高崎経済大支部 結集報告 (1973年1月19日市大統一会議)

1973年1月19日 高崎経済大支部 結集報告  (ビラのPDFはこちら)
             民学同市大支部統一会議支部委員会

学共闘派のデマ宣伝を粉砕する あきれ果てた暴挙!
学生共闘派による長期監禁・組織破壊活動は完全に破産!

本日、同盟高崎経済大支部 学生共闘派を拒否し、統一会議に結集!

全ての学友諸君!

市大統一会議ビラ

高崎経大支部 統一会議へ結集(1973/01/19)

 本日、早朝、従来学生共闘派指導部の下にあった高崎経済大支部(群馬県)が、学生共闘派の政治主義、セクト主義、教条主義を批判し、その誤れる「指導」を拒否して同盟統一会議への結集を決定した。民主主義学生同盟市大支部(統一会議)は、一連の事態が明らかになった今日ここに、正式に、この間、市大で学生共闘派が行なってきた「天にツバを発す」式の破廉恥なデマ宣伝を断固粉砕すると共に、全ての学友諸君に事態の真相を訴えたい。
 
 高崎経済大支部、学生共闘派指導部を拒否し、同盟統一会議に結集!
 
 我が同盟の、この間の飛躍的前進を象徴する一つの輝かしい成果を報告したい。これまで学生共闘派の指導下にあった民学同高崎経済大支部(群馬県)が、彼らの誤れる指導を拒絶し、本日早朝、全支部メンバーの賛成の下、我が民学同統一会議の隊列に合流したのである。
 同支部は、北関東における指導的中核部隊として大きな大衆運動をつくりあげてきた。しかし、真の同盟趣意・規約の立場を擁護し、発展させる大衆的実践活動は、当然、学生共闘派の誤れる指導とは矛盾せざるを得ず、これを克服せんと支部全体の討議をふまえ、自らの立場と同一の民学同統一会議の下に結集する全ての支部、同志と共に闘うことを打ち出し、11.18、12.16被爆者援護法制定全国集会を第1派として共同行動をとってきた。
 この中で学生共闘派は、全く醜い組織破壊を行なってきた。しかし同盟高崎経済大支部は、我が同盟東京都委員会の協力の下、彼らの策動を断固としてはねのけ、1月16日支部委員会で、本日支部総会で民学同統一会議への結集を決定した。
 この決定はまさに、この間の一連の「事態」のその結論として把握しなければならない。学生共闘派がいかにデマ宣伝を行なおうと、焦りの中で組織破壊に乗り出そうとも、彼ら指導部の誤りを隠蔽することはできず、関西から20数名を動員した馬鹿げた組織破壊策動の一切が徒労にきし、逆にその誤りを更に露呈したにすぎなかったのである。
 
 学生共闘派の組織破壊活動、長期監禁を断固糾弾する!
 
 11月22日、高崎経済大支部が「『全国委』の指導を拒絶する」旨を決定して以降学生共闘派は、高崎経済大支部に対して、醜い組織破壊活動を繰り返してきたのである。
 彼らは、冬休み中、東京、大阪、京都、長野、鹿児島、名古屋等々、全国をまたにかけ、場合によっては「全国委員」を公然と名乗り、客観的には家庭(官憲に通じないという保障はない)に持ち込み、また今年には「オルグ」と称して同盟員、支持者、サークル員の下宿におしかけ、(鍵がかかっている場合には、それをこじあけ、机、引き出しをあさって、資料を持ち出すという暴挙すら行なっている)更に軟禁、監禁を強行した。
 16日には高崎経済大支部委員長をとらえ、それ以後40時間にわたって長期監禁を行なう等、全く基本的人権を無視した蛮行が相次いでいた。
 我が同盟は、かかる暴挙、同盟組織破壊を断固糾弾する。
 学生共闘派は、これらの一連の事実にこそ真剣な検討を加え、明確な態度を示すことなくして一切を語る資格がない。
 我が同盟は、まず第1に諸君にこれらに関する明確な態度表明を要求する。
 ついでに言っておくが、我々は学費、寮、3.16闘争等の緊急な大衆運動の責任ある立場にあるが故に諸君の様に大衆運動破壊に通じる”確認書採収趣味”ももっていないし、それほどヒマ人でもない。早急に責任ある回答が寄せられることを期待する。
 
 デマ宣伝を粉砕する!
 学生共闘派のデマ宣伝は全くあきれ果てるばかりである。
 自らの破産に基づく今回の高崎経済大支部問題に対する真剣な検討を抜きに、デマ宣伝で組織内の動揺を押さえることにキョウキョウとしている。
 我々ははっきりと断言する。
 彼らが言うテロ・リンチに相当する行為は一切なかったし、奇妙なことに、彼らのいう「テロ、リンチを受けた」はずの早大生は、翌日から。高崎経済大支部員の監禁活動に奔走しているではないか?
 又、17日高崎経済大支部委員長を「本人の同意の下」というデマをふりまきつつ長期監禁し、連絡をたたれ、身体の安全すら確認できない下で、連れ去った場所の確認をせまることすらテロ・リンチと誹謗中傷を加えている。
 全くあきれるばかりの居直りの論理である。
 一つの出来事を、一連の諸関係の中から恣意的によりだし、ましてや、それの拡大解釈、尾ひれをつけてのデマ宣伝を行なう。
 「ウソも百篇」のたとえとは裏腹に、諸君がいくらデマ宣伝を行なおうとも、分別ある市大の学友には一切通用せぬことを忠告しておきたい。
 
 全ての民主的学友は民学同に結集し、統一会議と共に闘おう!
 
 全市大の学友諸君!
 日本学生運動は、今日、労働者階級の大衆的高揚、極左街頭武闘路線の破綻の中で、セクト主義、政治主義を拒否し、クラス、サークル、ゼミを基礎に大衆的、戦闘的、民主的自治会運動の確立をめざす力強い息吹きを生み出している。市大においても同様に、戦線のセクト的分断に奔走する者は、クラスからの総反撃、孤立の淵に追いやられている。
 今こそ、全ての民主的学友は、民学同に結集し、統一会議と共に、市大学生運動の大衆的強化、学生運動の統一の共同の任務に参加されんことを呼びかける。
 学生共闘諸君!諸君らは、事態の本質をはっきりと捉えるべきである。
 何故、諸君らが建設したはずの高崎経済大支部が、諸君の隊列を離反し、我が同盟統一会議に結集したのか。
 問題を人間的つながりや、偶然的な事柄において把握することなく、民学同の原則的立場と諸君の運動路線の矛盾の必然的結果として捉えなおし、真摯な討議を巻き起こすことなくして、その真の回答を得ることはできない。
 そして、そのことが、政治同盟として今回の問題に対して、まず為さねばならないことではないだろうか。
 (追記)先ほど、高崎経済大支部から、今回の問題を通じて、我が同盟東京都委員会をはじめ全国の同志の支援に深く感謝する旨、連絡が届いている。
 
 1973年1月19日    民学同市大支部統一会議支部委員会

※ このビラに反論するように、「民学同」市大支部(学生共闘派)のビラ
  紹介しておく。テキスト化はご容赦ください。
  (高崎経済大支部の統一会議結集には、全く触れていない)
 
 

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民学同第2次分裂(C)再建12回大会開催→中央委員会確立

民学同第2次分裂(C)再建12回大会開催→中央委員会確立
 
 1973年3月民学同統一会議は、「再建第1回(12回大会)」を開催し、民学同を再建する。再建された民学同(中央委員会)は、筑波法案阻止闘争、日共の反民学同キャンペーン・差別キャンペーンとの闘い、平和運動・原水禁運動、狭山闘争などを通じて、学生戦線の統一のための闘いを推進した。
 1973年12月には、学生共闘派指導下にあった「桃山学院大学支部」も合流していく。

 第12回大会文書を中心に、資料を整理していきたい。

【経過】

1973年1月                   同盟組織の飛躍的強化へ 10周年記念テーゼ作成の成功を
                                      (  デモクラート No34 73年1月16日 )

1973年2月      再建第1回(第12回大会)招請状

1973年3月                    民学同第12回大会(中央委員会を確立)「12回大会テーゼ」

1973年4月                   「新時代」誌創刊号 「学生共闘派」批判

1973年6月      筑波大学法案阻止中央行動 首都に1500名

1973年6月      民青「反民学同キャンペーン」(学生新聞)
日共・民青の「反民学同キャンペーン」と同盟の任務
(「新時代」誌 第3号 特集)

1973年9月      民学同創建10周年記念集会

1973年12月                   桃山学院大学支部 中央委員会に結集
1973年12月12日    学生共闘派 脱退宣言 (桃山学院大学支部総会決議)
1974年1月8日     民学同桃山学院大学支部機関紙「新時代1号」
1974年1月16日              結集を熱烈に歓迎する      デモクラート 48号
1974年1月16日     学生共闘派 目を覆う堕落と荒廃 デモクラート 48号  

1974年3月      民学同第13回全国大会

【文書リスト】

「新時代」誌創刊号(1973・4)    第12回大会テーゼ任務方針「学生共闘派」批判
「新時代」誌 各号

「学生新聞」    反民学同キャンペーン (1973年6月6日号)

「新時代」誌 第3号 特集:日共・民青の「反民学同キャンペーン」と同盟の任務

民学同桃山学院大学支部機関紙「新時代1号」 (1974年1月8日)
「学生共闘派 脱退宣言) (桃山学院大学支部総会)

「デモクラート」 No48  74年1月16日 桃大支部結集

民学同大阪市大支部 「新時代(ビラ)」(1973年 ~ 1976年)

「民主主義の旗」「デモクラート」「新時代」各号 

 

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10周年記念テーゼ作成の成功を (デモクラートNo34)

同盟組織の飛躍的強化へ 10周年記念テーゼ作成の成功を

                      デモクラート No34 73年1月16日

 1973年は我が同盟にとって記念すべき年となろうとしている。1973年は、我が同盟が民主青年同盟の当時の指導部の不当な除名行為によって組織されてから10年を迎える年である。最初、大阪の地に組織された民主主義学生同盟は、歴史的な大管法闘争を大阪府学連の闘争を中心として組織した。
 しかし、二度にわたる同盟隊列の分断は、我々の前進を停滞させてきたことの否定できない原因となってきた。だが、我々は、今、約3年間の闘いの中から、首都、大阪で強固な大衆的基盤を創り上げ、関東、関西で力を拡大し、73年冒頭高崎経済大学支部の結集でもって、新たな前進への局面を迎えている。
 我々は、高崎経済大学の同志が現政研-学生共闘指導部の誤れる指導を拒否したことを熱烈に歓迎する。
 我々は、すでに全国学友の闘う方針を明らかにするテーゼ準備会議を数度にわたり開催してきた。
 テーゼ作成の成功的前進が我が同盟の一層の団結強化・大衆化・全国化と学生運動の発展に貢献することは疑いない。高崎経済大学の同志の結集は、我々の目的=民学同の民主的再建・統一の過程の画期的前進である。この過程を更に推し進め、来るべき全国指導部の建設へ前進しよう!

<統一会議結成の目的と経過>
 民主主義学生同盟統一会議の結成は、一部の誤れる少数指導部の小児病的偏向から真面目で戦闘的な同志を解放し、民主主義学生同盟の民主的統一を闘いとることにあった。当時組織内部にあった意見の対立は、決して克服しえず組織分裂を引き起こす程、深刻なものではなく、組織内民主主義の徹底による同志的な全同盟的討論と実践の検証によって克服可能なものであった。
 しかし、全国委員会の一部多数を頼みの綱とする4全国委員は、同盟の趣意・規約、民主集中制の原則、情勢が要求し又学生大衆の基本的利害に関わる組織統一と団結を拒否し暴力的に第12回全国大会を破壊し、組織分裂を強行したのであった。我々は意見の相違を絶対に回避できるとは考えない。むしろ我々があらゆる大衆運動の先頭に立ち、平和共存・反独占民主主義の前進と学生運動統一を目指す立場を承認するだけでなく、いつでもどこでも通用するような一般的真理を絶叫する「一般屋」-紋切り型の教条主義・セクト主義ーとは無縁であるがゆえに、更に今日のように、民主勢力の内部の理論的思想的混乱が著しく、ブルジョア・イデオロギーが氾濫している中では、意見の相違の発生は不可避的だと言っても過言ではない。民青、トロツキズムとの激しい闘いの中で我が同盟を全国化させた先輩は優れた教訓を残している。「大切なのはこの場合討議論争は説得と納得にもとずいてのみ行なわれ、行政的に行なわれないこと。論争はわかり切ったことについては起らず、一局面から他局面の移行期や重点をどこにおくかに対して起って来るのである。論争には節度を守ること、機関は論争の対立点を明確に徹底させ、正しい少数意見が急速に多数に転化できるよう処理することが大切である。・・・同盟内の言論の自由とは各自が無根拠な勝手なことを無制限に討議するためにあるのではなく、科学的真理(具体的認織)が組織内に貫徹するための絶対的条件であるということ、民主主義とは指導と責任と規律が不可欠の条件としてあることを深く確認することが必要である。」(同盟第4回大会組織方針書)
 意見の対立を解決する努力ではなく、「民主集中制」の名の下に、問題を単純多数決主義、行政的処理、暴力行使、市大での新同盟員加盟拒否など官僚的組織運営に狂奔した学生共闘派指導部(四全国委員)は、現代政治研究会(現政研)なる分派グループの結成を先行させていた。我が同盟の指導的機関ー全国委員会の討議と決定を無視し同盟破壊を準備していった(「大学の民主的変革のために」現政研編集とこの書物の一方的持ち込みはその端的な表現)のである。
 
<その後の変化—学生共闘派の偏向の純化>
  ー全体としての統一の困難化ー
 
 原水禁運動の統一的開催(学生階層別集会)の努力、関西の地における安保・沖縄・ベ反戦闘争の過程で、運動統一の努力、とりわけ大阪市立大学での大衆運動統一に関する学生共闘指導部との話し合いを我々は何度となく行ってきた。
 しかしこうした我々の努力にも拘わらず、彼ら学生共闘指導部は、その都度セクト主義的な態度に固守し、統一会議に結集する同盟組織の存在すら頑強に否定し、我々に対して”脱落分子””ウジャラ”という恣意的レッテルのみを投げつけてきた。そして、統一とは、双方の平等の立場の確認からではなく、常に”我々の集会に参加せよ”という立場からの全く独善的な提案であった。この唯我独尊のセクト主義は、71年の原水禁学生階層別集会においては、平和組織の確認を公然と否定し、大衆集会の場をセクト主義的な「党派」闘争の場に転化するという大衆運動の破壊行為に導いた。その秋、10・21国際反戦闘争の準備過程においては、大阪市立大学において、革マル、ブンドー黒ヘルアナーキスト、学生共闘派の学生大会開催をめぐる主導権争いの中で遂に、京大生を中心とした外人部隊(ヘルメット・鉄パイプ・角材で武装)を導入しての集団的「内ゲバ」事件を引き起こすに至っている。他党派を学生大会(学生の意思決定機関)から排除することをもって、学生戦線を領導せんとする著しいセクト主義・ヘゲモニー主義は、テロ・恫喝・日常的暴力でもって、学内を制圧するという革マル、中核、ブンドなどトロ諸派の「革命的暴力」-内ゲバの論理に彼らを転落させた。
 本来、我が同盟の重大な任務の一つは、日本学生運動の”セクト主義という業病”と闘い、民青、トロ諸派の誤りを克服することにあった。学生共闘諸君の一連の行為は、悪しきセクト主義、分裂主義のミニ再生産でしかない。
 学生共闘諸君は、増々、その街頭政治主義的誤りを深刻にしている。あの全国学園闘争の政府・独占、警察権力による強権的収拾の過程で、トロ諸派ー全国全共闘(八派連合)が街頭極「左」主義に転落する中で、学生共闘派諸君もまた、学園における反動攻勢との対決を放棄し、佐藤訪米阻止首都全力動員という学園逃亡路線=街頭政治主義へと傾斜していった。この街頭政治主義は、最近では”政府・独占の軍国主義強化”からあらゆる矛盾を説明し、軍国主義強化反対の街頭行動に従属ないし解消するという事態に発展している。大阪市大における3.16闘争を沖縄闘争の障害物と断定すると言う彼らの誤りは、その政治セクト主義の典型であろう。
 我々の街頭政治主義批判はその時々の情勢が要求する全国民的政治課題を労働者と連帯して闘うことを軽視或いは無視することではない。大学及び学生に対する攻撃と独自的に対決しつつ政治的バクロを組織しつつ反独占勢力と連帯しつつ闘争の先頭に立つことである。我々は訪米阻止闘争を、全都、全大阪の規模で学園の統一を基礎に数千の決起で闘い抜いたし、他の任務についても同様であった。学生の利益を擁護することの放棄は、大衆的学生運動の放棄である。
 大衆運動の統一を基礎としない彼らの学生運動の統一とは、”我が派の全国制覇””自治会執行部の掌握”を前提として語られ、従って、そのような条件が存在しない現在では党派の自己形成=主体形成論、活動家のみの政治行動、そのための全関西(全大阪、全京都)学生共同闘争実行委員会運動として設定されている。我々はあらゆる形態での実行委員会形式を否定するのではなく、それらの提起がおかれた条件最大限の大衆的支持を結集しているか、どうかを問題としなければならない。学生共闘諸君についてはこの努力が放棄され、「科学的情勢分析と大胆な行動提起」の名の下に、セクト主義的行動が合理化されている。学生戦線の統一は、全員加盟制自治会、あるいは、それに準じる形でのクラスその他の自治会基礎組織に依拠して、大衆的イニシアティブが発揮される形を原則的立場としなければならないし、その方向を不断に追及してのみ、層としての学生運動の発展があるのである。
 
<学生運動の現状と我が同盟の任務>

 全国学園闘争の爆発的高揚は、それが極めて自然発生的であったとしても、高度経済成長と科学技術革新の発展それらが深刻な矛盾を大学に蓄積した結果の鋭い反映であった。全国学園闘争の提起した諸問題ー最早、古くさくなった一部特権者のみ都合のよい大学の研究、教育制度、若手研究者、技術者、院生、学生の無権利状態、貧困な研究教育施設、学生の貧困な生活実態、高等教育の大部分が私的営利業者=私学資本に委ねられているという教育の公的性格とその私企業的形態との矛盾が何ら解決されないまま強権的な収拾=大学法強行成立による機動隊導入によって終息させられた。かかる政府・独占の勤労諸階層との間の矛盾は、すでに同一年齢人口の四分の一強にまで増大した学生層の現在と将来に鋭い影響を与えている。全国全共闘の崩壊、内ゲバ抗争、連合赤軍事件を最後的指標として破産を宣告された武装闘争路線・街頭政治主義路線の破綻は、「革命的」空文句の虚構が破綻したしただけでなく今日の学生層が置かれた客観的基盤を無視するところくる必然的帰結であった。
 今日、学生運動の大衆的・戦闘的展開は、学生層を規定する社会経済的諸関係、それらが規定する鋭い反独占的要求の同質性の確認から出発しなければならない(このことは即自的に学生が反独占的意識を持っていることを意味しない)。
 今日の学生戦線の混乱と分裂は、革新勢力内部の理論的思想的混乱、その結果としての諸政治潮流の存在に現象している。それ自身誤った主観主義的な政治展望(非合理的・非現実的なそれ)に基づいた政治戦略、戦術、学生運動論が露骨なセクト主義を伴って、学生運動に直接持ち込まれている。このことが学生運動の合目的的な前進を妨げているのである。
 マルクスの次の指摘は教訓的である。「『宣言』の普遍的な見解のかわりに、ドイツの民族的見解が主張され、ドイツの手工業者の国民感情に媚びへつらっている。『宣言』の唯物論的見地のかわりに、観念論的見地が主張されている。現実の諸関係ではなくて意志が革命の眼目だと主張されている。・・・民主主義者が「人民」という言葉を単なる空文句として使ってきたように、いまでは、『プロレタリアート』という言葉が単なる空文句として使われている。この空文句を実行するためにすべての小ブルジョアをプロレタリアートと宣言し、従って実際にはプロレタリアではなく、小ブルジョアを代表しなければならなくなるだろう。真の革命的発展を、革命と言う空文句とすりかえなければならなくなるだろう。(1850年9月15日の中央委員会決議)学生=プロレタリア論(トロ諸派)、学生=民主的インテリゲンチャ論(民青)、平和と民主主義の意識から学生層を特徴づける学生共闘(現政研)派、これらすべては、戦後の資本主義の高成長政策、科学技術革命の進展が引き起こした諸変化=労働者階級の一層の量的拡大と構成の変化、大学の大衆化と社会関係の変化、学生の地位の変化ーに無関心であり、唯々”敵=権力””政府・ブルジョアジー”の攻撃という形で、言い古された”権力問題”の空文句を氾濫させているのである。
 学生層の利益をいかに擁護・発展させるかということ、大衆団体の独自的目的の実現に政治同盟がいかに貢献するか、これは何よりも政策の科学性とその実現のための献身的活動、学生大衆の結集と統一において保障され、政治同盟の成長と拡大・強化がこの大衆運動の発展と照応するという意味で党派性を理解しなければならない。党派に系列化された「全学連」に象徴される分裂状況を克服し諸潮流の政治的偏向と闘う力は、科学的政策に導かれた大衆運動とその力を背景とした正しい統一政策である。
 われわれは、民学同の趣意ー我が同盟の目的が依然として変わらないばかりか、逆に増々強調しなければならない事態に直面している。
 
 <全国学友は、闘いの指針を求めている>
        10周年テーゼの必然性

 トロ諸派の理論的実践的破産、民青諸君の一層の右傾化は、内外情勢の激変の中で、増々明らかになると共に強まる政府・独占大学と学生支配の攻撃に有効に対決しえないことが明らかになっている。昨年11月以降の早大学友の闘いはその集中的表現であった。政府・独占の大学再編攻撃は、中教審答申、教養審投信の実質化の過程が、筑波大学法案国会上程、教育系大学のモデル大学構想、旧7帝大の大学院大学構想として進められ、大学においては一部特権層の独裁管理体制の強化ー新大管法制定策動として進められている。
 政府・独占の受益者負担主義政策は、相次ぐ私学における学費値上げを強行する私学資本と一体になって。学生生活と大学教育を極度に破壊している。
 また、米帝国主義と並んで強力な帝国主義として成長した日本帝国主義は、その反動的本質を露骨にしている。米帝国主義のベトナム侵略に唯一、公然と加担していること、四次防、独自核武装、計画、北方領土返還要求の強行に見られる反社会主義、反民族解放の政治姿勢に示される危険な軍事対外政策は、アジアの反動の盟主たらんとする野望の表現である。発表された四八年度政府予算の大衆収奪強化・インフレ増進、独自本位の財政政策は、十二月衆院選で示された反独占諸階層の要求に敵対している。だが、発足した田中内閣のかかる内外政策は、増々深刻化する日本帝国主義の危機・矛盾の反映であり、逆に前進する世界の反帝平和勢力の前進、高まる国内反独占勢力の規制を受けているし、帝国主義間矛盾の激化は、世界の三大進歩勢力の前進に有利な条件となっている。
 第二次田中内閣の政策は、労働者・学生そして、世界の反帝・平和勢力の抵抗を受けざるをえないし、現実に受けている。
 だが、この抵抗、反対の闘争が現実的かつ根本的な解決を強調する政策と主体的条件の整備がない限り、着実な勝利はかちとりえないであろう。また、全国学友は、これらの諸攻撃と対決する、諸戦線における闘いの指針を要求している。
 われわれは、学生運動の新しい成功と発展をかちとり、民主集中制に貫かれた強固な同盟建設、学友の期待に応えうる理論的・思想的強化を闘いとらねばならない。
 この間、蓄積してきた自治会運動、平和–原水禁運動、部落研・解放研運動、大学闘争等の成果を正しく総括し、70年代学生運動の理論的、実践的指針としていかなければならない。
 ”同盟創立10周年記念テーゼ”は、かかる情勢の客観的要請と民学同の民主的再建・統一、大衆的・全国的同盟への成長という我が同盟の組織的任務の二つの理由によって一層重要となっている。
 
 <再度、我々の基本的立脚点を明らかにする>
 
 テーゼ作成の主たる目的は、我が同盟の趣意の諸原則に立って、諸政治潮流の誤りを明らかにし、理論的・思想的混乱を克服することであり、学生運動に要求される諸課題と当面する基本政策を明らかにすることである。
 平和と平和共存、反独占民主主義、学生運動の統一、これが他の諸潮流と区別されるわれわれの基本的立場である。この基本的立場は、今日の世界の主要な平和と進歩の勢力の努力、第1に、社会主義世界体制、第2に、発達した資本主義国の労働者階級、勤労諸階層、第3に、反帝・民族解放運動の闘争に依拠している。
 すでに何度となく述べてきているが、今日の学生戦線の分裂と混乱の克服は、まず理論的な対立点の評価から始めて可能になりうる。支配階級=独占資本の側から出される種々のデマゴギー、小ブルジョア的な急進主義、民族主義、反ソ・反社会主義宣伝等々と有効にん対決するためにも、基本的な理論的立場の確認と科学的な情勢分析、我々の任務を具体的に明らかにしなければならない。
 
 1、社会主義世界体制と同体制間の闘争
 ①社会主義世界体制の強化と緊張緩和、平和共存の前進
 ②帝国主義の諸矛盾と激化と階級闘争の激化
 ③米帝国主義の衰退と世界支配政策の特徴
 ④中国現政府の危険な行動とその役割
 2、日本帝国主義–その動向と直面する矛盾
 ①田中内閣の外交・軍事政策の狙いと矛盾
 ②田中内閣の国内政策–列島改造・超高度成長政策
 ③中教審答申に基づく資本主義的合理化の本質と現段階
 3、学生運動の現状と我々の任務
 ①68-69大学闘争以降の学生運動総括
 ②今日の学生層の特徴
 ③学生同盟論、学生運動論
 ④全員加盟制自治会と学生運動統一の方向
 ⑤諸戦線の現状とわれわれの任務
 4、諸党派批判
 民青、中核、革マル、ブンド、学生共闘等。すでに二度にわたって、会議を行ってきたが、3月の同盟の全国化、総結集に向けて今後も討議を継続し、民主主義学生同盟の飛躍的前進の武器としてのテーゼの作成を成功させねばならない。
 全国の学友諸君、諸同志が1-2月の闘いの中で、一層の前進をかちとり、この作業の成功に援助・参加されることを訴えるものである。
 
 
 

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デモクラート 第33号

デモクラート 第33号 1972年12月1

米政府は即時和平協定調印せよ!
合意9項目の修正許すな

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】学費値上げ阻止し、中教審反対実質化大管法策動と対決しよう
早大リンチ事件とその本質
2面 立教大で値上げ阻止す
(故井関氏の)遺志を受け継ぎ前進しよう(大阪市大、3.16闘争)
ロックアウト粉砕へ(明大)
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デモクラート 第32号

デモクラート 第32号 1972年11月7

米政府の調印延期糾弾!
ベトナム和平9項目断乎支持

1面  ←PDFは、こちらから 【主張】ハノイ声明に応え、和平協定実現・戦車輸送阻止かちとろう
M28戦車ベトナム急送阻止
2面 私学学費値上げを阻止しよう
闘争弾圧・管理強化はねのけ、続々反撃開始(明大、立大、洋大 他)
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デモクラート 第30号

デモクラート 第30号 1972年9月13

【民主主義学生同盟 創立9周年記念特集号】

ベトナム労働党・欧州諸国共産党の呼びかけに応え
皆殺し北爆即時中止へ国際連連帯行動を

 

1面  ←PDFは、こちらから 相模原戦車輸送強行を阻止し、侵略加担と対決しよう
インドシナ 重大な局面に
2面 【主張】国際連帯を強め皆殺し戦争に終止符を 同盟全国化へスクラム強化(同盟第4回全国代表者会議)
3面 生活破壊、格差差別再編を許すな
4面 民学同9周年にあたって(初代委員長
資料:第4回大会組織方針
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大阪市大支部統一会議 発行ビラリスト(1972・1973)

 以下に、1972年~73年に発行された、市大支部統一会議発行のビラを紹介します。なお、手元に残っているものだけなので、すべてではありません。また、発行期日については、内容によって判断しておりますので、間違いがある場合があること、ご容赦ください。(発行日付にPDFリンクさせています)

1972年11月10日ビラ

市大統一会議ビラ
1972年11月10日

★1972年6月23日
革マル・学生共闘の「学大」は破産した!
本日、反安保インドシナ反戦闘争に市大統一行動で合流せよ!

★1972年6月26日
春期インドシナ反戦・反安保を継承し、
8月原水禁世界大会の成功を克ち取ろう!

★1972年10月9日
10.21国際反戦デーにクラスから決起を!

★1972年10月12日
全てのクラスで10.21ベトナム反戦の嵐を!

★1972年10月20日
10.21総評労働者と連帯し、2時大阪城公園へ
クラスから市大統一隊列で結集しよう!

★1972年10月23日
48年度学費値上げ阻止へクラス学科から闘いを準備しよう!

★1972年10月23日
10.21クラスから市大統一隊列で150名決起す!

★1972年10月27日
追い込まれるニクソン・チューに最後の鉄槌を!


★1972年11月10日
市大学費値上げ阻止へクラスから直ちに闘いを開始しよう!

私学闘争に連帯を!

★1972年11月13日 (「新時代」)
クラス学科で討論・学習会を組織し、値上げ阻止を闘う体制を構築せよ!

★1972年11月15日
全てのクラスから学費闘争の嵐を巻き起こせ!

