【追悼】森さんの死を悼む(吉村励さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森さんの死を悼む     吉村 励

「森さん、ばかだなあ、どうして、だまって急にいってしまったんだい。」 もう世界を異にしてしまった森さんに語りかける言葉としては、これは不謹慎な言葉かもしれない。 だが私の心の中の本当の言葉は、これでしかない。 そして私は何度、山にむかって、林にむかって、海にむかって、またくれなやむ空にむかって、深い吐息とともに、この言葉をくりかえしたことだろう。私が持病の背椎分離症の発作をおこして、今年六月の大阪労働講座の代役に経済研究所の福田義孝君をお願いした時に、森さんは、つかれていたそうではあるが、まだ元気に聴衆にむかって語りかけていた。そればかりか、講座の後で、世話役のN君らとともに食堂に行って、天ぷらそばを二杯も平げたというそうである。 へばっていた私が、この悲しい文を書いており、元気だった森さんはすでにいない。通夜にもゆき、葬儀の列に出席した後でも、私はまだ、森さんがどこかに生きていて、 「吉村、いっちょう相手になってやろうか」と、将棋盤をもって、現われて来るような気がしてならない (葬儀の後で奈良短大学長の内田穣吉さん、市大経済研究所の崎山耕作君と三人で、天竜寺周辺をさまよいながら、しめやかに森さんを偲んで語りあった時の三人の実感が期せずして同じであった)。
 森さんと私が、とくに親しくなつたのは、 一九五〇年初頭のコミンフォルム批判で、日本の言論界が大きくゆらいだ以後のことであった。それに続く悶々の日々、ともに酒の飲めない私達二人は、時には川合一郎、吉村、または、川久保公夫、森、吉村、または小野義彦、森、吉村、あるいはまた森、吉村だけというくみあわせで、パチンコの「はしご」をしてまわった。歴史学会に出席のため上京した時、川久保君と私が車中で将棋をはじめ、終ったのは豊橋すぎで、あきれた森さんが 「おまえらの将棋は、序盤から中盤に行って序盤にもどる。だからきりがないんだ」と、玉のかこいかたを教えてくれたのも、この頃であった。それから「おまえの将棋は大和のつるし柿だ。へたなりに固まっている」という悪口をいわれながら、将棋の交際はつづいた。 「手でさすよりも口でさす」といわれた悪口の名人の森さんも、すでに私の 「上達」 については、あきらめていたようであった。その間一九五六年の「経済白書」 での 「もはや戦後ではない」との声明、 「一九六〇年の安保闘争」、安保以後の高度成長一九六八、九年のいわゆる「大学紛争」と時代が変わり、その間にスターリンの死、フルシチョフの秘密報告、ハンガリー事件、中ソ共産党の分裂、チェコ事件というような諸事件が頻発した。このような複雑で多岐な現象にたいして、森さんは常にマルクス主義の原則にたちかえって、ことを判断しようとしていた。森さんのもっとも嫌ったのは、修正主義であり、とくに官僚主義であった。哲学者として、彼は自分で考えることをとくに強調した。それゆえにこそ、彼は、自分で考えることをせず、新聞や小冊子だけの知識で、組織の権威を背景にして発言される言葉にたいして、本能的な対立と生物学的な反挽を示した。
 森さんは、常に自分で考えていた。森さんは歩くことが好きであった。歩くのが好きなのは、考えるからであった。森さんは書斎で思考するのではなくして、歩くことによって、思考していた。従って彼は間違いであっても、自分で考えぬかれた思想にたいしては寛大であった。 しかし彼は、思想の一部を統制や権威によって補足する官僚主義にたいしては、終生の敵であった。ある意味で、 『史的唯物論の根本問題』(青木書店) 以降の森さんの労作は、思考の怠惰と官僚主義、修正主義の克服にむけられていたといえよう。
 森さんは討議を好んだ。将棋の後、散歩の途中、喫茶店でコーヒーをのみながら、彼は討議を好んだ。 民主主義については、われわれは何度か激論をかわした。他のことについては、激論の後で、 一定の冷却期間をおいた後、両方がほぼ同じ結論に達するにもかかわらず(大学問題がピークであったころ、学生部委員会では、森さんと私の意見が常に対立した。森さんと私の間が、最も険悪であったのは、この頃である。しかしそれでも、すでに一九六九年の六月以降では、ほぼ同じ意見になっていた。)この問題だけは、不一致のままに終ってしまった。しかし森さんは、大体私の書くものを前もって知っていたし、私もまた森さんの書くものを前もって知らされていた。 レヴィットの一原始マルクス主義批判をはじめとして、哲学の領域で森さんの残した仕事は大きい。 しかし私は、もっと森さんに生きてもらいたかった。森さんの仕事はまだまだある筈だし、森さんはまだ五七歳にすぎなかったからである。われわれは、日がたつにつれて、質素で朴納で放浪家の哲学者がいなくなったことのいたみと悲しみを、多くの領域で強く感じるととだろう。くしくも、この文を書いている時、 キール→ヘルシンキと旅行中の共通の友人・真実一男君から、森さんの急死をいたむ葉書がついた。昨年の年末、文闘委が文学部教授会を急襲した因縁あさからざる嵐山の 「花の家」 で三人で徹夜して将棋をたたかわした真実君にとっても、森さんの死は 「青天のへきれき」 であったのだ。「森さんの急死、いくら考えても不条理だ。良い人間が死んで悪い奴が残る。」そして 「人の訃をきくやキールの秋時雨」の一句が付してあった。ロの悪い割に、内気ではずかしがりやであった人柄にふさわしく、こっそりとしかし風のようにさった友人の冥福を、今はただ心からいのるのみである。

カテゴリー: 社会運動, 追悼 | 【追悼】森さんの死を悼む(吉村励さん) はコメントを受け付けていません

【追悼】森信成の哲学思想

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森信成の哲学思想

            田中 はじめ 上田 三郎

「富と権力を持たない人民の現在におけるただーつの思想であるマルクス主義の力、その力の唯一の源泉は何であろうか。それは思想の力であり、理論の力である。もしマルクス主義が思想においてアイマイであり、理論において不確かであるとするならば、それはマルクス主義と人民にとって何を意味するであろうか。」(『史的唯物論の根本問題』はしがき)

 森信成氏はその生涯を、反動イデオロギーと修正主義に対する非妥協的な闘いに、そしてマルクス・レーニン主義哲学のエネルギッシュな啓蒙活動に捧げた。彼こそ、戦後日本を代表する戦闘的唯物論者であった。

 戦後の日本におけるマルクス主義の根本特徴は、主体と指導の側の思想的混乱のために、客観情勢の圧倒的有利さにもかかわらず、人民の政治的勝利、意識と組織の真の形成をもたらしえないでいることにある。氏はこのような時代によって提起された課題—-マルクス・レーニン主義の思想的・理論的原則性の回復とその貫徹—-に、哲学の領域において、誰よりも首尾一貫して取組んだ。「民科」における「主体的唯物論」への先駆的批判の時期からはじまり、五八年前後の党文化政策及び唯研創設をめぐる論争の時期、マルクス主義人間観の理論的展開と解党主義批判の時期、中ソ論争に呼応した毛沢東哲学批判の時期、そして、晩年の、コージングおよび日共(代々木派)の公然たる哲学的修正主義への批判の時期にいたる氏の活動の足跡は、何よりも雄弁にこのことを物語っている。
 もとより、これら各時期の詳細な紹介をも含めて、氏の哲学、思想上の活動の歴史的評価のためにば戦後日本唯物論史が書かれねばならない。(森信成氏自身、ここ数年来、それの必要性を強く訴えてこられながら、ついにその仕事を果すことなく他界された。われわれはこの遺志をうけついでぜひその実現のために努力しなければならない。)本稿の目的は、今後、われわれが氏の遺産を受けつぎ、思想闘争を展開する上で、共通の原則となるべき理論的遺産のいくつかを確認するにとどまる。氏の努力にもかかわらず、日本におけるマルクス主義の思想的混乱は一層深刻化の様相を呈している。否、われわれは、真の原則的立場が一時的孤立を余儀なくされている現実を卒直に認め、この混乱の克服のためにねばりづよい闘いをつづけてゆく決意を以下において表明するものである。

1 「思想上の平和共存」の拒否
 戦後のマルクス主義の根本的誤謬は、権力規定の誤りに必然的に照応して、思想闘争の対象—-戦後日本に支配的な反動思想を—一貫して誤って把握した点にある。戦後日本の思想的出発はきわめて複雑な様相を持っていた。周知のように、一九一七年のロシア革命をさかいに、マルクス主義が全世界的規模において思想的ヘゲモニーを確立したもとでは、小ブル主義やブルジョアイデオロギーですらもが、多くの点でマルクス主義的外観を装うにいたる。マルクス主義と独占体のイデオロギーとの厳密な区別や、修正主義の批判がとりわけ重要となるのはこのような事情に由来する。ところが日本の場合、このことに加えて、本来、独占体のイデオロギーにほかならない近代主義的自由主義(実存主義やプラグマティズム等)が、戦前においては天皇制イデオロギーによる弾圧を受け、しかもその一部はマルクス主義的外観をまとったという事情があった。したがって、敗戦による天皇制の崩壊にともなって、一方では、近代主義が支配的イデオロギーとして自立してゆき、他方では、近代主義者が大量にマルクス主義に接近するという複雑な過程を見極めること自身が非常に困難となった。戦後初期におけるマルクス主義のイデオロギー的混乱と困難さはこのような歴史的条件に起因している。しかし注意すべきは、この混乱がいつまでも克服されず、むしろ日本帝国主義の復活、強化にともなって、思想上の公然たる体制内化(「思想上の平和共存」)に継承されていったということであろう。
 五〇年以前においては、反動イデオロギーが「半封建的天皇制イデオロギー」と規定された結果、本来帝国主義のイデオロギーにほかならない実存主義やプラグマティズムが、単にプチ・プル思想=同盟軍思想とされ、この「同盟」に基づいて「半封建」に近代主義的「エゴの自由」が対置された。五〇年以降「反帝・反封建」が唱えられた際にも帝国主義イデオロギー(特にプラグマティズム)は アメリカによって持込まれた「外来思想」であることが強調されてプルジョア民族主義(「日本人として」)がこれに対置されてきた。そしてこのような近代主義的民族主義的階級協調主義は、共産党八回大会以降、現在まで基本的に受け継がれている。帝国主義はもはや「独自な積極的な思想体系を持ちえぬ(文化政策草案)という代々木派の思想闘争における対象喪失は、帝国主義イデオロギーとの闘争を放棄しこれに屈服したことの、逆立ちした表現である。かくて、戦後のマルクス主義は「思想上の平和共存」 (マルクス・レーニン主義の諸原則の放棄と階級協調)の歴史であると言っても過言ではない。マルクス主義を西田、サルトル、ウェーバー、フロイト等によって「補完」しようとする新左翼や、「異なる立場の人々」との「広い討論と交流」によって党の体質改善をはかろうとした解党主義(『現代の理論』グループ)、そして「民主主義哲学を築くこと」を目指した「民科」にはじまり、最近の古在由重・芝田進午の市民主義的、生産力主義的修正主義(主体的唯物論)にいたる代々木派まで、マルクス主義の思想的敗北の深刻さは、目をおおわしめるものがある。
 森信成氏は、このような事情のなかで戦後マルクス主義の思想的混乱をいち早く理論的に総括し、思想上の真の戦略的課題を呈示した(五八年)その際の大前提は、マルクス主義の権威の回復はマルクス・レーニン自身の高い原則性に基づいてのみ、はじめて可能であるということであった。そしてこのことこそ、氏の理論活動を貫く赤い糸である。

ニ 唯物論か観念論かの問題を理論と実践の全領域に貫くこと

 「思想上の平和共存」は、哲学の領域では、当然のことして、唯物論と観念論の対立を「より高い立場」に「揚棄」しようとする企図として、また消極的には、唯物論か観念論かの問題提起をセクト主義、教条主義と非難する傾向(蔵原惟人ほか)としてあらわれた。氏の全著作が哲学の根本問題である唯物論か観念論かに献げられていると言っても過言ではないほど、彼がこの問題にエネルギーを集中したのは、戦後唯物論のこのような事情に基づく。氏は、唯物論と観念論のあいだにはいかなる和解や統一の余地もなく「第3の道」(主体的唯物論)もまた、現代観念論の一形態他ならぬことを詳細に論証した。しかし氏は、従来よく行なわれた、論証抜きの「断種的発想」をもってこれを行なったのではない。氏は丹念に、エンゲルスの唯物論と観念論に関する命題の意味を吟味し、そこに即時的に含まれているいる全内容を積極的に展開し、マルクス主義への観念論の浸透の諸形態を批判の対象に即して具体的に示した。(1)非合理主義を根本特徴とする支配階級のイデオロギーは、当然のことして唯物論の非合理主義的解釈(観念論=合理主義、唯物論=非合理主義)を生みだした。これに対して氏は、窮極の原因を物質的なものに求める唯物論の見地が、意識現象をも含め一切の現象を必然性において把握することを意味すること、これに反し窮極の原因を精神すなわち必然性を根底に持たない自由に求まることは結局において「無からの創造」を説くことになる点を強調して、観念論と宗教および非合理主義との、そして唯物論と科学および合理主義との本質的同一性を明示した。(2)唯物論を「ありのままの把握」に還元する実証主義的修正主義(山田宗睦など) には、意識から独立な物質の本源性の承認を唯物論の根本規定として対置した。(3)主体的唯物論の「存在」(「主体物質」「哲学的もの」等)に対しては感覚的所与規程を対置し、無規定な、従って感覚に決して与えられることのないかかる「存在」は、唯物論の、明確な規定をもてる物質存在とは無縁なものであることを明らかにした。(4)唯物論か観念論かの対立を物か心かの二元的対立にすりかえ、両者共に悟性的一面的だとして、この対立を「弁証法的」に揚棄するという主張に対しては、唯物論も観念論も共に一元論であって、問題はどちらが本源的かという点にのみあることを強調した。(5)世界の物質性の承認の問題を世界の弁証法的統一性(物自体)の認識の問題にすりかえ、その結果、唯物論か観念論かの問題を弁証法(方法) の問題に還元する梯、ザイデルなどの見地に対しては、世界の物質性は実践的・直接的確証の問題であって媒介的論証の問題ではないことを明示した。また、史的唯物論に関しては、(6)戦後日本に支配的な上部構造決定論に対して、土台による決定の立場を貫き、一方で機械的決定論を排して上部構造の相対的自立性と土台への反作用を強調しつつ、この反作用そのものが土台による決定の範囲内における反作用であることを明示した。(7)史的唯物論における社会的諸関係の物質性を、その基礎にある生産諸力(労働力、労働手段、労働対象)の物質性にのみ求める主張(これは必然的に生産力理論に行きつく)に対し、社会の物質性の承認は、生産関係の形成・存立・消滅の法則自体が意識から独立であることの承認と結びつけられねばならないと主張した、など。

三 意志決定論の貫徹

 人間と自由の問題こそ、唯物論と観念論がそれをめぐって闘った戦後の中心問題であった。だが、まさにこの中心問題において、戦後マルクス主義は混乱と敗北を余儀なくされたのである。それは戦後日本のマルクス主義が、唯物論=意志決定論は人間から自由と能動性を奪い宿命論と安易な状況追随をもたらすという、根強い偏見を克服しえず、自らそれに感染してきたことに由来する。したがって自由(主体性)の問題に関して森信成氏は、意志決定論の貫徹を主張し、自由を必然性に基づけて把握する見地を、必然性を根底に持たない非合理主義的意志自由論に対置した。氏はヘーゲル、フォイェルバッハ、プレハーノフなどに依拠しつつ、非合理的意志自由論こそ、人間の自由行動の根底にある課題解決への意欲と明確な目的意識性、およびこの目的の現実的勝利の必然性への確信を与えるところの物質的必然性を奪い去り、それによって、ディレッタンティズムや無為主義、あるいは絶望的妄動主義を生み出すことを明らかにし、意志決定論のみが人間の自由が可能となる唯一の前提であることを証示した。すなわち、小プル的ハネ上りと挫折の思想的背景となったいわゆる「実践の哲学」が、そこから行動を導き出す超越存在(「人間そのもの」「実存」「本能」など)は、実はと直接的体験・気分、またはたかだかその二重化に他ならぬこと、したがってこういうたぐいの 「存在」 に忠実であること(「主体真実」)は、既成事実への無原則な追随とむきだしの主観主義・本能主義を意味すること、自由はそこにおいては悠意の自由に他ならず、主体性は無原則・無方向の単なる動物的自発性(闇の衝動力)に販められていること、等々。

四 「自然発生性への拝脆」批判と指導性の擁護

 このような自由の近代主義的把握は、政治的実践における、指導性および革命理論の拒否と放棄、体験主義と大衆追随主義に結びついている。戦後日本の前衛党が一貫して大衆追随と誤った政策の官僚主義的、セクト主義的押しつけという、指導というもおこがましい「指導」に終始してきたこと、さらに「実践・認識・再実践・再認識」という正真正銘の試行錯誤論にほかならない毛沢東「実践論」の学習を通じて、プラグマティズムの「実践」観がマルクス主義のなかに恐るべき影響をもったことと関連して、指導性、革命理論、意識性は全く不評判なものになりさがっている。われわれは、「一般情勢はマルクス主義で、具体的状況は実存主義とプラグマティズムで」という定式や、「かたい決定論からやわらかい決定論へ」という主張、「集団認識による全面認識」を説いて指導者の指導の責任を免除する集団認識論、さらには、『資本論』や一般に科学は革命の必然性を証明しえず、革命の必然性は理論の彼岸にある人間の主体的行動によってのみ実証しうるという「宇野理論」にいたるまで、このことに関する無数の事例をみることができる。
 意識性と指導性の決定的たちおくれと、それらにたいする「生理的拒絶反応」の一般化という情勢のなかで、森信成氏は「科学的革命理論と指導なしに革命なし」というレーニン主義的原則に立って、それの貫徹のためにねばり強い論戦を組んだ。この問題は哲学的には党派性と科学性、階級性と人類性、理論と実践の統一の問題として提出された。(1)党派性と科学性の問題に関しては、いかなる階級が客観的存在の矛盾の陰蔽ではなくその暴露に利益を感じ、またその逆であるのか、と問題をたてねばならず、また、虚偽意識としてのイデオロギーの源泉は階級性一般にあるのではなく私有財産の特定の形態とそれに基づく特権の絶化対にあること。(2)世界史の発展の必然性は、裸で現われず、資本主義社会にあっては発展する生産力要求を反映するプロレタリアートの階級的利害とその集中的表現たる政治的課題として現われること。したがって、理論と実践の統一とは、単に主観的にプロレタリアートの立場に立つことではなく、このような発展する現実(否定的必然性)の意識的表現となること、具体的には科学的政策・指導およびそれに基づく実践によって理論を思想化することであること。(3)そしてその際、具体的対象(発展する現実) の具体的論理の把握—-それに基づいてのみ科学的政策が可能となる—-は、労働運動における体験・実践から自然発生的には生じえず、社会の運動法則にかんする高度な理論的把握を必要とすること。それゆえにこそ、社会主義的意識や科学的政策は、労働運動の外部から労働運動の内部へもちこまれねばならず、指導性がそれの不可欠の前提であること、など。

五 民主主義の擁護と発展

 自由をめぐる論争のいまーつの焦点は民主主義であった。この問題に関する戦後マルクス主義の根本欠陥は、近代主義のいう「近代的」(実は帝国主義的現代の)自由(エゴの自由)と近代の民主革命期の自由(基本的人権と理性の自律)との間の根本的対立を把握しえなかった点にある。したがって、戦後マルクス主義は、一方では「現代」のもとに「近代」を理解して近代主義的自由主義に妥協し自らそこに転落した。しかし、民主主義=「エゴの自由の尊重」という近代主義的理解においては、万人がそこにおいて一致するところの真理と利害の客観的基準があらかじめ排除されているのだから、民主主義とは要するに多数決という「多数の暴力」「ゲバルト次第」に、また「少数意見の尊重」を理由にした「第二組合の自由」や反組織、反指導のアナーキズムにならざるをえない。他人の隷従を前提にしてのみ可能なこのようなエゴの自由の完成された形態はさにファシズムにほかならない。しかしまた他方で戦後マルクス主義は、近代の民主主義的自由に現代のエゴの自由を移入して、両者をブルジョア自由主義・個人主義名のもとに一括して、これにプロレタリア的階級性や党派性を対置した。これによって、階級の利益や党の利害の名のもとに民主主義を平気で蹂躙するという恐るべき極左主義・セクト主義に理論的根拠が与えられたのである。こうした見解は過去現在にわたって、緊急な課題として提出された民主主義闘争を軽視する日和見主義を合理化し、それを助長してきた。党外においてはセクト主義による大衆運動の破壊を、党内においては組織内民主主義の破壊をもたらしたことは周知の事実である。民主主義はこのように反動の側からも、マルクス主義陣営の側からも否定的評価をうけ歪曲されてきた。
 このような状況にあって、森信成氏が生涯かわることなく民主主義の真の本質を示し、その擁護と発展に尽力したことはわれわれすべての知るところである。民主主義は法の前の平等から経済的・社会的平等に進む論理的必然性をその中に含んでいる。近代の興隆期ブルジョアジーはその歴史的・階級的限界の枠内ではあれ、このような人類平等の革命的実現を掲げた。だが帝国主義的現代のブルジョアジーは自己の特権を擁護するため民主主義の公然たる破壊者として現われ、したがっていまやプロレタリアートが民主主義—-ブルジョア民主主義も含めて—-の継承者にして担い手となっていることを氏は強調した。だが同時に、民主主義とは国家でありその一定の政治的支配形態である。したがって氏はまた、階級的見地を超越して「民主主義」を考える日和見主義とも闘った。さらに、組織内民主主義に関しては、氏はとくに思想闘争の権利の不断の保障を強調した。民主的決定とは多数決—-これは行動統一の原理として重要な意味をもつが—-を意味するのではなく、その決定内容が基本的人権の保証と拡大を表現しており、かつ、客観的真理を科学的に反映しているような決定を意味する。氏が「思想闘争の権利こそは科学的真理が組織内に貫徹する唯一の通路である」(『マルクス主義と自由』9頁)と主張するのはマルクス主義にとって真理の基準は組織の決定や綱領の外部に、意識から独立な客観的存在のうちに横たわっているからである。

六 主体的唯物論批判

 日本における戦後の哲学的修正主義は「主体的唯物論」として結実し、今や古在由重はじめ日共代々木派をも含めて、巨大な潮流を形成している。森信成氏の「民科」における主体的唯物論への先駆的批判 これは実に二十三年も以前のことに属するが—-は、今やますますその意義が強調されねばならなくなっている。ここにその基本点を要約して紹介すると、(1)彼らは唯物論で言う意識(感覚も含めて)から独立な物質存在を、感覚と同一視し、それを無性格で規定を持たない実証主義的「交渉存在」に変えたあと、(2)実践主体としての人間—-歴史的、社会的、身体的に規定された、かつ目的意織的な—-を、合理的思惟を超越した非合理的感性・無規
定な能動性(実存)として把え、(3)ついでこのような主観客観の対立(これが彼らにあっては唯物論と観念論の対立と等置されるのであるが)を、存在論的存在(無)—-主客の根底にその未分としてあり、その能動的尖端が非合理的感性(身体)であるような—-の内に解消する。(4)この主体の実践がすなわち生産力であり、さらに生産関係をもまた感性(生産力)に対する自己意識的側面として主体の中に即自的に含ませ、(5)このようにして一切の客観的社会存在・関係を右のような「実存」の実践的自己疎外の所産として把握する。(6)したがって、社会の運動・変化は、結局、非合理的感性(無)が合理的形態(有)を破って行くという、不断の「無からの創造」と被造物のニヒルな否定の過程として把えられることになる。(7)以上のような主体的唯物論の主張の現実的・実践的意味は、第一に、生産関係を「自由」なる主体の自由な創造と止揚に基づけたことから、極端な主観主義的ハネ上りを生みだし、第二に、主観=客観のあいだにのみ「弁証法」的対立を見ることから、階級闘争を否定する生産力理論や技術史観を生みだし、第3に、生産関係を実践主体の自己意識に解哨したことから、政治的実践を観念的な「哲学者の実践」に還元するペダンティズムを生みだすことなどにある。

