【投稿】「社会党党改革案」についての論議に当たっての私見

【投稿】「社会党党改革案」についての論議に当たっての私見

9月21日の全国協議会での討議に備えて、私の思うところをとりあえず述べさせていただきます。
この間題を検討する際に私の頭に上るのは、どのような姿勢・立場で討議に望むのかということです。私は労働青年同盟とその運動を、この日本において「新しい政治の流れを作り出す」一歩であるとかつては位置付けて取り組んできました。かつてと言ってもそう遠い昔ではありません、わずか3年前の労青の正式結成・全国協議会結成の際にそのように主張し、その後1年間ぐらいもそう主張し続けてきたわけです。
そのような私にとって、社会党は我々とは政治的にまったく異なる組織・存在であったわけです。私はこの4月まで都委員会の責作者をやらせていただき、また責任者となる直前の数年間は都委員として働かしてもらいました。その間私は同盟員に対して「基本的には社会党に入るべきではない」と「指導」し続けたわけです。地域で活動している仲間に「社会党の候補として区議選に出てみないか」という話があったときも、止めさせたことを覚えています。
私のその頃までの認識からいえば、既存の政治組織・民主団体・民主運動を始めとして、その周囲に結集する多くの人々に、「我々が作り出す運動の正しさを、実例の大衆運動、あるいは政治運動によって示すことによって、それらの政治組織・民主団体・民主運動を始めとして、その周囲に結集する多くの人々を我々が作り出す運動に結集させて、世の中を変えていく力を作り出す」というものでした。まあ勿論これほど単純に主張していたわけではありませんし、反独占統一戦線の一翼」を担うなどといちようは控え目に言っていたわけですが、まあ単純化して言えばこんなものだと思います。今から思えば非常に尊大な考えで恥ずかしくなりますが、これが笑うに笑えない事実のわけです。そういう私にとっては、社会党と、その周囲こ存在する多くの運動は「我々」が目指す運動をより広げ、量を拡大していくための「道具・手段」のようなものとして捕らえられていたわけです。従って、社会党の存在とその運動を支え、その周囲に結集しているさまざまな民主運動や社会党に積極的に関わり、そのことを通じて、また社会党の持つ影響力を有効に活用して、社会を変革し、新しい社会を創造していく運動とそのネットワークを広げていくというような活動には全く無関心、冷淡であったわけです。
私は恥ずかしい話ですが前述したような私の過去の姿勢に十分な総括を加えることもなく、今までとは全く異なる姿勢で社会党および、その周囲の運動に対して今日臨もうとしているわけです。そこで、是非論議に先立ってどのような姿勢で討議に望むのかを論議していただきたいと思います。それは、労青がどのような性格を持つ組織として存続していくのかということとも深く関わってくると思います。
社会党との関係から労青の今後のあり方を考えますと(労青の今後のあり方を考えるのは、別にこの視点からだけに限られるものではないと思いますが、とりあえず今回はこの視点から)、第一に、「社会党という存在がありながら(あるいは社会党だけではないかも知れませんが)、なぜ我々は独自に労働青年同盟という組織を構える必要があるのか」という問題が出てきます。この点に付いては私は、私の知る限りにおいては、社会党に満足しているものではありませんので、現時点では、漠然とした感じではありますが、労青という組織の必要性を感じています。
では、労青という独自の組織の必要性を認めた場合、労青はなにになるのでしょうか、「社会党の中のフラクション的存在」になるのでしょうか。「社会党の中のフラクションとして労青は存在する」などと言えば、真面目に社会党をやってる人から叱られますし、「自分は別に社会党に入ってやっているわけではないが、労青はやっていきたい」という人もいるかも知れませんし、これはチヨット難しいかと思います。
そうすると、労青というのは「平和と民主主義をこの日本においても、世界においてもより徴底させ、より民主的、より公正で公平な社会、よりよい社会、よりよい世界を目指す人々が、(建て前としては)自民党に入っている人から日本共産党にはいっている人までだれでも自由に参加できる、学習・研究・討論・社会啓蒙グループ」というようなものになるのでしょうか。私としてはこの方向に進んでいくのが良いように思います。しかし、私達の組織の生い立ちを考えると簡単には進まないと思いますが・・・。
いずれにしろ「自分は社会党とこのように関わる」と決めている人はよいと思いますが、私をはじめとして、どのように臨むのかをまだ考えあぐねている人も多いと思います。そこで、全国協議会の場ではまず最初に、労青の同盟員と社会党およびその周囲の民主運動との関わり方としては、(注:労青という組織と社会党およびその周囲の民主運動との関わり方についてではチヨッと課題が難しいと思いますので、とりあえず同盟員の関わりについて、)「このような姿勢」「あのような方法があるんじゃないか」「こんなふうに考えている人もいる」、というような意見、実情を何種類か確認していただけたらと思います。そして、その上で社会党の党改草案に付いて論議していただけたらと思います。
(1991.09.05.東京 W.K)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】損失補填と市場経済

【投稿】損失補填と市場経済

<汚泥の中の日本>
ソ連に市場経済のなんたるかを教えてやろう、財政支援よりも技術支援だと叫んでいた日本の政府・財界の化けの皮がはがれてきている。市場経済そのものをまったく無視し、むしろそれを破壊する行動が、証券会社の損失補填問題を通じて大きく浮かび上がり、世界的にも問われているのである。英エコノミスト誌は、「役人、銀行家、証券マン、それに彼らが買収した政治家たちは、日本を汚泥の中に放置した」と報じている。

<全部、ご承認>
証券大手四社が控えめに発表した損失補填だけでも総額1283億円の巨額に上る。補填先リストにはトヨタ自動車、松下電気、日立製作所といった「財テク御三家」をはじめ、大企業、金融機関のほとんどが顔を出している。そして野党の抱込みを狙ったのであろう、忘れずに公立学校等の共済組合、創価学会等が出ている。リストに載った多くの法人は「認識していない」「どうしてそれが悪いのか」「証券会社が勝手にやったこと」などという反応だ。証券取引法では、有価証券の売買で損失が出たら補償することを前提に取り引きさせることは違法となっているにもかかわらず、大口顧客、あるいは同金融系列に対してはかなり以前から半ば公然と習慣として行われてきたのである。最大手の野村は、大蔵省の行政指導の名の下で処理済みであるとして補填の事実さえ否定していたが、隠しきれなくなると「結論的に申し上げれば税の問題です。全部、大蔵省にお届けしているもので、ご承認も頂戴しています」(田淵義久前社長)と開き直った。暴露されて驚いた大蔵省は、「行政に責任を転嫁することは、モラルを世間から問われることになる」と反論したが(橋本蔵相)、同じ穴の狢である。

<腐敗と不正の温床>
日本の場合、投資家保護の名の下に証券会社は免許制となっており、しかも業界育成と監督・監視が一つの行政機関=大蔵省で行われ、国際的にみても非常に高い株式手数料をはじめ、証券会社の業務の承認から決算の内容にいたるまで大蔵省が事実上の決定権を握って、証券会社保護行政を行なってきた。
一方、それに対応して証券会社の方は、免許制の下で、野村証券を筆頭とする上位四社の市場シェアは著しく高く、寡占状態である。株式引き受け業務においては八割にも達する。しかも株式の発行の引き受け、売買の仲介、自己売買をすべて一つの会社の中でやっている。もともと利益が相反する法人相手の株式発行引き受け部門と個人相手の株式売買仲介部門とを同一の会社が兼営すること自体が腐敗と不正の温床であり、市場とは無関係にインサイダー取引が容易に実行でき、事実またそれによって圏外の一般投資家を犠牲にして損失補填を行ってきたのである。

<バブル崩壊の一端>
まさに市場経済とは似て非なるものである。しかも株式市場の参加者は、ますます法人、機関投資家に傾き、いまや個人の持株比率は22.6%(89年)にしかすぎず、市場は事実上大手証券会社の「管理相場」の舞台と化している。しかしそれにもかかわらず、資金はあの手この手で市場から吸上げなければ証券会社は成立たない。事実、日本の個人株主数は昨年だけでも150万人増加し、延べ2560万人を越えているという。これら株主の9割以上に当る圧倒的多数の個人株主、庶民の預貯金、資産を食い物にして、その犠牲の上に大口投資家に対する損失補填が行なわれてきたわけである。
しかしバブル経済の崩壊は、そのような実態の一端をさらけださせてしまった。庶民の怒りをなんとかして静めなければならない。

<時代遅れの抵抗>
国会で野村、日興等にたいする証人喚問がおこなわれたが、政府・財界はこれをあくまでも「証券不祥事」、あるいは暴力団との取引問題に矮小化しようとしている。この際、引合に出される米国の証券行政は、登録制を取っており、業務と垣根が分離した日本の何十倍もの証券会社が存在し、これらの不正行為に対する捜査権、行政処分権を持ち、スタッフ2000人をかかえる独立した行政委員会・証券取引委員会(SEC)が存在している。それでも不正行為の横行に対してSECの一層の強化が叫ばれている。これに対して証券会社の分割や日本版SECに大蔵省が執ように抵抗している姿は、市場を公開と平等を基礎とする経済における民主主義実現の場ととらえることのできない、もはや時代遅れの政府・財界の姿勢を如実に示しているといえよう。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】ソ連の激変・これからの我々の道は!

【投稿】ソ連の激変・これからの我々の道は!

八月十九日のクーデターから三週間、ソ連の歴史的な大激変を、固唾を呑んでみまもってきた。幸いにしてクーデターは予測したより早く三日天下にして完敗した。ペレストロイカとグラスノスチを経験し、民主主義を身につけたロシア人民、モスクワ市民はエリツィン大統領のよびかけに呼応して、勇敢かつ大胆に起立り、保守反動の意図を粉砕した。民主主義と人民の勝利であった。
ゴルバチョフ大統領の復権、八人組の逮捕、引き続いてソ連共産党の解体へと目まぐるしく事態は転換した。七十四年にわたる共産党の支配は終止符をうった。万感胸に迫り、心痛む思いで一杯である。最高会議から人民代議員大会をへて、新しい「主権国家連邦」がつくられ、バルト三国の独立が承認された。
民族共和国の自主権が確立し、共和国相互の連帯とゆるやかな連邦の政治機構・国家評議会が発足した。経済的な提携も進みそうだ。だが、ソ連の前途にはまだまだ幾多の困難な問題が山積みしている。経済改革はこれからが正念場である。著しく立ち遅れた技術革新と巣経済の導入には多くの困難と矛盾がアル。ヤミとインフレ、物資不足、流通機構の麻痺、なお残る保守特権官僚層の抵抗、大量の失業者の発生、軍人の離職と処遇の問題など、解決を迫られている課題が目前にある。さらに民族紛争は激化しそうな様相を示している。一歩誤れば内戦さえ起こりかねない事態を抱いている。ソ連の問題は他人事ではなく、ただちに世界政治と経済軍縮と外交に響いてくる大問題である。

日本共産党は今回のソ連の激変にさいして、我が党の勝利と自画自賛している。三十年来批判してきた「ソ連の大国主義・覇権主義の当然の破産」として評価し、共産党の解散を歓迎している。さらにペレストロイカとゴルバチョフの新思考を、レーニン以来の最大の日和見主義、右翼社民路線として罵倒し、自主独立路線を謳歌して酔いしれている。そこにはソ連人民の努力も社会主義者の苦悩も、我が身の問題として共に感応しようとする一片の連帯感も存在しない。夜郎自大の臭気ぷんぷんたるものがあるだけだ。

顧みて、今、つくづく思うことは、ロシア革命とはなんであったか、マルクス・レーニン主義とは自分にとって何であったか、半世紀ちかく身命を賭して運動してきた社会主義とはなんであったか、ということである。確かに多くの誤りもおかしたであろう。だが、今日においてもいささかも悔いはない。人間の平等・搾取の廃止・労働者と人民が主人公になる社会・平和、人権、民主主義の徹底を求めて、新しい世の中を切り開くという理念、路線が間違っていたとは到底思えない。・・・
ペレストロイカが提起した新思考は、二十一世紀に人類が生きのびてゆくうえで、通らなければならない道筋だと考える。反核・平和・軍縮・民主主義・人権・地球環境の擁護・社会保障は現在も将来も我々にとって、実践的な課題である。そこに社会主義が追い求めた内容がある。
今日、日本資本主義の腐敗と腐朽はその極に達している。バブル経済の破綻が示したものは、大銀行と大証券会社の横暴と腐敗、政界との癒着、自民党政治の破綻であった。弱者の泣き寝入り、虐げられた者の悲惨、社会的不平等はもう許されない。今こそ人民が立ち上がって大糾弾すべきときだ。日本社会党は、党改革に進もうとしている。いまこそ野党はゆきがかりをすてて結集し、統一行動・統一戦線を組んで闘うときである。
今後の我々の進むべき道は、社会民主主義をしっかり踏まえ、人民に依拠し、人民の要求をわがものとして積極的に取り組み、志しを同じくする社会主義者が小異を留保しつつ、大同団結して力を組織を一つにして行動する以外にない。そのために、残り少ない余生を捧げ力のかぎり努力したいと考えている。  (9月7日 小森 春雄)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】ソ連でのクーデター失敗とベレストロイカ

【投稿】ソ連でのクーデター失敗とベレストロイカ そして日本社会を考える。

●FMラジオニュースは伝えた。
「ゴルバチョフ大統領は病気療養のため大統領職を退き・・・・・・」この瞬間、私はイヤな予感がはしった。
「とうとう来るべきものが来た」と。ゴルバチョフが共産党保守派の力を借りながら事態を打開しようとしたときからこうした考えがあった。しかし、事態はこの予想どおりの方向には簡単に進まず、逆にクーデターは失敗。そしてゴルバチョフは書記長として辞任、しかもソ連共産党の解散を提起するという意外な結末へと急転していった。
このクーデターの幕切れをベレストロイカの成果として素直には喜べない「気持ち」があった。それはやはりベレストロイカを自ら推進してきた共産党が、結局そのこと(ベレストロイカ)を否定することへと突き進んだことへの悲観であったろう。共産党への一種の期待感がまだ私の中にはあったのだろう。
●わたしは社会主義思想はこれから再びまた新しい時代の命を育み登場してくると期待するし、自分もまたすくなからずそのために生きたいと思っている。また現に様々な社会主義的な試みが実践されていることを忘れてはならないだろう。
1917年にはじまった社会主義革命、その政治・経済・理論・思想は歴史に耐える展開をみせることができなかった。とりわけ70年代、そして80年代は資本主義の発展に比べ明らかに生命力のない体制へと社会主義は転化していった。そしてベレストロイカによって再び生命力を得ようという試みが開始された。それは理論的・思想的にもまだあきらかに十分説明のいくものではなかったが、改革は開始された。
わたしはこの間のソ連と東欧の一連の事態から「これらの社会主義が全く意味のないものであった」ということには反対である。確かに日本共産党が主張するよう「覇権主義・大国主義」的な要素はあったにせよ、歴史的にこれらの国々が民族鮒放や平等思想の発展に果たした役割は大きいし、一時代であったとはいえ社会主義であった。
ベレストロイカは社会主義が「平等・公正・連帯」を再生させるための活動であろう。しかし、今はその誤りをもっと大胆に的確に示さなければならないであろう。それが今を生きる我々の役割でもあるのだ。いくら「覇権主義と大国主義の破産」とレッテル貼りをし、その現象を歴史的に糾弾しても、余り意味はない。むしろ今は、社会主義とは何なのか?その経済システムはどうあるべきか?政治システムはどうあるべきか?それにむかっていかに変革していくのか?等などについて我々自身深く探求することが大事だろう。
「ソ連はかわいそう」などと「同情的」な宣伝もあるが、果たして日本は平等で公正で民主主義的な国なのだろうかと思う。
●最近のこうした事態をみるにつけ日本の社会状況も非常によく似ているのではないかと思う。中央集権的な国家、政党と行政・財界の癒着、企業社会という言柴に代表される単一的な生活・労働様式、市民的自治的柄動の不在、などはこの日本でも同様である。極端に違うのは日本では消費主義的な物的充足欲が満たされているだけである。
こうした社会の中で本当に左翼翼や労働運動をはじめとする民主運動が社会的正義、公正、助け合いなどの精神を現実の生活として具現する、運動の中に取り戻していくことをやらないとソ連共産党と同じではないかと。
●たとえばちょっとした例をあげてみよう。
私の子供の共同保育園の同級に、両親が二人とも公務員の方がいる。この二人の勤め先の行政区では産休明け保育を早くから実施しているが、人の住んでいる行政区ではまだやっていないため、子供は共同保育園である。(ちなみに公立保育園ではだいたい月額2万から3万円であるが、共同保育園では区の補助があっても月額約6万<購買活動資金を入れて>にも通する)二人とも活動家ではないが労働組合員であり、私と同じ団地に住み、同じ様な生活をしている。だが、この二人の「どうして共同保育園に預けなければならないの」という疑問に労働組合はまるでタッチしていないし、またそのようなところではないという意識がある。これはどの様に解決すべきだろうか?
また先日、朝のNHK「経済ジャーナル」でレポートされていたが、厚生年金、国民年金などは積立はするものの、毎年その保険者に対して積立額や将来の年金給付額などの報告は一切ない。一般の人には退職間近や実際に死亡したりした場合にはじめてその給付額が分かるのである。往々にして積立額よりも給付額が少ないという事態が判明する。こんなことは民間保険でもないことであり、国家がやることとはいえ、あまりにずさんな制度である。みんな気づいたときには泣き寝入りという奴だ。現行制度をどの様に改革すべきだろうか?
このように労災や健保などを含め基本的なところで日本社会は戦後のままではないかと思う。
ソ連共産党の崩壊はけして対岸の火事ではなく、われわれが活動する労働組合や民主運動そのものの問題として討議を深めたい。(東京 R・Ⅰ)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】複雑な思い隠せず、新しい気持ちで出直したい

