【投稿】ソ連・東欧の激変と先進資本主義国の特権的繁栄について

【投稿】ソ連・東欧の激変と先進資本主義国の特権的繁栄について

①ソ連共産党が事実上解散するとの報に接して、もはや現時点ではやむを得ない選択だとしても、実に残念な気持ちになりました。ロシア革命そのものは---当初からの問題点もいくぶんはあったとしても---偉大な業績だったと信じています。しかし、内戦や干渉戦争の時代を通じて、しだいにスターリンの独裁が台頭し、階級の利益の名のもとに人類の利益(民主主義)をふみにじる思想が支配するようになったことが、この敗北につながったのでしょう。悔しいことです。「フルシチョフの改革が挫折させられた時点で共産党の未来は断たれていたのだ」というソ連共産党員のコメントがありましたが、そうだったのかも知れません。
②毎日新聞は社説で「隣国で社会主義という実験が失敗したが、失敗してざまあ見ろでは酷すぎる、この痛みを分かちあうことが必要だ」という趣旨を書いていました。これが、せめて良識ある人間の感じ方でしょう。これに比べて宮本顕治氏や日本共産党の言いぐさはひどい。「世界に害毒を流してきた大国主義、覇権主義の党が解散するのは諸手をあげて歓迎」とは何事かと思います。ここには人間の営みに対する尊敬が全くありません。あるのは「とにかく正しいのは我が党。見解の違う人間は滅びよ」という、およそ民主主義とは無縁な考え方です。これこそがスターリン主義そのものだということに、どうして気づかないのでしょうか。
③エリツィンという人は山師ではないのか。ずっと以前から、会議でゴルバチョフの案に一人だけ反対してみたりして、とにかく目立つことと、人々の反共意識に迎合することを最大の行動指針としてきたように思われてなりません。クーデターの時も、わざわざ戦車に飛び乗って演説するパフォーマンスを演じてみたり、クーデター失敗後のロシア共和国最高会議でゴルバチョフを人々の前でいびってみたり、自分の人気を高め、ゴルバチョフへの信頼を失墜させることに最大の関心があるとしか思えません。そういう機を見る才能、迎合の才能はたいしたものだと思いますが、連邦政府人事への口出しにしても、自分が権力を握っているロシア共和国の力を高めることだけ考えているのが歴然としていて、人類的な視野でモノを考える人ではないと思います。ロシア帝国主義の復活すら私は危惧しています。杞憂であればいいのですが。
④これからの世界では、社会主義革命そのものは、とうぶん人々の賛成を得られないでしょう。しかし、言うまでもなく。マルクス・エンゲルスやレーニンが語った「完全な民主主義としての共産主義」は普遍的な目標です。世界共産主義運動がこれだけの歴史的な敗北を喫した以上、戦略的な建て直しが必要なのは当然だと思いますが、平和と民主主義を掲げる闘いは、常に変わらない人類的価値があると思います。
それに関して、東欧の社会主義離れのころから考えているのは、日本のような先進資本主義国の「特権的繁栄」についてです。
ソ連を含め、社会主義諸国の人々は、日本などを見て「あんなふうに繁栄できればいいな」という羨望を持った。そこには、議会制民主主義、自由な報道、自由な言論、そして三権分立など人類の民主主義を求める闘いの貴重な成果である諸原則(残念ながらマルクスやレーニンはそれらの否定的な面ばかり強調したきらいがあった)にたいする正当な要求も含まれていたわけですが、同時に、自国に比べて経済的に非常に繁栄していることにたいする羨望も大きかったでしょう。だから、東ドイツが西ドイツに編入を決めたとき、私などは「そんなに資本主義が良けりゃあ、一度おれらみたいに資本にこき使われて過労死するまで働いてみたら?」と冷やかに思ったりしたこともありました。
実際、日本などの繁栄は、東欧諸国の労働者には想像もできないほどの労働強化に支えられている面があるでしょう。しかし、それと同時に、弱肉強食の資本主義世界経済では、勝者となった先進国が、低開発国を踏台にして特権的繁栄を謳歌しているのであって、社会主義諸国はこれほどの繁栄はけっしてできないし、またしてはならないのではないか。その意味で、先進資本主義諸国に対する批判においては「南北問題」がもっともっとクローズアップされなければならないと思うのです。
人間は、物質的な利益がともなわないと政権に対する信頼は持たないから、社会主義政権が経済政策に失敗して人々の生活を向上させえなかった結果、そして、それに対する自由な批判の権利を押しつぶし続けた結果、人々から見離されたのはやむをえないのかもしれない。しかし、そこには、弱者の犠牲の上に立つ特権的繁栄を選ばなかった結果として人々に見離されたという面も含まれていたような気がしてならないのです。だとすれば、残念至極なことでこれは陥ってはならない落し穴だと思います。先進資本主義国内では自国の特権的繁栄が糾弾されねばならず、社会主義国の人々もアメリカや日本ごときに(その議会制民主主義や言論の自由という面は別として)憧れてはならなかったのではないでしょうか。先進国の労働者は、非抑圧民族にとっては加害者の面を持つとレーニンも指摘していました。
要するに世界的な規模での民主主義の発展のための中心課題は南北問題にあり、特権的繁栄に対する批判が浸透するか否か、人類が進歩を続けるためにカギではないかというのが私の考えです。たとえそれがどんなに困難な課題であっても。
繁栄の批判なんて、だれが耳を貸すものか・・・と嗤われそうですが、それが無理なら「社会主義などという高級な理想は、しょせん人類という低級な生き物には無理な絵に書いたモチでした」と告白するしか道はないのでしょうか。
(奈良 石田)
(上記の石田さんの投稿の表題は編集部がつけました)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

カテゴリー: ソ連崩壊, 思想 | 【投稿】ソ連・東欧の激変と先進資本主義国の特権的繁栄について はコメントを受け付けていません

【投稿】自滅クーデターの提起したもの

【投稿】自滅クーデターの提起したもの

<平和の布告から七四年>
「もし、なんらかの民族がある国家の境界内に強制的に引き留められているなら、もしこの民族が希望を表明しているにもかかわらず、その希望が印刷物で表明されていようと、あるいは人民集会で、あるいは政党の決定で表明されていようと、あるいは民族的抑圧に反対する憤激やほう起のうちに表明されていようと、同じことである、この民族に対して、合併する側の民族、一般により強力な民族の軍隊が完全に撤退したうえで、この民族の国家的存立の形態の問題をいささかの強制なしに自由な投票によって解決する権利がこの民族に与えられていないなら、そういう合併は併合であり、すなわち略奪であり暴行である。」
これは、一九一七年十一月八日夕刻、全ロシア・ソビエト大会の壇上から、民衆の熱狂的な歓呼と拍手の中でレーニンが自ら起草し、報告した革命権力の最初の布告、平和の布告の一節である。同じ日、レーニンは第二の布告、「農民に土地を!」という土地に関する布告を報告し、「農民自身に全問題を解決させるがよい、彼ら自身に自分の生活を建設させるがよい」と断言した。「平和、土地、パンを!」を掲げて、「世界を震撼させた十日間」のあのロシア革命が提起した課題が、ソビエト権力七四年後の今日、自らの危機の爆発の中で問い直され、レーニン像が撤去され、レニングラードがペテルグラードに戻り、共産党の解体によってようやく実現への道に踏み出すというのは、何という歴史の皮肉であろうか。ヒトラーとスターリンの密約によって、まさに暴力的に「併合」されたバルト三国の独立が、クーデター後に新設されたソ連国家評議会の決定によって承認された。ゴルバチョフ大統領と一〇共和国指導者の声明は、「その意思のある共和国は主権を持った国家による連邦条約を準備し、調印する。この条約では、個別の国家は連邦への参加形態を自主的に決定できる」として、「平和の布告」の精神が七四年を経過して初めてよみがえったのである。

<マルクス主義と民主主義>
ジョン・リード描く感動と希望の十日間に対して、「八月革命」というにはあまりにもあっけないクーデターの三日間ではあったが、平和と進歩、社会主義を目指してきた勢力にとっては、これまでにもましていくつもの重要な問題が投げかけられているのではないだろうか。
その第一は、やはり民主主義の評価にかかわる問題である。左翼勢力がえてして軽視し、社会主義に比べて次元の低いものとし侮蔑してきたあの民主主義である。現実の社会主義の経験の危機と破産は、社会主義を社会の全面的な民主主義化の過程として考えること、民主主義の徹底こそが社会主義であるという思想の重要性をあらためて提起したと言えよう。それはまたマルクス主義の三つの源泉の問題でもある。マルクス主義こそが、人類的な科学的遺産と成果を継承し、それをよりいっそう発展させる創造的な科学でなければならなかったのである。民主主義をめぐる形式主義的理解、多数決原理や単純な支配形態論、法治国家や三権分立に対置されたプロ独裁論、これらはマルクス主義の創造的発展とは無縁なものであったといえよう。現実の歴史は、社会の全領域における民主主義の徹底的な発展と保障、その質的な内容の豊富化と大衆化というものが、国家権力や社会の民主化、生産関係の変革、したがってまた生産力の発展、さらには人類的課題の解決と直接的に結びついており、密接不可分の関係にあることを示したのである。

<虚構の崩壊>
現実の社会主義の虚構を崩壊させたものは、新しい民主主義的発展の可能性を幾度となく押し潰してきた閉鎖的でセクト的な唯一絶対の指導党・前衛党思想であり、それと結びついた党・国家官僚による社会生活の治安国家的傾向である。もう一つあえて言えば、市場経済の廃止であり、社会主義を市場と切り離すことによって、計画経済のよって立つ基盤を掘り崩し、市場を通じた民主主義の貫徹を圧殺したことである。一言で言えば、民主主義の欠如である。それを克服する機会は幾度となくあった。レーニンのネップへの政策転換がそれであり、一九三五年のコミンテルンの統一戦線政策への転換、社会主義への多様な道を提起したソ連共産党第二〇回大会、トリアッティと社会主義へのイタリアの道、プラハの春と人間の顔をした社会主義、等々、これらをことごとくブルジョア民主主義への屈服として否定してきたのが現実の社会主義であった。

<ペレストロイカの果たした役割>
ゴルバチョフによって提起されたペレストロイカは、その意味では社会主義の民主主義的再生への挑戦であるともいえよう。「レーニン以後、最大の誤り」などといった共産党宮本議長らの主張とは反対に、レーニン以後はじめて真の共産主義者が登場してきたのではないかというのが実感であった。しかし七〇有余年にわたって蓄積されてきた反民主主義的悪弊とそれを支えてきた勢力は、けっしてあなどれるものではないことを今回のクーデターは示したし、今後も示すであろう。幸か不幸かゴルバチョフ自身がそれとの苦闘に明け暮れていたのである。エリツィンが「大統領は、改革を首尾一貫して行わず、党官僚の攻撃の前にしばしば降伏した。彼がヤナーエフやクリュチコフ、ブーゴ、ヤゾフらの正体を知らなかったとは思わない。今、われわれは彼に不満をぶつける権利がある。クーデター後、ロシアはすっかり変わり、彼も別人になった。多くのことを評価し直せるようになった。私は、クーデター以前よりもずっと大統領を信じている」と発言しているのは事実であろう。一方、シェワルナゼが「ゴルバチョフはクーデター派のとりこだった。しかし戻ってきて記者会見したときもまだとりこだった。右に左にゆれる傾向、人を見る目のなさ、民主勢力に対する信頼のなさ、等々によって暴徒を育ててしまった」と不信をあらわにしているが、クーデター派に屈服しなかったことは事実であり、そのことの意味は極めて大きく、その後の一連の改革過程でゴルバチョフが果している役割は過小評価できないであろう。ましてやクーデターは、八五年に彼が登場して以来、社会の民主化を大きく前進させたペレストロイカによってついえ去ったのである。

<カオスからの脱出の道>
クーデター派は、ある意味では壊滅的な打撃を受けたであろうが、事態はそう楽観しえないのではないだろうか。レーニンがたびたび厳しく指摘してきた大ロシア民族主義が再び頭を持上げてきており、極右極左の民族主義が跳梁し、民族間紛争の火種は以前にもまして拡大さえしている。不足経済と国家独占的企業体制のもとで私利私欲を肥してきた膨大な党官僚や国家官僚は、市場経済化を生死をかけた最後の機会として国有財産の私的略奪、私的企業支配、マフィア的市場支配へと動めいており、経済的混乱の拡大を最大の利益としている。いわばクーデターや反動的政権転覆の温床はつきないほど広範に存在しているといえよう。それにもかかわらず、このカオス的状況からの脱出の道は、権威主義的、権力主義的解決によってはけっして開かれるものではなく、全面的な公開制と民主主義的な改革に基づく全民主勢力の結集によってしか切り開かれないであろう。そしてこれに対する国際的な政治的経済的な支援と連帯は、相互依存的な国際社会の平和的民主的発展にとっても不可欠の緊急の課題となっているのではないだろうか。
(生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.167 1991年9月15日

カテゴリー: ソ連崩壊, 生駒 敬, 社会主義 | 【投稿】自滅クーデターの提起したもの はコメントを受け付けていません

【追悼】あの笑顔 -安部さん逝くの報に接し-

【追悼】あの笑顔 -安部さん逝くの報に接し-

どうしてあんなに誠実な君が先に逝かねばならないのだろうか
私にはわからない
背筋を伸ばし、あごを引いてまっすぐに相手を見る
しかしその目は、どこか気恥ずかしげで、シャイである

辛抱強く相手の言葉に耳を傾け、気紛れでない
率直に、もってまわることなく、だが丁重に意見を述べる
時には激して身振り手振り、全身で語る
しかしそこには驕りや冷笑的態度は微塵もない

あの明治大学学生時代、民主主義のために闘うことの意味を
民主を冠した集団の暴力行為を身に受けながら
復讐や怨念のために闘うものではないことを静かに示し
しかしその無私無欲な献身性には強固な意志が光る

あの時代、あなたの下宿に寄り集い
共に闘った仲間たち、その後も輪を広げ、連帯し
共に語り、悩み、反省と悔悟の念をもって思索する
しかし今こそ必要なこのときに、あなたの笑顔が焼き付く

                  1991/7/28
                  安部さん逝くの報に接し
                         生駒 敬

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

カテゴリー: 生駒 敬, 追悼 | 【追悼】あの笑顔 -安部さん逝くの報に接し- はコメントを受け付けていません

【投稿】コップの中の議論から脱出して

【投稿】コップの中の議論から脱出して
                                                                    —-波高し、田辺社会党の船出—

「田辺 誠=46,363票、上田 哲=36.358票」という接戦の未、社会党に26年ぶりの「右派」委員長が誕生した。そして党改革案を7月30、31日の臨時党大会で修正可決し、ようやく新執行部が選出された。
もともと田辺氏の政権構想には、社会党主導の野党連合政権に至る過渡的政権としての「自社連立」があるが、これを警成する地方の活動家を中心に予想以上の反発を買い、上田氏への票の上積みとなった。臨時党大会で「改革派」は、このような田辺批判票の多さに気配りを強いられ「基本政策の見直し」については、譲歩せざるを待なかったが、「党務と政務の分離」については、前進した。
前者については、表現の微妙な言い回しを別として、冷戦の終焉によって強まる米ソ協調体制づくりを背景に、「非武装中立政策」の見直しの必要性が、党中央の共通の認識となりつつあるにも関わらず、地方の活動家との間に認識の乖離があることを証明することになった。土井体制の下での党内改革議論のモラトリアムのツケが、ここにきて表面化したと言えるのではないか。それは一面では、統一自治体選挙以降のこの間の改革議論の不十分さをも物語っており、今後の党内の徹底的な改革議論の推進が、田辺執行部の方針として真っ先に打ち出されなければならない。
後者については、書記局主導の党運営を国会議員主導に切り換えることを狙いとしており、86年の「新宣言」で打ち出した「西欧型社会民主主義政党への脱皮」にとって、不可欠の要素と見られていただけに田辺氏周辺は大きな成果としている。
しかし本当の党改革は、これからの政治改革の主体となるべき党外の多くの市民、若者、女性、未組織労働者、中小企業等々の中へ社会党が裸で飛び込むことによってしか成しえないということに、党内の多くの活動家や幹部や各級議員が一日も早く気づくことから始まるのではないだろうか。そして、平和、人権、環境、国際連帯・協力、選挙制度、税制、バブル経済、等についてもっと現実的であると同時に、大胆な改革政策を提起することである。公平、平等、連帯、機会均等、徹底した公開を原則に受け身ではなく、攻勢的な民主的代案をこそ提起する必要があるのではないだろうか。誰が、増え続ける「支持政党無し層」を真っ先にキャッチするかに、90年代の日本の進路が掛かっているのである。 (8月4日 大阪 M)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

カテゴリー: 政治 | 【投稿】コップの中の議論から脱出して はコメントを受け付けていません

【投稿】リアリストでなければ政治は語れない)

【投稿】リアリストでなければ政治は語れない)

日本の政治は、いま大きな曲がり角にきている。衆議院の選挙制度の改革案をめぐっての自民党内部での議論。統一自治体選挙で一挙に史上最低の議席数に転落した社会先のこの間の党改革案をめぐっての議論。これらは、いずれも「党内を二分しても構わない。既存の政党が自ら身を切り、血を流さねば、激動する国内外情勢に対応した政治改革などできるわけがない。その努力を怠った政党は、完全に国民から見捨てられる」という危機意識が底流に存在していると思われる。
(身を切る覚悟のない改革など政治の世界で実現したためしがない。社会党の党改革もそこまでいかなければ、完全に国民に見放されるだろう。)
ようやく日本の政治の世界にも、世界的なベレストロイカの波が、およんできたといえるのではないか。まさに時流に乗った適切な危機意識であり、これらの改革案に対して、これまでの決まりきった「左翼の論理」による機械的な反対意見や傍観者に終始するものは、完全に時代から取り残されていくことを覚悟しなければならない。
’90年代は非常に厳しい変化の時代である。我々のこれまでの常識、価値観が次々と崩れている。古いものが滅び去り、新しいものが噴き出してきている。今日政治の世界で、何が保守で何が革新かということについて、これまでの物差しで図れなくなっていることを、自覚する必要がある。いま、自民党が保守で、社会党・共産党が革新という占言い方は、実態に全く合わず、完今に時代遅れとなっている。
これまでの政治・生活のあり様を是とし、これを守ろうとするのが保守であり、これを変革しようとするのが革新であるはずであった。1967年に誕生した美濃郎都政を革新都政とよんだのは、これまでの中央政府にしばられた従来の地方自治のあり様から、中央政府と対抗し都民本位の地方自治に変革しようと実践したからである。地方自治の革新である。
1980年以降、政府・自民党は、国際政治経済状況の変化と日本経済・国民生活の変化に対応させるために、矢継ぎ早に改革路線を打ち出してきた。その象徴的政権が、中曽根内閣ではなかったか。「行政改革」から始まり「電電公社や国鉄の民営化」「臨教審による教育改革」「売上税導入による税制改革」等々まさに「戦後政治の総決算」を行おうとしたのである。それに対して革新と.言われてきた政党、労働組合、民主団体どう対応したか。「行政改革反対!地方自治を守れ!」「民営化反対・!国鉄を守れ!」「臨教審反対!民主教育を守れ!」見事に「反対・守れ」路線のオンパレードであった。姿勢そのものは、全く保守である。
どの課題をとってみても、現状のままでは矛盾が拡大するばかりであり、改革しなければならない事については、誰もが認めざるをえない課題ばかりであったはずである。問題はどういう内容で改革するかをめぐって政治の場で争われなければならないにもかかわらず、野党が具体的対案を打ち出すことができない結果として、「反対・守れ!」路線となってしまったのである。改革すべき課題に対して、どう改革すべきかという対案抜きに、ある具体的改革案が気に入らないからと言って反対するだけでは、まわりの支持を失うのは、我々の身近な生活の中では常識に帰するものと言える。
この我々の生活レベルの領域では常識的な事柄が、政治の世界では認識しようとしない、できない者が、社会党や共産党、総評系の労働組合幹部・活動家といわれる人の中に、減ってきているとは言え依然として大きなウェイトを占めている。こういう人達を、いまのソ連における政治改革での保守派、改革派にたとえて言うなら、まさに保守派と言い、社会党や労働組合の組織改革、政治制度の改革を妨げている、一つの大きな障害物なのである。いまの世の中を非として改革しようとするものが、いまの世の中のどこが問題で、どう変革しようとしているのかという具体的プランを示そうとせずに、政府・自民党が打ち出す改革案に批判だけして反対する構図は、議会制民主主義制度を持った先進資本主義国での政治の場で・は、ますますその有効性を喪失してきており、激動する今日の時代では全く政治的に無力となっていることを自覚する必要があると言える。
問題は、どんな改革案を打ち出すか、打ち出せるかと言うことに尽きる。「政府・自民党の改革案に反対なら、対案を出せ!」と言うのが、政府・自民党のみならず、一般国民の普通の感覚である。これまで、問題点矛盾点を批判することは得意だが、自ら改革案を作り上げる、創造すると言う訓練を怠ってきた、逆に言えば訓練をしなくても済んできた社会党、労働組合、民主陣営に、対案を出せる力量があるのかどうか、どうしたら対案が出せるようになるのかについてこそ、我々は真剣に考えなければならない。
対案を出すためには、まず政府・自民党の改革案を具体的に徹底して検討することが必要なのである。安易にここが悪い、あそこが悪いといった表面的、揚げ足とりてき検討をやって、それを要領よく文章化しそれに従来の左翼的理屈をつけて社会党の見解だとする従来のやり方では、いつまでたっても有効な現実性をもった対案などできるはずがない。政府・自民党の改革案には、なに故に改革しなければならないのかという、改革すべき対象に対する徹底したリアルな分析がある。そのリアルな現状分析をふまえてどう改革するのかというところでその党の立場性が出るのである。改革案の底に流れる政府・自民党の現状分析をこそ徹底して検討すべきなのである。その現状分析は、やはり政権政党だけあって、現実を的確に反映した正確性の高いものである。これをもとに政策を打ち出すのだから、客観性の高いものが求められるのは当然である。打ち出す政策そのものには、打ち出す政党の立場・利害が色濃く反映されているのは当然のことであり、それでいかに有権者の多数の支持を獲得するのが、政治なのである。
精度の高い現状分析を踏まえて、政見としてどういう政策を打ち出すかを競わなければならないにも関わらず、初めから批判することだけを考えて、対案を出そうとするから、時代遅れの観念的、抽象的な政策しか出せず、国民の信頼を失ってきたのが日本の左翼政党の歴史だったのではないか。もういいかげん、かたくなな保寸的「左翼理論」から解放するべきである。徹底したリアリストになることを抜きに、社会変革などできるわけがないのだ。 (大阪 T・I 1991年7月)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

カテゴリー: 思想, 政治 | 【投稿】リアリストでなければ政治は語れない) はコメントを受け付けていません

【投稿】ロンドンサミット終わる

【投稿】ロンドンサミット終わる
                                                      —冷戦後の世界は経済の時代・協調の時代—

<はじめに>
7月15日から開催された先進国首脳会議(ロンドン・サミット)(それに続く7カ国首脳とゴルバチョフ・ソ連大統領の「G7プラス1」会談等の一連の会談を含む)は、政治、経済の両面で冷戦後の新しい世界の枠組みを作ろうとの姿勢を明らかにし、歴史的転換期のサミットとなった。
今回のサミットの最も大きな問題であった市場経済化をめざすソ連を国際経済にどう組み入れるかに対しては、「ソ連経済の世界経済への統合支持」と、市場経済化への協力をうたい、同時に「ソ連との対話継続」など、大型金融を含まない6項目の支援で一致した。
ソ米首脳会談での戦略兵器削減条約(START)の合意は、ソ米両国の保有する戦略核の30%を削減する内容で、軍事力の時代の終わりを印象づけた。
又、関税貿易一般協定・多角的貿易交渉(ガット・ウルグアイ・ラウンド)を促進し、年内に決着、自由貿易体制を再建する体制をとった。しかし、具体的な中身の進展はあまりなかった。

<政治宣言とSTART合意>
政治宣言は、①湾岸戦争における国連の役割を高く評価して国連の紛争処理、平和維持機能の強化を柱に新しい国際秩序の確立を訴えた。②対ソ支援問題では、ゴルバチョフ大統領のベレストロイカ路線の支持を明記、ソ連の新思考外交については「アジアも含む全世界に展開するよう希望を表明した。日本が主張した」北方領土問題は「議長声明」に、「兵器不拡散宣言」はイラクに対し国連などの核査察を受け人れるよう強く求めている。
今サミットで対ソ支援に踏み出す重要なテコになったのは、同時に行われたソ米首脳会談でのSTARTの合意・7月末モスクワ調印であった。START合意は、戦略核の30%削減とは言え、軍縮史上初めて戦略核兵器の削減を実現し、79年調印の第2次戦略兵器制限条約(SALTⅡ)が核運搬手段で現状配備を上回る制限枠を設定したのに対し、双方が核運搬手段と核弾頭数を同数の一定レベルまでに削減している。この為、核軍拡の放棄を世界に約束した軍事的意義はきわめて大きい。冷戦構造の崩壊の中で続けてきた交渉の妥結は、軍事力の時代の終わりを印象づけるとともに核兵器全廃への第一歩となった。また、ソ連の軍民転換をしやすくするだろう。しかし、核戦争の脅威を除去すると言うSTART当初目標の戦略核半減には及ばなかった。速やかにSTARTⅡを開始して一層の核削減を図らねばならない。

<経済宣言>
経済宣言は、「世界的なパートナーシップの構築」を目指し、①ソ連経済の悪化はソ連のみならず中・東欧諸国こも困難を引き起こすと指摘し、ソ連の改革を支援し、同国経済を世界締済に統合する。②発展途上国を自由経済に取り込むため、保護主義の防止と貿易拡大による成長を促進するため、関税貿易一般協定(ガット)の多角的貿易交渉(ウルグアイ・ラウンド)を年内に終結させる。③地球環境問題は92年の国連環境開発会議(ブラジル開催)の成功に向け、、開催までに気候変動枠組み条約などの実現を目指す。—などを打ち出した。
今回のサミットは、ソ連経済の世界経済への統合をうたって、西側経済に「東(社会主義経済)」と「南(途上国経済)」を加え、真にグローバルな経済を作ろうという理念を示したが、具体的な経済政策では見るべき物がなかった。
サミット本来の資本主義世界経済に関しては、「物価の安定を伴った持続的戌良のための中期的な戦略にづく経済運営の維持を確認する」と、インフレに警戒しつつもやや景気重視に傾いた表現が盛り込まれた。成長(景気)重視から協調利下げを求める米国と、物価(インフレ)懸念からこれに反対するドイツとの双方の妥協が図られた。サミット蔵相会合で現行水準を大きく上回るマルク安に対しては、各国が協調介入で対応することで合意した等6月下旬に開いたG7の結果を基本的に追認した内容となった。

<G7プラス1会談>
苦境に陥っているソ連経済を西側経済に組み込むための具体的な支援策を提示したのが、「G7プラス1」会談である。
支援策は、①国際通貨基金(IMF)、世界銀行へのソ連の特別参加(準加盟)②IMFなど国際4機関による経済改革への助言③エネルギー、軍需産業の民需転換など5分野の技術協力④対ソ貿易障壁の除去と投資の拡大⑤サミット議長国を通じた対ソ対話の継続⑥7カ国の蔵相、中小企業担当相の訪ソーーの6項目であった。
IMF準加盟で将来の金融支援に含みを残したものの、技術支援、知的支援を中心にした内容で、ルーブルの交換性回復のための通貨安定化基金の創設や、貿易赤字穴埋めのための資金援助など大規模な金融支援は当面、見送ることになった。
対ソ金融支援積極派の独仏伊と、巨額な支援には慎重な米、そして北方領土問題を抱え支援は念頭にない日本との妥協案として一時、浮上した欧州復興開発銀行(FBRD)の対ソ融資枠の拡大や、エネルギーなどに限定したプロジェクト融資も、最終的には支援メニューに残らなかった。
本格的な金融支援に踏み込まなかった第1の理由は、ソ連の改革姿勢への評価の低さである。ゴルバチョフ大統領はサミット直前、7カ国首脳への書簡で、社会主義経済と市場経済をドッキングし、混合経済に移行することなどを盛り込んだ改革案を明らかにした。しかし、これは、保守派と急進改革派の間をとった折衷案であり、ソ連の自助努力に欠け、日米を中心にしたサミット参加国首脳の日には、これが中途半端に映った。「この状態ではカネをつぎ込んでもザルに水を注ぐようなもの」というわけである。
第2の理由は、旧東ドイツの復興などで財政赤子が膨らむドイツ、いっこうに減らない双子の赤字に悩む米国と先進国も資金不足に悩んでおり、多額のカネをソ連につぎ込む余裕がないことだ。北方領土にこだわる姿勢が問題であるが、7カ国で唯一、資金供給余力がある日本が金融支援に消極的なことも、サミットの議論に影響した。