七 「自主独立」路線の哲学的帰結と唯物論の課題

 トロッキズムは日共代々木派の右翼日和見主義と分裂主義に必然的に伴う影であり、本体の理論的・実践的克服なしに影の克服はない、とは森信成氏の一貫した主張であった。われわれの印象に生々しい最近の論文「日共代々木派の哲学とルカーチ・コージングの哲学」で氏は再びこの問題にたち返っている。かつては森信成氏の民主主義擁護を修正主義と排撃し、氏の毛沢東哲学批判に対して「熱烈に」毛を弁護してきた代々木派の哲学者たちは、代々木が中共と手を切り議会主義と自主独立路線を歩みはじめるやいなや、掌を返すように、今度は正真正銘の右翼的、修正主義的「民主主義」(「議会制」民主主義)を「基礎づけ」、他方では毛沢東弁護論のなしくずし的修正(なかには高田求のごとく公然と自己批判する者もいるが、いずれにせよ歴史は抹殺できない)やっきとなっている。こうして、哲学的支柱を失った代々木派は今度は東独コージング派の主体的唯物論にそれを求めるに至った。すなわちコージング派の「弁証法的=史的唯物論」哲学を媒介にして、代々木派の主体的唯物論への完全な合流が実現したのである。従来、マルクス主義哲学のある種の権威とみなされてきた古在由重や芝田進午がいかにお粗末な模倣と屈服に終始しているかが、前記論文において徹底的に暴露されている。それは正に祖国防衛、議会主義の第2インター的ブルジョア民族主義と階級協調路線を公然と歩み始めたことに照応した、公然たる哲学的修正主義にほかならず、哲学上の体制内化である。
 なるほど、代々木派の主体的唯物論へのこうした屈服は、マルクス・レーニン主義と唯物論哲学の一時的な孤立を一層深めるであろう。しかし忘れてならないことは、森信成氏が強調しているように「最近のいちじるしい特徴はザイデル、コージングを媒介として両者(代々木とトロッキーズム)の本質的同一性が極めてはっきりしてきたこと」(「知識と労働」第ニ号七五頁)、従って逆に、修正主義をその原理においてあますところなく暴露、粉砕する条件か成熟しているということである。 「原則の領域では孤立を恐れてはならない」、これが森信成氏の信条であった。氏の著作活動そのものが示しているように、原則と理論の領域ではまさに、「我に足場を与えよ、然らば地球を動かさん」(アルキメデス)である。氏が戦後の困難な条件の中で築き上げてきた哲学上、思想上の遺産は開花せずにはいないだろう。後に残されたわれわれの任務は重いが、われわれはこの道を力強く進む。

 

 

カテゴリー: 思想, 歴史, 社会運動, 追悼 | 【追悼】森信成の哲学思想 はコメントを受け付けていません

【追悼】遺志継ぎ前進しよう( 民学同統一会議)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  遺志継ぎ前進しよう
               民主主義学生同盟統一会議

 一つの欠くるところなき世界観であるマルクス主義の哲学たる弁証法的唯物論の、わが国における最も優れた哲学者にして革命的実践家である森信成先生が、去る七月ニ十五日未明、突然死去された。
 先生は、わが同盟の生みの親であり、その哲学理論は、わが同盟をささえる背骨であった。その名と人柄は、常にわが同盟の最も近しく、親しきもののーつであった。
 「富と権力を持たない人民の現在におけるただーつの思想であるマルクス主義の力、その力の唯一の源泉は何であろうか。それは思想の力であり、理論の力である。もしもマルクス主義が思想においてあいまいであり、理論において不確かであるとするならば、それはマルクス主義と人民にとって何を意味するであろうか。」 この『史的唯物論の根本問題』冒頭の言葉にはじまり、最近の、雑誌『知識と労働』における労作にいたるまで、先生は、その革命的情熱と透徹した唯物論思想(科学と民主主義)で、うむことなくわれわれを指導し、励ましてきた。
 意識現象をふくめて、いっさいの現象を、非合理的なものの一分子も含めず物質的必然性にもとづけて科学的に説明しようとするのが唯物論の見地である。この見地は、現存する矛盾解決の、手段と目的を、現実のなかにのみ求める。この見地は、われわれが発展する現実(新しい革命的必然性)の意識的推進カとなること、すなわち、具体的な、科学的な、革命的な政策やスローガンをうちだし、これにもとづいて行動することを命じる。この見地を貫徹するためには、われわれは、常に、いわゆる 「経験主義」 や 「革命的空文句」にもとづく「急進主義」と明確に一線を画さなくてはならない。

 森先生は,戦後一貫して、マルクス主義の歪曲と硬化に対して闘った数少ない理論家の一人であった。この歪曲と硬化の原因は、理論的には唯物論の見地の無視と放棄であった。これに対する先生の闘いは、決して平坦なものではなかった。先生の生涯は、論戦の歴史でもあった。日本の前衛党が、唯物論の原則を逸脱し、実感主義—合法則的な土台の科学的分析にもとづかない、上部構造決定論—政治主義 にはまりこんでいるなかでは、一時的孤立を余儀なくされてもきた。しかし先生の理論と実践の正しさは、マルクス主義の停滞と歪曲をもたらしたものに対する最大の敵であった。従来日本唯物論哲学の代表者と自他ともに許していた古在由重の理論も先生の批判の前にさらされたとき、それがマルクス主義とは異形の造物であることを隠しおおせなかった。
 先生は、その仕事を「季刊理論派」(主体的唯物論)批判から始めた。この仕事は日本のマルクス主義哲学の一大画期であった。また先生は、戦後日本唯研の創立者の一人であった。最近は、大阪唯研編集の雑誌『知識と労働』に熱筆をふるい、大阪労働講座で若い労働者にマルクス主義哲学思想を熱心に教育していた。特に若い労働者、学生は、先生の理論をむさぼるように学び、講演に耳をかたむけた。労働運動、学生運動に対する先生の献身的努力は、大阪の地を中心に全国各地に強固な根を張り、今や大きな幹として成長しつつある運動に、すばらしい結実を約東する不可欠の推進力であった。
 森先生の天折は、日本の革命運動、とりわけ唯物論思想界に一大打撃をもたらした。わが同盟にとっても消し難い痛苦である。われわれは偉大な先生の遺志を継ぐことが簡単であるなどとは思わない。これの至難なのは、われわれにとってのみでないことも知っている。しかし、われわれは、この継承、発展が無条件にわれわれの任務であることを認める。
 わが同盟は、先生の科学と民主主義の理論を指針として、学生運動を指導してきた。わが同盟は、全国学生運動の統一をはかり、世界と日本の平和勢力、特に巨大な労働運動と結合して、反独占民主主義運動の一翼を担うべく努力してきた。しかし、現実が要求する巨大な大衆運動の展開の重大条件である統一した運動を、恒常的に保証する組織的統一に対し、わが同盟自身、かならずしも十分ではなかった。現実の要求するところは、また先生の要求でもあった。
 先生は、死の直前まで、運動の発展のため、分裂に終止符を打つことを強調し、そのために助力をおしまなかった。わが同盟は、先生の助言に耳をかたむけ、率直かつ公正に組織統一の回復のため全力をあげなければならない。
 先生の死による今日の深い悲しみをわれわれは直視する。同時に、先生の理論と実践を指針とする、明日の運動の巨大な発展を、われわれは確信する。最後に、われわれは、先生の実践とその全著作に、時をうつさず、全面的に学ぶ作業を開始することを誓い、追悼の辞の結びとする。

一九七一年八月五日
(付記)これは民主主義学生同盟統一会議機関紙『デモクラート』昭和四六年八月四日号より諒解を得て、転載したものである。 (「知識と労働」編集部)

カテゴリー: 歴史, 民学同, 追悼, 運動史 | 【追悼】遺志継ぎ前進しよう( 民学同統一会議) はコメントを受け付けていません

【追悼】森信成先生の急逝を悼む(大阪労働講座)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

  森信成先生の急逝を悼む
                      大阪労働講座実行委員会

 森信成先生の突然の死は、我々を深い悲しみに陥れた。その日、大阪労働講座実行委員会のメンバーは、社会科学入門講座を無事終え、受講者とともに兵庫県香住の海辺に真夏の一日を楽しんでいた。しかし、森先生急逝の悲報が伝えられるや、我々はしばらくそれを信じられず、ただ茫然とするばかりであった。聞けば、大阪労働講座主催の社会科学入門講座が先生の最後の講演になったという。いま我々は、六月一七日の哲学コース最終回において、先生が、お身体の調子が余り良くないと言われながらも、あの張りのある確信に満ち溢れた話し振りで弁証法あるいは偶然と必然について講演されていたのを悲痛な気持で想い起こす。おそらくその時、すでに病気は先生の痩身を冒しており、先生は最後の気カを振りしぽって我々に語りかけておられたのに相違ない。
 思えば、先生は大阪労働講座のかけがえのない大きな支柱であった。労働講座の運営についても、労働者教育には労働者の意識水準の把握が大前提であることなど、しばしば貴重なご忠言をいただいた。こうして、1967年1月25日の桃谷における第1回連続講座から死の直前まで、我々は先生から限りない励ましとご支援をいただいたのである。いま我々は、先生に対して感謝の気持でいっぱいである。
 いうまでもなく、先生は、日本の生んだ数少ないマルクス主義哲学者のひとりであり、常にマルクス主義の原則性と党派性を擁護するための闘いの最前線に立っておられた。同時に先生は、マルクス主義を真に労働者階級の闘いの武器とするために、労働者のなかにおける啓豪活動がいかに重要であるかをカ説され、みずからも寸暇を惜しんでそれに精魂を傾注された。先生の戦後の出発が尼崎労働学校における労働者教育であったと伝えられているが、これは決して偶然の出来ごとではなかろう。その後、先生は、マルクス主義のさまざまの偏向とのきびしい理論闘争の最中においても、大教組、大阪唯研などにおいて熱心にマルクス主義の真髄を説かれた。
 我々が先生から教えられ、運動の指針としてきたことは余りにも多い。我々が労働運動のなかにおいてともすれば陥りやすい経験主義・実感主義を強く戒められ、我々を必然性の洞察—-我々の意識から独立の客観的存在とその発展法則の認識へと駆り立てられたのは森先生であった。また先生は、今日労働運動の内部に根強く残存している階級協調主義が運命共同体思想すなわちブルジョア民族主義と深い連関を有しており、その克服が急務であることをくり返し強調された。さらに、死の直前においては、一部左翼が労働運動を放棄し、市民主義・議会主義に転落しているその哲学的基礎を明らかにされ、我々が階級的視点を堅持するうえでの大いなる教訓を与えられた。
 いま、自本の労働運動は、世界資本主義の危機が深化するなかで、大きな転換点に立たされている。すなわち、労働者階級が激化する帝国主義間の矛盾に幻惑されることなく、先生の長年の主張であった—-社会進歩の基準=生産力の発展=労働者階級の要求にのみ基礎をおく強大な労働戦線を構築することが要請されている。この重要な時期に森信成先生を失ったことは、我々、ひいては日本労働者階級にとって計り知れない打撃であり大きな不幸である。しかし、森先生が、壮絶ともいえるその全生涯を賭けられた日本労働者階級の解放という大事業はなんとしてでも為し遂げられねばならないし、これこそが、ほかでもない森先生の我々に残された最大の任務であると考える。
 我々大阪労働講座実行委員会は、いまここに森信成先生の霊の安らかならんことを願うとともに、先生の生前の遺志を継いで、これに一歩でも二歩でも迫るべく、微力ながら全力をあげることを誓うものである。 (一九七一・九・二四)

 

カテゴリー: 歴史, 社会運動, 追悼 | 【追悼】森信成先生の急逝を悼む(大阪労働講座) はコメントを受け付けていません

【追悼】森信成の死とその生涯(小野義彦さん)

「知識と労働」第3号 1971年12月
【特集2】森信成追悼

     森信成の死とその生涯

                     小野義彦


 われわれの親しい友森信成は、五十七歳という若さで、さる7月25日午前6時、阪大病院で突然死んだ。その少くとも半時間前、彼の体内で彼の生命を奪うほどの何らかの飛躍的異変が起り、一言の遺言を残すとともなく彼は死んだ。天性快活であけっ放しの才気にあふれていた日頃の彼とは打って変わったその最期の姿が余りにも強い印象として私の眼底に残っているので、まだ彼について書くのは早過ぎるような気がする。

 彼のあのように早い死は誰にも予想されていなかったので、病状の急変に気がついた病院関係者以外、彼の肉親者もわれわれも誰一人臨終に立会うことはできなかった。だが、われわれを驚かせ悲しませた彼の死は、その病死という厳然たる事実からふり返ってみると、必ずしも偶然ではなかったように今は思う。

 7月18日の午後京都大徳寺の済生会病院五階の彼の病室に、本誌編集部のM君とともに見舞ったのが、ついに彼との最後の出会いになってしまった。そのとき私は、一見して彼がひどく痩せて衰弱しているのにおどろかされた。六月末に市大の研究室で会って話したときにも、疲れているとは感じたが、そんなに痩せてはおらず、中国問題や学生運動のことなど夜九時頃まで語りあったが別状はなかった。 そのニ、三日前には 「大阪労働講座」 で長時間の哲学の講義もしていた。胃かいようと肋間神経痛の疑いというのにこの衰弱ぶりはどうしたのであろうかと訝って付添婦にきくと、患者がわがままで病院の給食をたべないからだという。そのとき森は付添に遠慮しながら 「喰えるようなものがないんや」 とつぶやいた。 四~五日間もほとんど何もたべていないらしいだけでなく、「右に寝ても痛いし、左に寝ても痛い、上向きにも寝てられへん」、「こんどのは前のと(彼は以前にも胃かいようを患ったごとがある) はちがう、桃山病院でとったレントゲンは胃は白やいうとるのやが」 ともらした。 それについては先の付添が重ねて口をさしはさんで、患者さんが胃カメラをのんでくれないので、はっきりした診断がつかんのですという。私はますます訝らざるをえなかった ものが喰えないのに、喰わないから衰弱するでは、いったいどうなるのか。私は医者ではないから、森の食欲が衰えている深い理由は判らないが、彼の病室の暑さの故もあろうと感じた。その病院は鉄筋ではあったが古い建物で冷房はなく、しかも森のベットは最上階の五階にあって健康な者でもたえられないほどに暑苦しかった。何とか冷房のある病院に移してせめて食物がロに入る状態にでもしなければ精密検査にもたえられないのではないかと思って、その場ですぐ彼に、自分の大学の病院で設備も新しい市大病院に移ってはどうかとすすめた。ところが彼は「市大病院はいやだ」という。なぜかときき返すと、どうも去る大学紛争中の医学部問題にとだわっているらしい。そんなおかしなことはない、紛争中、君は医学部の教授連の身代りになって監禁されひどい目にあったのだから大いばりで入院したらいいのだよ、そんなことを気にするのは君らしくもない—-と説得すると、急に気が変って、「ではそうするか」 と案外すんなり移る気になってくれた(本人の意志なのだからと私は翌日早速大学の事務局をつうじて上等のベッドを予約してもらったのだが、この件は森を京都におくこと
を望んだ家族の同意がえられずお流れになった。)
 看護婦の注意で面会は30分位ということであったが、彼がもっといてくれというので、二、三日前に発表されたニクソン訪中情報のことなど話し合った。すると急にうれしそうな顔をして 「米中接近は反ソやろ、そやないか」とか、ドル危機の見とおしはどうやとか、「知識と労働」の3号にはぜひ続篇をかきたかったんだがこんどはムリやなァなどと、かなり努力して、時々私の耳を近寄せるよう求めながら語った。彼を刺戟しないよう簡単に合槌をうつ程度にして、まあ、涼しい病院にでも移って元気が出てきたら大いにそういう問題を話し合おうと話しを打切った。私が帰りかけると彼は、私がが見舞いに持参したグレープ・フルーツとサンキストのオレンジに手を延ばして 「それ絞ってほしいねん」と真顔でたのんだ。もし患者が飲めなければ御家族にでも位の気持でもっていった私がびつくりして付添婦にはかると、「患者さんはビタミンCのとり過ぎですよ、これ以上飲んでどうします。オシッコが臭そなるだけですよ」 と叱られた。何もたべられない人が欲しいといってるのだからと看護婦室にまでききに行くと、センイ質がないよう絞ったものなら構いませんという返事だったので吸い飲みにして口にふくませてやると、「うまい、うまい」 といって咽喉を鳴らしながら全部飲んだ。私はよかったと嬉しくなり、いろいろ考えたあげくこの見舞品がよかろうとすすめてくれた妻の助言に感謝した。

 森の予想外の病状とその病室の状況からしてこのままにしてはおけないと強く感じた私は、その日大阪に帰るとすぐ友人たちに電話して集まってもらい対策を協議した。その人たちの中には、唯研で森の教えをうけた医師の諸君もいて、翌日すぐ京都の病院を訪ねてくれることになった。彼らの判断は、 一、潜血反応が強陽性なので精密検査により早急に出血部位とその原因をつきとめる必要がある。 二、全身衰弱と体重減少がきついので冷房の完備したところが望ましい。 三、血圧は正常なので現在の状態なら大阪までの救急車輸送にはたえ得る、ということであった。問題はだが、家族の同意がえられなければ、済生会病院の方でも転院を認められないであろうという点にあった。さらに困った事情は、家族の同意がないという事が弱っている森自身の神経にも影響して本人自体自体の意志も何度かぐらついたことで、 「知識と労働」の同人たちが連日京都に往復して、やっとのことで、本人と家族のの同意を得、七月二十三日に阪大病院山村内科への転院が実現した。救急車での移送には前記医師が立会い、同乗もしてくれた。 その日の12時半頃阪大の病室に移り、2時には教授回診をうけた。冷房のきいた新しい病室に移った森は「気分がいい、移ってよかった、有難う」 と割に元気に語ってくれたということをきいて、私をはじめ同人一同安堵した。私自身は、森とその家族たちに余計な心配をかけてはいけないという同人たちの忠告に従って、少くとも「面会謝絶」期間中は病室を訪ねないことにし、同日夜からかねて約束していた大阪労働講座の一泊合宿(兵庫県香住)に出向いた。森が阪大に移った二十三日は金曜日で、翌土曜日は精密検診ができず、阪大では二十六日の月曜日にそれを行う予定で、万端の準備を整えていてくれた。それなのに、森の病状はそれを待たず、二十五日の早朝に異変を生じ、まもなく永眠した。
 その日の朝、大阪からの電話で森の急死を知らされた私は、車で急遽引返し、正午頃阪大病院に直行したが、彼の遺体はすでに京都の自宅に引取られた後で病院にはなかった。阪大の主治医が求めた解剖は家族の同意が得られず、死因は「急性心不全」と発表されている。何とも救われない気持に暗然として、同行した同人の生駒君と共に当直医の説明を求めると、森のカルテを示してその医者は、断定的なことは何もいえないがと断りつつも、二十三日転院直後の回診のあと行われた十数名の医師のディスカッションでは、そのほとんど全員が「悪性のもの」 ではないかという印象で一致していた、しかし血圧は九〇~一一〇位あり(森は元来低血圧であった)、このように早く異変が起るとは予想されず血液検査の結果からも輸血の必要もなかった。後から考えれば、肋間神経痛という疑いは、おそらく「悪性なもの」 の 「転移」であったのではなかろうか、今早朝の異変は、その結果として大出血を起したものとも考えられる、というような説明であった。
 以上が、 一人の科学者、唯物論者の予想外に早い死をもたらした直前の事実についての私の報告である。何のために私がこのようなことについて改めて書いておかねばならぬと感じたか、それについて一言しておく必要があろう。それは、私たちを含めて彼の周囲の者たちの、病気や人の健康状態に関する無智と不注意がなかったかという反省からである。森の死後、明らかになったいろいろな事実、お通夜に集まった人たちの話などをつき合せてみると、森の健康上の変調を示す事実はほとんど一年、少くとも半年以上も前からいろいろとあらわれていたからである。まず私自身の発見からいうと、昨年の七月ニ十五日—-それは奇しくも森の死の正しく一年前にあたる—「知識と労働」発刊の相談をまとめた後私の家の前で写した写真の中の彼は、凛然として少しも衰えらしいものをみせていない。 ところがその半年後の今年の正月、創刊記念の集りをもったときの写真を比べてみると、彼だけが椅子に頭をもたせかけて、痩せて気むつかしそうな、生気の失せた容貌で写っているのである。友人たちの記憶では、去年の秋頃から何となく元気がなくなり、彼の持前の陽気さと放言癖が消え、また大学の将棋友達のいうところでは、昨年末頃からはメシより好きであった将棋も絶えてやろうとは言わなくなったという。 今春頃には食欲がなくてシンドイ、シンドイといいながら、大阪に出てきて若手連に会うと天ぷらそばなど油っこいものを貧り喰って吐気をした起したことなどもあったという。もしその頃、少くとも数力月に、彼の周囲の誰かが、こうした彼の健康上の変調に疑いをかけ、成人病センターとか然るべき病院で検診を受けさせていたとしたら、彼をあのような若さで死なせることにはならなかったのではないかと、悔まれてならないのである。しかし、今ではもう取返しのつかない森の突然の死についての報告は、以上で打切ろう。


