大阪の戦後学生運動史 2

大阪の戦後学生運動史 2 (『大阪社会労働運動史 第 5巻』より )

第三節 学生運動

ー、変貌する学生運動

1 大学の「大衆社会化」
「平和と民主主義、よりよき学生生活のために」のスローガンの下に全学連に統一され、戦後社会に強大なインパクトを与え続けてきた学生運動は「六〇年安保闘争」後急速に変貌し、一九六八(昭和四三)年からの爆発的な「学園闘争」と「七〇年安保闘争」をピークに急激に退潮、一九七四年以後は組織的・ 持続的な社会の変革勢力としては事実上消滅する。
その背景には第一に、「高度経済成長」による一九六五年からの急速な学生数の増加、 窮乏からの相対的自由、大学の「大衆社会化」現象がある。 (1)

(l)「大学、短大の学生数はついに一五〇万人を突破し、同一年齢層に占める学生の割合は一九・ 四%に伸びた。文部省が五日まとめた今年度『学校基本調査速報』の示す数字である。 五人に一人という大学生の割合は、 昭和一〇年の旧制中学への進学率一八・ 五を%上回り、いまの大学は戦前の中学なみ、といった実態をはっきり裏付けた。大学教育の『大衆化』が急テンポで進んでいるわけで、 空前の学生数をのみこんだ大学キャンパスは、 パンク寸前の形である 。
大学生急増期に入って三年目の今年学生数は四年制大学 (大学院を含む) 一二七万人、 短大二五万五千人で計一五二万五千人。昨年より一気に一三万人ふえた。 三三年度にくらべると、一〇年間に二倍以上という激増ぶりだ。・・・しかも、 文部省は今後進学率が伸びるのにひきかえ、 同一年代の人口がへっていくので、 五〇年ごろには三人に一人の割合・・・四年制大学の教員 (研究施設の教授などを含む) 一人当たりの学生数は平均一七.七人。 しかし、国立大の八ニ二人にくらべて、 私大は二九二八人と、 その格差はケタ違いに大きい。 わけても私大の割合は年ごとにふえ、マスプロ化に歯止めのきかぬ実態を示している。」(『朝日』68・12・6)。

2 大学自治への攻撃

第二には「高度経済成長」を支える良質の労働力育成と産学協同推進を意図し大学管理の強化を求める産・官の強い圧力と大学自治の蚕食がある。 (2)

(2) 「第一に、 今次の法制化の過程において日本学術会議・国立大学協会・公立大学協会をはじめ諸大学が数次にわたって画一的法制化に反対してきたにもかかわらず、政府の一部にはそれを無視して法制化を推進しようとする意見がある。このような経過自体が大学自治尊重の精神とはあいいれないものである。 第二に、法案の基礎になると伝えられている内容は、 (イ) 学長選考にあたって文部大臣の拒否の権限が予想されること、 (ロ) 大学自治の基本的構成要素である教授会の権限が縮小されようとしていること、(ハ)大学教員の不利益処分を文部大臣一学長の権限で推進する意図がみられること、 (ニ) 学外者をくわえた機関の設置によって大学自治への干渉の可能性が予想されることなど一貫して大学自治の管理運営を権力行政的に統制し大学の自治をおかそうとする方向を示している。」 (大字管理法案に反対する「大阪市立大学八学部、 経済研究所教授会声明」『市大新聞』 63・2・25)

3 全学連、府学連の崩壊

<全学連の解体>
第三は、 これまで一貫して学生運動の主体であった学生自治会が、 六〇年安保後の相次ぐ分裂で(l)全国的な統一性を失い、大学管理強化・マスプロ化との激闘の中で党派闘争に解体して行ったことが上げられる。
戦後、 全学連が結成されて以降の学生運動は、全員加入の学生自治会に一つの層として組織された学生が、全学連の旗の下に統一した課題を統一した方針・行動をもって闘うところに他階層とことなる際立った特徴があった。そしてその行動形態は全学連の提起する統一行動日に、授業放棄・ストライキに圧倒的多数の学生を結集し、街頭デモンストレーションで示威と他階層へのアピールを図ることが基本であった。
しかし、 この一〇年間に学生運動のこのような特徴が急激に失われていったのである。

(1)安保闘争後の一九六一年一二月に開かれた全学連第一八回臨時大会は、「マルクス主義学生同盟(マル学同)」の単独の大会となり、全学連は分裂したのに対し、関西では社会主義学生同盟(社学同)と社会主義青年同盟 (社青同)と構造改革派(共産党系の全国学生自治会連絡会議のうち、 共産党直系とは分岐したもの) の一八大学の四四自治会が大阪・ 京都府学連と兵庫県学連の招請により関西学生自治会連合準備会を発足させた。
一方、 共産党直系の大阪府学連の府立三大学自治会は六一年八月に発足していた 「平和と民主主義全国学生会議」 (平民学連) に参加し、 ここに大阪府学連の分裂が決定的となった (『運動史』第四巻、一三三六頁)。
その後、六四年一二月一〇~三日に平民学連は「全学連再建大会」を開き、社学同・ 社青同・構革派の三派が一二月二一日に「原潜寄港阻止・日韓条約阻止共闘会議」を結成したが、府立の三大学自治会は前者に、 大阪府学連は後者に参加した (同上、 一三三七頁)。

<大阪府学連の分裂>
構造改革派 (構革派) の勢力が強く従来の運動形態を守り、過激な街頭闘争には批判的な大阪府学連の指導に飽き足りない三派全学連系(3)が、一九六八年三月末に「大阪府学連再建準備会」を発足させ、七月一四日に社会主義学生同盟 (社学同)系を中心とする 「府学連」 を結成した。
これより 「府学連」 を名乗る組織は、先に分裂した共産党系、 構造改革派を中心とする従来の組織、そしてこの三派系と三つになり、全大阪の学生を統一する機能は完全に失われた。

(3) 三派全学連=マルクス主義学生同盟中核派、 社学同派、 社会主義青年同盟解放派の三派により六六年一二月に結成、六八年七月に各派に分裂。

<全共闘運動と全闘委の形成>
以上のようにして始まった全学連内の対立により、政治的傾向を異にする複数の 「全学連」 あるいは自治会共闘などが競合することになり、党派的対立は学生自治会の主導権争いを激化させ、全員加入を原則とする自治会からは相対的に独立した全共闘、全闘委が運動のヘゲモニーを握るようになる。
全共闘一全学共闘会議ーは、 各学部自治会の他に多様な学内組織一寮自治会、 大学院生、クラス・ サークル、時には助講会や職員組合一の代表が加わる共闘会議を基本形態とし、 一応選出機関を母体とするが、 闘争の過程で闘争を主体的に担うものの結合体へと次第に変質する。全闘委一全学闘争委員会一は選出機関を母体とする全共闘ほど組織的でなく、 党派的・実行委員会的な自主「組織」の色彩が濃い。
これらの共闘組織では、 『連帯を求めて孤立を恐れず』 に闘争に参加する一人一人の 「主体性」が重んじられた。

4 行動の過激化と党派支配

<激化する戦術と党派的対立>
学生が取り組む課題は全国的政治課題と平行し、根底に於て共通するものの、個別の大学に個別の問題として立ち現れる学園内の課題が次第に比重を増していく 。全学連が提起する数次の統一行動日に一斉にストライキで立ち上がるというこれまでの行動形態から、 個別大学で長期あるいは無期限のストライキに突入することが多くなり、 学内にあってはバリケードによる校舎の封鎖と龍城、街頭にあってはヘルメット、ゲバ棒(棍棒)、時に火炎瓶などで「武装」したより過激な行動に傾斜していく 。
また、 個別にあらわれる学園内の課題の根底にある共通性と党派的結合から、大学の枠を越えた相互浸透が見られ、それが時に「外人部隊」と呼ばれる他大学生の「侵入」と言う現象を生み、従来の大学自治の概念との深刻な衝突を引き起こした。
党派的対立は、 一部ではあるが 「内ゲバ」 (対立する党派への暴力的攻撃) に走るものを生み出し、多くの死傷者が生ずる陰惨な状況に至る。

<大阪の学生運動の特徴>
とは言え大阪の運動では、この様な全国的傾向の中で、政治的課題における闘争で、一定の統一的行動が追求されていること、自治会が一応機能していたことも事実である。 それは、 府立系三大学自治会等が共産党系「全学連」に分離していった後も、 六八年まで大阪府学生自治会連合(府学連) が曲がりなりに統一機関として存続したこと。学生運動の大阪に於ける主力大学である大阪市立大学 (市大)、大阪大学 (阪大) 等で自治会が活動力を保持していたことなどによる。
他方この時代には、高校生が学生運動の一半を担うという際立った特徴があり、その課題・行動形態も大学生と共通する所が多い。

二、火の手をあげた学園闘争(一九六五–六七年)

1 「経済間題」と自治の侵害

<大学運営経費間題>
一九六三 (昭和三八) 年六月、 中央教育審議会が発表した大学管理制度改革法案は、 反対が強く流産したが、 これを契機にして実質的な大学の管理・統制強化が進み紛争の火種がどの大学でもくすぶりだした。一九六五年五月一八日、市大で「暖房費」問題をめぐって学生自治会 (自治会) と学長の団交が行われた。前年度の新入生から暖房費の一部負担を求めたことに端を発して紛糾が続くこの間題は、一見極く些細に見えるが学生はそうは捉えなかった。 『市大新聞』( 65・5・10)は、この様な状況を大学への予算の相対的低下と批判し大学予算の不足を補うために受益者負担(暖房費・寮、生協の水光費、家政学部・医学部の実験実習費)と個別資本の大学への投資(後援会、理工学部における産学協同)が顕著に表れてきた。 そこには学生の生活を圧迫し、貧困学生の大学入学の締め出しという問題とともに、大学の自治の侵害、 資本の大学支配という大きな危険性をはらんでいると分析している。
六四年二月一八日付文部省通達「学寮における経営の負担区分について」 や同年夏国立大学に示した「〇〇大学学寮管理運営規則参考案」で学生寮の受益者負担「原則」の導入と寮自治の規制がその背景の一つである。
これを大学予算を意図的に抑制し、受益者負担、教官・学生の自治の統制、財界の運営介入を容易にしようとする「大学貧困化政策」と学生は捉える。

<各大学の紛争の拡大>
国立の大阪外語大学 (外大)では廃止予定の短期大学自治会が新設される二部への編入を求めて試験ボイコット(65・1・ 8)。
市大医学部新館食堂の生協経営を要求する座り込み(65・l2・19) 一生協進出拒否の教授会決定自治会との団交で撤回(66・2・31)。 市外者入学金値上げ撤回の座り込み一事実上の撤回(66・12・13)。 阪大宮山寮のガス水道料金不払い闘争(65・7から)。 市大医学部で米軍研究援助資金問題追及、渡瀬学長が契約を破棄するよう説得を約束。「各学部教室の研究の自由を尊重しながらも、軍事協力と見られるような研究については、大学全体の問題として、協議会で話し合い、疑惑を招くようなことは一切避けたい」一渡瀬談話(『朝日』67・5・24)。
六六年五月六日、大阪学芸大学 (学大) で、学長の突然の辞任を契機に 「理科系と文科系の教授の教室閥、 さらにその根底には文部省の大学運営に対する干渉などの問題があり、大学の自治を妨げているのが原因だ」と「学園民主化決起集会」が開かれ(『朝日』.66・5・7)、同大の校名を「大阪教育大学」に変更して、完全に教員養成機関に改めようとする文部省の意図とも激しく衝突する。 教授会の校名変更決定(66・11) 一授業放棄・教授会阻止一自治会役員の停学処分と抗議のハンスト (67・2・25)。

2 私学の民主化、マスプロ教育改善要求

学生数の急激な増大と私学の前近代的体質がマスプロ教育反対、 民主化要求となって一般的には学生運動から遠かった私学の学生を立ち上がらせた。

<近大>
六五年四月、近畿大学(近大)の世耕弘一総長の死亡の後を同氏の長男政隆が襲ったことから、自治会が「総長公選制」「教授会の確立」「事務当局の体質改善」「学部長の教授会互選」等を要求し圧倒的多数の学生と教官の支持を得るが、五月二四日には体育会系の学生の妨害を受けて負傷者も出ている(『毎日』,65・5・24夕刊)。
運動は、五〇〇〇人デモ(6・17)–授業放棄(6・24)–大学側の教室封鎖–教・学共闘の青空教室へと発展し夏休みを越えて九月まで続く 。

<商大>
六月二八日、大阪商業大学(商大)でも自治会が「学長公選」「推薦入学反対」「図書館・ 教授研究室建設」「生協設立」の要求を掲げて立ち上がり、三〇日から授業放棄に入った。 商大では六四年一二月に新年度入学生からの学費値上げ提案に、自治会が 「図書館、教授研究室、寮」建設を条件に同意したが、 約束が反故にされているという経緯がある。紛争は翌年まで続き六六年六月一〇日から無期限ストに突入し、ようやく同月二〇日、図書館・ 教授研究室建設着工、寮の早期建設の約束で解決した。

<関大など>
他方、関西大学(関大)の経済・ 工学部自治会が、登録学生が教室の収容能力より五百人も多い等のマイク授業・マスプロ講義反対運動に取り組み、六五年六月一八日には、関大・ 近大の学生がバス数十台を連ねて大手前公園に集まり、合同集会とデモを行った。
大阪工業大学 (工大) では、 値上げされた学費の使途を追及する授業放棄–処分–抗議のハンスト( 65・7・1)。 梅花女子大で授業料値上げ反対の授業放棄(65・l2・10)。 浪速芸術大学の学園正常化実行委員会が学生急増に追いつかぬ設備・授業内容の改善を求めて六六年二月七日からの期末試験と、四月の再試験をボイコット。

3 インターン反対から青医連闘争へ

<根底にあった「 医局」支配>
医師免許を持ちながらインターン制度により無給で大学医局で働かされることを不満とする医学生・医卒者の不満鬱積は、一九六四年二月、医師試験審議会が厚生省に「大学の医学過程を卒業した直後に医師国家試験を行い、合格者に免許を与える 。 但し独立して開業するものはさらに一年間、 教育病院で実地訓練を受けることを義務づける」と答申したことでついに爆発。全国四六の医学部・ 医大卒業生が「全国医学部卒業者連合」(医卒連)を結成し、六五年のインターン出願を一斉にボイコット。六五年五月一三日には「全国医学生連合」(医学連)が、医師法改正に反対して授業放棄・デモで立ち上がった。

<私立医大も闘争参加>
大阪では阪大・ 市大・大阪医科大学(大医大)・関西医科大学(関西医大)等が参加。 これ以後医学生・医卒者の闘争が激しく展開される。 六六年四月一〇 日、 インターン終了後の医局無給医が青年医師連合入局者会議結成(青医連)。六月二四日、「全国無給医局員対策委員会」の下、国公立付属病院で無給医の統一闘争–スト・ 集会。 同年二月二九日から三日間の全国統一スト(阪大・市大等) を経て、六七年三月一二日から始まった医師国家試験は医学連、青医連のボイコット呼びかけにより、受験者は有資格者の八分の一、出願者の四割。 各地の試験場でピケ・デモ・シュプレヒコール、警官隊との衝突。

<学園闘争の導火線>
同年七月、 医師法改正–インターンに替わる登録医師制–に反対し、七日から関西医大が無期限スト、大阪医大も八日から無期限の授業放棄に突入を決議。 ー二月五日から阪大等が「全国無給医局員対策委員会」の第四次統一行動として「無給医の有給化、登録医師制度反対」で一週間の診療拒否に突入。
六七年九月の医師国家試験には、 前回の拒否組も大方受験し、外見的には一旦鎮静したかに見えたが、無給医、医学生の闘いは断続することなく、次第に国家制度の問題から学内の管理運営の問題に焦点が移り、 学園闘争を爆発させる導火線となる。
「厚生省や大学当局の間には、インターン全廃が軌道に乗る来春になれば、国家試験ボイコット闘争は緩和されよう、と言う楽観的な見方もあるが、—-インターン全廃を皮切りに、 医局員の有給化や、大学卒業後の実地研修や医学研究全般について改善を要求するというのが青医連の方針であり、これには、教授を中心とする医局が、 医局員の研究テーマからアルバイトなどの生活面まで、すべてを握っている現医局講座制を崩壊させ、自主的な研究を望む意図も含まれている」 (『朝日』 67・3・l3)。
六七年八月には国家試験拒否のあおりを受けて医師不足により町立四条畷病院が閉鎖に追い込まれている。

4 激しくなる街頭闘争

<激化した反戦闘争>
一九六五年~六七年末までの間に、 政治的課題–ベトナム反戦、日韓条約反対、七〇年安保佐藤訪米阻止、 沖縄全面返還要求–等がストライキと街頭闘争で闘われた。
また経済的要求としては異例の激しい行動で、社会主義学生同盟(社学同)系学生が国鉄運賃値上げ反対闘争を大阪駅で六五年一二月一五日~六六年二月二三日まで七波繰り広げ、累計三八名の逮捕者を出した。

<六五年の行動>
社学同系の北爆反対・米軍即時撤退要求のアメリカ領事館前座り込み( 65・4・16、 4・28–二名逮捕)。 京都・大阪・兵庫三府県学連主催のベトナム侵略、佐藤内閣戦争加担反対」の総決起集会一六五〇〇人、負傷者一〇〇人(いずれも学生側発表) 逮捕三人(6・4京都)。ベトナム侵略反対国民行動日の大阪集会 逮捕一名(6・9)。
日韓条約調印日の抗議闘争 逮捕二名(6・22)。府学連主催「日韓条約調印反対、ベトナム戦争抗議」デモ、六〇〇人、検挙二名(6・24)。「日韓条約阻止・ベトナム侵略戦争反対大阪府民総決起大会」(10・12)、日韓条約批准阻止・ベトナム戦争反対大阪実行委員会主催の御堂筋デモ(ll・5)–いずれも学生参加数不明。 日韓条約粉砕第一次統一行動一府民集会 学生五〇〇人 重傷二、軽傷七人(学生側発表)逮捕三人、共産党系独自集会・提灯デモ (11・9)。第二次統一行動一府民大会 学生参加数不明、市大全学スト、共産党系も独自集会(11・13)。 第三次統一行動一府民集会 学生参加数不明、共産党系独自集会。

<六六年の行動>
六六年、大阪学生戦線主催「小選挙区制答申・ 原子力潜水艦寄港反対関西学生統一行動」(大阪) に関西規模で六〇〇人、負傷十数人、逮捕一名(5・27)。「ベトナム戦争反対、小選挙区制粉砕」で集会・デモ (6・24)。 「ハノイ・ ハイフォン爆撃抗議」集会(7・2)。
七月六日、社共、京都地評共催「日米経済委反対・ラスク入洛抗議京都決起大会」に京都・大阪の学生約千人参加、 機動隊と深夜まで衝突、逮捕七名、負傷者多数。

<「ジュツパチ」ショック>
六七年一〇月八日、 佐藤首相の東南アジア訪問を阻止しようとした学生が羽田空港付近で機動隊と激しく衝突し、京大生・ 山崎博昭が死亡、全国民とりわけ学生に大きなショックを与えた。後にこれが「10・8 (ジュッパチ)ショック」 と呼ばれるようになる。 事件の翌日九日には大阪駅等でゲリラ的な抗議のデモが行われ、ニ一日には同君の出身校である大手前高校の在学生・ 卒業生による追悼集会が開かれ、一七〇人が参加した。なお、羽田闘争には、大阪府警調べで大阪から約七〇人の学生が参加した模様。

<六七年のその他の行動>
一〇月二一日のベトナム反戦国際行動デーには、大阪市大教養部がスト入り。扇町の統一集会に、学生が約五〇〇人以上参加、機動隊との衝突により数人の怪我人を出し、一名が逮捕された。
二月一〇日、佐藤首相訪米反対で市大教養部が全日スト。 同夜中之島の京都・大阪・兵庫三府県学連主催の 「佐藤訪米阻止全関西学生集会」には、関西規模で八〇〇人が参加。 共産党系も独自集会。
以上の様に、 政治課題を掲げた街頭闘争は激しい行動形態で度々警官隊と衝突し、多数の負傷者・逮捕者を出しているが、参加者数を記したものもしくは不明としたもの以外は案外参加者が少なく、五〇〇人を越えない程度である。
なお、 六七年四月、 清水谷高校、 市岡高校の組合活動家の教員の強制異動に抗議して清水谷では三五〇人が集会、異動反対のバッチを着ける運動を、市岡では七〇〇人が討論会を開き、校長を追及した。大学の学園闘争に追随して爆発した高校の学園闘争の胎動も既にこの時期から始まっている。

三、 爆発する学園闘争 (一九六八~七〇年)

1 学園闘争の拡大と激化

<知性の管理に対する反乱>
一九六八(昭和四三)~七〇年に学園の管理社会化に対する学園闘争が爆発する。
学園闘争は、大学においては「知性」に対する外部からの蚕食・ 統制=〔産軍学共同、官僚的統制、 自治侵害〕、権威的支配=〔医局・講座制、教授会自治のヒエラルキーによる縦型支配〕、営利産業化=〔マスプロ教育、理事会支配〕への学生・ 若手研究者の抵抗・ 異議申立であり、高校においては学校の進学予備校化・産業予備校化と取り締まり的指導に対する生徒の反発であった。
それ故実際に紛争校になるならぬを問わず全ての大学・高校に矛盾・対立が集積し、教育・研究体制全般がそのあり方を根底から問われたのである。しかし、全学連の崩壊という決定的なマイナス要因に規定された闘争は個別大学・高校で「終わりなき闘い」として展開され、泥沼に陥って終には強権的に終息させられた。

<東大から全国へ>
闘争は、処分問題を発端とする東大医学部自治会のストライキ突入 (六八年一月)、 使途不明金をきっかけとする日大の理事会全一支配追及、日大全共闘結成(5・27)、東大全共闘結成(6・15) で一気に全国化。紛争大学は六九年五月で六五校 (朝日新聞調べ二九日現在) であったが、八月には二〇校 (朝日新聞調べ三日現在) の多数に上った。
高校紛争も六九年一〇月、「封鎖・スト等が四九校、集会・デモを含めると数知れず、特に東京とその近県、近畿、関西地区が圧倒的に多い。」 (朝日新聞調べ二七日現在) 状況を呈した。

<強権による鎮圧>
これに対して、文部省は六九年四月二一日、 次官通達を発して警官導入による秩序維持を求め、同年五月には閣議が「大学の運営に関する臨時措置法(案)」(大学立法)を決定。八月三日に参議院本会議強行採決で同法が成立。さしもの大学学園闘争も国家の強権により、六九年中に鎮圧された (高校紛争も七一年初めまでに、府県教育委員会通達と機動隊導入により同様に鎮圧された)。
闘争が激甚、深刻であったため死傷者、被逮捕・投獄者、被処分者、学業断念者等の犠牲者も膨大な数に上った。 (1)

(1) 「大学紛争を苦に自殺 市大生」 (『朝日』 69・ 5・26) 「紛争騒ぎを苦に自殺? 市大病院長事務取扱婦人」(『朝日』69・7・24)。「原因はひどいやけど 京大紛争で死んだ関大生」(『朝日』, 69・10・2夕)。「紛争苦に切腹自殺 寺田教授」「工学部助手が感電死 封鎖解除の部屋修理中」(『朝日』 69・10・15)。 市大工学部院生自殺 (『朝日』 72・11・9)。
「内ゲバで学生二人死ぬ 学費紛争の関西大」(『朝日』 71・12・4)。 「内ゲバで学生死ぬ 革マル系 大阪の沖縄デー」(『朝日』,72・4・29)。 〔「革マル系」とはマルクス主義学生同盟革マル派〕

<封鎖、大衆団交など>
行動の形態としては、集会、学内デモ、スト、バリケード封鎖、大衆団交などがある。
この期間中、 紛争校で長期にわたって授業が停止した。 授業の停止は自治会の多数決決議による無期限ストライキによるものの他、クラス決議や個別の集会(必ずしも全員参加を前提としない) 決議によるストライキ、バリケード封鎖による強制、 封鎖解除後の学内立ち入り禁止などによるものもあり、 後期になるほどその傾向が頭著になる。
バリケード封鎖には、活動の拠点を維持し、当局や体育会系などの反対派の攻撃に備えるという防衛的性格と 、「先進的な」 活動家が問題提起を抜き差しならぬ形で一般学生や大学に突きつけ、対応・選択を迫る性格との二面がある。この対応・選択を迫るという性格は全学連の分裂を引き出した第一〇回大会の「われわれが強力な (闘争)形態をとればとる程、対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、われわれの周りに結集する勢力も大きくなる」 (『資料・ 戦後学生運動』一九七頁) とする急進的思想の具体的表れである 。
バリケードは必ず、これに拠る闘争派とバリケード反対派、大学側の三つ巴の紛糾を生み出し、しばしば物理的衝突を引き起こしている。そして、大方は機動隊導入により強制的に撤去されている。
大衆団交は、全員参加・自主管理の理想的系譜を引き、教授会自治に対抗する強力的手段として働いたが、被選出機関への意志の集約・統一を欠くため合意形成から決着への道筋をしばしば見失うことにもなる。