<サミットの特徴>
ロンドン・サミットの第一の特徴は、市場経済化をめざすソ連への支援で足並みを揃えたことである。東の政治・経済体制を支えてきたコメコン・ワルシャワ条約機構の両機構を葬り去った後、ゴルバチョフ大統領は自国の経済改革を携えてロンドンに赴きサミット終了後参加国に支援を訴えた。これに対して、参加各国がソ連の改革への不満や国内事情の違いを超えて、ソ連を国際経済システムに適合させることが、冷戦後の新秩序形成の土台になるという時代認識を各国首脳は共有していた。とくに、ソ連のIMFへの特別参加は、世界経済への「有機的結合」の出発点になるだろう。
第二は、冷戦後の安全保障を中心とした国際秩序の安定化に「国連の機能強化と言う形で国連中心主義を明確にした点である。この一年の世界情勢のうち、最大の出来事であった湾岸危機・戦争の教訓を踏まえたためである。又、「新秩序」へしのぎを削る米・欧州間の妥協の側面もある。
第三は、ガット・ウルグアイ・ラウンドを促進し、「全ての参加国は91年末よりも前にラウンドを完了させることを目指すべきである」とうたっているが、年内決着の展望が何ら明らかになっていない山である。ウルグアイ・ラウンドの成功裏の終結は、世界経済の将来への見通しに広範な意味合いを有し、旧社会主義圏の自由経済への復帰にとっても、また第三世界諸国の社会的・政治的安定にとっても、成長を基調とした世界経済の維持発展に不可欠の新秩序ファクターと言わなければならない。
第四は、START合意である。89年末のマルタ島でのソ米首脳会談による冷戦終結を一層確かなものにした。ソ米冷戦の構造が崩壊したのは、両超大国の軍拡競争が限界に達し、ともに財政が破綻したからである。経済が国際政治の枠組みを変えると言う力学は冷戦を終結させただけでなく、冷戦後の世界でも作用し続ける。

<サミット後の世界>
世界経済にソ連を組み込むという点で、今回のサミットが歴史的な第1歩を踏み出したことは間違いない。しかし、保守派が依然力を保持しているソ連で、市場経済移行を目指し、急進的な改革を断行できるか疑問が残る。
また、9年ぶりに景気の減速局面に入った先進国各国に、ソ連経済を全面的に支える力は乏しい。今回のサミットが示した理念が実現するまでには時間がかかりそうである。
冷戦後の世界は、経済の時代にある。米ソの財政難が冷戦構造を崩壊させたように経済の変化が国際政治の枠組みを変えて行くだろう。それだけに経済大国日本の役割は重い。
現代の資本主義経済の産業構造は、国家経済を拠点としていたかっての経済機構から新たな経済体制を選択したのである。国家独占の海外進出と、言った傾向よりも企業の多国籍化の推進となった。それによって企業は、経済流動を全世界に拡大し、グローバルな活動を推進するに至った。これらの経済活動が銀行・金融の多国籍化をもたらし、企業相互間の世界的ネットワークを必要とさせた。これらの現象が今までの国家の枠を突破せざるえない生産構造を形成し、一層経済が重みを持つ時代になった。
冷戦後の世界はまた、協調の時代である。新世界秩序をうたう米国もかつてのように世界を主導する経済力をもち合わせていない。国内においては財政赤字、貿易赤字をかかえ、国外では、累積債務問題をかかえ苦境にあえいでいる。バックス・アメリカーナの崩壊である。しかしながら、誰もはっきりとした主導権は取れない。誰もが責任と役割を分押しなければならない時代である。今までのような資本主義体制・社会主義体制では解決のできない歴史的局面に突入したのである。
ソ連を抱き込んだ世界は、市場経済システムという共通の理念のために協調し、痛みを分かち合わなければならない。(名古屋:Y)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

カテゴリー: 政治, 経済 | 【投稿】ロンドンサミット終わる はコメントを受け付けていません

【編集局発】ソ連保守派によるクーデターに断固抗議する!

【編集局発】ソ連保守派によるクーデターに断固抗議する!
                                                                        –ベレストロイカの後退を許すな–

8月19日ソ連の国営クス通信はゴルバチョフ大統領が健康上の理由でで辞任し、ヤナーエフ副大統領が同日大統領職を引き継いだと報じた。さらに、ソ連指導部が一部地域に6ケ月間の非常事態宣言を発令し「国家非常事態委員会」に全権力が委譲されたことを報じた。
その後の報道を注視すれば、政治締済を巡る、ソ連国内の深刻な対立を背景に、軍部とKGBなど保守派が、民主的手続きを経ずして、暴力的なクーデターを行い、ゴルバチョフ大統領の失脚を謀ったことは明らかである。
共産党の指導力の実質的な解体、ソ連社会全体を巻き込む深刻な国内情勢の中にあって、ゴルバチョフ大統領の改革推進を恐れた保守派勢力の前時代的、非民主的な暴挙に対して我々は断固抗議するものである。
改革派の指導者ヤコプレフが「党の中心的指導部の中に、ベレストロイカ路線に反対するスターリン主義のグループが形成され、クーデターが準備備されている。党の民主的改革は不可能であり、不道徳だ。次の攻撃目標はゴルバチョフとされている」と警告し、離党声明を行った矢先の今回の事態である。
8/20に新連邦条約の締結開始を前して連邦維持で一致する保守派勢力による極めて計画的な行動であるが、ベレストロイカの5年間は国内の民主勢力、改革派を育て、改革を後戻りさせることはもはや不可能であり、ロシア共和国をはじめ、党、軍、政府関係者の中でクーデター不支持表明、市民の抵抗が開始され、20日にはレニングラードでは10万人の抗議集会が行われている。
また、各国も次々と「新政権」不支持を表明している。「新政権」はベレストロイカ推進を表明しているが、国際的孤立は益々明らかになっている。
もちろん、保守派によるクーデター後のソ連情勢は、現時点で不透明と言わざるえない。改革派へ報復、暴力装置の発動、内戦の危機も十分予測されているが、我々は、ソ連人民の民主的イニシアチブによるゴルバチョフ復権、民主主義の回復、ペレストロイカ・改革の推進を断固支持するものである。  (8/20)

【出典】 青年の旗 No.166 1991年8月15日

カテゴリー: ソ連崩壊, 社会主義 | 【編集局発】ソ連保守派によるクーデターに断固抗議する! はコメントを受け付けていません

【報告】 今年も元気に合宿開催

【報告】 今年も元気に合宿開催           一東京 金属化学支部-

東京の「金属化学支部」では毎年恒例となっている支部合宿を秩父で開催した。合宿で取り上げる課題は毎回「先端」を行くものであり、注目されている。今回は合宿の概要を支部より寄せてもらった。
(資料等詳細ご希望の方は東京都委員会まで)

金属化学支部は、5月25~26日に第11回支部合宿を開催した。金属化学支部の合宿は、2テーマの学習会とメンバーの職場報告を行うのがいつものパターンである。今回は、①「世界経済動向」、②「『日本式経営』批判のための問題提起の2本の学習会と、K労組の20代メンバーK君・N君の職場活動報告を行った。また、夜の交流会では、ひと味違った職場報告として、K労組が取り組んだ「記念企画」の準備から本番、後片付けまでを迫ったビデオを観賞した。

報告1.世界経済動向
今回の合宿では米国経済の動向について、海外からの資金の流れを含め検証した。この課題は87年の第1回合宿でも行ったが、今回の問題意識は以下の点であった。
①80年代のレーガノミックスの経済
・金利高による米国内への資金の流人、土地、M&A、バブル経済の崩壊
・双子の赤字と債権国から債務国への転落
・海外の資金流入による呆気の拡大 82年11月~90年10月
・一方での小さな政府論、社会福祉の削減
②90年代の米国経済の特徴
・米当局のリセッションの発表
・91年第1四半期、貿易黒字(中東、湾岸戦争の戦費分を含んで)
・80年代後半から勤労者のクレジットなどの負債額、GNPの成長率の倍の速度で進む
・双子の赤字から三つ子の赤字へ

(まとめ)80年代レーガノミックスの経済は海外からの資金の流入で経済が成り立っていた。しかし、その実態はM&A、土地、とバブル経済が基本となっており、設備投資はあまり進まなかった。90年代に入り、東欧情勢の変化により西ドイツは東ドイツを吸収していった。このことから米国に流れていた資金は自国の債権にまわることになる。一方日本は、バブル経済の崩壊により、米国へ投資していた資金の回収が始まっている。80年代と90年代初頭、世界の資金フォローは基本的に変化してきている。その意味で保護主義の動きは強まって来る。 (東京 Y)

報告2.「日本式経営」批判のための問題提起
近年、日本の「企業優位社会」や「会社人間」に対する批判が強まりつつある。(例えば、『朝日新聞』91.2.4社説など)民間労働者は、好き好んで企業に忠誠を尽くしたり、自分を犠牲にしているわけではない。むしろ、労働時間や賃金、仕事の内容等に対して不満や不安を持っている。しかし、その不満や不安が労働組合運動その他の運動として表面化することはなく、逆に表向きは「会社人間」として振る舞ってしまうのが現状である。 この現状を打破していくための第一歩として、日本企業の問題点を抽出し、検討を加えることにした。今回は文字どおり報告者の問題提起に止まったが、今後、支部の内外で研究・学習を継続していきたいと考えている。

今回の合宿では、以下の問題点・キーワードの提起を行った。
(1)生産様式-フォード主義とポスト・フォード主義
(2)小集団活動-QC(品質管理)の「日本的」質
(3)人事権・査定
(4)株式の所有形態一相互持ち合い、安定株主工作
(5)企業間関係一系列化(下請け構造)、企業集団
議論は(2)の小集団活動に集中した。小集団活動が労働者の「自主性」や「働きがい」を引き出し(経営の側に)組織していること、一方で、必ず管理職の監督の下に置かれる、サークル間の競争が煽られる、等の問題点が指摘された。そして、日本の戦後労働運動が、小集団活動を単に敵視したり、、反対に「生産性向上」のためと称して無批判的に受け入れられてきたことが、経営の側の職場支配を許してきた一因であるという(一応の)認識を得ている。
なお、今回の学習会を行うにあたっては、下記の文献他を参照した。
・R=ドーア『イギリスの工場・日本の工場』(筑摩書房)
・奥村 宏『法人資本主義』(朝日文庫)
・季刊『窓』3~5号(窓社)
「国際論争・『日本式経営』は世界になにをもたらすか」
・『社会評論』82号
「産業構造の変動と 『日本式労資関係』の虚実」
・大阪哲学学佼『企業モラルを哲学する』(三一書房)
・熊沢 誠『職場史の修羅を生きて』(筑摩書房)
・小野木祥之『偏芯してますか、ご同輩」』(筑摩書房)など
(東京 0)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

カテゴリー: 労働 | 【報告】 今年も元気に合宿開催 はコメントを受け付けていません

【感想】「社会主義をめぐって」を読んで

【感想】「社会主義をめぐって」を読んで

吉村さんの講演の記録「社会主義をめぐって」をあらためて読んでみた。「我々は人間を一面的にとらえ過ぎていたのではないか」つまり「我々は生産手段が社会化すると(タイムラグがあるとはいえ)意識も社会化して皆が規律をもって社会のために働くように考えてきた」しかし「東欧ETC.の敗北は結局人間に対するこうした理想主義の敗北ではないのか」と半ば嘆きつつ、半ば発想の転換を訴えておられたと思う。
理想主義が敗北したとして落ち込む必要はないと思う。むしろ人間を当り前のようにみれるようになってきたのではないだろうか。かつての理想主義は多くの人達を社会変革へと駆り立てたが、一方で社会変革、土台の変革こそが重要であって、そこにつながらないならば結局のところ人間は解放されないし全て土台の変革に従属するという考え方が、かつては支配的であったような気がする。その結果、土台の変革に無縁とみられていた環境問題や人権問題などをはじめ多くの民主主義的な運動が軽視されてきた。とりあげられたとしても、無理やり土台の変革の「りろん」と結び付けられたりしたものである。
確かに土台が社会意識に与える影響は非常に大きなものがあるだろうが、人間は土台だけに規定されて生きているわけではない。個々人の人格と人権を尊重することが社会的に確立あるいは訓練されていない社会の土台だけが変わったとしても、そこからは官僚的で非効率な社会しか生まれないのは必然であろう。
これは、社会主義社会だけに言えることではない。資本主義社会の中の「革新」と言われる政党や労働組合などの組織が、内部でどれだけ多様な考えや意見を吸収し、実現してきただろうか。多くの人が党などの組織を、人間性を閉じ込める罪悪だとみているのは事実としてはあたっているのではないか。民主主義とは訓練であると思う。一時的な情熱や特定の思想だけで実現できるものではない。人間相互の関係をどう作っていくのかと言うことは訓練によって積み重ねていくしかない。土台を変革するための「指導」ではなく、多様な価値観と個々人の人格と人権を尊重し合う自立した市民社会のシステム作りのための共同作業が必要であると思う。ドイツ社会民主党の「ベルリン新基本綱領」では、「われわれは人間が理性的および自然的存在であり。個人的並びに社会的存在であるという共通の理解を持っている。・・・人間は性善でも性悪でもなく、みな学ぶ能力と理性を持っている。民主主義が可能なのはそのためである。人間は誤りを犯すものであり、間違ったり、非人間的行為を行ったりすることもある。民主主義が必要なのはそのためである。」と言っている。こういう発想が以前より受け入れられやすくなるならば、社会主義諸国の「崩壊」は、決して悲観すべきものではなく、むしろ、大きなステップにもなるのではないか。(大阪 A)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

カテゴリー: 対談・意見交換, 思想, 政治 | 【感想】「社会主義をめぐって」を読んで はコメントを受け付けていません

【投稿】労働時間短縮に向けた取組みについて

【投稿】労働時間短縮に向けた取組みについて

3月に東京で行われた「春闘討論集会」(主催:労働運動研究会)に参加したところ、「連合」時短センターの方の「労働時間と生活時間」と通した報告を伺うことができました。「連合」の労働時間短縮に向けた取り組みを知る上で参考になることもあるかと思いますので、その際に報告された内容を以下に紹介します。なお、これは私のメモと記憶に基づいて作成したものですので、報告された方の内容を正確に再現できていないかもしれません。その点は報告者の方、また当日の企画の主催者の方にこの場でおわびさせていただくとともに、読者の皆さんにもご勘弁いただきたいと思います。文中の小見出しは私が勝手につけたものです、また当日の報告では最初の部分の労働時間の実態についてグラフなどを用いてだいぶ詳しく報告されたのですが、その内容は連合白書に掲載されている資料をご参照いただければ理解できると思いますので大幅に削除しました。必要な方は、それらの資料に当たってご検討いただければ幸いです。

○はじめに
春闘は専ら賃金闘争を中心としてきましたので、労働時間短縮が大きく取り組まれるようになってきたのはここ2年くらいのことです。連合の中では産別によっては秋に取組みを行うところもありますので、今回の春闘に取り組むのは44産別です。そこでは労働時間短縮を大きな課題として取り組んでいます。

○日本の労働時間の現状
まず日本の労働時間の現状についてみてみますと、1960年代から70年代までの高度経済成長の時代には労働時間の短縮が進みました。これは労働力市場が売手市場であったためです。75年、オイルショックの頃からは年間労働時間が2100時間ぐらいで横ばいとなりました。それがずっと続いて、1980年代の半ば頃からここ3年くらい少しずつ短縮されてきています。しかし現状では欧米諸国とは年間200~500時間の差があります。また、ここ数年の傾向では所定労働時間は減少し、その-1一方で残業時間が増えています。1990年については、全産業平均で年間2052時間で所定内労働時間だけでなく残業時間も初めて短縮されました。ただし、この労働時間については産業の違い、企業規模の違いによって、更にその企業の中での所属する部門の違いによって、また、男女の間で、あるいは年代によってそれぞれ大きく違っています。
例えば運輸業(道路貨物)のように年間2600時間を越えるところもあれば、生命保険業のように1800時間程度のところもあります。また金融業のように数字では少ないのに、サービス残業というものが多いところもあります。
企業規模によって労働時間が大きく異なっているのは週休2日制の普及状況の相違にもよります。大企業ではおおよそ70~80%に週休2日制が普及していますが、中小企業ではまだ少なく、あっても4週6休という状況です。そこで、大企業では所定労働時間が短縮される一方で残業時間が長くなり、中小企業では残業時間は大企業とそれほど変わらないか、少ないくらいなのに所定労働時間が長いという状況もあります。
所属する部門の違いでは、営業部門や開発部門などの間接部門などが良くなっています。男女差ではやはり男性の方が良くなっています。先ほど産業によっても大きな違いがあると言いましたが、女性の多い企業では労働時間が短くなっています。先ほどの生命保険業などはそうです。しかし、男女雇用機会均等法の導入以降、女性に対して総合職ということで募集がされるようになって、そういう所で働く女性の労働時間は長くなる傾向にあります。
また、労働時間でいえば、年次有給休暇の付与一日数と取得日数も問題になります。皆さんは年次有給休暇を完全に取得されていることと思いますが、全体的に見れば取得日数は多くありません。公務員関係の方は違うかも知れませんが民間では年次有給休暇の日数は平均して15日、そして平均取得日数は7日となっていて、これについては90年は89年よりワンポイント低くなっています。週休2日の進展状況に応じて取得日数が落ちてきているわけです。これはお金にすれば何兆円にもなるもので、組合でまとめて買い上げたらなどという詰もあります。

○長時間労働の40才代:
時短と賃金、そして労働組合の機能
最後にこれが大きな問題ですが、年代別で40才台の男性が一番残業が多く労働時間が長くなっています。これはこの年代の男性は住宅費用、教育費などが多く掛かるので月当たり20~30時間の残業を最初から見込んでいる人が多いためです。昔、私、総評の有力産別に「時間外労働の見直しを進めたいので」とお願いにいったところ、幹部の方から「なにを言っているんだ、会社から残業代を取れるかどうかが自分が役員でいられるかどうかの勝負なんだ。それを残業を減らせなんて総評はなにを言っているんだ」と言われたことがあります。つまり、住宅問題、教育問題が制度的に解決しないと労働時間短縮はなかなか進まないんじゃないかと思います。要するに、労働時間問題というのは結局のところ賃金問題であって、時短と賃金問題が堂々巡りしているんだと思います。またこれは労働組合運動の大きなテーマだと思いますが、企業側の人事管理政策もあって、この年代の男性は出世思考というのが出てくる面もあります。40代になると目指すゴール地点が見えてきて、自分がそこまで行けるかどうかで追い詰められてくるわけです。結局は労働組合機能がどこまで及んでいるのか、という問題になると思います。課長、管理職というのは組合員ではないわけですが、「課長」という肩書きがありながら実は上と下に挟まれている中間管理職が一番多くの苦悩を抱えているわけです。それを組合が突き放すのか、あるいは仲間に入れていくのかということは大きな組合のテーマだと思います。本当の管理者とそうではない「管理者」がいるんではないかという気がします。

○「連合」の目指す年間労働時間1800時間モデル
「連合」としてはレジュメのような年間労働時間1800時間モデルを考えています。旧西ドイツでは大体年間の総労働時間が1700時間代の後半、アメリカでは1900時間ぐらいになっています。まあ、ドイツやアメリカではこの時間は製造業・生産労働者、ブルーカラーのの労働時間であって、ホワイトはもっと長いと言われています。日本はブルーカラーもホワイトカラーも皆一緒にしていますのでちょっと違うかも知れませんが、まあドイツとアメリカの中間ぐらいを目指しているわけです。年間1800時間の労働時間とするためにレジュメにあるような休日、年休、時間外労働、所定内労働時間を想定しています。
週休2日制と週40時間社会の早期実現、全ての産業、全ての企業規模の労働者が年間労働時間1800時間を享受できるようにしたいということでやっているわけです。

(資料:当日配布されたレジュメから)
l(「連合」構成組織の労働時間の現状と目指す目標)
目標モデル       現 状
年間総労働時間     1800時間        2114時間
7.5時間(一日/所定内労働時間)×240日(年間労働日数)=1800時間

週休休日            104日         87.9日
週休以外の休日        21日         21.3日
年休完全収得(平均)     20日         11.4日
時間外労働          150時間        253時間

○労基法切り上げ-93年4月からの週40時間労働を目指して
そこで、どのような運動を組むかということで、まず一つとして労働基準法の切り上げを考えています。労働基準法は皆さんご存じのように3年前に改正されました。この改正に対してはいろいろな意見があって、結局当時の総評も反対はしたわけですが、とにかくこの改正で本文に週40時間労働が明記されたわけです。しかし、当面の労働時間は政令で、まあ閣議で決めていこうということになっています。この改正では、週46時間からスタートしたんですが、週48時間のグループがあり、もう一方に週54時間のグループもあります。週54時間というのは、一日9時間、週54時間で、5人未満の理美容、飲食店などです。労働基準法は企業親模に関係なしに全ての事業所に通用、しかも違反者には罰則付きで、通用されるわけですから、全部一律にというわけにもいかなくて週54時間というグループもあったわけです。そこでこの三つのグループでスタートしてきたわけです。
週46時間スタートというのは大企業グループで、こういうところは労働協約で大体40時間前後になっていますからあまり影響はないんです。また、300人以下の事業所を中心にして、原則として週48時間に据え置くということでスタートしたものですからこういうところでも最初はほとんど影響がなかったわけです。しかし、今年から46時間のグループは週44時間に、48時間のグループ週は46時間に、54時間のグループは週48時間にとそれぞれ、2時間、2時間、6時間ずつ短縮されます。そういうことで今度始めて労働基準法が利いてくるわけです。労働省はこの点だいぶカを入れていまして、労働組合より頑張っていると言ったら少し言い過ぎかも知れませんが、社会保険事務所などを使いながらかなり全国的に、毎年2000事業所を対象に、就業規則の書き替えなどを指導しています。なにしろ労働基準法は罰則付ですからこれはかなり利くわけです。これが中小規模の事業所の時短にかなり大きく影響し、統計上に現れてきています。
そんなことで、今度週44時間になるわけですが、政府は週40時間をいつ頃に実現させるのか言っていません。3年前の参議院での国会答弁で社会党議員の質問に答えて「1993年頃に年間1800時間にしたいと考えてもらってよい」と答弁しているだけです。「連合」は労働基準法を切り上げることは労働時間短縮にとってかなり有効な手段であると考えています。
そこで、1993年4月1日から週40時間労働にすべきだと、この国会でやるつもりです。ただしその際に、中小はどうするのか、全部一緒にヨーイドンでやるのか、あるいは格差をつけて1995年から週40時間とするのかということについてははっきりしていません。今のところは「猶予処置廃止」ということでやっています。日本は中央集権的でドイツやイギリスなどのように労働契約型ではありません。そういう意味ではフランスに似ているのかも知れませんが、ドイツやイギリスなどは基準法ではまだ週48時間などとなっているんですが、労働協約で時短を進めているわけです。また日本では組合が弱くて、圧倒的に未組織も多いですから労働基準法を切り上げていって労働時間を短縮させるというのが有効だと思っています。

○今春闘の闘いで、91人勧週40時間労働実施時期の明記を
もう一つの運動としては、公務部門の時短を進めるということです。政府は公務部門を前に出して時短を進めようとしています。賃金は民間準拠で行くけれど時短は民間にまかせていては全体を引っ張れないと考えているわけです。まして地域社会に与える影響は公務部門はかなり大きいのでこれでやっていこ、としています。最初は全金融機関を閉店でもってやりました、次いで今、自治体で4週6体制になっています。国家公務員は4週8休で試行になっています。ただし、病院だとか税関などの交替制職場はまだ試行に入れないでいます。これは臨調・行革で「予算は増やさない、人員を増やさない、サービスは低下させない」という条件が付いていてできないからです。病院、看護婦の問題などはまさに人員問題なわけです。このグループが4週8休、すなわち週40時間労働に入れるかということは大きな問題なわけです。
自治労は「1991年7月1日から全ての地方公務員も4週8休の試行に入るようにこの3月中に団体交渉で詰めるように」という指示文を既に出しています。これがどうなるかわかりませんが今年8月の人事院勧告で4週8休ということが明記されるようになれば、我々が主張している週40時間労働の条件ができるわけです。したがって「連合」がいま一番問題にしているのは、この春闘でまず民間ベースでの時短がどこまでいくかということです。いくら官を前に出すといっても、この春闘が終わると5月、6月に民間への調査が行われ、その結果が人勧に反映されるわけです。我々は昨年の人勧で「91年から4週8休を実現させる」と時期を明記させるために、そのための運動を組んだわけですが、時期は明記されませんでした、ただし、一般論として「公務員が週40時間労働になることは必要だ」と書かれていますが‥。昨年明記されれなかった最大の原因は民間ベースでそこまで前進させる運動が弱かったからです。「連合」の今年の方針は「週40時間労働に今年メドをつける」という大変なものです。連合のことを「ペーパーユニオン」という人もいますけれど、まあ「メド」をつけるというペーパーはあるわけです。そういうわけで、今年8月に出る人勧で「いつから週40時間労働」というように時期を明記させたいと考えて、8月まで、この春闘を入きな山場と捕らえて取り組んでいます。

○取り組み始めた学校5日制
もう一つは学校5日制の問題です。既に9県、68校で土曜日授業なしを試行していますが、なにしろこの学校5日制に対しては非常にいろいろな世論があります。例えば、「教育水準が低下するんじゃないか」、「カギッ子が増えるんじゃないか」、「今よりももっと塾通いが多くなるんじゃないか」などです。また、教師の労働時間というのはあまり統計もなくて、一般的には「教師は夏休みや春休みがあって休日が多いんじゃないか」などと見る人が多いわけです。しかし、世界的に年間の授業日数を比較してみますと日本は大体220日ですが、欧米では180日ぐらいですから日本の方がゆとりがないわけです。
組合の方も日教組はかつてはそれほどやっていなかったんですが、最近は言い始めました。ここにはいらっしゃらないかも知れませんが、全労連の教組は学校5日制に消極的です。また、日教組の中でも割合と左派の人達は消極的です。この間も福岡へ行きましたがそのようなことを聞きました。公労協でも内部には「遅れている学校5日制も抱えると公務員全体の時短がそれに引っ張られて遅れるんじゃないか」と心配する声もあるようですが、ともかく一緒にやっていこうということになっています。休みが一日増える子供達を地域で受け入れる条件の整備、社会施設の整備、教員OBの活用なども考えながら進めていかなければならないと思います。現在でもミッションスクールなどでは5日制になっているわけです。
まあミッションスクールに入れている家庭の所得水準や家庭状況などがどのようなものなのかは、よく知りませんが、教育水準が低下したとか、非行が増えた、などの問題は5日制だからといって特に起こってはいないと思います。こういうふうにもうやっているところもあるわけですから、まあこの学校の問題は1993年ぐらいまでに目処を付けたいと思っています。