★1972年11月17日
学習会討論会を組織し、クラスから

学長・学部長団交を直ちに準備せよ!

★1972年11月20日 (「新時代」)
学長・学部長団交に向け、クラス討論を直ちに展開しよう!

★1972年12月4日
クラス学科での討論・決議の成果を踏まえ、
学部長団交を実現し、全学闘争態勢構築へ前進しよう!

★1972年12月6日
本日、文学部長団交に結集し、
市大の闘う総力を結集し、学長団交へ!

★1972年12月8日
闘う総力を結集し、学長・協議会団交へ前進しよう!

★1973年1月8
市大学費値上げ阻止、新寮獲得に向け、
学長団交、学生大会実現へクラス決議、要求署名を集中せよ!

★1973年1月16日
1.22学生大会をクラスから準備し、
学費値上げ阻止、新寮獲得を克ち取ろう!

★1973年1月19日
学生共闘派のデマ宣伝を粉砕する
あきれ果てた暴挙!学生共闘派による長期監禁・組織破壊活動は完全に破産!
本日、同盟高崎経済大支部、学生「共闘」派を拒否し、統一会議に結集!

★1973年1月22日
デマと暴力で大衆運動破壊に狂奔する学「共」派糾弾!
一切の努力を集中し、学生大会の成功へ

★1973年2月17日
2/1–17 全学スト貫徹す!
市、市大当局の沈黙を許さず、闘争態勢を継続せよ!

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デモクラート 第36号

デモクラート 第36号 1973年4月3

【同盟第12回(再建第1回)大会特集】
第12回再建全国大会成功
筑波法案粉砕へ固き決意

1面  ←PDFは、こちらから 統一会議の活動踏まえ中央委員会確立す
中央委建設に際して全国学友に訴える
2面 【主張】田中の独占体奉仕政策許さず、生活破壊・反動強化と全面対決
4月5月全国学園ストライキを
3面 危機深まる反共軍事ブロック
大阪市大 学費闘争勝利す
動労を孤立させるな
4面 同盟第12回大会・大会テーゼの画期的意義について
大会への来賓挨拶
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日本構造改良各派の総括とその批判

現代革命論としての構造改良論(完)
 日本構造改良各派の総括とその批判
                   勝部 元
    (初出 季刊構造改良 第6号 1972年2月5日)

 はじめにのべたように、日本構改派各グループの政治指導者自身によるみずからの軌跡の総括は、まことに乏しいし、したがって解体・蒸発した各政治セクトの再生も、まだ本格的に日程にのぼってはいない。
 まず離党の中心人物であり、旧社革→統社同→統一有志会の道をたどり共労党に参加した春日庄次郎氏(1)はつぎのようにのべている。
 「イタリアのいわゆる構造改革路線というものは、イタリア以上に日本では、構造改革というものをひとつの路線にまとめあげ過ぎたのです。そのとき、やっぱり日本マルクス主義のひとつの欠陥なんだけれど、外国の理論とか運動の経験とかを、それが背負っている運動の歴史的な背景や基盤というものと引き離して、その結果だけを、直輸入してくる。そこで、イタリアの構造改革路線を実現し得るための大衆的な基盤、闘争の蓄積、そういうものは捨象されてしまって、路線だけが入ってくるということになる。
 イタリアでは、反ファッショ闘争で武力闘争もやって、なん百万という党員をかかえている。戦闘的な労働組合の基盤がある。そういう主体的条件が日本にはない。したがって路線の展開については、運動を下から支えていく闘いを組まなければ、路線だけしくというと、修正主義か、右翼日和見主義におちてしまう可能性があるという点は、ぼくらのような実践活動の経験のあるものにとっては、かなり疑問があった。それが、われわれが代々木共産党を離れ、社会主義革新道動を通じて、統一社会主義同盟を形成するなかで、そういう欠陥は、しだいに露出されてきたと思います。自らその路線を実践的に展開する大衆運動的基盤というものを、開拓しないで、それは社会党に依存してしまうということになるのでは、結局、構造改革路線というのは、社会党でもやっていけるということになるので、構造改革についての、こういう理解は、おのずから【構造改革路線というものが、革命党の革命路線ではないことを示すもので、日本の構造改革路線といい、構革派というものが、イタリア共産党の路線と質的に違ったものであることを示すものです。」(『日本共産党史—私の証言』 日本出版センター、二九〇ページ)
 かれが離党当初いだいた雄大な構想–ひろく党内外の革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進する–は、実現の可能性をもったものとして洋々たる前途を展望させていた。けだし、当時日共の誤った路線と官僚主義的体質にあいそをつかし、それから離れて個々ばらばらの状態にありながら良心的革命的精神を失っていないノンセクトの革新的分子が一〇〇万人は存在していたと思われるし、またこれを反独占構造改良の旗、社会主義革命の旗の下に結集し、社・共をふくむ反独占フロントにまとめあげることは、絶対不可能だったとはいえなかっただろう。残念なことに、このとき独自の主体と大衆運動形成の努力がはらわれず、「社会党なだれこみ」方式の中に、「政策提起集団」、「理論切りうり屋」として自己崩壊をとげてしまったことは、春日氏にとってはこの運動の総帥として、この十年を回顧して感慨無量であったであろう。筆者もまた、構改派理論家のはしくれとして、自己の責任を痛感している。もしヨーロッパの例でいうなら、日本構改派がイギリスのニュー・レフトの方向でなく、フランスのPSUの方向に舵をとっていたなら、事態はことなった状態となっていたかもしれない。PSUと五八年五月革命の場合のように六八、六九年の学生大衆の大激動に、賢明に対処し、この政治的エネルギーを空転させることなく(2)、自己の財産として定着する道もまた不可能であったとは思われない。

(1)尊敬する日本革命運動の大先輩、春日庄次郎氏(「われわれは新左翼・反戦派の潮流にわれわれの立場・足場をおいている」『現代民主主義会報』第十八号)を始め、山田六左衛門氏、亀山幸三氏(「いいだ・もも、武藤一羊らはべ平連や学生運動(全共闘系)と共同する方向で闘って(いわゆる三派系の一翼)いるが、わたくしは、今は、ややそれに近い立場にある」『再建闘争ニュース』七一年五月二五日号)らが今なお新左翼の青年たちに一種の希望を託していられる姿は、いたましく心うつ。わたくしをふくめ周辺の人々の責任、人間的信頼、ヒューマニズムの欠如にも問題があろう。わたくしもまたつねに青年に賭けてきたものの一人だが今のままのべ平連や新左翼系学生運動からは、マルクス主義の新しい潮流が生まれるとは到底思えない。その点ではわたくしは懐疑的である。かけるべきは新左翼に同調できずしかもなお知性と行動への意欲を失っていないこれからの青年、学生大衆と労働者青年大衆であろう。
 なお現在、現代民主主義研究会(機関紙『現代革命と民主主義』)という小グループによっている春日庄次郎氏は、私信によれば「構革派とは何であったか、何をしようとし、どこで間違い、何故現状のようになったか」についての「批判的総括」をまとめていられるようなので大いに期待している。
 
(2)ただ大森、松葉、小寺山氏ら中間派グループの批判–「ここ数年間の階級闘争の総体としての性格をただ観念的な『革命的幻想』としてしかみぬくことができない」「この数年間の階級闘争の自然発生的昂揚にたいするただ観念的反発」にとどまっているという批判にたいしては、本誌第三号の巻頭言の反批判につきているので、ここではもうあまり付言しまい。闘争そのもの、大衆的昂揚そのものを全面的に否定するのではなく、それを高く買い、それを高く評価するが故に、その政治指導者の知的道徳的へゲモニー、闘争の指導に失敗し、大衆のエネルギーを空転させた政治的責任をきびしく問い、大衆の昂揚とその政治指導を区別し、誤った指導にたいし、客観的批判を対置するのである。わたくしの批判の論調が、「甘ったれて傷をなめ合う人々」にたいし鋭いとするならば、日本の戦後の政治史を特徴づける一本の赤い糸–またしても「指導の失敗」が大衆のエネルギーを空費させ(二・一ストをさかいに四六-七年の政治情勢をみよ、四九年夏の空転させられた政治危機をみよ、近くは六〇年の安保闘争を想起せよ!)だ、という骨をけずるような痛恨からである。

 第二は内藤知周氏の手になる「共労党についての総括」である。内藤氏は七〇年二月共労党第四回大会で指導部と絶縁した経過をのべ、その理由として、「この指導部がマルクス・レーニン主義とは全く無縁な、無政府主義思想に転落し、その『現代世界革命戦略』による左翼急進主義戟術は、わが国の労働運動・社会主義運動に重大な損失をもたらすことがあきらかであり、しかも、この一年の状況を見ると、もはやこの党の内部革新も絶望的となったと判断せざるをえなかったからである。…‥・こんにちの無政府主義思想は、現代資本主義の発展がもたらした大衆の疎外感を基礎としている。そして、この疎外感を、われわれが階級闘争のエネルギーへと組織することができず、無政府主義的行動への暴走を許してしまったところには、現代資本主義と対決する労働運動を、真に階級的な立場から発展させることのできなかった、われわれ自身の責任がある。」(『労働者党通信』第七号、労働者党全国協議会)とのべている。
 内藤氏はこの文書でさらに共労党の結党過程とその変質過程をかんたんに叙述しているが、社革派日本構改派の根本的欠陥としてつぎのように自己批判している。
 「社革は、六〇年安保・三池闘争の総括過程で、代々木の民族主義・議会主義・教条主義・官僚主義を批判し、平和共存・反独占民主改革・社会主義革命の綱領のもとに結集した共産主義者によって組織された。しかし、この綱領実現のためには、職場を基礎に、この運動を担う独自の党組織を必要とするという主流と、構造改革の政策提起・運動展開を重視し、そのための活動家集団を志向する統社同も後に、その政策提起集団的性格を自己批判し、独自の党建設の課題を提起するにいたるが、他方、独自の党を主張した社革も、客観的には独自の運動を組織しえず、いずれも、いわゆる『構革派』の運動は、社会党の運動に吸収され、その右傾化の武器とされた。
 社革にしても、統社同にしても、とくに社革の場合には、その構革論が社会民主主義者のそれと異なることを建前として強調したが、そのようなものとして独自の運動を組織しえなかった。この点の弱さこそ、共労党内における『構革派の自己止揚』と、実践に裏づけられた理論をもってたたかいえなかった原因であり、この点の自己批判こそ、再出発に当って決定的な意義をもつであろう。」(同上)
 このような春日、内藤氏らの総括と社運研の森永、『現代の理論』の安東仁兵衛氏のそれはいささかことなっており、さらに統社同中間派!小寺山、松葉氏らの統一労働者同盟(準)の文書はさらにおもむきをことにしている。
 そこでつぎに社運研森永栄悦氏の総括から—構革路線が十年にして社会党内に定着しえず、党内ヘゲモニーを確立しえなかったことの責任を明らかにした上でかれは、社会党構革派の果たした積極的役割としてつぎのようにいう。
 「高度資本主義国における現代革命の総路線を提起することによって、従来の社会主義運動のあり方、社会主義運動の総路線の方向転換をはかろうとした点にあると思う。」(『現代社会主義』「日本社会党と構造改革論」一九七〇年十月号三ページ)
 かれの理解によれば、構革派のメリットは、労農派マルクス主義に典型的な「教義布教的思想運動社会主義」運動-勤労者を一人一人獲得してゆく方法、「大衆運動はもともと日常的要求を獲得するところに意義があるのではなく、大衆を体制の厚い壁にぶっつけることによって、社会主義意識にめざめさせていくところに最大の意義がある」というものーとことなった構改型の社会主義運動をおしだした点にある。かれによればこの新しい社会主義運動は、「大衆の要求の『社会主義化』と社会主義を大衆の『要求化』するための中間目標の設定と、それを媒介として社会主義に接近するという構造改革戦略」(同上)にあった。
 そこで構革論とは、森永氏らにあっては、「思想運動から大衆運動への社会主義運動の転換、なかんずく方法論上の転換をはかった点に最大の意義を認めているわけです。」(同上)しかし「構革論というのはすでにのべたように、すぐれて運動方法論上の問題提起であったにもかかわらず、それをそのものとして十分貫徹できなかった点にあると思う。つまり、運動の方法論、したがってまた政党の機能論としての構革論は、従来の思想運動型の社会主義運動のなかにあった綱領主義、前衛主義といったもののアンチ・テーゼであったにもかかわらず、われわれの実践上の非力とも相まって、伝統的な『綱領論争』の泥沼にはまりこみ、『構革は戦略か戦術か』 といった不毛な論争の中で、その本来の活力を失わされていったのだと思います。」(同上)
 具体的には現代国家と現代資本主義を分析する積極的問題提起として現代マルクス主義派の国家独占資本主義論(ツインャンク=今井理論をとりあげたが、「今井理論が『政治的国家』と『経済的国家』という二元論をとるにいたってこの理論についてゆけなくなり、国家論で足を」すくわれた。国家独占資本主義論が経済への国家介入のメカニズムを明らかにしていながら、投資規制の主要性を自分たちは明確に把握せず、六〇年代の高度成長を制御し工業化の是正をチェックする上で(したがって、今日のような公害問題の爆発を抑える点で)かけるところがあった、と。
 社会党内構革派は、中央オルグ制のような機構改革をかちとり、「活動家の党へ」という路線をしいたが、党内保守派・教条派によって阻まれてしまった。労働運動の革新では、三池闘争の直後、要求の実現可能性というものが部分的であれ、なければ、大衆運動の発展はむつかしいことを肝に銘じ、従来の抵抗闘争から、たとえば石炭の政策転換闘争へ転換した。そしてエネルギー革命に伴う産業構造の転換という背景のなかで、従来の抵抗闘争では解決しえなかったような諸条件、つまり政府による就職あっせん、前職賃金と住宅の保証、離職者に対する職業訓練などを勝ちとった。さらに「同一労働同一賃金の実現、つまり賃金の企業間較差を除くことが労働運動の出発点だという観点。さらに経営の意思決定への労働者の介入、生産管理における労働者の自己決定をめぎすという点があったが、これも重要な問題提起だった。また労働運動を革新する場合、どこが重点かというと政党と労働組合の関係を変えるという問題があった。……また、直接民主主義、労働者管理といった問題をわれわれがもっと進めていれば、その後学生や反戦派の提起した『戦後民主主義』批判とか直接民主主義の志向といったものを、むしろ構革派がもっと具体的に先取りをして、こういうエネルギーも十分吸収しえたのではないかという反省をもっている。」(同上、傍点勝部)
 平和運動では、共産党の敵に対する認識の一致(平和の敵はだれか)を条件とする運動方法に対して、平和への要求の一致による運動論の転換に成功し、「とくに原水禁運動についてはわれわれは大きな貢献をしてきたと考えます。その意味で、平和運動のなかでの構革派のイニシアチブは、理論的にも実践的にもかなり大きかったといってよいと思う。」(同上)
 また六〇年代の自治体改革運動の発展、定着ということも社会党・構改派のイニシアティブとメリットであった、という。
 しかし構改論の個々の命題がなしくずし的に社会党に受容された(自治的構革論はその典型)としても、構改派は「党内の派閥間争の次元でつねに大きく敗れ」、「構革=右派」というイメージをつくり出し、「構革という言葉さえ党内で消えてしまった」。「今日の構革論が一〇年前のような思想的吸引力、先駆性、運動への衝撃力を失ってしまった」理由は、「われわれの問題意識がそれ程発展してこなかったためではないか」という。それならばどのようにして森永氏は構革派と社会党の再生をはかるのか。労農派理論と構革派理論をぶっつけ合うという従来のやり方でなく、「われわれは、今後は基本的に大衆運動の場で勝負するという観点を確立していきたいと思う。これなしに真の主体形成もおぼつかない。一見まわり道のようだが、結局これしかないのではないですか。」(同上)に、みられるように、ここには思想連動型社会主義と大衆連動型社会主義という図式から始まって、革命と改良との関係との現代的位置づけが必ずしもマルクス主義的に正しく位置づけられていないし、マルクス主義における理論と実践、戦略と戦術、とくに社会主義革命論としての構造改良論がよくわかっていない。けだし「イタリア構造改良にたいする独占の偏った解釈と適用として」、「日本型構革論」として社会党に注入され、「先どりされた」(中村氏前掲『新世界』六六年一月号)という中村氏の断定を確認しているようである。
 すなわち、「それ自体がいちじるしい思想的政治的組織的偏向である『日本型構革論』 の社会党にたいする関係は、この党にたいする組織的浸透と外的な政策提供であって、この党を真に内的に強化するものではなかった。従って、個々人としての入党と、それぞれの持場での党の革新と強化の努力ではなくて、特定派閥または個人との結合がもっぱら重視され追求される。それは、社会党の主観主義と派閥的官僚主義的傾向の克服に寄与しなかったばかりか、この党の既存の思想的政治的組織的偏向をもちこむことによって混乱を拡大した。」(『新世界』「『構造改革論』の構造改革」中村丈夫、藻谷小一郎、六〇-六一ページ)
 だから、これによると再生の方向もまた①七〇年代資本主義の挑戦、先進国現代革命の基本的諸条件の成熟に如何にこたえるか、②社会主義の新たなヴィジョンを如何に構築するか、という正しい指摘とともに、直接民主主義の闘争(原点は地域の自治体と生産の場)–市民運動と労働者管理のための闘いが大きい比重をもってとりあげられている。(社運研「新しい社会主義戦略の構築をめぎして」(3))すなわち森永氏はいう。「この分野でとくにわれわれが力を入れたいと思うのは、青年労働者、先端部門の労働者の間に強まっている直接民主主義的な欲求とエネルギーをいかに運動化していくか、という問題です。そういうところへ積極的に党員として介入していき、そこに労働者の自主管理、生産者としての労働者の自立と自治の体制を確立していかねばならない。とりあえず、いまもっている活動家を重点的に配置していきたい。活動家の計画的配置という点では、協会派の諸君の方が進んでいます。」(『現代社会主義』「日本社会党と構造改革論」一九七〇年十月号十七ページ、傍点勝部)
 
(3)社会主義運動研究会は、一九七〇年八月下旬、三年ぶりに全国討論集会を開き、「社会党再生へのわれわれの提言」として、「新しい社会主義戦略の構築をめざして」を発表した(『現代社会主義』一九七〇年十月号)。
 なおこの社運研の機関誌として出発し、のちに独立した構改的理論誌『現代社会主義』は残念にも七一年六月号をもって廃刊となってレまった。
 またこの社運研と別に社会党内協会派(太田派)の理論家、島崎譲氏を中心に研究センター「現代の革新」グループが七〇年初頭につくられて、旧構革派経済学者や政治学者を広く結集しようとしているようである。設立趣意書の補足説明資料「一九七〇年代の革新の思想運動」によると、(一)六九年末の社会党の議席の激減の原因の究明–「現代帝国主義」と現代革命の形態と内容の追求、(二)「革新」の意味の追求。これは革命と改良、方針と政策との理解の問題がかかわる。(三)社会主義政党のヘゲモニーとその組織化の理解に焦点をすえ、「革新の課題をうけいれる党のトップ・リーダーの形成と地方活動家の結集をどう組織化するか」について、その媒介的役割を果たすことを任務としている。そして課題(二)とかんれんしていう。「一九六〇年代におけるいわゆる『構革論争』を反省するとき、論争が『改良主義か革命的見地か』 の二者択一的発想での対応でしかなく、結局はマルクス主義からの逸脱か、それとも擁護かの次元の論争に止まったように思われます。『構造改革論』者たちは、現代資本主義のメカニズムと革新運動の主体的条件の分析なしに思想次元の問題提起にとどまったし、『反構革論』者も、改良主義への傾斜を警告するのに急な余り、『原理』次元での反論の域を脱しなかった。ともに現代資本主義、とくに日本の高度成長の現実とその可能性を分析しうる視角をもたなかったことに欠陥があった。しかも『構革』か『反構革』かの論争が社会党の『右派か左派』の代名詞として使われた。そのため、この論争は派閥次元の対応に終らざるをえなかったのです。日本社会党の議員政党的体質とその派閥化の現実は、たとえ構造改革論にとりうべき積極的な理論や政策があっても、また社会主義革命をめざす党の思想性の確立をいかに強調しても、それらが党内派閥を介してあらわれるかぎり、党革新の思想的意味をもたないということに注目する必要があります。かつての党内論争に際し、この社会党の体質をこそ同時に問題にすべきであったのに、それにふれないままそれぞれの路線が党の戦略か戦術かというように『綱領的規準』にあわせて結論を出すというしめくくり方になったところに論争の不毛性があったと思います。」
 
 労働者管理や直接民主主義にわたくしは、必ずしも反対ではないが、それが現状において安易に「錦のミハタ」としてとりあげられ、ふりまわされるなら、再び不幸な結果へ導かれざるをえないことは火をみるより明らかであろう。それかあらぬか「社会党なだれこみ」論者や社会党への外からの政策提起者たちはこの方向への理論的新展開を行ないつつある。それは直接民主主義、すなわち「評議会」-下からの自己権力(自主管理–二重権力–生産点での社会主義の先どり)というニュー・ルックである。まず安東仁兵衛氏の「構造改革論と六〇年代革新運動」(『現代社会主義』七〇年十月号)をみよう。
 安東氏は、構革グループとしてマスコミ政治地図上、共労党、社学同、統一共産同盟、統社同という構革四派があげられるが、共労党は必ずしも「積極的に構革路線を推進する立場」でなかった、「だから離党派構革グループがなぜ崩れたのかを可能なかぎり追求すべき対象としての政治部隊としては、やはり統社同とその周辺ということになる」として、統社同を中心に問題を検討する。
 構革派十年の総括として、それは「今日の時点でみると、政治運動としては明らかに失敗した」。その原因の追求は「まだとつおいつの段階」で「すっきりした結論の出せない段階」だとことわった上で、この政治的崩壊の直接的契機たる六〇年代後半の学生運動と「新左翼」に敗北した理由として「あせり」と「ムード」負けを言う。「僕らは六〇年安保の時、前衛不在を痛感して統社同を形成したのですが、それからあと統社同の場合は、自分たちを絶対化しないことを政治的信条にしていたくらいですから、あせるまいとは自戒していたものの、やはり七〇年が近づいてくるにつれて、どうしてもあせりが出たと思う。来るべき七〇年闘争の前衛の一角を占めたいというあせりですね。そのあせりが全国的に燃え上る学生運動の中で、いまこの運動にのらなければ七〇年代を担いきれない、ということになった。つまり、想像もしていなかったスチューデント・パワーの噴出が、六八、九年に出てきたわけです。これはどの党派も予想できなかった。この運動を同化しなければ、という要素が非常に強かったと僕は思います。ところが、その同化は、全共闘運動への追随でしかなくなってしまったのが残念です。」
 「たとえば、統社同の内部の過程をふり返ってみると、学生フロントの場合には、一昨年の秋から冬にかけて急速に変質した。しかもその過程は理論的・思想的に区切りをつけながら変ったというのではなくて、全共闘や街頭諸派の〝左へ左へ〟という競合状態の中に、ズルズルと捲きこまれていった。自分の理論の組織討論を経て棒を持ち、投石をし、内ゲバをやり、火焔ビンを投げた、というものではなく、いってみれば全共闘や街頭諸派への〝ムード負け〟というのが正味のところでした。これは学生にかぎらず、盛んに評論活動をやっているおとなにしても同じでしたね。理屈は後からのものです。もっとも、その諸君にいわせれば、革命的実践が理論に先行した、ということなのでしようが。」(前掲)
 もっとも聡明さを誇り、知的道徳的ヘゲモニーをうたったエリート理論家集団としては、あまりにも情ない結末だが、これが事実だからいたしかたあるまい。いやむしろ将来の実践を展望し理論的に指導しえないような体質を始めからもっていたのではなかったのか。小ブル学生大衆が内在的にもっているアナルコ・サンジカリズムや一揆主義(日共の短い歴史の上でしばしばあらわれるあの急進主義の左翼小児病)をくいとめ、大衆のエネルギーの噴出を正しく指導しうるようなカードルの陶冶に始めから日本型構革主義は失敗していたのではなかろうか。
 安東氏らと学生グループとの論争点が、一、今は革命期であり、したがってこの時に改良を提起することはこの昂揚を阻止するものである、という判断、二、権力=暴力という問題であり、この二つの点で安東氏ら「おとな」は、「学生・子ども」の「戦争ごっこ」を説得し、阻止することに失敗した、というわけである。
 つまりこの二つの問題で左翼的であり、「陣地戦」「ヘゲモニー」を馬鹿の一つ覚えのようにくりかえしていた、という「学生・子ども」の批判が生まれた。さらにもう一つ「チェコ侵入」問題で暴露されたもので、構革派は、もちろん〝ソ連派〟ではなかった。しかしそのソ連批判は〝非スターリン化〟にとどまっていてスターリニズムをラディカルに否定するという理論的射程をもっていなかった。さらにいう。「一〇・二一、東大闘争、チェコ侵入、それにからんだ形での文化大革命の評価、それから逆にさかのぼってベトナム戦争に対する構革派の態度への批判等々が生まれて来たと推定されます。構革論は第三世界を包摂しきっていなかった、それどころか一種の先進国革命主義であって、ベトナムの革命闘争が発揮するであろう世界革命への貢献、ないしはその指導的な役割に対して過小評価したという、彼らなりの構革路線に対するあきたりなさが出てきたのではないでしょうか。そこから社会主義を根底から変革し、第三世界を突破口とする世界革命へという考え方、そして先進国革命のパターンとしては、フランスの五月闘争から〝ラディカル〟に学んだと称して、暴力としての権力、権力としての暴力、というエキセントリズムが出てきたのではないだろうか。それらをずっとつなげると、もはや構革論ではだめだという判断になってきたのではないかと思われます。」(前掲)