【投稿】複雑な思い隠せず、新しい気持ちで出直したい

ゴルバチョフ大統領(ソ連共産党書記長)による、党書記長辞任表明、および党中央委員会に対する党解散の提案直後、動揺した私がその気持ちを静めるために、書店で手にした本が今回本紙でご紹介しているものです(書評「革命後の社会」)。要するにあのような本にすがりたい(社会主義が社会の進歩、歴史の発展において果たした役割を高く評価し、社会主義の未来を確信したい)という気持ちでいるわけです。
私は非常に複雑な心境で今日の事態の推移を見つめています。私は1977年に大学に入学し、同年10月に民学同へ加盟しました。以来14年間の政治活動生活になるわけですが、その3分の2以上の年月において、私は今日のソ連で保守派・反動派と批判されている人達に自らを近付けて考えてきたわけです。腐敗と堕落の極みが明らかにされ、保守・反動の牙城として糾弾され解党のやむなきに追い込まれたソ連共産党は、つい今まで私にとっては世界革命の前衛だったわけです。
今思えばソ連の実情をありのままに伝えていた報道・主張などに対しては「反ソキャンペーン」とひとくくりにして排撃しておりました。ある程度言い逃れのできる言い方だったとはいえ、アフガニスタンヘのソ連の侵攻を正当化しました。
「核戦争の脅威を減らすために、社会主義ソ連が率先して骸兵器を削減すべきだ」との平和運動運動家の意見に対しては、「米ソ均衡のとれた削減を」と主張し、これを退けてきました。わずか3年前の労青正式結成・全国協議会結成に際して「民主集中制を組織の原則とする」ことを強く主張し、「マルクス・レーニン主義以外には科学的社会主義の理論は存在しない」と主張してきました。
自分の不明さを反省しています。
反動のうねりを身を挺して阻l上し、混沌した状況の中ででも、新しい社会のあり方を考え、討議し、自分達の将来の社会を自分達の力で切り開いていこうとするソ連の民衆に見習い、もう一度、新しい気持ちで出直したいと思っています。
(東京 W.K.)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】「クーデターの失敗と共産党の解散」をみて思うこと

【投稿】「クーデターの失敗と共産党の解散」をみて思うこと
                    –素直に喜べない複雑な気持ち–

(1)グラスノスチが勝因と思うが、・・・・
今回のクーデターはペレストロイカの成果がソ連社会に定着しているために失敗したのだと思います。グラスノスチが人々の政治と民主主義に対する自覚を高め、時代の逆行を許さなかったのです。「知る権利」は、民主主義と基本的人権の根本的な要素であると強く感じました。
同時にグラスノスチ(情報公開=「知る権利」)は、日本など先進資本主義国においては、十分かどうかは別として当然のこととして受け止められており、社会主義圏でのグラスノスチが、ここ数年新鮮に感じられた点に「私の社会主義観」の反省材料があると思っています。

(2)ソ連共産党の理論はグラスノスチと相入れないものだった。
なぜなら、「青年の旗」でつながっている人の多くが「現代世界の平和」「よりよき社会の実現」に希望と期待を持ってやってこられたし、今も奮闘されていると思います(私も少しだけあると思います)。そして、そのための理論としてマルクス・レーニン主義を主張する人もいました。しかしながら、それを真っ向から否定する人はいなかったと思います。(私も、非常に嫌いな概念がありましたが同じです。)
今、ソ連共産党はクーデター勢力と言うことで解散に追い込まれようとしています。保守派は、グラスノスチについては言論統制の側であり、マルクス・レーニン主義のもとに「ボリシェビキ綱領派」に団結していました。保守派の勢力と理論が大勢であるが故の解散です。

(3)マルクス・レーニン主義は歴史の批判に耐えられるような努力をしなかったために、その命運は尽きるだけ。
社会主義建設はロシア革命で始まった初の試みであり、それ故「失敗はつきもの」という考えもあります。小さな失敗はそのとおりと思います。しかしながら、大量粛清、KGBを中心とする警察国家、全般的な経済の混乱と衰退などは、「資本主義より良い体制」と主張し、対立してきた社会主義にとっては、理論の実践的破綻としか言いようのない現実です。
一方、資本主義では「社会主義との対抗上」取り入れられてきたと考えられてきた「福祉国家」などの政策は、後退することもありつつも、今日では社会と国家の運営に不可欠のものとなっています。当然そのための理論も発展しています。
話はそれますが、なぜマルクス・レーニン主義は70年以上たった今も古くならないのか、疑問に思ったことがあります。自然科学では相対性理論や不確定原理など理論の基本的部分においては課題を抱えながらも、有用な理論が発展したし、資本主義も基本的矛盾を持ちつつも多くの変貌をとげ、新しい理論を取り入れています。マルクス・レーニン主義は「ユートピアの高さ」と「ロシア革命が成功したという点に理論の正しさの根拠があった」ために、発展できなかったと思います。

(4)改めて現実を直視し、冷静に対処したい。
今まで、スターリン主義を問題にするとき「その原因は指導者にあるのか、それとも理論にあるのか」といったこともテーマになったと思うし、あいも変わらず「資本主義か社会主義か」と言うことに関心が向くことがありました。それは不毛なテーマであると感じるし、今後はそのエネルギーを外に向けるべきだと感じさせられています。
私たちの世界は、環境問題、核の問題、高齢化社会、土地住宅問題、外国人労働者の問題など多くの問題を抱えています。どれも社会主義の立場だから解決できるという保証はないものです。
従って、今後ソ連(さらには中国なども)を見る立場は、「社会主義国」というものではなく、「核保有国」「隣国」「経済困難国」・・・・といったものになると思います。            (大阪 T.T)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】ソ連・東欧の激変と先進資本主義国の特権的繁栄について

【投稿】ソ連・東欧の激変と先進資本主義国の特権的繁栄について

①ソ連共産党が事実上解散するとの報に接して、もはや現時点ではやむを得ない選択だとしても、実に残念な気持ちになりました。ロシア革命そのものは---当初からの問題点もいくぶんはあったとしても---偉大な業績だったと信じています。しかし、内戦や干渉戦争の時代を通じて、しだいにスターリンの独裁が台頭し、階級の利益の名のもとに人類の利益(民主主義)をふみにじる思想が支配するようになったことが、この敗北につながったのでしょう。悔しいことです。「フルシチョフの改革が挫折させられた時点で共産党の未来は断たれていたのだ」というソ連共産党員のコメントがありましたが、そうだったのかも知れません。
②毎日新聞は社説で「隣国で社会主義という実験が失敗したが、失敗してざまあ見ろでは酷すぎる、この痛みを分かちあうことが必要だ」という趣旨を書いていました。これが、せめて良識ある人間の感じ方でしょう。これに比べて宮本顕治氏や日本共産党の言いぐさはひどい。「世界に害毒を流してきた大国主義、覇権主義の党が解散するのは諸手をあげて歓迎」とは何事かと思います。ここには人間の営みに対する尊敬が全くありません。あるのは「とにかく正しいのは我が党。見解の違う人間は滅びよ」という、およそ民主主義とは無縁な考え方です。これこそがスターリン主義そのものだということに、どうして気づかないのでしょうか。
③エリツィンという人は山師ではないのか。ずっと以前から、会議でゴルバチョフの案に一人だけ反対してみたりして、とにかく目立つことと、人々の反共意識に迎合することを最大の行動指針としてきたように思われてなりません。クーデターの時も、わざわざ戦車に飛び乗って演説するパフォーマンスを演じてみたり、クーデター失敗後のロシア共和国最高会議でゴルバチョフを人々の前でいびってみたり、自分の人気を高め、ゴルバチョフへの信頼を失墜させることに最大の関心があるとしか思えません。そういう機を見る才能、迎合の才能はたいしたものだと思いますが、連邦政府人事への口出しにしても、自分が権力を握っているロシア共和国の力を高めることだけ考えているのが歴然としていて、人類的な視野でモノを考える人ではないと思います。ロシア帝国主義の復活すら私は危惧しています。杞憂であればいいのですが。
④これからの世界では、社会主義革命そのものは、とうぶん人々の賛成を得られないでしょう。しかし、言うまでもなく。マルクス・エンゲルスやレーニンが語った「完全な民主主義としての共産主義」は普遍的な目標です。世界共産主義運動がこれだけの歴史的な敗北を喫した以上、戦略的な建て直しが必要なのは当然だと思いますが、平和と民主主義を掲げる闘いは、常に変わらない人類的価値があると思います。
それに関して、東欧の社会主義離れのころから考えているのは、日本のような先進資本主義国の「特権的繁栄」についてです。
ソ連を含め、社会主義諸国の人々は、日本などを見て「あんなふうに繁栄できればいいな」という羨望を持った。そこには、議会制民主主義、自由な報道、自由な言論、そして三権分立など人類の民主主義を求める闘いの貴重な成果である諸原則(残念ながらマルクスやレーニンはそれらの否定的な面ばかり強調したきらいがあった)にたいする正当な要求も含まれていたわけですが、同時に、自国に比べて経済的に非常に繁栄していることにたいする羨望も大きかったでしょう。だから、東ドイツが西ドイツに編入を決めたとき、私などは「そんなに資本主義が良けりゃあ、一度おれらみたいに資本にこき使われて過労死するまで働いてみたら?」と冷やかに思ったりしたこともありました。
実際、日本などの繁栄は、東欧諸国の労働者には想像もできないほどの労働強化に支えられている面があるでしょう。しかし、それと同時に、弱肉強食の資本主義世界経済では、勝者となった先進国が、低開発国を踏台にして特権的繁栄を謳歌しているのであって、社会主義諸国はこれほどの繁栄はけっしてできないし、またしてはならないのではないか。その意味で、先進資本主義諸国に対する批判においては「南北問題」がもっともっとクローズアップされなければならないと思うのです。
人間は、物質的な利益がともなわないと政権に対する信頼は持たないから、社会主義政権が経済政策に失敗して人々の生活を向上させえなかった結果、そして、それに対する自由な批判の権利を押しつぶし続けた結果、人々から見離されたのはやむをえないのかもしれない。しかし、そこには、弱者の犠牲の上に立つ特権的繁栄を選ばなかった結果として人々に見離されたという面も含まれていたような気がしてならないのです。だとすれば、残念至極なことでこれは陥ってはならない落し穴だと思います。先進資本主義国内では自国の特権的繁栄が糾弾されねばならず、社会主義国の人々もアメリカや日本ごときに(その議会制民主主義や言論の自由という面は別として)憧れてはならなかったのではないでしょうか。先進国の労働者は、非抑圧民族にとっては加害者の面を持つとレーニンも指摘していました。
要するに世界的な規模での民主主義の発展のための中心課題は南北問題にあり、特権的繁栄に対する批判が浸透するか否か、人類が進歩を続けるためにカギではないかというのが私の考えです。たとえそれがどんなに困難な課題であっても。
繁栄の批判なんて、だれが耳を貸すものか・・・と嗤われそうですが、それが無理なら「社会主義などという高級な理想は、しょせん人類という低級な生き物には無理な絵に書いたモチでした」と告白するしか道はないのでしょうか。
(奈良 石田)
(上記の石田さんの投稿の表題は編集部がつけました)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【投稿】自滅クーデターの提起したもの

【投稿】自滅クーデターの提起したもの

<平和の布告から七四年>
「もし、なんらかの民族がある国家の境界内に強制的に引き留められているなら、もしこの民族が希望を表明しているにもかかわらず、その希望が印刷物で表明されていようと、あるいは人民集会で、あるいは政党の決定で表明されていようと、あるいは民族的抑圧に反対する憤激やほう起のうちに表明されていようと、同じことである、この民族に対して、合併する側の民族、一般により強力な民族の軍隊が完全に撤退したうえで、この民族の国家的存立の形態の問題をいささかの強制なしに自由な投票によって解決する権利がこの民族に与えられていないなら、そういう合併は併合であり、すなわち略奪であり暴行である。」
これは、一九一七年十一月八日夕刻、全ロシア・ソビエト大会の壇上から、民衆の熱狂的な歓呼と拍手の中でレーニンが自ら起草し、報告した革命権力の最初の布告、平和の布告の一節である。同じ日、レーニンは第二の布告、「農民に土地を!」という土地に関する布告を報告し、「農民自身に全問題を解決させるがよい、彼ら自身に自分の生活を建設させるがよい」と断言した。「平和、土地、パンを!」を掲げて、「世界を震撼させた十日間」のあのロシア革命が提起した課題が、ソビエト権力七四年後の今日、自らの危機の爆発の中で問い直され、レーニン像が撤去され、レニングラードがペテルグラードに戻り、共産党の解体によってようやく実現への道に踏み出すというのは、何という歴史の皮肉であろうか。ヒトラーとスターリンの密約によって、まさに暴力的に「併合」されたバルト三国の独立が、クーデター後に新設されたソ連国家評議会の決定によって承認された。ゴルバチョフ大統領と一〇共和国指導者の声明は、「その意思のある共和国は主権を持った国家による連邦条約を準備し、調印する。この条約では、個別の国家は連邦への参加形態を自主的に決定できる」として、「平和の布告」の精神が七四年を経過して初めてよみがえったのである。

<マルクス主義と民主主義>
ジョン・リード描く感動と希望の十日間に対して、「八月革命」というにはあまりにもあっけないクーデターの三日間ではあったが、平和と進歩、社会主義を目指してきた勢力にとっては、これまでにもましていくつもの重要な問題が投げかけられているのではないだろうか。
その第一は、やはり民主主義の評価にかかわる問題である。左翼勢力がえてして軽視し、社会主義に比べて次元の低いものとし侮蔑してきたあの民主主義である。現実の社会主義の経験の危機と破産は、社会主義を社会の全面的な民主主義化の過程として考えること、民主主義の徹底こそが社会主義であるという思想の重要性をあらためて提起したと言えよう。それはまたマルクス主義の三つの源泉の問題でもある。マルクス主義こそが、人類的な科学的遺産と成果を継承し、それをよりいっそう発展させる創造的な科学でなければならなかったのである。民主主義をめぐる形式主義的理解、多数決原理や単純な支配形態論、法治国家や三権分立に対置されたプロ独裁論、これらはマルクス主義の創造的発展とは無縁なものであったといえよう。現実の歴史は、社会の全領域における民主主義の徹底的な発展と保障、その質的な内容の豊富化と大衆化というものが、国家権力や社会の民主化、生産関係の変革、したがってまた生産力の発展、さらには人類的課題の解決と直接的に結びついており、密接不可分の関係にあることを示したのである。

<虚構の崩壊>
現実の社会主義の虚構を崩壊させたものは、新しい民主主義的発展の可能性を幾度となく押し潰してきた閉鎖的でセクト的な唯一絶対の指導党・前衛党思想であり、それと結びついた党・国家官僚による社会生活の治安国家的傾向である。もう一つあえて言えば、市場経済の廃止であり、社会主義を市場と切り離すことによって、計画経済のよって立つ基盤を掘り崩し、市場を通じた民主主義の貫徹を圧殺したことである。一言で言えば、民主主義の欠如である。それを克服する機会は幾度となくあった。レーニンのネップへの政策転換がそれであり、一九三五年のコミンテルンの統一戦線政策への転換、社会主義への多様な道を提起したソ連共産党第二〇回大会、トリアッティと社会主義へのイタリアの道、プラハの春と人間の顔をした社会主義、等々、これらをことごとくブルジョア民主主義への屈服として否定してきたのが現実の社会主義であった。

<ペレストロイカの果たした役割>
ゴルバチョフによって提起されたペレストロイカは、その意味では社会主義の民主主義的再生への挑戦であるともいえよう。「レーニン以後、最大の誤り」などといった共産党宮本議長らの主張とは反対に、レーニン以後はじめて真の共産主義者が登場してきたのではないかというのが実感であった。しかし七〇有余年にわたって蓄積されてきた反民主主義的悪弊とそれを支えてきた勢力は、けっしてあなどれるものではないことを今回のクーデターは示したし、今後も示すであろう。幸か不幸かゴルバチョフ自身がそれとの苦闘に明け暮れていたのである。エリツィンが「大統領は、改革を首尾一貫して行わず、党官僚の攻撃の前にしばしば降伏した。彼がヤナーエフやクリュチコフ、ブーゴ、ヤゾフらの正体を知らなかったとは思わない。今、われわれは彼に不満をぶつける権利がある。クーデター後、ロシアはすっかり変わり、彼も別人になった。多くのことを評価し直せるようになった。私は、クーデター以前よりもずっと大統領を信じている」と発言しているのは事実であろう。一方、シェワルナゼが「ゴルバチョフはクーデター派のとりこだった。しかし戻ってきて記者会見したときもまだとりこだった。右に左にゆれる傾向、人を見る目のなさ、民主勢力に対する信頼のなさ、等々によって暴徒を育ててしまった」と不信をあらわにしているが、クーデター派に屈服しなかったことは事実であり、そのことの意味は極めて大きく、その後の一連の改革過程でゴルバチョフが果している役割は過小評価できないであろう。ましてやクーデターは、八五年に彼が登場して以来、社会の民主化を大きく前進させたペレストロイカによってついえ去ったのである。

<カオスからの脱出の道>
クーデター派は、ある意味では壊滅的な打撃を受けたであろうが、事態はそう楽観しえないのではないだろうか。レーニンがたびたび厳しく指摘してきた大ロシア民族主義が再び頭を持上げてきており、極右極左の民族主義が跳梁し、民族間紛争の火種は以前にもまして拡大さえしている。不足経済と国家独占的企業体制のもとで私利私欲を肥してきた膨大な党官僚や国家官僚は、市場経済化を生死をかけた最後の機会として国有財産の私的略奪、私的企業支配、マフィア的市場支配へと動めいており、経済的混乱の拡大を最大の利益としている。いわばクーデターや反動的政権転覆の温床はつきないほど広範に存在しているといえよう。それにもかかわらず、このカオス的状況からの脱出の道は、権威主義的、権力主義的解決によってはけっして開かれるものではなく、全面的な公開制と民主主義的な改革に基づく全民主勢力の結集によってしか切り開かれないであろう。そしてこれに対する国際的な政治的経済的な支援と連帯は、相互依存的な国際社会の平和的民主的発展にとっても不可欠の緊急の課題となっているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

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【追悼】あの笑顔 -安部さん逝くの報に接し-

【追悼】あの笑顔 -安部さん逝くの報に接し-

どうしてあんなに誠実な君が先に逝かねばならないのだろうか
私にはわからない
背筋を伸ばし、あごを引いてまっすぐに相手を見る
しかしその目は、どこか気恥ずかしげで、シャイである