○時短の前進に不可欠な生活・社会のあり方の見直し
次いでここからは私の問題意識ですが、労働時間短縮を進めていくためには、「重層的な産業構造と過当競争」「日本的労使関係の特質」、「労働者の生活意識--なぜ時短より賃金か」、「営業時間の延長-労働時間の延長(サービス提供と利便)」といったことを見直してみる必要があります。つまり、春闘での賃上げが消費に回り、労働者自身が消費生活、よりよいサービスを求めるということもあるわけですが、例えば、サービスのあり方について、同じ運送業であっても一方には個人で営業する白ナンバーの運送業があり、他方ではちゃんと組合があって規制が利いている青ナンバーの運送業者もいます。
自ナンバーの運送業には30才ぐらいまでに稼げるだけ稼いで引退しようと、週に6回も東京・大阪を往復して月100万円も稼ぐような人がいます。過当競争なわけですから、皆がそういうところを利用すると、組合のある青ナンバーの方が条件の悪い白ナンバーのの方に合わせなければならなくなります。下方に合わせていくわけです。郵便局なんかも相当やっていますが、そのようなありかたを見直すべきだと思います。また、セブン・イレブンのように足りない物をしょっちゅう電話して持ってきてもらうようなところでは、それに応じるために製造・輸送も24時間体制になる必要があります。バスも深夜化になっています、そういう深夜バスに乗る人は、まあ働いていて遅くなる人も多いわけですが、そうでない方もかなりいるわけです。こういうものを少し考えなおしてみたいものです。
また、取り引き慣行の見直しも必要です、週休2日の親会社から子会社へ週末に発注して次の週初めに納品を要求するような関係を見直す必要があります。官公庁の事業の発注にしても、年度末に集中して発注し、その時期には土木・建設業が大忙しになるが、他の時期には暇になるというようなことを改め、年間を通じて仕事の発注を均すようなことが必要です。また、日本は企業別組合だとよく言われますが、それだけ言っていても仕方がないので企業別組合になりの良いところを生かしていくべきだと思います。私鉄と民鉄協との交渉のような産業全体での統一交渉というのはなかなかないわけですが、組合レベルでより高い水準を競いあって、そうして横並びに進めながら産業全体として同一レベルになるうな取り組み、機能を持つということが必要だと思います。

○多様性を認めあった組合運動
最後に、労働組合の組織率が25.2%になったと言われますが、逆に言えばまだ25.2%も組織しているということだと思います。労働者が増え、分母が多くなっている中の25.2%で、やはり日本では最大の組織団体のわけです。このことを問い直してもいいんじゃないかと思っています。基調で「春闘再構築」というようなことも言われていましたが、春闘のために半年以上もかけて準備をしながら、なかなかそれに見合う成果がないというようなこともあります、けれどとにかく春闘というのは年に何回か組合を知ってもらえるという時期でもあるわけですからやはり大事だと思います。また、組合員もかつてのように一つの課題を決めて、さあ、そこへ一斉に繰り出そうというわけにはいかなくなっています。年代ごとに、男女ごとに非常に多くの要求、課題が出るようになっています。組合員の価値観も多様になっているわけです。こういう多様性を認めあった組合運動が必要なんじゃないかと思っています。
(報告者 W.K.)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

カテゴリー: 労働 | 【投稿】労働時間短縮に向けた取組みについて はコメントを受け付けていません

【投稿】中教審をどう考えるか –大阪教員交流会–

【投稿】中教審をどう考えるか –大阪教員交流会–

教員グループでは、1月より3回にわたって、昨年末に文部省が出した「第14期中教審審議経過報告」について議論を進めてきました。参加者各自の教育課題や問題意識を出発点とした議論となっているため、議論は、まだまだ末整理ですが、議論の経過に沿って報告します(内容は労青大阪教員グループ「交流会」ニュースより抜粋)

★今、なぜ中教審なのか
中曽根時代の臨教審路線は民活・受益者負担主義で、国家財政の負担の軽減も狙った効率重視のものであった。しかしいま中教審は、平等の重視を打ち出そうとしている。平等の重視は、財政負担の増加をもたらすし、効率の低下をも生み出すものである。この審議経過報告に対して私学からの反発がすぐに出てきた。私学の反発は中曽根臨教審–個性化・教育の複線化-の考え方である。この反発は当然予想されたものであろうら にもかかわらず、ナゼ、このような審議経過報告が出てきているのであろうか。それは、財界は臨教審とは異なるアプローチででも人材育成を考えているという観点から分析することである。

★財界の求める人間像・教育とは
財界は、How TO思考は持っていても、国際競争を勝ち抜いていけるような人間が育っていないという危機感を持っているのではないだろうか。これはまさに世界で最先端を走る日本の財界の苫悩ではないだろうか。彼らは単線型・模倣中心の思考ではなく、フレキシブルに情勢に対応し新知識を生み出す頭脳を要求しているのである。これまでのように2番手国であればアメリカの模倣をしていればよかったが、今日アメリカの技術は模倣に値しないものになっているのである。日本は自国の開発力で最先端を切り開いていかねば、最先端を走ることは出来ないのである。新技術の開発は、金持ちが金をつぎ込んで育ててきたヤワな人間には出来ない。このような人間では国際競争の激しい時代にはもちこたえられない。このままでは、仏、英、米の様に最先端から落日を迎える。この激動期に持ち堪えられる頭脳は、今の教育、臨教審路線では育たないと考えているのである。財界の求めている頭脳は広く浅い知識ではなく、より研ぎ澄まされた深い知識とそれを柔軟に状況に対応させるための幅広さなのである。最先端のコンピューターの開発は「遊べる」人間にしか出来ないのである。臨教審では促成栽培式のハウス育ちしか育たないし、財界の求める頭脳は育たないと考えているのである。財界は「寄り道の自由」を与えハングリーな者の中から「遊べる」人材を登用したいと考えている。金持ちが金で買い取る競争でなく、「真の競争」をしてその勝者こそが登用されるべきだと考えているのではないだろうか。
現在の受験競争は平等ではなく一部の特権階層を生みだし、その師弟のみが有名大学に進学するシステムになっている。このシステムを放置すれば激動する国際情勢に対応して国際競争に打ち勝てるような人材は得られない。この危機意識が今のシステムの中で埋もれている人材をいかに登用するかを考えさせているのであろう。

★教育労働者の課題
このように考えると、中教審は特権階層の利益を否定しても教育のシステムを変えるべきであるという、資本の全体の危機を反映しているものであると言える。この危機は教育権の保障を追及する人民サイドの運動に利用しうる可能性がある。しかしこちらの力が弱いと、こちらの要求、力を利用する形で、資本全体の危機を救う形で教育改革を進められてしまうのである。例えば指導困難校について記述してある点である。これは困難校を是正してほしいという人民の要求を軽視できないことを示している。しかし困難校を是正することが資本の眼目ではない。
困難校に勤める教師に謝辞を述べてもそれは「真の競争」実現のためのものである。指導困難校問題の記述は「歪んだ競争」の是正のため、「真の競争」が行われるべきであるというための例証として出されている。
これに対して教員組合側はどのような教育をめざしているのか。教員組合の力が強いといわれている、大阪・東京・名古屋・福岡などでは公立が私学に負けている。親が公立学校に対して信頼をしていない。
「公立は先生が本気じゃない、いじめがある、進学できない」などの声に表れている。これに対して教員組合の弱い大都市近郊の県では、公立学校は文部省直轄で私学の経営に負けない自助努力を行い、私学に負けない特色ある学枚づくりをアピールしている。これは教員組合側が審議経過に対する対応が一面的であることの証左である。
われわれにとっての課題は、資本の危機をこちらがいかし切れるか否かである。そうしなければ、資本の危機を「特権階層」の利益に屈し、実効性を持たない、臨教審路線の再来を招くことにもなる。この視点にたってわれわれにとっての課題・方針を整理し直すことが求められている。(6月18日)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

カテゴリー: 労働, 教育 | 【投稿】中教審をどう考えるか –大阪教員交流会– はコメントを受け付けていません

【投稿】 日本社会党はどこへいく

【投稿】 日本社会党はどこへいく

<社会党再建論議の行方をうらなう>
4月の統一地方選挙で敗北した社会党は、執行部責任の追及から「解党的出直し」論議へと発展し、プロ野球の阪神タイガースを思わせるような弱体ぶりをさらけだしている。このような伝統の党内論争が影響してか、社会党支持率は、土井委員長就任後最低の17%まで低下し(朝日新聞6月12日朝刊)、国民が社会党改革の前途に対して厳しい見方を持っていることを窺わせた。

<土井委員長の去就が分かれ目>
今回の社会党の改革論議を特徴付けるものは、何と言っても冷戦の終結とソ連東欧の社会主義国の資本主義的な混合経済体制への揺り戻しともいえる大転換等々の国際情勢の大きな激動の中で行われていることである。すでに社会党は「日本は今や社会主義革命前夜である。」として革命路線を中だした66年の「日本における社会主義への道」を86年の第50回大会によって歴史的文書に格下げして、政権をめざす現実路線へと踏み出し「ニュー社会党」へと生まれ変わろうとした。この時採択された新綱領「愛と知と力による創造」は、いわいる「新宣言」として広く国民に党の路線転換を訴えかけ、社会党の政権への道が開けつつあるように見えた。しかし、89年の参議院選挙と昨年の総選挙までは、自民党の相次ぐエラーによる得点を稼いだ社会党は、党の主体的力量が試された4月の統一自治体選挙で大きな敗北を喫したことによって、自らの非力さを思い知らされることになった。
すなわち、86年9月の土井委員長就任以来の新体制下で、帽広い国民の支持を得るチャンスを充分生かしてこなかったということが証明される結果となったのである。
参議院選挙で消費税の廃止を訴えて2千万人の支持を得た後、「廃止」どころか「凍結」も「見直し」も出来なかった社会党の無責任な対応、そしてそれに輪をかけた都知事選挙での候補者選考のもたつきは、国民の中に社会党の「政権担当能力に対する懸念」と生活保守主義に根ざす「大きな変革に対する不安」をますますふくらませた。社会党は、自民党の対抗勢力として真の意味で「野党」といえる存在ではないという審判を国民が下したと考えなければならない。
このような見方から社会党内での議論は、土井委員長の擁護か、辞任かという形をとりながら、自民党との大連立をめざした大胆な現実路線への転換か、反自民の路線の堅持かという内実を含んで展開されていると考えられる。6月20日の改革案取りまとめ一中央執行委員会決定一幹部総辞職一委員長公選-7月30,31日臨時大会というスケジュールは主流派である水曜会(右派)の思い描く右派派主導の指導部体制づくりのケースであるが、そう簡単にはことが運びそうにない(6月18日現在の時点では、まだ改革案が発表されていない。この原稿が日の目をみるころには臨時大会の議案書も明らかになり、土井委月長の続投問題にも決着がついているかもしれない)。
6月上旬に全国各地で行われた「社会党改革のための国民公聴会」では、自衛隊合憲論に対する厳しい批判と土井委員長支持の発言が多かったが、真剣に政権獲得を考える右派にとって、土井委員長は目の上の瘤となっている。近年の新聞各社の世論調査が示すように、社会党の政権担当能力への不安が、自民党への消極支持となっていることは明かであり、社会党単独政権や野党連合政権よりもまず自社大連立による政権獲得への地ならしが必要である。「だめなものは、だめ。」という土井委員長の護憲一点ばりの姿勢では、大連立は夢のまた夢である。

<政権獲得への意思と能力を示せるか>
プロ野球が勝つこと=優勝が使命であるように、政治は政権獲得による官僚機構への牽制と民主的諸権利の獲得が使命である。一部プロ野球ファンで、ジャイアンツに勝つことだけが球団の使命であるかのように考えている人がいるが、こういうファンが結果的にはチームを弱くしていることに全く気がついていない。土井委員長をやめさすことは、監督の首のすげ替えばかりしている某球団と変わらないという意見がある。しかし、球団を強くするためには、現場の費任者の更迭を行うべき時もある。問題はいかにチームを強くするかという”原点”に帰ることである。それは、プロ野球では、球団経営の問題である。他球団に負けない資本投下と優れた人材確保が、優勝のための必要条件である。政党にとっては、自民党に負けない資金力と帽広い人材の確保が、政権獲得のための必要条件となっている。
社会主義の理想を追い求めてきた私達は、ソ連・東欧の激変を見て、一度手段を誤ったときには、大変な誤りを侵すということを学んだ。社会主義の崩壊というよりも、民主主義の手段・方法のあり方を学んだように思う。意見の多様性を認め合い、立場の相違を認め合い、選挙による政権の交替という緊張感のある政治というものが、民主主義の基礎とならなければならない。自民党の半世紀近い一党独裁は、選挙制度の歪みを放置しているとはいえ、「選挙」という国民の審判を何度も経ながら続いてきたことを野党第一党である社会党は、深刻に反省すべきである。まさに「理想」と「護憲」という戦後政治の遺産で食いつないできた社会党も、新しい世界情勢に基づいた新しい出発が必要となっている。

<世界に通用する“理念”のある政治を>
今大きな争点となっている日米安保容認・自衛隊合憲論については、憲法に違反するかどうかという法解釈論争ではなく、デタントの世界にあって日本に必要な安全保障は何か、必要な自衛力は何か、国連に対する日本の貢献献のあり方等々の本質的な議論を展開すべきであり、国民の理解が得られる安全保障と世界への頁献のビジョンを明らかにすべきである。東西の冷戦とソ連を敵国とする日米安保の否定から「非武装・中立」を掲げてきた社会党の「平和を守る政党」としての役割だけでは、国民の過半数の支持を得られないことを認識すべきである。
55体制が始まったとき、世界のGNPの3分の1はアメリカであり、日本は、僅か2%に過ぎなかった。そして今日アメリカと並ぶ巨大パワーとなった日本のGNPは、世界の6分の1を占めるに至った。
世界は、日本の金だけを期待しているのではなく、世界の平和と安定、南北問題や地球環境に対する貢献等々の積極的な役割を期待している。これに応えることができる地球サイズの哲学をもった政党こそが生き残れるのである。すでにボーダーレス社会を生き抜き、世界を股に掛けて、巨大な利潤を蓄積している日本企業も、経営こ対する“理念”“哲学”を世界中で求められ、苦悩しつつある。日本の政治の理念不在状況に対する不満の声が、企業経営者からも起こってきている。まさに「民主主義」「人権」「自由」等々の世界に通じる理念の不在が、国民の政治に対する不満の大きな底流となっているのではないだろうか。
憲法を世界に誇ることも大変結構なことではあるが、肝心の行動が伴っていないことが社会党への不満となっている。社会党こそ、この憲法の精神とする人類への貢献の先頭に立って汗を流すべき政党である。社会党が、その基本的な戦略と世界に通用する政治理念を明確にするならば、一時的な自社大連立などは、戦術にしか過ぎないことを国民は理解し、かえって大きな支持を与える結果となるだろう。
<追記>
社会党は、6月20日の中執委で自衛隊や安保を事実上容認する党改革案を
了承したのに続き、24日には土井委員長が正式に辞意を表明し、7月30,31日の臨時大会での執行部の総辞職=新体制発足という運びとなった。委員長を5年ぶりに選挙により決定することになるが、田辺副委員長の優位は動かない。新委員長のもとで現実路線を推進する人材面、政策面共に中途半端で旧態依然としたイメージを簡単に拭いきれないのではないか。現時点では、社会党と生活者としての市民との距離がまだ遠のいたような印象を与えている。国際情勢の大きな変化を十分党内で議論し、ボーダーレスの時代を先取りする政策提起を行うと共に、思い切った若手の登用を伴う人事や組織改革によって、連合政治部になりきる政策と市民と共に政治を改革する方針をできるだけ早い時期に具体化できるかどうか、来年の参議院選挙での国民の支持獲得の鍵を握るのではないだろうか。(7月9日大阪:M)

【出典】 青年の旗 No.165 1991年7月15日

カテゴリー: 政治 | 【投稿】 日本社会党はどこへいく はコメントを受け付けていません

『詩』 頼むから聞いてくれ

『詩』 頼むから聞いてくれ

   リトアニア事件の夜にゴルバチョフを想う

                 大木  透

あなたは
自分のことを
あまりに知らなさすぎる
自分のしたことを
あまりに早く
忘れ去ってしまっている
今の今の
とりとめもない
生成流転の堰を切ったのは
あなた その人
あなた自身なのだということを忘れてもらっては困る
あなたは
本気でそうしたのだから

あなたは
なにか勘違いをしているのではないか
今の今になって
どうして自分をこんなに困らせるのだと
不思議がっているように見える
しかしそれは勘違いというもの
あらゆる小数派と良識に
自由キップを握らせ
自由発進を促したのは
あなた
あなたその人なのだ
だから今頃になって
感謝のために静かにせいなどと言うのは
理不尽なことだ

眠りをとれ
栄養をつけよ
記憶をよびさませ
そして
人々が旅する先をはっきり示し
旅のみちずれを
はっきり識別せよ
無駄な頼みではなかろう

古来 秀才の完全主義ほど始末に
負えぬものはない
エリートのあなたは
涙すほかに手立てをもたぬうつろいや
中途半端な落ち着かぬ
ほう洋たる放浪が
頼りなく見えるかも知れない
だが
それが人の情けというものだ
人の世というものだ

ひょっとすると
あなたは
自分の代に
領土の一片も失うまいという
悲壮な業病にとりつかれて
平静を失ってしまっているのではないか

そんなに気負う必要がどこにあろう
そろそろ肩のカを抜いて
非凡なる凡人の道を歩んでもいいのではないか
決断することの恐ろしさに
臆病になってもいいではないか
今 貴方に向けて放たれている
激しい批判が
あなたを救いつつあることに
気づいてほしい

死者はけっして甦ってはこないが
反動どものたくらみが
あなたの嫌いな血を呼ぶことが
はっきりしたのだ

ここにも そこにも
あなたの蒔いた種が
確実に育っている
嫌なものを見るような
困った顔をするな
困るのはこっちのほうだ
あなたは
自分のことを
あまりに知らなさすぎる
握りしめた自由キップで
どこへ旅立ったらいいか
暗いプラットホームで轟き合う人々に
いまいちど
大きな明かりを
ともせ

(1991.1.14)

【出典】 青年の旗 No.165 1997年7月15日

カテゴリー: | 『詩』 頼むから聞いてくれ はコメントを受け付けていません

大阪の戦後学生運動史 1

大阪の戦後学生運動史 1 (『大阪社会労働運動史 第4巻』より))

第四節 学生運動

ー、一九五五年から六〇年安保闘争の高揚へ

1  解散論さえでていた五五年頃の府学連

<事実上活動停止状態の学生自治会>
 一九五〇( 昭和二五)年に起こった共産党の分裂とそれに続く極左冒険主義の影響で学生運動は大きな打撃を受け、一九五五年には多くの自治会が事実上活動停止状態にあった。
 このような状態の中で、全学連第八回大会六月一〇~一三日)と第七回中央委員会(九月二~三日七中委)は「平和と友情一歌と踊り」の路線を確定し、身近な要求こそ重要と規定した。
 この時期、大阪の学生自治会の内では再建どころか、解散論さえでている。
 「各大学の自治会活動は停滞し、阪大の法・文・ 経・工・理・南校の各自治会解散」 (総評大阪地評十年史年表』ニ八六頁)
 また、 大阪の学生運動では常に中心的な役割を担ってきた大阪市立大学(市大)でも、学生課長が沈滞を嘆く談話を出している。 (『大阪市大新聞』六三号、 55・4・25)。
 全学連七中委の路線を受けて、ー二月二日には関西学連が「今迄の学連のあり方は不満足」 (大阪市大新聞』七五号、 55・1・25)と解散を決議し、協議会に改組している。

<歌と踊りの平和友好祭>
 大阪府学生自治会連合(府学連)が、この年に組織的に取り組んだのは、「全学連の平和と友情」路線に沿った第五回世界青年学生平和友好祭くらいである。
 一九五五年一月二二~三日、来阪した「世界民主青年連盟訪日代表団五名を歓迎するための世界民青連訪日代表団関西歓迎集会実行委員会」に府学連は参加し、地評青年部, 府青協・社会党青年部・民青などとともtこ同月二三日、中之島中央公会堂での約三千名の歓迎集会を行った。
 次いで五月一六日開催された「ワルシャワ青年学生平和友好祭大阪地方準備会」にも参加し、五月二二日、兵庫、京都、奈良、和歌山の府県学連と共同して、学生・高校生六七〇人を奈良公園に集めて「関西学生ピクニック」を開きフォークダンスやおべんとう・写真コンクール等を行っている。そして、七月三日から八月二一日まで続く大阪青年学生平和友好祭の各催しに参加している。 (1)

(1)五名の代表団は、マルコム・ニクソン(団長・英電気労働者、世界民青連書記)、スカトノ(インドネシア人民青年団、農村青年)、アデモラ・ト一マス(英領北アフリカ、学生)、ルチア・ルザフト(イタリア社会党代議士)、マリーモルヴァン(フランス女子青年団)であった (大阪地評昭和二九年度一般経過報告書』)。
(2)大阪青年婦人学生平和友好祭の行事は次の通りであった。

六月二二日 (於市立労働会館)第四回世界青年学生平和友好祭記録映画「平和と友情」試写会
七月三日 ( 於中之島公園)たそがれのフォークダンス 青年男女六〇〇名)
七月一三日 ( 於中之島中央公会堂) ワルシャワ平和友好祭参加の大阪代表歓送大会、歌と踊り演劇・(一五〇〇名)
七月二三日、世界青年学生平和友好記念国際リレ、一 自転車駅伝)
八月二〇~二一日 (於私市くろんど池)大阪山の祭典,(キャンプ、男女一八〇名)
(大阪地評昭和二九年度一般経過報告書』)

<大阪市立大学校舍返還闘争>
 府学連が統一組織としてほとんど機能していない状態で各大学の運動が散発的に行われている。
 大阪市立大学(市大)では米軍に接収され兵舎となっている杉本町校舎の全面返還運動を全学的に展開し、七月五日、米軍から七月三一日ごろまでに返還するとの通告を受け、実際は少し遅れて九月二〇 日になったものの宿願の校舎全面返還を実現している。

<学閥抗争に学園民主化を要求した学大>
 大阪学芸大学(学大・現大阪教育大学)は天王寺校舎に本部を置き天王寺・池田・平野の三分校で構成されている。天王寺の旧大阪第一師範、池田の第二師範を合併して出来たこの学校は合併後も旧師範時代の学閥意識を克服出来ず、卒業生もそれぞれ旧師範時代以来の同窓会(天表は友松会、池田は蛍池会)に所属するという対立を続けていた。教授会も少数派の池田分校と多数派の天王寺 平野連合の両派に別れ、 池田分校主事問題でついに対立が爆発した。
 天王寺派の意向が強く働いたとみられる駒田教授への主事発令に、池田分校は教職員・学生あげて非民主的発令だと反発し、七月四日に北川学長と池田分校代表の教授との話し合いが決裂。 五月池田分校学生大会は、辞令撤回・学園民主化を要求し要求が入れられない場合は実力によって闘うという姿勢を打ち出した。そして天王寺、平野両分校自治会も池田分校自治会と共闘を組み学園運営の民主化を要求した。
 これに対して学長は先手を打って六~九日全学の休講を指令。 以降、教授会は紛糾を続け、 池田分校側三教授への辞職勧告、学長も同意した池田分校独自の主事候補選挙の実施、選出された主事候補の教授会による承認拒否等九月以降まで荒れ続けた(『毎日』, 55・7・5~9 ,4)。

2 漸く確立した大衆路線 (五六年~七年)

<授業料値上げ反対が再建の契機となった全学連>
 一九五五年一二月 に全学連の解体状態を幸いとして発表された国立大学の授業料値上げ案と国鉄運賃の学生割引率切下げの意図が、 逆に学生を刺激し全学連再建のきっかけとなった。
 運動の再建を摸索していた活動家が、 翌五六年一月一五日の全学連中央執行委員会の反対声明に応えて、東京を中心に授業料値上げ反対闘争を組織したが各府県学連や自治会の解体状態のため全国闘争にならず値上げ案の国会通過を許し、前年度の全学連第七回中央委員会(55・9・3)路線の批判を呼び起こしたのである。
 全学連は四月四~六日第八回中央委員会(八中委)を開き、平和と友情・身近な要求政治闘争回避の方針を、自治会、学連の解体すら生ぜしめ、全国の学生の期待を裏切るという決定的誤りを犯した(全学連第八回中央委員会決議)。」と厳しく批判した、
 そして、四~五月に小選挙区制、教育三法 教育委員会法・教科書法・臨時教育審議会法)、アメリカのエニウェトック水爆実験等に反対して全国統一行動を行うことを決定した。
 また、原水協、護憲連合への加盟を決議し他階層・大衆的諸運動との共闘を回復した。

<府学連五・二六大会以降の大衆運動路線>
 全学連八中委の路線転換を受けて大阪でも元全学連書記長鮒子田耕作らを世話人として府学連再建の自治会代表者会議が四月二八日に開かれ、五月一二日の自治会代表者会議では各大学でシンポジュウム等を開いて教宣活動を活発に行い、五月二六日には各大学別学生大会と府学連主催による全大阪学生大会を開くことを決めているが、組織の再建が軌道に乗るのは五月闘争以降となる。
 メーデーには自治会の弱体化を反映した個人参加が多かったが、教育三法等を巡る国会の緊張に促されて大学生高校生的二千人が参加した(『大阪市大新聞』八三号、 56・5・10)。
 この学生の自主的な政治への関心の高まりに支えらて五月二六日の府学連主催・大阪学生大会(中之島)には久々に三千人が集まり、学生運動が大衆運動に復帰しつつあることを印象づけた。

<全学新も路線転換>
 全学連八中委の路線転換と平行して全国学生新聞連盟(全学新)も四月三〇日に名古屋で第九回大会を開き、さらに六月三日には関西学生新聞連盟(関西学新)が大阪で第八回大会を開き、全学連と軌を一して、 ”政治に厳しい目を″ 持った新聞への脱皮を遂げている(『毎日』56・5・1、 56・6・5)。

<全学連第九回大会で態勢確立>
 一九五六年六月九~一二日に開かれた全学連第九回大会は、八中委路線を再確認し、『平和と民主主義、よりよき学生生活のために』のスローガンの下に、①平和を守るために、②民主主義を守るために、③民主教育を守るために、④国民各層との提携等の方針を決め、「日本反戦学生同盟との友好関係の回復ならびに旧全学連中執等二七名追放決議を撤回する決議」(1)を採択し大衆運動としての態勢を確立した (『大阪市大新聞』八六号) 。
(1)一九五二年六月京都で開かれた全学連第五回大会が、共産党五〇年分裂の反対派勢力武井明夫委員長を含む二七名の「国民戦線から追放」と日本反戦学生同盟の解散決議を行い、これ以後極左冒険主義路線に走った。

<府学連の国鉄・私鉄運賃値上げ反対闘争>
 全学連は五六年一〇月の砂川基地拡張反対の現地闘争で大きな力を発揮し、他階層からの信頼を回復したが、府学連傘下では大阪大学(阪大)から代表が現地に派遣され、市大新聞の記者も取材に向かったが全体としては署名とカンパ・支援の教宣活動程度しかできなかった。
 府学連が指導力を回復するのは国鉄・南海の運賃値上げ反対闘争で先頭にたった時からである。
 この直前に大阪でも大阪市大を中心にして日本反戦学生同盟の支部が組織され、この闘争の中心になって府学連の再建を担った。
 二月五日大阪、兵庫、京都の三府県学連が共闘し天王寺公園で一千五〇〇人の集会をひらき大阪駅と難波駅にバス・ トラック一六台に分乗して自動車デモを決行し国鉄・南海電鉄の運賃値上げ反対闘争の火蓋をきり、以降他階層と協力して運動の中心となった。
 二月六、七、八日の連続的行動(『毎日』56・11・6、11・8、11 9)に続き、ー一月一七日には中之島公会堂で府学連が二千名の運賃値上げ反対全大阪学生決起大会を開き、大阪駅までデモ。 駅構内で乗客集会を開いて運動を大きく盛り上げた。 (『大阪市大新聞』九四号)