2 私学の闘争

<関学(関西学院大学) >
一九六七年二月一五日、 翌年四月からの学費値上げに反対する 「学費値上げ阻止全学共闘会議」 決起集会が開かれ、 その決議によって一六日から法学部、 一九日から社会、 商学、 文学部が無期限ストに入りそれぞれの学部校舎をバリケード(この段階ではまだ立看板程度)で封鎖した。(経済学部自治会の執行部は代々木系一共産党系の一般的呼称一が多数を占めるためスト回避)。要求は授業料値上げ撤回と大学改革の六項目であった。
無期限ストがーヵ月近くになり、後期試験が目前に迫る六八年一月中頃から収拾派が動きはじめる。 一月一七日文学部自治会が代々木系の影響下でバリケード撤去決議を行って継続派と乱闘。他方、 最も強硬な社会学部自治会はバリケード継続を決議するが、 体育会系学生と大学当局の連合軍により一旦は撤去。 学部長が自治会解散命令で追い打ち。 (1・22)翌日再封鎖。 商、文、法がスト中止(バリケード撤去)する中で社会学部は試験ボイコットに突入。三月二八日大阪近隣では初めての警官隊導入によりバリケードストが解体される。
しかし、 二年続きの授業料f直上げで、 六八年一二月には再び社会、 法学部がストライキ突入。経済学部は内部対立で決議に至らず。 商学部は体育会系優勢でスト提案を一旦否決するが、 商学部闘争委員会がストライキ投票を成功させスト突入。
他方、 大学側は全学集会等を行って自主解決を模索するが、 結局機動隊の手によってバリケードストを鎮圧した (69・6・13)。

<関大>
二年前に新設された社会学部で、同学部付属研究組織である社会学会の経理・規約・ 学生参加をめぐってスト権投票開始、 六九年一月二一日バリケードストに突入。他方、代々木系の民主化委員会は、ストライキ投票が民主的でないと抗議。 闘争の初めから党派対立が表面化した。 しかし、社会学部自治会はこの代々木系の批判を受け止めて、 同月二二日の学生大会であらためて投票を行いスト権を再確立した。 ここでも体育会系は闘争に敵対し、最初からバリケード解除の先兵となる。 教授会の大幅な歩み寄りにより、一月二九日に一旦解決し、スト中止・ バリケード解除。
しかしその後学長選挙等の大学民主化をめぐって紛争が再発。 同年六月二〇日封鎖、 ニ一日自主解除、 ニ二日再封鎖と日まぐるしく変転。 七月五日機動隊導入。機動隊導入と大学改革学長案を巡って学長支持派の工学部と法・文・商・経の教授会が対立。
全学生対象のアンケート調査では回答者 (四割) の約七三%が学長案を支持するが、 九月学長辞任、 同月工学部の″独立″宣言で内紛。 九月二二日郵送による学長選挙開始。 九月二三日機動隊導入で事実上鎮静。 -〇月二日授業再開。
機動隊に爆弾投郷 (69・10・7)、 セクトの陰惨な内ゲバ殺人 (前述 71 ・ l2 ・ 4) 事件等も発生。
但し、 爆弾や殺人事件は、関大学園闘争の必然として起こったものではなく、殺人事件の被害者も加害者も学外のいわゆる 「外人部隊」であって、 これらの責めは、事件を引き起こした特定セクトに帰着する。

<大医大>
六九年一月二三日、 小児科教授に学外者を選出する動きに対して小児科医局が反対声明。 四回生クラススト決議。 同日午後の全学集会で講師、助手、副手、院生、学生の五者による全学協議会を組織 (後に助教授も参加し六者協となる) し、 小児科教授人事問題、 学長退任、 大学運営への学生等の参加等の一〇項日を「公開質問状」の形で要求。学長回答を不満として一月二七日、四回生クラス会二四時間スト。一月二八日、 教授会が六者協議会に教授会を加えた臨時大学問題懇談会設置を提案。一月三一日、小児科後任教授予定者が辞退。同日副手、院生診療拒否無期限ストに突入。 二月三日学長辞任。
二月四日、 学生も無期限ストに突入。 二月二日、 学生大会で①大学決定に対する学生の再審査(留保権) ②教授会内容公開 ③医学教育制度の矛盾是正等を決議し街頭デモ。 その後教授会が学生の留保権に譲歩を示すが、学生大会は不十分と拒否し、青医連の公認も合わせて要求。四月一日教授・ 助教授による大教授会設置(副手、院生オブザーバー)、 副手の地位確立等大幅な改革案を教授会が提示。 四月三日の副手のスト解除を最後として紛争が終結した。

<近大>
六八年秋、当局に批判的な法学部の助教授・教授五人が辞意表明、学生が法学部クラス総連合を結成し、一一月末教授会と①助教授、講師の教授会参加 ②学生・教官各四人の委員会設置③論文瓢窃問題の前学部長講義取消 ④学部長辞任勧告等で合意したが、当局がこの教授会決定及びクラス総連合を否認。他方、学生側でも体育会系が「愛校民主主義学生同盟」を括成し、対立が激化。 六八年一二月三日、 商経学会学生部会の学生大会で、 役員選挙をめぐって六〇〇人が乱闘。 四日、法学部クラス総連合、 商経学部第二自治会等が全学集会を開き、 他大学生を含む体育会系が仕掛けたものと大学に処分と大衆団交を要求、一部が別館封鎖(翌日大学側が解除)。十二月六日、法学部クラス総連合が授業阻止の五〇〇人座り込みで「総連合承認」「学長公選」を要求。 当局団交拒否。
六九年五月一六日、法学部クラス総連合系が法学部長室を封鎖、 ニ一日説得で解1除。

<その他の私学>
商大では、 六八年一月一三日授業料値上げ反対、施設改善要求を掲げ学外デモを計画したが、大学側がこれを中止させ、委員長ら九人を無期停学処分にした (二人は解除)。 これに対し、 二月一二日一人がハンスト入り 。学年末試験最終日の二月二〇日に、自治会が試験をボイコット。工大では、六八年六月二七日、自治会生活対策部の購買部を生協にするよう要求して、 四八時間ストに突入。六九年五月八日、不正入試問題、前理事長夫人への公金功労金問題(公金一三千五百万円相当譲渡) 等六項日要求で、 一時理事長室占拠。その後全闘委が理事長室、学長室を封鎖。 二月六日、学生大会で機動隊導入反対、 六項日要求貫徹の無期限ストを決議。 同日、遊説中の社会党成田委員長に 「藤田進理事長は、社党の参院議員であるのに学生、教員の要求に対してなっとくできるだけの答えをせず、 機動隊導入と職員解雇を考えている」と要請文を手渡した(『朝日』, 69・11・7)。 機動隊導入に反対して三教員もハンスト。その後さらに封鎖を拡大。一二月四日には封鎖解除要求の二部学生大会に全闘委が乱入。 ー二月二八日、機動隊導入で封鎖解除(これで全国の大学で全学がバリケード封鎖されているところはなくなった。(『朝日』 69・12・28)。
電気通信大学で、 六九年七月三日応援団処分問題・大衆団交要求の無期限スト。ー二月二三日、学長公選・経理公開・学生会館建設等六項日確認の尊重と処分を出さない等の条件を付けてスト解除。 浪速短期大学一六八年一二月五日学則改正、 民主化要求。 六九年二月七日封鎖、翌日職員が解除。 桃山学院大学–団交決裂で六九年一一月一五日全学封鎖。大阪経済大学(経大)七〇年六月二七日自治会不承認で無期限スト。大阪産業大学一ワンマン経営、経理公開、大学身売り問題で七〇年六月二三日から九月一七日までスト、 理事長一族退陣。 大阪薬科大学–学生部長不信任等で七〇年一〇月一二日より試験ボイコツト一臨時休校一一〇月二四日学生部長辞任で休校解除。

3  国公立大学の闘争

<市大自治と市議会>
一九六七年一二月一日に 「大阪市立大学が左翼偏向しているとして教授らの思想調査をし、偏向が是正されなければ、同大学の来年度予算を認めないとの強硬方針を打ち出した」(『朝日』,67・12・12)大阪市議会自民党議員団は七日、「文教研究委員会」を発足させた。自民党本部の学生問題懇談会や教育正常化委員会等もこれを受けて 「大阪問題懇談会」 を発足させるが、自治会や教職員組合の抗議、渡瀬学長の断固とした声明(l)と世論の批判に遇って、大学へ乗り込んでの調査等は沙汰止みになった。

(1) 学長声明 「干渉には全学をあげ断固 (自由・自治の) 三原則を守る。—-教職員ならびに学生諸君の冷静な判断と良識ある行動を望む。」(『朝日』 67・12・12夕)。 自治省行政局長談「議員団の活動は・・ 個々の議員の集団の動きに過ぎないから調査権はない。—市会で議決されても、大学については管理運営面の調査しかできず、教授たちの思想や教育内容に立ち入れないはず」(『朝日』67・12・28)。

<市大医学部>
一九六八年一〇月、 授業中の教授と助教授の意見対立が発端となって教授会への不信が表面化した医学部で、一一月二九日学部運営に諸自治機関 (学生自治会、青医連、大学院自治会一この三者で医学部民主化共闘会議結成) の参加と拒否権を制度化する確認書が学生との団交で交わされた。
しかし、 先の「偏向問題」で世論の前に後退した自民党が「拒否権を学生に与えるのは条例違反」と市議会で追及。教授会は確認書の拒否権から異議申立権を骨格とする改革案に後退、他方学生側は、拒否権を骨格とする六項日を提案 (69・1)。 これが紛争の火種となった。
教授会の話し合い拒否。これに抗議する学生のスト二月二五日から六回生、ニ八日から全学年、二月六日から院生・青医連の診療拒否、無期限スト)。
二月一二日、大学協議会(全学の最高決定機関)も学生の拒否権・対等参加を否定。 以降、医学部運営民主化は全学部運営の問題となり、二月一四日全学共闘会議(全共闘)のバリケードストによる教養部試験延期から封鎖が次第に拡大していった (二月二三日、紛争の発端となった医学部教授が辞職) 。
四月八日学長が、学生等との事前合議、異議申立権を含む 「大学改革について」の見解を表明したが、拒否権を要求する学生側の封鎖により新学期の授業は全面的にストップ。
以後、 一般学生の紛争解決を求める集会、教授会公開、 医学部教員会の当直拒否、などの曲折をたどりつつ八月三日の「大学法」 (後述)成立を経て、八月一四日、医学部教授会が大学法を背に「学部の存立があやうくなる」と強硬警告。
九月二二日、「赤軍派」(社学同赤軍派)の武装闘争「捜索」を名目とする機動隊が医学部バリケードに強行突入して一旦は封鎖を解除したが、 一七日、医学部共闘会議が再封鎖。 同月二六日大阪市議会で市長の責任を追及する緊急質問等で追い詰められた大学当局が、機動隊導入を決意。九月三〇日医学部、一〇月四日には大学本部などのある杉本町校舎に機動隊が導入され、封鎖を全面解除、一〇月二〇 日、半年ぶりに授業が再開された。

<阪大>
一九六七年一二月以来、 阪大生協の学外 (団地) 販売を巡る生協理事会と生協労組間の紛糾に絡み、 六八年五月、 労組を支持する反戦会議系学生による暴力事件が発生。
同月二七日、 無届集会による 「授業妨害」。大阪国際空港反戦デモを翌日に控えた六月二五日、勢力拡大を狙う中核派(革命的共産主義者同盟中核派)系の「外人部隊」(京都の学生)が阪大豊中の教養部になだれ込み、 阪大内の中核派と共に大講義室を占拠。
七月六日、 この三事件で大学が中核派系の三学生を処分。 同月の教養部自治会選挙では民学同(民主主義学生同盟) 系が執行部を握ったが、一〇月中核派系が独自に執行部をつくり、 これ以後中核派絡みの紛争が発生。
一二月五日、 処分撤回を要求する中核派が学生部を占拠。 以後中核系の全闘委 (全学闘争委員会) が大衆団交を要求して封鎖を拡大。
他方、六五年以来、医師制度改革の闘いを続けている医学部自治会、無給医員会、青医連が「統一要求実現共闘会議」を結成して、中核派とは別に医学部の改革闘争を展開。六九年三月、教授会公開、教授選考作業の中止等で前向き回答。
六九年一月一三日、 本館を職員の手で逆封鎖。 二〇日、総長出席の全学集会。 四月六日処分解除を発表(全闘委は白紙撤回要求)。 五月二四日、基礎工学部に機動隊導入。 駐留。 教職員・ 学生の導入抗議デモ、医学部教官会「機動隊駐留反対」声明。工学部自治会、医学部無給研究者、抗議の一週間スト。
九月一八日「産学共同」の寄付計画露顕。一一月一六日機動隊導入、封鎖全面解除。二四日、授業再開。ー二月六日~二〇 日、 団交要求で教養部自治会スト。

<大教大>
大阪教育大学は天王寺(本部)、池田、平野の三分校で構成され、主事の選出方法が民主化問題として常に紛争の種になっている (『大阪社会労働運動史』 第四巻一三二五頁参照) 。
一九六八年二月、各分校主事を従来の学長による任命制から教職員の選挙に改めたが、一九六九年一月一六日の選挙当日、構造改革系フロント派 (統一社会主義同盟系社会主義学生戦線) の学生が学生参加を要求して天王寺分校を封鎖し、選挙がストップ。 同日午後、学生と学長の話し合いが実現するまで選挙を延期することを大学側が約束して封鎖を自主解除した。しかし、学生と話し合う予定の前日・同月二八日、学長が突然辞任。
二九日、全学集会で学長代行が陳謝したものの、民主化の焦点である主事選挙については話し合いが着かず、天王寺分校自治会が三〇日から無期限ストライキに突入してバリケードで本部を封鎖した。同日学長代行が過労で倒れて、学長代行代理にバトンタッチ。 二〇日、機動隊を導入しないと約束するが、ニ二日には代行代理もダウン。この年度内だけで大学責任者が六回も交代するという無責任体制と代々木系自治会執行部と全教科共闘連絡会議との確執が紛争をこじらせた。
二月二六日、天王寺分校再封鎖。団交拒否、封鎖実力解除(四月一日)、「教官つるしあげ」事件(四月二日)とエスカレート。
五月六日、天王寺分校スト解除。同月一九日池田分校封鎖、五月三〇日、「改革長期計画案」発表。
七月九日、池田分校に機動隊導入・封鎖解除。一〇月六日、紛争六代目の学長代行の話し合い路線を教授会が否決。
一〇月二五日、機動隊導入により全学封鎖解除。一〇月二七日から授業再開。

<外大(大阪外語大学)>
一九六九年一月二〇日、反代々木系学生が本館を封鎖、「外人部隊」がこれを支援。 「東大共闘会議の提起した問題を、全国に波及させなければならない」と呼びかけ。 (『朝日新聞』, 69・1・21)、翌日教職員・学生が封鎖解除(後再封鎖)。
この時期どの大学でも、 代々木系と反代々木系の学生間の確執が見られ、一般に代々木系が穏健・収拾路線もしくはバリケード反対・封鎖実力解除路線をとって反代々木系と対立し、 時には「武力」衝突も発生している。
外大では代々木系の力が強く攻撃的で、大学改革、学長選参加を巡る闘争で全闘委としばしば衝突し、重傷者も出た。五月二〇日、両派乱闘。全闘委校門にバリケード。翌日一部解除。
六月四日、研究室封鎖。六月六日、両派乱闘。七月一日また衝突。重傷二人を含め二六名けが。二日、機動隊導入、封鎖解除。 (再封鎖)二〇月二日、機動隊導入、封鎖全面解除。 一三日から授業再開。

四、 高校の闘争

1 六八年秋から始まった高校紛争
一九六八年秋から七一年春までの間に、なんらかの紛争で朝日新聞紙上に校名が出た高校は次の三六校である 。
大教大池田(国立)、市岡、阪南、茨木、茨木工、東淀川、高津、池田、豊中、島上、清水谷、春日丘、旭、泉尾、淀工、住吉、桜塚、生野、富田林、大手前、河南、北野、夕陽丘、八尾、布施、枚方、泉陽(以上府立)、汎愛、此花工、淀商(以上市立)、尼崎、尼崎北、尼崎西(以上兵庫県立)、尼崎城内(尼崎市立)、桃山、浪商(以上私立)。
この内、 占拠・ 封鎖があったのが一九校、 警察が介入したのが九校、生徒の処分や逮捕があったのが一五校。紛争は公立高校に多く発生した。

2 紛争を誘発した府教委通達
大学の学園闘争が一九六七年頃から始まったのに対して、高校の学園闘争は少し遅れた一九六八年秋頃から始まり、大学の闘争が「大学法」で終息させられた後も七〇年初めまで続く 。
六七年秋頃から反戦デモに個人的に参加する高校生が急増したが、これを府教育委員会が六八年九月一八日の通達(l)で(また文部省が「見解」で)禁圧しょうとしたことが、逆に潜在する管理教育への不満を呼び覚まし、政治活動に参加したことのない一般生徒にも深刻な衝撃を与えた。
大阪に於ける高校紛争のほぼ全てがこの「九・一八」通達後に発生し、これを巡る紛争には「九・一八通達事件」の異名が与えられたが、 紛争校のうちこれと無関係なのは例外に属する。

(1)「(大阪府教委の)通達は①各学校で生徒指導体制を確立し、教職員間で生徒指導上 の共通理解を深め、校長を中心に、全教職員をあげて指導にあたれ ②一人一人の生徒に、教師との人間的接触を深め、家庭との連絡協調を一層密にせよ ③ホームルームその他集団指導に当たって集団の中の個人の責任を自覚させよ ④生徒が個人として政治的集会等に参加することは、社会的経験に乏しく、判断力の未熟から過激な行動に走り、不測の事故などを起こすことも予測されるので、参加することのないよう指導せよ ⑤万一こうした行動をとった場合は、教育的な配慮によって、本人の反省、自戒を促し、再び繰り返さないようつとめよ」(『朝日』 68・9・l9)
「近く、高校生の政治活動を禁止する文部省通達がでる。その基本方針は–学校外の政治活動は教育的な観点から原則として禁止すべきである。 ②政治的なデモ、集会への参加は認められない。 ③デモ、集会に参加し、違法行為をした生徒に対しては、学校は処分を含めた適切な措置をとるべきである。」(『朝日』 69・10・31)

3 深まる師弟の相互不信

<市岡高校の紛争>
一九六八年九月二日、府立市岡高校の校長室がヘルメット生徒に占拠され、大阪の高校紛争がこの日から表面化する。府立高校長会の制度委員長である市岡高校の校長が府教委の指示を受けて、校務分掌の職員会議公選制を廃して校長任命制に変えようとしたことが発端である。市岡高校の紛争は一〇日後に校長が任命制を一旦断念することでひとまず鎮静化する 。

<高校生の活動取締方針>
教員の学校運営民主化運動に対する攻撃と、生徒の政治活動等を取り締まる府教委の 「九・一八通達」とは表裏をなすもので、高教組は、校長任命制に対し、生徒は通達に対し、共に高校教育の反民主的な官僚統制に反対する。
六八年二月、府立高等学校校長協会は、府下全府立高校約一〇〇校の生徒と教員の政治活動調査と活動家について、①活動家学生の派閥構成と各派の人数・氏名、②生徒自治会・ クラス集会・文化サークルの思想的な傾向・活動状況、③文化祭・体育祭・卒業式での゛造反゛の傾向、④生徒の政治活動を指導している教員の人数について調査の通達を出していることが判明して、 府高教組が二月上旬に抗議したという (『朝日』69・11・7夕刊)。

<教師と活動家生徒の対立>
しかし、 それにもかかわらず、師弟の信頼関係は既に崩壊していた。
活動家生徒は教師を抑圧者と捉え、一方教師の側においては共産党の影響力が強く活動家生徒を「暴力集団」「トロツキスト」と排撃する風潮が見られ、セクト的対立感情が生徒と教師の相互不信を増幅。大教組の沖縄返還要求集会に一部セクトの高校生が乱入して教師に負傷を負わせ (69・5・31)、告訴騒ぎを起こしている。

<お仕着せ管理と選別>
市岡の校務分掌問題は一応鎮静化したが、学校と教師への不信、取り締まり的生徒指導や卒業式等のお仕着的管理と進学中心の選別に対する不満は各学校に共通のものである 。
一九六九年二月二四日、府立東淀川高校の三年生は「自分たちで作った答辞を、自分たちで選んだ朗読者に読ませよ」と抗議集会を開き、学校側指名の答辞者朗読の際には卒業生全員が座って抗議の意思表示をし、その後生徒側が選んだ朗読者を出すことを決め、翌二五日の卒業式に決議を実行した。 (l)

(1)「能力別学級編成は学歴偏重に起因する大学受験の激化に対抗すべき策として当然といえば、当然かも知れません。しかし、それが正しいか否かということは別問題です」 「これでは先生と生徒の心のふれあいがなくなり、あの入学当時の胸をふくらませていた私たちから、次第に遠ざかってゆくように思えるのです。」一東淀川高校の自主答辞一 (『朝日』 69・11・1)。

同月二八日、 府立茨木工業高校では学校指名者の答辞が終わると、進学組に対抗して就職組の生徒が 「いまのは優等生の答辞だ。 劣等性の答辞も読ませてくれ」と呼びかけ大半の同意を得て独自の答辞を朗読している 。

<多様な紛争の火種>
このように高校紛争の火種は、府教委の「九・ 一八通達」(文部省見解)、処分、掲示検閲等の校則、卒業式・終業式・文化祭・体育祭のお仕着せ、生徒会の御用化、能力別学級編成、テスト第一主義、同和教育、育友会・PTA会費問題など多岐にわたった。
生徒の教育者に対する不信は、単にその管理・統制的姿勢のみならず、人間性にも深く及び、労働組合への姿勢も問われた。
一九六九年二月一三日、大阪総評が「佐藤訪米抗議・安保廃棄・沖縄奪還統一行動大阪大会」を開いたが、この闘争への日教組組合員としての参加をめぐり、富田林高校で生徒会主催の討論会が開かれ(13・14日)六〇人の先生一人ずつの参加・不参加の理由が追及された。 「憲法で保障されている人権を認めない地公法をどう思うか」「ストに参加せんでも、ストをした先生たちのおかげで賃金はあがる。自分だけなにもせず、ぬくぬくとしているのはおかしい」(『朝日』69・11・l5)。
そして生徒の不信は親にも向かい、経理問題も姐上に上った。同年九月二二日、泉尾高校で、百数十万円に上る PTA 会費が、先生のヤミ手当として支給されていた問題で生徒集会が開かれ授業取り止め。
一九七〇年一月一〇日から、尼崎市立城内高校 (定時制)で①民主教育の徹底 (あらゆる差別をなくす) ②授業内容の充実 ③育友会の経理公開で授業ボイコット。 枚方高校の生徒会が行った校長不信任(70・2・11) で全員投票により追求した一項日は学校経理の公開である。
こうして高校の学園闘争は、一九七一年秋まで尾を引くが、紛争がもっとも長期に及んだのは東淀川高校であった。紛争が始まったのが六九年の二月。封鎖・処分・機動隊導入、民族派生徒の闘争派生徒への鉄棒による暴行などを経て鎮静したのは七〇年七月であった。

4 学生運動各セクトの働きかけ

<セクトによる組織化>
東淀川高校の卒業式と同じ二月二五日、府立茨木高校、同阪南高校では大阪で初めての高校封鎖が行われた。茨木高校では「反戦会議」 が卒業式の自主運営を要求し、学校と生徒会との話し合いで卒業生全員のアンケートに基づく答辞作成委員会(「反戦会議」が大半を占める)で文案をつくったが、上部機購にあたる学級代表が「文章になっていない」と不採択。「反戦会議」が他校生らの応援を得て封鎖の挙に出たもの。阪南高校でも「反戦高協」などが「卒業式粉砕」を叫んで封鎖を強行、 説得の校長に角材で殴りかかるなどした。
いずれも、卒業式をめぐる反抗だが、東淀川、 茨木工の場合は、生徒の決議や支持によるものであったが、茨木、阪南の場合には大衆的支持がなく、茨木では式後の卒業生集会で「封鎖した生徒らの行動は認めない」と確認した。茨木高校の場合は市大の学生が指導したといわれ、すでに一九六八年の10・21国際反戦デーのデモに参加した高校生は、反戦高協(中核派系)、府高連(社学同系)はじめ、反帝高評(反帝学評系)、大阪高校生委員会(革マル系)さらに民学同系の高校生グループなど合わせて約四〇〇人はいたといわれていた(『朝日』68・10・22) が、 六九年に入って上記のように惹起された高校紛争は、この様にセクトの働きかけで紛争に火を着けていくケースが多くなった。