辛抱強く相手の言葉に耳を傾け、気紛れでない
率直に、もってまわることなく、だが丁重に意見を述べる
時には激して身振り手振り、全身で語る
しかしそこには驕りや冷笑的態度は微塵もない

あの明治大学学生時代、民主主義のために闘うことの意味を
民主を冠した集団の暴力行為を身に受けながら
復讐や怨念のために闘うものではないことを静かに示し
しかしその無私無欲な献身性には強固な意志が光る

あの時代、あなたの下宿に寄り集い
共に闘った仲間たち、その後も輪を広げ、連帯し
共に語り、悩み、反省と悔悟の念をもって思索する
しかし今こそ必要なこのときに、あなたの笑顔が焼き付く

                  1991/7/28
                  安部さん逝くの報に接し
                         生駒 敬

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

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【投稿】コップの中の議論から脱出して

【投稿】コップの中の議論から脱出して
                                                                    —-波高し、田辺社会党の船出—

「田辺 誠=46,363票、上田 哲=36.358票」という接戦の未、社会党に26年ぶりの「右派」委員長が誕生した。そして党改革案を7月30、31日の臨時党大会で修正可決し、ようやく新執行部が選出された。
もともと田辺氏の政権構想には、社会党主導の野党連合政権に至る過渡的政権としての「自社連立」があるが、これを警成する地方の活動家を中心に予想以上の反発を買い、上田氏への票の上積みとなった。臨時党大会で「改革派」は、このような田辺批判票の多さに気配りを強いられ「基本政策の見直し」については、譲歩せざるを待なかったが、「党務と政務の分離」については、前進した。
前者については、表現の微妙な言い回しを別として、冷戦の終焉によって強まる米ソ協調体制づくりを背景に、「非武装中立政策」の見直しの必要性が、党中央の共通の認識となりつつあるにも関わらず、地方の活動家との間に認識の乖離があることを証明することになった。土井体制の下での党内改革議論のモラトリアムのツケが、ここにきて表面化したと言えるのではないか。それは一面では、統一自治体選挙以降のこの間の改革議論の不十分さをも物語っており、今後の党内の徹底的な改革議論の推進が、田辺執行部の方針として真っ先に打ち出されなければならない。
後者については、書記局主導の党運営を国会議員主導に切り換えることを狙いとしており、86年の「新宣言」で打ち出した「西欧型社会民主主義政党への脱皮」にとって、不可欠の要素と見られていただけに田辺氏周辺は大きな成果としている。
しかし本当の党改革は、これからの政治改革の主体となるべき党外の多くの市民、若者、女性、未組織労働者、中小企業等々の中へ社会党が裸で飛び込むことによってしか成しえないということに、党内の多くの活動家や幹部や各級議員が一日も早く気づくことから始まるのではないだろうか。そして、平和、人権、環境、国際連帯・協力、選挙制度、税制、バブル経済、等についてもっと現実的であると同時に、大胆な改革政策を提起することである。公平、平等、連帯、機会均等、徹底した公開を原則に受け身ではなく、攻勢的な民主的代案をこそ提起する必要があるのではないだろうか。誰が、増え続ける「支持政党無し層」を真っ先にキャッチするかに、90年代の日本の進路が掛かっているのである。 (8月4日 大阪 M)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

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【投稿】リアリストでなければ政治は語れない)

【投稿】リアリストでなければ政治は語れない)

日本の政治は、いま大きな曲がり角にきている。衆議院の選挙制度の改革案をめぐっての自民党内部での議論。統一自治体選挙で一挙に史上最低の議席数に転落した社会先のこの間の党改革案をめぐっての議論。これらは、いずれも「党内を二分しても構わない。既存の政党が自ら身を切り、血を流さねば、激動する国内外情勢に対応した政治改革などできるわけがない。その努力を怠った政党は、完全に国民から見捨てられる」という危機意識が底流に存在していると思われる。
(身を切る覚悟のない改革など政治の世界で実現したためしがない。社会党の党改革もそこまでいかなければ、完全に国民に見放されるだろう。)
ようやく日本の政治の世界にも、世界的なベレストロイカの波が、およんできたといえるのではないか。まさに時流に乗った適切な危機意識であり、これらの改革案に対して、これまでの決まりきった「左翼の論理」による機械的な反対意見や傍観者に終始するものは、完全に時代から取り残されていくことを覚悟しなければならない。
’90年代は非常に厳しい変化の時代である。我々のこれまでの常識、価値観が次々と崩れている。古いものが滅び去り、新しいものが噴き出してきている。今日政治の世界で、何が保守で何が革新かということについて、これまでの物差しで図れなくなっていることを、自覚する必要がある。いま、自民党が保守で、社会党・共産党が革新という占言い方は、実態に全く合わず、完今に時代遅れとなっている。
これまでの政治・生活のあり様を是とし、これを守ろうとするのが保守であり、これを変革しようとするのが革新であるはずであった。1967年に誕生した美濃郎都政を革新都政とよんだのは、これまでの中央政府にしばられた従来の地方自治のあり様から、中央政府と対抗し都民本位の地方自治に変革しようと実践したからである。地方自治の革新である。
1980年以降、政府・自民党は、国際政治経済状況の変化と日本経済・国民生活の変化に対応させるために、矢継ぎ早に改革路線を打ち出してきた。その象徴的政権が、中曽根内閣ではなかったか。「行政改革」から始まり「電電公社や国鉄の民営化」「臨教審による教育改革」「売上税導入による税制改革」等々まさに「戦後政治の総決算」を行おうとしたのである。それに対して革新と.言われてきた政党、労働組合、民主団体どう対応したか。「行政改革反対!地方自治を守れ!」「民営化反対・!国鉄を守れ!」「臨教審反対!民主教育を守れ!」見事に「反対・守れ」路線のオンパレードであった。姿勢そのものは、全く保守である。
どの課題をとってみても、現状のままでは矛盾が拡大するばかりであり、改革しなければならない事については、誰もが認めざるをえない課題ばかりであったはずである。問題はどういう内容で改革するかをめぐって政治の場で争われなければならないにもかかわらず、野党が具体的対案を打ち出すことができない結果として、「反対・守れ!」路線となってしまったのである。改革すべき課題に対して、どう改革すべきかという対案抜きに、ある具体的改革案が気に入らないからと言って反対するだけでは、まわりの支持を失うのは、我々の身近な生活の中では常識に帰するものと言える。
この我々の生活レベルの領域では常識的な事柄が、政治の世界では認識しようとしない、できない者が、社会党や共産党、総評系の労働組合幹部・活動家といわれる人の中に、減ってきているとは言え依然として大きなウェイトを占めている。こういう人達を、いまのソ連における政治改革での保守派、改革派にたとえて言うなら、まさに保守派と言い、社会党や労働組合の組織改革、政治制度の改革を妨げている、一つの大きな障害物なのである。いまの世の中を非として改革しようとするものが、いまの世の中のどこが問題で、どう変革しようとしているのかという具体的プランを示そうとせずに、政府・自民党が打ち出す改革案に批判だけして反対する構図は、議会制民主主義制度を持った先進資本主義国での政治の場で・は、ますますその有効性を喪失してきており、激動する今日の時代では全く政治的に無力となっていることを自覚する必要があると言える。
問題は、どんな改革案を打ち出すか、打ち出せるかと言うことに尽きる。「政府・自民党の改革案に反対なら、対案を出せ!」と言うのが、政府・自民党のみならず、一般国民の普通の感覚である。これまで、問題点矛盾点を批判することは得意だが、自ら改革案を作り上げる、創造すると言う訓練を怠ってきた、逆に言えば訓練をしなくても済んできた社会党、労働組合、民主陣営に、対案を出せる力量があるのかどうか、どうしたら対案が出せるようになるのかについてこそ、我々は真剣に考えなければならない。
対案を出すためには、まず政府・自民党の改革案を具体的に徹底して検討することが必要なのである。安易にここが悪い、あそこが悪いといった表面的、揚げ足とりてき検討をやって、それを要領よく文章化しそれに従来の左翼的理屈をつけて社会党の見解だとする従来のやり方では、いつまでたっても有効な現実性をもった対案などできるはずがない。政府・自民党の改革案には、なに故に改革しなければならないのかという、改革すべき対象に対する徹底したリアルな分析がある。そのリアルな現状分析をふまえてどう改革するのかというところでその党の立場性が出るのである。改革案の底に流れる政府・自民党の現状分析をこそ徹底して検討すべきなのである。その現状分析は、やはり政権政党だけあって、現実を的確に反映した正確性の高いものである。これをもとに政策を打ち出すのだから、客観性の高いものが求められるのは当然である。打ち出す政策そのものには、打ち出す政党の立場・利害が色濃く反映されているのは当然のことであり、それでいかに有権者の多数の支持を獲得するのが、政治なのである。
精度の高い現状分析を踏まえて、政見としてどういう政策を打ち出すかを競わなければならないにも関わらず、初めから批判することだけを考えて、対案を出そうとするから、時代遅れの観念的、抽象的な政策しか出せず、国民の信頼を失ってきたのが日本の左翼政党の歴史だったのではないか。もういいかげん、かたくなな保寸的「左翼理論」から解放するべきである。徹底したリアリストになることを抜きに、社会変革などできるわけがないのだ。 (大阪 T・I 1991年7月)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

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【投稿】ロンドンサミット終わる

【投稿】ロンドンサミット終わる
                                                      —冷戦後の世界は経済の時代・協調の時代—

<はじめに>
7月15日から開催された先進国首脳会議(ロンドン・サミット)(それに続く7カ国首脳とゴルバチョフ・ソ連大統領の「G7プラス1」会談等の一連の会談を含む)は、政治、経済の両面で冷戦後の新しい世界の枠組みを作ろうとの姿勢を明らかにし、歴史的転換期のサミットとなった。
今回のサミットの最も大きな問題であった市場経済化をめざすソ連を国際経済にどう組み入れるかに対しては、「ソ連経済の世界経済への統合支持」と、市場経済化への協力をうたい、同時に「ソ連との対話継続」など、大型金融を含まない6項目の支援で一致した。
ソ米首脳会談での戦略兵器削減条約(START)の合意は、ソ米両国の保有する戦略核の30%を削減する内容で、軍事力の時代の終わりを印象づけた。
又、関税貿易一般協定・多角的貿易交渉(ガット・ウルグアイ・ラウンド)を促進し、年内に決着、自由貿易体制を再建する体制をとった。しかし、具体的な中身の進展はあまりなかった。

<政治宣言とSTART合意>
政治宣言は、①湾岸戦争における国連の役割を高く評価して国連の紛争処理、平和維持機能の強化を柱に新しい国際秩序の確立を訴えた。②対ソ支援問題では、ゴルバチョフ大統領のベレストロイカ路線の支持を明記、ソ連の新思考外交については「アジアも含む全世界に展開するよう希望を表明した。日本が主張した」北方領土問題は「議長声明」に、「兵器不拡散宣言」はイラクに対し国連などの核査察を受け人れるよう強く求めている。
今サミットで対ソ支援に踏み出す重要なテコになったのは、同時に行われたソ米首脳会談でのSTARTの合意・7月末モスクワ調印であった。START合意は、戦略核の30%削減とは言え、軍縮史上初めて戦略核兵器の削減を実現し、79年調印の第2次戦略兵器制限条約(SALTⅡ)が核運搬手段で現状配備を上回る制限枠を設定したのに対し、双方が核運搬手段と核弾頭数を同数の一定レベルまでに削減している。この為、核軍拡の放棄を世界に約束した軍事的意義はきわめて大きい。冷戦構造の崩壊の中で続けてきた交渉の妥結は、軍事力の時代の終わりを印象づけるとともに核兵器全廃への第一歩となった。また、ソ連の軍民転換をしやすくするだろう。しかし、核戦争の脅威を除去すると言うSTART当初目標の戦略核半減には及ばなかった。速やかにSTARTⅡを開始して一層の核削減を図らねばならない。

<経済宣言>
経済宣言は、「世界的なパートナーシップの構築」を目指し、①ソ連経済の悪化はソ連のみならず中・東欧諸国こも困難を引き起こすと指摘し、ソ連の改革を支援し、同国経済を世界締済に統合する。②発展途上国を自由経済に取り込むため、保護主義の防止と貿易拡大による成長を促進するため、関税貿易一般協定(ガット)の多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)を年内に終結させる。③地球環境問題は92年の国連環境開発会議(ブラジル開催)の成功に向け、、開催までに気候変動枠組み条約などの実現を目指す。—などを打ち出した。
今回のサミットは、ソ連経済の世界経済への統合をうたって、西側経済に「東(社会主義経済)」と「南(途上国経済)」を加え、真にグローバルな経済を作ろうという理念を示したが、具体的な経済政策では見るべき物がなかった。
サミット本来の資本主義世界経済に関しては、「物価の安定を伴った持続的戌良のための中期的な戦略にづく経済運営の維持を確認する」と、インフレに警戒しつつもやや景気重視に傾いた表現が盛り込まれた。成長(景気)重視から協調利下げを求める米国と、物価(インフレ)懸念からこれに反対するドイツとの双方の妥協が図られた。サミット蔵相会合で現行水準を大きく上回るマルク安に対しては、各国が協調介入で対応することで合意した等6月下旬に開いたG7の結果を基本的に追認した内容となった。

<G7プラス1会談>
苦境に陥っているソ連経済を西側経済に組み込むための具体的な支援策を提示したのが、「G7プラス1」会談である。
支援策は、①国際通貨基金(IMF)、世界銀行へのソ連の特別参加(準加盟)②IMFなど国際4機関による経済改革への助言③エネルギー、軍需産業の民需転換など5分野の技術協力④対ソ貿易障壁の除去と投資の拡大⑤サミット議長国を通じた対ソ対話の継続⑥7カ国の蔵相、中小企業担当相の訪ソーーの6項目であった。
IMF準加盟で将来の金融支援に含みを残したものの、技術支援、知的支援を中心にした内容で、ルーブルの交換性回復のための通貨安定化基金の創設や、貿易赤字穴埋めのための資金援助など大規模な金融支援は当面、見送ることになった。
対ソ金融支援積極派の独仏伊と、巨額な支援には慎重な米、そして北方領土問題を抱え支援は念頭にない日本との妥協案として一時、浮上した欧州復興開発銀行(FBRD)の対ソ融資枠の拡大や、エネルギーなどに限定したプロジェクト融資も、最終的には支援メニューに残らなかった。
本格的な金融支援に踏み込まなかった第1の理由は、ソ連の改革姿勢への評価の低さである。ゴルバチョフ大統領はサミット直前、7カ国首脳への書簡で、社会主義経済と市場経済をドッキングし、混合経済に移行することなどを盛り込んだ改革案を明らかにした。しかし、これは、保守派と急進改革派の間をとった折衷案であり、ソ連の自助努力に欠け、日米を中心にしたサミット参加国首脳の日には、これが中途半端に映った。「この状態ではカネをつぎ込んでもザルに水を注ぐようなもの」というわけである。
第2の理由は、旧東ドイツの復興などで財政赤子が膨らむドイツ、いっこうに減らない双子の赤字に悩む米国と先進国も資金不足に悩んでおり、多額のカネをソ連につぎ込む余裕がないことだ。北方領土にこだわる姿勢が問題であるが、7カ国で唯一、資金供給余力がある日本が金融支援に消極的なことも、サミットの議論に影響した。

<サミットの特徴>
ロンドン・サミットの第一の特徴は、市場経済化をめざすソ連への支援で足並みを揃えたことである。東の政治・経済体制を支えてきたコメコン・ワルシャワ条約機構の両機構を葬り去った後、ゴルバチョフ大統領は自国の経済改革を携えてロンドンに赴きサミット終了後参加国に支援を訴えた。これに対して、参加各国がソ連の改革への不満や国内事情の違いを超えて、ソ連を国際経済システムに適合させることが、冷戦後の新秩序形成の土台になるという時代認識を各国首脳は共有していた。とくに、ソ連のIMFへの特別参加は、世界経済への「有機的結合」の出発点になるだろう。
第二は、冷戦後の安全保障を中心とした国際秩序の安定化に「国連の機能強化と言う形で国連中心主義を明確にした点である。この一年の世界情勢のうち、最大の出来事であった湾岸危機・戦争の教訓を踏まえたためである。又、「新秩序」へしのぎを削る米・欧州間の妥協の側面もある。
第三は、ガット・ウルグアイ・ラウンドを促進し、「全ての参加国は91年末よりも前にラウンドを完了させることを目指すべきである」とうたっているが、年内決着の展望が何ら明らかになっていない山である。ウルグアイ・ラウンドの成功裏の終結は、世界経済の将来への見通しに広範な意味合いを有し、旧社会主義圏の自由経済への復帰にとっても、また第三世界諸国の社会的・政治的安定にとっても、成長を基調とした世界経済の維持発展に不可欠の新秩序ファクターと言わなければならない。
第四は、START合意である。89年末のマルタ島でのソ米首脳会談による冷戦終結を一層確かなものにした。ソ米冷戦の構造が崩壊したのは、両超大国の軍拡競争が限界に達し、ともに財政が破綻したからである。経済が国際政治の枠組みを変えると言う力学は冷戦を終結させただけでなく、冷戦後の世界でも作用し続ける。

<サミット後の世界>
世界経済にソ連を組み込むという点で、今回のサミットが歴史的な第1歩を踏み出したことは間違いない。しかし、保守派が依然力を保持しているソ連で、市場経済移行を目指し、急進的な改革を断行できるか疑問が残る。
また、9年ぶりに景気の減速局面に入った先進国各国に、ソ連経済を全面的に支える力は乏しい。今回のサミットが示した理念が実現するまでには時間がかかりそうである。
冷戦後の世界は、経済の時代にある。米ソの財政難が冷戦構造を崩壊させたように経済の変化が国際政治の枠組みを変えて行くだろう。それだけに経済大国日本の役割は重い。
現代の資本主義経済の産業構造は、国家経済を拠点としていたかっての経済機構から新たな経済体制を選択したのである。国家独占の海外進出と、言った傾向よりも企業の多国籍化の推進となった。それによって企業は、経済流動を全世界に拡大し、グローバルな活動を推進するに至った。これらの経済活動が銀行・金融の多国籍化をもたらし、企業相互間の世界的ネットワークを必要とさせた。これらの現象が今までの国家の枠を突破せざるえない生産構造を形成し、一層経済が重みを持つ時代になった。
冷戦後の世界はまた、協調の時代である。新世界秩序をうたう米国もかつてのように世界を主導する経済力をもち合わせていない。国内においては財政赤字、貿易赤字をかかえ、国外では、累積債務問題をかかえ苦境にあえいでいる。バックス・アメリカーナの崩壊である。しかしながら、誰もはっきりとした主導権は取れない。誰もが責任と役割を分押しなければならない時代である。今までのような資本主義体制・社会主義体制では解決のできない歴史的局面に突入したのである。
ソ連を抱き込んだ世界は、市場経済システムという共通の理念のために協調し、痛みを分かち合わなければならない。(名古屋:Y)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

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【編集局発】ソ連保守派によるクーデターに断固抗議する!