 私が森信成を知ったのは一九三五年、京都大学史学科に入学した一学期の時のことで、森は法学部の一年生であった。私は森と同じ一九一四年生れだが、学生運動で一高を中退し一年おくれて大学に入ったのに、彼の大学入学がやはり私と同じになったのは、彼も高知高校で一年留年していたからである。
 誰が森を私に紹介したのかあまり正確な記憶はない。森の高知での友人には、 一九三四年の京大事件の立役者の一人、長尾孫夫がいた。長尾は一見、土佐自由党の壮士風の男で、京大事件のあと停学処分をうけていた。その後輩の村上尚治(戦死)は同学年の哲学科生、一年上級の史学科には藤谷俊雄もいた。同年文学部に入ってきた者には、戦後に作家として大きな仕事をした野間宏が仏文科に、私と同じ史学科には奈良本辰也がいて、森信成とは私より少し前から知り合っていたようだ。私は入学後比較的早くからこれらの人物と接触するようになっていたので、彼らのうちの誰かが、おそらく村上か奈良本が森を私に引き合わせたのだと思う。 森は私を知るとじきに、私をつき合い易いとみたか、頼りになると見込んだのか、私と同じアパートの近くの部屋に密柑箱一ばい位の書物といっしょに引越してきた。 翌年私が別の所に引越すときもついてきて、森と私は、大学時代のほとんどをいっしょに生活することになった。私が階下、森が2階に居を構えた当時われわれが「せんたくや」と呼んでいた—白い、比較的小ざっばりした感じの、—-北白川の小アパートは、自然文学部の左翼学生の溜り場のようになった。森はこのグループの空気がひどく気に入ったようで、三十六年春にはさっさと文学部に転部し、哲学科に籍を移したのである。こうして哲学者森信成が生まれることになったのだが、彼はおよそ法律でメシがくえるような人間ではなかった。
 三十五年入学者のなかには、高校時代に左翼運動歴をもつ連中が相当数いた。京大事件直後とはいえ、当時の京大当局はまだ思想的理由で入学をチエックするほど反動化していななかった。資格さえあれば無試験入学できた文学部は特に自由であった。広島高校の柔道部主将でありながら学生運動で処分をうけた永島孝雄も哲学科にいて、前記村上が森や私を彼に紹介し、こうして三十五年秋頃までにはマルクス主義学生の新しいセンターが文学部内にでき上っていた。一方法・経学部には前記長尾のほか、同じく京大事件当時の活動家で停学中であった野田千之(戦死)、真壁、佐々木時雄らのグループがあり、私たちは彼らを 「老人組」と呼んでいた。そしてこの両グループが合流して三五年~三六年にかけて京大事件の敗北後の学生運動を再高揚させることになったのである。
 だが、京大事件の「老人組」と新入りのわれわれ文学部グループのあいだには、両者が接触するとじきに、はっきりとした意見の対立が生じた。 この論争は、その後の関西の学生運動とひいては人民戦線運動の発展上に大きな意義をもっていると思うので、要点だけでも紹介しておこう。意見の相違は学友会問題に端を発した。長尾を先頭とする「老人組」が、学友会は全学生から会費をとりながら事実上大学当局と運動部とに私物化されているという理由で会費納入をボイコットし、学友会の廃止を主張していたに対し、われわれはこの全員加盟制の学友会の民主化 教室別・高校別・代表者会議を母胎とする代議員会の直接選挙制の実施 という提案を対置した。論争は一時はげしく行なわれたが、「老人組」の主張はペシミスティックなもので運動の展望をもちえなかったために結局われわれの出した新提案に同意せざるをえなくなった。同時に教室に根を下ろした研究会組織と文化サークルの拡大に注力する方針がきまった。この論争が一時はげしく行なわれたにもかかわらずケンカ別れに終らず、それをつうじてかえって学生たちの結束がつよまり足並及を揃えることになった点は、たえず理論闘争で運動を四分五裂させている今日の学生運動にとって他山の石としてもらいたいものだ。
 新方針への意志統一ができたおかげで、三五年末から学友会代議員の選挙運動が全学的にもり上ることになり、三六年春に実施された選挙でわれわれグ改革派Iは圧倒的勝利をおさめ、法の佐々木時雄、経の増山太助、その他多くの改革派代議員とならんで、森信成も哲学科学生に推されて代議員会の一員に当選した。この選挙とその後の代議員フラクション活動の貴重な体験は、おそらく森信成の”政治生活”のスタートであったといえるとともに、その後の彼の政治的思想的信条—-大衆運動におけるセクト主義への敏感な反撥、正しい理論の上に立つ統一政策の熱烈な擁護、保守派と反動派を弧立させ多数者を獲得する現実的戦術—-の基礎を学びとらせたものであったといえよう。
 改革派が多数を占めた代議員会は学友会の民主的管理に成功し、文化部・サークル予算を大巾に増額させ、京大新聞を改革し、三〇をこえる各学部学生の自主的研究会に補助を獲得するなど画期的な成果をあげて、学友会への学生大衆の関心を高めた。 そのような活動のおかげで翌三七年の改選でも再び改革派が大勝するとととなり、同年七月日中戦争開始後の反動攻勢下においても京大内の民主的体制と自治の担い手として動いていた。それだけでなく、学内で改革派を勝たせる力をもっていた当時の京大の学生組織は、三六年頃世界的に高揚してきた反ファッショ人民戦線運動の関西地方での展開の一翼を担うこととなり、進歩的学生の全国誌「学生評論」を創刊するほどの進出を遂げた。
 運動のこのような拡大と発展は、われわれがその中にしっかりした思想的中核をつくりあげる必要を促すことになり、二つの非公然の研究会が生まれた。 一つは当時資本論の新訳の仕事をすすめていた長谷部文雄氏を中心とする 「資本論研究会」であり、そこには経済、歴史のマルクス主義学生が集まって、資本論を勉強しつつ日本資本主義の政治経済の研究に熱中した。もうーつは、右の研究会のO・Bでもあった梯明秀氏を中心に、同氏の宅でもたれた「哲学研究会」で、森信成は永島孝雄、村上尚治らとともにこの研究会に熱心に参加し、ヘーゲル弁証法の究明と西田哲学の検討、ポルケナウ 「近代世界観成立史」(横川・新島訳・叢文閣)などの研究討論を、ほとんど二年間にわたってつづけた。 森信成は戦後、この研究会での師であった梯明秀氏の論争者として登場したが、彼の唯物論者としての素養が形成されたのはこの研究会においてであったことは明記しておく必要があると思う。私も時にこの研究会に加わることがあったが、当時中学教師をしておられた梯氏夫妻の森や村上、永島にたいする厚い情誼が、真理探求者にのみある特別な信頼感にあふれたものであったととを、昨日のことのように記憶している。
 ここで、前記のように「せんたくや」で私と同居していた森の勉強ぶりについて少し述べておとう。彼の部屋には衣類も蔵書も少なく、押入れはほとんど空っぽであった。 しかし彼が大事にしていつも小さな机のまわりに置いていたのは、当時白揚社その他から刊行されていたマルクス主義の教程本であり、彼はそのほとんどすべてを丹念に読破していた。ミーチン・ラズモフスキー、シロコフ・アイゼンベルグなどの弁証法的唯物論と史的唯物論の教程、それにプレハーノフとデボーリンとブハーリンの訳書、ラピドス・オストロビチャノフとバルガ、レオンチェフのマルクス主義経済学教程など、ほとんど隅から隅までペンと鉛筆で傍線と書込みが加えられ、重要なところはこれら仮とじ本が二つに折れる程折り曲げられていて、何か議論をするとその個所がパッと出てくるというような具合になっていた。 この癖は、彼の生涯を通じて変らなかった。
 一九三〇年代にかなり大量に出廻っていたこれら教程本の特徴は、マルクス主義哲学や経済学の解説が、極めて戦闘的な思想闘争の形で、すなわち、哲学ではデボーリン派との、経済学ではトロッキー派・ブハーリン派その他との鋭い理論闘争という形で展開されていたことであり、こうした論点に精通することによって森は、理論戦線における党派性確立の重要性を学びとっていったのだと思われる。 こうした教程本を次々と征服しわがものとすることとならんで、当時森の思想生活を深くとらえていたのはチェルヌイシェフスキー、ドブロリユーボフ、ベリンスキーなどのロシア社会思想家の著作と、『史的一元論』などのプレハーノフへの傾倒であった。後年の森の著書『史的唯物論の根本問題』におけるプレハーノフノフの見事な消化は、すでにこの時期において用意されていたといってよがろう。私も中学時代以来、ロシア文学とロシア社会思想書を貧り読んできた経歴の持主で、「学生評論」にベリンスキー論やポクロフスキー史学論を書いたことがあるが、森を私に結びつけたものが、この思想分野への共通の関心でもあったということは事実である。凍てつくような洛北の夜、夜暗きそばをくいながら夜を徹しでロシアの文学と社会について森と語りあかした頃のことを、私は忘れられない。
 高校を中退した私は、ドイツ語の代りにロシア語を学ぶようになり、学生時代森にもロシア語を勉強するようにすすめたことがあるが、彼は私のこの勧告だけは受けつけなかった。「翻訳家がなんぼでもいる日本で、なんで翻訳や原書よみに時間潰しせんならん」というのが彼の答えであり、さらに、外国の原書の翻案みたいな論文をかいて学者ぶっている教授連を、彼は頭から軽蔑していた。三六年の末頃であったか前記の哲学研究会で、西田幾多郎教授がアドラッキー版の 『資本論』を読攻はじめたということを誰かが高く評価して報告すると、そめ頃がら西田哲学を東洋的観念論ときめつけて西田哲学から何か前向きなものをひき出そうとしていた仲間とはげしく論争していた森は、「アホかいなーなんではじめて資本論読む者がドイツ語で読まんならん」とうそぶいたものである。こんなことが関係したのか、指導教官の田辺元と西田哲学を真向うから批判した森の卒業論文は及第点をもらえず彼は京大哲学科を二年も留年する破目になってしまった。(森は後に大阪市大文学部教授になってからは嫌いなドイツ語の勉強をやり直すようになった。 それは必要なことであったのだろうが、彼の著書に所々ドイツ語の引用が出てきているのを見ると、私は、彼が辞引をひきなが大真面目に横文字を挿入している姿を想像して、ふき出したくなる。)森の持前は、衒学者流の世迷い言をうけつけない、よい意味での大阪町人の子として、思想的正しさ以外のあらゆる権威を受けつけない、その思想の科学性と独創性にあったのだ。

 もう一度当時の情勢に戻ろう。森をふくめたわれわれの学生グループの中では、 満洲事変以後の、そして日中戦争開始後においても、ファシズムと反動の拾頭に対するペシミスティックな態度は、全くなかった。反対に、スペイン、フランス、メキシコなどで嵐のように発展した人民戦線運動の高揚のなかで、日本でも三六年二月の総選挙での社会大衆党・無産諸派の進出、つづいて三七年四月総選挙での社大党三十七名の当選、労働組合運動での全評、白本無産等を中心とする労働戦線統一への動きなどに大きくうねりはじめた国民大衆の反ファッショ的潮流に依拠しつつ、労学提携をもってこの潮流の先頭に立とうとするアクチブな意慾に燃えていた。当時の状況を 「暗い谷間」だとは、われわれのなかの誰れも考えてはいなかった。
 三七年冬のことだったと思うが哲学科のリベラリスト教授天野貞祐氏の 「道理の感覚」 が反軍的だということで京大配属将校が教授の進退を問題にしているという記事が地方新聞にかきたてられたことが起った。 この事件に大学に対する思想弾圧の先ぶれを感じた永島、村上、森信成ら哲学科の学生は、その報道のあった翌日すぐ京大北門に集まって配属将校室におしかけ、報道の真偽を問いただした。あわてだ配属将校が 「そんな発言をした覚えはない」と答えると、その一問一答をすぐビラにして全学に流し、右翼の干渉は失敗した。(この天野氏は戦後第三次吉田内閣の文部大臣となり反動的ブルジョア制度の擁護者となったが、それは戦前天皇制下に天野氏らの抵抗線であったブルジョア民主主義が戦後は体制として実現されてしまったからである。)
 われわれの反ファッショ運動の大衆的進展のピークは、 一九三七年五月ーニハ日京都朝日会館で大成功裡に行なわれた京大事件三周年記念の 「京都学生祭」 であった。 このカンパニアは半年以上も前から準備され、全関西の大学から動員され た。中心は末川博博士の反ファッショ講演であり、教授が林(銑十郎)反動内閣の打倒を呼びかけてこの講演を終わった時、会場を埋めつくした学生たちは総立ちとなり、口々にファッショ打倒「人民戦線万才」を叫んで帽子やカバンなど手に持っていたものは何でも投げ上げて熱狂を示した。入学以来角帽など持っていなかった森信成も興奮して両手をあげて絶叫し、解散後はわれわれと肩をくんで四条河原町まで流れデモをやった。この日はだれも警察につかまった者はなかった。
 その一月余り後に近衛内閣が成立し、日中戦争が開始されたのであるが、戦争の拡大は国内的には反ファッショ的国民運動の高揚にたいする帝国主義支配層の反動的制圧を意図したものであった。戦時体制への移行を口実に大きな弾圧が開始され、その目標は労農派や学者グループなど合法左翼の上にも及んできた。この情勢の下で、その年の秋から従来の人民戦線形態の運動は合法主義、日和見主義であり、非合法党の再建こそがすべてであるとする春日庄次郎に氏らの「共産主義者団」 の働きかけが京大内にも入ってきて、われわれのあいだにはじめて深刻な意見の分岐が生ずるようになった。われわれはそれまでにもすでに 「京大ケルン」と呼ぶ非公然指導組織をつくってその下で最大限に合法的舞台を利用する方針をとっていたのだが、新情勢下においてこのような組織形態はいっそう重要になると考えていた。 そして過去の苦い経験からして、よく知らない非合法組織と不用意に直結する場合には、せっかくこれまできずきあげてきた組織勢力を一挙に過早な弾圧にさらし、反ファッショ運動の全体を弱める結果を招くことをおそれた。しかしわれわれは真向から党の再建を急務であると主張する 「団」 の主張自体には反対できなかった。われわれは十分な警戒心をもって 「団」と慎重に連絡をとることとした。
 三八年初め頃から「団」 の非合法機関紙「民衆の声」—-それは厚いザラ紙にドギツイ字体でガリ版刷りされていた—-がかなり大量にわれわれのととろに送りこまれてくるようになり、それを恐れず、大胆に、多数の学生のなかに配布するようにと要請された。だがわれわれはその大部分を安全な場所に保管し少数部数を限られたメンバーのあいだで回覧するという方法をとった。私はその一部を森信成に渡した。彼は平気でそれをうけとり、本の間にはさんでもちまわり、すぐ他の友人にひろめて歩こうとした。 それ以前の非合法活動を知らなかった彼は、それを渡されたこと自体に大いに感激している様子であった。私は彼が訝るのをおして、その紙を彼から回収し、必要な忠告をあたえておいたのを憶えている。
 われわれが警戒していたことは直き起った。「団」とその機関紙は三〇年代初め頃と同様に、ほんの幾力月活動しただけで弾圧され、春日氏ら団指導者のほとんどが逮捕されてしまった。だが不思議なことに京大の組織は被害をうけず、それからまだニ年間も以前のような活動を続けることができた。たんなる機関の紹介や街頭連絡などで知りあったのではなく、大衆活動と研究会活動をつうじて仲間同志を人間的に知りつくしていた組織が、もし必要な注意を欠かないならば過早な弾圧をさけて経験の蓄積と運動の継承が可能でであるということを、おそらく森もこの経験から学んでいてくれたにちがいないと思う。
 しかしその後、戦争と反動の狂気がふきすさぶ中で、われわれの組織への弾圧そのものがさけられなかったのは当然ある。だがそれはおくれて、当局が 「団」関係をしつこく追及してきた結果、太平洋戦争開始後の一九四二年秋から一九四三年初めにかけて京都の学生の大量検挙(延べ百人以上の規模と聞いている) となった。 森信成もこの時に検挙された。私は召集されて戦地に行っていたので、戦後に聞いたことだが、当時中学教師をしていた彼の下宿を特高がガサに行くと、机のひき出しに鼻をかんだチリ紙ばかりしか入っていなかったといって刑事がプリプリしていたという。彼は留置場に入れられても平気なもので、取調べに対してもトンチンカンなことばかりいって少しも事実を語らず、てこずった特高は、ついに彼を 「気狂い」扱いにして執行猶予で釈放してしまった、と聞いている。同じ時検挙された永島や布施(杜夫)らはひどい追及をうけてついに獄死したのだが、森は拷問もおそらく受けなかったようである。 最近の大学紛争の時、全共闘の封鎖学生に二週間も監禁(六九年六月)されながら、ほとんど殴られもせず、平気で封鎖学生を誘ってコーヒーを飲みにいっていたことなどを思いあわすと、彼には不思議な「徳」 があったといえよう。彼の葬儀の数日後、京都の家に当時彼を監禁した全共闘学生の三名が香奠をもって訪れ、その一人は森の遺影の前で泣いたという。
 戦後に彼と再会したのは、終戦の年の十月政治犯釈放で郷里に帰る途中、尼崎の骨炭工場を 「経営」 していた彼を訪ねた時であった。彼の兄弟の所有になるその工場は仕事がなくなりつぶれかけていたが、彼はそれでもメシがくえるのだから不思議なもんやと得意気であった。エンゲルスとはちがって彼はおよそ工場経営などできる人ではなかった。戦時中の中学教師は検挙でやめ、その後大阪商工会議所勤務などしていたが、胃かいようで苦しみ、たまらなくなって結婚した、などの話をきいた。
 平和の回復はわれわれを再び昔とかわらぬ交友関係に結びつけた。しかしそれでも始めの十年間は働く所を異にしたので、時々しか会えなかった。 それでも私の紹介で神戸の労働学校で哲学入門の講義をするようになり労働運動との結合という宿願をかなえてはりきっていた。 しかしその講座を主宰していた堀川一知君の話では、森の講義は労働者に難解すぎるという評判だったらしく、彼もそれをよく知っていて、理論をゆがめたり俗流化したりすることなく、どのようにしてそれを労働者にわかり易く講義できるかに心をくだいていたようである。同時に彼は、大阪の民科哲学部会のリーダーとして活動し、 一九四九年に市大文学部の教職に就職後は、日本唯物論研究会の再建とそこでの理論の党派性確立のための闘いを、精力的に、うむことなくつづけた。それらのことについては、山本晴義氏ら他の筆者が詳しく述べておられるので省略したい。
 森信成の哲学理論の党派性は、いわゆる一九五〇年問題にかかわるイデオロギー闘争のなかできたえられ、それをつうじてもっとも鮮明な形で打出されてきたといえるであろう。日本の変革路線をめぐる一九五〇年問題とその再版としての六一年春日庄次郎氏(前記「共産主義者団」の指導者)の離党とそれにつづく全運動の混乱・とめどない分裂は、一定の思想的背景をもちつつも主としては組織問題として争われてきた。森は、徹底した思想闘争をつうじての統一の展望なしに展開される分派闘争に一貫して反対し、これらの分派闘争にあれこれの影響をあたえている右と左の修正主義との仮借ない闘争を理論戦線上で展開することを自己の使命と考えていた。一方におけるプラグマチズムのあらゆるあらわれ=思想上の平和共存=戦後資本主義の成長下にはびこりつづけた右の修正主義=ブルジョア思想への降伏に対する執拗な闘争、他方における右の裏返しとしての主意主義・主観主義・トロッキズムと毛主義への批判—-彼はこの二つの戦線での思想闘争が運動に真の統一をもたらすために不可欠であることを一日も忘れず、彼の全智力どエネルギーを投入してきた。従って彼の全論文は論争論文であった。予想外に早く死んだ彼はとくべつの 「体系化」 された著作を残せなかったのは残念なことだが、彼の論争論文には、そのすべてに貫徹する 「体系」 が前提されていたことを忘れてはならない。それは彼がフォイェルバッハやプレハーノフその他マルクス主義の古典家たちから正しく受けついだ、徹底した唯物論の体系であり、必然の科学的洞察の上にひとびとの意識的積極的な努力を要請するマルクス主義者の世界観の現代における擁護と貰徹であった。 彼は、この意味で、プロレタリアートの党派的で、戦闘的な理論家であり、そうした理論家として自己の生命を捧げたプロレタリア解放事業の闘士であった。 われわれは君の遺志をうけつぎ君の事業をさらに前にすすめることを君の霊前に約束する。親しい、そして純潔で無私な、われわれのかけがえのない友であった森信成の霊よ、安らかに眠れー

カテゴリー: 歴史, 社会運動, 追悼 | 【追悼】森信成の死とその生涯(小野義彦さん) はコメントを受け付けていません

同盟統一会議へ結集せよ!(デモクラートNo24)

同盟統一会議へ結集せよ!   (デモクラート No24 71年11月10日)

学生共闘派指導部のセクト主義・ゲバルト路線を拒否し、
趣意規約の立場に立ちもどり学生運動統一・同盟統一へ

同盟統一会議へ結集せよ!

 わが同盟は、これまで一貫して、また本紙23号で民学同「全国委員会」-学生共闘派指導部のセクト主義、ゲバルトに対して批判を加え、セクト主義、ゲバルトをやめ、同盟の趣意規約に立ち戻り日本学生運動統一、同盟統一の道へ復帰することを忠告してきた。しかるに、10.21を前後して憂慮すべき事態が発生している。
 市大において、学生共闘派は、私物学生大会防衛の名の下、革マル派の襲撃に対して、ヘルメット・角材・鉄パイプの完全武装で応酬し、逃げる革マル派をBOXに追い詰め、BOXを破壊しつくしテロリンチを加え多数の重軽傷者を与え(10月18日)、国鉄阪和線杉本町駅では周辺の商店から、角材・空瓶を盗み出し、「市街戦」を演じ周辺の商店、駅等に損害を与えた(10月21日)。京都においては、アナキスト集団とゲバ抗争を繰り返し、アナキスト集団から挑発的テロを受けるにいたった(10月23日)
 かかる内ゲバは、学友の闘うエネルギーを分散させ、学内反動派を勇気づけ、官憲の直接的弾圧をもたらしているのみならず、周辺住民に迷惑をかけ、市大では部落解放同盟から抗議を受けている。
 学生共闘派指導部は、自らのゲバルトを「正当防衛」とウソぶいているが、もってのほかであり、かかる論理こそ、わが同盟が一貫して批判し、その克服のために闘ってきた、民青、トロ諸派の誤り-日本学生運動の悪しき傾向、誤りそのものである。

 わが同盟は、第12回全国大会を前に一部全国委員の趣意規約の乱暴な蹂躙と、暴力による全国大会など諸機関の機能破壊・私物化というかつてない事態に陥った。そして一部全国委員による「大会」強行の中で同盟は事実上分裂状態となった。わが同盟はかかる事態を踏まえ、同盟の趣意規約にもとづく統一大会をかちとるため、あくまでもそれを守って、同盟の目的実現に努力し、責任をもって全組織を指導しうる臨時中央指導組織として民主主義学生同盟統一会議を組織した。その時、全国学生へのアピールの中でわが同盟は学生共闘派を批判し次のように述べた。

「数年来の大学闘争の中で、封鎖-封鎖実力解除の”内ゲバ”に終始したり、『11月決議』と称して、学園における粘り強い闘争を放棄しながら街頭での少人数の小児病的一揆主義の行動に走り、その結果、権力の組織的系統的な攻撃を許した残念な事態に象徴されるように、日本学生運動が、今でも根強く持っている傾向、情勢の主観的判断に基づく学生党的政治主義と大衆の利益を党派の利害に従属させるセクト主義が学生の戦闘的エネルギーを浪費させている。
 わが同盟は、その発足以来一貫して、この悪しき傾向と闘ってきたが、数年来、同盟内に発生した傾向は、残念ながら、これと同種の病である。
 それは、各大学でいかに学生全体を決起させ、その運動を統一するかより、他党派と対抗して、”わが派の集会”に何名多く動員するかに主要な関心を払うセクト主義、街頭決戦主義であり、学園での浮き上がり、孤立の反映でもある。最近各大学内の統一闘争を経済主義としているのは、彼らが学内で統一政策を実行し、学生大衆と結合する能力のなさの証拠といえる」

 この間の事態は、わが同盟が指摘した学生共闘派指導部のセクト主義の一層の露骨化徹底であり、その必然的帰結としてのゲバルト路線(民青、トロ諸派と同じ陣列)への転落を示すものである。
 わが同盟の名を僭称する学生共闘派指導部のかかるセクト主義・ゲバルト路線は、同盟の趣意規約の立場とは無縁であり、光喜ある同盟の名を著しく傷つけるものである。
 わが同盟は、ゲバルトを徹底暴露追放し、ゲバルトを行使した部分に対して自己批判を迫っていくと同時に、一切のセクト主義を許さず、クラスぐるみの決起を基礎に、学園毎の統一行動を実現していく。

 学生共闘派指導部に結集している民主的、良心的、献身的学友に訴える!学生共闘派指導部を拒否し、わが同盟(統一会議)に結集し、日本学生運動の統一と発展のために、ともに闘わんことを!

民主主義学生同盟 統一会議

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動 | 同盟統一会議へ結集せよ!(デモクラートNo24) はコメントを受け付けていません

革マル・学生共闘の内ゲバを糾弾する! 1971/10/20

民学同市大統一会議 発行 1971年10月              (ビラPDFはこちらへ)

学友と無縁な革マル・学生共闘の内ゲバを糾弾する!
10.21へセクト主義、内ゲバを排し、クラス連合で起とう!

ゲバルト路線は沖縄闘争の統一した大衆的発展の妨害物だ

市大統一会議1971/10/20

内ゲバを糾弾するビラ(1971/10/20)

 18日早朝、市大専門–教養キャンパスで他大学のメンバーを大量動員した学生共闘派と革マル派との間で、内ゲバが生じ、多数の軽重傷者が出るという事件が発生した。
 これに対して大阪府警住吉署は、捜査を開始し、学内反動派の動きも強まっている。
 
 沖縄闘争、市大学生運動の統一の敵対物–学生共闘・革マルの内ゲバを断固糾弾する
 クラス学科から糾弾の決議・アピールを集中せよ!
 
 学友諸君!
 今回の内ゲバは、沖縄協定批准阻止、10.21全学闘争体制確立へ向けた学生大会をめぐり生じたものである。
 かかる、他大学のメンバーをも動員しての内ゲバが、決して沖縄協定批准阻止闘争の統一的、大衆的発展をもたらさないばかりか、反対に妨害するものである。
 学生共闘は、早朝のゲバルトを何ら大衆的に明らかにし、自己批判することなく、学生大会を強行し、成立したとしている。
 18日早朝の内ゲバの直接的契機が、革マル派にあったとはいえ、その内ゲバをクラス、学科から大衆的批判によって克服していくのではなく、即時的に、ゲバルトを対置し、「自主防衛」はおろか、革マル派のBOXにまで追いかけ、暴力をふるい、多数の学生に重軽傷を与えたという学生共闘のゲバルト行為は許されることではない。

 学友諸君!
 学生共闘派、革マル派の内ゲバを、暴力行為に断固とした糾弾を要求しよう。すべての学友はクラス学科で討論を展開し、内ゲバ、暴力糾弾の決議・アピールを集中しよう。
 
 一切の内ゲバ、暴力をすて、10.21国際反戦デーをクラス学科の連合集会、独自隊列を実現し闘おう!
 
 学友諸君
 我々は、一貫して統一学生大会を主張し、(10.9教養学生大会の場で集会決議として採決)、そのために最大限の努力を行なってきた。そして又、今回の事件の発生をも何回となく警告してきた。
 学友諸君!我々は、現在何をなすべきか。それは、まず第1に、沖縄協定批准阻止闘争の統一的、大衆的発展を内部から崩壊させ、内ゲバに対する断固たる糾弾の声をクラス、学科から上げていくとこである。
 今、この内ゲバを許すなら、今後、市大は大量内ゲバが横行しる地となってしまうであろう。
 第2に、沖縄協定批准阻止闘争を、当面10.21へ向け、クラス学科の連合で闘い抜くことである。
 全ての学友諸君!
 10.21国際反戦デーへ、沖縄県民と連帯し、総評労働者の闘いに合流すべく、うつぼ公園に結集しよう!
 