<クリスマス島水爆実験反対闘争>
 一九五七年の学生運動は原水爆実験反対、 原子戦争準備反対の平和運動一色に塗り潰された。 府学連再建の中心となった日本反戦学生同盟(反戦学同)の大阪市大支部は、一月の新年会でイギリスの水爆実験反対闘争に全力で取り組むことを決めた。 これは、 前年以来全学連が平和擁護闘争を学生運動の第一義的任務と規定したことを受け、原子戦争準備反対のスローガンを実践するものであった。市大反戦学生同盟の呼びかけで三月十六日市大理工学部校舎で英水爆実験反対大阪大会準備会が開かれ、社、共、地評青年部、府学連、平和を守る会、全青婦、民青、婦人民主クラブ、大阪府青年団体協議会(府青協)、わだつみ会等多数の団体が出席した。三月二三日の第二回会議でクリスマス島水爆実験阻止全大阪青年婦人学生連絡会議を結成し四月一九日に青年婦人学生総決起集会を開く事 等を決定している (『大阪市大新聞』九九号) 。
 四月一九日、折からの激しい雨にもかかわらず中之島公園(テニスコート東側)の集会には六〇〇人が集まり、「ク島水爆実験阻止」「米英ソは直ちに核実験停止協定を結べ」等を決議した。(提灯デモは雨のため中止)(『毎日』)これを契機に大阪の青年, 婦人学生の共闘態勢が継続的なものとなった。
 四月二七日には全日本学生決起大阪大会(四〇〇人) (『大阪市大新聞』一〇一号)。 原子戦争準備反対全日本学生総決起デーの五月一七日には天王寺音楽堂に一五〇〇人が集まり、難波までデモ。
 一方高知県原水協が三月三日の原水協全国理事会で提案したクリスマス島への抗議船団派遣案に対して反戦学同はいち早く一〇人の参加を決定し、大阪市大支部も一名の参加を準備した(派遣計画は原水協内の意見の相違により中止) 。

<原水禁大会から二一国際統一行動へ>
 府学連は五月二一、二三日にも原水爆反対の街頭宣伝に出て反対闘争を継続し、その後は第三回原水禁大会の成功のための街頭署名とカンパ活動を展開した。
 第三回原水禁世界大会で決定された一一月一日の原水爆実験禁止協定即時無条件締結要求国際統一行動にむけて、一〇月一六日大阪学大に大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の自治会代表が集まって、一ー・一闘争方針を決定(『毎日』57・10・17)。 翌一七日に府学連は扇町で原子戦争準備反対全国学生総決起大阪大会を開き、ー一月一日には大阪市大経済学部大学院のスト等傘下の多数の自治会がスト授業・放棄を行い、天王寺区等の地域集会に参加した後、 中之島公園の全大阪大会に一七〇〇人が集結した。
 この日は夜学連も七〇〇人が関西大学(関大)天六校舎で集会の後扇町から中央公会堂へデモを行った。 このデモで一名の逮捕者が出たが、抗議闘争により即日釈放された。
 
<学長選挙参加を巡る市大の交渉>
 大阪市立大学では学長選挙に対する学生の参加権を巡って、七月六日に市大全自協(各学部学生自治会の協議体)が大学側の学長選挙内規委員会に信任権を求める申し入れを行 った。 しかし、市大全学協(全学の教授の協議会)は八月六日に従来通りの規約(学生の参加は各学部からの学長候補推薦選挙のみに認める一学生の信任権は認めない)で行うことを決め、学生が要求している参加の意向を候補推薦の方法にどのように折り込むかは各学部教授会に任せるということになった。学生はこれを不満とし、医・理工学部自治会以外は候補推薦選挙をボイコットした。
 学生の学長選挙に於ける拒否権を国・公立大学で認めているのは一橋大学のみで、私学では早稲田、慶応、 同志社、立命館大学等で何らかの形で学生に参加権が与えられている。
 
3 勤評警職法闘争と学園スト

<全学連多数派の共産党との対立と分裂>
 全学連は一九五六年の砂川闘争で他階層との共闘に成功したが、この闘争の評価を巡って論争が発生し以後燻つていた。 一九五七年一一月の全学連第一四回中央委員会で少数派の二名の中央執行委員が罷免され対立は一層深まり、一九五八年五月二八日から開かれた全学連第二回大会で対立が表面化した。
 多数派は「国際緊張が激化している。帝国主義に対する激しい闘いが必要」と主張し、少数派は「国際緊張は緩和しつつあり、運動は幅広く行うべきだ」と主張した。
 少数派の主張は刻々の政治情勢に厳しく対決する大衆運動を軽視するものだと大方の支持を得られなかったが、多数派にも「われわれが強力な(闘争)形態をとればとる程、対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、われわれの周りに結集する勢力も大きくなる」ー 第一〇回大会方針 ーとする急進主義的傾向を内包していた (資料・戦後学生運動』一九七頁) 。
 この対立は大会参加の党員を集めて六月一日に代々木の共産党本部で開かれた共産党員グループ会議で爆発し、後に『六・一事件』と呼ばれる党員学生の処分に発展し全学連と共産党の関係が急速に悪化していく。 また多数派の中核である反戦学生同盟も一九五八年五月二六日に社会主義学生同盟に転換し共産党と決別する方向に進んでいった。
 さらに一二月一三日から開かれた全学連第十三回臨時大会は階級闘争の観点にたって学生運動を労働運動の同盟軍と規定する路線転換を行い、 以後安保闘争に至る過程で組織的分裂に進んで行く。

<原水協に参加し、 勤評闘争で激闘した府学連>
 二月三日府学連を含む準備会で大阪原水協の発足が確認され、府学連は結成時からこれに加盟した。
 府学連は一九五八年一月二八日市立労働会館の勤評実施反対大会を皮切りとして勤評闘争に全面的に参加。
 四月二六日扇町プールで開かれた総評・大教組主催の勤評反対集会に全国学生総決起の一環として参加し大阪府庁までデモ。 五月一五日のエニウェトック水爆実験反対、勤評反対全学連全国学生総決起には扇町公園で集会を開いている。 この日、阪大当局は南・北両校舎を午後から休講として学生大会を開く事を認め、学大でも学校が公認する学生大会が開かれている。
 六月一八日には府学連を含む一七団体によって「勤評反対、教育を守る府民共闘会議」が結成されたが、この日府学連は天王寺音楽堂に一五〇〇人を集めて集会を開き府庁にデモをかけて浜田教育長に勤評の抜き打ち実施を行わないよう申し入れた。
 六月二五日、学大自治会がストを行い、府学連は一五〇〇人を動員して府庁に押L掛け大教組の対府教育委員会交渉を支援して府庁内に座り込む。
 八月一五日、府学連は和歌山で開かれ翻評反対国民大会に総評等と共に多数を動員して、臨時列車で和歌山に乗り込み四万五千人の大集会に参加した。
 よく一六日「勤評阻止・平和と民主主義を守る青年婦人学生全国大会」後のデモに右翼と警官が殴る蹴るの襲撃をかけ多数の負傷者が出たが、 府学連傘下からも入院が必要な負傷者が数名出、 執行委員の佐道正彦( 阪大医学部)が逮捕された。
 九月一五日、学大三分校、大阪経済大学(経大)、大阪府立大学(府大)がスト、市大などは授業放棄。府学連は五〇〇人が中之島から府庁まで 雨中デモを行い、府庁南門の扉を突き破って突入を計るが警官隊に阻止される。学生一名が逮捕されるが、午後八時すぎに釈放。
 九月二四日奈良の元米軍キャンプで開かれた「道徳教育講習会」反対闘争で九名の学生が逮捕されたが、大阪府学連の逮捕者は鍋野市蔵執行委員長を含め八名 (他府県学連を含め一〇人起訴) 。

<勤評・警職法闘争で学園スト>
 五八年一〇月一〇日から三日間大阪外国語大学(外大)が勤評反対・道徳教育反対・警職法(警察官職務執行法)改悪反対でスト。関大二部も授業放棄。一〇月一四日、一五日市大経・文・法・理・工と学大平野分校が連続スト。 関大二部、市大二部授業放棄。
一〇月二七日、経大、学大池田分校スト。
一〇月二八日、経大、学大池田・平野分校スト、天王寺分校授業放棄、阪大全学業放棄。府学連は府民共闘会議主催の「勤評阻止措置要求大阪大会」に一五〇〇人で参加し府庁までデモ。 そのまま府庁に雪崩込み庁内デモ。 代表五〇人は大教組と共に徹夜の座り込みに入ったが午後一〇時すぎ警官隊に実力で排除された。
 十一月五日警職法改悪反対統一行動日、外大、学大天王寺スト、市大は大学祭明けの休講日のため同盟登校。 扇町プールの府民大会に府学連一二〇〇人参加。

<高校生勤評闘争に参加>
 大教組は五九年にも前年に続いて勤評提出に反対する闘いを激しく続けたが、高校生も闘争に参加する学校が增えた。
 五九年二月一日天王寺高校定時制の生徒会は教組の追及を逃れて姿をくらました校長の態度に抗議して授業拒否 (『毎日』59・1・29)。 北野高校では教組の校長不信任決議と教員のハンストを巡って生徒大会(同上、59・2・6、 59・’2・13)。 清水谷高校では卒業生が免職教員の留任運動を行い署名四一〇人分を府教委に提出(同上、58・5・26)生徒会も留任嘆願書を提出(同上 58 ・6・24)。 貝塚高校定時制生徒会が教員処分の取消を要求して府教委に抗議文(同上 59・6・3)。

<関大の高速道路学園通過反対運動>
 関西大学学友会は五九年五月一五日臨時学生大会を開き、名神高速道路が千里山学園内を縦断することは教育施設の破壊であると反対を決議し抗議闘争を行った (『毎日』59 ・5・15)。 その結果高速道路は学園の部分は地下を通ることになった。

4 府学連の安保闘争と高校生の大量参加

<初期安保闘争と府学連>
 全学連は一九五九年四月一五日の第一波から安保闘争に参加しているが、初期は呼び声程に盛り上がらず、四月二八日の第二波の府学連集会は八〇名しか集まらない状態だった。この時期「安保は重たい」と労働組合でも言われていたが、「学生運動転換にともなう理論的研究活動が続けられ、若干の混乱があることも関連して、闘いの大衆化の努力と実践活動への立ち遅れ」 (『大阪市大新聞』59 ・5 ・10、一四四号)と指摘される全学連内の対立が影響している。
 五月一二日安保改定阻止大阪府民共闘会議準備会に府学連も加盟。 五月二七日大阪府民大会、六月二五日安保条約改定阻止国民共闘会議第三次統一行動等に五〇〇人参加。
 六月五日から開かれた全学連第一四回大会は主流・反主流が激しく対立したが、主流派内でも一一回大会で全学連の主導権を握った日本革命的共産主義者同盟(革共同、一九五七年一二月結成)系から共産主義者同盟(共産同、一九五八年一二月結成)系に主導権が移るなど学生運動全体が指導方針を巡って混乱を深めている。
 この全学連の方針を巡る対立は、大阪にもおよび七月一二~一三日の府学連第二一回定期大会で指導部が主流派(鍋野市蔵委員長一大阪市大理)から反主流派(井上淳一委員長一大阪市大理)に移った。

<府学連新指導部の五九年後半の闘争>
 新指導部となった府学連は五九年九月三〇日の国鉄学生割引制度改悪反対闘争第二波 (大阪・兵庫・京都・奈良・和歌山五府県学連統一行動、一千名)を経てしだいに態勢を建て直し、一〇月二〇日に五〇〇人、一〇月三〇 日に六五〇人。 二月二七日の第八次統一行動には二五〇〇人を動員し大手前か騙町公園までデモを行っている。この日のストは市大経・法・文・家政、学大天王寺等であった。
 冬休み直前の一二月一〇日の第九次統一行動にも市大経・家政・文、阪大北校がストまたは授業放棄し、 一五〇〇人が森之宮の市立労働会館前からデモで大手前の府民集会に参加。 さらに大阪市役所までデモを行ったが、このデモには大阪市立盲学校(高校)生五名も白い杖をついて加わっている (『毎日』59・12・11)。
 全逓労組が年末の超勤拒否闘争を行っていることに対して関西主婦連が「学生アルバイトが集まらないなら婦人奉仕隊を出す」と郵政省に申し入れたが、府学連は安保闘争で共闘している全逓に連帯して、ー二月八日の執行委員会で関西主婦連に抗議文を送ること、各大学がアルバイト学生を出さぬよう申し入れること、アルバイト学生に説得を行う事を決めている(同上、59・12・9)。

<学大スパイ事件で三名逮捕>
 一九五九年一月三〇日府議会決算特別委員会で共産党の三谷府会議員の質問により発覚した府警平野署の公安刑事によるスパイ事件では、府学連傘下の学大自治会も工作の対象になっていた。このため府学連は総評等四〇団体とともに秘密警察糾弾人権擁護共闘会議を結成して公安警察の活動に監視を強めていたところ、一〇月に学大学生と外大学生にスパイ工作が行われていることを察知。 二月一三日、天王寺署の小川博巡査が学大正門で自治会役員に工作を継続しょうとしている現場を押さえ、折から講堂で開かれていた「スパイ工作抗議・完全就職獲得」の集会の場に連れ込んで糾弾。 小川巡査は出動した警官と学生が揉み合う中を脱出した。この事件で府警本部は一二月二五~二八日にかけて中辻武一府学連副委員長(学大天王寺)、石原文夫府学連執行委員(学大池田)井上淳一府学連委員長(市大理)を逮捕した。

<学大自治会への大量処分>
 五九年二月に起こった学大スパイ事件で、学大自治会は北川久太郎学長に天王寺署に抗議する声明を出すことを求めていたが学長が応じないことiこ抗議、又学生の(教員)就職の見通しが思わしくなく大学側の対策が不十分だとして、二月中句から学内行動を強め、無期限座り込み等を行った。
 これに対して大学は一九六〇年一月二日に「一一月一三日以来の学生の運動は不法、学園の秩序を乱した」と、天王寺、池田、平野三分校自治会役員に二ヵ月停学一五名訓戒二七名計四二名に上る大量処分を行った。 停学二ヵ月中に期末試験があるのでこの処分は実質的には一年を越えるものとなった(『大阪市大新聞』一五六号)。
 府学連はこの処分を警察に追従して大学の自治を自ら破壊するものだと抗議し、一月一四日には市大・阪大・府立女子大の学生が学大天王寺構内で抗議デモを行い、 一日二八日の第一二次安保反対統一行動には学大天王寺で全大阪集会を開く等支援行動を行っている。
 なお、 学生スパイ事件で逮捕された府学連の三幹部はいずれも「暴力行為」容疑で起訴された。 (1)

(1)一九五九年二月十三日の学大スパイ事件で起訴された元府学連幹部三被告に対して、六二年五月二三日大阪地裁・網田裁判長は無罪判決を下したが大阪地検は即日控訴を決定した(検察側控訴の第二審、第三審も無罪判決で、一九七〇年三月無罪が確定) 。

<全学連臨時大会の分裂>
 安保国民共闘会議は一九六〇年一月一六日に調印のため渡米する岸首相らの羽田空港出発に対しては、現地動員の阻止行動を行わないことを決めたが (第三章第四節六五八~九頁参照)、全学連(主流派)はこれに反対した。反主流派の大阪府学連も現地闘争は行うべきだとして一月一五日に大阪府民共闘会議の代表団(二〇〇名)に二〇名の代表が加わり、夜行列車で東京に向かった。
 そして、 羽田に着いた時には既に空港に立て籠もっていた全学連主流派が排除された後であったので空港周辺の道路で抗議闘争を行 った。
 この羽田闘争の評価を巡って全学連主流派内で共産主義者同盟系(多数派)ど革命的共産主義者同盟系(少数派)が対立し、二月九日の第二二回中央委員会で少数派の中央執行委員八名が罷免された。
 これに先立つ一月三一日に、阪大医学部自治会室で大阪府学連・兵庫県学連・和歌山大・立命館大自治会等八大学(阪大・市大・大阪府立女子大・大阪学大・神戸大・神戸外大・和歌山大・立命大)自治会が懇談会を開き、全学連の民主的運営と臨時大会開催を求める声明を出し、大会要求の準備委員会を設けることを決めた。しかし、大阪府学連は二月四日の評議員会で、 臨時大会要求は変えないが大会要求の準備委員会を設けることは組織的分裂につながると態度を修正している。
 二月七日、関西の主流二派(共産同系、革共同系)が自治会代表者会議を開いて八大学自治会声明に反論し、この後第二二回中央委員会で指導部に排除された主流・少数派(革共同)が二月一八日に代表者会議を開いて主流多数派(共産同)を批判した。
 こうして全学連は三派に別れて対立するようになった。反主流派の要求する全学連第一五回臨時大会は三月一六日目黒公会堂で開かれたが、代議員証交付を巡って紛糾し、主流・多数派がピケを張って他の二派を入場させなかったため大会は分裂し、以後全学連は分裂状態のまま安保闘争を闘うことになった。 なおこの時期の関西の状況は、 京都府学連は全学連主流多数派が、大阪府学連と兵庫県学連は全学連反対派がそれぞれ指導権を掌握している。

<統一を維持した府学連>
 東京では学生単独国会突入を主張する全学連主流多数派と、安保国民会議や東京都青年学生共闘会議との統一行動を主張する反主流派間の行動の統一が不可能となり、反主流派は「東京都学生自治会連絡会議」(2)を結成している、 しかし、大阪府学連(反主流派が多数)は組織的分裂を避ける方針により大阪では主流派との行動の統一を維持した。

(2)「東京都自治会連絡会議」は全学連第一六回大会(一九六〇年七月)後「全国学生自治会連絡会議」となる。大阪府学連は同連絡会議と友好関係を保ちながらも、分裂の固定化を懸念して、参加を留保。

<安保闘争の連続スト最大動員のデモ>
 府学連は、安保改定阻止大阪府民共闘会議の下で、六〇年四月以降連日のようにストライキ街頭デモを行い、大阪の学生運動史上最大の動員力を発揮した。

 府学連の動員とスト等は次のとおり。
四月二六日一五〇〇名。 スト=市大経・阪大教養・学大池田・外大。授業放棄=市大各学部
五月一四日 一千人
五月二〇日 四五〇〇名。 府学連未加盟の関大一部・大阪府立社会事業短大(社事大) も参加。 スト=市大全学部・外大・女子大・学大池田経大(以上全日)、府大・社事大(部分)。 授業放棄=阪大
五月二六日 三五〇〇名。 スト=市大・学大天王寺・同平野・府大教養(以上全日)、女子大・府大農・経・工)、外大 ・阪大(以上半日) 。 授業放棄=経大 ・関大
六月四日 前夜から市電の霞町車庫等にピケ要員三〇〇名を派遣して大交ストを支援。 牛後から扇町で開かれた府民大会に七千名。 新たに梅花女子短大・大阪商業大学(商大)・大阪工業大学も参加。 スト=市大・阪大・府大・女子大・外大・学大・経大(以上全日)。 各大学では破防法、警職法以来の教職員との共闘集会が開かれた。 阪大は扇町の府民大会会場まで教授団を先頭にデモ。 府学連デモは淀屋橋から大阪では初めての「フランスデモ」を行い、本町二丁目交差点では機動隊と対時して三〇分座り込み。
六月一一日 雨の中を千名でデモ。スト=市大(医・商を除く)・外大・女子大・阪大・学大、経大はスト又は授業放棄。
六月一五日 国労のスト拠点竜華操車場に前夜からピケ要員五〇〇名を派遣。 デモは八千名。 府学連未加盟の桃山学院大学(桃大)・大阪工業大学(工大)の学生も参加。スト=全加盟自治会(市大・阪大・学大・外大・府大・女子大・経大・関大二部・市大二部)。 夜学生も二一〇〇名
六月一六日 前日の国会デモで東大生樺美智子が機動隊に殺されたことに抗議し、大手前公園で五八〇〇名の緊急抗議集会を開き、府警本部前で一時間の座り込み、 自民党府連にも抗議後、雨の中を弔旗を掲げ喪章を付けて扇町公園まで無届けデモ。 夜間は全大阪青年婦人学生会議の抗議集会参加し、中央郵便局までデモ
六月一八日 九千名以上。 府学連未加盟の梅花女子短大も参加。府学連加盟全自治会がスト。府警本部前に座り込みの後難波までのデモ。 この日は先発の労働組合が御堂筋で労組組合としては、初めて「フランスデモ」を敢行したが、後に続いた府学連も途中戎橋で機動隊の阻止線と対峙して座り込み。 夜に入って関大二部等夜間学生三千名もデモ
六月一九日 「安保無効・岸退陣」要求の独自デモ。一五〇〇名
六月二〇日から全組織で三日間の連続スト
六月二一日 雨の中二千名。 府警本部へ抗議の後大阪駅までデモ
六月二二日 国労スト拠点の宮原操車場に前夜から支援ピケ隊八〇〇人を派遣。 横なぐりの激しい雨の中や空き列車で夜を明かし、翌二二日早朝国労集会に参加。午後三千人で靭公園から中之島まで無届けデモ

<安保闘争への高校生の大量参加と生徒会連合結成>
 前年、 大教組の勤評闘争を支援して高校生が活発な動きを見せたが安保闘争には多数が参加した。高校生が集団として登場したのは六月四日のデモから。
 六月四日、高津高校生徒会が参加を決議。(3)清水谷・住吉・夕陽丘・布施・八尾・山本・泉尾・今宮工等三三校三千名(府高教組調べ)。 六月九日には府高教組が自主的参加を呼び掛けたが、これに応えて六月一〇日の夜間集会には市岡高校定時制の生徒四〇〇人参加。 六月二日三千人、六月一五日五千人と参加が増え、六月一六日北野高校定時制生徒有志七〇〇人が樺美智子追悼の授業放棄で扇町までデモ。 六月一八日には北野・住吉・高津・岸和田等七千人が大教組のデモの後について行進。
 このような安保闘争の高まりの中で高校生の自治意識が高まり、ー一月一三日には大阪府定時制高校自治会連合(大定連)が発足。 大阪府高校生徒自治会連合(大高連)も二月中旬の結成を目指して運動を進めるが、府教育委員会、各校校長はこれを阻止する姿勢を示し、一方府高教組と大教組は生徒の運動を支持した。特に、定時制高校の生徒会は学習環境の維持改善、社会的地位の向上(全日制との差別の解消)、福利の増進(育英資金等)」等切実な課題を掲げている(『毎日』60・10・10、12・30)。

(3)高津高校 表王寺区東高津北)の生徒会は五月二九日から連日生徒会をひらき、 安保反対の運動方針について協議して、六月一日の生徒会で「四日の統一行動に生徒会の名で参加しよう」ということを決定し、同日午後、学校側に統一行動参加の承認を求めた (『毎日』60,6,2 夕刊) 。 校長は参加を思い止まるよう説得を重ねたが、四日第一時間日からの教員の職場集会と歩調をそろえて午前八時三五分から各教室で ホーム・ルームの集会を開いた。「学生よ立ち上がれ」「国民の声を聞け」などのデモ用のプラカードを立てかけた教室の中で”安保問題″ で論議し、一日に投票で決めた統一行動参加方針を再確認、午前中の授業を受けたのち、午後の扇町公園の府民大会に全員(二二五〇名)が参加し、デモを行ったのである (『毎日』60・6・4夕刊)。

<浅沼刺殺に抗議>>
 社会党の浅沼書記長が一〇月二日右翼少年に刺殺されたことに抗議して、府学連は翌一三日午後三〇〇人で府警、自民党に抗議し、天満から中之島まで無届けデモ。 一四日の全大阪青年婦人学生共闘会議の集会、二六日の「平和と民主主義を守る大阪府民総決起大会」、二〇日の社会党大阪府連葬等にも参加している。

二、安保後から一九六四年迄の動向

1   安保後から六三年までの府学連の運動

<私学授業料値上げ反対闘争>
 安保闘争に高揚した府学連の運動が、安保闘争終了による挫折感を脱却し、これを克服する闘争は、次のように授業料など物価値上げ反対闘争を通じて展開された。

<一九六〇年秋から六一年>
 一九六〇年秋、私学の授業料値上げ案の発表が相次ぐ中で二月一五日、関大・経大・立命館・同志社・関学の五大学で共闘組織が結成された。 市大も私学学生だけの問題ではないとこれにオブザーバー加盟し、大阪府学連は二月二五日、京都府学連も一二月六日、支援を決定した。関大二部では三月一五日の法・文・経済・商全学クラス討論で一六、一七日の抗議ストを決議し、一六日は抗議集会を行った。一九日はクラス討論、二〇日には学生大会を行うなど二一日の冬休みまで闘争を続けた。その結果一八日には学長が二部学友会(自治会)と話し合い、「一部および二部学友会・教職員組合・教授会理事会の四者協議会を作る。それまでは現状のまま進展させない」と約束した(『毎日』 60・12・17、 12・19、12・22) 。 各大学でも学生自治会との話し合いの姿勢を示し、問題は翌年に持ち越しとなった

<諸物価値上げ反対闘争>
 一九六〇年一二月二一日、国鉄が大幅な運賃値上げ案を発表し、政府は一九六一年一月五日これを承認する考えを明らかにした。 既に私学の授業料値上げが問題になっており、 国公立大学・高校の授業料直上げも一九六一年度予算案に折り込まれた。値上げは国鉄が定期料金で四四%、 国立大学授業料で三三%等、学生生活への影響は極めて大きいので、六一年一月九日、近畿六府県七三大学の学生部課長・厚生課長が運賃値上げ反対の実行委員校を選出、 一〇日に阪大で開いた合同会議は、「定期券値上げは学生生活に重大な影響があるので慎重に考慮されたい」と国鉄に要望することを決めた(『毎日』, 61・1・10~11)。
 私学の授業料値上げは私立大学連盟加盟五一校の内四六校に及び、値上げ幅は平均四万三一五三円と大幅なもので、入学金や校友会費等も値上げされることになった(『毎日』 61・1) 一月二〇日、大阪府学連八〇〇人は全大阪青年婦人学生共闘会議主催の「青年の生活と権利を守る決起集会」(於中之島公園、 一千名)に参加、 国鉄関西支社までデモ行進をし、 バスでやってきた京都府学連五〇〇人と共に、国鉄関西支社長を激しく追及、その後大阪駅中央コンコースで乗客集会を行った。一月二四日には地評, 婦人団体府学連等二〇団体で「公共料金と物価値上げ反対大阪懇談会」を結成した (『毎日』. 61・2・6)。

<政暴法反対闘争>
 六一年六月三日の政治的暴力防止法案に反対する大阪府民共闘会議の決起集会に府学連は一千人参加、難波までのデモを行ったが、難波・商街会館前で機動隊と衝突し学生側に重傷一名と軽傷五名が出た。六月六日の府民共闘会議の統一行動に府学連は一五〇〇人が参加し、大阪中央郵便局前で二名が逮捕されたが(二時すぎ釈放)、六月八日にも一千人が大手前で機動隊と衝突、学生一名逮捕、重傷二名軽傷八九名を出した。

<臨時工業教員養成所新設反対>
 文部省は工業教員を養成するために国立大学に三年制の臨時工業教員養成所を新設することにし、近畿では阪大や京大が対象となった。五月一九日、阪大学生自治会連合は、学生部次長制新設と臨時工業教員養成所設置反対で学長等と深夜まで交渉し、三年制では不十分な教育しか出来ない、 四年制の工業教員学部 といったものを設けるべきということで意見一致した (『毎日』61・5・20)。

<市大差別事件>
 大阪市大で女子学生に対する部落差別のビラが張り出される差別事件が発生し、 大阪法務局人権擁護部が調査に乗り出したが、大学はこれを重視し「差別問題対策委員会」を設け、大学協議会(大学の最高機関)が一二月一九日に「部落問題全学集会」を開いた (『毎日』’61・11・1、『大阪市大新聞』一九三号) 。

<高校等で紛争多発>
 勤評闘争・安保闘争以来生徒が行動を起こす事件が多発し、 中学校生徒にまで及んできた。府立八尾高校定時制では、府高教組の学力テスト拒否闘争による教員の処分の撤回を要求して生徒会が六二年一月二五日から二月一七日まで四週間にわたって授業拒否したが、大阪商業大学付属高校(私学)でも五月二一日、 賃上げ闘争による教員の解雇処分に怒った生徒が大学本部に雪崩込み六人が負傷。
PTA が学校側の不誠実に反発して生徒の登校拒否を決議し、生徒会が同調して六月五日から一〇日まで同盟休校した(二〇二五~六頁参照 ,4巻)。 二月一六日には処分された先生を返してと、泉大津市立第二中学校の生徒一〇〇人が教組のデモに参加し、 四月九日 には和泉市立山手中学校の生徒二〇人が教員異動に反対して市教委に陳情した。