【編集局発】ソ連保守派によるクーデターに断固抗議する!
                                                                        –ベレストロイカの後退を許すな–

8月19日ソ連の国営クス通信はゴルバチョフ大統領が健康上の理由でで辞任し、ヤナーエフ副大統領が同日大統領職を引き継いだと報じた。さらに、ソ連指導部が一部地域に6ケ月間の非常事態宣言を発令し「国家非常事態委員会」に全権力が委譲されたことを報じた。
その後の報道を注視すれば、政治締済を巡る、ソ連国内の深刻な対立を背景に、軍部とKGBなど保守派が、民主的手続きを経ずして、暴力的なクーデターを行い、ゴルバチョフ大統領の失脚を謀ったことは明らかである。
共産党の指導力の実質的な解体、ソ連社会全体を巻き込む深刻な国内情勢の中にあって、ゴルバチョフ大統領の改革推進を恐れた保守派勢力の前時代的、非民主的な暴挙に対して我々は断固抗議するものである。
改革派の指導者ヤコプレフが「党の中心的指導部の中に、ベレストロイカ路線に反対するスターリン主義のグループが形成され、クーデターが準備備されている。党の民主的改革は不可能であり、不道徳だ。次の攻撃目標はゴルバチョフとされている」と警告し、離党声明を行った矢先の今回の事態である。
8/20に新連邦条約の締結開始を前して連邦維持で一致する保守派勢力による極めて計画的な行動であるが、ベレストロイカの5年間は国内の民主勢力、改革派を育て、改革を後戻りさせることはもはや不可能であり、ロシア共和国をはじめ、党、軍、政府関係者の中でクーデター不支持表明、市民の抵抗が開始され、20日にはレニングラードでは10万人の抗議集会が行われている。
また、各国も次々と「新政権」不支持を表明している。「新政権」はベレストロイカ推進を表明しているが、国際的孤立は益々明らかになっている。
もちろん、保守派によるクーデター後のソ連情勢は、現時点で不透明と言わざるえない。改革派へ報復、暴力装置の発動、内戦の危機も十分予測されているが、我々は、ソ連人民の民主的イニシアチブによるゴルバチョフ復権、民主主義の回復、ペレストロイカ・改革の推進を断固支持するものである。  (8/20)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

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【報告】 今年も元気に合宿開催

【報告】 今年も元気に合宿開催           一東京 金属化学支部-

東京の「金属化学支部」では毎年恒例となっている支部合宿を秩父で開催した。合宿で取り上げる課題は毎回「先端」を行くものであり、注目されている。今回は合宿の概要を支部より寄せてもらった。
(資料等詳細ご希望の方は東京都委員会まで)

金属化学支部は、5月25~26日に第11回支部合宿を開催した。金属化学支部の合宿は、2テーマの学習会とメンバーの職場報告を行うのがいつものパターンである。今回は、①「世界経済動向」、②「『日本式経営』批判のための問題提起の2本の学習会と、K労組の20代メンバーK君・N君の職場活動報告を行った。また、夜の交流会では、ひと味違った職場報告として、K労組が取り組んだ「記念企画」の準備から本番、後片付けまでを迫ったビデオを観賞した。

報告1.世界経済動向
今回の合宿では米国経済の動向について、海外からの資金の流れを含め検証した。この課題は87年の第1回合宿でも行ったが、今回の問題意識は以下の点であった。
①80年代のレーガノミックスの経済
・金利高による米国内への資金の流人、土地、M&A、バブル経済の崩壊
・双子の赤字と債権国から債務国への転落
・海外の資金流入による呆気の拡大 82年11月~90年10月
・一方での小さな政府論、社会福祉の削減
②90年代の米国経済の特徴
・米当局のリセッションの発表
・91年第1四半期、貿易黒字(中東、湾岸戦争の戦費分を含んで)
・80年代後半から勤労者のクレジットなどの負債額、GNPの成長率の倍の速度で進む
・双子の赤字から三つ子の赤字へ

(まとめ)80年代レーガノミックスの経済は海外からの資金の流入で経済が成り立っていた。しかし、その実態はM&A、土地、とバブル経済が基本となっており、設備投資はあまり進まなかった。90年代に入り、東欧情勢の変化により西ドイツは東ドイツを吸収していった。このことから米国に流れていた資金は自国の債権にまわることになる。一方日本は、バブル経済の崩壊により、米国へ投資していた資金の回収が始まっている。80年代と90年代初頭、世界の資金フォローは基本的に変化してきている。その意味で保護主義の動きは強まって来る。 (東京 Y)

報告2.「日本式経営」批判のための問題提起
近年、日本の「企業優位社会」や「会社人間」に対する批判が強まりつつある。(例えば、『朝日新聞』91.2.4社説など)民間労働者は、好き好んで企業に忠誠を尽くしたり、自分を犠牲にしているわけではない。むしろ、労働時間や賃金、仕事の内容等に対して不満や不安を持っている。しかし、その不満や不安が労働組合運動その他の運動として表面化することはなく、逆に表向きは「会社人間」として振る舞ってしまうのが現状である。 この現状を打破していくための第一歩として、日本企業の問題点を抽出し、検討を加えることにした。今回は文字どおり報告者の問題提起に止まったが、今後、支部の内外で研究・学習を継続していきたいと考えている。

今回の合宿では、以下の問題点・キーワードの提起を行った。
(1)生産様式-フォード主義とポスト・フォード主義
(2)小集団活動-QC(品質管理)の「日本的」質
(3)人事権・査定
(4)株式の所有形態一相互持ち合い、安定株主工作
(5)企業間関係一系列化(下請け構造)、企業集団
議論は(2)の小集団活動に集中した。小集団活動が労働者の「自主性」や「働きがい」を引き出し(経営の側に)組織していること、一方で、必ず管理職の監督の下に置かれる、サークル間の競争が煽られる、等の問題点が指摘された。そして、日本の戦後労働運動が、小集団活動を単に敵視したり、、反対に「生産性向上」のためと称して無批判的に受け入れられてきたことが、経営の側の職場支配を許してきた一因であるという(一応の)認識を得ている。
なお、今回の学習会を行うにあたっては、下記の文献他を参照した。
・R=ドーア『イギリスの工場・日本の工場』(筑摩書房)
・奥村 宏『法人資本主義』(朝日文庫)
・季刊『窓』3~5号(窓社)
「国際論争・『日本式経営』は世界になにをもたらすか」
・『社会評論』82号
「産業構造の変動と 『日本式労資関係』の虚実」
・大阪哲学学佼『企業モラルを哲学する』(三一書房)
・熊沢 誠『職場史の修羅を生きて』(筑摩書房)
・小野木祥之『偏芯してますか、ご同輩」』(筑摩書房)など
(東京 0)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

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【感想】「社会主義をめぐって」を読んで

【感想】「社会主義をめぐって」を読んで

吉村さんの講演の記録「社会主義をめぐって」をあらためて読んでみた。「我々は人間を一面的にとらえ過ぎていたのではないか」つまり「我々は生産手段が社会化すると(タイムラグがあるとはいえ)意識も社会化して皆が規律をもって社会のために働くように考えてきた」しかし「東欧ETC.の敗北は結局人間に対するこうした理想主義の敗北ではないのか」と半ば嘆きつつ、半ば発想の転換を訴えておられたと思う。
理想主義が敗北したとして落ち込む必要はないと思う。むしろ人間を当り前のようにみれるようになってきたのではないだろうか。かつての理想主義は多くの人達を社会変革へと駆り立てたが、一方で社会変革、土台の変革こそが重要であって、そこにつながらないならば結局のところ人間は解放されないし全て土台の変革に従属するという考え方が、かつては支配的であったような気がする。その結果、土台の変革に無縁とみられていた環境問題や人権問題などをはじめ多くの民主主義的な運動が軽視されてきた。とりあげられたとしても、無理やり土台の変革の「りろん」と結び付けられたりしたものである。
確かに土台が社会意識に与える影響は非常に大きなものがあるだろうが、人間は土台だけに規定されて生きているわけではない。個々人の人格と人権を尊重することが社会的に確立あるいは訓練されていない社会の土台だけが変わったとしても、そこからは官僚的で非効率な社会しか生まれないのは必然であろう。
これは、社会主義社会だけに言えることではない。資本主義社会の中の「革新」と言われる政党や労働組合などの組織が、内部でどれだけ多様な考えや意見を吸収し、実現してきただろうか。多くの人が党などの組織を、人間性を閉じ込める罪悪だとみているのは事実としてはあたっているのではないか。民主主義とは訓練であると思う。一時的な情熱や特定の思想だけで実現できるものではない。人間相互の関係をどう作っていくのかと言うことは訓練によって積み重ねていくしかない。土台を変革するための「指導」ではなく、多様な価値観と個々人の人格と人権を尊重し合う自立した市民社会のシステム作りのための共同作業が必要であると思う。ドイツ社会民主党の「ベルリン新基本綱領」では、「われわれは人間が理性的および自然的存在であり。個人的並びに社会的存在であるという共通の理解を持っている。・・・人間は性善でも性悪でもなく、みな学ぶ能力と理性を持っている。民主主義が可能なのはそのためである。人間は誤りを犯すものであり、間違ったり、非人間的行為を行ったりすることもある。民主主義が必要なのはそのためである。」と言っている。こういう発想が以前より受け入れられやすくなるならば、社会主義諸国の「崩壊」は、決して悲観すべきものではなく、むしろ、大きなステップにもなるのではないか。(大阪 A)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

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【投稿】労働時間短縮に向けた取組みについて

【投稿】労働時間短縮に向けた取組みについて

3月に東京で行われた「春闘討論集会」(主催:労働運動研究会)に参加したところ、「連合」時短センターの方の「労働時間と生活時間」と通した報告を伺うことができました。「連合」の労働時間短縮に向けた取り組みを知る上で参考になることもあるかと思いますので、その際に報告された内容を以下に紹介します。なお、これは私のメモと記憶に基づいて作成したものですので、報告された方の内容を正確に再現できていないかもしれません。その点は報告者の方、また当日の企画の主催者の方にこの場でおわびさせていただくとともに、読者の皆さんにもご勘弁いただきたいと思います。文中の小見出しは私が勝手につけたものです、また当日の報告では最初の部分の労働時間の実態についてグラフなどを用いてだいぶ詳しく報告されたのですが、その内容は連合白書に掲載されている資料をご参照いただければ理解できると思いますので大幅に削除しました。必要な方は、それらの資料に当たってご検討いただければ幸いです。

○はじめに
春闘は専ら賃金闘争を中心としてきましたので、労働時間短縮が大きく取り組まれるようになってきたのはここ2年くらいのことです。連合の中では産別によっては秋に取組みを行うところもありますので、今回の春闘に取り組むのは44産別です。そこでは労働時間短縮を大きな課題として取り組んでいます。

○日本の労働時間の現状
まず日本の労働時間の現状についてみてみますと、1960年代から70年代までの高度経済成長の時代には労働時間の短縮が進みました。これは労働力市場が売手市場であったためです。75年、オイルショックの頃からは年間労働時間が2100時間ぐらいで横ばいとなりました。それがずっと続いて、1980年代の半ば頃からここ3年くらい少しずつ短縮されてきています。しかし現状では欧米諸国とは年間200~500時間の差があります。また、ここ数年の傾向では所定労働時間は減少し、その-1一方で残業時間が増えています。1990年については、全産業平均で年間2052時間で所定内労働時間だけでなく残業時間も初めて短縮されました。ただし、この労働時間については産業の違い、企業規模の違いによって、更にその企業の中での所属する部門の違いによって、また、男女の間で、あるいは年代によってそれぞれ大きく違っています。
例えば運輸業(道路貨物)のように年間2600時間を越えるところもあれば、生命保険業のように1800時間程度のところもあります。また金融業のように数字では少ないのに、サービス残業というものが多いところもあります。
企業規模によって労働時間が大きく異なっているのは週休2日制の普及状況の相違にもよります。大企業ではおおよそ70~80%に週休2日制が普及していますが、中小企業ではまだ少なく、あっても4週6休という状況です。そこで、大企業では所定労働時間が短縮される一方で残業時間が長くなり、中小企業では残業時間は大企業とそれほど変わらないか、少ないくらいなのに所定労働時間が長いという状況もあります。
所属する部門の違いでは、営業部門や開発部門などの間接部門などが良くなっています。男女差ではやはり男性の方が良くなっています。先ほど産業によっても大きな違いがあると言いましたが、女性の多い企業では労働時間が短くなっています。先ほどの生命保険業などはそうです。しかし、男女雇用機会均等法の導入以降、女性に対して総合職ということで募集がされるようになって、そういう所で働く女性の労働時間は長くなる傾向にあります。
また、労働時間でいえば、年次有給休暇の付与一日数と取得日数も問題になります。皆さんは年次有給休暇を完全に取得されていることと思いますが、全体的に見れば取得日数は多くありません。公務員関係の方は違うかも知れませんが民間では年次有給休暇の日数は平均して15日、そして平均取得日数は7日となっていて、これについては90年は89年よりワンポイント低くなっています。週休2日の進展状況に応じて取得日数が落ちてきているわけです。これはお金にすれば何兆円にもなるもので、組合でまとめて買い上げたらなどという詰もあります。

○長時間労働の40才代:
時短と賃金、そして労働組合の機能
最後にこれが大きな問題ですが、年代別で40才台の男性が一番残業が多く労働時間が長くなっています。これはこの年代の男性は住宅費用、教育費などが多く掛かるので月当たり20~30時間の残業を最初から見込んでいる人が多いためです。昔、私、総評の有力産別に「時間外労働の見直しを進めたいので」とお願いにいったところ、幹部の方から「なにを言っているんだ、会社から残業代を取れるかどうかが自分が役員でいられるかどうかの勝負なんだ。それを残業を減らせなんて総評はなにを言っているんだ」と言われたことがあります。つまり、住宅問題、教育問題が制度的に解決しないと労働時間短縮はなかなか進まないんじゃないかと思います。要するに、労働時間問題というのは結局のところ賃金問題であって、時短と賃金問題が堂々巡りしているんだと思います。またこれは労働組合運動の大きなテーマだと思いますが、企業側の人事管理政策もあって、この年代の男性は出世思考というのが出てくる面もあります。40代になると目指すゴール地点が見えてきて、自分がそこまで行けるかどうかで追い詰められてくるわけです。結局は労働組合機能がどこまで及んでいるのか、という問題になると思います。課長、管理職というのは組合員ではないわけですが、「課長」という肩書きがありながら実は上と下に挟まれている中間管理職が一番多くの苦悩を抱えているわけです。それを組合が突き放すのか、あるいは仲間に入れていくのかということは大きな組合のテーマだと思います。本当の管理者とそうではない「管理者」がいるんではないかという気がします。

○「連合」の目指す年間労働時間1800時間モデル
「連合」としてはレジュメのような年間労働時間1800時間モデルを考えています。旧西ドイツでは大体年間の総労働時間が1700時間代の後半、アメリカでは1900時間ぐらいになっています。まあ、ドイツやアメリカではこの時間は製造業・生産労働者、ブルーカラーのの労働時間であって、ホワイトはもっと長いと言われています。日本はブルーカラーもホワイトカラーも皆一緒にしていますのでちょっと違うかも知れませんが、まあドイツとアメリカの中間ぐらいを目指しているわけです。年間1800時間の労働時間とするためにレジュメにあるような休日、年休、時間外労働、所定内労働時間を想定しています。
週休2日制と週40時間社会の早期実現、全ての産業、全ての企業規模の労働者が年間労働時間1800時間を享受できるようにしたいということでやっているわけです。

(資料:当日配布されたレジュメから)
l(「連合」構成組織の労働時間の現状と目指す目標)
目標モデル       現 状
年間総労働時間     1800時間        2114時間
7.5時間(一日/所定内労働時間)×240日(年間労働日数)=1800時間

週休休日            104日         87.9日
週休以外の休日        21日         21.3日
年休完全収得(平均)     20日         11.4日
時間外労働          150時間        253時間