<高校自治会連合準備会の発足>
そして一九六九年一一月二三日、反戦高協、ヤングベ平連などの府下公立、私立高校生一五八名によって『大阪府高校生自治会連合準備会』が結成された。この準備会は、七〇年安保闘争へ向けて、学校教育の一環である現在の高校の生徒会を変革して、生徒会を生徒の手に取りもどすのがねらいであって、この準備会は将来は個人加盟でなく、生徒会単位で加盟できるようにすることを目標としていた(『朝日』 69・11・24)。

5 現代の「女工哀史」–隔週定時制高校

<泉州の隔週定時制高校>
高校紛争の底には、学校が産業予備軍育成所になり下がっていることへの反発もあったが、産業社会に直接的に従属し悲惨な状況を生み出したのが、泉州地方の隔週定時制高校である。
一九六五年七月、大阪府教委は、「思い切った”高校教育の改革”」の一策として府後期中等教育審議会に次の諮問を行うことを明らかにした。
大阪府下泉州の企業地では数万人の女子従業員がおり、会社はそれに高校教育を受けさせたいと強く望んでいる。ところが紡績業はほとんどが早朝と午後の二交代制で通学は無理。このため早朝と午後の二次授業を行う定時制高校を設ける。現在府立鳳高校横山分校に対し地元の要望があり、さらに広い範囲で実施したい(『毎日』65・7・14)。

この時期、 安価な労働力として中学卒業生は金の卵ともてはやされたが、地方出身の中卒女子労働者を、早業、夜業の過酷な労働に従事させている泉州機業資本は「働きながら高校に行ける」ことを労働力吸引の目玉としようとし、府教委も易々としてこの産業界の要望に応えたのであるが、その悲惨な結果が七〇年春に露呈した。

<卒業生の不満>
三月一日、 府立鳳高校横山分校–隔週定時制–の最初の卒業生三一人 (入学当時は六八人) が巣立ったが、彼女らは答辞で「会社も、中学校の先生も、普通科定時制といいました。 なのに……。 早朝や夜遅くまでの労働。その合間の勉強。教育とは、隔定とはいったいなんだろう」「疑問はすぐ解けました。郷里を出なければ生活していけない中卒者。 それを人手不足の企業がねらい、つくったのが隔定だったのです。そこに教育の姿は見当たらなかった。やめていった人が多いのも当たり前です。」 (『朝日』70・3・2)
と積もる恨みをなみいる府教委代表や、会社の幹部に叩きつけた。彼女たちの標準的生活は府立高校教職員組合の調べによると
『早出勤務の週』 は朝四時半起床、五時–午後一時半が仕事。入浴、バス通学で三時一五分–七時二〇分授業。下校後、洗濯、復習で一一時就寝。『遅出の週』は、七時半に起き、午前中にレポートなど通信科目の学習 (火、金曜は通信スクーリングで登校)。 午後一時半–一〇時半まで仕事で午前零時に寝る(『朝日』 70・3・29) であり、教室はプレハブ、体育館は週一度しか使えず、授業も定時制より程度が低く、教科書は飛ばしがち、 クラブ活動も全日制に気兼ねしてグランドの隅でという”教育″であった。

<和泉高校隔定生の闘い>
このような現実を無視し、資本の意向を帯して、府教委は新学年から四つある隔週定時制高校の内二つの募集人員を一挙に倍増しょうとしたため、ついに彼女らの怒りは爆発した。
①増募の白紙撤回、②隔週定時制を普通定時制に移行せよ、③今春入学する後輩たちにも普通定時制を保証せよ、等の抗議・要求を掲げて同年三月三〇日朝、府立和泉高校隔週定時制女生徒約三〇人が府教委に押しかけ廊下に座り込みを行ったが、府教委は要求を拒否した。
四月五日、和泉高校隔週定時制の入試に在校生二〇数人が、増募に抗議し、「わたしたちは企業のドレイになりたくない」「後輩にこれ以上みじめな思いをさせるな」とシュプレヒコールをした。六日には同校教員約三〇人も裏門付近に抗議の座り込みをしたが、他方、 森田紡績 (和泉市) では労働組合が勤労生徒の普通高校定時制編入を協定化し、泉州労連が、参加二五組合で協約運動を展開した。
四月一二日、 和泉高校隔週定時制入学式での間借り授業、 授業時間削減等の説明に、新入生も「入学前に説明がなかった」「全日制にはこんなしわ寄せはないでしょ」と怒り、生徒会は隔週問題を考える集会を呼びかけたが 「新入生は、式に出席した企業の人たちがせかせるように連れ帰ってしまった」(『朝日』70・4・13)。

五 過激な街頭の政治闘争(一九六八~七〇年)

(1)一九六八年の行動

<武装闘争化の動き>
一九六八年から七〇年にかけて原子力空母–エンタープライズ寄港阻止闘争、ベトナム反戦闘争、日米経済委員会反対闘争、沖縄返還闘争、七〇年安保闘争、入国管理法改悪反対闘争および学園闘争に対する弾圧法としての「大学の運営に関する臨時措置法」 反対闘争などがある。
これらにおいて、街頭闘争は一層過激となり投石、ゲバ棒(角材一時には鉄パイプ)、火炎瓶が使われることもあり、その「武装闘争」の中から、「赤軍派」等の武闘組織が発生し、爆弾によるテロルもあった。またこの時期から佐世保現地闘争にも参加するなど高校生の街頭政治闘争への参加も目立ちはじめ後の高校学園闘争 (前述) の活動家となる。

<六八年一月~三月 の行動>
六八年一月一七~一八日、ベトナム反戦闘争の一環として米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対し、現地に多数の学生が集合して激しく機動隊と衝突したが、このとき一月一五日、夜行列車やバスで関西から佐世保に向かった学生は三派系、 構革派、 代々木系を合わせて三百余人であった(『朝日』,68・1・16)。 同月一八日、大阪総評・ ベトナム反戦大阪実行委主催の「米空母エンタープライズ寄港阻止大阪集会」 (四〇〇〇人) には反代々木系府学連が参加し、二〇日の共産党系安保破棄・諸要求貫徹大阪実行委の「エンタープライズ寄港反対緊急大阪府民集会」(三二〇〇人)には代々木系府学連(二一大学一七自治会)が参加した。
三月一日、代々木系府学連は、国鉄運賃値上げ反対で大阪駅デモ。
四月一九日、米軍の北爆即時停止、B52沖縄撤去の「全大阪青年決起集会」(二〇〇〇人) に中核派を除く反代々木系学生が参加。六月二日、米軍戦闘機が九州大学工学部の校舎に墜落したのに対して同月七日、代々木系府学連一五〇名は抗議集会・デモを行ったが、 三派系は京都の行動に集中した。

<六八年 6 ・15闘争>
同年六月一五日、全国反戦行動大阪実行委員会のベトナム反戦行動は、御堂筋デモを巡って地裁が一旦許可したが、府警の即時抗告で出発直前に高裁が不許可とするなどで混乱。これの参加者七〇〇〇名のうち、反代々木系学生は二五七〇名 (内兵庫県から約四〇〇、 京都から五一〇 ) であったが (府警調べ)、 御堂筋で機動隊と激しく衝突し、負傷者は病院で手当を受けたものだけでも二〇〇名を越え、 現行犯逮捕は一二名に上った。

<ついに角材で 武装」>
六月二五日阪大豊中の大講義室を占拠 (阪大紛争の発端一前述) した中核派が二六日、大阪空港軍事使用反対デモを行ったが、これに阪大一般学生約八〇〇人も追随し一千名強となった。六月二八日、アスパック(アジア太平洋地域閣僚会議)粉砕を叫び、革マル系、三派・ 社学同系(京都、和歌山等も含む)と地区反戦青年委員会さらに「府高連」も加わり、御堂筋デモを行った際には、学生は角材で「武装」(大阪では初めて)し、ゲリラ的デモで機動隊と衝突、負傷二〇九名逮捕三一名全員送検。 後、学生三人(京大、同志社、市大) に凶器準備集合罪が適用された。
八月一七日、 関西べ平連、 全大阪反戦青年委、 ベトナム反戦大阪実行委共催の大阪空港軍事使用反対デモ五〇〇人。 中核派約九〇名は別行動をとり、新明和工業に突入、 四四名逮捕。

一〇月二一日、「10・21 反戦国際統一行動」 が扇町公園で開かれ、 御堂筋のデモコースに加わった反代々木系学生約三千人 (京都からも結集) の内中核系、 社学同系、 社青同解放派等が機動隊と各所で激突。解散時には、民学同、社青同など一〇〇〇人も大阪駅で集会。高校生約四〇〇人参加。負傷者一五四人(朝日新聞調べ)、逮捕者九三人。社学同系府学連委員長も逮捕。代々木系府学連は共産党系独自集会に参加。ー二月二〇日、米原潜佐世保寄港で「原潜寄港抗議府民集会」(扇町)、社学同、民学同、反戦高協など学生二〇〇人余を含む一五〇〇人がデモ。

(2)一九六九年の行動

<六九年–沖縄、安保>
一月二八日、「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」に反対する反代々木系京都府学連、京都・大阪反戦青年委員会の「全関西青年学生総決起集会」 (三〇〇〇人) がデモ、 約五〇人が負傷、逮捕三二人。 代々木系は安保廃棄京都実行委員会の独自集会に参加。
沖縄返還「四・二八」闘争に向けて四月二六日一五〇人の高校生が集会、デモ。ニ八日には反代々木系学生約千人が中之島公園で集会の後、「沖縄返還、安保破棄大阪府民大会」 (大手前) に向けてデモ、途中十一人逮捕、府民集会は約二万人、学生は約三八〇〇人((京都、神戸と高校生を含む)参加、デモで七人逮捕。代々木系学生は共産党系の独自集会「四・二八大阪集会」(四五〇〇人) に参加。

<「大学法」反対闘争>
長期化、深刻化する学園闘争–大学紛争–に業を煮やした、政府・文部省は四月三〇日の中教審の答申を受けて、「大学処理法」立法化を計画、五月二四日に「大学の運営に関する臨時措置法案」を国会に上程した。この法律案は、紛争が半年を越えれば休校、九ヵ月を越えれば文相の機能停止命令(閉校)、一年立てば廃校、収拾に非協力の教官は排除、紛争中の賃金カット等、学園闘争を鎮圧すると共に大学の官僚統制を意図するものであった。
これに先立つ二三日を、「全学連」各派は統一行動日とし、紛争により既に無期限ストあるいはバリケード封鎖を行っている大学では集会、代々木系が強く封鎖などが行われていない大学ではストライキが全国的に行われた。大阪では、代々木系府学連の関大の自治会の一部と府立大、府立女子大、大教大池田、大外大などがストライキ。それまで紛争の形を取っていなかった大学にも紛争を広げた。 (この段階での全国の紛争大学数は警察庁調べで、 国立五三、公立八、私立二四計八五校)
七月二日の「大学法案反対」社共共闘などを経て、紛争校の教官・学生を含めて全国、全大学に反対の機運が高まるが、七月二四日衆議院文教委員会強行採決、衆院を経て、八月三日、参議院本会議強行採決で成立。
八月四日強行採決に抗議し、全共闘・反戦青年委が大阪城公園で「大学法粉砕全関西労学集会」(六〇〇人)後、御堂筋デモ。代々木系府学連は大手前公園で「大学法粉砕決起集会」(二〇〇人) の後、共産党系の大学問題大阪共闘会議・ 安保廃棄諸要求貫徹実行委の集会 (一七〇〇人) に参加した。
五日、大阪駅で「大学法強行採決労学市民抗議集会」 (中核系約二〇〇人)が座り込み、機動隊、鉄道公安員と衝突、二五人逮捕。

<六九年夏から年末までの反安保闘争>
六月一五日、全大阪反戦青年委、京都反戦青年委、 関西べ平連共催の 「反戦・ 反安保・沖縄闘争勝利六二五関西総決起集会」に近畿、北陸、 四国等からも結集 (六〇〇〇人一府警調べ)、御堂筋デモで機動隊と衝突、負傷三〇人以上、逮捕六八人。 同月二三日には反安保大阪府民共闘会議主催の「六・二三安保破棄・沖縄奪還大阪府民集会」 (九二〇〇人–府警調べ)に反代々木系学生も参加。この日は機動隊との衝突もなく平穏に終わった。
反安保闘争は、一〇月二日の反安保府民共闘の集会 (三〇〇〇人)、一〇・二一の国際反戦統一行動日には、反安保共闘の集会・デモ (五万人)に、反代々木系学生も参加。 代々木系府学連は天王寺音楽堂で三五〇〇人。
一一月一三日、大阪総評主催の反安保集会(三万人)が扇町公園で開かれたが、同公園で平行して開かれた全大阪地区反戦連絡会義、全関西統一スト実行委主催の「佐藤訪米実力阻止、ー一 ・一三全関西労学市民総決起集会」(七〇〇〇人) 参加者が火炎瓶を投げて機動隊と衝突、逮捕された学生 (岡山大) が棍棒様の鈍器で殴られて生じた頭骸骨骨折で翌日死亡 (逮捕した機動隊員が寝屋川署勤務であったことから、後にこの事件の報復と推定される寝屋川署爆破事件が起こっている)。

(3)七〇年反安保での学園ストライキ
四月二八日の沖縄デーに扇町公園で開かれた反安保府民共闘主催の集会(一万五〇〇〇人) に反代々木系学生ら約三五〇〇人が参加。 代々木系府学連は大外大で八百人の集会後、 共産党系の「国民大行進歓迎七〇年大阪集会」に参加。
六月一二日、反代々木系の「全関西労学総決起集会」 (六〇〇〇人)が扇町で開かれ御堂筋デモ、衝突なし。 翌一三日には共産党系が同じ場所で「全大阪青年学生総決起集会」 (九〇〇〇人)を開き御堂筋デモ。 一五目には、革マル系等の「全関西学生総決起集会」が一五〇〇人、中核系等の「関西統一行動」が一五〇〇人。 六・二三前後の自治会の反安保ストライキは、市大全学部一五~二三日 。 阪大教養部、法、工学部二〇~二三日、理、歯学部が二二~二三日。工大二三日から三日間。 大外大一九~二五日。 府大、 府立女子大二三日。 大教大平野、 同天王寺や府立社会事業短大、千代田短大でもスト、 集会など。
六月二三日、反安保大阪府民集会(靭公園)八万五〇〇〇人に反代々木系学生も参加、工大全闘委が社会党参議院議員の藤田進学長による処分に抗議して演壇前に座り込み。代々木系府学連は共産党系の総決起集会 (大阪城公園) 八万人に参加。 高校でも三〇校で抗議集会や授業ボイコット、デモ等を行い、府教委では代々木系・反代々木系合わせて約二五〇〇人がデモに参加すると推計。
九月一日、 出入国管理法案国会上程阻止、入管体制粉砕などをスローガンとする「関東大震災在日朝鮮人民在日中国人民虐殺四七周年全関西総決起集会」が天王寺音楽堂で開かれ、反代々木系学生を含む二三〇〇人が難波までデモをした。

六、余鑑収まらぬ学園闘争

1 一九七一年の行動

<沖縄返還協定阻止闘争等>
高校の紛争も下火になったが、七〇年三月二五日の卒業式では、府立枚方、高津、豊中、住吉、生野、 富田林、 天王寺等でビラ撒きや少数のヘルメットデモがあった。
沖縄デー目前の四月二五日、革マル系が大阪城公園で一五〇人、関西各地の中核・学生インター・フロント・プロ学同・反帝学評など八派が扇町公園で二〇〇〇人、それぞれ集会とデモ。四月二八日の反安保府民共闘の扇町集会・デモ(五〇〇〇人)に、反代々木系学生も参加。 平穏に終わる。五月一九日、関西各地の反代々木系学生約一五〇〇人が京大に集合し円山公園で 「沖縄返還協定阻止」の集会の後機動隊と衝突、ー二六人逮捕、負傷者約一〇〇人。五月二八日、「沖縄返還協定粉砕全関西統一行動」に反戦青年者や学生二〇〇〇人が参加、御堂筋デモで一〇人逮捕。五月三一日~六月四日まで桃山学院大がスト。
六月一五日、「沖縄返還協定調印阻止全関西統一行動」 (扇町) で三〇〇〇人がデモ。 一五~一七日まで阪大文、基礎工、教養スト、 医学部も一五・一七日スト。市大教養は一五日から三日間スト。一七日には府立女子大、大教大天王寺分校、関大商・工・法・社会各部もスト。
一七日、 共産党系の「危険で屈辱的な沖縄協定調印抗議六・一七緊急集会」五〇〇〇 人以上に代々木系府学連も参加、中央郵便局前までデモ。

<沖縄協定批准阻止闘争>
一〇月五日、「沖縄返還協定反対、完全返還をかちとる大阪府民集会」に民学同等も参加四〇〇〇人がデモ。ー八日、市大で学生大会の日取りをめぐって対立していた民学同系に革マル系等が実力阻止に出て乱聞、ー二人が重軽傷。
二一日、府大全学部、市大教養、阪大法、医、関大文がスト。この日中核系一八〇〇名、社学同系一五〇〇人等が独自集会やデモ。
総評系の集会にも学生五〇〇名が参加。これら反代々木系学生は全体で七六〇〇名となった。代々木系府学連は共産党系集会に参加。 沖縄ゼネストに呼応する二月一〇 日の総評系の集会 (靭公園)に約八五〇〇名が集まり、反代々木系も参加、御堂筋デモ。代々木系府学連は剣先公園で八〇〇人が集会、難波までデモ。
二月一七日、 沖縄返還協定強行採決。この日代々木系の安保破棄諸要求貫徹大阪青年学生実行委二五〇〇人が扇町で緊急集会、難波までデモ。ストは市大一八日から、関大社会学部一八~二四日、工大一九~三〇日、阪大医、理、大外大、府立女子大、府大経、工なども。一九日、全国統一行動の「沖縄返還協定批准阻止、強行採決抗議、佐藤内閣打倒、国会即時解散要求大阪府大会」 (三万六五〇〇人) に反代々木系学生も参加。 京都から来た約一五〇人が大阪駅周辺で独自の火炎瓶闘争。 代々木系府学連は剣先公園で「全大阪学生総決起集会」(九〇〇〇人)の後御堂筋デモ。
一二月一日、 大阪市が中国人保母の解雇を行ったことに抗議し、学生約三〇人が市役所に押しかけ揉み合い。

<大数大入試で障害者差別>
七一年五月二〇日、小児麻痺後遺症で右手が不自由な受験生を体育が出来ないとの健康診断を理由に不合格とした障害者差別に抗議し、大教大でハンスト。以来、「入学時の健康診断は身障者の不合格を前提にするものだ」とする学生の追及で紛糾が続き、 二月一三日同間題を話し合う全学集会を開いたが、大学側が健康診断撤廃を拒否。「全学の合意が得られないまま入試要綱決定の時期にさしかかり、緊急に大学の方針を決定しなければならない」ことを理由に同月二四日から一二月四日までの長期休講を大学側が強行。池田分校をロックアウトしたが、登校した学生が学内に立ち入ったと機動隊を導入。二日から天王寺分校がストに突入、池田分校も同調し一四日から無期限スト。七二年二月の期末試験も延期、三月の卒業式を中止し、入試もロックアウトで実施、四月には池田分校でバリケードも。

2 一九七二年の行動

<学費値上げ反対>
七二年初めから国公立私学を問わず授業料値上げ反対闘争が起こり、学園闘争以来のストやバリケード等紛争が多発した。
一月一三日、学費値上げ反対で関大封鎖。一四日、代々木系府学連も一七日から署名、 デモなどの行動を起こすことを決定。二〇日阪大教養部無期限ストに入り封鎖。ニ二日、 関大に機動隊導入、ロックアウト。二四日、革マル系が市大教養部を封鎖、三一日から無期限スト。
二六日、 電気通信大も授業料値上げ反対、経理公開で無期限スト、卒業試験も延期。 二月八日、大外大二部も二月末までのストに突入。二九日阪大封鎖解除、二三人逮捕、 同日法学部自治会が学年末試験ボイコット決定。四月一三日、阪大期末試験で教職員と揉み合い。一般学生多数がボイコットしたため延期、七月一七日にようやく試験。

<市大工学部の学位論文紛争>
七一年の工学部博士論文審査で二名が不合格とされた。その後、再審査の結果一名は合格となったが、 残り一名 (井関進) が受理を見送られていた。この措置には六九年当時の学生運動で急進的な行動を行ったことが影響したと、七二年二月二一日から当事者の学生が座り込み。 同大の法、商、経等の教授を含む教官五八人が「工学部教授会に訴える」という公開文を出し、紛争は学内全体に拡大。工学部院生協議会が大学の見解を追及し、六月一三日工学部教授会が、陳謝、学外秘密教授会を自己批判、学部長、大饗教授等三名の辞任などの確認書を学生と交わし、一六日、学長が「大学側に重大なミスがあり、 きわめて遺憾だった」 と陳謝。 井関の論文を合格にした。
しかし、一一月九日、井関が自殺。これは大饗教授が井関は「精神異常」という意味の発言をし、強制入院させようとしたためと、ニ二日には五〇〇人が追悼集会。二九日、二〇〇人が教授会会見を要求。 ー二月一日工学部教授会と学生が団交。教授会は大饗教授の辞職勧告を正式決定。学部長代行の辞任等もあったが、二〇日、教授会は辞職勧告を撤回する高姿勢に転じ、翌七三年一月一七日工学部の学生・院生が二日間のスト。 同月二三日には工学部助教授・講師・助手で構成する助講会が学部長代行の辞任を要求、後期試験の監督を断ることを決めている。
結局七四年三月、教授会が再度全面的に謝罪し一応結着。井関の命日にあたる七四年二月九日に、かねてから設立を決めながら、学生、院生と話し合いが着かず遅れていた、井関基金 (教授が毎月千円づつ三年間拠出) を設立、水俣病患者支援の運動に使うことが決められた(なお大学教授はその後、 筑波大学に移籍した) 。

七、 衰退する学生運動

1 一九七三年の行動

<授業料闘争でスト>
授業料値上げで紛糾中に、大学側が自治会役員ら活動家約八〇人の写真入りブラックリストを作成していたことが判明し、七三年一月一六日から、工大二部が無期限スト。後期試験も延期。
同月一二日電気通信大高校生徒会が授業料値上げ撤回を要求し授業をボイコットして総決起集会。一三日学校側が休講措置。二三日から一週間市大教養部が授業料値上阻止でスト。同日工大二部ストライキを解除。市大は二月一日から全学スト、後期試験延期。結局市大の授業料値上げは見送り 。

<高校生の紛争>
二月四日、浪速高校教諭宅で爆弾が破裂。卒業生ら三人逮捕、教諭の補導への恨みと自供。三月府立守口高校、君が代などなし、自主制作の答辞で卒業式。他方、住吉高校はヤジや花束放棄。その晩窓ガラス等を壊した卒業生二人を処分。 市大、学生乱入で卒業式中止 (二年続き) 。
四月二日夜、伊丹市立高校 (定時制) で、生徒との学校正常化の約束が守れないと全教職員が辞表提出。授業を休んだり 遅刻の多い教諭批判から「定時制生徒を軽視している」と話し合い。生徒の主張を全面的に認めたが当該教諭の転勤で生徒の信頼を失ったため。
五月一七日、私立興国高校で民主化を要求して生徒一〇〇〇人が騒ぎ、このあおりを受けて教職員組合が一八日に予定していた春聞要求のストを中止。 理事長が生徒や教諭を告訴、これに抗議して教職員・生徒が三〇日から同盟休校。 同窓会長の仲介もあったが、 理事者側が強行姿勢を崩さず、府の行政指導の約束で六月一八日から授業再開。

<筑波大学法などの闘い>
筑波大学法案に反対して七三年五月一七日から一週間、 阪大教養部がスト。市大教養部も一五日スト。代々木系府学連も一七日、三〇〇人の集会。六月一四~一五日市大がスト。
六月二三日、反安保大阪府民共闘の集会(扇町)で安保条約反対、国鉄運賃値上げ法案抗議とともに、 筑波大法案反対などを決議した。
七月九日通信制の府立桃谷高校生徒会一五〇人が、校舎立替えの約束がホゴにされた、通信制を軽視していると、府教育次長を追及し、七四年一〇月一三日にも同問題で五〇人がデモを行った。