 1971年10月20日
 民主主義学生同盟市大支部(統一会議)
 

カテゴリー: 歴史, 民学同 | 革マル・学生共闘の内ゲバを糾弾する! 1971/10/20 はコメントを受け付けていません

日本構造改良派の軌跡

現代革命論としての構造改良論(その3)

 日本構造改良派の軌跡
                     勝部 元
  (初出 季刊構造改良 第5号 1971年10月5日)

  1 はしがき
  2 日本構改派登場の背景
  3 日本構改派の軌跡とその問題点   
  4 日本構改派の解体
  
 1 はしがき

 まず何度も予告しながら、私の構改論の本論たるべき「日本構改派の軌跡」が延引したことをおわびしたい。これは私自身の健康上の理由もさることながら、同時に、絶対不可欠の日本構改派各グループの政治担当者自身による総括が、まてどくらせどほとんどあらわれない、という事情によるものでもある。したがって私はこのほとんどなきに等しい資料にもとづきながら本稿をすすめざるをえない。
 総括のこのような不毛な現状は、まさしく日本構改派を名のる諸グループの政治的解体以降、今にいたるまでみられぬその戦闘的再建の方向の不在の悲しむべきしるしに外ならないだろう。とくに統社同中間派の「構革論総括と戦闘的再生への基本的方向」労働者同盟(準)という一文書は、本誌第三号巻頭言でふれられたように、一政治グループの政治運動の総括とはまったくいいがたいもので、「理論研究会」の討議資料かとみまちがうこの文書を小寺山康雄「構革派解体におけるわたし」(「現代の理論」一九七〇年十二月号)、大森誠人・松葉武雄著「反体制労働運動とは何か」(三一書房)などと併せよむとき、鳴物入りでさわがれた日本における構革派とは一体何であったのか、それはそもそもマルクス主義とどうかかわっていたのかを問わざるをえない。親しい友人であったこれらの統社同中間派の人々にたいして、わたくしが第一章で新左翼の青年たちに投げかけたと同じ問を投げかけずにはいられない衝動にかられる。もっとも「知的道徳的」にすぐれたマルクス主義である構革派を称するグループから、青年たちのもっとも幼稚な「武装蜂起論」への転回、最悪のトロツキズム(というよりその劇画)への接近、さらにはマルクス主義とまったくことなったアナルコ・サンジカリズムへの転落の理由も、これら青少年の教師たち–統社同中間派の指導者たちのさいきんのおどろくべき、あるいは悲しむべき総括によって十分理解できるようだ。そしてこのことこそもっとも雄弁に第一号でのわたくしの結論、「そして日本における『構造改革論』はまちがった勢力により、まちがった形で(あるいは、不十分なという方がよいかもしれぬ)とりあげられ、また徹頭徹尾まちがったやり方で批判され、さまざまな『意匠』の一つとして消えていった」を確証しているようである。
 現代マルクス主義派としての日本構改派—それははじめから存在していなかった。「現代革命論としての構造改良論」—-そんなものはもともとなかったのではないか。
 新左翼解体にひきつづく灰色のペシミズムの全般的支配と「社共統一の勝利」、「日共の変貌」というわたくしの予言したとおりの右傾化ムードの中で、日本構改派の軌跡をたどり、総括するという、このやりきれない仕事ととりくまなければならない。

2 日本構改派登場の背景

 日本構改派(中村丈夫氏のことばをつかうなら「日本型構革論」グループ)は、第一号ですでにのべたような国際的背景のもとで、イタリア共産党によって仕上げられた「社会主義へのイタリアの道」に触発され、その日本版として導入されたものであることはうたがいない。
 しかしそのさいに注目すべき日本的特徴としてつぎのことを指摘しておかねばならない。すなわち主体となるべき二大左翼政治組織、日本共産党と日本社会党の歴史的構造的特質にねざす特徴をあげねばならない。すなわちまず第一に日本共産党のもっていたぬきがたいスターリン主義的官僚主義的体質と理論的立ちおくれ—たとえばコミンテルン七回大会の反ファッショ統一戦線論や、人民民主主義革命論にたいする無理解(これは、裏返せば党と大衆団体間のスターリン的ベルト論と国際的にもとうに克服ずみの赤色労組主義)つまり反独占民主主義=「新しい民主主義」の意義と「新しい型の党」の無理解-があげられる。そこで日共における党内民主主義の欠如とスターリン主義的官僚主義の存在は、日共内部での公然たる討論と勢力拡大を不可能にし、形成された構改派グループに日共内部よりの少数派の離党という形をとらざるをえなくした。さらにこの場合戦略路線における社会主義革命論者と構改論者がむすびつき、分離は先ず戦略的差異にもとづいておこったことも顕著な特徴である。すなわち「五〇年徳田テーゼ」論争のさいのブル民革命派--徳田トロイカ論にたつ主流(所感)派プラス宮本、袴田派、植民地革命論派–神山派とことなる社会主義革命論派—春日(庄)亀山派らの三つの潮流のうち五〇-五一年の大分裂をへて六全協による主流派、国際派の合同指導部形成ののち、同じ国際派反対派中の宮本顕治氏らのヘゲモニーが確立し、民族・民主革命(新しい民主主義革命)戦略論に対立した社会主義革命論者として春日(庄)氏らの構改派が結集されてくるところに日本的特殊性があった、と思われる。
 第二に問題となるのは日本の社会民主主義とくに日本社会党の特異な性格である。労農派学者ブロック・議会主義的議員団・総評幹部より構成されるこの党は、一面近代的革命政党といいがたいおくれた側面–最大の野党でありながら党員数わずか三万で党としての下部組織が確立せず資金も選挙も大衆連動もすべてを労組組織=総評におぶさるという側面をもつと同時に、労働者階級を代表する政党として、欧米の社会民主主義(イタリアなど僅少の例外をのぞいて)が反ソ反共のアメリカ型社会民主主義(もっともよい例がバードゴーデスベルグ綱領下のドイツ社会民主党、ここではマルクス主義はおろか国有化スローガンさえ下されている)に退化しているときに、公然とマルクス主義を名のり、その内部に革命的左翼をもっている、ということである。のちにのべるようにこのゴチゴチのスターリン主義的日本共産党と、左翼社会民主主義的日本社会党の特殊な性格が、日本における構革派の誕生を特徴づけた。すなわち中共路線をより深めつつあった日共主流にたいする社会主義的反対派の離党という形で、または構改路線が日本社会党の大きな部分(主流を形成する部分)の公式路線として一時とりあげられたという特殊な過程をとらせたのである。そしてこの日共を離脱した構改派小グループの一部が、自らの主体と運動形成に努力するよりも、むしろ社会党内の構改派と癒着し、大衆運動的基盤をそこにもとめるという結果をもたらした理由もここにみったといえよう。
 第三には、六〇年初頭よりようやく明らかになりはじめた中ソ論争の影響も忘れてはならないだろう。六六年までますます中共よりにそのコースを定めていた宮本主流にたいする反発—日本構改派の一部のソ連依存の傾向もみのがすことはできない。

 3 日本構改派の軌跡とその問題点

 日本共産党内グループとして、日本構改派が形成されたのは、階級分析と現状認識において根本的に誤っていた日共の五一年綱領とその極左冒険主義的方針(いわゆる火焔ビン時代)によって、運動が完全に挫折し、党の孤立化が誰の眼にも明らかになった時点における北京主導の総括=五五年七月の六全協以後のことに属する。この六全協はまた主流派内の志田派と反主流派中の宮本・袴田派の密約による野合の結果であったといわれている(註1)。この六全協後、五八年秋の第七回大会より、六一年の第八回大会にいたるごく短期間の党内民主主義と自由な討論のカツコつき存在期を通じて構改論は主として党内の社会主義革命論者によって、現代先進資本主義国日本の革命戦略として研究され、となえられ始めた。それは「平和移行」と「社会主義への民主主義的道」を中核とするもので、党章草案に示される、宮本主流派の民・民革命論に鋭く対立するものであった。それは片山さとし、石堂清倫、増田格之肋氏ら都委員会の多数派と春日庄次郎、内藤知周、西川彦義、亀山幸三、内野壮児、原全五、山田六左衛門氏ら中央部の少数派、また春日、山田、原、西川氏らの影響下の関西地方とくに大阪地方と内藤、松江澄氏らの影響下の広島地方が拠点であった。それに五九年四月党中央により禁止された第一次「現代の理論」、講座「現代マルクス主義」などによる理論家(佐藤昇、井汲卓一、大橋周二、長州一二、今井則義、力石定一、小野義彦氏ら経済学者や石堂清倫、前野良氏)がさかんに構改論的理論とそれにもとづく日本の分析を唱え始めた(註2)。また山崎功、代久二、西川一郎氏らによってトリアソティ・グラムシらイタリアの新資料がどんどん日本に紹介され始めた。日本構改派の形成が主として綱領問題—-社会主義革命か民・民革命かという戦略論争を中心においていたが故に、この時代にさかんに行なわれた日本帝国主義復活論争(佐藤、力石、小野、勝部対日共主流)もせた形をかえた戦略論争として、この日本構改派形成の序曲とみなすこともできよう。

註1 片山さとし「日本共産党はどこへ行く」三一書房、二九八ページ
註2 上田耕一郎、不破哲三兄弟がこの形成期の構改グループと非常に近かったことは興味ふかい。当時のかれらの業績–上田耕一郎氏の 「戦後革命論争史」(大月書店)上・下や「大衆社会論とマルクス主義」(講座「現代マルクス主義」Ⅰ)不破哲三氏の 「社会主義への民主主義的な道」へ講座「現代マルクス主義」Ⅲ)は、今読みかえしてみても立派な業績たることはうたかいない。上田兄弟が、井汲、佐藤、内野、勝部らと決定的にはなれ、宮本主流の番頭化していったのは、帝国主義復活論争において官本主流派の代弁者として立ちあらわれた以後のことである。興味をもたれる方は、第二次「現代の理論」第二号、六四年第三号の拙稿「上田耕一郎」論–理論の変貌とその動機–を参照されたい。ただし編集委員の一人であったわたくしの小論は、どういうわけか、編集担当者の間では不評で(「下品である」!?由)、大いにその後書きまくろうと思った欠先に、この「人と思想」というコラムが廃止きれてしまい、わたくしとしては残念であった。少しくどいかもしれないがこの小論のむすびにつかった上田耕一郎氏自身の十五年前のことばを再録しておきたい。現在の幹部会員上田氏の心境はどうあれ、わたくしはこのことばは今なお正しさを失っていないと考える。
「(政策や理論の)こうした立ちおくれの原因が……善意と党派性の結果とはいえ、現実よりも公式や共産党の決定を重んじ、現実にたいする敏感な感覚と創造的な分析を欠き、副次的問題については精緻な論理を展開することはできてももっとも決定的な問題については追及をみずからあきらめがちだった隠病な御用学者的態度にあったことは否定できない。個人崇拝の問題はたんにスターリン個人にたいしての問題ではなく、日本ではもっと一般的に、共産党の指導的幹部および指導理論にたいする無批判的な追従の傾向としてとりあげられなければならない。したがってわれわれはまず・・・われわれ自身のなかに根ぶかく巣くっている事大主義の精算に真剣にとりくむ必要がある。この反省なしには、日本のマルクス主義はその前に提出されているあまりに多くの理論的課題を解決することにまたもや失敗するであろうし、たとえどんなに異論のある問題でも実践の過程で正しい解決を生み出していくという自主的な保障の体制を築きあげることもできないのではないだろうか」(上田耕一郎『戦後革命論争史』上、大月書店、四-五ページ)

 ここで注意しておかねばならないことは、日共よりの日本構改派の分離が、六〇年安保・三池闘争以後のことであった点であろう。
 経済不況も戟争もない時期に大衆的昂揚が生まれ、日本の各大都市がデモの大波でうずまり、激動が日をおうて激しく、幅広く、大衆の中に浸透していった六〇年安保闘争と、それをうけた三池大闘争にたいする日本構改派の寄与は如何なるものであったか。一言にしていうなれば、個々の非マルクス主義的理論家、たとえば清水幾太郎氏らに比し、決して芳ばしいものではなかった、といえよう。この新しい理論とグループは、突如としてまきおこった政治的激動に対処できるほど自らを整備していなかったし、また日共という枠に妨げられ、有効な実践的処方箋をさし示すことができなかった。こうして「行動の指針」としての新「理論」を実証するさいしょの機会はむなしく失われた。「前衛喪失」が誰の眼にも明らかになったこの時期に、最大の障害としての日本共産党の「鉄の枠」の存在があったとするならば、大衆指導と実践の障害というこの時点で日本構改派の日共よりの分離が何故おこらなかったのか。浅田光輝民らの日本構改派にたいする鋭い問題提起はまずこの点にしぼられる。
 ところで現実の分離は、綱領問題をめぐって六一年七月の第八回党大会直前に行なわれた。春日氏「日本共産党を離れるにあたっての声明」はそれをつぎのように明らかにしている。宮本氏ら党主流幹部は「党内外の批判反対を押えるために党内民主主義を破壊し、いま第八回党大会を前にして、自ら規約をふみにじり、反対意見の代議員の進出を組織的に排除し、少数意見の中央委員の意見書も発表させず、代議員の獲得も妨げ、一方的なやり方で大会を開こうとしています……こういう状態は党内民主主義に依拠して原則的な党内闘争によって事態を改善してゆく余地はほとんどありません。」「分派は五〇年の経験が示すように非生産的で、不毛です。」「原則的立場を堅持して破局の来るのをまつか……」、それともー「わたくしは熟慮の結果離党の道を選びました」 (一九六一年七月七日)。
 中央統制委員会議長春日庄次郎氏につづき七月十四日には中央委員山田六左衛門、西川彦義、亀山幸三、内藤知周、中央委員候補内野壮児、原全五氏らが同じく離党声明を出した。旧都委、大阪その他の地方の反主流派分子がこれにつづき春日氏や党員文学者グループが「正規の第八回大会とは断じて認めない」とした第八回大会はこれらすべての離党者を反党分子として除名処分に付した。
 しかし同時にここに第二の問題点が出てくる。片山さとし氏や増田格之助氏のいうように第七回大会後党中央の集中攻撃が都委員会にかけられたとき、中央部の社会主義革命派は十分援護せず、各個撃破にまかされてしまった。こういう形で宮本スターリン主義(註3)に対し、批判派は党内で有効な政治的反対闘争を組織できなかった (片山、前掲二七〇~三〇七ページ)。こうした政治的反対闘争の政治的拙劣さと加えて、宮本主流の党内民主主義の侵犯、自由な討論の抑圧が如何に巨大であろうと第八回大会を前にして 「離党」という形式をとったことの可否である。第八回大会を「正規のものとは認めない」という旗印の下に、それより以外に道はないとされたこの道以外に方法はなかったのであろうか。O氏やわたくしは、この離党形式に反対を唱え、第八回大会で除名をかけて闘うことを離党派主脳部にといたが、時すでにおそかった。

註3 スターリンはレーニン死後、ジノヴィエフ、カーメネフと結んでトロツキーを追放し、ついでブハーリンと結んでジノヴィエフ、カーメネフを倒し、さいごにブハーリン自身をも粛清し、権力サークルを自己に忠実な派閥でかためた。のちに自己の愛弟子キーロフがレニングラードによって、大衆的支持の下にスターリンに反抗の気配を示すと秘密警察の手でキーロフを暗殺し、これをスパイの手によるものとして、例の血の大粛清裁判を行ない、党内やコミンテルン内のめぼしい革命家を全部抹殺した。
 宮本主流派は、六全協直後に志田重男の逃亡・除名によって権力を握ると第八回大会で春日氏ら構改派を、一九六四年の第九回大会では志賀、鈴木氏らソ連派を、さらに一九六六年第十回大会では西沢(隆二)、安西氏ら中共派を追放し、主として、知識人出身の人々(岡、西沢(富)、米原、蔵原、上田兄弟ら)からなる自己に忠実な派閥で中心をかため、今日にいたっている。

 離党したグループは「一、党外において党の革新のためにたたかうこと。二、大衆運動のなかにマルクス・レーニン主義の指導性をうち立てるために協力すること。三、ひろく革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進するために力をつくすこと。四、日本の内外情勢、大衆運動の諸経験を分析し、社会主義への日本の道を明らかにするとともに、マルクス・レーニン主義の自由な研究の舞台をつくり、その創造的発展をはかるために奮闘すること。」(春日庄次郎「日本共産党を離れるにあたっての声明」『社会主義への日本の道』新しい時代杜、二〇〇ページ)という活動目標の下に「新しい運動」をすすめようとする。そのために八月二八日に「新しい路線」という機関紙が発行され始める。新しい運動は同年秋に「社会主義革新運動」の名前の下に結成される。しかしその内部には、松葉武雄氏によると、三つの違った指向グループがあらわれていた。「一つは西川内藤氏らに代表される、みずからを直線的に単一前衛党の主体たらしめようとする『党建設派』グループ。二つは元日共東京都委員会メンバーを主体とする『反体制運動内部の反官僚主義、民主化』『共産主義者の思想確立運動』コース、『反官僚主義派』グループ。いま一つは民主主義革新・構造改革の政治路線の実践をめぎす『構革派』グループである」(『構造改革』一九六二、十二号、十三ページ)
 あるいは片山さとし氏によると、「この派は、六全協後の民主的潮流、それに社会主義革命論を中心にする党内批判派の主流であったし、代々木から別れた最大の勢力でもあって、代々木の全面的批判による社会主義革新の本命らしい要素をいくらかもっていた。しかし、この派は下手くその民主主義即下手くそな官僚主義という性格のもので、代々木とわかれる主因も官僚主義・民主主義の問題におかず綱領問題においたし、その官僚主義批判はよわく、民主主義の理解は底があさく、じっさいには代々木の派閥的官僚主義的な体質からほとんど抜けきっていなかった。それで、官僚主義的代々木にさえはるかにおよばぬ無能さを露呈し、大きな組織的統一と思想的統一を民主的にやる能力をぜんぜんもたず、のっけから組織重視の官僚主義のつよい結党(主義)派と戦術重視の自由主義的傾向のつよい『構改派』に分裂し、分裂に分裂をかさねて、なすこともなく衰退していった。『社会主義革新運動』などというのは、まったくの名前だおれであったし、その名に値しなかった。」(『日本共産党はどこへ行く』三一書房、一八七ページ)

 いづれにせよその内部に異質なものをふくんで発足した社会主義革新運動は、翌六二年五月、たちまち分裂にみまわれる。直接の契機は「東京における共産主義青年同盟の一方的発足と社革東京都委員会の前衛党建設の方向決定、および社革第三回全国委員会における参議院選に独自候補の多数決定など一方的な固定化の進行」(松葉、前掲)によって六二年五月二、三日の結成総会をへて社革より統一社会主義同盟が分離・独立する。春日庄次郎、山田六左衛門、原全五、村田恭雄、大森誠人、安東仁兵衛氏ら、大阪派の政治家とかなり多数の知識人がここに結集し、結成総会時の同盟参加人員は六〇九名(「構造改革」六二年五月上旬号)といわれた。こうして社革と統杜同、この二つの日本構改派グループが生まれたわけである。(両者ともその最盛期においてさえ七〇〇~八〇〇名の小グループを出なかった。)今からふりかえってみて、この分裂が正しかったかどうか。ここに、第三番目の問題点がある。
 「党内外にひろく革新的分子を結集し、革新戦線の統一を促進するために力をつくす」という当初の目標とは逆に近親憎悪と細胞分裂という反対派小グループの宿命の第一歩をここにみることができるのではなかろうか。
 他方、日本社会党においても、この時期にマルクス主義の国際的潮流と「現代マルクス主義」派知識人の触発もあって「構造改革派」といわれる派閥が形成された。教条主義的旧左社綱領をおしすすめようとする社会主義協会派(向坂派)に対立して、江田=成田ラインとその若手たる加藤宣幸、森永栄悦、貴島正道氏らを中心とする構改派新主流の形成である。それは一九六〇年九月の中央委員会声明、十月の臨時大会、つづく六一年三月の党大会における構改コースの勝利という道を辿り、一躍ジャーナリズムや一部労組活動家の注目するところとなった。その構改コースの内容は「次の三つのスローガンに集約されているとみていい。すなわち、①生活の向上(貧困と失業の解消、二重構造の打破)②反独占(独占の権力とその活動の制限)③中立(貿易構造の変革)これである。そして、このスローガンのもとに闘われる闘争の性格については、『この闘いそのものは資本主義的生産関係の一掃を目指すものではなく、その任務は資本主義のワク内で実現しうるものである。これが実現されていく過程で独占資本の経済的支配を弱め、その基礎をほりくずすものである』(加藤宣幸)といい、また、社会主義政権への移行については、『護憲民主中立の過渡的政府』がそれへの媒介項として構想されている。」(池山重朗著『現代革命論争』青木書店、二一〇ページ)

 のちに社会党は、綱領問題をめぐって全党をあげての構革論争を行ない、成田氏が脱落して、佐々木・成田ラインを構成し、若手構改派は社会主義運動研究会に結集する。このような社会党の構革派形成発展にたいし、理論家集団とくに佐藤昇氏の果たした役割は大きい。
 日本構改派中とりわけ統社同が、自己独自の運動の形式よりも、社会党構改派とその運動の中に大衆的基盤をもとめ、それと癒着(「社会党なだれこみ」方式)したのは当然であろう。すなわち 「みずから独自的行動・実践・活動をおこないつつ、社会党、とくにその構造改革推進勢力と協力し、相互交流をはかる、……労働組合、大衆団体レベルでの構革路線にもとづく左派集団のなかで、推進的中核的任務をはたしながら、日本の運動における正しい統一勢力の基盤をきずくものとして設定されなければならないだろう。」(松葉武雄『構造改革』一九六二年十二月、十一号二一ページ)
 大衆的基盤をほとんどもたず、綱領主義で小さく固った社革(機関紙「新しい路線」、機関紙「マルクス主義」)にくらべ、若干の大衆的基礎(大阪の労働組合運動と平和運動)にもっていった統社同(はじめに機関紙「構造改革」のちに機関紙「平和と社会主義」)は、まず、平和運動において、社会党・総評と癒着し、若干の知的道徳的へゲモニーを発揮することによって、一定の成果をあげた。すなわち、日共系の人々がますます中共よりにかたむき、「平和の敵を明らかにする」ことを強調して、「あらゆる核実験反対」のスローガンを下し、また「部分核停反対」というように日本の現状と大衆感情から遊離した方向に原水禁運動を指導しようとしたことにたいして、理論的・実践的に正しい方針を対置し、一定の成果を収めることができた。(六二年十二月の広島大会、六三年八月の第九回原水禁大会)
 また炭労政策転換闘争や日教組、主として大教組の闘争に一定の影響力を与えることに成功した。しかしそれとともに「人類的理念」とか「複数前衛」または「機能前衛」といったわたくしには理解できぬ怪しげな概念や理論もまた現代マルクス主義の精髄としてさかんにおう歌されたことも忘られてはなるまい。しかし池田内閣の所得倍増、高度成長政策の展開、「マイホーム」主義のまんえんといった日本独占資本主義の高度化・成熟とともにちっぽけな日本構改派の勢力はますます分散し、影響力も衰えてくる。とりわけ社会党内の江田ヴィジョンの敗北と江田・成田ラインの崩壊、構改派が主流派よりはずされ、江田派が「構改派」のメッキをはがし、「政策討論不在の派閥抗争に徹した」という二七回大会の状況を前に、すべてのオプティミズムは消えうせ、自己閉そく的セクトや、理論活動を主とする評論家、理論家集団と化してゆく。(主として統社同と密接な関係をもつ第二次「現代の理論」が六四年一月に発刊され、今日にいたっている。)日本構改派を名のる社革、統社同両派のジリ貧状態がつづき消滅の一歩手前においこまれつつあったとき、必然的に生まれた動向が六六年初頭より顕著になった 「総結集問題」である。それは第十回大会で除名され、一九六四年七月十五目より機関紙を発行しはじめ、十二月一日には組織的結集をはかった志賀、鈴木、神山、中野氏ら(註4)「日本のこえ」その他小グループとの合同問題である。

 註4 もっとも中野重治、神山茂夫氏は、一九六七年十月十日の声明で「その内部生活に民主主義は絶無となり、批判・自己批判は無視され、その組織的性格は、出発当初とちがい個人の私党的なものに転化している」 という理由で、志賀氏の「私党的性格」をもつ「日本のこえ」と断絶している。