<盛り上がった大学管理法反対闘争、改憲阻止闘争>
 六三年三月一七日の憲法調査会近畿地区公聴会(大阪・コクサイホテル)と、七月二一日の名古屋鶴舞公聴会 (名古屋市公会堂)に対し、旧全学連主流派社学同系の大阪市大生等が激しい阻止闘争を行い、名古屋では重体一名、重傷三名など学生二三名が負傷した(『毎日』62・3・17、7・21)。
 一方、府学連は四月二七日、核実験反対・憲法改悪反対集会を大手前公園で一千名が集って開いた。
 六月二〇 日中央教育審議会が大学管理制度改革法案を発表した。これに対して関西三府県学連で構成する「大学管理制度改悪反対関西学生連絡会議」はすでに六月一三日に、大学管理制度反対で六月二一日に統一行動で決起するよう全国に呼び掛けていたが、府学連は二一日、市大・阪大・府大・女子大・学大・外大・経大・工大・近大等二五〇〇人を中央公会堂に集め、中之島か難波までデモを行った。
 その際に警官隊との衝突で五名の逮捕者(1)、ニ一名の負傷者を出した。六月二九日には大教組・国民文化会議との共闘集会に二千名参加(『大阪市大新聞』二〇六号)。一一月三〇日、市大(商・経・法・文・理)が全日スト、阪大教養・学大・市大(工・家政・医)が半日授業放棄を行い、同日、府学連一七〇〇人がデモをした際、三名逮捕された。さらに一二月八日にも市大は全日スト 、阪大は授業放棄を行った。

(1) 六二年六月二一日の大学管理法案反対デモで市公安条例違反容疑で逮捕された桐村彰郎府学連執行委員、新保寿雄府大自治会執行委員、島顧忠阪大理学部自治会執行委員の三名を、大阪地検は一二月四日公安条例違反・公務執行妨害で起訴した。

<流産した大管法>
 大学管理法案上程を政府が諦めたため、 焦点は国立七大学学長を認証官にするという問題に移った。一九六三年一月二〇 日、阪大の大管法対策連絡協議会(教職員組合、学生自治会連合)が、大学の問題は民主的に解決されるべきである旨の共同見解を文部省に送った (『毎日』, 63・1・20)。 尚、一月二四日には市大教養部は認証官反対でストを行った。

<授業料値上げ反対闘争>
 六三年一一月六日、 次年度から授業料値上げが予定されている私学の八大学自治会(関学・同志社・立命・大工大・大経大・桃山学院・近大・大南大)が値上げ反対の共闘会議を結成し一一月二二日に統一行動を行なう事を決めた(『毎日』 63・11・7、11・12)。
 関学では一一月二二日、神学部を除く六学部が授業放棄、ー二月一〇 日には法・文・社会学部がスト、経・神が授業辞退を行い、二日には理学部も授業辞退に加わった。しかし、大学理事会は一二日、奨学金の増額を付帯して値上げを決定した(『毎日』, 63・11・22、 12・11、12・13)。
 一一月二七日大阪市大の大学協議会は次年度から授業料を三千円値上げすることを認めたが、これに反対する自治会は一一月二九日に教養学部がスト入り 、午後市議会決算委員会前で座り込みを行った。
 ー二月一七日には全学部スト、併行して市庁で徹夜座り込みに入り、翌一八日から二学生がハンストに入った。ー二月二四日も座り込みを行い、続いて翌二五日にも市事務局が築いたバリケードを突破して座り込んだが、警官隊のゴボウ抜きで排除された。
 
2 府学連の分裂

<分裂した全学連と統一に努力した関西>
 安保闘争後、全学連主流派内も分裂を繰り返えし、一九六一年一二月一五~一七日に開かれた全学連第一八回臨時大会は「マルクス主義学生同盟」(革命的共産主義者同盟全国委員会派)単独大会となり、全学連は完全に分裂した。
 これに対して関西では六一年一二月大阪市大に、 旧全学連主流派の社会主義学生同盟系や全国学生自治会連絡会議の構造改革派など京都・大阪・兵庫・香川・和歌山の一八大学四四自治会が大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連共同の招請で集まり、 関西規模での行動の統一を確認し関西学生自治会連合準備会を設けることを決めている。

<遂に府学連にも亀裂>
 その後、 この関西学生自治会連合準備会の動きを引き継ぎ、六二年七月に東京で社学同(社会主義学生同盟)、社青同(社会主義青年同盟)、構造改革派の三派が、マル学同(マルクス主義学生同盟)単独の全学連大会とは別に、 自治会代表者会磯を開いたが、共闘のあり方を巡 る対立で三派の統一を果たさなかった(『大阪市大新聞』二〇七号)。 一方、全国学生自治会連絡会議のうち共産党系は八月に「平和と民主主義を守る全国学生会議」(平民学連) (1)を発足させ、独自に全学連を再建する方向に向かった。この平民学連には大阪府学連傘下の府立大学・府立女子大学・府立社会福祉事業短期大学の府立三大学自治会が参加し (資料戦後学生運動』六巻四四九頁)、大阪府学連にも亀裂が入った

(1)一九六一年の日本共産党第八回大会前後の大量の脱党、除名が影響し、全国学生自治会連絡会議に共産党系と構造改革派の分岐が生じていた。

<分裂した原潜阻止などの闘争と相次ぐ逮捕者>
 一九六三年五月三一日、原子力潜水鑑寄港阻止・日韓会談反対・東大ポポロ座事件判決破棄等で府学連七二〇人が天満橋から中央局までデモを行い、途中で市大生六名が逮捕され、十数人が負傷した。
 六月一五日、兵庫県学連・京都府学連・大阪市大・和歌山大等三五〇〇人が、神戸市役所前で原子力潜水鑑寄港阻止全関西学生総決起会を開き、激しいデモを行った。 一方大阪府学連は「平民学連」加盟している府立三大学自治会との関係を重視して神戸の集会には参加せず、中之島で阪大・外大・府大・女子大・桃大等七〇〇人の集会を行った。六月二五日の安保府民共闘の「原子力潜水鑑・F105D 配備反対統一行動日」に、市大は全学ストに入り、同日の府学連の一五〇〇人のデモにおいて、二名が逮捕され、三〇名が負傷した。一〇月三一日、「改憲・核武装阻止・原潜寄港・日韓会談反対・池田内閣打倒・青年の生活と権利を守る全大阪青年婦人学生総決起大会」(於扇町公園、七千名)に市大など少数が参加し、デモにおいて五名逮捕された。ー一月二九日には、府学連独自で七〇〇人のデモを行った。
 一九六四年四月一六日、青年婦人学生共闘会議主催の「日韓会談反対、春闘勝利」デモで市大生が二名逮捕され、五月二九日の五〇〇名の府学連デモにおいても市大生が八名逮捕された。六月一九日新政暴法と憲法改悪反対等のスローガンで大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連が共同して「関西学生総決起大会」を京都円山公園で開き、 阪大一四〇〇人など五二〇〇人を集めた。デモでは二百数十人の負傷者を出し市大生一名が逮捕され (『大阪市大新聞』二四六号) 。六月二五日の府学連の七〇〇名デモでも二名逮捕された。七月三日の憲法改悪阻止・憲法調査会答申反対府民大会(於扇町公園、三千名)に、府学連は六〇〇名が参加した。
 八月二日、社学同等新左翼系が大阪で「全国労働者学生集会」を一七〇〇人で開いた。九月二七日の「原子力潜水鑑寄港阻止西日本国民集会」(佐世保) に大阪府学連は市大・阪大・経大から代表を派遣した。一〇月一六日、原潜寄港反対集会(於扇町公園、七千名)に府学連六九〇人。 市大生一名逮捕。一〇月二九日、府学連六〇〇人デモ、五名逮捕。 二月一二日、神戸で「原子力潜水鑑寄港阻止全関西学生集会」(大阪府学連・京都府学連・兵庫県学連共闘会議共催)に五二〇〇人結集。
 大阪府学連参加は阪大、工大、経大、学大、関大、市大。 市大は午後から授業放棄。 日韓条約に反対する闘争は翌一九六五年一二月まで続けられた。

<授業料値上げ反対闘争>
 大阪府は昭和三九年度当初予算で府立の大学と高校の授業料値上げを一旦は見送ったが、ー二月府議会に大学授業料の値上げを提案したため一二月九日、大阪府立大・女子大・社会事業短大の自治会六〇〇人が値上げに反対して府庁に詰め掛け、 知事に反対の申し入れを行った。
 授業料等の値上げ反対闘争を進めていた関大二部で一一月一二日と一一月一八日の二度にわたって闘争委員会が体育会系の学生に殴られて負傷する事件が発生、大学も暴力を振るった学生の処分を決める方針を固めた。 (『毎日』 64.11.20)。

<自治会への相次ぐ処分、弾圧>
 一九六二年一二月五日、授業料値上げに反対し大阪工業大学(工大)二部自治会が授業放棄、ー二日には座り込みを行ったが、一九六三年一月二七日大学は自治会委員長に停学一ケ月等六名の処分を行った。
 大阪市大大学協議会は六三年七月二日、六月二五日の全学ストで自治会がバリケードを築き学生の入構を阻止したことで懲戒委員会を設置した。これに対して八月二二日から学生三名が無制限ハンストに入った。懲戒委員会は八月二三日八木孝昌自治会委員長の無期停学処分(実際は一ヵ月)を決定(『毎日』, 63・8・24、『大阪市大新聞』ニニ八号)。 ー二月二八日、大阪地検が大阪市大自治会の藤本昌昭・八木孝昌・多名賀哲也の三役員を公安条例違反で起訴。
 大阪外語大学は九月一三日、学生自治会に「学生心得を守らない場合、九月三〇日を以て解散させる」と通告している。
 また、府立三大学(府大、女子大、社会事業短大) でも、ビラ・ポスター、集会の許可制を巡って自治会への規制が強められている (『大阪市大新聞』二三〇号) 。
 六四年一〇月一〇日大阪地検は市大の八木孝昌執行委員を四月一六日の「四・一七公労協スト支援、原子力潜水艦寄港阻止」(全大阪青年・ 婦人学生共闘会議) のデモの際の公安条例違反容疑で前年一二月に次いで再度起訴。 二月二四日、大阪学大は一〇月一二日の原子力潜水艦寄港阻止のための府学連評議員会を学内で無届けで開いたと自治会役員一〇名に停学一カ月の処分を行った。 (『毎日』’64・12・15)

<大阪府学連の分裂>
 一九六一年八月に結成した共産党系の学生自治会(平民学連)は、六四年一二月一〇~一三日単独で「全学連再建大会」を開き、このため大阪府学連から府立系三大学が離れ府学連の分裂も決定的になった。 (『大阪市大新聞』二五五号) 一方、社学同系、社青同系、構造改革系の三派は、ー二月二一日東京で全国自治会代表者会議を開き原潜寄港阻止、 日韓条約阻止共闘会議」を結成、大阪府学連もこれに参加した。(井上淳一)

カテゴリー: 歴史, 民学同, 運動史 | 大阪の戦後学生運動史 1 はコメントを受け付けていません

大阪の戦後学生運動史 2

大阪の戦後学生運動史 2 (『大阪社会労働運動史 第 5巻』より )

第三節 学生運動

ー、変貌する学生運動

1 大学の「大衆社会化」
「平和と民主主義、よりよき学生生活のために」のスローガンの下に全学連に統一され、戦後社会に強大なインパクトを与え続けてきた学生運動は「六〇年安保闘争」後急速に変貌し、一九六八(昭和四三)年からの爆発的な「学園闘争」と「七〇年安保闘争」をピークに急激に退潮、一九七四年以後は組織的・ 持続的な社会の変革勢力としては事実上消滅する。
その背景には第一に、「高度経済成長」による一九六五年からの急速な学生数の増加、 窮乏からの相対的自由、大学の「大衆社会化」現象がある。 (1)

(l)「大学、短大の学生数はついに一五〇万人を突破し、同一年齢層に占める学生の割合は一九・ 四%に伸びた。文部省が五日まとめた今年度『学校基本調査速報』の示す数字である。 五人に一人という大学生の割合は、 昭和一〇年の旧制中学への進学率一八・ 五を%上回り、いまの大学は戦前の中学なみ、といった実態をはっきり裏付けた。大学教育の『大衆化』が急テンポで進んでいるわけで、 空前の学生数をのみこんだ大学キャンパスは、 パンク寸前の形である 。
大学生急増期に入って三年目の今年学生数は四年制大学 (大学院を含む) 一二七万人、 短大二五万五千人で計一五二万五千人。昨年より一気に一三万人ふえた。 三三年度にくらべると、一〇年間に二倍以上という激増ぶりだ。・・・しかも、 文部省は今後進学率が伸びるのにひきかえ、 同一年代の人口がへっていくので、 五〇年ごろには三人に一人の割合・・・四年制大学の教員 (研究施設の教授などを含む) 一人当たりの学生数は平均一七.七人。 しかし、国立大の八ニ二人にくらべて、 私大は二九二八人と、 その格差はケタ違いに大きい。 わけても私大の割合は年ごとにふえ、マスプロ化に歯止めのきかぬ実態を示している。」(『朝日』68・12・6)。

2 大学自治への攻撃

第二には「高度経済成長」を支える良質の労働力育成と産学協同推進を意図し大学管理の強化を求める産・官の強い圧力と大学自治の蚕食がある。 (2)

(2) 「第一に、 今次の法制化の過程において日本学術会議・国立大学協会・公立大学協会をはじめ諸大学が数次にわたって画一的法制化に反対してきたにもかかわらず、政府の一部にはそれを無視して法制化を推進しようとする意見がある。このような経過自体が大学自治尊重の精神とはあいいれないものである。 第二に、法案の基礎になると伝えられている内容は、 (イ) 学長選考にあたって文部大臣の拒否の権限が予想されること、 (ロ) 大学自治の基本的構成要素である教授会の権限が縮小されようとしていること、(ハ)大学教員の不利益処分を文部大臣一学長の権限で推進する意図がみられること、 (ニ) 学外者をくわえた機関の設置によって大学自治への干渉の可能性が予想されることなど一貫して大学自治の管理運営を権力行政的に統制し大学の自治をおかそうとする方向を示している。」 (大字管理法案に反対する「大阪市立大学八学部、 経済研究所教授会声明」『市大新聞』 63・2・25)

3 全学連、府学連の崩壊

<全学連の解体>
第三は、 これまで一貫して学生運動の主体であった学生自治会が、 六〇年安保後の相次ぐ分裂で(l)全国的な統一性を失い、大学管理強化・マスプロ化との激闘の中で党派闘争に解体して行ったことが上げられる。
戦後、 全学連が結成されて以降の学生運動は、全員加入の学生自治会に一つの層として組織された学生が、全学連の旗の下に統一した課題を統一した方針・行動をもって闘うところに他階層とことなる際立った特徴があった。そしてその行動形態は全学連の提起する統一行動日に、授業放棄・ストライキに圧倒的多数の学生を結集し、街頭デモンストレーションで示威と他階層へのアピールを図ることが基本であった。
しかし、 この一〇年間に学生運動のこのような特徴が急激に失われていったのである。

(1)安保闘争後の一九六一年一二月に開かれた全学連第一八回臨時大会は、「マルクス主義学生同盟(マル学同)」の単独の大会となり、全学連は分裂したのに対し、関西では社会主義学生同盟(社学同)と社会主義青年同盟 (社青同)と構造改革派(共産党系の全国学生自治会連絡会議のうち、 共産党直系とは分岐したもの) の一八大学の四四自治会が大阪・ 京都府学連と兵庫県学連の招請により関西学生自治会連合準備会を発足させた。
一方、 共産党直系の大阪府学連の府立三大学自治会は六一年八月に発足していた 「平和と民主主義全国学生会議」 (平民学連) に参加し、 ここに大阪府学連の分裂が決定的となった (『運動史』第四巻、一三三六頁)。
その後、六四年一二月一〇~三日に平民学連は「全学連再建大会」を開き、社学同・ 社青同・構革派の三派が一二月二一日に「原潜寄港阻止・日韓条約阻止共闘会議」を結成したが、府立の三大学自治会は前者に、 大阪府学連は後者に参加した (同上、 一三三七頁)。

<大阪府学連の分裂>
構造改革派 (構革派) の勢力が強く従来の運動形態を守り、過激な街頭闘争には批判的な大阪府学連の指導に飽き足りない三派全学連系(3)が、一九六八年三月末に「大阪府学連再建準備会」を発足させ、七月一四日に社会主義学生同盟 (社学同)系を中心とする 「府学連」 を結成した。
これより 「府学連」 を名乗る組織は、先に分裂した共産党系、 構造改革派を中心とする従来の組織、そしてこの三派系と三つになり、全大阪の学生を統一する機能は完全に失われた。

(3) 三派全学連=マルクス主義学生同盟中核派、 社学同派、 社会主義青年同盟解放派の三派により六六年一二月に結成、六八年七月に各派に分裂。

<全共闘運動と全闘委の形成>
以上のようにして始まった全学連内の対立により、政治的傾向を異にする複数の 「全学連」 あるいは自治会共闘などが競合することになり、党派的対立は学生自治会の主導権争いを激化させ、全員加入を原則とする自治会からは相対的に独立した全共闘、全闘委が運動のヘゲモニーを握るようになる。
全共闘一全学共闘会議ーは、 各学部自治会の他に多様な学内組織一寮自治会、 大学院生、クラス・ サークル、時には助講会や職員組合一の代表が加わる共闘会議を基本形態とし、 一応選出機関を母体とするが、 闘争の過程で闘争を主体的に担うものの結合体へと次第に変質する。全闘委一全学闘争委員会一は選出機関を母体とする全共闘ほど組織的でなく、 党派的・実行委員会的な自主「組織」の色彩が濃い。
これらの共闘組織では、 『連帯を求めて孤立を恐れず』 に闘争に参加する一人一人の 「主体性」が重んじられた。

4 行動の過激化と党派支配

<激化する戦術と党派的対立>
学生が取り組む課題は全国的政治課題と平行し、根底に於て共通するものの、個別の大学に個別の問題として立ち現れる学園内の課題が次第に比重を増していく 。全学連が提起する数次の統一行動日に一斉にストライキで立ち上がるというこれまでの行動形態から、 個別大学で長期あるいは無期限のストライキに突入することが多くなり、 学内にあってはバリケードによる校舎の封鎖と龍城、街頭にあってはヘルメット、ゲバ棒(棍棒)、時に火炎瓶などで「武装」したより過激な行動に傾斜していく 。
また、 個別にあらわれる学園内の課題の根底にある共通性と党派的結合から、大学の枠を越えた相互浸透が見られ、それが時に「外人部隊」と呼ばれる他大学生の「侵入」と言う現象を生み、従来の大学自治の概念との深刻な衝突を引き起こした。
党派的対立は、 一部ではあるが 「内ゲバ」 (対立する党派への暴力的攻撃) に走るものを生み出し、多くの死傷者が生ずる陰惨な状況に至る。

<大阪の学生運動の特徴>
とは言え大阪の運動では、この様な全国的傾向の中で、政治的課題における闘争で、一定の統一的行動が追求されていること、自治会が一応機能していたことも事実である。 それは、 府立系三大学自治会等が共産党系「全学連」に分離していった後も、 六八年まで大阪府学生自治会連合(府学連) が曲がりなりに統一機関として存続したこと。学生運動の大阪に於ける主力大学である大阪市立大学 (市大)、大阪大学 (阪大) 等で自治会が活動力を保持していたことなどによる。
他方この時代には、高校生が学生運動の一半を担うという際立った特徴があり、その課題・行動形態も大学生と共通する所が多い。

二、火の手をあげた学園闘争(一九六五–六七年)

1 「経済間題」と自治の侵害

<大学運営経費間題>
一九六三 (昭和三八) 年六月、 中央教育審議会が発表した大学管理制度改革法案は、 反対が強く流産したが、 これを契機にして実質的な大学の管理・統制強化が進み紛争の火種がどの大学でもくすぶりだした。一九六五年五月一八日、市大で「暖房費」問題をめぐって学生自治会 (自治会) と学長の団交が行われた。前年度の新入生から暖房費の一部負担を求めたことに端を発して紛糾が続くこの間題は、一見極く些細に見えるが学生はそうは捉えなかった。 『市大新聞』( 65・5・10)は、この様な状況を大学への予算の相対的低下と批判し大学予算の不足を補うために受益者負担(暖房費・寮、生協の水光費、家政学部・医学部の実験実習費)と個別資本の大学への投資(後援会、理工学部における産学協同)が顕著に表れてきた。 そこには学生の生活を圧迫し、貧困学生の大学入学の締め出しという問題とともに、大学の自治の侵害、 資本の大学支配という大きな危険性をはらんでいると分析している。
六四年二月一八日付文部省通達「学寮における経営の負担区分について」 や同年夏国立大学に示した「〇〇大学学寮管理運営規則参考案」で学生寮の受益者負担「原則」の導入と寮自治の規制がその背景の一つである。
これを大学予算を意図的に抑制し、受益者負担、教官・学生の自治の統制、財界の運営介入を容易にしようとする「大学貧困化政策」と学生は捉える。

<各大学の紛争の拡大>
国立の大阪外語大学 (外大)では廃止予定の短期大学自治会が新設される二部への編入を求めて試験ボイコット(65・1・ 8)。
市大医学部新館食堂の生協経営を要求する座り込み(65・l2・19) 一生協進出拒否の教授会決定自治会との団交で撤回(66・2・31)。 市外者入学金値上げ撤回の座り込み一事実上の撤回(66・12・13)。 阪大宮山寮のガス水道料金不払い闘争(65・7から)。 市大医学部で米軍研究援助資金問題追及、渡瀬学長が契約を破棄するよう説得を約束。「各学部教室の研究の自由を尊重しながらも、軍事協力と見られるような研究については、大学全体の問題として、協議会で話し合い、疑惑を招くようなことは一切避けたい」一渡瀬談話(『朝日』67・5・24)。
六六年五月六日、大阪学芸大学 (学大) で、学長の突然の辞任を契機に 「理科系と文科系の教授の教室閥、 さらにその根底には文部省の大学運営に対する干渉などの問題があり、大学の自治を妨げているのが原因だ」と「学園民主化決起集会」が開かれ(『朝日』.66・5・7)、同大の校名を「大阪教育大学」に変更して、完全に教員養成機関に改めようとする文部省の意図とも激しく衝突する。 教授会の校名変更決定(66・11) 一授業放棄・教授会阻止一自治会役員の停学処分と抗議のハンスト (67・2・25)。

2 私学の民主化、マスプロ教育改善要求

学生数の急激な増大と私学の前近代的体質がマスプロ教育反対、 民主化要求となって一般的には学生運動から遠かった私学の学生を立ち上がらせた。

<近大>
六五年四月、近畿大学(近大)の世耕弘一総長の死亡の後を同氏の長男政隆が襲ったことから、自治会が「総長公選制」「教授会の確立」「事務当局の体質改善」「学部長の教授会互選」等を要求し圧倒的多数の学生と教官の支持を得るが、五月二四日には体育会系の学生の妨害を受けて負傷者も出ている(『毎日』,65・5・24夕刊)。
運動は、五〇〇〇人デモ(6・17)–授業放棄(6・24)–大学側の教室封鎖–教・学共闘の青空教室へと発展し夏休みを越えて九月まで続く 。

<商大>
六月二八日、大阪商業大学(商大)でも自治会が「学長公選」「推薦入学反対」「図書館・ 教授研究室建設」「生協設立」の要求を掲げて立ち上がり、三〇日から授業放棄に入った。 商大では六四年一二月に新年度入学生からの学費値上げ提案に、自治会が 「図書館、教授研究室、寮」建設を条件に同意したが、 約束が反故にされているという経緯がある。紛争は翌年まで続き六六年六月一〇日から無期限ストに突入し、ようやく同月二〇日、図書館・ 教授研究室建設着工、寮の早期建設の約束で解決した。

<関大など>
他方、関西大学(関大)の経済・ 工学部自治会が、登録学生が教室の収容能力より五百人も多い等のマイク授業・マスプロ講義反対運動に取り組み、六五年六月一八日には、関大・ 近大の学生がバス数十台を連ねて大手前公園に集まり、合同集会とデモを行った。
大阪工業大学 (工大) では、 値上げされた学費の使途を追及する授業放棄–処分–抗議のハンスト( 65・7・1)。 梅花女子大で授業料値上げ反対の授業放棄(65・l2・10)。 浪速芸術大学の学園正常化実行委員会が学生急増に追いつかぬ設備・授業内容の改善を求めて六六年二月七日からの期末試験と、四月の再試験をボイコット。

3 インターン反対から青医連闘争へ

<根底にあった「 医局」支配>
医師免許を持ちながらインターン制度により無給で大学医局で働かされることを不満とする医学生・医卒者の不満鬱積は、一九六四年二月、医師試験審議会が厚生省に「大学の医学過程を卒業した直後に医師国家試験を行い、合格者に免許を与える 。 但し独立して開業するものはさらに一年間、 教育病院で実地訓練を受けることを義務づける」と答申したことでついに爆発。全国四六の医学部・ 医大卒業生が「全国医学部卒業者連合」(医卒連)を結成し、六五年のインターン出願を一斉にボイコット。六五年五月一三日には「全国医学生連合」(医学連)が、医師法改正に反対して授業放棄・デモで立ち上がった。

<私立医大も闘争参加>
大阪では阪大・ 市大・大阪医科大学(大医大)・関西医科大学(関西医大)等が参加。 これ以後医学生・医卒者の闘争が激しく展開される。 六六年四月一〇 日、 インターン終了後の医局無給医が青年医師連合入局者会議結成(青医連)。六月二四日、「全国無給医局員対策委員会」の下、国公立付属病院で無給医の統一闘争–スト・ 集会。 同年二月二九日から三日間の全国統一スト(阪大・市大等) を経て、六七年三月一二日から始まった医師国家試験は医学連、青医連のボイコット呼びかけにより、受験者は有資格者の八分の一、出願者の四割。 各地の試験場でピケ・デモ・シュプレヒコール、警官隊との衝突。

<学園闘争の導火線>
同年七月、 医師法改正–インターンに替わる登録医師制–に反対し、七日から関西医大が無期限スト、大阪医大も八日から無期限の授業放棄に突入を決議。 ー二月五日から阪大等が「全国無給医局員対策委員会」の第四次統一行動として「無給医の有給化、登録医師制度反対」で一週間の診療拒否に突入。
六七年九月の医師国家試験には、 前回の拒否組も大方受験し、外見的には一旦鎮静したかに見えたが、無給医、医学生の闘いは断続することなく、次第に国家制度の問題から学内の管理運営の問題に焦点が移り、 学園闘争を爆発させる導火線となる。
「厚生省や大学当局の間には、インターン全廃が軌道に乗る来春になれば、国家試験ボイコット闘争は緩和されよう、と言う楽観的な見方もあるが、—-インターン全廃を皮切りに、 医局員の有給化や、大学卒業後の実地研修や医学研究全般について改善を要求するというのが青医連の方針であり、これには、教授を中心とする医局が、 医局員の研究テーマからアルバイトなどの生活面まで、すべてを握っている現医局講座制を崩壊させ、自主的な研究を望む意図も含まれている」 (『朝日』 67・3・l3)。
六七年八月には国家試験拒否のあおりを受けて医師不足により町立四条畷病院が閉鎖に追い込まれている。

4 激しくなる街頭闘争

<激化した反戦闘争>
一九六五年~六七年末までの間に、 政治的課題–ベトナム反戦、日韓条約反対、七〇年安保佐藤訪米阻止、 沖縄全面返還要求–等がストライキと街頭闘争で闘われた。
また経済的要求としては異例の激しい行動で、社会主義学生同盟(社学同)系学生が国鉄運賃値上げ反対闘争を大阪駅で六五年一二月一五日~六六年二月二三日まで七波繰り広げ、累計三八名の逮捕者を出した。