 討論者自身、批判者自身が、この学生たちのラジカリズムを理論的に論破できる背骨にかけていたことは事実である。たとえば少し長いが安東氏のことばを引用すれば、
 「端的に例示すれば中国の文革ですね。構革派の中にはこれをスターリニズムの再現であると切って捨てる傾向が強かったことは争えない。しかし、毛沢東へのカリスマ的な崇拝、中華ナショナリズム等々の批判に止まらず、文革に示された新たな問題ということを、いまいったわれわれとの問題との関連で学び取ろうとする姿勢が欠けている。文革の現実はソ連型管理社会にたいするアンチテーゼに止まっているとはいえ、たとえば彼らのいう革命委員会方式のなかには、先進国革命と社会主義に通じる労働者委員会、人間的・社会的諸関係の平等化、肥大化し、固定した分業の桂根の打破、等々の問題意識が含まれているはずです。
 あるいは、彼らがいう『コミューン』『ソビエト』『評議会』問題を考えてみましょう。構革論が提出した介入ということの考え方の中に私はほんらいこのあたらしい権力概念が予示されていたと思うのですが、しかしそれはいっこうに明らかにされず、もっぱら『新しい多数派』『民主的多数派』という量的概念が主張されていた。構造的諸改良を支える主体、改良を改良主義に堕させないための主体的条件の掘り下げが足りなかった。
 だからわれわれのなかでも六〇年代半ばから直接民主主義という表現におきかえて、初心を適切に表現したいという努力が行なわれましたが、やはりフランス五月の教訓、学生運動の衝撃といったものがでてきたときに、いわばあらゆる革命にとって普遍の命題である広い意味での二重権力—新しい、下からの自己権力—の問題について、われわれは十分にほり下げていなかったといえるのではないか。問題の発生と同時にその本質と発展方向を的確に洞察して指導性をもって事態に対応するという点でよわかったのではないかと思います。」(前掲三七-三八ページ)
 そして「グラムシの工場評議会運動についてそれほど深く学んでいなかった」となる。こうなってくると〝おとな〟と〝子ども〟の間の論点の明確な断絶と対決が、わたくしはさっばりわからなくなる。「文革」といい「ソビエト」「評議会」といい、このような「ものわかりのいいおとな」に教えられ、「甘やかされ」、子どもたちは単純明快に、「紅衛兵」的全否定、と「武闘」「決戦」にすすむプロセスがよくわかる。「文革」についても「評議会」についてもわたくしは、たくさんの疑問をもち、いつもながらのことだが安東氏のように「すっきり」と割りきることはできない。
 さらに、資本主義の新しい状況、社会構造の変化の中で資本主義の新しい矛盾もそれに応じて急速に展開してきた。日本も中進国から先進国に変化した。それにたいして中進国型の社会であるイタリアの「たとえばトリアッティの構革路線自体が三〇年代の人民戦線戦術から発展させられたものであり、三〇年代的、人民戦線的発想から抜け出られなかったような限界があったと思われます」(前掲三九ページ)という編集部の問にたいして、安東氏は平和運動をとりあげ、肯定的に例証する。五〇年代より六〇年代初頭にかけて構革派の運動理論がもっともメリットがあったことは明らかである。「ところが、戦争と平和の構造が六〇年代後半から変貌したわけです。とくに部分核停条約(六四年)以来アメリカの対応が柔軟多角反応戦略という形に変ってきた。いわば部分核禁で熱核兵器をカツコにいれたうえで、現代世界とりわけ第三世界における反革命輸出を追及するという戦略です。いわば帝国主義の側が新しい戦術を練ったと思うのです。その突破口がベトナムに見られるわけです。ところが、構革派の平和運動は二重の意味でベトナムへの対応が立ち遅れた。一つは平和運動プロパーの次元でみて、熱核戦争をカツコに入れた後の戦争と平和の構造の問題についてダイナミズムを欠いた。五〇年後半から六〇年代初めのパターンで新しい事態に対処しょうとしたといえるでしょう。実践的には、部核の後は軍縮だという想定をしていたが、実際は軍縮どころかベトナム戦争ということでふっとばされている。」(前掲三九-四〇ページ)
 それならば部分核停についての評価は誤っていたのか。米・ソ結託(「平和共存」)がアメリカのベトナム侵略を可能にしたのか。「ベトナムの対応が立ちおくれた」とは何をいうのだろうか。CND・一〇〇人委、「ラッセルの論理」から「ニュー・ニュー・レフト」(吉川勇一)べ平連とつながる論理は、わたくしなども追求し、六五年ヘルシンキ世界平和大会でも表明してきた論理である。それとも「ベトナムに平和を」というスローガンが誤りであったのであろうか。ものはすべて両面の真理をもち、冷戦時代のカツコつきでない平和共存のための闘争-帝国主義国の政策転換のための闘争はやはり正しかった、とわたくしは考えている。ここではくわしくはのべないが(講座『マルクス主義』第九巻二一五ページ参照)熱核兵器の異常な発達と平和擁護という圧力により人類共滅戦を防止しえたし、その結果、六二年のキューバ危機以降、アメリカがケネディの下で局地戦による植民地解放運動の鎮圧にのり出してきたわけだ。「ベトナム」が、世界人民の問題点となり、「ベトナムに平和を」は、アメリカの侵略反対と結びつき、民族解放闘争との連帯支援と決して矛盾するものではなかった筈である。なべて国内政治でも国際政治でも、決して一直線なものや、「すっきりした」区切りのあるものでもなく、動と反動、進歩の側の一歩前進が、反動の側によってつつみこまれ、新たな矛盾に転化するという形でジグザグに進むことを弁証法が教えている。
 さて安東氏のいう、「現代世界革命路線としての構革路線に、第三世界に対する過小評価というものがなかったかどうか。この点について六〇年代当時の構革派の問題設定は、南北問題というアングルからのものであり、その中で非同盟中立諸国がなしくずしに非資本主義的発展のコースをとって、しだいに社会主義圏に接近するだろうという想定が、一時僕などにはありました。したがって、ベトナム戦争の発生、キューバ革命のような武装革命などについて的確な評価が立ち遅れた。」(前掲四〇ページ)
 この「第三世界」という用語がわたくしにはよくわからない。資本主義世界、社会主義世界に対応する特殊な第三世界というものがあるのか。民族独立をかちとって「発展途上の国」、AA、LAといわれるものをさすらしいが。キューバやベトナム民主共和国のような社会主義国をこれに入れる場合もあれば、韓国、南ベトナムのような反動的政治体制をもった国をも包括することも理論上可能だ。「非資本主義的発展コース」にたいするオプティミズム(ルビンシュタイン)についてならインドについてはすでに五〇年代にゴーシェによって否定され、アルジェリア、ガーナ、インドネシアの事実の発展によって否定されている。しかしそうだからといって武装革命を絶対的パターンとするのも間違いだろう。キューバやベトナム型武装革命の場合もあれば、チリ、セイロンのような型も可能だろう。いづれにせよ、これらのAA、LAの国々に一般的絶対的型を想定することは誤りである。そのいみでレジス・ドプレ「革命の中の革命」にはキューバ革命の事実にすら反した誤った図式化がある。(山崎カオル「キューバ革命の伝説」『思想の科学』七一年十月号およびドプレ自身の自己批判「自己批判は勝利への道」『情況』七一年十一月号参照)
 現代の搾取としての疎外あるいは全体の労働者像をどうとらえるかについても立ち遅れがあった、として安東氏はいう。「しかし、構革派が主として運動論として展開したのは政策転換闘争であり、横断賃率であり、労働組合の組織のより合理的な産別化をめざす、という組織論だったのではないか。生産原点での労働者の自己統治、権力、管理、などの問題に対して、構革派はどちらかといえば三池闘争にみられるような旧型の職場闘争主義の不毛性を批判するということで、かんじんの赤子を流してしまっていた、ということがあったのではないか。」(前掲四〇ページ、傍点勝部)
 構革派の国・独・資論について安東氏はいう。「全体としてわれわれが理論家から受けた視点は、生産力の発展が社会化を不可避とし、その社会化は社会主義への接近の客観的な橋頭壁になるということ、資本主義体制の下での国有化が潜在的社会主義であるかのような印象を与えるような理論さえ含まれていた。全体として、民主主義と生産力の自動的発展、その延長線上に社会主義を有利にたぐりよせるごとができるといった理解があったのではないか。たとえば、クリービング・ソシアリズム—しのびよる社会主義—といった考え方などに断固として異議申し立てをしなかったという体質があるのではないか。」(前掲四〇-四一ページ)
 さらに日共のさいきんの自主独立路線への転換について安東氏は「日共の新路線は、あくまでも議会主義につぎ木された『構革的なるもの』に過ぎない程度」といいながらも、「先進国革命の路線としての構革路線の方向の許容、指向に向わざるをえないと思います。」(前掲)と肯定的であり、日共的体質が形の上での構革路線をとる場合社会党の場合よりもさらにひどい右翼的歪曲-「大衆をひき上げる」のではなく、「大衆へ埋没」し「革命」放棄にいたる点の指摘はない。かれは「おのがじし唯一絶対の前衛」であるというセクト主義をはいし、「日共の即自的な反対者であるのはやめたい」といい一貫した統社同の理念をのべる。その言やよし。しかし実際は如何であったであろうか。はたして「正統意識」と「スターリン主義」は統社同に無縁であったといえるであろうか。むしろこの点にわたくしは一番大きな問題をみる。また「日共なぞ相手にするのも下らぬ」という思い上りが、論争は相手にたいしてよりも大衆にたいし、啓蒙と説得のためになすべきであるという革命家の基本的姿勢をぼやかしてしまい、必要な理論闘争ぬきにして、結局は一にぎりの「近親的理論家グループ」に、しかもきわめて非スターリン主義を標揺するスターリン主義的集団に化せしめたのではなかろうか。
 全体の総括として安東氏はいう。「〝日暮れて道遠し″という感じがしています。さきほど既存の社会主義体制の革新について甘さがあった、ということを反省点として挙げたのですが、日本のマルクス主義的政治運動の体質の革新を志したわれわれには、その困難性について、これほどに根深く、頑固なものであるという覚悟はやはりなかったといわねばなりません。……だから僕ら自身のことをいえば、社会党の評価、江田構革運動の評価に対して何回も過大評価をいましめ合いながら、にもかかわらず期待するということで、くり返しがありました。日本共産党の革新ということについては絶望的に近い程ペシミスティックでありながら、逆に、日本社会党の革新については非常にオプティミスティックであった。
 また理論家のなかには—例外的な存在であるとはいえ—主体の問題を問わずに、もっぱら政策の実施のみに社会進歩を見るといった姿勢さえあった。社会党であれ、何であれ、どこにでも政策の諮問に応えるという—われわれはこれを政策提起主義と呼びました—傾向なんか、必要以上に構造改革論のイメージ・ダウンに役立った。」(前掲四三ページ)
 親しい友人の安東氏に対し、わたくしはいささかきびしかったかも知れないし、傍観者的のそしりをまぬかれぬかもしれない。しかし政治指導者としての安東氏はこれまできびしい批判にさらされることなく「ツー・カー」グループの小サークルにあまりにもどっぶりひたりすぎたのではないか。すべからく政治的理論的突撃隊長としてではなく、政治グループの総帥としての道を歩んでほしい。いろいろと珍奇な曲や歌が出ては消え、出ては消えるだろうか、それにいちいち気をとられることなく、「一本ドッコ」にまっしぐらに進んでほしい。そのいみで「息を長く、腰をすえ直して構革路線のあたらしい構築と推進に努め合おうではありませんか」という結論にわたくしも大賛成である。
 
 学生新左翼と真正面からぶつかった安東氏の場合はさておき、これが中間派グループ—大森、小寺山、松葉氏ら—になるともっと眼をおおいたくなるような「総括」となってあらわれる。統一労働者同盟(準)の政治文書「構革論総括と戦闘的再生への基本的方向」をとりあげねばならぬ。
 この文書にはいままで部分的にはしばしばふれてきたが、これがもっともまとまった文書であり、また「日本型構革論」 の特徴をもっとも誇張した形で示しているという点で問題にしてきたのである。

 第一次革案と名づけるこの文書(二次以降が出たのかもしれないがわたくしは今までのところ入手していない)、「われわれ」とか「統社同何々派」という代わりに、自らを「日本構革派」として語っている。だれが一体かれらに「日本構革派」全体を代表する権利を与えたのであろうか。わたくしは疑う。すでにここに「おのがじし唯一絶対の前衛」という発想と手をきった立てまえの統社同系一グループに、自らを正統派と名のらせる本音があったのであろうか。とまれ、自らのみを「日本構革派」とよんではばからぬこの中間派グループの姿勢にすでに鼻もちならぬごうまんさと小スターリンの姿をみるのはわたくしのひが眼だろうか。しかしこのしょっぱなの「日本構革派」にひっかかっていてはきりがない。かれらがどういう「総括」を行ない、「戦闘的再生の基本的方向」をどのように模索しているのか、一応読みとおしてみよう。
 まずはじめに、「五〇年代階級闘争の、政治的、理論的、思想的総括の帰結として登場した日本構革派は、六〇年代階級闘争の巨大な自然発生的高揚の中で、自らの歴史的限界を対象化し、自然発生性を止揚し統一する論理を見い出しえないまま、大衆の自然発生性の巨海に埋没し分解していった。」
 つまりかれらが党派再成の方法論において自然発生性→その機会的外在的存在としての「意識性の純化」というとらえ方をしなかった。そこで「自然発生性の高揚の内部から意識性の要素を抽出する論理と方法における挫折が、自らの党派の解体にまでゆきつかぎるをえなかったのはけだし必然的であった。」そこで初期構革派への単純復帰や、既存の検証ずみの路線はありえない。方向は「この数年間の階級闘争の展開とともに存在し、その解体の過程にも加担してきた、われわれの実践的営為の総体の対象化を通じて、構革派の戦闘的再生を追求しなければならないと考えている。……この数年間の階級闘争の自然発生性の内部に萌芽した、意識性の抽出を通じた、構革論の戦闘的再生への道である。」(傍点勝部)
 こういう総括の基本的視点から、第一にかつてのかれらの仲間で「構革論」をいともかんたんに「止揚」してこの中間派をもたたき出してしまった「先駆」派の「レーニン主義」への先祖帰りを批判する。「政府中枢制圧」、「計画としての戦術」「権力奪取の第一義性」の確認が「レーニン主義」の復活などでなく、「じつはスターリニズムの純化」に外ならない、と断定し、これに対比して「構革論の本来的に有してきたシューマ-党(目的意識性)、と階級(意識性の萌芽)の有機的関係、政治革命(権力奪取と国家の死滅)-社会革命(共同体的所有と社会的分業の止揚)の弁証法、革命の全体性の回復、戦術としての中間的獲得目標をあげる。
 そして階級闘争の自然発生的昂揚にたいし、その意識性への昇華に決定的に立ちおくれていた「われわれ」の歴史的限界、それに止まらない理論的・思想的弱点こそ総括し、止揚されねばならなかった。こういう方向になされない総括は構革派運動の批判的総括の回避と構革の外在的清算におちいる外ない、という。
 こうして自らが指導し、「加担してきた」「子供たち」の「レーニン主義」の戯画への先祖帰りを批判した上で、かえす刃でわれわれ雑誌『構造改良』派批判にとりかかる。すなわち「階級闘争の自然発生的高揚にたいする即時的反発のレベル」に止っている。「この数年間の階級闘争の総体としての性格をただ観念的な「革命的幻想」としてしか見ぬくことが出来ない限り、「先駆派」と同様自然発生性への外在的批判者たるにすぎない」と。
 しかしわかってか、わからずしてかともかくも、われわれが「理論と実践」の境界領域の理論建設の必要、構改理論を革命のための「運動学」として、追求しようとしている点については同感をよそおいながら、実践による検証でなく「トリアッティ—イタリア共産党第八回大会—日本構革派の理論的・思想的連統性への保守的帰依」と断罪している。このようなばかばかしいねじまげと断罪についてはすでに本誌第三号の巻頭言がふれているのでこれ以上、立ち入る必要はない。問題はかれらの総括視点とその内容であろう。
 中間派は、日本構革派の生成がイタリア共産党第八回大会の「構造的諸改革の路線」を、単なる「経済構造の改革」(不破哲三)、または「イタリアに特有の路線」として摂取することを拒否し、「同じ先進資本主義国における独創的な革命路線の誕生という条件の中で、どのようにしてそれを日本の条件に適用させるのかの問題意識から出発した」そして直原同人のつぎの規定を承認する。「戦後日本の第一段階が、総体としてブルジョア的安定と本格的な資本主義的活動の開始にむけて成熟していったことの結果として、ひとつの翼として、戦後の大衆運動の敗北過程に対する清算主義的総括としての、反体制運動の可能性への不信にうらづけられた急進主義があらわれ、他の翼資本主義的未来への楽観論としての近代化論への傾斜が生じたのだといえるでしょうか。
 そうして、わたしたちは、この両翼に胎まれている先進国革命への絶望に対立し、それを克服するものとして『政治経済構造の反独占民主主義革新と構造改革』の政治路線をみずから定立したのだ」(直原弘道「七〇年代構改派のひとりとして」『現代の理論』一九七〇年十二月号)
 ①日共内反対派②六〇年安保闘争の総括からの出発という二重契機を孕みつつ、かれらはさまざまな反代々木コース—「思想革新グループ」(「現状分析グループ」)、「党建設グループ」(社革グループ)と、そしてもちろん「トロツキスト的急進主義」とも異なる道、を歩みはじめた、という。だがこの「異なる道」が何であったかについては、批判的総括はされていない。炭労、中小企業、公労協その他の反独占構革闘争の意義と必要性がでてくるが、その運動基盤、その総司令部、前衛党形成問題については、「構革派としての我々の主体形成は、なんらかのできあいの教条、外的な権威を一切拒否することからの出発であるかぎり、われわれはすでに出発にあたって一切のドグマと権威への〝退路を断った〟存在であった。また同時に、現実からの出発に第一義性をおくとともに、現実への絶えざる緊張を持続しうる資質の獲得をめぎしたものであるかぎり、われわれは常に現実への埋没の危機性と現実からの逃避の誘惑との間で耐えぬく思想的・政治的路線の不断の検証を欠落させることが、そのまま自らの政治的・思想的風化に直結する存在としてあったのである。」(同上一四ページ)
 このような立場が「複数前衛」「機能前衛」論にみちびかれ、現実にはまったくスターリン主義的組織構成をもった「理論の切りうり屋」グループに堕してしまったことの自己批判は一カケラもない。だから「こうした日本構革派の出発にあたって確認しうる政治的・思想的立場は、いまもなお有効なものとして確認しうるばかりではなく、今日、構革派の解体の中からその戦闘的再生を追求しようとするわれわれの共通した立場性である。」
 あれほど「前衛党」建設グループ(社革)をあざ笑い、スマートな「理論政策コンサルタント」として社会党と野合しながら、自らの小グループ(たかだか七~八〇〇人)の統社同内部でしかもわずか十数名の全国委員会内部でどのようなスターリン主義的派閥形成、権力グループ内の非民主主義的な「根まわし」が行なわれていたかにまったく眼をつぶっている。こういう自己批判とは一体何であろうか。
 「今から思うと代々木の中央委員会の方がまだ民主的であった」と労働運動家H氏をしていわしめた統社同全国委員会のエセ民主主義を何故ここで明らかにしようとしないのか。
 この点にメスを入れず「今なお有効なものとして確認する」政治的思想的「タテマエ」をわたくしは信用しない。メスはもっと深部の「ホンネ」の中に入れらるべきである。共犯者たちは、そこでどのようなスターリン主義的「小政治」、マキアベリズムが行なわれたかを明らかにすべきである。スターリン主義がここまでわれわれをむしばんでいたかをえぐり出すことによってはじめて、「再生」は可能である。これなしにはどんなに粉飾を新たにし、新ファッションをもって登場しても再びスターリン主義的「エリート集団」の「戦闘的」再生となるほかはあるまい。わたくしは「政治とは本来そういうデモニッシュなものだ」という丸山真男的論理を拒否するところに立っているのだから、お人好しといわれようと何といわれてもこの点では引きさがることはできない。
 では何故に日本構革派の敗北、解体が叫ばれねばならないのか。再びかれらは直原同人を引用する。「わたしたちが有効な政治努力としてみずからを組織しえなかったことと見あって、わたしたちの知的先進性(相対的な)の低落と停滞が避けがたく生じました。もっとも尖鋭な現実関心によって出発したにもかかわらず、国家論から戦術論、運動方法論にいたる諸問題を、ひとつの政治意志にもとずく実践と総括の発展的契機として追求してゆく上で、わたしたちには欠けるものがありました。そこから第一に理論的関心は理論的関心として完結してしまい、その党派的表現としての運動とは切断されてしまう傾向、第二に党派の実践的主張となりえない政策、それによって党派の主体的性格を形成することを予定しない政論、第三に必然的に運動に政治的表現をあたえるのでなく、図式に運動を適合させようとする発想、第四にしたがって実際の運動のなかに萌芽しているものへの関心と総括の欠落などが生じました。」(前掲論文)そして大学闘争と六九年秋期安保闘争に負けた原因をつぎのようにいう。大学闘争では「むしろわれわれは自らの運動論に見合う闘争の質・獲得目標を十分に提起しえなかったことにおいてその限界性があったのである。そして、そのことへの限界と失敗が大学闘争をバネとする構革論の活性化と再構築のための一つのしかし重大な契機を見失うことにつながったといえる。」「大学闘争における構革派のつまづきは、実はその非構革的運動に対する対立物として存在しえなかったところにあるのではなく、本質的に最も構革的運動であった闘争に対して、自らの限界性を止揚し、その過程で運動への意識的主導的役割を果しえなかったところにこそあったのである」しかし事実は、反マルクス主義的急進主義に対抗しうるに十分な理論的ヘゲモニーが確立されていなかったため「ずるずると情勢に押し流された」 のではなかったか。
 だからかれらの構革論総括の方法は、①構革論の初発の問題意識の内在的解明、②ベトナム、フランス五月、チェコの闘い、全国の大学闘争の自然発生的に提起した意識性の萌芽の共通性の確認とその理論化、抽象化を通じて構革論の体系の戦関的再生を追求することである。③以上の総括視点を通じて抽出されてくる命題は、『評議会』のテーマであり、現代革命路線におけるその位置づけの作業である、と。
 ついに出てきた「評議会」–「理論切りうり集団」にかけていたのはこのグラムシの「評議会」テーゼだった。「機動戦-陣地戦」、「介入政策」、「知的道徳的ヘゲモニー」の代わりに、「評議会」が今後の「目玉商品」とならざるをえない。
 この政治文書の第二章「構革論の内在的批判とその総括」は「理論切り売り」集団らしく、その商品内容–井汲卓一氏から、柳田侃氏にいたる、個々の理論家の理論内容の再検討にあてられている。学会討論レジュメ的なこの章についての紹介もわたくしのそれにたいする批判的意見もかんたんに行なうことは到底不可能である。学者のそれぞれの学説にたいしては、学問的次元で対決するにはこのような場所でこのような形で不十分に展開するのは当をえていないし、礼を失する。だからここではごくかんたんに問題点をふれるに止めざるを得ない。何度も繰り返すようだが理論と実践の再検討が(たてまえとはことなり、じつさい上は)その媒介項である日本の「主体と運動学」の観点ぬきで、抽象的観念的に、しかも個々の理論家の業績のイージーな紹介、摂取となっている点が、この政治グループの「総括」 の内容をなしている点がまったく特徴的である。
 まず第一に構革派世界認識の総括。構革派はレーニンの「帝国主義論」の歴史的限界とともに、スターリンの全般的危機論にたいする批判的総括をその射程に入れていた、としてスターリンの 「一国社会主義論」と「全般的危機論」を批判する。そして「平和共存」のための闘争の歴史的意識をまったく捨象して、ここではトロツキストとともに、スターリンの一国社会主義論に根拠をもつ「生産力発展と技術進歩という両体制に共通する没価値的競争の、観念(自己充足的完結の観念)が、資本主義の『停滞の必然性』の観念にうらづけられて『社会主義世界体制のますますの優位性』として語られてくる。そのためにこそ、その観念を現実化させるためにこそ『両体制間の共存』=米ソ共存体制の必要性とそれへの世界階級闘争の収赦が第一義的に要請されてくるのである、」という。さらに「革命の各国における多様性の観念」も既存の「社会主義世界体制への量的拡大と両体制間の競争の観念への参加としてのみ許されるから「チェコの新しい道」はそこからの離脱、植民地民族の解放闘争の「非資本主義的発展の道」は、ソ連型社会主義モデルへの接近のもっとも確かな方法としての意識をこえることがない、と断定する。後者にたいしてソ連型社会主義と西欧近代への無限の接近を「止揚」しょうとするOLASの連帯-ゲバラとキューバ革命を、賛美していう「中南米における民族解放闘争との同質性・同時性の獲得によってこそ、キューバ革命と中南米革命の社会主義的前進を可能にするという、インターナショナリズムの復権でこそあったのである。」と。
 借問する。チリーの新しい事態はどうなるのだろう。さきにいわれたように無知のままにキューバ革命の手ばなしの一般化、絶対化やゲバラ讃歌をわれわれは警戒すべき時点にきているのではないか。それとも、また情勢の変化に応じてこの点では新しい「理論」商品を仕入れるのだろうか。
 この文書はついで井汲卓一氏の「冷戦構造論」のメリットを掲げたのち、両体制それぞれの例の「多様化」「分極化」現象の発生により、新たな困難—平和共存の新たな危機(仏・中核開発)を生み出すのだが、それは「民族主義の自然発生的爆発となって現象する」という。
 この井汲「冷戦構造論」に対応よる、構革派池山重朗「人類平和闘争論」安東仁兵衛「平和共存論」にする「人類概念」「諸国家間の民主的関係」が実践的方針としてより具体化し成果をあげた。しかし新たな「分極化」に相応じ、「冷戟構造論」は古くさくなる。柳田侃氏の理論がここでとり入れられる。この〝人類〟は〝北の人類〟であり「植民地体制の崩壊と第三世界の形成を十分理論的に包括していなかった」、すなわち、ベトナム戦争にみられるような「後進国民族解放闘争の歴史的意義は、たんなる既存の体制のいづれかへの発展の方向をたどるのではなく、それは、現有社会の異質な要素として世界史の前面に登場しょうとしていることにある。マルクス主義がこの後進国人民の爆発的なナショナリズムを、新しい変革の主体として現代危機の構造の中に位置づける理論的視座をもちえないことに真の問題の核心がある」と。こういう柳田氏の「第三世界論」について、それは一体何かよくわからないし、何故マルクス主義がこの問題の解明に不毛であるといわれるのかわたくしには納得できない。ベトナム解放戟争のもつ世界史的意義を十分にみとめるのだが、それが「ベトナム革命のもつ独自性–西欧型資本主義とソ連型社会主義の両者とは区別される別個の革命の道—とは何であるのか。それはいかなる内容と形態において自己の独自性を主張しようとしているのか。そしていかなる世界革命への展望を内包しているのか。」と問われ、「それは、ベトナム人民の勝利的前進が、従来の後進国解放闘争の目標たる政治的独立→経済的自立のコースをこえて突き進もうとしていることに対する世界のプロレタリアートへの覚醒力を自覚することに他ならない。すなわち、ベトナム革命が中国の文化大革命、ゲバラの「第二第三のベトナムを」の政治的・思想的衝撃と合流し、ある一つの革命的心情を形成していることについて、われわれは無自覚であってはならない。」(同上四七ページ)
 理論がついに心情に転化するとき、ここにいいだもも氏らの新左翼の世界革命論とはどうことなるのか理解に苦しむ。南ベトナム革命が、将来アルジェリア型に止まるか、それともキューバや北ベトナムの道をすすむかを、いまあらかじめ断定するには民族解放戦線の構成と指導にかんするもっとくわしい材料の検討が必要であると思われる。ここで必要なのは科学的分析であって心情的展望ではなかろう。
 また「世界革命の過渡的段階におけるプロタリア国際主義の、中間的過渡的スローガンとして、平和共存は中国の国連加盟の実現とともに、インドシナ全域における戦争状態の終結とアメリカ軍の全面撤退の闘いの、具体的にして生きたスローガンとして復活させられねばならないし、重要な課題となるであろう。」というが、中国国連加盟が(新加盟でない-正しくは代表権の回復であってこういう誤った新聞用語を用うることはわれわれの間では許されない犯罪的用語であろう)現実のものとなった現在、中国とともに平和共存=現状維持=内政不干渉の論理で、たとえば「バングラデシュ独立の闘い」についてこれを否定するつもりだろうか。中国とともに「満洲国の再来」とでもいいたいのか。なべて日本の革命家を自認する人々や、左翼的評論家と自称するグループが、「流された血」にたいし、不感症となり、いつも「殺されるものの側」にたっていないことに私は心そこから憤りを覚える。
 「世界のどこかでなにか不正が犯されたならばいつでも強く感ずるようになりなさい」というゲバラの遺言を、わが国のゲバラ讃美者たちは何と思ってきいているか。一〇〇万の虐殺、一〇〇〇万の難民の餓死寸前の状態に眼をつぶり、何一つ行動しない「革命家」「評論家」とは一体何なのか。
 このことをぬきにしては、「それは、世界階級闘争の総体としての把握における生産力主義的・客観主義的偏向についてである。」という総体的自己批判がそらぞらしいゲバ学生の甘ったれた心情吐露的なものと同質のものとしかうつらない。
 第二部、反独占統一戦線・構造改革路線の総括も同様の調子で展開されている。タネ本はここでもマニフェスト・グループ、とくにルーチョ・マグリである。まず「他方、コミンテルン第七回大会路線の延長上に、今日の統一戦線を追求する思考は、実践的には右翼的日和見主義でしかありえないことも現実の階級闘争が教えるところである。」という断定があり、そしてレーニンの統一戦線論その負の側面のスターリニズムとしての開花、肯定的側面のコミンテルン第七回大会の反ファッショ人民戦線テーゼとしての延長線上に今日の構革派反独占統一戦線論をみ出す。ここでスペイン内戦における「新しい民主主義」、反ファシズム抵抗闘争における権力機関としてのソヴュトでない、人民委員会の存在と人民民主主義革命については奇妙にもまったくふれられていないのはどういうわけか。また「ファシズムは、ディミトロフ報告のように独占資本の最も反動的、排外主義的独裁というブルジョアジーの一般的支配様式ではなく、むしろ、後進資本主義国もしくは敗戦資本主義国の特殊な支配様式であり、また、それは暴力とデマゴギ一による支配のみではなく大ブルジョアジーと特権的中間層の同盟にも依拠している」という検証ずみの、一知半解の規定には失笑を禁じえない。コミンテルンやディミトロフを絶対視するつもりは毛頭ないのだが、たとえば当時のフランスのような先進資本主義国における強力なファシズム運動の存在とその征覇の危機をどう考えるのだろうか。フランスでファシズムの征覇をくいとめた労働者・知識人の大闘争の意義をどう考えるか、こういう見解をかつてコミンテルン第七回大会は「客観主義的偏向」として闘う立場より否定していることを知らないわけではあるまい。