2 一九七四年の行動

七四年一月二八日、 代々木系府学連ら六団体の学生生活危機突破大阪実行委員会が折からのオイルショックで紙製品工業組合にノート不足を訴えた。
一月三一日、 市大でノンセクト学生らが新案建設を要求して封鎖し、二月六日、電気通信大高校が入学金、授業料値上げ反対で授業ボイコット(一〇〇〇人)した。
四月一〇日、 阪大入学式に電気料金問題などで寮生らが押しかけ、二三日にも寮生等が 「負担区分改悪阻止総決起集会」を開き学生部に乱入した。五月二七日、教養部がこの間題でストに入り、教養部などを封鎖したが、六月三〇日教職員が解除した。
一〇月一日から市大で、同窓会館の開館に反対して教養部を封鎖したが、同月三日解除された。しかしこの余波で教養部の前期試験は中止された。
一二月二日、関大で学費値上げ反対の抗議集会後事実上の全学ストに入った。同月一三日学生二千人と学生部長が団交した。学生部長と同代理四人が学生と話し合わない理事会の態度に怒り、辞表を提出した。
七一年以来、身障者入学問題の紛争が続いている大教大で一二月一八日学生約一〇〇 人が正門前に座り込んだが、機動隊に排除された。  (井上淳一)

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【投稿】90億ドル援助差し止め訴訟

【投稿】90億ドル援助差し止め訴訟
          市民の権利を侵害する東京地裁の不可思議な「イヤガラセ」

1.ことの発端と経過
新聞やテレビのニュース番組などで「永田町の論理」という言葉はよくきくが、裁判所にも市民の論理とはかけ離れた「独自の論理」が存在することを初めて知らされた。・・・・すでにマスコミ報道などでご存知と思うが、ある市民団体が起こした90億ドル援助差止訴訟に関する例の一件である
(前々号の「青年の旗」で、この訴訟が起こされるに至る経緯は簡単に触れられている)。この件に関しては、若干分かりにくい点があるため(実は筆者自身がよく分かっていない)、整理するためにも、日記風にことの発端と経緯を綴っていきたい。
3月4日 「ピースナウ!戦争に税金を払わせない市民平和訴訟(以下市民訴訟と略称)」は、岸戦争での90億ドル追加支援支出は平和憲法の精神に反するとして市民571名の原告をもって政府に支出の差し止めを求める訴訟を起こした。民事訴訟では、訴訟の目的の価額に応じて裁判所への手数料が決まっている。市民訴訟側は「請求が認められても、原告が得ることができる直接の経済的利金は算定不能」な場合の法定額95万円を全員一括の訴額とし、それに見合う手数料8200円の収入印紙を書類に貼付して裁判所に提出した。
3月29日 東京地裁民事二部から「訴額の算定について」(日付は3月20日)と題する裁判所見解が市民訴訟側に郵送で送られてくる。以下原文を転載すると・・・・・・
「一般に、請求の原因となる原告の被告に対する権利が財産上の権利であるか否かにかかわらず、当該請求が、被告に対して第三者に対する一定の金銭の給付等(又は給付しない等という不作為)をすることを求めるものである場合には、右の給付等に係る金銭の額を基準として訴額を算定すべきものとされている。(中略)右のような考え方を前提とすると、本件請求の趣旨第一項の破告国に対して90億ドルの支出の差し止めを求める請求については、右90億ドルをもって訴額算定の基準とすべきこととなるのではないかと考える。(中略)本件請求の趣旨一項及び二項の各請求が、各原告個人に固有の人格権(又はこれに顆する権利)に基づく請求であることからすれば、右各請求に係る訴えの利益は原告ら各人ごとに個別に存するものと解すべきことになり、したがって、右各請求の訴額を、全原告を一括して95万円とすべきものとする原告らの主張には、問題があるように考えられる。(以下略)」
…どうにも分かりにくい文章であるが、平たく解釈すると、「訴額は90億ドルを基準とすべきだ、訴えの利益は各人ごとに個別にあると解釈すべきだ」ということで、これに従うと、訴額は90億ドル×571人分で5兆1390億ドル(≒685兆円)、手数料は3兆4千億円という途方もない金額になってしまう。
4月22日 あまりに非常識な対応に市民訴訟側弁護団も反発、東京地裁民事二部に面会を申し入れるが拒否される。
5月7日 「訴額算定に関する意見書」を民事二部に提出して、同時に記者会見を行う。全国版の新聞に取り上げられたり、テレビニュースで特集として面白半分に扱われたりと、裁判所の常識はずれな対応が一躍脚光を浴びる。
5月15日 ついに沈黙を守り切れなくなった裁判所側が、市民訴訟側との会見に応じる。以下は東京地裁民事二部 涌井裁判長の釈明発言。
「誤解を解きたい。あくまで問題点を指摘したまでのことで、決してこのような算出方法で印紙を貼れと言ったつもりはない。意見をよく聞いたうえで、結論を出したい」「(印紙問題は)で撤回するとは言えないが、決して非常識な結論にはしないつもり」
5月27日 裁判所側、前記の見解を事実上「撤回」。しかし、「訴えの利益は原告・人ひとりにある」と言う立場は維持し、267万9000円(第二次提訴分を合わせると合計399万円)の手数料を新たに支払うよう追徴命令を出す。
6月1日 市民訴訟側、原告団会議を開催。対応を検討し、「それでも高額で、裁判を受ける権利を奪うもの」と反発はしつつも、これ以上裁判の本質からはずれたところで争っても時間を浪費するだけという見解から、第一回公判の開催を優先させるため、2人を残して569人が訴えを取り下げる「代表訴訟方式」に切り替えることを決定。追加手数料4000円を裁判所に納入。第一回公判に日程も9月初旬に決定し、それに向けての準備を進めている。

2.今回の事態の問題点
こうした「イヤガラセ」としか考えられない攻撃について詳しく述べる必要はないと思うので、少々私見を述べてこの文章のまとめとしていきたい。
・今回の東京地裁の攻撃は、誰が見ても「国の不利益になるような訴えはやめろ」という意味の「法律言語」なのだが、それにしてもあまりに荒唐無稽なやり方に、もう少し他のやり方もあったのではないかと他人事ながら心配してしまう。ただでさえ日本の裁判費用は日米構造協議で取り沙汰されるほど高いのである(ちなみにアメリカでは、どんな高額の賠償請求でも一律100ドルほどの手数料で裁判が起こせるという)。今回の問題が国際的な協議の狙上に上がればまた日本の立場は狭くなってしまう。そのとき槍玉に挙げられるのは東京地裁自身なのである。
・5月27日の追徴命令と同時期に、大阪で同様の訴訟を起こしている市民グループに対して同じ内容の追徴命令が出されている。それまで何のイヤガラセもしてこなかった地方の裁判所も東京と足並みを合わせるように攻撃を加えてきている。
今後も様々な横槍がこの訴訟に加えられるであろう。話には聞いていたが、実際自分が関わっている運動にこのような攻撃がかけられると、いったい日本の民主主義はどこに存在しているのかといまさらながら心が寒くなる思いである。
今後もこの裁判の動きを紙上で報告していきたい。
(東京G)

【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日

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【書籍紹介】日本資本主義論:二つの対照的な本

【書籍紹介】日本資本主義論:二つの対照的な本 
  『日本経済に学べ』ソ連・ミリューコフ報告、朝日文庫 91年2月20日発行450円
  『新版法人資本主義の構造』奥村宏著、現代教養文庫 91年2月28日発行640円

最近同時期に発行されたこの二つの書物には、実に興味深いものがある。両書とも、同じ日本資本主義というものを対象としながら、その結論はまるで対照的である。しかしながらその結論にいたる分析の対象、問題意識には、共通のものが存在している。
それは、株式所有と生産の社会化の問題である。論点は多々提起されているのであるが、株式の法人所有の問題にしぼって、この問題を考えてみよう。
まずミリューコフ報告であるが、これは89年11月と90年4月の2回にわたってソ連大統領府から日本に派遣されたソ連経済改革調査団が、ゴルバチョフ大統領に提出した日本経済報告の全訳である。全体の基調を貫くものは、「日本絆済に学べ」という書名そのものが示しているように、羨望とまでいえそうな日本経済への賛美論である。しかしこれは、ベレストロイカがカオストロイカと言われるまでに混迷している中で、いかに現在の困難を克服するかという、きわめて実践的で具体的な問題意識から出発していることからすればやむをえないものであろう。
ベレストロイカにとって、具体的で同時に自らにも批判的な分析を伴わないような、「先進資本主義国の管理システムに対する旧来の月並みで皮相な評価を克服すること」(同報告序文)のほうが重要性を持っているからである。

<十分に高い社会化>
同報告がまず最初に「日本の社会・経済システムの全般的印象」という項目の中で述べており、そしてそのことが日本経済の評価の非常に重要な柱になっていることは次の通りである。
「第一に挙げたいのは、日本の経済では「社会化」の傾向が顕著だという点である。この社会化が見られるのは、何よりも生産の社会的性格の高度化、所有の性格の著しい変容に於てである。
‥日本では依然として私的所有が基本である。しかしながら所有の本質は、外見的な形態だけではなく、質的な変容を遂げているのである。
・・・…わが国にとって何よりも興味深いのは「株式所有」である。今日では株式所有は、形式的ではなく、実際的な生産手段の社会化を意味している。・…・・注意しなければならないのは、われわれが「私有化」「私的企業」という言葉を用いる際に、それを「ある個人の所有」という一面的な理解をしがちだという点である。諸外国の実情から明らかなように「私有化」「私的企業」という言葉は企業が国家に属しているのではないという状態を意味しているのである。
この点で日本経済の特殊性は、株式の70%が自然人ではなく法人により保有されていることにある。このことに注目するのは、こうした事実が、完全に「社会化」された所有形態ではないにしろ、諸条件を考慮すれば十分に高い社会化段階を意味するからである。」

<法人所有の実態>
ところで株式所有の実態であるが、89年度における日本の全上場会社の発行株式についてその所有状況を見ると、金融機関(投資信託を除く)42.3%、事業法人24.8%で、両者を合わせた法人の持株比率は67.1%に達している。これに対して個人の持株比率は22.6%である。ちなみに1949年度においては法人の持株比率は15.5%でこれに対し個人は69.1%であった。個人・法人の持株比率は完全に逆転してきたのである。一方、アメリカにおいては商業銀行は株式所有を禁止されているので、法人所有は事業会社所有の15%だけである。イギリスにおいては7.7%でしかない。(以上、奥村著による)
いかに日本における法人の持株比率が高いかということがわかる。もっともそのために、自然人が株式会社の出資者の座から追放されたわけではない。圧倒的大多数の中小株式会社の出資者は、いまなおそのほとんどが自然人である。中小企業や同族企業のオーナーが実際は個人の所有であるにもかかわらず、税法上の有利さから会社名義にしてあるものも存在しているが、株式所有の法人化という場合の主たる部分は、巨大銀行や金融機関、巨大企業への株式所有の集中である。その結果今では、全上場株式の7割近くがこれら法人によって所有されるという事態になっているわけである。

<法人化現象の根源>
さて、ミリューコフ報告でいう株式所有の法人化=社会化について、奥村氏はどのように見ているのであろうか。結論を図式化すれば、日本においてここまで法人化が進んできた基本的な理由は、系列ないしはグループの会社同士が相互に株式持ち合いを押し進めてきた結果である。それは、系列間取引とその中での支配力を高めるため、さらには乗っ取り防止策としての安定株主工作が広範囲に行われたことによるものである。
さらにこうした法人化を助長する独占禁止法の骨抜き(持株会社禁止規定の死文化、金融機関の株式所有の容認等)、法人所有を促進する税制(配当金に対する法人非課税原則等)が政府・財界の主導で執拗に行なわれてきた。奥村氏は次のように言う。
「そしてこの法人所有の増大は戦後日本の企業集中運動、独占化の運動から説明されるべきものである。“法人資本主義”といわれ、“会社国家”といわれる現在の日本の企業王国時代は、まさに戦後の野放しにされた集中運動、独占化の進展による大企業の支配体制の確立によってもたらされたものである。そしてまたこのことこそが株式所有における“法人化現象”の根源であった。」

<日本企業の努力目標>
ミリューコフ報告は、この法人所有が日本経済にたらすものとして、次のように述べている。
「日本の企業は、その所有者たる株主に最大の利益を保証するためにだけ活動するのではない。
日本の企業は、株主に対して義務を負う一方、自らの企業で働くとともに、広い意味では国家と社会のために勤務している労働者・職員の利益をも最大限に考慮すべく努力している。日本の企業は、短期的に利益を上げなければならないというプレッシャーの下に置かれながらも、長期的な展望をもって活動している。収益のかなりの部分が、投資や職員養成の資金として、また企業の将来の発展・成長のために留保されるのである。日本の経済関係の社会化は、分配システム(労働者の個人収入格差の縮小、社会保障の基金など)にも現れている。」
こうしたことがまさにソ連経済に欠落し、また直面している負の要因と対照的なものとしてとらえられている。

<「会社本位」資本主義>
ミリューコフ報告によれば、日本の法人化現象は民主的社会的に見えるのであるが、果たしてそうなのであろうか。奥村氏はこの点について次のように指摘している。
「他の資本主義国では見られないほど法人による株式取得が盛んに行なわれ、これによって企業間結合はおそろしいほど進行してしまった。このように企業間結合が進むとそこにはもはやビジネス・デモクラシーの原理はかけらもみることができない。銀行と企業は結合してしまって、そこでは特殊な取引が行なわれ、プライス・メカニズムも市場原理も働かない。・・・・こうして法人による、法人のための「全面的操作」が行なわれる時代になった。・・・・法人資本主義は一見強大な権力を持ち、極めて安定したかにみえるが、それはもはやローマ帝国末期と同じ状況にある。それは基盤のない砂上の楼閣である。
法人資本主義とはひと口でいえば「会社本位」の資本主義ということであり、その体制のもとでは富と権力は法人である企業に集中し、自然人はその法人に寄生することによってカを発揮する。それは株主本位、あるいは資本家本位ではない。・・・・・・それはまた従業員本位でもない。
企業は「日本的経営論」のいうような、従業員による共同体ではなく、「会社本位」のシステムのなかに従業員が丸ごと組み込まれ、内部化されているのであるが、「日本的経営論」者はこれを共同体と錯覚しているのである。」

<民主化と社会化>
以上、両書の問題提起をごく要約して紹介してきたが、これと関連して日本的な企業別労働組合の果す役割など重要な問題がどちらにも触れられている。
いずれにしても生産の社会化、さらには国際化が以前にもまして急速に進展している中で、それと両輪をなすべき民主化がまったく立ち遅れている、あるいは逆行していることは否定しがたい事実であろう。
そうであればこそ、両者の問題提起はいわば時代的な要請ともいえる。       (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日

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【報告】91フォーラム関西(第2回)開催

【報告】91フォーラム関西(第2回)開催

91フォーラム関西・第2回が去る5月日に開催された。より具体的な内容を扱っていくということで、「社会主義・その根源を問い直す-PART2」をメインテーマとし、「ソ連邦の現状と課題」「イタリア共産党から左翼民主党へ」「私にとっての社会主義とは」という3つのテーマで、4名の方から問題提起を受けた。
はじめに、阪大の藤本和貴夫さんから「ソ連邦の現状と課題」と題した報告があった。

★危機的なソ連経済
ソ連統計国家委員会発表によると、90年に、対前年比国民総生産が初めてマイナスを記録した(-2%)。91年の1~3月期の対前年比国民総生産も-8%という数字を示し、非常な勢いで経済が悪化している。インフレも30~40%ぐらい上昇しており、4月に値上げが発表されると、急カーブで買いだめが進んだ。保存が効くものでせいぜい3カ月くらいと言われており、買いだめの商品が底をつく夏以降に、さらにインフレが拡人していくものと思われる。

★政治勢力の3極分化
90年の4月から5月にかけて、ロシア共和国でエリツィン最高会議議長が、モスクワでポポフ市民が、そしてレニングラードではサブチヤーク市長が、というように、それぞれ急進派が、大都市において大衆の支持で権力の座についた。
また6月には、ロシア共和国最高会議議長をエリツィンと闘って敗れた、保守派のポロスコフを第一書記とするロシア共産党が創立された。12月の第4回人民代議員大会では、共和国と連邦の関係をめぐり、「主権ソビエト共和国連邦」という急進的改革派の路線が否定された。その結果、ゴルバチョフは保守派に足を乗せたと言われている。
9月に、ロシア共和国最高会議はシヤターリンの「500日計画」を採択したが、10月にソ連邦最高会議は別の案を出した。つまり、こうした政治勢力の3極分化のなかで、どちらの案も実施できない状態となっている。
ベレストロイカの進展にともない、所有法の制定や情報公開の問題は一定の前進を見せているにもかかわらず、経済は危機的な状態となっている。市場経済の導入に反対する勢力は、保守派も含めてほとんど存在せず、ゴルバチョフとエリツィンが手をつなぎ、経済政策を統一することが求められる。そういった意味で91年4月に行われた、ゴルバチョフ大統領とエリツィンをはじめとする9共和国指導者による「新連邦条約の早期締結と経済危機脱出の共同行動で一致」との共同声明は注目に値する。緊急経政策がうまくいくかどうかが、当面の重要な課題である。

★党と国家の分離
続いて、原則的諸問題として、いくつかの問題が提起された。
社会主義国、特にソ連では、党と国家が癒着し、国家の中に批判勢力がない。その結果、様々な弊害が生まれている。ロシア革命当時は一党独裁ではなく、内戦の過程で他の政党が消滅していったという特殊事情が歪曲された。党と国家を分離し、批判勢力を認めることで社会が活性化していく。

★所有制の問題
社会的所有は平等を保障したのだろうか。国有では誰も費任を持たないというのが現実であり、国有にしがみつけば打開はないというのが一致した見解である。私的所有とはいえない市民的所有は認められるのではないか。またどこまでを市民的所有というのかという議論が行われている。そしてそれに関連して、所有よりも運営の問題ではないかという議論も巻き起こっている。

★軍事問題の公然化
軍事問題は国家機密の問題となっていたが、89年から公開されるようになった。総予算中の軍事費の占める割合は、91年は、対前年比+36%となっており、軍事予算が高すぎるという指摘がなされている。
現在、徴兵は各共和国が行っており、共和国の独立・連邦の解体に関して、軍は非常な危機感を抱いている。改革派は、志願兵制や軍の編成の地域的原則の導入の問題を提起している。また軍と党の分離についても議論が起こっている。
さらに、民族主義間対立と連邦・共和国間の対立の激化の問題についても問題提起があった。
続いて、中央大学の片桐薫さんから、「イタリア共産党から左翼民主党へ」と還する報告を受けた。

★ソ連l東欧の激動とイタリア共産党の苦悩の選択
91年2月の第20回党大会において、イタリア共産党は党名を左翼民主党に変更し、路線も変えた。反対の代議員は、約1割であった。
87年6月の総選挙後に、共産党の看板を外したいとの意見も出されたが、89年4月の党大会では、栄光ある党名をなぜ変えなければならないのかとする書記長の発言は、満場の拍手を浴びた。
しかしながら、89年秋以降の東欧の激動、とりわけベルリンの壁の崩壊は事態を一変させた。スターリン批判が巻き起こっていた時代に、イタリア共産党は党員が2割も減少し、1年くらい政党としての機能がマヒしたと言われている。そして、今回の事態も対岸の火事とはとらえず、イタリア共産党がこれまで主張してきた民主主義と社会主義が問われているのであり、自分たちの存立そのものが問われていると受け止めたのである。

★閉鎖的なビラミッド体系の政党の崩壊
これまでと異なる党のイメージが模索されているのであるが、単一化・統一化という従来の閉鎖的なビラミッド型の組織形態は音を立てて崩れていっているのが、現状ではないだろうか。
ハイテクの時代、ボーダーレスの時代を迎え、重厚長大の時代の大工場組織から学んだ組織形態は時代遅れのものとなる。さらに、不断に遠心的・分散的傾向の攻撃にさらされている。単一政党による統一行動は困難となり、伝統的な中間政党は没落するのみである。

★新しい可能性の追求を
したがって現在は不安定的傾向は避けられないが、分散性を容認しなければ組織を維持できない時代となっている。
パートタイマー的政治関与をも包含するような簡易な組織。そして合意と協力に基づく、多文化で多民族なモザイク模様の新しい組織をめざさなければならない。
新しい時代に対応しうる新しいコミュニケーション、言葉、運動スタイル、求心性を探っていくこと。つまり新しい政治土壌、新しい文化を作り上げていくことが求められている。「分析や批判の能力は優れているが、創造力はない」という旧来の左翼の欠点の克服が大切である。

最後に、「私にとっての社会主義とは」と題して、2名の青年代表から報告を受けた。
★人権を認めあって開かれた論争を
Ⅰさんからは、行革や臨教審の闘いにみられるように、保守の側が現状の変革を訴え、革新と言われる側は現状の擁護しかできなかったように、今日、何が保守で、何が革新かということは、これまでの物差しでは計れない。
現状肯定の流れに徹底してつきあい、どうしても否定しなければならないものがあれば、それを究明し、何故に生まれるのか、自らのぎりぎりの力量で突き詰めることが大切である。
そのためにも、検討課題にタブーを設けることなく、自らの問題意識を公開し、世の中の批評にさらす。人権を認めあって開かれた論争、相互批判を知的に行うことこそトレンデイーだ、という問題提起があった。

★異なった意見の存在を認めた、共同の建設者としての考え方
Uさんからは、現実の社会主義には、党と国家の分離や複数政党制など、社会発展を健全なものとするための、人民のチェック機能である民主主義諸制度がなかった。
そして、日本のコミュニストの反省として、日常的な活動として広範な大衆運動の組織より、党的運動を優先してきたこと。唯一前衛党論や民主集中制にみられるように、異なった意見・立場の存在を認め合い、なおかつ共同の建設者として考える統一戦線的思考が根付かなかったことを挙げ、ベレストロイカから学ぶべきとした。
また、日本における民主主義闘争の課題として、即、政権論議ではなく、自民党政府をしてもとらざるを得ない政策と運動を提起すること。そして、統一地方選挙における社会党総評型候補の敗北にみられるように、縦型の運動形態ではなく、様々な個別の闘い、取り組みをつなぐ横型の運動形態の追求が課題となっているとの問題提起を受けた。その後参加者から、フォーラムの名にふさわしい活発な意見交換、討論が行われ、今後も自由な討論を保障していくために、このフォーラムを維持していくことを確認した。
(文責 大阪 T.0)

【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日

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『詩』  レクイエムを望まぬ人に

『詩』  レクイエムを望まぬ人に –プロフェッサーに捧げる–

                        大木 透

まるで収拾のつかない
雑然とした死が訪れた。
生駒山のふもとの
小さな街で
ひそかに
だが突然に。

彫像が
歯をくいしばるような
苦しみのなかで
必死で
縋りつこうとしていた。
ままならぬ現世は
やがて途切れ
薄まり
遠ざかっていった。

想えば
この幾年
世界を見つめる次元は
次第に膨張し
抽出されていった。
なにものかに向かい
理念はますます高貴になり
世界は
いよいよ
遠ざかっていった。

転生するパースペクティブ
ユニオンのスポットから
地球儀牢凝視する緊張から
もっとも
気風に合わなかった
孤独の時に
解き放たれた。
これは
至福のときであったと
思う。

三0年前の
中之島の興奪も消え
チエコ事件での
痛恨の抗議も
忘れ果てていた。

かって
「暗い絵」の主人公は
影響力の広がりに
無上の喜びを感じていた。
だが この時
沈黙また沈黙
動ぜず
叫ばず
ただ
解き放たれていた。

現世は靂憾したが
理念はますます
宙に舞い
リアリティも敵もない酔いは
いよいよ 深まった。

あるいは
これは
恐ろしいほどの
充電の時で
あったのかも知れない。
あるいは
この後
激しい放射が
準備されていたのかも知れない。

だが
突然の
整理のつかない断絶が
いっさいを消し去り
雑然とした放心だけが
寒さをつのらせた。


春が訪れ
魂の安らぎやいか。

どんなレクイエムも
望まなかった人。

どんな嘘もつけなかった人。

いっさいから
孤立することを
恐れなかった人。

この人に
誓いをたてる
なにが残されていようか。

やせがまんなど
一言なりとも
言ってはなるまい。
(1991.1.20)