 ところでこの日本構改派の軌跡の第三の山場にはいる前に、一九六六年一月号の 「新世界」誌上で行なわれた中村丈夫、藻谷小一郎氏の批判的論旨にふれておこう。それはこのときいちはやく日本型構革論の本質を見きわめ痛烈な批判を行なったという点において、またその論旨の大筋において筆者が一致するという意味においてである。(「構造改革論」の構造改革および中村丈夫・安東仁兵衛氏の「構造改革派組織論の再検討」)
 一九六六年一月の時点で中村・藻谷論文はいう。「『構造改革』とは、イタリア共産党の場合は、反独占の階級同盟、統一戦線、ひいては民主主義的多数派および権力ブロックを形成するためのもっとも重要な政策、闘争形態のひとつであり、通常の要求獲得をこえて体制変革に転化すべき、生産関係を中心とする改良を内容としていた。この改良は、民主主義の徹底をつうじて社会主義に前進する媒介項、結節点として位置づけられていた。『日本型構革論』は、ひとくちにいって、この構造改革を革命路線全体の論理とそれを推進する主体形成の論理からきりはなし、民主主義的介入一般の可能性を安易に強調して、『構造改革主義』のイデオロギーにまで昇華していったと考えられる」(中村丈夫・藻谷小一郎「『構造改革論』の構造改革」『新世界』一九六六年一月、十五号五五ページ)
 問題は「独占の側が資本主義の成熟に対応して、ブルジョア的構造改良を推進し、国家独占的統制を全面的に強化してきたのに対して、わが方が労働者を中心とする多様な要求闘争の発展と構造的闘争の結合によって対決できるか否かである」(中村・藻谷、前掲論文五六ページ)
 そして戦後の日本の労働運動の基本的動向、その危機との闘いにおいて「日本型構革論」が積極的役割を果たしえなかった理由としてつぎのようにいう。「反対派自体に、民主主義・社会主義路線とこの任務を担う新しい党にたいする理論的一致にもとづく統一がなく、したがって党内工作の説得力・浸透力を欠いていた。派閥対派閥では主流派の権威に抗し得なかったのはむしろ当然であった。またかかる反対派に、党が頑固な派閥に掌握された場合におこなうべき、きわめて高度な政治工作を求むべくもなかった。したがって反対派は、党規約に規定された党内闘争を形のごとくにおこない、形のごとくに破れ去ったのである。規約外の公然非公然の政治工作では、むしろ主流派の方がすぐれていたのである」(中村・藻谷、前掲五九ページ)
 それは情勢と運動の把握—-「具体的なものを具体的に分析して行動方針を見出すこと」—-に失敗した。「反対派理論家集団は、この形式的党内闘争に際し反対派幹部に対して、概して中央委員会その他の機関内の論争のために党綱領に関する批判的構想案を供給するにとどまり、すすんで情勢と運動の大局的分析による当面の基本方針の確立への寄与は意図しなかった。…‥・理論家集団は、自己をそれ自体として限定し、あえて真の有機的知識人としての責任を果たそうとはしなかった。また政治家集団の側は、理論家集団を統制し、両者のあいだに有機的統一-本質的な党壬を形成する能力と実質を創りだせなかった。」(前掲、五九ページ)
 このような出発点をもった「日本型構革論」は、「構造改良を民主主義・社会主義の構成要素としてとらえ、これを中間項とする戦略路線の総合的発展を推進するかわりに、構造改良を部分的に切りはなして拡大解釈し自己目的化したことである。
 したがって、ありふれた日常要求闘争の革新と強化を基礎として構造闘争を発展させるなどという発想は、『日本型構革論』からみれば、興味も価値もみとめられなかった。なにか目あたらしい新分野の開拓が『理論の切り売り』のために必要だった。こうして構造への介入をそれ自体として推進することによって構造的闘争を実現しょうという、子供じみた衝動のとりことなり、たびかさなる失敗と非難攻撃によって政策提起から運動論へ組織論へと転変した。……要するに『日本型構革論』 の諸理論は、一貫性がなく有機的統一がない。このような理論的分散傾向は、『日本型構革論』が内にもつ主体の喪失、労働者党の問題の放棄こそ決定的原因であることは、ほぼ理解されることと思う。以上のすべてを通じて、『日本型構革論』の本質は、民主主義・社会主義の道の解体であり、日和見主義的修正であることはいまや明らかであろう。」(前掲六〇ページ)
 そして、その理論内容・構造の欠陥として、客観的分析の方法論や古典の引証から無媒介に現実の革命的戦略論をくみたてたところにあるという。そこには民主主義・社会主義革命の政治理論がなく、また革命の主体形成の理論がなかった。また民主主義的介入から構造改革への可能性一般の論証にとどまり、政策提起に終る理論は革命理論とはなりえない、としてつぎの三点をあげる。①国家の二重性(公的機能と政治的機能)から労働者階級の介入の可能性をひきだす点(すなわち公的機能の民主主義的利用の安易な強調でなく、支配階級の国家的ヘゲモニーにたいするねばり強い「陣地戦」の強調の必要)②一般民主主義の評価の強調はあっても革命の政治理論としての民主主義論をかく点(「新しい型の民主主義」と工場、自治体内でのプロレタリア的ヘゲモニー装置の不断の建設の必要性)③構造改革および民主主義的経済計画化がヴィジョン、プランに止る点(プランニングには同時に必ずそれを実現するのにどれだけのエネルギー、武器装置を要するか、どのような阻害条件が横たわっているかを対象としなければならない)。中村氏はまた別の討論で、複数前衛政党論をとなえる安東仁兵衛氏にたいし、それは消極的現状肯定になるのではないかと批判し、つぎのように総括している。「構革論は唯一の現代革命論あるいは先進国革命論として、あれほど期待を集めて登場しながら、実践的力量に転化できなかった。構革論のその多産性を多くの階級的活動家たちに実感させえなかったといいたい。それは、主として、構革という要素を民主主義・社会主義革命の全体の論理と、それを推進する主体形成の論理から切り離して、ストラクチエラル・リフォーミズム、つまり、資本主義の現代的な構造変化への対応を含みながら、やはり改良主義的な偏向に陥ったと考えるわけです。」(対談中村丈夫・安東仁兵衛「構造改革派組織論の再検討」『現代の理論』六七年二月号二一ページ)
 この批判的論文の結論として中村・藻谷氏はいう。「『日本型構革論』は死して生きなくてはならない。生命がけの飛躍がせまられている。」(前掲「新世界」論文六五ページ)と。主体–新しい前衛党形成への努力の欠如と現代社会主義革命論としての構革理論の欠如、中村氏の指摘したこの二点について、わたくしもまた賛成であり、ここに日本構改派の基本的欠陥があったと思う。

 4 日本構改派の解体

 日本構改派が 「死して生きる」べき機会が六六年初頭におとずれる。積極的な要因からではなく、しだいにじり貧におちいり、このままでは消滅の危機にさらされた、各セクトの「総結集」の形で。
 「日本のこえ」志賀義雄氏の提唱にかかるこの総結集は、かなり長期のすったもんだの末、六七年十二月、かろうじて実現した。社革の主流(中村氏らは社会主義労働者同盟を結成して、この総結集に加わらない)、六一年春に社会主義統一有志会を結成していた、春日庄次郎、原全五の諸氏、及びいいだもも氏など非「構改派」を自称するもと日共官僚理論家をふくむ「日本の声」の一部(肝心の提唱者志賀氏らは、この総結集に加わらなかった。けだし六六年二月~四月、宮本代表団の訪中と毛沢東との決裂によって「自主独立」コースにきりかえた日共の情勢とこの情勢をみこして政策を変化させたモスクワよりの指示に従ったものであろう。因みに日・ソ共産党の接近はそのご七一年において実現した)によってである。前衛党アレルギーの統社同ははじめからこの総結集には冷淡だった。
 こうして六七年十二月共産主義労働者党が誕生した。しかし、それは「虚妄の『正統主義』を基調に派閥連合を再編成しようとする不毛の試み」(中村、前掲)といわれてもしかたないような弱い組織的側面と理論的弱点-社会主義革命論としての構造改良論を真正面からかかげない~をもつものであった。
 そうこうするうちに、六七年十・八羽田闘争、フランスの五月、チェコ事件と相ついで国内外に大激動があらわれ、それは六八年~六九年の全国をゆるがす大学闘争と新左翼の大量な進出にひきつがれる。そして統社同も、共労党も社労学同でさえその傘下の学生大衆(フロント、プロ学同、等)につきあげられ、解体してゆく。これらの学生青年たちはやがてマルクス主義を捨て去ってエセ・トロツキズム、アナルコ・サンジカリズムの小ブル急進主義にとらえられてしまう。もともとマルクス主義の原理的把握もまして真の構造改良論もなかったこれら小ブル学生指導者が、心情的なラジカリズムのまま内ゲバのテロリズムと大げさな権力への武装闘争論にとらえられ、学園闘争より権力闘争へと暴発し玉砕してしまったのは必然的であった。
 この学生新左翼の「政治的熱病」の「まんえん」によって、統社同、共労党の指導部はのっとられ、構改派は追放された。かくて日本構改派は、完全に瓦解してしまったのである。社会党でもまた情勢は同様だった。江田派は、構造改良をすてて純粋社民として現代革新研究会を結成し、社青同の青年たちの一部は新左翼へ突進し、また若手党官僚もまた、社会党内の真の革新グループ・構改派たる自己に自信を喪失し、日本構改派はここでもまた、解体蒸発直前の情況にある。(「現代社会主義」誌の廃刊、社連研の停滞)
 もっともすぐれた先進国現代革命論者たるべき日本構改派が、かくもバカバカしい即時武装蜂起をとなえるアナルコ・サンジカリズム的新左翼にかんたんにのっとられ、解体させられてしまったのは何故か。ここにさいごの問題点がある。
 それはさきに指摘した日本構改派自体の体質と理論的弱体に求められねばならないだろう。もっとも、さきにのべたように、いち早く日本型構革論の欠陥を指摘した中村丈夫氏自身もまた、この激浪にまきこまれてしまったのは遺憾であるが。ことほどさように学生青年大衆をとらえた激動が大きかったし、指導者たちが、この「狂気」の激流におし流されてしまった、といえるのであろう。ファノン・ドプレ、マルクーゼに理論的源流をもつ世界の学生反乱も現在ではフランス、西ドイツ、アメリカともに台風一過の如き沈滞と分裂の状況にあるといわれる。わが国の場合新左翼は欧米のようなはっきりした理論的確信よりもよりムード的心情的なものにもとづくため、また告発された問題が何一つ片づいていないという理由によって、時折のけいれん的大衆的「暴発」や小グループの「玉砕暴発」はあるかも知れないが、たとえばロシア・ナロードニキの歴史の先例にあるとおり、ますます空しい「個人」テロリズムの徒花と化し、七〇年代日本独占にとって、体制反動化にもっとも好都合な口実・契機としてつかわれることもあるであろうが(註5)、全体として新左翼運動の敗北は明白であろう。

註5 小寺山康雄氏の 「構革派解体におけるわたしの責任」(「現代の理論」七〇年十二月号)について一言ふれておきたい。いくら年少であるとはいえ、またいくら小グループたりとはいえ、政治指導者の「責任」とは政治についてであって、それは自己の選択により生まれる「結果にたいする責任」である。この政治学のいわばABCが、小寺山君にはわかっていないらしい。「手をよごす」とか「よごさない」とかいった心情的あるいは宗教的(「汝ら罪なきものこの女をうて!」)レベルの問題とはちがうのだ。事実をまず卒直に事実としてみとめ、敗北を敗北として客観的に承認し、そのよってきたるゆえんを冷静に追求することである。新左翼の青年の(全部とはいわぬが)「薄弱な『過保護』の精神は、『挫折』すべき骨さえもっていないのではないかとうたがわれているわけだ」という本誌創刊号の私の感嘆にたいして、かれはかみついているが、君は一体全体の状況をどう考えているのか。なるほどごく一部には地にひそみ闘いを継続する部分はあるだろうが全体としてどうなのか。闘いが一見後退したかにみえながらじつは実力が貯えられており勝っているのだ、とでもいいたいのかーそれならば日共がこれまで大きな政治的転換=敗北期にいつも行なってきた「勝利」の総括、かれらが歌ってきた「ひかれものの小うた」の同類でしかないだろう。もっと冷静に客観的に自己と自己の政治的責任をみつめてほしい。残念ながらわたくしはこの小論からは構革論の継承と革新につながるような芽を見出すことができなかった。新左翼と同類の—あるいは中間派的—心情トロとはぎれの悪い自己弁護しか見出しえなかった。「内部からつきあげてくるわたし自身への批判」が、このような薄っペらなものでしかないなら、つまり、われわれの構改理論にこれこれの部分がかけていた、グラムシをほりかえして新テーゼー—「工場評議会」を見出し、これだ、これが欠けていたからわれわれは負けたのだ、という姿勢は、かつて経験した一つのパロディを想起させる。すなわち、五一年夏コミンフォルムの所感派支持発表で国際派の人々がすっかりまいっていたとき五〇年金学連の指導者の一人が誇らかに叫んだ。「もう安心しろ、もう大丈夫だ、おれたちがまちがい、失敗したことの理論的証明ができた!」と。どうも私には、中間派の「責任」や「総括」がこのパロディと二重うつしになってみえる。しかしこれらのくわしい検討は次号にゆずろう。マルクス主義にとって、理論はどこまでも行動の指針である。そして政治指導者はこの実践・行動に責任を負うものである。だから政治指導者の自己批判や責任は、心情的なもの—「政治が問題になるとき小ブル的倫理をもってする」最悪の政治的誤り(レーニン)—であってはならないし、また抽象的な学界討論的なものであってもならない。理論と現実の運動との間には、一定の媒介項があるのであり、これが組織なのである。構改派がその政治集団を「理論の切りうり」屋として自己規定せぬ限りこのような理論研究会的総括は政治的総括にはならないと思う。
 こうして日本構改派は解体し「死んで」しまったのである。読者の便宜のため日本構改派の系統図をかかげておこう。

カテゴリー: 社会主義, 社会運動, 運動史 | 日本構造改良派の軌跡 はコメントを受け付けていません

【追悼】森先生の著作一覧

【追悼】森先生の著作一覧

史的唯物論の根本問題

「史的唯物論の根本問題」

戦後日本マルクス主義の思想的混乱を総括し思想闘争の対象、原則、組織をはじめて体系的に提起した先駆的労作。前編では戦後唯物論の反省、戦後の反動思想および修正主義の諸形態の分析が、後編では『資本論』の近代主義的解釈とカール・レヴィットの 「原始マルクス主義」 への批判がなされている。また唯物論と観念論に関する簡潔で体系的な解説が補遺として収められている。
一九五八年、青木書店刊。七一年再版。

 

 

 

マルクス主義と自由 1962年12月初版

「マルクス主義と自由」

現代思想の中心問題ー 人間と自由(主体性)の問題→ーをマルクス主義の見地から積極的に展開。序篇では反動、官僚主義、解党主義との区別において民主主義を論じ、前編では自由と必然、理論と実践、科学性と党派性の統一的把握を基礎にマルクス主義人間観を展開、後篇では日本型トロツキズムの哲学的基礎 主体的唯物論を批判。

一九六二年、学術出版社刊。

 

 

 

「マルクス主義と自由」付録
「批評に応えるC ベイビイ・マルクシズムへの訓戒」
 「前衛6月号 高田求「修正主義を叫ぶ修正主義の哲学 森信成批判」への回答」
  (1963年7月 70円)

後に、『毛沢東「矛盾論」「実践論」批判』に収録される

 

 

 

マルクス主義と自由 1968年増補版

六八年、合同出版より「マルクス主義と自由」増補版
一三〇〇円。

 

 

 

 

 

 

 

毛沢東批判

毛沢東「実践論」・「矛盾論」批判

中ソ論争となって現れたマルクス主義の国際的規模における対立をマルクス主義の実践観と民主主義観を中心に、哲学の領域で総括。前篇「理論と実践」では毛沢東『矛盾論』 『実践論』の経験主義的実践主義およびそのエピゴーネン達(周揚、松村等) への批判 を、後篇「マルクス主義と民主主義」では国家と民主主義の概念の展開を行っている。また資料として日本唯研の「創刊のことば」をめぐる論争が掲載されている。

一九六五年、刀江書院刊。
六〇〇円。

 

「唯物論研究」 各号

「日本唯物論研究会の機関誌。1960年4月に創刊され、
23号まで発行された。森先生は、大阪唯研の代表として、この「唯物論研究」誌に、毎号のように論文を掲載され、主体的唯物論・毛沢東理論などに対して痛烈な論陣を張られた。右の19号には「疎外と民主主義の概念」が納められている。

 

 

 

 

「知識と労働」創刊号1970年12月

「知識と労働」創刊号 1970年12月
大阪唯物論研究会 編

創刊のことば
哲学の根本問題 森信成

(「哲学の根本問題」は、1974年出版の「現代唯物論の基本課題」に再録されている)

 

 

 

 

 

「知識と労働」第2号

「知識と労働」第2号 1971年5月

 

「知識と労働」 第2号 1971年5月

哲学特集
日共代々木派哲学批判   森信成
哲学の根本問題 (承前) 森信成
情報化社会理論 (山本春義さん)

(「日共代々木派哲学批判」は、1974年出版の「現代唯物論の基本課題」に再録されている。)

 

1972年
5月 『唯物論哲学入門』(新泉社刊)

亡くなる1ヵ月前、大阪労働講座での4回の哲学講義を基に編集された。唯物論哲学の入門書として、現在も「改訂新版」が発行され続けている。

 

 

 

 

 

1973年
12月 『現代唯物論の基本課題』(新泉社刊)

第1篇 哲学の根本問題
第2篇 日共代々木派の哲学とルカーチ、コージングの哲学
第3篇 毛沢東哲学批判

 

 

 

 

1979年
4月 新装版『現代唯物論の基本課題』(新泉社刊)。
9月 『史的唯物論の根本問題ー戦後日本の思想対立』復刊(新泉社刊)。

1994年
9月 新装版『唯物論哲学入門』(新泉社刊)。

2004年

改訂新版・唯物論哲学入門(2004)

2月 改訂新版 『唯物論哲学入門』(新泉社刊)。

解説 山本春義さん

【書評】 改訂新版 唯物論哲学入門

カテゴリー: 思想, 歴史, 追悼 | 【追悼】森先生の著作一覧 はコメントを受け付けていません

二つの学生運動の書物について (「知識と労働」第2号)

二つの学生運動の書物について (1971年5月)

「知識と労働」第2号

「知識と労働」第2号 1971年5月

現代政治研究会編『70年代と階級闘争』『大学の民主的変革のために』批判
                (生駒 敬)

 「現代政治研究会」の名の下に最近出板されている表題の二つの書物は、学生運動の中で一定の影響力をもち、とくに「学生共闘」に属する学生たちにつよい政治的思想的影響を与えているように思われる。 同時にこの書物は、そこに参加しているまじめで積極的な学生活動家たちを、 彼らの戦闘性とその主観的善意にもかかわらず、 一連のはね上った行動や大衆的学生運動の分製行動へとみちびくかそれを含んでいるようにも思われるので、学生運動の統一、大衆性の回復をねがう見地から一、この二つの本に含まれている誤まった思想と政策について若千の検討をしていきたい。

 この二つの単行本に表明されている立場をひとことで評するとすれば、それは”左翼小児病”というほかない。 われわれは、以下にこの二つの単行本に表明されている重大な弱点について指摘することとするが、それは、これらの本が運動の前進に有害な影響をあたえないようにと願ってのことにほかならない。
 著者らの主張は実に多くの矛盾に満ちている。 しぱしば多くの原則的な正しい立場の表明とならんで、それとは無関係に理論的にきわめてあいまいな見解が展開されている。 そして重要なことは、実践の場ではこのあとの面の影響がもっともつよくあらわれているのである。 まず『七〇年代と階級聞争』から、その中心的な主張ともいうべき「攻撃的聞争」の理論と、ついで両書の述べる実践的結論について問題にしてみよう。

『七〇年代と階級闘争』

 著者らがもっとも強調しているのは、 「一部の旧構造改革派のトロッキー主義へのとめどなき屈服」を念頭においた「構造改革派の戦闘的再生」ということのようである(271P)。
 そして、「60年代当初の”構改派”の水準を乗りこえる」”戦闘的再生”のかなめが、「攻撃的闘争」の理論だという。 すなわち、この「攻撃的闘争」とは、「力関係の上向的転換″=下層の危機”」によって「支配の外被(″同意の機構” )を取り払い」、ついで「新たな対峙線に向け、より一層熾烈に」「不断の緊張関係を創り出し」、このことによって「″下層の危機″の″上層の危機〃への転化の回路を登りつめること」だと主張している。 (281P)
 この本の第三編「70年代世界と日本の階級闘争の展望」は、70年代闘争勝利の条件を結論づけて、次のように述べている。 それは第1に、「全機構的・重層的闘争を闘い抜くことであり、このことによって力関係の上向的転換から、真の政治的危機に至る展望を登りつめることだ」という。第2に、全機構的・重層的闘いといっても「代々木派とは決定的に異り、絶えざる緊張関係へと導きうる環」に向けていくことであり、第3には、従って「攻撃的闘いを組み上げていくこと」であり、最後に「終局的には”実例の力”によって、多少とも影響をもちうる典型的な聞いを構築して、統一戦線を打ち固める」ことだという。 せんじつめれぱ以上がこの本の結論である。
 このことを理論づけるために著者たちは、″戦闘的再生”の見地からレーニンをも批判の対象とする。 著者らは、客観的条件のないところに革命は起りえないとしたレーニンの見解にたいして、客観的条件を待つのは「危機待望論」であるとする的外れの批判を行ない、今日資本主義の全般的危機の第三段階では危機=革命的危機はつねに成熱しているのだからすべての問題は「下層の危機」を「上層の危機」に発展させる「主体の形成」にあるとする機械的な観念論=はね上り論を対置する。著者らは「政治危機形成についてのレーニンの見解の若干の検討」と題して(278P)、「われわれの革命は″危機待望論”ではない。 そうである以上、全国民的政治危機をわれわれが能動的に形成しうるということ、 この点こそ重要なポイントである」と主張している。 それにつづいて、レーニンの著書『”左翼″小児病』を引用してつぎのようにいう。「レーニンは・・・革命は、全国民的な(被搾取者:=下層、搾取者=上層をまきこむ)危機なしには起りえない、と述べている。 ・・・しかし、あえていうならば、彼は″下層”と”上層”の二つの危機がいかなる相互関係にあるのか(あるいはその逆)について、十分に述べていない。・・・あるいは、レーニンはその相互関係を明らかにしうる条件をもたなかったといえば、より正確であるかも知れない。・・・いずれにせよレーニン的段階にあっては″上層の危機〟が”下層の危機″を引き起こす、 という形で事実上理解されていたことは、ほぼ明白ではないかと思われる」と。
 著者らが「・・・かもしれない」とか「・・・と思われる」などとあいまいな言い方をしているのは、著者らがレーニン批判に自信のなさを表わしているのかもしれないが、いずれにせよ、これが著者らの「レーニンの見解の若干の検討」の内容である。そして彼らはレーニンを乗りこえ、「政府危機一政治危機を能動的につくりだしていく攻撃的闘争」なるものを極力強調するのである。
 ところでレーニン自身は、著者らが引用している当の『”左翼″小児病』のなかで、このような見解、 ーコミンテルン第二回大会に反映され、ひきつづき第三回大会でもあらわれ、ドイツ革命運動では決定的に有害な役割を果たした、このような見解ー「攻勢的闘争の理論」と闘ったのではないのか。現代政治研究会のこのような「攻撃的闘争」の理論は、別に新説ではない。 かなり古いことだが、第一次大戦後のドイツ共産主義連動のなかでもそれと瓜二つの主張がなされたことがある。
 1921年にドイツ統一共産党中央委員会は、ドイツ社会民主党、ドイツ共産主義労働者党、その他すべての労働組合団体にあてて、 「資本の攻勢に反対して共同闘争を行なおう」という「公開状」を発したとき、同党内の「左派」がまったく同様の「攻勢的闘争の理論」をもって中央委員会に対立していたからである。 この「左派」は、コミンテルン第三回大会で、右の「公開状」のなかにある「多数者」、「大衆」という言集を削除する提案を行ない、「革命的攻勢の線を堅持してゆく」こと、「攻勢的行動は、たとえそれが敗北に終ろうとも、未来の勝利の前提条件であり、革命党が大衆を獲得するための唯一の可能な手段である」と主張し、「ダイナミックな傾向」とか「受動性から能動性への移行」こそが重要である、などと揚言していた。
 レー ニンはこれにたいし、ドイツ共産党中央委員会の「公開状」は、 労働者階級の多数者を引き寄せる実践的措置の最初の行為として模範的なものであると高く評価し、 同時に同党内左派の「攻勢的闘争の理論」にたいしては、攻勢一般の問題が論争を呼びおこすことはありえないし、これについてくどく言ってていることは恥であり、、恥さらしである、「ダイナミックな傾向 」とか「受動性から能動性への移行」とかいうことは、みな空文句であって、かってエス・ エル左派がわれわれにたいしてもちいた文句であった、と厳しく批判を加えた。コミンテルン第三回大会は、「左派 」のセク ト主義的な見解、「攻勢的闘争の理論 」を断固としてしりぞけ、大衆獲得のための闘争、労働者階級の統一をめざす闘争、労働者階級の統一を作りあげ、統一戦線戦術を実際に適用する課題を決議したのであった。(レーニン全集第32巻、「コミンテルン第三回大会 」参照)
 歴史的な右の一事を知るだけでも「現代政治研究会」の「攻撃的闘争」論が、古い”左翼”小児病の新版にすぎないことがすぐ理解されよう。 だがこのような見解が今日また事新しく、大まじめに主張されているのはそれなりの理由がある。 彼らが強調しているように、わが国の左翼諸派の「トロツキー主義へのとめどなき屈服. 」は、多くの有能な人々をもまきこみ、相呼応して右翼的見解をも助長させてきたからである。 しかし、一体、こんな″攻撃的闘争″の理論による〃戦闘的再生〟によって「トロッキー主義へのとめどなき屈服」が克服できるであろうか。 冷静に考えてみるならぱ、逆に自らが「とめどなき屈服 」への道を歩みはじめていることになるのではなかろうか。
 さて、このような「攻撃的闘争 」の理論は、その実践が行なわれる具体的情勢、客観的諸条件よりも、主観的な願望や決意のみを先行させることになるのは必然である。 「自らの闘いの弱さを痛苦の思いをもって受けとめながら、 この重責をはたすために全力をあげねばならない. 」と彼らはいう。 しかし、いくら能動的闘争、攻撃的闘争を展開しようとしても、彼らの決意、願望、あせりに反して、現実はいかんともしがたい。 そのことは著者ら自身も認めざるをえない。 そこで彼らが次に提起してくるのは「主体の構築」ー意識分子の結集ーだということになる。
 著者らはいう。 -「輝ける七〇年代闘争」の任務は、「まず第1に主体を構築すること」である。「まず第一に組織的中核の建設」である。 学生運動の場合は、「まず第一に闘争委員会の結成」である。 労働運動の場合は、「まず第一に、労働組合の機関を恒常的に包囲していく職場行動委員会の結成」である。
 かれらは、一片のやましさからか、これら闘争委員会や職場行動委員会は″戦闘的”な活動家の組織ではあるが、「機関からの分離を自己目的化した少数派運動ではない」とか「何度もいうがこれは党派的組織」、セクト的組織ではない、などとくどいほど長い弁解をしている。 セクト的組織におちいるまいとする努力それ自体は大いに評価してよかろう。 しかし結論は、どのように弁解がつけられていようともやはり″わが派〟 の″主体の構築”に落着するほかないということを、 「現代政治研究会」の人びとはまじめに考えてみたのだろうか。