 ところでマグリの結論は「いまや陣地戟の時代は終った」である。だからこのままおしすすめてゆけば、新左翼的武装革命路線に当然ゆきつかざるをえない。
 この点で中間派の「大人」たちは、「戦争ごっこ」へのめりこむその「教え子たち」と手を切らねばならぬ(直原氏があれほど鋭くK氏=小寺山氏の政治責任をついたのは、この点ではなかったか、『こむうな通信』一号参照)
 大人は子供とちがう。「機動隊」につっこむわけにはゆかない。「すなわち『もはや陣地戦の時代は終った』(マグリ)のではなく新しい条件の下で、新しい形態における陣地戟の戦術があみだされねばならない。そして同時にその新しい陣地戦の戦術=新しい統一戦線は、最後の決戦のための新しい質的飛躍の論理(ロシア革命とは異なる性格)を構築しなければならない。それは「評議会」のテーマであると。」(同上九-二二ページ)
 要するに党(大衆的と前衛党)はつくれないし、つくりたくない。全体革命を志向し権力奪取以前において「きたるべき社会の予示を可能なかぎり追求しようとする」〝新しい党〟は〝機能前衛〟として党-労働組合でなく、党-評議会として再構築される。第一次大戦後の特殊な歴史的事情と各国の特殊性にもとづき、革命情勢期に発生したソヴュト(評議会)や第二次大戦中の反ファシズム民族解放闘争の中から生まれた「人民民主主義」(人民委員会)でなく、平常時における「評議会」 の再生の上に「党」をつくり上げようとする。労働組合にかんしても「われわれは、評議会-労働組合の関係を前者の歴史変革主体としての優位性の確認のうえに、しかし、弁証法的、有機的関係としてとらえるのである。今日の高度資本主義国における革命戟略は、この評議会と労働組合の弁証法的統一を基礎にくみたてられねばいかなるこころみも無力なものと化してしまうであろう。」(同上A-二二)
 かくて結論にいう。「労働組合は産業別全国ストライキをその主要な武器とするのに対して、工場評議会は拠点大衆ストをその特有の戦術として駆使することによって、混然とした階級の力の行使を表現し、両者は体制の顕覆へとむかう。過渡的・中間的目標=構造改革のプログラムによって領導され、革命過程の意識的主体へと自身を高めてゆくことができる。
 構造改革の路線の再生-その戦闘的再生はかくして当初に結論づけた「労働者権力」のうえに開花し、いまひとたび日本の階級闘争の最もすぐれた党派的立脚点へと自己を昇華させることができるであろう。」
 これが一年を費した「研究成果」である。そして実さいの運動への具体的「評議会」の適用とは、労働組合の左翼分子の結集(これだけなら新左翼的赤色労組主義になる)と外部の「理論注入商会」との結合となる。その成果については、松葉武雄「新しい型の労働組合運動と教育労働運動」(『現代社会主義』七一年五月号)をみるとよい。労働組合が、「労働力商品の販売条件」の改善にのみたずさわるのでなく、商品の内容に、生産者的要求の大衆化にとりくむことによってのみ可能だ。「教育内容を問うことを軸」とする運動に、革新的工場委員会を軸にして、組合運動をすすめ、「自己管理」、「社会主義の先どり」を行なうというのだ。教育労働と.いう特殊な労働の場合はもともと、そういう教育労働の内容と切りはなされぬ性格をもつものであるが、またこの点に教育労働者の特殊性があると思われるのだが、この考え方が、他の製造工業や生産労働にひきうつされるとどうなるか、労働者を生産内容の管理者にしたて、創意を発揮させること、—現代先進国の独占ブルジョアジーがもっとも努力しているのがこのような労働者の積極性と創意をひき出すことではないか。もちろん国家権力と工場管理の中核部分を自ら手ばなさないという条件のもとで。こうしてできる限り労働者の自主性(自主管理)をひき出すことこそかれらのもっとも歓迎することであり、これがほんとうの「マル生」ではないか。
 権力の中枢、生産の中枢を独占ブルジョアジーが握っている場合の「二重権力」とは一体何であろう。それは「欺瞞」以外の何ものでもなかろう。これまで高い理論的水準に立ち、すぐれたイニシアティブを発揮していたと思われる労働運動家松葉氏がこのような理論的泥沼におちいりかつそれに気づいていないのをみるのは、かつての友人として痛ましい限りである。「社会主義を問い直す」「反体制労働運動とは何か」(三一書房)という小冊子でも同様の見解が展開されているが、たとえばつぎの文章は一体何をいみするのだろう。「ところで、資本主義の経済力が現在のように強大となってくると、労働者の改良要求をあるていど許容する余力ができる。他方では経済の主導者である技術集約産業では、搾取と抑圧という前近代的な方法で労働力を管理することが不可能となってくる。」(「新しい型の労働組合と教育労働運動」『現代社会主義』一九七一年五月号六八ページ、傍点勝部)搾取や抑圧というマルクス経済学の概念は、前近代的な方法なのか、先進資本主義国では現在、資本による搾取が行なわれていないのか。マルクス主義のABCにかんする、こうした指摘は、揚げ足とりとなる恐れがあるのでこのへんに止めたい。しかしこれに類するマルクス主義の経済学および政治学の初歩的知識に首をかしげたくなるような用語や論点はさきの「反体制労働運動とは何か」に無数に存在する。ヤクザ映画の讃美、「勝った負けたを言うではないぞ」、「全力でやった」ことをわかってほしい、という甘ったれた心情吐露から始まって、ベトナム、アメリカの黒人、日本の沖縄、部落、欧米の学生、チェコの人民の六つだけに世界の「反人間的な抑圧に反対して真正面から闘っている部分」を限定する、非科学的断定など、文句のつけたいことは山ほどあるが、きりがないのでこのへんで止めておこう。
 要するにふたをあければ、たわいない総括であった。だからその具体的戦闘的再生が現在なお「学者評論家」に依存する小サークルの研究集会を出ないのは当然であろう。

 結 語
 わたくしの日本構改運動にたいする総括は、すでに軌跡(本誌第五号)と各グループの総括の批判の中で展開しているので、繰り返す必要はあるまい。
一、理論において、構改論を社会主義革命論として全体的に把握すること、二、この理論と実践との間にその媒介項として運動学をうち立てること、三、したがって運動の指導主体-「新しい党建設」の問題と意識的にとりくむこと-これがわたくしの結論である。
 新左翼は玉砕し、社会党は社民に徹し、共産党が革命ぬきの議会主義的「構革主義」に右傾化し、日本構改派小グループがすべて四散している現在、なお現実は、正しい指導を欲している。この雑誌自体、同人全体がこれからとりくまねばならないのは、それぞれの分野における構改理論の運動学の構築と運動指導センター(「新しい党」の萌芽)の建設であろう。これはまた別のテーマに属するので、一応小稿はここでうちきる。

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「統一」会議諸Gの残慮なキャンペーンに忠告する。(民旗93号)

1971年12月 「統一」会議諸Gの残慮なキャンペーンに忠告する。(民旗93号)

民旗 第93・4号 1971年12月10日 (全文PDFはこちら)

成果ふみ固め、全国委の旗の下 さらに全国学友の先頭に起とう!
                              全国委書記局

<「統一」会議諸グループの浅慮なキャンべ ーンに患告する>

●同盟の現在、闘いの前進

 われわれ民主主義学生同盟は69~70年の激闘の中での一部の脱落をも発展のためのバネとして、大きな成長を遂げている。「軍国主義強化反対」の旗を高らかに掲げた大衆運動の全面的展開とその真只中での組纖の全国的建設を着実に達成して来ている。今秋期のわれわれの闘いは、12回大会以降の全国委ー地方委一支部委にいたる民主集中性に賞かれた組織確立強化、各園における闘争委確立、大衆化ークラス運動の全面的展開の成果を収約し、 「自治会運動の掌握確立」に向け大きく前進しようとするものであった。 われわれはその課題を、10.21阪市大Cスト、11.19神大Cスト、阪大Dスト、11.24岩大Cストを比類のない大衆性において構築することによって11.15~16の1000の全国結集行動の展開、そして現在における名工大、京大C自治会選挙における民青派との真正面からの対決を貫く中で成功裏に達成して来ている。 そして新らたな可能性を手にしている。こうしたわれわれの強固な全国的成長の過程は、他面当然のことながら官憲、他党派の敵対、妨害との敢然たる対決の過程であり、それと原則的な態度で対処することなしには有り得なかったし、現在においてもそうである。 こうした実践的立場にあるがゆえにわれわれは、「統一」会議を仮称する諸グループの一部「指導部」の行ったこの間の一連の反「民学同」キャンペーンを確かに「かすかなもの」であるが許し得ない、すなわちそれが、内容以前の、少しとも闘う者の態度からして当然の節度を欠いたものであり、同時にそれが善意ある若い活動家を不幸な誤りに導びいているからである。 以下、簡単にその誤りを正し、忠告するものである。

●12回大会の論争点
 今彼ら一部「指導部」は、われわれの立場を「ゲバルト路線」 (デモクラート二四号)と規定しあたかも12回大会以来、実践的検証を求められていたものが、その点にあるかのごとく論争点を悪く単純化している。 こうした態度は、「…11.18阪市大学生大会にも…他大学生を動員し、革マル黒ヘルとの集団ゲバルトに持込もうとしている」 (11.18阪大「デモクラット」)と全く事実無根の予断と偏見に基く頻繁な悪宣伝が示しているように、善意ある活動家を無理やりに牛耳っている。しかし問題はそんな所にあったのではない。討論を真の姿にもどすために十二回全国大会で論争された主要な問題をここに整理しておこう。 主要な論争点は第一に政府独占の大学の帝国主話再編の攻撃に全学協の確立を中心に、徹底した反独占民主改革の旗ー「全共闘」 Mの流行と代々木派民青の収集策動の中で最も求められていた-を掲げて闘うか、否か、第二に、佐藤訪米阻止を大衆運動の重要課題として取り上げて闘うか、否か、第三にその闘いを「課題と基本戦術の一致」を原則に全ゆる自治会、闘争委、実行委を貫く共同闘争として闘う-自治会の多くは崩壊、機能停止の中で原則的自治会運動の再建への最短の道-か否か、第四にその過程において「総評労働者(大阪においては反安保府民共闘の闘い)との連帯」を堅持し、実力阻止派に対する実践的批判を行なうか否か、学生大衆の層的決起のために闘争委(学生共闘、統一会議、平民闘委など)の確立、強化の具体的措置を積極的に功じて行くことの是非であった。 以上のことが全国学園闘争、69一70年安保闘争というとりわけ、同盟としての全国的結束、機敏な実践的対処を要求する中において論争されていたのだ。 それゆえそうした現実は「同盟は民主集中性をもって組織原則とする。 個人は組織に、少数は多数に従う。 少数意見を尊重し民主的に討論し、決定したら全員がそれを実践する」(規約第八条)を承認するか否かを一般的命題としてではなく、具体的場面において問うていたのである。「統一」会議指導部は一様に後者を、否をとった。 その後彼らは前記の五点の問題を不間に付すか、なし崩し的に手直しするしかなかったのである( 一例「〇〇〇」の闘争委の設置)。 「統一」会議の下に在る学友諸君!我々民学同全国委は、諸君がいずれにせよわれわれに処置され、わが同盟への非ぼう、中傷のみを任務とする「組織」に結集する限り、以上の五点だけでも自信をもって自らの立場を明らかにしうるまでに、明確にし総括する義務を当然負うと思っている。 また君達の「指導部」はその指導をやらねばならないし、諸君はそれを要求する権利を持っている。ところで諸君は知らされていたのか?、検討してみたのか?、理解したのか?

●今秋の彼らの態度 その意味・ 破産

 以上を踏まえた上で「ゲバルト路線」なるものを検討しよう。 少くともそれが論争されていていた中心的間題での彼らの原則的立場の主張ではないことは明らかである。 ところでその後退した地点でわれわれに対置したいわば最後の手段自身どうだったのか、「デモクラート」No24は、はっきり書いている。
 「十八日阪市大で起った学生共闘と革マルの内ゲバは、翌々日の市民を巻込むほどの市街戦に発展し…」「周辺の商店から角材、空ビンを盗み出し…」「京都においては、アナキスト集団とゲバ抗争を繰返し…」以上の宣伝は、そもそもこうしたことを取上げる態度においてもまた、誤りがあり、第二は事実の誤認、事態に対する自らの態度表明の欠落という二重、三重の誤りをおかし、しかしそれを現実に行なった中でわれわれの組織とそれを支持する広範な学友にただではすまされぬ影響を与えているのである。
まず阪市大における事態の本質は革マル派・黒ヘルの10・16運営委に対する襲撃、10.18早朝の襲撃、10.20,21の彼ら、そして全く無関係な「赤ヘル軍団」を含めた、活動への襲撃、スト破壊、官憲のわれわれに対する恫喝と彼らに対する容認が示すように、革マル、黒ヘルの一貫した敵対にある。 京都のそれは、テロリストを使った官憲のわれわれに対する組織破壊策動にある。 テロリスト集団は7.27以前は京大に全くいなかったしそして10.24以降も姿はない、これは何を意味しているのか?それは何より大阪市大京大の学友が最も良く理解している。京大民青さえ「学生共聞への黒ヘル攻撃は、ひとり彼らへのものではなく、民主勢力全体に対するものである……」と語っている。
 「統一」会議「指導部」の誤りは明らかではないか。 この間の彼らの饒舌の限りつくしたキャンペーンの一体何処に革マル派黒ヘル、アナーキスト、京部府警に対する糾弾(闘う者の前提)があったというのか、それどころか納粋の「反民学同」キャンペーンである。 ごれがそもそも「喧嘩両成敗」の域にも程遠い、気の毒な程稚拙(ことによったら悪質な)ものであることは心ある全ての学友に明らかである。 彼らは阪市大京都における事態の一体何程かのことを知つていたのか、今だに「内ゲバ」と言っているのは自分達と朝日新聞だけだということ(読売京都支社社会部は否を認めている)に気づいているのか。  この間の同盟は、官憲、諸党派、ブル新の恫喝聞込み追跡悪宣伝から大衆運動と組織を防衛し、強化、発展させて来たことを知つているのか、君らの悪宣伝の真只中で、不当な長期拘留を完全黙否で闘い抜いている学友がいることを知つているのか、軽率なことをするものではない。 責任は重大でもる。 あまつさえ、こうしたわれわれに 対し、リンチ、集会破壊を企てる(11・18、 11・27法大、11・19集会、11・ 24集会)とは何事か、こ
の大衆運動ぬきの「実力行使」ごそ君達が日夜呪いつづけて来た「内ゲバ」ではないのか。

●同題員の負う義務
 「統一」会議の下に在る学友諸君! 君達の「指導部」は自らの否を認めはじめている。 ただ残念ながら今一歩の誠意を欠いて責任の糊塗を計っている(11.26までに機関紙上で釈明すると誓いながら放棄し学園から逃亡している)責任は、われわれとの原則的闘争をねじまげ、真実を知る同盟員の権利を無視し、ひたすら勝手な「情報」を流し、諸君のエネルギーを泡費させて来た君達の「指導部」の階級的節度を忘れた官僚主義的態度にあるのだ。 今君達は「指導部」が全くの軽率さにおいてそうしたのか、ただひたすらわれわれへの敵意において流れたのか、それとも意識的に(官憲、他党派の圧力を借用してわれわれに党派闘争を挑む)そうしたのか、どちらなのかの疑間の中に立っている。
 「指導部」の態度が前者であるなら徹底した自己批判が必要である。後者であるなら、われわれは正当に組織を防衛するため、あらゆる手段を準備せねばならない。いずれにせよ、彼らの態度は見逃がし得ない悪質なものであることは明らかである。 それを明らかにするか否か、「統一会議」の存立とそこへの結集それ自身が合わせ間われているのではないか。まさに「地獄への道は善意に敷きつめられている」のだ。 忘れてはならない。  君達の態度が民青の反トロキャンペーンといささかも違わず、「暴力はただだだファシズムの温床となるだけである」(阪大デモクラット、11.9)というとき、「全共闘はネオ・ ファシズムである」といった民青派(京大経済学部班)の態度と醋似していることを。 われわれ全国委はこの機に、それを忠告し、諸君が善意をもって積極的に検討されることを期待している。 われわれ全国委員会は今秋期闘争の一切の成果をふみ固め全国160万学友の先頭にたって、さらに闘いぬくであろう。

1971年12月10日  同盟全国委員会書記局(※学生共闘派)

 

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【追悼】唯物論者・森信成さんの死(山本晴義さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

知識と労働第3号山本春義さん追悼文

  唯物論者・森信成さんの死
                  山本晴義

 一九七一年七月二五日早朝、突然森信成さんは死んだ。それはあのすさまじい精神的営為でわれとわが身を焼きつくしてしまったような死に方であった。戦後、民主主義科学者協会から唯物論研究会にかけて、ほとんど二〇年以上思想的にも政治的にも、終始親しい先輩であり、知己であったわたしには森さんの五七歳の死はたとえようもなく残酷である。しかしこの間、ただくる日もくる日も仮借のない戦闘性と強靭な思弁力で唯物論哲学の確立と普及、思想闘争、そのための組織(唯物論研究会)の強化に没入した、あのはげしい生涯は、わたしに詠嘆的な故人の感傷にひたることを許さないのである。ここでまずわたしは思想家森さんの生涯を語る言葉として、なんの購曙もなく次のマルクスの文章をあげることが出来る。
 
「科学への入ロには、地獄への入ロと同じように、つぎの要求がかかげられねばならぬ。
ここにいっさいの疑倶をすてなければならぬ、いっさいの怯儒がここに死ななければならぬ。ダンテ 『神曲』」(『経済学批判」序言)


 わたしが森さんを知ったのは一九四七年大阪民科哲学部会がYMCA会館で開かれたときであったと記憶している。当時民科大阪支部は内田穣吉さんが幹事長で、終戦後の大衆運動の噴出を反映して朝日会館ビル七階に事務局をもつ大組織であり、わたしは常任をしていた。哲学部会も常時三〇人は下らないという盛況で、当時もっとも中心的なテーマは、戦後思想上における最初の論争で、その後五〇年ごろまで論壇を二分し、大阪民科自体の内部でも完全に分裂していた、いわゆる「主体的唯物論論争」であった。この論争はその過程で部会の中に分会が出来、そこで一方は梅本克己氏、三浦つとむ氏や田中吉六氏ら「主体的唯物論者」の論文や本をむさぼり読み、他方はまた松村一人氏や甘粕石介氏ら「正統マルクス主義者」 のものをむさぼり読ふ、あらかじめ意志統一してのりこんでくるという程にまで熱気をはらんだものになった。これは文字どおり敗戦によって思想的支柱を失なった若い労働者や学生がマルクス主義のなかにいかに真剣に自分達の生活や道徳の実践的原理を求めているかを証明するものであった。結局この論争は後に森さんが指摘されたように 「正統マルクス主義者」自身が唯物論の原則を貫徹することが出来ず、いわゆる「社会革命」に対して「人間革命」を、対象的認識.科学的理論に対して全人間主体の真実を二元論的に対置する、それこそ正真正銘の実証主義に逸脱してしまったかぎり、部会をかさねるごとに反対に主体的唯物論をひきたたせるというふじめな結果になり、最後は、当時大衆のなかに存在した絶対の権威に乗っかって、主体性や人間を問題にすること自身、実存主義、観念論だときめつけたり、「小ブル修正主義」だという政治主義的レッテルを張りつけるだけで強引に終らせてしまった。そのかぎり六〇年代以後現在にかけて再び主体的唯物論の名のもとにアナーキズムが流行じ、他方森さんが最後の論稿「日共代々木派哲学批判」(『知識と労働』第ニ号) で徹底的に批判しているように、「正統マルクス主義」も現在相変らず実証主義を説き、なんのことはないこれら「二つの〇〇〇が互いに補い合い」、「引き立て」合っているのも、けだし当然のととなのである。わたしが覚えているのは、この民科での論争過程でまだ積極的な唯物論的解答を出すというほどまとまった形ではなかったが意志決定論の唯物論的原則を絶対ゆずらなかったのは森さんと北川宗蔵さんだけであったということと、それが 「正統マルクス主義者」も実証主義にずりおちてゆくという雰囲気の中で完全に孤立し、無視されてしまったということであった。それにこの間恐らく晩年の森さんを知る人にはおよそ想像できないほど部会における理論的発言が寡黙であったということである。もちろん、これは誰しも知っているように森さんが遠慮したとか、尻尾をまいたと言うことでは毛頭なく、また例の日常生活における八方破れの、すっとん狂な行動や、かけあい万才的会話は終生かわらなかったが、要するにこと理論的な問題に関するかぎり自分自身で確信ある解決がつくまで公的な場所では、徹底的に慎重であり、きびしかったのだ。へーゲル 『小論理学』 やフォイエルバッハの本をぼろぼろになってしまうまで読み、書きこみしながら、苦しみ苦しみぬいたあげく、五〇年初頭、論文「最近における唯物論の実存主義的修正について」(『マルクス主義と自由』合同出版、後篇第一章、第ニ章)が民科の雑誌『理論』に発表された。苦闘そのものがそのまま文章に現われているあの襖形文字のような原稿を見せてもらったが、当時のわたしにはその意義を理解することが出来なかった。 だがこの論文こそ主体的唯物論=実存主義的修正主義=「原始マルクス主義」に対する戦後はじめての本格的な批判であったし、のち実践と理論、党派性と科学性、自由と必然等々について尖鋭に展開されていった、唯物論的人間観の原理がはじめて積極的に打出された画期的なものであった。しかし戦前、戦後をつうじて日本の唯物論が果し得ず、たえず問いただされ、人民大衆からもとめられている 「空白」 に唯物論的解答をあたえようとする森さんの努力は、現在においても一部の人々をのぞいて理解されず、上の先駆的な論文も無視されたまま、朝鮮戦争、コミンフォルム批判、日本共産党の分裂という社会的激動に流されていった。これは戦後日本唯物論陣営の最初の敗北であり、しかもそれは決定的な意味をもっていたのだ。


 五〇年の朝鮮戦争と十一月末までに官民あわせて一万七〇一名に達するレッド・パージは当然大阪民科にも深刻な打撃をあたえ、事務局も大鉄局うらのうすぎたない通称「民科会館」 にうつらざるを得なくなった。ことに周知の「コミンフォルム批判」 にともなう日本共産党全党をあげてのすさまじい内争は、大衆団体ひきまわし主義や「理屈を言うな、要は実践だ」式の、理論論争ぬきの政策論争ぬきの倫理主義ー実証主義ー権威主義が圧倒していた当時、たちまち民科の運動を恐怖的な官僚体制のなかにひきずりこんだ。哲学部会だっていつも府委員会直属のなにがしというのが、すみで一言も言わずにメモをとり、すこしでも中央に批判的な発言でもしようものなら「ニ心者」だ 「裏切り者」だ 「おかしい」という風評がいつのまにかたてられ、あげくのはてはスパイだと抹殺されるという調子であった。 われわれにとって不幸であったのは、あたかもこの頃『整風文献』や毛沢東の『実践論』 『矛盾論』 がわが国に紹介されてたちまち民主主義陣営を風魔し、当然この段階、哲学部会の中心的なテーマになったということである。なぜならのち中ノ論争のなかで森さんがはじめて公然と批判した(『毛沢東「矛盾論」「実践
論」批判』刀江書院) ようにこれこそ当時の精神主義や経験主義、それに 「五一年テーゼ」 が「劉少奇テーゼ」 にしたがってわが国の戦略的課題を中国と同様後進的な「反帝反封建」と規定し、わが国民主主義勢力をとりかえしのつかないブルジョァ民族主義や武装蜂起・極左冒険主義にひきずりこんでしまうのに、まさに国際的な理論的権威を与えるものであったからである。息がつまるような状況のなかで部会の出席者も激減し、討論らしい討論もできなくなり、森さんも一度戦略問題にふれた激越な論争をやって席をけって帰ってしまったことをおぼえているが、部会では全くといってよいほど発言しなかった。主体的唯物論論争で森さんが到達した理論的水準からすれば『実践論』 『矛盾論』の欠陥はいたるところ眼についたにちがいなかろうし、批判することも容易であったろうが、「ともあれ、理論外の理由からくる事柄の困難さが毛理論の批判的検討を意識的、無意識的に回避させてきたことは否定できない事実である」(同上、 一〇四頁)。こうして大阪民科は理論的にも組織的にも実質上破産し、大衆から浮きあがってしまった。
 一九五五年から五六年にかけて、丁度五四年の小由切秀雄さんの有名な論文「人間の信頼について 立場を超えた協力のために」を皮きりに「思想上の平和共存論」がもりあがっていたころ、わたしが雑誌や学内誌にプラグマティズムを現在の最も代表的な帝国主義のイデオロギーだと論じ、またマルクス主義との折衷を考える 「思想の科学』研究会の動きはプラグマティズム的修正主義だとして、その理論矛盾をついたことは、森さんの拍手をうけた。森さんとの個人的接触ははじめて知り合って以来ずっと続いていたが、このころからあけすけな政治上、理論上の議論が昼となく夜となく何日もつづくというようなことが多くなった。それは唯物論研究会をつくってゆく過程でもちろん頻繁になり森さんの強引さやわたしのねばりにお互いに辞易しながら、しかしわたしにとっては、それまでわたしがひきずっていた実証主義的傾向や戦略的視点の動揺が次第に克服されていった過程であり、この間森さんから教えられたものにははかり知れないものがあった。
 

 森さんの理論活動、組織活動が満を持していたように思想界の前面におどり出しはじめたのは丁度「六全協」を境にしてであった。その頃民科は中央の方針で全国的に解散してしまったが、大阪支部の哲学部会だけは、この不当さに執念のように抵抗した小松摂郎さんの貴重な努力で、メンバーも一変し、むしろ京都民科の人々も参加して進歩的な哲学者の統一戦線の場として復活していた。しばらく近よらなくなっていた森さんもわたしもふたたび精勤に出席するようになったが、またこの頃から別に唯物論者の研究会をもつようになってていた。大阪唯物論研究会を正式に結成したのは五七年十一月であったが、 そのものずばりの白熱した討論が行なわれる
につれ、今や森さんは子供のように得意であり、また水を得た魚のように精力的であった。その成果は戦後の日本共産党の戦略路線の誤り(解放軍規定ー反帝・反封建規定)から、例えば石母田正氏の 『歴史と民族の発見』(東大出版、五二年)に代表される、それこそ唯物論のABCを否定してしまうブルジョア民族主義的偏向が蔓延していることに対する痛烈な批判(『史的唯物論の根本問題』上掲、第二章、第三節参照) となって現われたし、ことに 『前衛』(五八年七月、八月) に発表された論文(同上、序論および第一章参照)は、かかる戦略規定の誤謬が、かんじんの敵、日本独占資本のイデオロギー (実存主義やプラグマティズム) との思想闘争をおこたり、逆にありもしない半封建的な天皇制イデオロギーと闘争するための同盟軍として、いわゆる「思想上の平和共存」を一貫して行なってきたところに戦後わが国唯物論陣営の敗退の原因があったこと、民科は一方そのような組織として機能したとともに、他方唯物論者が自己の課題をそこに持ちこもうとしたことによってセクト主義、政治主義的偏向をひきおこし食いつぶしてしまったことを指摘したのは痛切な体験にもとづく戦後唯物論の総括であった。そしてそこで提起されている断乎たる唯物論の原則の貰徹と発展、わが国独占のイデオロギーと氾濫する修正主義との思想闘争、そのための民科とは別個の唯物論研究会の結成の呼びかけは、その後の唯物論陣営の戦略地図、課題を明確に示したものであった。もっとも当時は五六年の 「スターリン批判」やハンガリー事件があり、わが国の思想界はあげてスターリン批判の名のもとにマルクス主義そのものを攻撃し、従来マルクス主義への接近をはかってきた良心的な実証主義者、否マルクス主義者自身の中でも、スターリン主義=教条主義=一枚岩主義という公式のもとに唯物論から多元論あるいはアナーキズムへ「発展」・離反してゆく潮流がうず巻いている時であり、われわれの課題は重大な決意を必要とした。第一、五七年から五八年の間は日本共産党の内部において、おそらぐ戦後はじめて公然たる民主的な論争が保障された瞬間であったが、それでもこの森さんの論文を載せるのには森さんもわたしも、しまいにこちらの神経がまいるほど何回も要求し、抗議したすえにやっと「研究と討論」欄というところにのるという状態であり、しかもこの民主的な思想論争も文化部長蔵原惟人氏の「思想闘争の課題を観念論か唯物論かで評価するのは間違いだ」というとてつもない総括論文(同上、結語にかえて参照)で打切られるという始末であったのだ。しかしわれわれは意気軒昂であり、あの筆不精の森さんは連日のように東京の大井正さんや下関の三井田一男さんや札幌の岩崎允胤さんらと文通、相互連絡をつづけ、かくして全国各地のもりあがりのなかで五九年六月日本唯物論研究会がついに発足したのだった。この時点から森さんは名実ともに唯物論陣営の第一線にとびだした。
 すでにあたえられた枚数が超過した今、その後の日本唯研における、また大阪唯研における森さんの活動を追想する余裕はない。 しかしわたしがここでとりわけ民科から唯研結成までの過程を中心にのべたのは、 一つは民科時代の森さんを知る人が現在案外少ないという事情とともに、まさにここにこそ森さんが、なぜ生涯唯物論の原則の擁護と発展をかたくななまで主張しつづけたか、なぜ唯物論研究会の設立と強化に心血をそそいだのか、なぜ日本唯研結成後たとえば『唯物論研究』 の 「創刊のことば」をめぐる激しい論争(『毛沢東「矛盾論」「実践論」批判』に付録として所収)にも示されているように、また全国委員会の度ごとに、主観的な「党派性の承認」に執勘に抵抗し、言論と表現の自由の保証を人類の至上の権利として要求しつづけたかの理由があきらかになると思ったからである。
 しかしこの『唯物論研究』も六五年理論的次元での対立を理論以外の力で、端的に言えば編集委員関戸嘉光さんが報告されているように、その 「編集方針・編集内容が日共にとって好ましくない」 (『唯物論研究」ニ三号参照)という理由で実質上廃刊させられてしまった。日本唯研も現在危機的情勢のなかにあり、つぶされようとしている。くわえて前述したようにわが国民主主義勢力の現状は 「アナーキズムは日和見主義(民族主義、議会主義)的罪悪に対する一種の罰だ」、というレーニンの規定どおりの形をとっており、両者の思想的支柱になっているのは実証主義である。という情勢の中での森さんの死はわれわれにとってたしかにとりかえしのつかないものである。だが森さんはわれわれにこれらの偏向や修正主義と闘うためのテーゼをその生涯をつうじての苦闘のなかで残した。また森さんは大阪唯研創設以来まったく私生活を放棄して、大阪唯研の中に若い学生や労働者、研究者をそだてあげた。森さんの生命は今これらの諸君たちの中に確実に、びくともせずに脈打っている。その生命はたとえ周囲がどのように動とうと決して絶えることはないであろうし、また絶やしてはならないのである。(一九七一・九・四)
 
 

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【追悼】助講会のころ (横田三郎さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  助講会のころ
               横田 三郎
               