【出典】 アサート No.164 1991年6月15日

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【案内】「土門拳のすべて」展へのお誘い

【案内】「土門拳のすべて」展へのお誘い

学生の頃、Aさんから 『筑豊のこどもたち』を見せてもらい、当時、新聞に係わっていた私は「ん-これだ」という感動を得たことを覚えている。『筑豊のこどもたち』(1960年発行)は家出して母親のいない炭坑住宅に住む一家の子供たちを中心に撮った、ザラ紙に印刷した百円の写真集で、10万部を突破するベストセラーとなった。背景に三池闘争の広範な展開があったとは言え、今でこそ写真集はやりであるが、当時のカメラの普及率を考えても大変な数だと思う。
その後、私はキャパの一連の報道写真に触れ、Hさんからユージンスミスの『水俣』を見せてもらい、「写真の任務は社会批判の精神だ」「リアリズム運動だ」と単純に感化されていた。その一方で晩年の土門氏は富士山、焼物、寺に多くの労力を割いており、やはり社会運動の弱まりに規定されるのか、などと不満を泡いていた(私の学生当時には、既に土門氏は病床にあり、レンズを見ることはできなかったが)。
土門氏は 『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』等の社会批判と古寺の記録の矛盾についての批判に対して、「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取り組むのも、奈良や京都の古典文化や伝統に取り組むのも、日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きく言えば民族の運命にかかる接点を追求する点で、ぼくは同じことに思える」(朝日新開1968.3.11)、と答えているという。
今回の写真展でも200余点のうち 『古寺巡礼』から50点以上とその多くを占めているが、今ではこの土門氏の言葉にむしろ共感できる視点があるように思える(遅かったかな?)。
昨年9月の土門氏の死を悼むと共に、今後の展の予定は下記の通りであるので顔を出して見てはいかがでしょうか。          (東京C)
(東京) 終ってしまった
(京都)1991年6月13日(木)~18日
会場 京都四条高島屋
(名古屋)1991年7月26日(金)~31日
会場 名鉄百貨店
(横浜)1991年9月12日(木)~17日
会場 横浜高島屋

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

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【投稿】人類全体の課題一地球環境問題(下)

【投稿】人類全体の課題一地球環境問題(下)

<平成3年度「環境白書」>
政府・独占の地球環境問題に対する取り組む姿勢は、平成3年度の「環境白書」と経団連の「地球環境憲章」に表れている。
「環境にやさしい経済社会への変革に向けて」をテーマにした環境白書(4月23日に公表)は、地球環境問題を従来の環境問題と併せて解決することが求められていると指摘して、都市・地域構造から交通体系、生産構造、エネルギー、生活様式まで社会構造そのものを環境保全に適するよう変革していくべきだと強調している。
特に、排気ガス規制を強化しても窒素酸化物(NOx)の環境基準達成が難しい自動車問題に重点を置いて、①電気自動車など低公害車の普及②自転車の利用促進③貨物輸送をトラックから公害の少ない鉄道、海運に移行する-などを提唱している。又、日本の生産効率の高さを支える物流管理方式の「ジャストイン・タイム」が少量多頻度輸送につながり、交通量が増大する原因にもなっているとして見直しを求めている。
経団連が決定した11項目にわたる「地球環境憲章」は、地球温暖化や廃棄物抑制など地球環境保全に企業がどう取り組むかの指針を示し、環境問題に関する経営方針の確立、環境問題担当役員の任命、環境、に関連する社内規定の策定と最低年1回の内部チェックなどを促している。国や自治体の環境規制よりも厳しい基準を自主的に設定するほか、熱帯雨林の乱伐やリゾート地などでの乱開発の抑止を呼びかけるなど、企業経営にある程度影響を及ぼしても、場合に寄っては生態系への配慮を優先しなければならないとの判断を示している。
今後は環境間麓を抜きに企業活動は成立しないとの判断をした。

<環境問題の本質>
地球環境問題は、生産第一主義的傾向が人類の生存のためには変わらざる得ない条件が発生してきたこと、もはや企業が利潤のみを追求する時代は終ったことを明らかにした。地球誕生から45億年の歳を経た現在、人類の生存基盤である地球環境は自然浄化作用の限界を超えて悪化している。かって、「熱核戦争か平和共存か」との命題が全世界を駆け巡った状況とは、本質的に異なる問題すなわち、生産によって引き起こされた地球環境破壊が資本主義・社会主義の区別無く問題となっているのが現実である。
更に特徴的なのは、現在の化石燃料の使用率が高い国家は、社会主義であると言った事実・また社会主義は、化石燃料及び生産原料の大きな輸出国であると言った事実である。今後、これらの克服のためには生産を牲牲にしてでも解決しなければならなくなるであろう。

これまでの経済学は、やはり基本的には成長理論あり、地球は無限(特に土地を)であると言うことを前提にしている。このため、資源、エネルギーを大量に開発、生産、流通、消費することを可能にした近代科学技術とその所産である物質文明は、結果として、公害を拡散して地球全体に広げ、環境が悪化すると言う状態を作り出した。
生産力の十分発達していない時代には、「生産条件」が「生存条件」(人類とその他の生物を支える自然と社会の環境)を規定していたが、今日両条件の間に深刻な矛盾が生まれている。「生産条件」優位の価値体系を築き、生産条件をプラスにするための手段を求めて狂奔してきた世界の国々に、そして企業の行為が、結果において「生存条件」を危機的水準にまで低下させてしまったのである。
これからは、人間が生活できる基本的な条件を満たし得る共同的な経済システムを目指すことによって環境と調和するような経済体制をつくっていくこが重要になってきた。技術的対策だけをやっていても社会システム、あるいは交通体系のほうをそのままにしておけば、結局同じことになってしまう。
今日提起されている地球環境問題(社会生態学)は、今までのように、世界を社会主義と資本主義の国家間の階級闘争としてのみ捉えるだけでは不十分であり、社会主義の発展が人類の発展と連動する必然性を社会主義と資本主義の共存の中で、資本主義の優れた技術・科学を自らの発展のために積極的に取り入れ人類の発展と存続のために社会主義が成長発展し、本来の理性の社会を創造する上に、避けては通ることができない課題として立ちはだかっているのである。
生産が高度に発展した資本主義も、地球環境問題によって一層変質せざるを得ない。(名古屋 Y)

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

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【投稿】河口堰を止める10万人のアクション–長良川DAY–

【投稿】河口堰を止める10万人のアクション–長良川DAY–
               現地参加報告 こんな楽しい運動もあったのか!

この連休にキャンプでも行こうかと思ってきたところへ,BEPALという雑誌で4月29日に長良川河口堰反対の現地行動があることを知り、これは面白そうだと(そんな軽い気持ちで)一度行ってみようと思い、参加をしました。

前夜 カヌーイスト300人がプレキャンプ
大阪から車で4時間走り、前夜の宿営地の長良川と木曽川の背割堤の松林に到着。早速受付をすまし、テントを設営。はじめて長良川にきたのですが、なかなかの景観、雄大な川のほとりで、自然を守れの意味もこれならわかるというものです。
午後8時からミーチングとのことで行ってみますと、だんだんと集まってきます。その数最終的には300人ぐらいかな(?)。
ミーチングと言うより集会と行った感じで、最初は「長良川河口堰に反対する会・東京」の方が、運動の現状みたいな硬い話をされました。
この運動がここ1年ぐらいで建設省と対等の立場で運動が盛り上がり、建設阻止できるかは現在五分五分まで来ていること、相模川など他の川問題での盛り上がりも出てきて、土建業者のための河川「整備」か、みんなの川をどう守るのかを大きな世論にしてきたこと、前環境庁長官をして運動の盛り上がりの中で長良川現地を視察させてきたことなどを報告されたように思います。
長良川は、日本で唯一ダムのない川で、カヌーでの川下りが可能で、かつ自然が残っている、その川を一番「知っている」カヌーをする人達が、この運動に火をつけたようです。東京の人の報告の後、皆さんお待かねの野田知祐さんの登場となります。
野田さんは、ここに集まった連中は別に革新でもなんでもなく、ただ自然をそのままにしておくべきだと思って、そして楽しんで参加している、だから強いんだ、それぞれのやりかたでやって行こうと言うような取り留めのない話をされたんですがこれでぐっと盛り上がってしましました。
次に、東京で相模川の河口堰反対の運動をしている人が現地報告をされます。そしてそこへ前環境庁長官の北川石松衆議院議員(大阪選出)が現れ、我々を激励の挨拶、これもなかなかのもの。
最後は、カヌーイストのローリーさんが、自分のカヌーに名前を書いてくれ、これを今度の建設省への行動にもって行くからと提案されると、みんなで思い思いに、名前を書きましたが、これもなかなかの盛り上がり。(この辺から私も酒が入り、初めてあった人と意気投合に!)
事務局からは、明日の行動の説明がありました。午後2時に参加者が思い思いの方法で河口堰建設反対をアピールしようと言うのが趣旨で、デモなんかより一人一人のやりたい方法で表現したいというのが狙いだとの説明。ここらでもう10時過ぎ、初めてあった人から明日カヌーに乗りませんかとの誘惑に耐え、ひとまず眠りにつきました。

雨も上がって、盛り上がる長良川DAY
アクションは思い思いに
4月29日朝9時30分にイベント会場に到着。事務局は路上駐車はしないようにと警告放送。チャンと警察の妨害が始まっていた。建設省も河川敷の集会には最後まで抵抗していたとも聞いていました。
朝からかなり強い雨で、会場は少し調子が悪かったのですが、なんと10時30分には晴れはじめ、なかなか調子がいい。挨拶にたった反対する会の代表の天野さんも、長良川の運動は絶対晴れると言っていました。河口堰建設が始められてから始まったこの運動が、だんだん現地の人々の中で生きづきはじめ、長島町の住民アンケートでも3割の人が反対し、町長選挙でも善戦をしたことなどが報告されました。 次に北川前環境庁長官が挨拶し、自民党から参加するなの圧力があったが、自然を守るのは保守も革新もない、市民の立場で考えてここにきた、明治9年に木曽川と長良川のあいだに背割堤をつくった先輩の苦労を考えれば、建設はやめるべきだと、なかなか戦略的な発言。(結構受けていました)
今度は、旭堂小南陵参議院議員がでてきて、全国の河川行政について、建設省を批判、農業水利の博士号だけあってなかなか詳しい。自分の問題にしている、なかなかこいつはやるな、次の選挙も行けそうと言う感じ。(翌日の赤旗は長良川DAYを報道しながら、小南陵さんの挨拶について、名前も報道せず、まさに真実を伝える新聞だけのことはある?) ここでも、野田知祐さんが出てきてひとくさり、だんだん盛り上がってきた。

カヌー700艇も反対の意志表示
バンダナ、凧、気球、鯉のぼり、仮装でアピール

いよいよ2時になった。12時に上流から出発した700艇約1000人のカヌー部隊も河口堰に近付く。怒りのシンセサイザーに乗って、全員が反対をアピール。カヌー部隊はパドルをかざし、みんなはバンダナをまわして、・・・こうして長良川DAYの一日は盛り上がったのです。

こんなスタイルの運動、なかなかいける!
主催した「長良川河口堰に反対する会」は、なかなかの強さ。それに何よりみんな楽しんでやっています。前夜の集会で野田さんが「ここに来ているのは楽しいから来ているんだ、それでいいんだ」と言っていました。私自身もその通りだと思う。
革新と言われる労働組合の姿もない、政党も大きな顔をしていない、汗をかいているものが楽しくやっている、住民の考え方も変わってきている、この運動なかなか面白いと思い、良い連休になったと感じて帰ってきた次第です。(大阪 H)

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

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【投稿】統一自治体選挙の結果と地方自治の展望

【投稿】統一自治体選挙の結果と地方自治の展望

統一地方選挙は自民党の大勝、社会党の惨敗で前半戦を終えた。
この中で最も注目されたのは、東京都知事選挙であるが、ここでは東京の前に霞んでしまったかの感のある大阪府知事選挙、府会議員選挙の経過を報告していきたい。
まず、知事選挙であるが、三期続いた岸府政の後継者選びから難航した。一般的には副知事の中から選ばれるとの観測が主流だったが、必ずしも納得して引退を決意したわけではなかった岸前知事が「後継者は庁外から」との意向を表明したことから混乱が始まった。自社公民与党体制を前提としつつも「岸知事(実際は中央)の意向を受けた」自、公と従前から副知事の一人であった中川和雄氏を押す社、民、連合との激しい前哨戦が繰り広げられた。
結果的に、連合大阪が調停役を引き受ける形で、後継者は中川氏に落ち着き、共産候補との対決となった。
このことは、共産党の言う「自社公民なれ合い」がデマであることを物語っているし、与党間の緊張関係は、共産党が考えるほどあまちょろいものではないことである。
ただ、選挙戦自体は、50%を切った投票率が示すように盛り上がりに欠けたものとなったが、これは競争選挙といっても実質は信任投票と同じであったからである。
しかし、この選挙を連合対全労連の対決という視点から見れば、しれつな闘いが展開されたのである。連合は中川氏擁立に大きな役割を果たしたこともあって、選挙戦では全戦線で前面にたって運動を牽引した。
各種集会、イベントの動員は勿論のこと、政策宣伝においても連合の掲げる女性・高齢者対策を中川氏の公約のトップに据えるなど、まさに連合総ぐるみの選挙となった。この意味で、共産党が執拗に宣伝した「財界丸がかえ」との主張も説得力を持たないものであった。だいたい共産党の描く財界対府民との図式は、総労働対総資本という教条を焼き直したものに過ぎず、黒田府政の総括もまともに出来ない共産党の府政批判は多くの府民に受け入れられなかったのである。
同時に投票された府会議員選挙で社会党は、全国的な惨敗のなかでも大阪では1議席を増やし、「平時」の社会党の党勢がどのくらいのものであるかをあらためて明かとなった。
この中で特筆すべきは従来の労働組合出身でない若々しい候補者が立候補し、善戦したことは大阪の社会党と民主勢力に大きな力となったことである。
この選挙で明らかになったのは、全国的な自民党大勝の中でも、重大な選挙で地方色を鮮明にしたものが勝利をし、その前にもはや「革新」対「保守」、更には政党間対決と言う構図は埋没してしまったということである。
逆に言えば、社会党候補者でなくとも、大衆運動があれば福祉制度の充実などは推進できると言うことであり、労働組合を含めた有権者の選択は、シビアになっているということだ。
もちろん将来の選挙で、社会党はある程度議席を回復するだろう。しかし、それはただそれだけのことであり、有権者が選ぶ対象が現在では権力構造の変換まで結び付かず、同じことの繰り返しとなるだろう。
こうした流れを変えていくために、新しい政治勢力の結成を真剣に進めなければならない時期に来ているのである。
その意味で、現在進められている社民勢力の結集構想に注目していかねばならない。(大阪 O)

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

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【投稿】春季生活闘争中間報告

【投稿】春季生活闘争中間報告

連合の91春季生活闘争は、主要単産の闘争が妥結し、最大のヤマ場は終了した。賃上げに関しては、全般的に低調であったが、時短に関しては制度化で一定の前進があった。ここでは、闘争の中間的な報告と今後の労働運動の展望について考えてみたい。
先行相場グループである自動車総連、電機労連、鉄鋼労連、造船重機労連などのIMF-JCの主要組合に対して4月3日に回答が示された。経営側は湾岸戦争を理由に「景気に蔭りが生じた」として、「マイナスα」論を強く主張、賃上げでは一歩も譲らない姿勢を示した。
組合側はこれに押し切られる形で、電機5.55%、鉄鋼4.33%、造船重機5.32%との妥結となり造船重機が昨年と同額を確保したのを除き、いずれも額、率ともに下回る結果となった。
これに対して、昨年ストライキに突入し他単産を上回る実績を確保した全電通、私鉄総連など後発相場形成グループは、額で昨年実績を確保した。連合全体では、率で5.72%額で14687円となっており(加重平均4月9日)、率で0.3ポイント、額で170円昨年度実績を下回った。
これに続く中小、未解決組合は、一部がストライキに突入するなど奮闘しているが昨年度実績を越える成果は厳しい状況である。
一方時短闘争は、完全週休2日制を制度化している電機が、土曜が祝日と重なった場合の金曜振替休日制や年休1-2日増、鉄鋼も常日勤2日、交替勤務3日の休暇増を引き出すなど一定の成果を収めた。
こうした状況を踏まえ、連合の山岸会長は「逆風下の厳しい労使交渉」であったが、「われわれの目標に向け、限りなく前進しつつある。額で昨年実績をクリアーできれば成功との気持ちで対応してきた。もう一歩の踏み込み不足は否めないが、連合効果-相乗効果は表れた。トータルとして一定の前進がはかれた」時短については「JCグループの闘いは、昨年よりも2歩も3歩も前進した。1993年の1800時間に向け、有力な足掛りとなった」と評価した。
連合は今季闘争の獲得目標を賃上げは「昨年度実績と同等もしくはそれ以上」時短は「今年度2000時間の壁を破り、1993年度1800時間にむけた展望を切り開く」としていただけに、当初から困難視されていた賃上げはともかく、時短だけは何としても目に見える成果を上げようと、各単産とも時短にスタンスを移しての闘争を進めた。
確かに大手組合での時短は進んだものの、残業手当がなくても十分な賃金を確保し、さらに下請け、系列、傘下企業にしわ寄せが集中する「カンバン方式」や「ジャスト・イン・タイム方式」が改善されなければ、なかなか全体としての時短は進まない状況にある。この状況を打開していくためには、企業内時短だけではなく、社会的時短を進めていく必要がある。そのためには官公庁の時短や「太陽と緑の週間」はもちろん、学校の週休2日制、地域の特性に応じた実質的な休暇(祭り休暇など)を広く実施していかなくてはならない。こうした取り組みはもはや、労働組合だけの闘争の質、春季闘争の枠を越えるものであり、生活制度闘争の全面的推進を要求するものである。
総評時代の闘いは、経済闘争と政治闘争を巧妙に使い分けて前進した。しかし、連合時代において政治闘争の展望が未だ困難な状況のもと、労働組合に社会性を持たせ、運動を活性化するためには、この問題への取り組みが不可欠である。その意味で、「春闘」の質的な転換を大胆に進めなければならない。
経営側は、春闘に賛成する側も反対する側も、質的変化が分からずに的外れな評論をしている。一方残念なことは組合側にも旧来の「春闘の栄光」から抜け出せない人がいることである。
このような人々を後目にすでに連合は、環境問題、人権問題の取り組みをはじめ社会的イベントへの参加を進めている。今後これらの運動を一層幅広く展開することが望まれているのである。(大阪 O)

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

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【投稿】湾岸戦争は何をもたらしたか?

【投稿】湾岸戦争は何をもたらしたか?
—湾岸戦争後の世界政治と経済—

<覇者のおごり>
ブッシュ米大統領は、3月6日の米議会で、湾岸戦争勝利の「戦勝報告」演説を意気揚々と行なった。その中で彼は「米国の製品や労働者は二流と言われてきたが、湾岸戦争では一流の能力を見せた」と誇らしげに語っている。自信をなくしかけていた米国人は、日独の支援の遅れをなじる一方で、祝勝ムードに酔いしれ、かつてベトナム反戦運動の激震地であった諸大学ではほとんどの学生が星条旗を手に手に久方振りの勝利を謳歌したのであった。
いわば今回の湾岸戦争は、経済の軍事化と石油価格下落の中であえいできたイラク・フセイン政権が、弁護の余地もないクウェート侵攻という挑発にのせられ、国際正義を後ろ盾にした世界の警察官としての米軍事力の前に敗退したものといえよう。中東で地歩を後退させつつある国際石油資本、冷戦体制の崩壊で縮小を余儀なくされつつある軍需資本、そして世界第一位の経済的地位を脅かされつつある米国経済にとって、これは勝利して当然、しゃにむに押切らねばならない願ってもないチャンスであったともいえよう。それが戦争の全経過に示されており、アラブの独自解決、フランスの調停、ソ連の和平工作も成功させてはならないものであった。性急な軍事解決によって、地球環境に癒しがたい傷跡を残し、軍事力によって押し潰された民衆のしかばねなどには見向きもしない覇者のおごりがそこには露骨に現れている。

<脇役の苦悩>
多国籍軍の名の下に参戦した欧州各国は完全な脇役に追いやられ、しかも今回の戦費は米国の負担はゼロ(米財務長官報告によると、昨年8月から今年3月末までで総額560億ドル、日欧各国からの支援額545億ドル)、それどころか戦費の過大見積により100億ドル近く儲かったと指摘されている。逆に欧州各国は、EC統合を目前にしながら、湾岸戦争参加をめぐって分岐が激化し、しかも各国ともに戦費調達で軒並み財政赤字を拡大させ、それぞれの政権基盤さえ怪しくなってきている。増税なきドイツ統一を公約に総選挙で大勝したコール政権は旧東独経済の復旧コストに加え、戦費調達のために、一転1600億マルクの赤字に転落、公約を投げ捨て増税政策に転換したがために「ウソつきコール」と糾弾されて、地方選で大敗するという事態である。イギリスは、サッチャーの民活路線のもとで工業が壊滅させられ、工業製品の純輸入国に転落していたがために、メージャー政権は湾岸戦争で自国軍の武器弾薬さえ輸入しなければならず、4年ぶりに赤字国に転落、91年度80億ポンドの赤字見通しのもとで人頭税の廃止をめぐって保守党内の分岐がきわだっている。

<ブッシュの「新国際秩序」>
対照的にブッシュ政権は、国民の90%以上の支持を背景に湾岸後の「新国際秩序」作りに主導的役割を果そうとしている。それは他の諸国の負担で、軍縮と軍拡を両立させようというきわどいものである。中東においては、パレスチナという最大の問題を先送りしたまま、対イラク封じ込めのためにサウジなど湾岸5ケ国に180億ドル以上のハイテク兵器、新規武器売却を計画し、対イラク報復自制の代償としてイスラエルに新規軍事援助を行なう等、明らかに軍拡である。その上で米ソ協調による中東地域和平会議の開催、今年前半の米ソ首脳会談、戦略核・戦術核全廃条約交渉にのぞもうとしている。もはや軍事面においては向うところ敵なしという事態のもとで、アメリカが唯一誇れる軍事力を背景に世界の秩序の監視人、警察官の役割を果そうというものである。

<2期連続のマイナス成長>
おりしも米国経済は、9年ぶりという景気後退に入り、昨年10月以来2期連続のマイナス成長(今年1~3月期、実質GNP-2.8%)となり、ほぼ全部門で経済は落込み、短期間では回復しないことが明らかとなっている。このさい湾岸戦争の早期終結・勝利は精神面実体面ともにプラス要因に働くことは間違いない。ましてや自国の負担は一切無く、長期にわたる機雷処理等は日本などにまかせ、復興需要も取りしきれるとあれば言うことなしである。しかしながら、米国財政赤字は92年度予算教書によれば2809億ドル、昨年の予算教書では赤字が251億ドルになるはずであったことからすれば実に11倍の赤字、今年は3811億ドルという空前の規模の赤字が見込まれている。本格的に軍縮に取組み、軍事予算を抜本的に減額し、老朽化と放置政策によってなおざりにされてきた社会的生産基盤への投資(インフラ投資)に力を入れない限りは、経済力の回復は到底望みえない。国防予算の削減では、兵力230万人中80万人カット、軍事基地の大幅削減(国内71、海外36ケ所)、陸軍3分の1化、等により国防費半減案(3000億→1500億ドル)まで出ている。これらがどこまで進むかに米国経済の今後の事態はかかっているといえよう。

<冷淡な日本>
いずれにしても湾岸戦争は、米ソ緊張緩和後の世界の政治経済情勢を画するものであった。ポスト湾岸後の世界情勢について、米独日三極体制なるものがすべてを決定するものとして賞揚されているが、それぞれに内実は危なっかしいものである。ましてやそれぞれに疑心暗鬼、アメリカの世論調査によれば日本の90億ドル追加支援決定の遅さを見て、「日本に対する尊敬の念をなくした」という人々が急増し、貿易摩擦の再燃があおられる事態である。これは平和解決への信念と行動力も持たず、右往左往してアメリカに追随する日本政府に対する批判でもあろう。
さらにゴルバチョフ訪日に関連して、「せっかくやってきたゴルバチョフ大統領を、日本はお土産なしで追返した。韓国の対応と比べても、その冷淡さが目立っている。日本は湾岸でアメリカから見捨てられ、もともと中国、韓国とは真に打解けてはいない。ウルグァイラウンドにも協力的ではない。そこへゴルバチョフというよりはロシアという国のうらみを買った。日本はその経済力を鼻にかけて、高慢なる孤立の道を歩んでいる。その経済力がまさに国際平和、親善を最も必要としているというのに」(日経、4月25日「大機小機」)と指摘される事態である。
あらゆる問題の平和的民主的な解決に向けての、世界的な協調と協力の体制、地球規模的な取組み、国際的な責任の遂行、全人類的な視点の確立なくしてはまだまだ事態は楽観はできないのである。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