『大学の民主的変革のために』

 著者らのいう″主体の構築″とはいったい何かを、もう一つの単行本「大学の民主的変革のために」でみてみよう。 そこでは、新たな「層としての学生運動」の”再生”あるいは、新たな展開を要請して、次のように述へている。
「学生層は次の三つに大別される。 第一は積極的部分、第二は中間的部分、第三は政治的無関心派である。」「かかる状況のなかで勝利への環は、第一の積極的部分の不安定性を克服し、この層をもって闘いの中核部隊を形成すること、この部分の闘いの具体的展開によって、第二の中間派の右派としての自己形成をくいとめ、この闘いへの合流を勝ち取ることこそ『闘争勝利の決定的条件」である」と。 (「大学の民主的変革のために』135P)
 このような学生層の把握は、学生層を、その客観的な地位ー社会経済的なまた階級的な位置づけから問題にするのではなく、もっぱら学生層をその意識においてとらえ、意識程度を物さしにして学生層を単純に区別・分断して、何か一大発見でもしたかのように考えていることを特徴とする。このような取扱いは運動のきわめて技術主義的、図式主義的な取扱いであり、全体として反独占的階層たるべき今日の学生層を統一に向わせるのではなく、それを無限に分裂させる契機を含んでいるといわねばならない。 著者らが「闘争勝利のスローガンが意味する第一のものは、かかる長期にわたる熾烈な闘いを闘いうる強固な中核部分の構築」であると断言し(140P)、「闘う主体の形成」が「闘争勝利の決定的条件」だと揚言するとき、 この危険はいよいよ明白なものとなる。 著者らがこのように機械的な方法と勇ましい言葉のかげで一貫して無視し、考えてさえもいない重要な事実は、 全体としての今日の学生層の客観的な地位の変化、その生活の実情、広汎な学生層の現在の意識と気分などであり、まじめな運動論者であるかぎり、これらのことをまず第一に考慮に入れねぱならぬことはいうまでもないのだが、著者らはそれらをすべて無視して″左翼的”中核の結集だけを呼号しているのである。 これはまぎれもない「極左小児病」 のあらわれでなくて何であろう。
 著者らの「主体形成」、「自己形成」論は、大学闘争のなかで「教官層の自己変革」を要求する闘い、 それに対応する「学生層の自己形成」を築くことだと主張するまでになり、「サポレないところへ自分をもっていかなけれぱダメで、自己変革ということは、そういうところで、そういうふうにしてやられるものだ」(同163P)などと、あたかも戦後初期の「極左」指導者たちが、農民運動にたいし、「隠田摘発」闘争をおしつけ、権力の前に″丸裸になる″ことが権力と闘う自己変車の道だと説教して大衆運動に大損害をあたえた誤りの再版を口説いているのである。 こうした主体形成論は、自己変革の闘いという全く主観的なものに昇華するのがおちであり、しかもそれは自己をたえず「極限状態」「緊張関係」におくことによって自己変革を達成するというトロツキスト諸派、主体的唯物論者への屈服を準備することにもならざるをえない。 これを示すのが第六章「私たちにとって大学闘争とは何か」であり、そこでは「理論的にどうというより、感覚的に体制は悪いものだ、禄でもないものだし、やっつけなくてはならないんだ」という自己満足的なアナーキズムの見解が、新しい運動論の展開を自負するこの書物で憶面もなく語られているのである。
 『大学の民主的改革のために 』の「私たちにとって大学闘争とは何か」という討論では「私達「「学徒』は虐たげられる『民衆』のために、彼らの解放の道を指し示していく任務を負っているということです」(同159P)という発言もみられる。これはいったい彼らのいう”層としての学生運動の戦闘的再生” とはどんなふうに統一されるのであろうか。 これは、著者らが排撃しているトロツキスト諸派の″学生先駆性論”ープロレタリア・ ヘゲモニーの否定論ーとどこがちがうのか。 労働運動、革命運動の水先案内をかってでる小型前衛党一(小ブルジョアの)の″代行主義”ではないのか。
 学生運動の大衆的基盤は、 独占資本主義=帝国主義段階における学生層の社会的・ 経済的・ 階級的位置づけに基礎を置いた、広汎な学生大衆の利益と要求の共通性、労働者階級への接近と移行の客観的必然性にこそ、その根拠をもっているのである。’ この書物には、このもっとも重要な点の考察が一貫して欠落している。

 「現代政治研究会」の人びとは、本年二月、右の二冊の単行本に引き続いて、『層としての学生運動-その戦闘的再生のために 』というパンフレットを発行した。 そこでは、さすがに前二冊とは違って、攻撃的闘争」とか「下層の危機の上向的転換 」などのうわ言は消え去り、その他表現が多く改められている。 しかしその内容の基本的主張は何ら変ってはいない。
 そこでは、「層としての学生運動」を、一面では全く形式的に全員加盟制自治会の存在としてのみとらえ、他方では「正しい情勢分新の下に正しい方針を大胆に提起していけば、必ず日本の学生は立ち上るであろう」という全学連八中委路線(一九五六年)を「意識的指導の重要性・ 必要性」を指摘したものだと一面化することによって(同パンフ98P)、同じようにこの八中委路線をねじまげたトロツキスト諸派の″学生先駆性論” (転換論)と同じ立場に立っている。 そして「層としての学生運動の戦闘的再生の道」とは「この指導をいかに貫徹していくべきか、という問題にほかならない」と割切り、これはr主体の構築」「主体の形成」によってのみ達成されると断言している。 具体的には「独自かつ系統的に闘争を指導する大衆的闘争委員会が、その独自かつ系統的指導性のゆえに恒常的に組織されねばならない」ことであり、かつそれは「『左』右の日和見主義との不断の熾烈な党派闘争によってそれを防衛し、不断の党派闘争に勝利することによってのみ達せられるということ」だと結論している。 (同パンフ119P)
 ここに「攻撃的聞争」の理論は「主体形成論」 と一体のものとなり、さまざまな諸潮流の活動家集団のなかに、新たな″戦闘的活動家集団”を作ろうということに一切が帰結させられてしまっているのをみる。 ″主体の構築”のためには、他のあらゆる諸派との区別、熾烈な党派闘争ーこれこそが最も重要な課題となり、広汎な学生大衆の現実の要求や希望は視界から消えさってしまう。 これは彼らの論理の必然的な帰結である。 セクト主義が″意識的指導″の名の下に合理化され、″大衆の無理解と無関心”から自己を隔離し防衛する、ごく自然の願望として醸成されてくる。 意見の異なる諸潮流にたいしては、ヘルメット、棍棒、竹ザオ等で″武装”してでもその存在を否定しなければならなくなってしまう。 全国的統一闘争とは″わが派”が全国征覇をしない限り、あるいは他のすべてが″わが派”の指導に従わない限り、存在しえなくなってしまう。 従ってたとえ少数者
の行動であっても″わが派″の統一行動は、″全国統一行動”″全関西統一行動”と名のらざるをえない。 主体形成論のいきつく先は、こうしてすでに明らかである。 それは不可避的にセクト間抗争にあけくれる運動であり、少数活動家の街頭動員主義であり、内ゲバである。 このようなことは、すでに何度となく、われわれが眼前に、それこそ「痛苦をもって」経験してきたことである。
 善意と、 一定の真実とをもって語られている活動家集団の形成や意識的指導の必要性も、このように運動の客観的基盤、現実から離れて語られると、悪しきセクト主義に転化してしまう。 そしてそれは、大衆的運動とは無縁なものとなり、客觀的情勢が最も強く要求している広範で力強い統一戦線をいかに実現していくのかという大衆のなかでの活動、最も重要な任務を忘れさせてしまう。 「現代政治研究会」の人びとに一貫して欠けているものは、このことではなかろうか。
 あらゆる大衆闘争、労働者階級の闘いのなかで行動している勢力、グループ、党、階級階、大衆のすべてを考慮に入れること、けっしてただ一つのグループまたは党派の主観的な願望と見解、決意と覚悟の程度だけをもとにして政策を決めてはならないこと、つねに新しく発展する現実の生きた闢いのなかで、真の大衆討議をつうじて大衆の意志を統一し、このような仕方で大衆の信頼を獲得し、巨大な統一戦線をつくりあげていく闘争に積極的に参加し、そこで指導性を発揮すること、-レーニンが「”左翼”小児病」の中で何度も強調した、このことが今日とくにわれわれにとって痛切な教訓としてうけとられねばならない。(1971.04.01)

カテゴリー: 歴史, 民学同, 生駒 敬, 社会運動, 運動史 | 二つの学生運動の書物について (「知識と労働」第2号) はコメントを受け付けていません

同盟統一会議へ結集せよ!(デモクラート No24  71年1月10日)

同盟統一会議へ結集せよ!(デモクラート No24  71年1月10日)

学生共闘派指導部のセクト主義ゲバルト路線を拒否し、
趣意規約の立場に立ちもどり学生運動統一同盟統一へ

同盟統一会議へ結集せよ!

わが同盟は、これまで一貫して、また本紙23号で民学同「全国委員会」-学生共闘派指導部のセクト主義、ゲバルトに対して批判を加え、セクト主義、ゲバルトをやめ、同盟の趣意規約に立ち戻り日本学生運動統一、同盟統一の道へ復帰することを忠告してきた。しかるに、10.21を前後して憂慮すべき事態が発生している。
市大において、学生共闘派は、私物学生大会防衛の名の下、革マル派の襲撃に対して、ヘルメット・角材・鉄パイプの完全武装で応酬し、逃げる革マル派をBOXに追い詰め、BOXを破壊しつくしテロリンチを加え多数の重軽傷者を与え(10月18日)、国鉄阪和線杉本町駅では周辺の商店から、角材・空瓶を盗み出し、「市街戦」を演じ周辺の商店、駅等に損害を与えた(10月21日)。京都においては、アナキスト集団とゲバ抗争を繰り返し、アナキスト集団から挑発的テロを受けるにいたった(10月23日)
かかる内ゲバは、学友の闘うエネルギーを分散させ、学内反動派を勇気づけ、官憲の直接的弾圧をもたらしているのみならず、周辺住民に迷惑をかけ、市大では部落解放同盟から抗議を受けている。
学生共闘派指導部は、自らのゲバルトを「正当防衛」とウソぶいているが、もってのほかであり、かかる論理こそ、わが同盟が一貫して批判し、その克服のために闘ってきた、民青、トロ諸派の誤り-日本学生運動の悪しき傾向、誤りそのものである。

わが同盟は、第12回全国大会を前に一部全国委員の趣意規約の乱暴な蹂躙と、暴力による全国大会など諸機関の機能破壊・私物化というかつてない事態に陥った。そして一部全国委員による「大会」強行の中で同盟は事実上分裂状態となった。わが同盟はかかる事態を踏まえ、同盟の趣意規約にもとづく統一大会をかちとるため、あくまでもそれを守って、同盟の目的実現に努力し、責任をもって全組織を指導しうる臨時中央指導組織として民主主義学生同盟統一会議を組織した。その時、全国学生へのアピールの中でわが同盟は学生共闘派を批判しし次のように述べた。

「数年来の大学闘争の中で、封鎖-封鎖実力解除の”内ゲバ”に終始したり、「11月決議」と称して、学園における粘り強い闘争を放棄しながら街頭での少人数の小児病的一揆主義の行動に走り、その結果、権力の組織的系統的な攻撃を許した残念な事態に象徴されるように、日本学生運動が、今でも根強く持っている傾向、情勢の主観的判断に基づく学生党的政治主義と大衆の利益を党派の利害に従属させるセクト主義が学生の戦闘的エネルギーを浪費させている。
わが同盟は、その発足以来一貫して、この悪しき傾向と闘ってきたが、数年来、同盟内に発生した傾向は、残念ながら、これと同種の病である。
それは、各大学でいかに学生全体を決起させ、その運動を統一するかより、他党派と対抗して、”わが派の集会”に何名多く動員するかに主要な関心を払うセクト主義、街頭決戦主義であり、学園での浮き上がり、孤立の反映でもある。最近各大学内の統一闘争を経済主義とししているのは、彼らが学内で統一政策を実行し、学生大衆と結合する能力のなさの証拠といえる」

この間の事態は、わが同盟が指摘した学生共闘派指導部のセクト主義の一層の露骨化徹底であり、その必然的帰結としてのゲバルト路線(民青、トロ諸派と同じ陣列)への転落を示すものである。
わが同盟の名を僭称する学生共闘派指導部のかかるセクト主義・ゲバルト路線は、同盟の趣意規約の立場とは無縁であり、光喜ある同盟の名を著しく傷つけるものである。
わが同盟は、ゲバルトを徹底暴露追放し、ゲバルトを行使した部分に対して自己批判を迫っていくと同時に、一切のセクト主義を許さず、クラスぐるみの決起を基礎に、学園毎の統一行動を実現していく。

学生共闘派指導部に結集している民主的、良心的、献身的学友に訴える!学生共闘派指導部を拒否し、わが同盟(統一会議)に結集し、日本学生運動の統一と発展のために、ともに闘わんことを!

民主主義学生同盟
統一会議

カテゴリー: 歴史, 民学同, 運動史 | 同盟統一会議へ結集せよ!(デモクラート No24  71年1月10日) はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No8

民学同統一会議ニュース No8 1970年6月14

インドシナからの米軍撤退・佐藤政府の侵略加担反対
安保破棄・沖縄基地撤去即時返還・日米共同声明粉砕
全国学園ストと連帯し、6.18-23全大阪の大学の結集を!

【主張】6月闘争の課題 警察管理を打破し政治活動の自由を
★6.15-23全学ストで決起 大阪市大
セクト主義で闘い分断 民青と「学生共闘」
★関大法学部 12日間スト突入
★今週、一斉に学生大会 阪大
★18日 1週間ストへ学生大会 学大★民学同全国交歓会 7/11-12 於大阪
★「唯物論」第2号 阪大唯研

PDFは、こちらから( 1面 2面 )

【主張】6月闘争の課題 警察管理を打破し政治活動の自由を

70年6月、アメリカのインドシナへの戦争拡大と安保条約の”改訂なき大改訂”の中で、再び学生運動は、生気をとり戻しつつある。
京大、市大が全学10日間スト、神戸大教養、関大法、東大教養、花園大、京都外大なども次々に、ストへ突入している。
昨年、大学法「成立」以来、大学を警察管理に陥れ「新左翼」諸潮流内の構想”内ゲバ”も伴い、政府は学生運動の弾圧に、表面上「成功」したかのようであり、商業新聞も「沈滞の70年安保」と書き立てていた。
しかし、学生の平和をもとめ、大学改革をすすめるエネルギーは、政府や財界の予想に反し、今なお健在であり、最近の動きは、その戦闘性がいよいよ増してきていることを、物語っている。

<米軍撤退要求し、強めよ国際連帯>
この学生の力をいかに発展させるのか—–
この問いへの正しい回答は現在の情勢と力関係を正しく分析することによってのみ得られる。
6月の学生運動の重要な課題は、米軍のインドシナ侵略をやめさせ、一日も早く米軍撤退をかちとることにある。
ニクソンは、カンボジア作戦が成功していると語りながら、他方では、常に米軍の緊急臨戦体制が必要になるだろうと主張している。
これは、彼が、アジアから手を引く意図がないこととともに、彼の政策がまったく見遠しのないことを示している。ニクソン政府は、議会で内部対立をさらけ出す程、その動揺ぶりは隠せない。
アメリカは、株価の暴落、高インフレ、失業率の増大、成長率の鈍化という”危機”をかかえ、これ以上アジアへ介入を続けることは、大きな困難であろう。
インドシナ人民の勝利の保障は、中ソ関係改善など社会主義世界体制が団結を固め、インドシナ3国人民の民族解放勢力への物質的、政治的、精神的援助を強化すること、全世界の労働者階級、平和と民族解放勢力が社会主義とむすびつき、国際連帯を、共同行動をつよめることにある。
第2には、インドシナ戦争を日本の軍事力強化に利益をもとめる国内の好戦派佐藤政府を孤立させることにある。彼らは、沖縄の基地を今後の海外侵略の拠点として保持しようとしている。
これとの闘いは、インドシナからの米軍撤退をめざす国際的平和運動とむすび国内では、労働者階級を初めとする国民諸階層とむすびついてこそ、有効となる。

<警察管理うち破り、政治活動の自由を>
第3には、”政治的中立”の下に、大学における政治活動を規制し、警察管理をみちびき、政府の侵略加担を黙認・支持する学内反動派と対決し、政治活動の自由、スト権、団交権などを闘いとることが重要である。
かかる闘いの中で、学生運動は、セクト主義と”内ゲバ”を改め、各大学毎にしたから統一をつくり、大学間の共同行動を実現する道を求めるべきである。

<政府との協調説く「終了通告」論 学生の力浪費さす無展望は「決戦」論>
民青の主張は、アジアの脅威となっている日本帝国主義の独自の意図を見ず、その民族主義に屈服し、それとの協調を説き、選挙だけで、社会を変革しうるという議会主義である。
学生や少人数だけで、またショック戦法で権力を打倒しうるという「決戦」論は、学生の力を浪費させるだけだ。

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No8 はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No7

民学同統一会議ニュース No7 1970年6月8

【主張】ニクソン演説 侵略実行、再確認
  6月、強力な反撃を!
★米軍全面撤退、侵略加担反対かかげ 6.15,6.23に各学園で大統一行動を
★露骨な就職差別 阪大
★400名の大学改革討論集会 関大
★団交出席要求し、寮生が集会 学大
★学生の厳しい要求で、同和教育の科目設置 阪大

PDFは、こちらから( 1面 2面 )

【主張】ニクソン演説 侵略実行再確認 6月、強力な反撃を!
(1)
侵略を拡大するニクソンは6月4日全米向けテレビ放送で演説しカンボジア軍事介入の「成果」を大宣伝し、更に「力の政策」を再確認し、臆面もなく7月1日以降の軍事介入を宣言した。
ニクソンはカンボジア軍事介入を「戦争を拡大するためではなく、ベトナム戦争を終わらせるためである」との強盗の論理を再び強調し、「南ベトナムに残っている米軍の安全を危うくするような方法で反撃を増大してくるならば、私は5週間前に示したような状況に応じた、強い効果的な措置をとる」と、今後も民族解放運動を武力で抑圧することを確認している。そればかりか、6月30日、カンボジアから米地上軍が撤退した後も「空からの行動」を米軍が続行することを明示した。「空からの行動」が地上戦闘と密着したヘリコプター作戦をも含むとすれば、引き続き米軍が主要戦闘力として介入を続けることを意味している。
また、演説は南ベトナム「政府」軍の残留を認め、韓国、タイ派遣のカイライ軍への武器供与を強めるならば、米軍のカンボジア侵略は無期限に引き延ばされたに等しい。ニクソンは又もや侵略をエスカレートさせた。政府軍のカンボジア作戦は黙認され、あまつさえ、武器供与、援護作戦をひきうけ、カンボジア爆撃を「力の論理」で正当化し、「南ベトナムの米兵の声明と安全を守るために」という侵略と強盗の論理を理由としているのである。

(2)空文句のニクソン演説
演説は“我々の主要軍事目標は今日、すべて達成された・・・予想以上に大量の軍需品を捕獲し、破壊し・・米軍及び同盟軍の死傷者は予期したよりも非常に少なかった」更に「この作戦はベトナム化計画の成功を立証した」と述べている。
しかし、この「成果」の大宣伝に対し、米軍高官筋は、”作戦成功は早計”だと反論し、”重要なのは、この作戦は米軍が今後さらに撤退した後、南ベトナム「政府」軍が主要な戦闘をひきうけるようになるまでに必要な時間かせぎに役立つかどうか”と言っている。
ニクソンは”大成功”と言い切り、米軍高官筋は”結果は今秋”としている。この評価の違いは、大統領ニクソンの”苦悩”を表明している。

(3)矛盾深める米国内の世論
 現在、米国内では様々な分野で反ニクソンの運動が高まっている。ドル危機、インフレ、物価高騰、失業者の増大(失業率5%)、黒人差別、米国民は、その元凶をベトナム戦争として理解している。
 ワトソンIBM会長は、”ベトナム戦争が続けば、米国経済は回復不能になる”とまで言い切っている。
 米上院は。カンボジア作戦についての”大統領全権付与”を否決し、また、米国のカンボジア介入阻止骨抜き案”を否決した。こうした国内事情を背景にニクソン演説が「成果」を大宣伝し、10月15日までの5万人撤兵を打ち出さざるを得なかったのである。しかし、国内向けの”ポーズ”とインドシナでの事態の進展は全く逆であり、それを裏打ちするように民族解放勢力の攻勢が始まっている。
 また、ニクソン演説をもっては米国民及び全政界の平和勢力は騙されないであろう。
 インドシナからの米軍の全面撤退こそ平和への唯一の道であり、我々の闘いはそのことを必ずや実現するであろう。

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No7 はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No6

民学同統一会議ニュース No6 1970年5月25

【主張】米軍全面撤退掲げ、6月学園で
大統一行動を
★自治活動の規制と闘い、粘り強く暴露宣伝を
★改革委の専門部会 全面公開される 学大天分
★大阪市大:紛争中の賃金カット 助手層だけに不当処分
★阪大支部 釜洞執行部の政治・思想差別を打破しよう
反戦集会に講堂使えず 民青系には許可
★6月から連続講演会 阪大唯研–レーニン生誕100周年記念

PDFは、こちらから( 1面 2面 )

 

【主張】米軍全面撤退かかげ 6月学園で大統一行動を

 ニクソンは、カンボジアへの軍事介入以来高まる反戦世論を全く無視して、血まなこになって、解放戰線掃討作戰を展開している。
 十七日、コンポンチャムで発生した王立大学誤爆事件は、雨期を前にしてますます焦り深める米軍、カイライ政府軍が敵、味方の区別がつかないほど、孤立し、″狂気の殺りく作戰〟に出ていることの象徴である。 超タ力派と言われてきたクリフォード前国防長官ですら、″向こうみずの無謀な決定〟と断定し、見込みのない軍事的勝利を夢見ている〟と真向から論難している。大量の近代兵器、武器供与、米軍、南ベトナム「政府」軍の直接介入にもかかわらず勝利の保証は全くない。
 カンボジア優略の手は″釈迦停戰期間〟も緩和されず、むしろB52重爆機撃を中心にした侵略行為が強化されている。 これは彼等の余裕の無さを自ら暴露している。 雨期は米軍の侵略にとって、決定的な困難をもたらすからである。
 佐藤政府は参戰国会議=アジア会議に愛知外相を派遣し強硬に″反共・戦争政策〟を主張するロン・ノル政権に「経済援助」を約束した。
 今後の対中・ソ関係を表面上だけ考慮し、″反共・参戰国会議〟としての性格をいかに「抑える努力」を「行なった」としても、ニクソンの軍事介入、北爆再開を″やむを得ない措置〟として、ニクソンの決定を支持していること、また、アジア会議参加とロン・ ノルへの″経済援助〟約束は完全に、インドシナ侵略に手をかすことを意味している。
 日本政府は、日米共同声明で極東の範囲を東南アジアまで拡大し、マラッ力海狭までを日本の防衛範囲に合め、第四、五次防と軍事力強化を進めている。 また、沖縄への自衛隊配備計画が出され、日本政府自ら沖縄の前戦基地化を進めている。
こうした事態を考えるならばアジア全域の平和にとって、日本政府がいかに”重大な脅威〟となっているかが一層、明らかになる。 日本政府の侵略加担、戰争政策に反対し、対社会主義敵視策案をやめさせる闘いが重要になっている。
 平和をめぐる情勢が緊迫の度を深めている時、日本の反戰、平和運動は決して有効に対処しているとは言えない。
 対米従属論を基礎とする民青の民族主義とセクト主義、議会主義は日本政府の危険な役割を見抜くことができず、平和運動を分断し日本政府との闘いを大衆運動として組織せず、放棄している。
 また、新「左翼」と言われる全共闘-ベ平連の申にも、分裂が生じ、運動の分断は増々進むかに見える。
 しかし、同時にこのように事態は、正しい統一政策があれば学園ごとの統一気運を作り上げることも可能にしている。
 米国の反戦一連動に連帯し、インドシナ全域からの米軍全面撤退と佐藤政府の侵略加担反対を掲げ、反戰パッチ、リボン運動写真展示、ハンスト、講演会などクラス、学園で反戰のための主張行動を組織し、積み重ね、その統一を実現し学園ごとの反戰集会を成功させよう。