               
 森さんを私が初めて識ったのは、今からもう二〇年近くも前の昭和ニ七年のことである。当時市立大学は杉本学舎が米軍に接収されていて、私たちは八幡筋の南綿屋小学校に仮偶していた。 三月初めの入学試験に私は試験監督をやらされていたが、交替で煙草を喫みに廊下へ出たところ、隣りの教室からも煙草を喫みに出て来た人物があった。それは、およそ大学の教師というイメージには陰ど遠い、ジャンパーに草履といった姿であった。 それが森さんだったが、その時は互いに名前を知り、入試監督という仕事をボヤイただけに終った。その後約一年して学舎が旧靭小学校と明治小学校に移ってから、文学部の助講会の結成、歴史学教室事件、学部民主化闘争、助講会の教授会参加、教授会の各種内規と審議原則の民主的確立へと続く過程で、私は森さんと急速に親しくなっていった。そして、それら一連の民主化闘争の過程で、文字通り終始先頭に立って指導していたのが森さんであった。
 当時の文学部は、教授と助教授とで教授会が構成されており、教授会がどのような問題に取組んでいようと、助手や講師には、人事で直接関係が生ずる以外には全く無関係だと考えられていた。市大全体が、新制大学として発足後数年にしかならず、おまけに小学校に間借りをしている不便さもあって、研究教育の面でいろいろの苦労を忍ばねばならなかった。しかし、その反面、伝統の欠除と管理の未整備によって、個々の教員や学生にとっては現在よりもずっと自由に感ぜられていた。その上、文学部の教員は旧商大とは無関係であったので、教員間に師弟関係がなく、そのため、子弟関係から生ずる教員間の不合理な義理人情とか悲哀といったものは存在しなかった。従って、私も含めて講師と助手の大半が、教授会という大学自治の基本単位から排除され、自治権を奪われていることに問題を感ずるよりは、寧ろ逆に、教授会出席の義務や、その中での諸委員活動からまぬがれて研究し得る自由を楽んでいたといえる。週に二日か三日研究室で時間を過すだけで充分であった助手、それに、僅かの講義時間と月に一、二回の教室会議に出席するだけが義務であった専任講師とは、隣接の教室以外にはほとんどお互いに知らないといった有様であった。私が森さんを知ったのも、私が助手として市大に勤務し始めてから丸一年目に、それもすでに述べたように全く偶然の機会にそうなっただけなのである。
 このような「実感的」自由の中には、学間と思想の自由を擁護する思想と態勢、自治の意識と民主主義が欠除しており、一度問題が発生すればその「実感的」自由は直ちに破綻することを、森さんは鋭く感じとっていた。 そこで、森さんは助手と講師の一人一人を説得してまわり、その結果、文学部の助手と講師の全員が加盟する文学部助講会が発足した。しかし、当初は、全員が交互に各自の専攻分野の研究成果の発表を行い、それを中心に討議をし、併せて親睦をはかることを目的としたのであって、大学の自治とか民主化闘争の主体として自己規定をしたわけではない。けれども、月に一回程度もたれたとの研究活動によって、それまで互いにバラバラで、無関心であった助手と講師の全員が、一つの集団にまとまる基盤が作られていった。 そして、その組織と活動が後の民主化闘争の母体となるのである。その頃、歴史学教室の中で、二、三人の教員による人事の墾断、助手の人権侵害という事件が発生し、それを契機に助講会は単なる親陸と研究の会から、民主化闘争の強力な組織へと質的な変化をとげたのである。しかし、その変化は、問題の発生によって自然に行われたわけでは決してない。歴史教室内部の特殊な事件に含まれている一般的な問題を明るみに出し、それを助講会全員の研究の自由、権利の自覚に結びつける森さんの強力な説得活動がなければ、その事件は、 一部の同情を得たにしても、恐らく局部的なものとしてウヤムヤに処理されていたであろう。 この事件が発生してからは、森さんは自分の家庭とか個人的な事がらはほとんど全て放棄して、物凄いエネルギーで説得活動に当った。そして、助講会も新たに代表幹事や規約などを決めたが、重要なことは、会の決定が多数決でなく、全員一致を原則としたことである。これは、全ての重要事を説得と納得によって決定すべきだという森さんの強い主張が容れられた結果である。実行不可能にすら思えたこの原則が実際には、会の分裂と会員の無関心、一部の者の請負いといった惨めな状態を未然に防ぎ、全員を積極的に事に当らせるようになった。 それに、困難な状態の中で、依拠すべき外面的権威は何一つなく、思想も信条も異るインテリの集団が主体的、積極的な統一行動を行おうとする限り、徹底した討議を省略した多数決による形式的決定は避けねばならない。けれども、当然のことながら、全員一致の原則を実行するには、次々と必要になる重要な決定に当って、全員の出席と全員の徹底した討議が不可欠である。 そのため、刻々変化する情況に即応して、森さんを先頭に幹事たちは、速達便、電報、電話(当時は電話のある者が非常に少なかった)で全員に召集をかけ、事前に説得の必要があるばあいには、会員の家にまで出かけた。 とうした或る日のタ方、大阪の私の家へ京都から森さんがやって来た。明日の会合以前にどうしてもS講師をもっと説得しておく必要があるので、一緒に彼の家へ行こうという。それでタ食もとらずに二人で出かけた。芦屋で電車を降りた途端に雨が降り出したが、タクシーを拾う余分な金は二人とも持合わせていない。どしゃ降りの雨の中を散々探してS講師の家にたどり着いたのである 。
 このような努力のおかげで、当初一部に見られた無関心、非協力や、途中で何回か起る動揺もほとんど克服され、分裂の危機は一度も経験せず、順調に闘争は成果を挙げていった。そして、その成果によって全員の意識が一層統一され、初めの悲憶感は楽天的な気分に変って来た。 そうなった段階ではもうそれぞれが自発的に個性を発揮しながら統一した目標に向って進んでいくものである。主として教授会交渉に当る者、声明文案を作る者、ガリ版切りやビラ書きをする者、資料や記録を整理、保管する者等々。
 こうして学部の民主化闘争は成功の中に一応の終結を迎え、やがて助手以上全員の教授会参加と教授会内規の民主的な制定へと向うのである。
 この過程で、森さんは実質的に唯一人の、しかも極めて誠実な指導者であった。自分の身は安全な所においておき、主観的な情勢分析に基づく無責任な指導を与えながら、万一成功すれば自分の功に帰し、朱敗の責任は実行者に押しつけるといった、よくあるタイプとは全く異っていた。森さんは成功のたびに子どものようになって皆と喜び、それをもたらした各人の行為を何度も繰返し賞賛していた。失敗した時には卒直に自分の否を認めて皆に謝まったものである。そしてまた、誰もが知っている森さんの人の好い性格も遺憾なく露呈された。原則上の問題では一歩も譲らず、そのため討議の中で相手を怒鳴りつける場面もあったが、逆に非本質的だと思われたことを森さんが無視して皆から吊し上げられ、 「もうわかった。 わかった。もうそんなつまらんととどうでもええやないか」 とやって、再び批判される場面も再三あった。森さんのマルクス主義と唯物論の理論、民主主義と科学の立場というものは、民主化闘争の展開に実際に適用されただけでなく、文学論や社会科学の方法論といった形で助講会のメンバーに披握された。 私自身がフォイエルバッハやプレハーノフ、それにドブロリユーボフやチュルヌィシェフスキーなどに注目させられたのもそのような過程においてであった。しかし、助講会のメンバーは、森さんのそのような勝れた理論とその指導性を認めると同時に、それを森さんの日常生活との矛盾、森さんの思想の中にある新しいものと古臭いものをはっきり見てとるととができた。現在のわれわれの社会では誰でも持っているそのような矛盾は、しかし、普通には多少ともスマートな「分別」によって公然化するととが防がれている。 そういう「分別」を森さんはほとんど働かさなかった。また、森さんは、「某々は仲々の策謀家だ」とほめたり、「敵を欺くためには味方の一部も欺かねば」などと言いながら、丸きり策謀などはできず、森さんの行動の軌跡は丸見えであった。
さらに、昨日皆の前で罵倒した相手と今日は何のしこりも残さず話ができたのも森さんであり、そのため、かえって相手が驚くのが普通であった。このような行動様式は教員間のみならず学生に対しても全く同じであった。私自身このこ十年近くの間、理論的には常に指導され、九才も年下でありながら、恰も対等の友人のような口をきき、面と向って激しい批判を加えたりできたのも全く森さんのそのような人柄による。このような森さんを失った痛手はむしろ日を経るに従ってじっくり味わわされるであろう。

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【追悼】森さんの死を悼む(吉村励さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森さんの死を悼む     吉村 励

「森さん、ばかだなあ、どうして、だまって急にいってしまったんだい。」 もう世界を異にしてしまった森さんに語りかける言葉としては、これは不謹慎な言葉かもしれない。 だが私の心の中の本当の言葉は、これでしかない。 そして私は何度、山にむかって、林にむかって、海にむかって、またくれなやむ空にむかって、深い吐息とともに、この言葉をくりかえしたことだろう。私が持病の背椎分離症の発作をおこして、今年六月の大阪労働講座の代役に経済研究所の福田義孝君をお願いした時に、森さんは、つかれていたそうではあるが、まだ元気に聴衆にむかって語りかけていた。そればかりか、講座の後で、世話役のN君らとともに食堂に行って、天ぷらそばを二杯も平げたというそうである。 へばっていた私が、この悲しい文を書いており、元気だった森さんはすでにいない。通夜にもゆき、葬儀の列に出席した後でも、私はまだ、森さんがどこかに生きていて、 「吉村、いっちょう相手になってやろうか」と、将棋盤をもって、現われて来るような気がしてならない (葬儀の後で奈良短大学長の内田穣吉さん、市大経済研究所の崎山耕作君と三人で、天竜寺周辺をさまよいながら、しめやかに森さんを偲んで語りあった時の三人の実感が期せずして同じであった)。
 森さんと私が、とくに親しくなつたのは、 一九五〇年初頭のコミンフォルム批判で、日本の言論界が大きくゆらいだ以後のことであった。それに続く悶々の日々、ともに酒の飲めない私達二人は、時には川合一郎、吉村、または、川久保公夫、森、吉村、または小野義彦、森、吉村、あるいはまた森、吉村だけというくみあわせで、パチンコの「はしご」をしてまわった。歴史学会に出席のため上京した時、川久保君と私が車中で将棋をはじめ、終ったのは豊橋すぎで、あきれた森さんが 「おまえらの将棋は、序盤から中盤に行って序盤にもどる。だからきりがないんだ」と、玉のかこいかたを教えてくれたのも、この頃であった。それから「おまえの将棋は大和のつるし柿だ。へたなりに固まっている」という悪口をいわれながら、将棋の交際はつづいた。 「手でさすよりも口でさす」といわれた悪口の名人の森さんも、すでに私の 「上達」 については、あきらめていたようであった。その間一九五六年の「経済白書」 での 「もはや戦後ではない」との声明、 「一九六〇年の安保闘争」、安保以後の高度成長一九六八、九年のいわゆる「大学紛争」と時代が変わり、その間にスターリンの死、フルシチョフの秘密報告、ハンガリー事件、中ソ共産党の分裂、チェコ事件というような諸事件が頻発した。このような複雑で多岐な現象にたいして、森さんは常にマルクス主義の原則にたちかえって、ことを判断しようとしていた。森さんのもっとも嫌ったのは、修正主義であり、とくに官僚主義であった。哲学者として、彼は自分で考えることをとくに強調した。それゆえにこそ、彼は、自分で考えることをせず、新聞や小冊子だけの知識で、組織の権威を背景にして発言される言葉にたいして、本能的な対立と生物学的な反挽を示した。
 森さんは、常に自分で考えていた。森さんは歩くことが好きであった。歩くのが好きなのは、考えるからであった。森さんは書斎で思考するのではなくして、歩くことによって、思考していた。従って彼は間違いであっても、自分で考えぬかれた思想にたいしては寛大であった。 しかし彼は、思想の一部を統制や権威によって補足する官僚主義にたいしては、終生の敵であった。ある意味で、 『史的唯物論の根本問題』(青木書店) 以降の森さんの労作は、思考の怠惰と官僚主義、修正主義の克服にむけられていたといえよう。
 森さんは討議を好んだ。将棋の後、散歩の途中、喫茶店でコーヒーをのみながら、彼は討議を好んだ。 民主主義については、われわれは何度か激論をかわした。他のことについては、激論の後で、 一定の冷却期間をおいた後、両方がほぼ同じ結論に達するにもかかわらず(大学問題がピークであったころ、学生部委員会では、森さんと私の意見が常に対立した。森さんと私の間が、最も険悪であったのは、この頃である。しかしそれでも、すでに一九六九年の六月以降では、ほぼ同じ意見になっていた。)この問題だけは、不一致のままに終ってしまった。しかし森さんは、大体私の書くものを前もって知っていたし、私もまた森さんの書くものを前もって知らされていた。 レヴィットの一原始マルクス主義批判をはじめとして、哲学の領域で森さんの残した仕事は大きい。 しかし私は、もっと森さんに生きてもらいたかった。森さんの仕事はまだまだある筈だし、森さんはまだ五七歳にすぎなかったからである。われわれは、日がたつにつれて、質素で朴納で放浪家の哲学者がいなくなったことのいたみと悲しみを、多くの領域で強く感じるととだろう。くしくも、この文を書いている時、 キール→ヘルシンキと旅行中の共通の友人・真実一男君から、森さんの急死をいたむ葉書がついた。昨年の年末、文闘委が文学部教授会を急襲した因縁あさからざる嵐山の 「花の家」 で三人で徹夜して将棋をたたかわした真実君にとっても、森さんの死は 「青天のへきれき」 であったのだ。「森さんの急死、いくら考えても不条理だ。良い人間が死んで悪い奴が残る。」そして 「人の訃をきくやキールの秋時雨」の一句が付してあった。ロの悪い割に、内気ではずかしがりやであった人柄にふさわしく、こっそりとしかし風のようにさった友人の冥福を、今はただ心からいのるのみである。

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【追悼】森信成の哲学思想

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森信成の哲学思想

            田中 はじめ 上田 三郎

「富と権力を持たない人民の現在におけるただーつの思想であるマルクス主義の力、その力の唯一の源泉は何であろうか。それは思想の力であり、理論の力である。もしマルクス主義が思想においてアイマイであり、理論において不確かであるとするならば、それはマルクス主義と人民にとって何を意味するであろうか。」(『史的唯物論の根本問題』はしがき)

 森信成氏はその生涯を、反動イデオロギーと修正主義に対する非妥協的な闘いに、そしてマルクス・レーニン主義哲学のエネルギッシュな啓蒙活動に捧げた。彼こそ、戦後日本を代表する戦闘的唯物論者であった。

 戦後の日本におけるマルクス主義の根本特徴は、主体と指導の側の思想的混乱のために、客観情勢の圧倒的有利さにもかかわらず、人民の政治的勝利、意識と組織の真の形成をもたらしえないでいることにある。氏はこのような時代によって提起された課題—-マルクス・レーニン主義の思想的・理論的原則性の回復とその貫徹—-に、哲学の領域において、誰よりも首尾一貫して取組んだ。「民科」における「主体的唯物論」への先駆的批判の時期からはじまり、五八年前後の党文化政策及び唯研創設をめぐる論争の時期、マルクス主義人間観の理論的展開と解党主義批判の時期、中ソ論争に呼応した毛沢東哲学批判の時期、そして、晩年の、コージングおよび日共(代々木派)の公然たる哲学的修正主義への批判の時期にいたる氏の活動の足跡は、何よりも雄弁にこのことを物語っている。
 もとより、これら各時期の詳細な紹介をも含めて、氏の哲学、思想上の活動の歴史的評価のためにば戦後日本唯物論史が書かれねばならない。(森信成氏自身、ここ数年来、それの必要性を強く訴えてこられながら、ついにその仕事を果すことなく他界された。われわれはこの遺志をうけついでぜひその実現のために努力しなければならない。)本稿の目的は、今後、われわれが氏の遺産を受けつぎ、思想闘争を展開する上で、共通の原則となるべき理論的遺産のいくつかを確認するにとどまる。氏の努力にもかかわらず、日本におけるマルクス主義の思想的混乱は一層深刻化の様相を呈している。否、われわれは、真の原則的立場が一時的孤立を余儀なくされている現実を卒直に認め、この混乱の克服のためにねばりづよい闘いをつづけてゆく決意を以下において表明するものである。

1 「思想上の平和共存」の拒否
 戦後のマルクス主義の根本的誤謬は、権力規定の誤りに必然的に照応して、思想闘争の対象—-戦後日本に支配的な反動思想を—一貫して誤って把握した点にある。戦後日本の思想的出発はきわめて複雑な様相を持っていた。周知のように、一九一七年のロシア革命をさかいに、マルクス主義が全世界的規模において思想的ヘゲモニーを確立したもとでは、小ブル主義やブルジョアイデオロギーですらもが、多くの点でマルクス主義的外観を装うにいたる。マルクス主義と独占体のイデオロギーとの厳密な区別や、修正主義の批判がとりわけ重要となるのはこのような事情に由来する。ところが日本の場合、このことに加えて、本来、独占体のイデオロギーにほかならない近代主義的自由主義(実存主義やプラグマティズム等)が、戦前においては天皇制イデオロギーによる弾圧を受け、しかもその一部はマルクス主義的外観をまとったという事情があった。したがって、敗戦による天皇制の崩壊にともなって、一方では、近代主義が支配的イデオロギーとして自立してゆき、他方では、近代主義者が大量にマルクス主義に接近するという複雑な過程を見極めること自身が非常に困難となった。戦後初期におけるマルクス主義のイデオロギー的混乱と困難さはこのような歴史的条件に起因している。しかし注意すべきは、この混乱がいつまでも克服されず、むしろ日本帝国主義の復活、強化にともなって、思想上の公然たる体制内化(「思想上の平和共存」)に継承されていったということであろう。
 五〇年以前においては、反動イデオロギーが「半封建的天皇制イデオロギー」と規定された結果、本来帝国主義のイデオロギーにほかならない実存主義やプラグマティズムが、単にプチ・プル思想=同盟軍思想とされ、この「同盟」に基づいて「半封建」に近代主義的「エゴの自由」が対置された。五〇年以降「反帝・反封建」が唱えられた際にも帝国主義イデオロギー(特にプラグマティズム)は アメリカによって持込まれた「外来思想」であることが強調されてプルジョア民族主義(「日本人として」)がこれに対置されてきた。そしてこのような近代主義的民族主義的階級協調主義は、共産党八回大会以降、現在まで基本的に受け継がれている。帝国主義はもはや「独自な積極的な思想体系を持ちえぬ(文化政策草案)という代々木派の思想闘争における対象喪失は、帝国主義イデオロギーとの闘争を放棄しこれに屈服したことの、逆立ちした表現である。かくて、戦後のマルクス主義は「思想上の平和共存」 (マルクス・レーニン主義の諸原則の放棄と階級協調)の歴史であると言っても過言ではない。マルクス主義を西田、サルトル、ウェーバー、フロイト等によって「補完」しようとする新左翼や、「異なる立場の人々」との「広い討論と交流」によって党の体質改善をはかろうとした解党主義(『現代の理論』グループ)、そして「民主主義哲学を築くこと」を目指した「民科」にはじまり、最近の古在由重・芝田進午の市民主義的、生産力主義的修正主義(主体的唯物論)にいたる代々木派まで、マルクス主義の思想的敗北の深刻さは、目をおおわしめるものがある。
 森信成氏は、このような事情のなかで戦後マルクス主義の思想的混乱をいち早く理論的に総括し、思想上の真の戦略的課題を呈示した(五八年)その際の大前提は、マルクス主義の権威の回復はマルクス・レーニン自身の高い原則性に基づいてのみ、はじめて可能であるということであった。そしてこのことこそ、氏の理論活動を貫く赤い糸である。

ニ 唯物論か観念論かの問題を理論と実践の全領域に貫くこと

 「思想上の平和共存」は、哲学の領域では、当然のことして、唯物論と観念論の対立を「より高い立場」に「揚棄」しようとする企図として、また消極的には、唯物論か観念論かの問題提起をセクト主義、教条主義と非難する傾向(蔵原惟人ほか)としてあらわれた。氏の全著作が哲学の根本問題である唯物論か観念論かに献げられていると言っても過言ではないほど、彼がこの問題にエネルギーを集中したのは、戦後唯物論のこのような事情に基づく。氏は、唯物論と観念論のあいだにはいかなる和解や統一の余地もなく「第3の道」(主体的唯物論)もまた、現代観念論の一形態他ならぬことを詳細に論証した。しかし氏は、従来よく行なわれた、論証抜きの「断種的発想」をもってこれを行なったのではない。氏は丹念に、エンゲルスの唯物論と観念論に関する命題の意味を吟味し、そこに即時的に含まれているいる全内容を積極的に展開し、マルクス主義への観念論の浸透の諸形態を批判の対象に即して具体的に示した。(1)非合理主義を根本特徴とする支配階級のイデオロギーは、当然のことして唯物論の非合理主義的解釈(観念論=合理主義、唯物論=非合理主義)を生みだした。これに対して氏は、窮極の原因を物質的なものに求める唯物論の見地が、意識現象をも含め一切の現象を必然性において把握することを意味すること、これに反し窮極の原因を精神すなわち必然性を根底に持たない自由に求まることは結局において「無からの創造」を説くことになる点を強調して、観念論と宗教および非合理主義との、そして唯物論と科学および合理主義との本質的同一性を明示した。(2)唯物論を「ありのままの把握」に還元する実証主義的修正主義(山田宗睦など) には、意識から独立な物質の本源性の承認を唯物論の根本規定として対置した。(3)主体的唯物論の「存在」(「主体物質」「哲学的もの」等)に対しては感覚的所与規程を対置し、無規定な、従って感覚に決して与えられることのないかかる「存在」は、唯物論の、明確な規定をもてる物質存在とは無縁なものであることを明らかにした。(4)唯物論か観念論かの対立を物か心かの二元的対立にすりかえ、両者共に悟性的一面的だとして、この対立を「弁証法的」に揚棄するという主張に対しては、唯物論も観念論も共に一元論であって、問題はどちらが本源的かという点にのみあることを強調した。(5)世界の物質性の承認の問題を世界の弁証法的統一性(物自体)の認識の問題にすりかえ、その結果、唯物論か観念論かの問題を弁証法(方法) の問題に還元する梯、ザイデルなどの見地に対しては、世界の物質性は実践的・直接的確証の問題であって媒介的論証の問題ではないことを明示した。また、史的唯物論に関しては、(6)戦後日本に支配的な上部構造決定論に対して、土台による決定の立場を貫き、一方で機械的決定論を排して上部構造の相対的自立性と土台への反作用を強調しつつ、この反作用そのものが土台による決定の範囲内における反作用であることを明示した。(7)史的唯物論における社会的諸関係の物質性を、その基礎にある生産諸力(労働力、労働手段、労働対象)の物質性にのみ求める主張(これは必然的に生産力理論に行きつく)に対し、社会の物質性の承認は、生産関係の形成・存立・消滅の法則自体が意識から独立であることの承認と結びつけられねばならないと主張した、など。

三 意志決定論の貫徹

 人間と自由の問題こそ、唯物論と観念論がそれをめぐって闘った戦後の中心問題であった。だが、まさにこの中心問題において、戦後マルクス主義は混乱と敗北を余儀なくされたのである。それは戦後日本のマルクス主義が、唯物論=意志決定論は人間から自由と能動性を奪い宿命論と安易な状況追随をもたらすという、根強い偏見を克服しえず、自らそれに感染してきたことに由来する。したがって自由(主体性)の問題に関して森信成氏は、意志決定論の貫徹を主張し、自由を必然性に基づけて把握する見地を、必然性を根底に持たない非合理主義的意志自由論に対置した。氏はヘーゲル、フォイェルバッハ、プレハーノフなどに依拠しつつ、非合理的意志自由論こそ、人間の自由行動の根底にある課題解決への意欲と明確な目的意識性、およびこの目的の現実的勝利の必然性への確信を与えるところの物質的必然性を奪い去り、それによって、ディレッタンティズムや無為主義、あるいは絶望的妄動主義を生み出すことを明らかにし、意志決定論のみが人間の自由が可能となる唯一の前提であることを証示した。すなわち、小プル的ハネ上りと挫折の思想的背景となったいわゆる「実践の哲学」が、そこから行動を導き出す超越存在(「人間そのもの」「実存」「本能」など)は、実はと直接的体験・気分、またはたかだかその二重化に他ならぬこと、したがってこういうたぐいの 「存在」 に忠実であること(「主体真実」)は、既成事実への無原則な追随とむきだしの主観主義・本能主義を意味すること、自由はそこにおいては悠意の自由に他ならず、主体性は無原則・無方向の単なる動物的自発性(闇の衝動力)に販められていること、等々。

四 「自然発生性への拝脆」批判と指導性の擁護

 このような自由の近代主義的把握は、政治的実践における、指導性および革命理論の拒否と放棄、体験主義と大衆追随主義に結びついている。戦後日本の前衛党が一貫して大衆追随と誤った政策の官僚主義的、セクト主義的押しつけという、指導というもおこがましい「指導」に終始してきたこと、さらに「実践・認識・再実践・再認識」という正真正銘の試行錯誤論にほかならない毛沢東「実践論」の学習を通じて、プラグマティズムの「実践」観がマルクス主義のなかに恐るべき影響をもったことと関連して、指導性、革命理論、意識性は全く不評判なものになりさがっている。われわれは、「一般情勢はマルクス主義で、具体的状況は実存主義とプラグマティズムで」という定式や、「かたい決定論からやわらかい決定論へ」という主張、「集団認識による全面認識」を説いて指導者の指導の責任を免除する集団認識論、さらには、『資本論』や一般に科学は革命の必然性を証明しえず、革命の必然性は理論の彼岸にある人間の主体的行動によってのみ実証しうるという「宇野理論」にいたるまで、このことに関する無数の事例をみることができる。
 意識性と指導性の決定的たちおくれと、それらにたいする「生理的拒絶反応」の一般化という情勢のなかで、森信成氏は「科学的革命理論と指導なしに革命なし」というレーニン主義的原則に立って、それの貫徹のためにねばり強い論戦を組んだ。この問題は哲学的には党派性と科学性、階級性と人類性、理論と実践の統一の問題として提出された。(1)党派性と科学性の問題に関しては、いかなる階級が客観的存在の矛盾の陰蔽ではなくその暴露に利益を感じ、またその逆であるのか、と問題をたてねばならず、また、虚偽意識としてのイデオロギーの源泉は階級性一般にあるのではなく私有財産の特定の形態とそれに基づく特権の絶化対にあること。(2)世界史の発展の必然性は、裸で現われず、資本主義社会にあっては発展する生産力要求を反映するプロレタリアートの階級的利害とその集中的表現たる政治的課題として現われること。したがって、理論と実践の統一とは、単に主観的にプロレタリアートの立場に立つことではなく、このような発展する現実(否定的必然性)の意識的表現となること、具体的には科学的政策・指導およびそれに基づく実践によって理論を思想化することであること。(3)そしてその際、具体的対象(発展する現実) の具体的論理の把握—-それに基づいてのみ科学的政策が可能となる—-は、労働運動における体験・実践から自然発生的には生じえず、社会の運動法則にかんする高度な理論的把握を必要とすること。それゆえにこそ、社会主義的意識や科学的政策は、労働運動の外部から労働運動の内部へもちこまれねばならず、指導性がそれの不可欠の前提であること、など。

五 民主主義の擁護と発展

 自由をめぐる論争のいまーつの焦点は民主主義であった。この問題に関する戦後マルクス主義の根本欠陥は、近代主義のいう「近代的」(実は帝国主義的現代の)自由(エゴの自由)と近代の民主革命期の自由(基本的人権と理性の自律)との間の根本的対立を把握しえなかった点にある。したがって、戦後マルクス主義は、一方では「現代」のもとに「近代」を理解して近代主義的自由主義に妥協し自らそこに転落した。しかし、民主主義=「エゴの自由の尊重」という近代主義的理解においては、万人がそこにおいて一致するところの真理と利害の客観的基準があらかじめ排除されているのだから、民主主義とは要するに多数決という「多数の暴力」「ゲバルト次第」に、また「少数意見の尊重」を理由にした「第二組合の自由」や反組織、反指導のアナーキズムにならざるをえない。他人の隷従を前提にしてのみ可能なこのようなエゴの自由の完成された形態はさにファシズムにほかならない。しかしまた他方で戦後マルクス主義は、近代の民主主義的自由に現代のエゴの自由を移入して、両者をブルジョア自由主義・個人主義名のもとに一括して、これにプロレタリア的階級性や党派性を対置した。これによって、階級の利益や党の利害の名のもとに民主主義を平気で蹂躙するという恐るべき極左主義・セクト主義に理論的根拠が与えられたのである。こうした見解は過去現在にわたって、緊急な課題として提出された民主主義闘争を軽視する日和見主義を合理化し、それを助長してきた。党外においてはセクト主義による大衆運動の破壊を、党内においては組織内民主主義の破壊をもたらしたことは周知の事実である。民主主義はこのように反動の側からも、マルクス主義陣営の側からも否定的評価をうけ歪曲されてきた。
 このような状況にあって、森信成氏が生涯かわることなく民主主義の真の本質を示し、その擁護と発展に尽力したことはわれわれすべての知るところである。民主主義は法の前の平等から経済的・社会的平等に進む論理的必然性をその中に含んでいる。近代の興隆期ブルジョアジーはその歴史的・階級的限界の枠内ではあれ、このような人類平等の革命的実現を掲げた。だが帝国主義的現代のブルジョアジーは自己の特権を擁護するため民主主義の公然たる破壊者として現われ、したがっていまやプロレタリアートが民主主義—-ブルジョア民主主義も含めて—-の継承者にして担い手となっていることを氏は強調した。だが同時に、民主主義とは国家でありその一定の政治的支配形態である。したがって氏はまた、階級的見地を超越して「民主主義」を考える日和見主義とも闘った。さらに、組織内民主主義に関しては、氏はとくに思想闘争の権利の不断の保障を強調した。民主的決定とは多数決—-これは行動統一の原理として重要な意味をもつが—-を意味するのではなく、その決定内容が基本的人権の保証と拡大を表現しており、かつ、客観的真理を科学的に反映しているような決定を意味する。氏が「思想闘争の権利こそは科学的真理が組織内に貫徹する唯一の通路である」(『マルクス主義と自由』9頁)と主張するのはマルクス主義にとって真理の基準は組織の決定や綱領の外部に、意識から独立な客観的存在のうちに横たわっているからである。