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【投稿】人類全体の課題–「地球環境問題」(上)

【投稿】人類全体の課題–「地球環境問題」(上)

■はじめに
1980年代は、ベルリンの壁の崩壊に象徴されるような、東西冷戦の終りという歴史的な大転換で幕を閉じた。冷戦構造の変化によって、軍事力の比重は大きく低下し、変わって、金融・通商問題などの「地球経済」や「地球環境」が国際的な課題に浮上してきている。
「環境破壊の危機の前では、二極化したイデオロギー的世界という対立図式は却下される。経済圏や軍事同盟の体制の差によって、生命圏を分割することはできない。全ての国が一つの気侯体系を共有しており、一国たりとも自国だけを隔絶する独自の環境防衛上の国境を設けるわけにはいかない。」(シュワルナゼ外相88年国連演説)
このように、世界の生産活動によって引き起こされた地球規模の環境問題に対する認識が広がり、解決に向けた国際条約の作成交渉がいよいよ本格化しようとしている。92年6月のブラジル国連環境開発会議は、「地球温暖化防止条約」「熱帯林保護条約」そして地球上に生息する動植物の種の保護を目指した「生物種多様性(バイオタイバーシティー)保護条約」という将来の地球環境対策の枠組みを決める極めて重要な3つの条約作りを目指している。

■オゾンホールーフロン問題
地球環境問題が、世界共通の課題として取り上げられた最初の国際会議は1972年6月ストックホルムで開催された国連人間環境会議であった。しかし、今回のように国際的に広がりを見せるようになったのは、1980年代の中頃以降である。初めて北極に於て発見されたオゾンホール(大気圏に存在するオゾン層が破壊されてその層に穴があいた状態)は、全世界に大きな衝撃を与えた。
地球上の生物は大気によって保護され、この中で、オゾン層の役割は紫外線・一部の宇宙放射線のコントロールの役割を担っている。この為、このオゾンホールが地球上の多くの部分で発生するならば生物体系に大きな変化をもたらし、紫外線の生物への大量暴露は、皮膚癌の発生(白人の場合この危険性は、非常に大きい)、そればかりでなく、この状況が今後進めば、2,000種類の生物が近い将来死滅すると言われている。
このオゾンホール問題について、各国の科学者によって国際議で討議が繰り返され、原因物質は塩素系化学物質とフッ素系化学物質がその大きな原因であるとの結果を得た。特に問題であるのは、CFC(クロロフルオロカーボン)といわれる化学物質、一般に「フロン」と呼ばれ1930年に開発され、毒性がなく無臭、安定性があり、他の物質と反応しにくいなどの便利な性質を持っているためエアコン・冷蔵庫の冷媒やスプレー缶に不燃物質として大量に安全な物として使用されていた物質が最もオゾン破壊をする物として注目された。その結果、2000年までに特定フロンを全廃する「ヘルシンキ宣言」が出された。

■ 地球温暖化の問題
しかし、同時に進行しつつあった地球温暖化の問題は極めて問題が難しく、原因物質が化石燃料によって大量に排出されCO2である事から対策は現在も充分に進んでいない。「炭酸ガスやメタンガスなど、温暖化の原因が現在のベースで増加し続ければ、地球の平均気温は21世紀末までに現在より約3度上昇するであろう」は、IPCC(国連の「気象変動に閑する政府間パネル」)の結論である。
このIPCCには、3つの作業部会があり、第1部会は、温暖化の将来予潮を担当する部会で、世界の300人の気象研究専門家が1年半前から温暖化の将来予測を行って出した結論が上述の内容であり、更にこの結果「21世紀末まで海面の高さは現在より65センチ上昇する」と予測した。
第1部会の報告を基に温暖化が社会、環境に及ほす影響を調査してきた第2部会は、「海面上昇によりインド洋のモルティブ、太平洋のキリバス等は、国そのものが水没の危機にひんする」と警告している。日本に於いても大都市は臨海地域に集中しているため、対岸の火事と言った事も言っていられない。地球各地の気温や降水量の変化が農業に及ぼす影響は洪水や干ばつ、暴風雨の増加などで発展途上国に大きな影響を与え食料不足などの深刻な被害が生じると警鐘を鳴らしている。
一方、最も重要な温暖化対策を検討してきた第3部会は、まず世界が炭酸ガスの排出規制策を実施しなかった場合、2025年には現在の2倍の排出量(年間120億トン=炭素換算)の見通しを示した。そして、具体的な温暖化対策としては、各産業での省エネルギーの徹底や炭酸ガスの発生量が少ない原子力など代替エネルギーの開発・導入の促進、自動車の燃費改善等をあげた。また炭酸ガスの発生量に応じて金をとる課徴金制度、国別の排出量を取り引きする「炭酸ガス排出権制度」など排出抑制に効果のある経済的手段も検討されている。

■ CO2排出親制の設定と日本の対応
1990年11月、スイスのジュネーブで開催された第2回世界気侯会議で、当初先進国のCO2の排出量削減目標を設定する予定であったが、温暖化防止に積極的に取り組むことを明記しただけにとどまった。
欧州18カ国、日本、オーストラリア等は「CO2排出量を2000年に1990年の水準で安定化」を公約すると共に、条約作りと並行してCO2規制目標などを盛り込んだ議定書も作るべきとの立場をとったが、米国が、「CO2が温暖化の原因であるという科学的知見がまだ十分ではない」ため、条約を国際協力や技術開発の推進など地球温暖化防止のための基本的な枠組みを示すものにとどめ、具体的な規制目標の設定は条約がまとまった後に改めて国際的に論議すべき、と言う立場をとったためである。
これに先立って、日本政府は「地球温暖化防止行動計画」を正式に決定し、本格的な温暖化防止対策に着手することを表明した。この中で、最大の焦点だった二酸化炭素(co2)排出抑制の目標は、「①一人当りCO2排出量について2000年以降、おおむね1990年レベルでの安定化を図る。②さらに、太陽光、水素等の新エネルギー、CO2の固定化などの革新的技術開発などが、現在予測される以上に早期に大幅に進展することにより、CO2排出総量が2000年以降おおむね1990年レベルで安定化するよう努める。」という二段階設定方式であった。
二段階の日凄設定は、1991~2000年の人口伸び率が5.6%と見込まれるため、「一人当り」が達成されても排出総量は1,700トン増加することができるという、環境、通産省の主張を折衷した苦肉の策となった。この背景には、日本の産業界が地球規模にまで広がった環境問題を、世界に冠たる公害対策技術のノウハウを生かすことのできるビジネス・チャンスと受け止めている一方、世界経済の中核に新しい規範として定着させない限り企業の未来はないと言う認識を深めめている表れである。
<以下次号へ続く>     (名古屋 Y)

【出典】 青年の旗 No.162 1991年4月15日

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【投稿】民主主義とネットワーク的組織形態

【投稿】民主主義とネットワーク的組織形態
                           生駒 敬

はじめに
89年以来の現実の社会主義の崩壊過程は、社会主義とは何かという問題と同時に、民主主義と社会主義の問題をあらためて提起していると思います。すくなくともわれわれの間では、本来、社会主義こそが民主主義の徹底であり、その発展形態である、したがって民主主義の土台の上にたたない社会主義などは本来ありえない、というようなことは何度も確認きれてきたことだと思います。しかし現実の社会主義は、およそ民主主義の強化、発展を軽視し、むしろ民主主義=ブルジョアジーの支配形態の名の下に蔑視、ないしは抑圧してきたといえます。このこと自体は、歴史的にも理論的にも検証しなおし、かっこ付きのマルクス・レーニン主義や日共流の科学的社会主義が唱えてきたセクト主義、あるいは唯一前衛党主義を根本的に批判し、それらを克服する理論的思想的政治的立場を発展させる必要があると思います。
ゴルバチョフ氏が「もっと民主主義を!もっと社会主義を!」というスローガンを掲げてイニシャチプをとったベレストロイカは、社会主義の再生を願うすべての人々の願いを託したものでした。しかし事態はきわめて複雑化し、ソ連邦という連邦制の統一形態そのものが問い直される微妙で重大な段階にさしかかっています。その具体的な見通しは、当事者自身にさえまったく不確定であり、振幅の大きさはまさに激動、革命と呼ぶにふさわしいものといえるでしょう。いわば現在の事態は、政治経済文化を含めて社会全体の民主主義的再編成という途方もない課題に直面しているのであって、その帰趨はけっしてひとごとではありえないものです。保守的反動的な解決にならないような国際連帯が要請されていると思います。資本主義によって設定された限界を越える民主主義の発展と強化こそが望まれます。
しかしここでは、以上のような問題意識の上に立って、もっと身近に民主集中制の問題と関連して、現在の段階における民主主義の限界とそれを打破する組織形態について若干の問題提起をしたいと思います。

<民主主義の形式的理解>
民主主義というものをデモス(民衆)とクラティア(支配)に分割して、これは文字どおりの意味、さらには本質論からすれば、政治支配の一形態であり、従ってそれぞれの時代にはそれに照応した民主主義が存在してきたのであって、民主主義の徹底とか、よりいっそうの民主主義といった考え方そのものが誤っているだけではなくて、現在の支配形態を容認し、それに追随するものでしかない、というような議論が時々聞かれます。しかしこのような議論は、実践的には、圧倒的にほとんどの進歩的諸勢力の運動が民主主義のために闘っていることからして、同意にするには値しないと思います。しかしながら、民主主義の発展を妨げるものは何か、その障害をいかに克服するか、そしてそれが社会主義とどう結びつくかという問題は、きわめて現実的であり、焦眉の課題となっています。
資本主義の現実の下での民主主義は、まさに民衆の闘争と強制がない限りは、どんどん後退し、形骸化されることはことさらに強調するまでもないことです。現実には、民主主義=間接民主主義=代議制民主主義=議会制民主主義=一票の投票行使権に矮小化されています。そこでは、とにかく票を獲得することだけが自己目的化し、しかもその選挙運動たるや、およそ民主主義的モラルとはほど遠いものであって、大衆の政治参加というよりは衆愚政治の手段と化しかねない現状です。ここでは単純に民主主義=多数決原理でしかありません。もちろん、議会主義についてこのことだけを強調するのは正しくはありません。政党や労働組合を含めてさまざまな社会グループはそれぞれの利益と目標実現のために、この議会制民主主義を足場にして闘っているのです。
ところが、このような民主主義の形骸化と闘っている民主勢力の側にも、自己の組織内あるいは他の諸勢力との統一戦線や共同闘争、連帯における民主主義となると、とたんに内容希薄、形式的な理解しか持ち合わせていない状況が少なくありません。とりわけそれは日共指導部の現実と、その民主集中制議論によく現れています。昨年末の朝日ジャーナル誌上で「民主集中制名目の中央集権・上意下達構造」に失望した、「批判・反対論は、日和見的敗北主義の異端とされ、民主集中制の破壊者として排除される」という投書に対して、共産党がその後の同誌上で反論しています。例によって決まりきった空文句を並べ立てています。すなわち、「わが党は党の指導や方針への党内批判の権利を党員に完全に保障しており、それを排除するなどというのは全くのでたらめです」というわけです。しかしながら小数意見を主張したがために、「裏切り者」や「脱落者」、「反党分子」等々、悪罵の数々を投げつけられた人々は枚挙にいとまがありません。ところがそうした事実を突きつけられると、結社の自由や団結権などを持ち出して「自由な結社がその性格や目的に応じて合理的な拘束を結社の成員に加える」ことは当然であると開き直ることしかできません。かれらは、民主主義が本来的な内容として獲得してきた基本的人権と平等というものをまったく常識程度にも身につけていないし、理解さえしていないわけです。
ここでもかれらは、組織内民主主義を多数決原理といった程度にしか理解していないし、むしろ集中の名の下にそのことを合理化しているのです。「民主的な討議の上で多数で決定したことは全員が実行する」と通り一遍のことを述べながら、日共指導部は、その民主的な討議の一環としてかれらと異なった意見を表明するや、「嫌悪と軽蔑、唾棄すべき対象」として人格的にも社会的にも打倒すべき対象となるのです。そこには人間としてごく自然なヒューマニズムのかけらも見い出せません。しかしながら民主主義の本質の一つは、このヒューマニズムにあり、人権思想、人類性にあるのです。
さらにこれにつけ加えなければならないのは、唯ー前衛党論です。日共宮本議長は「科学的社会主義を理論的基礎とする党は一国で一つであるべきだ。複数前衛党論は理論的にも実践的にも破綻した」と述べて、自らをそれこそ勝手に「唯一の前衛党」と称しています。そしてその傘下に入らないような組織運動は「反共主義」であり、「右転落」であり、民主勢力の一翼にさえ加えられるものではないという論理です。まさにこのような運動全体に対する覇権主義的な論理は、民主主義的な運動の論理に真っ向から対立するものです。民主集中制と唯一前衛党論のこのような合体は、まさしく民主主義的実践と相入れるものではありません。しかしこのような論理はごく最近までまかり通ってきたものですし、筆者自身が批判をしながらも、これに巻き込まれ、否定的な関与をしてきたことを深く反省するものです。

<質的に新しい変化>
ところで現在の我々を取り巻く状況は、国家や国境、大陸を越えて地球環境にまで至るボーダーレスな国際主義的志向をますます強めると同時に、一見まったく逆に民族から地方、地域、労働現場、職場単位、さらには個々のグループ、生活単位にまで至るローカルな自治的志向が同時に存在し、しかもそれぞれが強化される傾向にあります。
こうした基本的発展傾向は一世代前の状況とは根本的に異なるといえます。複雑であると同時に、より分化、分散し、しかもこれまで以上にに互いに強く結び付き、連帯しなければ多くの諸問題が解決しないという状況なのです。つまり、さまざまな傾向やさまざまな文化、多種多様な要求や課題が共存しながら、せめぎ合い、しかもそれぞれが自治的、自律的であると同時に結合するという方向なのです。
当然、民主主義というものも、現在の形態が固定化されるのではなく、新たな変革をこうむらなければなりません。民主主義の本質的内容である基本的人権と平等、自治の原則があらゆる領域・次元に拡大されると同時に、上から下まで分節化して徹底されなければなりません。とりわけ民主主義的諸権利の経済領域への拡大は、私的資本主義的制限を乗り趨えることを必至のものとしています。資本主義的近代化に対抗して、大企業、大資本の絶対的権力、富の偏在、情報の独占、資源の無制限利用、自然破壊等々に明確な制限を加え、国家と市場、企業に新たな規制を強制し、労働の人間化から消費、文化、芸術、教育、社会的サービス、差別の撤廃、女性の権利、社会と人類の共同財産、環境保護責任にまで至る新たな民主主義的諸権利を確立しなければなりませんし、そのことが可能な状況が生まれつつあるのです。こうしたことは民主主義の変化の新しい段階を画するものであり、これこそが社会主義の民主主義でなければなりません。

<ネットワーク的組織形態>
客観情勢のこのような変化は、それに照応した組織形態を要求していると思います。多種多様な要求と課題、さまざまな傾向と志向、これらを一律に束ねようとすることなどそもそも不可能であるし、反動的なものしかもたらさないでしょう。むしろそれぞれに分岐、分節化し、なおかつ自主的で自律的である組織形態を発展させ、共存させると同時に結合させていくという組織形態が要請されているのです。一言で言えば、それがネットワーク的組織形態です。
現代の技術革新と結び付いて、情報産業にとどまらずあらゆる分野にLANやWANといったものが急速に広がりつつあります。まだまだ原初的ではありますが、これらローカルエリアネットワークやワイドエリアネットワークの特徴は、それぞれの孤立分散的単位のコンピューターや情報手段を相互に結び付けて、それぞれの資源を有効に活用するだけではなく、共通の資源を新たに築き上げ、そこから新たな付加価値を作り出そうというものです。これは、これまでの垂直統合型組織形態では、組織がうまく機能しないことの反映でもあります。
こうした組織形態はわれわれにとってこそ必要なものではないではないでしょうか。もちろん相互に結び付くことだけが重要なのではなく、共通のネットワークに提供される政治的諸資源が決定的に重要であり、政策、方針、情報、文化の資源をお互いに提供、共有し、しかもそれを切磋琢磨し、発展させる共通の場を持ちながら、それぞれの自治と主権において選択し、グラースノスチ(公開性)と民主主義的費任のもとで結合、連帯していくという組織形態なのです。

【出典】 青年の旗 No.162 1991年4月15日

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【報告】街頭日記

【報告】街頭日記

「青年の旗」編集部から湾岸戦争勃発以降の平和運動に関する報告を依頼された。
しかし、私個人の範囲では参加できる集会は首都圏の、しかもごく限られたものにしかなりえない。また参加した行動でも特に屋外のものでは、雰囲気は伝わってきてもとても一人で全体を把握することは不可能である。
発行されている市民団体の通信などを参考に、できるだけ手を広げた報告としていきたいのだが、実際に参加しなければ、その場の雰囲気は分からないだろう(伝えきれるほどの筆力もない)し、そんな文章を「青年の旗」に掲載すること自体意味のないことである。故に以下の報告は私個人が参加した集会の中で、典型的だと思われるものをピックアップて報告し、その後で総括的に意見を述べていきたい。

●1月23日(WED)
「日本l主戦争をやめさせるために何ができるか緊急集会」(主催:日市連、ピースネットニュース他参加者:約300名)
開戦一週間で市民運動が本格的に動き出した。これはベトナム反戦闘争よりも反応が速いらしい。
内容は、高橋武智(わだつみ会副理事長)、国弘正雄(社会党・参議院議員)、堂本アキコ(社会党・参議院議員)の各挨拶、色川大吉(日市連代表世話人)の講演、他。
集会のタイトルそのとおり、今後の課題は、日本の90億ドル軍事援助阻止であるということが強調される。そして、国会でのキャスティングボードを握る公明党を世論で包囲する行動が提起された。
また、「PeaceNow!戦争に税金を払わせない市民平和訴訟の会」から、90億ドル援助差止め訴訟を広く一般市民から原告団を募り、市民平和訴訟として展開していこう、と呼びかけが行われた。

●1月26日(SAT)
「緊急反戦集会-デモ」(主催:市民団体諸派、参加者1200名)
会場である防衛庁裏の公園の脇の道がビッシリと機動隊で埋められる。いよいよ運動への弾圧が強化され始めたようだ。
集会そのものは屋外集会でもあり、各団体アピールで終始。様々ないでたちの人々で会場は入り乱れ、ヘルメットにマスクの集団が独自集会を開いたりとあまり整然とした状態ではない。ふと学生時代に参加した安保デーの集会を思い出す。
集会後、六本木-アメリカ大使館(抗議行動)日比谷公園までデモ。
※この日、ペルシャ湾の原油流出が発表される。この世界がいまだに軍事優先思想に支配されていることを痛感する。

●1月27日 (SUN)
「Peace in 渋谷」(主催:日市連、参加者:300名)
集会と渋谷駅周辺でのデモ(このパターンは以降毎週くり返されることになる)。手作りのゼッケン、プラカードとラジカセを持参して参加。ラジカセで「Give Peace a Chance」と「Imagine」を流し、おもちゃのハンドマイクでがなっていたら、いつの間にかデモの中心になってしまい、シュピレッヒコールをやらされてしまう。
デモ終了後、渋谷駅ハチ公前に移動、他の市民団体と合流して全員でダイ・イン。数百人もの人間がハチ公前広場を埋めつくして寝ころぶ様子はなかなか壮観であった。

●1月31日(THU)
「池袋反戦集会」(主催:非核豊島の会、参加者:50名)
池袋駅頭でビラ撒き情宣後、中池袋公園で集会、終了後池袋周辺をデモ。
このような地域での集会、企画は各地で行われていたらしい。画家の丸木夫妻も、地域の活動家たちと一緒に東松山周辺で毎週デモ行進を行っていたそうだ。

●2月3日(SUN)
「市民アクションデー」(主催:市民団体諸派、参加者:2500名)
2月2日に行われた「国会包囲行動一人間の鎖」の際もそうだったらしいが、かなり権力の弾圧が強化されてきている。今回も、デモの最中に日市連の活動家2名がねらい打ち逮捕されるというハプニングが起きてしまった。これに対する市民の怒りはすさまじく、集会終了後渋谷警察署に100人をこえる市民が抗議に集まった。また、釈放されるまでの2日間、警察署に抗議の電話が殺到し、警察署の機能が一時停滞するほどであったという。
集会には、各地で活動している市民運動の活動家や、歌手の山本コータロー、高木仁三郎氏、弁護士の福島瑞穂氏などがアピール。神奈川県で基地闘争を行っている主婦から、反戦の意志を黄色いリボンをつけることで示そうと呼びかけられる(この呼びかけに共感したK君は、翌日早速黄色い布を買いに行き、平和運動に使うのならとお店の人に割り引きしてもらうという貴重な体験をしている)。私もその日から終戦まで黄色いリボンを帽子につけて歩くことにする。

以上様々な行動のごく一部をピックアップして報告したが、2月3日の行動がある意味でピークとなり、以降残念ながら集会・デモとも動員は頭打ちとなってしまい、集会での行動提起も、「次は××に集まりましょう」といった形に終始してしまう。
リアルタイムで戦争が報道されるという今までなかった今回の戦争が人々に与えた影響もかつてなかったものであっただろう。しかもその戦争に対して政府が憲法解釈をねじ曲げてまで直接にお金を出し、軍隊まで派遣しようというのである。国論が二つに分かれての大論争が展開されも不思議ではない状況であったはずである。しかしそうはならなかった。戦争に、日本の戦争加担に反対する市民の闘いを支援する勢力はこの国のどこにも存在しなかったのではないだろうか。90億ドル援助を阻止するカギを握っていた公明党は早々に賛成を決めてしまい、次に市民団体がターゲットとした小沢一郎をたたき落とす行動も、都知事選での社会党のもたつきにより集中するべき環が見いだせず、運動になっていないのが現状である。しかも社会党の一部から、戦後復興のためなら自衛隊派遣もやむなしという意見が出るに至っては、市民運動は首を絞められたのと同じになってしまう。
ただでさえ今回の戦争では、本来先頭を切って動き出すべき団体がなかなか腰を上げなかった。私が市民運動と行動を共にしたのも、他に身を寄せるべきものがなかったからというのが直接の動機である。戦争勃発当初から、マスコミの大騒ぎをよそに平和勢力の反応は実に鈍かったというのが私の印象である(開戦当日の昼休み、私の勤める会社の組合委員長一某前衛政党党員-は、号外を囲んで浮き足立っている私たちをよそに、「な-んだ始まったのか」とつぶやいて部長代理と将棋をうっていた)。
・・・・いつまでも愚痴をいっていても冗長になってしまうだけで何もならないのでそろそろこの駄文を終わらせようと思うが、最後にもうひとつ私見を述べさせてもらえば、今回の戦争で巻き起こった運動を収斂し、さらに広げていくひとつの展望は先に述べた90億ドル援助差止訴訟闘争にあるのではないだろうか。法廷内外の闘いを支援する平和勢力の今後の闘いを願い、また微力ながら私も行動に参加していこうと思っている。

【出典】 青年の旗 No.161 1991年3月15日

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【投稿】砂にしみいる水のごとき知を!

【投稿】砂にしみいる水のごとき知を!