<六五年の行動>
社学同系の北爆反対・米軍即時撤退要求のアメリカ領事館前座り込み( 65・4・16、 4・28–二名逮捕)。 京都・大阪・兵庫三府県学連主催のベトナム侵略、佐藤内閣戦争加担反対」の総決起集会一六五〇〇人、負傷者一〇〇人(いずれも学生側発表) 逮捕三人(6・4京都)。ベトナム侵略反対国民行動日の大阪集会 逮捕一名(6・9)。
日韓条約調印日の抗議闘争 逮捕二名(6・22)。府学連主催「日韓条約調印反対、ベトナム戦争抗議」デモ、六〇〇人、検挙二名(6・24)。「日韓条約阻止・ベトナム侵略戦争反対大阪府民総決起大会」(10・12)、日韓条約批准阻止・ベトナム戦争反対大阪実行委員会主催の御堂筋デモ(ll・5)–いずれも学生参加数不明。 日韓条約粉砕第一次統一行動一府民集会 学生五〇〇人 重傷二、軽傷七人(学生側発表)逮捕三人、共産党系独自集会・提灯デモ (11・9)。第二次統一行動一府民大会 学生参加数不明、市大全学スト、共産党系も独自集会(11・13)。 第三次統一行動一府民集会 学生参加数不明、共産党系独自集会。

<六六年の行動>
六六年、大阪学生戦線主催「小選挙区制答申・ 原子力潜水艦寄港反対関西学生統一行動」(大阪) に関西規模で六〇〇人、負傷十数人、逮捕一名(5・27)。「ベトナム戦争反対、小選挙区制粉砕」で集会・デモ (6・24)。 「ハノイ・ ハイフォン爆撃抗議」集会(7・2)。
七月六日、社共、京都地評共催「日米経済委反対・ラスク入洛抗議京都決起大会」に京都・大阪の学生約千人参加、 機動隊と深夜まで衝突、逮捕七名、負傷者多数。

<「ジュツパチ」ショック>
六七年一〇月八日、 佐藤首相の東南アジア訪問を阻止しようとした学生が羽田空港付近で機動隊と激しく衝突し、京大生・ 山崎博昭が死亡、全国民とりわけ学生に大きなショックを与えた。後にこれが「10・8 (ジュッパチ)ショック」 と呼ばれるようになる。 事件の翌日九日には大阪駅等でゲリラ的な抗議のデモが行われ、ニ一日には同君の出身校である大手前高校の在学生・ 卒業生による追悼集会が開かれ、一七〇人が参加した。なお、羽田闘争には、大阪府警調べで大阪から約七〇人の学生が参加した模様。

<六七年のその他の行動>
一〇月二一日のベトナム反戦国際行動デーには、大阪市大教養部がスト入り。扇町の統一集会に、学生が約五〇〇人以上参加、機動隊との衝突により数人の怪我人を出し、一名が逮捕された。
二月一〇日、佐藤首相訪米反対で市大教養部が全日スト。 同夜中之島の京都・大阪・兵庫三府県学連主催の 「佐藤訪米阻止全関西学生集会」には、関西規模で八〇〇人が参加。 共産党系も独自集会。
以上の様に、 政治課題を掲げた街頭闘争は激しい行動形態で度々警官隊と衝突し、多数の負傷者・逮捕者を出しているが、参加者数を記したものもしくは不明としたもの以外は案外参加者が少なく、五〇〇人を越えない程度である。
なお、 六七年四月、 清水谷高校、 市岡高校の組合活動家の教員の強制異動に抗議して清水谷では三五〇人が集会、異動反対のバッチを着ける運動を、市岡では七〇〇人が討論会を開き、校長を追及した。大学の学園闘争に追随して爆発した高校の学園闘争の胎動も既にこの時期から始まっている。

三、 爆発する学園闘争 (一九六八~七〇年)

1 学園闘争の拡大と激化

<知性の管理に対する反乱>
一九六八(昭和四三)~七〇年に学園の管理社会化に対する学園闘争が爆発する。
学園闘争は、大学においては「知性」に対する外部からの蚕食・ 統制=〔産軍学共同、官僚的統制、 自治侵害〕、権威的支配=〔医局・講座制、教授会自治のヒエラルキーによる縦型支配〕、営利産業化=〔マスプロ教育、理事会支配〕への学生・ 若手研究者の抵抗・ 異議申立であり、高校においては学校の進学予備校化・産業予備校化と取り締まり的指導に対する生徒の反発であった。
それ故実際に紛争校になるならぬを問わず全ての大学・高校に矛盾・対立が集積し、教育・研究体制全般がそのあり方を根底から問われたのである。しかし、全学連の崩壊という決定的なマイナス要因に規定された闘争は個別大学・高校で「終わりなき闘い」として展開され、泥沼に陥って終には強権的に終息させられた。

<東大から全国へ>
闘争は、処分問題を発端とする東大医学部自治会のストライキ突入 (六八年一月)、 使途不明金をきっかけとする日大の理事会全一支配追及、日大全共闘結成(5・27)、東大全共闘結成(6・15) で一気に全国化。紛争大学は六九年五月で六五校 (朝日新聞調べ二九日現在) であったが、八月には二〇校 (朝日新聞調べ三日現在) の多数に上った。
高校紛争も六九年一〇月、「封鎖・スト等が四九校、集会・デモを含めると数知れず、特に東京とその近県、近畿、関西地区が圧倒的に多い。」 (朝日新聞調べ二七日現在) 状況を呈した。

<強権による鎮圧>
これに対して、文部省は六九年四月二一日、 次官通達を発して警官導入による秩序維持を求め、同年五月には閣議が「大学の運営に関する臨時措置法(案)」(大学立法)を決定。八月三日に参議院本会議強行採決で同法が成立。さしもの大学学園闘争も国家の強権により、六九年中に鎮圧された (高校紛争も七一年初めまでに、府県教育委員会通達と機動隊導入により同様に鎮圧された)。
闘争が激甚、深刻であったため死傷者、被逮捕・投獄者、被処分者、学業断念者等の犠牲者も膨大な数に上った。 (1)

(1) 「大学紛争を苦に自殺 市大生」 (『朝日』 69・ 5・26) 「紛争騒ぎを苦に自殺? 市大病院長事務取扱婦人」(『朝日』69・7・24)。「原因はひどいやけど 京大紛争で死んだ関大生」(『朝日』, 69・10・2夕)。「紛争苦に切腹自殺 寺田教授」「工学部助手が感電死 封鎖解除の部屋修理中」(『朝日』 69・10・15)。 市大工学部院生自殺 (『朝日』 72・11・9)。
「内ゲバで学生二人死ぬ 学費紛争の関西大」(『朝日』 71・12・4)。 「内ゲバで学生死ぬ 革マル系 大阪の沖縄デー」(『朝日』,72・4・29)。 〔「革マル系」とはマルクス主義学生同盟革マル派〕

<封鎖、大衆団交など>
行動の形態としては、集会、学内デモ、スト、バリケード封鎖、大衆団交などがある。
この期間中、 紛争校で長期にわたって授業が停止した。 授業の停止は自治会の多数決決議による無期限ストライキによるものの他、クラス決議や個別の集会(必ずしも全員参加を前提としない) 決議によるストライキ、バリケード封鎖による強制、 封鎖解除後の学内立ち入り禁止などによるものもあり、 後期になるほどその傾向が頭著になる。
バリケード封鎖には、活動の拠点を維持し、当局や体育会系などの反対派の攻撃に備えるという防衛的性格と 、「先進的な」 活動家が問題提起を抜き差しならぬ形で一般学生や大学に突きつけ、対応・選択を迫る性格との二面がある。この対応・選択を迫るという性格は全学連の分裂を引き出した第一〇回大会の「われわれが強力な (闘争)形態をとればとる程、対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、われわれの周りに結集する勢力も大きくなる」 (『資料・ 戦後学生運動』一九七頁) とする急進的思想の具体的表れである 。
バリケードは必ず、これに拠る闘争派とバリケード反対派、大学側の三つ巴の紛糾を生み出し、しばしば物理的衝突を引き起こしている。そして、大方は機動隊導入により強制的に撤去されている。
大衆団交は、全員参加・自主管理の理想的系譜を引き、教授会自治に対抗する強力的手段として働いたが、被選出機関への意志の集約・統一を欠くため合意形成から決着への道筋をしばしば見失うことにもなる。

2 私学の闘争

<関学(関西学院大学) >
一九六七年二月一五日、 翌年四月からの学費値上げに反対する 「学費値上げ阻止全学共闘会議」 決起集会が開かれ、 その決議によって一六日から法学部、 一九日から社会、 商学、 文学部が無期限ストに入りそれぞれの学部校舎をバリケード(この段階ではまだ立看板程度)で封鎖した。(経済学部自治会の執行部は代々木系一共産党系の一般的呼称一が多数を占めるためスト回避)。要求は授業料値上げ撤回と大学改革の六項目であった。
無期限ストがーヵ月近くになり、後期試験が目前に迫る六八年一月中頃から収拾派が動きはじめる。 一月一七日文学部自治会が代々木系の影響下でバリケード撤去決議を行って継続派と乱闘。他方、 最も強硬な社会学部自治会はバリケード継続を決議するが、 体育会系学生と大学当局の連合軍により一旦は撤去。 学部長が自治会解散命令で追い打ち。 (1・22)翌日再封鎖。 商、文、法がスト中止(バリケード撤去)する中で社会学部は試験ボイコットに突入。三月二八日大阪近隣では初めての警官隊導入によりバリケードストが解体される。
しかし、 二年続きの授業料f直上げで、 六八年一二月には再び社会、 法学部がストライキ突入。経済学部は内部対立で決議に至らず。 商学部は体育会系優勢でスト提案を一旦否決するが、 商学部闘争委員会がストライキ投票を成功させスト突入。
他方、 大学側は全学集会等を行って自主解決を模索するが、 結局機動隊の手によってバリケードストを鎮圧した (69・6・13)。

<関大>
二年前に新設された社会学部で、同学部付属研究組織である社会学会の経理・規約・ 学生参加をめぐってスト権投票開始、 六九年一月二一日バリケードストに突入。他方、代々木系の民主化委員会は、ストライキ投票が民主的でないと抗議。 闘争の初めから党派対立が表面化した。 しかし、社会学部自治会はこの代々木系の批判を受け止めて、 同月二二日の学生大会であらためて投票を行いスト権を再確立した。 ここでも体育会系は闘争に敵対し、最初からバリケード解除の先兵となる。 教授会の大幅な歩み寄りにより、一月二九日に一旦解決し、スト中止・ バリケード解除。
しかしその後学長選挙等の大学民主化をめぐって紛争が再発。 同年六月二〇日封鎖、 ニ一日自主解除、 ニ二日再封鎖と日まぐるしく変転。 七月五日機動隊導入。機動隊導入と大学改革学長案を巡って学長支持派の工学部と法・文・商・経の教授会が対立。
全学生対象のアンケート調査では回答者 (四割) の約七三%が学長案を支持するが、 九月学長辞任、 同月工学部の″独立″宣言で内紛。 九月二二日郵送による学長選挙開始。 九月二三日機動隊導入で事実上鎮静。 -〇月二日授業再開。
機動隊に爆弾投郷 (69・10・7)、 セクトの陰惨な内ゲバ殺人 (前述 71 ・ l2 ・ 4) 事件等も発生。
但し、 爆弾や殺人事件は、関大学園闘争の必然として起こったものではなく、殺人事件の被害者も加害者も学外のいわゆる 「外人部隊」であって、 これらの責めは、事件を引き起こした特定セクトに帰着する。

<大医大>
六九年一月二三日、 小児科教授に学外者を選出する動きに対して小児科医局が反対声明。 四回生クラススト決議。 同日午後の全学集会で講師、助手、副手、院生、学生の五者による全学協議会を組織 (後に助教授も参加し六者協となる) し、 小児科教授人事問題、 学長退任、 大学運営への学生等の参加等の一〇項日を「公開質問状」の形で要求。学長回答を不満として一月二七日、四回生クラス会二四時間スト。一月二八日、 教授会が六者協議会に教授会を加えた臨時大学問題懇談会設置を提案。一月三一日、小児科後任教授予定者が辞退。同日副手、院生診療拒否無期限ストに突入。 二月三日学長辞任。
二月四日、 学生も無期限ストに突入。 二月二日、 学生大会で①大学決定に対する学生の再審査(留保権) ②教授会内容公開 ③医学教育制度の矛盾是正等を決議し街頭デモ。 その後教授会が学生の留保権に譲歩を示すが、学生大会は不十分と拒否し、青医連の公認も合わせて要求。四月一日教授・ 助教授による大教授会設置(副手、院生オブザーバー)、 副手の地位確立等大幅な改革案を教授会が提示。 四月三日の副手のスト解除を最後として紛争が終結した。

<近大>
六八年秋、当局に批判的な法学部の助教授・教授五人が辞意表明、学生が法学部クラス総連合を結成し、一一月末教授会と①助教授、講師の教授会参加 ②学生・教官各四人の委員会設置③論文瓢窃問題の前学部長講義取消 ④学部長辞任勧告等で合意したが、当局がこの教授会決定及びクラス総連合を否認。他方、学生側でも体育会系が「愛校民主主義学生同盟」を括成し、対立が激化。 六八年一二月三日、 商経学会学生部会の学生大会で、 役員選挙をめぐって六〇〇人が乱闘。 四日、法学部クラス総連合、 商経学部第二自治会等が全学集会を開き、 他大学生を含む体育会系が仕掛けたものと大学に処分と大衆団交を要求、一部が別館封鎖(翌日大学側が解除)。十二月六日、法学部クラス総連合が授業阻止の五〇〇人座り込みで「総連合承認」「学長公選」を要求。 当局団交拒否。
六九年五月一六日、法学部クラス総連合系が法学部長室を封鎖、 ニ一日説得で解1除。

<その他の私学>
商大では、 六八年一月一三日授業料値上げ反対、施設改善要求を掲げ学外デモを計画したが、大学側がこれを中止させ、委員長ら九人を無期停学処分にした (二人は解除)。 これに対し、 二月一二日一人がハンスト入り 。学年末試験最終日の二月二〇日に、自治会が試験をボイコット。工大では、六八年六月二七日、自治会生活対策部の購買部を生協にするよう要求して、 四八時間ストに突入。六九年五月八日、不正入試問題、前理事長夫人への公金功労金問題(公金一三千五百万円相当譲渡) 等六項日要求で、 一時理事長室占拠。その後全闘委が理事長室、学長室を封鎖。 二月六日、学生大会で機動隊導入反対、 六項日要求貫徹の無期限ストを決議。 同日、遊説中の社会党成田委員長に 「藤田進理事長は、社党の参院議員であるのに学生、教員の要求に対してなっとくできるだけの答えをせず、 機動隊導入と職員解雇を考えている」と要請文を手渡した(『朝日』, 69・11・7)。 機動隊導入に反対して三教員もハンスト。その後さらに封鎖を拡大。一二月四日には封鎖解除要求の二部学生大会に全闘委が乱入。 ー二月二八日、機動隊導入で封鎖解除(これで全国の大学で全学がバリケード封鎖されているところはなくなった。(『朝日』 69・12・28)。
電気通信大学で、 六九年七月三日応援団処分問題・大衆団交要求の無期限スト。ー二月二三日、学長公選・経理公開・学生会館建設等六項日確認の尊重と処分を出さない等の条件を付けてスト解除。 浪速短期大学一六八年一二月五日学則改正、 民主化要求。 六九年二月七日封鎖、翌日職員が解除。 桃山学院大学–団交決裂で六九年一一月一五日全学封鎖。大阪経済大学(経大)七〇年六月二七日自治会不承認で無期限スト。大阪産業大学一ワンマン経営、経理公開、大学身売り問題で七〇年六月二三日から九月一七日までスト、 理事長一族退陣。 大阪薬科大学–学生部長不信任等で七〇年一〇月一二日より試験ボイコツト一臨時休校一一〇月二四日学生部長辞任で休校解除。

3  国公立大学の闘争

<市大自治と市議会>
一九六七年一二月一日に 「大阪市立大学が左翼偏向しているとして教授らの思想調査をし、偏向が是正されなければ、同大学の来年度予算を認めないとの強硬方針を打ち出した」(『朝日』,67・12・12)大阪市議会自民党議員団は七日、「文教研究委員会」を発足させた。自民党本部の学生問題懇談会や教育正常化委員会等もこれを受けて 「大阪問題懇談会」 を発足させるが、自治会や教職員組合の抗議、渡瀬学長の断固とした声明(l)と世論の批判に遇って、大学へ乗り込んでの調査等は沙汰止みになった。

(1) 学長声明 「干渉には全学をあげ断固 (自由・自治の) 三原則を守る。—-教職員ならびに学生諸君の冷静な判断と良識ある行動を望む。」(『朝日』 67・12・12夕)。 自治省行政局長談「議員団の活動は・・ 個々の議員の集団の動きに過ぎないから調査権はない。—市会で議決されても、大学については管理運営面の調査しかできず、教授たちの思想や教育内容に立ち入れないはず」(『朝日』67・12・28)。

<市大医学部>
一九六八年一〇月、 授業中の教授と助教授の意見対立が発端となって教授会への不信が表面化した医学部で、一一月二九日学部運営に諸自治機関 (学生自治会、青医連、大学院自治会一この三者で医学部民主化共闘会議結成) の参加と拒否権を制度化する確認書が学生との団交で交わされた。
しかし、 先の「偏向問題」で世論の前に後退した自民党が「拒否権を学生に与えるのは条例違反」と市議会で追及。教授会は確認書の拒否権から異議申立権を骨格とする改革案に後退、他方学生側は、拒否権を骨格とする六項日を提案 (69・1)。 これが紛争の火種となった。
教授会の話し合い拒否。これに抗議する学生のスト二月二五日から六回生、ニ八日から全学年、二月六日から院生・青医連の診療拒否、無期限スト)。
二月一二日、大学協議会(全学の最高決定機関)も学生の拒否権・対等参加を否定。 以降、医学部運営民主化は全学部運営の問題となり、二月一四日全学共闘会議(全共闘)のバリケードストによる教養部試験延期から封鎖が次第に拡大していった (二月二三日、紛争の発端となった医学部教授が辞職) 。
四月八日学長が、学生等との事前合議、異議申立権を含む 「大学改革について」の見解を表明したが、拒否権を要求する学生側の封鎖により新学期の授業は全面的にストップ。
以後、 一般学生の紛争解決を求める集会、教授会公開、 医学部教員会の当直拒否、などの曲折をたどりつつ八月三日の「大学法」 (後述)成立を経て、八月一四日、医学部教授会が大学法を背に「学部の存立があやうくなる」と強硬警告。
九月二二日、「赤軍派」(社学同赤軍派)の武装闘争「捜索」を名目とする機動隊が医学部バリケードに強行突入して一旦は封鎖を解除したが、 一七日、医学部共闘会議が再封鎖。 同月二六日大阪市議会で市長の責任を追及する緊急質問等で追い詰められた大学当局が、機動隊導入を決意。九月三〇日医学部、一〇月四日には大学本部などのある杉本町校舎に機動隊が導入され、封鎖を全面解除、一〇月二〇 日、半年ぶりに授業が再開された。

<阪大>
一九六七年一二月以来、 阪大生協の学外 (団地) 販売を巡る生協理事会と生協労組間の紛糾に絡み、 六八年五月、 労組を支持する反戦会議系学生による暴力事件が発生。
同月二七日、 無届集会による 「授業妨害」。大阪国際空港反戦デモを翌日に控えた六月二五日、勢力拡大を狙う中核派(革命的共産主義者同盟中核派)系の「外人部隊」(京都の学生)が阪大豊中の教養部になだれ込み、 阪大内の中核派と共に大講義室を占拠。
七月六日、 この三事件で大学が中核派系の三学生を処分。 同月の教養部自治会選挙では民学同(民主主義学生同盟) 系が執行部を握ったが、一〇月中核派系が独自に執行部をつくり、 これ以後中核派絡みの紛争が発生。
一二月五日、 処分撤回を要求する中核派が学生部を占拠。 以後中核系の全闘委 (全学闘争委員会) が大衆団交を要求して封鎖を拡大。
他方、六五年以来、医師制度改革の闘いを続けている医学部自治会、無給医員会、青医連が「統一要求実現共闘会議」を結成して、中核派とは別に医学部の改革闘争を展開。六九年三月、教授会公開、教授選考作業の中止等で前向き回答。
六九年一月一三日、 本館を職員の手で逆封鎖。 二〇日、総長出席の全学集会。 四月六日処分解除を発表(全闘委は白紙撤回要求)。 五月二四日、基礎工学部に機動隊導入。 駐留。 教職員・ 学生の導入抗議デモ、医学部教官会「機動隊駐留反対」声明。工学部自治会、医学部無給研究者、抗議の一週間スト。
九月一八日「産学共同」の寄付計画露顕。一一月一六日機動隊導入、封鎖全面解除。二四日、授業再開。ー二月六日~二〇 日、 団交要求で教養部自治会スト。

<大教大>
大阪教育大学は天王寺(本部)、池田、平野の三分校で構成され、主事の選出方法が民主化問題として常に紛争の種になっている (『大阪社会労働運動史』 第四巻一三二五頁参照) 。
一九六八年二月、各分校主事を従来の学長による任命制から教職員の選挙に改めたが、一九六九年一月一六日の選挙当日、構造改革系フロント派 (統一社会主義同盟系社会主義学生戦線) の学生が学生参加を要求して天王寺分校を封鎖し、選挙がストップ。 同日午後、学生と学長の話し合いが実現するまで選挙を延期することを大学側が約束して封鎖を自主解除した。しかし、学生と話し合う予定の前日・同月二八日、学長が突然辞任。
二九日、全学集会で学長代行が陳謝したものの、民主化の焦点である主事選挙については話し合いが着かず、天王寺分校自治会が三〇日から無期限ストライキに突入してバリケードで本部を封鎖した。同日学長代行が過労で倒れて、学長代行代理にバトンタッチ。 二〇日、機動隊を導入しないと約束するが、ニ二日には代行代理もダウン。この年度内だけで大学責任者が六回も交代するという無責任体制と代々木系自治会執行部と全教科共闘連絡会議との確執が紛争をこじらせた。
二月二六日、天王寺分校再封鎖。団交拒否、封鎖実力解除(四月一日)、「教官つるしあげ」事件(四月二日)とエスカレート。
五月六日、天王寺分校スト解除。同月一九日池田分校封鎖、五月三〇日、「改革長期計画案」発表。
七月九日、池田分校に機動隊導入・封鎖解除。一〇月六日、紛争六代目の学長代行の話し合い路線を教授会が否決。
一〇月二五日、機動隊導入により全学封鎖解除。一〇月二七日から授業再開。

<外大(大阪外語大学)>
一九六九年一月二〇日、反代々木系学生が本館を封鎖、「外人部隊」がこれを支援。 「東大共闘会議の提起した問題を、全国に波及させなければならない」と呼びかけ。 (『朝日新聞』, 69・1・21)、翌日教職員・学生が封鎖解除(後再封鎖)。
この時期どの大学でも、 代々木系と反代々木系の学生間の確執が見られ、一般に代々木系が穏健・収拾路線もしくはバリケード反対・封鎖実力解除路線をとって反代々木系と対立し、 時には「武力」衝突も発生している。
外大では代々木系の力が強く攻撃的で、大学改革、学長選参加を巡る闘争で全闘委としばしば衝突し、重傷者も出た。五月二〇日、両派乱闘。全闘委校門にバリケード。翌日一部解除。
六月四日、研究室封鎖。六月六日、両派乱闘。七月一日また衝突。重傷二人を含め二六名けが。二日、機動隊導入、封鎖解除。 (再封鎖)二〇月二日、機動隊導入、封鎖全面解除。 一三日から授業再開。

四、 高校の闘争

1 六八年秋から始まった高校紛争
一九六八年秋から七一年春までの間に、なんらかの紛争で朝日新聞紙上に校名が出た高校は次の三六校である 。
大教大池田(国立)、市岡、阪南、茨木、茨木工、東淀川、高津、池田、豊中、島上、清水谷、春日丘、旭、泉尾、淀工、住吉、桜塚、生野、富田林、大手前、河南、北野、夕陽丘、八尾、布施、枚方、泉陽(以上府立)、汎愛、此花工、淀商(以上市立)、尼崎、尼崎北、尼崎西(以上兵庫県立)、尼崎城内(尼崎市立)、桃山、浪商(以上私立)。
この内、 占拠・ 封鎖があったのが一九校、 警察が介入したのが九校、生徒の処分や逮捕があったのが一五校。紛争は公立高校に多く発生した。

2 紛争を誘発した府教委通達
大学の学園闘争が一九六七年頃から始まったのに対して、高校の学園闘争は少し遅れた一九六八年秋頃から始まり、大学の闘争が「大学法」で終息させられた後も七〇年初めまで続く 。
六七年秋頃から反戦デモに個人的に参加する高校生が急増したが、これを府教育委員会が六八年九月一八日の通達(l)で(また文部省が「見解」で)禁圧しょうとしたことが、逆に潜在する管理教育への不満を呼び覚まし、政治活動に参加したことのない一般生徒にも深刻な衝撃を与えた。
大阪に於ける高校紛争のほぼ全てがこの「九・一八」通達後に発生し、これを巡る紛争には「九・一八通達事件」の異名が与えられたが、 紛争校のうちこれと無関係なのは例外に属する。

(1)「(大阪府教委の)通達は①各学校で生徒指導体制を確立し、教職員間で生徒指導上 の共通理解を深め、校長を中心に、全教職員をあげて指導にあたれ ②一人一人の生徒に、教師との人間的接触を深め、家庭との連絡協調を一層密にせよ ③ホームルームその他集団指導に当たって集団の中の個人の責任を自覚させよ ④生徒が個人として政治的集会等に参加することは、社会的経験に乏しく、判断力の未熟から過激な行動に走り、不測の事故などを起こすことも予測されるので、参加することのないよう指導せよ ⑤万一こうした行動をとった場合は、教育的な配慮によって、本人の反省、自戒を促し、再び繰り返さないようつとめよ」(『朝日』 68・9・l9)
「近く、高校生の政治活動を禁止する文部省通達がでる。その基本方針は–学校外の政治活動は教育的な観点から原則として禁止すべきである。 ②政治的なデモ、集会への参加は認められない。 ③デモ、集会に参加し、違法行為をした生徒に対しては、学校は処分を含めた適切な措置をとるべきである。」(『朝日』 69・10・31)

3 深まる師弟の相互不信

<市岡高校の紛争>
一九六八年九月二日、府立市岡高校の校長室がヘルメット生徒に占拠され、大阪の高校紛争がこの日から表面化する。府立高校長会の制度委員長である市岡高校の校長が府教委の指示を受けて、校務分掌の職員会議公選制を廃して校長任命制に変えようとしたことが発端である。市岡高校の紛争は一〇日後に校長が任命制を一旦断念することでひとまず鎮静化する 。

<高校生の活動取締方針>
教員の学校運営民主化運動に対する攻撃と、生徒の政治活動等を取り締まる府教委の 「九・一八通達」とは表裏をなすもので、高教組は、校長任命制に対し、生徒は通達に対し、共に高校教育の反民主的な官僚統制に反対する。
六八年二月、府立高等学校校長協会は、府下全府立高校約一〇〇校の生徒と教員の政治活動調査と活動家について、①活動家学生の派閥構成と各派の人数・氏名、②生徒自治会・ クラス集会・文化サークルの思想的な傾向・活動状況、③文化祭・体育祭・卒業式での゛造反゛の傾向、④生徒の政治活動を指導している教員の人数について調査の通達を出していることが判明して、 府高教組が二月上旬に抗議したという (『朝日』69・11・7夕刊)。

<教師と活動家生徒の対立>
しかし、 それにもかかわらず、師弟の信頼関係は既に崩壊していた。
活動家生徒は教師を抑圧者と捉え、一方教師の側においては共産党の影響力が強く活動家生徒を「暴力集団」「トロツキスト」と排撃する風潮が見られ、セクト的対立感情が生徒と教師の相互不信を増幅。大教組の沖縄返還要求集会に一部セクトの高校生が乱入して教師に負傷を負わせ (69・5・31)、告訴騒ぎを起こしている。