六 主体的唯物論批判

 日本における戦後の哲学的修正主義は「主体的唯物論」として結実し、今や古在由重はじめ日共代々木派をも含めて、巨大な潮流を形成している。森信成氏の「民科」における主体的唯物論への先駆的批判 これは実に二十三年も以前のことに属するが—-は、今やますますその意義が強調されねばならなくなっている。ここにその基本点を要約して紹介すると、(1)彼らは唯物論で言う意識(感覚も含めて)から独立な物質存在を、感覚と同一視し、それを無性格で規定を持たない実証主義的「交渉存在」に変えたあと、(2)実践主体としての人間—-歴史的、社会的、身体的に規定された、かつ目的意織的な—-を、合理的思惟を超越した非合理的感性・無規
定な能動性(実存)として把え、(3)ついでこのような主観客観の対立(これが彼らにあっては唯物論と観念論の対立と等置されるのであるが)を、存在論的存在(無)—-主客の根底にその未分としてあり、その能動的尖端が非合理的感性(身体)であるような—-の内に解消する。(4)この主体の実践がすなわち生産力であり、さらに生産関係をもまた感性(生産力)に対する自己意識的側面として主体の中に即自的に含ませ、(5)このようにして一切の客観的社会存在・関係を右のような「実存」の実践的自己疎外の所産として把握する。(6)したがって、社会の運動・変化は、結局、非合理的感性(無)が合理的形態(有)を破って行くという、不断の「無からの創造」と被造物のニヒルな否定の過程として把えられることになる。(7)以上のような主体的唯物論の主張の現実的・実践的意味は、第一に、生産関係を「自由」なる主体の自由な創造と止揚に基づけたことから、極端な主観主義的ハネ上りを生みだし、第二に、主観=客観のあいだにのみ「弁証法」的対立を見ることから、階級闘争を否定する生産力理論や技術史観を生みだし、第3に、生産関係を実践主体の自己意識に解哨したことから、政治的実践を観念的な「哲学者の実践」に還元するペダンティズムを生みだすことなどにある。

七 「自主独立」路線の哲学的帰結と唯物論の課題

 トロッキズムは日共代々木派の右翼日和見主義と分裂主義に必然的に伴う影であり、本体の理論的・実践的克服なしに影の克服はない、とは森信成氏の一貫した主張であった。われわれの印象に生々しい最近の論文「日共代々木派の哲学とルカーチ・コージングの哲学」で氏は再びこの問題にたち返っている。かつては森信成氏の民主主義擁護を修正主義と排撃し、氏の毛沢東哲学批判に対して「熱烈に」毛を弁護してきた代々木派の哲学者たちは、代々木が中共と手を切り議会主義と自主独立路線を歩みはじめるやいなや、掌を返すように、今度は正真正銘の右翼的、修正主義的「民主主義」(「議会制」民主主義)を「基礎づけ」、他方では毛沢東弁護論のなしくずし的修正(なかには高田求のごとく公然と自己批判する者もいるが、いずれにせよ歴史は抹殺できない)やっきとなっている。こうして、哲学的支柱を失った代々木派は今度は東独コージング派の主体的唯物論にそれを求めるに至った。すなわちコージング派の「弁証法的=史的唯物論」哲学を媒介にして、代々木派の主体的唯物論への完全な合流が実現したのである。従来、マルクス主義哲学のある種の権威とみなされてきた古在由重や芝田進午がいかにお粗末な模倣と屈服に終始しているかが、前記論文において徹底的に暴露されている。それは正に祖国防衛、議会主義の第2インター的ブルジョア民族主義と階級協調路線を公然と歩み始めたことに照応した、公然たる哲学的修正主義にほかならず、哲学上の体制内化である。
 なるほど、代々木派の主体的唯物論へのこうした屈服は、マルクス・レーニン主義と唯物論哲学の一時的な孤立を一層深めるであろう。しかし忘れてならないことは、森信成氏が強調しているように「最近のいちじるしい特徴はザイデル、コージングを媒介として両者(代々木とトロッキーズム)の本質的同一性が極めてはっきりしてきたこと」(「知識と労働」第ニ号七五頁)、従って逆に、修正主義をその原理においてあますところなく暴露、粉砕する条件か成熟しているということである。 「原則の領域では孤立を恐れてはならない」、これが森信成氏の信条であった。氏の著作活動そのものが示しているように、原則と理論の領域ではまさに、「我に足場を与えよ、然らば地球を動かさん」(アルキメデス)である。氏が戦後の困難な条件の中で築き上げてきた哲学上、思想上の遺産は開花せずにはいないだろう。後に残されたわれわれの任務は重いが、われわれはこの道を力強く進む。

 

 

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【追悼】遺志継ぎ前進しよう( 民学同統一会議)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  遺志継ぎ前進しよう
               民主主義学生同盟統一会議

 一つの欠くるところなき世界観であるマルクス主義の哲学たる弁証法的唯物論の、わが国における最も優れた哲学者にして革命的実践家である森信成先生が、去る七月ニ十五日未明、突然死去された。
 先生は、わが同盟の生みの親であり、その哲学理論は、わが同盟をささえる背骨であった。その名と人柄は、常にわが同盟の最も近しく、親しきもののーつであった。
 「富と権力を持たない人民の現在におけるただーつの思想であるマルクス主義の力、その力の唯一の源泉は何であろうか。それは思想の力であり、理論の力である。もしもマルクス主義が思想においてあいまいであり、理論において不確かであるとするならば、それはマルクス主義と人民にとって何を意味するであろうか。」 この『史的唯物論の根本問題』冒頭の言葉にはじまり、最近の、雑誌『知識と労働』における労作にいたるまで、先生は、その革命的情熱と透徹した唯物論思想(科学と民主主義)で、うむことなくわれわれを指導し、励ましてきた。
 意識現象をふくめて、いっさいの現象を、非合理的なものの一分子も含めず物質的必然性にもとづけて科学的に説明しようとするのが唯物論の見地である。この見地は、現存する矛盾解決の、手段と目的を、現実のなかにのみ求める。この見地は、われわれが発展する現実(新しい革命的必然性)の意識的推進カとなること、すなわち、具体的な、科学的な、革命的な政策やスローガンをうちだし、これにもとづいて行動することを命じる。この見地を貫徹するためには、われわれは、常に、いわゆる 「経験主義」 や 「革命的空文句」にもとづく「急進主義」と明確に一線を画さなくてはならない。

 森先生は,戦後一貫して、マルクス主義の歪曲と硬化に対して闘った数少ない理論家の一人であった。この歪曲と硬化の原因は、理論的には唯物論の見地の無視と放棄であった。これに対する先生の闘いは、決して平坦なものではなかった。先生の生涯は、論戦の歴史でもあった。日本の前衛党が、唯物論の原則を逸脱し、実感主義—合法則的な土台の科学的分析にもとづかない、上部構造決定論—政治主義 にはまりこんでいるなかでは、一時的孤立を余儀なくされてもきた。しかし先生の理論と実践の正しさは、マルクス主義の停滞と歪曲をもたらしたものに対する最大の敵であった。従来日本唯物論哲学の代表者と自他ともに許していた古在由重の理論も先生の批判の前にさらされたとき、それがマルクス主義とは異形の造物であることを隠しおおせなかった。
 先生は、その仕事を「季刊理論派」(主体的唯物論)批判から始めた。この仕事は日本のマルクス主義哲学の一大画期であった。また先生は、戦後日本唯研の創立者の一人であった。最近は、大阪唯研編集の雑誌『知識と労働』に熱筆をふるい、大阪労働講座で若い労働者にマルクス主義哲学思想を熱心に教育していた。特に若い労働者、学生は、先生の理論をむさぼるように学び、講演に耳をかたむけた。労働運動、学生運動に対する先生の献身的努力は、大阪の地を中心に全国各地に強固な根を張り、今や大きな幹として成長しつつある運動に、すばらしい結実を約東する不可欠の推進力であった。
 森先生の天折は、日本の革命運動、とりわけ唯物論思想界に一大打撃をもたらした。わが同盟にとっても消し難い痛苦である。われわれは偉大な先生の遺志を継ぐことが簡単であるなどとは思わない。これの至難なのは、われわれにとってのみでないことも知っている。しかし、われわれは、この継承、発展が無条件にわれわれの任務であることを認める。
 わが同盟は、先生の科学と民主主義の理論を指針として、学生運動を指導してきた。わが同盟は、全国学生運動の統一をはかり、世界と日本の平和勢力、特に巨大な労働運動と結合して、反独占民主主義運動の一翼を担うべく努力してきた。しかし、現実が要求する巨大な大衆運動の展開の重大条件である統一した運動を、恒常的に保証する組織的統一に対し、わが同盟自身、かならずしも十分ではなかった。現実の要求するところは、また先生の要求でもあった。
 先生は、死の直前まで、運動の発展のため、分裂に終止符を打つことを強調し、そのために助力をおしまなかった。わが同盟は、先生の助言に耳をかたむけ、率直かつ公正に組織統一の回復のため全力をあげなければならない。
 先生の死による今日の深い悲しみをわれわれは直視する。同時に、先生の理論と実践を指針とする、明日の運動の巨大な発展を、われわれは確信する。最後に、われわれは、先生の実践とその全著作に、時をうつさず、全面的に学ぶ作業を開始することを誓い、追悼の辞の結びとする。

一九七一年八月五日
(付記)これは民主主義学生同盟統一会議機関紙『デモクラート』昭和四六年八月四日号より諒解を得て、転載したものである。 (「知識と労働」編集部)

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【追悼】森信成先生の急逝を悼む(大阪労働講座)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森信成先生の急逝を悼む
                      大阪労働講座実行委員会

 森信成先生の突然の死は、我々を深い悲しみに陥れた。その日、大阪労働講座実行委員会のメンバーは、社会科学入門講座を無事終え、受講者とともに兵庫県香住の海辺に真夏の一日を楽しんでいた。しかし、森先生急逝の悲報が伝えられるや、我々はしばらくそれを信じられず、ただ茫然とするばかりであった。聞けば、大阪労働講座主催の社会科学入門講座が先生の最後の講演になったという。いま我々は、六月一七日の哲学コース最終回において、先生が、お身体の調子が余り良くないと言われながらも、あの張りのある確信に満ち溢れた話し振りで弁証法あるいは偶然と必然について講演されていたのを悲痛な気持で想い起こす。おそらくその時、すでに病気は先生の痩身を冒しており、先生は最後の気カを振りしぽって我々に語りかけておられたのに相違ない。
 思えば、先生は大阪労働講座のかけがえのない大きな支柱であった。労働講座の運営についても、労働者教育には労働者の意識水準の把握が大前提であることなど、しばしば貴重なご忠言をいただいた。こうして、1967年1月25日の桃谷における第1回連続講座から死の直前まで、我々は先生から限りない励ましとご支援をいただいたのである。いま我々は、先生に対して感謝の気持でいっぱいである。
 いうまでもなく、先生は、日本の生んだ数少ないマルクス主義哲学者のひとりであり、常にマルクス主義の原則性と党派性を擁護するための闘いの最前線に立っておられた。同時に先生は、マルクス主義を真に労働者階級の闘いの武器とするために、労働者のなかにおける啓豪活動がいかに重要であるかをカ説され、みずからも寸暇を惜しんでそれに精魂を傾注された。先生の戦後の出発が尼崎労働学校における労働者教育であったと伝えられているが、これは決して偶然の出来ごとではなかろう。その後、先生は、マルクス主義のさまざまの偏向とのきびしい理論闘争の最中においても、大教組、大阪唯研などにおいて熱心にマルクス主義の真髄を説かれた。
 我々が先生から教えられ、運動の指針としてきたことは余りにも多い。我々が労働運動のなかにおいてともすれば陥りやすい経験主義・実感主義を強く戒められ、我々を必然性の洞察—-我々の意識から独立の客観的存在とその発展法則の認識へと駆り立てられたのは森先生であった。また先生は、今日労働運動の内部に根強く残存している階級協調主義が運命共同体思想すなわちブルジョア民族主義と深い連関を有しており、その克服が急務であることをくり返し強調された。さらに、死の直前においては、一部左翼が労働運動を放棄し、市民主義・議会主義に転落しているその哲学的基礎を明らかにされ、我々が階級的視点を堅持するうえでの大いなる教訓を与えられた。
 いま、自本の労働運動は、世界資本主義の危機が深化するなかで、大きな転換点に立たされている。すなわち、労働者階級が激化する帝国主義間の矛盾に幻惑されることなく、先生の長年の主張であった—-社会進歩の基準=生産力の発展=労働者階級の要求にのみ基礎をおく強大な労働戦線を構築することが要請されている。この重要な時期に森信成先生を失ったことは、我々、ひいては日本労働者階級にとって計り知れない打撃であり大きな不幸である。しかし、森先生が、壮絶ともいえるその全生涯を賭けられた日本労働者階級の解放という大事業はなんとしてでも為し遂げられねばならないし、これこそが、ほかでもない森先生の我々に残された最大の任務であると考える。
 我々大阪労働講座実行委員会は、いまここに森信成先生の霊の安らかならんことを願うとともに、先生の生前の遺志を継いで、これに一歩でも二歩でも迫るべく、微力ながら全力をあげることを誓うものである。 (一九七一・九・二四)

 

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【追悼】森信成の死とその生涯(小野義彦さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

     森信成の死とその生涯

                     小野義彦


 われわれの親しい友森信成は、五十七歳という若さで、さる7月25日午前6時、阪大病院で突然死んだ。その少くとも半時間前、彼の体内で彼の生命を奪うほどの何らかの飛躍的異変が起り、一言の遺言を残すとともなく彼は死んだ。天性快活であけっ放しの才気にあふれていた日頃の彼とは打って変わったその最期の姿が余りにも強い印象として私の眼底に残っているので、まだ彼について書くのは早過ぎるような気がする。

 彼のあのように早い死は誰にも予想されていなかったので、病状の急変に気がついた病院関係者以外、彼の肉親者もわれわれも誰一人臨終に立会うことはできなかった。だが、われわれを驚かせ悲しませた彼の死は、その病死という厳然たる事実からふり返ってみると、必ずしも偶然ではなかったように今は思う。

 7月18日の午後京都大徳寺の済生会病院五階の彼の病室に、本誌編集部のM君とともに見舞ったのが、ついに彼との最後の出会いになってしまった。そのとき私は、一見して彼がひどく痩せて衰弱しているのにおどろかされた。六月末に市大の研究室で会って話したときにも、疲れているとは感じたが、そんなに痩せてはおらず、中国問題や学生運動のことなど夜九時頃まで語りあったが別状はなかった。 そのニ、三日前には 「大阪労働講座」 で長時間の哲学の講義もしていた。胃かいようと肋間神経痛の疑いというのにこの衰弱ぶりはどうしたのであろうかと訝って付添婦にきくと、患者がわがままで病院の給食をたべないからだという。そのとき森は付添に遠慮しながら 「喰えるようなものがないんや」 とつぶやいた。 四~五日間もほとんど何もたべていないらしいだけでなく、「右に寝ても痛いし、左に寝ても痛い、上向きにも寝てられへん」、「こんどのは前のと(彼は以前にも胃かいようを患ったごとがある) はちがう、桃山病院でとったレントゲンは胃は白やいうとるのやが」 ともらした。 それについては先の付添が重ねて口をさしはさんで、患者さんが胃カメラをのんでくれないので、はっきりした診断がつかんのですという。私はますます訝らざるをえなかった ものが喰えないのに、喰わないから衰弱するでは、いったいどうなるのか。私は医者ではないから、森の食欲が衰えている深い理由は判らないが、彼の病室の暑さの故もあろうと感じた。その病院は鉄筋ではあったが古い建物で冷房はなく、しかも森のベットは最上階の五階にあって健康な者でもたえられないほどに暑苦しかった。何とか冷房のある病院に移してせめて食物がロに入る状態にでもしなければ精密検査にもたえられないのではないかと思って、その場ですぐ彼に、自分の大学の病院で設備も新しい市大病院に移ってはどうかとすすめた。ところが彼は「市大病院はいやだ」という。なぜかときき返すと、どうも去る大学紛争中の医学部問題にとだわっているらしい。そんなおかしなことはない、紛争中、君は医学部の教授連の身代りになって監禁されひどい目にあったのだから大いばりで入院したらいいのだよ、そんなことを気にするのは君らしくもない—-と説得すると、急に気が変って、「ではそうするか」 と案外すんなり移る気になってくれた(本人の意志なのだからと私は翌日早速大学の事務局をつうじて上等のベッドを予約してもらったのだが、この件は森を京都におくこと
を望んだ家族の同意がえられずお流れになった。)
 看護婦の注意で面会は30分位ということであったが、彼がもっといてくれというので、二、三日前に発表されたニクソン訪中情報のことなど話し合った。すると急にうれしそうな顔をして 「米中接近は反ソやろ、そやないか」とか、ドル危機の見とおしはどうやとか、「知識と労働」の3号にはぜひ続篇をかきたかったんだがこんどはムリやなァなどと、かなり努力して、時々私の耳を近寄せるよう求めながら語った。彼を刺戟しないよう簡単に合槌をうつ程度にして、まあ、涼しい病院にでも移って元気が出てきたら大いにそういう問題を話し合おうと話しを打切った。私が帰りかけると彼は、私がが見舞いに持参したグレープ・フルーツとサンキストのオレンジに手を延ばして 「それ絞ってほしいねん」と真顔でたのんだ。もし患者が飲めなければ御家族にでも位の気持でもっていった私がびつくりして付添婦にはかると、「患者さんはビタミンCのとり過ぎですよ、これ以上飲んでどうします。オシッコが臭そなるだけですよ」 と叱られた。何もたべられない人が欲しいといってるのだからと看護婦室にまでききに行くと、センイ質がないよう絞ったものなら構いませんという返事だったので吸い飲みにして口にふくませてやると、「うまい、うまい」 といって咽喉を鳴らしながら全部飲んだ。私はよかったと嬉しくなり、いろいろ考えたあげくこの見舞品がよかろうとすすめてくれた妻の助言に感謝した。

 森の予想外の病状とその病室の状況からしてこのままにしてはおけないと強く感じた私は、その日大阪に帰るとすぐ友人たちに電話して集まってもらい対策を協議した。その人たちの中には、唯研で森の教えをうけた医師の諸君もいて、翌日すぐ京都の病院を訪ねてくれることになった。彼らの判断は、 一、潜血反応が強陽性なので精密検査により早急に出血部位とその原因をつきとめる必要がある。 二、全身衰弱と体重減少がきついので冷房の完備したところが望ましい。 三、血圧は正常なので現在の状態なら大阪までの救急車輸送にはたえ得る、ということであった。問題はだが、家族の同意がえられなければ、済生会病院の方でも転院を認められないであろうという点にあった。さらに困った事情は、家族の同意がないという事が弱っている森自身の神経にも影響して本人自体自体の意志も何度かぐらついたことで、 「知識と労働」の同人たちが連日京都に往復して、やっとのことで、本人と家族のの同意を得、七月二十三日に阪大病院山村内科への転院が実現した。救急車での移送には前記医師が立会い、同乗もしてくれた。 その日の12時半頃阪大の病室に移り、2時には教授回診をうけた。冷房のきいた新しい病室に移った森は「気分がいい、移ってよかった、有難う」 と割に元気に語ってくれたということをきいて、私をはじめ同人一同安堵した。私自身は、森とその家族たちに余計な心配をかけてはいけないという同人たちの忠告に従って、少くとも「面会謝絶」期間中は病室を訪ねないことにし、同日夜からかねて約束していた大阪労働講座の一泊合宿(兵庫県香住)に出向いた。森が阪大に移った二十三日は金曜日で、翌土曜日は精密検診ができず、阪大では二十六日の月曜日にそれを行う予定で、万端の準備を整えていてくれた。それなのに、森の病状はそれを待たず、二十五日の早朝に異変を生じ、まもなく永眠した。
 その日の朝、大阪からの電話で森の急死を知らされた私は、車で急遽引返し、正午頃阪大病院に直行したが、彼の遺体はすでに京都の自宅に引取られた後で病院にはなかった。阪大の主治医が求めた解剖は家族の同意が得られず、死因は「急性心不全」と発表されている。何とも救われない気持に暗然として、同行した同人の生駒君と共に当直医の説明を求めると、森のカルテを示してその医者は、断定的なことは何もいえないがと断りつつも、二十三日転院直後の回診のあと行われた十数名の医師のディスカッションでは、そのほとんど全員が「悪性のもの」 ではないかという印象で一致していた、しかし血圧は九〇~一一〇位あり(森は元来低血圧であった)、このように早く異変が起るとは予想されず血液検査の結果からも輸血の必要もなかった。後から考えれば、肋間神経痛という疑いは、おそらく「悪性なもの」 の 「転移」であったのではなかろうか、今早朝の異変は、その結果として大出血を起したものとも考えられる、というような説明であった。
 以上が、 一人の科学者、唯物論者の予想外に早い死をもたらした直前の事実についての私の報告である。何のために私がこのようなことについて改めて書いておかねばならぬと感じたか、それについて一言しておく必要があろう。それは、私たちを含めて彼の周囲の者たちの、病気や人の健康状態に関する無智と不注意がなかったかという反省からである。森の死後、明らかになったいろいろな事実、お通夜に集まった人たちの話などをつき合せてみると、森の健康上の変調を示す事実はほとんど一年、少くとも半年以上も前からいろいろとあらわれていたからである。まず私自身の発見からいうと、昨年の七月ニ十五日—-それは奇しくも森の死の正しく一年前にあたる—「知識と労働」発刊の相談をまとめた後私の家の前で写した写真の中の彼は、凛然として少しも衰えらしいものをみせていない。 ところがその半年後の今年の正月、創刊記念の集りをもったときの写真を比べてみると、彼だけが椅子に頭をもたせかけて、痩せて気むつかしそうな、生気の失せた容貌で写っているのである。友人たちの記憶では、去年の秋頃から何となく元気がなくなり、彼の持前の陽気さと放言癖が消え、また大学の将棋友達のいうところでは、昨年末頃からはメシより好きであった将棋も絶えてやろうとは言わなくなったという。 今春頃には食欲がなくてシンドイ、シンドイといいながら、大阪に出てきて若手連に会うと天ぷらそばなど油っこいものを貧り喰って吐気をした起したことなどもあったという。もしその頃、少くとも数力月に、彼の周囲の誰かが、こうした彼の健康上の変調に疑いをかけ、成人病センターとか然るべき病院で検診を受けさせていたとしたら、彼をあのような若さで死なせることにはならなかったのではないかと、悔まれてならないのである。しかし、今ではもう取返しのつかない森の突然の死についての報告は、以上で打切ろう。


 私が森信成を知ったのは一九三五年、京都大学史学科に入学した一学期の時のことで、森は法学部の一年生であった。私は森と同じ一九一四年生れだが、学生運動で一高を中退し一年おくれて大学に入ったのに、彼の大学入学がやはり私と同じになったのは、彼も高知高校で一年留年していたからである。
 誰が森を私に紹介したのかあまり正確な記憶はない。森の高知での友人には、 一九三四年の京大事件の立役者の一人、長尾孫夫がいた。長尾は一見、土佐自由党の壮士風の男で、京大事件のあと停学処分をうけていた。その後輩の村上尚治(戦死)は同学年の哲学科生、一年上級の史学科には藤谷俊雄もいた。同年文学部に入ってきた者には、戦後に作家として大きな仕事をした野間宏が仏文科に、私と同じ史学科には奈良本辰也がいて、森信成とは私より少し前から知り合っていたようだ。私は入学後比較的早くからこれらの人物と接触するようになっていたので、彼らのうちの誰かが、おそらく村上か奈良本が森を私に引き合わせたのだと思う。 森は私を知るとじきに、私をつき合い易いとみたか、頼りになると見込んだのか、私と同じアパートの近くの部屋に密柑箱一ばい位の書物といっしょに引越してきた。 翌年私が別の所に引越すときもついてきて、森と私は、大学時代のほとんどをいっしょに生活することになった。私が階下、森が2階に居を構えた当時われわれが「せんたくや」と呼んでいた—白い、比較的小ざっばりした感じの、—-北白川の小アパートは、自然文学部の左翼学生の溜り場のようになった。森はこのグループの空気がひどく気に入ったようで、三十六年春にはさっさと文学部に転部し、哲学科に籍を移したのである。こうして哲学者森信成が生まれることになったのだが、彼はおよそ法律でメシがくえるような人間ではなかった。
 三十五年入学者のなかには、高校時代に左翼運動歴をもつ連中が相当数いた。京大事件直後とはいえ、当時の京大当局はまだ思想的理由で入学をチエックするほど反動化していななかった。資格さえあれば無試験入学できた文学部は特に自由であった。広島高校の柔道部主将でありながら学生運動で処分をうけた永島孝雄も哲学科にいて、前記村上が森や私を彼に紹介し、こうして三十五年秋頃までにはマルクス主義学生の新しいセンターが文学部内にでき上っていた。一方法・経学部には前記長尾のほか、同じく京大事件当時の活動家で停学中であった野田千之(戦死)、真壁、佐々木時雄らのグループがあり、私たちは彼らを 「老人組」と呼んでいた。そしてこの両グループが合流して三五年~三六年にかけて京大事件の敗北後の学生運動を再高揚させることになったのである。
 だが、京大事件の「老人組」と新入りのわれわれ文学部グループのあいだには、両者が接触するとじきに、はっきりとした意見の対立が生じた。 この論争は、その後の関西の学生運動とひいては人民戦線運動の発展上に大きな意義をもっていると思うので、要点だけでも紹介しておこう。意見の相違は学友会問題に端を発した。長尾を先頭とする「老人組」が、学友会は全学生から会費をとりながら事実上大学当局と運動部とに私物化されているという理由で会費納入をボイコットし、学友会の廃止を主張していたに対し、われわれはこの全員加盟制の学友会の民主化 教室別・高校別・代表者会議を母胎とする代議員会の直接選挙制の実施 という提案を対置した。論争は一時はげしく行なわれたが、「老人組」の主張はペシミスティックなもので運動の展望をもちえなかったために結局われわれの出した新提案に同意せざるをえなくなった。同時に教室に根を下ろした研究会組織と文化サークルの拡大に注力する方針がきまった。この論争が一時はげしく行なわれたにもかかわらずケンカ別れに終らず、それをつうじてかえって学生たちの結束がつよまり足並及を揃えることになった点は、たえず理論闘争で運動を四分五裂させている今日の学生運動にとって他山の石としてもらいたいものだ。
 新方針への意志統一ができたおかげで、三五年末から学友会代議員の選挙運動が全学的にもり上ることになり、三六年春に実施された選挙でわれわれグ改革派Iは圧倒的勝利をおさめ、法の佐々木時雄、経の増山太助、その他多くの改革派代議員とならんで、森信成も哲学科学生に推されて代議員会の一員に当選した。この選挙とその後の代議員フラクション活動の貴重な体験は、おそらく森信成の”政治生活”のスタートであったといえるとともに、その後の彼の政治的思想的信条—-大衆運動におけるセクト主義への敏感な反撥、正しい理論の上に立つ統一政策の熱烈な擁護、保守派と反動派を弧立させ多数者を獲得する現実的戦術—-の基礎を学びとらせたものであったといえよう。
 改革派が多数を占めた代議員会は学友会の民主的管理に成功し、文化部・サークル予算を大巾に増額させ、京大新聞を改革し、三〇をこえる各学部学生の自主的研究会に補助を獲得するなど画期的な成果をあげて、学友会への学生大衆の関心を高めた。 そのような活動のおかげで翌三七年の改選でも再び改革派が大勝するとととなり、同年七月日中戦争開始後の反動攻勢下においても京大内の民主的体制と自治の担い手として動いていた。それだけでなく、学内で改革派を勝たせる力をもっていた当時の京大の学生組織は、三六年頃世界的に高揚してきた反ファッショ人民戦線運動の関西地方での展開の一翼を担うこととなり、進歩的学生の全国誌「学生評論」を創刊するほどの進出を遂げた。
 運動のこのような拡大と発展は、われわれがその中にしっかりした思想的中核をつくりあげる必要を促すことになり、二つの非公然の研究会が生まれた。 一つは当時資本論の新訳の仕事をすすめていた長谷部文雄氏を中心とする 「資本論研究会」であり、そこには経済、歴史のマルクス主義学生が集まって、資本論を勉強しつつ日本資本主義の政治経済の研究に熱中した。もうーつは、右の研究会のO・Bでもあった梯明秀氏を中心に、同氏の宅でもたれた「哲学研究会」で、森信成は永島孝雄、村上尚治らとともにこの研究会に熱心に参加し、ヘーゲル弁証法の究明と西田哲学の検討、ポルケナウ 「近代世界観成立史」(横川・新島訳・叢文閣)などの研究討論を、ほとんど二年間にわたってつづけた。 森信成は戦後、この研究会での師であった梯明秀氏の論争者として登場したが、彼の唯物論者としての素養が形成されたのはこの研究会においてであったことは明記しておく必要があると思う。私も時にこの研究会に加わることがあったが、当時中学教師をしておられた梯氏夫妻の森や村上、永島にたいする厚い情誼が、真理探求者にのみある特別な信頼感にあふれたものであったととを、昨日のことのように記憶している。
 ここで、前記のように「せんたくや」で私と同居していた森の勉強ぶりについて少し述べておとう。彼の部屋には衣類も蔵書も少なく、押入れはほとんど空っぽであった。 しかし彼が大事にしていつも小さな机のまわりに置いていたのは、当時白揚社その他から刊行されていたマルクス主義の教程本であり、彼はそのほとんどすべてを丹念に読破していた。ミーチン・ラズモフスキー、シロコフ・アイゼンベルグなどの弁証法的唯物論と史的唯物論の教程、それにプレハーノフとデボーリンとブハーリンの訳書、ラピドス・オストロビチャノフとバルガ、レオンチェフのマルクス主義経済学教程など、ほとんど隅から隅までペンと鉛筆で傍線と書込みが加えられ、重要なところはこれら仮とじ本が二つに折れる程折り曲げられていて、何か議論をするとその個所がパッと出てくるというような具合になっていた。 この癖は、彼の生涯を通じて変らなかった。
 一九三〇年代にかなり大量に出廻っていたこれら教程本の特徴は、マルクス主義哲学や経済学の解説が、極めて戦闘的な思想闘争の形で、すなわち、哲学ではデボーリン派との、経済学ではトロッキー派・ブハーリン派その他との鋭い理論闘争という形で展開されていたことであり、こうした論点に精通することによって森は、理論戦線における党派性確立の重要性を学びとっていったのだと思われる。 こうした教程本を次々と征服しわがものとすることとならんで、当時森の思想生活を深くとらえていたのはチェルヌイシェフスキー、ドブロリユーボフ、ベリンスキーなどのロシア社会思想家の著作と、『史的一元論』などのプレハーノフへの傾倒であった。後年の森の著書『史的唯物論の根本問題』におけるプレハーノフノフの見事な消化は、すでにこの時期において用意されていたといってよがろう。私も中学時代以来、ロシア文学とロシア社会思想書を貧り読んできた経歴の持主で、「学生評論」にベリンスキー論やポクロフスキー史学論を書いたことがあるが、森を私に結びつけたものが、この思想分野への共通の関心でもあったということは事実である。凍てつくような洛北の夜、夜暗きそばをくいながら夜を徹しでロシアの文学と社会について森と語りあかした頃のことを、私は忘れられない。
 高校を中退した私は、ドイツ語の代りにロシア語を学ぶようになり、学生時代森にもロシア語を勉強するようにすすめたことがあるが、彼は私のこの勧告だけは受けつけなかった。「翻訳家がなんぼでもいる日本で、なんで翻訳や原書よみに時間潰しせんならん」というのが彼の答えであり、さらに、外国の原書の翻案みたいな論文をかいて学者ぶっている教授連を、彼は頭から軽蔑していた。三六年の末頃であったか前記の哲学研究会で、西田幾多郎教授がアドラッキー版の 『資本論』を読攻はじめたということを誰かが高く評価して報告すると、そめ頃がら西田哲学を東洋的観念論ときめつけて西田哲学から何か前向きなものをひき出そうとしていた仲間とはげしく論争していた森は、「アホかいなーなんではじめて資本論読む者がドイツ語で読まんならん」とうそぶいたものである。こんなことが関係したのか、指導教官の田辺元と西田哲学を真向うから批判した森の卒業論文は及第点をもらえず彼は京大哲学科を二年も留年する破目になってしまった。(森は後に大阪市大文学部教授になってからは嫌いなドイツ語の勉強をやり直すようになった。 それは必要なことであったのだろうが、彼の著書に所々ドイツ語の引用が出てきているのを見ると、私は、彼が辞引をひきなが大真面目に横文字を挿入している姿を想像して、ふき出したくなる。)森の持前は、衒学者流の世迷い言をうけつけない、よい意味での大阪町人の子として、思想的正しさ以外のあらゆる権威を受けつけない、その思想の科学性と独創性にあったのだ。