ここ3、4年世の中が大きく揺れ動き、物の見方、考え方が、それまでとはずいぶん変わってきた。決定的なのは、この間のソ連・東欧の共産主義社会の崩壊であり、そこで展開されている政治的、思想的闘争である。この間のマルクス・レーニン主義をめぐっての問題点を見ると、これはなにも社会主義国家に限った問題と言うより、資本主義社会における左翼・民主主義勢力と自らを規定している組織の運動のあり方や、そこで活動している人の物の考え方における今日的問題点そのものであると言うことに、改めて思い知らされる。
誤解を恐れず、率直にいうなら、これまで正しいと信じてきた世界観がある一つの業界でしか通用しない世界観にすぎなかったのではないかと言うことである。清算主義的な総括は避けなければならないと言う声が開こえてきそうだが、逆に言えぼ「精算的な総括は避けなければならない」という決まり文句が、物事のリアルでアクチェアルな分析を行う理論的作業を避ける結果となってきたのではないだろうか。今の時期「精算主義的な総括云々」といって説教たれるべきではないのだ。これまでの理論的確信を徹底的に疑ってかかるべきである。
これまでの自明の理論に寄りかからず、一度は現実肯定の流れに徹底してつきあってみる必要がないか。今まで、はなから否定していたもの、否定すべきものと考えていたものを、果してそうなのか、自らの頭とぎりぎりの力量で突き詰めてみることである。
検討課題の選択にタプーは設けない。自らの突き詰めた問題意識、結論については、自らが責任をもって公開し、世の中の批評にさらす。安易な仲間意識をもとめない。言論にたいしては言論で返す。「学び、宣伝、扇動し、組織する」という運動論から脱皮すべきである。徹底して物事を探求し、それが社会的に求められているものなら、砂にしみいる水のごとく人々の心をとらえ、政治的なカをなるだろう。ことさら組織する必要などない時代になってきている。いま求められているのは、砂にしみいる水のごとき知である。この知が今の左翼にあるのか!それが切実に求められている。(1991-大阪 T・S)

*お薦め図書「ニセ学生マニュアル」「ニセ学生マニュアル(逆襲版)」「ニセ学生マニュアル(死 闘版)」浅羽通明著 徳間書店

【出典】 青年の旗 No.161 1991年3月15日

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【投稿】91フォーラム関西(2/3)

【投稿】91フォーラム関西(2/3)に150名が参加

去る2月3日「91フォーラム関西・・社会主義・・その根源を問い直す」が部落解放センターで開催され、150名以上の参加者があり、5時間におよぶ討議が行われた。
このフォーラムは、松江澄さんはじめ12名の呼びかけ人から提起され、激動する社会主義の現実を前にしてこれまでの立場、諸個人の関係を越えてフリーに意見交換することを目的に準備されてきました。1月15日にはプレフォーラムも持たれ、事前討議も行われました。
当日の問題提起者は松江澄さん、生駒敬さん、松本健男さん、田畑稔さん、大賀正行さんの5名の方々でした。(発言予定であった大阪唯研の田畑氏は大学入試のため出席が遅れたため、最後にレジュメについて簡単な説明をされました。)

はじめに司会の小森春雄さんから開催に至る経過説明、さらにフォーラムという形態(参加者の自由な発言を保障する形態)、集会の進行の説明がありました。

松江さんは、現存社会主義の崩壊は全面的であり、根底的なものである。根底から見直す視点はフランス革命・パリコムミューンの歴史を歴史的文脈として見直すこと。ソ連東欧の問題では、政治的民主主義と市場経済の成立には相互関係があること。市場経済の中で民主主義をつくりだす契機があり、ソ連にはそれがなかったのではないか、との指摘がありました。
現状の貧困や差別・不平等をなくすための運動、民主主義運動を強めて新たな政治的バランスを作ることを始めるべきではないかと問題提起されました。
生駒さんは、社会主義の名の下にこれまで自明とされてきたものが問い直されているとして、「民主主義・市場・社会化・全人類的課題・・反省と克服の視点」と題した報告がありました。社会主義の名の下にこれまで自明とされてきたものが問い直されている。民主主義に対しては、社会主義よりも低次元のものとして軽蔑する傾向はなかったか、民主主義の土台のない社会主義は存在できず、その欠落は権威主義・官僚主義的な体制とならざるを得ないこと。また、市場については、市場経済を無政府性と同一視し、計画経済に対置してこなかったか。
社会化については単純に国有化と理解し、形式的な社会化を行い、国家機関の所有集中に変質させ、勤労者の地位を喪失させてきた。また、全人類的課題については、階級的視点こそが決定的であり、人類的問題を言うのは日和見主義との傾向があった。これによって労働者階級にとって人類的課題こそが自らの利益の最高の表現であると言うことを忘れさせ、平和・環境・経済になどの課題に対する広範な協力、統一運動を疎外してきたことなどを指摘され、民主集中については、組織は本来自主・自覚に基づくものであり、原則として出入り自由・二重加盟OK・目的に沿ったネットワーク的組織が望ましいことが強調された。
松本弁護士は、ペレストロイカの経済的側面についての分析について報告された。生活物資について安易に準備もなく、市場経済を導入したことが、現在の食糧危機を招いているのではないか、との私見も述べられた。
最後に大賀さんは、新しい思考について、社会観におけるコペルニクス的転回であり、新思考の前提には人類的な危機の深刻な認識があること。新しい思考の条件としては、平和勢力の世界的形成、経済の相互依存関係の形成、などをあげられた。教訓としては、反宮本勢力の敗北について、またセクト主義は人類思想の欠如の表れであることなどを報告された。
その後参加者から、各々の経験や考え方から意見が述べられた。主な発言者では荒木さん(社会主義理論センター)山本正美さん(労研)友永さん、村岡さん(稲妻社)荒木さん、柴山さん(労研)志賀多恵子さん、脇田さんなどが発言し、あっと言う間に5時間が経過した。
最後に松江さんが、違いがあっての統一を大切にしたいと締めくくられ、今後フォーラムを継続していくことを確認して終りました。
フォーラムの報告集の発行が準備されているとのことです。 (大阪 H)

【出典】 青年の旗 No.161 1991年3月15日

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【問題提起】「社会主義をめぐって」

【問題提起】「社会主義をめぐって」   吉村励   (1990-04-29)

<はじめに> ・・・忘れてはならないこと・・
本論にはいる前に、諸君に敬意を表して思います。おそらく、今日来ておられる皆さんは、労戦統一、「連合」の発足に際して、全体としては大きな潮流に乗りながら、しかも現時点においては小数派組合という形で努力しておられる方が多いのではないかと思います。中には一部、資料を送って下さっている方もおられます。
今更繰り返すことはないのですが、労働組合運動というのは、組織された労働市場だという、この原点に戻って行くことが一番必要ではないかと思います。労働市場は言うまでもなく、労働力という商品の販売者と購買者とが出会う「場」。この労働市場は組織された労働市場と原生的な労働市場、或は自然発生的な労働市場にわかれます。原生的(自然発生的)労働市場は自然発生的に個々人が経営者に対して労働力商品の売買契約をおこなう、あるいは売買をおこなう「場」ということになります。今更諸君に言うほどのことではないのですが、このような労働力の売買関係では労働者は形式的には自由であるけれども、内容的には不平等であります。経営者の方が情報にしても経済的地位にしても圧倒的に有利に立つわけです。商品交換と言うのは自由の立場に立たなければならない。従って実質的な不平等を克服するための手段がある意味で組織された労働市場(労働組合)です。しかし、労働市場ですから、これが有利に作用するためには、アウトサイダーが出来るだけ少ないほどいいわけです。同時に、その市場が競争相手である労働者を出来るだけ広く組織されていなければならないのです。アウトサイダーがいない、できるだけ広く組織されているという2点が市場として有利に機能する条件だと思われます。この労働市場ではまず経済的法則が優先して働くわけでありまして、イデオロギーというのも入る余地はないわけです。そしてこの組織された市場というものは人為的なものですから、その人為的なものを運営していく場合に、政治やイデオロギーが入ってくるわけです。特に、市場としての機能を十分に確保するために必要な条件が日本では労働組合法や労働基準法というような形で決められています。だから、まず有利な「組織された労働市場」を形成するという一点で、労働者すなわち労働力の販売者は統一しなければならないのです。これをどういう理由であれ、破る、というのは組織された労働市場が組織された労働市場として十分に機能しないという結果を引き起こします。これを今更諸君に話すことは釈迦に説法みたいなもので、諸君は毎日このために努力されているわけです。しかし、活動に疲れたとき、何となく、心に迷いが生じたときに常にこの原点を思いだして下さい。あとは、私より諸君の方が日常活動を通じて、理論的なことだけでなくいろんな経験・蓄積をされていると思うので、そのことだけは本論に入る前に、常に思いだしていただきたいと思い、言ってみたわけです。

<理論の再検討・再構築のために >
実はおそらく私がそうでありますように、昨年から劇的な形で展開しました東欧諸国の問題について諸君もいろいろ思い悩んでおられると思います。少なくとも、私達が行動の基準にしてまいりました理論の再検討、再構築をする必要に迫られているのではないか、と思うわけです。そこで、私の持っている疑問を諸君にぶつけて何か示唆をいただきたいと思います。しかし、再構築する主体は諸君であります。これは困難なことではありますが、逆にやりがいのある仕事に諸君は当面していると考えていただきたいと思います。
まず、第一に、私達が出発する場合に、マルクスの「経済学批判」の序説のいわいる「唯物史観の公式」がやはり出発点となりましょう。人間は彼らの生涯の社会的生産に於て彼らの意識とは独立した関係に入る。その関係が生産関係であって、その生産関係の総体が世界の基礎構造、いわゆる下部構造を形成する。そして、この下部構造に照応したところの上部構造が生まれる。さらにこの上部構造に対応する社会意識の諸形態(哲学的、宗教的、政治的、法律的、あるいは文化的な意識の諸形態)が生まれる。この上部構造、下部構造、意識と言うものをひっくるめてマルクスは「社会構成」「社会経済構成体」といっておるわけです。そしてこの下部構造を構成するところの生産関係は生産力の形式であります。だから生産の内容が生産力で、生産の形式が生産関係なわけです。この生産関係は生産力が発展すると桎梏に変ずる。そのときに多かれ少なかれ社会革命の時がくる、と言うのがこの内容の大つかみであったと思います。
生産関係と言うのは、実は同時に法律的な意味では所有関係であります。人間と言うのは関係の総体であって、意識が存在を決定する(意識が存在を決定するのではなしに)と言います。これは間違いではないのです。しかし、人間は社会的存在であるのですから、社会的存在が社会的意識を決定するのです。だから、フォイエルバッハやその他の左翼ヘーゲリアンやそれ以前の唯物論に対するマルクス唯物論の優位さは、単に存在が意識を決定するのではなしに社会的存在が社会的意識を決定する、と言うことにあります。我々はこの基礎に則り、いろいろなことを考察してきたのです。そしてこの公式に対しまして生産力が発展の形式から桎梏に変ずる、そのときに革命が到来すると言うのならばそこから第一に、なぜそれでは生産力が発展したイギリスやフランス、アメリカ、ドイツに革命が起こらずに、ロシアやその他の国々、先進国よりは中進国もしくは後進国で革命が起こったのかという問題が提起されました。こういう問題に対しては、スターリンの「レーニン主義の基礎」の中で言われ、それと同じことをコミンテルンの第2回大会のテーゼの中でレーニンが言っているのですが、帝国主義と言うのは、世界経済の鉄鎖であって国民経済はこの世界経済という一つの鎖の中にまきこまれ、或は統合されている。だから生産力と生産関係の矛盾と言うのは帝国主義の段階では、各国的規模で考えるよりはむしろこの鉄鎖の中で考察さるべきであり、そこから鉄鎖の中の弱い環とと言う考えが生まれる。具体的にはその弱き環がロシアであり、中国であり、ブルガリアであると。そして後にはポーランドであり、ドイツであり、日本であると言われたわけであります。私達もほぼこの命題にのっとって考えてきたわけです。

<社会主義は、何故遅れをとったのか>
ところが、そうしますとさらに問題が残るわけです。この理論で行きますと、生産力の発展の形式が桎梏に変ずる。そして、資本主義的生産関係の基本的な矛盾は、生産の社会的性格と所有の私的性格、つまり私的所有と生産の社会性の矛盾であり、そして生産力が大きくなり生産の社会性が大きくなるにもかかわらず所有が私的所有と言う形態で保持されているから矛盾が起こり、生産力が桎梏に変ずると言われてきたわけです。それでは、何故、社会主義国の生産の社会的性格と生産の私的性格の矛盾が除去されたにもかかわらず、社会主義国の生産力の発展が資本主義諸国の生産力の発展に遅れをとったのか。基本的に、生産力の桎梏となる関係が除去されて、生産力が無限の可能性があったにもかかわらず、何故、社会主義国の生産力の発展が遅れたのか。
こうした問題が提起されてくるだろうと思います。
その場合に、これに対する回答と言うのは、この弱き環というのと関連があるのですが、いわゆる社会主義への移行、社会主義革命が起こったのは、中進国もしくは後進国であった。だから、歴史的にこの後進性を克服するために多くの時を要したのであって、そのために生産力の発展が資本主義諸国に及ばなかったのだ、という言い方が成り立つわけであります。ところが、東欧諸国は別にしまして、ソ連の場合は、1917年から既に73年が経っている。この73年と言うときがソビエトを先進国に変えるのに十分な時間であったのではなかったのでしょうか。だから他の国はともかく、ソ連に関してはこういう言い方はできないのではないかと思うのです。もちろん、第2次世界大戦でのソ連の被害、戦死者の数などは大変なものでありました。こうした被害の大きさが後進性を残しておく原因になったということが言えないことはないと思うのですが、そのウェイトがどのくらいのものであったのか、という問題があります。
次に社会主義と言うのは実は何かということと関連することですが、産業革命を経て労働者が生まれて、その労働者の生活が原生的労働関係と言われる中で非常に惨めなものであった。つまり、労働者の解放を通じて人間の解放を願ったものが社会主義であったと思うわけです。だから、社会主義がいわば、最も人間的、あるいはヒューマニティックな思想であり、運動であったと言えましょう。ところが、実際に社会主義が作られ、私的所有を克服した後では、社会的所有の具体的な形態と言うのは、やはり国有化であり、あるいは国の権限を委譲された自治体所有であり、あるいは協同組合所有であったと思われます。そうしますと、国有にしろ、自治体有(公有)にしろ協同組合所有にしろ、所有の形態が政治に大きなウェートをもってきます。そして、この国家もしくは政治のあり方によって生産力を無限に発展させる可能性があったのに、実際はそれを阻止したというのが2番目の考え方です。今、ペレストロイカをはじめとして、東欧諸国における民主化運動を支持している多くの諸君の立場と言うのはこれに帰着するのではないかと思うわけです。

<生産力をどう捉えるか>
それから、もうひとつの考え方は、いったい生産力と言うのをどうゆうように考えるのかいうことに関連するわけです。知っておられると思いますが、一番公式的な考え方は、生産力と言うのは生産手段と労働力の総体だと、します。そして、それのさらに労働の生産性、~一定の時間に生産手段を駆使してどれほどのものを作れるのかという能率~こういう言わば量にさらに質が加わったものが生産力だと言われるわけです。ところがマルクスは生産力と言うのをさらにいろんな意味に使っておりまして、例えば「哲学の貧困」では、革命的階級、即ち労働者階級それ自体が生産力だと言っている箇所もあるのです。だから、生産力という概念はマルクス自体がいろんな使い方をしておるわけであります。また生産力という場合に、これは軍需生産についても問題となったのですが、軍需生産と言うのは物質を浪費するものであり、このような社会の発展にマイナスになるような生産力というものはこれは厳密な意味で生産力から除外すべきではないかと言う考えもあるわけです。とくに日本では1970年代から高度成長の歪みにより公害問題が生まれてきましたが、こうした公害、あるいは生活環境の破壊~世界的に熱帯雨林をだめにし、一方で地球の砂漠化を押し進めている~今の生産力の発展が果して生産力の発展と言えるのかと言うふうに、生産力概念の問い直しの問題とするのです。だから、我々が生産力の発展と言うときに、特に今、社会主義国における生産力の後進性、資本主義国における先進性、と言う場合に今言った視点からもう一度生産力という概念を見直す必要があるのではないでしょうか。マルクスが「哲学の貧困」の中で、最大の革命的な勢力、労働者階級こそが最大の生産力と言った点、その1点にこだわって生産力と言うものを考えてみますと、労働者階級を腐敗させるような、あるいは労働者階級、人類全体を腐食していくような生産力の拡大と言うのが、今の日本やいわいる先進資本主義各国の生産力の発展、社会主義国での生産力の危機に関して提起されるのではないでしょうか。
「共産党宣言」の冒頭で、「従来の人類の歴史は、階級闘争の歴史であった。奴隷と奴隷主など、これらの闘争は新しい社会を生むか、それとも双方の共倒れに終った」という規定があります。つまり、革命的階級それ自身が最大の生産力である、その革命的階級が、新しい道を解放することがなく、相互の力関係が均衡して共倒れに終ると言うプロセスが進行しており、それは一方における資本主義国における膨大な物的な意味での生産力の拡大と、他方に於ける、地球の言わば汚染として現象しているとも言える。何故、社会主義国の生産力の発展が遅れたのかと言う問題について私達は、したがって次の3点を考慮すべきかと思われます。
一番目が歴史的な後進性、二番目に国有化の主体としての国家、政治のあり方が変わったこと、三番目に、生産力の概念の基本的な再検討が必要であると言うことです。

<国家・党・民主主義>
そして、さらに、今度は、この二番目の国有化、私有を廃止した後の生産の社会的所有の形態と関連して、国有化、国家の問題が出てくるわけです。私は20年ほど前に日本評論社から、現代帝国主義講座の中で「国際共産主義運動の展望と課題」という論文を発表しました。スターリン以来、言われておりますところの、分派を許さない、という考え方は実は誤りではないだろうか。むしろ、スターリンが「レーニン主義の基礎」の中で、分派の存在を許さぬ党というようにしたのは、非合法化に陥られている党であるとか、内戦と戦争の非常事態のもとで、急激に変化するところの情勢に対応して行かなければならないところの党にとっては必要であったかもしれないが、革命と内戦の時代が終った党にとっては、分派の存在が党を活性化し、党内の理論闘争を展開させるための条件ではないだろうか。だからスターリンはレーニンが革命と内戦の時代に書いた文献を平和時まで拡大して、分派の存在を許さぬ党というドグマをつくりあげて、スターリンが党内における自己の政敵を追放していく武器になったのであって、分派の存在を許さぬと言う考え方を改めるべきではないかというようなことを書いたことがあるわけです。今も私はその考え方は変わらないわけであります。つまり、民主主義という場合に、国有化の主体が国家であると、そして国家をリードするのが党、共産党・前衛党と言うことになっていまして、その前衛党の中で分派の存在を許さないと言うことになってきますと、まず、党内の分派、つまり意見の違った集団の自由、の問題が出てきます。そしてもう一つは、階級、労働者階級の党は一つである、そしてそれが共産党だと言う考え方が問題になってきます。労働者階級の党が一つであるというのは、これは終局的にそういうことになるかもしれないが、労働者階級と言うのは一つじゃないわけです。いろんな階層から成り立っているわけです。だから労働者階級の利害を代表する党は、現実には複数政党であり得るわけです。そしてむしろ、プロレタリア階級の党は一つだと言う考え方、終局的にはそう言うことになると言う理想、終着点と、現実の結果を混同するわけでありまして、これが党と労働組合と言う形で結び付きますと、いわいる伝導ベルトの理論と言うのになるのです。本来、複数政党と言うのは、現実には当り前であって伝導ベルトの理論は労働運動の分裂を引き起こすものだということは、何度も私は強調してきました。又、私は労働組合の戦線統一について、党の中では分派の自由があり、また階級の利益を代表するものとしての労働者階級の党は、現実的には複数であり得る、むしろ複数の方が現実的であると述べてきました。そうすると、プロレタリア独裁とこの問題はどう結び付くかということになると思うわけです。この点では、レーニンは革命直後プロレタリアートの独裁を打ち立てたわけですがこのときには内戦があり、さらに言わば対ソ干渉が行われている~米、日本をはじめとする~そして国内は飢えている、という異常な状態の中で、一党独裁を敢行したと考えられるわけです。だからこれだけを取り上げますと、議会主義の否定であります。しかし、こうした歴史的に必然であったところの、ある程度やむを得なかった独裁の形態が1924年、相対的安定期に入って後も、そしてそれ以降も不必要に継続したということが、プロ独裁の名をかたったスターリンの独裁を引き起こし、そして民主主義の発展を妨げたのだと言うことになります。少なくともプロレタリアート独裁と言うのは、労働者階級の独裁であっても、それが複数政党を認めるということになると、複数政党による支配でなければならないわけです。最近レーニンがプロ独裁を認めたことまで過ちであったという理論がソ連内部においても出ているようです。しかし、一体それではこの内戦の時代、世界的な包囲網之中で対ソ干渉が行われ国民大衆が飢えている時代にどういう体制があり得たのかという反論が必要だと思うわけです。だから、歴史の具体的な状況を離れて、プロ独裁がよかったのかどうか、ということは言えないと思うわけであります。むしろ、そういう異常な内戦と革命の時代に、決して望ましくはないけれども、必要であったプロ独裁が、革命と内戦の時代が終わった発展期にまで残ったというところに問題点があった。そしてそれを残すような、それを正答化するような理論がスターリンの「レーニン主義の基礎」をはじめとして、国際的に拡大した、というところに問題点があるのではないか。だから複数政党制と分派の自由と言うのは、当然必要であったと思うわけです。私たちもそうでしたが、はじめ、スターリンの「レーニン主義の基礎」を読んだときはものすごく感動したわけであります。そして「レーニン主義の基礎」などのスターリンの考え方を基礎にして、ソ連共産党史第1版が出たと思うのです。これで教育されたメンバーというのは、おそらくスターリン主義が克服できないのではないかと思います。私自身もかなりこういうスターリン主義の尾を引いておるのではないかと、自問自答しておるわけです。逆に言えば私たちはフルシチョフ報告以後、スターリン主義の系統的な勉強をやってこなかった、というところに一つの問題点があるのではないかとおもうのであります。そして小野さんがおそらく言われたと思うのですが、実は一党独裁と言うのは官僚主義を生み出し、腐敗すると思うのです。これは何も社会主義社会だけでなしに、日本だって、自民党の一党独裁が続けば、やはり腐敗したわけであります。わたしはソ連や東欧をまわって、これを痛切に感じたわけであります。
一党独裁と官僚主義というのは結びついていると思います。民主主義が自由にある国では違った党による政権交替があります。それぞれの省庁の大臣や長官だけでなく、局長クラスまで変わるわけです。一つの党に忠誠を誓っておれば自分が出世できるというのであれば、官僚主義というのが助長されるのは言うまでもないことです。だから、党の中における分派の自由と、労働者階級の中における、それぞれの階層を全面に押し立てて違った意見を述べる政党というのは必然であって、プロレタリアート独裁と言うのは複数政党による政治支配であるというように考えなければならないのではないでしょうか。そして、これが生産力の発展がなぜいわいる社会主義国で遅れたのかという疑問にたいする私流の完全な回答ではないが、それを考えるための一つの足場を提供するものではないかと考えます。くりかえします。生産力概念の基本的な再検討、そして党内のおける、分派、党内民主主義、そしてもう一つは複数政党制、これが疑問解明の重要な柱であると思うのです。

