていると言われる。実際には両者が組み合わされることになる。
概ね①から⑥の案が出されているが、①が比例度がゼロで順に比例度が高くなっていく。自民党が①の単純小選挙区制、社会・公明が⑤の小選挙区併用型比例代表制の法案をそれぞれ提出した。①は自民党に庄倒的有利、⑤は野党に有利であるから当然①と⑤の間で安協案を模索するしかなかった。ここまでは自民党の思惑とおりだったはずだ。海部内閣の時に廃案になった②の「並立」案すら妥協案に含んでいたからだ。その後、民間臨調から③の「連用」案が出され、「連用」を軸に安協案が展開された。「連用」で各党の議席は現状維持、「並立」との間の妥協案なら自民党有利だから②と③の間くらいの線で野党に安協を迫れば野党も引かれざるを得なかったはずだ。ここで宮沢首相に誤算があった。自民党の議員は各選挙区の後援会を基盤にした「後援会」政党であるということだ。小選挙区300の「並立」案ですら、前職、新人などを入れるとはみ出る者が出てくる。自民党の議員は党などを信用していないから比例区で拾われると説明されても納得しないのである。それゆえ、選挙制度改革が「本当に」あり得ると感じたところで、海部内閣の出した「並立」実にも妥協できないとする「慎重派」が帽をきかしてきたのである。「改革派」と「慎重派」の亀裂は、かつてなく深まっている。そして妥協を拒否した自民党の責任は重い。あとは世論の後押しと自民党崩壊後の政界再編の受け皿の問題である。

<世論は冷めてる?>
選挙制度改革に関して世論は冷めている。おそらく、選挙制度が変わったから政治腐敗がなくなるとは誰も思っていないからだろう。また、どの制度を支持するかという世論調査なども見た覚えがない。「併用」「連用」などあまりにもわかりにくかったからだ。また、選挙制度の議論も選挙結果の数字に注意が向けられ、結局既成政党の議席の維持に目が向けられたことも嫌気がさした一因だろう。最も多いのは「支持政党なし」であり、既成政党はことごとく見離されかけているのである。既成政党の議席の維持に人々の関心が向くはずはなかった。
また、「民意を反映する」と言われる比例代表をベースにした制度にしてもどの程度の支持をうけていたのかは疑問である。比例代表になれば候補者選定は政党主導になるが、政党自体が国民から遊離している実感が強い。小選挙区制にしても政党主導になることでは同じだが、候補者選定にかかる予備選挙を行うなど、政党が民意を反映するシステムをつくことが先決であるように思う。
全くの中途半端になってしまったが、政治改革に関する本(漫画)をお薦めしたい。ヨシイエ童話「世直し源さん」(講談社ヤンマガKCスペシャル1~4巻)である。ステテコ姿で国会に登庁する源さんが首相となり、「国会議員性根たたき直し法」を与野党、官僚、財界の猛烈な破壊工作にも負けず、国会議員らを目覚めさせ見事成立させる物語である。「国会議員性根たたき直し法」とは、一切の政治献金の禁止、議員は選挙区に足を踏み入れたり選挙区の有権者と接触してはならない、などを内容とする4年間の時限立法である。政治腐敗の原因を有権者や企業が政治家にタカる衆愚政治にあるとし、そんな民主主義であれば4年間停止し、その間に利益誘導から解放された国会議員により政治を改革しようというものである。筆者の政治に対する深い観察をもとに描かれており、非常におもしろく、感動的でさえある。(大阪AC 93/6/12)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【報告】歴史的な総選挙を前に 匿名座談会