 

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No6 はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No5

民学同統一会議ニュース No5 1970年5月11日

★外相のアジア会議出席反対 15日に緊急行動を
【主張】思想信条を越えた平和運動を
★佐藤首相 インドシナ侵略を支持
★アメリカ:400の大学でスト
★中教審1月「試案」と対決し、大学改革闘争を推し進めよう
★4.28沖縄デー 阪大・市大 統一して2000名
★改革委に全面公開要求 学大

PDFは、こちらから( 1面 2面 )

【主張】思想・信条を越えた平和運動を
創意ある行動で、巨大な平和世論を動員しよう

 我々は、4.28沖縄デーを、カンボジアへの軍事介入反対、インドシナ全域への戦争拡大を許すな、をトップスローガンに掲げ、日米共同声明に反対し、安保条約破棄、沖縄の核基地撤去全面返還をめざし、学園での統一を基礎に闘った。その後のインドシナ情勢の変化は、我々の政策の正しさを証明している。こうした情勢の急激な変化の中で、当初、インドシナでの事態を軽視或いは無視して、6月安保決戦、沖縄決戦を主張していた各政党、政治同盟も何らかの形でインドシナ問題をとりあげつつある。しかし、我々はそれ以上に重要な克服せねばならなぬ課題に直面している。それは平和運動からそれ独自の課題を抜き取り、平和運動を私物化し、自己の党勢拡大のみに利用したい、平和運動に革命路線を押し付けて、本来、思想・信条を越え、あらゆる平和への脅威に対し、広範な平和運動を組織することを妨害する傾向である。

<平和運動を終了通告 政府樹立にすりかえる民青の悪しき議会主義>
民青は安保条約の固定終了期限6月23日を前に、いつでも通告で安保を破棄できるとして終了通告をする民主連合政府の樹立というできもしない「革命的」空文句で大衆に幻想を与えている。多くの諸要求とその上に、安保沖縄のスローガンを置いてはいるが米帝国主義から独立することを最重要視する彼らは下から経済要求、大学改革の闘いを発展させるのではなく、また、最近急に重要になっているインドシナ戦争反対の闘いを発展させるのではなく、それらは全て”お題目”でしかない。主要な関心は議会にどれだけ多くの議員を送るかにある。従って、列挙されるスローガンはすべて”民主連合政府”に集約され、自己の党勢拡大が目的である。従って、党勢拡大を阻害する批判勢力は全て排除せよ、との論理が働く。民族主義はそれ自身、排他的である。事実、大阪では、4.28沖縄デーに”この団体を排除せよ”とのセクト主義をもちだし、認められないとなるや”分裂集会”を行った。

<民青の民主連合政府樹立と同種の誤り、独りよがりな学生共闘の青学共闘至上論>
”青学共闘が日本の未来を決定する”という学生共闘も民青と同種の誤りを犯している。彼らの場合も”課題と基本戦術の一致”がお題目になっており、”青学共闘こそ6月ゼネスト、反独占統一戦線の基礎になる”として、青学共闘(学生共闘と社青同主体と変革派のみ)を大衆に押し付け、課題の一致に基づく、学園の統一を”日和見主義”と決めつけ、事実上、課題の一致に基づく、思想信条を越えた平和運動を否定している。極「左」主義者も同様に自らの革命戦略を平和運動にもちこみ、大衆的決起と統一を阻害している。
 平和運動はそれ自身、反帝権力闘争ではなく、平和を願う全ての平和世論を統合することを再確認する必要がある。

<創意ある高度うで、学園に広範な平和世論の統合を>
 我々の課題は、平和のために主張し行動しようとしている人々をいかにして統合し、巨大な平和世論とするかにある。
 この場合、思想・信条の違いを統一の障害としてはならない。一人でもこうどうすることが大切である。ポスター、ビラ、ゼッケンをつけた帰校デモ、ティーチ・インなど具体的行動を組織しよう。

 

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No5 はコメントを受け付けていません

大阪市立大学 ビラコレ 1970-05

大阪市立大学 ビラコレ 1970-05

大阪市立大学 学生運動の軌跡 ビラコレ 1970年5月期

<米の北爆再開抗議、カンボジア侵略糾弾、外相訪印阻止>


1970-05-01

民学同大阪府委員会 5/1 第41回メーデー万歳!労働者の団結を打ち固め、6月闘争へ前進しよう
市大反戦会議 中核派 4.28沖縄奪還の大爆発を踏まえ、6月決戦へ!
民学同(統一会議) 米軍はインドシナから手を引け!
「大阪府学連」他 京都の勝利を70年代に受け継ごう!
市大反帝学生戦線 5.8-12大阪港軍港化阻止闘争に起て!
「平和への道」 No13 米、120機で北爆再開!
全学連支持会議 米軍のカンボジア侵略、北爆糾弾!5.7緊急府民集会
民学同市大 デモクラット No397 米帝の侵略戦争拡大と日本独占の加担=東南アジアへの侵出を阻止し、アジアにおける平和共存体制を確立せよ!
市大反戦会議 (中核派) 全米ゼネストに呼応し、米帝=日帝のカンボジア侵略を粉砕せよ!
社青同大阪地区本部 インドシナ革命的圧倒的前進を支援しよう!
5.14青年集会実行委員会 5.14北河内・城北青年総決起集会に結集せよ!
第4インター関西地方委 5/8 インドシナ反帝武装闘争勝利カンボジア侵略北爆再開アジア会議粉砕!
全大阪南部反戦青年委 他 4.28明治公園での驚くべき通敵行為、国家権力と結託した集会破壊を断乎糾弾せよ!
統社同社会主義学生戦線 5/8 5.14愛知訪ジャカルタ阻止全関西集会に決起せよ!
反帝高校生戦線 巨万の人民で街頭を制圧
平和と民主主義をめざす学生共闘 本日、米軍のカンボジア侵略抗議全大阪青学総決起!
「平和への道」 No15 本日、米軍カンボジア侵攻抗議学内集会→全大阪青学総決起
反帝学生戦線 米軍のカンボジア反革命侵攻粉砕!・・本日大阪港中央突堤人民集会に結集せよ!
全学連支持会議 5/8 不満うずまく市大キャンパスに自治会再建の生気ある風を!
C2会議 5/8 一切の弾圧をはねのけ、より強固な戦いの前進を!
平和と民主主義をめざす学生共闘 昨日・・全大阪青学総決起に300名の決起をかちとる!

1970-05-10

報知争議共闘会議 5/10 青島だぁ!大変だぁ!組合員に不当なロックアウト
安保沖縄闘(準)5/10 アピール
市大反戦会議 5.13米学生虐殺糾弾-カンボジア参戦国会議粉砕市大政治集会
市大唯物論研究会 5/12 唯研春季講演会
理反安保学生委・C2会議 米帝のカンボジア侵略弾劾、外相のアジア会議参加阻止
理反安保学生委・C2会議 6月安保闘争に向けて戦線の再構築を
平和と民主主義をめざす学生共闘 明日全大阪学生総決起集会に起て!
「平和への道」 No19 明日、愛知外相訪印反対全大阪学生総決起集会に起て!
全学連支持会議 5/13 5.15アメリカのカンボジア侵略・・糾弾市大抗議集会
民学同大阪府委員会 労学共闘の戦闘的強化の下、6月反安保全国ストへ巨大な前進を!
 C2会議 理反安保学生委 愛知外相のアジア会議参加を阻止! 
 法学部委員会常任委員会 早急に自治会を再建しよう 
 全学連支持会議 文学部 自治会再建は要求実現の道 
 西川ゼミ3回生 アピール 私たちの要求 
民学同(統一会議) 5/14  愛知外相はアジア会議に出席するな!  
「平和への道」 No20  本日、カンボジア侵攻抗議学内討議集会→全大阪学生総決起へ参加を! 
 学生会議 5.14-15カンボジア侵攻粉砕愛知外相訪ジャカルタ阻止闘争に起て! 
 経済学部山崎ゼミ3回生アピール 緊急にゼミ代会議を確立し、自治会・学部委員会の民主的再建をめざして直ちに行動を開始しょう! 
中核派アピール 5/14  5.15全関西統一行動に決起せよ! 
全学連支持会議 5/15 本日、アメリカのカンボジア侵略・・糾弾市大抗議集会
平和と民主主義をめざす学生共闘  5-14全大阪学生共闘200名の決起の下、本日5.15全大阪集会に結集せよ! 
平和と民主主義をめざす学生共闘  愛知訪印5.15大阪府民緊急抗議集会に結集せよ!
市大平和委員会 愛知外相のアジア諸国会議出席に反対しよう
大阪市教職員組合 城北支部 5/15 アメリカのカンボジア侵攻に抗議しましょう
市大ベ平連 5.20学内決起
「平和への道」 No22 5.20小西誠君との反戦討論集会
C1Dクラス運営委員会 「群れ」クラス新聞 創刊号
 大学院民主主義理論研究会 アメリカのカンボジア侵略を断固糾弾する! 
法学部委員会総会  自治会を再建し要求実現を! 
平和と民主主義をめざす学生共闘   本日愛知「アジア会議」参加全市大抗議集会に結集せよ!
反戦会議アピール  5.22中核派政治集会に結集せよ! 
民学同(統一会議) 5/18  問題は何も解決されてはいない!再度大学改革に取り組もう! 
民学同市大支部医学部班  阿倍野再開発計画に便乗した医学部の「合理化」を粉砕せよ! 
市大生協組織部 6/13 大学当局の無責任体系を打破し、生協水光費の免除をかちとろう
選管立候補者アピール 疑惑の臭いプンプンの生協総代選挙選管選出
平和と民主主義をめざす学生共闘 本日、全市大総決起集会
「祖国と学問のために」5/19 号外 侵略に怒りをこめて反撃を

1970-05-20

関西ベ平連 5月を偉大な勝利の月に
日本民主青年同盟市大1部班 5.23大阪青年学生決起集会
「平和への道」 No24 5/20 小西誠君との討論会に参加し、自衛隊の実態を知ろう!
平和と民主主義をめざす学生共闘 6月反安保ゼネストに向け、5.29全国学生統一行動に起て!
全学連支持会議 敗北的「安保決戦」か、統一戦線促進・民主的政府樹立か、5.22全国学生統一行動市大集会
安保沖縄闘(準) 5/21 プロレタリア国際主義の下、インドシナ革命に連帯し、5.29全国統一行動から6月安保闘争に向けて
平和と民主主義をめざす学生共闘 5.25青学共闘全市大実行委結成代表者会議を6月反安保学園ストの橋頭堡に!
全学連支持会議 「自治会再建への道」 No1
商学部1合同クラス運営委員会 全学自治会・商学部委員会問題
法学部労働法ゼミナール 自治会を再建しよう!
平和と民主主義をめざす学生共闘 5.25青学共闘市大実行委結成者会議にクラス末端より圧倒的参加を!
全学連支持会議 本日全国学生統一行動市大集会に参加しよう!
安保沖縄闘委(準) 5/22 米帝のインドシナ侵略支援=アジア会議共同声明を許すな!
民学同(統一会議) 5/22 学生無視の教養「改革」をやめよ!
反戦会議 5.29カンボジア侵略反対全国学生ゼネスト!
平和と民主主義をめざす学生共闘 青学共闘全市大実行委結成代表者会議に結集せよ! 5/25
安保沖縄闘委(準) 5/25 国際反戦闘争の一環としての5.29全国学生ゼネスト統一行動
全学連支持会議 本日学生部長会見に参加を!
「全学連」 革マル派 4.28の総力を、5.29全国学生ゼネストへ!
学生大会実現連絡会議 学生部長予備交渉会見報告
青学共闘全市大実行委(準)  5.29㋅ゼネスト貫徹全関西学生統一行動に総決起を!
安保沖縄闘(準) 5/26 27インドシナ反戦討論集会→5.29統一行動に起て!
全学連支持会議 5/26 6.5全関西学生連帯総決起集会に参加を!
奈良女子大学全学自治会 他 米帝のカンボジア侵略粉砕!大阪港軍事使用反対!5.29全関西労学統一行動に結集せよ!
全学連支持会議 「自治会再建への道」 No2
全学連支持会議 「自治会再建への道」 No3
経済学部「選挙選管委」 E4学部委員を選出しよう!
全学連支持会議 生協総代選挙 選管選出を民主的に行え!
安保沖縄闘(準) 5/27 日帝・米帝のインドシナ侵略を粉砕せよ!
青学共闘全市大実行委(準) 5.296月スト貫徹全関西学生統一行動にクラス末端からの総決起を!
全学連支持会議 全ての学友の力で6.5全学生連帯総決起集会を成功させ・・・
法学部委員会常任委員会 今こそ自治会再建の炎を!
市大生協組織部情宣局 5/28 全学連支持会議=日共民青の汚い誹謗中傷について
市大生協組織部 5/28 生協解体策動を全組合員の結集で断固として粉砕せよ!
学生共闘会議 安保沖縄闘(準)に対する公開質問状
プロ学同・反帝学生戦線 5.29全関西学生(京大時計台前)集会→全関西労学総決起集会
青学共闘全市大実行委(準) 明日、6月ゼネスト勝利に向け全国学生統一行動にクラス末端から決起を
民学同市大 デモクラット No400 形式主義的「自治会再建」のささやきと訣別し、5.29-6月反安保全国スト=6.15-23全市大統一ストを闘い抜け
市大生協組織部情宣局 5/29 生協解体策動を粉砕し、水光費闘争を全組合員の結集で闘い抜け!
全学連支持会議 5/29 生協組織部の居直りを糾弾する!
商学部安保沖縄闘(準) 本日全国統一行動に起て!
学生会議 5.29全関西労学統一行動に結集せよ!
理学部 安保沖縄闘(準) 米軍のカンボジア侵攻反対全国学生統一行動に起て!
法学部委員会 他 本日、全学大衆団交に結集せよ!
市大救援会  救援会ニュース No7 5/29
法学部委員会 他 全学の力で要求実現しよう!
安保沖縄闘(準) 5/30 昨日、弾圧に抗し、全関西統一行動を闘いとる!
青学共闘全市大実行委(準) 昨日、5.29全関西学生統一行動に600名決起!
法学部委員会情宣部 J2C、独法、甲斐労働法ゼミ:自治会再建を決議
全学連支持会議 明日のボート祭を全学生の参加で成功を!
カテゴリー: 歴史, 社会運動, 運動史 | 大阪市立大学 ビラコレ 1970-05 はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No4

民学同統一会議ニュース No4 1970年4月26日

★新入生を加えて、大学闘争の前進を
★民学同理論合宿–分野別に方針確立
★大阪市大:問題いまだ未解決
★阪大:4.28へ統一行動
★記念集会に300名参加 大阪市大
★レーニンと現代民主主義闘争
★労働者階級との連帯とは何か

PDFは、こちらから( 1面 2面 )

★民学同理論合宿 分野別に方針確立 5.2~3

先日24日、衆議院で”私学振興財団法案”が上程され、一部修正されて可決された。
この法案は、私学への少しばかりの援助と引き換えに、国家の「統制強化」を意図したものである。
政府や財界は、このように学生の力が弱まっていることに付け込み「中教審答申の具体化」(森戸会長発言)を可能なところから実施しようとしている。
しかし、注目すべきことは、右の法案が私学の教官の反対にあって、一部修正されたように、中教審ペースの「改革」が何の障害もなく、淡々と進展しているという訳ではないということである。
各大学内部にも深刻な対立がある。
教官層の中で、政府や財界と結びついていて、特権的地位や利益をさずかっているものは、中教審構想に沿った「改革」を主張する。
反対に、中教審構想では、現在の地位さえ危うくなる人々は”大学の自主性”や、現状維持で文部省と対抗しようとする。
そのうちの幾人かが、中教審構想に反対して、学生の権利も認めて改革を進めるべきだと考えている。
このように教官層の対立や動きを反映して、学内の種々の分野で問題が起きている。
教養部制度の改組、学長選挙規程の改訂、学生部職員の暗躍による政治活動の規制、学寮閉鎖や新寮建設延期、そして院生や学生の自主組織の破壊、教官や院生のパージなど・・・・・
どれ一つとっても、重大な問題である。我々は、学友の先頭にたって、これらの問題を暴露し、要求をかかげて運動を組織しようではないか。

我々統一会議は、以下の要領で大学闘争を前進させるための理論合宿を開催する。全同志が結集されることを訴える。

民学同理論合宿
5月2日 4.28闘争の総括・平和をめぐる情勢と方針
5月3日 大学をめぐる情勢と我々の任務
午後 分科会 「教養部と一般教育」「私学の課題」「「寮」「政治活動の自由と学生部」「平和運動の活動ABC」

 

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No4 はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No3 

民学同統一会議ニュース No3 1970年4月20日

★4.28沖縄デー 全国で取組進む
【主張】インドシナ情勢と平和運動の課題
★機動隊で運動圧殺 阪大
★一貫した日本政府の「北朝鮮」敵視政策
★「文化財」=城址を自ら破壊 当局の無責任体制を追及 大阪学大
★デモクラコール(岡山大通信員)

PDFは、こちらから( 1面 2面 )

【主張】インドシナ情勢と平和運動の課題
(1)
カンボジア軍によるベトナム人の大量虐殺という暗いニュースが連日報道されている。今やインドシナ半島の情勢はきわめて重大なものになってきている。アメリカは「北ベトナムの侵略」をさわぎたてて、カンボジア右派勢力にクーデターをおこさせ、カンボジア軍を反ベトナムの戦争にかりたてるとともに、タイ軍をラオスに投入し、戦争をインドシナ全体に拡大している。
これは、南ベトナム革命軍とラオス愛国戦線をはじめとする民族解放勢力の決定的勝利、それと連帯する社会主義諸国や西側の労働者の闘いにあわてふためいたアメリカ帝国主義とカイライ政権のいらだちとあせりの表現に他ならない。
しかし彼らが侵略の野心を持ち続ける以上あせればあせるほど、平和を願う全世界の人民の反撃をひきおこさざるを得ない。事実、アメリカはそのおひざ元で、4月15日に見られたような戦争反対の声をつきつけられているのである。

(2)
今や、インドシナにおける米軍の冒険を許すか、それとも帝国主義者の戦争拡大と軍事干渉を封じ込め、米軍をインドシナから撤退させ、アジアに平和と平和共存の秩序をうちたてるかどうかは、国際平和にとって緊急な課題となっている。
このことは日本にとっても対岸の火事ではありえない。インドシナの戦争拡大は朝鮮での戦争挑発と重なって、日米共同声明の内容の現実化に有利な条件をもたらすだろう。それは4次防をはじめとする日本の軍事力強化、沖縄を含む基地の役割の強化にもつながる。
反対に全世界の平和運動世論の力でアメリカの戦争拡大と挑発を封じ込めるならば、インドシナでの平和と中立を進める勢力の力が確実に増す。このことは日米共同声明の内容の実現を困難にし、アメリカの極東戦略、日本の外交政策の変更を余儀なくさせる重要な一つの条件となるのである。
従って日本における、安保破棄、沖縄の基地撤去、即時無条件返還の闘いも、以上の国際的な運動と結びついてこそ初めて有効なものとなる。

(3)
今日重要な局面をむかえている沖縄をめぐる闘いも、こうした国際的視野が必要である。それは、県民の生活を犠牲にして日本のアジア侵略、核武装の足場にしていこうとする政府財界との闘いである。
従って本土にあっては、沖縄県民の闘いと連帯して、日本の外交政策そのものを足元からほりくずして、平和と中立の方向に変えさせていく闘い、労働者を中心とする国民自らの持ち場での闘いが必要となってくる。
特に学生運動においては、大学改革闘争を基礎にして平和の課題を闘わねばならない。今こそクラス学園を基盤にした学内の統一と、それに基づく労働者階級との連帯が要請されているのである。

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No3  はコメントを受け付けていません

民学同統一会議ニュース No2

民学同統一会議ニュース No2  1970年4月17日

★東大等が改革案 ほとんど中教審ペース
★3.28中教審答申反対集会成功
教組・解同・地評が連帯挨拶
★福井大:警察管理の入試強行
★新入生への呼びかけ
★3.28市大集会 学生共闘派が暴行

PDFは、こちらから( 1面 )

★新入生への呼びかけ
新入生諸君!現在大学は警察の管理の下におかれ、学生の闘いはそれによって抑圧されているかに見える。しかし、日本・伊・仏・米・スペイン等の学生による大学闘争の展開は、各国政府・財界の大学支配に反対する膨大なエネルギーの存在を示した。この事実は、”科学技術革新”が各国の政府財界に最重要課題の一つとしてあること、にもかかわらず一方、大学の社会的経済的地位が低下し、大学経費はもちろんのこと、研究・教育も増々勤労人民に担われつつある。大学が勤労人民の利害を直接代表しつつあり、政府財界の要請とは矛盾する胎動を始めたことを示している。だからこそ日本の政府財界は、露骨な大学私物化=中教審1月試案を出し、大学の権力的支配を狙っているのである。自主技術開発、効率的な労働力確保は政府財界の経済政策の要石である。現在、佐藤内閣に代表される財界主流派は、自主技術、自主防衛、労使協調政策を着々と進めつつある。
こうした政府財界の動きに対して、”革新陣営”は全く不十分或いは全く誤れる対応しかなしえていない。
昨年来の大学闘争はかつてない学生・院生の参加で闘われたにもかかわらず、勤労人民との有効な連帯合流を実現できず、また、文字通り”内ゲバ”に終始し、政府財界に有利な情勢を許している。民青の”全共闘=ドイツ型ファシズム論”、”封鎖–封鎖実力解除”に代表されるように、我々が対決すべき敵=政府財界、学内反動グループに打撃を集中し、大衆運動の利益を守り発展させるのではなく、自らの党派利害にそれを従属させるセクト主義、また、大学法強行成立以降、情勢に困難を感じるや、学園での粘り強い闘いを放棄し、”11月決戦”と称して街頭での「武装」高度うに逃亡する”街頭一揆主義”によって学生の闘うエネルギーを結集できず、消耗させている。街頭での”我が派の集会デモに何名の活動家を結集させるか””意見の異なる団体は排除せよ”というように、情勢の客観的科学的判断にもとづく政策提起の軽視、無視、あるいは排他的な独善主義、セクト主義が大衆運動の統一を破壊し、ひいては大衆運動そのものの破壊に導いてきた。
我々の先輩は、現在なお根強く存在する民青指導部のセクト主義、小ブル民族主義、また、組織内民主主義の官僚主義的徘徊に反対し、不当な組織的排除に直面し、1963年9月15日、日本学生運動を正しく指導する組織=民主主義学生同盟を結成した。
今日、学生運動を統一するための”統一政策”ほhど、切望されているものはない。現在、一部全国委員は、先の偏向と同様の病におちいり、同盟の暴力的破壊に狂奔し、「全国委員会」を僭称しつつ、同盟の隊列から離脱しようとしている。
しかし、我々は、今後学園での統一した大学統一、反戦平和闘争の前進の中で、同盟からかかる偏向を一掃し、同盟の民主的統一、再建を必ずや実現するであろう。新入生諸君が正しく理解され、共に闘われんことを強く呼びかけるものである。

 

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 民学同統一会議ニュース No2 はコメントを受け付けていません

討議資料「民学同の統一と発展のために」

討議資料 「民学同の統一と発展のために」 民学同統一会議発行 1970年4月

(全頁PDFはこちら)

 

 

【同盟全支部及び全同盟員諸君に訴える!】

【3.3-3.15の事態に対する事実経過と我々の評価】 文責N

<同盟全支部及び全同盟員諸君に訴える!>

統一会議の全国的指導の下に結集し、
全力をあげて同盟の趣意規約の目的達成の為、
同盟の統一を促進強化しよう

 3月27日市大での大衆集会に於ける一部同盟員の暴力行為、3月28日中教審公聴会反対の統一集会の拒否、4月5日代表委員会のデッチ上げ、4月14日「阪大支部」の僭称と京大同盟員の暴力行為—一部全国委員は暴力的「大会」分裂以来、何らの反省もなく同盟からの離脱の道を突っ走ろうとしている。