<我々に欠落していたもの>
そして2番目の問題です。マルクスは、人間と言うのは関係の総体であると言いました。例えば、職場における関係がある。また職場との関係で組合との関係、友人との関係、サークルの関係、あるいは家庭内における関係がある。こういう関係の総体が人間である。こういういろんな関係を除いては人間と言うのは何も残らないというのがマルクスの考えである。ところが、女性問題にしましても、人間問題にしましても、マルクスは生産力に対しても生産関係、社会的形式と言うことを強調したわけです。生産力、別言すれば、労働手段も労働力も労働対象も、いつの時代もあるわけです。それがなければ生産は進まない。だからこれは奴隷制社会だろうと、封建社会だろうと、資本主義社会だろうと変わらない。こういう変わらないものを問題にしても仕方がないわけで、それは前提にしておいて、そこにおけるところの形式の違い、その特性を追求するというのがマルクスの基本的な研究態度であったと思います。マルクスの場合、内容はすでに前提されておって、その上に形式における特性を追求する、そうすると、例えば、生産手段における特性、生産手段の機械や道具だけでなしに、高度な装置によるものも生まれてくる。それが個人に所有されておるところから株式会社による所有という形になる。つまり、限定された意味での社会的所有に変わってくる。だからそういう所有の特性を追求することで社会の特性を明らかにする。それがゆえに内容よりも形式における関係を特に強調すると言うのがマルクスの著作にあらわれていると思うわけです。
ところが、マルクスの(私らも含めて)継承者、信奉者は、マルクスが既に当り前のこととして前提としておってあまり言っていない内容についての考察を欠落させていたのです。こういうことがマルクス主義における一つの弱点となって現れたと思うのです。私達はある種の社会的動物ですが、社会的動物である前に動物なんです。そういう一面がマルクス主義では軽視されてきた。それがね、例えば女性問題に関してマルクスの理論がやはり一般の人達に受けない理由の一つになっているように思われます。そして人間は関係の総体だと言う場合にも、マルクスは当然、当り前だと思って前提にしてしまっていたことを我々は省略して、我々の視野から欠落されてしまっていたのです。
私達はこういうふうに考えてきました。下部構造、経済があって、そして下部構造が変わればもとろん社会の上部構造も、社会意識の形態も変わる、もちろん、この下部構造の変化より上部構造の変化が遅れ、さらに社会意識の変化が遅れるにしてもしかし終局的には下部構造の変化が上部構造も社会意識の変化をも引き起こしていく。だから、生産手段が社会的に所有され、自分の労働が即、直接的な形態で社会的労働であるということが容認される社会においては、自分のために働くということは社会のために働くということと直接結び付いており、生産手段の所有が変われば、社会意識も変わっていく。それは歴史的なギャップではあるけれど、終局的にはそれについていくと言う考え方に立っていたと思うわけです。
ソ連においても中国においてもそうなのですが、生産手段が社会化され、上部構造も社会化されていけば、意識も社会化されるであろう、つまり、人間が社会のために規律を持って働くであろうと考えたわけです。このタイムラグがもっとあるのかもしれない。しかし、私達が知る範囲ではソ連でも中国でも私的所有を認め、その生産物を売って、それを自己のものにする範囲ではみんな全力をあげて働くけれども、そうでないところでは何となく、力が抜ける。だから、良く言えば、マルクス主義の人間像と言うのは、理想主義であって、今度の社会主義の変動が、人間に対する理想主義の敗北ではないかということに要約できないこともない。しかし、それではあまりに淋しすぎるわけであります。人間に対する理想主義を失ったら、一体我々はどこへいったらいいのか。
しかし、人間と言うのは動物でありまして、動物と言うのはどんな状況におかれても、楽な状態におかれたら楽なことをしようとする。そういう一面を持っているんですね。まず自分のために働くと言うのが生物共有のものであって、理論と教育によって社会的な側面をもつわけですが、それを絶えず教育と活動によって訓練していかないと、そこへ戻っていくという側面があるのではないか。だから、人間と言うのは合理的存在であると考えてはいけないのであって、実は2面性を持った不合理な存在であると考えるべきかもしれません。マルクス主義であれ、我々が学んできたアダムスミスなどの経済学であれ、人間というのは合理的な存在であると言うことを前提にしています。
実は人間は非合理な存在であって、しかもこういう下部構造から上部構造、社会意識の変化というのは、そう一挙に変えられるものではない。レーニンが商品生産と言うのは絶えず資本主義を生みだしていると言いました。商品生産を拡大したのは資本主義です。しかし、商品生産自体は、エンゲルスも言ってますが、奴隷社会にもあったわけです。つまり、奴隷制社会、封建社会、資本主義社会と、ずっと続いてきた商品生産が資本主義社会になるまでは基本的な生産関係にはならなかったがずっと残ってきたわけです。そして社会主義社会になってもこの商品生産は残ってきたわけです。
この商品生産のイデオロギーというものは実は、我々が生物としてもっている、まず、自分に有利なものを取るというそういうものに基づいてきたのではないでしょうか。一方、時には人間は英雄的行為をするわけです。これも人間の一面なのです。しかしこれはイデオロギーや教育によってでてくるものです。もう一方の動物としての人間から生まれてくるイデオロギーは根強いものがある。
そして何度も言いますが、マルクスは人間の非合理性を省略したわけですが、後世の人間はこれを欠落させて社会的側面だけを強調してきたから、人間の非合理性を忘れて、結局は理想主義ということに陥ったのではないか。これは非常に古い考え方であります。しかしやはり人間と言うのは、つまり、理想主義に、英雄主義に燃えることもあるし、またそのために命を捨てるという犠牲的行為もする。しかし一面においては、わが身さえ良ければよいという動物としての一面をもっているんだという苦いところから、だからそういう人間だからこそ人間を愛するのだというあたりから出発しないと、我々のマルクス主義というのは地に足がつかない理想主義に陥ってしまうのではないでしょうか。

<激動する世界と我々の責任>
最後に、いま起こっているところのペレストロイカを含めた東欧や社会主義国における運動に対する我々の責任と言うことについて触れなければならないと思うわけです。現在、米国と日本で世界の国民所得の3割を占めているわけです。それだけ世界の経済に占める日本の役割が大きくなっているわけです。これは何度も言っていることですが、不況から安定成長期に移るところで、日本の労働者と言うのはものすごい退却をしました。ストライキの件数にしましても、ストライキによって失われる喪失労働時間にしましてもものすごい退却をいたしまして、それが賃上げが少ない割に、膨大な利潤という形で残ったのです。そのために、一方では自分達の首を締めるような、企業における金余り現象となり、それがまた土地投機や土地買収の資金とされ、その上、社会福祉が不自由なために、日本での個人の貯蓄が大きくなり、その貯蓄が銀行を通じて企業にいき、土地を買い占める。今の土地の7割近くが法人の所有になっています。実はその退却が、国際的に他国の労働者が闘いとってきた労働条件に対する攻撃の材料を提供した。いわば、世界的な労働基準の足を引っ張る役割を果たしてきたし、そのうえに、日本の「繁栄」という虚構の繁栄というのが成り立っておるのです。しかもそうした虚構の繁栄に支えられた我々の消費水準の上昇が、言わばデモンストレーション効果を通じて資本主義国に対する幻影を、社会主義国の人々に与えたことは事実だと思います。
しかし、実際には資本主義国には暗黒面もあるわけですが、私達はそういう資本主義諸国の暗黒面を通じて社会主義国に伝えていく責務を果たせていないと思います。だから、今度のリクルート事件でも労働組合としてリクルート事件を追求するデモや行動が組織されなかった。安保のときは国会を包囲するデモをやったエネルギーは遠い昔語りとなってしまった。私達は行動を通じて資本主義の暗黒面を暴露していくことを十分やってこなかった。今度の土地問題でもそうですが、もう土地を、一戸建ての住宅を持つことは不可能になってしまったのです。他の国ではこんな土地の評価の状況があれば、暴動が起こりますよと西ドイツの大臣が言ったと言います。しかし、日本では全くこれを見逃している。しかしこんな日本が米国と共に世界のGNPの3割を占めている。こんな日本に学んでもらうところは何もないと思うのです。ただ日本では利潤のために個人の能力が十分に発揮されています。組織的に生産性向上運動などがなされています。そういうものに対する幻影だけがマスコミを通じて強調される。そしてもう一方の暗黒面が、我々の行動を通じて訴えられない。幻影をもつなと言っても、資本主義をすてて数十年もする社会主義国の労働者が幻影を抱くのは当り前だと言えます。新聞報道によると日本人の8割は現状の日本に満足している。そうしますと実は、社会主義国のあの運動に対しても我々も決して無関係ではない。それほど世界的なことになっているわけです、我々の地位が。しかし、今の日本でも諸君らのような安心して後に託せると思います。どうもまとまりのない話になってしまいましたが、御静聴ありがとうございました。
(昨年4月労青大阪府委員会主催の合宿での講演内容を文章化したものです)

【出典】 青年の旗 No.161 1991年3月15日

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【追悼】追悼 小野義彦先生

【追悼】追悼 小野義彦先生

さる90年11月19日 小野義彦先生が亡くなられた。突然の吐血による入院以来10日間の看護も虚しく、帰らぬ人となった。
生前には、毎年我々の春の合宿においでいただき、卓越した政治経済分析を講義いただき、労働運動や民主運動に関わる若輩の我々に大きな運動の指針を与えて頂きました。
近年はゴルバチョフのペレストロイカに触発され、社会主義運動の反省の色濃い、先生にとっては長年言えなかった事柄を堰を切ったように話されたことをつい昨日のように思いだします。
突然の死が訪れるまで、岐阜経済大学の教員として、また、「知識と労働」誌の編集者として現役の人でありました。書斎の机には赤鉛筆で真っ赤に書き込まれた新聞が残り、整理未了の執筆書類も残されました。昨年の春の合宿では、特にドイツの統一について非常に心配されるとともに、自分自身でもこれまでの社会主義をどのように考えるべきなのか、また今後どうあるべきなのか、若い諸君とともに真剣に追求して行きたいと言われていたのが印象に残っています。

先生の敗戦直後までの運動経験は、「昭和史を生きて」の中で詳しく記されています。戦後は日本共産党の赤旗編集局勤務を経て、京浜地方の労働運動に深く関わられ、その後50年代後半から60年代を通じて、日本の革新陣営全体に巨大な影響を与えた日本資本主義をめぐる論争においては、一方の旗頭として、詳細を極めた論証と説得力あふれる論文を数多く発表されました。それらは、1963年の「戦後日本資本主義論」、「金融寡頭制の確立」、1968年の「戦前と戦時の国家独占資本主義」、1976年の「近代日本資本主義の危機」など数多くの著作にまとめられ、現在においては、もはや疑いの余地なく、先生の理論的正しさが実証され、現時点においてもその理論的核心は生き生きと輝いています。
大阪市立大学の教員になられて以降、大阪・関西の労働運動・学生運動に大きな影響力を形成され、民主主義学生同盟の「生みの親、育ての親」として数多くの活動家を育てられました。東京・関東をはじめ全国で、様々な戦線で小野先生に御指導をいただいた同志達が現在も現役として第一線で活動しています。
70年代以降は「知識と労働」誌を舞台として、政治経済の分析と運動の統一を常に追求されました。また日ソ極東学術シンポジュウムの組織化と定期開催に尽力され、さらには国際太平洋学会の会員として、シベリア、メキシコ、アメリカ、韓国などを駆けめぐり、ソ連、アメリカをはじめ、世界の多くの科学者との交流を通じて、世界の平和と科学の発展、地球環境保護のためになみなみならぬ努力をされてきました。
余りに突然の死。60年以上に渡って進歩と革新の運動に参加された先生の遺志を、その思想を胸に焼付け、労働青年同盟全国協議会に結集する我々は、平和と反独占民主主義、諸運動の統一のために前進することを誓うものです。

【出典】 青年の旗 No.160 1991年2月15日

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【投稿】ペレストロイカの将来への期待と不安

【投稿】ペレストロイカの将来への期待と不安  (森田 一夫)

< リトアニア、ラトビアへのソ連軍の武力行使>
リトアニア、ラトビアにおいて、ソ連軍が武力を行使する事態となった。バルト諸国は最高会議での独立宣言をもとに、ソ連からの一方的な独立を目指していたが、ソ連からの独立に反対する勢力が「国家救難委員会」を組織し、権力の掌握を宣言し、軍が介入するという事態に至ったのである。
バルト諸国でのこの急変については、未だ不明な点もある。軍の行動は誰の指示によるものなのか、ゴルバチョフ大統領は強大な権限をもっているにも関わらず、事態が生じた後で知らされたと語り、「武力の行使に関連する状況は、詳細に検討され、法に従って評価されるべきだ。」との声明を出している。
民族間の対立が、武力によって解決されないことは明らかである。同時に、今日のソ連邦での民族問題が非常に複雑な問題であり、バルト諸国をみても、各民族(共和国)の自決と主権の問題であると同時に、これまでのソ連邦の歴史の結果、各共和国におけるロシア人など他の民族の比重も相当大きいという特徴をもっている。
ゴルバチョフ大統領は連邦の問題、各共和国・民族の問題については次のように語っている。
「主権と離脱権に関する問題はそれぞれ異なる問題である。第4回人民代議員大会で、離脱問題は詳しく論じられた。主権の問題に関しては、本質的な違いはない。一方、連邦からの離脱権に関していえば、その決定は、まさにその民族のみが権限を持つ。共和国における国民投票が最終的な審判となろう。離脱へのプロセスそのものは、もっぱら、法律を基礎にし、すべての歴史、経済、人口・民族分布民族心理上の状況やその他の状況を考慮にいれて実施することができる。
民族の主権と自決権を実現すればソ連邦の崩壊につながると考える人がいる。私はそうは考えない。その逆に、このおかげで私たちの共通の国家の活力が高まると確信している。この共通の国家が何世紀にもわたって多民族国家として形成されてきたというのが現実だ。度のような重大な変化が起ころうとも、この共通の国家は多民族国家としてとどまるであろう。私たちの国は、世界でも最大だ。その崩壊は、率直にいって、地球規模の不安定を引き起こす要因をはらんでいる。私たちはそれをさせる権利はないし、させはしない。」(朝日新聞とのインタビュー)
あとのソ連邦の崩壊はないとの発言は、希望の表明、保守派への配慮として受けとるとして、私としてはゴルバチョフ大統領の連邦離脱プロセスは、真剣な提案であると思う。リトアニア、ラトビアへの軍の行動はあるが、ロシア共和国で主権宣言がされるなど、ソ連における連邦の問題、民族問題は新しい関係が模索されているという流れは消滅しないと思う。しかし、今回の軍の行動はその責任がどこにあるにせよ、民族問題解決にとっては新たな困難要因となっているということができる。

<シュワルナゼ外相の辞任>
シュワルナゼ外相の辞任には世界中が驚いた出来事であろう。彼は最高会議で「独裁制が近づきつつある。抗議のために辞意を表明する。」「『内相の次は外相を追い出す番だ』という最高会議議員の話がマスコミに流れた。だが、だれもこうした動きに反発しようとはしなかった。」「民主派の同志諸君。君たちは四散し、逃げ隠れしている。独裁が近づいている。……わが国で起こっている出来事、我が国民を待っている試練に私としては妥協できない。」と語り、辞任したのであった。
後日、彼は、インタビューに応えて「トビリシ事件、バクー事件(いずれも軍による流血の鎮圧)が繰り返される可能性がある。秩序回復はよい。しかし、それは力を意味する。危機の打開には人民が団結すること。民主勢力が自主独立のために、民主主義を守るため団結することだ。私の考えでは、大統領の新しい権力や他の厳しい手段は役に立たない。民主主義の進展と暴力は共存できない。もし惨事がおきたら、『新しい思考』は意味がなくなり、これまでの対外路線はとれなくなるだろう」と、語っている。
ソ連では、ペレストロイカによる経済改革が成果を見せず、食料危機を初めとする経済危機、民族対立の激化による社会秩序の低下などが増大し、それに対し、「法と秩序の回復」を重視する保守派の勢力が増大している。保守派からは「新思考外交」に対する批判も強く、ドイツ統一や東欧での「社会主義」の放棄を認めた、また、東西軍縮交渉では譲歩し過ぎている、湾岸危機ではアメリカに追随している、といった具合いに。「東欧からのソ連軍の撤退は、シュワルナゼの大きな誤りだった。いま、兵士たちは宿舎もなく、ソ連国内でテントで寝ている」(国防省の機関紙「赤い星」)というように、国内での経済改革の遅れと、軍縮による軍と軍人の処遇を結びつけて攻撃している。国際関係の緊張緩和が本来歓迎されるべきなのにそれによって攻撃されるという皮肉な結果となっているのである。

<苦痛を伴う経済改革>
ソ連経済を立て直すため、ゴルバチョフ政権はこれまでに、個人営業の公認、外国資本進出の承認、個人農の創出、などの試みを進めてきた。中央からの画一的な計画と指令による硬直化を克服するために市場経済への移行をすすめている。
昨年5月には、ソ連政府は、国営企業の株式会社への転換など、多様な経営形態を発達させて、段階的に市場メカニズムの導入を目指す市場経済移行基本構想を示した。しかし同時に、食料品の大幅な値上げなどを打ち出したため、モスクワなど各地で市民の買いだめによる混乱が発生した。
また、市場経済の具体的計画については、五百日で実現させるという経済学者シャターリン大統領会議員の案と緩やかな移行のルイシコフ首相の政府案が対立。ロシア共和国最高会議は9月に、両案の一本化を目指す連邦政府を無視してシャターリン案を承認した。 ソ連最高会議は10月、結局1年半から2年間を一応の目標に、4段階での市場経済移行を目指すゴルバチョフ大統領の妥協案を採択した。
ロシア共和国は11月1日から「五百日計画」の実施に乗り出したが、連邦との調整などもあって事実上、暗礁に乗り上げている。
一方、今年のソ連の穀物生産は二億三千五百万トンにのぼるとみられ、過去最高の78年に迫る勢いにもかかわらず、モスクワをはじめ各地では、さらに従来から問題だった流通の混乱、食品産業の遅れにより食品加工工場の処理能力が追い付かない、などの理由で食料供給が進まず、肉加工物やミルクなどが大幅に不足するという事態になっている。
経済改革は、ペレストロイカにおけるもっとも重要な課題である。それは、社会のあらゆる階層に大きな影響を与えるものであり、これまでになされた改革、また、これからされようとしているどの改革も、政治闘争の大きな課題となっているし、なっていくであろう。ゴルバチョフ大統領もこの点を認識した上で、次のように語っている。「実際この国(ソ連)の潜在力は非常に大きい。科学の潜在力も、人的潜在力も、自然の潜在力も」「だが、このメカニズムには、よい原動力を入れなければならない。私たちは、それは所有制度の改革だと考える。私たちは労働へ強力な刺激をもたらさなければならない。また私たちは徹底的な構造変革を遂行する必要がある。私たちの経済は原料部門が重くなりすぎている。軍事化が過剰である。そして私たちはすでに(やるべきことを)行っている。経済関係の改革もしているし、構造変革をも開始した。そして私たちは先進諸国との広範な協力をも重視している。そしてそのための提案も多い。」「しかし、経済の新しい形態への移行は、困難をともなって進行している。それはわが国の経済実態に起因するものでもあるし、私たちに改革の経験がなかったために誤算や誤りを犯したことにもよる。そして、特に私たちの大きな誤算は、貨幣の量と商品流通のバランスを制御できなかった点にある。」「わが国は金融・信用制度や、貨幣・財政制度の安定化、健全化の段階を迎えなければならない。我々はさし迫った問題に直面しており、消費市場の状況が極度に緊迫をしている。これらを早急に解消することが急務であり、それを解決して初めてわれわれは市場経済に向けて、自由に、大またで進むことができる。」(朝日新聞とのインタビュー)
このような経済改革は、うまく実施できるという保証はない。改革の影響はすべての人をまきこみ、その結果、バチカン内相を解任に、シュワルナゼ外相を辞任に追い込んだ保守派を勢いづけるものになるかも知れない。

<資本主義の方が社会主義よりよかったのか?>
ゴルバチョフ大統領は「私たちが始めた市場経済への移行は、社会主義と資本主義の間の違いをなくすものでなく、私たちが資本主義の社会経済的、政治的倫理を借用することを意味するものでもない。 それに『純粋な』資本主義はどんな社会にも存在しなかったし、まして現在は存在していない。資本主義的所有の形態も、経済、社会政策も重要な発展を遂げてきており、それはしばしば社会主義から借用されたものである。そして現代の社会主義の理念は、市場関係の経験をも含め、資本主義の条件の中で人類の思考と実践が達成したものを否定したり、放棄したりすることを意味するものではない。」(朝日新聞とのインタビュー)と言う。
ペレストロイカとグラスノスチによって、明らかにされたソ連の困難、東欧での激変を見るにつれて、社会主義の衰退のイメージは一層強くなっている。
しかしながら、資本主義も社会主義の登場によって、「福祉国家」となっていったこと、今日においてもその基本的傾向は変わっていないことは、例えば、今日では「高齢社会」への円滑な移行が日本のあらゆる社会階層にとって重大であり、政府自民党にとっても、高齢社会への移行はもっとも重要な政策課題の一つとなっているのである。

<我々もペレストロイカを!>
ペレストロイカは、社会発展のためには民主主義と公開がもっとも重要であることを指摘してきた。さらに、社会発展への熱意と意欲、創造性を持たない人々が官僚的な組織の中で安住し、教条主義的に振る舞い、発展への大きな阻害要因になっていることを暴露してきた。
ペレストロイカは、ソ連社会、共産党での改革を進める取り組みではあるが、ペレストロイカが投げかけている課題と教訓は、民主主義運動、労働組合運動においても当てはまるものである。ゆえに、ペレストロイカの課題と教訓をかみしめて、私たちの運動と組織を点検し、新たな一歩を踏み出していかなければならない。

【出典】 青年の旗 No.160 1991年2月15日

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【投稿】湾岸戦争の早期停戦に向けて

【投稿】湾岸戦争の早期停戦に向けて
    アメリカの戦争開始糾弾!自衛隊の派兵阻止!アメリカヘの軍事協力反対!

(1)戦争開始は解決ではなく、中東戦争に拡大しつつある。
1月15日の国連のイラクのクウェートからの撤退期限の翌日未明、アメリカはイラクへの空爆を開始した。期限切れ以降の水面下のイラクとの折衝は最後的に断ち切られた。アメリカは軍事的「解決」を交渉による解決に先立てた。16日のアメリカによる爆撃は「大成功」と伝えられ、戦争への早期「解決」への幻想を国際的に振り撒いた。しかし、18日、19日イラクがイスラエルへミサイル攻撃によって、事態は新しい局面を向かえている。ヨルダンはイラクへの支持の国会決議をした。イスラエルの対イラク参戦という事態になれば、4度に亘る中東戦争に係わったアラブの国々がもはやイラク支持の立場へとはっきりと変えるであろう。イラクのクウェートの軍事的併合を糾弾しようと、パレスチナ問題がなくなったわけではないのであり。この間題でイスラエルとアメリカは直接の侵略者なのである。
事態の推移は短期的な戦争による決着の幻想を払拭しつつある。アラブ対アメリカ、イスラエルの構図へと拡大していく方向へ進んでいる。フランスなどヨーロッパの各国はイラクのクウェートからの撤退を目的とする攻撃以外には加わらないと述べている。当初イラクへの空爆へ加わった各国は戦争の性質の変化、戦争の拡大に従って協力を止めていくであろう。
地上戦に入れば、少なくとも、数カ月の戦争継続になるであろう。プレジンスキー元大統領補佐官は1日10億ドル、何千人、何万人のイラクの民間人が犠牲になり、米兵の死者も何千人に及ぶだろうと述べている。(月刊ASAHI11月号、1990年)彼によれば、アメリカが解決すべき問題を3つ上げている。
①石油の安定供給(サウジアラビア、アラブ首長国連邦の防衛)、②イラクの軍事力による他国の併合を許さず、クウェート政権の復帰させる、③中東の安定化のために巨大になったイラクの軍事力をなんとかする。当初の経済封鎖という平和的方法では、①の問題はなんとかできるが、②の問題は長い時間が掛からないと解決せず、③の問題は解決しないという。アメリカの軍事行動の目的のひとつは明らかに自らも手を貸して大きくなったイラクの軍事力をたたくことが目的であろう。決して、事態そのものの解決を目指してはいけない。彼は軍事による行動はイスラエルが強く望んでいると述べ、ハイテク戦争の分前としてのハイテク軍備を供与してほしいと望んでいるという。彼は、戦争は事態を複雑化するだけであり、シリアやトルコなどの領土要求をも引き合いに出してしまう可能性もあると指摘していた。

(2)国連平和法案の論議をまったく無視する海部政権-自衛隊派兵阻止!戦争協力反対!
国会での自衛隊の派兵、アメリカへの援助の論議は荒唐無稽である。平和憲法の精神にたって、自衛隊の派兵はできないこと、援助は武器、弾薬に使わないこと、等の答弁が一切無視されている。この戦争の見通しを一切持たない日本政府の政策なら一切しないことが和平への協力であろう。戦争への荷担は深刻な長期化に役立つのみである。
今、思いを胸の打ちにとどめてはいけない。形に行動に現すときである。あらゆる所で「わたしは戦争はいやだ」ではなく「この戦争には反対だ」というべきではないだろうか。反対の世論が累々たる死体の山を前にしてしかできないはずはない。過去の多くの経験を私たちは持っているはずだ。ベトナム戦争の記録、レバノンの虐殺の記録(「サラーム」)などなど。多様な行動を作りだし、人々の心を結びつけよう。
(3)湾岸戦争の早期停戦にむけて
この戦争は問題を解決しない。それどころか戦争の継続は事態を複雑化させるだけであり、戦争後に新たな問題を生み出すだけである。フセインの領土要求には、帝国主義の国益による国境線の確定という歴史的根拠があるだけであり、パレスチナ問題の存在がアラブの人々のフセイン支持の背景になっているのである.これらの問題を無視して、イラクとの妥協の余地はない。アメリカこそ事態の平和的解決の棟々な案を拒否してきた張本人である。フセインをここまでかたくなに追い込んだのはアメリカである。戦争の停止とフランス、サウジアラビアなどの第3国による調停が事態を解決するだろう。そこでは、イスラエルによる侵略の問題を見ないアメリカの立場の変更が要求されるであろうし、単純な戦後国境の確定の原則は中東には適用されてはならないのではないか。中東の国境問題は現在の問題であり、米ソの枠組の中で解決しえない問題なのである。中東諸国自身の利益を中心にした国際会議が開かれるべきである.
今は戦争反対の世論によって各国を戦争から手を引かせることである。日本から1人の自衛官も出させない。人殺しの金を1円たりとも出させない。戦術核、トマホークを積んだ艦船を出させない。戦いが必要であろう。
(1.19 東京K,都委員会旗開きにて提起)

【出典】 青年の旗 No.160 1991年2月15日

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