<お仕着せ管理と選別>
市岡の校務分掌問題は一応鎮静化したが、学校と教師への不信、取り締まり的生徒指導や卒業式等のお仕着的管理と進学中心の選別に対する不満は各学校に共通のものである 。
一九六九年二月二四日、府立東淀川高校の三年生は「自分たちで作った答辞を、自分たちで選んだ朗読者に読ませよ」と抗議集会を開き、学校側指名の答辞者朗読の際には卒業生全員が座って抗議の意思表示をし、その後生徒側が選んだ朗読者を出すことを決め、翌二五日の卒業式に決議を実行した。 (l)

(1)「能力別学級編成は学歴偏重に起因する大学受験の激化に対抗すべき策として当然といえば、当然かも知れません。しかし、それが正しいか否かということは別問題です」 「これでは先生と生徒の心のふれあいがなくなり、あの入学当時の胸をふくらませていた私たちから、次第に遠ざかってゆくように思えるのです。」一東淀川高校の自主答辞一 (『朝日』 69・11・1)。

同月二八日、 府立茨木工業高校では学校指名者の答辞が終わると、進学組に対抗して就職組の生徒が 「いまのは優等生の答辞だ。 劣等性の答辞も読ませてくれ」と呼びかけ大半の同意を得て独自の答辞を朗読している 。

<多様な紛争の火種>
このように高校紛争の火種は、府教委の「九・ 一八通達」(文部省見解)、処分、掲示検閲等の校則、卒業式・終業式・文化祭・体育祭のお仕着せ、生徒会の御用化、能力別学級編成、テスト第一主義、同和教育、育友会・PTA会費問題など多岐にわたった。
生徒の教育者に対する不信は、単にその管理・統制的姿勢のみならず、人間性にも深く及び、労働組合への姿勢も問われた。
一九六九年二月一三日、大阪総評が「佐藤訪米抗議・安保廃棄・沖縄奪還統一行動大阪大会」を開いたが、この闘争への日教組組合員としての参加をめぐり、富田林高校で生徒会主催の討論会が開かれ(13・14日)六〇人の先生一人ずつの参加・不参加の理由が追及された。 「憲法で保障されている人権を認めない地公法をどう思うか」「ストに参加せんでも、ストをした先生たちのおかげで賃金はあがる。自分だけなにもせず、ぬくぬくとしているのはおかしい」(『朝日』69・11・l5)。
そして生徒の不信は親にも向かい、経理問題も姐上に上った。同年九月二二日、泉尾高校で、百数十万円に上る PTA 会費が、先生のヤミ手当として支給されていた問題で生徒集会が開かれ授業取り止め。
一九七〇年一月一〇日から、尼崎市立城内高校 (定時制)で①民主教育の徹底 (あらゆる差別をなくす) ②授業内容の充実 ③育友会の経理公開で授業ボイコット。 枚方高校の生徒会が行った校長不信任(70・2・11) で全員投票により追求した一項日は学校経理の公開である。
こうして高校の学園闘争は、一九七一年秋まで尾を引くが、紛争がもっとも長期に及んだのは東淀川高校であった。紛争が始まったのが六九年の二月。封鎖・処分・機動隊導入、民族派生徒の闘争派生徒への鉄棒による暴行などを経て鎮静したのは七〇年七月であった。

4 学生運動各セクトの働きかけ

<セクトによる組織化>
東淀川高校の卒業式と同じ二月二五日、府立茨木高校、同阪南高校では大阪で初めての高校封鎖が行われた。茨木高校では「反戦会議」 が卒業式の自主運営を要求し、学校と生徒会との話し合いで卒業生全員のアンケートに基づく答辞作成委員会(「反戦会議」が大半を占める)で文案をつくったが、上部機購にあたる学級代表が「文章になっていない」と不採択。「反戦会議」が他校生らの応援を得て封鎖の挙に出たもの。阪南高校でも「反戦高協」などが「卒業式粉砕」を叫んで封鎖を強行、 説得の校長に角材で殴りかかるなどした。
いずれも、卒業式をめぐる反抗だが、東淀川、 茨木工の場合は、生徒の決議や支持によるものであったが、茨木、阪南の場合には大衆的支持がなく、茨木では式後の卒業生集会で「封鎖した生徒らの行動は認めない」と確認した。茨木高校の場合は市大の学生が指導したといわれ、すでに一九六八年の10・21国際反戦デーのデモに参加した高校生は、反戦高協(中核派系)、府高連(社学同系)はじめ、反帝高評(反帝学評系)、大阪高校生委員会(革マル系)さらに民学同系の高校生グループなど合わせて約四〇〇人はいたといわれていた(『朝日』68・10・22) が、 六九年に入って上記のように惹起された高校紛争は、この様にセクトの働きかけで紛争に火を着けていくケースが多くなった。

<高校自治会連合準備会の発足>
そして一九六九年一一月二三日、反戦高協、ヤングベ平連などの府下公立、私立高校生一五八名によって『大阪府高校生自治会連合準備会』が結成された。この準備会は、七〇年安保闘争へ向けて、学校教育の一環である現在の高校の生徒会を変革して、生徒会を生徒の手に取りもどすのがねらいであって、この準備会は将来は個人加盟でなく、生徒会単位で加盟できるようにすることを目標としていた(『朝日』 69・11・24)。

5 現代の「女工哀史」–隔週定時制高校

<泉州の隔週定時制高校>
高校紛争の底には、学校が産業予備軍育成所になり下がっていることへの反発もあったが、産業社会に直接的に従属し悲惨な状況を生み出したのが、泉州地方の隔週定時制高校である。
一九六五年七月、大阪府教委は、「思い切った”高校教育の改革”」の一策として府後期中等教育審議会に次の諮問を行うことを明らかにした。
大阪府下泉州の企業地では数万人の女子従業員がおり、会社はそれに高校教育を受けさせたいと強く望んでいる。ところが紡績業はほとんどが早朝と午後の二交代制で通学は無理。このため早朝と午後の二次授業を行う定時制高校を設ける。現在府立鳳高校横山分校に対し地元の要望があり、さらに広い範囲で実施したい(『毎日』65・7・14)。

この時期、 安価な労働力として中学卒業生は金の卵ともてはやされたが、地方出身の中卒女子労働者を、早業、夜業の過酷な労働に従事させている泉州機業資本は「働きながら高校に行ける」ことを労働力吸引の目玉としようとし、府教委も易々としてこの産業界の要望に応えたのであるが、その悲惨な結果が七〇年春に露呈した。

<卒業生の不満>
三月一日、 府立鳳高校横山分校–隔週定時制–の最初の卒業生三一人 (入学当時は六八人) が巣立ったが、彼女らは答辞で「会社も、中学校の先生も、普通科定時制といいました。 なのに……。 早朝や夜遅くまでの労働。その合間の勉強。教育とは、隔定とはいったいなんだろう」「疑問はすぐ解けました。郷里を出なければ生活していけない中卒者。 それを人手不足の企業がねらい、つくったのが隔定だったのです。そこに教育の姿は見当たらなかった。やめていった人が多いのも当たり前です。」 (『朝日』70・3・2)
と積もる恨みをなみいる府教委代表や、会社の幹部に叩きつけた。彼女たちの標準的生活は府立高校教職員組合の調べによると
『早出勤務の週』 は朝四時半起床、五時–午後一時半が仕事。入浴、バス通学で三時一五分–七時二〇分授業。下校後、洗濯、復習で一一時就寝。『遅出の週』は、七時半に起き、午前中にレポートなど通信科目の学習 (火、金曜は通信スクーリングで登校)。 午後一時半–一〇時半まで仕事で午前零時に寝る(『朝日』 70・3・29) であり、教室はプレハブ、体育館は週一度しか使えず、授業も定時制より程度が低く、教科書は飛ばしがち、 クラブ活動も全日制に気兼ねしてグランドの隅でという”教育″であった。

<和泉高校隔定生の闘い>
このような現実を無視し、資本の意向を帯して、府教委は新学年から四つある隔週定時制高校の内二つの募集人員を一挙に倍増しょうとしたため、ついに彼女らの怒りは爆発した。
①増募の白紙撤回、②隔週定時制を普通定時制に移行せよ、③今春入学する後輩たちにも普通定時制を保証せよ、等の抗議・要求を掲げて同年三月三〇日朝、府立和泉高校隔週定時制女生徒約三〇人が府教委に押しかけ廊下に座り込みを行ったが、府教委は要求を拒否した。
四月五日、和泉高校隔週定時制の入試に在校生二〇数人が、増募に抗議し、「わたしたちは企業のドレイになりたくない」「後輩にこれ以上みじめな思いをさせるな」とシュプレヒコールをした。六日には同校教員約三〇人も裏門付近に抗議の座り込みをしたが、他方、 森田紡績 (和泉市) では労働組合が勤労生徒の普通高校定時制編入を協定化し、泉州労連が、参加二五組合で協約運動を展開した。
四月一二日、 和泉高校隔週定時制入学式での間借り授業、 授業時間削減等の説明に、新入生も「入学前に説明がなかった」「全日制にはこんなしわ寄せはないでしょ」と怒り、生徒会は隔週問題を考える集会を呼びかけたが 「新入生は、式に出席した企業の人たちがせかせるように連れ帰ってしまった」(『朝日』70・4・13)。

五 過激な街頭の政治闘争(一九六八~七〇年)

(1)一九六八年の行動

<武装闘争化の動き>
一九六八年から七〇年にかけて原子力空母–エンタープライズ寄港阻止闘争、ベトナム反戦闘争、日米経済委員会反対闘争、沖縄返還闘争、七〇年安保闘争、入国管理法改悪反対闘争および学園闘争に対する弾圧法としての「大学の運営に関する臨時措置法」 反対闘争などがある。
これらにおいて、街頭闘争は一層過激となり投石、ゲバ棒(角材一時には鉄パイプ)、火炎瓶が使われることもあり、その「武装闘争」の中から、「赤軍派」等の武闘組織が発生し、爆弾によるテロルもあった。またこの時期から佐世保現地闘争にも参加するなど高校生の街頭政治闘争への参加も目立ちはじめ後の高校学園闘争 (前述) の活動家となる。

<六八年一月~三月 の行動>
六八年一月一七~一八日、ベトナム反戦闘争の一環として米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対し、現地に多数の学生が集合して激しく機動隊と衝突したが、このとき一月一五日、夜行列車やバスで関西から佐世保に向かった学生は三派系、 構革派、 代々木系を合わせて三百余人であった(『朝日』,68・1・16)。 同月一八日、大阪総評・ ベトナム反戦大阪実行委主催の「米空母エンタープライズ寄港阻止大阪集会」 (四〇〇〇人) には反代々木系府学連が参加し、二〇日の共産党系安保破棄・諸要求貫徹大阪実行委の「エンタープライズ寄港反対緊急大阪府民集会」(三二〇〇人)には代々木系府学連(二一大学一七自治会)が参加した。
三月一日、代々木系府学連は、国鉄運賃値上げ反対で大阪駅デモ。
四月一九日、米軍の北爆即時停止、B52沖縄撤去の「全大阪青年決起集会」(二〇〇〇人) に中核派を除く反代々木系学生が参加。六月二日、米軍戦闘機が九州大学工学部の校舎に墜落したのに対して同月七日、代々木系府学連一五〇名は抗議集会・デモを行ったが、 三派系は京都の行動に集中した。

<六八年 6 ・15闘争>
同年六月一五日、全国反戦行動大阪実行委員会のベトナム反戦行動は、御堂筋デモを巡って地裁が一旦許可したが、府警の即時抗告で出発直前に高裁が不許可とするなどで混乱。これの参加者七〇〇〇名のうち、反代々木系学生は二五七〇名 (内兵庫県から約四〇〇、 京都から五一〇 ) であったが (府警調べ)、 御堂筋で機動隊と激しく衝突し、負傷者は病院で手当を受けたものだけでも二〇〇名を越え、 現行犯逮捕は一二名に上った。

<ついに角材で 武装」>
六月二五日阪大豊中の大講義室を占拠 (阪大紛争の発端一前述) した中核派が二六日、大阪空港軍事使用反対デモを行ったが、これに阪大一般学生約八〇〇人も追随し一千名強となった。六月二八日、アスパック(アジア太平洋地域閣僚会議)粉砕を叫び、革マル系、三派・ 社学同系(京都、和歌山等も含む)と地区反戦青年委員会さらに「府高連」も加わり、御堂筋デモを行った際には、学生は角材で「武装」(大阪では初めて)し、ゲリラ的デモで機動隊と衝突、負傷二〇九名逮捕三一名全員送検。 後、学生三人(京大、同志社、市大) に凶器準備集合罪が適用された。
八月一七日、 関西べ平連、 全大阪反戦青年委、 ベトナム反戦大阪実行委共催の大阪空港軍事使用反対デモ五〇〇人。 中核派約九〇名は別行動をとり、新明和工業に突入、 四四名逮捕。

一〇月二一日、「10・21 反戦国際統一行動」 が扇町公園で開かれ、 御堂筋のデモコースに加わった反代々木系学生約三千人 (京都からも結集) の内中核系、 社学同系、 社青同解放派等が機動隊と各所で激突。解散時には、民学同、社青同など一〇〇〇人も大阪駅で集会。高校生約四〇〇人参加。負傷者一五四人(朝日新聞調べ)、逮捕者九三人。社学同系府学連委員長も逮捕。代々木系府学連は共産党系独自集会に参加。ー二月二〇日、米原潜佐世保寄港で「原潜寄港抗議府民集会」(扇町)、社学同、民学同、反戦高協など学生二〇〇人余を含む一五〇〇人がデモ。

(2)一九六九年の行動

<六九年–沖縄、安保>
一月二八日、「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」に反対する反代々木系京都府学連、京都・大阪反戦青年委員会の「全関西青年学生総決起集会」 (三〇〇〇人) がデモ、 約五〇人が負傷、逮捕三二人。 代々木系は安保廃棄京都実行委員会の独自集会に参加。
沖縄返還「四・二八」闘争に向けて四月二六日一五〇人の高校生が集会、デモ。ニ八日には反代々木系学生約千人が中之島公園で集会の後、「沖縄返還、安保破棄大阪府民大会」 (大手前) に向けてデモ、途中十一人逮捕、府民集会は約二万人、学生は約三八〇〇人((京都、神戸と高校生を含む)参加、デモで七人逮捕。代々木系学生は共産党系の独自集会「四・二八大阪集会」(四五〇〇人) に参加。

<「大学法」反対闘争>
長期化、深刻化する学園闘争–大学紛争–に業を煮やした、政府・文部省は四月三〇日の中教審の答申を受けて、「大学処理法」立法化を計画、五月二四日に「大学の運営に関する臨時措置法案」を国会に上程した。この法律案は、紛争が半年を越えれば休校、九ヵ月を越えれば文相の機能停止命令(閉校)、一年立てば廃校、収拾に非協力の教官は排除、紛争中の賃金カット等、学園闘争を鎮圧すると共に大学の官僚統制を意図するものであった。
これに先立つ二三日を、「全学連」各派は統一行動日とし、紛争により既に無期限ストあるいはバリケード封鎖を行っている大学では集会、代々木系が強く封鎖などが行われていない大学ではストライキが全国的に行われた。大阪では、代々木系府学連の関大の自治会の一部と府立大、府立女子大、大教大池田、大外大などがストライキ。それまで紛争の形を取っていなかった大学にも紛争を広げた。 (この段階での全国の紛争大学数は警察庁調べで、 国立五三、公立八、私立二四計八五校)
七月二日の「大学法案反対」社共共闘などを経て、紛争校の教官・学生を含めて全国、全大学に反対の機運が高まるが、七月二四日衆議院文教委員会強行採決、衆院を経て、八月三日、参議院本会議強行採決で成立。
八月四日強行採決に抗議し、全共闘・反戦青年委が大阪城公園で「大学法粉砕全関西労学集会」(六〇〇人)後、御堂筋デモ。代々木系府学連は大手前公園で「大学法粉砕決起集会」(二〇〇人) の後、共産党系の大学問題大阪共闘会議・ 安保廃棄諸要求貫徹実行委の集会 (一七〇〇人) に参加した。
五日、大阪駅で「大学法強行採決労学市民抗議集会」 (中核系約二〇〇人)が座り込み、機動隊、鉄道公安員と衝突、二五人逮捕。

<六九年夏から年末までの反安保闘争>
六月一五日、全大阪反戦青年委、京都反戦青年委、 関西べ平連共催の 「反戦・ 反安保・沖縄闘争勝利六二五関西総決起集会」に近畿、北陸、 四国等からも結集 (六〇〇〇人一府警調べ)、御堂筋デモで機動隊と衝突、負傷三〇人以上、逮捕六八人。 同月二三日には反安保大阪府民共闘会議主催の「六・二三安保破棄・沖縄奪還大阪府民集会」 (九二〇〇人–府警調べ)に反代々木系学生も参加。この日は機動隊との衝突もなく平穏に終わった。
反安保闘争は、一〇月二日の反安保府民共闘の集会 (三〇〇〇人)、一〇・二一の国際反戦統一行動日には、反安保共闘の集会・デモ (五万人)に、反代々木系学生も参加。 代々木系府学連は天王寺音楽堂で三五〇〇人。
一一月一三日、大阪総評主催の反安保集会(三万人)が扇町公園で開かれたが、同公園で平行して開かれた全大阪地区反戦連絡会義、全関西統一スト実行委主催の「佐藤訪米実力阻止、ー一 ・一三全関西労学市民総決起集会」(七〇〇〇人) 参加者が火炎瓶を投げて機動隊と衝突、逮捕された学生 (岡山大) が棍棒様の鈍器で殴られて生じた頭骸骨骨折で翌日死亡 (逮捕した機動隊員が寝屋川署勤務であったことから、後にこの事件の報復と推定される寝屋川署爆破事件が起こっている)。

(3)七〇年反安保での学園ストライキ
四月二八日の沖縄デーに扇町公園で開かれた反安保府民共闘主催の集会(一万五〇〇〇人) に反代々木系学生ら約三五〇〇人が参加。 代々木系府学連は大外大で八百人の集会後、 共産党系の「国民大行進歓迎七〇年大阪集会」に参加。
六月一二日、反代々木系の「全関西労学総決起集会」 (六〇〇〇人)が扇町で開かれ御堂筋デモ、衝突なし。 翌一三日には共産党系が同じ場所で「全大阪青年学生総決起集会」 (九〇〇〇人)を開き御堂筋デモ。 一五目には、革マル系等の「全関西学生総決起集会」が一五〇〇人、中核系等の「関西統一行動」が一五〇〇人。 六・二三前後の自治会の反安保ストライキは、市大全学部一五~二三日 。 阪大教養部、法、工学部二〇~二三日、理、歯学部が二二~二三日。工大二三日から三日間。 大外大一九~二五日。 府大、 府立女子大二三日。 大教大平野、 同天王寺や府立社会事業短大、千代田短大でもスト、 集会など。
六月二三日、反安保大阪府民集会(靭公園)八万五〇〇〇人に反代々木系学生も参加、工大全闘委が社会党参議院議員の藤田進学長による処分に抗議して演壇前に座り込み。代々木系府学連は共産党系の総決起集会 (大阪城公園) 八万人に参加。 高校でも三〇校で抗議集会や授業ボイコット、デモ等を行い、府教委では代々木系・反代々木系合わせて約二五〇〇人がデモに参加すると推計。
九月一日、 出入国管理法案国会上程阻止、入管体制粉砕などをスローガンとする「関東大震災在日朝鮮人民在日中国人民虐殺四七周年全関西総決起集会」が天王寺音楽堂で開かれ、反代々木系学生を含む二三〇〇人が難波までデモをした。

六、余鑑収まらぬ学園闘争

1 一九七一年の行動

<沖縄返還協定阻止闘争等>
高校の紛争も下火になったが、七〇年三月二五日の卒業式では、府立枚方、高津、豊中、住吉、生野、 富田林、 天王寺等でビラ撒きや少数のヘルメットデモがあった。
沖縄デー目前の四月二五日、革マル系が大阪城公園で一五〇人、関西各地の中核・学生インター・フロント・プロ学同・反帝学評など八派が扇町公園で二〇〇〇人、それぞれ集会とデモ。四月二八日の反安保府民共闘の扇町集会・デモ(五〇〇〇人)に、反代々木系学生も参加。 平穏に終わる。五月一九日、関西各地の反代々木系学生約一五〇〇人が京大に集合し円山公園で 「沖縄返還協定阻止」の集会の後機動隊と衝突、ー二六人逮捕、負傷者約一〇〇人。五月二八日、「沖縄返還協定粉砕全関西統一行動」に反戦青年者や学生二〇〇〇人が参加、御堂筋デモで一〇人逮捕。五月三一日~六月四日まで桃山学院大がスト。
六月一五日、「沖縄返還協定調印阻止全関西統一行動」 (扇町) で三〇〇〇人がデモ。 一五~一七日まで阪大文、基礎工、教養スト、 医学部も一五・一七日スト。市大教養は一五日から三日間スト。一七日には府立女子大、大教大天王寺分校、関大商・工・法・社会各部もスト。
一七日、 共産党系の「危険で屈辱的な沖縄協定調印抗議六・一七緊急集会」五〇〇〇 人以上に代々木系府学連も参加、中央郵便局前までデモ。

<沖縄協定批准阻止闘争>
一〇月五日、「沖縄返還協定反対、完全返還をかちとる大阪府民集会」に民学同等も参加四〇〇〇人がデモ。ー八日、市大で学生大会の日取りをめぐって対立していた民学同系に革マル系等が実力阻止に出て乱聞、ー二人が重軽傷。
二一日、府大全学部、市大教養、阪大法、医、関大文がスト。この日中核系一八〇〇名、社学同系一五〇〇人等が独自集会やデモ。
総評系の集会にも学生五〇〇名が参加。これら反代々木系学生は全体で七六〇〇名となった。代々木系府学連は共産党系集会に参加。 沖縄ゼネストに呼応する二月一〇 日の総評系の集会 (靭公園)に約八五〇〇名が集まり、反代々木系も参加、御堂筋デモ。代々木系府学連は剣先公園で八〇〇人が集会、難波までデモ。
二月一七日、 沖縄返還協定強行採決。この日代々木系の安保破棄諸要求貫徹大阪青年学生実行委二五〇〇人が扇町で緊急集会、難波までデモ。ストは市大一八日から、関大社会学部一八~二四日、工大一九~三〇日、阪大医、理、大外大、府立女子大、府大経、工なども。一九日、全国統一行動の「沖縄返還協定批准阻止、強行採決抗議、佐藤内閣打倒、国会即時解散要求大阪府大会」 (三万六五〇〇人) に反代々木系学生も参加。 京都から来た約一五〇人が大阪駅周辺で独自の火炎瓶闘争。 代々木系府学連は剣先公園で「全大阪学生総決起集会」(九〇〇〇人)の後御堂筋デモ。
一二月一日、 大阪市が中国人保母の解雇を行ったことに抗議し、学生約三〇人が市役所に押しかけ揉み合い。

<大数大入試で障害者差別>
七一年五月二〇日、小児麻痺後遺症で右手が不自由な受験生を体育が出来ないとの健康診断を理由に不合格とした障害者差別に抗議し、大教大でハンスト。以来、「入学時の健康診断は身障者の不合格を前提にするものだ」とする学生の追及で紛糾が続き、 二月一三日同間題を話し合う全学集会を開いたが、大学側が健康診断撤廃を拒否。「全学の合意が得られないまま入試要綱決定の時期にさしかかり、緊急に大学の方針を決定しなければならない」ことを理由に同月二四日から一二月四日までの長期休講を大学側が強行。池田分校をロックアウトしたが、登校した学生が学内に立ち入ったと機動隊を導入。二日から天王寺分校がストに突入、池田分校も同調し一四日から無期限スト。七二年二月の期末試験も延期、三月の卒業式を中止し、入試もロックアウトで実施、四月には池田分校でバリケードも。

2 一九七二年の行動

<学費値上げ反対>
七二年初めから国公立私学を問わず授業料値上げ反対闘争が起こり、学園闘争以来のストやバリケード等紛争が多発した。
一月一三日、学費値上げ反対で関大封鎖。一四日、代々木系府学連も一七日から署名、 デモなどの行動を起こすことを決定。二〇日阪大教養部無期限ストに入り封鎖。ニ二日、 関大に機動隊導入、ロックアウト。二四日、革マル系が市大教養部を封鎖、三一日から無期限スト。
二六日、 電気通信大も授業料値上げ反対、経理公開で無期限スト、卒業試験も延期。 二月八日、大外大二部も二月末までのストに突入。二九日阪大封鎖解除、二三人逮捕、 同日法学部自治会が学年末試験ボイコット決定。四月一三日、阪大期末試験で教職員と揉み合い。一般学生多数がボイコットしたため延期、七月一七日にようやく試験。

<市大工学部の学位論文紛争>
七一年の工学部博士論文審査で二名が不合格とされた。その後、再審査の結果一名は合格となったが、 残り一名 (井関進) が受理を見送られていた。この措置には六九年当時の学生運動で急進的な行動を行ったことが影響したと、七二年二月二一日から当事者の学生が座り込み。 同大の法、商、経等の教授を含む教官五八人が「工学部教授会に訴える」という公開文を出し、紛争は学内全体に拡大。工学部院生協議会が大学の見解を追及し、六月一三日工学部教授会が、陳謝、学外秘密教授会を自己批判、学部長、大饗教授等三名の辞任などの確認書を学生と交わし、一六日、学長が「大学側に重大なミスがあり、 きわめて遺憾だった」 と陳謝。 井関の論文を合格にした。
しかし、一一月九日、井関が自殺。これは大饗教授が井関は「精神異常」という意味の発言をし、強制入院させようとしたためと、ニ二日には五〇〇人が追悼集会。二九日、二〇〇人が教授会会見を要求。 ー二月一日工学部教授会と学生が団交。教授会は大饗教授の辞職勧告を正式決定。学部長代行の辞任等もあったが、二〇日、教授会は辞職勧告を撤回する高姿勢に転じ、翌七三年一月一七日工学部の学生・院生が二日間のスト。 同月二三日には工学部助教授・講師・助手で構成する助講会が学部長代行の辞任を要求、後期試験の監督を断ることを決めている。
結局七四年三月、教授会が再度全面的に謝罪し一応結着。井関の命日にあたる七四年二月九日に、かねてから設立を決めながら、学生、院生と話し合いが着かず遅れていた、井関基金 (教授が毎月千円づつ三年間拠出) を設立、水俣病患者支援の運動に使うことが決められた(なお大学教授はその後、 筑波大学に移籍した) 。

七、 衰退する学生運動

1 一九七三年の行動

<授業料闘争でスト>
授業料値上げで紛糾中に、大学側が自治会役員ら活動家約八〇人の写真入りブラックリストを作成していたことが判明し、七三年一月一六日から、工大二部が無期限スト。後期試験も延期。
同月一二日電気通信大高校生徒会が授業料値上げ撤回を要求し授業をボイコットして総決起集会。一三日学校側が休講措置。二三日から一週間市大教養部が授業料値上阻止でスト。同日工大二部ストライキを解除。市大は二月一日から全学スト、後期試験延期。結局市大の授業料値上げは見送り 。

<高校生の紛争>
二月四日、浪速高校教諭宅で爆弾が破裂。卒業生ら三人逮捕、教諭の補導への恨みと自供。三月府立守口高校、君が代などなし、自主制作の答辞で卒業式。他方、住吉高校はヤジや花束放棄。その晩窓ガラス等を壊した卒業生二人を処分。 市大、学生乱入で卒業式中止 (二年続き) 。
四月二日夜、伊丹市立高校 (定時制) で、生徒との学校正常化の約束が守れないと全教職員が辞表提出。授業を休んだり 遅刻の多い教諭批判から「定時制生徒を軽視している」と話し合い。生徒の主張を全面的に認めたが当該教諭の転勤で生徒の信頼を失ったため。
五月一七日、私立興国高校で民主化を要求して生徒一〇〇〇人が騒ぎ、このあおりを受けて教職員組合が一八日に予定していた春聞要求のストを中止。 理事長が生徒や教諭を告訴、これに抗議して教職員・生徒が三〇日から同盟休校。 同窓会長の仲介もあったが、 理事者側が強行姿勢を崩さず、府の行政指導の約束で六月一八日から授業再開。