我々は、再び同盟全支部及び全同盟員諸君に訴える!
 同盟の今回の事態を正しく把握し、分裂を促進したり、固定化させるような、いかなる行動にも手を貸すことなく、我々統一会議の下に、同盟の統一を促進強化するため、力惜しまず、あらゆる努力を惜しまず、あらゆる努力を尽くそうではないか。

 3月に予定されていた民学同第12回全国大会は、昨年来の大学闘争を正しく総括し、学生運動がその発展のために克服すべき弱点を明らかにし、中教審答申及び一連の最近の反動政策と対決する運動方針を確立する任務を持っていた。
 同時に大会は、これまでの意見の相違を民主主義的に克服すべく、その組織原則を守ってその解決をはからねばならなかった。

 昨年来、同盟内に発生した偏向は、次のようなものであった。それは、各大学でいかに学生全体を決起させ、その運動を統一するかよりも、他党派と対抗して”我が派の集会”へ何名多く動員するかに主要な関心を払うセクト主義、街頭決戦主義であり、学内での浮き上がり派立(ママ)の反映である。
 この結果、一部全国委員は、同盟を学生共産党におきかえ、情勢の主観的判断にもとづく政治主義の誤りを犯すに至ったのである。

 しかし、これらの傾向は、大学闘争が一時期困難な局面を迎えているという情勢を反映して発生したものであり、今後の運動の発展と内部における民主主義的論争によって必ず克服しうるものであった。
 それ故、我々は、今大会で統一の礎を築き上げる為、「一致点のみを統一草案とし、不一致点についてはその対立点を明確にして、大会の素材にしよう」と、繰り返し提案したのである。
 そうでなければ、1,2票差という数と数の競い合いに終始し、後々に対立の種を宿したままの実質上の分裂大会になるだろうと警告したのである。
 しかし、一部全国委員は、我々のこの当たり前の提案に腹を立て、むきになって反対したのである。
 それは、同盟の実勢を正しく反映していない全国委員会での多数(それも1票差)にしがみつき、そこでの決定でもって、代表委員や大会代議員の総意を無視し、同盟を私物化せんとするよこしまな意図をあらかじめ持っていたことを示している。

 さらに、大会を真に統一的に成功させるためには、昨年夏以来の組織上の懸案問題を我々は解決しておかなければならなかった。
 その一つは、同盟内の暴力行為である。昨年10月21日には委員会が先頭になって、それ以前には市大で他支部同盟員も加わって、暴力が公然と振るわれていた。
 我々は、組織内暴力が、同盟の民主主義的性格と全く敵対するものであり、同志的信頼を打ちこわし、猜疑心、不信などの感情的対立をもたらすものとして厳しく批判してきた。
 我々は、委員長が率直に暴力行為を反省し、全国委員会が暴力一掃のアピールを行い、大会成功と統一強化の積極的イニシアティブを取るべきだと粘り強く主張してきた。
 しかし委員長は「あったかなかった分からぬようなささいな暴力問題に、徒に時間とエネルギーを浪費させた」いう嘆きの声明を発表した以上には何の率直な反省を示さなかった。
 それどころか、一部には「革命的暴力」と称して、階級社会での暴力的闘争形態と同一視し、自己の暴力を正当化しようとする者さえいる。
 組織内暴力は、政策上の意見対立を、説得と納得にもとづく論争によって克服することに自信をもちえず相互批判を恐れる官僚主義者、政策上の意見対立を組織上の問題にすりかえるセクト主義者が、自己の意見に服従しない者に対して度々用いるものである。
 その端的なあらわれが12~14日の事態である。12日の代表委員会では、反対意見を計画的ヤジで封じ込め、動議は委員長の独断で取り上げず、14日には、過半数の代議員を暴力で排除し、一部少数代議員だけをかき集めて「大会」を強行するに至ったのである。

 他の1つは、いわゆる大阪市大問題である。
 昨年夏の大会が延期されたのは、大阪市大支部が、組織分裂したまま、正常な形で代議員を選出することができなかったためである。
 その後も、その状態は続き、全国委員の間でも意見がまとまらなかった。
 そこで我々は、次の提案を行った。
 「大会において、双方の見解を聴取し、慎重な討議の末、趣意規約にもとづいて、市大支部の統一を回復すること。この決定の出されるまでは、市大支部の代議員権を停止しておくこと」
 しかし、この提案さえ一部全国委員は、拒否し、市大支部において反対意見者を排除して代議員を選出させたのである。
 全国委員会で多数決を主張しながら、全国大会ではこの問題について採決させないという事の中に、彼らが、いかに全国委員会の多数(それも一票差)にしがみつき、同盟を私物化しようとしていたかが、よく表れている。

 一部全国委員が、右に述べた如く、統一のための努力を一切放棄するという中で全国大会が開かれようとしていたのである。
 その中で我々は、最後まで統一した民主的な大会として成功させるため、全国代表委員会(中央委員会に相当する)で、右の提案を行い、粘り強く努力を続けた。
 しかしながら、一部全国委員は、代表委員会で過半数の支持を得ることに失敗し、少数に転落するや否や我々の提案や動議も、大会開催に必要な諸事項(草案、資格審査委員、議長団、代議員資格の有無など)について何ひとつ代表委員会で決定させず、一部少数代議員だけをかき集め、「大会」をデッチあげ同盟から逃走するに至ったのである。

 一部全国委員の趣意規約の蹂躙と暴力による同盟私物化の策動と分裂の暴挙にも拘わらず、我が同盟は、依然として、全国的統一体として健在である。即ち、各地方委員会、支部という基礎単位は、統一して各大学での大衆運動を指導している。
 一部全国委員は、同盟員の3分の1、拠点支部の4分の1、大衆運動に対する影響力では5分の1の支持をうけているにすぎない。
 彼らは、「全国委員会」や「民主主義の旗」を僭称しているが、その実態は、決して同盟を代表しうるものではない。
 我々は、全国委員会以上の上級機関が一時その機能を解体されたにすぎないと判断している。

 以上の事態の中で、統一会議の性格と目的は次のとおりである。
一、同盟第12回全国大会に結集した多数代議員は、同盟一部全国委員による暴力的大会破壊と同盟の趣意規約の度重なる蹂躙によって全国委員会が解体された異常な新事態の下で、全国委員会に代わって、同盟の趣意規約を守り、同盟を代表し、同盟の諸組織を責任をもって指導する臨時的中央指導部の組織構成として「統一会議」を組織する。
一、統一会議は、全同盟組織と構成員の先頭にたって、同盟の趣意規約に定められた目的実現のために闘うと共に、同盟の趣意規約に基づく真の統一を促進強化するために闘う。

【3.3-3.15の事態に対する事実経過と我々の評価】 文責N

<事実経過>
1、3月3日~11日 全国委員会

3月3日 (T全国委員欠席)
S全国委員:討議経過報告
F全国委員:提案「同盟第12回全国大会成功のために」(資料A参照)
S・FJ・I・O全国委員:「全員一致制は認められない」として拒否。F・N全国委員の討議続行要求を無視し採択。
N書記長提案「暴力を排し、民主的討議により、意見対立を克服し、同盟の統一強化を全同志の力でうち固めよう」(資料B参照)同時に、暴力行為の先頭にたったS委員長、ならびに全国委員会の見解と措置を文書提出するよう要請。
S・I・O・FJ各全国委員拒否。N・F全国委員の討議続行の提案を拒否し採決。
N・F全国委員の討議続行要求を無視し、勝手に「意義と任務」「国際国内情勢」を読み上げる。

3月5日 S委員長、都委員会に何の連絡もなく、分派的オルグに上京し、流会。
(明大の2同志が新宿で確認)

3月6日
F全国委員提案「再び同盟第12回全国大会成功のために」(資料参照)
S・FJ・I・O全国委員は「多数決で草案も市大問題も採決する」「多数決は原則だ」として拒否。
N・F全国委員 大会開催の基本姿勢にかかわるとして討議続行を要求するが、S委員長無視し、「国際国内情勢」を読み上げる。F・N・T全国委員は休憩を要求し、退場。

3月7日(F全国委員欠席)
N書記長提案「統一草案をねり上げ、暴力を排した民主的討議で、第12回大会を成功させよう」(資料C参照)
S、O、Fg、I全国委員「確認する必要なし」として拒否。この後、勝手に「闘争方針」を読み上げる。

3月8日(F全国委員欠席)
N書記長の、粘り強い統一草案作成と暴力を排した民主的討議を、全国委員が全同盟にアピールする必要性の強調にもかかわらず、S委員長ら4名は、加筆された「闘争方針」を読み上げるだけ。

3月9日(S委員長欠席)
同右。「総括」「組織総括と方針」を読み上げるだけ。

3月11日 12日からの日程を発表して打ち切り。

2、全国代表委員会(3/12)
10時開会 I全国委員から「第12回大会で闘う方針を確立しよう」との文書提案。全一致で可決。
N書記長から「暴力を排した民主的討議で意見対立を克服し、12回全国大会を成功させよう」の文書提案。
O全国委員ら「委員長不信任の策動」と反対意見。
採択(賛成14、反対8、保留2、棄権6)
その後、N書記長らの動議(市大問題)にもかかわらず、委員長一方的に草案報告。
N書記長、対案報告(計画的ヤジによる発言妨害)
O全国委員の意見書発表の後、時間切れとして、代表委員会にはかることもなく、委員長のまとめ「草案、対案を大会に提出する」(市大問題に関する動議とりあげず)を報告。

壇上を10名近くがとりかこみ”異議あり””動議”の発言を暴力的に制止し、一方的に打ち切る。
午後10時 全国委 代表委員会問題 4対3で却下
大会運営事項と代議員数の報告 打ち切り。

3、一方的分裂「大会」の強行(3/13~14)

3月13日
代表委員14名の連署による要望書(資料参照?)を全国委員会へ提案
S委員長ら4全国委員は拒否。
一方的「開会宣言」
半数の同盟員が資格審査を拒否し、大会開催に必要な諸事項と市大問題を議題とする代表委員会の続行を要求。
しかし、一部全国委員らは、一切発言を認めず、暴力的に制止し、ビラさえ強奪。
1日目終了時、会場出入口を、京大同盟員ら20名程が固め、会場費を暴力的にとりたて、払わないものに対しては、なぐる、蹴るの暴行を働く(5名負傷)

3月14日
開会前から、数十名がスクラムを組んで入口を封じ、我々の入場を拒否。分裂「大会」強行に反対し、代表委員会開催を要求する代議員、評議員は、口々に代表委員会開催を要求。(資料E参照)N書記長は、F全国委員に「ただちに全国代表委員会を開け」「ここでは混乱するので会場へ無条件に入れろ」と要求。F全国委員は「資格審査に応じろ」とだけ繰り返すのみ。
O全国委員は、マイクで「資格審査に応じろ」と叫ぶ。
N書記長は、O全国委員に「直ちに会場へ入れろ。それがいやなら、全員が注視するこの場で、全国委員会を開け」と提案。
O全国委員は、これを無視してマイクを続ける。
Yら京大同盟員が耳打ちするや否や、突如襲い掛かり、なぐる、ける、髪をつかむの暴行をはたらき、場外への押し出しをはかる。そのため階段のてすりがこわれはじめる。この時会館事務局が警察に連絡。
N書記長は、無用なマサツをさけるため、又、この事態が放置されると人命にかかわると判断し、退却を指示。会館入口で全員待機。
ところが、なおも、一部全国委員を先頭になぐりかかる。さらに裏口から飛び出してきた一部同盟員も加勢する。
この間、警察が到着するという情報を得たので、直ちに退却。
しかし、退却する我々に、全国委員長を先頭に「ウォー」と襲い掛かる(この時10名近くが重傷。一女子同盟員は、京大同盟員につきとばされ、街頭に横転。病院で診断を受け、頭部打撲傷。一名は、往来する車のバックミラーとバンパーになぐりつけられる。病院で診断の結果、胸部並びに首筋打撲傷。一名は、委員長ら数名のリンチにあい、左眼強打され、内出血。)
その後、御所近くで府警の検問にあい、7名が交番に連行され、訴問を受ける。

N・F・Tの三全国委員は、かかる緊急事態を正しく処理し、なおも統一のために努力すべく「全国委員会開催要求」(資料F参照)
しかし、委員長以下4全国委員は「資格審査に応じなければ、会っても無駄だ」と拒否。

午後4時半、N書記長は、このままでは、組織分裂は必至と判断し、統一のための最後の可能性を無駄にせぬため、大会参加の最終提案(資料G参照)をする。
しかしこの提案にも、委員長らは「投票をすでに始めており、遅い。今日のNらの行動を自己批判することが前提だ」として、拒否。

4、民学同統一会議を組織する。(3月15日)
15日、3全国委員召集による「統一大会をめざす12回大会代議員総会」を、大阪で開催。
N書記長より、これまでの経過と14日の事態の報告があり、同時に、一部全国委員が、趣意規約をじゅうりんし、暴力を行使してまで、少数の代議員をかき集めて「大会」をデッチ上げ、分裂を策したため、全国委員会、全国代表委員会という全国中央指導組織が解体するという異常な新事態の中で、あくまでも同盟の趣意規約を守り、その目的を実現するため、同盟の全組織を指導する臨時的中央指導組織として、民学同統一会議を組織することを提案。
全代議員一致の下に、この組織方針を採択。
また、当面の運動方針として、N書記長の代表委員会への対案を採択。
その後、民学同統一会議アピール、レーニン生誕100年記念学生セミナー成功のための決議と、臨時指導部を決定する。

付属資料(内容)
1、「同盟第12回大会成功の為の提案」(資料A)
2、3月3日 全国委員会へのN提案(資料B)
3、3月7日 「統一提案をねりあげ、暴力を排した粘り強い民主的討議の徹底により、第12回全国大会を成功させ、同盟の統一と団結を打ち固めよう」(3/7全国委員会への書記長提案 資料C)
4、全国委、全国代表委員会への要請書 (資料D)
第12回大会代議員 (N書記長 96名)MG市大支部同盟員T他23名 (他、加盟申請者16名)
5、S全国委員長、並びにO,F、I全国委員 宛 全国委員会開催要求 (3月14日書記長N、全国委員F、T 資料E))
6、全国委員長への再提案 (N書記長) (資料F)

(資料A)同盟第12回全国大会成功の為の提案

 同盟第12回大会は極めて緊迫した情勢の中で開かれようとしている。日本帝国主義の発言強化、安保条約の自動延長と沖縄の核付き自由使用返還、軍事力強化による日本の軍国主義化、北方領土問題にみられる反ソ反共の民族主義の扇動、教育研究の帝国主義的再編—-これらは日本帝国主義と諸階層との矛盾と対立を和解しがたく深化させている。
かかる中で同盟第12回大会を成功させ、同盟の統一と団結を打ち固めることは、ひとり我が同盟のみならず、日本学生運動と全民主勢力が強く期待するところである。この間、不幸にして同盟内に存在した意見対立と行動における不一致を、今こそ克服し、統一した第12回全国大会を開催するために、全国の同志の諸君が全国委員会の討議とそのための努力に注目している。
 同盟第12回全国大会を成功させるために以下の提案を行う。
第1 同盟第12回全国大会を成功させ、同盟の統一を打ち固めるために、全国委員会で説得と納得に基づくねばり強い討議を組織し、意見の一致を拡大させる。
第2 意見の一致を基礎に全国委員の全員一致に基づく統一した大会草案を全国代表委員会に提出する。
第3 機関紙「民主主義の旗」「全国委員会ニュース」は、全国委員一致のもとに発行し、同盟の討議を統一にむけ組織する。
 我が同盟内に存在した意見対立と行動における不一致を生み出したものは、かかる全国委員会の粘り強い討議と、説得と納得による一致点の拡大、これに基づく同盟の指導を放棄し、単純多数決による同盟指導であった。しかし、民主集中制とは、正しい理論と民主的な諸原則に基づいた、説得と納得に基礎をおくもので、単純多数決による形式民主主義とは無縁である。同盟全国委員会は、第12回全国大会を成功させるために、以上の点を確認し、統一草案作成に全力を傾注すべきである。 以上

(資料B)3月3日全国委員会へのN書記長提案

暴力を排し、民主的討議により意見対立を克服し、同盟の統一強化を全同志の力でうち固めよう! 全国委員会

 昨年来の大学闘争と安保沖縄闘争の高揚は、わが同盟が今こそ飛躍的に発展する条件を与えている。
 我々全国代表委員会(ママ)は、統一して草案をつくりあげ、その下で全同志と共に第12回大会を成功させることを確認した。そのことはひとり我が同盟の前進に必要であるのみならず日本学生運動の前進にも不可欠と考える。
 大会成功の為には昨年来の政策上、組織上にわたる意見対立を、我が同盟の趣意規約にのっとった粘り強い説得と納得の関係に基づく、民主的討議によって克服しなければならないし、必ずなしうると確信する。
 しかし、同盟内で発生した暴力行為は、かかる統一の為の努力と敵対し、同志的団結と信頼をうちこわし、我々の間に、不信・感情的対立・不団結をもたらすものである。
 委員長はじめ、我々全国委員会は、かかる暴力行為が発生した事態について重大な責任を感じ、全同志の前に深く反省の意を表する。
 今後、委員長、書記長を先頭に全国委員会が一丸となって暴力行為を排し、民主的討議により意見対立を克服し、同盟の統一強化をうち固める為、全力をあげることを誓うとともに、全同志の協力を懇願する。
 真の敵は、我が同盟内の意見対立を利用し、我が同盟の破壊を企む。
 従って、今後いかなる理由があろうとも、同盟内での暴力行為はかかる真の敵に味方する挑発行為であるとして糾弾し、我が同盟から追放する決意である。
 全同志諸君!全国委員会と共に暴力を排し、民主的討議を徹底させ、意見対立を克服し、同盟の統一強化をうち固めようではないか。 以上

(資料C)3月7日 全国委員会への書記長提案
「統一草案をねりあげ、暴力を排した粘り強い民主的討議の徹底により、第12回全国大会を成功させ、同盟の統一と団結を打ち固めよう!」

 日米共同声明と中教審答申—この二つに象徴されるごとく、高度成長をとげた日本資本主義が国際経済競争のより一層の強化に備え、企業の集中合併による巨大独占体の形成とともに、”自主技術開発”のスローガンの下に、大学を一層独占体に隷属させ、その力を背景に、アジアへの経済的進出、自衛力強化と独自核武装への接近の野望を露骨に宣言した70年初頭に、今大会は開かれる。
 かかる情勢を反映して驚くべき高揚を示した大学闘争と安保闘争は、一方で、その社会的地位を急速に没落させつつある研究者、学生が資本主義体制と今日の大学に対して、鋭い批判をむけており、他方で、彼らの運動がその勃興期にありがちな自然発生的弱みを備えていることを我々に理解させた。
 我が同盟は、この学生の戦闘的エネルギーに依拠し、その弱さを克服し、学生運動の正しい発展と統一をかちとり、また、我々が学園に強固な”ねじろ”を築くためにも、他の政治指導部と共に、我々も少なからず犯してきた誤ちと–セクト主義と政治主義、街頭主義—-を払拭しなければならない。
 しかし、右の問題に関する意見対立を、わが同盟はこれまで応々にして、組織上の問題にたかめ、説得と納得に基づく行動の統一の努力を放棄し(単純多数決のくりかえしで、機関を私物化し)はては、暴力をふるい、同志的信頼と団結をうちこわし、思想闘争の権利と民主的討議の基礎を破壊するという官僚主義の誤ちをおかしてきた。それは我が同盟の統一の障害となっている。
 重大な情勢の中で開かれる今大会を、数を数で競い合い、対立を相互に確認しあう不幸な大会ではなく、少しでも多くの一致点を拡大し、統一への礎を、全同志の共同の努力で築き上げる大会にしなければならない。
 その為には、全国委員会が、これまでの誤ちをくりかえすことなく、正しい民主的指導を行うことを要請されており、統一を願う全同志の期待するところである。
 従って、全国委員会は、次のことを確認し、統一のためのイニシアティブをとるべきだと考え、ここに提案する。

1、一切の暴力を排し、粘り強い説得と納得に基づく民主的討議の徹底
※これまで暴力行為が、統一強化にとって全く桎梏となっており、委員長はじめ全国委員会が全同志の前に反省し、今後、一切暴力をなくすために努力するとともに、それを同盟破壊を企む真の敵を利する挑発行為として糾弾し、同盟から追放する。
2、全国委員会は、最後まで統一草案と大会運営方針をつくるために一致点の拡大に努力する。
3、意見の一致した点を、全国委員会として全国代表委員会へ手出する。一致しなかった点は、双方の意見を代表委員会へ提出し、討議の素材とする。但し、採択の対象とはしない。
4、大会成功に向け、同盟討議を組織するため、全国委員会ニュースは、その内容を全国委員会で検討し、その一致の下に発行する。

(資料D)全国委、全国代表委員会への要望書 

第12回大会代議員(N書記長、96名)
民学同市大支部同盟員T他23名(尚、加盟申請者は16名)

 70年安保、沖縄返還、中教審粉砕闘争の渦中にあり、民学同の統一と指導性が広範な学生大衆によって切望されている時、本大会を成功させることは何にもまして重要な課題と考える。昨年8月大会延期後、重大化した内部不統一は、今こそ、この真の原因を究明する中で克服されなければならない。我々は以上の観点から、次の事を提案し、その実行を強くのぞむものである。

Ⅰ、統一大会を成功させるための不可欠の条件として、全国代表委員会に於いて、統一草案作成を粘り強く行うこと。
 全国代表委員会に於いて意見が二分された状況で、その統一の努力を放棄し、大会をしゃにに強行しようとするのは、統一と大会成功を願わぬ者だけができることである。

Ⅱ、事実が明らかになるのを恐れ、それをインペイするために、民主主義の原則を蹂躙する自民党の独善的運営と何ら変わることのない最悪事態を科学と民主主義に基づく同志的討議の場に正常化させること。このために一切の会議において、暴力を含む一切の発言妨害を排除し、批判・自己批判の契機を重視し、論争点の対比を明確にする中で意志統一を計ること。

Ⅲ、大会成功と同盟の団結強化にとって一つの重要なさまたげになっている「革命的暴力」に名を借りた、S委員長以下の暴力行為を謙虚に自己批判し、大会成功のための先頭に立つことと同時に、すべての全国委員は、かかる事態の発生したことについて、指導責任を明らかにすること。

Ⅳ、大阪市大支部の分裂状態を克服し、事態を一層悪化させないために、この問題について、同盟の最高決議機関の討議以前に、一方的断定を下し大会の成立要因を傷つけないこと。このための大会において、双方の見解を聴取し、慎重な討議のすえ、趣意規約にもとづいて、市大支部の統一を回復すること。この決定の出される以前に、市大支部の代議員権を停止しておくことは、民主団体運営の常識である。

Ⅴ、大会召集の指導機関である全国代表委員会で承認をうけることなく作られた資格審査委員会を基礎に会議を強行することは、理論思想の力に依拠しようとしない最も悪しき分裂主義的行為と言わざるをえない。

最後に、我々は幾多の闘争課題が山積し、民学同の指導が強く求められている現状にかんがみても、本大会の成功と同盟の統一強化のために、冷静に粘り強く、終始努力することをここに誓うものである。

全同志の注目の中、全国代表委員会を開催し、統一草案の下で統一大会を成功させよう!

(資料E)S全国委員長並びにO・F・I全国委員殿 (3/14)

全国委員会開催要求

我々は、統一草案、統一大会の方針の下に、民学同全国大会成功のため、一貫して努力している。
本日「○○センター」での一部全国委員を先頭とする、我々の正当な要求に対する暴力的事態は、大会の統一と成功に逆行するものである。
我々は、何よりも全国大会成功のための前向きの努力をすることが、共通の義務であると考えている。即刻、全国委員会を正常な状態の下で開催することを要求する。

昭和45年3月14日 書記長 N 全国委員 F・T

(資料F) 全国委員長への再提案  N書記長 (3/14)

我々は、一貫して、統一草案に基づいて統一大会成功のため、努力してきた。しかし、本日、○○センターでの一部全国委員を先頭とする、我々の要求に対する暴力的事態は、同盟の統一と全く逆行するものである。
かかる事態が放置されるなら、組織分裂は不可避と言える。従って、我々は、同盟統一の可能性を最後までうち捨てることなく、守り抜くために、ここに重大な決断を行い、提案する。

1、我々のこれまでの意見は、今なお正当であると確信している。
1、しかし、同盟の統一をあくまでも守るため、資格審査に応じ、大会に参加し、我々の意見を発表する用意がある。
1、大会における、我々の発言が正常な状態で行なえるよう、これまでのようなヤジや暴力による発言妨害を一切やめること。
1、大会は、明日(3月15日)午前10時、〇〇センターで行う

昭和45年3月14日

カテゴリー: 歴史, 民学同, 社会運動, 運動史 | 討議資料「民学同の統一と発展のために」 はコメントを受け付けていません