○労基法切り上げ-93年4月からの週40時間労働を目指して
そこで、どのような運動を組むかということで、まず一つとして労働基準法の切り上げを考えています。労働基準法は皆さんご存じのように3年前に改正されました。この改正に対してはいろいろな意見があって、結局当時の総評も反対はしたわけですが、とにかくこの改正で本文に週40時間労働が明記されたわけです。しかし、当面の労働時間は政令で、まあ閣議で決めていこうということになっています。この改正では、週46時間からスタートしたんですが、週48時間のグループがあり、もう一方に週54時間のグループもあります。週54時間というのは、一日9時間、週54時間で、5人未満の理美容、飲食店などです。労働基準法は企業親模に関係なしに全ての事業所に通用、しかも違反者には罰則付きで、通用されるわけですから、全部一律にというわけにもいかなくて週54時間というグループもあったわけです。そこでこの三つのグループでスタートしてきたわけです。
週46時間スタートというのは大企業グループで、こういうところは労働協約で大体40時間前後になっていますからあまり影響はないんです。また、300人以下の事業所を中心にして、原則として週48時間に据え置くということでスタートしたものですからこういうところでも最初はほとんど影響がなかったわけです。しかし、今年から46時間のグループは週44時間に、48時間のグループ週は46時間に、54時間のグループは週48時間にとそれぞれ、2時間、2時間、6時間ずつ短縮されます。そういうことで今度始めて労働基準法が利いてくるわけです。労働省はこの点だいぶカを入れていまして、労働組合より頑張っていると言ったら少し言い過ぎかも知れませんが、社会保険事務所などを使いながらかなり全国的に、毎年2000事業所を対象に、就業規則の書き替えなどを指導しています。なにしろ労働基準法は罰則付ですからこれはかなり利くわけです。これが中小規模の事業所の時短にかなり大きく影響し、統計上に現れてきています。
そんなことで、今度週44時間になるわけですが、政府は週40時間をいつ頃に実現させるのか言っていません。3年前の参議院での国会答弁で社会党議員の質問に答えて「1993年頃に年間1800時間にしたいと考えてもらってよい」と答弁しているだけです。「連合」は労働基準法を切り上げることは労働時間短縮にとってかなり有効な手段であると考えています。
そこで、1993年4月1日から週40時間労働にすべきだと、この国会でやるつもりです。ただしその際に、中小はどうするのか、全部一緒にヨーイドンでやるのか、あるいは格差をつけて1995年から週40時間とするのかということについてははっきりしていません。今のところは「猶予処置廃止」ということでやっています。日本は中央集権的でドイツやイギリスなどのように労働契約型ではありません。そういう意味ではフランスに似ているのかも知れませんが、ドイツやイギリスなどは基準法ではまだ週48時間などとなっているんですが、労働協約で時短を進めているわけです。また日本では組合が弱くて、圧倒的に未組織も多いですから労働基準法を切り上げていって労働時間を短縮させるというのが有効だと思っています。

○今春闘の闘いで、91人勧週40時間労働実施時期の明記を
もう一つの運動としては、公務部門の時短を進めるということです。政府は公務部門を前に出して時短を進めようとしています。賃金は民間準拠で行くけれど時短は民間にまかせていては全体を引っ張れないと考えているわけです。まして地域社会に与える影響は公務部門はかなり大きいのでこれでやっていこ、としています。最初は全金融機関を閉店でもってやりました、次いで今、自治体で4週6体制になっています。国家公務員は4週8休で試行になっています。ただし、病院だとか税関などの交替制職場はまだ試行に入れないでいます。これは臨調・行革で「予算は増やさない、人員を増やさない、サービスは低下させない」という条件が付いていてできないからです。病院、看護婦の問題などはまさに人員問題なわけです。このグループが4週8休、すなわち週40時間労働に入れるかということは大きな問題なわけです。
自治労は「1991年7月1日から全ての地方公務員も4週8休の試行に入るようにこの3月中に団体交渉で詰めるように」という指示文を既に出しています。これがどうなるかわかりませんが今年8月の人事院勧告で4週8休ということが明記されるようになれば、我々が主張している週40時間労働の条件ができるわけです。したがって「連合」がいま一番問題にしているのは、この春闘でまず民間ベースでの時短がどこまでいくかということです。いくら官を前に出すといっても、この春闘が終わると5月、6月に民間への調査が行われ、その結果が人勧に反映されるわけです。我々は昨年の人勧で「91年から4週8休を実現させる」と時期を明記させるために、そのための運動を組んだわけですが、時期は明記されませんでした、ただし、一般論として「公務員が週40時間労働になることは必要だ」と書かれていますが‥。昨年明記されれなかった最大の原因は民間ベースでそこまで前進させる運動が弱かったからです。「連合」の今年の方針は「週40時間労働に今年メドをつける」という大変なものです。連合のことを「ペーパーユニオン」という人もいますけれど、まあ「メド」をつけるというペーパーはあるわけです。そういうわけで、今年8月に出る人勧で「いつから週40時間労働」というように時期を明記させたいと考えて、8月まで、この春闘を入きな山場と捕らえて取り組んでいます。

○取り組み始めた学校5日制
もう一つは学校5日制の問題です。既に9県、68校で土曜日授業なしを試行していますが、なにしろこの学校5日制に対しては非常にいろいろな世論があります。例えば、「教育水準が低下するんじゃないか」、「カギッ子が増えるんじゃないか」、「今よりももっと塾通いが多くなるんじゃないか」などです。また、教師の労働時間というのはあまり統計もなくて、一般的には「教師は夏休みや春休みがあって休日が多いんじゃないか」などと見る人が多いわけです。しかし、世界的に年間の授業日数を比較してみますと日本は大体220日ですが、欧米では180日ぐらいですから日本の方がゆとりがないわけです。
組合の方も日教組はかつてはそれほどやっていなかったんですが、最近は言い始めました。ここにはいらっしゃらないかも知れませんが、全労連の教組は学校5日制に消極的です。また、日教組の中でも割合と左派の人達は消極的です。この間も福岡へ行きましたがそのようなことを聞きました。公労協でも内部には「遅れている学校5日制も抱えると公務員全体の時短がそれに引っ張られて遅れるんじゃないか」と心配する声もあるようですが、ともかく一緒にやっていこうということになっています。休みが一日増える子供達を地域で受け入れる条件の整備、社会施設の整備、教員OBの活用なども考えながら進めていかなければならないと思います。現在でもミッションスクールなどでは5日制になっているわけです。
まあミッションスクールに入れている家庭の所得水準や家庭状況などがどのようなものなのかは、よく知りませんが、教育水準が低下したとか、非行が増えた、などの問題は5日制だからといって特に起こってはいないと思います。こういうふうにもうやっているところもあるわけですから、まあこの学校の問題は1993年ぐらいまでに目処を付けたいと思っています。

○時短の前進に不可欠な生活・社会のあり方の見直し
次いでここからは私の問題意識ですが、労働時間短縮を進めていくためには、「重層的な産業構造と過当競争」「日本的労使関係の特質」、「労働者の生活意識--なぜ時短より賃金か」、「営業時間の延長-労働時間の延長(サービス提供と利便)」といったことを見直してみる必要があります。つまり、春闘での賃上げが消費に回り、労働者自身が消費生活、よりよいサービスを求めるということもあるわけですが、例えば、サービスのあり方について、同じ運送業であっても一方には個人で営業する白ナンバーの運送業があり、他方ではちゃんと組合があって規制が利いている青ナンバーの運送業者もいます。
自ナンバーの運送業には30才ぐらいまでに稼げるだけ稼いで引退しようと、週に6回も東京・大阪を往復して月100万円も稼ぐような人がいます。過当競争なわけですから、皆がそういうところを利用すると、組合のある青ナンバーの方が条件の悪い白ナンバーのの方に合わせなければならなくなります。下方に合わせていくわけです。郵便局なんかも相当やっていますが、そのようなありかたを見直すべきだと思います。また、セブン・イレブンのように足りない物をしょっちゅう電話して持ってきてもらうようなところでは、それに応じるために製造・輸送も24時間体制になる必要があります。バスも深夜化になっています、そういう深夜バスに乗る人は、まあ働いていて遅くなる人も多いわけですが、そうでない方もかなりいるわけです。こういうものを少し考えなおしてみたいものです。
また、取り引き慣行の見直しも必要です、週休2日の親会社から子会社へ週末に発注して次の週初めに納品を要求するような関係を見直す必要があります。官公庁の事業の発注にしても、年度末に集中して発注し、その時期には土木・建設業が大忙しになるが、他の時期には暇になるというようなことを改め、年間を通じて仕事の発注を均すようなことが必要です。また、日本は企業別組合だとよく言われますが、それだけ言っていても仕方がないので企業別組合になりの良いところを生かしていくべきだと思います。私鉄と民鉄協との交渉のような産業全体での統一交渉というのはなかなかないわけですが、組合レベルでより高い水準を競いあって、そうして横並びに進めながら産業全体として同一レベルになるうな取り組み、機能を持つということが必要だと思います。

○多様性を認めあった組合運動
最後に、労働組合の組織率が25.2%になったと言われますが、逆に言えばまだ25.2%も組織しているということだと思います。労働者が増え、分母が多くなっている中の25.2%で、やはり日本では最大の組織団体のわけです。このことを問い直してもいいんじゃないかと思っています。基調で「春闘再構築」というようなことも言われていましたが、春闘のために半年以上もかけて準備をしながら、なかなかそれに見合う成果がないというようなこともあります、けれどとにかく春闘というのは年に何回か組合を知ってもらえるという時期でもあるわけですからやはり大事だと思います。また、組合員もかつてのように一つの課題を決めて、さあ、そこへ一斉に繰り出そうというわけにはいかなくなっています。年代ごとに、男女ごとに非常に多くの要求、課題が出るようになっています。組合員の価値観も多様になっているわけです。こういう多様性を認めあった組合運動が必要なんじゃないかと思っています。
(報告者 W.K.)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

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【投稿】中教審をどう考えるか –大阪教員交流会–

【投稿】中教審をどう考えるか –大阪教員交流会–

教員グループでは、1月より3回にわたって、昨年末に文部省が出した「第14期中教審審議経過報告」について議論を進めてきました。参加者各自の教育課題や問題意識を出発点とした議論となっているため、議論は、まだまだ末整理ですが、議論の経過に沿って報告します(内容は労青大阪教員グループ「交流会」ニュースより抜粋)

★今、なぜ中教審なのか
中曽根時代の臨教審路線は民活・受益者負担主義で、国家財政の負担の軽減も狙った効率重視のものであった。しかしいま中教審は、平等の重視を打ち出そうとしている。平等の重視は、財政負担の増加をもたらすし、効率の低下をも生み出すものである。この審議経過報告に対して私学からの反発がすぐに出てきた。私学の反発は中曽根臨教審–個性化・教育の複線化-の考え方である。この反発は当然予想されたものであろうら にもかかわらず、ナゼ、このような審議経過報告が出てきているのであろうか。それは、財界は臨教審とは異なるアプローチででも人材育成を考えているという観点から分析することである。

★財界の求める人間像・教育とは
財界は、How TO思考は持っていても、国際競争を勝ち抜いていけるような人間が育っていないという危機感を持っているのではないだろうか。これはまさに世界で最先端を走る日本の財界の苫悩ではないだろうか。彼らは単線型・模倣中心の思考ではなく、フレキシブルに情勢に対応し新知識を生み出す頭脳を要求しているのである。これまでのように2番手国であればアメリカの模倣をしていればよかったが、今日アメリカの技術は模倣に値しないものになっているのである。日本は自国の開発力で最先端を切り開いていかねば、最先端を走ることは出来ないのである。新技術の開発は、金持ちが金をつぎ込んで育ててきたヤワな人間には出来ない。このような人間では国際競争の激しい時代にはもちこたえられない。このままでは、仏、英、米の様に最先端から落日を迎える。この激動期に持ち堪えられる頭脳は、今の教育、臨教審路線では育たないと考えているのである。財界の求めている頭脳は広く浅い知識ではなく、より研ぎ澄まされた深い知識とそれを柔軟に状況に対応させるための幅広さなのである。最先端のコンピューターの開発は「遊べる」人間にしか出来ないのである。臨教審では促成栽培式のハウス育ちしか育たないし、財界の求める頭脳は育たないと考えているのである。財界は「寄り道の自由」を与えハングリーな者の中から「遊べる」人材を登用したいと考えている。金持ちが金で買い取る競争でなく、「真の競争」をしてその勝者こそが登用されるべきだと考えているのではないだろうか。
現在の受験競争は平等ではなく一部の特権階層を生みだし、その師弟のみが有名大学に進学するシステムになっている。このシステムを放置すれば激動する国際情勢に対応して国際競争に打ち勝てるような人材は得られない。この危機意識が今のシステムの中で埋もれている人材をいかに登用するかを考えさせているのであろう。

★教育労働者の課題
このように考えると、中教審は特権階層の利益を否定しても教育のシステムを変えるべきであるという、資本の全体の危機を反映しているものであると言える。この危機は教育権の保障を追及する人民サイドの運動に利用しうる可能性がある。しかしこちらの力が弱いと、こちらの要求、力を利用する形で、資本全体の危機を救う形で教育改革を進められてしまうのである。例えば指導困難校について記述してある点である。これは困難校を是正してほしいという人民の要求を軽視できないことを示している。しかし困難校を是正することが資本の眼目ではない。
困難校に勤める教師に謝辞を述べてもそれは「真の競争」実現のためのものである。指導困難校問題の記述は「歪んだ競争」の是正のため、「真の競争」が行われるべきであるというための例証として出されている。
これに対して教員組合側はどのような教育をめざしているのか。教員組合の力が強いといわれている、大阪・東京・名古屋・福岡などでは公立が私学に負けている。親が公立学校に対して信頼をしていない。
「公立は先生が本気じゃない、いじめがある、進学できない」などの声に表れている。これに対して教員組合の弱い大都市近郊の県では、公立学校は文部省直轄で私学の経営に負けない自助努力を行い、私学に負けない特色ある学枚づくりをアピールしている。これは教員組合側が審議経過に対する対応が一面的であることの証左である。
われわれにとっての課題は、資本の危機をこちらがいかし切れるか否かである。そうしなければ、資本の危機を「特権階層」の利益に屈し、実効性を持たない、臨教審路線の再来を招くことにもなる。この視点にたってわれわれにとっての課題・方針を整理し直すことが求められている。(6月18日)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

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【投稿】 日本社会党はどこへいく

【投稿】 日本社会党はどこへいく

<社会党再建論議の行方をうらなう>
4月の統一地方選挙で敗北した社会党は、執行部責任の追及から「解党的出直し」論議へと発展し、プロ野球の阪神タイガースを思わせるような弱体ぶりをさらけだしている。このような伝統の党内論争が影響してか、社会党支持率は、土井委員長就任後最低の17%まで低下し(朝日新聞6月12日朝刊)、国民が社会党改革の前途に対して厳しい見方を持っていることを窺わせた。

<土井委員長の去就が分かれ目>
今回の社会党の改革論議を特徴付けるものは、何と言っても冷戦の終結とソ連東欧の社会主義国の資本主義的な混合経済体制への揺り戻しともいえる大転換等々の国際情勢の大きな激動の中で行われていることである。すでに社会党は「日本は今や社会主義革命前夜である。」として革命路線を中だした66年の「日本における社会主義への道」を86年の第50回大会によって歴史的文書に格下げして、政権をめざす現実路線へと踏み出し「ニュー社会党」へと生まれ変わろうとした。この時採択された新綱領「愛と知と力による創造」は、いわいる「新宣言」として広く国民に党の路線転換を訴えかけ、社会党の政権への道が開けつつあるように見えた。しかし、89年の参議院選挙と昨年の総選挙までは、自民党の相次ぐエラーによる得点を稼いだ社会党は、党の主体的力量が試された4月の統一自治体選挙で大きな敗北を喫したことによって、自らの非力さを思い知らされることになった。
すなわち、86年9月の土井委員長就任以来の新体制下で、帽広い国民の支持を得るチャンスを充分生かしてこなかったということが証明される結果となったのである。
参議院選挙で消費税の廃止を訴えて2千万人の支持を得た後、「廃止」どころか「凍結」も「見直し」も出来なかった社会党の無責任な対応、そしてそれに輪をかけた都知事選挙での候補者選考のもたつきは、国民の中に社会党の「政権担当能力に対する懸念」と生活保守主義に根ざす「大きな変革に対する不安」をますますふくらませた。社会党は、自民党の対抗勢力として真の意味で「野党」といえる存在ではないという審判を国民が下したと考えなければならない。
このような見方から社会党内での議論は、土井委員長の擁護か、辞任かという形をとりながら、自民党との大連立をめざした大胆な現実路線への転換か、反自民の路線の堅持かという内実を含んで展開されていると考えられる。6月20日の改革案取りまとめ一中央執行委員会決定一幹部総辞職一委員長公選-7月30,31日臨時大会というスケジュールは主流派である水曜会(右派)の思い描く右派派主導の指導部体制づくりのケースであるが、そう簡単にはことが運びそうにない(6月18日現在の時点では、まだ改革案が発表されていない。この原稿が日の目をみるころには臨時大会の議案書も明らかになり、土井委月長の続投問題にも決着がついているかもしれない)。
6月上旬に全国各地で行われた「社会党改革のための国民公聴会」では、自衛隊合憲論に対する厳しい批判と土井委員長支持の発言が多かったが、真剣に政権獲得を考える右派にとって、土井委員長は目の上の瘤となっている。近年の新聞各社の世論調査が示すように、社会党の政権担当能力への不安が、自民党への消極支持となっていることは明かであり、社会党単独政権や野党連合政権よりもまず自社大連立による政権獲得への地ならしが必要である。「だめなものは、だめ。」という土井委員長の護憲一点ばりの姿勢では、大連立は夢のまた夢である。

<政権獲得への意思と能力を示せるか>
プロ野球が勝つこと=優勝が使命であるように、政治は政権獲得による官僚機構への牽制と民主的諸権利の獲得が使命である。一部プロ野球ファンで、ジャイアンツに勝つことだけが球団の使命であるかのように考えている人がいるが、こういうファンが結果的にはチームを弱くしていることに全く気がついていない。土井委員長をやめさすことは、監督の首のすげ替えばかりしている某球団と変わらないという意見がある。しかし、球団を強くするためには、現場の費任者の更迭を行うべき時もある。問題はいかにチームを強くするかという”原点”に帰ることである。それは、プロ野球では、球団経営の問題である。他球団に負けない資本投下と優れた人材確保が、優勝のための必要条件である。政党にとっては、自民党に負けない資金力と帽広い人材の確保が、政権獲得のための必要条件となっている。
社会主義の理想を追い求めてきた私達は、ソ連・東欧の激変を見て、一度手段を誤ったときには、大変な誤りを侵すということを学んだ。社会主義の崩壊というよりも、民主主義の手段・方法のあり方を学んだように思う。意見の多様性を認め合い、立場の相違を認め合い、選挙による政権の交替という緊張感のある政治というものが、民主主義の基礎とならなければならない。自民党の半世紀近い一党独裁は、選挙制度の歪みを放置しているとはいえ、「選挙」という国民の審判を何度も経ながら続いてきたことを野党第一党である社会党は、深刻に反省すべきである。まさに「理想」と「護憲」という戦後政治の遺産で食いつないできた社会党も、新しい世界情勢に基づいた新しい出発が必要となっている。