【報告】歴史的な総選挙を前に 匿名座談会

大阪府委員会では、6月19日に定例会議をもった。不信任決議可決から総選挙へと向かう政局について討論をした。その議論の内容は以下のようなものでした。

<不信任案を可決した原動力は何だったのか>
c:今日は18日の不信任決議を受けて総選挙へと向かう情勢について話あってみたい。ひさびさに面白いというか、興奪するような状況で、何かが必ず変わるという流れがあるので、感想でもいいので発言して行ってほしい。
A:何故不信任案が可決される事態まで行ったのか。
その原動力は何か、ということについて話し合ってはどうか。
B:みんな秋だ、と思っていましたからね。ひょっとしたらと思いながらもね。
A:6月17日の夕刻まで、我々も不信任案の採決まで行くとは思っていなかった。自民党中枢が羽田派をいじめているような感じ、また羽田派が不信任実に賛成するとは思っていなかった。せいぜい会期延長で乗り切るのではないか、という認識だった。宮沢がもっと早い時点で会期延長を言い出していれば、別の話だっただろう。それが、17目深夜で羽田派の意志が表面化して、情勢が動きだした。正直あたふたした。サミットということもあったし、総裁選ということもあった。それが、こんなに急展開したのはなぜなのか。
B:やはり、自民党の党内事情が決定的だった。
F:羽田派は一時後退したイメージであったが今週くらいから変わってきた様子。
D・:僕も朝刊を見てびっくりしたという感じだ。
A:なぜ羽田派が決断できたんだろう。
B:羽田派は何もできないだろうという材料が幾らかあった。政治資金規制法で新党資金と言われていた金丸資金が検察に押さえらたとか、金丸絡みで小沢の名前が出てくるとか。不信任を前後してそういう話が出てこないということは実際は何もなかったという可能性もある。つぶすだけの材料がなかったから、これだけのことが出来たという判断も出来る。
c:経世会の分裂以来の小沢派、小渕派の抗争のなかで、小沢派を追いだそうと言う意図もあったのではないか。
D:経世会の中の権力争いの中で羽田派が出てきたが、実態は権力争いをしていただけで、改革派というのは単なる看板という印象がある。
c:改革派と羽田派はいうが、その中身は依然としてはっきりしないのではないか。それに対して、昨日テレビにでていた武村グループの若手は一人ひとりが主張をもっているように思えたが。みんな坂本龍馬のような意識で。
F:やはり金丸が言っていた保守2党制みたいなところが狙いなのかな。
A:リクルート、佐川、金丸と自民党から金権腐敗を取ったら何も残らないというところまできた。自民党の看板を変えなければ国民の離反は避けられないところまできているように思う。ただ今向の自民党分裂が単なる看板の塗り変え、のれん分けに終わるのかということが問題だ。離党組の若手はほとんどが政治改革推進協議会(民間政治臨調)に参加している。それなりの活動歴を持っているように思える。こちらの方が「改革派」という印象だが。
c:毎日新開の夕刊(6・19)には、武村グループがシリウスと合流という記事も出ている。そういう意味ではシリウスをつくったのは、正解だったことになる。こういう事態を予測して受け皿を作って置いたのだから。
A:羽田派が飛び出したのも、何らかの財界のOKが あったということだろう。
B:そうでなければこんなことはできない。財界の支 援は確実でしょう
D:それでは、システムは今後もそれほどかわらない ということか
c:それは違う。何か違うだろう。選挙制度も含めて何か違うイメージを出してくるのでは。ただ、羽田派の主張と言うのがまだよく分からない。
E:この新開では「新党の名称はまだ決まっていないが、自民党に対抗し、改革と自由主義を基調とする政党として再出発したい」と羽田は言っている。
C:よくわからないな
F:日本新党の細川は、少し距離を置きたいところだろうな。もう少し力をつけて。
B:羽田は総理大臣をねらうだろう。細川もそうだ。細川家500年の夢という事か。ずっと外様だった怨念か?
A:羽田は新党を創って、野党と大連合で自民党と対抗すると言っている。23日に羽田新党を作り、7月4日の選挙告示までに「大連合」を創ると言っているわけだ。しかし、国民の側からは、新党の政策はイメージ以上ではない。マスコミも分かりやすい選挙にするべきだと主張している。何を改革するのかという意味で。
C:いずれにしても、自民党も追い込まれたものだ。すでに海外の論調は「死に体首相の主催するサミットは中身がない」と議長国の政治混乱に不信が出てきている。
B:サミットについては、ソ連崩壊の後は、政治的セレモニーの感があり、無意味化しているのではないか。

<選挙制度改革のゆくえは>
A:選挙制度については、野党6党で連用制までまとまったわけだ。連用制がこれからもキーポイントになるわけだ。
B:「小沢派」としては中選挙区でも小選挙区でも選挙制度なんかどうでもいいのではないか。・・・・・・むしろ、社会党が心配だ。社会党の場合、自民党に隠れてもめ事も表にでていないが、議員は中選挙区で行きたいわけで、・・・。
F:小選挙区制では、社会党は今の1割か2割ぐらいしか取れない。そこで比例制も加味してというところか。
E:2大政党制の受け皿作りということか?
D:やはり当初言われてきた腐敗防止はどこかへ行ってしまったのか
F:どのような選挙制度になるにせよ、このままでは何らかの小選挙区がはいる。連用制でも「2大政党」という枠組が必死ではないか。そうすると保守2大政党にするか、そうでないものにするかが大きな焦点では?社会党はそこまで踏む込む意志なのか。
連用制が出発点とすれば、さらに並立制に近いものが着地点という事ではないのか。