<筑波大学法などの闘い>
筑波大学法案に反対して七三年五月一七日から一週間、 阪大教養部がスト。市大教養部も一五日スト。代々木系府学連も一七日、三〇〇人の集会。六月一四~一五日市大がスト。
六月二三日、反安保大阪府民共闘の集会(扇町)で安保条約反対、国鉄運賃値上げ法案抗議とともに、 筑波大法案反対などを決議した。
七月九日通信制の府立桃谷高校生徒会一五〇人が、校舎立替えの約束がホゴにされた、通信制を軽視していると、府教育次長を追及し、七四年一〇月一三日にも同問題で五〇人がデモを行った。

2 一九七四年の行動

七四年一月二八日、 代々木系府学連ら六団体の学生生活危機突破大阪実行委員会が折からのオイルショックで紙製品工業組合にノート不足を訴えた。
一月三一日、 市大でノンセクト学生らが新案建設を要求して封鎖し、二月六日、電気通信大高校が入学金、授業料値上げ反対で授業ボイコット(一〇〇〇人)した。
四月一〇日、 阪大入学式に電気料金問題などで寮生らが押しかけ、二三日にも寮生等が 「負担区分改悪阻止総決起集会」を開き学生部に乱入した。五月二七日、教養部がこの間題でストに入り、教養部などを封鎖したが、六月三〇日教職員が解除した。
一〇月一日から市大で、同窓会館の開館に反対して教養部を封鎖したが、同月三日解除された。しかしこの余波で教養部の前期試験は中止された。
一二月二日、関大で学費値上げ反対の抗議集会後事実上の全学ストに入った。同月一三日学生二千人と学生部長が団交した。学生部長と同代理四人が学生と話し合わない理事会の態度に怒り、辞表を提出した。
七一年以来、身障者入学問題の紛争が続いている大教大で一二月一八日学生約一〇〇 人が正門前に座り込んだが、機動隊に排除された。  (井上淳一)

カテゴリー: 歴史, 民学同, 運動史 | 大阪の戦後学生運動史 2 はコメントを受け付けていません

【投稿】90億ドル援助差し止め訴訟

【投稿】90億ドル援助差し止め訴訟
          市民の権利を侵害する東京地裁の不可思議な「イヤガラセ」

1.ことの発端と経過
新聞やテレビのニュース番組などで「永田町の論理」という言葉はよくきくが、裁判所にも市民の論理とはかけ離れた「独自の論理」が存在することを初めて知らされた。・・・・すでにマスコミ報道などでご存知と思うが、ある市民団体が起こした90億ドル援助差止訴訟に関する例の一件である
(前々号の「青年の旗」で、この訴訟が起こされるに至る経緯は簡単に触れられている)。この件に関しては、若干分かりにくい点があるため(実は筆者自身がよく分かっていない)、整理するためにも、日記風にことの発端と経緯を綴っていきたい。
3月4日 「ピースナウ!戦争に税金を払わせない市民平和訴訟(以下市民訴訟と略称)」は、岸戦争での90億ドル追加支援支出は平和憲法の精神に反するとして市民571名の原告をもって政府に支出の差し止めを求める訴訟を起こした。民事訴訟では、訴訟の目的の価額に応じて裁判所への手数料が決まっている。市民訴訟側は「請求が認められても、原告が得ることができる直接の経済的利金は算定不能」な場合の法定額95万円を全員一括の訴額とし、それに見合う手数料8200円の収入印紙を書類に貼付して裁判所に提出した。
3月29日 東京地裁民事二部から「訴額の算定について」(日付は3月20日)と題する裁判所見解が市民訴訟側に郵送で送られてくる。以下原文を転載すると・・・・・・
「一般に、請求の原因となる原告の被告に対する権利が財産上の権利であるか否かにかかわらず、当該請求が、被告に対して第三者に対する一定の金銭の給付等(又は給付しない等という不作為)をすることを求めるものである場合には、右の給付等に係る金銭の額を基準として訴額を算定すべきものとされている。(中略)右のような考え方を前提とすると、本件請求の趣旨第一項の破告国に対して90億ドルの支出の差し止めを求める請求については、右90億ドルをもって訴額算定の基準とすべきこととなるのではないかと考える。(中略)本件請求の趣旨一項及び二項の各請求が、各原告個人に固有の人格権(又はこれに顆する権利)に基づく請求であることからすれば、右各請求に係る訴えの利益は原告ら各人ごとに個別に存するものと解すべきことになり、したがって、右各請求の訴額を、全原告を一括して95万円とすべきものとする原告らの主張には、問題があるように考えられる。(以下略)」
…どうにも分かりにくい文章であるが、平たく解釈すると、「訴額は90億ドルを基準とすべきだ、訴えの利益は各人ごとに個別にあると解釈すべきだ」ということで、これに従うと、訴額は90億ドル×571人分で5兆1390億ドル(≒685兆円)、手数料は3兆4千億円という途方もない金額になってしまう。
4月22日 あまりに非常識な対応に市民訴訟側弁護団も反発、東京地裁民事二部に面会を申し入れるが拒否される。
5月7日 「訴額算定に関する意見書」を民事二部に提出して、同時に記者会見を行う。全国版の新聞に取り上げられたり、テレビニュースで特集として面白半分に扱われたりと、裁判所の常識はずれな対応が一躍脚光を浴びる。
5月15日 ついに沈黙を守り切れなくなった裁判所側が、市民訴訟側との会見に応じる。以下は東京地裁民事二部 涌井裁判長の釈明発言。
「誤解を解きたい。あくまで問題点を指摘したまでのことで、決してこのような算出方法で印紙を貼れと言ったつもりはない。意見をよく聞いたうえで、結論を出したい」「(印紙問題は)で撤回するとは言えないが、決して非常識な結論にはしないつもり」
5月27日 裁判所側、前記の見解を事実上「撤回」。しかし、「訴えの利益は原告・人ひとりにある」と言う立場は維持し、267万9000円(第二次提訴分を合わせると合計399万円)の手数料を新たに支払うよう追徴命令を出す。
6月1日 市民訴訟側、原告団会議を開催。対応を検討し、「それでも高額で、裁判を受ける権利を奪うもの」と反発はしつつも、これ以上裁判の本質からはずれたところで争っても時間を浪費するだけという見解から、第一回公判の開催を優先させるため、2人を残して569人が訴えを取り下げる「代表訴訟方式」に切り替えることを決定。追加手数料4000円を裁判所に納入。第一回公判に日程も9月初旬に決定し、それに向けての準備を進めている。

2.今回の事態の問題点
こうした「イヤガラセ」としか考えられない攻撃について詳しく述べる必要はないと思うので、少々私見を述べてこの文章のまとめとしていきたい。
・今回の東京地裁の攻撃は、誰が見ても「国の不利益になるような訴えはやめろ」という意味の「法律言語」なのだが、それにしてもあまりに荒唐無稽なやり方に、もう少し他のやり方もあったのではないかと他人事ながら心配してしまう。ただでさえ日本の裁判費用は日米構造協議で取り沙汰されるほど高いのである(ちなみにアメリカでは、どんな高額の賠償請求でも一律100ドルほどの手数料で裁判が起こせるという)。今回の問題が国際的な協議の狙上に上がればまた日本の立場は狭くなってしまう。そのとき槍玉に挙げられるのは東京地裁自身なのである。
・5月27日の追徴命令と同時期に、大阪で同様の訴訟を起こしている市民グループに対して同じ内容の追徴命令が出されている。それまで何のイヤガラセもしてこなかった地方の裁判所も東京と足並みを合わせるように攻撃を加えてきている。
今後も様々な横槍がこの訴訟に加えられるであろう。話には聞いていたが、実際自分が関わっている運動にこのような攻撃がかけられると、いったい日本の民主主義はどこに存在しているのかといまさらながら心が寒くなる思いである。
今後もこの裁判の動きを紙上で報告していきたい。
(東京G)

【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日

カテゴリー: 平和, 政治 | 【投稿】90億ドル援助差し止め訴訟 はコメントを受け付けていません

【書籍紹介】日本資本主義論:二つの対照的な本

【書籍紹介】日本資本主義論:二つの対照的な本 
  『日本経済に学べ』ソ連・ミリューコフ報告、朝日文庫 91年2月20日発行450円
  『新版法人資本主義の構造』奥村宏著、現代教養文庫 91年2月28日発行640円

最近同時期に発行されたこの二つの書物には、実に興味深いものがある。両書とも、同じ日本資本主義というものを対象としながら、その結論はまるで対照的である。しかしながらその結論にいたる分析の対象、問題意識には、共通のものが存在している。
それは、株式所有と生産の社会化の問題である。論点は多々提起されているのであるが、株式の法人所有の問題にしぼって、この問題を考えてみよう。
まずミリューコフ報告であるが、これは89年11月と90年4月の2回にわたってソ連大統領府から日本に派遣されたソ連経済改革調査団が、ゴルバチョフ大統領に提出した日本経済報告の全訳である。全体の基調を貫くものは、「日本絆済に学べ」という書名そのものが示しているように、羨望とまでいえそうな日本経済への賛美論である。しかしこれは、ベレストロイカがカオストロイカと言われるまでに混迷している中で、いかに現在の困難を克服するかという、きわめて実践的で具体的な問題意識から出発していることからすればやむをえないものであろう。
ベレストロイカにとって、具体的で同時に自らにも批判的な分析を伴わないような、「先進資本主義国の管理システムに対する旧来の月並みで皮相な評価を克服すること」(同報告序文)のほうが重要性を持っているからである。

<十分に高い社会化>
同報告がまず最初に「日本の社会・経済システムの全般的印象」という項目の中で述べており、そしてそのことが日本経済の評価の非常に重要な柱になっていることは次の通りである。
「第一に挙げたいのは、日本の経済では「社会化」の傾向が顕著だという点である。この社会化が見られるのは、何よりも生産の社会的性格の高度化、所有の性格の著しい変容に於てである。
‥日本では依然として私的所有が基本である。しかしながら所有の本質は、外見的な形態だけではなく、質的な変容を遂げているのである。
・・・…わが国にとって何よりも興味深いのは「株式所有」である。今日では株式所有は、形式的ではなく、実際的な生産手段の社会化を意味している。・…・・注意しなければならないのは、われわれが「私有化」「私的企業」という言葉を用いる際に、それを「ある個人の所有」という一面的な理解をしがちだという点である。諸外国の実情から明らかなように「私有化」「私的企業」という言葉は企業が国家に属しているのではないという状態を意味しているのである。
この点で日本経済の特殊性は、株式の70%が自然人ではなく法人により保有されていることにある。このことに注目するのは、こうした事実が、完全に「社会化」された所有形態ではないにしろ、諸条件を考慮すれば十分に高い社会化段階を意味するからである。」

<法人所有の実態>
ところで株式所有の実態であるが、89年度における日本の全上場会社の発行株式についてその所有状況を見ると、金融機関(投資信託を除く)42.3%、事業法人24.8%で、両者を合わせた法人の持株比率は67.1%に達している。これに対して個人の持株比率は22.6%である。ちなみに1949年度においては法人の持株比率は15.5%でこれに対し個人は69.1%であった。個人・法人の持株比率は完全に逆転してきたのである。一方、アメリカにおいては商業銀行は株式所有を禁止されているので、法人所有は事業会社所有の15%だけである。イギリスにおいては7.7%でしかない。(以上、奥村著による)
いかに日本における法人の持株比率が高いかということがわかる。もっともそのために、自然人が株式会社の出資者の座から追放されたわけではない。圧倒的大多数の中小株式会社の出資者は、いまなおそのほとんどが自然人である。中小企業や同族企業のオーナーが実際は個人の所有であるにもかかわらず、税法上の有利さから会社名義にしてあるものも存在しているが、株式所有の法人化という場合の主たる部分は、巨大銀行や金融機関、巨大企業への株式所有の集中である。その結果今では、全上場株式の7割近くがこれら法人によって所有されるという事態になっているわけである。

<法人化現象の根源>
さて、ミリューコフ報告でいう株式所有の法人化=社会化について、奥村氏はどのように見ているのであろうか。結論を図式化すれば、日本においてここまで法人化が進んできた基本的な理由は、系列ないしはグループの会社同士が相互に株式持ち合いを押し進めてきた結果である。それは、系列間取引とその中での支配力を高めるため、さらには乗っ取り防止策としての安定株主工作が広範囲に行われたことによるものである。
さらにこうした法人化を助長する独占禁止法の骨抜き(持株会社禁止規定の死文化、金融機関の株式所有の容認等)、法人所有を促進する税制(配当金に対する法人非課税原則等)が政府・財界の主導で執拗に行なわれてきた。奥村氏は次のように言う。
「そしてこの法人所有の増大は戦後日本の企業集中運動、独占化の運動から説明されるべきものである。“法人資本主義”といわれ、“会社国家”といわれる現在の日本の企業王国時代は、まさに戦後の野放しにされた集中運動、独占化の進展による大企業の支配体制の確立によってもたらされたものである。そしてまたこのことこそが株式所有における“法人化現象”の根源であった。」

<日本企業の努力目標>
ミリューコフ報告は、この法人所有が日本経済にたらすものとして、次のように述べている。
「日本の企業は、その所有者たる株主に最大の利益を保証するためにだけ活動するのではない。
日本の企業は、株主に対して義務を負う一方、自らの企業で働くとともに、広い意味では国家と社会のために勤務している労働者・職員の利益をも最大限に考慮すべく努力している。日本の企業は、短期的に利益を上げなければならないというプレッシャーの下に置かれながらも、長期的な展望をもって活動している。収益のかなりの部分が、投資や職員養成の資金として、また企業の将来の発展・成長のために留保されるのである。日本の経済関係の社会化は、分配システム(労働者の個人収入格差の縮小、社会保障の基金など)にも現れている。」
こうしたことがまさにソ連経済に欠落し、また直面している負の要因と対照的なものとしてとらえられている。

<「会社本位」資本主義>
ミリューコフ報告によれば、日本の法人化現象は民主的社会的に見えるのであるが、果たしてそうなのであろうか。奥村氏はこの点について次のように指摘している。
「他の資本主義国では見られないほど法人による株式取得が盛んに行なわれ、これによって企業間結合はおそろしいほど進行してしまった。このように企業間結合が進むとそこにはもはやビジネス・デモクラシーの原理はかけらもみることができない。銀行と企業は結合してしまって、そこでは特殊な取引が行なわれ、プライス・メカニズムも市場原理も働かない。・・・・こうして法人による、法人のための「全面的操作」が行なわれる時代になった。・・・・法人資本主義は一見強大な権力を持ち、極めて安定したかにみえるが、それはもはやローマ帝国末期と同じ状況にある。それは基盤のない砂上の楼閣である。
法人資本主義とはひと口でいえば「会社本位」の資本主義ということであり、その体制のもとでは富と権力は法人である企業に集中し、自然人はその法人に寄生することによってカを発揮する。それは株主本位、あるいは資本家本位ではない。・・・・・・それはまた従業員本位でもない。
企業は「日本的経営論」のいうような、従業員による共同体ではなく、「会社本位」のシステムのなかに従業員が丸ごと組み込まれ、内部化されているのであるが、「日本的経営論」者はこれを共同体と錯覚しているのである。」

<民主化と社会化>
以上、両書の問題提起をごく要約して紹介してきたが、これと関連して日本的な企業別労働組合の果す役割など重要な問題がどちらにも触れられている。
いずれにしても生産の社会化、さらには国際化が以前にもまして急速に進展している中で、それと両輪をなすべき民主化がまったく立ち遅れている、あるいは逆行していることは否定しがたい事実であろう。
そうであればこそ、両者の問題提起はいわば時代的な要請ともいえる。       (生駒 敬)

【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日

カテゴリー: 思想, 政治, 書評, 生駒 敬, 社会主義 | 【書籍紹介】日本資本主義論:二つの対照的な本 はコメントを受け付けていません

【報告】91フォーラム関西(第2回)開催

【報告】91フォーラム関西(第2回)開催

91フォーラム関西・第2回が去る5月日に開催された。より具体的な内容を扱っていくということで、「社会主義・その根源を問い直す-PART2」をメインテーマとし、「ソ連邦の現状と課題」「イタリア共産党から左翼民主党へ」「私にとっての社会主義とは」という3つのテーマで、4名の方から問題提起を受けた。
はじめに、阪大の藤本和貴夫さんから「ソ連邦の現状と課題」と題した報告があった。

★危機的なソ連経済
ソ連統計国家委員会発表によると、90年に、対前年比国民総生産が初めてマイナスを記録した(-2%)。91年の1~3月期の対前年比国民総生産も-8%という数字を示し、非常な勢いで経済が悪化している。インフレも30~40%ぐらい上昇しており、4月に値上げが発表されると、急カーブで買いだめが進んだ。保存が効くものでせいぜい3カ月くらいと言われており、買いだめの商品が底をつく夏以降に、さらにインフレが拡人していくものと思われる。

★政治勢力の3極分化
90年の4月から5月にかけて、ロシア共和国でエリツィン最高会議議長が、モスクワでポポフ市民が、そしてレニングラードではサブチヤーク市長が、というように、それぞれ急進派が、大都市において大衆の支持で権力の座についた。
また6月には、ロシア共和国最高会議議長をエリツィンと闘って敗れた、保守派のポロスコフを第一書記とするロシア共産党が創立された。12月の第4回人民代議員大会では、共和国と連邦の関係をめぐり、「主権ソビエト共和国連邦」という急進的改革派の路線が否定された。その結果、ゴルバチョフは保守派に足を乗せたと言われている。
9月に、ロシア共和国最高会議はシヤターリンの「500日計画」を採択したが、10月にソ連邦最高会議は別の案を出した。つまり、こうした政治勢力の3極分化のなかで、どちらの案も実施できない状態となっている。
ベレストロイカの進展にともない、所有法の制定や情報公開の問題は一定の前進を見せているにもかかわらず、経済は危機的な状態となっている。市場経済の導入に反対する勢力は、保守派も含めてほとんど存在せず、ゴルバチョフとエリツィンが手をつなぎ、経済政策を統一することが求められる。そういった意味で91年4月に行われた、ゴルバチョフ大統領とエリツィンをはじめとする9共和国指導者による「新連邦条約の早期締結と経済危機脱出の共同行動で一致」との共同声明は注目に値する。緊急経政策がうまくいくかどうかが、当面の重要な課題である。

★党と国家の分離
続いて、原則的諸問題として、いくつかの問題が提起された。
社会主義国、特にソ連では、党と国家が癒着し、国家の中に批判勢力がない。その結果、様々な弊害が生まれている。ロシア革命当時は一党独裁ではなく、内戦の過程で他の政党が消滅していったという特殊事情が歪曲された。党と国家を分離し、批判勢力を認めることで社会が活性化していく。

★所有制の問題
社会的所有は平等を保障したのだろうか。国有では誰も費任を持たないというのが現実であり、国有にしがみつけば打開はないというのが一致した見解である。私的所有とはいえない市民的所有は認められるのではないか。またどこまでを市民的所有というのかという議論が行われている。そしてそれに関連して、所有よりも運営の問題ではないかという議論も巻き起こっている。

★軍事問題の公然化
軍事問題は国家機密の問題となっていたが、89年から公開されるようになった。総予算中の軍事費の占める割合は、91年は、対前年比+36%となっており、軍事予算が高すぎるという指摘がなされている。
現在、徴兵は各共和国が行っており、共和国の独立・連邦の解体に関して、軍は非常な危機感を抱いている。改革派は、志願兵制や軍の編成の地域的原則の導入の問題を提起している。また軍と党の分離についても議論が起こっている。
さらに、民族主義間対立と連邦・共和国間の対立の激化の問題についても問題提起があった。
続いて、中央大学の片桐薫さんから、「イタリア共産党から左翼民主党へ」と還する報告を受けた。

★ソ連l東欧の激動とイタリア共産党の苦悩の選択
91年2月の第20回党大会において、イタリア共産党は党名を左翼民主党に変更し、路線も変えた。反対の代議員は、約1割であった。
87年6月の総選挙後に、共産党の看板を外したいとの意見も出されたが、89年4月の党大会では、栄光ある党名をなぜ変えなければならないのかとする書記長の発言は、満場の拍手を浴びた。
しかしながら、89年秋以降の東欧の激動、とりわけベルリンの壁の崩壊は事態を一変させた。スターリン批判が巻き起こっていた時代に、イタリア共産党は党員が2割も減少し、1年くらい政党としての機能がマヒしたと言われている。そして、今回の事態も対岸の火事とはとらえず、イタリア共産党がこれまで主張してきた民主主義と社会主義が問われているのであり、自分たちの存立そのものが問われていると受け止めたのである。

★閉鎖的なビラミッド体系の政党の崩壊
これまでと異なる党のイメージが模索されているのであるが、単一化・統一化という従来の閉鎖的なビラミッド型の組織形態は音を立てて崩れていっているのが、現状ではないだろうか。
ハイテクの時代、ボーダーレスの時代を迎え、重厚長大の時代の大工場組織から学んだ組織形態は時代遅れのものとなる。さらに、不断に遠心的・分散的傾向の攻撃にさらされている。単一政党による統一行動は困難となり、伝統的な中間政党は没落するのみである。

★新しい可能性の追求を
したがって現在は不安定的傾向は避けられないが、分散性を容認しなければ組織を維持できない時代となっている。
パートタイマー的政治関与をも包含するような簡易な組織。そして合意と協力に基づく、多文化で多民族なモザイク模様の新しい組織をめざさなければならない。
新しい時代に対応しうる新しいコミュニケーション、言葉、運動スタイル、求心性を探っていくこと。つまり新しい政治土壌、新しい文化を作り上げていくことが求められている。「分析や批判の能力は優れているが、創造力はない」という旧来の左翼の欠点の克服が大切である。

最後に、「私にとっての社会主義とは」と題して、2名の青年代表から報告を受けた。
★人権を認めあって開かれた論争を
Ⅰさんからは、行革や臨教審の闘いにみられるように、保守の側が現状の変革を訴え、革新と言われる側は現状の擁護しかできなかったように、今日、何が保守で、何が革新かということは、これまでの物差しでは計れない。
現状肯定の流れに徹底してつきあい、どうしても否定しなければならないものがあれば、それを究明し、何故に生まれるのか、自らのぎりぎりの力量で突き詰めることが大切である。
そのためにも、検討課題にタブーを設けることなく、自らの問題意識を公開し、世の中の批評にさらす。人権を認めあって開かれた論争、相互批判を知的に行うことこそトレンデイーだ、という問題提起があった。

★異なった意見の存在を認めた、共同の建設者としての考え方
Uさんからは、現実の社会主義には、党と国家の分離や複数政党制など、社会発展を健全なものとするための、人民のチェック機能である民主主義諸制度がなかった。
そして、日本のコミュニストの反省として、日常的な活動として広範な大衆運動の組織より、党的運動を優先してきたこと。唯一前衛党論や民主集中制にみられるように、異なった意見・立場の存在を認め合い、なおかつ共同の建設者として考える統一戦線的思考が根付かなかったことを挙げ、ベレストロイカから学ぶべきとした。
また、日本における民主主義闘争の課題として、即、政権論議ではなく、自民党政府をしてもとらざるを得ない政策と運動を提起すること。そして、統一地方選挙における社会党総評型候補の敗北にみられるように、縦型の運動形態ではなく、様々な個別の闘い、取り組みをつなぐ横型の運動形態の追求が課題となっているとの問題提起を受けた。その後参加者から、フォーラムの名にふさわしい活発な意見交換、討論が行われ、今後も自由な討論を保障していくために、このフォーラムを維持していくことを確認した。
(文責 大阪 T.0)

【出典】 青年の旗 No.164 1991年6月15日

カテゴリー: 対談・意見交換, 思想, 社会主義 | 【報告】91フォーラム関西(第2回)開催 はコメントを受け付けていません

『詩』  レクイエムを望まぬ人に

『詩』  レクイエムを望まぬ人に –プロフェッサーに捧げる–

                        大木 透

まるで収拾のつかない
雑然とした死が訪れた。
生駒山のふもとの
小さな街で
ひそかに
だが突然に。

彫像が
歯をくいしばるような
苦しみのなかで
必死で
縋りつこうとしていた。
ままならぬ現世は
やがて途切れ
薄まり
遠ざかっていった。

想えば
この幾年
世界を見つめる次元は
次第に膨張し
抽出されていった。
なにものかに向かい
理念はますます高貴になり
世界は
いよいよ
遠ざかっていった。

転生するパースペクティブ
ユニオンのスポットから
地球儀牢凝視する緊張から
もっとも
気風に合わなかった
孤独の時に
解き放たれた。
これは
至福のときであったと
思う。

三0年前の
中之島の興奪も消え
チエコ事件での
痛恨の抗議も
忘れ果てていた。

かって
「暗い絵」の主人公は
影響力の広がりに
無上の喜びを感じていた。
だが この時
沈黙また沈黙
動ぜず
叫ばず
ただ
解き放たれていた。

現世は靂憾したが
理念はますます
宙に舞い
リアリティも敵もない酔いは
いよいよ 深まった。

あるいは
これは
恐ろしいほどの
充電の時で
あったのかも知れない。
あるいは
この後
激しい放射が
準備されていたのかも知れない。

だが
突然の
整理のつかない断絶が
いっさいを消し去り
雑然とした放心だけが
寒さをつのらせた。


春が訪れ
魂の安らぎやいか。

どんなレクイエムも
望まなかった人。

どんな嘘もつけなかった人。

いっさいから
孤立することを
恐れなかった人。

この人に
誓いをたてる
なにが残されていようか。

やせがまんなど
一言なりとも
言ってはなるまい。
(1991.1.20)

【出典】 アサート No.164 1991年6月15日

カテゴリー: | 『詩』  レクイエムを望まぬ人に はコメントを受け付けていません

【案内】「土門拳のすべて」展へのお誘い

【案内】「土門拳のすべて」展へのお誘い

学生の頃、Aさんから 『筑豊のこどもたち』を見せてもらい、当時、新聞に係わっていた私は「ん-これだ」という感動を得たことを覚えている。『筑豊のこどもたち』(1960年発行)は家出して母親のいない炭坑住宅に住む一家の子供たちを中心に撮った、ザラ紙に印刷した百円の写真集で、10万部を突破するベストセラーとなった。背景に三池闘争の広範な展開があったとは言え、今でこそ写真集はやりであるが、当時のカメラの普及率を考えても大変な数だと思う。
その後、私はキャパの一連の報道写真に触れ、Hさんからユージンスミスの『水俣』を見せてもらい、「写真の任務は社会批判の精神だ」「リアリズム運動だ」と単純に感化されていた。その一方で晩年の土門氏は富士山、焼物、寺に多くの労力を割いており、やはり社会運動の弱まりに規定されるのか、などと不満を泡いていた(私の学生当時には、既に土門氏は病床にあり、レンズを見ることはできなかったが)。
土門氏は 『ヒロシマ』『筑豊のこどもたち』等の社会批判と古寺の記録の矛盾についての批判に対して、「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取り組むのも、奈良や京都の古典文化や伝統に取り組むのも、日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きく言えば民族の運命にかかる接点を追求する点で、ぼくは同じことに思える」(朝日新開1968.3.11)、と答えているという。
今回の写真展でも200余点のうち 『古寺巡礼』から50点以上とその多くを占めているが、今ではこの土門氏の言葉にむしろ共感できる視点があるように思える(遅かったかな?)。
昨年9月の土門氏の死を悼むと共に、今後の展の予定は下記の通りであるので顔を出して見てはいかがでしょうか。          (東京C)
(東京) 終ってしまった
(京都)1991年6月13日(木)~18日
会場 京都四条高島屋
(名古屋)1991年7月26日(金)~31日
会場 名鉄百貨店
(横浜)1991年9月12日(木)~17日
会場 横浜高島屋

【出典】 青年の旗 No.163 1991年5月15日

カテゴリー: 芸術・文学・映画 | 【案内】「土門拳のすべて」展へのお誘い はコメントを受け付けていません