<世界に通用する“理念”のある政治を>
今大きな争点となっている日米安保容認・自衛隊合憲論については、憲法に違反するかどうかという法解釈論争ではなく、デタントの世界にあって日本に必要な安全保障は何か、必要な自衛力は何か、国連に対する日本の貢献献のあり方等々の本質的な議論を展開すべきであり、国民の理解が得られる安全保障と世界への頁献のビジョンを明らかにすべきである。東西の冷戦とソ連を敵国とする日米安保の否定から「非武装・中立」を掲げてきた社会党の「平和を守る政党」としての役割だけでは、国民の過半数の支持を得られないことを認識すべきである。
55体制が始まったとき、世界のGNPの3分の1はアメリカであり、日本は、僅か2%に過ぎなかった。そして今日アメリカと並ぶ巨大パワーとなった日本のGNPは、世界の6分の1を占めるに至った。
世界は、日本の金だけを期待しているのではなく、世界の平和と安定、南北問題や地球環境に対する貢献等々の積極的な役割を期待している。これに応えることができる地球サイズの哲学をもった政党こそが生き残れるのである。すでにボーダーレス社会を生き抜き、世界を股に掛けて、巨大な利潤を蓄積している日本企業も、経営こ対する“理念”“哲学”を世界中で求められ、苦悩しつつある。日本の政治の理念不在状況に対する不満の声が、企業経営者からも起こってきている。まさに「民主主義」「人権」「自由」等々の世界に通じる理念の不在が、国民の政治に対する不満の大きな底流となっているのではないだろうか。
憲法を世界に誇ることも大変結構なことではあるが、肝心の行動が伴っていないことが社会党への不満となっている。社会党こそ、この憲法の精神とする人類への貢献の先頭に立って汗を流すべき政党である。社会党が、その基本的な戦略と世界に通用する政治理念を明確にするならば、一時的な自社大連立などは、戦術にしか過ぎないことを国民は理解し、かえって大きな支持を与える結果となるだろう。
<追記>
社会党は、6月20日の中執委で自衛隊や安保を事実上容認する党改革案を
了承したのに続き、24日には土井委員長が正式に辞意を表明し、7月30,31日の臨時大会での執行部の総辞職=新体制発足という運びとなった。委員長を5年ぶりに選挙により決定することになるが、田辺副委員長の優位は動かない。新委員長のもとで現実路線を推進する人材面、政策面共に中途半端で旧態依然としたイメージを簡単に拭いきれないのではないか。現時点では、社会党と生活者としての市民との距離がまだ遠のいたような印象を与えている。国際情勢の大きな変化を十分党内で議論し、ボーダーレスの時代を先取りする政策提起を行うと共に、思い切った若手の登用を伴う人事や組織改革によって、連合政治部になりきる政策と市民と共に政治を改革する方針をできるだけ早い時期に具体化できるかどうか、来年の参議院選挙での国民の支持獲得の鍵を握るのではないだろうか。(7月9日大阪:M)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

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『詩』 頼むから聞いてくれ

『詩』 頼むから聞いてくれ

   リトアニア事件の夜にゴルバチョフを想う

                 大木  透

あなたは
自分のことを
あまりに知らなさすぎる
自分のしたことを
あまりに早く
忘れ去ってしまっている
今の今の
とりとめもない
生成流転の堰を切ったのは
あなた その人
あなた自身なのだということを忘れてもらっては困る
あなたは
本気でそうしたのだから

あなたは
なにか勘違いをしているのではないか
今の今になって
どうして自分をこんなに困らせるのだと
不思議がっているように見える
しかしそれは勘違いというもの
あらゆる小数派と良識に
自由キップを握らせ
自由発進を促したのは
あなた
あなたその人なのだ
だから今頃になって
感謝のために静かにせいなどと言うのは
理不尽なことだ

眠りをとれ
栄養をつけよ
記憶をよびさませ
そして
人々が旅する先をはっきり示し
旅のみちずれを
はっきり識別せよ
無駄な頼みではなかろう

古来 秀才の完全主義ほど始末に
負えぬものはない
エリートのあなたは
涙すほかに手立てをもたぬうつろいや
中途半端な落ち着かぬ
ほう洋たる放浪が
頼りなく見えるかも知れない
だが
それが人の情けというものだ
人の世というものだ

ひょっとすると
あなたは
自分の代に
領土の一片も失うまいという
悲壮な業病にとりつかれて
平静を失ってしまっているのではないか

そんなに気負う必要がどこにあろう
そろそろ肩のカを抜いて
非凡なる凡人の道を歩んでもいいのではないか
決断することの恐ろしさに
臆病になってもいいではないか
今 貴方に向けて放たれている
激しい批判が
あなたを救いつつあることに
気づいてほしい

死者はけっして甦ってはこないが
反動どものたくらみが
あなたの嫌いな血を呼ぶことが
はっきりしたのだ

ここにも そこにも
あなたの蒔いた種が
確実に育っている
嫌なものを見るような
困った顔をするな
困るのはこっちのほうだ
あなたは
自分のことを
あまりに知らなさすぎる
握りしめた自由キップで
どこへ旅立ったらいいか
暗いプラットホームで轟き合う人々に
いまいちど
大きな明かりを
ともせ

(1991.1.14)

【出典】 青年の旗 No.165 1997年7月15日

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大阪の戦後学生運動史 1

大阪の戦後学生運動史 1 (『大阪社会労働運動史 第4巻』より))

第四節 学生運動

ー、一九五五年から六〇年安保闘争の高揚へ

1  解散論さえでていた五五年頃の府学連

<事実上活動停止状態の学生自治会>
 一九五〇( 昭和二五)年に起こった共産党の分裂とそれに続く極左冒険主義の影響で学生運動は大きな打撃を受け、一九五五年には多くの自治会が事実上活動停止状態にあった。
 このような状態の中で、全学連第八回大会六月一〇~一三日)と第七回中央委員会(九月二~三日七中委)は「平和と友情一歌と踊り」の路線を確定し、身近な要求こそ重要と規定した。
 この時期、大阪の学生自治会の内では再建どころか、解散論さえでている。
 「各大学の自治会活動は停滞し、阪大の法・文・ 経・工・理・南校の各自治会解散」 (総評大阪地評十年史年表』ニ八六頁)
 また、 大阪の学生運動では常に中心的な役割を担ってきた大阪市立大学(市大)でも、学生課長が沈滞を嘆く談話を出している。 (『大阪市大新聞』六三号、 55・4・25)。
 全学連七中委の路線を受けて、ー二月二日には関西学連が「今迄の学連のあり方は不満足」 (大阪市大新聞』七五号、 55・1・25)と解散を決議し、協議会に改組している。

<歌と踊りの平和友好祭>
 大阪府学生自治会連合(府学連)が、この年に組織的に取り組んだのは、「全学連の平和と友情」路線に沿った第五回世界青年学生平和友好祭くらいである。
 一九五五年一月二二~三日、来阪した「世界民主青年連盟訪日代表団五名を歓迎するための世界民青連訪日代表団関西歓迎集会実行委員会」に府学連は参加し、地評青年部, 府青協・社会党青年部・民青などとともtこ同月二三日、中之島中央公会堂での約三千名の歓迎集会を行った。
 次いで五月一六日開催された「ワルシャワ青年学生平和友好祭大阪地方準備会」にも参加し、五月二二日、兵庫、京都、奈良、和歌山の府県学連と共同して、学生・高校生六七〇人を奈良公園に集めて「関西学生ピクニック」を開きフォークダンスやおべんとう・写真コンクール等を行っている。そして、七月三日から八月二一日まで続く大阪青年学生平和友好祭の各催しに参加している。 (1)

(1)五名の代表団は、マルコム・ニクソン(団長・英電気労働者、世界民青連書記)、スカトノ(インドネシア人民青年団、農村青年)、アデモラ・ト一マス(英領北アフリカ、学生)、ルチア・ルザフト(イタリア社会党代議士)、マリーモルヴァン(フランス女子青年団)であった (大阪地評昭和二九年度一般経過報告書』)。
(2)大阪青年婦人学生平和友好祭の行事は次の通りであった。

六月二二日 (於市立労働会館)第四回世界青年学生平和友好祭記録映画「平和と友情」試写会
七月三日 ( 於中之島公園)たそがれのフォークダンス 青年男女六〇〇名)
七月一三日 ( 於中之島中央公会堂) ワルシャワ平和友好祭参加の大阪代表歓送大会、歌と踊り演劇・(一五〇〇名)
七月二三日、世界青年学生平和友好記念国際リレ、一 自転車駅伝)
八月二〇~二一日 (於私市くろんど池)大阪山の祭典,(キャンプ、男女一八〇名)
(大阪地評昭和二九年度一般経過報告書』)

<大阪市立大学校舍返還闘争>
 府学連が統一組織としてほとんど機能していない状態で各大学の運動が散発的に行われている。
 大阪市立大学(市大)では米軍に接収され兵舎となっている杉本町校舎の全面返還運動を全学的に展開し、七月五日、米軍から七月三一日ごろまでに返還するとの通告を受け、実際は少し遅れて九月二〇 日になったものの宿願の校舎全面返還を実現している。

<学閥抗争に学園民主化を要求した学大>
 大阪学芸大学(学大・現大阪教育大学)は天王寺校舎に本部を置き天王寺・池田・平野の三分校で構成されている。天王寺の旧大阪第一師範、池田の第二師範を合併して出来たこの学校は合併後も旧師範時代の学閥意識を克服出来ず、卒業生もそれぞれ旧師範時代以来の同窓会(天表は友松会、池田は蛍池会)に所属するという対立を続けていた。教授会も少数派の池田分校と多数派の天王寺 平野連合の両派に別れ、 池田分校主事問題でついに対立が爆発した。
 天王寺派の意向が強く働いたとみられる駒田教授への主事発令に、池田分校は教職員・学生あげて非民主的発令だと反発し、七月四日に北川学長と池田分校代表の教授との話し合いが決裂。 五月池田分校学生大会は、辞令撤回・学園民主化を要求し要求が入れられない場合は実力によって闘うという姿勢を打ち出した。そして天王寺、平野両分校自治会も池田分校自治会と共闘を組み学園運営の民主化を要求した。
 これに対して学長は先手を打って六~九日全学の休講を指令。 以降、教授会は紛糾を続け、 池田分校側三教授への辞職勧告、学長も同意した池田分校独自の主事候補選挙の実施、選出された主事候補の教授会による承認拒否等九月以降まで荒れ続けた(『毎日』, 55・7・5~9 ,4)。

2 漸く確立した大衆路線 (五六年~七年)

<授業料値上げ反対が再建の契機となった全学連>
 一九五五年一二月 に全学連の解体状態を幸いとして発表された国立大学の授業料値上げ案と国鉄運賃の学生割引率切下げの意図が、 逆に学生を刺激し全学連再建のきっかけとなった。
 運動の再建を摸索していた活動家が、 翌五六年一月一五日の全学連中央執行委員会の反対声明に応えて、東京を中心に授業料値上げ反対闘争を組織したが各府県学連や自治会の解体状態のため全国闘争にならず値上げ案の国会通過を許し、前年度の全学連第七回中央委員会(55・9・3)路線の批判を呼び起こしたのである。
 全学連は四月四~六日第八回中央委員会(八中委)を開き、平和と友情・身近な要求政治闘争回避の方針を、自治会、学連の解体すら生ぜしめ、全国の学生の期待を裏切るという決定的誤りを犯した(全学連第八回中央委員会決議)。」と厳しく批判した、
 そして、四~五月に小選挙区制、教育三法 教育委員会法・教科書法・臨時教育審議会法)、アメリカのエニウェトック水爆実験等に反対して全国統一行動を行うことを決定した。
 また、原水協、護憲連合への加盟を決議し他階層・大衆的諸運動との共闘を回復した。

<府学連五・二六大会以降の大衆運動路線>
 全学連八中委の路線転換を受けて大阪でも元全学連書記長鮒子田耕作らを世話人として府学連再建の自治会代表者会議が四月二八日に開かれ、五月一二日の自治会代表者会議では各大学でシンポジュウム等を開いて教宣活動を活発に行い、五月二六日には各大学別学生大会と府学連主催による全大阪学生大会を開くことを決めているが、組織の再建が軌道に乗るのは五月闘争以降となる。
 メーデーには自治会の弱体化を反映した個人参加が多かったが、教育三法等を巡る国会の緊張に促されて大学生高校生的二千人が参加した(『大阪市大新聞』八三号、 56・5・10)。
 この学生の自主的な政治への関心の高まりに支えらて五月二六日の府学連主催・大阪学生大会(中之島)には久々に三千人が集まり、学生運動が大衆運動に復帰しつつあることを印象づけた。

<全学新も路線転換>
 全学連八中委の路線転換と平行して全国学生新聞連盟(全学新)も四月三〇日に名古屋で第九回大会を開き、さらに六月三日には関西学生新聞連盟(関西学新)が大阪で第八回大会を開き、全学連と軌を一して、 ”政治に厳しい目を″ 持った新聞への脱皮を遂げている(『毎日』56・5・1、 56・6・5)。

<全学連第九回大会で態勢確立>
 一九五六年六月九~一二日に開かれた全学連第九回大会は、八中委路線を再確認し、『平和と民主主義、よりよき学生生活のために』のスローガンの下に、①平和を守るために、②民主主義を守るために、③民主教育を守るために、④国民各層との提携等の方針を決め、「日本反戦学生同盟との友好関係の回復ならびに旧全学連中執等二七名追放決議を撤回する決議」(1)を採択し大衆運動としての態勢を確立した (『大阪市大新聞』八六号) 。
(1)一九五二年六月京都で開かれた全学連第五回大会が、共産党五〇年分裂の反対派勢力武井明夫委員長を含む二七名の「国民戦線から追放」と日本反戦学生同盟の解散決議を行い、これ以後極左冒険主義路線に走った。

<府学連の国鉄・私鉄運賃値上げ反対闘争>
 全学連は五六年一〇月の砂川基地拡張反対の現地闘争で大きな力を発揮し、他階層からの信頼を回復したが、府学連傘下では大阪大学(阪大)から代表が現地に派遣され、市大新聞の記者も取材に向かったが全体としては署名とカンパ・支援の教宣活動程度しかできなかった。
 府学連が指導力を回復するのは国鉄・南海の運賃値上げ反対闘争で先頭にたった時からである。
 この直前に大阪でも大阪市大を中心にして日本反戦学生同盟の支部が組織され、この闘争の中心になって府学連の再建を担った。
 二月五日大阪、兵庫、京都の三府県学連が共闘し天王寺公園で一千五〇〇人の集会をひらき大阪駅と難波駅にバス・ トラック一六台に分乗して自動車デモを決行し国鉄・南海電鉄の運賃値上げ反対闘争の火蓋をきり、以降他階層と協力して運動の中心となった。
 二月六、七、八日の連続的行動(『毎日』56・11・6、11・8、11 9)に続き、ー一月一七日には中之島公会堂で府学連が二千名の運賃値上げ反対全大阪学生決起大会を開き、大阪駅までデモ。 駅構内で乗客集会を開いて運動を大きく盛り上げた。 (『大阪市大新聞』九四号)

<クリスマス島水爆実験反対闘争>
 一九五七年の学生運動は原水爆実験反対、 原子戦争準備反対の平和運動一色に塗り潰された。 府学連再建の中心となった日本反戦学生同盟(反戦学同)の大阪市大支部は、一月の新年会でイギリスの水爆実験反対闘争に全力で取り組むことを決めた。 これは、 前年以来全学連が平和擁護闘争を学生運動の第一義的任務と規定したことを受け、原子戦争準備反対のスローガンを実践するものであった。市大反戦学生同盟の呼びかけで三月十六日市大理工学部校舎で英水爆実験反対大阪大会準備会が開かれ、社、共、地評青年部、府学連、平和を守る会、全青婦、民青、婦人民主クラブ、大阪府青年団体協議会(府青協)、わだつみ会等多数の団体が出席した。三月二三日の第二回会議でクリスマス島水爆実験阻止全大阪青年婦人学生連絡会議を結成し四月一九日に青年婦人学生総決起集会を開く事 等を決定している (『大阪市大新聞』九九号) 。
 四月一九日、折からの激しい雨にもかかわらず中之島公園(テニスコート東側)の集会には六〇〇人が集まり、「ク島水爆実験阻止」「米英ソは直ちに核実験停止協定を結べ」等を決議した。(提灯デモは雨のため中止)(『毎日』)これを契機に大阪の青年, 婦人学生の共闘態勢が継続的なものとなった。
 四月二七日には全日本学生決起大阪大会(四〇〇人) (『大阪市大新聞』一〇一号)。 原子戦争準備反対全日本学生総決起デーの五月一七日には天王寺音楽堂に一五〇〇人が集まり、難波までデモ。
 一方高知県原水協が三月三日の原水協全国理事会で提案したクリスマス島への抗議船団派遣案に対して反戦学同はいち早く一〇人の参加を決定し、大阪市大支部も一名の参加を準備した(派遣計画は原水協内の意見の相違により中止) 。

<原水禁大会から二一国際統一行動へ>
 府学連は五月二一、二三日にも原水爆反対の街頭宣伝に出て反対闘争を継続し、その後は第三回原水禁大会の成功のための街頭署名とカンパ活動を展開した。
 第三回原水禁世界大会で決定された一一月一日の原水爆実験禁止協定即時無条件締結要求国際統一行動にむけて、一〇月一六日大阪学大に大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の自治会代表が集まって、一ー・一闘争方針を決定(『毎日』57・10・17)。 翌一七日に府学連は扇町で原子戦争準備反対全国学生総決起大阪大会を開き、ー一月一日には大阪市大経済学部大学院のスト等傘下の多数の自治会がスト授業・放棄を行い、天王寺区等の地域集会に参加した後、 中之島公園の全大阪大会に一七〇〇人が集結した。
 この日は夜学連も七〇〇人が関西大学(関大)天六校舎で集会の後扇町から中央公会堂へデモを行った。 このデモで一名の逮捕者が出たが、抗議闘争により即日釈放された。
 