 もう一度当時の情勢に戻ろう。森をふくめたわれわれの学生グループの中では、 満洲事変以後の、そして日中戦争開始後においても、ファシズムと反動の拾頭に対するペシミスティックな態度は、全くなかった。反対に、スペイン、フランス、メキシコなどで嵐のように発展した人民戦線運動の高揚のなかで、日本でも三六年二月の総選挙での社会大衆党・無産諸派の進出、つづいて三七年四月総選挙での社大党三十七名の当選、労働組合運動での全評、白本無産等を中心とする労働戦線統一への動きなどに大きくうねりはじめた国民大衆の反ファッショ的潮流に依拠しつつ、労学提携をもってこの潮流の先頭に立とうとするアクチブな意慾に燃えていた。当時の状況を 「暗い谷間」だとは、われわれのなかの誰れも考えてはいなかった。
 三七年冬のことだったと思うが哲学科のリベラリスト教授天野貞祐氏の 「道理の感覚」 が反軍的だということで京大配属将校が教授の進退を問題にしているという記事が地方新聞にかきたてられたことが起った。 この事件に大学に対する思想弾圧の先ぶれを感じた永島、村上、森信成ら哲学科の学生は、その報道のあった翌日すぐ京大北門に集まって配属将校室におしかけ、報道の真偽を問いただした。あわてだ配属将校が 「そんな発言をした覚えはない」と答えると、その一問一答をすぐビラにして全学に流し、右翼の干渉は失敗した。(この天野氏は戦後第三次吉田内閣の文部大臣となり反動的ブルジョア制度の擁護者となったが、それは戦前天皇制下に天野氏らの抵抗線であったブルジョア民主主義が戦後は体制として実現されてしまったからである。)
 われわれの反ファッショ運動の大衆的進展のピークは、 一九三七年五月ーニハ日京都朝日会館で大成功裡に行なわれた京大事件三周年記念の 「京都学生祭」 であった。 このカンパニアは半年以上も前から準備され、全関西の大学から動員され た。中心は末川博博士の反ファッショ講演であり、教授が林(銑十郎)反動内閣の打倒を呼びかけてこの講演を終わった時、会場を埋めつくした学生たちは総立ちとなり、口々にファッショ打倒「人民戦線万才」を叫んで帽子やカバンなど手に持っていたものは何でも投げ上げて熱狂を示した。入学以来角帽など持っていなかった森信成も興奮して両手をあげて絶叫し、解散後はわれわれと肩をくんで四条河原町まで流れデモをやった。この日はだれも警察につかまった者はなかった。
 その一月余り後に近衛内閣が成立し、日中戦争が開始されたのであるが、戦争の拡大は国内的には反ファッショ的国民運動の高揚にたいする帝国主義支配層の反動的制圧を意図したものであった。戦時体制への移行を口実に大きな弾圧が開始され、その目標は労農派や学者グループなど合法左翼の上にも及んできた。この情勢の下で、その年の秋から従来の人民戦線形態の運動は合法主義、日和見主義であり、非合法党の再建こそがすべてであるとする春日庄次郎に氏らの「共産主義者団」 の働きかけが京大内にも入ってきて、われわれのあいだにはじめて深刻な意見の分岐が生ずるようになった。われわれはそれまでにもすでに 「京大ケルン」と呼ぶ非公然指導組織をつくってその下で最大限に合法的舞台を利用する方針をとっていたのだが、新情勢下においてこのような組織形態はいっそう重要になると考えていた。 そして過去の苦い経験からして、よく知らない非合法組織と不用意に直結する場合には、せっかくこれまできずきあげてきた組織勢力を一挙に過早な弾圧にさらし、反ファッショ運動の全体を弱める結果を招くことをおそれた。しかしわれわれは真向から党の再建を急務であると主張する 「団」 の主張自体には反対できなかった。われわれは十分な警戒心をもって 「団」と慎重に連絡をとることとした。
 三八年初め頃から「団」 の非合法機関紙「民衆の声」—-それは厚いザラ紙にドギツイ字体でガリ版刷りされていた—-がかなり大量にわれわれのととろに送りこまれてくるようになり、それを恐れず、大胆に、多数の学生のなかに配布するようにと要請された。だがわれわれはその大部分を安全な場所に保管し少数部数を限られたメンバーのあいだで回覧するという方法をとった。私はその一部を森信成に渡した。彼は平気でそれをうけとり、本の間にはさんでもちまわり、すぐ他の友人にひろめて歩こうとした。 それ以前の非合法活動を知らなかった彼は、それを渡されたこと自体に大いに感激している様子であった。私は彼が訝るのをおして、その紙を彼から回収し、必要な忠告をあたえておいたのを憶えている。
 われわれが警戒していたことは直き起った。「団」とその機関紙は三〇年代初め頃と同様に、ほんの幾力月活動しただけで弾圧され、春日氏ら団指導者のほとんどが逮捕されてしまった。だが不思議なことに京大の組織は被害をうけず、それからまだニ年間も以前のような活動を続けることができた。たんなる機関の紹介や街頭連絡などで知りあったのではなく、大衆活動と研究会活動をつうじて仲間同志を人間的に知りつくしていた組織が、もし必要な注意を欠かないならば過早な弾圧をさけて経験の蓄積と運動の継承が可能でであるということを、おそらく森もこの経験から学んでいてくれたにちがいないと思う。
 しかしその後、戦争と反動の狂気がふきすさぶ中で、われわれの組織への弾圧そのものがさけられなかったのは当然ある。だがそれはおくれて、当局が 「団」関係をしつこく追及してきた結果、太平洋戦争開始後の一九四二年秋から一九四三年初めにかけて京都の学生の大量検挙(延べ百人以上の規模と聞いている) となった。 森信成もこの時に検挙された。私は召集されて戦地に行っていたので、戦後に聞いたことだが、当時中学教師をしていた彼の下宿を特高がガサに行くと、机のひき出しに鼻をかんだチリ紙ばかりしか入っていなかったといって刑事がプリプリしていたという。彼は留置場に入れられても平気なもので、取調べに対してもトンチンカンなことばかりいって少しも事実を語らず、てこずった特高は、ついに彼を 「気狂い」扱いにして執行猶予で釈放してしまった、と聞いている。同じ時検挙された永島や布施(杜夫)らはひどい追及をうけてついに獄死したのだが、森は拷問もおそらく受けなかったようである。 最近の大学紛争の時、全共闘の封鎖学生に二週間も監禁(六九年六月)されながら、ほとんど殴られもせず、平気で封鎖学生を誘ってコーヒーを飲みにいっていたことなどを思いあわすと、彼には不思議な「徳」 があったといえよう。彼の葬儀の数日後、京都の家に当時彼を監禁した全共闘学生の三名が香奠をもって訪れ、その一人は森の遺影の前で泣いたという。
 戦後に彼と再会したのは、終戦の年の十月政治犯釈放で郷里に帰る途中、尼崎の骨炭工場を 「経営」 していた彼を訪ねた時であった。彼の兄弟の所有になるその工場は仕事がなくなりつぶれかけていたが、彼はそれでもメシがくえるのだから不思議なもんやと得意気であった。エンゲルスとはちがって彼はおよそ工場経営などできる人ではなかった。戦時中の中学教師は検挙でやめ、その後大阪商工会議所勤務などしていたが、胃かいようで苦しみ、たまらなくなって結婚した、などの話をきいた。
 平和の回復はわれわれを再び昔とかわらぬ交友関係に結びつけた。しかしそれでも始めの十年間は働く所を異にしたので、時々しか会えなかった。 それでも私の紹介で神戸の労働学校で哲学入門の講義をするようになり労働運動との結合という宿願をかなえてはりきっていた。 しかしその講座を主宰していた堀川一知君の話では、森の講義は労働者に難解すぎるという評判だったらしく、彼もそれをよく知っていて、理論をゆがめたり俗流化したりすることなく、どのようにしてそれを労働者にわかり易く講義できるかに心をくだいていたようである。同時に彼は、大阪の民科哲学部会のリーダーとして活動し、 一九四九年に市大文学部の教職に就職後は、日本唯物論研究会の再建とそこでの理論の党派性確立のための闘いを、精力的に、うむことなくつづけた。それらのことについては、山本晴義氏ら他の筆者が詳しく述べておられるので省略したい。
 森信成の哲学理論の党派性は、いわゆる一九五〇年問題にかかわるイデオロギー闘争のなかできたえられ、それをつうじてもっとも鮮明な形で打出されてきたといえるであろう。日本の変革路線をめぐる一九五〇年問題とその再版としての六一年春日庄次郎氏(前記「共産主義者団」の指導者)の離党とそれにつづく全運動の混乱・とめどない分裂は、一定の思想的背景をもちつつも主としては組織問題として争われてきた。森は、徹底した思想闘争をつうじての統一の展望なしに展開される分派闘争に一貫して反対し、これらの分派闘争にあれこれの影響をあたえている右と左の修正主義との仮借ない闘争を理論戦線上で展開することを自己の使命と考えていた。一方におけるプラグマチズムのあらゆるあらわれ=思想上の平和共存=戦後資本主義の成長下にはびこりつづけた右の修正主義=ブルジョア思想への降伏に対する執拗な闘争、他方における右の裏返しとしての主意主義・主観主義・トロッキズムと毛主義への批判—-彼はこの二つの戦線での思想闘争が運動に真の統一をもたらすために不可欠であることを一日も忘れず、彼の全智力どエネルギーを投入してきた。従って彼の全論文は論争論文であった。予想外に早く死んだ彼はとくべつの 「体系化」 された著作を残せなかったのは残念なことだが、彼の論争論文には、そのすべてに貫徹する 「体系」 が前提されていたことを忘れてはならない。それは彼がフォイェルバッハやプレハーノフその他マルクス主義の古典家たちから正しく受けついだ、徹底した唯物論の体系であり、必然の科学的洞察の上にひとびとの意識的積極的な努力を要請するマルクス主義者の世界観の現代における擁護と貰徹であった。 彼は、この意味で、プロレタリアートの党派的で、戦闘的な理論家であり、そうした理論家として自己の生命を捧げたプロレタリア解放事業の闘士であった。 われわれは君の遺志をうけつぎ君の事業をさらに前にすすめることを君の霊前に約束する。親しい、そして純潔で無私な、われわれのかけがえのない友であった森信成の霊よ、安らかに眠れー

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同盟統一会議へ結集せよ!(デモクラートNo24)

同盟統一会議へ結集せよ!   (デモクラート No24 71年11月10日)

学生共闘派指導部のセクト主義・ゲバルト路線を拒否し、
趣意規約の立場に立ちもどり学生運動統一・同盟統一へ

同盟統一会議へ結集せよ!

 わが同盟は、これまで一貫して、また本紙23号で民学同「全国委員会」-学生共闘派指導部のセクト主義、ゲバルトに対して批判を加え、セクト主義、ゲバルトをやめ、同盟の趣意規約に立ち戻り日本学生運動統一、同盟統一の道へ復帰することを忠告してきた。しかるに、10.21を前後して憂慮すべき事態が発生している。
 市大において、学生共闘派は、私物学生大会防衛の名の下、革マル派の襲撃に対して、ヘルメット・角材・鉄パイプの完全武装で応酬し、逃げる革マル派をBOXに追い詰め、BOXを破壊しつくしテロリンチを加え多数の重軽傷者を与え(10月18日)、国鉄阪和線杉本町駅では周辺の商店から、角材・空瓶を盗み出し、「市街戦」を演じ周辺の商店、駅等に損害を与えた(10月21日)。京都においては、アナキスト集団とゲバ抗争を繰り返し、アナキスト集団から挑発的テロを受けるにいたった(10月23日)
 かかる内ゲバは、学友の闘うエネルギーを分散させ、学内反動派を勇気づけ、官憲の直接的弾圧をもたらしているのみならず、周辺住民に迷惑をかけ、市大では部落解放同盟から抗議を受けている。
 学生共闘派指導部は、自らのゲバルトを「正当防衛」とウソぶいているが、もってのほかであり、かかる論理こそ、わが同盟が一貫して批判し、その克服のために闘ってきた、民青、トロ諸派の誤り-日本学生運動の悪しき傾向、誤りそのものである。

 わが同盟は、第12回全国大会を前に一部全国委員の趣意規約の乱暴な蹂躙と、暴力による全国大会など諸機関の機能破壊・私物化というかつてない事態に陥った。そして一部全国委員による「大会」強行の中で同盟は事実上分裂状態となった。わが同盟はかかる事態を踏まえ、同盟の趣意規約にもとづく統一大会をかちとるため、あくまでもそれを守って、同盟の目的実現に努力し、責任をもって全組織を指導しうる臨時中央指導組織として民主主義学生同盟統一会議を組織した。その時、全国学生へのアピールの中でわが同盟は学生共闘派を批判し次のように述べた。

「数年来の大学闘争の中で、封鎖-封鎖実力解除の”内ゲバ”に終始したり、『11月決議』と称して、学園における粘り強い闘争を放棄しながら街頭での少人数の小児病的一揆主義の行動に走り、その結果、権力の組織的系統的な攻撃を許した残念な事態に象徴されるように、日本学生運動が、今でも根強く持っている傾向、情勢の主観的判断に基づく学生党的政治主義と大衆の利益を党派の利害に従属させるセクト主義が学生の戦闘的エネルギーを浪費させている。
 わが同盟は、その発足以来一貫して、この悪しき傾向と闘ってきたが、数年来、同盟内に発生した傾向は、残念ながら、これと同種の病である。
 それは、各大学でいかに学生全体を決起させ、その運動を統一するかより、他党派と対抗して、”わが派の集会”に何名多く動員するかに主要な関心を払うセクト主義、街頭決戦主義であり、学園での浮き上がり、孤立の反映でもある。最近各大学内の統一闘争を経済主義としているのは、彼らが学内で統一政策を実行し、学生大衆と結合する能力のなさの証拠といえる」

 この間の事態は、わが同盟が指摘した学生共闘派指導部のセクト主義の一層の露骨化徹底であり、その必然的帰結としてのゲバルト路線(民青、トロ諸派と同じ陣列)への転落を示すものである。
 わが同盟の名を僭称する学生共闘派指導部のかかるセクト主義・ゲバルト路線は、同盟の趣意規約の立場とは無縁であり、光喜ある同盟の名を著しく傷つけるものである。
 わが同盟は、ゲバルトを徹底暴露追放し、ゲバルトを行使した部分に対して自己批判を迫っていくと同時に、一切のセクト主義を許さず、クラスぐるみの決起を基礎に、学園毎の統一行動を実現していく。

 学生共闘派指導部に結集している民主的、良心的、献身的学友に訴える!学生共闘派指導部を拒否し、わが同盟(統一会議)に結集し、日本学生運動の統一と発展のために、ともに闘わんことを!

民主主義学生同盟 統一会議

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革マル・学生共闘の内ゲバを糾弾する! 1971/10/20

民学同市大統一会議 発行 1971年10月              (ビラPDFはこちらへ)

学友と無縁な革マル・学生共闘の内ゲバを糾弾する!
10.21へセクト主義、内ゲバを排し、クラス連合で起とう!

ゲバルト路線は沖縄闘争の統一した大衆的発展の妨害物だ

市大統一会議1971/10/20

内ゲバを糾弾するビラ(1971/10/20)

 18日早朝、市大専門–教養キャンパスで他大学のメンバーを大量動員した学生共闘派と革マル派との間で、内ゲバが生じ、多数の軽重傷者が出るという事件が発生した。
 これに対して大阪府警住吉署は、捜査を開始し、学内反動派の動きも強まっている。
 
 沖縄闘争、市大学生運動の統一の敵対物–学生共闘・革マルの内ゲバを断固糾弾する
 クラス学科から糾弾の決議・アピールを集中せよ!
 
 学友諸君!
 今回の内ゲバは、沖縄協定批准阻止、10.21全学闘争体制確立へ向けた学生大会をめぐり生じたものである。
 かかる、他大学のメンバーをも動員しての内ゲバが、決して沖縄協定批准阻止闘争の統一的、大衆的発展をもたらさないばかりか、反対に妨害するものである。
 学生共闘は、早朝のゲバルトを何ら大衆的に明らかにし、自己批判することなく、学生大会を強行し、成立したとしている。
 18日早朝の内ゲバの直接的契機が、革マル派にあったとはいえ、その内ゲバをクラス、学科から大衆的批判によって克服していくのではなく、即時的に、ゲバルトを対置し、「自主防衛」はおろか、革マル派のBOXにまで追いかけ、暴力をふるい、多数の学生に重軽傷を与えたという学生共闘のゲバルト行為は許されることではない。

 学友諸君!
 学生共闘派、革マル派の内ゲバを、暴力行為に断固とした糾弾を要求しよう。すべての学友はクラス学科で討論を展開し、内ゲバ、暴力糾弾の決議・アピールを集中しよう。
 
 一切の内ゲバ、暴力をすて、10.21国際反戦デーをクラス学科の連合集会、独自隊列を実現し闘おう!
 
 学友諸君
 我々は、一貫して統一学生大会を主張し、(10.9教養学生大会の場で集会決議として採決)、そのために最大限の努力を行なってきた。そして又、今回の事件の発生をも何回となく警告してきた。
 学友諸君!我々は、現在何をなすべきか。それは、まず第1に、沖縄協定批准阻止闘争の統一的、大衆的発展を内部から崩壊させ、内ゲバに対する断固たる糾弾の声をクラス、学科から上げていくとこである。
 今、この内ゲバを許すなら、今後、市大は大量内ゲバが横行しる地となってしまうであろう。
 第2に、沖縄協定批准阻止闘争を、当面10.21へ向け、クラス学科の連合で闘い抜くことである。
 全ての学友諸君!
 10.21国際反戦デーへ、沖縄県民と連帯し、総評労働者の闘いに合流すべく、うつぼ公園に結集しよう!
 
 1971年10月20日
 民主主義学生同盟市大支部(統一会議)
 

カテゴリー: 歴史, 民学同 | 革マル・学生共闘の内ゲバを糾弾する! 1971/10/20 はコメントを受け付けていません

日本構造改良派の軌跡

現代革命論としての構造改良論(その3)

 日本構造改良派の軌跡
                     勝部 元
  (初出 季刊構造改良 第5号 1971年10月5日)

  1 はしがき
  2 日本構改派登場の背景
  3 日本構改派の軌跡とその問題点   
  4 日本構改派の解体
  
 1 はしがき

 まず何度も予告しながら、私の構改論の本論たるべき「日本構改派の軌跡」が延引したことをおわびしたい。これは私自身の健康上の理由もさることながら、同時に、絶対不可欠の日本構改派各グループの政治担当者自身による総括が、まてどくらせどほとんどあらわれない、という事情によるものでもある。したがって私はこのほとんどなきに等しい資料にもとづきながら本稿をすすめざるをえない。
 総括のこのような不毛な現状は、まさしく日本構改派を名のる諸グループの政治的解体以降、今にいたるまでみられぬその戦闘的再建の方向の不在の悲しむべきしるしに外ならないだろう。とくに統社同中間派の「構革論総括と戦闘的再生への基本的方向」労働者同盟(準)という一文書は、本誌第三号巻頭言でふれられたように、一政治グループの政治運動の総括とはまったくいいがたいもので、「理論研究会」の討議資料かとみまちがうこの文書を小寺山康雄「構革派解体におけるわたし」(「現代の理論」一九七〇年十二月号)、大森誠人・松葉武雄著「反体制労働運動とは何か」(三一書房)などと併せよむとき、鳴物入りでさわがれた日本における構革派とは一体何であったのか、それはそもそもマルクス主義とどうかかわっていたのかを問わざるをえない。親しい友人であったこれらの統社同中間派の人々にたいして、わたくしが第一章で新左翼の青年たちに投げかけたと同じ問を投げかけずにはいられない衝動にかられる。もっとも「知的道徳的」にすぐれたマルクス主義である構革派を称するグループから、青年たちのもっとも幼稚な「武装蜂起論」への転回、最悪のトロツキズム(というよりその劇画)への接近、さらにはマルクス主義とまったくことなったアナルコ・サンジカリズムへの転落の理由も、これら青少年の教師たち–統社同中間派の指導者たちのさいきんのおどろくべき、あるいは悲しむべき総括によって十分理解できるようだ。そしてこのことこそもっとも雄弁に第一号でのわたくしの結論、「そして日本における『構造改革論』はまちがった勢力により、まちがった形で(あるいは、不十分なという方がよいかもしれぬ)とりあげられ、また徹頭徹尾まちがったやり方で批判され、さまざまな『意匠』の一つとして消えていった」を確証しているようである。
 現代マルクス主義派としての日本構改派—それははじめから存在していなかった。「現代革命論としての構造改良論」—-そんなものはもともとなかったのではないか。
 新左翼解体にひきつづく灰色のペシミズムの全般的支配と「社共統一の勝利」、「日共の変貌」というわたくしの予言したとおりの右傾化ムードの中で、日本構改派の軌跡をたどり、総括するという、このやりきれない仕事ととりくまなければならない。

2 日本構改派登場の背景

 日本構改派(中村丈夫氏のことばをつかうなら「日本型構革論」グループ)は、第一号ですでにのべたような国際的背景のもとで、イタリア共産党によって仕上げられた「社会主義へのイタリアの道」に触発され、その日本版として導入されたものであることはうたがいない。
 しかしそのさいに注目すべき日本的特徴としてつぎのことを指摘しておかねばならない。すなわち主体となるべき二大左翼政治組織、日本共産党と日本社会党の歴史的構造的特質にねざす特徴をあげねばならない。すなわちまず第一に日本共産党のもっていたぬきがたいスターリン主義的官僚主義的体質と理論的立ちおくれ—たとえばコミンテルン七回大会の反ファッショ統一戦線論や、人民民主主義革命論にたいする無理解(これは、裏返せば党と大衆団体間のスターリン的ベルト論と国際的にもとうに克服ずみの赤色労組主義)つまり反独占民主主義=「新しい民主主義」の意義と「新しい型の党」の無理解-があげられる。そこで日共における党内民主主義の欠如とスターリン主義的官僚主義の存在は、日共内部での公然たる討論と勢力拡大を不可能にし、形成された構改派グループに日共内部よりの少数派の離党という形をとらざるをえなくした。さらにこの場合戦略路線における社会主義革命論者と構改論者がむすびつき、分離は先ず戦略的差異にもとづいておこったことも顕著な特徴である。すなわち「五〇年徳田テーゼ」論争のさいのブル民革命派--徳田トロイカ論にたつ主流(所感)派プラス宮本、袴田派、植民地革命論派–神山派とことなる社会主義革命論派—春日(庄)亀山派らの三つの潮流のうち五〇-五一年の大分裂をへて六全協による主流派、国際派の合同指導部形成ののち、同じ国際派反対派中の宮本顕治氏らのヘゲモニーが確立し、民族・民主革命(新しい民主主義革命)戦略論に対立した社会主義革命論者として春日(庄)氏らの構改派が結集されてくるところに日本的特殊性があった、と思われる。
 第二に問題となるのは日本の社会民主主義とくに日本社会党の特異な性格である。労農派学者ブロック・議会主義的議員団・総評幹部より構成されるこの党は、一面近代的革命政党といいがたいおくれた側面–最大の野党でありながら党員数わずか三万で党としての下部組織が確立せず資金も選挙も大衆連動もすべてを労組組織=総評におぶさるという側面をもつと同時に、労働者階級を代表する政党として、欧米の社会民主主義(イタリアなど僅少の例外をのぞいて)が反ソ反共のアメリカ型社会民主主義(もっともよい例がバードゴーデスベルグ綱領下のドイツ社会民主党、ここではマルクス主義はおろか国有化スローガンさえ下されている)に退化しているときに、公然とマルクス主義を名のり、その内部に革命的左翼をもっている、ということである。のちにのべるようにこのゴチゴチのスターリン主義的日本共産党と、左翼社会民主主義的日本社会党の特殊な性格が、日本における構革派の誕生を特徴づけた。すなわち中共路線をより深めつつあった日共主流にたいする社会主義的反対派の離党という形で、または構改路線が日本社会党の大きな部分(主流を形成する部分)の公式路線として一時とりあげられたという特殊な過程をとらせたのである。そしてこの日共を離脱した構改派小グループの一部が、自らの主体と運動形成に努力するよりも、むしろ社会党内の構改派と癒着し、大衆運動的基盤をそこにもとめるという結果をもたらした理由もここにみったといえよう。
 第三には、六〇年初頭よりようやく明らかになりはじめた中ソ論争の影響も忘れてはならないだろう。六六年までますます中共よりにそのコースを定めていた宮本主流にたいする反発—日本構改派の一部のソ連依存の傾向もみのがすことはできない。

 3 日本構改派の軌跡とその問題点

 日本共産党内グループとして、日本構改派が形成されたのは、階級分析と現状認識において根本的に誤っていた日共の五一年綱領とその極左冒険主義的方針(いわゆる火焔ビン時代)によって、運動が完全に挫折し、党の孤立化が誰の眼にも明らかになった時点における北京主導の総括=五五年七月の六全協以後のことに属する。この六全協はまた主流派内の志田派と反主流派中の宮本・袴田派の密約による野合の結果であったといわれている(註1)。この六全協後、五八年秋の第七回大会より、六一年の第八回大会にいたるごく短期間の党内民主主義と自由な討論のカツコつき存在期を通じて構改論は主として党内の社会主義革命論者によって、現代先進資本主義国日本の革命戦略として研究され、となえられ始めた。それは「平和移行」と「社会主義への民主主義的道」を中核とするもので、党章草案に示される、宮本主流派の民・民革命論に鋭く対立するものであった。それは片山さとし、石堂清倫、増田格之肋氏ら都委員会の多数派と春日庄次郎、内藤知周、西川彦義、亀山幸三、内野壮児、原全五、山田六左衛門氏ら中央部の少数派、また春日、山田、原、西川氏らの影響下の関西地方とくに大阪地方と内藤、松江澄氏らの影響下の広島地方が拠点であった。それに五九年四月党中央により禁止された第一次「現代の理論」、講座「現代マルクス主義」などによる理論家(佐藤昇、井汲卓一、大橋周二、長州一二、今井則義、力石定一、小野義彦氏ら経済学者や石堂清倫、前野良氏)がさかんに構改論的理論とそれにもとづく日本の分析を唱え始めた(註2)。また山崎功、代久二、西川一郎氏らによってトリアソティ・グラムシらイタリアの新資料がどんどん日本に紹介され始めた。日本構改派の形成が主として綱領問題—-社会主義革命か民・民革命かという戦略論争を中心においていたが故に、この時代にさかんに行なわれた日本帝国主義復活論争(佐藤、力石、小野、勝部対日共主流)もせた形をかえた戦略論争として、この日本構改派形成の序曲とみなすこともできよう。