<18日の選挙結果、その後の政界再編?>
A:民社党はもうだめでしょう。
B:今度の選挙では、もう政党としての意味ががなくなるのでしょう
A:民社党はいままでも保守の補完勢力であったが、もうその必要がなくなったわけだ。羽田派と日本新党、公明党と社会党の一部が結びつくという構図が選挙の前後に出てくるわけだが、社会党は全体としてどの方向なのか。
B:政権を取ることを考えれば過半数250が必要。羽田派が40、日本新党、武村グループも入れ、ついでに公明民社が50、会わせて150くらいか。そこで社会党がどう動くかだ。改革派、右派のグループが動くということは考えられるが、いわいる左派も入れての社会党全体ということになるのかどうか。
A:羽田派40といっても、総選挙には羽田派新人もでてくるわけで、それがどこまで伸びるのか。自民党本体がどこまで防げるのか。また、日本新党がどこまで伸びるか、総選挙の結果が、新たな再編を生み出すとも十分予想される。
B:連合や仝電通の選別推薦という詰もあるが、今回の選挙ではどうなるか。
A:これはどう考えても、保守2大政党制的な形になっていくのかな。2大政党とならなくても、第2保守党を創る、そうしなければ、「腐敗する自民党」だけの受け皿では、保守支配が続かないところまで、彼らが追い込まれてきたことは事実だ。財界団体も17日前後に政治改革が進まない中での政治混乱に対して不快感を示していたし、それで自民党に資金援助ということにもならないだろう。自前でやってみろと言う感じかな。
D:財界も資金的には、景気の問題もあり、しんどいという状況もあるのでは。そして、社会党のなかでさえ分岐がでてくれば我々も一定の判断が必要になりますね。
F:このままでは、羽田派と日本新党を足せば、社会党が第2党でなくなる事態になる。
A:どちらにしても、今回の選挙では、羽田派を抜いての自民党単独政権の崩壊は必至であるということは確実。それ自体は歓迎すべき、歴史的なこと。ただ、改革の中身をめぐる問題となるのではないか。

<社会党は、改革派となれるか>
A:ところで社会党だが、今でさえ危機感が無いように思う。93宣言というのもあるけれど、党内では本気の議論になっているのか0 これだけ、自民党がパフォーマンスを演じているなかで、不信任案が通ったというだけで喜んでばかりはいられない。次はなにかが、社会党サイドからは示されていないように思う。「さあ、連合政権だ」だけでは、逆に社会党が低迷する可能性が高いのではないか。
B:55年以前の右派社会党、左派社会党みたいなかちにはもうならないだろう。例え、そうなったらもう「統一」はない感じだ。
C:いすれにしても、7月18日が次の新たなスタートになる。それぞれの場所で選挙に関わり、自民党の歴史的敗北を実現したいものだ。

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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【投稿】自民党一党支配体制の崩壊から

【投稿】自民党一党支配体制の崩壊から
                                                                                       連合政権時代への新たな胎動

7月7日から始まる先進国首脳会議を目前に控えて、よもやと思われた事態が展開し始めた。サミット開催国、議長国をつとめる日本において、自民党宮沢内閣はもはや死に体同然、「不信任された首相」が議長をつとめるという、これまでに例のない、屈辱的な姿でサミットを迎えることになったのである。宮沢首相にとって、もっとも回避したかった最悪のケースが現実のものとなった。冷戦時代の終焉とともに到来した新しい時代に、新しい思考と先見性や行動力が何にもまして重視される時代に、もはや旧態依然たる自民党政権、そして野党を含めてそれを許してきた旧来の政治体制の役割はすでに終わっているのだということを示したといえよう。
今や一般紙でさえ、「指導力のなさ」を見込まれて旧竹下派に推された宮沢氏が首相だったことは日本の政治のひとつの悲劇であった、と断言している。そして総選挙後を展望して、宮沢政権の役割を徳川第15代将軍慶喜になぞらえて、「文字通り一党支配時代の幕引き役となるのは、天の配剤というべきかもしれない」とまで見透かされている。そのうえ、「政治的に無能な宮沢首相でさえできたのだから、野党でも政権をとれないことはない」という皮肉まで社説で展開されている。
明らかに新しい時代の展望が開きかけているといえよう。自民党が事実上分裂し、自民党の独占的な政治支配が不可能となったことの意味は大きく、総選挙の結果によっては日本新党を含む野党連合政権、あるいは羽田・小沢派と野党による連立政権誕生の可能性も出てきた。自民党は過半数割れどころか、200人割れも不思議ではない。自民党では、首相の応援演説を求める地方組織がないという事態にまでなっている。羽田・小沢への憎しみを前面に党内引締めに全力を傾注した梶山幹事長は、「政治改革に名を借りた権力闘争だ」として、いやがる宮沢首相に内閣不信任案の採決を主張、羽田派の野党との同調をあぶり出すように仕向けた結果がこれであった。いわば一種のハプニング解散であったにもかかわらず、政治のダイナミズムは予測をはるかに越えて、新しい時代の幕開けとなったのではないだろうか。
そしてこうした事態は、野党とて無縁ではあり得ないといえよう。今後予測される政界再編の激動は、旧来の政治手法、国対政治、派閥取引、与野党癒着の腐敗構造、等々が許されない事態をもたらし、これらによりかかってきた野党の再編をもたらすのではないだろうか。何よりも先ず、この総選挙において自民党を政権の座から放逐する連合、連立政権の樹立に向けてあらゆる勢力を結集し、糾合しなければならないであろう。       (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.188 1993年6月15日

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