<学長選挙参加を巡る市大の交渉>
 大阪市立大学では学長選挙に対する学生の参加権を巡って、七月六日に市大全自協(各学部学生自治会の協議体)が大学側の学長選挙内規委員会に信任権を求める申し入れを行 った。 しかし、市大全学協(全学の教授の協議会)は八月六日に従来通りの規約(学生の参加は各学部からの学長候補推薦選挙のみに認める一学生の信任権は認めない)で行うことを決め、学生が要求している参加の意向を候補推薦の方法にどのように折り込むかは各学部教授会に任せるということになった。学生はこれを不満とし、医・理工学部自治会以外は候補推薦選挙をボイコットした。
 学生の学長選挙に於ける拒否権を国・公立大学で認めているのは一橋大学のみで、私学では早稲田、慶応、 同志社、立命館大学等で何らかの形で学生に参加権が与えられている。
 
3 勤評警職法闘争と学園スト

<全学連多数派の共産党との対立と分裂>
 全学連は一九五六年の砂川闘争で他階層との共闘に成功したが、この闘争の評価を巡って論争が発生し以後燻つていた。 一九五七年一一月の全学連第一四回中央委員会で少数派の二名の中央執行委員が罷免され対立は一層深まり、一九五八年五月二八日から開かれた全学連第二回大会で対立が表面化した。
 多数派は「国際緊張が激化している。帝国主義に対する激しい闘いが必要」と主張し、少数派は「国際緊張は緩和しつつあり、運動は幅広く行うべきだ」と主張した。
 少数派の主張は刻々の政治情勢に厳しく対決する大衆運動を軽視するものだと大方の支持を得られなかったが、多数派にも「われわれが強力な(闘争)形態をとればとる程、対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、われわれの周りに結集する勢力も大きくなる」ー 第一〇回大会方針 ーとする急進主義的傾向を内包していた (資料・戦後学生運動』一九七頁) 。
 この対立は大会参加の党員を集めて六月一日に代々木の共産党本部で開かれた共産党員グループ会議で爆発し、後に『六・一事件』と呼ばれる党員学生の処分に発展し全学連と共産党の関係が急速に悪化していく。 また多数派の中核である反戦学生同盟も一九五八年五月二六日に社会主義学生同盟に転換し共産党と決別する方向に進んでいった。
 さらに一二月一三日から開かれた全学連第十三回臨時大会は階級闘争の観点にたって学生運動を労働運動の同盟軍と規定する路線転換を行い、 以後安保闘争に至る過程で組織的分裂に進んで行く。

<原水協に参加し、 勤評闘争で激闘した府学連>
 二月三日府学連を含む準備会で大阪原水協の発足が確認され、府学連は結成時からこれに加盟した。
 府学連は一九五八年一月二八日市立労働会館の勤評実施反対大会を皮切りとして勤評闘争に全面的に参加。
 四月二六日扇町プールで開かれた総評・大教組主催の勤評反対集会に全国学生総決起の一環として参加し大阪府庁までデモ。 五月一五日のエニウェトック水爆実験反対、勤評反対全学連全国学生総決起には扇町公園で集会を開いている。 この日、阪大当局は南・北両校舎を午後から休講として学生大会を開く事を認め、学大でも学校が公認する学生大会が開かれている。
 六月一八日には府学連を含む一七団体によって「勤評反対、教育を守る府民共闘会議」が結成されたが、この日府学連は天王寺音楽堂に一五〇〇人を集めて集会を開き府庁にデモをかけて浜田教育長に勤評の抜き打ち実施を行わないよう申し入れた。
 六月二五日、学大自治会がストを行い、府学連は一五〇〇人を動員して府庁に押L掛け大教組の対府教育委員会交渉を支援して府庁内に座り込む。
 八月一五日、府学連は和歌山で開かれ翻評反対国民大会に総評等と共に多数を動員して、臨時列車で和歌山に乗り込み四万五千人の大集会に参加した。
 よく一六日「勤評阻止・平和と民主主義を守る青年婦人学生全国大会」後のデモに右翼と警官が殴る蹴るの襲撃をかけ多数の負傷者が出たが、 府学連傘下からも入院が必要な負傷者が数名出、 執行委員の佐道正彦( 阪大医学部)が逮捕された。
 九月一五日、学大三分校、大阪経済大学(経大)、大阪府立大学(府大)がスト、市大などは授業放棄。府学連は五〇〇人が中之島から府庁まで 雨中デモを行い、府庁南門の扉を突き破って突入を計るが警官隊に阻止される。学生一名が逮捕されるが、午後八時すぎに釈放。
 九月二四日奈良の元米軍キャンプで開かれた「道徳教育講習会」反対闘争で九名の学生が逮捕されたが、大阪府学連の逮捕者は鍋野市蔵執行委員長を含め八名 (他府県学連を含め一〇人起訴) 。

<勤評・警職法闘争で学園スト>
 五八年一〇月一〇日から三日間大阪外国語大学(外大)が勤評反対・道徳教育反対・警職法(警察官職務執行法)改悪反対でスト。関大二部も授業放棄。一〇月一四日、一五日市大経・文・法・理・工と学大平野分校が連続スト。 関大二部、市大二部授業放棄。
一〇月二七日、経大、学大池田分校スト。
一〇月二八日、経大、学大池田・平野分校スト、天王寺分校授業放棄、阪大全学業放棄。府学連は府民共闘会議主催の「勤評阻止措置要求大阪大会」に一五〇〇人で参加し府庁までデモ。 そのまま府庁に雪崩込み庁内デモ。 代表五〇人は大教組と共に徹夜の座り込みに入ったが午後一〇時すぎ警官隊に実力で排除された。
 十一月五日警職法改悪反対統一行動日、外大、学大天王寺スト、市大は大学祭明けの休講日のため同盟登校。 扇町プールの府民大会に府学連一二〇〇人参加。

<高校生勤評闘争に参加>
 大教組は五九年にも前年に続いて勤評提出に反対する闘いを激しく続けたが、高校生も闘争に参加する学校が增えた。
 五九年二月一日天王寺高校定時制の生徒会は教組の追及を逃れて姿をくらました校長の態度に抗議して授業拒否 (『毎日』59・1・29)。 北野高校では教組の校長不信任決議と教員のハンストを巡って生徒大会(同上、59・2・6、 59・’2・13)。 清水谷高校では卒業生が免職教員の留任運動を行い署名四一〇人分を府教委に提出(同上、58・5・26)生徒会も留任嘆願書を提出(同上 58 ・6・24)。 貝塚高校定時制生徒会が教員処分の取消を要求して府教委に抗議文(同上 59・6・3)。

<関大の高速道路学園通過反対運動>
 関西大学学友会は五九年五月一五日臨時学生大会を開き、名神高速道路が千里山学園内を縦断することは教育施設の破壊であると反対を決議し抗議闘争を行った (『毎日』59 ・5・15)。 その結果高速道路は学園の部分は地下を通ることになった。

4 府学連の安保闘争と高校生の大量参加

<初期安保闘争と府学連>
 全学連は一九五九年四月一五日の第一波から安保闘争に参加しているが、初期は呼び声程に盛り上がらず、四月二八日の第二波の府学連集会は八〇名しか集まらない状態だった。この時期「安保は重たい」と労働組合でも言われていたが、「学生運動転換にともなう理論的研究活動が続けられ、若干の混乱があることも関連して、闘いの大衆化の努力と実践活動への立ち遅れ」 (『大阪市大新聞』59 ・5 ・10、一四四号)と指摘される全学連内の対立が影響している。
 五月一二日安保改定阻止大阪府民共闘会議準備会に府学連も加盟。 五月二七日大阪府民大会、六月二五日安保条約改定阻止国民共闘会議第三次統一行動等に五〇〇人参加。
 六月五日から開かれた全学連第一四回大会は主流・反主流が激しく対立したが、主流派内でも一一回大会で全学連の主導権を握った日本革命的共産主義者同盟(革共同、一九五七年一二月結成)系から共産主義者同盟(共産同、一九五八年一二月結成)系に主導権が移るなど学生運動全体が指導方針を巡って混乱を深めている。
 この全学連の方針を巡る対立は、大阪にもおよび七月一二~一三日の府学連第二一回定期大会で指導部が主流派(鍋野市蔵委員長一大阪市大理)から反主流派(井上淳一委員長一大阪市大理)に移った。

<府学連新指導部の五九年後半の闘争>
 新指導部となった府学連は五九年九月三〇日の国鉄学生割引制度改悪反対闘争第二波 (大阪・兵庫・京都・奈良・和歌山五府県学連統一行動、一千名)を経てしだいに態勢を建て直し、一〇月二〇日に五〇〇人、一〇月三〇 日に六五〇人。 二月二七日の第八次統一行動には二五〇〇人を動員し大手前か騙町公園までデモを行っている。この日のストは市大経・法・文・家政、学大天王寺等であった。
 冬休み直前の一二月一〇日の第九次統一行動にも市大経・家政・文、阪大北校がストまたは授業放棄し、 一五〇〇人が森之宮の市立労働会館前からデモで大手前の府民集会に参加。 さらに大阪市役所までデモを行ったが、このデモには大阪市立盲学校(高校)生五名も白い杖をついて加わっている (『毎日』59・12・11)。
 全逓労組が年末の超勤拒否闘争を行っていることに対して関西主婦連が「学生アルバイトが集まらないなら婦人奉仕隊を出す」と郵政省に申し入れたが、府学連は安保闘争で共闘している全逓に連帯して、ー二月八日の執行委員会で関西主婦連に抗議文を送ること、各大学がアルバイト学生を出さぬよう申し入れること、アルバイト学生に説得を行う事を決めている(同上、59・12・9)。

<学大スパイ事件で三名逮捕>
 一九五九年一月三〇日府議会決算特別委員会で共産党の三谷府会議員の質問により発覚した府警平野署の公安刑事によるスパイ事件では、府学連傘下の学大自治会も工作の対象になっていた。このため府学連は総評等四〇団体とともに秘密警察糾弾人権擁護共闘会議を結成して公安警察の活動に監視を強めていたところ、一〇月に学大学生と外大学生にスパイ工作が行われていることを察知。 二月一三日、天王寺署の小川博巡査が学大正門で自治会役員に工作を継続しょうとしている現場を押さえ、折から講堂で開かれていた「スパイ工作抗議・完全就職獲得」の集会の場に連れ込んで糾弾。 小川巡査は出動した警官と学生が揉み合う中を脱出した。この事件で府警本部は一二月二五~二八日にかけて中辻武一府学連副委員長(学大天王寺)、石原文夫府学連執行委員(学大池田)井上淳一府学連委員長(市大理)を逮捕した。

<学大自治会への大量処分>
 五九年二月に起こった学大スパイ事件で、学大自治会は北川久太郎学長に天王寺署に抗議する声明を出すことを求めていたが学長が応じないことiこ抗議、又学生の(教員)就職の見通しが思わしくなく大学側の対策が不十分だとして、二月中句から学内行動を強め、無期限座り込み等を行った。
 これに対して大学は一九六〇年一月二日に「一一月一三日以来の学生の運動は不法、学園の秩序を乱した」と、天王寺、池田、平野三分校自治会役員に二ヵ月停学一五名訓戒二七名計四二名に上る大量処分を行った。 停学二ヵ月中に期末試験があるのでこの処分は実質的には一年を越えるものとなった(『大阪市大新聞』一五六号)。
 府学連はこの処分を警察に追従して大学の自治を自ら破壊するものだと抗議し、一月一四日には市大・阪大・府立女子大の学生が学大天王寺構内で抗議デモを行い、 一日二八日の第一二次安保反対統一行動には学大天王寺で全大阪集会を開く等支援行動を行っている。
 なお、 学生スパイ事件で逮捕された府学連の三幹部はいずれも「暴力行為」容疑で起訴された。 (1)

(1)一九五九年二月十三日の学大スパイ事件で起訴された元府学連幹部三被告に対して、六二年五月二三日大阪地裁・網田裁判長は無罪判決を下したが大阪地検は即日控訴を決定した(検察側控訴の第二審、第三審も無罪判決で、一九七〇年三月無罪が確定) 。

<全学連臨時大会の分裂>
 安保国民共闘会議は一九六〇年一月一六日に調印のため渡米する岸首相らの羽田空港出発に対しては、現地動員の阻止行動を行わないことを決めたが (第三章第四節六五八~九頁参照)、全学連(主流派)はこれに反対した。反主流派の大阪府学連も現地闘争は行うべきだとして一月一五日に大阪府民共闘会議の代表団(二〇〇名)に二〇名の代表が加わり、夜行列車で東京に向かった。
 そして、 羽田に着いた時には既に空港に立て籠もっていた全学連主流派が排除された後であったので空港周辺の道路で抗議闘争を行 った。
 この羽田闘争の評価を巡って全学連主流派内で共産主義者同盟系(多数派)ど革命的共産主義者同盟系(少数派)が対立し、二月九日の第二二回中央委員会で少数派の中央執行委員八名が罷免された。
 これに先立つ一月三一日に、阪大医学部自治会室で大阪府学連・兵庫県学連・和歌山大・立命館大自治会等八大学(阪大・市大・大阪府立女子大・大阪学大・神戸大・神戸外大・和歌山大・立命大)自治会が懇談会を開き、全学連の民主的運営と臨時大会開催を求める声明を出し、大会要求の準備委員会を設けることを決めた。しかし、大阪府学連は二月四日の評議員会で、 臨時大会要求は変えないが大会要求の準備委員会を設けることは組織的分裂につながると態度を修正している。
 二月七日、関西の主流二派(共産同系、革共同系)が自治会代表者会議を開いて八大学自治会声明に反論し、この後第二二回中央委員会で指導部に排除された主流・少数派(革共同)が二月一八日に代表者会議を開いて主流多数派(共産同)を批判した。
 こうして全学連は三派に別れて対立するようになった。反主流派の要求する全学連第一五回臨時大会は三月一六日目黒公会堂で開かれたが、代議員証交付を巡って紛糾し、主流・多数派がピケを張って他の二派を入場させなかったため大会は分裂し、以後全学連は分裂状態のまま安保闘争を闘うことになった。 なおこの時期の関西の状況は、 京都府学連は全学連主流多数派が、大阪府学連と兵庫県学連は全学連反対派がそれぞれ指導権を掌握している。

<統一を維持した府学連>
 東京では学生単独国会突入を主張する全学連主流多数派と、安保国民会議や東京都青年学生共闘会議との統一行動を主張する反主流派間の行動の統一が不可能となり、反主流派は「東京都学生自治会連絡会議」(2)を結成している、 しかし、大阪府学連(反主流派が多数)は組織的分裂を避ける方針により大阪では主流派との行動の統一を維持した。

(2)「東京都自治会連絡会議」は全学連第一六回大会(一九六〇年七月)後「全国学生自治会連絡会議」となる。大阪府学連は同連絡会議と友好関係を保ちながらも、分裂の固定化を懸念して、参加を留保。

<安保闘争の連続スト最大動員のデモ>
 府学連は、安保改定阻止大阪府民共闘会議の下で、六〇年四月以降連日のようにストライキ街頭デモを行い、大阪の学生運動史上最大の動員力を発揮した。

 府学連の動員とスト等は次のとおり。
四月二六日一五〇〇名。 スト=市大経・阪大教養・学大池田・外大。授業放棄=市大各学部
五月一四日 一千人
五月二〇日 四五〇〇名。 府学連未加盟の関大一部・大阪府立社会事業短大(社事大) も参加。 スト=市大全学部・外大・女子大・学大池田経大(以上全日)、府大・社事大(部分)。 授業放棄=阪大
五月二六日 三五〇〇名。 スト=市大・学大天王寺・同平野・府大教養(以上全日)、女子大・府大農・経・工)、外大 ・阪大(以上半日) 。 授業放棄=経大 ・関大
六月四日 前夜から市電の霞町車庫等にピケ要員三〇〇名を派遣して大交ストを支援。 牛後から扇町で開かれた府民大会に七千名。 新たに梅花女子短大・大阪商業大学(商大)・大阪工業大学も参加。 スト=市大・阪大・府大・女子大・外大・学大・経大(以上全日)。 各大学では破防法、警職法以来の教職員との共闘集会が開かれた。 阪大は扇町の府民大会会場まで教授団を先頭にデモ。 府学連デモは淀屋橋から大阪では初めての「フランスデモ」を行い、本町二丁目交差点では機動隊と対時して三〇分座り込み。
六月一一日 雨の中を千名でデモ。スト=市大(医・商を除く)・外大・女子大・阪大・学大、経大はスト又は授業放棄。
六月一五日 国労のスト拠点竜華操車場に前夜からピケ要員五〇〇名を派遣。 デモは八千名。 府学連未加盟の桃山学院大学(桃大)・大阪工業大学(工大)の学生も参加。スト=全加盟自治会(市大・阪大・学大・外大・府大・女子大・経大・関大二部・市大二部)。 夜学生も二一〇〇名
六月一六日 前日の国会デモで東大生樺美智子が機動隊に殺されたことに抗議し、大手前公園で五八〇〇名の緊急抗議集会を開き、府警本部前で一時間の座り込み、 自民党府連にも抗議後、雨の中を弔旗を掲げ喪章を付けて扇町公園まで無届けデモ。 夜間は全大阪青年婦人学生会議の抗議集会参加し、中央郵便局までデモ
六月一八日 九千名以上。 府学連未加盟の梅花女子短大も参加。府学連加盟全自治会がスト。府警本部前に座り込みの後難波までのデモ。 この日は先発の労働組合が御堂筋で労組組合としては、初めて「フランスデモ」を敢行したが、後に続いた府学連も途中戎橋で機動隊の阻止線と対峙して座り込み。 夜に入って関大二部等夜間学生三千名もデモ
六月一九日 「安保無効・岸退陣」要求の独自デモ。一五〇〇名
六月二〇日から全組織で三日間の連続スト
六月二一日 雨の中二千名。 府警本部へ抗議の後大阪駅までデモ
六月二二日 国労スト拠点の宮原操車場に前夜から支援ピケ隊八〇〇人を派遣。 横なぐりの激しい雨の中や空き列車で夜を明かし、翌二二日早朝国労集会に参加。午後三千人で靭公園から中之島まで無届けデモ