註1 片山さとし「日本共産党はどこへ行く」三一書房、二九八ページ
註2 上田耕一郎、不破哲三兄弟がこの形成期の構改グループと非常に近かったことは興味ふかい。当時のかれらの業績–上田耕一郎氏の 「戦後革命論争史」(大月書店)上・下や「大衆社会論とマルクス主義」(講座「現代マルクス主義」Ⅰ)不破哲三氏の 「社会主義への民主主義的な道」へ講座「現代マルクス主義」Ⅲ)は、今読みかえしてみても立派な業績たることはうたかいない。上田兄弟が、井汲、佐藤、内野、勝部らと決定的にはなれ、宮本主流の番頭化していったのは、帝国主義復活論争において官本主流派の代弁者として立ちあらわれた以後のことである。興味をもたれる方は、第二次「現代の理論」第二号、六四年第三号の拙稿「上田耕一郎」論–理論の変貌とその動機–を参照されたい。ただし編集委員の一人であったわたくしの小論は、どういうわけか、編集担当者の間では不評で(「下品である」!?由)、大いにその後書きまくろうと思った欠先に、この「人と思想」というコラムが廃止きれてしまい、わたくしとしては残念であった。少しくどいかもしれないがこの小論のむすびにつかった上田耕一郎氏自身の十五年前のことばを再録しておきたい。現在の幹部会員上田氏の心境はどうあれ、わたくしはこのことばは今なお正しさを失っていないと考える。
「(政策や理論の)こうした立ちおくれの原因が……善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできてももっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった隠病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人にたいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導理論にたいする無批判的な追従の傾向としてとりあげられなければならない。したがってわれわれはまず・・・われわれ自身のなかに根ぶかく巣くっている事大主義の精算に真剣にとりくむ必要がある。この反省なしには、日本のマルクス主義はその前に提出されているあまりに多くの理論的課題を解決することにまたもや失敗するであろうし、たとえどんなに異論のある問題でも実践の過程で正しい解決を生み出していくという自主的な保障の体制を築きあげることもできないのではないだろうか」(上田耕一郎『戦後革命論争史』上、大月書店、四-五ページ)

 ここで注意しておかねばならないことは、日共よりの日本構改派の分離が、六〇年安保・三池闘争以後のことであった点であろう。
 経済不況も戟争もない時期に大衆的昂揚が生まれ、日本の各大都市がデモの大波でうずまり、激動が日をおうて激しく、幅広く、大衆の中に浸透していった六〇年安保闘争と、それをうけた三池大闘争にたいする日本構改派の寄与は如何なるものであったか。一言にしていうなれば、個々の非マルクス主義的理論家、たとえば清水幾太郎氏らに比し、決して芳ばしいものではなかった、といえよう。この新しい理論とグループは、突如としてまきおこった政治的激動に対処できるほど自らを整備していなかったし、また日共という枠に妨げられ、有効な実践的処方箋をさし示すことができなかった。こうして「行動の指針」としての新「理論」を実証するさいしょの機会はむなしく失われた。「前衛喪失」が誰の眼にも明らかになったこの時期に、最大の障害としての日本共産党の「鉄の枠」の存在があったとするならば、大衆指導と実践の障害というこの時点で日本構改派の日共よりの分離が何故おこらなかったのか。浅田光輝民らの日本構改派にたいする鋭い問題提起はまずこの点にしぼられる。
 ところで現実の分離は、綱領問題をめぐって六一年七月の第八回党大会直前に行なわれた。春日氏「日本共産党を離れるにあたっての声明」はそれをつぎのように明らかにしている。宮本氏ら党主流幹部は「党内外の批判反対を押えるために党内民主主義を破壊し、いま第八回党大会を前にして、自ら規約をふみにじり、反対意見の代議員の進出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員の獲得も妨げ、一方的なやり方で大会を開こうとしています……こういう状態は党内民主主義に依拠して原則的な党内闘争によって事態を改善してゆく余地はほとんどありません。」「分派は五〇年の経験が示すように非生産的で、不毛です。」「原則的立場を堅持して破局の来るのをまつか……」、それともー「わたくしは熟慮の結果離党の道を選びました」 (一九六一年七月七日)。
 中央統制委員会議長春日庄次郎氏につづき七月十四日には中央委員山田六左衛門、西川彦義、亀山幸三、内藤知周、中央委員候補内野壮児、原全五氏らが同じく離党声明を出した。旧都委、大阪その他の地方の反主流派分子がこれにつづき春日氏や党員文学者グループが「正規の第八回大会とは断じて認めない」とした第八回大会はこれらすべての離党者を反党分子として除名処分に付した。
 しかし同時にここに第二の問題点が出てくる。片山さとし氏や増田格之助氏のいうように第七回大会後党中央の集中攻撃が都委員会にかけられたとき、中央部の社会主義革命派は十分援護せず、各個撃破にまかされてしまった。こういう形で宮本スターリン主義(註3)に対し、批判派は党内で有効な政治的反対闘争を組織できなかった (片山、前掲二七〇~三〇七ページ)。こうした政治的反対闘争の政治的拙劣さと加えて、宮本主流の党内民主主義の侵犯、自由な討論の抑圧が如何に巨大であろうと第八回大会を前にして 「離党」という形式をとったことの可否である。第八回大会を「正規のものとは認めない」という旗印の下に、それより以外に道はないとされたこの道以外に方法はなかったのであろうか。O氏やわたくしは、この離党形式に反対を唱え、第八回大会で除名をかけて闘うことを離党派主脳部にといたが、時すでにおそかった。

註3 スターリンはレーニン死後、ジノヴィエフ、カーメネフと結んでトロツキーを追放し、ついでブハーリンと結んでジノヴィエフ、カーメネフを倒し、さいごにブハーリン自身をも粛清し、権力サークルを自己に忠実な派閥でかためた。のちに自己の愛弟子キーロフがレニングラードによって、大衆的支持の下にスターリンに反抗の気配を示すと秘密警察の手でキーロフを暗殺し、これをスパイの手によるものとして、例の血の大粛清裁判を行ない、党内やコミンテルン内のめぼしい革命家を全部抹殺した。
 宮本主流派は、六全協直後に志田重男の逃亡・除名によって権力を握ると第八回大会で春日氏ら構改派を、一九六四年の第九回大会では志賀、鈴木氏らソ連派を、さらに一九六六年第十回大会では西沢(隆二)、安西氏ら中共派を追放し、主として、知識人出身の人々(岡、西沢(富)、米原、蔵原、上田兄弟ら)からなる自己に忠実な派閥で中心をかため、今日にいたっている。

 離党したグループは「一、党外において党の革新のためにたたかうこと。二、大衆運動のなかにマルクス・レーニン主義の指導性をうち立てるために協力すること。三、ひろく革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進するために力をつくすこと。四、日本の内外情勢、大衆運動の諸経験を分析し、社会主義への日本の道を明らかにするとともに、マルクス・レーニン主義の自由な研究の舞台をつくり、その創造的発展をはかるために奮闘すること。」(春日庄次郎「日本共産党を離れるにあたっての声明」『社会主義への日本の道』新しい時代杜、二〇〇ページ)という活動目標の下に「新しい運動」をすすめようとする。そのために八月二八日に「新しい路線」という機関紙が発行され始める。新しい運動は同年秋に「社会主義革新運動」の名前の下に結成される。しかしその内部には、松葉武雄氏によると、三つの違った指向グループがあらわれていた。「一つは西川内藤氏らに代表される、みずからを直線的に単一前衛党の主体たらしめようとする『党建設派』グループ。二つは元日共東京都委員会メンバーを主体とする『反体制運動内部の反官僚主義、民主化』『共産主義者の思想確立運動』コース、『反官僚主義派』グループ。いま一つは民主主義革新・構造改革の政治路線の実践をめぎす『構革派』グループである」(『構造改革』一九六二、十二号、十三ページ)
 あるいは片山さとし氏によると、「この派は、六全協後の民主的潮流、それに社会主義革命論を中心にする党内批判派の主流であったし、代々木から別れた最大の勢力でもあって、代々木の全面的批判による社会主義革新の本命らしい要素をいくらかもっていた。しかし、この派は下手くその民主主義即下手くそな官僚主義という性格のもので、代々木とわかれる主因も官僚主義・民主主義の問題におかず綱領問題においたし、その官僚主義批判はよわく、民主主義の理解は底があさく、じっさいには代々木の派閥的官僚主義的な体質からほとんど抜けきっていなかった。それで、官僚主義的代々木にさえはるかにおよばぬ無能さを露呈し、大きな組織的統一と思想的統一を民主的にやる能力をぜんぜんもたず、のっけから組織重視の官僚主義のつよい結党(主義)派と戦術重視の自由主義的傾向のつよい『構改派』に分裂し、分裂に分裂をかさねて、なすこともなく衰退していった。『社会主義革新運動』などというのは、まったくの名前だおれであったし、その名に値しなかった。」(『日本共産党はどこへ行く』三一書房、一八七ページ)

 いづれにせよその内部に異質なものをふくんで発足した社会主義革新運動は、翌六二年五月、たちまち分裂にみまわれる。直接の契機は「東京における共産主義青年同盟の一方的発足と社革東京都委員会の前衛党建設の方向決定、および社革第三回全国委員会における参議院選に独自候補の多数決定など一方的な固定化の進行」(松葉、前掲)によって六二年五月二、三日の結成総会をへて社革より統一社会主義同盟が分離・独立する。春日庄次郎、山田六左衛門、原全五、村田恭雄、大森誠人、安東仁兵衛氏ら、大阪派の政治家とかなり多数の知識人がここに結集し、結成総会時の同盟参加人員は六〇九名(「構造改革」六二年五月上旬号)といわれた。こうして社革と統杜同、この二つの日本構改派グループが生まれたわけである。(両者ともその最盛期においてさえ七〇〇~八〇〇名の小グループを出なかった。)今からふりかえってみて、この分裂が正しかったかどうか。ここに、第三番目の問題点がある。
 「党内外にひろく革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進するために力をつくす」という当初の目標とは逆に近親憎悪と細胞分裂という反対派小グループの宿命の第一歩をここにみることができるのではなかろうか。
 他方、日本社会党においても、この時期にマルクス主義の国際的潮流と「現代マルクス主義」派知識人の触発もあって「構造改革派」といわれる派閥が形成された。教条主義的旧左社綱領をおしすすめようとする社会主義協会派(向坂派)に対立して、江田=成田ラインとその若手たる加藤宣幸、森永栄悦、貴島正道氏らを中心とする構改派新主流の形成である。それは一九六〇年九月の中央委員会声明、十月の臨時大会、つづく六一年三月の党大会における構改コースの勝利という道を辿り、一躍ジャーナリズムや一部労組活動家の注目するところとなった。その構改コースの内容は「次の三つのスローガンに集約されているとみていい。すなわち、①生活の向上(貧困と失業の解消、二重構造の打破)②反独占(独占の権力とその活動の制限)③中立(貿易構造の変革)これである。そして、このスローガンのもとに闘われる闘争の性格については、『この闘いそのものは資本主義的生産関係の一掃を目指すものではなく、その任務は資本主義のワク内で実現しうるものである。これが実現されていく過程で独占資本の経済的支配を弱め、その基礎をほりくずすものである』(加藤宣幸)といい、また、社会主義政権への移行については、『護憲民主中立の過渡的政府』がそれへの媒介項として構想されている。」(池山重朗著『現代革命論争』青木書店、二一〇ページ)

 のちに社会党は、綱領問題をめぐって全党をあげての構革論争を行ない、成田氏が脱落して、佐々木・成田ラインを構成し、若手構改派は社会主義運動研究会に結集する。このような社会党の構革派形成発展にたいし、理論家集団とくに佐藤昇氏の果たした役割は大きい。
 日本構改派中とりわけ統社同が、自己独自の運動の形式よりも、社会党構改派とその運動の中に大衆的基盤をもとめ、それと癒着(「社会党なだれこみ」方式)したのは当然であろう。すなわち 「みずから独自的行動・実践・活動をおこないつつ、社会党、とくにその構造改革推進勢力と協力し、相互交流をはかる、……労働組合、大衆団体レベルでの構革路線にもとづく左派集団のなかで、推進的中核的任務をはたしながら、日本の運動における正しい統一勢力の基盤をきずくものとして設定されなければならないだろう。」(松葉武雄『構造改革』一九六二年十二月、十一号二一ページ)
 大衆的基盤をほとんどもたず、綱領主義で小さく固った社革(機関紙「新しい路線」、機関紙「マルクス主義」)にくらべ、若干の大衆的基礎(大阪の労働組合運動と平和運動)にもっていった統社同(はじめに機関紙「構造改革」のちに機関紙「平和と社会主義」)は、まず、平和運動において、社会党・総評と癒着し、若干の知的道徳的へゲモニーを発揮することによって、一定の成果をあげた。すなわち、日共系の人々がますます中共よりにかたむき、「平和の敵を明らかにする」ことを強調して、「あらゆる核実験反対」のスローガンを下し、また「部分核停反対」というように日本の現状と大衆感情から遊離した方向に原水禁運動を指導しようとしたことにたいして、理論的・実践的に正しい方針を対置し、一定の成果を収めることができた。(六二年十二月の広島大会、六三年八月の第九回原水禁大会)
 また炭労政策転換闘争や日教組、主として大教組の闘争に一定の影響力を与えることに成功した。しかしそれとともに「人類的理念」とか「複数前衛」または「機能前衛」といったわたくしには理解できぬ怪しげな概念や理論もまた現代マルクス主義の精髄としてさかんにおう歌されたことも忘られてはなるまい。しかし池田内閣の所得倍増、高度成長政策の展開、「マイホーム」主義のまんえんといった日本独占資本主義の高度化・成熟とともにちっぽけな日本構改派の勢力はますます分散し、影響力も衰えてくる。とりわけ社会党内の江田ヴィジョンの敗北と江田・成田ラインの崩壊、構改派が主流派よりはずされ、江田派が「構改派」のメッキをはがし、「政策討論不在の派閥抗争に徹した」という二七回大会の状況を前に、すべてのオプティミズムは消えうせ、自己閉そく的セクトや、理論活動を主とする評論家、理論家集団と化してゆく。(主として統社同と密接な関係をもつ第二次「現代の理論」が六四年一月に発刊され、今日にいたっている。)日本構改派を名のる社革、統社同両派のジリ貧状態がつづき消滅の一歩手前においこまれつつあったとき、必然的に生まれた動向が六六年初頭より顕著になった 「総結集問題」である。それは第十回大会で除名され、一九六四年七月十五目より機関紙を発行しはじめ、十二月一日には組織的結集をはかった志賀、鈴木、神山、中野氏ら(註4)「日本のこえ」その他小グループとの合同問題である。

 註4 もっとも中野重治、神山茂夫氏は、一九六七年十月十日の声明で「その内部生活に民主主義は絶無となり、批判・自己批判は無視され、その組織的性格は、出発当初とちがい個人の私党的なものに転化している」 という理由で、志賀氏の「私党的性格」をもつ「日本のこえ」と断絶している。

 ところでこの日本構改派の軌跡の第三の山場にはいる前に、一九六六年一月号の 「新世界」誌上で行なわれた中村丈夫、藻谷小一郎氏の批判的論旨にふれておこう。それはこのときいちはやく日本型構革論の本質を見きわめ痛烈な批判を行なったという点において、またその論旨の大筋において筆者が一致するという意味においてである。(「構造改革論」の構造改革および中村丈夫・安東仁兵衛氏の「構造改革派組織論の再検討」)
 一九六六年一月の時点で中村・藻谷論文はいう。「『構造改革』とは、イタリア共産党の場合は、反独占の階級同盟、統一戦線、ひいては民主主義的多数派および権力ブロックを形成するためのもっとも重要な政策、闘争形態のひとつであり、通常の要求獲得をこえて体制変革に転化すべき、生産関係を中心とする改良を内容としていた。この改良は、民主主義の徹底をつうじて社会主義に前進する媒介項、結節点として位置づけられていた。『日本型構革論』は、ひとくちにいって、この構造改革を革命路線全体の論理とそれを推進する主体形成の論理からきりはなし、民主主義的介入一般の可能性を安易に強調して、『構造改革主義』のイデオロギーにまで昇華していったと考えられる」(中村丈夫・藻谷小一郎「『構造改革論』の構造改革」『新世界』一九六六年一月、十五号五五ページ)
 問題は「独占の側が資本主義の成熟に対応して、ブルジョア的構造改良を推進し、国家独占的統制を全面的に強化してきたのに対して、わが方が労働者を中心とする多様な要求闘争の発展と構造的闘争の結合によって対決できるか否かである」(中村・藻谷、前掲論文五六ページ)
 そして戦後の日本の労働運動の基本的動向、その危機との闘いにおいて「日本型構革論」が積極的役割を果たしえなかった理由としてつぎのようにいう。「反対派自体に、民主主義・社会主義路線とこの任務を担う新しい党にたいする理論的一致にもとづく統一がなく、したがって党内工作の説得力・浸透力を欠いていた。派閥対派閥では主流派の権威に抗し得なかったのはむしろ当然であった。またかかる反対派に、党が頑固な派閥に掌握された場合におこなうべき、きわめて高度な政治工作を求むべくもなかった。したがって反対派は、党規約に規定された党内闘争を形のごとくにおこない、形のごとくに破れ去ったのである。規約外の公然非公然の政治工作では、むしろ主流派の方がすぐれていたのである」(中村・藻谷、前掲五九ページ)
 それは情勢と運動の把握—-「具体的なものを具体的に分析して行動方針を見出すこと」—-に失敗した。「反対派理論家集団は、この形式的党内闘争に際し反対派幹部に対して、概して中央委員会その他の機関内の論争のために党綱領に関する批判的構想案を供給するにとどまり、すすんで情勢と運動の大局的分析による当面の基本方針の確立への寄与は意図しなかった。…‥・理論家集団は、自己をそれ自体として限定し、あえて真の有機的知識人としての責任を果たそうとはしなかった。また政治家集団の側は、理論家集団を統制し、両者のあいだに有機的統一-本質的な党壬を形成する能力と実質を創りだせなかった。」(前掲、五九ページ)
 このような出発点をもった「日本型構革論」は、「構造改良を民主主義・社会主義の構成要素としてとらえ、これを中間項とする戦略路線の総合的発展を推進するかわりに、構造改良を部分的に切りはなして拡大解釈し自己目的化したことである。
 したがって、ありふれた日常要求闘争の革新と強化を基礎として構造闘争を発展させるなどという発想は、『日本型構革論』からみれば、興味も価値もみとめられなかった。なにか目あたらしい新分野の開拓が『理論の切り売り』のために必要だった。こうして構造への介入をそれ自体として推進することによって構造的闘争を実現しょうという、子供じみた衝動のとりことなり、たびかさなる失敗と非難攻撃によって政策提起から運動論へ組織論へと転変した。……要するに『日本型構革論』 の諸理論は、一貫性がなく有機的統一がない。このような理論的分散傾向は、『日本型構革論』が内にもつ主体の喪失、労働者党の問題の放棄こそ決定的原因であることは、ほぼ理解されることと思う。以上のすべてを通じて、『日本型構革論』の本質は、民主主義・社会主義の道の解体であり、日和見主義的修正であることはいまや明らかであろう。」(前掲六〇ページ)
 そして、その理論内容・構造の欠陥として、客観的分析の方法論や古典の引証から無媒介に現実の革命的戦略論をくみたてたところにあるという。そこには民主主義・社会主義革命の政治理論がなく、また革命の主体形成の理論がなかった。また民主主義的介入から構造改革への可能性一般の論証にとどまり、政策提起に終る理論は革命理論とはなりえない、としてつぎの三点をあげる。①国家の二重性(公的機能と政治的機能)から労働者階級の介入の可能性をひきだす点(すなわち公的機能の民主主義的利用の安易な強調でなく、支配階級の国家的ヘゲモニーにたいするねばり強い「陣地戦」の強調の必要)②一般民主主義の評価の強調はあっても革命の政治理論としての民主主義論をかく点(「新しい型の民主主義」と工場、自治体内でのプロレタリア的ヘゲモニー装置の不断の建設の必要性)③構造改革および民主主義的経済計画化がヴィジョン、プランに止る点(プランニングには同時に必ずそれを実現するのにどれだけのエネルギー、武器装置を要するか、どのような阻害条件が横たわっているかを対象としなければならない)。中村氏はまた別の討論で、複数前衛政党論をとなえる安東仁兵衛氏にたいし、それは消極的現状肯定になるのではないかと批判し、つぎのように総括している。「構革論は唯一の現代革命論あるいは先進国革命論として、あれほど期待を集めて登場しながら、実践的力量に転化できなかった。構革論のその多産性を多くの階級的活動家たちに実感させえなかったといいたい。それは、主として、構革という要素を民主主義・社会主義革命の全体の論理と、それを推進する主体形成の論理から切り離して、ストラクチエラル・リフォーミズム、つまり、資本主義の現代的な構造変化への対応を含みながら、やはり改良主義的な偏向に陥ったと考えるわけです。」(対談中村丈夫・安東仁兵衛「構造改革派組織論の再検討」『現代の理論』六七年二月号二一ページ)
 この批判的論文の結論として中村・藻谷氏はいう。「『日本型構革論』は死して生きなくてはならない。生命がけの飛躍がせまられている。」(前掲「新世界」論文六五ページ)と。主体–新しい前衛党形成への努力の欠如と現代社会主義革命論としての構革理論の欠如、中村氏の指摘したこの二点について、わたくしもまた賛成であり、ここに日本構改派の基本的欠陥があったと思う。

 4 日本構改派の解体

 日本構改派が 「死して生きる」べき機会が六六年初頭におとずれる。積極的な要因からではなく、しだいにじり貧におちいり、このままでは消滅の危機にさらされた、各セクトの「総結集」の形で。
 「日本のこえ」志賀義雄氏の提唱にかかるこの総結集は、かなり長期のすったもんだの末、六七年十二月、かろうじて実現した。社革の主流(中村氏らは社会主義労働者同盟を結成して、この総結集に加わらない)、六一年春に社会主義統一有志会を結成していた、春日庄次郎、原全五の諸氏、及びいいだもも氏など非「構改派」を自称するもと日共官僚理論家をふくむ「日本の声」の一部(肝心の提唱者志賀氏らは、この総結集に加わらなかった。けだし六六年二月~四月、宮本代表団の訪中と毛沢東との決裂によって「自主独立」コースにきりかえた日共の情勢とこの情勢をみこして政策を変化させたモスクワよりの指示に従ったものであろう。因みに日・ソ共産党の接近はそのご七一年において実現した)によってである。前衛党アレルギーの統社同ははじめからこの総結集には冷淡だった。
 こうして六七年十二月共産主義労働者党が誕生した。しかし、それは「虚妄の『正統主義』を基調に派閥連合を再編成しようとする不毛の試み」(中村、前掲)といわれてもしかたないような弱い組織的側面と理論的弱点-社会主義革命論としての構造改良論を真正面からかかげない~をもつものであった。
 そうこうするうちに、六七年十・八羽田闘争、フランスの五月、チェコ事件と相ついで国内外に大激動があらわれ、それは六八年~六九年の全国をゆるがす大学闘争と新左翼の大量な進出にひきつがれる。そして統社同も、共労党も社労学同でさえその傘下の学生大衆(フロント、プロ学同、等)につきあげられ、解体してゆく。これらの学生青年たちはやがてマルクス主義を捨て去ってエセ・トロツキズム、アナルコ・サンジカリズムの小ブル急進主義にとらえられてしまう。もともとマルクス主義の原理的把握もまして真の構造改良論もなかったこれら小ブル学生指導者が、心情的なラジカリズムのまま内ゲバのテロリズムと大げさな権力への武装闘争論にとらえられ、学園闘争より権力闘争へと暴発し玉砕してしまったのは必然的であった。
 この学生新左翼の「政治的熱病」の「まんえん」によって、統社同、共労党の指導部はのっとられ、構改派は追放された。かくて日本構改派は、完全に瓦解してしまったのである。社会党でもまた情勢は同様だった。江田派は、構造改良をすてて純粋社民として現代革新研究会を結成し、社青同の青年たちの一部は新左翼へ突進し、また若手党官僚もまた、社会党内の真の革新グループ・構改派たる自己に自信を喪失し、日本構改派はここでもまた、解体蒸発直前の情況にある。(「現代社会主義」誌の廃刊、社連研の停滞)
 もっともすぐれた先進国現代革命論者たるべき日本構改派が、かくもバカバカしい即時武装蜂起をとなえるアナルコ・サンジカリズム的新左翼にかんたんにのっとられ、解体させられてしまったのは何故か。ここにさいごの問題点がある。
 それはさきに指摘した日本構改派自体の体質と理論的弱体に求められねばならないだろう。もっとも、さきにのべたように、いち早く日本型構革論の欠陥を指摘した中村丈夫氏自身もまた、この激浪にまきこまれてしまったのは遺憾であるが。ことほどさように学生青年大衆をとらえた激動が大きかったし、指導者たちが、この「狂気」の激流におし流されてしまった、といえるのであろう。ファノン・ドプレ、マルクーゼに理論的源流をもつ世界の学生反乱も現在ではフランス、西ドイツ、アメリカともに台風一過の如き沈滞と分裂の状況にあるといわれる。わが国の場合新左翼は欧米のようなはっきりした理論的確信よりもよりムード的心情的なものにもとづくため、また告発された問題が何一つ片づいていないという理由によって、時折のけいれん的大衆的「暴発」や小グループの「玉砕暴発」はあるかも知れないが、たとえばロシア・ナロードニキの歴史の先例にあるとおり、ますます空しい「個人」テロリズムの徒花と化し、七〇年代日本独占にとって、体制反動化にもっとも好都合な口実・契機としてつかわれることもあるであろうが(註5)、全体として新左翼運動の敗北は明白であろう。

註5 小寺山康雄氏の 「構革派解体におけるわたしの責任」(「現代の理論」七〇年十二月号)について一言ふれておきたい。いくら年少であるとはいえ、またいくら小グループたりとはいえ、政治指導者の「責任」とは政治についてであって、それは自己の選択により生まれる「結果にたいする責任」である。この政治学のいわばABCが、小寺山君にはわかっていないらしい。「手をよごす」とか「よごさない」とかいった心情的あるいは宗教的(「汝ら罪なきものこの女をうて!」)レベルの問題とはちがうのだ。事実をまず卒直に事実としてみとめ、敗北を敗北として客観的に承認し、そのよってきたるゆえんを冷静に追求することである。新左翼の青年の(全部とはいわぬが)「薄弱な『過保護』の精神は、『挫折』すべき骨さえもっていないのではないかとうたがわれているわけだ」という本誌創刊号の私の感嘆にたいして、かれはかみついているが、君は一体全体の状況をどう考えているのか。なるほどごく一部には地にひそみ闘いを継続する部分はあるだろうが全体としてどうなのか。闘いが一見後退したかにみえながらじつは実力が貯えられており勝っているのだ、とでもいいたいのかーそれならば日共がこれまで大きな政治的転換=敗北期にいつも行なってきた「勝利」の総括、かれらが歌ってきた「ひかれものの小うた」の同類でしかないだろう。もっと冷静に客観的に自己と自己の政治的責任をみつめてほしい。残念ながらわたくしはこの小論からは構革論の継承と革新につながるような芽を見出すことができなかった。新左翼と同類の—あるいは中間派的—心情トロとはぎれの悪い自己弁護しか見出しえなかった。「内部からつきあげてくるわたし自身への批判」が、このような薄っペらなものでしかないなら、つまり、われわれの構改理論にこれこれの部分がかけていた、グラムシをほりかえして新テーゼー—「工場評議会」を見出し、これだ、これが欠けていたからわれわれは負けたのだ、という姿勢は、かつて経験した一つのパロディを想起させる。すなわち、五一年夏コミンフォルムの所感派支持発表で国際派の人々がすっかりまいっていたとき五〇年金学連の指導者の一人が誇らかに叫んだ。「もう安心しろ、もう大丈夫だ、おれたちがまちがい、失敗したことの理論的証明ができた!」と。どうも私には、中間派の「責任」や「総括」がこのパロディと二重うつしになってみえる。しかしこれらのくわしい検討は次号にゆずろう。マルクス主義にとって、理論はどこまでも行動の指針である。そして政治指導者はこの実践・行動に責任を負うものである。だから政治指導者の自己批判や責任は、心情的なもの—「政治が問題になるとき小ブル的倫理をもってする」最悪の政治的誤り(レーニン)—であってはならないし、また抽象的な学界討論的なものであってもならない。理論と現実の運動との間には、一定の媒介項があるのであり、これが組織なのである。構改派がその政治集団を「理論の切りうり」屋として自己規定せぬ限りこのような理論研究会的総括は政治的総括にはならないと思う。
 こうして日本構改派は解体し「死んで」しまったのである。読者の便宜のため日本構改派の系統図をかかげておこう。

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