<安保闘争への高校生の大量参加と生徒会連合結成>
 前年、 大教組の勤評闘争を支援して高校生が活発な動きを見せたが安保闘争には多数が参加した。高校生が集団として登場したのは六月四日のデモから。
 六月四日、高津高校生徒会が参加を決議。(3)清水谷・住吉・夕陽丘・布施・八尾・山本・泉尾・今宮工等三三校三千名(府高教組調べ)。 六月九日には府高教組が自主的参加を呼び掛けたが、これに応えて六月一〇日の夜間集会には市岡高校定時制の生徒四〇〇人参加。 六月二日三千人、六月一五日五千人と参加が増え、六月一六日北野高校定時制生徒有志七〇〇人が樺美智子追悼の授業放棄で扇町までデモ。 六月一八日には北野・住吉・高津・岸和田等七千人が大教組のデモの後について行進。
 このような安保闘争の高まりの中で高校生の自治意識が高まり、ー一月一三日には大阪府定時制高校自治会連合(大定連)が発足。 大阪府高校生徒自治会連合(大高連)も二月中旬の結成を目指して運動を進めるが、府教育委員会、各校校長はこれを阻止する姿勢を示し、一方府高教組と大教組は生徒の運動を支持した。特に、定時制高校の生徒会は学習環境の維持改善、社会的地位の向上(全日制との差別の解消)、福利の増進(育英資金等)」等切実な課題を掲げている(『毎日』60・10・10、12・30)。

(3)高津高校 表王寺区東高津北)の生徒会は五月二九日から連日生徒会をひらき、 安保反対の運動方針について協議して、六月一日の生徒会で「四日の統一行動に生徒会の名で参加しよう」ということを決定し、同日午後、学校側に統一行動参加の承認を求めた (『毎日』60,6,2 夕刊) 。 校長は参加を思い止まるよう説得を重ねたが、四日第一時間日からの教員の職場集会と歩調をそろえて午前八時三五分から各教室で ホーム・ルームの集会を開いた。「学生よ立ち上がれ」「国民の声を聞け」などのデモ用のプラカードを立てかけた教室の中で”安保問題″ で論議し、一日に投票で決めた統一行動参加方針を再確認、午前中の授業を受けたのち、午後の扇町公園の府民大会に全員(二二五〇名)が参加し、デモを行ったのである (『毎日』60・6・4夕刊)。

<浅沼刺殺に抗議>>
 社会党の浅沼書記長が一〇月二日右翼少年に刺殺されたことに抗議して、府学連は翌一三日午後三〇〇人で府警、自民党に抗議し、天満から中之島まで無届けデモ。 一四日の全大阪青年婦人学生共闘会議の集会、二六日の「平和と民主主義を守る大阪府民総決起大会」、二〇日の社会党大阪府連葬等にも参加している。

二、安保後から一九六四年迄の動向

1   安保後から六三年までの府学連の運動

<私学授業料値上げ反対闘争>
 安保闘争に高揚した府学連の運動が、安保闘争終了による挫折感を脱却し、これを克服する闘争は、次のように授業料など物価値上げ反対闘争を通じて展開された。

<一九六〇年秋から六一年>
 一九六〇年秋、私学の授業料値上げ案の発表が相次ぐ中で二月一五日、関大・経大・立命館・同志社・関学の五大学で共闘組織が結成された。 市大も私学学生だけの問題ではないとこれにオブザーバー加盟し、大阪府学連は二月二五日、京都府学連も一二月六日、支援を決定した。関大二部では三月一五日の法・文・経済・商全学クラス討論で一六、一七日の抗議ストを決議し、一六日は抗議集会を行った。一九日はクラス討論、二〇日には学生大会を行うなど二一日の冬休みまで闘争を続けた。その結果一八日には学長が二部学友会(自治会)と話し合い、「一部および二部学友会・教職員組合・教授会理事会の四者協議会を作る。それまでは現状のまま進展させない」と約束した(『毎日』 60・12・17、 12・19、12・22) 。 各大学でも学生自治会との話し合いの姿勢を示し、問題は翌年に持ち越しとなった

<諸物価値上げ反対闘争>
 一九六〇年一二月二一日、国鉄が大幅な運賃値上げ案を発表し、政府は一九六一年一月五日これを承認する考えを明らかにした。 既に私学の授業料値上げが問題になっており、 国公立大学・高校の授業料直上げも一九六一年度予算案に折り込まれた。値上げは国鉄が定期料金で四四%、 国立大学授業料で三三%等、学生生活への影響は極めて大きいので、六一年一月九日、近畿六府県七三大学の学生部課長・厚生課長が運賃値上げ反対の実行委員校を選出、 一〇日に阪大で開いた合同会議は、「定期券値上げは学生生活に重大な影響があるので慎重に考慮されたい」と国鉄に要望することを決めた(『毎日』, 61・1・10~11)。
 私学の授業料値上げは私立大学連盟加盟五一校の内四六校に及び、値上げ幅は平均四万三一五三円と大幅なもので、入学金や校友会費等も値上げされることになった(『毎日』 61・1) 一月二〇日、大阪府学連八〇〇人は全大阪青年婦人学生共闘会議主催の「青年の生活と権利を守る決起集会」(於中之島公園、 一千名)に参加、 国鉄関西支社までデモ行進をし、 バスでやってきた京都府学連五〇〇人と共に、国鉄関西支社長を激しく追及、その後大阪駅中央コンコースで乗客集会を行った。一月二四日には地評, 婦人団体府学連等二〇団体で「公共料金と物価値上げ反対大阪懇談会」を結成した (『毎日』. 61・2・6)。

<政暴法反対闘争>
 六一年六月三日の政治的暴力防止法案に反対する大阪府民共闘会議の決起集会に府学連は一千人参加、難波までのデモを行ったが、難波・商街会館前で機動隊と衝突し学生側に重傷一名と軽傷五名が出た。六月六日の府民共闘会議の統一行動に府学連は一五〇〇人が参加し、大阪中央郵便局前で二名が逮捕されたが(二時すぎ釈放)、六月八日にも一千人が大手前で機動隊と衝突、学生一名逮捕、重傷二名軽傷八九名を出した。

<臨時工業教員養成所新設反対>
 文部省は工業教員を養成するために国立大学に三年制の臨時工業教員養成所を新設することにし、近畿では阪大や京大が対象となった。五月一九日、阪大学生自治会連合は、学生部次長制新設と臨時工業教員養成所設置反対で学長等と深夜まで交渉し、三年制では不十分な教育しか出来ない、 四年制の工業教員学部 といったものを設けるべきということで意見一致した (『毎日』61・5・20)。

<市大差別事件>
 大阪市大で女子学生に対する部落差別のビラが張り出される差別事件が発生し、 大阪法務局人権擁護部が調査に乗り出したが、大学はこれを重視し「差別問題対策委員会」を設け、大学協議会(大学の最高機関)が一二月一九日に「部落問題全学集会」を開いた (『毎日』’61・11・1、『大阪市大新聞』一九三号) 。

<高校等で紛争多発>
 勤評闘争・安保闘争以来生徒が行動を起こす事件が多発し、 中学校生徒にまで及んできた。府立八尾高校定時制では、府高教組の学力テスト拒否闘争による教員の処分の撤回を要求して生徒会が六二年一月二五日から二月一七日まで四週間にわたって授業拒否したが、大阪商業大学付属高校(私学)でも五月二一日、 賃上げ闘争による教員の解雇処分に怒った生徒が大学本部に雪崩込み六人が負傷。
PTA が学校側の不誠実に反発して生徒の登校拒否を決議し、生徒会が同調して六月五日から一〇日まで同盟休校した(二〇二五~六頁参照 ,4巻)。 二月一六日には処分された先生を返してと、泉大津市立第二中学校の生徒一〇〇人が教組のデモに参加し、 四月九日 には和泉市立山手中学校の生徒二〇人が教員異動に反対して市教委に陳情した。

<盛り上がった大学管理法反対闘争、改憲阻止闘争>
 六三年三月一七日の憲法調査会近畿地区公聴会(大阪・コクサイホテル)と、七月二一日の名古屋鶴舞公聴会 (名古屋市公会堂)に対し、旧全学連主流派社学同系の大阪市大生等が激しい阻止闘争を行い、名古屋では重体一名、重傷三名など学生二三名が負傷した(『毎日』62・3・17、7・21)。
 一方、府学連は四月二七日、核実験反対・憲法改悪反対集会を大手前公園で一千名が集って開いた。
 六月二〇 日中央教育審議会が大学管理制度改革法案を発表した。これに対して関西三府県学連で構成する「大学管理制度改悪反対関西学生連絡会議」はすでに六月一三日に、大学管理制度反対で六月二一日に統一行動で決起するよう全国に呼び掛けていたが、府学連は二一日、市大・阪大・府大・女子大・学大・外大・経大・工大・近大等二五〇〇人を中央公会堂に集め、中之島か難波までデモを行った。
 その際に警官隊との衝突で五名の逮捕者(1)、ニ一名の負傷者を出した。六月二九日には大教組・国民文化会議との共闘集会に二千名参加(『大阪市大新聞』二〇六号)。一一月三〇日、市大(商・経・法・文・理)が全日スト、阪大教養・学大・市大(工・家政・医)が半日授業放棄を行い、同日、府学連一七〇〇人がデモをした際、三名逮捕された。さらに一二月八日にも市大は全日スト 、阪大は授業放棄を行った。

(1) 六二年六月二一日の大学管理法案反対デモで市公安条例違反容疑で逮捕された桐村彰郎府学連執行委員、新保寿雄府大自治会執行委員、島顧忠阪大理学部自治会執行委員の三名を、大阪地検は一二月四日公安条例違反・公務執行妨害で起訴した。

<流産した大管法>
 大学管理法案上程を政府が諦めたため、 焦点は国立七大学学長を認証官にするという問題に移った。一九六三年一月二〇 日、阪大の大管法対策連絡協議会(教職員組合、学生自治会連合)が、大学の問題は民主的に解決されるべきである旨の共同見解を文部省に送った (『毎日』, 63・1・20)。 尚、一月二四日には市大教養部は認証官反対でストを行った。

<授業料値上げ反対闘争>
 六三年一一月六日、 次年度から授業料値上げが予定されている私学の八大学自治会(関学・同志社・立命・大工大・大経大・桃山学院・近大・大南大)が値上げ反対の共闘会議を結成し一一月二二日に統一行動を行なう事を決めた(『毎日』 63・11・7、11・12)。
 関学では一一月二二日、神学部を除く六学部が授業放棄、ー二月一〇 日には法・文・社会学部がスト、経・神が授業辞退を行い、二日には理学部も授業辞退に加わった。しかし、大学理事会は一二日、奨学金の増額を付帯して値上げを決定した(『毎日』, 63・11・22、 12・11、12・13)。
 一一月二七日大阪市大の大学協議会は次年度から授業料を三千円値上げすることを認めたが、これに反対する自治会は一一月二九日に教養学部がスト入り 、午後市議会決算委員会前で座り込みを行った。
 ー二月一七日には全学部スト、併行して市庁で徹夜座り込みに入り、翌一八日から二学生がハンストに入った。ー二月二四日も座り込みを行い、続いて翌二五日にも市事務局が築いたバリケードを突破して座り込んだが、警官隊のゴボウ抜きで排除された。
 
2 府学連の分裂

<分裂した全学連と統一に努力した関西>
 安保闘争後、全学連主流派内も分裂を繰り返えし、一九六一年一二月一五~一七日に開かれた全学連第一八回臨時大会は「マルクス主義学生同盟」(革命的共産主義者同盟全国委員会派)単独大会となり、全学連は完全に分裂した。
 これに対して関西では六一年一二月大阪市大に、 旧全学連主流派の社会主義学生同盟系や全国学生自治会連絡会議の構造改革派など京都・大阪・兵庫・香川・和歌山の一八大学四四自治会が大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連共同の招請で集まり、 関西規模での行動の統一を確認し関西学生自治会連合準備会を設けることを決めている。

<遂に府学連にも亀裂>
 その後、 この関西学生自治会連合準備会の動きを引き継ぎ、六二年七月に東京で社学同(社会主義学生同盟)、社青同(社会主義青年同盟)、構造改革派の三派が、マル学同(マルクス主義学生同盟)単独の全学連大会とは別に、 自治会代表者会磯を開いたが、共闘のあり方を巡 る対立で三派の統一を果たさなかった(『大阪市大新聞』二〇七号)。 一方、全国学生自治会連絡会議のうち共産党系は八月に「平和と民主主義を守る全国学生会議」(平民学連) (1)を発足させ、独自に全学連を再建する方向に向かった。この平民学連には大阪府学連傘下の府立大学・府立女子大学・府立社会福祉事業短期大学の府立三大学自治会が参加し (資料戦後学生運動』六巻四四九頁)、大阪府学連にも亀裂が入った

(1)一九六一年の日本共産党第八回大会前後の大量の脱党、除名が影響し、全国学生自治会連絡会議に共産党系と構造改革派の分岐が生じていた。

<分裂した原潜阻止などの闘争と相次ぐ逮捕者>
 一九六三年五月三一日、原子力潜水鑑寄港阻止・日韓会談反対・東大ポポロ座事件判決破棄等で府学連七二〇人が天満橋から中央局までデモを行い、途中で市大生六名が逮捕され、十数人が負傷した。
 六月一五日、兵庫県学連・京都府学連・大阪市大・和歌山大等三五〇〇人が、神戸市役所前で原子力潜水鑑寄港阻止全関西学生総決起会を開き、激しいデモを行った。 一方大阪府学連は「平民学連」加盟している府立三大学自治会との関係を重視して神戸の集会には参加せず、中之島で阪大・外大・府大・女子大・桃大等七〇〇人の集会を行った。六月二五日の安保府民共闘の「原子力潜水鑑・F105D 配備反対統一行動日」に、市大は全学ストに入り、同日の府学連の一五〇〇人のデモにおいて、二名が逮捕され、三〇名が負傷した。一〇月三一日、「改憲・核武装阻止・原潜寄港・日韓会談反対・池田内閣打倒・青年の生活と権利を守る全大阪青年婦人学生総決起大会」(於扇町公園、七千名)に市大など少数が参加し、デモにおいて五名逮捕された。ー一月二九日には、府学連独自で七〇〇人のデモを行った。
 一九六四年四月一六日、青年婦人学生共闘会議主催の「日韓会談反対、春闘勝利」デモで市大生が二名逮捕され、五月二九日の五〇〇名の府学連デモにおいても市大生が八名逮捕された。六月一九日新政暴法と憲法改悪反対等のスローガンで大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連が共同して「関西学生総決起大会」を京都円山公園で開き、 阪大一四〇〇人など五二〇〇人を集めた。デモでは二百数十人の負傷者を出し市大生一名が逮捕され (『大阪市大新聞』二四六号) 。六月二五日の府学連の七〇〇名デモでも二名逮捕された。七月三日の憲法改悪阻止・憲法調査会答申反対府民大会(於扇町公園、三千名)に、府学連は六〇〇名が参加した。
 八月二日、社学同等新左翼系が大阪で「全国労働者学生集会」を一七〇〇人で開いた。九月二七日の「原子力潜水鑑寄港阻止西日本国民集会」(佐世保) に大阪府学連は市大・阪大・経大から代表を派遣した。一〇月一六日、原潜寄港反対集会(於扇町公園、七千名)に府学連六九〇人。 市大生一名逮捕。一〇月二九日、府学連六〇〇人デモ、五名逮捕。 二月一二日、神戸で「原子力潜水鑑寄港阻止全関西学生集会」(大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連共闘会議共催)に五二〇〇人結集。
 大阪府学連参加は阪大、工大、経大、学大、関大、市大。 市大は午後から授業放棄。 日韓条約に反対する闘争は翌一九六五年一二月まで続けられた。

<授業料値上げ反対闘争>
 大阪府は昭和三九年度当初予算で府立の大学と高校の授業料値上げを一旦は見送ったが、ー二月府議会に大学授業料の値上げを提案したため一二月九日、大阪府立大・女子大・社会事業短大の自治会六〇〇人が値上げに反対して府庁に詰め掛け、 知事に反対の申し入れを行った。
 授業料等の値上げ反対闘争を進めていた関大二部で一一月一二日と一一月一八日の二度にわたって闘争委員会が体育会系の学生に殴られて負傷する事件が発生、大学も暴力を振るった学生の処分を決める方針を固めた。 (『毎日』 64.11.20)。

<自治会への相次ぐ処分、弾圧>
 一九六二年一二月五日、授業料値上げに反対し大阪工業大学(工大)二部自治会が授業放棄、ー二日には座り込みを行ったが、一九六三年一月二七日大学は自治会委員長に停学一ケ月等六名の処分を行った。
 大阪市大大学協議会は六三年七月二日、六月二五日の全学ストで自治会がバリケードを築き学生の入構を阻止したことで懲戒委員会を設置した。これに対して八月二二日から学生三名が無制限ハンストに入った。懲戒委員会は八月二三日八木孝昌自治会委員長の無期停学処分(実際は一ヵ月)を決定(『毎日』, 63・8・24、『大阪市大新聞』ニニ八号)。 ー二月二八日、大阪地検が大阪市大自治会の藤本昌昭・八木孝昌・多名賀哲也の三役員を公安条例違反で起訴。
 大阪外語大学は九月一三日、学生自治会に「学生心得を守らない場合、九月三〇日を以て解散させる」と通告している。
 また、府立三大学(府大、女子大、社会事業短大) でも、ビラ・ポスター、集会の許可制を巡って自治会への規制が強められている (『大阪市大新聞』二三〇号) 。
 六四年一〇月一〇日大阪地検は市大の八木孝昌執行委員を四月一六日の「四・一七公労協スト支援、原子力潜水艦寄港阻止」(全大阪青年・ 婦人学生共闘会議) のデモの際の公安条例違反容疑で前年一二月に次いで再度起訴。 二月二四日、大阪学大は一〇月一二日の原子力潜水艦寄港阻止のための府学連評議員会を学内で無届けで開いたと自治会役員一〇名に停学一カ月の処分を行った。 (『毎日』’64・12・15)

<大阪府学連の分裂>
 一九六一年八月に結成した共産党系の学生自治会(平民学連)は、六四年一二月一〇~一三日単独で「全学連再建大会」を開き、このため大阪府学連から府立系三大学が離れ府学連の分裂も決定的になった。 (『大阪市大新聞』二五五号) 一方、社学同系、社青同系、構造改革系の三派は、ー二月二一日東京で全国自治会代表者会議を開き原潜寄港阻止、 日韓条約阻止共闘会議」を結成、大阪府学連もこれに参加した。(井上淳一)

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